G計画
それは黴のような黒いシミだった。
ビルに、ポツポツと。
誰も気にも留めない。ただの、黒いシミ。
最初にそれに気が付いたのは、目端の利く子供だった。
世界の変化に気が付くのは、まず子供たちだ。
「ママ、あれ何？」
「あれ？ あれってどれ」
「あれだよ。あれ。あそこの黒いやつ」
「んー、汚れじゃない？」
その母親も、大半の大人たちと変わらず、子供は何にでも興味を持ちたがるものだとして、取り合わなかった。−−子供とて、異常を異常として認めることが出来るというのに。
その黒いシミはーーシミではない。
彼らは動いていた。彼らは原始の時代より姿を変えず、人に恐怖をもたらし、人の恐ろしい隣人で居続けた存在。
そのシミは、本当に黴のように、範囲を増やし、数を増やし、その旺盛な繁殖力を以て、この世界を占拠するに至る。
「じ、情事……」
掠れた羽音のようなものが聞こえた。
◆
誰も知らない間に始まった。
知っている者は、それを伝える前に終わっている。
終わりを教えてくれない砂時計。
音もなく、ただ流れていく。
誰も知らない間に終わっている。
知った時は、全てが終わったその後だ。
砂時計はひっくり返すこともできず、ただ、終わっている。
◆
朽木竜也は眼を覚ました。
時刻は午後三時を指している。ここには陽光は入り込まない。この部屋の窓ガラスには、内側からガムテープで目張りがされ、人口の光以外は届かない。
彼は引きこもっていた。それは、五年前だったかも知れないし、六年前だったかもしれない。それがどちらであろうと、どうでもいい。今日だって、外に出るという選択肢は、頭の片隅にだって存在しない。
彼はドアを少しだけ開けて、ラップをかけた食事を内側に引き入れる。
冷え切った米粒にももはや慣れた。作業のように食料を口に運んでいる最中、彼はふと膝にむず痒い感触を覚えた。
ーーゴキブリだった。
普通ならば、大の男でも怖気を感じる生き物を、彼は素手で払っただけ。
この部屋の中には、外の常識（ルール）など入り込まない。
別段、その黒い虫を愛でるような嗜好はもちあわせていない。物言わぬ居候。その程度の認識でしかない。それでも、不愉快な言語をまき散らす人間よりはずっとマシだとは思っていた。
彼はパソコンのＤＶＤプレイヤーを起動させる。何時手に入れたかもわからない、Ｂ級映画。昆虫が巨大化して、人間に襲い掛かってくるパニック映画だ。ストーリーはお決まりで、心の中で何度もツッコミながら、彼は無言でそれを見ている。
暗い部屋の中、パソコンの光だけが、彼の眼鏡を、無精ひげをーーまるで微かな明かりに揺れる地底湖のような様でーー照らしていた。
画面の中。
巨大な昆虫は、次々と人を襲っていく。
ある者は手足を引きちぎられ、虚構の赤色に染まっている。作り物にしか見えない人の骨には、ブラブラとゴムのような肉キレがへばりついている。
ある者は卵を産み付けられ、新しい虫の苗床と化していく。
お決まりのベタな展開。
どうしてか、主人公だけは難を逃れる。
主人公は、阿鼻叫喚の渦を裂くようにして駆けていく。
沸き起こる悲鳴、濁流のような混乱。画面の向こう。作り物のパニック。
そんな、虚構の世界の悲鳴は突如として
−−外から聞こえた。
彼は胡乱げな目を窓にやる。
悲鳴はいくつもいくつも重なって、耳障りな不協和音を奏でている。
車のクラクションの音。
けたたましい銃声には、彼も首をすくめた。
あの窓の外で、何かが起こっている。だが、それは自分とは関わりのない世界での出来事だ。
彼はその部屋から出る気はなかった。
と。
彼は気配を感じる。
それは久しく感じることのなかったもの。だから、感覚の鈍った彼にも気が付くことが出来た。
強烈な違和感。生命の持つ圧迫感というのだろうか。それとも、知性をもつ獣の、存在感だろうか。
何かがこの部屋にいる。
もともとこの部屋にいたのか。
それとも生まれた？
彼は、徐々に高まっていく鼓動の音を感じる。
浅く、速く。呼吸が、途切れがちに進む。自分の呼吸に、誰かの呼吸が重なっている。
ハッ、ハッ。
自分のイヌのような呼吸を、その呼吸は舐っているように思えた。
湿っぽい。自分の吐き出した息が、相手の唇を通って、その肺腑のうちに無残にも凌辱されているようだ。
そんな心持さえする。
唇？ 肺腑？ 彼はその相手を漠然と自分と同じような人間として想定していた。人ではないかもしれない。だが、その肉を伴う気配は、紛れもなく……。
