隙間の女
女は艶(あで)やかに、そこにいた。
隙間から現れて、情欲のこもった瞳で俺を見ている。
生唾を飲み込む。
彼女は正体不明、その意図は皆目見当つかず。だが、彼女の登場で、俺の日常は終わりを告げ、後戻りの出来ない非日常にはまり込んだことは、間違いがないようだった。
◆
「お疲れ様です」
バイトを終えた俺、密暗(みつくら)ゆうは夜の家路を歩む。
暖かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷える。電灯の白さも寒々しい。
大学に入って一年が過ぎた。大学生活はそれなりに楽しく、サークル仲間と馬鹿をやったり、こうしてバイトで遊ぶ金を稼いだり。基本的に充実はしている。
だが、何と言うのだろう。足りない。俺は常々そう思っていた。
それは漠然とした感覚。せっせとパズルを組み立てても、どうしても最後の最後でピースが足りない。完成に至らない徒労。俺と言う人間は、どこまで行ってもこのままずっと何かが足りないままで生き続ける。
そうした当てどもない不安、不安にもなりきれない欠落を、俺は抱いていた。
物心つく頃からそれはそうだった。だが、最近それを切に感じる。
「お前は単に人肌が恋しいだけだ」大学からの悪友はそう言った。
俺に彼女はいない。彼女が出来ればその欠落は埋まるのだろうか?
だが……何か違う気がする。ボタンをかけ間違えているような、そんなズレ。
空を見る。
月は欠けている。
ほう、と息を吐けば、白く膨れ上がり、夜気の中に紛れていく。
別段、寂しい、とも。空しい、とも感じる事はない。
ただーー足りない。とだけ漠然と。
自分という人間を動かすパーツは足りているはずなのに、自分というカタチが足りていない。
手足はあるのに、手足がない。
心はあるのに、中身がない。
ともすればそれはーー
本当の自分はここにはいない、とか。これは本当の自分ではない、とか。
青年期にありがちな自己否定の一種なのかもしれない。
それでも心に隙間がある事は確かで、俺はそれが何かを分からないまま、こうして日々を過ごしている。
電柱を見れば、その後ろに影が蟠っているよう。
もしも何かがいるのなら、この俺の欠落を埋めてくれると言うのなら、その手を取っても良いとすら思える。俺がそう思っていたからだろう。暗がりが俺に応えるように揺れた気がして、少し寒気がした。
ーー俺は都市伝説やオカルトの類に興味がある。
その隙間を埋めるためなのか、それとも、ただそうした世界、”あなたの知らない世界”というものに惹かれる性分であるのか、どちらか分からないが、俺は昔からそうなのだ。
俺は頭を振る。そうして自嘲気味に笑って見せる。
止めよう。帰って寝よう。
俺がこうしてウダウダと、”だろう”だとか”かもしれない”という推定や可能性を並べ立て、心に隙間があるなどと考えるのは畢竟ーー俺が俺のことを分かっていない、それだけの事ーー。
生き別れになった人がいる、とか。況してや運命の相手がいるのだ、とか。そうした事ではない。 俺はただそうしたものに憧れて、ただ望んでいる。それだけの事。
そこでようやく俺の思考はたどり着く。
なんだ。俺は期待しているだけだ、と。
そうした俺の知らない世界がすぐ隣にあって、俺がその世界に関われるのではないか。そんな期待と羨望の裏返し。だからこその隙間であり、だからこそ隙間があるのだと信じたい。
それが入る余地が俺にあるのだと願っている。
俺が息を吐くと、登っていく白が月を霞ませる。
一瞬のことだけれども、揺らぐ世界の狭間に入り込んだ気がして、俺はほんのり気分が高揚した。
下宿の安アパート。
階段を登る硬質な足音が響く。鍵を取り出し扉を開ける。
「ただいま」
誰もいないはずの部屋に、ルーチン文句。帰ってくる言葉はない。だが、俺は息を飲む。
何かが違う。
何か。なにか、ナニカ。
それが何かは分からない。
ここは俺の部屋だ。
洗濯物が溜めてある。干してある食器類は、もう乾いている。ベッドの上に投げ出された文庫本。卓上の焼酎。散乱しているコード類。男の一人暮らしの部屋の匂いーーいや、
そこに何かが混じっている。
俺は違和感を探りながらカバンを下ろす。室内に物色した形跡はない。ベッドに腰掛ける。
女の匂いがしたーー。
それは何処か懐かしさを伴って……。しかし、それは一瞬。ベッドの上に倒れ込めば、もう、その匂いはなかった。それを少し残念に思う自分がいる。
一体、何だと言うのだ。俺は見慣れた天井を見る。無防備な姿を晒しても何も起こらない。
漠然とした蟠り。
