その1
―政治の究極的な目的とは安全保障である。
ただし、この場合の安全とは一言で言い表せない程、多岐に渡る。一般的に安全と言ったときに連想するような外敵という『危険』に始まり、『餓死』『貧困』『治安』から護るのも含まれているのだ。つまり、政治とは人間を害そうとする様々な概念から構成員を護る事を究極目的としているのである。
―其の中でも特に大事なのは治安の面だろう。
治安の悪化は政治が行き届かないという事態をも引き起こすのだ。どれだけ良い制度を作り上げても、人民に行き渡らねば意味がない。その情報の伝達を効率良くする為にも、この治安と言うのは重要なのだ。だからこそ、時の王はそれぞれの理念に従ってこの治安を維持する制度を作り上げてきたのである。
―…けれど、世の中にはそんな制度であってもどうにもならない事があって……。
「…ねぇ。六花さん。これで何回目でしょうかねぇ…?」
「あはは…どうだったろうねぇ。十回は超えてたと思うんだけど」
意図的に嫌味に漏らした私の言葉を目の前の女性はあっけらかんと笑って受け流す。蚊ほども感じていないその姿にコメカミがひくつくのを感じた。しかし、ここで怒っても仕方が無い。私は治安維持の為にここに派遣されてきたのである。ここで怒鳴っても一向に治安は回復しないし、何より目の前の女性――六花は決して懲りないだろう。そんな事は十五回にも及ぶこの『やり取り』の中で悟っていた。
―落ち着け…落ち着くんだ私よ…!!
大きく深呼吸をして、胸の中に新鮮な空気を取り込む。急造の詰め所の中はまだ切り出してきたばかりの木の匂いで溢れている…いや、いた…と言うべきか。今はそれを上書きするように酒の匂いが充満していた。ここには私と六花しかおらず、私は勤務中は決して酒を嗜まない。となれば…その匂いの発生源は彼女しかいないだろう。
「…今回で十五回目ですよ。貴女が無銭飲食でこうして捕まるのはね」
「あはは…そりゃあ悪かったねぇ」
そのお酒の匂いの元になっているのはここからそう遠くない食堂だ。このこじんまりとした町の中でぽつんと建っているそこは美人な女将と腕の良い板前の夫婦で経営している。それほど大きくないとは言え、そこは常に人が出入りしていて、賑やかに主人や女将と歓談しているのだ。『分相応な幸せ』。思わずそんな言葉が浮かんでくるくらい二人はお客に嬉しそうに接している。私も良く利用するその気の良い店で彼女はこうして十五回目の無銭飲食を働いたのだった。
「でも、十五回目になるって事は記念日になるね!いやぁ、めでたい!これは酒とつまみで盛大に祝わないと…」
「貴女、五回目と十回目の時にも似たような事言ってたでしょう…」
ズキズキと後頭部の辺りに走る痛みを堪えるように私はそっと目頭を押さえた。しかし、それでも一向に頭痛は消えてはくれない。それどころか能天気な彼女の声に胃痛すら感じる始末であった。常備している胃薬を無意識に探そうと胸元に手が伸びそうになるが、六花の前で弱いところを見せるわけにはいかない。何せ彼女は此処に赴任してきてから最も私に『お世話』になっている人間――いや、アカオニなのだから。
―そう。六花は厳密な意味での人間ではない。
二本突き出た大きな角。牛や山羊を髣髴とさせる硬い部位は人には決して無いものだろう。其の上、白銀の髪はこの辺りでは決して人には見られないものだ。薄く紫に染まった独特の髪は夕日の中で美しく輝いている。また、その髪の下から伸びる耳は人間とは比べ物にならないほど長い。そして、その耳が炎で燃え盛っているような真っ赤だとくれば夜道で会ったとしても『妖怪』であると分かるだろう。
―とは言え、美しくない訳ではないのだが。
猛禽のように鋭い金色の目やおおらかな表情、そして平均的男性の身長と大差ない長身が頼れる女性とも言うべき雰囲気を作り出している。彼女が人であれば『姉御』と呼ばれて親しまれていたかもしれない。実際、雰囲気だけでなく豪放で細かい事を気にしない彼女は子供達にも多く好かれている。しかし、可愛らしい部分が無い訳でもなく、無造作に伸ばしている髪が所々でピンと跳ねて妙に可愛らしい。『鬼』と言うこの国でも恐れられる種族である彼女が僅かに隙を見せる部分にどうしても彼女に妙な落差と魅力を与えている。
―其の上、露出も激しくて…なぁ。
その燃える様な肌を見せるけるように彼女は最低限の部分しか布で覆ってはいない。胸と下腹部の僅かな部分に横縞の毛皮を括りつけただけの姿は刺激が強すぎる。これがまだ貧相な体型であれば笑い話にもなろうが、六花はその豪放な性格に反して男好きをする部分にたっぷりと肉をつけているのだ。其の上、足首や腰などはきゅっと締まっているのだから溜まらない。正直、未婚の成人男性である私としては目の毒とも言えるような姿なのだ。
「…何さ。いきなりこっちをジロジロ見て。もしかしてアタシに惚れたのかい?」
「…貴女がもう少し大人しくしてくれていればそれもあるかもしれませんね」
揶揄する六花の言葉に私はこれ見よがしに溜め息を吐いた。実際、無銭飲食を繰り返しているとは言え、六花は悪い人ではない。この町に住む殆どの人間に慕われているし、無銭飲食を繰り返している食堂にだって受け入れられているのだ。余りにも豪放すぎて――いや、大雑把過ぎて時折、交換の品を忘れるのが無銭飲食の原因である。それさえ無くなれば、もしかしたら、刹那の確率くらいでは惚れるかもしれない。
―…だって…その…なぁ。
同じ罪状で計十五回も私に『お世話』になっている彼女に今更、惚れる要素があるとは思えない。何せ六花は目下、私の頭痛の種であるのだから。こうして対面していると毛皮から溢れんばかりの胸の大きさに目を逸らしたくなってしまうが、それだけである。悪い人ではないとは知ってはいるものの、積極的に関わりたいかと聞かれれば否としか答えようが無い。私にとってアカオニの六花とはそんな相手であった。
「釣れないねぇ…もうちょっと反応してくれても良いじゃないのさ」
「誰の所為だと思ってるんですか誰の」
まだ着任してきたばかりの初心な私をからかって玩具にしたのは他でもない六花だ。元々、気位が高い私にとってからかわれるのは許せなかったが、それが数ヶ月も経てば慣れもする。今よりももっとあからさまに揶揄された事も少なくないのだ。そんな事を繰り返してきた相手に今更、面白い反応をしろと言われても誰だって困るだろう。
「何?アタシの調教のお陰だって言うのかい?それはまた嬉しい事を言ってくれるねぇ…♪責任とって娶ってやろうじゃないか♪」
「普通、逆ですよ逆。それと調教とか言わず、せめて教育と言って下さい。後、今の嫌味ですからね。分かってるとは思いますけど」
揶揄する六花に突っ込むのももう慣れたものである。頭の中に言葉を浮かび上がらせなくても淡々と続く突込みの羅列は本当に『調教』でもされてしまったようだ。そんな自分に溜め息が漏れそうになってしまうが、今更、どうにもならない。数ヶ月前の自分であれば顔を真っ赤にして怒鳴っていたかもしれないが、嫌な意味でも私は慣れてしまったのだ。
「それより、いい加減、調書を取りますよ」
「えぇ…またかい?もうアタシの事なんて隅から隅まで知ってるんだから勝手に書いておいておくれよ」
「残念ですが、貴女と私との間では認識の誤差があるようです。私は貴女の事なんて調書に載った分しか知りません。序でに言えば私は公僕であり、調書を取る義務があるんですよ」
―って言うか顔馴染みの店みたいに勝手になんて出来る訳無いだろうが!!!
そう叫びたいのを必死で堪えつつ、あくまで冷静に一公僕として六花に接し続ける。それが彼女にとっては詰まらなかったのだろう。その赤い頬を不機嫌そうに膨らませた。見るからに子供っぽい仕草ではあるが、彼女がやると妙に絵になってしまう。姉御っぽい雰囲気の中に何処か子供のようなものを残している所為だろうか。拗ねるような仕草が似合っているように思えて仕方ない。
―鬼らしいと言えばらしいのかもしれないけどな。
人間とは比べ物にならない怪力を秘めるアカオニはその豪放さに加えて強引さでも語られる事が多い。気に入った男を見れば、すぐさま住処である山へと連れ去る彼女達は近隣の住人にも恐れられてさえいるのだ。そんな『思い立ったらすぐ行動』と言うアカオニ独特の価値観は大人よりも子供に近いものだろう。そう考えれば子供っぽい仕草が絵になっても不思議ではないのかもしれない。
―まぁ…それに比べれば六花は恐れられてる訳じゃないんだが。
基本的に鬼と名の着く妖怪は人間に恐れの感情を向けられる事が多い。アカオニ然りウシオニ然り。鬼という名は恐れる対象に向けられると言っても良いくらいかも知れない。だが、そんなアカオニである六花は良くも悪くもこの町の中で受け入れられている。子供には笑顔を向けられ、面倒見の良い彼女に遊んでもらっている姿も見るのだ。そこには私の考えていた男を浚うアカオニの姿は無く、少しばかり強い力を持つだけの――そしてちょっぴり大雑把過ぎる上に私をからかうのが好きだと公言する女性の姿があるだけだ。
―私としては楽で良いんだがな。
もし、彼女がこの町で暴れる事になればまず第一に私が立ち向かわなければならないだろう。しかし、ただの人間である私に怪力を誇るアカオニを撃退できる訳が無い。まず間違いなく敗北を喫するはずだ。それに比べればこうして無銭飲食程度で済ませてくれて御の字と言えるかもしれない。…いや、それはないか。
―まぁ、とりあえず調書を取ろう。
そんな風に思考を打ち切って、私は意識を手の中にある木簡に向ける。調書とは言っても、貴重品である紙を買うだけの資金が私には無い。記録を残すのは後任者の為にも大事ではあるが、出来る事と出来ない事があるのだ。記録年数ではどうしても紙には劣るが、今の私には木を削って作った木簡で残すのが精一杯である。
「では、まずは…」
「あ、じゃあね!」
―む…。
そんな彼女に義務的な質問をしようと口を開いた瞬間、私の言葉を六花が遮った。何処か強引な話の転換の仕方は別に珍しい事ではない。言いたい事を言って、感じたい事を感じるのが彼女の生き方なのだから。調書の最中に話が明後日の方向へ進んだのも一度や二度ではない。
―やれやれ…また変な事を思いついたのか。
木簡に向けていた目線を六花に戻すとニヤニヤとその顔が抑えきれない笑みに歪んでいた。その表情は嫌になるほど見覚えのあるものだ。何せ私をからかう時は必ずと言って良いほど、六花はこんな表情を浮かべているのだから。赴任してから数ヶ月で見慣れてしまった私がどれだけからかわれてきたか。想像に難くないだろう。
「調書なんかよりももっとキモチイイコトでお互いを知る方法があるんだけれどねぇ…♪」
その表情のまま六花はそっと胸元の毛皮を引っ張った。そして、見事な谷間を作り出す胸がふよんと揺れて私の前に晒される。その頂点である桜色の部分までは見えないが、そのギリギリまでを六花は見せ付けていた。まるで誘うような、挑戦するような仕草に私の咽喉が一瞬だけ鳴ってしまう。男であれば皆、手を伸ばしたくなるようなはち切れんばかりの胸がすぐそこにあるのだから仕方ない。そう言い訳しつつもドクドクと高鳴る鼓動は収まってはくれなかった。
「少し手を伸ばせば、この胸の中の感覚も…もっと素敵な事も…たぁっぷり教えてあげられるんだけど…♪」
それは正直、魅力的な提案であった。私とて公僕である以前に一人の男なのだ。やはりそう言う事には人並みに興味がある。特に私が赴任してきた此処は性には解放的な場所であり、夕方の茂みから妖しげな物音が聞こえてくるのは珍しくない。流石に浮気などの不道徳が横行しているわけではないようだが、朝から仲良くヤっていて仕事に遅刻しても笑って許される程度には大らかだ。私の住んでいた場所とは比べ物にならないほど緩い道徳観に当初は強い頭痛を覚えたものの、一ヶ月も過ぎれば私も慣れてしまったのである。
―とは言え、誰か恋人が出来たわけじゃないんだが…。
昔から勉学一筋であり筆と書物だけが恋人であった私にとって異性の知り合いと言うものは殆どいなかった。こっちに赴任してきてから何人かの女性の知り合いは出来たものの、殆どが既婚者である。唯一の例外は六花だが、彼女は最初からそんな対象にはならない。となれば、私に恋人など出来るはずも無く、花魁もいない小さな町の中で悶々と性欲を溜め込んでいる訳である。
―まぁ…とは言っても。
「貴女に手を出すほど女性に飢えてはいませんよ」
「…む」
確かに魅力的なお誘いである。正直、理性がぐらつかなかったと言えば、嘘になってしまうだろう。だが、他の女性であればいざ知らず、相手は今まで私をからかいにからかい続けた六花である。どれだけ魅力的であろうと其の先には揶揄される結末しか待っていないのは目に見えているのだ。そんな中に嬉々として入ってやるほど私は物好きではなく、刹那的でもない。先の事を考えればここは軽く切り返してやるのが一番だろう。
「…そんなにアタシって魅力無いのかい?」
そんな私にポツリと呟くような声が届いた。何時もの張りのある力強いものではないか細いそれはまるで『女性』の声のように聞こえる。勿論、それだけではない。どれだけ酒を飲んだとしても普段はびしっと伸びている背筋がくにゃりと曲がり、顔もそっと俯いていた。普段からは考えられない弱弱しい様子に思わず庇護欲を掻き立てられそうになる。
―しかし、それは罠なのだ。
「そう言って話を誤魔化すのはもう何度目でしたっけ?」
「…むぅ」
笑顔で突っ込んでやると俯いた顔をそっと戻して六花の頬が膨れた。そこにはもう落ち込んでいる様子は殆ど見えない。…と言うか最初から落ち込んでなどいなかったのだろう。このアカオニは私をからかう為であれば冗談も嘘も言うのだ。それに今まで何度も騙されてきたが、いい加減、騙されてなどやるものか。
「面白くないねぇ…少しも焦らないなんてさ」
「だったら、私ではなく別の人をからかってくればどうです?私以上に面白い反応をしてくれる人もいるかもしれませんよ」
それは前々からずっと考えてきた事であった。正直、ここで縁が切れてくれるのであればそれはそれで嬉しい。あくまで公僕として関わるだけになれば心労も大分、収まるだろう。そもそも、私の頭痛と胃痛の原因は何度も無銭飲食で呼び出されることよりもこうして揶揄される事の方が大きいのだから。それが収まるだけでも胃薬の世話になる回数は少なくなるだろう。
「別にアタシだって…誰でも良いって訳じゃあ無いんだよ…?」
「はいはい。気に入ってもらえて光栄ですよ」
またからかいの種を増やそうとする六花の言葉に軽く返しながら、私はそっと木簡に目を落とした。どうせ、このまま付き合っても永遠に話は進まない。それよりもこれ以上、話をするつもりはないと表す方が良いだろう。そう考えての行動だった。実際、六花もそれ以上、揶揄するような言葉を漏らさず、ブツブツと悔しそうに呟くだけである。
「…この鈍感」
「??」
その一部分だけ聞こえてきたものの、どういう意味かは私には分からない。確かに人より敏いつもりは無いが、そこまで言われるほど何かしただろうか。思わず思い返してみるが、特に思いつかない。なら、これもきっとからかいの一種なのだろう。そう思考を打ち切って、私は口を開いた。
「それでは聴取を始めますね」
「…好きにしておくれよ」
「???」
何故か拗ねた様子を見せる六花に首を傾げるが、彼女は協力的に答えを返してくれる。元々、このやり取りは事務的なもので、彼女としても返すべき答えを理解しているからだろう。サクサクと聞くべき項目が埋まっていき、一時間もしない内に終わってしまう。後はこれが渇くまで待って所蔵庫――と言っても大きな棚を二つ繋げただけなのだが――に入れれば終わりだ。
「はい。お疲れ様でした。次は金子を忘れないようにしてくださいね」
「分かってるよ…まったく…」
嫌味っぽく念押しする私の言葉に返しながら、六花はパタパタと手を振った。どうやらまだ拗ねているらしい。叱られた後の子供のようにふくれっ面を見せる姿からもそう察せられる。
―…まったく。何を拗ねているんだか。
元々、からかってきたのは六花の方だ。それを相手にしなかったからと言って、拗ねられればこっちの立場が無い。そもそも心労を被ってまで彼女にからかわれるような義理など無いのだ。可能であれば相手をしたくないし、仕事でなければ関わりたく無いのが正直な所である。そんな風に思われるまでからかい続けた相手に何を期待しているのか。私には理解できない。
―…やれやれ。面倒な奴だ。
子供にどれだけからかわれたとしても、酒を飲んだ親父にどれだけ揶揄されたとしても、顔色一つ変えずに受け流す六花が私にだけは子供っぽい姿を見せる。まるで私だけ信頼しているような姿に、良心が痛まない訳ではない。けれど、これもまた罠であるかもしれないと、今まで騙され続けた私にはそんな言葉は脳裏を過ぎってしまうのだ。
―…まぁ、係わり合いになるのはよそう。
六花の事だ。どうせこれも罠なのだろう。例え、罠でなくとも私が慰めてやる道理も義理も無い。仕方なく付き合っているだけの相手にそこまでしてやるほど私は暇でも優しくもないのだ。今回の調書も纏めておかないといけないし、やる事は多い。六花が帰れば、すぐにでも仕事に取り掛からなければいけないだろう。
「……」
「……」
しかし、そんな私の思いを余所に六花は簡素な椅子から立ち上がろうとしない。もう事情聴取は終わっていると理解している筈なのに、彼女の腰はまったく動こうとしないのだ。まるで私が声を掛けるのを待っているような仕草に思わず溜め息が漏れそうになってしまう。しかし、それは公僕にあるまじき行為であると心を引き締め、努めて優しい言葉で彼女に問いかけ始めた。
「…あの…六花さん?」
「…何だい?」
「もう調書も取れましたし帰って結構ですよ」
「…じゃあ、別に居ても良いって事だよね」
「うぐ…」
ジパング人らしい曖昧な言葉尻を取上げて、居つこうとする六花に何も言えなくなってしまう。確かに言葉だけを見ればそうだ。しかし、ここは額面通りに受け取らず、嫌がられていることを察するのが美徳と言う奴じゃないだろうか。妖怪に人の価値観を押し付けるのは間違いであると理解しているものの、どうしてもそんな風に思ってしまう。
「でも…ね。もう日も落ちちゃいますし…帰り道も危なくなってしまいますよ?」
「じゃあ、責任とってアンタの家に泊めてもらうさ」
―こ…コイツ…!!
