読切小説
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堕落に誘う魔
 私は、馬車で人がひかれる光景に出くわしたことがある。
 使いの帰りだったのだろう。大きな紙袋をもった少女が車道に飛び出し、やってきた馬車にはねられた。彼女の軽い体は宙に飛び、フリルの付いたワンピースがはためくさまは、花が咲いているようでーー不謹慎にもーー私は思い出すたびに、それは結婚式のブーケトスのように思えてしまう。
 車道に打ち付けられた彼女の体からは、それこそ花が咲いたように赤が散らばっていた。
 関節はありえない方向に曲がり、口から零れた鮮血は、おしゃまにも唇に紅を引いたようですらあった。
 周りの大人たちの悲鳴と喧騒を聞きながら、私はそこに阿呆のように立ち尽くしていた。
 と、私の足元に転がってきた何かが、コツンと当たる。
 それは彼女の持っていた紙袋から転がって来たようだ。コインよりも少し大きい、円盤状で淵に大きな溝が波打つように連なった奇妙な形状のもの。彼女の血の軌跡を引いたそれに興味を惹かれ、よせばいいのに、私はおもむろに拾い上げた。
 その時の私が何を思ったのかは、今になっては知る由もない。
 恐ろしい。気持が悪い。
 そんなことは思っていなかったと思う。
 今思えばーー私はその物体に対して、きっとーー艶めかしい、と思ったのだろう。

 運命の歯車のように、私と彼女とつないだ。
 艶めかしくひかれた、血色の赤い軌跡。
 その時、私のこの運命は、逃れられないものになったに違いない。

 ◆

 君は私が恋をした事があるのかと問う。
 それはあるーーと答えれば、君は驚くだろうか。僧侶と言えども人の子である。恋もする。
 だが、私のこの話は、あまりにも不思議で、それが真実にあったことであるのか、いまだに私にも信じる事は出来ない。

 当時、私はある田舎の僧侶をしていた。
 町の人間は私を見て、敬虔な使徒であると思ったことだろう。確かに、昼間の私はそうであったに違いない。だが、夜はーー。
 夜、目蓋をつぶった後の私は、ただの人であるどころか、まるで若い貴族であるかのように、酒を飲み、仕えるはずの神を罵倒し。そして或女を抱いていた。
 そうだ。女だ。私は彼女に溺れていた。
 明け方になって私は目を覚ますが、目を覚ましたはずであるのに、私はむしろ昼間の敬虔な僧侶である私のほうが、夢を見ているような心持がしたのである。
 
 私は恋をした。
 燃えるような、この身を焼き尽くしてもまだ足りないほどの情欲の炎。私はあの時、どうして、私の心臓がずたずたに引き裂かれずにすんでいたのか、今となっても不可思議に思う。黒ずんだ、青を焦がしたような夜があった。

 彼女と出会った時ーー私が二十代の半ばの学生であったころ。生まれた時から、自分の天職が僧侶であることを疑わずに生きてきたような、そんな青年であった。朝も昼も夜も、僧院にこもり、ひたすらに研究をしていた。
 町に出ることなどなく、私は母以外に「女」というものを知らなかった。

 私の研究はいつしか認められ、ついに学生から牧師となることを許された。
 その日は私にとって、天国に続いていると思えるほどのーー輝かしい道の始まりであったのだ。聖堂の空気は目に見えるほどの祝福に満ちていた。ステンドグラスから落ちる、色とりどりの輝きは私の心を奮わせ、天使が下りてくるのではないかとまで思われた。
 私は、同輩の儀式が済むのを待っていた。儀式を終え、順に牧師となっていく彼らを、夢をみるような気持ちで見ていた。
 ついに私の番が来た。私は跪き、儀式を授けてくれる司祭の向こうに神がいることを信じて疑わなかった。儀式が進むにつれ、私の心は高揚で満たされる。

 ふと、私は視線を感じた。
 厳かな聖堂の中。
 カチカチと。馬の蹄のような音も聞いた。

 私が顔を上げれば、近くに女がいたーー違う。彼女は柵の向こうの椅子に座っていた。
 私は突然、今まで感じていた光が、一斉に消えてしまったように思えた。今まで信じていた神への献身が、祈りの専心が、ふっと蝋燭を吹き消したかのように思えた。

 美しい。
 光の消えた暗闇に、私は放り出されたようだった。底のない奈落。だが、遠くにいるはずの彼女が、まるで影の彼方から浮き彫りになったかのように、私の眼前に迫っている。今までにあった私の高揚は、その色を変えて、私を嵐のただ中へと放り込んだ。

 私は目を閉じた。
 もう二度と目を開くまい、と。硬く心を閉ざして目蓋をつぶった。
 それにも関わらず、私は目を開けてしまう。何故なら、彼女の姿は、光となって私の瞳に刻み込まれていたからである。

 ああ、彼女の美しさが想像できるだろうか。
 天上の光を集めたところで敵わない。それが地獄の炎であるというのなら、私は喜んでその熱に苛まれよう。
 繊細な彫刻家、巧みな画家、最上とうたわれる芸術家も、彼女の輪郭の一筋すら描きえないだろう。その髪の艶やかさは、神を歌う吟遊詩人にすら、歌われることを拒むに違いない。
 その肌は雪のよう。いや、ミルクのよう。いやいや、万年を朽ちないアラバスタ。私の乏しい詩情では言いあらわせないことを、どうか許していただきたい。光をのせて震える、まつ毛の奥には、いまだ掘り起こされたことのない、エメラルドの宝石が覗いている。
 目が合う。私は彼女の瞳から、黄金に輝く矢が飛び出したように思えた。その矢は私の心の臓を違うことなく打ち抜き、張り裂けるような思いを抱かせた。

 彼女の美しさは、同じ人の子であるとは思えなかった。
 天使ーー違う。私を誘うこの肉惑が天使のものであるはずがない。試練だろうか。神は打ち勝てる試練しかお与えにならないというが、私はこの誘惑に勝てる気はなかった。
 否ーー。浅ましいことだが、私はすでに勝つ気などなかった。