匂いといえば、バイト先の先輩のに、シャンプーを変えたかと聞いたら嬉しそうに肯定していた。彼女の陽だまりのような笑顔は、バイト中のオアシスのように感じられるもので、そう言えば、彼女から飲みに行こうと誘われてもいた事を思い出す。
その約束を取り付けた時の彼女の様子は、もしも彼女に尻尾が生えていたのなら千切れんばかりにふっていただろうなと思わせる、微笑ましいものだった。
彼女の尾として相応しいのは犬の尾ではなく、きっと、狐の尾あたりだろう。
彼女から狐の尾が伸びている様を想像して、自分は何を想像しているのだと可笑しくなる。
自分がこうした性質(タチ)だからだろうか。
俺の周りには、妖怪じみた、と言っては失礼だが、そう表現するのがふさわしい女性たちが集まってくる。
酒癖の悪いサークルの先輩だったり、口の悪いクラスメイトだったり。蛇の魅力を延々と語るサークルの会長然り。魅力的な彼女たち。だが、ピタリとハマる感覚がない。感触がない。
鍵穴が違う。順番ーーなのだろうか。
そんな俺の益体も無い逡巡は、
ーーコトリ、という音で引き剥がされた。
俺は、恐る恐る下を見る。
音は、俺の足元からーー何も無い、何も無いが。
確か、こんな都市伝説があったはずだ。
『ベッドの下に殺人犯が潜んでいる。』
まさか、そんな。
俺は乾いていて声にならない笑いをもらす。
馬鹿馬鹿しい。惹かれるのと信じるのは別だ。だが、潜在意識に訴えかけるような女の香り。
部屋に入った時の違和感。音。
ーー妖怪だのなんだのというのは、説明のつかないことをそのまま受け入れるための方便だ。だから惹かれる。世界の隙間を垣間見ているようで。
反対に、ベッドの下に何者かは、ただの現実で、現実の恐怖で脅威だ。
俺は恐る恐るベッドから立ち上がる。トイレに立つような自然さを装う。もしもベッドの下から手が飛び出してきたとしても、すぐに対処できるように。
俺はベッドから離れる。急いで駆けだせる体勢を取りながら振り向く。
ベッドの下にはーー闇があった。
闇。黒。隙間。真っ暗、くら。
そうとしか言いようのない影が、そこに蟠っていた。
カタチがわからない。カタチがない。
その影は、ずるぅり、と這いずり出てきた。
「う、わぁあああああ!」
俺は尻もちをつき、ワタワタと無様に逃げ出そうとする。
「そんなに驚くナイ。別に取って喰おうっつわけじゃあないんだからサ」
影が言葉を発した。
女。影は、女だった。だがそんじょそこらの女ではない。
気だるそうな瞳は妖しく輝き、スッと通った鼻梁は滑らか。花の咲いたような赤い唇に、花瓶のような首。大きくはだけた胸元からは形の良い乳房が覗き、そこには艶やかな華の墨。和服の帯で締められた腰は細く、その下に大きく拡がった裾からはにょっきりと二本の足が伸びている。電灯の下で、彼女の肌はぞっとするほどに白く、美しい。
彼女の姿に俺は思わず生唾を飲み込む。
威風堂々と立つ彼女は、俺が先ほどまで座っていたベッドにポンと腰掛ける。
へたり込んでいる俺の目の前で、見せつけるように足を組む。その時、彼女の足の付け根が俺の目を釘付けにした。
「アハは、男の子だねェ」
からかうような口調に、俺は目を逸らす。
「いいよォ。そんなに見たければ見て。なんならその下まで」
蛇のように絡みつく言葉。美女は隙間に入るどころか、ベッドの隙間から這い出てきた。だが、これは現実的な問題だ。彼女は不法侵入者で、実在の人物。
「あんたは誰だ。なぜここにいる」
声が震えそうになっている俺に、彼女はくつくつと笑う。
「さぁて、それは重要な問題なのかぃ?」
「当たり前だ。知らない人に勝手に家に入られて、気分がいいやつはいない」
「そうだねぇ。そうだそうだ。あたしも一緒さ。あたしのいたところに急にあんたが入ってきた。だからあたしはベッドの下から出てこなくてはいけなくなった。でもあたしは悪い気はしていない。むしろ気分が良いくらいサ」
「屁理屈を言うな。ここは俺の家で、そもそもあんたはいなかった」
「いいやぁ?」女は挑発的に俺を見てくる。そのアダっぽい流し目に、背筋が泡立つ。「あたしは元からここにいた。気づいていなかったのはあんたの方だ。だから人の家に入ってきたというのはあんたの方だ」
「俺がここに入居した時は、ベッドも何もなかったはずだ。あんたがいる場所なんてなかった」
「悲しいことを言うねぇ。あたしにいる場所がないなんて。あたしのいる場所は殿方の隣に決まっているじゃあないか」
ーーつまりはあんたの隣サ。声は耳元から。
俺は思わず振り向いた。だが、彼女は前にいて、隣には誰もいない。
女の香りがする。腹の下で情欲が渦巻くのを感じる。この昂まりは……。
いや、なぜ俺はこんなことを考えている?