気遣う私の言葉をさらりと流す言葉はとても現実味のあるものであった。六花のからかいの所為で夜遅くまで彼女を拘束してしまった私は一度だけ自分から泊まって行くのを勧めたのである。普通の女性相手には勿論、そんな事はしないが相手は鬼。襲われる心配などしないだろうし、それよりも崖か何かから転落するほうが大事だ。悪いのは六花の方であるとは言え、それに付き合ってしまった私にも遅くなった原因が無いとは言えないので一度だけ仏心を出してしまったのである。
―それが間違いだったんだ…!!!
それから六花は私の家に何度かやって来て、泊り込むようになったのである。最初はそれでも悪くは無かった。こっちに一人で赴任してきた私には仲間はおらず、誰かを一緒に食べる飯も久しぶりだったのである。それに六花の料理の腕は悪くは無く、食事の時は意外なほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。…そこまでは問題なかったのである。そこまでは。
―けれど…何を勘違いしたのかは知らないが人をからかう内容を過激にさせていって…!!
私が寝ている布団に潜り込むのまではまだ悪戯の範囲であると許そう。だが、耳元で興奮を掻き立てるような淫らな噂話をしたりされて眠れるはずが無い。結果、私は悶々としたまま夜を過ごすようになったのである。それが一日、二日と続けばどうなるか。勿論、寝不足で仕事などマトモに出来るはずがなく、私はぶっ倒れてしまった。それ以来、流石に連続で寝泊りする事は無くなったが、泊まる日には知らないうちに私の布団に潜り込んで淫らな話を囁くのが六花の日課になってしまったのである。
「今日はまた新しい話を仕入れてきたからまたアンタに教えてあげようと思ってたんだ。丁度良いよねぇ」
「うぅ…」
ここで「来るな」と言って、来ないような相手であれば私だってこんなに悩んではいない。残念だが彼女は其の程度で怯むような柔な精神をしていないのだ。寧ろ嫌がられていることに嬉々として私の家にやってくるだろう。簡単に予想が着くだけに今まで一度も言っていなかったが、そうに違いない。どれだけ厳重に扉を締めたとしても全て打ち破る六花の姿が易々と脳裏に浮かぶのだ。
「…はぁ…」
弱味は見せまいと必死にしてきたが、流石にこれだけ追い詰められれば溜め息も漏れてしまう。結局、私に出来る事はもう限られてしまっているのだ。この面倒臭いアカオニの機嫌を取るしか道は残されていない。どうにも弱い立場に曇天が胸の中に立ち込めるのを感じながら、私はそっと口を開いた。
「…それで、何で拗ねているんです?」
「……」
―…どうしろって言うんだ。
諦めて聞いては見たものの六花は話してはくれない。まるで事情を察しろと言わんばかりにふくれっ面のままだ。そんな彼女に再び溜め息が出そうになるが、流石に二度目は堪える。それよりもさっさとこの良く分からない展開から逃げ出してしまいたい。そう思って私はさっきの情報を脳裏で整理し始める。
―けれど…なぁ…。
さっきも考えてみたが、やっぱり私に非があるようには思えない。六花のからかいを受け流しただけでどうしてそこまで拗ねられなければいけないのか。まるで子供だ。
―…いや、子供だと仮定するならば…だ。
思い返すと「気に入っている」と言う発言があったような気がする。それははっきり言われたものではないにせよ、裏の意味を考えればすぐに察する事が出来るだろう。私はそれを何時ものからかいであると受け取っていたが、それがそのまま本来の意味――つまり、本当に私を気に入っているのだとすればどうだろうか。
―…なるほど。つまりは独占欲か。
『からかいの』対象として気に入っている私が他の相手を勧めるような言葉を言えば、そりゃ面白くないかもしれない。特に彼女が少なからず私を信頼してくれているのだと仮定すれば余計そうだろう。『公僕である』私はどれだけからかっても手を出してくる事は無いと信頼しているからこそ、きっとアレだけからかう事が出来るのだ。そういう意味であると仮定すれば…なるほど。玩具に嫌われた子供のように面白くないだろう。
―…ってこれじゃ余計に私が非が無いじゃないか…。
内心、そう思ったもののこのままの状況がずっと続くほうがよっぽど辛い。それなら、早めに六花に謝って仕事でも進めた方がよっぽど有意義だ。そう考えた私はそっと彼女の方へと向き直り、口を開く。
「…すみませんでした。六花さんの気持ちも分からずに…」
「…え?」
私の言葉に六花が驚愕の色を浮かべて、こっちを見据えた。どうやら私の言葉はよっぽど意外だったらしい。普段、私をどんな風に思っているのか聞いてやりたいところだが、今はそれをじっと堪えた。それよりもこの面倒な状況をとっとと打開したいと二の矢を放つ。
「どんな相手であっても、気の無い返事をされるのは良い気分じゃないですよね。すみません。反省しています」
「……」
―…あれ?
しかし、この状況を切り裂いてくれる筈の言葉は六花の顔に呆れたような表情を生み出した。どうやら肝心な所で私は外してしまったらしい。しかし、他に理由など思い当たらない私には首を傾げても別の答えなど出ては来ない。そのまま半眼で睨みつけるような六花の視線を受け止め続けるだけだ。
「…はああぁぁぁぁぁぁ」
そのままこれ見よがしに溜め息を吐かれるのだから溜まったものではない。私としてもそれなりに思考を張り巡らさせての答えであったのにそんな反応を返されるとやはり嫌な気分になってしまうのだ。さっきはそれで六花の機嫌を損ねたのかとも思ったが、どうやら違うようだし…まるで訳が分からない。
―…こんな事なら適当に放置して置けばよかった。
また心労がズシリと心の中に乗りかかるのを感じながら、私は胸中でそう呟いた。事態に進展が見れない上に、これ見よがしに溜め息を吐かれたのだから、放置していた方が心労の分幾らかマシだったろう。しかし、今更そう思っても何の意味も成さない。既に事態は動き出してしまったのだ。例えこのまま時間が逆行してさっきの選択肢に戻れたとしても心労が増すだけだろう。
「…まぁ、アンタの鈍感さは筋金入りだって理解してた…けどさぁ」
「むぅ…」
良くは分からないが私は察しが悪いらしい。確かに人の心に敏い自負はないが、そこまで言われるような事はしていないと思うのだ。しかし、怒った女性と言うのは独特の凄みがあるものでその反論を許さない。ピリピリと髪の毛を逆立てるような怒りが収まるのを待つしかないのだ。
「いや…私こそ悪かったよ。変な風に拗ねちゃったりしてさ」
そして、彼女はそんな風に怒りを持続させるような性格はしていない。子供のように拗ねる事は多々あるが、ネチネチと言い続けるような粘着質ではないのだ。良くも悪くもあっけらかんとして細かい事は気にしない性格をしている彼女はあっさりと矛を収めて、謝罪の言葉を呟く。
―…こんな性格だから嫌えないんだよなぁ…。
積極的に関わりになりたいとは思えない。だが、それでも、こうして関わってしまうのはこうして竹で割ったような性格が気持ち良いからだ。私相手には何故だか鳴りを潜める事も多いが、基本的には彼女は関わっていて悪い気分になるような相手ではない。からかってくるのはかなり疲れるし、心底忘れ癖を無くして欲しいと思うが怒りを覚えさせるような性根の悪い人間ではないのだ。
―それが良いのか悪いのか。…いや、悪いな、うん。
これが心底嫌える相手であればすっぱりとそこで縁を切ってしまえば良い。だが、六花は決してそんな相手ではないのだ。良い所もこの数ヶ月の中で幾つも見つけてきたのである。そして、それがある意味、彼女の性質の悪さの大きな原因だ。つまり、良い所もあるが故に離れる事も出来ず、しかし、近くに居ると多大な心労を被るのが六花の性質の悪さなのであろう。
―まったく…殊勝にしてれば可愛らしいってのに。
私をからかって心労を掛ける点を除けば――いや、除かなくても彼女は魅力的な女性だ。鬼独特の長身は彼女の体型の良さを引き立てていて、西瓜ほどの大きさの胸も目を引く。真っ赤な肌は奇異に映る以上に瑞々しく、思わず手を伸ばしてみたくなるほどだ。そんな肌に覆われた顔立ちもすっきりとしていて、気の強さと共に頼りがいを感じさせている。女傑と言う言葉が何より相応しい雰囲気だが、其の中には可憐な一面も見え隠れするのだ。今のように気まずそうに肩を縮こまらせる姿などは庇護欲さえそそられるのだから。
「あー…いや、良くは分かりませんが、私が鈍感なのがいけないのでしょう?ならば、貴女が謝る必要はありませんよ」
―…こんな風に甘やかすから調子に乗るんだろうなぁ…。
それは私自身、自覚している事である。しかし、普段、気丈な女性の弱気になった姿と言うのはどうにも何とかしてやりたいと思ってしまうのだ。普段が普段だけに普通の女性よりも弱弱しく見えてしまうからだろうか。甘いとは自覚していてもそんな言葉がどうしても漏れてしまうのである。
「…うん。アンタが悪い」
「おい」
そして、こんな風に話が持っていかれるのも何時もの事だ。様式美とも言える話の流れだが、私は思わず突っ込んでしまう。だって、そこにはさっきの弱弱しい雰囲気など何処にも無いあっけらかんとした六花がいるのだから。まるで「その言葉を聞きたかった!!」と言うかのように嬉しそうにしている。其の落差はさっきとは逆の意味で私の心に圧し掛かり、後悔の感情を――コイツに気を使っても無駄だと言う感情を引き出した。胃痛を感じる心には徒労にも似た空虚さが吹き荒び、私の心を荒れさせる。
「って事で今日もお詫びに奢ってもらおうかっ!」
「お前、それが言いたかっただけだろ汚いな流石アカオニきたない」
「ふふん♪アンタがそうでもなきゃ一緒に飯を食ってくれないから悪いんだよ」
勝ち誇るアカオニに何を言っても無駄なようでその豊満な胸をずいっと反らせた。見事な大きさの双丘が持ち上がる仕草に男としてどうしても目線がそっちに吸い寄せられてしまう。しかし、そんなのを見出されればまたからかわれるネタを増やすだけだ。もう既に十を超えるネタを握られているだけにこれ以上増えるのは阻止したい。そう心の中で唱えながら私はそっと目線を逸らせた。
「それより…まだ申の中刻じゃないけれど、口調はそれでいいのかねぇ…」
「うぐ…っ!」
あまりにも汚い六花の所業に思わず素で話してしまったが、今はまだ勤務中である。それで敬語を使わないなんて言語道断だ。あくまで今の私は私人ではなく公人。民に仕えるべき公僕である。それを指摘されるまで忘れていたのも失態だが、その原因を作ったお前が言うなと声を大にして言いたい。
―落ち着け…どうせ後もう少しなんだから…っ!