彼は振り向くことが出来ない。
だが、相手は彼を放ってはおかなかった。
彼は、背中に触れた手を感じた。それは女の手だった。
シャツ一枚を隔てて彼を撫でるその指は細く、華奢な印象を覚えた。
冬眠するクマのごとく、ひたすらにこの閉ざされた環境で過ごしていた自分でも、容易く手折れそうな気がする。
だが、まるでひっかくようなその手の動きには、彼の肉の感触を確かめているような、獰猛さを覚える。その細い指に詰まっている骨は、無機質な本能で出来ているようだ。
まるで、昆虫じみたーー。
「！」
彼は声を上げることも出来ずに引きずり倒された。
そこで、彼女と目が合った。情欲に爛れた、虫のような、眼。
「情事……」彼女は一言を呟く。
彼は唇を奪われた。
初めて感じる唇の感触、ぬめる舌が、唇を割り開き、歯の隙間をこじ開け、抵抗することも出来ずに入り込んでくる。
女の匂い。唾液が入り込んでくる。その柔らかさに、暴力的な官能をたたき込んでくる下の動きにーー眩暈がした。
彼女は彼から唇を放した。
名残惜しそうな彼の唇から、よだれが零れている。
ハッ、ハッ、と。
小刻みな呼吸の音がする。彼女は淫らに顔を蕩けさせながらコチラを覗き込んできている。
彼女は人ではなかった。
いや、形は人だ。しかし、その手足は節くれのある甲殻に覆われ、爪がついている。その背中には羽。虫の羽だ。頭には触覚。こんなことを女性に失礼極まりないが、それらのパーツは、ゴキブリを思わせるものだった。
ゴキブリ。自分の部屋の居候。
だが、蠱惑的にほほ笑む彼女の顔は、可愛らしい。パソコンの明かりで、女性の肢体が、部屋の中に浮かび上がっている。艶めかしい肌は上気して、うっすらと汗が浮いている。柔らかそうな肉惑に、感じたことのないほどの強烈な、劣情が想起させられる。
彼女は人ではない。たとえ、ゴキブリを思わせるそのパーツがなかったとしても、その淫靡な有様は、人が持ちえないものだ。それに、本能的な場所で、確信を覚える。
恐怖よりも、欲望がーーズボンをたたく。
「お、お前は……、誰だ」
か細い声。虫の息の方がマシに思える。彼が声を出すのは久しぶりだった。
彼女は彼の声に答えず、その零れた涎を指で掬い取り、その口に運ぶ。
チュパチュパと。
おいしそうに指を舐っている。反対の手は彼女のまたぐらに伸び、別の水音も響いている。
濃度が濃くなっていく。情欲を滾らせた女の視線。
彼はゴクリと生唾を飲み込んだ。
彼女が何者かは分からないが、どうしてか、自分を性的な対象として見ているようだ。彼はその事実に胸が高鳴り、そして漠然とした恐怖を覚えた。人と喋らなくなって久しいというのに、そんな行為に身をゆだねれば、自分はどうなってしまうのか。
彼は再び粘つく唾液を飲み込む。
恐れと期待の入り混じった彼の瞳。彼女は彼の喉元に噛みつく。快感の電流に、小さなうめき声をあげる彼。彼女は彼の唾液を追いかけるかのように、舌を這わせた。
彼は肌を這いまわる淫靡なヒルに、蕩かされる。
「あ、止、め……」
丹念に乳首を舐められ、意識を離れた声が漏れる。
彼女の挑発的な胸が、眼前で揺れている。小振りでも、間違いなく女性のものだ。瑞々しいトマトのような、堕落をもたらすリンゴのような。
彼は我慢が出来なくなって、その肉欲に実った果実に手を伸ばした。やけっぱちな気持ちと、彼女の欲望に、自分も誘われてしまったのだ。虫の爪じみた覆いを外すのも、果実のヘタをはがすのに似ていた。彼女は彼の行為をとがめることはなく、彼女も、彼に対する行為を止めない。
彼は、ピンクに剥かれた乳房の先に、むしゃぶりついた。
彼女の口から、歓喜と切なさの混じる吐息が漏れた。彼は気をよくして、ちうちうと、夢中になって、魅惑の果実を吸う。もしも彼女から母乳が出るのなら、きっと舌がひしゃげるほどに甘いだろう。
彼は期待を以て、彼女の乳房を揉みしだく。その果実のみのる根元から。先に向けて。絞り出すように。夢中でーー吸った。揉んだ。捩じった。絞った。
だが、一向に甘美な雫は漏れない。ねだる様に彼女の突起を舌で愛撫する。
官能的な彼女のうめきを、零れる吐息を、自分が、彼女を堪らなくさせているのだと思えて、彼の肉棒はそそりたった。
汚い部屋に、切なく喘ぎながら、女の舌が男の乳首をねぶる。
淫らな水音が、
「くぅんッ！」
女の股にも増えた。
彼は、蜜の在り処を嗅ぎ当てていた。
彼の指は彼女の密壺をねだるように掻いていた。肉の感触。秘裂の中に舌をねじ込みたい。