いくら彼女が魅力的な女性だとはいえ、彼女はただの不法侵入者だ。俺は頭を振る。
「とにかく、出て行ってくれないか。おとなしく出て行ってくれるなら警察に通報はしない。何も盗っていない、というのなら、だが」
「警察、警察ねぇ。あいつらは無粋だ。無作法だ。あたしらのシマに土足で踏み込んでくる。なぁんて事はどうでもいい」女はケラケラと笑い、「盗んだのはあんたじゃないか」
「おかしなことを言うな。俺は何も盗んでいない」
「盗んだのはあたしの心です、ってさぁ」
「…………」こいつは話が通じない。
有無を言わさずひっ捕まえて、追い出すしかない。俺はそう思うが、この女に触れることは躊躇われた。今ですら、この色気の塊のような女に、情欲の高まりを感じているのだ。触れて仕舞えば思わず押し倒して、俺が犯罪者になりかねない。
いや……、そんなことを俺がするわけがない。
俺の逡巡をみてとったのか、女は
「いいよぉ、あたしが何か盗っていないか気になるってんなら、あたしのことを思う存分調べれば良い。この胸の谷間だって」挑発的にその胸をまさぐる。
形の良い乳肉が形を変え、着物からまろび出て来ようとする。その官能的な光景から目を逸らせない。
「この股を割って」
はしたなくも股を開き、その下のーー下着はふんどしだったーーそれをずらそうと……。
「やめろ!」思わず俺は叫ぶ。
「おやおや、おぼこだねぇ」女はニンマリと口端を吊り上げる。
三日月に歪む目に、妖しい光。
「安心しな。あたしもおぼこさ。おぼこ同士、ねんごろに仲良くしようじゃあないか」
俺は絞り出すように言葉をつむぐ。「お前の目的は何だ……」
「目的、目的かぃ。それはもちろんあんたと仲良くすることさ」
「仲良くって……」
ベッドの下に隠れている殺人鬼の都市伝説は聞いたことがあるが、仲良くなりたくてベッドの下に隠れている美女など、ただの妄想でしかない。
これはーー俺の妄想なのか?