そっと日時計の方を見ればもう申の上刻過ぎを示している。六花との下らないやり取りの所為でどうやらかなり時間を潰してしまったらしい。終業時刻である申の中刻までもう少しであった。ならば、公僕として我慢するのはあと少しで終わりである。どうせ其の後にも六花に粘着されるのだろうし、仕返しはその時で良い。そう何度も心の中で唱えながら、私は自分を落ち着かせるために深呼吸を行う。
「すみません、六花さん。私としたことが我を忘れてしまったようです。許してください」
「ヒャッハー許して欲しければ酒と摘みをよこしなぁ♪」
「何処の野盗ですか貴女は」
とりあえず突っ込んでおくが、其の程度であれば安いと思うべきだろう。以前はそれを盾に添い寝まで迫られたのだ。何時も自分から潜り込んで来るので大した事は無いと承諾したが、何時もとは違い、向かい合わせで寝るのを強要されたのである。その状態で猥談を囁かれたのだから溜まった物ではない。作務衣の中で持ち上がるオスに気付かれないように必死で距離を取りながら明かした一晩はまさに生きた心地がしなかった。
―何せ一歩間違えれば永遠にからかわれるネタを作ってたんだからなぁ…。
一分一秒がまるで一時間にも感じるあの感覚はもう二度と味わいたくはない。空を白んじるのを見て、救われたとさえ思ったのだから。当時の私がどれだけ追い詰められていたか、それだけで察するに余りあるだろう。今思い出しても涙が出そうになるほどの本能との激闘の果てに私は何とか生き延びる事が出来たのだから。
―まぁ、それはともかく。
「…ともかく分かりましたよ。お酒と摘みですね」
これ以上、抵抗しても譲歩を引き出す事は出来ないだろう。其の上、下手にごねれば、また変な風に根に持たれないとも限らない。大酒飲みの六花に奢るのは痛い出費であるが、ここは大人しく言う事を聞いておくのが得策だろう。
「あぁ、何時もの所で良いからね♪」
「分かってますよ、まったく…」
彼女が言う『何時もの所』とは今日も六花がお世話になった食堂――狐の油揚げ亭の事だ。確かには油揚げ亭は美味しくて値段も安く、其の上、量も多いので私としても有難い。大酒飲みの六花に奢る事を考えれば出来るだけ出費は抑えたいし、量と値段と味を備えている油揚げ亭を指定されるのはこっちも願ったり叶ったりだったりするのだ。
―…かと言って出費が痛くない訳じゃないんだが。
六花以外の鬼との面識は無いから詳しい事は分からないが、とにかく彼女は良く飲んで良く食べるのだ。それこそ私の二倍三倍は優に食べ、五倍十倍は酒を飲む。その勢いたるや底無しの大穴に水や食べ物を流れ込んでいくのを彷彿とさせるほどだ。そんな彼女に奢りを要求されれば十日分の食費が消えるのは最低でも覚悟しておかなければならない。まだ油揚げ亭だからこそ十日分で済んでいるが、これが他の店であれば倍は飛んでいてもおかしくはないのだ。
―まぁ…独り身だから特に問題は無いんだがな。
昔から異性にモテなかった私は齢弐十五を超えて、この町に赴任してきても独身だ。国から頂いている給金の殆どを使い切っても問題は無い。どの道、彼女に使われなかった分は食費と書物を手に入れる代金に消えているのだ。その雲行きは少しずつ怪しくはなってきているもののまだ数ヶ月は大丈夫だろう。
「それじゃあ早く行くよ。アタシはもう腹が減ったんだ♪」
「貴女…ついさっき無銭飲食で捕まったばっかりじゃないですか…」
話が纏まったのを感じたのだろうか。急かす六花に思わず目頭を押さえてしまう。ジンジンと響く頭痛を抑えようとした仕草ではあったが、それでも痛みは治まらない。しかし、それを見ても目の前の頭痛の種は何も言わない。それどころかタダ酒が飲めるのが嬉しいのか椅子から立ち上がって踊りだしそうな雰囲気さえあった。
「酒は命の燃料さ。あれがないとアタシは生きてけないねぇ…♪」
「はいはい…」
その命の燃料とやらをつい数時間前に徳利で何十杯も空けておいて何を言うかとも思ったが、それはそっと心の中に閉まっておく。どうせこの頭痛の種に何を言っても止まってはくれない。それなら適度に流されてしまうのが頭痛を軽減する一番の方法であると私は最近、学んだのだ。
「ですが、まだ終業時刻ではありませんからね。それが終わったらお付き合いしますよ」
ただし、『公僕』としてはそれだけは譲れない。流された方が楽であったとしても譲れるものと譲れないものがあるのだ。例えどれだけ辛くとも終業時刻はきっちりと護る。それを過ぎる事はあっても、それ以前に終わってしまうなんて言語道断だ。私がそんな風に気を抜いた時に大事件が起きてしまうかもしれない。いや、起きるだけならまだしもそれで死者や重傷者が出てしまっては責任を取る事も出来ないのだから。
「お堅いねぇ…固いのは股間の逸物だけにすれば良いってのにさぁ♪」
「貴女が柔らかすぎるんですよ」
「ふふん♪何処見て言ってるんだよこの変態♪」
「無論、貴女の柔らかそうな頭です」
六花の揶揄――勿論、こういう下ネタも言われなれている――に軽く返しながら、私はそっとさっきの調書を広げた。どうやら下らないやり取りをしている間に渇いてくれたようで、すっと指でなぞっても墨は後を引かない。これならば大丈夫だろうと私は判断し、筆先をそっと硯の中へと浸ける。そのまま墨を含ませた筆を浮き上がらせ、さらさらと木簡に付け加えていく。
「……」
「……」
しかし、そんな私の前に座っている六花はニコニコと嬉しそうな視線で見続けているのだ。それは正直、居心地が悪いと言わざるを得ない。しかし、ここで何か反応を返せばきっと六花の思う壺。そうでなければお喋りな彼女がこんな風に黙って私を見続けるなんて無いのだ。ここは忍…!忍耐の一文字…!!と心の中で必死に戒めて、気付かないように調書を纏めていく。
「……」
「……」
「……っ!」
「……」
―あぁぁぁぁ!!クッソ!なんなんだよ!!!
普段ならばとっくの昔に何か言っている頃だ。しかし、視界の端にチラリと移りこむ六花は未だに何も言わない。綻ばせた頬を両手で支えてこっちを見つめてくるだけだ。それは普段の姿からは想像も出来ないほど大人しい姿だと言えるだろう。しかし、だからこそ、さっきから私の心の中に「何か企んでいるのではないだろうか」と言う疑心暗鬼が募って止まらないのだ。ドンドンと膨れ上がるそれは私にもついに制御出来ないものになり、視線を木簡から六花に向けさせる。
「…その、あんまりジロジロ見られると恥ずかしいんですが…」
「ふふ…♪気にしなくて良いよ♪」
「それが無理だからこっち見るなって言ってるんですよ」
しかし、そこまで言っても六花は笑顔を崩さない。机に肘を突いた姿勢で両頬を手で受け止め、私の方を見ているだけだ。ある種、不気味にも見えるそんな姿に私の口から一つ溜め息が漏れ出る。まさかこんな形でまで嫌がらせを受けるとは思っても見なかっただけにどうにもやりづらいのだ。
「アタシはやっぱりアンタの仕事してる姿を見るのは好きだねぇ…♪なんかキリッとしててさぁ…♪」
「仕事させてる本人が言うと嫌味にしか聞こえないんですがねぇ…」
これがまだ他の女性に言われれば喜ぶ余地もあっただろう。だが、相手は普段から私をからかって遊んでいる上に、仕事を増やしてくれる六花なのだ。幾ら好きだと言われても正直、嫌味にしか聞こえない。私の心が捻くれているのかも知れないが、普段を考えれば素直に受け止められないのも仕方ないだろう。
「ふふ…素直じゃないんだから♪」
「誰の所為でこんなに捻くれたと思ってるんですか」
「あら?アタシの所為だって言うのかい?だったら責任取らないとねぇ…♪」
「だったら責任とって大人しくしててくださいよ、お願いですから」
そう言葉を打ち切って私はそっと調書へと意識を向ける。そのままサラサラと筆を動かし始めるが、さっきの視線はまだ消えてはくれない。それどころかよりギラギラとした色を含んで私に差し向けられているのだ。今までも時折、六花から差し向けられていたその色は私にはどんな感情なのかは分からない。今まで生きてきた中でそんな視線を向けられたのは彼女からだけなのだから。しかし、それが何なのかは分からなくても、背筋に嫌な汗が流れる感覚は宜しいものでは無い事だけは確かだ。まるで絶対的な捕食者の前に立っているかのように身体が硬直してしまいそうになる感覚が健康に良いとは到底、思えない。
―まぁ…それだけの実力差はあるんだろうが。
私は別に剣の腕は優秀ではないが、無能と言われるほどではない。人並みよりも少し出来る程度だ。だが、それでは鬼と呼ばれ、遥か昔から恐れられ忌避されてきた彼女には到底、及ぶものではない。彼女が本気になれば其の腕一本で私の身体は枯れ葉のように吹き飛ぶだろう。今の所、そんな乱暴な姿を見たことはないし、するとも思えないが、実際に戦闘になれば私に成す術は無い。
―それでも…私には市民とその生活を護る義務がある。
元々、六花と知り合ったのもその義務が原因だ。馴染みとなった油揚げ亭で食事を取ろうとした時に丁度、六花が食い逃げをしようとしていたのである。たまたまそこに居合わせた私は鬼である彼女の前に立ち塞がった。それは鬼である彼女にとって小石のような小さな存在であっただろう。しかし、私を突き飛ばすのに躊躇している間に彼女に女将が追いついたのである。どうやら陰陽の術を使えるらしい女将はそのまま六花を捕縛し、あわや御用となったのだ。
―それから…付き合いが始まって…。
鬼の前に立ち塞がると言う命知らずにも程がある行為の所為か六花は私を痛く気に入ったらしい。事情聴取の最中に色々根掘り葉掘り聞かれたのを今でも良く覚えている。それが終わった後も何度か無銭飲食を繰り返す六花と話している内に知り合いのような立ち位置に立ってしまったのだ。今では無銭飲食をすると素直にその場に座って私を呼ぶように申し出るらしい。下手に暴れるよりも大人しくしてくれる方が良いとは言え、何か間違っていると思わないでもない。
―まぁ…それはさておき。
考え事をしている間に調書は纏めあがっていた。後はこれを渇くのを待って所蔵棚に突っ込めば終わりである。さっと日時計を見ればもう申の中刻を指し始めているし、この辺りで今日は終業すべきだろう。そう思った私は広げた木簡をそっと机の上に置き、身体を伸ばしていく。背筋や腕を引っ張るような感覚と共に身体の中でビキビキと音が響き、入り込んでいた疲労や眠気が少しだけ霧散する。咽喉の奥から欠伸のような感覚がむくむくと湧き上がって来るが、流石にまだ終わりではない。市民の前でだらしない姿を見せてはいけないと必死で堪えた。
「終わりかい?」
「一応…ですけれどね。まだ時間は申の中刻を越えては居ませんし」
そんな私の様子を見た六花はガタリと椅子を鳴らしながら立ち上がった。今にも駆け出していきそうな仕草はまるで散歩のお預けを喰らっていた犬のようだ。尻尾があれば思いっきり振ってそうな勢いで喜色を顔に浮かべさせている。たった数十分程度の時間であったのだが、彼女にとってはそうではないようだ。
―それだけ酒が好きなんだな、やっぱり。
命の燃料とまで言い放つほど六花は酒が好きなのだ。そんな酒をこれから飲みに行けるのだから当然なのかもしれない。そう思うと少しだけ微笑ましい様な気がするが、私はそれを奢らされる側なのだ。それを思い出しただけで一気に心労が膨れ上がり、私の心に圧し掛かる。今日だけで何回漏れそうになったか数え切れないほどの溜め息を堪えて、私はそっと日時計に目をやった。
「もう良いじゃないのさ。仕事は終わったんだろ」
「駄目です。規則ですから」
誘惑するような六花の言葉に短く返しながら、私はそっと脇に置いてある小物入れから団扇を手に取った。こじんまりとしたこの詰め所は前から後ろへの風通しが良い上にこうして手の届く範囲に大体の物が置いてあるのが良い。まぁ、急造でこんな小さなものしか作れなかったと言うのが主な原因ではあるが、一人でいるのであればこの程度で十分だろう。
―実際、事件なんて殆ど起こらない訳だしなぁ…。
胸中で言葉を思い描きながらパタパタと団扇で木簡を扇ぐ。元々はそこそこの豪族が支配していたこの土地はその頭首が失踪してから無法地帯となった。…と言っても、別に野盗や盗賊が溢れた訳ではなく、その支配者がいなくなったというだけだ。ここを支配していた頭首はよっぽど優秀だったのか不在のままでも治安は維持され続け、そんな状況を憂いた帝から私のような駐在官が派遣されるまで平和を保っていたのである。
―そんな町で私がする事なんて殆ど無い。
街中を警邏するのを除けば、私の仕事は六花が行う無銭飲食の事情聴取くらいだろう。元々、平和であったこの小さな町ではそれ以外に事件らしい事件は起きず、皆、平和に暮らしている。そんな町に赴任してきた私に立派な詰め所など必要なく、藁葺き式の屋根に剥き出しの木を壁や柱に使う小さな民家で事足りているのだ。寧ろそれ以上、立派な詰め所を貰っても、働きに見合わないので困ってしまう。
「ふふん…まったく規則規則って…そんなに規則が大事なのかい?」
「そりゃあそうでしょう」
人間は決して理性的な生き物ではない。寧ろその本質は刹那的で本能的だ。それが社会と言う枠組みの中で押さえられているからこそ、こうして平和が維持されているだけなのである。そして、その社会を維持するために規則や規範と言うのもは大きな役割を果たす。規則や規範が無い社会はほぼ存在しないと言っても良い。そして、それは人が『人間』として生きていく為には、そうやって自らを縛り上げなければいけないと言う事を示唆しているだろう。
―そんな規則をどうして軽視出来ようか。
無論、悪法と言う言葉もあるように必ずしも規則は正しいとは限らない。しかし、それを護る事が治安を維持する第一歩であるのだ。それを治安の護り手である私が進んで破ってどうするのか。それこそ治安の破壊に他ならない。小さな規範とは言え、その積み重ねが人間の良識の破壊に繋がるのだ。
「ホント、絵に描いたような立派な公僕だよねアンタは」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
実際、六花の顔に嫌味なものは浮かんでは居ない。嬉しそうな表情は本当にそのままの意味で言っているようだ。だからこそ、私は素直にそう言う事が出来たのである。これが嫌味っぽくあればコメカミをひくつかせて、また怒りを滾らせていた事だろう。
「それはさておき…そろそろなんじゃないのかい?」
「いいえ、まだですよ。後、少しあります」
「…その日時計壊れてるんじゃないのかねぇ…」
「日時計が壊れる訳ないでしょう」
「そうかい。それじゃあちょっと…暇潰しでもしようか」
そんな下らない会話をしていると唐突に六花がガタリと立ち上がった。驚いてそれを見上げれば、彼女はにやついた表情を浮かべている。どうやらまたろくでもないことでも思いついたらしい。思わず背筋に危険だと言う言葉が走るが、逃げ出す前に六花は私の腕を掴んだ。ガッチリと掴まれた痛みを感じる事は無いが万力で締め上げられているように動かない。どうやら逃がすつもりは毛頭無いようだ。
「釣れないねぇ…アンタを待ってる健気な女に少しくらいお情けをくれたって良いだろぉ…♪」
「ま、まだ仕事がありますし…」
「そうやって扇ぐのが仕事なら後でアタシが幾らでもやったげるよ♪」
「あ、貴女がやったら壊しかねないじゃないですか…!!」
竹で骨を組まれているこの団扇は伸縮性に富んでおり、多少手荒に扱ってもそう簡単に壊れるものではない。しかし、六花は手加減と言うか加減を知らない事が多いのだ。力を込め過ぎて団扇をバラバラにされる光景が今でも目に浮かぶ。そんな事態を避けようと言葉を放つが彼女はまるで怯む気配が無い。それどころかその煌く金色の瞳に歓喜を浮かばせながら、私へとにじり寄って来る。
「ふふん…♪だったらアンタがやればいいじゃないか。アタシも勝手にやってるし…ね♪」
「う、うわっ!」
其の言葉と同時に六花が私の後ろへとそっと回った。まるで淀みない動きに腕を捕まれたままの私は抵抗できない。そのまま腕を机に縫い付けるように押さえつけられながら、背中に回られてしまった。無論、六花がどれだけ長身と言っても後ろから密着せずに腕を机に抑えられるほどじゃない。自然、近寄った私の背中と彼女の胸は触れ合い、柔らかい感触を伝えてくるのだ。
「…あの、六花さん…?」
「何か用かな」
「当たっているんですが…」
「当ててるからね」
「そうですかありがとう巨乳凄いですね」
「それほどでもないよ。えへへ…♪」
―…あ、やばい。一瞬、可愛いって思ってしまった。
混乱した頭がついつい胸を褒めてしまった事にからかわれるかと思ったが意外なほど六花は何も言わない。それどころか腕を掴んでいる手をそっと離して私の背中に抱きついてくるのだ。まるで甘えるような仕草に男としてどうしても胸が高鳴ってしまう。今までからかわれて来たとは言え、こうして直接的に誘惑されるのはそう多くは無いのだ。その耐性もそれほどある訳ではない。
―お、落ち着け…こういう時は素数を数えるんだ…っ!!