 だから彼女はきっと悪魔なのだろう。そうでなければ悪魔の拵えたものに違いない。
 その頭から角が生えたところで、その尻から尾が伸びたところで、はたまた下半身が馬になったところで、しっくりくる気もするのだ。

 式が進み、私は徐々に学生から牧師へと変貌していく。
 するとどうだろう。彼女の額には憂いが浮かぶではないか。流れる天の川のような金の髪が、さらさらと揺れる。
 私は牧師の道を選んだことを後悔した。
 牧師になってしまえば、私は彼女と結婚できない。
 私は誓いの言葉に、「否」と答えたかった。しかしこの敬虔な空気の中、望まぬ結婚を強いられた花嫁のように、私は「然り」と答えるしかなかった。

 彼女の唇が切なげに震える。その吐息は、どんな果物よりも瑞々しく、どんな花よりも香しい。それは彼女の艶めかしい首筋を転がり、サテンの漆黒のドレスに隠された、ふくよかな谷間の中に吸い込まれていく。
 式の最中であるというのに、私は生唾を飲み込みそうになる。
 私は初めて「女」というものを見た。
 私は初めて私が「男」であるという事を知った。
 だが式は滞りなく進み、私は牧師になった。

 彼女の瞳にはいつしか怒りと悲しみの色が浮かんでいた。
 彼女は私を見ていた。それは私に向けられていたものに違いない。
「なぜ、あなたは私と結婚できない道を選んだのです」
 私はそう責められているような気がした。私は彼女とはこの日初めて会ったが、私たちはどこか深いところで、ずっと昔からつながっていたような気がしてならなかった。

 輝かしい道を歩くはずだった私は、抜け殻となって聖堂から吐き出された。
 人々の祝福の声は、私には届かない。私は道化のような笑顔を、それと気が付かれないように浮かべる。ああ、この時、私は、昼と夜で違うように。二つの顔を持ったのかもしれない。

 呆然と、人の波に流された私の手を握るものがいた。
 ーー彼女だった。私の思いは正しかったのだ。彼女は私を求めていた。私も彼女を求めていた。だが、ここには目が多い。牧師になったばかりの男が、すぐに女を求めて道を踏み外すなど、あってはならないことだ。教会も、私を許しはしないだろう。
 人々の視線は幾万の槍となって、その切っ先が私に向けられているようである。

 彼女の手は冷たかった。たおやかで、華奢なくせに、その爪は鉤づめとなり私の心を握り潰す。まるで蛇のような艶めかしさ。うっとりするくらいの生臭さまでーーそれが彼女のものならばーー私は許容できた。
「なんと不幸せなのでしょう。なんと不幸せなのでしょう」彼女は囁いた。その染み入るような響きに、私は背骨を冷たい蝋が流れていくように思った。
 彼女の唇は、今にも触れそうなくらいに私に近い。だが人々はまるで夢に閉ざされたかのように、私たちに気が付かない。
「でもきっとーー」

 カチカチ。カチ。カチカチ。

 私も夢を見ているようだった。彼女の音が離れていくのを惜しむことも出来ず、気が付けば、私は一枚の紙を握りしめていた。

 位の高い僧正が私を見ていた。私は、手のひらから秘密が蕩け堕ちないように、硬く手を握り、顔を赤くしたり、青くしたりしていた。そのうち、僧正は踵を返して聖堂のほうに戻っていく。
 
 ーー私はその紙を懐にしまった。

 ◆

「クラリス・コッペリアの宮にて」

 そう書かれていた。
 彼女は名はクラリスであり、そこに住んでいるという事だ。
 残念ながら市井にうとい私は、彼女の名にも、その場所にも心当たりはなかった。

 その日から私の中に、のたうつような熱が宿っていた。
 私は部屋の中で、ある時は、礼拝堂の中で、その熱をもてあまし、身を焦がした。あの悪魔のような造形をした彼女。蛇のような囁き。心臓を鷲掴みにされた冷たさ。
 そのどれもこれもが熱となって、私を悩ませる。

 ある時、私は僧院長に見つかってしまった。
 身をよじらせ、神の御前で震える私に、彼は
「魔に魅入られたようだな。忘れろ。忘れてしまえ。そのためには殊更勤勉に、黙想し、研究するのだ。お前の信じる者は神だけである」
 私は彼に向かって跪き、頭を垂れて誓った。
 そうした私に彼は満足そうに頷き、私の赴任する教会が決まったことを告げた。

 私は僧院長と共に、この街を後にする。
 朝早く。馬に乗り。名残り惜しいとは違う、この身を引き裂かれるような。いや、粉微塵にして欲しい気持ちで、私は彼に続いた。
 これで、私はもう、クラリスに会うことは出来ない。私はこの街のどこに、彼女の美が隠されているのか。私は目に入る一つ一つの家々の隙間から、彼女の冷たい光が漏れだしてこないものかと、ひたすらに目を凝らしていた。

 しかし私たちは街を出てしまった。
 私が振り返れば、街の空は灰色に曇り、家々の屋根は沈鬱に沈んでいるように見えた。
 ああ、彼女はきっと、この街の人ではなかったのだ。天に、もしかすれば地獄へと帰ったに違いない。私のため息は静かな鉛となって、馬の背に落ちる。
 その時だった。不思議な光の加減によって、街の向こう。そこに光が落ちていた。今までどうして気が付かなかったのか。−−城があった。

 私は白昼夢をさまよう気持ちでそれを見た。
 彼女だ。どれほど遠かろうと私にはわかった。
 城のバルコニーを彼女が歩いていた。旅立つ私を見送る様に。もう二度と会うことはないだろう、夢の恋人に別れを告げるように。
 視界が滲むことを気取られぬようにしていた私に、声がかけられる。
「あの城は呪われた城である。あの城には魔が住み着いていると言われている。しかし王の息がかかっているため、教会と言えども手を出せないのだ」
 そこには隠し切れない、いまいましそうな響きがあった。