「いいや、妄想じゃない。本当さ。だから良かったねぇ。あたしがナイフを持った殺人鬼じゃなくて、キセルを持ったただの妖怪で」
女は懐からキセルを取り出すと、口に咥えた。
「部屋の中で吸うな」
「おっと、こいつは悪かった。じゃあ咥えるだけにしておくよ。何かを咥えていなくちゃあ、口寂しくって仕方ない。あんたのイチモツを咥えさせてくれるってんなら、あたしとしては嬉しいんだけどねぇ」
艶っぽい流し目が俺の股間に注がれる。俺は勃起していたことを悟られないように、前かがみ。彼女の艶やかな唇を割って、ヒルのような舌がくねる。淫靡なぬめりに、俺は何も言えない。
火のついていないキセルを咥え、彼女は姿のない煙を吐く。その姿はとてもサマになっていて、彼女こそがこの部屋の主人のよう。
彼女は奉公の青年に尋ねる大旦那のように、
「あんた、飯は食ったのかい?」と言う。
「ああ」
「それは残念。あたしの手料理をご馳走してやろうと思ったのに。材料は入ってなかったから、買い出しに行かなくちゃいけない」
「冷蔵庫の中を見たのか」
好き勝手している。
プカリ、と彼女は煙のない息を吐く。
俺は諦めたように、先ほどと同じ位置に腰を下ろす。
「おい、足を閉じろ」
「なんだい、見たくないのかい?」
「…………」
「わかったわかった。仕方がないねぇ。だけど人にお願いをするときは、ちゃあんと『お願いします』だろう?」
「…………足を閉じてください、『お願いします』」
「だが断る。あっはっは。そんな目で見るない。ちゃあんと閉じてやるさ。代わりにあんたがズボンを脱ぎな」
「『お願いします』、は?」
「オナニーを見せてくださいお願いします」
悪化している。
というか、「お前を家に置くことを了承してないぞ⁉」
いつの間にか、彼女との会話と態度に流されていた。
俺の言葉に、彼女は面倒臭そうに息を吐く。
長く、永い。細く、掠れるような、それでいて、部屋を満たしていくような。火はついていないはずなのに、煙が出ているような気がする。
白いキセルの煙。
その煙には彼女の吐息が混ざっている。
彼女の肺から染み出した空気。彼女の舌と絡んだ空気。彼女の唇に触れた空気。
吐息。彼女の、吐息。
彼女の香り。俺はそれに包み込まれている。この香りはずっと嗅いでいた気がする。この香りを嗅いでいないことがなかった気がする。
気がする。キガする。
この煙に触れいていた。触れていたい。
イタイ、イタい、いたい。
鐘の残響のように、言葉が頭蓋でリフレインを起こす。
空気に触れる。気に触れる。キガふれーー
「お前はメシ食ったのか?」俺は彼女に尋ねる。
「いいやぁ、まださ」彼女はプカリと息を吐く。火のついていないキセルから煙は立たない。
「じゃあ、食っていくか?」
「いいやぁ? ヤめて置くよ」
「そうか。というか足を閉じろ。はしたないっていつも言ってるだろ」
「ああ、悪い悪い。こんな美女がいるってぇのに、手を出してこないからさぁ。挑発してやったんだよ。あんた、別にネコってわけじゃあ、ないんだろ」
「俺は人間だ。猫じゃない」
俺の言葉に女はさも可笑しげに笑う。
俺は彼女を気にしないで浴室へ向かう。そう言えばシャワーを浴びていなかった。
浴室から出れば、彼女は俺のベッドに寝転んで、気怠げにキセルを咥えていた。
キセルから煙はない。
「俺、そこで寝たいんだけど」
「いいじゃあないか。一緒に寝ればいいだろ」
「狭いんだよ」
「くっつけばいい。こうやって、まるで一つになって溶け合うみたいに」
彼女は自らの体を抱きしめてその肢体をくねらせる。煽情的な女の動きに、俺は下半身が疼くのを感じる。
そんな俺の様子を見ていた女は満足そうに微笑むと、
「そうさね。気が変わった」そう言って立ち上がる。
俺の間近に顔を寄せて、形の良い鼻をヒクつかせる。
「ヤッパリだ。禊で落ちるか待ってたけど、別の女の匂いがついている。まだ手は出してはいないけど、コナかけてるやつはいるねぇ」そう言って女は俺の唇を奪った。
口内で彼女の舌が暴れる。俺の舌を搦め捕り、絡みつき、あまりの激しさに俺が喘ぐと唾液が入り込んでくる。俺はされるがままにそれを飲み込んで、今度は彼女が俺の唾液を奪い取っていく。
離れた唇に、銀の橋が名残惜しそうにかかった。
惚ける俺に、彼女は言う。
「今日はこのまま食っちまうつもりだったけど気が変わった。踊り食いってぇ、あるじゃないか」
唐突な言葉を理解できない俺に背を向けて、彼女はタンスに向かう。
背中越しに彼女の声が投げられる。
「あれは口の中で踊る様子もいいけれどーー目でも踊る様をみなくちゃあもったいない? それにーー」首だけで振り向いた彼女の目が怪しく輝いている。
「誰が主か、分からせなくちゃあいけない」
「誰、にーー?」俺は間抜けな声を出した。
きっと、いや間違いなく間抜けな顔をしている。
あやかしたちさーーーー
彼女はそう言い残すと、タンスの隙間に身を滑らせた。彼女と言う魔性は影も形もなく消え失せていた。
「は……?」
一体、今のは何だったのだ……。まるで嵐が去った後のように、俺はただただそこに立ち尽くすしかなかった。
隙間から現れて、情欲のこもった瞳で俺を見ている。
生唾を飲み込む。
彼女は正体不明、その意図は皆目見当つかず。だが、彼女の登場で、俺の日常は終わりを告げ、後戻りの出来ない非日常にはまり込んだことは、間違いがないようだった。
◆
「お疲れ様です」
バイトを終えた俺、密暗(みつくら)ゆうは夜の家路を歩む。
暖かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷える。電灯の白さも寒々しい。
大学に入って一年が過ぎた。大学生活はそれなりに楽しく、サークル仲間と馬鹿をやったり、こうしてバイトで遊ぶ金を稼いだり。基本的に充実はしている。
だが、何と言うのだろう。足りない。俺は常々そう思っていた。
それは漠然とした感覚。せっせとパズルを組み立てても、どうしても最後の最後でピースが足りない。完成に至らない徒労。俺と言う人間は、どこまで行ってもこのままずっと何かが足りないままで生き続ける。
そうした当てどもない不安、不安にもなりきれない欠落を、俺は抱いていた。
物心つく頃からそれはそうだった。だが、最近それを切に感じる。
「お前は単に人肌が恋しいだけだ」大学からの悪友はそう言った。
俺に彼女はいない。彼女が出来ればその欠落は埋まるのだろうか?