彼女はたまらず、自らの肉ひだを彼の目に晒し、その口に宛がう。
自分の口は、いつしか彼の肉棒を銜え込み。包皮の間にたまった恥垢を愛おしそうにこそいでいた。彼の口は彼女の蜜壺に押し当てられ、とどまることを知らないその蜜をすすっていた。
彼らの声も、吐息も、桃色に染まっている。
彼女の舌は巧みだった。
彼の微かな反応の変化に見事に適応して、彼の弱い箇所を見つけ出す。カリ裏側、蟻の渡り、肛門も。彼のカウパーか、彼女の唾液か分からないほどに、彼の股間は濡れ、彼女は何度も何度も、彼の一物を自らの可憐な口に頬張り、抽挿した。
一心不乱に彼女の蜜を貪るだけの彼が、先に果てるのは道理だ。
彼は欲望の白濁を、彼女の口内に容赦なく爆発させた。
信じられない快感。金玉ごとズル抜けていくのではないかと思えるほどの衝撃に、彼は汚く暗い部屋の中、満天の星を見た気がした。
「外だ。……外だ。いやに星が明るい」
うわ言のように呟く彼に、彼の子種を飲み干した彼女は跨る。
ペロリと唇を舐める舌には、うっすらと彼の白濁がまとわりついている。捕食者じみた瞳の色に、彼の背筋は震え、それはかれのペニスに、ペニスが宛がわれた彼女のヴァギナに、伝わる。
自らの肉棒が、彼女の蜜壺に分け入っていく様を彼は、夜空に向けてロケットが飛んでいくように見えた。快楽の宇宙に飛び出してしまえば、自分はもう戻っては来られないのだと、漠然と思う。
そして、その先が彼女の中で暴発しても、彼に非はない。
ぐちゅん、と。
何かが破れる感触。彼女の体を、快感と、痛みが、爆風のように炸裂する。
彼は絞り出される感覚に、堪らず吐き出し、堪らず腰をふった。
「あ、っ、はっ、はッ」
もう、どちらの声か、匂いか、息か、
わからない。
混ざり合って、溶け合って、ただ、気持ちよさだけに身をゆだねる。
外のことなど知ったことではない。
ただ、彼女を貪りたい。
貪りつくしたい。
彼は、もう、それ以外は忘れてしまった。
◆
街は騒然としていた。
人々は彼女たちから逃げていた。
彼女たちは地を駆ける。
その速度から逃げおおせることは出来ない。
彼女たちは空を飛ぶ。
その無慈悲な降下は、誰も彼をも逃さない。
彼女たちは這入り込む。
人々がどこに隠れようとも見つけ出す。
魔法もなく、幻想もなく、
科学を信奉し、物理のみがルールだと思っていた、
この地球という環境に住んでいた人々は、
その土台を根底から覆された。
その町に巣食っていたゴキブリの全てが、
ーーデビルバグという魔物娘と化していた。
「じ、じょじ、情事、じょう、情事、じょ」
彼女たちの艶やかな唇からは、羽音じみた音が流れている。その中で聞き取れる単語は、かろうじて一つ。
情事。
しかし、彼らはゴキブリだ。人とそのような行いが出来るわけがない。
否、否否否ーーー。
それが出来るのだ。彼女たちは、人々から蛇蝎のごとく、悪鬼羅刹のごとく、それこそ、モンスターのごとく恐れ、忌み嫌われた、真黒の虫ではない。
人を求め、人と交わることを求めたデビルバグ。魔物娘。
魔王の座にサキュバスが付いたことにより、在り方を変えた魔物たち。
彼女たちは、老若男女、有象無象の別なく、全ての人間を狙っていた。
ゴキブリとして、今まで虐げられてきた無念と怨念。
ではない。
情欲に、迸る劣情によって駆り立てられ、人々を狩り勃てていく。
サラリーマンのスーツは破られ、彼女たちは淫靡な微笑みを湛えて彼らに群がっていく。
女性たちも例外ではない。彼女たちは、彼女たちもこのみずからと同じく、性欲のみを貪る虫の道に引きずり込もうとしていた。
いつしか、阿鼻叫喚の響きは、淫惨な宴の狂騒にとってかわられた。
腰を打ちつける音が、粘ついた水音が、そこかしこで上がっている。
誰も彼も、人だったころの尊厳も、理性も打ち捨てて、彼女たちの肢体を味わっている。
そこにいるのは人でも獣でもない。
虫だ。
愛欲、情欲、劣情、淫欲、淫靡、淫乱、淫雑、交合、接合、抽挿。
頭を占めるのは、ただ互いに、気持ちよく、絶頂の彼方に上り詰めること。
キモチイイ。キモチイイ。キモチイイ。
考えることはそれだけで十分だ。
他のものは、塵芥を超えて磨り潰し、排水溝の隙間から流してしまえばよい。
その狂乱の宴は、瞬く間に伝播する。
ゴキブリは熱帯の生き物だ。
その通りだ。だが残念ながら、彼女たちは魔物娘だ。
たらふく精をえた彼女たちにとって、そんなものは些事なことでしかない。