どう考えてもこれほどあからさまな誘惑は罠としか考えられない。ならば、それに乗っかるのは余りにも危険だ。開かれた狼の大口の中に飛び込む無謀さも勇気も私には無い。此処は必死に心を律して本能を抑え付けるべきだろう。
「…それで離してもらえませんか?仕事し辛いんですが…」
「ふふ…胸の事意識しちゃうからかい?やっぱりアンタってば可愛い奴だねぇ…♪」
「違います。ただ、邪魔なだけです」
実際、肩を抱き締めるようにして圧し掛かってこられているのだ。お陰で腕の稼動域は大分、制限されてしまっている。それは別に団扇を動かせない程ではないが、鬱陶しいのは変わりない。…まぁ、鬱陶しいと言っても抱き締められる感触が嫌な訳ではなく、からかわれると分かっているからこそなのだが。
―だって、その…胸が…なぁ。
今も私の背中でぐにゅぐにゅと形を変える柔らかな部分は同じ人間にあるものとは到底、思えない。男の本能を呼び覚ますような独特の柔らかさは毛皮と着物と言う二つの壁をあっさりと突き抜けて脳裏に突き刺さってくるのだ。其の上、それは決して一定ではなく、彼女が身動ぎするたびにその彩をまったく別なものにするのである。慣れる事さえ許さないと言わんばかりの胸の感触にジワジワと胸の奥から興奮が染み出してくるのだ。思わず腕を伸ばして確認したくなるその柔らかさに私の興奮は止まらず、どうしても胸を高鳴らせてしまう。
「ふふ…♪ドキドキしてるねぇ…♪」
「……してませんよ」
それを指摘されて、一瞬、胸が大きく跳ね上がってしまう。しかし、それはただのカマ掛けに過ぎないだろう。幾ら彼女が妖怪と言えども胸や衣服越しに鼓動を感じ取れるほど敏感ではない。そもそも後ろから抱きついて鼓動を感じ取れるかさえ怪しいのだ。顔も見られていないし、十中八九カマ掛けだろう。
「ふふん♪強がっちゃってさぁ♪」
そのままぷにぷにと頬を突いてくるのは恐らくカマ掛けだった証だろう。本当に分かっていたのであれば、六花はここで一気に踏み込んでくる。からかいのネタを見つけておいてからかわないなんて今までの付き合いから考えられないのだ。となれば、こうして話の論点を微妙に逸らしたのが何よりの証拠となるだろう。
「別に強がってませんよ。それより離してください」
「嫌だね。別に抱きついてたって扇ぐくらいは出来るだろ?待ってるんだからこれくらいの役得くらいあってもいいじゃないか♪」
「…別に待つのが嫌であれば今すぐ帰ってくれても構わないんですがね」
しかし、それで帰ってくれるのであれば六花に対する感情はもう少し柔らかくなっていただろう。それで言う事を聞いてくれないからこそ彼女は私の一番の頭痛の種なのだ。今回も私の言葉を軽く受け流し、その胸をさらに押し付けてくる。むにゅんと餅よりも遥かに柔らかい感覚がさらに強くなり、私の思考を揺らせてくるのだ。
「はぁ…分かりましたよ。それくらいは譲歩します」
「ふふん♪最初っからそう言っておけば良いのさぁ」
そうは言うが、これは譲歩ではなく完全な敗北に近いだろう。そもそも私は彼女に奢りたくも待っていて欲しくもないのだ。其の上、暇潰しの道具にまで使われるのだから溜まった物ではない。何時もの事とは言え、もう少し優しくして欲しいと切に思う。そうすれば今の胃痛や頭痛だって少しはマシになるだろう。
―まぁ…このろくでもない状況を打破する為に頑張りますか。
このままダラダラしていても六花は私を手放してくれることは無い。それどころか暇になればなるほど彼女は新しくからかうネタを見つけるかもしれないのだ。それだけならばまだしもこの過激な触れ合いがさらに過激になっていくのも考えられる。それらの可能性を省みれば、ここはとっとと仕事を終わらせるべきだろう。そう心を切り替えた私はパタパタを団扇を扇ぐのを再開する。
「……」
「……」
団扇が扇ぐ音だけが聞こえる詰め所の中で後ろから抱きつかれている私の鼓動は今にも弾けそうなばかりに激しくなっていった。ドクンドクンという音が鼓膜を揺らし、私の身体を熱くしている。そして、其の熱は私から生まれるのではなく、後ろの六花から与えられているものだ。背中に押し当てられた豊満な胸と抱きつく腕越しに彼女の高い体温をはっきりと感じる。酒の所為だろうか。それは私よりも遥かに高く、まるで湯たんぽのようにも感じるのだ。
―…これで酒臭くさえなければなぁ…。
それはまるで何かの絵巻のような一幕とも言えるかもしれない。妖怪であるとは言え、目を見張る程の美女が公僕の証をつけた男に後ろから抱きついているのだから。男が十人並みな容姿をしている事をさておいても、彼女の存在だけで絵になるだろう。だが、絵になるのと本人が喜んでいるのかと言えばまるで別問題だ。私の後ろからは彼女お気に入りの甘い酒の匂いが漂ってくるのだから。何でもこの地方で最近取れるようになった白い果実を発酵させたらしいその酒はまるで桃か何かのように咽喉奥を擽る匂いを発しているのだ。漂ってくるだけでそれであると分かる独特の匂いは酒よりも菓子か何かに近いかもしれない。
―けれど…これだけ飲んでれば…。
幾らお菓子のようだとは言え、本質はやっぱり酒である。浴びるように飲めばやはりどうしても酒臭くなってしまうのだ。そして、六花は他に類を見ないほどの大酒飲みで酒豪である。そんな彼女が浴びるほど飲まないはずがなく、こうして抱きついた後ろから甘い匂いと酒臭さを漂わせているのだ。酒に弱い男であればそれだけでも吐いてもおかしくない濃度は絵巻の一幕には相応しくないだろう。何の雰囲気も無いその匂いに私は胸中で小さく溜め息を漏らした。
―まぁ、これがなければ流されてたかもしれないと思うと…。
重ねて言うが六花は美人で見事な体型をしている。男であれば誰でも欲しがるであろうその体型は見事としか言いようがない。そして、その一部が、最も女らしい部分が私の背中に押し当てられているのだ。下手をすればそれだけで理性が吹っ飛びかねない。そんな状況で私が少なからず冷静で居られるのはこの酒臭さのお陰だ。これがなければ胸の感覚が気になって仕事どころではなかったかもしれない。
―その仕事もそろそろ終わるしな。
欲望を捻じ伏せて一心に扇ぎ続けた成果が出たのか木簡に染み付いた墨はゆっくりと乾き始めていた。濡れたばかりの独特の艶が消えて、夜のような奥行きのある黒に変わっている。そっと指でなぞっても墨が垂れることはない。ならばもうこのまま丸めて所蔵庫に突っ込んでしまっても大丈夫だろう。そう判断した私は六花に向かって口を開いた。
「終わりましたよ、このまま所蔵庫に入れますから離して下さい」
「…終わったのなら変にかしこまらなくてもいいんじゃないかねぇ…」
拗ねたような口調はどうやら私が未だ敬語を使っているのが気に食わないらしい。しかし、私としてもここは譲歩できない部分だ。この木簡を所蔵庫に入れるまでが私の仕事だ。私人としての時間はそれ以降にしか訪れない。既に日時計は申の中刻を過ぎている事を示しているが今の私はまだ公人なのである。
「駄目です。これを所蔵庫に入れるまでが仕事なんですから。終業はまだもうちょっと先になります」
「…むぅ」
そう言い放つと流石の六花も分が悪いと悟ったのかそっと腕を解いた。そのまま胸が遠ざかる感覚を少し残念に思いつつ、私もそっと立ち上がる。そのまま数歩も歩けばそこが『所蔵庫』だ。元々あった本棚を縦にぶち抜いた棚は寧ろ押入れが想像としては近いのかもしれない。元々、本がおいてあったのでそれほど奥行きはないが記録を残すのには十分過ぎる。作ってくれた人には悪いと思うが、これも活用の一つであると思って諦めてもらうしかない。
―さて…これで終わり…か。
縁側をそっと見ると真っ赤な光が差し込んでいた。しかし、それは別に夕日と言うわけではない。この地方は何故か日中は常に曇っており、日の光が届いていないのだ。それが晴れるのは常に夜だけで、数ヶ月の間、昼間に晴れた日を見たことがない。それで作物が育つのかと言えば何故かすくすくと育っており、下手な場所よりも美味しい作物が取れるようだ。
―…其の上…月は常に血の様に真っ赤だ。
つまり今、この縁側から差し込んできているのは日の光ではなく月の光なのだ。不気味なほど真っ赤なその光に空を見上げてみれば、血で濡れたような毒々しい月が目に入る。最初は見上げるだけでも背筋が凍るような印象を受けたが、今はもう慣れた物だ。何せ数ヶ月間ずっとこの真っ赤な月と付き合い続けてきたのだから。いい加減、私だって慣れもする。その月の光を受けて、ふわふわと蛍のように淡い光が浮かびだしたのを見ても驚くことはもうない。
「さてさて…それじゃあもう終わりだよねぇ」
そんな私の背中から六花の声が届いた。それにゆっくりと振り向くと彼女は顔に堪えきれない歓喜を浮かべて立っている。どうやら待ちきれないようでその身体はウズウズとしているかのように少し震えていた。まるでお預けを喰らっている犬のような仕草に笑みが湧き出てくるが、笑って変に根にもたれたら敵わない。ここは平静を装うべきだろう。
「――あぁ、終わりだな」
『公僕』としての言葉ではなく、『私人』としての言葉で答えながら私はまた大きく伸びをする。身体の中でパキパキと言う音が響くと同時に伸ばされた関節から疲労や眠気が飛んでいく。それの心地良さに思わず身体が震えるのを感じながら、ストンと踵が地に落ちた。そのまま一つ溜め息を吐けば少しだけ頭痛と胃痛が楽になる。最近は常に付き合いっぱなしのそれが矛を収めてくれたのを感じながら、私は改めて六花に向き合った。
「それじゃあ早く油揚げ亭に行かないかい?アタシはもう御腹ぺこぺこでねぇ」
「まだ五時だろうが。そんなに早く食うと後が大変になるぞ」
公僕の時とは似ても似つかない、粗暴とも取れる口調。それが私本来の言葉だ。元々、私はそこそこの公家の本家筋であり、帝の膝元で暮らしていたのだ。周りは全て自分より下…と言う訳でも無かったが、上の人間は数えるほどしかいなかったのである。そんな私が公僕を目指すようには紆余曲折あったのだが…まぁ、私にも突っ張っていた頃があったと言う事だ。その頃の癖がどうにも抜けず、私人としてはこうして粗暴な口調が表に出る。
「そんなもの酒があれば何とかなるさね♪」
「ホンットお前は…太るぞ」
本当に酒があれば何とかなると心から信じているような六花の様子に私は冷たく言い放った。しかし、それで怯むほど彼女は柔な心をしていない。寧ろ望むところだとばかりに鼻を鳴らして、大きな胸をぐいっと逸らせた。
「酒があれば太らないんだよ。酒は百薬の長なんだからねぇ♪」
「いや、意味が間違いなく違う」
―と言うかコイツは酒を薬と勘違いしていたのか…。
確かに何かあれば酒で解決しようとする姿勢は今までも見えていた。しかし、まさか酒を万能薬か何かとまで思っていたとまではこの私の目を持ってしても見抜けなかったのである。しかし、見抜ければ話は早い。その誤解を是正してやれば、彼女の大酒飲みも少しは改善できるかもしれないのだ。鬼が簡単に身体を壊すとも思えないが、飲みすぎは毒でしかない訳だし、ここは私の財布の為にもその誤解を解いておこう。
「そもそも酒は百薬の長ってのは何でも効くからじゃなくって、適度に飲めば薬にもなるって意味だぞ」
「…え」
「つまり良薬も過ぎれば毒って事だよ。飲みすぎれば酒は毒でしかないんだ」
驚いた様子の六花に二の矢を放つと彼女は首を傾げた。長身の彼女が子供のように首を傾げる仕草は妙に可愛らしい、無造作の髪と相まって動物がじゃれているような印象を与えるのだ。…ただし、ただの動物ではなく冬眠明けの熊などに代表される凶暴な動物だが。微笑ましい反面、一つでも対応を間違えると大変な事になってしまう。
「でも、アタシは酒の飲みすぎで身体を壊したことなんてないしねぇ」
「それは多分、酒が身体にずっと蓄積して」
「あ、なるほど。つまりアレがアタシの適度って事かい!」
―…駄目だコイツ…早く何とかしないと…。
私の言葉を最後まで聞かず、ポンと手を打った六花に思わずそんな言葉が浮かんでしまう。どうやら彼女はまだ飲むどころか何時もの量を適量と勘違いしたらしい。確かに鬼と人とでは身体の構造が違うだろうし、酒の適量も大きく違うだろうが徳利の山を作るほど飲み続けるのが正しい量であるとは到底、思えない。
「いや、あのな。酒の毒ってのは一気に出るんじゃなくドンドンと蓄積して」
「小難しい話は良いんだよ!それより酒だよ酒!早く行こうよ!!」
「…あー、うん。もう良いか」
一応、良心から言ってみたのだがまるで聞く様子の無い六花に早々に諦めてしまう。そもそも私は彼女の事をそこまで心配してやる義理も無いのだ。それで彼女が身体を壊した所で私には何の被害も無いのだから。寧ろ二度と出歩けなくなってしまってくれたほうが私の心の平穏としては有難い。
―でも…なぁ…。
しかし、もし、本当にそうなってしまった時に良心の呵責を感じないかと言えば間違いなく否であろう。迷惑な相手であると思っているが私とて本気で六花を嫌っているわけではないのだ。でなければこんな風に酒に付き合ったりしないだろうし、無理矢理にでも追っ払っている。それをしない程度には彼女を気に入っている私は六花が健康を害すれば自分を責めるだろう。
―はぁ…まったく…面倒だな。
「…だが、六花。今日から酒の制限をつけさせてもらうぞ」
「え…ちょ、ちょっと話が違うじゃないのさ!」
私の言葉に六花は大声をあげて反論する。それも当然だろう。ついさっきまでは無制限でタダ酒が飲めるとはしゃいでいたのだ。それが突然、酒の制限と来れば大酒飲みの彼女とすれば文句の一つも言いたくなるだろう。だが、私とて別に意地悪や思いつきでこんな事を言っているわけではない。以前からそれは考えてきた事であるのだ。