だが……何か違う気がする。ボタンをかけ間違えているような、そんなズレ。
空を見る。
月は欠けている。
ほう、と息を吐けば、白く膨れ上がり、夜気の中に紛れていく。
別段、寂しい、とも。空しい、とも感じる事はない。
ただーー足りない。とだけ漠然と。
自分という人間を動かすパーツは足りているはずなのに、自分というカタチが足りていない。
手足はあるのに、手足がない。
心はあるのに、中身がない。
ともすればそれはーー
本当の自分はここにはいない、とか。これは本当の自分ではない、とか。
青年期にありがちな自己否定の一種なのかもしれない。
それでも心に隙間がある事は確かで、俺はそれが何かを分からないまま、こうして日々を過ごしている。
電柱を見れば、その後ろに影が蟠っているよう。
もしも何かがいるのなら、この俺の欠落を埋めてくれると言うのなら、その手を取っても良いとすら思える。俺がそう思っていたからだろう。暗がりが俺に応えるように揺れた気がして、少し寒気がした。
ーー俺は都市伝説やオカルトの類に興味がある。
その隙間を埋めるためなのか、それとも、ただそうした世界、”あなたの知らない世界”というものに惹かれる性分であるのか、どちらか分からないが、俺は昔からそうなのだ。
俺は頭を振る。そうして自嘲気味に笑って見せる。
止めよう。帰って寝よう。
俺がこうしてウダウダと、”だろう”だとか”かもしれない”という推定や可能性を並べ立て、心に隙間があるなどと考えるのは畢竟ーー俺が俺のことを分かっていない、それだけの事ーー。
生き別れになった人がいる、とか。況してや運命の相手がいるのだ、とか。そうした事ではない。 俺はただそうしたものに憧れて、ただ望んでいる。それだけの事。
そこでようやく俺の思考はたどり着く。
なんだ。俺は期待しているだけだ、と。
そうした俺の知らない世界がすぐ隣にあって、俺がその世界に関われるのではないか。そんな期待と羨望の裏返し。だからこその隙間であり、だからこそ隙間があるのだと信じたい。
それが入る余地が俺にあるのだと願っている。
俺が息を吐くと、登っていく白が月を霞ませる。
一瞬のことだけれども、揺らぐ世界の狭間に入り込んだ気がして、俺はほんのり気分が高揚した。
下宿の安アパート。
階段を登る硬質な足音が響く。鍵を取り出し扉を開ける。
「ただいま」
誰もいないはずの部屋に、ルーチン文句。帰ってくる言葉はない。だが、俺は息を飲む。
何かが違う。
何か。なにか、ナニカ。
それが何かは分からない。
ここは俺の部屋だ。
洗濯物が溜めてある。干してある食器類は、もう乾いている。ベッドの上に投げ出された文庫本。卓上の焼酎。散乱しているコード類。男の一人暮らしの部屋の匂いーーいや、
そこに何かが混じっている。
俺は違和感を探りながらカバンを下ろす。室内に物色した形跡はない。ベッドに腰掛ける。
女の匂いがしたーー。
それは何処か懐かしさを伴って……。しかし、それは一瞬。ベッドの上に倒れ込めば、もう、その匂いはなかった。それを少し残念に思う自分がいる。
一体、何だと言うのだ。俺は見慣れた天井を見る。無防備な姿を晒しても何も起こらない。
漠然とした蟠り。
匂いといえば、バイト先の先輩のに、シャンプーを変えたかと聞いたら嬉しそうに肯定していた。彼女の陽だまりのような笑顔は、バイト中のオアシスのように感じられるもので、そう言えば、彼女から飲みに行こうと誘われてもいた事を思い出す。
その約束を取り付けた時の彼女の様子は、もしも彼女に尻尾が生えていたのなら千切れんばかりにふっていただろうなと思わせる、微笑ましいものだった。
彼女の尾として相応しいのは犬の尾ではなく、きっと、狐の尾あたりだろう。
彼女から狐の尾が伸びている様を想像して、自分は何を想像しているのだと可笑しくなる。
自分がこうした性質(タチ)だからだろうか。
俺の周りには、妖怪じみた、と言っては失礼だが、そう表現するのがふさわしい女性たちが集まってくる。
