連載小説
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その1
 
 ―自分の人生を振り返る機会っていうのは誰しも一度はあるものだろう。
 
 私にとってそれはつい一ヶ月前に起こった両親の死であった。しかし、それは仲が良かった両親が死んだからなどではない。別に強いて言うほど親子仲が冷め切っていた訳ではなかったが、特筆するほど仲が良かった訳ではなかった。両親の死がショックでなかったと言えば、嘘になってしまうが、それそのものは私が人生を見つめ直すきっかけにはなり得なかったのである。
 
 ―端的に言えば私は両親を同類だと思っていたのだ。
 
 私――レイド・ノスタグルは所謂、真面目型人間だ。神学校に在籍していた時代は夜遅くまで図書館へと入り浸り、家に帰ってからも勉学に励む。遊びなんて低俗なものに興じたのは私が本当に小さかった頃だけであろう。青春と言われる時代を勉学に費やした事自体は決して後悔はしていない。お陰で国に取り上げられ、役人として活躍する事が出来ているのだから。
 
 ―だけど、その反動で私は友達、というものは一人もいなかった。
 
 勿論、子ども故に低俗さに目を惹かれる子ども時代ではそのようなものもいたのだろう。しかし、物心つき、勉学へと打ち込むようになった後には私に友達と言える存在は誰一人としていなかった。神学校に入れるのは中層階級以上ではあったが、真剣に勉学に励む私をガリ勉だと馬鹿にする頭のネジが吹っ飛んだ連中しかいなかったのである。
 
 ―そんな連中と私が仲良くなど出来るはずがない。
 
 自分の知識を深められる喜びを見出し、神学校を勉強する場と考える私と遊ぶ事しか考えず、神学校は卒業する場としか考えない有象無象。まったく価値観の異なる二つの立場は人間と魔物にも置き換えられるかもしれない。少なくとも私は自分を揶揄する馬鹿どもを天敵であると考えていたし、決して相いれぬ存在であると思っていたのだ。
 
 ―…少し話が逸れたが、つまり私は友達のいない人間…所謂ぼっちと言う奴なのだ。
 
 自然、私は両親も同じ存在であると考えていた。父は私の生き写しのように真面目さしか取り柄がない役人であったし、母はそんな父と家族を支えることに喜びを見出すタイプの人間だったのだから。きっと父も私と同じようにその真面目さからその職場で疎まれ、母にもまた話し相手は居ても友達と言えるような相手はいないのだろう。特に確認してはいなかったが、私はそう思い込んでいたのだ。
 
 ―けれど、実際は違った。
 
 父と母の葬儀の際、そこには50人を超える人々が集まった。勿論、その中には父の職場の同僚も少なからず含まれている。だが、その大半は私の見知らぬ…父母の友人を名乗る人々だったのだ。しかも、彼らは皆、真剣に両親の死を悲しみ、私を励ましてくれたのである。それに私は感動し、普段は流さない涙を流して皆に感謝した。
 
 ―…その一方で私は自分の生き方に危機感を持った。
 
 まったく似た存在であろうと思っていた両親が思いの外、多くの人々に慕われていた。それは私にとって人生観を見直すにたる衝撃であったのである。勿論、私は自分の生き方に後悔した事はないし、これからもするつもりはない。だが、それは父にも母という理解者がいるという前提の上に立っていた事に私はようやく気づいたのだ。
 
 ―そして、私にはその理解者がいない。
 
 いや、それどころか神学校での経験で刺々しい態度を取る癖がついてしまった私は職場ですら孤立していた。それなりの立場にいるので業務上の会話はするが、それだけである。同僚たちが何処かで羽を伸ばそうと話している時には私は誘われないし、誘われたとしてもずっと断ってきた。そんな事をするよりも自分の知識を深める事の方が国の為であり、自分の為だろうと説教までしていたのである。
 
 ―しかし、そんな自分を省みたとしても…もう遅い。
 
 20代の半ばを超えて数年経った私が今更、職場の同僚と馴れ馴れしく話せる訳がない。もうそんな事が不可能なほどに溝が出来てしまったし、コミュニケーション能力とやらが足りない私に溝を飛び越える能力も度胸もないのだ。今まで自分が伸ばしてきた能力とはまったく対極に位置するものなのだから当然だろう。だが、自分を省みたにも関わらず、それを改善する手段がないというのは私にとっては大きな壁であり、初めての挫折であった。
 
 ―それを乗り越えようと私は数多くの書物を読みふけった。
 
 まず今まで私が主な読書の対象としてきた学術書だ。しかし、冷静に考えれば、誰が友達を作る方法などをテーマに学術書を書くだろうか。魔術の構成理論や正義という概念について深い考察をしている学者は居ても、友達と言う身近なテーマに関して深く掘り下げている学者は少なくともこの国にはいなかったのだ。
 
 ―だから…私は親魔物領より流れてきた禁制図書にまで手を出した。
 
 勿論、法を破るそれは国に仕える役人としては最低の行為であろう。だが、これまで友達というものを作って来なかった私には相談出来る相手などおらず、これまで通り本に頼るしかなかったのだ。そして、参考に出来る本は自分の国にはない以上、他の国――特に印刷技術が発展した親魔物領から取り入れるしかない。それが罪であるという意識はあったものの、私はそんな事に構っていられないほどに危機感を持ち、改善しなければいけないと思っていたのだ。
 
 ―そして…私は…友達を作る方法を見つけた。
 
 それを実行する為に私は今、この国の王都に来ていた。地方の小さな町で小役人として過ごす私にとって、王都とはまさしく花の都だ。丁寧に積み上げられた赤茶色のレンガは美しく、住宅地一つ歩いているだけでそれなりに楽しめる。中央通りは盛んに客引きをしていて、果実やジャンクフードを販売していた。しかも、その活気は昼過ぎになっても尚、下火になる気配がない。いや、寧ろ地方から新鮮な魚や野菜が届く王都では、昼過ぎから夕食の材料を買いに出てくる主婦の気を引かなければいけないのだろう。盛んに賑わい、道行くことも困難であった事に強い驚きを抱いたのを覚えている。
 
 ―しかし、それだけ人が多く、活気があればこそ私は王都を選んだのだ。
 
 この場所であれば私の計画が実行に移せる。そう覚悟を決めながら、私は夕方の噴水広場に足を踏み入れた。馬車の為かしっかりと舗装された広場には露店が幾つか並び、備え付けられたベンチで幾人かが食事をしている。街の中央にあるこの噴水広場はそれ以外の人も多く、通り抜ける人影も幾らか見えた。
 
 ―特にその中で目立つのは制服を来た生徒たちだ。
 
 この噴水広場の近くには貴族の子女も通う王立の学院が存在する。そこに在籍するのが一種のステータスにもなっている学院であれば、私ともそれなりに話が合うはずだ。例え、話が合わなかったとしても、溝が出来てしまった職場の同僚たちよりも初対面の子らの方が幾らか話しやすいはずである。
 
 ―まずはそれで経験値を稼いで…!
 
 今まで私に不足していたコミュニケーション能力を鍛える。その後、故郷に帰って改めて友人というものを作れば良い。勿論、今までやらなかった事をするのだから失敗はあるだろう。しかし、人が多いこの街で私という個性はきっと埋没する。笑い話にはあがるかもしれないが、それもきっと数日も経てば忘れ去らえるだろう。例え忘れ去られなくとも、遠く離れた王都での失敗は私の故郷には届かない。だからこそ、私はわざわざ今まで使わなかった長期休暇を全て突っ込んで王都までやって来たのだ。
 
 ―…しかし、やけにジロジロと見られる気がするな。
 
 王都に到着した時にはこんな風に見られた事はなかった。いや、目的を達成するために王都の下調べをしていたこの一週間も、チラチラと視線が突き刺さるのを感じたことはない。本来の目的通り私は埋没する一個人として扱われていたのである。なのに、どうして今日だけこんなにも見られてしまうのか。それが分からず、私は美しい造形の噴水の前で人知れず、首を捻った。
 
 ―…まぁ、良いか。考えても仕方のない事だ。
 
 昨日と今日で私に何か差異があるとすればその服装くらいなものだ。しかし、それはあくまで常識の範囲内の話である。これが原因であるとは到底、思えない。ならば、ココでウジウジと考え事をしていても意味はない。それよりも今は行動するべきだろう。そう結論付けた私の視界に茶色の髪をお下げにした女の子二人組が映った。
 
 ―ふむ…あの子たちであれば…。
 
 あまり人のことを外見で判断するのは良くないが、見るからに声をかけられ慣れてないタイプだ。私が参考にした本にもあのように自発的に動かなさそうなタイプは異性側から声を掛けられると嬉しいと記述されている。勿論、それを鵜呑みにする訳ではないが、大人しそうなあの子たちであれば不慣れな私をあからさまに侮蔑する事はないだろう。そう判断して、私は学院側から帰宅しようとしているであろう二人に近づいた。
 
 ―そんな私にチラチラと二人は視線をくれる。
 
 唐突に近づいてくる私が怖いのか、それとも意識してくれているのか。後者であれば良いと思う私の心臓はドクドクとうるさいほどに高鳴っていた。やはりこの年になるまでまったく経験していない事をやろうとするのはとても緊張する。だが、ここで足を止めていてはわざわざ長期休暇を取った意味が無い。そう自分に言い聞かせながら、私は彼女たちの前へと立った。
 
 「ヘーイ。彼女ぉ。これから暇やったら、茶ぁでもしばかへん?」
 「……」
 「……」
 
 そうフレンドリーに声を掛けた私を見ないように二人組はそそくさを私の脇を通りすぎて行ってしまった。どうやら私は台詞の選択に失敗してしまったらしい。参考図書ではジパングでは一般的な誘い文句との事であったが、どうやら彼女たちは知らなかったようだ。自分の博識ぶりをひけらかそうとして失敗してしまうのは恥ずかしいが、この失敗を次に活かせば良い。そう自分に言い聞かせた私に今度は別の女の子が現れて……――
 
 ―それから一時間ほど粘ったが誰一人としてマトモに私と会話してくれる人はいなかった。
 
 いや、そもそも十数組の女の子たちに声を掛けたが、私と視線を合わせてくれる子の方が少数派であった。僅かに居たその少数派も決して能動的に視線を合わせてくれた訳ではなく、呆然と私の姿を見ると言ったような様子だったのである。だが、それはまだ良い方だ。私を指さして声をあげて笑い、馬鹿にしながら去っていった子もいるのだから。
 
 ―…何がいけなかったんだ?
 
 アレから誘い文句には色々と変化をつけてみた。恭しく誘うような紳士な言葉から、男らしく引っ張っていくような言葉まで。参考図書に「男性に言われると嬉しい誘い文句」として載っていた全てを私は使ったのである。しかし、その全ては誰の喫線にも触れなかったらしい。結果、私はコミュニケーション能力を鍛えるどころの話ではなく、赤っ恥を掻いただけであった。
 
 ―これから…どうすれば良いんだ…。
 
 夕暮れで赤く染まった噴水の縁に腰を下ろしながら、私は胸中でそう呟いた。勿論、私だって今日一日でグングンとコミュニケーション能力を伸ばして友人を作れる…だなんて思っていた訳ではない。しかし、会話一つ成り立たなかったと言うことは指針として頼りにした本がまったく使い物にならないという事なのだろう。決して安くはないお金を出して手に入れたにも関わらず、役立たなかったというのに腹が立たない訳ではないが、それ以上に先行きの暗さに頭を抱えたくなってしまうのだ。
 
 「はぁ…ホント、どうしたものか…」
 「何がだい?」
 
 ―…え?
 
 唐突に聞こえてきた声に顔を上げると私を覗き込むように立つ女性と目が合う。その瞬間、私の胸が大きく高鳴り、身体が熱くなっていく。特に酷いのは顔だ。まるで風邪でも引いたかのように頬が火照ってしまう。だが、それは決して風邪などではないのは私にも良く分かる。
 
 ―だって、私の瞳は魅入られたように彼女から動かないのだから。
 
 そこに立っていたのは信じられないほどの美人だった。愛らしさと美しさ、そして少女らしさと女性らしさを同居させる顔つきはまるで歴史に名を残す彫像のようである。男性が理想とするあらゆる女性像を混ぜ込み、練り上げたようなその顔は生きているとは到底、思えない。しかし、大理石のような白亜の肌に引かれた真紅の唇が動く度に、彼女が彫像でも何でもなく生きているのであると感じさせられる。
 
 ―その髪が風に揺らいで流れていく姿もまた私の目を惹きつける。
 
 頭頂部で二つのお下げを作る髪型――確か雑誌ではツインテールと表現されていた――に纏められる髪は深い藍色をしていた。何処までも引き込まれるような独特の色合いは夕暮れすらも吸収しているかのように艶がない。だが、その髪がとても念入りに手入れをされ、柔らかいのは風に靡く姿一つで良く分かる。枝毛一つ出ない美しい髪は思わず手を伸ばしたくなるような魅力を持っていた。
 
 ―だけど、彼女が美しいのはそれだけではない。
 
 その身体もまた女性らしい丸みを帯びているのだ。特に胸元やお尻は市販品らしい緑色のセーター越しでもはっきりとその存在が確認できるほど大きい。だが、彼女の身体はただ肉付きが良いだけではない。肩などは抱きしめれば折れてしまいそうなほど華奢であるし、その腰もまたきゅっと引き締まっている。きっと抱きしめればとてつもなく抱き心地が良いだろう。そんな経験のない私にさえ、そんな事を思わせるほどに彼女のスタイルは美しかった。
 
 「もう。いきなり話しかけたのは悪いけど、少しはボクに返事をしてくれても良いんじゃない?」
 「あ…う…」
 
 そんな見たこともないくらいに美しい彼女が私に視線を合わせるようにそっと両膝を折った。より近づいた彼女の顔に私の胸が痛いほどに高鳴る。だが、それ以上に辛いのはこうして接近する事でその体臭が私へと漂ってくる事だ。花の蜜を思わせる上品で甘い香りに思わず身を委ねてしまいそうになる。
 
 ―お、落ち着け私…!!!
 
 確かに彼女は生まれてこの方、ずっと異性に興味を惹かれたことのない私でもクラリと来てしまうほどの美人だ。しかも、その体臭は甘く、夢見心地にさせられるようである。しかし、それ以上に私に話しかけてきてくれた数少ない女性なのだ。折角、自分を鍛えられる機会が相手の方からやってきてくれたのだから、この機会は決して逃してはいけない。
 
 「あ、あの…わ、私は…」
 「うんうん」
 
 そう自分に言い聞かせながらも私の言葉はどうしてもどもってしまう。ついさっきまで女の子に話しかけていた時にはまったくどもりはしなかったというのにどういう事なのだろうか。その疑問が焦りを生み、また次のどもりへと繋がってしまう。何百人もの前に立った時でさえ感じなかった極度の緊張が引き起こす悪循環。それに私は困惑し、突っ掛かりながらも言葉を紡いでいった。
 
 ―そんな出来の悪い私の話を彼女は大人しく聞いていてくれる。
 
 討論の講義であれば間違いなく赤点を取ってしまうであろうほどの拙い自己主張。だが、そんな私の言葉に彼女は大人しく付き合ってくれる。その内、日が暮れて辺りを夜になり、広場から人気が消えても彼女は一瞬たりとて気分が悪そうな顔を見せない。それに普段、他人と会話しない私はあっという間にのめり込み、事情を説明するのに不必要な事――両親の死――までもを話してしまった。
 
 「なるほど…」
 
 そんな私の話が終わった後、彼女は神妙な顔をしながら一言だけそう呟いた。その顔には両親と死別した私への同情が微かに見える。やはりそこまで話すべきではなかったのだろう。それでも話してしまったのはきっと私にコミュニケーション能力とやらが無い所為で人との距離感が掴めなかったからである。そんな自分に自嘲を浮かばせながら、私は彼女の言葉を待ち続けた。
 
 「つまり…君がこうして思い悩んでいるのもナンパが成功しなかったからなんだね」
 「…あぁ。まったくその通りだ」
 
 私の下らない話をそぎ落とし、シンプルに纏めた彼女の言葉に私は同意の言葉を返した。それはさっきまでとは違い、幾分、どもりがマシなものになっている。長々と下らない話をしたお陰で少しは彼女の美しさに対する耐性がついたのだろう。そう考えれば一見、無駄に思えるものでも、長期的に見れば無駄にならないのかもしれない。
 
 「…ふむ」
 
 そんな事を考える私の目の前で彼女は物憂いそうに唇の前へ手を置いた。元が飛び抜けて美しいからかそんな姿でも絵になる。寧ろ何処か非現実的な彼女の美しさが際立ち、幻想的とも言える雰囲気を作り上げていた。まるで物語のワンシーンへと迷いこんだようなその雰囲気に私は飲み込まれそうになる。
 
 ―だけど、それよりも先に彼女が口を開いて……。
 
 「ナンパ?」
 「あぁ」
 「……その格好で?」
 「…何かおかしいか?」
 
 私の今の格好は参考図書に出てきた「ちょいワル」と言う概念を元にしたものだ。どうやら最近はちょっと不良っぽい雰囲気を持つ人間が流行っているらしい。確かに言われてみれば、神学校時代も所謂、『遊んでいる』男性の方が女性に騒がれていた気がする。勿論、例外はあるだろうがそのような傾向にあるのは私の経験から見ても確かな事だろう。
 
 ―だから、私は出来るだけ悪っぽい格好をしてみたのだ。
 
 動物の皮をなめして作った皮製の鎧を黒く塗って肩には棘をつけてみた。勿論、その下には何も身につけてはいない。変わりに身につけるのは髑髏を象った銀製のアクセサリーだ。あからさまに悪そうな意匠のそれらは私の不良っぽさをあげてくれている。少なくとも自分の姿を鏡で見た時には何処からどう見ても山賊にしか見えなかったのだ。
 
 ―まぁ…少し貧相ではあったが。
 
 今まで勉強に精を出していた男性が筋肉をつけているはずがない。鏡に映る私は山賊の下っ端その2と言ったような風貌だったのだ。このままでは悪っぽさが足りないと思った私は自分の髪を絵の具で黄色一色に塗り替え、糊で思いっきり逆立てたのである。それでもまだ足りないように感じた私は体中にタトゥー……を掘り込むのは怖かったので適当に星のマークなどを絵の具で描いたのだ。
 
 ―お陰で今の私は何処に出しても恥ずかしくないような悪っぷりを発揮しているはずなんだが…。
 
 「おかしくない所を探す方が難しいくらいおかしい。と言うか良く今まで通報されなかったね、君」
 「えっ」
 
 しかし、それは目の前の美女にはダメ出しをされる。最早、お気に召さなかったなどというレベルではなく、純粋に私の心配をされていた。しかし、どうしてそこまで心配されるのかが当の本人である私には分からない。本だけではなく、経験的にもこれが正しいはずなのだが……―
 
 「とりあえずやりすぎなんだよ。それはもうちょい悪とかじゃなくって、普通に引かれちゃうレベルだよ」
 「む…」
 
 優しく言い聞かせるような彼女の言葉に私は反論する言葉を持たなかった。確かに私もやっている最中でそう思わなかった訳ではない。何せ、このようなタイプの人間を街中で見かけた事は一度もなかったのだ。だが、興味を惹かせ、会話を続けるという意味では初対面のインパクトを強めるのが良いのだろう、とも思って納得していたのである。
 
 「もう一つ言えば、君は根本的なところで勘違いをしているよ。あそこで特集されてたのはあくまで魔物娘の側であって、人間の男性じゃない。まぁ、早い話、ちょい悪男性じゃなくてちょい悪女性が男性に人気だって言う意味だよ」
 「言われてみれば……」
 
 確かに挿絵として描かれていたのは皆、際どい格好をいた女性ばかりだったような気がする。しかも、何故か皆、羽や尻尾、ツノなどという不思議なアクセサリーを見につけていた。魔物を模しているような強いインパクトのそれに、ちょい悪とはインパクトを強める事だと理解していたのだが、どうやら私は参考文献の読み込みがたらず、誤解していたらしい。
 
 ―…まぁ、ある意味、仕方ないな。
 
 何せ、私が取り寄せた本はこの国では即禁制になるレベルの性的描写があからさまに書きこまれていたのだ。流行のファッションを説明している所でさえ、性描写や体験談が書きこまれている卑猥な本は刺激が強すぎる。結果として殆ど内容を読み込む事は出来ず、誤解だけが進んでしまったのだろう。
 
 ―……ん?じゃあ、どうしてそんな禁制になるような図書を彼女が知っているんだ?
 
 親魔物領の図書を手に入れるのはすぐさま捕らえられ、法によって処罰されなければいけない重罪である。それを彼女がどれだけ聞き上手であったとしても口走った私は勿論、迂闊だ。しかし、そんな迂闊な私の勘違いを訂正した彼女は…もしかしたら……――
 
 「どうして君はそこまで知っている?」
 「そ、そういう事聞いちゃう…?」
 「…す、すまない…!」
 
 思わず知的好奇心が刺激されて聞いてしまったが、答えられるはずがないだろう。何せそれは彼女が親魔物領の図書を何処かで読んだという証左なのだから。一応、この国では持ち込みだけが禁止されている状態であり、国内に持ち込まなければ罪には問われないが、それでも人々の誤解を招きかねない。何より、隙あらば淫猥な内容を書こうとしているような本を読んだなど、女性として口には出したくはないだろう。
 
 ―まぁ…あまり突付いてもやぶ蛇になりかねんしな。
 
 私だって親魔物領の本を読んでしまっているのだ。その後ろ暗さは彼女とそう変わりはない。突っ込めば突っ込んだ分だけ私自身も不利になってしまうのは確実であろう。ならば、ここは私の知的好奇心よりも彼女と会話し、経験値を積むのを優先するべきだ。
 
 「まぁ、そうだね。君にはボクの弱みを知られちゃったなぁ」
 「…え?あ、いや、別にそんなつもりは…」
 
 そんな風に思考を切り替えた私の前で彼女はそっと首を傾げる。その言葉そのものとは裏腹にその口調は何処か悪戯っぽいものだ。彼女の顔もまた何か悪い事でも思いついたようにニヤついている。さっきの幻想的な雰囲気はそこにはない。等身大の――けれど、目を疑うほどに美しい――一人の女性が楽しそうに笑っているだけだ。
 
 「おや、強請らないのかい?」
 「そこまで私は礼儀知らずでも恩知らずでもない」
 
 彼女曰く通報されないのが不思議なくらいである今の私に話しかけてきて、一時間近くも私の長話に付き合ってくれたのだ。その上、私の誤解を解いてくれた恩人を強請ろうとするほど私は恩知らずでも礼儀知らずでもない。寧ろ、彼女に対する感謝の気持ちが強く、何か自分に出来る事はないだろうかと思っているくらいなのだから。
 
 「ふむ…しかし、初対面の君にそんな事を言われても信用出来ないな」
 「むぅ…」
 
 冗談めいてはいるものの、核心を突いてくる彼女の言葉に私は反論する事が出来なかった。確かに私たちはまだ出会って少ししか経っていない他人同士である。このまま別れてしまえば、きっと二度と出会う事はない二人だ。そんな相手が警備隊へと通報しないとどうして信用出来るだろうか。
 
 ―まぁ、彼女はきっとそんな事はしないだろうが。
 
 何せ彼女は私――噴水の縁に腰掛けて頭を抱えていた見るからに不審者の――に声をかけるほどのお人好しだ。別れた後に通報するくらいであれば、私の格好を見た途端に警備隊へと駆け込んでいた事だろう。それをせずに私へと話しかけてきてくれた時点で彼女を疑う理由は殆ど無い。
 
 ―だが、彼女にとっては別だ。
 
 彼女にとって私はあくまで山賊の格好をした――どうやら親魔物領ではこういうのをコスプレというらしいが――不審者に過ぎないのだ。そんな相手に口封じをしてもおかしくはないレベルの秘密を晒して安寧と暮らしていられるだろうか。無論、危機管理意識の薄いタイプであるならば、それもあるかもしれないが、彼女はどちらかと言えばしっかりしている方に見える。私を「信用出来ない」と言い切ったのが何よりの証拠だ。
 
 ―…でも、どうすれば良い?
 