「安心しろ。別に一杯だけとか無茶なことは言わん。だが、徳利で十本まで。それが限度だ」
「そ、それじゃあ腹も満足に膨れないじゃないの…」
―いや、お前の腹は一体どうなっているんだ。
そもそも徳利で十本となれば人間としてはかなりの量だ。常人であればまず間違いなく途中で倒れてしまうだろう。一般的な人間の大酒飲みでもそこまで飲むのは辛いかもしれない。だが、アカオニである彼女の限度を考えてそれを大幅に引き上げているのだ。別に私は鬼の専門家ではないし、これが正しいのかは分からないが、普段がこれの二倍から三倍の数は飲んでいるのだ。とりあえずはこの程度から始めて様子をみるのが良いだろう。
「今回も私が金を出すんだ。文句は言わせん」
「うぅ…何時もの仕返しとばかりに酒を制限する奴は心が醜いんだぞ…」
―あ、一応、仕返しされる謂れはあると理解しているんだな。
ガクリと肩を落とす六花は私が譲るつもりはないと分かっているようで負け惜しみしか口にしない。それに内心、喜びつつも、ズキリと胸の奥が痛む。普段が普段だけに気落ちした六花と言うのは妙に弱弱しく見えてしまうのだ。まるで弱った熊が横たわり今にも死にそうな雰囲気に何とかしてやりたいと思ってしまう。だが、ここで折れては彼女の為にもならない。別に私が制限した所で変わらないかもしれないが、やらないよりはマシだろう。
「嫌なら帰っても良いんだぞ」
「…これで勝ったと思うんじゃないよ…」
「もう勝負ついてるから」
六花の負け惜しみに勝ち誇りつつ、私はそっと背を向ける。制限をつけるという方向で話は纏まったのだ。腹を空かせている鬼もいる事だし、さっさと準備を進めるべきだろう。そう思った私は詰め所の襖とそっと締めていく。こんな平和な土地で、こんなみすぼらしい詰め所に泥棒が入るとは思えないが、防犯意識はしっかりとしておくべきだ。少なくとも公僕がいる場所だけは周りの模範となるべきなのだから。
「うぅ…酒ぇ…アタシのお酒ぇ…」
「…いや、お前のじゃないだろ」
そもそも奢られる側で言える道理はないし、自分で金を出すとしてもそんな事は言えないだろう。酒の権利はまだ油揚げ亭の二人の手にあるのだから。どう好意的に解釈してもこれから飲むであろう酒が六花の酒であるとは思えない。
「それより手伝え。じゃないと酒が遠ざかるぞ」
「…手伝ったら制限取っ払ってくれるかい?」
「寧ろ手伝わなかったら減らす」
「はい!!今すぐやるます!!!」
慣れない敬語を使った所為か盛大に噛みまくってる六花に笑いながら、ガタガタと襖を締めていく。防犯とは名ばかりの状態だが、何も無いよりはマシだろう。そもそも盗まれるものなど記録位しかないし、その記録も六花の物だけだ。好き好んで無銭飲食の記録を欲しがる奴が居るとも思えないし、今はこれで十分だろう。そんな事を考えているうちに襖の閂を落とし、そっと振り返る。
「さて、それじゃあ行くか」
「はぁい…」
―…しかし、ここまで落ち込まれるとはなぁ。
何時もであればまるで散歩に連れて行かれる直前の犬のように舞い上がっているのだが、今は風呂場に連れて行かれる前の犬のようだ。ガクリと落ちた肩がうなだれた尻尾のようにも見える。漂ってくる黒い雰囲気には何時もの活気溢れる姿からは想像もできず、余命を宣告された患者のようにも感じられるのだ。
―…だが、ここで仏心を出すのは逆効果だ。
ここで許したところで六花の為には決してならない。ここは心を鬼にして彼女に制限を突きつけるべきだろう。少なくとも私が奢る時は主導権は私の手にあるのだ。それを活かさない手はない。
―とは言え…なぁ…。
公僕を示す証――十手を腰から抜いて、入り口にある専用の鞘にすっと収める。そのまま再び腰に靡き、角度を調整する。これが鞘に入っている時は私は完全に公人ではなく私人だ。無論、何か事件が起こればすぐさま鞘から抜き放つが、そんな事は今まで一度だって無かったしこれからだってきっと無いだろう。そんな事を考えながら後ろを振り返るとまるで幽鬼のようにゆらゆらと六花が揺れていた。丁度、襖を閉めて月の光が届きにくかっただけに恐ろしささえ感じる。縁側の側からそっと差し込む赤い光に照らされて、薄ぼんやりと浮かび上がる姿は肌の色と相まって化け物にしか見えないのだ。
―…子供が見たら悲鳴を上げるなこれは。
そう思う私の足さえ竦んでしまうのだから今の彼女がどんな状態なのか分かるだろう。まるでこの世の全てに絶望したような六花からはおどろおどろしい雰囲気が溢れ出しているのだ。恋人に裏切られて殺された霊であると言っても殆どの人が信じるであろう程の迫力が今の彼女にはあった。
「……」
「……うぅ…」
「…分かった。今日だけ十五本で良いから」
―あぁ…結局、折れてしまった。
しかし、今にも呪われそうな六花の姿を見て誰が初志を貫徹出来ると言うのか。少なくとも常人並の精神力しかない私には無理である。さっきの様子を見るだけで足が震えて動けなくなってしまいそうだったのだから。例え、足を凍りつかせようとするような幽鬼の腕を振り払って油揚げ亭まで進めたとしても、その間ずっと後ろにこんな状態の六花が着いて回るのだ。その想像だけでもメシメシと音を立てて胃が潰れそうになる私にとって初志を貫くというのは無理難題だったのだろう。
「え?」
「…だから、制限を少し引き上げてやるって言ってるんだよ」
顔を綻ばせて聞き直す六花にはさっきの暗い雰囲気はまったくない。それどころかまるで九死に一生を得たかのようにその顔には抑えきれない喜びが浮かんでいた。そんな彼女の様子に良心の痛みと敗北の苦味を感じて胃がまたキリキリと悲鳴を上げる。そっと押さえた胃はグルグルと唸っていて胃液の独特の酸味すら感じるようだ。それは錯覚であるとは理解していても、私の中にはっきりと刻み込まれて気分を落ち込ませる。
―あぁ…今日も適当に芋粥でも作ってもらおう…。
そう落ち込む私とは対照的に六花の顔はドンドンと明るいものへと変わっていく。さっきの落ち込んだ姿とは対照的にまるで太陽のように活力を振りまく姿が少しだけ眩しい。見ているだけで心が明るくなるような姿は今の私にとっては救いであり、そしてある意味、罰でもあった。
「やったぁっ!!だから、アンタは好きなんだよっ♪」
「うぁ…!こ、こら…抱きつくんじゃない…!!」
情けない自分への自己嫌悪と良心の痛みで弱った胃から中身を吐きそうなのだ。そんな風に揺らされると本当に逆流してしまうかもしれない。しかし、そうは言っても六花は私を手放す様子はまるで無く、スリスリと頬を私に摺り寄せてくる。抱きついた腕もがっちりと隙無く私を捉えて微塵の動きも許さない。勿論、その豊満な胸が私の胸に押し付けられており、ぐにゅぐにゅとした感触を伝えてくるのも忘れてはならないだろう。ある意味、形容しがたい胸が余す所なく密着しているという天国と今にも吐くかもしれないという地獄を私は今、味わっているのだ。
「でも…どうせならもうちょっと制限を引き上げても…」
「調子に乗るな」
この期に及んでまだ譲歩を迫ろうとする六花の腕をピシャリと叩いてやる。悲しいかな身長はほぼ同じなので抱き締められたとしても肘から先は動くのだ。とは言え、腰も肩も入っていない様な一撃で鬼を怯ませられる筈が無い。実際、六花はまるで痛みを感じていないようで私の目の前でニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「これ以上は駄目だ。今回だってかなり譲歩してるんだからな」
「でもさぁ…♪アタシももうちょっと制限引き上げてくれれば…色々とご奉仕出来ちゃうんだけどねぇ♪」
―耳元で囁かれる六花の声は余りにも甘かった。
ゾクゾクと背筋に震えが走り、丹田の部分から熱が沸き起こる感覚は寝る前の猥談で幾らでも味わっている。しかし、今は真正面から六花の顔を見据えているからだろうか。どうにも気恥ずかしく、そして制御が出来ない。何時もであればこの熱を深呼吸か何かで散らす事が出来ると言うのに今はまるで彼女から叩きつけられているかのようだ。触れた部分から伝わる熱がドロドロと私の理性を溶かすために這い寄ってきているようにさえ感じられる。
「あ…また嘘だと思ってるだろぉ♪でも…ホントだからねぇ♪もし…制限を引き上げてくれるならアンタのしたい事なんでもしてあげるよぉ…♪」
―それはオスの本能を擽るのには十分過ぎるものだった。
私だって男だ。何時も私を良い様に弄ぼうとする六花の肢体を思う存分に貪ってやりたいと思った事は一度や二度ではない。その豊満で男の視線を誘う胸も、思わず指を這わせたくなるほどきゅっと締まった腰も、肉付きが良く舌で舐め回したいと思う太股も…そしてその奥も。何もかも自分の物にしてやりたいとそんな欲望を抱いた事は私にだってあるのだ。そして…それがもしかしたら実現するかもしれない。それだけで私の咽喉は生唾を飲み込んで、大きな音を立てた。
「どうする…♪アタシとしてはあんまり助平な事を要求されると困っちゃうんだけど…でも、酒の為なら仕方ないねぇ♪」
―その言葉に私の心は決まった。
「何でもするんだな?」
「あぁ、勿論だよ♪」
「…じゃあ、お前、禁酒な」
「……はぁ!?」
私の言葉に辺りに満ちた桃色の雰囲気が霧散していく。それに勝利を確信しながら私はそっと笑った。そんな私が気に食わなかったのだろう。私を抱き締めた腕をギリギリと締め付けてくる。さっきとは違い痛みや苦痛を感じさせる抱擁に私の身体が悲鳴を上げた。だが、それもさっきの鳩が豆を投げつけられたような六花の表情が見れただけで十分、報われている。
「こ・ん・な!!良い女が誘ってるってのに要求が禁酒ってどういう了見だい…?」
「ぐぉ…ちょ…馬鹿…!しめす…ぎぃ」
とは言え、痛みや苦痛を我慢出来るかと言えば別問題だ。元々、鬼は一撃で人を殺す事も可能な種族なので手加減はされているのだろう。だが、今の彼女の締め付けはそれをまったく感じさせない激しいものだった。その分、豊満な胸やすべすべの肌と密着するがそれを楽しむ余裕はまるでない。苦悶の声と共に声を漏らすのが精一杯なのだ。
―や、やばい…本気で怒らせたか…。
殺すつもりは無いと分かっているとは言え、今までに無い激しい攻撃に背筋に薄ら寒いものが走ってしまう。とは言え、私としてもさっきの返答を後悔している訳ではない。例えこうなると分かっていたとしても私は必ずさっきと同じ返答をしただろう。
―だって…なぁ…。酒の為に身を捧げようとしている女を抱けるかっての。
それが九割型、冗談だろうと私だって理解している。だが、もし…もし、その一部でも本気であったとしたら。私はもう止まれないだろう。その欲望のままにきっと六花を犯してしまうに違いない。けれど、それは別に愛情とか恋慕で結ばれた行為ではないのだ。ただの打算的な快楽を貪るだけの行為である。そして…私はそんな交わりに尻込みしてしまう程度には経験が無く…もっとはっきりと言うと童貞なのだ。
―初めてって言うのはなんていうか救われてなきゃ駄目なんだよ…ラブラブで…イチャイチャで…。
どうせ貞操を捧げるのであれば心から好いた女性と、お互いに思いを通じ合った状態が良い。そう思うのは少しばかり夢見がちなのだろう。そんな事は私にだって分かっている。だが、それは決して幸せな家庭に生まれたとは言えない私にとってはとても大事な事なのだ。ここで意地を張るにしては十分なくらいに大事な事なのである。
―それに…な。
迷惑を被っているとは言え、私は六花が嫌いじゃないのだ。そんな彼女を酒と引き換えに抱くなんて六花にも失礼な行為だろう。どうして本気で怒っているのかは分からないが、少なくとも私はそう考えたからこそ断ったのである。そして、その選択が間違っていたとは私は思っていない。
「どうしてアタシの誘いを断ったのか教えてくれたら少しは緩めてあげても良いかもねぇ…」
―あ、これは本気で怒ってるな。
ギラついた目に怒りを浮かばせた表情は今までの付き合いの中では一度だって見たことのないものだった。今までどんなに仕返しをしても怒らなかった彼女が初めてみせる表情はそれだけ怒っていると言う事の証左なのだろう。しかし、それを見ても私は間違っていたとは思わない。背筋に冷たい汗が走って、命の危機すら感じ始めているが、それでもまださっきの言葉は正しかったと断言できるのである。
「そ、そんな悔しそうな顔が見たかった…は、反省は…していない…っ!!」
だが、正しいと思ってもそれを六花に伝えるわけにいかないのも事実だった。と言うか、「童貞だし、六花の事は嫌いじゃないから抱けない」などと言ってしまえばそれこそ一生、揶揄され続けるだろう。こうして背筋を折られるかもしれないと思うほど締め上げられている今でさえ、顔をにやけさせる六花の顔が脳裏に浮かぶのだから。彼女はどれだけ怒っていても殺すつもりはないだろうし、今も苦痛に身体中が悲鳴を上げているが、一生分の恥と引き換えであれば高くはない。寧ろこれは必要経費だと言い聞かせながら、私は真実から遠い言葉を口にする。
「……はぁ」
それが良かったのか悪かったのかは分からない。しかし、私の言葉に彼女は呆れたように溜め息を吐いてから腕を解いた。ついさっきまで持ち上げられる勢いで締め上げられていたからだろうか。地に足が着く感覚が妙に久しぶりに感じる。それと同時に沸き上がってくる腕の開放感が六花が私を手放した事を何より明白に教えてくれた。思わず腕をグリグリと回してみるが、特に支障はないようだ。少しだけ痺れるような感覚が残っているが、骨も折れていない。