酒癖の悪いサークルの先輩だったり、口の悪いクラスメイトだったり。蛇の魅力を延々と語るサークルの会長然り。魅力的な彼女たち。だが、ピタリとハマる感覚がない。感触がない。
鍵穴が違う。順番ーーなのだろうか。
そんな俺の益体も無い逡巡は、
ーーコトリ、という音で引き剥がされた。
俺は、恐る恐る下を見る。
音は、俺の足元からーー何も無い、何も無いが。
確か、こんな都市伝説があったはずだ。
『ベッドの下に殺人犯が潜んでいる。』
まさか、そんな。
俺は乾いていて声にならない笑いをもらす。
馬鹿馬鹿しい。惹かれるのと信じるのは別だ。だが、潜在意識に訴えかけるような女の香り。
部屋に入った時の違和感。音。
ーー妖怪だのなんだのというのは、説明のつかないことをそのまま受け入れるための方便だ。だから惹かれる。世界の隙間を垣間見ているようで。
反対に、ベッドの下に何者かは、ただの現実で、現実の恐怖で脅威だ。
俺は恐る恐るベッドから立ち上がる。トイレに立つような自然さを装う。もしもベッドの下から手が飛び出してきたとしても、すぐに対処できるように。
俺はベッドから離れる。急いで駆けだせる体勢を取りながら振り向く。
ベッドの下にはーー闇があった。
闇。黒。隙間。真っ暗、くら。
そうとしか言いようのない影が、そこに蟠っていた。
カタチがわからない。カタチがない。
その影は、ずるぅり、と這いずり出てきた。
「う、わぁあああああ!」
俺は尻もちをつき、ワタワタと無様に逃げ出そうとする。
「そんなに驚くナイ。別に取って喰おうっつわけじゃあないんだからサ」
影が言葉を発した。
女。影は、女だった。だがそんじょそこらの女ではない。
気だるそうな瞳は妖しく輝き、スッと通った鼻梁は滑らか。花の咲いたような赤い唇に、花瓶のような首。大きくはだけた胸元からは形の良い乳房が覗き、そこには艶やかな華の墨。和服の帯で締められた腰は細く、その下に大きく拡がった裾からはにょっきりと二本の足が伸びている。電灯の下で、彼女の肌はぞっとするほどに白く、美しい。
彼女の姿に俺は思わず生唾を飲み込む。
威風堂々と立つ彼女は、俺が先ほどまで座っていたベッドにポンと腰掛ける。
へたり込んでいる俺の目の前で、見せつけるように足を組む。その時、彼女の足の付け根が俺の目を釘付けにした。
「アハは、男の子だねェ」
からかうような口調に、俺は目を逸らす。
「いいよォ。そんなに見たければ見て。なんならその下まで」
蛇のように絡みつく言葉。美女は隙間に入るどころか、ベッドの隙間から這い出てきた。だが、これは現実的な問題だ。彼女は不法侵入者で、実在の人物。
「あんたは誰だ。なぜここにいる」
声が震えそうになっている俺に、彼女はくつくつと笑う。
「さぁて、それは重要な問題なのかぃ?」
「当たり前だ。知らない人に勝手に家に入られて、気分がいいやつはいない」
「そうだねぇ。そうだそうだ。あたしも一緒さ。あたしのいたところに急にあんたが入ってきた。だからあたしはベッドの下から出てこなくてはいけなくなった。でもあたしは悪い気はしていない。むしろ気分が良いくらいサ」
「屁理屈を言うな。ここは俺の家で、そもそもあんたはいなかった」
「いいやぁ?」女は挑発的に俺を見てくる。そのアダっぽい流し目に、背筋が泡立つ。「あたしは元からここにいた。気づいていなかったのはあんたの方だ。だから人の家に入ってきたというのはあんたの方だ」
「俺がここに入居した時は、ベッドも何もなかったはずだ。あんたがいる場所なんてなかった」
「悲しいことを言うねぇ。あたしにいる場所がないなんて。あたしのいる場所は殿方の隣に決まっているじゃあないか」
ーーつまりはあんたの隣サ。声は耳元から。
俺は思わず振り向いた。だが、彼女は前にいて、隣には誰もいない。
女の香りがする。腹の下で情欲が渦巻くのを感じる。この昂まりは……。
いや、なぜ俺はこんなことを考えている?