「あの城には何かいわれがあるのでしょうか」
「何年も昔の事だが、ある作家の娘が死んだ」
 僧院長の言葉に、私は蓋の下に沈められていた記憶が、身じろぎをしたように感じた。
「その作家は娘が死んだことをたいそう嘆き、娘を蘇らせようとした。だが、それは理に反した行いだ」
「それは叶ったのでしょうか」
 私の言葉に、彼は静かに首を振った。
「叶わなかった、と聞いている。だが、その頃から彼の作品は変わり始めた。その出来栄えは、まるで生きているかのようだ、と。まさか死者を掘り起こして使っているのではないか。教会も調査に乗り出したものだったが、その証拠はつかめなかった。その作品の見事さには、国王も心を奮わされ、あのような城を建てるような財を築いたのだ」
 そこで彼は嘆息する。
「だがあの城には今は誰も住んでいない。魔に連れて行かれたのだ、と言われている。あの城を調査に行ったものは誰も戻らない。お前もあまり見ない方がよい。それでは進もう」

 彼の言葉に、私は馬から放り出され、そのまま奈落に落とされるように思った。
 それならば、今見た彼女は何なのだ。まさか、本当に悪魔だったとでもいうのか。それとも、この奈落の底から這い出してきた死者であるのか。
 それならばあの手の冷たさにも納得がいく。

 だが私が愕然としたのはそこではない。
 私はそれでも彼女に会いたいと思ってしまったのだ。
 それでもいいーーと思ってしまったのだ。
 ああ、なんと罪深い。
 もしも墓の下に彼女が埋まっているのだと聞けば、私は躊躇いもなく墓を暴いたかもしれない。そのまま、盗人よりもおぞましく、神の目に触れる事を許されない、悪魔にも劣るものに成り果てたかもしれない。

 私は私の脳裏にかびのように張り付いてきた、嫌悪するべき考えに、身を震わせ、ゴミ漁りを見つかった野良犬の如き有様で、僧院長の後に続いたのであった。

 ◆

 赴任先の教会はくたびれていた。
 前任の牧師は亡くなり、私はその後任であった。世話役の老婆と、前任が飼われていた年老いた犬が出迎えてくれた。
 私が彼らの面倒を見ることを承諾すると、彼らはむせび泣きそうなほどに喜んでいた。
 前任に負けぬ、素晴らしい牧師になることを誓うのを見届けると、僧院長は元来た道を帰っていった。

 この村はうらびれた田舎ではあったが、人々の心根は正しく、また陽気であった。クラリスと会えなくなったことに沈んでいた私は、彼らの心に触れ、溌剌と過ごすことが出来た。私には、この村でやらなくてはならないことが、うずたかく積まれた本のように待ち構えているのである。

 それは雨の降る日であった。
 初めて葬儀を執り行った私は、触れた死者の冷たさに、彼女の事を思い出していた。死者から生者に辿り着くなど、私はどうかしていたとしか思えない。
 この村にも慣れ、彼らの陽気に助けられていたはずの心持が、初めての葬儀によっておもりを付けられたかのように沈んだ。だからこそ、か。
 私は幼い時の記憶を思い出した。

 馬車にひかれた少女。
 私は懐を探る。そこにあるものに触れる。無機質な冷たさは、死者の温度にも似ていた。
 当然だ。それはまさしく死者の持ち物だったのだからーー。
 と、私は気配を感じた。
 扉を開けて外を見るが、誰もいない。このような日には、死者も迷うことがあると聞く。もしも今日の人が迷っていたのであれば……。
 私はもう一度扉を開けてみる。

 さめざめと降っている雨は、誰かの涙の様だった。

 私は寝室の扉を開ける。こんな気分の時には寝た方がよい。よくないことばかりを思ってしまう。私は寝床に潜りこむその時、棚の影が、揺らめいた気がした。

 カチカチ。
 ボォ――――ンン。
 鉛のような残響。
 柱時計の響きに、影が揺らめいていた。
 じぃっと見ていると、それは少女の姿に見えてくる。顔は見えない。だがその姿は見覚えのあるものだと思えた。
 私はおもむろに手を伸ばした。迷っているのならば、私が導いてみせよう。そんなことを思っていたわけではない。私はただ、彼女が何者かを知りたかっただけなのだ。

 私は影に触れた。
 その冷たさは、彼女の心の様だった。

 カツカツカツ。
 馬の蹄がやってくる。
 それは死者の国から。悪夢の国から。彼女の城から。
 そうに違いない。それならば私はその招集にこたえよう。

 私は戸を叩く音で目を覚ました。
 影は揺らめいてなどいない。私は夢を見ていたのだと思う。
 窓の外は、星も月も雲に覆われて、真っ暗だった。
 雨が静かに流れている。まだ、泣き止まないようだ。

 私は返事をして、蝋燭を灯して扉を開ける。

 私はよく悲鳴を上げなかったものだ。
 そこには、スッポリとフードをかぶった、小柄な人影がいた。
 私の胸よりも背丈は低い。子供かもしれない。
 それは死者の影が切り離されて歩き出したような、不吉な色を備えていた。カンテラの明かりに照らされて、影の影が、ゆらゆらと揺れていた。
 その手に鎌を持っていないことが不思議なくらいに、

 −−死神。
 そうした印象がふさわしかった。

 私は知らず、聖句を唱えていた。
 だがそれは相手に何の変化ももたらさないようだった。
「動かなくなりました」
 彼女はそう言った。
 彼女。そう、彼女だ。その声は子供のもので、鈴の音を転がすような軽やかな声音。さめざめと降る雨に混じり、それは羽のように私の耳をうった。聖歌の列で聞くべきだと思われるような。
 だが彼女は天使ではない。死神だ。死神ではないとしても、死を告げる黒犬には違いない。

「クラリスさまが動かなくなりました」
 私は膝ががくがくとした。吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
「来ていただけないでしょうか」
 私はすんでのところでこらえ、彼女の申し出に頷いた。
 彼女はここに馬車で訪れていた。私は急いで準備を整えると、馬車に乗り込んだ。
 私は彼女が死んだと聞いて、あまりにも気が動転していた。だからこれから私がどこに連れて行かれるのか、連れて行かれた先で何が訪れるのか。そんなことには一向に気をむけることが出来なかった。