―あの怪力で締め上げられたにしちゃ随分と無事だな。
肌に鬱血の一つでも浮かんでいるかもしれないが、多分、損傷としてはそれくらいだ。苦痛ももう後を引いて残っていないし、ちょっとした痺れがさっきの余韻を残すだけである。それは鬼に締め上げられたにしては随分と軽い後遺症だろう。やはり怒りで多少、我を忘れたとしても手加減してくれていたに違いない。でなければ、私の上半身と下半身は今頃、永遠の別離を経験していた事だろう。
「アンタが鈍いのは理解してるけどさぁ…でも…幾らなんでも…さぁ…」
そんな風に自分の損傷を確認する私とは裏腹に六花の言葉は暗く落ち込んでいるものであった。ついさっき酒の制限を告げた時と勝るとも劣らない落ち込みっぷりに何かしたかと脳裏を探る。しかし、彼女曰く鈍感な私には結局、理由は分からず、首を傾げるだけだ。
「…はぁ。もう良いよ。アタシも長期戦の覚悟は決めてるからねぇ」
「…むぅ」
良くは分からないが、六花は長期間に渡って私と戦うつもりらしい。そこまで敵視されるような事をした覚えは無いののだが…寧ろ私の方が彼女を敵視する理由に溢れているような気がする。顔を見合わせれば何かしらからかってくる彼女との付き合いがここから先もまだ続いていくと考えるだけでも頭痛がするくらいなのだから。
―…ただ、六花がこう言うって事は多分、何かしたんだろうな。
物語の中で鬼が語られるように、彼女もまた細かい事にはそれほど執着しない性格だ。怒りそのものも数分で忘れてしまうし、原因などは三歩歩けば闇の中だろう。そんな彼女がここまで私を敵視するという事は知らず知らずの内にそれだけの事をしてしまったのだ。そう思うと少しだけだが、謝意が溢れてくる。私は今まで一方的に彼女に突っかかられていると思っていたが、その原因が私にもあったかもしれないのだ。それも当然だろう。
「すまない」
「…え?」
しかし、それを思わず口にすると彼女は信じられないものを見るような目でこちらを見てきた。ついさっき事情聴取の時にも見せたその視線に私は内心、首を傾げてしまう。別に私は今まで意固地になって謝らないような人間ではないのだ。悪いと思えば素直に謝るし、それは六花相手でも同じである。だから、そんな風に夜も貞淑なジョロウグモを見るような目をされる謂れは無いと思うのだが――。
―まぁ、それよりも…だ。
今は六花に謝罪する事の方が先決であろう。そう心に決めて、私は信じられないような彼女に説明しようと再び口を開いた。
「…いや、だから、私が何かやったから長期戦を覚悟したんだろう?…お前がそれくらい誰かを嫌うとは思えないが、私がきっとそれだけの事をやったのが原因だと言うのは分かる。お前が言う通り、私は決して敏いとは言えない人間だから、それが何なのか分からないが…しかし、こうして謝罪だけはしようと…」
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
―…あれ?
真摯に謝罪の言葉を告げる私に向かって、六花はかつてない長さの溜め息を吐いた。肺の中の全てを吐き出そうとしているかのようなそれは聞いているだけでも彼女の心労が分かるだろう。しかし、その原因であるだろう私には彼女がどうしてそれだけの心労を重ねているのかが分からない。寧ろ、私の方こそ胃痛を覚える程の心労が圧し掛かってきているのだ。六花が悩みを抱えているだなどと今まで考えもした事の無い私に分かる筈もないだろう。
「…いや…もう…なんていうか…今はもう喋らないでおくれよ。…幾ら温厚なアタシでも本気で怒っちゃいそうだしねぇ…」
そして、そんな私に齎されたのは決して穏便とは言えない言葉であった。その疲れきった声音から察するに割りと本気なのだろう。本気で怒るといってもまさか殺されたりはしないだろうが、鬼の本気など好奇心も騒がない。想像しただけで背筋に寒気が走るのだから、見たいと思う筈もなかった。
「…ただ、アタシはアンタの事を嫌ってなんかいないよ。…と言うか、嫌いな相手と酒なんか飲むはずないだろ?」
―確かにそれは正論かもしれないが…。
しかし、常日頃から迷惑やら心労を掛けられている私としてはそっちの方がまだ納得が出来るのだ。一緒に酒を飲むのも一度だって六花の奢りだった事はない。全て私の奢りなのだ。確かに嫌いな相手と飲む酒は不味いだろうが、常に奢らせている相手が嫌いじゃないかと言うのは別問題だろう。――あぁ、いや…そこがおかしいのか。
―つまり、私は六花に貢ぐ人物として好かれている…と。
私個人として好かれているのではなく、面白い玩具兼貢いでくれる人として六花に好かれているのであれば納得出来る。それならば、今までの扱いにも何となく説明がつく様な気がした。少なくとも今、こうして彼女に奢る為に油揚げ亭に向かおうとしている私には否定できる要素が見当たらない。
「ともかくもう行くよ。この嫌な気分は酒じゃないと晴らせないだろうしねぇ」
パタパタと手を振る六花の言葉もそれを証明してくれているような気がした。さっきあれだけ怒ったのもきっと玩具である私が思う通りの反応をしなかったからなのだろう。その後の長期戦と言う発言も思い通りになる玩具に仕立て上げようとしていると考えれば納得がいく。溜め息も私が変に誤解したからこそなのだろう。ううん。知らないけど、きっとそうだ。
「……」
そんな事を考えながら、私を追い越して前に出た六花の後ろを無言で歩く。そのまま入り口から外に出てピシャリと扉を閉めた。その間も不機嫌そうな雰囲気を漂わせながら前を歩く彼女は止まる事はない。世間様に「不機嫌です」と表現するかのように手を握り締めながら、地響きを鳴らしてもおかしくはない勢いで進んでいく。鬼を超えてもはや鬼神か何かにも見えるその背についていきたいとは決して思わないが、あの状態の彼女を放置出来るはずもない。六花をそれだけ追い詰めた責任も多分、私にあるのだろうし、溜め息一つ吐いてからその後を追った。
―それにしても…何とも不思議な光景だよなぁ…。
こじんまりとした小さな詰め所から町の動脈でもある大辻に出ると外にはもう蛍のような淡い光がほわほわと浮かんでいた。幻想的なその光に包まれる町は、とても現実にあるものとは思えない。天にぽっかりと浮かぶ紅い月も、それを受けて輝く淡い光も幻想的過ぎて浮世とはかけ離れているのだ。最早、私にとっては見慣れたものであり、今更、気後れなどしないものの、美しいと思う心までは変わらない。
―まぁ…それよりも…だ。
そんな光景をまるで意にも介さずズンズンと歩いていく六花の背中に追いつくほうが先決だ。このまま一人で行かせるとどんな揉め事を引き起こすか分からないのだから。普段は元より今の彼女を制御することなどは出来るはずもないが、その歯止めくらいにはなれるだろう。そう考えた私は鈍りそうになる足を急ぎ足に変えて、六花の背を追った。
「あ、やぁ。二人とも今日も一緒なんだね」
そして、私が六花の背中に追いついた頃、にこやかな声が私達の耳に届いた。聞き覚えのある穏やかな声音にそっと左を見ると辻から一人の男がこちらに歩いてくるのが見える。行商人独特の旅装に身を包みながら、背中に大きな籠を背負う姿はこの町では一人しかない。私が来るより少し前――と言っても具体的に何時なのか聞いてはいないのだが――にこの町に居ついた行商人の六兵衛だ。
「相変わらず仲が良いねぇ。羨ましい限りだよまったく」
「は、ははは…」
鬼神が如き勢いで怒りを撒き散らす六花とその後ろを恐る恐る歩く私を見て、仲が良いと言い切れるのはこの人くらいなものだろう。実際、夕食前の辻は本来あれば賑わっている筈なのにシンと静まり返っている。人っ子一人出歩いていない辻の姿は、小さな町とは言え異様な姿だ。それらは間違いなく辻を歩く六花の雰囲気を怖がっての事だろう。普段はもっと人が出歩き、賑わっているこの町の動脈に人が三人しかいないなどありえない話なのだから。
「それより六花はどうしたんだい?随分、怒っているようだけれど」
「…アンタにゃ関係ない話だろう?」
六兵衛の問いかけを一刀の元に切り捨てる六花の声には未だ怒りの色が強かった。普段であればとっくに冷静になっている頃だというのに、これだけ感情を滾らせているという事はよっぽど怒っているのだろう。まるで普段は穏やかな山が一度、噴火すると止まらないようにその内側には触れれば火傷ではすまない熱が込められていた。
「残念ながらそう言う訳でもないんだな、これが。アンタがそんな風に苛々してるとお客さんが逃げちゃうんでね。そうなると商売上がったりだよ」
しかし、その熱を真正面から向けられる六兵衛は何の表情も変えず、何時も通りのヘラヘラとした人好きのする笑みを浮かべている。何時も笑っているような顔をしている彼の瞳は見えないが、きっと動揺には揺らいでいないだろう。激怒する鬼の前に立って尚、その声には震え一つ出てはいないのだから。面長の狐のような顔を笑みの形に留めたまま、そっと両手を広げた。
「ほら、見てごらんよ。何時もであれば賑わっている時間だって言うのにここには人っ子一人いやしない。皆、アンタを怖がって出てこないのさ」
「…だったら、もう行くよ。それで良いだろ」
「いやいや、ここはその機嫌を少しでも直すためにちょっと品物でも見ていかないかい?ほら、アンタの後ろの愛しい人も困った顔をしているしね」
「……」
芝居めいた六兵衛の誘いに六花はチラリと私を振り向いた。まるで此方の様子をそっと伺うような仕草はまるでリスのような小動物を彷彿とさせる。何処か怯えさえ見せる視線に思わず愛想笑いを浮かべながら手を振ると肩をビクリと震わせて再び六花は前を向いた。どうやら怒りがこっちを向く事は無かったらしい。それに溜め息を一つ漏らして、私はそっと彼女の横に並んだ。
「さぁさぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。この行商人、六兵衛が文字通り血と汗を流して手に入れてきた一品だよ!どれもお値打ちの逸品ばかりさ!」
「はいはい…」
相変わらず胡散臭い六兵衛の言葉を適当に受け流しながら、彼の手で背中の籠が落とされ、開けられていくのを見る。中には雑多な商品が整理されていた。仕切りで区切られた中には食料品から嗜好品。本や装飾品などが並んでいる。六兵衛が何処からこれを仕入れてきているのかは分からないが、彼の言葉に偽りが無いのが一目で分かった。素人目にもどの商品も逸品の名に相応しく、一流の職人が作り上げた事が伝わってくるのだから。
「特にオススメなのがこれだよお二人さん!」
そう言って六兵衛は籠の中から一つの簪を取り出した。恐らく純銀で出来ているのだろう。ほわほわと浮かぶ幻想的な光を受けるその簪は眩いばかりに光っている。他の光に負けないようなその輝きは純銀でなければ出せないものだろう。また形としても美しく、枝を模した根元からとびだろうとする鶯の意匠も見事だ。こんな道端で売られるよりも何処かの令嬢が指していた方が相応しいような逸品が彼の手に握られている。
「見た目も十分、美しいこの逸品。何と不思議な力が篭っていてね!これと対になる根付と惹かれあうという話だよ!」
「…対となる…ねぇ」
買ってもらいたいのは分かるが、不思議な力は言い過ぎではないだろうか。さっきの簪の逸品には薄っすらとだが妖力を感じたし、大方、何かの術でも掛けられているのだろう。それが何かは専門家ではないので分からないが、決して彼の言うような「不思議な力」でない事だけは確かだ。きちんと体系化されて分類分けされた人の英知の力であろう。
「大体、惹かれあうって言うのならばその根付もお前が持ってないとおかしくはないか」
「そう言ってもらえると思ってましたよ!!って事でこれが件の根付です」
―…あるのかよ。
そんな言葉と共に六兵衛が籠の奥から取り出したのは一見、何の変哲もない根付だった。長方形の形を黒く塗られたそれは、六兵衛の掌に収まる程度の大きさだ。しかし、その大きさでしっかりと形を整えるのがどれだけ難しいか。中に薬や小物を入れる関係上、中の空洞も大きなモノにしなければいけないし、頑丈さも必須だ。それらを両立させていると一目で分かるそれは先の簪に勝るとも劣らない逸品だろう。
―そして、こちらにも微かな妖力を感じられる。
それは先の簪と同じような波長だ。モノに術を込めるのは術士の中でも上位のものでなければ出来ないと聞く。つまり、似通った波長を感じられるという事は恐らく同じ人物がこの二つを作ったのだと推測出来るのだ。その経緯やどんな術が込められているのかは分からないが、先の簪と対として作られたのはまず間違いないだろう。
―しかし、まぁ…良くぞこんなものを見つけてきたものだ。
普通にこれだけの逸品を手に入れるだけでも並々ならぬ努力が必要だっただろう。素人目で見ても、素材と使われている技術が一流であると一目で分かるのだから。それだけの代物を手に入れるだけでも高い代価が必要だろうに、その上、妖力まで宿っているとなればこの国にも数えるほどしかないのではないだろうか。少なくともこんな小さな町で広げられるような逸品ではなく、公家や豪族の屋敷の中で広げられるほうが似合っているだろう。
「しかし、見事であるのは分かるがな。そんな見事な物を買う金など無いぞ」
「おやおや、これはこれは。この国から直々に給金を頂いている旦那の台詞とは思えませんなぁ」
「悪いが、私の横には金食い虫…いや、酒食い虫が居てね。中々、ままならんと言う奴さ」