ついに人類は終焉の時を迎える。
あるいは進化だろうか？
彼女たちは、瞬く間に海を越える。
彼女たちは瞬く間に大地を覆う。
震えるように地球を周回する人工衛星は、大地の隅々まで黒が覆い尽くすさまを目にしただろう。しかし、その情報を受け取るべき人類はもういない。
かつてこの地球を統べていた人類は、インキュバスとデビルバグという、虫に成り果てた。
◆
その部屋では、一人の女がへたり込み、呆然とした顔をしていた。
あまりの驚愕に、乱れたローブを直すこともせず、震えていた。
カチカチと、歯を打ち合わせる音がする。
「こ、こんなはずじゃなかったのに……」
青白い己の肌を掻き抱きつつ、彼女はもう取り返しのつかなくなった光景を見ていた。
彼女はリッチだった。
彼女は主神をうち倒し、人口増加に歯止めのきかなくなった図鑑世界の状況を打破するための研究をしていた。
それは、異世界移住計画。
偶然見つけたその世界には魔物娘はおらず、結婚相手としての男も十二分に存在していた。彼女は図鑑世界の住人たちの移住先として、その世界を選んだ。
その世界でも人口増加の問題は出てきていたが、使っていない領域が多かった。
彼らは陸地にしか住んではいない。しかも、火山地帯、氷雪地帯、砂漠地帯。そうした極地には住むことが出来なかった。魔物娘たちならば、その夫たちならばーーその潤沢に存在している海さえーー居住空間として使うことが出来る。
彼女は魔物娘たちが移住する先として、その世界を調べた。
しかし、そこは最適な移住先ではなかった。何故なら、魔力が存在しなかったのだ。
魔力が存在しなければ、【魔】物娘である自分たちは、魔力を欠乏してしまうことになる。それならば夫といつでも魔力を発電していればいいではないか、とも思えるが、相手のいない魔物娘や、相手を探す目的で移住する魔物娘には、そうも言えない。
悩んだ末に彼女が目を付けたのが、ゴキブリだった。
それは厳密に言えば魔物ではない。しかし、魔物のごとく恐れられている存在。
それならば、彼女のお得意とする概念魔法によりーー人の女性を魔物娘に変えるようにーーゴキブリをデビルバグにすることも出来るのではないか。もともと向こうの世界にいる動物であれば、魔物娘になったところで魔力枯渇を起こさない。
そして、彼女たちに、先に夫と作り交わってもらうことにより、図鑑世界の魔物娘が過ごせるような魔力濃度まで高めてもらおう。
彼女はそう考えた。
デビルバグによる地球テラフォーミング計画。
通過作戦名、Ｇ計画。
そのもくろみは、ある意味で成功と言え、ある意味で失敗だった。
確かに、魔力は満ちた。
これならばこちらの魔物娘たちも移住することができる。
だが、ゴキブリの繁殖能力をなめていた。なめきっていた。
適当なところで、魔物娘たちと向こうの世界になだれ込むつもりだったのだが、移住可能な魔力濃度に達するまではまだ時間がかかるだろうと、そのリッチは高をくくっていた。
それがアダとなった。
一か月ほど、寝かせるつもりで放っておいたら、もう手遅れだった。
すでに、男は一人残らずデビルバグにとらえられている。
潤沢な精は彼女たちを砂漠地帯にも、火山地帯にも、氷雪地帯にも適応させることに成功している。向こうのゴキブリに魔力を渡すべきではなかった……。
恐るべし、ゴキブリ。
ただの移住計画として、彼女たちの生育できない海に移り住むことは出来るが、海も彼女たちに占拠されるのも時間の問題かもしれない。
自分の計画で、移住先の世界を滅亡（？）させてしまった。
そもそもの計画もこれで頓挫する。
ひとまず、平和で淫らな世界になっていることは救いだろう。
だが、彼女が黙っていない。
彼女が黙ってはいないのだ。
いくらリッチといえども、たった一人で異世界にここまで干渉することなど出来はしない。
異世界移住計画に協力してくれた、文字通り、万年独身のリリムの婚活を兼ねていたこの計画を、自分の一か月ほったらかしで、おしゃかにしてしまった。
彼女から、どれほど淫惨なお♡し♡お♡き♡をされるか分かったものではない。
聡明でクールなリッチにと言えども、涙目になり、子供のように膝を抱えて震えずにはいられない。だが、逃げなくてはいけない。それこそ、あの異世界にだって。
コンコン。
無情なドアをたたく音。彼女はビクリと肩をすくめる。
骨が軋むような動作でリッチが振り向けば、
開いたドアの隙間から、皿のような眼が、こちらを見つめていたーー。