 むしろ私は、彼女の骸と対面したとき、何をしでかすか分からない、そんな恐怖を抱いてもいた。馬車のわだちの音が、雨と泥と混じっている。窓のない馬車から、外は見えない。
 きっと、森の中を走っているのだろう。つたに覆われて、覆いかぶさるように枝葉を広げた木々を見なくて済んだのは、救いだったのかもしれない。
 やがて馬車はぬかるんだ道から、石畳に乗り上げたことが分かった。地面から響いてくる振動は硬質で、私の心を鎮めも、かたくなにもさせた。
 ようやくたどり着いた城の前で、私は、彼女の霊を迷わぬように葬式をやり遂げてみせよう。
 その心だけでいっぱいにしていた。

 カツカツカツ。
 馬の蹄の音が、夢の国のドアノックのように聞こえる。

 ◆

 城は見事なものだった。
 そこかしこに意匠の凝った装飾が施され、その前に広がっている庭園が雨の中、幻のようにけぶっていた。
 城の中も見事だ。だが、澱のように積もっていた悲しみの空気に、それらを楽しむことなど出来るはずもない。私を出迎えたのは、黒いベールで顔を覆った女性だった。
 顔を見ることは出来なかったが、その肉惑的な体つきは、その挙動の一つ一つが、男を誘う香りに満ち溢れていた。通常の男であれば、彼女に向かって涎を垂らしたかもしれない。
 私はそうはならない。
 私が思うのはクラリスだけだ。
 冷たい体の彼女。
 その肢体はもう動くことはないのだろう。

 私は彼女が安置されているという部屋に案内された。
 そこは、豪奢な部屋だった。しかし人の部屋の様には思えなかった。そこかしこの調度品は、淑女が使うものとは思えない。きっと彼女はあの鏡台で化粧をしたのだろう。きっと彼女はあのランプの下で本を読んだのだろう。想像すればーーそこにいる彼女は絵のようにぴたりとあてはまる。だが私には、どうしても鏡の向こうの景色のように映ったのだ。
 まるで夢の中にしか存在しえない、幻の玩具箱のようなありさま。

 私は淡いレースで覆われた天蓋つきのベッドに向かった。
 私は思わず手で口を覆ってしまった。
 そこには確かに彼女がいた。
 私が夢にまで見た、永遠の乙女。ただ一人の人。クラリス。
 彼女はピクリとも動かない。

 彼女から生者の香りは感じられなかった。
 だがその美しさは、こうしている今こそが本来のあり方なのだと、雄弁に語っていた。いつか、私が聖堂の中で見ていたよりも、彼女は殊更に美しかった。
 死の静寂と、冷酷な夜気が。彼女の美というものを結晶化させ、磨き上げていた。
 さめざめと降っていた雨は、挽歌の雫に他ならない。
 私も雨と共に、さめざめと歌いたい。彼女の美を、永遠をその身に宿した気高さを。

 硬く閉じられた目蓋の奥に、エメラルドの宝石が隠されているのだろう。その流れる髪は、死の眠りの中にあって、なおも生々しく蠢いている。色を失った唇から、死の国にしかない花の香りが届くようだ。アラバスタのような肌は、今こここに完成した。これほどまでに美しい彼女であれば、冷たくとも、硬くなっていようとも、その豊かな胸にこの身をうずめることに抵抗はない。
 私は、彼女の蛇のような囁きが、再び私に聞こえてくるような気がした。
 その艶めかしい手に誘われれば、彼女とともに土の下の褥に入ることを、私は拒めない。

 カチカチカチ。
 私は彼女を見つめてそこに呆けたように立っていた。

「彼女のことを愛していたのですか?」
 クラリスの声が聞こえた。
 私はハッと彼女の唇を見る。だがそれは動かなかった。物言わぬ人型として、彼女は底に横たわっている。そこで私は気が付く。
 当たり前の事を失念していた。
 私は振り向いて頷く。私をここまで案内してくれた女性だ。もしかしなくとも、クラリスの血族だろう。それにしては、あの時の彼女の声に似ている気がしたが、人付き合いに乏しい私は、そういうこともあるだろう、というくらいにしか思わなかった。

 彼女はその顔を覆っていたベールをおもむろにはずした。
 ーー息をのんだ。

 その顔は、その顔はあまりにもクラリスに似ていた。
 だが、今も、あの聖堂の中でも彼女をまじまじとこの目に焼き付けていた私は、その細部の違いを見て取れた。私でなければ気づけないほどの違いだ。それは堂々と言い切れる。
「双子ですか?」
 私の馬鹿みたいな問いかけに、彼女は微かに笑った。それは月光によってカーテンが揺らされるほどの微かなもの。
「いいえ、私はクラリスの母……です」
 私は絶句するしかなかった。母と娘。それにしては、彼女は若すぎた。
「血はつながっていませんが」
「…………」
 そう言うには似すぎている。
 
 硬直していた私に、彼女は言う。
「差し上げましょうか?」
「は?」
 無礼な言葉をだした口を、私は手で覆う。
 しかし死者となった娘を差し出すとは、いったいどういう了見なのだ。
 霧の国の方では、魂を慰めるために死者と婚姻を結ぶこともあるという。だが、ここにはそのような風習はない。

 それに
「いくら死者とはいえ、そのような……物のように言うのは良くありません」
 私の言葉に、彼女ははっきりと微笑みを浮かべた。
 そのさまは、死者を冒涜しているのではなく、死者をーーまさしく自らのものだと思っているーー死者の女王めいて見えた。そのガラスのような瞳が、私を面白そうに見つめている。
「物ですよ。これは、物です」彼女は恍惚とした表情を見せて、クラリスの頬に手を這わせた。
「だからあなたに差し上げようと言うのです」
 彼女はその鎌のような指で、彼女の胸元を下に引き下げた。
 そこに現れた肌の、なんという瑞々しく淫らなことか。むき出しにされた乳房は、サテンに覆われているかのように滑らかであり、アラバスタの如き白さの中心には、甘く薄桃色のつぼみが……私に舐められることを待っているかのように鎮座している。夜の女主人はためらうことなく、その柔肌にーー猛禽のように容赦なくーー指をくいこませた。