 私たちはついさっき出会ったばかりの他人同士である。そんな二人の間には信用を保証出来るようなものも、してくれるような相手もいない。哀しいかな私は自分が彼女に感謝しているという安っぽい言葉でしか彼女の信用を得られないのだ。
 
 ―なら…そう言うしかないな。
 
 ここで彼女に嫌われて終わってしまうのはあまりにも辛い。それは別に彼女が美人だからとかそういう理由では――いや、それも少しは含まれているのは否定しきれないが、それだけではないのだ。話し下手な私の話にこんなにも長く付き合ってくれた彼女であれば、もっと私の話し相手になってくれるかもしれない。そうなれば、私はもっとコミュニケーション能力を鍛える事が出来るだろう。その為にも私はここで彼女との縁を終わらせたくはない。
 
 「私は君に感謝を…」
 「だから、口止め料って奴を払わせて貰おうかな」
 「うわ…!」
 
 そう決意して口を開いた私を遮るように彼女は私の手を取った。瞬間、スルリと肌を通り抜けていくような独特の肌さわりが私の身体を走る。最高級のシルクのようにスベスベとした感覚は私と同じ人間だとは到底、思えない。それに胸が高鳴るのを感じた私は思いの外、強い彼女の力に逆らうことが出来ず、無理矢理、立たされてしまう。
 
 「ちょ…口止め料ってどういう!?」
 「うん?それはまぁ、後のお楽しみって奴だよ」
 
 自分の理解の外で話が進んでいる事に私が気づき、困惑の声をあげた時にはもう私は彼女と共に噴水広場から去っていた。そんな私の手を引きながら、彼女は王都の大通りを歩いて行く。城の正面にも繋がるこの街の大動脈だからだろうか。そこは雑多な露店が乱立するような通りではなく、見栄えの良い高級店ばかりが並んでいた。勿論、そこを歩いているのは私のような素人でもすぐさま分かるような高級品を身につけている上流階級ばかりである。
 
 ―そんな所を不審者が歩いているのだからそりゃ視線を集めるだろう。
 
 こちらを向いてヒソヒソと囁き合う貴族風の女性の姿に思わず肩が落ちる。彼女に自分がどれだけ間違っているかを教えられた今、それを好意的に解釈する事はどうあっても不可能だ。決して低くないプライドが傷つき、羞恥心が掻き立てられてしまう。思わずこの場から逃げ出したくなったが、彼女の柔らかい手は優しく私を捕まえていた。
 
 ―勿論、彼女は私を逃すまいと力をこめている訳ではない。
 
 優しくきゅっと手を包み込んでいるだけだ。しかし、その手一つとっても甘美な感覚を伝えてくる彼女からは到底、逃げられる気がしない。羞恥心よりも彼女と手を握っていたいと言う欲望が強く、私は逃げる事さえ出来なかったのだ。
 
 「大丈夫だよ。あんなの君の中身も知らず、外見だけで判断してますよって言う自分の浅慮さをひけらかしてるだけなんだから」
 「なっ!!!」
 
 そんな彼女が堂々と言ってのけた言葉に周りから驚きの声があがった。それと同時に私たち二人へと敵意の視線が突き刺さる。高級店ばかりが立ち並ぶこの通りに用があるのなんて大抵は自尊心の高い上流階級だ。そんな連中をあからさまに馬鹿にした言葉を放ったのだから当然と言えば当然だろう。
 
 「何か?」
 
 だが、四方八方から視線が突き刺さる中、彼女は堂々と胸を張っていた。いや、それどころか敵意や怒りの視線を送る人々に見たこともないような冷たい視線を返している。その視線は私に話しかけてきてくれた彼女と同一人物だとは思えないほどに冷たく、鋭い。まるで戦場で銘打たれた冷たい刃のような視線に人々は敵意や怒りを恐怖へと変えて、散るように去っていった。
 
 「…少しみっともない所を見せたね」
 「いや…そんな事はない」
 
 彼らの姿が見えなくなってから、彼女はポツリと呟いた。だが、先の彼女をみっともないとは私は到底、思えない。何せ、彼女は侮蔑の視線を送られた私のために怒ってくれたのだ。自分の為ではなく、殆ど見ず知らずの私の為に怒りを顕にし、護ってくれたのである。そんな彼女をどうしてみっともないと思えるだろうか。
 
 ―…寧ろ、みっともないのは私の方だ。
 
 侮蔑され、馬鹿にされるのは神学校時代で慣れたはずであった。陰口を叩かれるのなんて日常茶飯事だったはずなのである。しかし、初めて友達が出来そうな雰囲気に内心、浮かれていたのだろう。普段はどうでもないはずの声を気にし、しかも、それに反論する事さえ出来なかった。だからこそ、本来であれば私がやるべき事を彼女にさせてしまったのである。
 
 「それにしても上手いな。あぁ言えば、誰もあそこで君に突っかかる事は出来ない」
 
 ―考えれば考えるほど落ち込んでしまいそうな私はそう話題を切り替えた。
 
 実際、私は彼女の言い回し一つにも感心していたのだ。先に外見だけで判断する事が浅慮であると正論で牽制しているだけに、あそこで彼女に詰め寄る事は出来ない。彼女が言っている事が正論であるだけにそんな事をしてしまえば、自分がその浅慮な人間であると認める事になるからだ。
 
 ―私も見習わなくてはな。
 
 折角、こうして見事なお手本を見せてくれているのだ。私もそれを見習って少しでも自分の糧にしなくてはならない。それが私の最初の目的であるし…何より彼女に対する恩返しの一つにもなるはずだ。
 
 「ふふ…まさかそんな風に褒めてくれるなんてね」
 「…っ!」
 
 そう自分に言い聞かせる私の前で彼女がゆっくりと振り向きながら、笑みの表情を形作った。そっと目を細めるその顔に思わず私の胸がドキッと反応してしまう。彼女の肌は夜空に浮かぶ月を彷彿とさせるだろうか。何処か暖かでありながらも、幻想的なその表情に私は思わず引きこまれてしまう。
 
 「…どうしたんだい?」
 「な、なんでもない」
 
 不思議そうにそう尋ねてくる彼女から視線を背けながら、私は何とかそう返す事が出来た。だが、その声は微かに震えてしまっている。心臓の鼓動も鼓膜を震わせるほどに激しく、妙に落ち着かない。しかし、決して悪い気分ではなく、身体中に暖かいものが広がっていくのが分かった。
 
 「ふむ…さっきもそうだったし、もしかして体調が悪いのかい?それなら無理しなくても…」
 「い、いや、なんでもない!元気だぞ!」
 
 心配そうに私の顔を覗き込んでくる彼女に声を張り上げてそう答えた。確かにかつて聞いたことがないほどに高鳴った心臓の鼓動は不調と言えるかもしれない。しかし、ここで別れてしまってはもう二度と彼女に会えなくなってしまうのだ。それだけは絶対に避けたい。いや、避けなければいけないのである。
 
 「それなら良いんだけど…まぁ、それじゃあ念の為、ここにしようかな」
 「え…?」
 
 そう言って彼女は私の手を再び引っ張り、すぐ脇の店へと入っていった。瞬間、カランカランと鈴が鳴り、私達の来店を店員へと知らせる。その音を聞いてそれなりに大きな家屋ほどの空間から女性の店員が顔を出す。その顔が私を見た瞬間、一瞬、強張ったもののすぐさま営業スマイルへと戻った。
 
 「いらっしゃいませ」
 「彼の服を見繕いたいんだけど、紳士服はあるかな?」
 「えぇ。こちらへどうぞ」
 
 案内する店員に導かれ、彼女は店の一角へと足を踏み入れる。勿論、私は何が起こっているのか分からず、従順に彼女についていくだけだ。そんな私が小さな木製の棚の間を通り抜けた瞬間、私の視界に上等そうな紳士服が入る。棚に並べられている服は言うに及ばず、棚の上に並ぶ木製のマネキンが纏う衣服もかなりの値段がするだろう。
 
 「ありがとう。後、彼の顔を拭きたいからお湯で濡れたタオルでも持ってきてくれないかな?勿論、その分の代金も支払うから」
 「かしこまりました」
 
 彼女の言葉に頭を下げた店員はそのまま特に何も言わないで店の奥へと戻っていく。高級店が立ち並ぶここで店を構えるだけあって、かなり教育された店員のようだ。少なくともまた彼女に恥をかかせる事にはならなかったようで、私は内心、安堵する。
 
 「さて…それじゃあお湯を沸かしてくれるまでにある程度、決めておこうか」
 「あ…」
 
 その瞬間、彼女の手がそっと私から離れてしまう。私の手を離す時でさえスルリと通り抜けてしまうそれを思わず捕まえたくなってしまった。しかし、まだ出会って間もない女性の手を捕まえる訳にはいかない。彼女はあくまで私に優しくしてくれているだけの他人で友人でも、ましてや恋人でもないのだから。
 
 「それよりも先に目的を教えて欲しいんだが…」
 「ん?あぁ、そう言えばまだちゃんと説明していなかったね。口止め料としてボクが君に服を見繕って買ってあげるよ」
 
 そう自分に言い聞かせた私の疑問に棚へと顔を向けた彼女が答えた。しかし、それは私にとってまったく意味が分からない言葉である。確かに私は図らずも彼女の秘密を握ってしまった。だが、それは彼女もまったく同じなのである。それなのに口止め料と称して、服を見繕うだけではなく贈ろうとするなんてあまりにも理解の範疇を超えている。
 
 「ま、待ってくれ。見繕ってくれるのは有難いが、別に買って貰わなくても…」
 「ダメ。ボクの精神的安定の為に大人しく贈られなよ」
 
 拒む私の言葉にクスリと笑いながら、彼女は棚から黒のワイシャツを取り出した。ただし、それはフォーマルな場所で見るようなシルエットとは少し違う。脇の部分がキュッと締まり、腰へとかけて僅かに広がっていっている。色も真っ黒と言うよりは微かに灰色へと近い。そんなワイシャツを私の身体の前で広げながら、すっと彼女は目を細める。
 
 「うん。君の元々の髪の色にもよるだろうけど、これは良さそうだね。とりあえずキープしておこう」
 「…少し地味じゃないか?」
 
 確かに彼女の選んだワイシャツはフォーマルなものとは違って、かなりオシャレだ。だが、その色は黒だけあって少し地味であるのが否めない。そして、私自身の顔もかなり地味なタイプなのだ。私が参考にした本でも紫などの派手な色遣いの服を着ていた訳であるし、地味な私は人並み以上に派手な服を着こむべきなのではないだろうか。
 
 「オシャレは服に人を合わせるんじゃなくて、服を人に合わせるんだよ。君は折角、こういう色が似合う顔立ちをしているんだからそれを活かすべきだね」
 「ふむ…」
 
 確かに派手な色を着込んだ所で似合わなければまったく意味が無い。人の目を引くのは勿論、重要ではあるが、そこに悪感情が含まれていれば悪目立ちにしかならなのである。今日の失敗は目立とうとした結果、やりすぎてしまった事でもあるだけに彼女の言葉に反論のしようもない。
 
 「それにほら、ボタンは結構、特殊な形をしているだろう?」
 
 そう言って私の方へと向けられたワイシャツには楕円を横にしたようなボタンが着いていた。その色は象牙色に近く、黒地のワイシャツの中で際立って見える。特徴的なシルエットと相まって、このワイシャツが決してフォーマルなものではない事を教えてくれるようだ。
 
 「アクセントなんてこんなので十分さ。あんまりやり過ぎるとくどくなっちゃうしね」
 「なるほど…」
 
 はっきりと言い切る彼女の言葉に私は納得しながら小さく頷いた。確かにアクセントは微かに顔を覗かせるくらいでちょうど良いのだろう。やりぎると今日の私のような悲惨な出来事になってしまうだけに彼女の言葉にはとても納得がいく。
 
 「さて…それじゃあ下も黒で良いかな」
 「両方、黒でも大丈夫なのか?」
 「勿論、色は多少、変えるよ。今度のは真っ黒で…そうだね。これなんかが良いかな」
 
 そう言いながら、彼女が別の棚から取り出したのはうっすらと灰色のストライプが入っているズボンだった。色もさっきとは違って真っ黒に近く、大分、印象が違う。確かにこれであればそこまで色の被りは気にしないで良いかもしれない。彼女が右手に持つワイシャツと左手に持つズボンを脳裏で重ねあわせてみたが、そこまで黒が気になるとは思えなかった。
 
 ―だが…。
 
 「どうしてそこまで黒を推すんだ?他の色だってあるだろう?」
 
 そう。店の中にはまだまだ他の色のズボンもあるのだ。探せばもっと上のワイシャツに合うものもあるのかもしれない。にも関わらず、最初から色を決めて、その条件に合うものを探していたのはどういう事なのか。それがどうしても疑問に思えた私は彼女にそう尋ねた。
 
 「黒のボトムは他の色と合わせやすいんだよ。さっきの調子だと黒ズボンも持ってないんだろう?」
 「…あぁ」
 
 悲しいかな、彼女の言葉は事実であった。これまで私服を買うのを母に任せていたが、母も私と似たような考えをしていたらしい。基本的に私の服は派手な色遣いの物が多く、黒や白といった色は殆どと言って良いほどなかった。例外はフォーマルな服くらいなものであろう。
 
 「しかし、君は凄いな。そんなにコーディネートの知識を持っているなんて。もしかしてこういう店で働いているのか?」
 「おや、ようやくボクに興味を持ってくれたみたいだね」
 「あ…」
 
 ふと脳裏に湧いた微かな疑問。それをそのまま口に出してしまった私の前で彼女はシャツとズボンを左手に垂らしながらそう言った。何処か悪戯っぽいその返事に私は自分がどれだけ恥ずかしい事を言ってしまったかに気づく。彼女の優しさを誤解して思わず踏み込んでしまった自分を罵る私の前で彼女はゆっくりと微笑を浮かべた。
 
 「ふふっ♪良いんだよ。そうやって相手に興味を持つ事が友達作りでは大事なことなんだからね。寧ろボクは嬉しいよ」
 「それなら…良いんだが…」
 
 そんな私の図々しい言葉を彼女は肯定的に受け取ってくれたらしい。それに内心、安堵の溜息を漏らしながら、私はそっと肩を落とした。たった一回の失敗で心臓が壊れてしまうのではないかと思わんばかりの重圧が私にのしかかってきていたのである。それから解放された喜びから軽い脱力感を感じてしまう。
 
 ―完璧主義者のつもりはなかったんだがな…。
 
 私は天才ではなく秀才タイプだ。人並み以上に成績は良かったし、知識量もあるつもりではあるが、それは努力によって得たものである。勿論、完璧に近づこうとはしているが、そうなれない事などとっくの昔に自覚していた。それにも関わらず、たった一度の失敗でこんなにも胸が苦しくなるのである。
 
 ―…友達作りと言うのは存外、大変なものなのかもしれないな。
 
 これまで友人の多さだけが取り柄のような連中を私はずっと見下してきた。群れる事しか出来ない馬鹿な連中であると思っていたのである。しかし、今、こうして彼らの領域に足を踏み入れた私はそれが意外に強いプレッシャーと戦う事だと知ったのだ。その重圧と日々、戦っていた彼らに対し、微かな尊敬すら覚えてしまう。
 
 「それで今度はこっちなんてどうかな?」
 
 そんな私に向けられたのは藍色のシャツだった。彼女の瞳と同じ色――けれど、深みや輝きはまったくそれに劣る――に染まったそれはさっきとは違い、ストレートのシルエットを描いている。一見して地味なように映るが、袖や襟などに入った白いステッチが、ただ地味なだけではない事を訴えていた。
 
 「あぁ、良いと思うぞ」
 「そっか。それじゃあこれも候補に入れておこうかな」
 「失礼します」
 
 彼女が再び左腕に服を抱えた瞬間、私たちは後ろから声を掛けられた。それに振り向けば、店員が両手に白いバスタオルを持って立っているのが見える。バスタオルからは真っ白い湯気が幾つも立ち上り、それがお湯にとって暖められている事は人目で分かった。
 
 「こちらと…後、これもお使い下さい」
 
 そう言って店員が彼女に差し出したのは手ぬぐいサイズの小さなタオルだった。しかし、こちらは先のタオルとは違い、湯気が立ち上ってはいない。どうやら乾燥した普通のタオルのようだ。
 
 「僭越ながら水分を多めに含ませてきましたので水が顔の方へと垂れるかもしれません。その場合、こちらの方で拭いて下さい」
 「気を効かせてもらって悪いね。ありがとう。後、今の内にこれの裾上げをお願いできるかな」
 「分かりました。ですが、その…一度、試着して貰わないとサイズが分からないのですが…」
 
 その二つのタオルを受け取る代わりに彼女は先のワイシャツとズボンを店員へと渡した。それを受け取りながら、店員は私の方へとチラリと視線を送る。それだけで言いたい事がなんとなく分かった。頭や身体をカラフルに染めている今の私に試着して欲しいとは誰も思わないだろう。私だって店員の立場であれば、まず綺麗にしてから出直して来いと言いたくなるはずだ。
 
 「それには及ばないよ。そうだね…6cm裾上げしてくれれば良い」
 「…宜しいのですか?」
 「うん。ダメでも文句は言わないし、お金は払うから頼むよ」
 
 念を押す店員にあっさりと彼女は答えた。自信すら感じさせるその言葉に店員は頭を下げて、店の奥へと再び入っていく。だが、そんな展開に取り残された私には一体、何がなんだか分からない。勿論、私だって裾上げがどういうものかを示すくらいは分かっている。分からないのは彼女がどうして裾上げの長さをそうやって指定出来るかと言う事で……――
 
 ―私の事を以前から知っていた……という可能性は勿論0だ。
 
 私に友人と言える相手はいないし、親戚付き合いも皆無だ。誰かの話に私がのぼる可能性はほぼないだろう。ならば、他の場所で会った線が濃厚になってくるが、それも正直、信じがたい。何せ、彼女はそこにいるだけで人の目を引くような絶世の美女なのだ。一度でも私が見かけていれば、すぐさま分かるはずだ。
 
 ―だけど…それを踏み込んでも良いものか。
 
 彼女へと不必要に踏み込んだ瞬間の重苦しい感情が私の胸に蘇る。出来ればもうあんな苦しみは経験したくない。彼女に嫌われた訳ではなかったと知る瞬間までに一生分の後悔をしたような気さえするのだから。アレをもう一度、味わいたいなどと言えるのはよっぽど倒錯した趣味の持ち主だけだろう。そして私は決してそういうタイプではないのだ。
 
 「さて、それじゃあちょっと屈んでくれるかな」
 「あ、あぁ」
 
 結局、私は彼女にそれを問いただせないまま、彼女の前で膝を床へとつけた。冷たい床の感触がむき出しになった膝から伝わってくるが文句は言ってはいられない。これも私自身が失敗してしまった所為なのだ。それは彼女のお陰で破滅へは繋がらなかったものの、その責任は取らなければいけない。
 
 ―…ん?でも、なんで私が屈む必要があるんだ?
 
 自信満々な彼女の言葉に導かれるようにしてついつい屈んでしまったが、別にそんな事をする理由などはないはずだ。確かに自分で拭く時に身体中を染めた染料が飛び散るかもしれないので身を低くするのは必要だろう。だが、そんな事を気にするのであれば、元より外へと出ていけば良いだけの話だ。わざわざこうして膝を折る必要などはない。
 
 「ちょっと熱いかもしれないけど、我慢してね」
 「うわ…!」
 
 そんな風に疑問を重ねる私の視界が白いもので覆われた瞬間、頭に暖かい何かが触れるのが分かった。数瞬ほど遅れて、それが先のバスタオルである事に気づく。どうやらここで染料を落とせと言う事らしい。少しばかり納得がいかないが、彼女がそう言うのであればそれが正しいのだろう。
 
 ―そう思って私の腕が頭に伸びようとした瞬間、バスタオルが勝手に動き出した。
 
 いや、それはより正しく言えば、彼女の腕がバスタオルを動かしているだけなのだろう。勿論、私だってそんな事は分かっていた。しかし、こうして彼女が頭を拭くまで、いや、動き出して少しするまでは彼女がそうしてくれるだなんて一瞬たりとて考えていなかったのである。まったく意識の外にあった事実に気づくまでバスタオルが勝手に動き出したと思ってもおかしくはないだろう。
 
 ―だが…その…なんだ。暖かい…な。
 
 勿論、それはバスタオルそのもののお陰もあるだろう。だが、それ以上に彼女の手つきは優しかったのだ。指先一つ一つから丁寧に拭こうとしてくれているのが伝わってくるほどに。湯気に蒸らされ、染料と糊が少しずつ落ちて行く感覚が心地良いと思える程の優しい手つきに私は思わず安堵の溜息を吐いた。
 
 ―…こんな気分になるのは何時ぶりだろうな。
 
 思い返せば、この王都に来てから…いや、来る前もずっと私は片意地を張り続けていたような気がする。それが何時からなのかはもうはっきりと思い出せない。勉学に意義と面白さを見出し、それをアイデンティティとした頃なのか、それとももっと以前からなのか。ただ一つ確かな事は両親相手でさえ、ここまで安心し、安らいだ気分になった事はないという事だけだ。
 
 「…すまないな」
 「いきなり謝ってどうしたんだい?」
 
 その気分はそのまま謝罪の言葉として私の口から飛び出る。本来であれば、それは謝罪の言葉として表現されるべきであっただろう。だが、こうして見ず知らずの他人に掛けなくても良い手間を掛けさせているのだ。それは間違いなく迷惑と表現されるべき事であろう。
 
 「いや…こんなにも私は君に迷惑をかけている」
 「そんなつもりはないよ。ボクが好きでやっている事さ」
 
 私の髪を優しく撫でながら、彼女はそう言ってくれた。勿論、そんな風に言ってくれるのは嬉しいし、有難い。だが、私はこれまで接してきた短い時間で彼女がとても優しい人間だと分かっているのだ。その優しい言葉一つとっても、彼女の気遣いの一種であると思えてしまう。
 
 「それに忘れたのかい?これはボクが君に支払う口止め料の一種なんだよ」
 「…だが…それは……」
 
 ここまで来ると対人関係に関しての能力が低い私にだって分かる。彼女の言う口止め料は私が迷惑をかけている事を思い悩ませないが為に出たものなのだろう。そうでなければ、お互いの弱みを握っている見ず知らずの他人にこうまでして尽くしはすまい。少なくとも言われもしない事までも率先してやる必要などはないはずだ。
 
 ―そして…それはきっと……。
 
 「…すまん」
 「もう…またそうやって謝る」
 
 白いヴェールで包まれた視界では彼女の顔を見ることは出来ない。だが、その声は少しだけ拗ねたような色が含まれていた。折角、こうして世話を焼いているにも関わらず、お礼ではなく謝罪の言葉を紡いでいるのだから当然と言えば当然なのだろう。
 だが、それでも私は謝罪しなければいけないのだ。私が不用意に身の上話などしてしまったから…両親の死の事など話してしまったからきっと彼女は同情し、こうして付き合ってくれているのだから。そうでなければ、幾ら彼女がお人好しな性格をしていたとしても、見ず知らずの他人の世話をこうまで焼く事は出来ないだろうし、服代を出すなんて言えないだろう。
 
 ―勿論、彼女に支払わせるつもりなどはないが…。
 
 私は基本的に無趣味な人間だ。強いて言うなら勉学、あるいは読書ではあるが、その対象は学術書が中心である。それなりに高級品な学術書であるが、それを自分なりに咀嚼し、判断するには数週間単位で時間が掛かる。実家暮らしであった私がそれ以外にお金を使う用途は殆どなく、それなりにお金を持っているのだ。この店はそれなりに高級店のようではあるが、一式揃えるくらいは大丈夫だろう。
 
 ―……ん?
 