ビルに、ポツポツと。
誰も気にも留めない。ただの、黒いシミ。
最初にそれに気が付いたのは、目端の利く子供だった。
世界の変化に気が付くのは、まず子供たちだ。
「ママ、あれ何？」
「あれ？ あれってどれ」
「あれだよ。あれ。あそこの黒いやつ」
「んー、汚れじゃない？」
その母親も、大半の大人たちと変わらず、子供は何にでも興味を持ちたがるものだとして、取り合わなかった。−−子供とて、異常を異常として認めることが出来るというのに。
その黒いシミはーーシミではない。
彼らは動いていた。彼らは原始の時代より姿を変えず、人に恐怖をもたらし、人の恐ろしい隣人で居続けた存在。
そのシミは、本当に黴のように、範囲を増やし、数を増やし、その旺盛な繁殖力を以て、この世界を占拠するに至る。
「じ、情事……」
掠れた羽音のようなものが聞こえた。
◆
誰も知らない間に始まった。
知っている者は、それを伝える前に終わっている。
終わりを教えてくれない砂時計。
音もなく、ただ流れていく。
誰も知らない間に終わっている。
知った時は、全てが終わったその後だ。
砂時計はひっくり返すこともできず、ただ、終わっている。
◆
朽木竜也は眼を覚ました。
時刻は午後三時を指している。ここには陽光は入り込まない。この部屋の窓ガラスには、内側からガムテープで目張りがされ、人口の光以外は届かない。
彼は引きこもっていた。それは、五年前だったかも知れないし、六年前だったかもしれない。それがどちらであろうと、どうでもいい。今日だって、外に出るという選択肢は、頭の片隅にだって存在しない。
彼はドアを少しだけ開けて、ラップをかけた食事を内側に引き入れる。
冷え切った米粒にももはや慣れた。作業のように食料を口に運んでいる最中、彼はふと膝にむず痒い感触を覚えた。
ーーゴキブリだった。
普通ならば、大の男でも怖気を感じる生き物を、彼は素手で払っただけ。
この部屋の中には、外の常識（ルール）など入り込まない。
別段、その黒い虫を愛でるような嗜好はもちあわせていない。物言わぬ居候。その程度の認識でしかない。それでも、不愉快な言語をまき散らす人間よりはずっとマシだとは思っていた。
彼はパソコンのＤＶＤプレイヤーを起動させる。何時手に入れたかもわからない、Ｂ級映画。昆虫が巨大化して、人間に襲い掛かってくるパニック映画だ。ストーリーはお決まりで、心の中で何度もツッコミながら、彼は無言でそれを見ている。
暗い部屋の中、パソコンの光だけが、彼の眼鏡を、無精ひげをーーまるで微かな明かりに揺れる地底湖のような様でーー照らしていた。
画面の中。
巨大な昆虫は、次々と人を襲っていく。
ある者は手足を引きちぎられ、虚構の赤色に染まっている。作り物にしか見えない人の骨には、ブラブラとゴムのような肉キレがへばりついている。
ある者は卵を産み付けられ、新しい虫の苗床と化していく。
お決まりのベタな展開。
どうしてか、主人公だけは難を逃れる。
主人公は、阿鼻叫喚の渦を裂くようにして駆けていく。
沸き起こる悲鳴、濁流のような混乱。画面の向こう。作り物のパニック。
そんな、虚構の世界の悲鳴は突如として
−−外から聞こえた。
彼は胡乱げな目を窓にやる。
悲鳴はいくつもいくつも重なって、耳障りな不協和音を奏でている。
車のクラクションの音。
けたたましい銃声には、彼も首をすくめた。
あの窓の外で、何かが起こっている。だが、それは自分とは関わりのない世界での出来事だ。
彼はその部屋から出る気はなかった。
と。
彼は気配を感じる。
それは久しく感じることのなかったもの。だから、感覚の鈍った彼にも気が付くことが出来た。
強烈な違和感。生命の持つ圧迫感というのだろうか。それとも、知性をもつ獣の、存在感だろうか。
何かがこの部屋にいる。
もともとこの部屋にいたのか。
それとも生まれた？
彼は、徐々に高まっていく鼓動の音を感じる。
浅く、速く。呼吸が、途切れがちに進む。自分の呼吸に、誰かの呼吸が重なっている。
ハッ、ハッ。
自分のイヌのような呼吸を、その呼吸は舐っているように思えた。
湿っぽい。自分の吐き出した息が、相手の唇を通って、その肺腑のうちに無残にも凌辱されているようだ。
そんな心持さえする。
唇？ 肺腑？ 彼はその相手を漠然と自分と同じような人間として想定していた。人ではないかもしれない。だが、その肉を伴う気配は、紛れもなく……。
彼は振り向くことが出来ない。