 私は目の前で行われている冒涜に、魔女の宴じみた淫靡な享楽に、打ち付けられたかのように、目をくぎ付けにされた。
 その柔肌を引き裂かんばかりに。
 艶めかしく。暴力的に。冒涜的に。容赦なく。仮借なく。苛烈に。華裂に。
 乳房が鉤づめの下で踊り跳ねる。
 息をしていないはずのクラリスの唇から、桃色の吐息が零れてくるような気さえする。

 カチカチカチ。
 時を刻む音が、鼓動と並行して走る。
 それは速く、速く。くぐもった音にこもって、駆けていく。
 カーテンに遮られた窓の向こうには、青ざめた馬が、こちらにかけてきているに違いない。
 黙示録に刻まれた、終末の音が……高らかに。

 これは悪夢である。きっと、夢をつかさどる悪魔が、この褥と死者の国をつなげたに違いない。私はこの境界線の上で、馬鹿みたいに突っ立って、彼女たちの痴態に息をひそめている。

 ああ、私は何をしているのだ。
 今すぐに神の僕徒として、女の手を打ち据え、我が愛しき人を救い出さなくてはならない。
 しかし。
 彼女を弄んでいるのは、他の誰でもない、彼女であるのだ。

 瓜二つの顔をした女が、死んだ自分を辱めている。

 自慰にも似た、淫靡で背徳的な光景に、私は自分が牧師であることも忘れ、魅入っていた。
 いや、魅入られていたのは私のほうだ。

 死者の女王が私を見ている。
 冷たい瞳は、私の心を芯まで凍えさせる。
 だが。
 だが。
 この熱は何なのだ。
 私の腹の下で、感じたことのないほどの熱量が渦巻いている。まるで地獄の溶岩が、私の中で堪えずに生み出されているようだ。
 これは、これはまさか。
 ああ、悪魔はついに、私のうちに肉欲の大罪を産み付けることに成功した。
 私は敗北者である。
 それを認めざるを得ない。

 死者に良く似た、死者の女王は、その炎のような舌で、死者の桃色の突起を突く。
 やめろ。それは私のものだ。
 いくら女王といえども、愛しき相手を差し出すわけにはいかない。
 私はかがり火に焼かれに行く蛾のように、燐の炎に導かれる霊魂のように、あるいはあてどもない夢遊病者のように? 私は官能の褥に近づいていく。
 私は快楽というものを知ったことがない。
 それは爛熟した果実のようで、甘ったるく、私を誘う。
 そうか。私は蠅だ。
 きっと彼女はかの大悪魔(ベルゼバブ)に違いない。ともがらを得るために、私を選んだのだ。そうだ。そうに違いない。

 私の「男」というものは、今は痛みと切なさの塊となっている。この中に詰まった欲望を、彼女の中に納めなくてはならない。
 義務付けられた納税者を通すように、女王は私に道を譲ってくれた。
 背徳と、冒涜と、悪魔の堕落の道が、私の目の前にはっきりとその姿を現した。神の道だけを目に映しいた私には、上り坂のように見えていたそれは、今や万人が目にするように、丁寧に舗装された坂道にしか見えはしない。

 私は一歩を踏み出す。
 彼女の肌は、汗ばんでいるように見えた。それは錯覚だろう。死者は汗などかかない。いや、それは女王の淫らな体液。私はようやく餌にありついた犬のように、舌をたらす。
 待ちきれない。待ちきれなくて、眩暈がする。
 私は手を伸ばす。
 永遠の褥に横たわる、死者の眠りを汚そうとする。

 と、クラリスが眼を開いた。
 私の喉から、息を詰まらせた鶏のような声が出た。

 彼女の手が、私の手を取る。
 指と指が、蜘蛛の巣を巻くように絡み付く。
 彼女の「死」と「美」の結晶のような顔が近づいてくる。
 彼女の唇が私の唇に張り付く。
 吸われている。
 何かはわからないが、私が私であったものが吸われている。
 舌が分け入ってくる。今までに感じたことのない官能と快楽の渦が、らせんを描くように私を飲み込んでいく。渦のそこで待ち構えているのは彼女だ。
 ああ、彼女の顔が、冷たくふくよかな乳房が、私の全てを埋めていく。私はどうなってしまうのだ。恐怖と不安。それらの楔よりも、期待の順風が激しい。
 
 しかし、悲しいかな。
 私はそこで意識を失ったのだ。

 ◆

 私が目を覚ませば、教会の一室だった。
 私の世話をするためだろう、心配そうな顔をした老婆が、盃に薬を入れ、忙しなく走り回っている。彼女は私が目覚めたことを知ると、涙をながして喜んでくれた。
 あの老犬も一緒にだ。

 聞けば、私は三日の間眠りこけていたようだ。
 私がクラリスの死を聞かされた次の日、朝教会を訪れた老婆は、起きてこない私を不審に思い、この部屋を覗き込んだという。部屋の中も、布団も、何も乱れはなく、私は死んだように眠っていたそうである。

 あれは夢だったのか?
 めくるめく官能と、背徳の宴は、ただの私の悪夢、妄想、蒙昧、不徳、悪徳。私が認めたくなかった、私の悪辣なる本性だったのであろうか。
 私は頭を抱える。
「大丈夫でございますか?」
 老婆を安心させるために、私は大丈夫だと答える。ああ、私は息をするように罪を犯すようになった。嘘をついたのだ。十戒によって定めれられたものを。私は、私は。

 朝食をとり、私は陰鬱な日を過ごした。

 夜になった。
 私はいくばくかの期待を抱えて横になる。
 
 カチカチカチ。
 ぼぉーん、ぼぉーん。
 時計の音が嫌に耳につく。
 
 まぶたの裏に、私の師である僧院長の姿が浮かび上がる。
 耳鳴りのような彼の言葉。
「魔に魅入られたようだな。忘れろ。忘れてしまえ」
 嫌だ。
 私はあの女の乳房を貪りたい。死者の冷たさも、魔の恐ろしさも関係ない。
 私はただ。あの永遠の美しさを完膚なきまでに犯し、汚し、その肉ひだの一本一本を余すところなく舌を這わせ、冒し尽くしたいのだ。
「憐れな」
 好きに言えばいい、その憐みの瞳は、私には毛ほども効果はない。
 私の心を誘うのは、あの艶めかしい女の瞳だけだ。