いくら彼女が魅力的な女性だとはいえ、彼女はただの不法侵入者だ。俺は頭を振る。
「とにかく、出て行ってくれないか。おとなしく出て行ってくれるなら警察に通報はしない。何も盗っていない、というのなら、だが」
「警察、警察ねぇ。あいつらは無粋だ。無作法だ。あたしらのシマに土足で踏み込んでくる。なぁんて事はどうでもいい」女はケラケラと笑い、「盗んだのはあんたじゃないか」
「おかしなことを言うな。俺は何も盗んでいない」
「盗んだのはあたしの心です、ってさぁ」
「…………」こいつは話が通じない。
有無を言わさずひっ捕まえて、追い出すしかない。俺はそう思うが、この女に触れることは躊躇われた。今ですら、この色気の塊のような女に、情欲の高まりを感じているのだ。触れて仕舞えば思わず押し倒して、俺が犯罪者になりかねない。
いや……、そんなことを俺がするわけがない。
俺の逡巡をみてとったのか、女は
「いいよぉ、あたしが何か盗っていないか気になるってんなら、あたしのことを思う存分調べれば良い。この胸の谷間だって」挑発的にその胸をまさぐる。
形の良い乳肉が形を変え、着物からまろび出て来ようとする。その官能的な光景から目を逸らせない。
「この股を割って」
はしたなくも股を開き、その下のーー下着はふんどしだったーーそれをずらそうと……。
「やめろ!」思わず俺は叫ぶ。
「おやおや、おぼこだねぇ」女はニンマリと口端を吊り上げる。
三日月に歪む目に、妖しい光。
「安心しな。あたしもおぼこさ。おぼこ同士、ねんごろに仲良くしようじゃあないか」
俺は絞り出すように言葉をつむぐ。「お前の目的は何だ……」
「目的、目的かぃ。それはもちろんあんたと仲良くすることさ」
「仲良くって……」
ベッドの下に隠れている殺人鬼の都市伝説は聞いたことがあるが、仲良くなりたくてベッドの下に隠れている美女など、ただの妄想でしかない。
これはーー俺の妄想なのか?