 そんな事を考える私の前でバスタオルがそっと移動した。恐らく同じ部分で拭き続けて汚れてきてしまったのだろう。どれだけ彼女が丁寧に拭いたとしてもそれを防ぐ事は不可能だ。故に私が疑問に思ったのはそこではなく、僅かながら取り払われたタオルの向こうに見える光景の事で……――
 
 ―…ゆ、揺れてる…。
 
 そう。半分ほど開いた私の視界ではゆさゆさと揺れる豊満な乳房が写り込んでいるのだ。いや、ただ写り込んでいるだけではない。丁度、頭一つ分ほど低い彼女の前に屈んでいる所為で触れられそうなくらい近くでふるふると揺れているのだ。片手では包みきれないほど豊満な胸がセーターごと揺れる甘美な光景に思わず生唾を飲み込んでしまう。
 
 ―だ、駄目だ…!そ、そんな事を考えては……!!
 
 自分の中でムクムクと持ち上がっていく性的な興奮を私は必死で抑え込んだ。勿論、彼女はとてつもない美人である。その辺りに歩いている女性とは比べものにならないほどだ。しかし、私にとってはそれ以上に恩人なのである。そんな彼女にこのような不純な気持ちを向けるべきではない。私はそう何度も自分に言い聞かせた。
 
 ―しかし…それ以上に目の前の光景は私の興奮をくすぐる。
 
 私の理性を弄ぶような光景はまったく色褪せる気配がないのだ。いや、それどころかこうして見れば見るほどに引きこまれ、また生唾を飲み込み、理性が削られていく。それを防ぐためには目を閉じれば良いのだろう。だが、既に彼女の胸に引きこまれた私の瞳はその命令に従わない。魅入られたように目を見開き、揺れる双丘を見続けていた。
 
 ―こ、このままじゃダメだ…!
 
 このまま見続けていては本当に変な気分になってしまう。勿論、そうなってしまっては手遅れだ。感情を押し隠すのが苦手な私の邪な感情を聡い彼女が気づかないはずがない。そうなってしまえばきっと幻滅され、逃げられてしまうだろう。それは…それだけは嫌だ。
 
 ―勿論、この甘美な時間を終わらせたくはない。
 
 こうやって他人に髪を拭かれるなんてきっと子どもの頃以来だろう。少なくとも私の記憶には一度としてない。だが、その暖かさはきっと身体が覚えているのだろう。こうして優しく髪を拭かれる感覚はとても暖かく、身を委ねたくなってしまうのだから。そんな感覚が終わってしまうのは惜しいが背に腹は代えられない。そう自分に言い聞かせながら、私は再び腕を顔の方へとあげた。
 
 「も、もう良いぞ!もう大丈夫だ」
 「こら。ダメだよ。ちゃんと落としとかないと髪が痛んでしまう」
 
 そのままタオルを取ろうとする私の腕を彼女が抑え込んだ。それに反抗しようと力を込めたものの、完全にインドア派の私よりも彼女の方がよっぽど強いらしい。思った以上に強い力で抑えこまれ、何も出来なくなってしまう。
 
 ―だけど、そのお陰…いや、その所為で私と彼女の手が触れ合って……。
 
 私をここへと連れてくる時にも味わったあのスベスベとした感覚。何処か艶かしいそれに私の抵抗する力すら奪われていってしまう。肌一つでさえ、私の心を揺れ動かし、力を奪うその魔性さはいっそ人外の領域であると言っても良いのかも知れない。
 
 ―…まぁ、だからって魔物と疑う訳ではないのだが。
 
 そもそも魔物とはもっと醜悪な姿をした連中だ。神話に出てくるような悪魔や英雄譚で倒される化物のような存在である。夜魔や淫魔と呼ばれる一部の連中を除けば、人の姿をしているのはほぼ皆無であろう。残りの淫魔たちも主な活動時間は人が寝静まる深夜と聞く。少なくとも日が落ちたばかりの、しかも、王都で魔物が我が物顔で活動しているはずがないだろう。
 
 「よっし、と」
 
 そんな事を考えている内に髪の方は終わったらしい。彼女の小さな掛け声と共に私の視界からタオルが取り払われた。それに胸中で安堵の溜息を漏らしながら、私は僅かに魔物に感謝した。何せ、人を喰らう魔物のことを考えていたお陰で変な気分になるのは防げたのだから。
 
 ―そんな私の前で彼女は小さなタオルを広げて……。
 
 「さて、それじゃあ風邪を引く前にこれで水気を落とすからね」
 「え…」
 
 ―その言葉は私にとって死刑宣告にも近かった。
 
 私はついさっき修羅場の一つを潜り抜けたばかりなのだ。それなのに再び地獄へと突き落とすような言葉を聞かされたのだから当然だろう。しかも、私が叩き落されそうになっているのは、さっきよりもさらに深く、苦しい地獄だ。
 
 ―何せ、彼女の手に持たれた小さなタオルでは私の視界が殆ど隠す事が出来ないのだから。
 
 チラチラと視界に半分だけ映り込む状態でも私は自分を抑えるのに必死だったのだ。それなのに今度はその小さなタオルで拭かれたら、きっと我慢しきれない。私は浅ましくも彼女に欲情し、その証を立ててしまう事だろう。それだけは避けなければならないと私は口を開いた。
 
 「ま、待て待て!今度は自分でやるから…!」
 「こういうのは他人にやって貰った方が綺麗に水気が取れるんだよ」
 
 ―そ、そういう意味じゃなくてだな…!!
 
 私の言葉を明らかに誤解している彼女の言葉は一理あるかもしれない。確かに自分でやるよりも他人の方が客観的に水気を判断できるだろう。しかし、私が言っているのはそういう事ではないのだ。そういう論理的な事ではなく、もっと原理的な事である。
 
 ―だが…それを説明する訳にはいかず…!
 
 彼女の誤解を解くならばちゃんとそれを口に出すべきだ。そんな事は私にだって分かっている。だが、そうしてしまえば私の浅ましい欲望が彼女に伝わってしまうのだ。純粋に好意で優しくしてくれている彼女に自分の欲望を分かりやすく説明しなければいけないのである。その恥ずかしさは外を全裸で歩いたほうが遥かにマシだと思えるほどであった。
 
 「それに今更、遠慮しなくても良いだろう?ボクと君の仲なんだから」
 「私たちは今日、初めて会ったばかりなんだが…」
 
 他でもない彼女にそう言って貰えるのは勿論、嬉しい。ただ一方的に世話をされてる私をそんな風に思っていてくれたのかと感動さえ覚える。だが、論理的な私の部分はそれだけを善しとはしない。本心では嬉しいにも関わらず、そのような反論を口に出してしまうのだ。
 
 「一度、会ったら友達で毎日会ったら兄弟さ。つまり、ボクと君はもう友達なんだよ」
 「それは幾ら何でも暴論だと思うぞ」
 
 そんな風に友達を増やすことが出来れば、誰も孤独感を味わいはしないだろう。勿論、そのような理想を持つのは否定しない。だが、現実はその「友達」と殺し合いや戦争をするのが日常茶飯事なのだ。それを考えれば到底、現実に即しているとは言えないだろう。
 
 「良いんだよ。ボクがそう思ってるだけなんだから。それとも君はボクと友達になるのは嫌なのかな?」
 「…それは卑怯な言い回しだと思う」
 
 ―勿論、私だって彼女とそうなりたいと思っている。
 
 しかし、彼女の言葉に頷いてしまえば先の議論がうやむやになってしまうのだ。しかし、ここで議論を続けようとすれば、逆に彼女の申し出を断る事になるのである。そのような二択を突きつけられて対人関係に関して経験を全く持たない私が最適解を導き出せるはずがない。
 
 「ふふ…♪まぁ、だから、君はもう諦めてボクに髪を拭かれるべきなんだよ」
 「少々、強引じゃないか?」
 「多少、強引でも自分からいかないと友達なんて作れないよ。だから、ほら…ね」
 
 そう言って彼女は再び私の髪を拭き始めた。自然、その胸がゆらゆらと揺れる姿がセーター越しに良く分かる。その柔らかさを伝えてくるような光景に思わず生唾を飲み込んでしまった。思いの外、大きく鳴ったその音に顔に熱が灯るのが分かるが、目の前の彼女には変化が見られない。
 
 ―…とりあえず今は気づかれてはいないようだ。
 
 そう結論付けた私は胸中でため息を吐いた。しかし、その間も柔らかそうに揺れている彼女の胸から目を外せない。それが失礼であると理性では分かっているものの、どうしても自分を律しきれないのだ。そもそも女性とこうして接近した記憶すらない私にとって、胸が揺れる様をはっきりと見せつけられるのはあまりにもレベルが高すぎるのだろう。
 
 ―となれば…自分の意識を逸らせるしかない。
 
 幸いなことに、さっきは魔物の事を思い浮かべていたお陰で乗りきれたのだ。我慢するだけでは乗り切るのは難しいだろうが、別のことを考えていればまだ活路も見いだせるかもしれない。そう考えた私はついこの間読んだ書の内容を脳裏に浮かばせ、それを再び咀嚼し始める。学術的な内容を素人なりに理解し、自分の血肉にしていくその作業が私にとって最高の暇つぶしなのだ。
 
 ―…しかし、それが上手くいかない。
 
 彼女の胸に張り付けにされた視界から伝わってくる情報が私の思考をどうしても阻害するのだ。自分なりに分解していく途中で柔肉に意識を取られ、分解した単語が私の中から消えていく。それを拾い集めようとしても、不規則に揺れる胸肉に情報を溢してしまうのだ。そんな状態でマトモに思考を紡ぐ事など出来るはずもなく、私の咀嚼は一向に進まない。
 
 ―まるで集中力という言葉が消え失せたみたいだな…。
 
 今までそんな事は一度としてなかった。勉学が趣味と言い張ることが出来る私にとって、その作業は何より楽しい事であったのだから。しかし、今はそれがまるで嘘のように集中できない。まるで彼女の胸を眺めることが趣味よりも楽しいと言わんばかりに意識がそちらへと傾いていってしまうのだ。
 
 ―ま、負けるものか…!!!
 
 それに対抗意識を燃やしながら私は必死に思考を紡いでいく。一度は咀嚼したはずの知識すら引っ張り出し、自分を保たせる為に何度も何度も反芻するのだ。ある種、無意味とも言えるその行為は少なからず効果があったのだろう。目から入ってくる胸の動きが理性をゴリゴリと削るが、理性が敗北する事はなかった。
 
 「はい。終わったよ」
 
 彼女の終了宣言を聞いた瞬間、私の肩がストンと下りた。何時の間にか緊張で強張っていたのだろう。脱力した肩からは少なくない疲労感を感じる。しかし、それもこの苦行を乗り切ったと思えば、そう悪い気分ではない。
 
 「じゃあ、今度はその胸にある模様を消していかないとね」
 「えっ」
 
 再び彼女から告げられる死刑宣告に私が驚きの声をあげた瞬間、彼女もそっと膝を折り、私の胸をバスタオルで拭き始めた。まだ微かに暖かさを残すバスタオルに安っぽい水性絵の具が勝てるはずがない。ゴシゴシと数度擦られるだけで水となって落ちていく。それを彼女はもう片方の手に持った手ぬぐいで丹念に拭き取り、私の身体が濡れないようにしてくれた。
 
 ―しかし、問題はそこではない。
 
 順調に私の身体から消えていく若気――と言えるほどもう私も若くはない訳だが――の至り。しかし、それとは裏腹に私の心境は順調でもなんでもなかった。その理由は…さっきとは違い、彼女の匂いで……――
 
 ―は…鼻息が荒くなってしまう…!
 
 さっきのように彼女の胸が視界を覆い尽くすほど間近にある訳ではない。寧ろ、その柔肉は今、私の視界の下へと降り、遠ざかっている。だが、それは胸の危ない魅力を失わせている訳ではないのだ。タートルネックのセーター越しにもはっきりと分かるその姿に心惹かれないと言えば嘘になるだろう。
 だが、それ以上に目線を合わせるようにして近づいた彼女の首筋からは甘い匂いが立ち上っているのだ。ともすれば力が抜けてしまいそうなほど甘く優しいその匂いに下火になりかけた私の欲望がムクムクと持ち上がり始める。呼吸を繰り返す鼻息も彼女の体臭を力いっぱいに吸い込もうとしているかのように荒くなっていった。
 
 ―た、頼む…!き、気づかないでくれ…!
 
 これまでの私は熱心な信者という訳ではなかった。勉学の都合上、神学校には足しげく通っていたが、その教理全てに共感していた訳ではなかったのである。寧ろ勉強する時間が惜しいと授業前の必要最低限の祈りしか神々に捧げて来なかった。
 だが、今、私はこれまでの自分が嘘のように神に祈っている。彼女に私の浅ましさを気づかれないのであれば、これから心を入れ替えてちゃんとした信仰心を持つ。だから、今だけは彼女に…他の誰に気づかれても良いから彼女だけには……――
 
 「…ちょっとくすぐったいね」
 
 ―…もう神なんて信じない。
 
 そんな私の祈りは神々へは届いてくれなかったらしい。彼女の口からは最悪にも近い言葉が漏れでた。少し上ずっている声は気恥ずかしいからか、それとも本気で嫌がっている所為か。どちらであろうと彼女と私の関係が今、この瞬間終ってしまったのには変わりないだろう。
 
 「ごめん。ボクの手際が悪い所為で息苦しいよね。でも、もうちょっと我慢して」
 「…え?」
 
 そう落ち込む私の耳に届いたのは意外にもほどがある一言であった。思わず驚いて彼女の顔に視線を送るが、そこには嫌そうなものはなにもない。寧ろ、そこには申し訳なさそうな色がはっきりと浮かんでいた。
 
 ―…どうしてだ?
 
 彼女は手際が悪いといったが、別にまったくそんな事はない。いや、それどころか息苦しい訳でもないのだ。彼女と私の間にはちゃんとした距離があって、密着している訳でもなんでもないのだから。それは他ならぬ彼女自身が分かっているはずだ。それなのにどうしてそんな表情を浮かべるのか。それがまったく分からない私は内心、首を傾げた。
 
 「よし。これで今度こそ全部終わりだよ」
 
 そんな事を考えている内に私の身体は拭き終わったらしい。彼女の言葉に視線を下に向ければ、まったく日に焼けていない真っ白で貧相な肌が目に入る。それに安堵と自嘲を感じながら私はそっと立ち上がる。そのまま肩のレザーアーマーを外せば、殆ど裸と変わらない。彼女にもこの貧相な身体を見られてしまう事だろう。
 
 「うん。いい男になったね」
 「よしてくれ。貧相な身体をしているのは自分が一番、よく知っている」
 
 彼女の優しい言葉に私は反射的にそう返してしまった。勿論、彼女にからかう意図などなかったと私は知っている。何せその言葉はとても優しく、暖かいものだったのだから。だが、それでも自分が今まで身体を鍛えようとも思わず、貧相な身体をしているというコンプレックスには勝てなかったらしい。ついつい可愛げのない言葉を向けてしまった。
 
 「そんな風に卑下しなくてもいいと思うよ。別にムキムキの男だけがいい男って訳じゃないんだし」
 「それは…そうかもしれないが…」
 
 だが、その方が世間様一般的には『男らしい男』なのだ。私のように三度の飯よりも知識欲を満たす方が好き、というタイプはあまり男らしいとは言われない。勿論、私は今までそんな事を気にした事もなかった。しかし…目の前の彼女に嫌われたくないからだろうか。ついついそんな卑下が顔を出し、表情を曇らせてしまう。
 
 「それにボクは君みたいなタイプの方が好みだよ」
 「えっ!?」
 
 そう表情を変えた瞬間、告げられた言葉にうつむき加減であった顔を反射的にあげてしまう。そのまま彼女の顔へと視線を向けたが、そこにはニコニコした笑顔があった。しかし、そこには微かに悪戯っぽいものが含まれており、先の言葉が冗談であった事を私に教える。
 
 「か、からかわないでくれ」
 「ふふ…♪ごめんね。君がちょっと可愛くて…さ」
 「…一応、言っておくが、それは褒め言葉じゃないからな」
 
 日頃、本の虫であった私にも男のプライドというやつはあったらしい。彼女の可愛いという言葉についつい反応し、そう返してしまう。それと同時に自分が決して男らしいとは言えない性格をしているのを自覚し、私は胸中でため息を吐いた。
 
 「ボクとしては最高級の賛辞のつもりなんだけどね。まぁ、良いや。まだ裾直しには時間が掛かるみたいだし、先に試着してきてくれるかな?」
 「分かった」
 
 そう言って彼女が私に向けた衣服一式を受け取った。それは先に店員が持っていったのとまったく同じものである。どうやら試着用に確保していたらしい。手際の良い彼女に胸中で感心しながら、私は店の隅にある小さなスペースへと足を向けた。
 
 ―さて…と。
 
 靴を脱いで入った場所は動くのに不自由はないけれど、両手を広げる事が出来るほどでもない小さな空間。そこを薄い布一枚で区切った私はレザーアーマーを脱ぎだした。しかし、普段、鎧など着こまない私に正確な脱ぎ方など分かるはずもない。着る時に気合を入れすぎ、一部をキツくしばり過ぎたのもあって、私の貧弱な力では上手く脱ぐ事が出来ない。
 
 「大丈夫かい?」
 「だ、大丈夫だ。問題ない」
 
 数分ほどレザーアーマーと格闘している私の様子に気づいたのだろう。薄布越しに彼女が立ち、こちらに心配そうな声を向けるのが分かった。しかし、私はそんな彼女の声についつい意地を張ってしまう。勿論、頭では彼女に手伝って貰ったほうが効率的であると分かっているのだ。私の手では中々、脱げないこれも彼女であれば何か良いアイデアをくれるかもしれないし、そもそも彼女のほうが力良いのだから。だが、彼女に格好悪い所を見せたくはないという私のプライドがそれを口にするのは避けさせた。
 
 「…そうか。でも、何かあったらすぐに言っておくれよ」
 「分かっている」
 
 そんな私の心境に気づいたのだろうか。微かに反応を遅らせながら彼女が試着室の前から立ち去るのが分かった。彼女に不必要な手間を取らせている事に内心、謝りながら私は再びレザーアーマーとの格闘へと戻る。だが、彼女を待たせているという焦りの所為で不器用な私の手はさらに不器用になり、小さな結び目一つ解く事が出来ない。
 
 ―ま、拙い…!もう結構な時間が……!!
 
 彼女が一度、呼びかけてくれてから既に数分が経過していた。しかし、目に見える進展はまるでなく、殆ど現状維持のままである。それにさらに焦りを大きくした瞬間、再び試着室の前に彼女が立った。
 
 「入るよ」
 「えっ!?」
 
 薄布越しに彼女が怒っているのかを探ろうとした瞬間、彼女の手がそっとカーテンを開いた。開かれた視界の先から現れた彼女の顔は決して怒ってはいない。寧ろ何か微笑ましいものを見るような表情で溢れていた。それに微かな安堵を覚えながらも、呼びかけもなしに開かれた事に困惑も感じてしまう。
 
 「ほら、手伝うよ」
 「う…だが……」
 
 本心では一人で出来ると言いたかった。と言うよりそう言うべきなのだろう。私はもう何もかもを彼女に任せっきりにするような子どもではないのだ。自立した一人の成人男性である。着替え一つに他者の手を借りるような恥ずかしい真似は出来ない。
 だが、現実に私が手を借りないでこれを脱げるかと言えば、是とは言いづらい。いや、寧ろ十分以上、彼女を待たせているにも関わらず、まったく進展していない状態を見れば否と言う方が正しいのだろう。それは頭では十分過ぎるほど分かってしまっているのだ。
 
 「何度も言うけれど、遠慮しない。ここまで来たらもう一緒だよ」
 「あ…」
 
 そう冗談っぽく言いながら彼女はそっと私の前に膝を折った。そのまま手際よく動く手が硬い結び目をいとも簡単に解いていく。私があんなにも苦戦していたのが嘘のように解かれていく姿はまるで魔法のようだ。
 
 「今度は後ろを向いてくれるかな」
 「…あぁ」
 
 そんな魔法使いの言葉に私はもう抗う力もなかった。従順に頷きながらそっと彼女に向かって背を向ける。そんな私の後ろで彼女が立ち上がる気配が伝わってきた。それに対し、一体、何をするのかと不安にはならない。普通は出会って僅かしか経っていない他人――彼女曰く友人らしいが――にそんな事を言われても、不安は拭い切れないだろう。だが、私は自分でも意外なほどに彼女を信頼しているらしく、まったくそんな気にはならないのだ。
 
 「よいしょっと…」
 
 私の後ろで小さな掛け声をあげながら彼女の手がハードレザーの鎧を剥いでいく。既に結び目を解かれた鎧にはそれに抗う事は出来ない。するすると私の身体から離れ、床へと投げ捨てられていった。
 
 ―それにしても……。
 
 「随分と手際が良いんだな」
 
 争いに無縁な人生を送ってきた私は当初、鎧の着込み方一つ知らなかったのだ。今だってちゃんとした脱ぎ方が分からず、四苦八苦していたのである。だが、彼女はまるでそれが嘘のようにサクサクと私から鎧を脱がせていた。特に構造を確認することもなく、一度であっさりと脱がせる姿はまるで普段からこのような仕事に携わっているようにも感じさせる。
 
 ―…まぁ、それはないか。
 
 確かについさっき周囲を威圧していた時には冷たいものを感じた。しかし、今、こうして私の世話を焼いてくれる彼女は飛び抜けて美人な以外は何処にでもいる町娘である。普段から争いを生業とするような人間であれば、剣の一つも帯刀しているであろうが、それもない。
 
 「ん?そりゃ女の子だからね。っとほら、出来たよ」
 
 そんな事を考える私に向かって、答えになっているようななっていないような彼女の言葉が届いた。女性だからこそ服の構造はすぐさま分かるという事なのかもしれないが…なんとなく違和感が残る。まるで何かを誤魔化そうとしているようなイメージを拭い去る事が出来ないのだ。
 