 カチカチカチ。
 私は音を聞いた。あれだ。あの馬がやってくる。
 私は、丁寧にしつけられた犬のように、その音に情欲を刺激されるようになっていた。
 彼女がやってくる。

 私が目を開けば、
 彼女はそこにいた。

「お預けされた犬のよう」
 クラリス。死んだはずの女。彼女は、柱時計の影から沸き立つように現れた。
 薄暗い部屋の中、生白い彼女の肌が輝いて見える。ビロードのようなドレスは、影で編まれたものだ。あの「美」と「死」を孕んだ女が、自分の部屋にいる。
「男」の部屋に、麗しく立ち現れた。

 これは夢か。
 彼女は悪魔か。
 それとも幽霊、影の住人、死者、はたまた、真実ーー堕ちた天使の類であったのか。
 そのどれであろうと、そのどれでもなかろうと。
 私にはもはや関係はなかった。

「犬か、犬でもいい。犬に抱かれるのはお前だ」
 これは誰の言葉だ?
 そうか。私か。私は犬になるのか。
「ふふふ。素敵」
 クラリスは冷たい顔で笑う。
「でも、ここではダメ。ここでは邪魔が入るかもしれない」
「ここだ。ここがいい。私はもう、我慢が出来ないのだ」
「それは私も同じ。先にお預けをさせたのはあなたじゃない」
 女は私に接吻をした。口の中で、己のものではない肉が蠢く感触。私は貪るようにそれに答える。
 ぴちゃり、ぴちゃり。
 犬の音だ。理性をかなぐり捨てて、相手を貪るケダモノの喘ぎだ。

 私はもっと感じていたかった。
 口を吸いあっていたかった。
 しかし彼女は口を放すと、私を叱咤した。
「行きましょう。誰にも邪魔をされない、私たちの住まいへ」
 私は咽喉から立ち上がる彼女の香りを嗅ぎ、されるがままに彼女の馬車に乗り込む。

 カツカツカツ。
 馬の蹄が駆ける。この行先は堕落の果ての地獄である。だが、今の私にとっては、その先こそが、私にとっての本当の天国である。
 私の腕に押し付けられた彼女の乳房は柔らかく、男を誘う香りと、蠱惑的な形に満ちている。
 私は猛る。またぐらでとぐろを巻く、龍と化した蛇を持て余す。
 この道は、なんと長いことか。

「私は初めてだから優しくしてちょうだい」
 私の喉から、ケダモノのうなり声が。
 初めて。
 噂にきく娼婦というもののどれもが彼女には及ばない。だというのに、彼女は初めてなのだという。やはり彼女は魔のものに違いない。その「女」という形に詰め込まれた、淫らと蠱惑の本能。本性。
 私を堕落の道に誘った、その手練と手管。
 私はもはや牧師だったという過去に決別し、唇を舌で濡らさずにはいられなかった。

 ◆

 私は彼女によって、その屋敷の褥に誘い込まれた。
 薄暗い部屋の中、彼女のアラバスタの肌が、クラゲのように揺らめいている。
 私はファム・ファタルの情景の中、彼女の肉壺から、私の「男」に彼女の聖油が注がれるのを、敬虔な気持ちで見つめている。私が受けたかった儀式はこれなのだ。
 この儀式を通ってしまえば、私はもはや神の使徒としては戻れない。
 これは堕落に至る儀式なのだ。

 私は、彼女の「女」から目が離せない。
 荒い息の中、私の「男」は彼女の「女」に飲み込まれていく。
「男」が「女」を押し広げる。今まで一度も開けられることのなかった扉を、無理やりにこじ開けていく。ーー私だけのものにした。独占欲が満たされ、達成感と多幸感が、彼女の体から、私の体を駆け廻っていく。
 包み込まれる感触は、それと感じる前に、すでに暴力的な圧迫感となっていた。肉と肉がこすりあう感覚。濡めりを帯びた肉の壺が、私の「男」を逃すまいと締め付けてくる。
 私とて初めてなのだ。凌辱されているのは私だ。
 私にこらえることなど出来るはずもなく、彼女の破瓜の血には、私の白い欲望が混じる。

 天…、国はここにあったのだ。

 私は見た。
 私を焼き尽くす真っ白な閃光を。
 私は聞いた。
 祝福に降る鐘の音を。それは彼女の体から響いてくる音。
 私の心臓の音と重なって、倒れ込んだ彼女から、私に向かって直に響いてくる。
 
 情欲に濡れた、エメラルドの瞳が私を見ている。
 私はじゃれつく犬のように彼女のほほを舐めあげる。
 彼女はそんな私を愛おしそうに見て、彼女も私の頬に舌を這わせてくる。その蠢きのなんと巧みなことか。私の「男」は彼女の「女」に銜え込まれたまま、再び、地獄の熱さを以て、天をあざける塔のように屹立する。
 ああ、揺れる。
 揺れている。
 今まで私が信じていた価値観が、跡形もなく崩れ去っていく。

 彼女の跳ね踊る乳房に、渦を巻いてくねる腰に。
 私であった諸々は全て、かみ砕かれるように、引きちぎられていく。
 ケダモノの雄叫びと共に、私は彼女の中に、自らの欲望を植え付けていく。
 彼女を引き倒し、押さえつけ、満開に足を広げさせる。その中に、私は容赦なく、雄の限りを打ち付ける。彼女の歓びの涙は何よりも甘美だ。
 後ろから、形よく突き上げられた尻をはたき、何度も腰をぶつける。彼女の脇からはみ出して見える乳房をつかみ、無遠慮にもみあげる。確かに彼女は物だ。私の劣情に応えて啼く、淫らな楽器だ。だが、この音色は際限なく私を絶頂の彼方に押し上げ、さらに私を求めてくる。

 果ての見えない快楽は、空に向かう墜落だ。

 彼女も私を物として見ているに違いない。白濁を吐き出させてはすぐに求め、私の意思に関係なく、「男」を屹立させる。
 もはや私は何度射精したか分からない。
 男というものはこれほどまでに、出せるものなのだろうか。
 違うだろう。
 私は漠然とした意識で思う。
 きっと、夢や死者の国を通るたび、人間という私は死んでいったに違いない。
 ついさっき私が、「牧師」という私を殺したように。