「いいや、妄想じゃない。本当さ。だから良かったねぇ。あたしがナイフを持った殺人鬼じゃなくて、キセルを持ったただの妖怪で」
女は懐からキセルを取り出すと、口に咥えた。
「部屋の中で吸うな」
「おっと、こいつは悪かった。じゃあ咥えるだけにしておくよ。何かを咥えていなくちゃあ、口寂しくって仕方ない。あんたのイチモツを咥えさせてくれるってんなら、あたしとしては嬉しいんだけどねぇ」
艶っぽい流し目が俺の股間に注がれる。俺は勃起していたことを悟られないように、前かがみ。彼女の艶やかな唇を割って、ヒルのような舌がくねる。淫靡なぬめりに、俺は何も言えない。
火のついていないキセルを咥え、彼女は姿のない煙を吐く。その姿はとてもサマになっていて、彼女こそがこの部屋の主人のよう。
彼女は奉公の青年に尋ねる大旦那のように、
「あんた、飯は食ったのかい?」と言う。
「ああ」
「それは残念。あたしの手料理をご馳走してやろうと思ったのに。材料は入ってなかったから、買い出しに行かなくちゃいけない」
「冷蔵庫の中を見たのか」
好き勝手している。
プカリ、と彼女は煙のない息を吐く。
俺は諦めたように、先ほどと同じ位置に腰を下ろす。
「おい、足を閉じろ」
「なんだい、見たくないのかい?」
「…………」
「わかったわかった。仕方がないねぇ。だけど人にお願いをするときは、ちゃあんと『お願いします』だろう?」
「…………足を閉じてください、『お願いします』」
「だが断る。あっはっは。そんな目で見るない。ちゃあんと閉じてやるさ。代わりにあんたがズボンを脱ぎな」
「『お願いします』、は?」
「オナニーを見せてくださいお願いします」
悪化している。
というか、「お前を家に置くことを了承してないぞ⁉」
いつの間にか、彼女との会話と態度に流されていた。
俺の言葉に、彼女は面倒臭そうに息を吐く。
長く、永い。細く、掠れるような、それでいて、部屋を満たしていくような。火はついていないはずなのに、煙が出ているような気がする。
白いキセルの煙。
その煙には彼女の吐息が混ざっている。
彼女の肺から染み出した空気。彼女の舌と絡んだ空気。彼女の唇に触れた空気。
吐息。彼女の、吐息。
彼女の香り。俺はそれに包み込まれている。この香りはずっと嗅いでいた気がする。この香りを嗅いでいないことがなかった気がする。
気がする。キガする。
この煙に触れいていた。触れていたい。
イタイ、イタい、いたい。
鐘の残響のように、言葉が頭蓋でリフレインを起こす。
空気に触れる。気に触れる。キガふれーー
「お前はメシ食ったのか?」俺は彼女に尋ねる。
「いいやぁ、まださ」彼女はプカリと息を吐く。火のついていないキセルから煙は立たない。
「じゃあ、食っていくか?」
「いいやぁ? ヤめて置くよ」
「そうか。というか足を閉じろ。はしたないっていつも言ってるだろ」
「ああ、悪い悪い。こんな美女がいるってぇのに、手を出してこないからさぁ。挑発してやったんだよ。あんた、別にネコってわけじゃあ、ないんだろ」
「俺は人間だ。猫じゃない」
俺の言葉に女はさも可笑しげに笑う。
俺は彼女を気にしないで浴室へ向かう。そう言えばシャワーを浴びていなかった。
浴室から出れば、彼女は俺のベッドに寝転んで、気怠げにキセルを咥えていた。
キセルから煙はない。
「俺、そこで寝たいんだけど」
「いいじゃあないか。一緒に寝ればいいだろ」
「狭いんだよ」
「くっつけばいい。こうやって、まるで一つになって溶け合うみたいに」
彼女は自らの体を抱きしめてその肢体をくねらせる。煽情的な女の動きに、俺は下半身が疼くのを感じる。
そんな俺の様子を見ていた女は満足そうに微笑むと、
「そうさね。気が変わった」そう言って立ち上がる。
俺の間近に顔を寄せて、形の良い鼻をヒクつかせる。
「ヤッパリだ。禊で落ちるか待ってたけど、別の女の匂いがついている。まだ手は出してはいないけど、コナかけてるやつはいるねぇ」そう言って女は俺の唇を奪った。
口内で彼女の舌が暴れる。俺の舌を搦め捕り、絡みつき、あまりの激しさに俺が喘ぐと唾液が入り込んでくる。俺はされるがままにそれを飲み込んで、今度は彼女が俺の唾液を奪い取っていく。
離れた唇に、銀の橋が名残惜しそうにかかった。
惚ける俺に、彼女は言う。
「今日はこのまま食っちまうつもりだったけど気が変わった。踊り食いってぇ、あるじゃないか」
唐突な言葉を理解できない俺に背を向けて、彼女はタンスに向かう。
背中越しに彼女の声が投げられる。
「あれは口の中で踊る様子もいいけれどーー目でも踊る様をみなくちゃあもったいない? それにーー」首だけで振り向いた彼女の目が怪しく輝いている。
「誰が主か、分からせなくちゃあいけない」
「誰、にーー?」俺は間抜けな声を出した。
きっと、いや間違いなく間抜けな顔をしている。
あやかしたちさーーーー
彼女はそう言い残すと、タンスの隙間に身を滑らせた。彼女と言う魔性は影も形もなく消え失せていた。
「は……?」
一体、今のは何だったのだ……。まるで嵐が去った後のように、俺はただただそこに立ち尽くすしかなかった。
17/08/06 08:46更新 / ルピナス
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