そもそも私は別に溢れんばかりの大金など受け取っては居ない。あくまでも慎ましやかな人一人が余裕を持って生きていくのに十分な額だけなのだ。この地方では何故か他と比べて食べ物が安く手に入る上に、その中でも突出して安い油揚げ亭があるのでどれだけ六花が酒を飲んでも困っているという程ではない。しかし、私もまた彼女に負けず劣らない金食い虫であるのだ。読んだ事のない本があれば是非とも読んでみたいと食指を動かし、気付いたら買ってしまう。そんな私に貯蓄などあるはずもなく日々、貧困に喘ぎながら生活しているというわけだ。
「うー…」
そんな私で酒食い虫扱いされた六花が小さく唸る。それは威嚇の意味ではなく、何処か悲しげな響きであった。驚いて横を見ればじぃっと私の方を見つめていた彼女と目が合ってしまう。何処か儚げなその様子に少しだけ心動かされるがここで慰めている暇は無い。
―何せ私が金が無いのは六兵衛だって知っているはずなんだからな。
普段から六兵衛も油揚げ亭を利用しているのだ。そこで面識した彼が私の財布が軽い事を理解していないはずが無い。ならば、こうして商品を出した以上、私が手が出る範囲内での料金を提示してくる筈だ。でなければ、これだけの逸品を特別に紹介するはずが無いのだから。
―ならば…値切る余地は十分にあるはずだ。
六兵衛の提示金額次第ではあるが、私はもうその簪を手に入れるつもりになっていた。何せその白銀の簪はまるで六花の髪から結い上げたようにそっくりなのだから。きっとそれを彼女の髪に刺せばとても映える事だろう。根が単純な六花の事だからそれで機嫌を治してくれるだろうし、私としても美しく着飾った女の姿は目の保養になるのだ。それらを踏まえれば、ここで買わない選択肢は殆ど無いに等しい。…勿論、これから手痛い出費が確実に控えているので値段次第ではあるが。
「旦那の苦しい懐具合は私も知ってますが、しかし、私だって商人でさぁ。一文たりとも負かりませんよ」
「ほぅ」
そんな私の考えを見抜いたのだろう。六兵衛は先を塞ぐように言い放った。その言葉に私の背筋にも緊張が走る。粘っこい脂汗がドロリ流れて、嫌な感覚を残していくのだ。猛る六花の前に立つのとはまた別種の冷や汗に私の身体がすっと冷え込む。だが、それに伴い冷静になった頭は次にどの札を切ろうかと思考を張り巡らし始めた。
「何せこれの売価は一文なんですからねぇ!!!」
「……は?」
しかし、そんな私に向かって飛び込んできた六兵衛の言葉に正直、耳を疑った。それも当然だろう。だって、文と言えば、この辺りで流通している貨幣としては最小単位なのだから。それが一つで買えるという事は殆どタダ同然と言う事である。これだけの逸品をそんな値段で買えるだなんて夢でもありえないだろう。
「うひひひ…その顔が見たかったんですぜ旦那」
「は?いや、お前、それにしたって一文って…」
今の私はきっと狐に摘まされたような顔をしているのだろう。悪戯が上手くいった子供のように嬉しそうに笑う六兵衛に何となくそう思う。しかし、横っ面から思いっきり殴られたような思考は未だ平静には戻らない。グルグルと頭を巡る思考は振って沸いた幸運に答えを纏まらせる事が出来ないのだ。
「……何か曰くでもあるのか?」
そして、ようやく冷静になった私がそれに気付いた時には六兵衛はその顔をニヤリを歪ませた。意地の悪いその顔にやっぱり何かあったのかと確信を強める。別に私は信心深くなど無いから幽霊などは信じていない。だが、この二つに確かな妖力が宿っているのは確かなのだ。それがもしかしたら身に着けた二人を害する効果であるかもしれない。いや、そうでなければこれだけの安さは説明がつかないだろう。
「まぁ、曰くと言えば曰くなんですがねぇ。この二つを着けた男女は必ず結ばれるという恐ろしい曰くが…」
「…それのどこが恐ろしいんだ」
しかし、彼の口から齎された「曰く」とは恐ろしいとは程遠いものだった。寧ろ縁結びのような効用は歓迎されるべきではないだろうか。少なくとも私にそれは恐ろしいとは決して思えない。
「いやいや…男に取っちゃ結婚前の遊びが世の春でしょう?それをさせずに一気に結婚まで連れ込んでしまうんですから何とも恐ろしい曰くですよ」
「…お前、結婚してるだろうが」
そもそも行商人であった六兵衛がこの町に居ついたのは、ある稲荷の女性と結婚したからだと聞いている。そんな彼が結婚を蔑ろにするような発言をするとはいかがなものか。この町は小さいだけあって横の繋がりがしっかりしているのだ。下手なことを言えばすぐに彼の奥方の耳に入ってもおかしくはないだろう。稲荷は比較的、大人しい妖怪であるとは言え、一度、拗ねると手がつけられないのが女性の常だ。不用意な発言をすれば、三日は解放してもらえなくてもおかしくはない。
「それで買うんですかい?買わないんですかい?」
「いや…それは…」
問い詰めるような六兵衛の言葉に思わず尻込みしてしまう。それも当然だろう。陰陽の術にお互いに結婚させるような力などないのだ。故に、彼の言う曰くはこの微かに漂う妖力とは別物か嘘であるとしか考えられない。ならば、ここは不用意に手を出すのは避けるべきだ。確かに見事な逸品で値段も安いとは言え、命あっての物種である。どんなものでもあの世までは持っていけないのだから、ここは買わないべきだろう。
「買う」
「え?」
「毎度ーっ!」
しかし、そう結論を出した私よりも先に隣の六花がはっきりと言い切った。それに驚いて彼女の方を見ている間にそそくさと六兵衛が簪と根付を包みの中に包んでしまう。文字通りあっという間に包まれたそれを彼女は上機嫌で受け取り、私の方を見上げた。まるで買うのを疑っていないその視線に私はついに敗北してしまう。しぶしぶ、懐から財布を取り出し、一文を彼の手に渡した。
「へへ。お買い上げありがとうございますね旦那」
「…これで何かあったら必ず捕まえてやるから覚悟しろよ」
「まぁ、あくまでアレは曰くですからねぇ。人の心を左右する効果なんてありませんよ」
負け惜しみのように言う私の言葉に六兵衛は少しずれた言葉を返した。しかし、私が心配しているのは別に六花と恋仲になるとか言う事ではない。そもそもそんな事は最初からありえないし、そんな術など存在しないのだから。だから、私が心配しているのは私は兎も角、彼女に何かしらの害が及ぶのではないかと言う事だ。
―今更、つけるのを止めろといっても六花が聞く筈がないしなぁ…。
余りにも怪しすぎるとは言え、六花は基本的に人を疑う事を知らないのだ。そんな彼女に安すぎるが故の危険性を幾ら説いた所で無駄だろう。これがまだ人間であれば命の危機もあろうが、彼女は鬼である。人とは比べ物にならない程、頑丈な身体している彼女は下手な攻撃では傷一つつかないだろう。そんな彼女に命の危機を訴えて通じるかどうか。どうにも自信が無い。
「別にそんな事を気にしてるんじゃないんだ。もし、六花の身に何かあれば…」
その言葉と同時に腰に靡いた十手をそっと触れる。これを抜くのも辞さない。そう暗示する私の仕草にも六兵衛はその笑みを崩さない。まるで笑顔以外の表情を知らないように笑い続けている。勿論、私だって多少、凄んだ所でこの謎めいた男が襤褸を出すとは思っていない。何せこの男はあの六花に怒りを叩きつけられて尚、平然としていた男なのだから。私程度が幾ら威嚇した所で毛ほども感じないだろう。
「…誓って言いますが、私は売った人に害するようなものを商品とは認めませんよ。それが私の商人としての誇りです」
―だから、私にはその言葉を信じるしかない。
笑いながらの言葉に真摯さは感じる奴は殆どないだろう。しかし、その時の彼の言葉は笑っているのが信じられないほど真剣なものであった。表情と言葉。その乖離した様子に頭が微かな混乱を齎すほどの様子に私は一つ溜め息を吐いた。どの道、本気で騙そうとする商人を見抜くことなど不可能に近い。ならば、その真剣そうな声音だけでも信じておくしかないだろう。
「…その言葉、覚えておくぞ」
「おーい、早く来いよー」
棄て台詞のように六兵衛に言い放ちながら、私は上機嫌な六花の声に引かれる様に歩き出す。そのまま前へと視線を戻せば、その顔一杯に笑みを浮かべた彼女が大事そうに包みを持っているのが目に入った。ものの数分前の様子からはまるで想像もできない姿に小さく笑みが漏れ出てしまう。確かに不安要素は棄てきれないが…六花がこんなにも機嫌を治してくれたのだ。まだ何も怒っていない訳だし、今だけは安くものを買えた事を喜んでおこう。
「何を話してたんだ?」
「いや、下手なものを売るなって釘刺してただけだ」
先行する六花に追いついた私はそっと彼女の隣に並んだ。その自然な動きはついさっきまではやろうとも思えなかった事だろう。激怒する鬼の隣に並ぶほど私の肝は強くは無いのだ。それが市民を害するのであれば立ち向かうのも辞さないが、出来れば近寄りたくは無いのが本音である。しかし、今の彼女にはその怒っていた雰囲気がまるで無い。土砂降りの後はからっと空が晴れ渡るように彼女の表情に何の曇りは感じられないのだ。そんな六花の隣であれば、まぁ、悪くないと思える程度には。
「下手なものって…随分と立派な代物じゃないか。それを一文で変えたんだから安いものだろ?」
「それが問題なんだよ。安すぎるものには普通、その理由って奴がつき迷うのさ。そもそも一文でこんなものを売ったら赤字も良い所だろ?」
これがまだ私の手が出るギリギリのラインであれば考えなかったかもしれない。しかし、六兵衛が提示したのはおおよそ考えられる最低の金額だ。そこまで私達にこれを売りたかった理由はまだ分かっていない。彼曰く、「恐ろしい曰く付き」だからと言う話だが、それも正直、眉唾物だ。まだ不幸が訪れると言われた方が納得出来るだろう。
「そりゃそうだけど…六兵衛が良い奴って事じゃないのかい?」
「…お前って本当、世間慣れしてないな…」
―本当の意味でこの世に『良い奴』などはいない。
確かに一般的に優しい人であったり善人であると受け止められている人間は居る。しかし、本質的に人間は犯罪を犯す生き物だ。その方向性が一度、犯罪に向かえばどんな人間でも足を踏み外す。善人と言う奴はそれと真逆を向いているだけで何時、そちらに向かうとも知れない。だからこそ、治安と言う言葉が生まれ、その為の機構もあるのだ。
―それに…人の善意って奴は所詮、自己満足だ。
誰かが誰かを助けるのはある種の投影行為である。つまり助ける自分を相手に投影して、それに酔っているというだけに過ぎない。無論、私はそれを否定するつもりは無い。困っている人を助けるのは素晴らしい行為であるし、それが人の美徳であるとも思っている。しかし、優しさと一般的に賞賛される行為であっても自己の利益とは無縁ではいられない。それもまた人間と言う生き物の本質が見えるような気がするのだ。
―特に…商人って奴は信用がならん。
「六兵衛は商人だぞ。命よりも金の方が重いと言い出すような連中が、赤字覚悟で商品を差し出すか?それだけの事をしてもらうほど私達は親しくも無いんだぞ」
商人はその金が自分の命よりも高いと判断すれば容赦なく身を投げるような連中だ。いや、そんな連中で無ければ生き残れないというべきか。帝の治めるこの国では長い間、戦らしい戦は起こっていないが、商売は常に戦国時代である。殺るか殺されるか。相手の基盤を少しでも削り、自分の基盤を広げようと鎬を削る連中が跋扈しているのだ。そんな所にのこのこと『善人』が出かけていけば、食い物にされるしかない。
―そんな中で行商人をやっていたんだからなぁ…。
行商とは基本的に大都市を回るものではない。まだ商人にとって基盤を固められていない地方の村や町を回るのが仕事だ。しかし、それは時に大きな諍いを呼び起こす。その地方の大商人との衝突や盗賊に狙われるなど多くの危険が伴うのだ。見入りもそこそこ大きいが、危険はもっと大きい。そんな行商を続けてきた六兵衛が、単純な善意だけで商品を差し出すだなどと到底、思えないだろう。
「んー…そこはほら、お近づきの印…って言うか」
「私もお前も近づかれるような奴か?」
確かに後の利益の為に今は赤字を取っておくという手法を取る商人は少なくない。そして、私はこの町に帝からじきじきに派遣された駐在官であり、六花は人が及びも付かないような怪力を誇るアカオニだ。だが、所詮はそれまでである。赴任して一年も経っていない私には権力など無いし――そもそも、そんなもの必要ないと思っているが――、六花は扱いが難しい。彼女を思い通りに動かすには莫大な酒が必要なのだから。この町は物価が他と比べて大分、安いとは言え、その痛手は積み重なれば首を絞められかねないものだろう。
「まぁ、細かい事は良いんだよ。着けて困ったことがあれば六兵衛をとっちめればいいんだからね」
「…お前ならそう言うと思っていたよ」
悩むのは性に合わないとばかりに話を打ち切った六花の言葉に思わず、笑みが漏れてしまう。余りにも簡略化しすぎた単純な言葉であるが、それはきっと正しい。どの道、ここでうだうだ言っても六兵衛に対する疑いが晴れるわけではない。もう既に買ってしまった以上――と言うか、買わされてしまった以上、何かあった時の事を考える方が有意義だろう。
「お前の事だから多少の事ではビクともしないだろうが…気をつけておけよ。何かあればすぐ私に…」
「おや♪もしかしてそれって心配してくれているのかい♪」
しかし、そう考えた私の言葉は六花に打ち切られてしまう。それは…正直、図星であった。私は結局の所、彼女を嫌っていないのだから。どれだけからかわれたとしても、どうしても嫌いにはなれない。そして、そんな相手を心配しない程、私は冷血漢ではないのだ。
「…私は公僕だからな」