 彼女の官能の叫びは高らかだ。ラッパの音のよう。
 私はシンバルを叩くように、腿で彼女の尻をうつ。
 ひくひくと、すぼまっている菊の花が見える。私はアリの巣に指を入れる童のように。彼女の穴に指を突き立てる。
 ひときわ甲高い雌の音。
 私はいい気になって、彼女のナカの肉をほじくる。そのうち、彼女はねだありだす。脅すような口調で、私の「男」を不浄の穴に突き立てろと、私は血と精で汚れきった「女」から、ケダモノの穴に「男」をうちたてる。
 ついに、倫理と理性の城壁は、私の槌の一突きによって破られた。
「男」は縛り首にされたように、彼女の菊の花に締め付けられている。
 罰は罪と同時に生まれる。
 だが、罰が褒美にしかならない罪は、どう裁かれればよいのだろう。
 きっとケダモノの餌にすればいいのだ。私は、「女」に指を突き入れ、ほじりだしたカクテルを、彼女の鼻に塗りつける。彼女は豚のように鼻を鳴らす。

 私は彼女の穴という穴を犯した.
 私は彼女の髪の一本も残さずに、舌を這わせた。
 私の体も同様だ。彼女の指が暴かなかった穴はなく、彼女の舌が這わなかった肉はない。
 なんという悪夢だ。なんという堕落だ。私の天国はここにあった。

 私は咽喉が張り裂けんほどに雄叫びを上げ、
 ケダモノの狂宴は、朝が来るまで繰り返された。

 ◆

「汝、悪徳にふける事なかれ」
 私は教会で、村の子供たちに道徳を教えていた。

 昼は教会の敬虔な牧師、
 夜は肉欲にふけるケダモノ。

 それが私だった。
 私はそれを続けた。
 彼女の肢体は飽きることがなく、私は夜ごと新たな開拓の歓びに打ち震えていた。
 ふとした時、私は情事の褥で、彼女に面影を見つけた。それは、私の目前で馬車にはねられた少女のものだった。私の問いかけに、彼女はうっそりと微笑み、あの少女はクラリスその人であったことを教えられた。
 あの時、彼女は実は死んではいなかったのか。
 私の問いかけに、彼女は答えてはくれなかった。

 毎夜つづけられた悪徳の宴。
 その告発者は唐突に現れた。
 誰であろう。彼は僧院長であった。
 彼は私の職務を確かめに来たのである。彼は私を見るなり、涙を流した。
「何という事だ。お前は魔に魅入られ、魔、そのものになってしまった」
 神に愛された彼の瞳には、私が悪鬼に見えたに違いない。
 彼は気づいていた。クラリスが魔であることを。あの時、私が一人、悪魔の試練を受けていたことを。彼は私が打ち勝つことを信じて、黙っていたのだ。
 しかし私は負けた。彼が黙っていたあの場ですでに負けていたのである。
 彼に告発されれば、私はもう破滅だ。が、育ての父にも等しい彼を、殺めることなど出来るはずがない。

 私は神の敵対者となっている。だが人殺しはしていない。これからもできないと思う。肉欲にまみれた私の心の片隅に、侵してはならない線は存在した。それは、相手を犯しはすれど奪いはしないという事だ。私はいつしか、この肉欲は愛に起因するものだということを確信していた。
 私は覚悟した。神の鞭によって打たれることを、畜生のそしりを受け、民衆の礫を受けることを。しかし、慈悲深き育ての父は、私ではなく、私をたぶらかしたものに罰を与えると言われた。それは私にとって、最上に恐ろしいことである。
 私は彼を止めた。その裾に追いすがって、泣いた。

 哀れっぽい私の声に、彼は心を動かされたようだった。
 彼は私に諭すように言った。
 あの女の正体をその目に刻め。彼女の正体を知って、なお前は彼女を愛せるのか、と。
 私は頷いた。彼女の正体がどのようなものであれ、私は彼女を愛する。
 それは曲がりようのない真理である。しかし同時に、私は彼女の正体を知りたくもあった。
 
 僧院長は、教会に伝えられる魔にかかわる書物の閲覧を、私に許可してくれた。
 それは魔物の生態が描かれた図鑑であった。
 そこには見目麗しい女性の姿をした数々の魔物が記されていた。人の身では至りようのないその美に、私はクラリスが魔物の一員であることを改めて確信した。
 さもありなん。この書物は教会によって秘匿されるはずである。
 未熟な者であればーーこの私のようにーーこの絵姿のみで、彼女たちとの淫らな肉欲の宴を夢見る事であろう。何度も読み返されたこの書物には、堕落した者たちの妄念が詰まっているようにも思えた。

 しかし、私はクラリスがこれだと言える魔物を見つけ出すことは出来なかった。
 いくつか怪しい魔物はいるのだが、怪しくも、確信は持てない。

 僧院長は私に提案した。
 彼女がお前の幼い日に見た少女だというのならば、その墓を暴こう、と。
 それは恐ろしいことだ。だが、死を超越した彼女の正体は、その墓に埋まっていたとしても、おかしくはない。
 私は僧院長に従い、彼女の墓を探した。

 そこで知りえたことは、彼女はあの街にあった城の持ち主である、作家の娘であるという事であった。そして彼女は真実、あの日、あの馬車にひかれ、今目の前にある墓に埋められたという事だ。
 
 クラリス・コッペリア 享年十歳

 十歳。私と毎夜むつみあっているあの女性は、どうみてもそのような年ではない。成熟した「女」という果実そのものだ。死者が成長したというのか……。
 暴いてみればわかることだ。私たちは一心不乱にその墓を掘り返し始めた。
 私たちは僧衣をまとっていたが、その鬼気迫る表情、魔に対する恐れーー私だけではなく、僧院長にも、淫欲の兆しもあったかもしれないーー魔に対する憧れという気持ちがないまぜになった、名状のしがたい感情に急かされていたことは事実である。
 もしも憲兵の類に通報されれば、有無を言わさず私たちは取り押さえられていただろう。私たちはついに彼女の棺に辿り着いた。その棺は子供用だ。今の彼女が入れるような大きさではない。
 棺は厳重にくぎを打たれ、蓋はびくともしない。私たちはそれを慎重に取り除き、恐る恐るその中をみた。その時の私の衝撃と言ったらいかほどか。動いているのは天ではなく、地の方であると教えられた時を超えるほどのものであった。
 
 彼女はそこにいた。
 あどけない顔は憐みを誘う。幾年も前に埋葬されたというが、これほどまで穏やかできれいな死体ということは驚きである。

 しかし。
 馬車にひかれたクラリスと、私と愛し合うクラリス。
 クラリスは二人いた。

 それならば彼女は誰だ。
 まさか魂だけが抜け出してさまよっているというのか。私は、ゴーストという魔を思い出した。しかし、彼女には足があった。
 違う。彼女はゴーストではない。
 それならば彼女は誰だ。いや−−何だ?