 「さて、それじゃあズボンも…」
 「ま、待て待て待て待て」
 
 しかし、そのままズボンを脱がそうとする彼女の前にそのイメージが吹き飛ばされてしまう。勿論、それは断固阻止しなければいけない事だ。何せこのズボンは私にとって最後の砦も同然なのだから。これを脱がされてしまえば後は下着だけになり、裸同然となってしまう。彼女の前にそんな姿を晒すのだけは絶対に阻止しなければいけない。
 
 「大丈夫かい?ちゃんと脱げる?」
 「いや、これが脱げなかったらトイレもいけないし、色々と危ないだろう」
 
 悪戯っぽい表情を見せる彼女に向かって振り返りながら、私は両手でズボンを抑えた。脱がされるつもりはないと主張するような私の姿に彼女は微かな笑顔を見せる。ほんの少しだけ目を細めて唇の端を釣り上げるそれに思わずドキっとしてしまう。彼女の表情は変化が少ないからだろうか。微かな変化にも気を取られ、胸を高鳴らせてしまう。
 
 「それじゃあボクは外で待ってるよ」
 「あ、あぁ。その…ありがとうな」
 「気にしない。友人なら当然の事だろう?」
 
 ―…いや、それはどうだろうか。
 
 友人の一人もいなかった私が言うのも何だが、それはちょっとズレているような気がする。いや、ズレているというか色々と飛び越えているというか。少なくとも、男女間の友人関係でここまでやらせた男性は少数派である事だけは確かだ。世間知らずの気来がある私だがそれだけは断言出来る。
 
 ―そんな私の前で再びカーテンが閉じて…。
 
 再び閉じられた空間の中で私は皮製のベルトに手を掛けた。そのままベルトを外し、ハサミで切れ込みを入れた半ズボンをいそいそと脱いでいく。いかにも山の中を駆けまわった後ですよと言うような雰囲気を作り出すために適当に切り裂いてみたのだが、ただのみすぼらしいだけの格好となっている。ここまでボロボロになった――と言うか私がした――のであれば、もう捨てるしかないだろう。
 
 ―…すまんな。
 
 心の中でズボンそのものとそれを選んでくれた母に謝罪しながら、私は備え付けの小さな棚に避難させておいたシャツを手に取った。そのままスルリと身体を通せば、どことなくふわっとした着心地である。やはり高級店だけあってかなり良い素材を使っているのだろう。今まで私が着ていた衣服とは正直、比べものにならないほどだ。
 
 ―まぁ、流石にズボンは少し硬いが。
 
 だが、それもずっと着ていけば何時かは慣れていくはずである。それに硬いと言ってもストレッチはそれなりに効いている。膝を折り曲げても窮屈感はまったくない。何度も着込んで服を慣れさせれば、きっとそれなりの着心地になってくれるだろう。
 
 ―…さて…それでは格好の方ではあるが……。
 
 すっと鏡の方へと振り返れば、そこには知的な雰囲気の男性が写っていた。裾直しがまだされていない為、袖や裾はダランと垂れているが、それを除けば、銀色の髪を垂らした冷たい風貌の男性に黒の上下は良く似合っている。少なくともチグハグを通り越して滑稽な山賊スタイルよりかは遥かにマシだ。
 
 ―やはり彼女に任せて良かった。
 
 自分一人ではこんなコーディネートは出来なかっただろう。これも彼女のお陰だと思いながら、私はそっとカーテンを開いた。そのまま靴を履いて売り場に戻った瞬間、彼女がこちらへと顔を向ける。
 
 「おかえり」
 「あ、あぁ。ただいま」
 
 その両手にまた幾つかの衣服を持った彼女の言葉に私は気恥ずかしくなりながらもそう答えた。普通であれば、そんな風にどもりはしないだろう。だが、私は親がいなくなってからはおかえりなどと言われた事は一度もなかったのである。それが脳裏で母親のように世話を焼いてくれる彼女と重なったからなのだろうか。妙に気恥ずかしい気持ちになり、少しどもってしまった。
 
 「それで…どうだろうか?」
 「うん。良いね。やっぱり君にはそういう色が似合うよ。でも……」
 「でも?」
 
 そう言いながら彼女はそっとこちらの方へと足を向ける。一体、どうしてなのかと首を傾げる私の前で彼女は私のシャツをそっと掴んだ。そのままズルズルとズボンの内側へと入れたシャツを引き出し、ズボンの上へと被せる。
 
 「シャツは服の中に入れないし、ズボンの裾も靴の中には入れないんだよ」
 「い、いや…だが…」
 
 確かに前者は私のミスであったかもしれない。しかし、ズボンはまだ裾直しもされていなのだ。買ってもいない商品の裾をズルズルと引きずって歩き回る訳にはいかない。そんな事をすれば商品価値も下がるし、店側から賠償が来るかも知れないのだ。先に自分の姿を確認した時にそれなりに気に入ったので買うつもりではあるが、無用なトラブルは避けるべきだろう。
 
 「そういう時は試着室で待っておいてくれれば良いんだよ。と言うか下手に商品を着たまま試着室を出ると誤解されかねないからね」
 「むぅ…」
 
 言い聞かせるような彼女の言葉に私は反論の余地もなかった。このような場所でのマナーを私がまったく知らないのは事実である。それにこれまでの彼女の様子から察するにこういう場所に慣れているようであるし、冷静に考えれば、彼女の言葉はとても納得のいくものであったからだ。
 
 「お待たせしました」
 「あぁ、ありがとう」
 
 そんな風に私が唸っている横から店員がそっと顔を出した。そのまま彼女に向かって手直しされた衣服をそっと差し出す。それを受け取った彼女が今度は腕に掛けた別の衣服を店員へと渡そうとして……――
 
 「あぁ、それとこれの手直しも…」
 「い、いや、待ってくれ」
 
 彼女は自分で払うと言っていたが、私はそんな事をさせるつもりはまったくないのだ。彼女に服を選んでもらえただけでも十分過ぎるほど報われているのだから。しかし、これ以上、服を買う事になれば、今の私の手持ちでは少々…と言うかかなり心許ない。払えはするだろうが、王都の滞在期間が大きく減って故郷へとすぐさま帰らなくてはいけなくなってしまうだろう。
 
 「そんなに要らないから…」
 「そうかい?これも君に似合うと思うんだけどなぁ」
 
 私の言葉に彼女は名残惜しそうな表情を見せた。美人の領域にどっぷりと浸かった彼女が見せるその表情に思わず胸の奥がズキリと痛む。折角、選んでくれたのだから試着くらいはして良いのかもしれないという考えが脳裏を過ぎったが、それでは彼女にここの会計を甘える事になってしまう。ただでさえ、世話を焼いてもらっている状態でそんな事はしたくない。
 
 「まぁ、君がそういうのなら仕方ないね。悪いけれど、これ片付けておいてくれるかな?」
 「かしこまりました」
 
 そんな事を考えている間に彼女がその手に持った服を店員へと渡す。それを受け取った店員が頭を下げて、それらを棚に戻していく。それを傍目で見ながら、彼女は私の方へと向き直り、口を開いた。
 
 「それじゃあとりあえずその服だけでも試着してくれるかな?大丈夫だと思うけれど、裾のサイズも見たいし」
 「あぁ、分かった」
 
 彼女の言葉に頷きながら私は再び試着室へと戻る。その隅っこから圧倒的な存在感を放つレザーアーマー無視しながらカーテンを閉め、再び着替えるのだ。まったく同じ服から服へと着替えるというのは妙な気分ではあるが、完成予想図を既に知っているというのは強力な後押しになる。着替えた私は裾や袖の長さを少し確認したくらいで鏡も見ずに外へと出た。
 
 「おや、今回は早かったね」
 「まぁ、さっきと殆ど同じだからな」
 「そんな事ないよ。ちゃんと袖も裾もしっかりしてよりいい男っぷりに磨きがかかってる」
 「そ、そうか…」
 
 そっと目を細めて笑顔を作る彼女の言葉に思わず照れてしまう。多少、鏡に映る自分を見て自信がついたからだろうか。さっきは卑下の色が強かったが、今回は悪い気がしない。照れくさくはあるものの、それ以上に嬉しい気持ちが強いのだ。
 
 「そうだね。後はこれかな」
 「ん?」
 
 その気持ちを素直に表現できるほど子どもでも大人でもない私に向かって彼女がふかふかとしている白いマフラーと差し出した。その上には銀色のフレームに下半分だけ覆われた銀縁眼鏡が乗っている。一体、これをどうすれば良いのだろうか。そう首を傾げながら私はマフラーと眼鏡をそっと受け取る。
 
 「身につけてみて」
 「しかし…」
 
 マフラーはともかく私は眼鏡を身につけるほど私は視力が弱くない。本の虫ではあったが、一応、視力が下がらないように気を遣って来たのだ。今でも裸眼で彼女の顔がはっきりと見えるし、わざわざ眼鏡が必要だとは思えない。
 
 「安心して。それは度が入ってない伊達眼鏡だから」
 「伊達…?」
 「つまりオシャレ専用のアイテムって事さ」
 
 ―最近が眼鏡もオシャレとやらの対象になっているのか…。
 
 服装一つ選ぶだけでも色あわせだとか何とかで難しいというのに最近は眼鏡までもアクセサリーのように使うらしい。その事実に驚きながらも、私は強い感心を覚えた。今までまったく意識していなかったが、こうしてコーディネートを教えてもらうと色々と興味深い。文字通り組み合わせは無限大であり、そこには複数の法則や定跡があるのだから当然だろう。
 
 ―ん…?だが……。
 
 そこで私の中にはふとした疑問が浮かび上がってくる。こうした眼鏡がオシャレ専用のアイテムとして使われているのは分かった。しかし、王都で実際にそのように使っている相手は殆ど見なかったのである。いや、そもそも殆どの人間が裸眼であり、眼鏡を身につけている人間の方が少なかったのだ。
 
 ―もしかしたら貴族階級での流行りなのかもしれないが…。
 
 眼鏡は決して安い買い物ではない。オシャレの為とは言え、一般人には中々、手が出せないだろう。宝石をあしらったアクセサリーよりは手が出しやすいだろうが、あまりメジャーではないのは確かだ。その証拠にこの店内にはそのような眼鏡は置いたコーナーは見受けられなくて……――
 
 ―いや、待て。それじゃあどうしてこれを彼女が持っていたんだ?
 
 そう。この店の中には伊達眼鏡とやらを置いているスペースはないのだ。それなのに一体、彼女はこれを何処から調達したのか。その疑問と共に背筋に薄ら寒いものを感じる。まるで気づいてはいけない何かに気づいてしまったような独特の危機感がそっと背筋を撫でるような感覚に私は思わず身体を硬直させた。
 
 「どうしたんだい?」
 「い、いや、なんでもない」
 
 ―そう。何でもないのだ。
 
 これは彼女の私物である可能性だってある。もしかしたら店員が裏から持ってきてくれたかもしれない。例えこの店の中に見当たらなかった所で説明出来る理由は沢山あるのだ。そう。だから、それは疑問には値しない。そんな風に彼女を疑ってはいけないのだ。
 
 ―そんな風に視線を背けながら私はそっと眼鏡のフレームを摘んだ。
 
 そのまま見様見真似で眼鏡を掛けたが、視界は特に歪まない。彼女の言葉を疑う訳ではないが、度が入っていないというのはどうやら本当の事のようだ。普段は何も無い場所に眼鏡があるのが気になるといえば気になるが、集中出来ないほどではない。
 
 「うん。最初に会った時から思ってたけど、君にはやっぱり眼鏡が似合うね」
 
 そんな私の顔を見ながら、彼女はそっと備え付けの小さな鏡をこちらへと向けてくれた。そこにはさっき見た時よりも知的な雰囲気を放つ男性の姿がある。より先鋭化された雰囲気を放つその男性は、美男と言うほどではないが見れない訳ではない。誰もが眼を見張るような美女の彼女には及ばないものの、その隣に立っても不自然ではない程度には整っている。
 
 「後は…ほら、マフラーだよ」
 「あ」
 
 そう言って彼女はそっと私の手からマフラーを取り、首へと巻いてくれた。両端に黒い線が僅か入った編み物は私の首を暖め、夜の肌寒い空気から護ってくれている。だが、それ以上に今の私の身体は熱くなってしまっていた。
 
 ―ち、近い…近い近い…!!!
 
 私よりも小さい彼女が私にマフラーを巻くには一瞬だけそっと背伸びをしなければいけないのだ。そして、それは私の顔に彼女が急接近する事を意味している。勿論、これまでにも何度となく彼女に世話を焼いてもらっていた私にはそれは珍しい事ではない。だが、それは私の胸の高鳴りを抑える為にはまったくなんの役にも立たないのだ。彼女の美しい顔に未だドキッとさせられてしまうように、急に近づいた彼女に身体が熱くなってしまう。
 
 「はい。これで良しっと」
 「…別にここまでする必要なんてないんじゃないか?」
 「それもそうなんだけどね。君ってついつい世話を焼きたくなっちゃう顔をしてるからさ」
 
 ーそれは褒められているのだろうか。
 
 恥ずかしくてつい口にしてしまった可愛げのない言葉への返答。それは何もしたくないと言われるよりかは遥かにマシなものであろう。だが、一人の男性として両手をあげて喜べるかと言えば、どうにも微妙だ。遠回しに可愛いと言われているようで素直に喜ぶ事が出来ないのである。
 
 「それよりこの店から早く出ないかい?ボクはそろそろお腹も減ってきたんだけれど…」
 「そうだな。じゃあ、会計を…」
 
 少し恥ずかしそうにセーター越しにお腹へと手を当てる彼女の姿は普段のクールな表情からは考えられないほど可愛らしい。何処か小動物のような雰囲気を感じさせるその仕草に私の胸がまた高鳴った。一体、彼女はどれだけ私をドキッとさせれば気が済むのだろうか。八つ当たりにも近いそんな言葉を胸中で紡ぎながら、私はそっと財布を取り出そうとした。
 
 「それはもう済ませたよ」
 「えっ」
 
 しかし、そんな私に向かって紡がれた言葉によってその動きが止まってしまう。それも当然だろう。何せ私が着替えている僅かな間に会計を済ませたと言っているのだから。あまりにも驚きすぎてカウンターで作業している店員の方を見るが、何も言わない。どうやら本当に会計を済ませてしまったらしい。
 
 ーしかし…恐ろしいまでの手際の良さだな。
 
 私のが着替えている時間は数分もなかったはずだ。その間に彼女はマフラーを選んだ上に店員に値段を計算させて、会計まで済ませていたのである。ただ流れを考えるだけでなく、裾直しに掛かる時間を把握しなければここまで見事な手順は踏めないだろう。
 
 ー…まさか…な。
 
 ふと脳裏に最初から全て計算尽くであったのかもしれないという考えが浮かび上がる。しかし、私は彼女とついさっき出会ったばかりなのだ。この店に入ったのも突発的なものでしかなく、最初から予定されていた訳ではない。勿論、彼女が悪意を持ち、私を詐欺に掛けようとして全てを計画している事は否定出来ないが……――
 
 ―しかし、そのメリットがどれだけあるだろうか。
 
 私は見事、別次元に突き抜けた格好をしていたのである。貴族と言うよりも山賊に近い格好をした私がお金を溜め込んでいると予想するような詐欺師はいまい。少なくともこの店や通りの貴族までを抱き込んで私一人を罠に掛けるような大金を持っているとは夢にも思わないはずだ。
 
 ―それに…ここの会計は彼女が済ませてくれた訳だし。
 
 詐欺の手順は相手の信頼を得る事からだと言うが、この店に並ぶ商品は通りに負けないほど高級なものばかりだ。そんな服を自分から差し出した所で、それ以上のリターンがあるとは限らない。王都の一般的な収入は知らないが、ここの店に並ぶ衣服を気軽に買えるほどではないはずだ。
 
 ―とは言え、これ以上、彼女に甘える訳にはいかない。
 
 「そうか。それで幾らだっただろうか?」
 「思ったより安かったよ。品揃えも悪くないし、結構、良い店だね」
 
 ストレートな褒め言葉が聞こえたのだろう。視界の向こうに見える店員の表情に嬉しそうなものが浮かんだ。その顔には自尊心が充足しているようなものが見え隠れしている。どうやらあの店員はこの店で働いている事にそれなりの誇りを持っているようだ。
 
 ―それはさておき。
 
 「いや、値段分を返したいから具体的な値段を聞きたいのだが…」
 「もう。ここはボクが支払うって最初から言っているだろう?」
 
 私の言葉に彼女が拗ねるような表情を浮かべながらそう言った。しかし、私だって「はいそうですか」と簡単に引き下がる訳にはいかない。ただでさえ、ここまで彼女に甘え、頼り続けてきているのだ。今更、男らしいところを見せたいとは口が裂けても言えないが、あまり頼りすぎる訳にはいかない。
 
 「しかし、これ以上、君に甘える訳には…」
 「それじゃあ今日の晩御飯は君が支払ってくれれば良いよ」
 
 そんな私にもたらされた彼女の妥協案は素直に飲めないものであった。それも当然だろう。見るからに高級店で服を一式揃えてもらった私に対して、彼女が受け取れるリターンがあまりにも少なすぎるのだ。かなりの高級店にでも行かなければ、ここで彼女が支払ったであろう金額の半分にも満たないはずだ。
 
 ―だが…きっと彼女はコレ以上の妥協はしないだろう。
 
 短い間だが接してきた中で彼女が意外に頑固な面があるのは分かっている。きっとこれ以上何を言っても譲る事はないだろう。ならば、ここで譲歩を望めない会話を続けるよりも妥協を引き出せた事を前向きに考えるべきだ。
 
 ―そうだな。彼女もお腹が減っていると言っていたし…。
 
 「…分かった。その案を飲もう」
 「ふふ…♪楽しみにしているね」
 
 出来るだけ高級店に言って、美味しいものでも食べさせてあげよう。それが今の私に出来る最大限の恩返しだ。そう思考を切り替えながら私は一歩前へと踏み出す。彼女はそんな私の脇に自然と並び、一緒に店の扉へと向かった。
 
 「あ、あの…お客様が着て来られた服の方はどうされますか?」
 「「あ」」
 
 そんな私達の背中に呼びかけられた声に私たちの歩みが止まった。そのまま後ろを振り向けば、試着室の隅に放置されている黒塗りの革鎧が目に入る。
 
 「必要ないのであればこちらで処分しておきますが…」
 「…どうする?」
 「…処分してくれるか?」
 
 別にあの革鎧に何か恨みがある訳ではない。代わりに愛着もないが、それ故に新品で、そもそもが安い買い物でもなかった。だが、あの革鎧を見ていると今日の失態をまざまざと思い返してしまいそうなのである。恥ずかしすぎるにもほどがある今日の出来事は出来れば永遠に心の奥底に封印しておきたい。そんな過去をほじくり返すような革鎧を手元に置いておきたいと思える理由が私にはなかった。
 
 「かしこまりました」
 「それじゃあ後は彼女に任せてボクらは行こう」
 「…そうだな」
 
 カランと扉を開く彼女の後を着いて私もまた大通りへと足を踏み入れる。そこにはもう夜の寒さが満ち、殆どの店が店じまいの準備を始めていた。これから先、店を開けておいても燃料代の無駄になるだけだから、それが賢い選択なのだろう。
 
 「それで…何処に行く?」
 
 そう言ってこちらへと振り返った彼女の顔にははっきりと楽しそうなものが浮かんでいる。恐らくではあるが、これまで受身であった私がどうするのか興味があるのだろう。勿論、そこに私を馬鹿にする意図はない。少なくともこれまでの彼女の仕草を見て、それだけははっきりと断言出来る。
 
 「そうだな…」
 
 ―生半可な店では彼女に恩返しなど不可能だし…。
 
 丁度良い事に、この辺りは高級店が立ち並ぶ通りだ。ならば、この通りを真っ直ぐ行けば高級レストランにも当たるだろう。そこでならば、彼女が支払った全額は無理でも金額の幾らかは返せるはずだ。
 
 「このまま真っ直ぐ行こう。良い店を知ってる」
 「ふふ…♪期待しているね」
 
 ―…期待されてしまった。
 
 勿論、「良い店を知っている」なんていうのは口からでまかせも良い所だ。一応、ナンパする対象とその場所くらいは考えてきたが、その先は私にとっては未知の領域だったのである。私が指南書とした本にも「らぶほてる」やら「じたくでぇと」などの訳の分からない文字が踊っており、具体的にどうすればいいのかまでにはあまり触れられていなかった。
 
 ―とは言え…ここまで言い切ってしまったのだ。
 
 今からそれは実は見栄だったというのは容易い。穏やかで心の広い彼女はきっとそれを仕方なさそうに笑いながら許してくれるだろう。そして、彼女の選んだ店へと足を運び、美味しい料理に舌鼓を打つのだ。それはとても無難で、私にとって負担の少ない道なのだろう。少なくとも、宛もなく彼女の前を歩く今の私のような心理的重圧は感じないはずだ。
 
 ―だけど…それではあまりにも一方的過ぎる。
 
 彼女に何もかもを任せ、主導権を委ねる。それは何も考えない楽な方法だ。しかし、それは何かを選ぶという精神的負担を彼女に押し付けているだけに過ぎない。それ故に、とても不健全かつ彼女の負担が大きいのである。特に今回は私が支払いをすると約束をしている以上、適正な店を選ぶのはとても難しいのだ。勿論、私自身にとっても難しい条件であるが、これくらいは自分で背負うべきだろう。
 
 「歩き心地はどうだい?突っ張ったりはしないかな?」
 「あぁ。問題ない」
 「それは良かった。どうやらいい買い物が出来たみたいだね」
 
 私の横に並び立つ彼女がそっとその表情に笑みを浮かべた。自分で使うものでもないというのにそんな風に無邪気に喜んでくれる姿を見るとどうにも誤解してしまいそうになる。だが、私はこのような美女に一目惚れされるほど容姿に優れている訳ではない。そう自分を戒めた瞬間、私の目に絢爛な店構えが目に入った。
 
 ―アレは…。
 
 日が落ちた夜の王都でかがり火のような大きな松明を燃やし、アピールする大きな店。その前には何台か馬車が止まっており、専用の厩まであるのが見えた。恐らく貴族御用達の高級店なのだろう。あの店であれば、彼女に少しくらいは報いる事が出来るはずだ。
 
 「あそこにしないか?」
 「うーん…」
 
 そう思って指さした私の横で彼女はそっと首を傾げる。その顔に浮かんでいるのは思索だ。私としては即頷いてくれると思っていたのだが、彼女にとっては何か気になる事があるらしい。そう判断した私は彼女の言葉を待とうと口を噤んだ。
 
 「…却下」
 「えっ」
 「あそこはダメだよ。少々、高すぎる」
 「いや…そうかもしれないが…」
 
 門構えから見て、かなりの高級店であるのは確かだ。だが、それくらいでもなければ彼女の恩に報いる事など出来ない。いや、それどころか、アレくらいのグレードでなければ、こうして一式揃えてくれた金額にも及ばないだろう。だからこそ、私はあの店にしたいのだが……――
 