だが、相手は彼を放ってはおかなかった。
彼は、背中に触れた手を感じた。それは女の手だった。
シャツ一枚を隔てて彼を撫でるその指は細く、華奢な印象を覚えた。
冬眠するクマのごとく、ひたすらにこの閉ざされた環境で過ごしていた自分でも、容易く手折れそうな気がする。
だが、まるでひっかくようなその手の動きには、彼の肉の感触を確かめているような、獰猛さを覚える。その細い指に詰まっている骨は、無機質な本能で出来ているようだ。
まるで、昆虫じみたーー。
「！」
彼は声を上げることも出来ずに引きずり倒された。
そこで、彼女と目が合った。情欲に爛れた、虫のような、眼。
「情事……」彼女は一言を呟く。
彼は唇を奪われた。
初めて感じる唇の感触、ぬめる舌が、唇を割り開き、歯の隙間をこじ開け、抵抗することも出来ずに入り込んでくる。
女の匂い。唾液が入り込んでくる。その柔らかさに、暴力的な官能をたたき込んでくる下の動きにーー眩暈がした。
彼女は彼から唇を放した。
名残惜しそうな彼の唇から、よだれが零れている。
ハッ、ハッ、と。
小刻みな呼吸の音がする。彼女は淫らに顔を蕩けさせながらコチラを覗き込んできている。
彼女は人ではなかった。
いや、形は人だ。しかし、その手足は節くれのある甲殻に覆われ、爪がついている。その背中には羽。虫の羽だ。頭には触覚。こんなことを女性に失礼極まりないが、それらのパーツは、ゴキブリを思わせるものだった。
ゴキブリ。自分の部屋の居候。
だが、蠱惑的にほほ笑む彼女の顔は、可愛らしい。パソコンの明かりで、女性の肢体が、部屋の中に浮かび上がっている。艶めかしい肌は上気して、うっすらと汗が浮いている。柔らかそうな肉惑に、感じたことのないほどの強烈な、劣情が想起させられる。
彼女は人ではない。たとえ、ゴキブリを思わせるそのパーツがなかったとしても、その淫靡な有様は、人が持ちえないものだ。それに、本能的な場所で、確信を覚える。
恐怖よりも、欲望がーーズボンをたたく。
「お、お前は……、誰だ」
か細い声。虫の息の方がマシに思える。彼が声を出すのは久しぶりだった。
彼女は彼の声に答えず、その零れた涎を指で掬い取り、その口に運ぶ。
チュパチュパと。
おいしそうに指を舐っている。反対の手は彼女のまたぐらに伸び、別の水音も響いている。
濃度が濃くなっていく。情欲を滾らせた女の視線。
彼はゴクリと生唾を飲み込んだ。
彼女が何者かは分からないが、どうしてか、自分を性的な対象として見ているようだ。彼はその事実に胸が高鳴り、そして漠然とした恐怖を覚えた。人と喋らなくなって久しいというのに、そんな行為に身をゆだねれば、自分はどうなってしまうのか。
彼は再び粘つく唾液を飲み込む。
恐れと期待の入り混じった彼の瞳。彼女は彼の喉元に噛みつく。快感の電流に、小さなうめき声をあげる彼。彼女は彼の唾液を追いかけるかのように、舌を這わせた。
彼は肌を這いまわる淫靡なヒルに、蕩かされる。
「あ、止、め……」
丹念に乳首を舐められ、意識を離れた声が漏れる。
彼女の挑発的な胸が、眼前で揺れている。小振りでも、間違いなく女性のものだ。瑞々しいトマトのような、堕落をもたらすリンゴのような。
彼は我慢が出来なくなって、その肉欲に実った果実に手を伸ばした。やけっぱちな気持ちと、彼女の欲望に、自分も誘われてしまったのだ。虫の爪じみた覆いを外すのも、果実のヘタをはがすのに似ていた。彼女は彼の行為をとがめることはなく、彼女も、彼に対する行為を止めない。
彼は、ピンクに剥かれた乳房の先に、むしゃぶりついた。
彼女の口から、歓喜と切なさの混じる吐息が漏れた。彼は気をよくして、ちうちうと、夢中になって、魅惑の果実を吸う。もしも彼女から母乳が出るのなら、きっと舌がひしゃげるほどに甘いだろう。
彼は期待を以て、彼女の乳房を揉みしだく。その果実のみのる根元から。先に向けて。絞り出すように。夢中でーー吸った。揉んだ。捩じった。絞った。
だが、一向に甘美な雫は漏れない。ねだる様に彼女の突起を舌で愛撫する。
官能的な彼女のうめきを、零れる吐息を、自分が、彼女を堪らなくさせているのだと思えて、彼の肉棒はそそりたった。
汚い部屋に、切なく喘ぎながら、女の舌が男の乳首をねぶる。
淫らな水音が、
「くぅんッ！」
女の股にも増えた。
彼は、蜜の在り処を嗅ぎ当てていた。
彼の指は彼女の密壺をねだるように掻いていた。肉の感触。秘裂の中に舌をねじ込みたい。