 驚愕する私の前で、僧院長は聖句を唱え、少女の死体に聖水を振りまいた。
 しかし何も起こらない。
 この彼女は魔ではなく、ただのきれいな死体でしかない。もしかすれば、死蝋であるのかもしれない。

「私の体にいたずらしないでくれないかしら」
 私の後ろから声がした。
 クラリスだった。その隣には、彼女の亡骸へ案内してくれた、彼女に良く似た顔の女もいた。
「お、おお。これが魔……か」
 感激にもとれる声を、僧院長は放った。私は彼の瞳を見て思う。私もこのような有様であったのだろう。理性に澄んでいた瞳は、情欲の炎に爛れ、どろどろに濁っていく。今にも涎を垂らしそうな、犬のかお。
 私は鏡を見るような気持ちで顔を覆った。

「聖水なんかじゃなくて、あなたの精水をちょうだい」
 私の後ろ、棺の中から声がした。
 おお、神よ。私はあなたの力はまやかしであったことを、ここに高らかに宣言したい。
 私の前にも後ろにも、魔がいるではないか。
 淫靡の徒。もしもあなたの力が絶対のものであることを証明したければ、私もろとも彼女たちを滅するしかない。だが、空は晴れ渡り、あなたの力、天の火、雷。世界を洗い流した水を蓄える、雲の一かけらも見いだせぬ。

 神は死んでいた。
 私は子供たちにそう教えようと決心する。

「そんなに私の事が知りたいの?」
 私の愛しいクラリスが言う。
「そうだ。私はお前が何であろうと愛すると誓おう。私はお前の事が知りたい」
 エメラルドの、宝石ような瞳が私と絡み合う。その視線は熱っぽく、視線だけで交じり合っているようであった。
「いいでしょう」
 彼女は静かに、語り始めた。

 十歳の時分、彼女は父である作家の創作の材料を買いに出かけた。その帰り道、馬車にはねられて死んだ。娘を深く愛していた父は、嘆き悲しみ、娘を蘇らせようとした。だが、それは理に反する行い。彼はそれは叶わなかった。
 だから彼は思った。
 自分は人形作家だ。娘そっくりの人形を作り、それを娘としよう。
 そこに込められた熱意と執念、月をも砕かんとした狂気があったに違いない。彼は成し遂げた。その人形には、両親の思いにひかれ、迷っていた娘の魂をその人形に宿らせた。
 それが私が愛する今のクラリスであり、彼女はリビングドールという魔であった。

 私は、懐にしまっていた歯車を取り出す。
 あの時、私の元に転がり、彼女と私の運命の糸を結びつけた歯車。
 それは、彼女の父が人形を作るためのものであったのだ。
 そして私は気づく。馬の蹄だと思っていたあの音。
 あの音は、彼女の体内で時を刻む、彼女の歯車の音だった。

 魔として両親のもとに戻った彼女の存在は、魔の王族にも知られるところとなったそうだ。そうしてすでに死んでいた彼女の母は、ワイトという死者の女王といえる種族になったのだという。それが今クラリスの隣にいる女である。
 彼女の父は、その腕前を見込まれて国王にも精巧な魔の人形を献上し、城を建てるほどの財を築き上げた。クラリスの元々の死体は、今暴かれるまで死の眠りについていた……。
 そうか。死者の女王が娘を物といい、血はつながっていないというのはそういうことだ。
 クラリス、その体は人形であり、その魂がワイトの娘であったのだ。

 私は神秘にも思える魔の関係性、理を覆す、神をあざ笑う魔の所業に感服する他なかった。

 今、クラリスの死体は眼をさまし、私の育ての父である僧院長にしなだれかかっている。
 聞けば、この場にいるワイトの力にひかれ、彼女は幼い体ながら、ワイトとして目を覚ましたのだという。
 おお、ワイト。淫らな死者の女王よ。それが二人。
 この国は、魔の手に落ちたも同然ではないのか。
 いや、リビングドール狂いの王がいる時点で、この国は魔のものであったに違いない。
 顔を喜悦にゆがませる僧院長のさまを見よ。教会でさえこうである。
 私は傍らに立つ我が愛しのクラリスの腰に手を回す。
 今、私たちは僧衣をつけている。だが、もはや隠すことはない。この国は魔のものになる。

 私はリビングドールという魔である彼女と生きていく。
 それは神が何を言おうとも、私がたどるべき道である。

 ◆

 私は語り終えた。
 傍らには、いつまでも私と共に若々しい妻が立っている。
 私は彼女の手を取り接吻する。
 私は恋をしたことがあった。今は恋はしていない。彼女を愛しているだけである。

 さあ、私たちは褥に行く。
 君も、この魔に犯された国で、自らの伴侶となる魔を見つけ出し、恋し、愛し、家のベッドに駆け込むがいい。
 それは私たちの娘であるかもしれぬ。
17/05/06 15:11更新 / ルピナス

■作者メッセージ
お気づきの通り、クラリモンドのオマージュでございます。
あまりに感動したもので。
初めのほうは、芥川さんの訳文を参考? 引用? しております。

夢うんぬんは、彼が勝手に思い浮かべていただけで、ナイトメアさんもドッペるさんも、いっさい関係ありません。謂れのない誹謗中傷はやめてあげてください。
さもなくば、影馬の蹄が――汝の寝床に響くだろう。

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