 「少し失礼な事を聞くけれど、君はあの店に頻繁に入れるほどの高給取りなのかい?」
 「それは…」
 
 ―彼女のその問いが私の胸を浅く抉った。
 
 確かに私はあんな高級店に気安く入れるほどの高給取りではない。こうして王都に来ているのも貯金を全額つぎ込んでの事なのだ。そんな私があんな店へと足を運べば、最悪、明日にでも王都から発たなければならなくなるだろう。そんな事は私にも分かっている。しかし、それでも――
 
 「だけど、私としてはそれくらい君に感謝しているという事を…」
 「それはとても嬉しいよ。でもね。もうちょっと踏み込んでそれがボクにとって嬉しいかって事も考えて欲しいな」
 「……」
 
 ―嬉しいか…だって…。
 
 確かにそれを考えるのは大事だ。人付き合いにおける最低限の礼儀だと言っても過言ではないのかも知れない。だけど、安くて量を食べるような店よりもこうして格式のある高い店の方が彼女も嬉しいのではないかと思ったのだ。
 
 「少なくともボクは見栄の為にこんな見るからに高そうな店を選んで貰って気軽に寛げるほど馬鹿な女じゃないよ」
 「見栄のつもりなんかじゃ…」
 「じゃあ、明らかにボクらにとって値段が高すぎる店を選んだ理由を教えて欲しいな」
 「それは……」
 
 ―問いただすような彼女の言葉に明確に反論する事が私には出来なかった。
 
 私はこの店に入って、彼女に美味しい料理を御馳走する事が正しいと思っていた。だけど、それは彼女にとって到底、寛げるような状態ではないらしい。ならば…本当に彼女のことを考えるならば、ここは彼女の言うとおりにしておくべきなのだろう。少なくともここで自分の我を通そうとすれば、それこそ彼女の見栄という言葉を否定できなくなるし、エゴになってしまうのだから。
 
 「お互い背伸びをしたい年頃じゃないんだ。等身大のボクらで楽しめるような店が良い。ボクも君も気負わずに自分の責任の範囲内で楽しめるような…楽しいお店が…ね」
 「……すまない」
 
 言い聞かせるような彼女の言葉に私の口からようやく謝罪の言葉が出てきた。それに彼女の顔が綻び、淡い笑顔が戻ってくる。華が咲いたようにも錯覚するそれに思わず胸が高鳴った。自己嫌悪や彼女に対して僅かに抱いた反発も鼓動によって押し流されていくようである。ある種、卑怯とも言える彼女の笑顔に私が勝てない事を悟った瞬間、彼女はゆっくりとその口を開いた。
 
 「いや…ボクの方こそごめん。君の好意をねじ曲げるような事をして。流石に少し差し出がましかったね」
 「だが…君の言葉は正しいと思う」
 「だけど、少し態度が強硬過ぎたと思うよ。…やれやれ。中々、上手いこといかないものだね」
 
 そう言ってその笑顔を気まずそうに変える彼女の言葉を私は信じる事が出来なかった。それも当然だろう。私にとって彼女は何でも出来る天上人のようなイメージが強かったのだから。そんな彼女が私の目の前で反省している姿を見ても、それが事実であると認めるには少し時間がかかってしまう。
 
 「なんだい?ボクが反省しているのが意外かな?」
 「…端的に言えば」
 「ふふ…♪君は正直だね。そういう所も好きだよ」
 「好っ…!?」
 
 からかうような彼女の言葉に思わず顔が赤くなってしまう。予想もしていなかったどころか、考えもしていなかった言葉を向けられて平然としていられるほど私は対人関係に詳しくはない。困惑や混乱という域にまでは達しないものの、彼女の言葉が何度も胸中で反響し、中々、離れてはくれなかった。
 
 「まぁ、正直に白状してしまえばボクも友だちが少ないのさ。だから、友達付き合いに関してはそれほど経験豊富って訳じゃないんだよね」
 「そう…だったのか…」
 
 そんな私に向かって放たれた暴露を私は中々、上手く咀嚼する事が出来ない。私の中で天上人にも近い存在であった彼女が意外にも自分の身近だった事を知った驚きだけでも私の処理能力を遅らせているのだ。その上、胸中で未だに響く彼女の「好き」という言葉が私から冷静さを失わせ、思考回路を停滞させる。
 
 「ちなみに友達は何人くらいなんだ?」
 
 ―だからこそ、私はその場の繋ぎに特に何も考えずそう問いかけてしまった。
 
 そして口にし終えた瞬間、それがかなり失礼な質問である事に気づいた。いや、自分で友だちが少ないと言っている相手にその人数を問うだなんて、失礼どころか喧嘩を売っているレベルの話だろう。それに気づいた私が急いで訂正しようとするも、驚きと困惑で固まった思考は中々、動いてはくれない。そしてそんな私よりも先に彼女が少し気まずそうに口を開いて……――
 
 「…二人」
 「え?」
 「…だから、君を含めて二人しかいない」
 
 ―なん・・・だと・・・!?
 
 私をこうして導いてくれた人が私以外に一人しか友人を持っていない。その事実に私の思考は完全に停止し、彼女もまた気まずそうに目を伏せ続けて一言も発さなかった。結果として、私たちの間に気まずい沈黙が流れ、私の困惑だけが加速していく。
 
 ―こ、このままではいけない…!
 
 その困惑の御蔭で停止した思考が動き出し、この状況に関する警鐘を鳴らした。経験のない私の肌にピリピリとした感覚が伝わってくるほど今の状態は拙い。それを何とか打破しようと私は必死に不慣れな思考を紡ぎながら、口を開いた。
 
 「だ、だが、君は積極性もあるし、話題も持っている。寧ろ友達が少ないのが不思議なくらいだぞ!」
 
 そう。彼女は私とは違って、積極性も話題もちゃんと持っているのだ。友人がいないのが不思議なくらいだと言ったのは決してお世辞ではない。その気になれば私だけじゃなく、様々な相手とも友人関係を結べるだろうと思ったのは確かだ。この状況を打破しようとして咄嗟に出てきた言葉とは言え、嘘ではない。
 
 「フォローありがとう。…まぁ、色々あってね」
 
 そう言って目を細める彼女は何処か遠くを見ているようにも感じる。…いや、きっとその『色々あった』当初の事を思い返しているのだろう。その瞳に何か胸の奥が疼くのを感じるが、私はそれに踏み込めるほど親しくはない。彼女は友人と言ってくれているが、出会った初日の異性に話せるような事ではないのはその瞳からも伝わってくる。
 
 「…私で良ければいつでも相談に乗ろう」
 「ありがとう。…君は優しいね」
 「いや…そんな事はない」
 
 こんな事しか言えない私が優しいなどという言葉を向けられる資格はない。本当に優しいのであれば、もっと気の利いた台詞が出てくるはずだ。だが、今の私にはこんな無難な言葉しか紡ぐ事が出来ない。その歯がゆさに思わず指に力が入るのを感じる私の前で彼女がそっと微笑んでくれた。
 
 「…さて、少し暗い雰囲気になってしまったね。申し訳ない。気を取り直して別の店に行こうか」
 「しかし…私は俗に言う『良い店』など知らないんだ」
 
 見栄を張るなと言われた以上、正直に言うべきだ。そう考えた私の口から情けないにもほどがある言葉が漏れ出る。こんな事ならば最初からちゃんと言っていれば良かったと後悔を抱く私に彼女は優しく微笑んでくれた。どうやら、幻滅はしなかったようである。…まぁ、もっとも出会いからしてそんな余地がなかったとも言えるのだが……――
 
 「ふむ。それじゃあ君は何時も何処で食事を採っているんだい?」
 「それは…私の宿の一階にある酒場だが…」
 「じゃあ、そこにしよう」
 
 思索を体現するように唇に手を当てた彼女はそう言って、ぽんと両手を叩いた。まるでそれで結論が出たと言わんばかりの彼女の仕草は可愛らしく、その言葉も有難い。普段の食事代を単純に二倍すれば良いだけなのだから、滞在期間にもそれほど響かないだろう。しかし、それで本当に大丈夫なのかという不安がどうしても私の中から消えなかった。
 
 「だが、良いのか?安いし、騒がしいし、味もそこそこだぞ?」
 「構わないよ。寧ろ君が普段、口にしている料理と同じのを食べたいと思っていたところだから」
 「う…」
 
 聞きように依ってはアプローチにも聞こえるであろう彼女の言葉に顔がまた赤くなってしまうのを感じる。しかし、彼女にはまったく表情の変化がなく、恥ずかしがってもいない。うっすらと浮かぶ微笑のままだ。きっと彼女にとってそれはアプローチでもなんでもなく、ただの言葉のあやという奴なのだろう。
 
 ―…やれやれ。これでは彼女の周りの男性は大変そうだな。
 
 出会ってまだ数時間の私にまでこんな風に心を許し、ドキッとさせる言葉を向けるのだ。普段から彼女の周りにいる男性にとって、毎日が自制や誤解との闘いになるだろう。そんな男性どもに対してドス黒い嫉妬を抱いたのを見ない振りをしながら、私はそっと足を動かし始める。
 
 「それじゃあ…こっちだ」
 「了解♪…ふふ。楽しみだね」
 「…あんまり楽しみにして空振りになっても知らないぞ」
 「おや?心配してくれてるのかい?でも、安心してよ。ボクが楽しみなのは料理の味じゃなくて、君と一緒に食事する時間そのものだから」
 「〜〜〜〜〜っ!!」
 
 そう言ってクスリと笑う彼女にまた思わずドキリとさせられてしまう。そんな風に言われたら、自意識過剰だと分かっていてもどうしても意識してしまうのだ。出会ってまだ数時間の女性にそんな感情がないと理性では分かっているなのだが…分かっていても対処は難しい。
 
 「?どうしたんだい?」
 「い、いや…なんでもない。それより…」
 
 私たちは立派な通りを越えて、人通りの少ない路地を踏み入れていた。そこには微かに近くの民家から光が差し込む以外に光源らしい光源はない。住宅街の近くという事もあって昼にはそこそこ人通りもある場所ではあるが、流石にこの時間では殆ど人の姿は見えなかった。
 
 「すまない。一応、大丈夫だとは思うのだが…ここを通らないと大回りしなければいけなくなる。それで…なのだが…」
 
 私一人であれば何も問題はない。王都は治安が良いと聞くし、どれだけ運が悪くとも有り金全て奪われる程度で済むだろう。だが、それはあくまで男の話だ。彼女のような美人は有り金よりも先にもっと心配しなくてはいけないものがある。無論、私も彼女を全力で護るつもりだが、これまでマトモに運動したことのない私に彼女を護れ切れる自信などあろうはずもない。
 
 「普段、私が歩いていて一度も襲われた事がないから大丈夫だと思う。…とは言え、この暗がりだ。君が嫌であれば遠回りをするが…どうする?」
 「じゃあ、大丈夫だろう」
 
 ―そう言って彼女は躊躇なく足を踏み出した。
 
 何の迷いもなく踏み出されたそれは思わず惚れ惚れとしてしまいそうなほどに思い切りが良かった。私はそれほど優柔不断のつもりはないが、即断即決を体現するようなその歩き方に思わず軽い羨望を覚えてしまいそうになる。
 
 「良いのか?」
 「一応、それなりに腕に覚えもあるからね。それに…君も護ってくれるんだろう?」
 「う…」
 
 それでも念を推す必要があるだろうと口にした私の言葉に彼女はそっと振り向きながらそう応えた。信頼と共に悪戯っぽさの混じる魅力的なその笑顔にまた胸の奥が熱くなってしまう。だが、それに惑わされて流される訳にはいかない。恥ずかしい言葉ではあるが、ちゃんと自分が戦力外であることは伝えておく必要があるのだから。
 
 「…残念だが、私には腕の覚えなどない」
 「それで構わないよ。強さ云々よりも大事なのは君の心持ちだからね。君がボクを護ろうとしてくれるだけでボクは嬉しい」
 「…君は…もう本当に…」
 
 私の中の男性を刺激するような彼女の言葉に私はそっと額を抑えた。そこは自分の手でもはっきりと分かるほどの熱を灯している。恐らくではあるが、顔全体が赤くなっている事だろう。そんな自分の変化を自覚しながら、私は一つ溜め息を吐いた。
 
 「なんだい?具合でも悪いのかな?」
 「…いや、大丈夫だ。寧ろ元気過ぎるほど元気だ」
 「…?」
 
 私の言葉の意味をうまく把握出来なかったのだろう。彼女は小さく小首を傾げて私に疑念の篭った視線を向けた。しかし、それに応えてやる余裕も気力も今の私にはない。何せ私の中の元気な部分――心臓の鼓動は痛いほどに高鳴り、身体中に熱を送り込んでいるのだから。聞いたこともないくらいに力強い鼓動をさらに滅茶苦茶にされたら本当にどうにかなってしまいそうだ。
 
 「まぁ、元気だったら良いんだけどね。ただ、辛いなら言って欲しいな。ボクに出来る事があれば何でもするから」
 「あぁ、うん。その時は頼む」
 
 ―…本当はそういう誤解しそうな言動を控えてくれると有難いんだがな。
 
 とは言え、彼女のそれらの言葉に救われているのもまた事実なのだ。それなのに彼女の言動が全て引っ括めて悪いような言い方は到底出来ない。結局、どう言えば良いのか分からない私はそれを言葉にするのを諦めて彼女を先導するように歩き続けた。
 
 「よっと……」
 
 そのまま路地を抜ければ、また別の大通りへと到着する。まだまだ人通りの多いこの大通りは王都の中の主要な血管の一つと言っても良いほどだ。馬車が通れるほど完璧に石畳が整備されている訳ではないが、人が自らの足で踏み均した大地はそれなりに硬い。雨さえ降らなければ、馬車も簡単に通る事が出来るだろう。
 
 ―そんな大通りの中に大きな門構えの宿が目に入る。
 
 木造の扉からは見慣れたろうそくの暖かい光が漏れ出し、中の喧騒と共に大通りを温める。がやがやとごった煮のような騒がしさは決して悪いものではなく、外から見てるだけでも活気を感じさせた。その活気に引きつけられるように私の足は自然とその宿へと向かい、隣の彼女と共にその扉を潜る。
 
 「いらっしゃ…あ、いや、おかえりなさいだね」
 「ただいま」
 
 そんな私を迎えてくれたのは恰幅の良い女性だった。元は美人だったのだろう。既に50を超えたと聞くが肌のハリは強く残っており、皺も殆どない。顔の形も整っており、痩せさえすれば昔の美人さが垣間見える事は確実だ。もっともこの女性――この宿『振り返る雨雲亭』の女将がどれだけ若かろうと彼女には敵わないだろうが。
 
 「おや…まぁ、まさかアンタがそんな美人さん捕まえて来るなんてねぇ」
 
 失礼な事を考えていたからだろうか。女将がニヤリといやらしく笑いながら、視線をこちらへと向ける。そのまま「上手くやったじゃないか」と言ってくれるが、正直、それを素直に受け止める事は難しかった。何せ私は彼女をこうして連れてくるまでに何一つとして自分から動いていないのだから。ただ単純に運が良かっただけなのに、褒められても素直に喜ぶ事は出来ない。
 
 「はは…それより席は開いているか?二人で夕食を取りたいのだが…」
 「折角、アンタの祝いの席なんだ。空いてなくとも空けてあげるよ。とは言え、運が良いね。今日はまだ空席があるよ」
 
 まるで普段は空席がまったくないような口ぶりではあるが、決してそうではないのを私は知っている。この『振り返る雨雲亭』は大通りに面する上にそれなりの規模を持つ宿ではあるが、祭りも何もない時期に人で一杯になるほど有名な店ではない。そもそも現在の世界事態が未曽有の混乱期にあり、旅をする人間のそれほど多くはないのだ。特に目立った観光名所がある訳でもないこの国を祭りも何も無いのに訪れるのは商人くらいなものだろう。
 
 「まぁ、適当に座っておくれ。後で水を持って行くから」
 「分かった」
 
 女将にそう答えながら私は一番、手近な席へと座った。二人用に作られたであろうこじんまりとした円形のテーブルを挟んで彼女もまたそっと椅子へと腰を下ろす。自然、向かい合う形となった彼女にテーブル脇のメニューを差し出した。
 
 「どうぞ。好きなものを頼んでくれ」
 「ありがとう。気が利くんだね」
 
 そっと微笑む彼女に思わず頬が赤く染まるのを感じる。そろそろ慣れたいものではあるが、まだまだ難しいらしい。そんな自分に自嘲の笑みを浮かべながら、私はこの数週間で覚えてしまったメニューの中から注文を考えていく。
 
 「ふむ…そうだね。君のオススメはなんだい?」
 「私の?」
 「あぁ。どうせなら君に任せた方が面白そうだ」
 
 そんな私の前でメニューを広げながら、彼女がチラリとこちらへ視線をくれる。何処か伺うような視線に私の中の庇護欲が刺激された。そこまで言うのであれば、是非とも美味しいものを食べさせてやりたい。そう考えた私は思考に浮かんだメニューの中から特に味が良かったものを幾つかピックアップする。
 
 「そうだな。ローストチキンは美味しかったぞ。茹でじゃがもそこそこのものだった。サラダは温野菜の物が良いな。他も悪くないが、一番美味しかったのはそれだ」
 「了解。それじゃあ、その3つで行こう」
 
 即決する彼女に私は思わず唖然とした表情を浮かべてしまう。それも当然だろう。確かに任せると言ったがまさかそこまで早く決定するとは思わなかったのだから。私と彼女の味覚が違う場合もあるし、もう少し具体的な内容まで踏み込んだ方が良いと思うのだが……――
 
 「…良いのか?」
 「何、もし失敗だったと思ったら君から料理を分けて貰うか交換してもらえば良いだけさ。まぁ、そんな事はないって信じてるけどね」
 「はい。お冷だよー」
 
 彼女がそう言って軽くウィンクを見せた瞬間、女将が私たちの前に水の入ったグラスを置いた。表面にかすかな水滴が浮かんでいるグラスから中の水がとても冷えている事が伝わってくる。この辺りは名水の産地でもあり、そこかしこの井戸が存在しているのだ。きっとその井戸から組んできたばかりの水なのだろう。
 
 「それで注文は決まったかい?」
 「あぁ。まずは…」
 
 お盆を片手にこちらを見下ろす女将に向かって、私は彼女の注文を返した。それから自分の分の注文を紡いでいく。幸いにして彼女が先に注文を決め、分けて貰うと言ってくれたお陰で注文も考えやすい。先にあげたラインナップに被らず、かつ味もそれなりに自信がある料理を注文すれば良いだけなのだから。
 
 「それでお酒はどうするんだい?まさかここまで来て、素面はないだろう?」
 「…どうする?」
 
 その注文を全て脳裏に記憶したのだろう。この道、30年だと自慢気に言っていた女将はメモも取らずにそう尋ねた。普段の私はお酒をあまり嗜まないタイプではあるが、女性の前で気が大きくなっていると見たのだろう。まさにその通りだと内心、自嘲しながら私は対面の彼女に尋ねた。
 
 「そうだね。それじゃあ乾杯用に一杯だけ貰おうかな」
 「分かった。エールも一杯ずつ頼む」
 「あいよ」
 
 2828といやらしい笑みを浮かべながら、去っていく女将の背中に思わず溜め息が漏れそうになってしまう。アレは完全に誤解した顔だ。きっと私が彼女に惚れているとでも思い込んでいるのだろう。しかし、会って数時間の女性に恋心を抱くほど私は軽い男性ではない。確かに彼女に対してドキっとする事はあるが、それは彼女があまりにも魅力的なだけであって不可抗力に近いのだ。
 
 ―しかし…そんな彼女に振る話題がない。
 
 女将が去ってしまった後、私達の間に沈黙が流れる。歩いている時はそれほど気にはならなかったとは言え、こうして対面に座っているとその沈黙が妙に気まずく思えるのだ。彼女に退屈されて呆れられてしまっているのではないかという不安が鎌首をもたげ、ついつい視線を彷徨わせてしまう。
 
 ―…今までは彼女の側から話題を振ってもらっていたからな…。
 
 完全に彼女に依存している事をまた一つ自覚した私は内心、溜め息を吐いた。このままでは折角、私の練習に付き合ってくれている彼女に申し訳ないと思うものの、思考は空回りして上手く話題を作り出す事が出来ない。それがまた焦りへと繋がり、悪循環へと陥るのが分かった。
 
 「ふふ…♪そんなに不安がらなくて良いよ。ボクは別に退屈している訳じゃないんだから」
 「いや…でも…」
 「もう。…あ、そうだ。それだったらこの国の事を聞かせてくれないかな?」
 「…この国の事を?」
 
 その洗練され方からてっきりこの王都に住む娘だと思い込んでいたが、どうやら彼女は違うらしい。いや、それどころか彼女はこの国の出ですらないようだ。一体、彼女は何者なのか。そんな事を考えながら私は首を捻る。
 
 「ボクはついこの前、この国に来たばっかりでね。実は土地勘なんてまったくないんだ」
 「…旅人だったのか?」
 「うん。まぁ、そんなものだね」
 
 ―なるほど。だから、あんな風に力強く、啖呵も切れたんだな。
 
 思い返すのは高級店立ち並ぶ大通りでの事。あそこでの彼女はまるで周囲の視線を意にも介さず、はっきりと言い放った。それはきっと旅をしている中で身についた度胸という奴なのだろう。
 
 「…とは言っても、特に何か変わった所がある訳じゃない。水が有名だから酒や野菜が美味しいと評判なくらいだ」
 
 聞かせてくれと言われても特に何の変哲もない国だ。精々、名水が湧く事で有名であり、酒や野菜が美味しい程度である。国土は中規模であり、国力も飛び抜けて大きい訳ではない。この戦乱の時代の中で何時、平和が乱されるか分からない程度のどこにでもある普通の国なのだ
 
 「まぁ、そんな訳だから料理と酒に関しては期待しても良いかもしれないな」
 「なるほど。それは楽しみだね」
 
 そっと微笑む彼女の顔は惜しげもなく、喜色が表現されていた。本当に楽しみにしてくれているのが伝わってくるその表情に思わず私の顔も綻んでしまう。完全に自分の話術だけで喜ばせられた訳ではないが、マトモに会話出来なかった頃からすれば大きく前進していると言えるのだ。思わず笑顔になってしまうのも無理からぬ事だろう。
 
 「しかし、野菜が美味しいと評判な割りには道路があまり舗装されていないようだけれど…」
 「あぁ、確かにな」
 
 水はさておき野菜の供給には道路整備が必須だ。一度に大規模な物量を運ぶには人の手はあまりにも小さすぎる。自然、大規模輸送には海路か馬車を使わなければいけないのだが、この国では後者の礎になる道路があまり整備されていない。それでは評判にならないのではという彼女の疑問も尤もだろう。
 
 「噂でしかないんだが、教団の出征費用を要求され、舗装が間に合わないらしい。真偽のほどは分からないが、この前の通りも結構大事な通りではあるが、未だに地肌が露出しているからな。何かしら理由があって放置されているのは確かだろう」
 
 ―まぁ、もっと大規模な王国であれば全ての通路が石畳で舗装されていると聞くが…。
 
 しかし、大陸の端へと位置し、それほど規模の大きくないこの国では王城やその周辺に整備するのが精一杯である。流通だけでなく、もっと交通の便――この場合は『貴族の』という冠詞がつく――を良くしようとする計画そのものはあるらしいが、それはもう数十年も前から頓挫したままだそうだ。
 
 「まぁ、この国は新興国だからな。それほど力も強くないし、足元を見られているんだろう」
 
 そう。この国の歴史は50年にも満たない。私が生まれる前から存在してはいるものの、国としてはまだまだ子どもなのだ。それ故にインフラの整備はまだまだ進んでいるとは言い切れず、私が住んでいた街はそこそこの規模があったので神学校こそあったが、それより小さな街では学校の整備すら進んでいないのが現状だ。
 
 ―それもこれも教団の搾取が原因らしいが…。
 
 大陸の過半数の人々が信仰している主神。その中心となる教団は国を治めるにあたって重要なファクターとなる。だが、現在の教団のバランスは最早、それでは説明が出来ないほどになっている。国を左右するまでの力を一宗教団体が持ち合わせるなど、普通に考えれば正気の沙汰ではない。少なくとも、この国のようにインフラ整備よりも教会の設立が優先されるなどあってはならない事だ。
 
 「おや、その言い草だと君は一物を持っているようだけれど…」
 「別に隠す事じゃないからはっきり言うが、私は教団の言う事を全て鵜呑みにしている訳じゃない」
 
 組織というのは大きくなれば大きくなるほど、保守的になる傾向がある。今ある既得権益を護りさえすれば、一生安泰で暮らしていけるのだ。保守的になるのも当然と言えるだろう。だが、それは自らの既得権益を護る為にその権力と影響力を振りかざす事でもあるのだ。新興国に暮らす一役人ではその全容すら見えない組織の言葉を、疑いもなく飲み込むほど私は馬鹿ではない。
 
 「…じゃあ、君は魔物をどう考えるんだい?教団からすれば、彼女らは人類の敵だそうだけれど」
 「さぁな。会った事もない相手の事など分からん。ただ、本当に人類の敵だとすれば、彼らの言う『神様』がどうして自ら動かないのかが気になるな」
 
 ―そう。彼らの言う主神はとても慈悲深い神なのだ。
 
 教団からすれば『勇者』もまた主神から力を授かった特別な人間だ。実際、勇者の中には神のお告げとやらを聞いた連中もいるらしい。だが、そうやって人間の手に委ねるよりは全知全能の主神が自ら手を下せば良いだけのはずである。それでも有史以来ずっと人類が魔物と争い続けているという事は…――
 
 「…つまり?」
 「神は本当は存在しないか或いは信仰を集める為のマッチポンプか。どちらにせよ碌でもない予想しか出来んよ」
 
 あまりにも魔物と人間の戦いの歴史は長く続きすぎている。その中で何度も魔王や勇者と呼ばれる人々が現れ、世界のパワーバランスを揺れ動かしてきたのだ。しかし、それほどの闘いが数えきれないほど起きているにも関わらず、人間も魔物も滅びてはいない。こちらには全知全能の神がついているにも関わらず…だ。その不自然さは信仰に疑いを持つには十分過ぎるだろう。
 
 「では、君は魔物は味方だと思うのかい?」
 
 ―そう尋ねる彼女の瞳には微かに期待の色が見えた気がする。
 
 しかし、今は魔物の話をしているだけだ。そんな風に彼女に期待されるはずがない。私はまだまだ対人関係に関する経験値が少ないから、きっと気の所為なのだろう。そう判断して、私はその印象を打ち切った。
 
 「まさか。そこまでお花畑ではないさ。魔物が人間を喰う話は私も知っているし、実際に行方不明者が魔物に喰われたという訴えも聞いている。人に害意を持つ存在である事だけは確かだと思っているよ」
 「…そうか」
 
 ―ん?
 