彼女はたまらず、自らの肉ひだを彼の目に晒し、その口に宛がう。
自分の口は、いつしか彼の肉棒を銜え込み。包皮の間にたまった恥垢を愛おしそうにこそいでいた。彼の口は彼女の蜜壺に押し当てられ、とどまることを知らないその蜜をすすっていた。
彼らの声も、吐息も、桃色に染まっている。
彼女の舌は巧みだった。
彼の微かな反応の変化に見事に適応して、彼の弱い箇所を見つけ出す。カリ裏側、蟻の渡り、肛門も。彼のカウパーか、彼女の唾液か分からないほどに、彼の股間は濡れ、彼女は何度も何度も、彼の一物を自らの可憐な口に頬張り、抽挿した。
一心不乱に彼女の蜜を貪るだけの彼が、先に果てるのは道理だ。
彼は欲望の白濁を、彼女の口内に容赦なく爆発させた。
信じられない快感。金玉ごとズル抜けていくのではないかと思えるほどの衝撃に、彼は汚く暗い部屋の中、満天の星を見た気がした。
「外だ。……外だ。いやに星が明るい」
うわ言のように呟く彼に、彼の子種を飲み干した彼女は跨る。
ペロリと唇を舐める舌には、うっすらと彼の白濁がまとわりついている。捕食者じみた瞳の色に、彼の背筋は震え、それはかれのペニスに、ペニスが宛がわれた彼女のヴァギナに、伝わる。
自らの肉棒が、彼女の蜜壺に分け入っていく様を彼は、夜空に向けてロケットが飛んでいくように見えた。快楽の宇宙に飛び出してしまえば、自分はもう戻っては来られないのだと、漠然と思う。
そして、その先が彼女の中で暴発しても、彼に非はない。
ぐちゅん、と。
何かが破れる感触。彼女の体を、快感と、痛みが、爆風のように炸裂する。
彼は絞り出される感覚に、堪らず吐き出し、堪らず腰をふった。
「あ、っ、はっ、はッ」
もう、どちらの声か、匂いか、息か、
わからない。
混ざり合って、溶け合って、ただ、気持ちよさだけに身をゆだねる。
外のことなど知ったことではない。
ただ、彼女を貪りたい。
貪りつくしたい。
彼は、もう、それ以外は忘れてしまった。
◆
街は騒然としていた。
人々は彼女たちから逃げていた。
彼女たちは地を駆ける。
その速度から逃げおおせることは出来ない。
彼女たちは空を飛ぶ。
その無慈悲な降下は、誰も彼をも逃さない。
彼女たちは這入り込む。
人々がどこに隠れようとも見つけ出す。
魔法もなく、幻想もなく、
科学を信奉し、物理のみがルールだと思っていた、
この地球という環境に住んでいた人々は、
その土台を根底から覆された。
その町に巣食っていたゴキブリの全てが、
ーーデビルバグという魔物娘と化していた。
「じ、じょじ、情事、じょう、情事、じょ」
彼女たちの艶やかな唇からは、羽音じみた音が流れている。その中で聞き取れる単語は、かろうじて一つ。
情事。
しかし、彼らはゴキブリだ。人とそのような行いが出来るわけがない。
否、否否否ーーー。
それが出来るのだ。彼女たちは、人々から蛇蝎のごとく、悪鬼羅刹のごとく、それこそ、モンスターのごとく恐れ、忌み嫌われた、真黒の虫ではない。
人を求め、人と交わることを求めたデビルバグ。魔物娘。
魔王の座にサキュバスが付いたことにより、在り方を変えた魔物たち。
彼女たちは、老若男女、有象無象の別なく、全ての人間を狙っていた。
ゴキブリとして、今まで虐げられてきた無念と怨念。
ではない。
情欲に、迸る劣情によって駆り立てられ、人々を狩り勃てていく。
サラリーマンのスーツは破られ、彼女たちは淫靡な微笑みを湛えて彼らに群がっていく。
女性たちも例外ではない。彼女たちは、彼女たちもこのみずからと同じく、性欲のみを貪る虫の道に引きずり込もうとしていた。
いつしか、阿鼻叫喚の響きは、淫惨な宴の狂騒にとってかわられた。
腰を打ちつける音が、粘ついた水音が、そこかしこで上がっている。
誰も彼も、人だったころの尊厳も、理性も打ち捨てて、彼女たちの肢体を味わっている。
そこにいるのは人でも獣でもない。
虫だ。
愛欲、情欲、劣情、淫欲、淫靡、淫乱、淫雑、交合、接合、抽挿。
頭を占めるのは、ただ互いに、気持ちよく、絶頂の彼方に上り詰めること。
キモチイイ。キモチイイ。キモチイイ。
考えることはそれだけで十分だ。
他のものは、塵芥を超えて磨り潰し、排水溝の隙間から流してしまえばよい。
その狂乱の宴は、瞬く間に伝播する。
ゴキブリは熱帯の生き物だ。
その通りだ。だが残念ながら、彼女たちは魔物娘だ。
たらふく精をえた彼女たちにとって、そんなものは些事なことでしかない。
ついに人類は終焉の時を迎える。
あるいは進化だろうか？