 私の返答に彼女はそっと表情を曇らせた。しかし、私の返答にそんな反応を見せる余地があったとはあまり思えない。私の返答はあくまで無難な――正確に言えばどっちつかずな――ものである。答え合わせなどしたことがないので推測でしかないが、普遍的とは言わずとも多くのものが持ってる考えだろう。
 
 ―そもそも…。
 
 教団への疑問を口にしただけで、どうして魔物が味方であるという事まで飛躍するのかまるで分からない。だが、まるで魔物が教団とだけ敵対しているような彼女の口ぶりには強い疑問を感じるのだ。旅をしてきただけに書物でしか世界を知らない私よりもよっぽど世界を知っているのは確かだろうが…彼女は一体、何を知り、何を見てきたのだろうか。
 
 「…では、君は親魔物領に関してはどう推察する?教団の言う通り魔物が人を喰らうだけの化物であれば、その根底自体が崩れ去るだろう?」
 
 それを口にするよりも先に彼女が次の質問を口にした。確かにそれは私としても興味深いテーマである。魔物が本当に人を喰らう化物に過ぎないのであれば、魔物との共存を打ち立てる国などあろうはずがない。だが、現実、世界ではそのような主義主張をする国が増えていると言うのだ。
 
 「私の周りは魔物が知恵をつけて、人間の国を乗っ取ったと言っているな」
 「でも、君は信じていない。そうだろう?」
 
 ―確信に近い彼女の言葉に私は思わず笑みを浮かべてしまう。
 
 そう。私は教団の解釈に疑問を持っているのだ。そんな私が教団の言葉を鵜呑みにするようなその言葉に容易に同意するはずがない。きっと彼女はそう思ったのだろう。ついさっき教団の言葉を鵜呑みにはしてないと言ったばかりとは言え、それは自分を理解してくれているようで少し嬉しい。
 
 「そうだな。そんな知恵があるのであればもっと前から行われていたはずだ。国を乗っ取ろうとしているという説明そのものは悪くないが『どうして今』なのかという点が明らかに欠けてる」
 「では、君はどうして今だと考えるんだい?」
 「さぁな。そこまでは分からん。だが、世界そのものが変質しているのと無関係ではないと思う」
 「…世界そのものが?」
 「あぁ。最近では海は魔物の独壇場で、対策もせずに人が踏み入れられるような場所ではない。これまでも嵐や魔物の影響で危険な場所ではあったが、最近では危険のレベルが違う。他にもかつては一地域のみであった魔界がその勢力を広げてるというのも無視出来んな。新魔物国家の出現もそれらと同じレベルで考えるべき問題だと思う」
 「ふむ…」
 
 世界レベルにまで話を広げた私の言葉を咀嚼するように彼女はそっと唇の前に手を置いた。思索にふけるようなその姿は私の言葉を馬鹿にせず真剣に受け止めてくれているのが分かる。少なくとも馬鹿にする様子がないのは素直に嬉しいが、実際に旅をして世界を見て回ってきたであろう彼女にそう真剣に考えられると恥ずかしい。
 
 「…少々、荒唐無稽だったか?」
 「いいや、とても面白い考察だったよ。思わず考えこんでしまうくらにはね」
 「そうか。それなら良かった」
 「なぁに色気のない会話をしてるんだい?」
 
 そう言って私たちの会話に割り込んできたのは両手に木製の盆を持った女将だった。どうやらこうやって話している間に料理が出来上がったらしい。その盆の上に暖かそうな湯気を立ち上らせる皿が並んでいるのが分かった。
 
 「もっと若いもん同士、情熱的な会話をしなきゃあね」
 「…女将。別に私と彼女はそんな関係じゃ…」
 「はは。そうだね。流石にちょっと色気がなさすぎたかな」
 「えっ」
 
 流石にそれは彼女にも失礼だろう。そう考えた私が女将の言葉を否定しようとした瞬間、彼女は私よりも先にそう返した。それに驚いて彼女の顔を見るが、彼女には何の照れも浮かんではいない。あくまで相槌の一種なのだろう。一瞬、期待してしまっただけに少し残念ではあるが、ただでさえドキッとさせられる事の多い彼女に色気のある会話などされてしまえば、どうなるか分からない。
 
 「ははっ、やだねぇ。もう尻に敷かれてるのかい?」
 
 そんな私の様子を見て、力関係を正確に把握したのだろう。女将は大きな盆から料理を並べながらそんな風に笑った。それに何となく居心地の悪さを感じるが、私よりも居心地が悪いのはきっと彼女の方だろう。善意で冴えない男性を相手にしているのに、尻に敷いていると言われたのだから。
 
 「いえいえ、それはあくまで一面的な見方ですよ。彼は包容力が大きいですからボクを受け止めてくれているんです」
 「う…」
 
 しかし、女将の言葉に切り返した彼女の言葉はそれをまったく感じさせないものだった。まるで不快さを感じさせない明るいその声に安堵を感じる反面、胸がまた高鳴ってしまう。
 
 「おやおや、男を立てる良い娘じゃないか。アンタ、こういう娘は少ないんだからちゃんと捕まえておくんだよ」
 「お、女将っ!」
 
 最後にエールをテーブルに置きながら捨て台詞を残して去っていく女将を咎めるような台詞が出てしまう。しかし、女将はまるでそれを気にしていないかというかのようにふくよかな身体で厨房の方へと戻っていった。その背中が消えるまでじっと見つめ続けた私は軽く浮いた腰を椅子に戻しながら溜め息を吐く。
 
 「…すまないな。後で誤解は解いておくから…」
 「別に構わないよ。悪い気はしなかったしね」
 「え…それってどういう…」
 「ほら、そんな事よりも先に食事にしようよ。折角、暖かい御飯が来たんだし、ボクもお腹ペコペコなんだよ」
 「…そうだな」
 
 彼女の言葉を問いただしたくはあったが、ずっと前から彼女は空腹を訴え続けているのだ。自分の疑問に拘るよりも、食欲を満たすのが先であろう。少なくとも、そちらの方がここでグダグダと会話を続けるよりはよっぽど彼女の恩返しになるはずだ。
 
 「それじゃあ乾杯…と言いたい所だけど、何に乾杯しようか?」
 「なんでも良いんじゃないか?」
 
 そう言いながら、彼女はエールが波々と注がれたグラスを持った。その仕草一つにも洗練された印象を受けながら、私もそっとグラスを持ち上げる。だが、彼女は私と同じようになんでも良いとは思わなかったらしい。私の前で思索にふけるような表情を見せた。
 
 「うーん。…そうだな。これで行こう」
 「決まったか?」
 「うん。それじゃあ……君とボクとの出会いに乾杯」
 「……え?」
 
 信じられない彼女の言葉に私の身体が硬直するが、彼女のグラスはそれとはお構いなしにカツンと体当たりしてくる。そのまま彼女はグラスを口へと運び、ゆっくりと傾けた。コクコクと喉仏を見せつけるように動かす姿は妙に艶めかしく、扇情的で……――
 
 「ふぅ。…あれ?飲まないのかい?」
 「あ、あぁ、いや…すまない」
 
 そんな事を考える私の前で一口目を飲みきった彼女が不思議そうに尋ねた。それにようやく我に返った私は彼女に倣うようにしてグラスを口へと運ぶ。瞬間、エールの独特の苦味とアルコール臭が口の中へと流れこんでくるが、それ以上にさっきの彼女の言葉が脳裏でリフレインし、味の殆どが分からなかった。
 
 ―お、落ち着け。冷静になるんだ。
 
 彼女が私の事を何とも思っていないのはこれまでの反応でよく分かっている。あれはあくまで乾杯するネタがなかっただけに過ぎないのだ。それをこうまで意識しては彼女としてもやりにくいだろう。そう自分に言い聞かせながら、私はそっとグラスをテーブルに置いた。
 
 「君の言う通り中々、美味しかったよ。これだったらもうちょっと飲めそうだね」
 「普段はあまり飲まないのか?」
 「そうだね。友人に誘われて少し嗜む程度かな」
 
 そう言う彼女の顔は何も変わっていなかった。外で見るよりは幾らか顔が赤くなっているようにも感じるが、それはこの宿に入ってからである。きっと照明の都合であろう。少なくともエールを飲む前後では変化が見られない事を考えるに、嗜むと言っても許容量は大きそうだ。
 
 ―…まぁ、別に彼女を酔い潰そうだなどと分不相応な事を考えている訳ではないが。
 
 「それよりまずはどれから食べれば良いかな?」
 「まずは茹でじゃがを片付けるのが一番だと思うぞ。冷めると味が一番落ちるのはそれだからな」
 「なるほど。確かにそうだね。それじゃあ頂きます」
 
 そう言って彼女はフォークの側面で茹でじゃがを切り崩していく。そして、長時間茹でられ、ボロボロになった茹でじゃがをフォークで突き刺し、そっと口へと運んだ。そんな彼女の頬には軽く手を当てられており、ゆっくりと味わおうとしているのが伝わってくる。しかし、それは何処か上品な反面、可愛らしく、何処か私を微笑ましい気分にさせるものだった。
 
 ―…いや、あんまりジロジロ見てると失礼だよな。
 
 そんな可愛らしい顔を何時までも見ていたいが、こうしてジロジロ見られていると彼女としても食べづらいはずだ。そう思考を切り替えながら私は目の前のムニエルを突付く。牛乳の甘みを引き出した白いサワーソースに横たわる鮭のムニエルはとても美味しそうだ。それをナイフとフォークで切り分け、口へと運ぶ。瞬間、口の中にサワーソースの甘さと酸味、そして魚介類の旨みが広がり、空腹が和らいでいくのを感じた。
 
 「…うん。美味しいね。塩コショウの加減が丁度良い。綺麗に粉も吹かせてあるし、見た目も素敵だな」
 
 未だ咀嚼を続ける私の前で彼女はそう料理を褒める。しかし、それはさっきまでと違って、何処かぎこちないものだった。それは嘘を吐いていると言うよりは、無理に褒めようとしてくれていると言う方が近いぎこちなさである。一体、彼女はどうしてしまったのか。心の中でそんな疑問が鎌首をもたげるが、それを口にしようにも口の中に食べ物が入ったままだった。
 
 「それはムニエルかな?そっちはどうだい?」
 「んぐ…。いや、これもそれなりに美味しいぞ」
 「そうか。それじゃ…良ければボクの分と交換しないかな?」
 「勿論だとも。それじゃあ茹でじゃがを貰えるか?」
 
 彼女に勧めるほど自信があるだけに私はこの店の茹でじゃがはそれなりに好物だ。主菜と副菜という違いはあるが、ムニエルと同等かそれ以上に好きである。勿論、彼女の側にはそんな私の好物ばかり並んでいる訳だが、彼女が口をつけていないのを先に私が頂く訳にはいかない。
 
 「…いいのかい?それはそっちのメインディッシュだろう?」
 「茹でじゃがは好物なんだ。私にとってはその価値がある」
 「ふふ…了解したよ」
 
 どうやらお互いに合意が成立したらしい。彼女はクスリと笑いながら頷いた。それを見た私はそっと陶器製の皿の縁を持ち、彼女に向かって差し出すが……――
 
 「はい。あーん」
 「…え?」
 
 それに返されたのは茹でじゃがの乗った木製の皿ではなく、彼女のフォークだった。その意味が分からず、唖然とするが彼女はそれに答えてくれるつもりはないらしい。その顔をにっこりと輝かせたまま、フォークを向けてくる。
 
 「あの…え?」
 「ほら、あーんだよ。ちゃんと食べてくれないと困るじゃないか」
 
 ―…いや、そんな事しろと言われる方が困る訳だが。
 
 何しろ私はついこの間まで自他ともに認めるコミュ障だったのだ。そんな私にいきなり衆人環視の中で「あーん」しろと言われる方が酷だろう。しかし、彼女はそんな私の微妙な男心を考えてはくれないらしい。一向にそれを取りやめる気配はなく、ずっと私が食べるのを待っている。
 
 「おい、見ろよアレ」
 「うわぁ…あんなバカップルみたいな真似良く出来るな」
 「なんてうらやま…けしからん」
 「あんな見るからに冴えなさそうな男があんな美女にあーんされてるなんて俺は信じたく…うぅ…」
 
 ―悪かったな。特に最後の奴。
 
 そう心の中で返すものの、集まる視線の前に私は身動きが取れなくなってしまう。だが、そんな私を追い込むように辺りからの視線は良く強くなり、妬みと羨望の感情が突き刺さるのだ。ある意味、針の筵とも言えるその状況を打破する為にはさっさと食べるしかない。そう自分に言い聞かせながら、私はそっと口を開け、彼女から差し出される茹でじゃがを口にした。
 
 「どう?美味しいかな?」
 「あ、あぁ。美味しいよ」
 「「「「チッ」」」」
 
 恋人のような真似をする私達に向かって、あからさまな舌打ちが向けられた。同時に周りの敵意――主に私へと向けられたものだ――が強くなり、居心地の悪さが跳ね上がる。とは言え、周りの連中の気持ちも分からないでもないのだ。私だって衆人環視の中でそんな事をされれば、馬鹿だと思いっきり見下す事だろう。
 
 「ほら、それじゃあ君の番だよ」
 「え?」
 「だから、そんな皿で差し出すなんて他人行儀な事をしないでボクにも食べさせてくれないかな?」
 
 そんな事を考える私の前で彼女がそっと小首を傾げる。まるでそれが当然だと言わんばかりの彼女の様子に思わず唖然としてしまう。するだけではなく、される事まで要求するだなんて、一体、彼女の心理的距離感はどうなっているのだろうか。
 
 「ほら、あーん」
 「……う、うぅ…」
 
 しかし、彼女の心理的距離感を考えたところでこの状況は変わらない。寧ろ動かない私にアピールするように彼女はそっと身体を前へと傾け、その綺麗な唇を上品に広げるのだ。同時に瞳を閉じて、無防備な姿を晒す彼女は妙に可愛らしく、保護欲を擽られる。私に対する信頼すら見えるその姿を私は結局、裏切れなかった。
 
 「…はい」
 「ん」
 
 そう言って彼女の口の中へとムニエルを差し出せば、彼女はそれを受け取り、ゆっくりと咀嚼していく。目を閉じたままのその仕草はまるで親鳥から餌を与えられた雛鳥のようだ。少なくとも、ついさっきまで私を上手く誘導してくれていた大人びた雰囲気はそこにはない。
 
 「んぐ。…うん。美味しいね」
 「そ、そうか」
 
 そんな事を考えている間に咀嚼が終わったのだろう。彼女はそっと瞳を開けながら、そう言った。しかし、こちらからも「あーん」だなどと今まで考えもしたことがない行為をしたからだろうか。そのなんでもない言葉一つとっても妙に胸がドキドキしまう。
 
 ―駄目だ…!まずは自分を落ち着かせないと…!
 
 このままの状態では何か過ちを犯しかねない。そう考えた私は水を思いっきり煽り、思考を冷やそうとする。キンキンに冷えた冷水は私の頭を少しだけ冷やしてくれた。そんな私に対し、彼女がニコニコと嬉しそうな笑みを向けてくれるが、それを見ても不用意に胸がときめくような事はない。
 
 「と、とりあえず食事を続けようか」
 「そうだね。まずは君のオススメを味わいたいし。でも、後で良いからまた交換してもらいたいな」
 「…分かった」
 
 彼女の言葉についさっきの光景が脳裏に浮かんで、また顔が赤くなるが、取り乱すような事はなかった。どうやらさっき一息入れたのが予想以上に効いてくれているらしい。それに軽い安堵を感じながら、私は自分の前に並べられた料理を突付いた。
 
 ―それからはなんでもない食事の時間が過ぎて…。
 
 嫌味にならない程度に自分で話し、私にも話しやすい話題を振ってくれる彼女との食事。それはとても楽しい時間だった。食事の時間を栄養摂取の時間程度にしか考えていなかった私にとって、これほどまでに充実した食事はなかったと言っても過言ではないだろう。時折、また「あーん」を要求される事を含めても人生で最高の食事だったと断言出来る。
 
 「そう言えば君はどうして旅を?」
 
 そんな楽しい時間をもたらしてくれた彼女に私はずっと気になっていた事を尋ねた。現在は魔物の凶暴化も相まって旅をするのはとても危険な行為である。男性であっても魔物のエサになりかねない時代で女性の旅は危険だろう。例え隊商などについて移動するにしても絶対に安全とは言い切れないし、彼女ほどの美人であれば騙そうとする連中だって出てくるはずだ。それにも関わらず、旅をしようとしているのは一体、どういう事なのか。
 
 「まぁ、ボクも最初はするつもりはなかったんだけどね。ただ、ボクはちょっと生まれが特殊でさ」
 「特殊?」
 「うん。ボクの母さまはある騎士団に属していてね。その時、敵として父さまと会ったそうなんだ」
 「敵として…だって?」
 
 二杯目のエールを口にする彼女は軽く酔っているのだろう。彼女の頬は微かに紅潮を見せ、その瞳を潤ませていた。元から飛び抜けて美人である彼女が酔いを見せるその姿はとても扇情的である。それから目を背け、私の好奇心を満たす為にも今は彼女の話に耳を傾けるべきだろう。
 
 「詳しい経緯を省くけれど…その後、二人は結ばれたんだよ。とは言え、やっぱり順風満帆とはいかなかったらしくて…」
 「…元々、敵同士だったからか?」
 
 彼女の両親は最初、敵同士だったらしい。そんな二人が結ばれたのであれば、最初は疑念の目が向く事だろう。騎士団に属していた彼女の母親の敵となれば、盗賊を始めとする国内の不穏分子か敵国の軍隊が殆どだ。どちらにせよ、疑念が向いてもおかしくない間柄であるのは確かだろう。
 
 「いや、それは寧ろ祝福される事だったらしいよ。問題は…その、ボクの母さまがちょっとばかり我慢弱い人でね。その、身内の恥を晒すようで恥ずかしいんだけど、父さまともっとイチャイチャしたくて…出奔したらしいんだ」
 「…は?」
 
 しかし、そんな事を考える私の予想の遥か斜め上を彼女の母親は行ったらしい。まさかそんな理由で出奔するとは誰も思わないだろう。ましてや騎士団ともなれば軍の中でも花形中の花形だ。忙しい反面、誇りとやりがいの持てる仕事であるだろう。そんな場所から恋人との時間を取りたいが故にいなくなるだなんて…流石に想像の範疇を超えている。
 
 「出奔といってもちゃんと退職願は出したらしいよ。とは言え、提出して即荷物を纏めていなくなったらしいから、殆ど出奔と言っても過言じゃなくってね…」
 「…何というかとても情熱的な方なのだな」
 「うん。顔の作りそのものはクールなんだけれどね…。一体、誰に似たんだか…」
 
 ―少なくとも君に似ている事だけは確かだろうな。
 
 私は彼女と接した時間は少ないが、彼女が意外と情熱的な所を持っているのは嫌というほど伝わってきているのだ。少なくとも何処かエキセントリックなその性質自体は彼女にも引き継がれていると断言できる。
 
 「それで…かねてからの夢だったらしい丘の上の庭付き一戸建てのホワイトハウスかつペットに犬というテンプレのような幸せな生活の果てにボクが生まれた訳だけれど…」
 「…すごいな」
 
 どうやら彼女の両親はとてもバイタリティに溢れる人物らしい。この戦乱の時代に騎士団という誇りある職業を捨て、誰もが憧れるであろう生活を営んでいたのだから。最初の出奔の理由からして普通ではないのが伝わってきたが、こうしてその後の生活を聞くと普通じゃないを飛び越えて凄いという言葉しか出てこない。
 
 「まぁ、元々が敵同士なのもあり、出奔した気恥ずかしさもあってね。半ば隠れるようにして住んでたからボクは学校にも行けなくてさ。勿論、教育は両親にしてもらった訳だけど」
 「なるほど…」
 
 半ば隠れるように住んでいたからこそ、これだけ積極的な彼女が友達を作れなかったのだろう。確かにそのような状況では、同い年の子どもと接する機会だって早々、取れないはずだ。そんな状況に彼女を追い込んだ両親に少し嫌な感情を感じるが、彼女自身は何とも思っていないらしい。寧ろ呆れたように両親のことを口にしながらも、そこには敬意と愛情が見え隠れしていた。
 
 ―そんな彼女の前で両親を否定する訳にはいかないな。
 
 誰しも自分の好きなものを否定されるのは嫌な気分になるものだ。勿論、そうやって好きになる事そのものが間違っているような相手であれば、強硬するべきだろう。しかし、私はこうして彼女の口から両親のことを聞いただけで具体的な人となりも何も分からない。そんな私が闇雲に否定した所で彼女からの反感を買うだけだろう。
 
 「ん?それでどうして旅に出る事につながるんだ?」
 
 そこまで考えた私がこの話が始まった理由を思い出す。そう。私は彼女が旅をしてきた理由を聞いたのだ。彼女の生まれの特殊性は理解できたが、それがどうして旅に出る事につながるのかまでは分からない。寧ろそのような特殊な生まれであれば、両親と一緒に居たほうが安全なのではないかと思うのだが…――
 
 「ほら、ボクも見ての通りそこそこ大人になった訳だからさ。あんまり両親の幸せな新婚生活を邪魔したくなかったからね」
 「…だから、旅に?」
 「うん。まぁ、旅と言っても目当ての就職先に紹介状を書いて貰ったからそこに行くまでの気ままなものなんだけど」
 「なるほど…」
 
 それだったら彼女がこの国の事を知らないのも頷ける。彼女にとってこの国は所詮、通り道の一つに過ぎないのだろう。あくまで必要であるから立ち寄っただけで何か目的があって訪れた訳ではないのだ。だからこそ、この王都に足を踏み入れるまでこの国の事を良く知ろうとしなかったのだろう。
 
 ―…ん?待てよ…。
 
 そう。この国が所詮、通り道に過ぎないのであれば、彼女はすぐさま発ってしまうのではないか。そんな疑問が私の中でゆっくりと持ち上がった。いや、寧ろ彼女が旅人である以上、それが当然で自然なのである。
 
 「…じゃあ、すぐにいなくなってしまうのか?」
 
 ―しかし、そうと分かっていても私はそう尋ねてしまった。
 
 そうやって彼女に踏み込むのが怖くなかった訳ではない。図々しいと思われたらどうしようという不安は私の中に確かにあった。しかし、それ以上に彼女ともっと話したいという気持ちが鎌首をもたげ、そう尋ねてしまったのである。
 
 「ふふ…♪そんなに寂しそうな顔をしないでよ。安心して。今のところはそのつもりはないから」
 「そ、そうか。あ、後、別に不安そうな顔などしていない」
 「そうか。それじゃあボクの勘違いだったみたいだね」
 
 そんな私の返事に彼女はそっとこちらに微笑みを向けた。何処か母性すら感じさせる暖かなその笑みからは私の言葉をまったく信じていない事がはっきりと伝わってくる。それが何となく悔しくて、しかし、ムキになって否定するのはもっと悔しい私はやけくそ気味にエールを煽った。
 
 ―あぁ、そうだ。
 
 ゴクゴクと喉に甘苦い液体が流し込んだ後、私はもう一つ聞きたかった事を思い出した。彼女は私を含め、友人が二人と言っていたのである。だが、今の彼女の話を聞く限り、彼女に友人が出来る余地などあまりない。それにも関わらず、彼女はその友人と飲みに出かけたりしているようだ。一体、その馴れ初めはどのようなものなのか。次いでなので――その性別を含めて――聞いてみよう。
 
 「そう言えば君の友人の事だが…――」
 「おうおう。中々、楽しそうじゃないか」
 
 そこまで言った瞬間、横から上機嫌な声が割って入ってくる。それに訝しげな視線を向ければ、顔を真赤に染める酔漢二人がテーブルの脇に立っていた。両者とも堀が深い顔をしており、その身体はとてもガタイが良い。まだ微かに寒さの残るこの季節をTシャツ一枚で過ごすその出で立ちはまさに肉体労働者と言った感じである。
 
 「うん。楽しいよ。…で、君たちはその楽しい時間を中断させて何がしたいのかな?」
 「つれないねぇ。ただ、その楽しさを俺達にもおすそ分けして欲しいだけなのによ」
 
 そんな彼らに向かって彼女はそっと小首を傾げながら尋ねた。その仕草も表情もとても愛らしく、可愛らしい。だが、その奥底に不機嫌さが顔を出し始めているのを私ははっきりと感じた。さっきの通りの時もそうだったが、どうやら彼女は深く静かに怒るタイプらしい。
 
 「…おすそ分け?」
 「そうだ。姉ちゃんよ。あっちで俺達にお酌でもしてくれねぇか?なぁに、何もしねぇよ」
 
 だが、そんな彼女の変化は目の前の酔漢二人には分からないようだ。下卑た笑いを見せながら、彼女の肩を馴れ馴れしく抱こうとする。これまで黙っていたが、流石にそれは見過ごせない。こんな奴らに殴られたら私など一発だろうが、それでも黙って何もしないような情けない男にはなりたくはないのだ。
 
 「や、やめろ!か、彼女が嫌がってるだろう?」
 「黙ってろよもやし。お前みたいな奴よりも俺たちと一緒に居たほうが楽しいに決まっているじゃねぇか」
 「そうだぜ。もうたぁっぷり楽しませてやるからよ」
 「…っ!」
 
 酔漢二人の言葉が私の胸に突き刺さった。確かに私は彼女に何もしてやれていない男である。会話の主導権を握らせてもらえる事はあるが、基本的に相槌を打つ事しか出来ない。そんな私よりもコイツらの方が、彼女と楽しい会話が出来るのではないか。臆病で自信の持てない私の心はそんな弱音を胸中に浮かばせる。そんな私の前で酔漢たちは彼女の左右を取り囲み、ニヤついた笑みを彼女に向けた。
 
 「はは。面白い人たちだね」
 「へぇ。じゃあ…」
 「あぁ。面白いと言ったのは君たちの頭の出来だよ。勘違いしないでくれるかな?」
 「……あ?」
 
 ―そんな風に黙り込んだ私の前で彼女は辛辣な言葉を彼らに向ける。
 
 それに酔漢たちはまゆを顰めて、威嚇するような顔をするが、特に何の行動も起こさない。明らかに気が大きくなるほど酔いが回った連中の事だ。圧倒的に有利な立場でどうしてそんな事を言われているかも分からないのかもしれない。
 
 「どうやら分からないようだね。それじゃあはっきりと言ってあげよう。ボクが友人との食事を中断しにきた無粋な連中に靡くと一瞬でも思ったその愚かしさが面白いと言ったのさ」
 「…テメェ!」
 
 そんな彼らに言い聞かせるような言葉に酔漢たちの決して強くはない我慢が切れたらしい。怒りを露わにしながら、彼女へと手を向ける。それは決して殴ろうとするものではなく、首元を掴んで恫喝しようとしているのだろう。だが、だからと言って、棒立ちになっている訳にはいかない。彼女を助けようと私が椅子から腰をあげた瞬間――
 
 ―私の視界で銀色が煌いた。
 
 「…あ?」
 「え…?」
 
 瞬間、二人の酔漢の喉元に彼女のフォークとナイフが向けられていた。後、ほんの少し前に出れば喉元に突き刺さっていたであろう際どい距離。だが、その間、酔漢は何も出来なかった。そう。テーブルに肘を着いていたはずの彼女が両手でナイフとフォークを掴み、その細長い手を伸ばして二人につきつけるまで私を含め、誰も反応する事が出来なかったのだ。
 
 「酔いで気が大きくなるのは良いけれどね。…相手を見て喧嘩を売りなよ。そうじゃないと…死ぬよ」
 「あ…ぅ…」
 「な……」
 
 おくばせながら自分たちが一体、どれほどの相手に喧嘩を売ろうとしていたかに気づいたのだろう。酔漢二人の顔は真っ青になり、冷や汗を流していた。それも当然だろう。彼女がその気になれば、今の一瞬で喉を突かれて死んでいたかもしれないのだから。彼女が腕を止めてからようやく知覚出来たであろう彼らに彼女の一撃を防ぐ手立てなどあろうはずがないのだ。
 
 「納得したのであればとっとと帰ってくれないかな?ボクは友人との語らいの時間を邪魔されるのが人生で三番目くらいには嫌いなんだ」
 「…わ、分かったよ…」
 「くそ…っ!」
 
 すごすごと逃げ帰る酔漢の背中を見つめながら、私はゆっくりと腰を椅子へと戻した。瞬間、緊張から解放された身体がどっと疲れを訴える。久方ぶりにアルコールを摂取した事と相まって、それは泥のように絡みつき、私の身体を重くした
 
 「ありがとう。助かったよ」
 「いや…私は何もしていない」
 
 確かに立ち上がって止めようとはしたものの、私は何も出来ていなかったのだ。酔漢たちは明らかに私を見下しており、意にも介していなかったのだから。私がもし、実力行使に出た所で彼女を護る事が出来たとは到底、思えない。寧ろ、私がいた事で彼女に変な心配を掛けさせたのではないかとさえ思うのだ。
 
 「そんな事ないよ。ボクを護ろうとしてくれた時点でとても嬉しい。惚れちゃいそうだったよ」
 「うぇぇ!?」
 
 クスリと微笑みながらの彼女の言葉に思わず奇声をあげてしまう。勿論、それはあくまでお世辞の一種であることは私にだって分かっているのだ。しかし、何十回も何百回も言っているように彼女はこれまで見たことがないほどの美人なのである。そんな彼女がほろ酔いになって微かに紅潮した頬を笑顔にし、惚れちゃそうだと言うのだから誤解したくもなってしまう。
 
 「ほら、君にはそういう顔が一番、よく似合うよ」
 「…褒められてる気がしないんだが」
 「ふふ♪ごめんね。君ってば可愛いからさ」
 
 からかうような彼女の言葉でそれがお世辞の一つであることを再認識した私は思わず唇を尖らせるように言ってしまう。だが、彼女はそんな私が可愛く映るらしい。その笑みを母性的なものへと変える彼女の顔には嘘は見当たらなかった。
 
 ―…まぁ、可愛いと言われて嬉しくはならないんだがな。
 
 今日一日で数えきれないほど自分の情けなさを自覚したが、一応、私も男性なのである。可愛いと言われるよりは格好いいと言われる方が嬉しいし、有難い。とは言え、彼女は純粋に褒めてくれようとしているのが分からないほど鈍感ではないのだ。男性としてのプライドと彼女のいい気分を壊したくはないと思う感謝の間で板挟みになりながら、私は一つ溜め息を吐いた。
 
 「…ま、さっきの彼らのお陰で少し白けてしまったのも事実だしね。ここらでお開きにしようか」
 「ん…そうだな」
 
 先の一連の出来事のお陰で私たちには視線が集中しているのだ。鮮やか過ぎる手並みで酔漢を撃退した彼女には尊敬や憧れの眼差しが、何も出来なかった私には嫉妬と侮蔑の眼差しがそれそれ注がれているのである。流石にこんな中で彼女と雑談をしていられるほど、私は図太い性格をしていない。
 
 「女将、お会計を頼む」
 「あいよ」
 
 そう女将を呼んだ私の前にそっと一枚の伝票が差し出される。しかし、そこに書き並べられていたのは私が予想していたよりも幾分…いや、大分、少ない金額であった。半額以下とまではいかないにせよ、六割くらいには減額されている。
 
 「…女将?」
 「そっちの娘さんに騒ぎを止めさせちゃった訳だしね。まぁ、手間賃だとでも思っておくれよ」
 
 思わず問い直した私の言葉に女将は気まずそうな笑みを浮かべた。確かに酔漢二人をまず第一に止めないといけなかったのは店側だろう。酔漢を放置していれば他の客にも迷惑がかかりかねないのだから。女将は手間賃だと言っているが、より正確にはちゃんと手回し出来なかった迷惑料…といった所だろうか。
 
 「有り難く受けておこうよ」
 「…そうだな。そうするか」
 
 別に迷惑だなどと思った訳ではないが、騒ぎを止めた彼女自身がそう言ってくれたのだ。ならば、甘んじてそれを受けるべきだろう。それに受けた所で私にもたらされるのはメリットだけであり、特にデメリットはない。
 
 「よし。それじゃあ…」
 
 女将の申し出を有り難く受ける事にした私はテーブルの上に要求された代金と同じ額の硬貨を載せた。それを女将は一つ一つ確認してからこちらへとそっち笑顔を向ける。しかし、それは人好きのする笑顔ではなく、何処かニヤついた悪戯っぽいもので……――
 
 「毎度。それで…部屋の方はダブルベッドにしないで良いのかい?今なら格安でやってあげるよ」
 「ば、馬鹿な事を言うな!」
 
 明らかに私をからかう意図を持って放たれた言葉であることは分かっている。しかし、それでもほろ酔いで頭のネジが緩んだ私にはその光景を脳裏に思い浮かべてしまうのだ。同じ部屋の中で彼女と同じベッドに眠る光景は私にとっては少々、刺激が強すぎ、思わず声を荒上げてしまう。
 
 「それも良いかな」
 「ちょ…!」
 「ふふ♪冗談だよ。残念だけど、もう別に宿を取ってあるんだよね」
 
 女将の申し出に乗っかるような彼女の言葉に焦った声を紡ぐが、どうやらそれは冗談であったらしい。それに安堵と残念さを感じながら、私はそっと肩を落とした。とりあえず彼女には本気で自分の魅力さを自覚して欲しいと割りと真面目に思う。
 
 「まぁ、君が一人で寝られないって言うのであれば…ボクの身体で慰めてあげても良いけどね」
 「うぐ…」
 
 だが、どれだけ心の中で思った所で口にしなければ意味が無い。どれだけ心の中で訴えたとしてもそうやって揶揄するような言葉遣いをするのはやめてくれないのだから。しかし、半分は私が悪いとは言え、こうやってからかわれ続けるのはあまりいい気分ではない。思わず唇を尖らせてしまう。
 
 「だ、誰がそんな事を頼むか」
 「そうかい?残念だなぁ」
 「はいはい。そうやっていちゃつくよりも早く彼女を送ってやりな。さっきからあんたらすっごい見られてるよ」
 
 呆れたような女将の言葉に周囲を見渡せば、私達には様々な種類の視線が突き刺さっていった。その殆どが私に対する嫉妬の感情である。どうやら私は酒場でいちゃつくカップルの片割れに思われているらしい。男ばかりで固まっているテーブルからは殺意すら感じる。
 
 「…分かった。とりあえず行こうか」
 「そうだね。それじゃあ、女将さん。ご馳走様でした」
 「あいよ。また来ておくれ」
 
 そう言いながら私たちは『振り返る雨雲亭』から通りへと戻る。そろそろいい時間だからだろうか。民家からは殆ど光が漏れず、通りにも人が殆どいない。『振り返る雨雲亭』に入った時とは打って変わった夜の静けさにアルコールで火照った身体が冷やされていくのを感じる。
 
 「んんーっ。こうやって火照った身体が冷めていく感覚は気持ち良いね」
 「そうだな」
 
 私と同じ事を彼女も考えていたらしい。足を進めながら大きく背伸びをする彼女の言葉は私の内心をそのまま表したようなものだった。まるで以心伝心のようなその感覚に思わず頬が釣り上がり、笑顔を形作ってしまう。
 
 「あんまりお酒は好きじゃなかったんだけどね。君のお陰で楽しかったな」
 「それは私も同じだ。君のお陰で…とても楽しかった」
 
 普段、アルコールを飲まない私もとても楽しめた。いや、それどころか口が軽くなっていくようなアルコールも悪くないと思えたのである。後半、彼女とスムーズに会話出来たのもアルコールの影響が大きいのだ。流石に日頃から常飲したいと思うほどではないが、また彼女と一緒に飲むのも良いかも知れない。そう思える程度には私はお酒を気に入り始めていた。
 
 ―それに…素面では決して言えない事もある。
 
 「それで…何だが……その…」
 「ん?」
 
 お酒の勢いである程度、覚悟を決めたつもりであった。しかし、それはあくまでつもりであったのだろう。横を立つ彼女に対して口を開くものの、中々本題が出てこない。まるで彼女と出会う前の私に戻ってしまったようなその姿に私はぎゅっと歯を噛み締めた。このままではダメだと自分を奮い立たせて、私は勢い良く口を開く。
 
 「また…また一緒に食事をしてくれないだろうか!?」
 「…え?当然じゃないの?」
 「え…?」
 
 ―私の一世一代の大勝負に彼女は唖然とした表情で応えた。
 
 まるで何を当然の事を言っているのであろうと言うような彼女の表情に私の思考も止まってしまう。どうして彼女がそんな風に何でもないような返し方をするのかまったく分からない私の足も止まり、歩みを止めた。それに合わせるように彼女の足も止まり、ゆっくりとこちらへと振り向いてくる。
 
 「…なんだい?もしかしてボクらの関係は今日限りだとでも思ってたのかな?それは流石に薄情なんじゃない?」
 「い、いや…だが…」
 
 拗ねるように頬を膨らませる彼女に私は上手く返事をする事が出来なかった。それも当然だろう。私はてっきり彼女との縁は今日で切れてしまうと思っていたのだから。もう二度と出会う事のない雲の上の相手だと思っていたのである。
 
 ―…嘘…だろう?いや、でも……。
 
 未だに信じ切れない私が彼女の顔へと伺うような視線を送った。それが経験を積んだ彼女には容易に見て取れたのあろう。彼女は拗ねた表情を溜め息を共に吐き出して、私の方へと視線を向けた。しっかりと私の顔を捉えるその強い視線に怯みそうになるが、彼女の視線がそれさえも許さなかった。
 
 「もう。ボクは君のことを友達だと思ってるって何度も言ってるだろう?…初対面で友達面する女を警戒したくなる気持ちは分かるけど、少しは信用して欲しいな」
 「す、すまない」
 
 流石に不機嫌そうになった彼女に思わず頭を下げて謝罪する。本来は警戒していたのではなく、彼女と再び遊んでもらえる自信はなかったからだが、その辺りの機微は今は口にするべきではない。それよりも気分を害した彼女に誠心誠意謝るべきだ。そう思って頭を下げつつける私の上でそっと彼女が表情を綻ばせる気配を感じる。
 
 「まぁ、良いけどね。君にそうやって誘われた事そのものは嬉しいから。…一応、ボクの一方通行で内心、君に嫌がられてるんじゃないかって思ってたりもしたし」
 「そ、そんな事はない!!」
 
 少し自嘲を含ませる彼女の言葉に私は顔を挙げて応えた。瞬間、私の視界に驚きと自嘲の混ざった彼女の表情が入る。だが、私にとってそれは誤解も良い所だ。彼女にそんな風に思われるのは心外だと言っても良いくらいに…私はとても彼女に感謝しているのだから。
 
 「私は…は、初めてだったんだ。特に目的もなく誰かと一緒にいて、こんなにも楽しかったのは。君がいなければ、私は…誰かと一緒にいる事が楽しい事さえ知らなかった…!」
 「…レイド…」
 
 突然、始まった私の独白に彼女が驚いた顔を見せる。もしかしたら彼女に引かれたのかもしれないという不安が私の中で鎌首をもたげた。しかし、私はそれを口にしてしまったのである。どれだけ後悔しても遅い以上、自分の感情を全て吐露して、彼女に納得してもらう他はない。そう自分を追い込みながら私は再び口を開いた。
 
 「だから…寧ろ私は怖かったんだ。この関係がここで途切れてしまうんじゃないかと思って…初めてだから…どう接して良いかすら分からなくて…。だが、結果としてそれが君を不安にさせてしまったのは謝る。だけど、私は君にとても感謝しているんだ。それだけは信じてくれ」
 「…うん」
 
 全て吐き出した私の心情を彼女は一つ頷きながら受け取ってくれた。その頬は少し紅潮しているものの、特に悪い感情は見えない。先の自嘲の色も消えてしまったその顔には優しい笑顔が浮かんでいるのだから。
 
 「その…ボクもね。男の人と一緒に遊ぶのがこんなに楽しいだなんて知らなかったんだ。もう一人の友達は女の子だからね。男の人と遊ぶのは初めてだったんだよ」
 「…そう…なのか…」
 
 多少、驚きはあったが、納得する自分もいた。元々、彼女は私以外に一人しか友人がいないと独白していたのである。その友人が男性でなければ、自然、私が男性の友人第一号になるだろう。過剰なまでの異性へのサービスや尽くしっぷりを省みるに男性が友人であり続ける事は難しそうだから、同性である可能性が高いとは思っていたのだ。
 
 ―…まぁ、流石に異性と一緒に遊ぶのが初めてとまでは予想していなかったが。
 
 見るからに男好きする身体と美しい顔立ち。その上、誤解してしまいたくなるほどに優しい性格まで揃えているのだ。そんな彼女がこれまでにモテなかったとは正直、考えづらい。例え両親のもとで人と関わる事が少なかったとは言え、旅をしている間に幾らでも男性に誘われただろうと思うのだ。
 
 「男の人と遊ぶのがこんなも胸がドキドキするなんてボクも知らなかった。…でも、悪くはない気分だね。君といるととても暖かで優しい気持ちになれる」
 
 ―けれど、彼女の表情に嘘は見えない。
 
 ふっと穏やかな微笑みを浮かべる彼女の表情は何処か初々しさを感じさせる優しいものだった。思わずドキっとしてしまうその表情には作り物っぽさはまるで見えない。勿論、彼女が演技し、お世辞を言ってくれている可能性もあるが、そうやって思ってくれる相手の心遣いを無駄にするべきではないだろう。私を励まそうとオーバーな事を言っているにせよ、彼女の言葉を信じたほうがよっぽど効率的だ。
 
 「だから、ボクもまた君と遊びたいな。…ううん。遊んで欲しい。勿論…君さえ良ければ、だけど」
 「当たり前だ。断るものか」
 「そっか。…良かった」
 
 そう言って安堵の色を見せる彼女の姿を見て、私もまた安心を覚える。正直、今まで彼女に引かれたのではないかと気が気じゃなかったのだ。その不安がようやく気にならないレベルにまで払拭されるのを感じた私は肩がすぅっと軽くなるのを感じる。
 
 「じゃあ、今度はボクが料理を作ってくるよ」
 「料理?」
 「うん。結構、腕には自信があってね。母さま譲りだと父さまには評判だったんだよ」
 
 そんな私の前でクルリと回りながら彼女は嬉しそうに言った。その自信に溢れる表情に嘘偽りは見えない。ならば、何も不安に思う事はない。私が勧めた料理を気に入ってくれた辺り、彼女と私の味覚は近いはずである。きっと私の味覚に合った美味しい手料理を振舞ってくれるだろう。
 
 「そうだな。頼む」
 「うん!それじゃあ…君さえ良ければ今週末…どうかな?」
 「勿論だ」
 「ふふ…♪ありがとうね。それじゃあ詳しい話が決まったらまたあの宿に寄らせて貰うよ」
 「そうだな。最悪、伝言の紙を女将にでも渡しておいて貰えば、伝わらない事はないだろう」
 