彼女たちは、瞬く間に海を越える。
彼女たちは瞬く間に大地を覆う。
震えるように地球を周回する人工衛星は、大地の隅々まで黒が覆い尽くすさまを目にしただろう。しかし、その情報を受け取るべき人類はもういない。
かつてこの地球を統べていた人類は、インキュバスとデビルバグという、虫に成り果てた。
◆
その部屋では、一人の女がへたり込み、呆然とした顔をしていた。
あまりの驚愕に、乱れたローブを直すこともせず、震えていた。
カチカチと、歯を打ち合わせる音がする。
「こ、こんなはずじゃなかったのに……」
青白い己の肌を掻き抱きつつ、彼女はもう取り返しのつかなくなった光景を見ていた。
彼女はリッチだった。
彼女は主神をうち倒し、人口増加に歯止めのきかなくなった図鑑世界の状況を打破するための研究をしていた。
それは、異世界移住計画。
偶然見つけたその世界には魔物娘はおらず、結婚相手としての男も十二分に存在していた。彼女は図鑑世界の住人たちの移住先として、その世界を選んだ。
その世界でも人口増加の問題は出てきていたが、使っていない領域が多かった。
彼らは陸地にしか住んではいない。しかも、火山地帯、氷雪地帯、砂漠地帯。そうした極地には住むことが出来なかった。魔物娘たちならば、その夫たちならばーーその潤沢に存在している海さえーー居住空間として使うことが出来る。
彼女は魔物娘たちが移住する先として、その世界を調べた。
しかし、そこは最適な移住先ではなかった。何故なら、魔力が存在しなかったのだ。
魔力が存在しなければ、【魔】物娘である自分たちは、魔力を欠乏してしまうことになる。それならば夫といつでも魔力を発電していればいいではないか、とも思えるが、相手のいない魔物娘や、相手を探す目的で移住する魔物娘には、そうも言えない。
悩んだ末に彼女が目を付けたのが、ゴキブリだった。
それは厳密に言えば魔物ではない。しかし、魔物のごとく恐れられている存在。
それならば、彼女のお得意とする概念魔法によりーー人の女性を魔物娘に変えるようにーーゴキブリをデビルバグにすることも出来るのではないか。もともと向こうの世界にいる動物であれば、魔物娘になったところで魔力枯渇を起こさない。
そして、彼女たちに、先に夫と作り交わってもらうことにより、図鑑世界の魔物娘が過ごせるような魔力濃度まで高めてもらおう。
彼女はそう考えた。
デビルバグによる地球テラフォーミング計画。
通過作戦名、Ｇ計画。
そのもくろみは、ある意味で成功と言え、ある意味で失敗だった。
確かに、魔力は満ちた。
これならばこちらの魔物娘たちも移住することができる。
だが、ゴキブリの繁殖能力をなめていた。なめきっていた。
適当なところで、魔物娘たちと向こうの世界になだれ込むつもりだったのだが、移住可能な魔力濃度に達するまではまだ時間がかかるだろうと、そのリッチは高をくくっていた。
それがアダとなった。
一か月ほど、寝かせるつもりで放っておいたら、もう手遅れだった。
すでに、男は一人残らずデビルバグにとらえられている。
潤沢な精は彼女たちを砂漠地帯にも、火山地帯にも、氷雪地帯にも適応させることに成功している。向こうのゴキブリに魔力を渡すべきではなかった……。
恐るべし、ゴキブリ。
ただの移住計画として、彼女たちの生育できない海に移り住むことは出来るが、海も彼女たちに占拠されるのも時間の問題かもしれない。
自分の計画で、移住先の世界を滅亡（？）させてしまった。
そもそもの計画もこれで頓挫する。
ひとまず、平和で淫らな世界になっていることは救いだろう。
だが、彼女が黙っていない。
彼女が黙ってはいないのだ。
いくらリッチといえども、たった一人で異世界にここまで干渉することなど出来はしない。
異世界移住計画に協力してくれた、文字通り、万年独身のリリムの婚活を兼ねていたこの計画を、自分の一か月ほったらかしで、おしゃかにしてしまった。
彼女から、どれほど淫惨なお♡し♡お♡き♡をされるか分かったものではない。
聡明でクールなリッチにと言えども、涙目になり、子供のように膝を抱えて震えずにはいられない。だが、逃げなくてはいけない。それこそ、あの異世界にだって。
コンコン。
無情なドアをたたく音。彼女はビクリと肩をすくめる。
骨が軋むような動作でリッチが振り向けば、
開いたドアの隙間から、皿のような眼が、こちらを見つめていたーー。
17/04/28 17:20更新 / ルピナス