 仮にも彼女は王都でこれだけの宿を経営する女将だ。客への伝言を伝え忘れるという事は考えづらい。私と彼女の時間が合わなくても何かしらの案を考えてくれるだろう。
 
 「それじゃあ…そろそろ…ね」
 「…あぁ」
 
 仕切り直すような彼女の言葉に私は今日の別れを悟った。それなりに夜も更けてしまっているのでちゃんと彼女の宿まで送りたいが、私では逆に足手まといになりかねない。ここは素直に彼女を見送るのが一番だろう。
 
 ―しかし、それでも名残惜しいのは否定できない。
 
 今日一日…いや、彼女と出会ってからまだ数時間だが、その間はとても楽しい時間だった。それが終わってしまうというのはあまり考えたくはない。だが、あの女にも私にも生活があるのだ。夫婦でない以上、いや夫婦であったとしても別れは必ずやってくる。名残惜しいがその痛みは許容しなければいけないだろう。
 
 ―そう思う私の前で彼女がそっと振り返り…。
 
 そのまま私に背を向けて歩いて行く彼女を私は追う事が出来ない。しかし、私もその場を立ち去る事が出来ず、半ば、呆然と彼女の背中を見送るだけだ。未練がましさたっぷりの情けない自分の姿に思わず自嘲の笑みを浮かべた瞬間、彼女が足を進めながら、そっと振り返る。
 
 「あ、そうだ。ボクね!シリルって言うから!」
 「…え?」
 「今度から君じゃなくってシリルって呼んでね!」
 
 ―そう言って、彼女は再び振り返って駈け出していった。
 
 まるで恥ずかしいと言わんばかりのその仕草に私は彼女――シリルの名前を聞いていない事を思い出した。きっと私の中で『彼女』は彼女であり、固有名詞など必要なかったのだろう。初めて出来た友人である彼女を言い表す言葉には枚挙に暇がないのだから。
 
 ―だけど…。
 
 「シリル…か」
 
 彼女の背中が見えなくなった通りの中で呆然とその名前を口にすれば胸の中が少し暖かくなる。まるでその言葉が私にとって特別なもので魔法にでも掛かったように。そんな事を考える夢見がちな自分にまた一つ自嘲の笑みを浮かべながら、私もそっと彼女に対して背中を向けた。
 
 ―そのまま歩き出す私の胸にはもう先ほどの名残惜しさはなく、また次に出会えるであろう日を待ち遠しく思う心で埋め尽くされていたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―人生には失敗というものがつきものだ。
 
 最初から成功だけの人生などあろうはずがない。どれだけ人生の勝利者に見えたとしても細かい失敗は必ずしているのだ。神ならぬ人の身では――いや、今の世界の状況を見る限り、神であったとしても、生きるという事に失敗はつきものなのである。
 
 「…はぁ」
 
 しかし、そう慰めたとしても私の頬からジンジンと伝わってくる熱と痛みは消えてはくれない。それも当然だろう。何せ私はついさっきナンパした女性に思いっきり張り倒されたばかりなのだから。女性の腕力が男性と比べて幾分、劣っているとは言え、全力で振り抜かれた平手の威力は後に響くのに十分過ぎる。
 
 ―…どうしてこうなるんだろうな…。
 
 シリルのコーディネートや度重なる訓練のお陰で少なからず私のナンパに乗ってくれる女性は増えてきた。それはコミュニケーション能力を育てるという当初の目的からすれば有難い。だが、いざ喫茶店に入って、話をしても中々、会話が弾まないのだ。シリルであれば、興味深そうに乗ってくれる会話も他の女性相手では中々、上手く行かない。退屈そうな顔をされた挙句、後半には呆れられ、最終的に平手を喰らったのは一度や二度ではなかった。
 
 ―…ただ、シリルの話をしただけなんだが…。
 
 学術的な推察が苦手な女性相手に私が話せる話題など友人との会話くらいしかない。自然、相手がそのような話題が苦手だと察知した後は私のただ一人の友人――シリルの話題が中心となる。あんな所へ行った、こんな所へ遊んでどんな事があった、と話している間に相手は退屈そうになり、最後には怒気を浮かべるようになるのだ。
 
 ―やはり私が話題を振るのはまだまだハードルが高いのだろうか…。
 
 相手の話に相槌を打ち、質問をする時にはそのような悪感情は見えなかった。これに関しては初期よりも幾分、上達したと考えても良いだろう。だが、いざ自分が会話の主導権を握る側になった途端、相手が不機嫌になり始めるのだ。これでは円滑なコミュニケーションが取れない。
 
 ―…とは言え、もうそろそろ帰らなければいけない時間だ。
 
 それなりに積極性と会話のテンポを掴んだとは言え、まだまだマトモなコミュニケーションが取れているとは言い難い。まだまだ努力の余地は残されているだろう。だが、この王都にやって来てから早一ヶ月。そろそろ故郷に帰らないといけない時期だ。
 
 「…はぁ」
 
 自分なりに頑張ったとは言え、期待していたほどの成果が上がっていない。そもそもが期待しすぎであったのが問題なのだと分かっているが、やはり失望というか肩透し感は否めないのだ。もうちょっと何とかしたかった、そんな気持ちを抱きながら私は昼下がりのカフェテラスで生温いコーヒーを口へと運ぶ。
 
 「おや、奇遇だね」
 「ん?」
 
 聞き覚えのある声に視線を向ければ、そこには見覚えのある顔があった。一度、見れば二度と忘れないような弾けんばかりの美しさ。独特の縦皺が入った黒いタートルカットソーと膝上十cmほどに切り揃えられた濃緑色のパンツがその美しさを引き立てている。上半身の鉄壁っぷりとは裏腹にそのスベスベとした白い肌を見せつけるような姿に思わず目が惹きつけられそうになってしまう。
 
 ―いけない。平常心平常心。
 
 彼女――シリルが美しいのは別に今に始まった事ではない。いい加減、なれないといけないという事は私にだって分かっているのだ。だが、こうして気を抜いた時にはどうしても彼女に引きつけられ、ともすれば服の上からでもはっきりと分かる谷間や露出した肌という失礼な箇所に視線が向いてしまう。
 
 「ご一緒しても良いかな?」
 「そうだな。君の手料理をご馳走してもらえるのであれば是非とも」
 「まったく。少し見ない間に食い意地が張ったものだね」
 
 しかし、そうやって冗談の応酬が出来るようになったのは大きな進歩だろう。昔は何もかも真面目に受け取り、返す事しか出来なかったのだから。しかし、今は心のゆとりが多少、持てたからだろうか。シリル限定ではあるものの、こうした掛け合いのような冗談を言う事が出来る。
 
 「それはシリルの料理が美味しい所為だな」
 
 そう。二度目の出会いの時に振舞われた彼女の手料理は本当に美味しいものだったのだ。正直、『振り返る雨雲亭』の料理が児戯に思えたほどである。そんな料理をシリルと遊びに行く度に振舞われるのだから、食い意地が張ってもおかしくはないだろう。
 
 「何だい?それは遠回しにボクに責任を取れって言ってくれているのかな?」
 「そうだな。責任をとって私専属の家政婦にでもなってくれるのであれば」
 「えー家政婦は嫌だな。君の妻であれば考えないでもないんだけど」
 
 悪戯っぽく笑いながら彼女はそっと私の前に座った。さんさんと暖かい日差しが照らすオープンカフェではあるが、彼女がいるだけでまるでそこが天国に変わったように思える。勿論、そう思うのは私だけではない。彼女の登場により周りの席から男女問わない視線がシリルへと向けられているのである。美の女神の寵愛を受けたような美人が現世に降臨しているのだから、それも当然の印象だろう。
 
 「それでは、給料三ヶ月分の指輪を買わないといけないな。だが、今は持ち合わせがないから後三ヶ月ほど待ってくれ」
 「ふふ…♪別に指輪なんていらないよ。君からの愛の言葉があればボクは何時だって君の妻になってあげる。とは言え、ちゃんとしたプロポーズに憧れないでもないからね。仕方ないから三ヶ月の猶予をあげよう」
 
 そんな掛け合いにも今ではもう慣れてしまった。いや、慣れてしまったというか色々と麻痺してしまったというか。彼女の心理的距離がおかしいのは今に始まった事ではない。その上、冗談という要素まで追加されれば、こうした話になるのはそう珍しい事ではないのだ。いや、最近は大体、出会った時には結婚云々の話になっている気がする。
 
 ―しかし、冗談はさておいたとしても、それは最初から無理だ。
 
 そもそもシリルは理由と目的を持ってして旅をしている旅人であり、私は一時的に王都に滞在しているだけの役人にすぎない。時期が来れば離れ離れになるのは避けられない運命なのだ。今はこうして友人として良好な関係が築けてはいるが、それももうすぐ終わりである。それは彼女も分かっていて寂しく思っているからこそ、このような冗談が日課になってしまったのだろう。
 
 「ん?どうしたんだい?暗い顔をして」
 「いや…シリルと結婚したら私の友人がまた0になるんだと思ってな」
 「なんだ。そんな事か。それなら大丈夫だよ。ボクは君の妻の座も友人の座も誰かに譲るつもりは最初からないからね」
 
 その冗談が誤魔化す意図を持って放たれたという事はシリルも理解しているはずだ。しかし、彼女は私の不器用な誤魔化しに乗ってくれる。そんな彼女の優しさを有りがたく思う反面、心の中で寂しさが広がるのが分かった。
 
 ―…もうそろそろ別れの時期なのだからな。
 
 残りの資金的にも私が王都に滞在できる期間はもう殆ど無い。故郷に帰るまでの辻馬車の代金だけでなく、不慮の事態に備えなければいけない事を考えれば後三日が限度だろう。そしてその時が来てしまえば、私とシリルを繋ぐものはなくなってしまうのだ。そのなんとも言えない無力感と寂しさが私の心にずっと暗い影を落とし続けている。
 
 ―しかし、彼女の前でずっと暗い顔をし続ける訳にはいかない。
 
 「それより何か注文しないか?手料理の代金として私が奢ろう」
 「もう。ここ最近、ずっとそう言ってボクに支払わせてくれないじゃないか」
 
 頬を膨らませて拗ねた表情を見せるシリルの顔は可愛らしく庇護欲をそそられるものであった。しかし、だからと言って、私は彼女に代金を支払わせる気はない。シリルと出かけた時の飲食代は殆ど私が出しているとは言え、最初に彼女から受け取った衣服の代金――あの後、こっそりと値段を確認しに行った――にはまだまだ届かないのだ。
 
 ―それでも彼女は私にお金を渡そうとするが……。
 
 「お互いに責任ある社会人だし、友人だから」と言って店から出た後にお金を渡そうとされたのは毎回の事である。だが、私はそれを受け取るつもりはまったくない。寧ろ私は彼女と別れるまでに受け取った恩の分を返せるかどうかを心配しているくらいなのだ。新しく返済がかさむような行為を甘んじて受けるはずがない。
 
 「私は君の手料理にそれだけの価値を見出しているのだがな」
 
 しかし、それもまた決して嘘ではない。彼女の手料理はこんな大陸の辺境にある小さな国ではなく、もっと大きな場所で店を構えられると思うほどに優れている。いや、海路が魔物に封鎖され、香辛料を始めとする調味料の入手は格段に難しい今、調味料をふんだんに使った美味しい料理を作るだけでも結構な額が吹っ飛んでいる事だろう。
 
 「ちょっとした伝手があるから気にしないでって何時も言ってるのに…」
 「それを言うなら私も同じだ」
 「もう…頑固者め」
 「その言葉をそっくりそのまま君にも返そう」
 
 相変わらず私に譲るつもりがないと理解したのだろう。シリルはそっと溜め息を吐きながら、メニューをそっと広げた。そのまま瞳を動かし、一通りに目を通す。即断即決を是としている彼女にはそれだけで十分だったのだろう。次の瞬間にはメニューを閉じて、そっとテーブルの上の呼び鈴を鳴らした。
 
 「おまたせ致しました。何か御用でしょうか?」
 「ミルクティーを一つ」
 「はい。かしこまりました」
 
 そう言って店員はそっとその場を立ち去っていく。しかし、ミルクティーはこの店の中でも一番、安い飲み物だ。奢ると言っているのにあまりにも謙虚すぎないだろうか?
 
 「…そんな安いので良いのか?」
 「君がボクに支払わせてくれないからね。優しいボクには心苦しくてこの程度しか頼めないのさ」
 
 ―…あ、拗ねてるな。
 
 ツーンとばかりに明後日の方向へと顔を背ける彼女の前で思わず頭を掻いてしまう。別に拗ねさせるつもりなどはなく、私がシリルにこんな形でしか恩返しが出来ないだけだ。しかし、彼女はそうは思っていないらしい。時折、こんな風に唇を尖らせてジト目を送ってくる。
 
 「つーん」
 「…」
 「つーん」
 「……」
 
 最近、付き合ってきて分かったが、シリルは割りと子どもらしいところがある。今だって割りと本気で拗ねているのを隠そうともせず、こうして構って欲しいと言わんばかりにそれをアピールしているのだ。まだまだ人の内心を察するのが弱い私にとって、そうして自分の感情をアピールしてくれるのは有難いが……――
 
 「参ったな…機嫌を直してくれないか?」
 「…君がここの支払いをボクに任せてくれるというのであれば考えても良いよ」
 「それはダメだ。譲れない」
 「じゃあ、こっちもダメ。許さないんだからね」
 
 ―…完全に平行線だな。
 
 私としても譲るつもりはないし、彼女も譲れない。そんなお互いの話は交わる事がなく、永遠に並び続けている。結局はどちらかが折れるしかない。そして…それは大抵、私の側になるのだ。
 
 「…分かった。それじゃあシリルに任せる」
 「ホント?」
 「あぁ。本当だとも」
 
 ―まぁ、額もそれほどじゃないしな。
 
 私とついさっきシリルの座っていた席に居た娘が一杯ずつ頼んだ紅茶代くらいだ。お洒落さに気を配っているだけあってこの店の値段はそれなりに高いが、それでも目が飛び出るような額ではない。彼女に奢らせるのは心苦しいが、これくらいなら夕食で十分、リカバリー出来る額である。
 
 「…この前みたいに勝手に支払ったりしない?」
 「しない。約束しよう」
 
 ついこの前――多分、一週間前のお出かけの時の事を言っているのだろう。あの時、一度はこうして折れたものの、彼女の隙を狙って先に支払っておいたのだ。店を出てからシリルが膨れて、全額押し付けてきたけれど、私はそれを受け取れなかったのである。だが、結果としてずっと彼女が不機嫌になり、最後には空気に耐えかねた私がシリルに二度と約束を破らない事を『約束』させられたのだ。
 
 「…破ったらボクの部屋で『ずっと』お話し合いだからね」
 「それは怖い」
 
 そうは言いつつもシリルの部屋が気になる私もいた。何だかんだ言って私も男性なのである。年頃の女性の部屋に上がる事の意味を知らない訳ではないが、一度は入ってみたくはあるのだ。とは言え、彼女は旅人であり、宿に拠点を置く身である。きっと私とそう変わらない部屋なのだろう。
 
 「…じゃあ、仕方ないから許してあげる」
 
 そんな不純なことを考える私の前で花開いたような美しい笑みをシリルが浮かべる。不機嫌そうな顔から一転して浮かべるその表情に視線をぐいぐいと引き込まれるような印象すら受けた。思わず呆然となって惚けてしまいそうな自分を胸中で叱咤しながら、私は半分ほど残った紅茶をぐいと喉へと流しこむ。
 
 「しかし…そんなに私を信用出来ないかな?」
 「一度、ボクとの約束を破った人が何を言っても聞こえないよ」
 「あ、いや…そっちじゃなくてだな」
 
 どうやら私の言葉は完全にやぶ蛇になってしまったらしい。機嫌のよさそうな笑顔から一転、ジト目で私を見つめてくるシリルに思わず頬が引き攣ってしまう。だが、聞きたいのは一度、約束を破った事ではない。こうして隙あらば彼女が私に奢ろうとする事で…――
 
 「ほら、こうして君に奢られるほど私は金欠だと思われてるのかと思って…」
 「以前も言っただろう?ボクは君と一緒に過ごす時間が楽しいんだ。君は恩返しだと言うけれど、本当はボクが君の滞在費を全て出させてくれる方が何倍も嬉しいんだよ?」
 「でも、それは社会人としてお互いに責任のある範囲…とはもう言えないだろう?それなら割り勘の方が良いのではないか?」
 
 私が言えた義理ではないが、責任のある範囲と言うのであれば割り勘とやらで言い筈だ。性差がある私達では食べる量こそ不均等であるが、それがある意味、一番不満の少ない処理の仕方である。私としても恩返しがしたいので受け入れる訳にはいかないが、彼女としてはそれを主張してもおかしくはないはずだ。
 
 「だって…父さまは基本的に出される側だったし…」
 「…え?」
 「…何でもない。良いの。ボクが出したいんだから。君は遠慮なくボクに養われていれば良いのさ」
 「いや、それはそれでどうなんだ」
 
 別に男や女がどうこうと言うつもりはないが、友人に養われるという表現は間違っている気がする。いや、と言うか絶対に間違っているだろう。夫婦でだって、そんな形態を取るタイプは少ないはずだ。ましてや私も彼女も自立し、働いている人間である。にも関わらず、一方的に養われるというのは歪んでいると言う他ない。
 
 「それにそれは…」
 「お待たせしました」
 
 それを口にしようとした瞬間、脇から店員が一つのカップを運んできた。白亜のティーソーサーに載せられたカップからは白い湯気が立ち上っている。話を遮られたのはあまり良い気はしないが、紅茶の一番美味しい時期は淹れて蒸し終わった後だ。それを逃すまいとした店員の気持ちも分からないでもない。
 
 「ありがとう」
 「それではごゆっくりどうぞ」
 「…それでさっき何を言おうとしてたのかな?」
 
 店員が去っていくのを見ながら彼女はティーソーサーに添えられた小さな水差しを傾けた。瞬間、透き通った紅い液体に牛乳が飛び込み、美しいブラウンを描き出す。そのままクルクルと規則的に銀匙を回す彼女の前で私はそっと首を振った。
 
 「いや、なんでもない」
 
 そう言ったのは別に店員に遮られたからが直接的な原因ではない。ただ、自分の価値観が絶対ではなく、正しい訳でもない事を思い出しただけだ。実際、私はこうして自分で友人作りに動き出してから、今まで見下してきた連中を再評価している。経験一つで裏返るような価値観で「歪んでいる」だなどと偉そうに説教出来るほど私は立派な人間ではない。
 
 「それより君は今日、暇なのか?」
 「ん?ボクは何時でも暇だよ。例外は君が遊びに誘ってくれた時くらいだね」
 「そうか。それじゃあ、明日の予定を前倒しにして遊びにいかないか?」
 
 本来、今日はシリルと遊ぶ日ではなかった。しかし、こうして相手に逃げられ、彼女と偶然出会った今、ここで会話をしてさようならというのは無粋だろう。それに、ナンパに戻った所で改善点が見えない今の私では成果が変わるとも思えない。
 
 「却下」
 「え!?」
 
 しかし、そんな事を考えた私とは違い、彼女にはまた別の思惑があるらしい。一刀両断に私の誘いを切り捨て、そっとミルクティーに口をつけた。その姿には特に私に対する嫌悪感などは見えない。だが、それが演技ではないと見抜けるほどに私の経験は育ってはおらず、先のやり取りで嫌われたのではないかとドキドキしてしまう。
 
 「前倒しなんて嫌だよ。明日も遊んでくれなきゃダメ」
 「…それならそうと早く言ってくれ…。寿命が縮まるかと思った…」
 「ふふ♪ごめんね」
 
 カップから口を離してからようやく返事をくれた彼女に思わず肩がガクッと下がるのを感じる。無意味な脱力感に溜め息が漏れるが、シリルに反省の色はあまり見えない。優しいだけではなく、意外に悪戯っ子のような面を見せるのは何時もの事だが、今回のそれはちょっと僅かにいきすぎではないかと思う。
 
 ―…まぁ、仕返ししようと思えるほど私は強くはない訳だが。
 
 何だかんだ言って私たちの関係は、私がシリルにより掛かる事で成り立っているのだ。決して健全な関係ではないと理解していても、彼女から見捨てられたくはない。勿論、多少の悪戯で彼女が見放すほど薄情な人間ではないと今の私には理解できているが、それとこれとは話が別なのだ。
 
 「それより今日は何処に行く?」
 「そうだな…」
 
 仕切り直すような彼女の言葉に私は脳裏の地図をそっと広げた。王都中央には王城があり、そこから伸びる四つの大通りが王都を取り囲む城壁へと繋がっている。その大通りで隔てられるようにそれぞれ東西南北のエリアに別れているのだが……――
 
 「もう北と南は粗方、見終わったしな」
 
 そう。私はこの一ヶ月で北と南のエリアをシリルと殆ど踏破したのだ。そう。文字通りの意味で。それこそ地図でも作ろうとするのではないかと言う勢いで歩く遊び方は私のような遊びを知らない人間にとっては有難い。彼女と会話し、適当に散歩をするだけであれば特にコースなどを考えなくても済むからだ。
 
 ―とは言え、完全にリクエストがなかった訳ではないようだが。
 
 彼女が行きたいと主張するのは大抵、河川や兵士の詰所などであった。一応、図書館や王城などの可愛げのある見学コースも口にした事はあるが、それは一度きりである。大抵は普通の女性がまったく興味を持たないであろう場所にシリルは興味を示したのだ。
 
 ―まぁ、その方が私も有難い。
 
 普通の女性が興味を示しそうな場所と言っても私には皆目見当もつかないのだ。それから考えれば、何処を歩いても「君と一緒なら楽しいよ」と言ってくれるシリルの方が気が楽である。それに彼女が興味を示す場所は私にとっても興味深い事がままあるのだ。井戸の分布一つから生活の規模を推察するのを面白いと感じる私には彼女とのお出かけはとても性に合っている。
 
 ―それに……――
 
 「レイド?」
 「あぁ、いや、すまない」
 
 唐突に考え込んだ私に向かってシリルがそっと首を傾げて尋ねてくる。そこには私の体調を心配する色も含まれていた。どうやら私はよっぽど暗い顔をしていたらしい。落ち込もうとする思考を切り替えながら、私はそっと口を開いた。
 
 「それじゃあ今日は西へと行かないか?」
 「そうだね。君の宿との位置関係的にもそれが一番だと思う」
 
 私の問いかけに頷きながら、シリルはそっとカップを煽った。そのまま形の良い喉を動かし、ミルクティーを嚥下していく。数秒の後、そのカップをソーサーに戻した彼女は口元をハンカチで上品に拭ってから立ち上がった。
 
 「じゃあ、そろそろ行こうか。時は金なりって言うしね」
 「あぁ。そうだな」
 
 彼女に応えるように立ち上がった私にシリルがそっと並び立った。今にも触れそうで触れない絶妙な距離。お互いのパーソナルスペースを侵さないそのギリギリの近さに私は安心感と共に居心地の良さを感じる。だが…その反面、それに物足りなさを感じる私自身も居て…――
 
 ―…血迷うな。馬鹿な事を考えるんじゃない。
 
 そんな自分を抑えつけながら、私は彼女と共に西のエリアへと繰り出したのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12/02/25 23:22更新 / デュラハンの婿
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