だが、それを言うのは妙に気恥ずかしく、私の口からは突っぱねるような言葉しか出てこない。それに六花はニタリと嫌な笑みを浮かべた。恐らくはまた揶揄するつもりなのだろう。それを察知した私は逃げるように視線を彼女から逸らしたが、嫌な視線は消えてはくれない。寧ろより強まるようにして私の横顔に注がれていた。
「へぇ…おかしいねぇ…今は私人じゃないのかい♪」
「…私人だが、私が公僕であるのに変わりは無いからな」
それは自分でも正直、苦しい言い訳のような気がする。普段から私は私人と公人を分けているのだ。そんな私が両者を両立させるような事を言っても説得力が無いだろう。正直、まだ心配していない、と言った方がマシだったかもしれない。思わずそう思うくらいに私の横でニヤニヤとした雰囲気が膨れ上がった。
「そ、それよりほら、油揚げ亭が見えてきたぞ!!」
そんな雰囲気を断ち切ろうと私は辻の外れにある小さな食堂を指差した。油揚げでも模しているのだろうか。黄色の暖簾に黒文字で「狐の油揚げ亭」と書かれているそこは他と比べると随分、新しい。聞けば私が此処に来る数年前に出来上がったばかりの店のようだ。しかし、白い壁の向こうからはガヤガヤと賑やかな声が鼓膜を打つ。どうやら既に繁盛して満席に近いようだ。
「ほら、早く行かないと席が埋まってしまうかも知れない」
「ふふ♪…まぁ、良いけどねぇ」
六花の怒りが収まった所為か辻には人通りが増え始めているのだ。その中には今晩の食事をする場所を探しているものもいるだろう。そんな人々が安くて美味しい油揚げ亭に目をつけないとも限らない。それは六花も分かっているのだろう。揶揄するのを打ち切り、足を速める。私も彼女に負けないように足を進めながら、そっと二人で暖簾を潜った。
「いらっしゃいませー」
そんなの視界がその穏やかな声に一変する。優しげな声が世界を塗り替えるように、温かみのある木そのものの色で彩られた世界に変わるのだ。壁も天井も机も椅子も全て剥き出しの木の色で出来ている世界はまるで黄色を塗りたくられているようにも見える。しかし、その暖かみのある黄色は心を和ませ、落ち着かせてくれるようにも思えるのだ。それはきっと既に油揚げ亭に腰を下ろしている人々も同じなのだろう。どの人も安らいだ表情で周りの人間と歓談していた。
「あら、久しぶりですね二人とも」
そんな世界の中心で私達を迎えてくれたのもまた黄色い…いや金色の人であった。煌びやかな金の髪を靡かせ、白い肌を着物の端から覗かせる姿は六花とは色々な意味で対照的だろう。優しげな風貌と共に母性を感じさせる彼女と強気な風貌と共に頼りがいを感じさせる六花。共に目を見張るような美人である事を覗けば、二人はとても対照的だ。
―…まぁ、その背にある尻尾を除けば、だが。
着物の後ろからちょこんと出てきた尻尾は一本。稲穂のような金色でふさふさの毛を生やすそれは彼女が人では無い事を示している。彼女はこの地方に多い稲荷と言う狐の妖怪だ。人里を襲い、男を浚うといわれる鬼とは対照的に、人里に住み込み、男と恋をする妖怪である。その気性はとても大人しく、下手な女よりもよっぽど女らしい。理想を体現したような性格と姿に惚れる男も多いと聞く。実際、この町に住む妖怪の半分以上が稲荷であり、その中の殆どが既婚者なのだから、彼女達がどれだけ人気か分かるだろう。
「と言っても三日前に来たばかりだけどな」
そんな稲荷の一人――この油揚げ亭の女将である紅葉にそう言葉を返す。それに彼女はそっと微笑んだ。まるで蓮華の花が目の前で綻んだ様なその笑みは可憐で美しい。誰だって目を惹かれるであろうその儚さに思わず目を奪われてしまう。そんな私に気付いた六花に手の甲を抓られるまでそれは続いていた。
「ふふ♪相変わらず仲が宜しいんですね」
「これが仲が良いといえるのであれば、な」
別に本気ではなかっただろうが、鬼の力で手の甲を抓られたのだ。その痛みは大声をあげて飛び上がるような鮮烈さはなくとも、じっくりと後を引く。一瞬で熱を持ち、真っ赤になった部分から染み出すような痛みを感じながら、私は曖昧に笑った。抓られた部分を擦って痛みを和らげたい欲求が湧き出てくるが、六花や紅葉の前でそんな不恰好な姿は見せたくはない。私にだって男としての意地のようなものがあるのだ。
「へへ…♪止してくれよぉ♪アタシとコイツはまだそんな仲じゃ…で、でも、そんな風に見られるのなら悪い気は」
「それより席は空いてるか?見ての通り二人なんだが」
「えぇ。丁度、ついさっき空きましたわ。ご案内しますね」
そんな私の横で言おうとしている六花の言葉を遮って、私は紅葉に尋ねた。それに真横から痛いほどの視線を感じるが、ここはあえて受け流すのが吉だろう。このまま入り口でダラダラとやっていると他のお客の迷惑にもなるのだ。丁度、夕食時と言うのもあって、忙しいだろうし、出来るだけ彼女の手を取るべきではない。
「では、こちらにどうぞ。すぐにお冷をお持ちしますね」
「むぅ…」
しかし、六花はそれが不満だったらしい。真ん中辺りの机に案内され、紅葉が立ち去っても頬を膨らませたままだ。そっと包みと肘を机に置く姿は全身で拗ねていると表現しているような気がする。まるで子供っぽい抵抗に笑みが漏れそうになるが、それは六花を怒らせかねないのだ。必死でそれを堪えつつ、私は彼女に献立表を手渡す。
「遮ったのは悪いけどさ。機嫌直せよ。奢りなのに、そんな拗ねた顔をされると甲斐もないじゃないか」
「…アタシだって嬉しそうな顔をしてやれるんだったらしてやりたいけどねぇ…」
そう言って六花はもう一つ溜め息を吐いた。しかし、溜め息を吐きたいのは私の方である。確かに言葉を遮るのは良い気分はされないだろうが、そこまで拗ねなくても良いだろうとどうしても思ってしまうのだ。増して今回もまた私の奢りである。それなのに暗い顔をされると微かにあった奢る気も失せてしまうだろう。拗ねる様子は確かに微笑ましいが、それで全てを許せると私は心の広い男ではないのだ。
―…しかし…どうしたものかな。
そうは思えども、原因が私にあるのは明白なだけに六花に強く出る事は出来ない。私は心が広い訳ではないが、面の皮が厚い訳でもないのだ。自分にも非があるのを理解して尚、一方的に六花を責めようとはどうしても思えない。
―…自分で言うのもなんだが、難儀な性格だな、まったく。
ここで六花を恨んだり怒ったりできれば、まだ私の胃痛はもう少しマシなものであっただろう。しかし、残念ながら私はそこまで屑ではないのだ。自分の非を理解して自己嫌悪が心の上に圧し掛かり、そんな彼女の機嫌を直す為の方法が頭の上に圧し掛かる。その二つの重みに押し出されるようにして膨れ上がった胃痛と頭痛に私は一つ溜め息を吐いた。
―まぁ…腹も膨れれば機嫌は直るだろう。
元々、彼女はそれほど根には持たない性格をしているのだ。放っておいても一時間後にはケロッとしているだろう。そこに食事が加われば尚の事だ。油揚げ亭に来たいと言ったのも六花のほうであるし、ここの美味しい料理を食べればすぐにでも機嫌が直るだろう。少なくとも今まではそうだった。
「お冷をお持ちしましたわ。注文はお決まりに?」
「あぁ…それじゃあ」
拗ねてそっぽを向く六花に変わって幾つかの料理を注文する。ここでは一般的に取れる作物とは違う所為か、その料理もとても独特だ。帝の膝元に居た頃には決して見られない単語が並ぶ料理を私はすらすらと注文していく。何だかんだで私はここに赴任してから数ヶ月が経っているのだ。その独特な料理――ただし、味はそれまでに食べたものと比べ物にならないほど、美味しい――の名前と形は全て一致している。特に常連ともなった油揚げ亭であれば献立表を見なくても注文出来るほどだ。
「あぁ、それと…何時もの酒を徳利で幾つか持ってきて欲しい」
「はい。畏まりましたわ。以上で宜しいですか?」
「あぁ、頼む」
最後に六花も好きなあの甘い酒を頼んで、注文は終了だ。所要時間は数分ほど。その間に酒の摘みになるようなものを幾つも頼んでいる。それらは全て私ではなく彼女の食べるものだ。残念だが、常日頃から胃痛や頭痛と格闘する私はマトモな食事を取れないのである。ここの献立で注文できるのは芋粥――実際に芋を使っているのではなく、それっぽい野菜らしいのだが――くらいなものだ。その相我比たるや一対弐十ほど。私が今、少食なのもあるだろうが、六花もまた大食漢――…いや、大食鬼なのだ。
―さて、そんな大食鬼は…と。
承った注文を書いた紙をそそくさと厨房へと持っていく紅葉の姿を横目で見ながら、私は六花の方へと向き直った。しかし、その顔は未だ膨れて、機嫌を直した様子はない。流石の彼女でも数分で機嫌を直すのは無理だろう。そう理解していても溜め息が漏れそうになるのは止められなかった。
「とりあえずあんな感じで良かったか?」
「…ん」
拗ねる六花にそう尋ねたのは殆ど形式的なものだ。色々な物を摘みたがる彼女はどんな店でも摘みと呼べるような物は全て頼む。それこそ揚げ物からちょっとした突き出しまで。それをずっと目の前で見せつけられてきた私にとって彼女の代わりに注文するのはお手の物だ。何せ摘みになりそうなものを全て頼めば良いのだから。
―なので、目的は質問する事ではなく…。
「今日は煮っ転がしがオススメだったみたいだったから、二つ頼んでおいたぞ。それなら私も食べられるかもしれないからな」
「…ん」
そうやって会話して彼女の機嫌を直すのが目的であるのに六花から返って来るのは素っ気無い返事だけだ。それに流石の私も僅かな怒りを感じてしまう。折角の奢りであると言うのにそんな面白く無さそうな顔をされて、楽しくなるはずがない。別に奢られるのであれば私を楽しませろと言うわけではないが、もうちょっとこう…何とかならないだろうか。
―まったく…子供め…。
良くも悪くも子供に近い性格をしている六花に思わず溜め息が漏れ出てしまった。それに引っ張られるようにして頭痛と胃痛が激しくなる。ジリジリとズキズキが渦巻く胃の底から胃液が湧き上がって来るのを感じた瞬間、私は彼女の手元に置かれている包みに気付いた。
―…ふむ。
その真っ白の包み紙の中にはさっき買った簪と根付きが入っているはずだ。余りにも安すぎるそれは身に着けるのは少し不安であるものの、今の状況を打開出来るのは確かだろう。今よりも遥かに機嫌が悪かった六花が大人しくなったのもそれらを買ったお陰なのだから。きっと今の彼女もそれを気にしているだろう。
―だが…なぁ…。
私の心の中にはどうにも一抹の不安が拭いきれない。勿論、こんな雰囲気で楽しく食事など出来るはずは無いから可能な限り早めに六花の機嫌が直って欲しいのは確かだ。だが、その為に手を出すのはあまりにも危険が大きすぎる気がする。無論、身に着けるために買ったのだから何時かは身に着けるだろうが、どうしても二の足を踏んでしまうのだ。
―このまま答えを出さずとも何れは時が解決してくれるだろうが…。
根が単純な六花が空腹の状態で目の前に料理を広げられて我慢出来るはずがない。自然と手は料理に伸び、機嫌も良くなっていくだろう。だが、それを見る間、私はこの胃痛や頭痛と闘い続けなければいけないのだ。それは正直、余り歓迎したくない出来事である。私とて食事を食べるときくらいは静かで救われていたいのだ。少なくとも胃痛や頭痛と言う奴とは無縁でありたい。
―…となれば、手は一つしかないな。
「なぁ、六花。簪…着けてみないか?」
「…」
私の言葉に彼女は肩を震わせて反応する。それはやはり彼女自身も簪を気にしていたという事の証左なのだろう。元々、六花は私の代わりに即答するほどそれを気に入っていたのだ。彼女だって女であるし、お洒落だってしたいだろう。ついさっきまでは油揚げ亭に足を向けるのを優先していたが、今は丁度、手隙だ。六花としても料理が出てくるまでの時間を気まずい沈黙で潰すよりはマシだろう。
「…でも…」
「あの綺麗な銀の装飾はきっとお前の髪にも映える。…受け取ってくれないか?」
―…やばい…なんていうか…かなり気恥ずかしいなこれは…。
ただ、簪を贈っているだけだと言うのにまるで口説いているようにも聞こえるのだ。特に他意は無いとは言え、気障な台詞に顔が赤く染まるのを感じる。集まった血液が熱を灯し、思考を空回りさせようとするがここで言葉を間違ってはいけない。そう何度も心に言い聞かせ、私は可能な限り冷静に言葉を選んでいく。
「それに元々、お前が勝手に頷いたんだぞ。それで買う事になったんだから、着けてくれないと困る」
「う…うぅ…」
冗談めかした言葉に六花はそっと目線を逸らした。見れば、彼女の顔もまた私に巻けず劣らず真っ赤に染まっている。普段から赤い肌をしている顔をさらに真っ赤にしている姿は何処か可愛らしい。既に彼女の美貌など見慣れているはずの私でさえ胸が一瞬、ときめいてしまうほど今の彼女は魅力的であった。
―な、なんでそんな顔をするんだよ…。
普段、自分はもっと気恥ずかしい事を言っている筈だ。それこそ猥談の類から、私を揶揄する言葉まで。それらは枚挙に暇ないくらいだ。その中で六花は一度とさえ、そんな顔を見せてこなかったのである。だからこそ、私にとっては今、目の前で見せる彼女の恥じらいの表情は新鮮で強く胸を打つものであると感じられるのだ。
「あ、アタシ…簪の着け方なんて知らない…し」
「…は?」
しかし、そんな彼女の口から漏れ出たのは余りにも予想外な言葉で思わず聞き返してしまう。無論、その意味は私にだってちゃんと理解できているのだ。だが…簪の着け方なんぞ、れっきとした作法がある訳ではない。いや、無い事はないが、適当に切り揃えられた癖っ毛の彼女では難しいと言うべきか。それに六花の髪はそれだけで大枚叩く好事家がいそうなくらいに美しいのだ。簪の色も一致している訳だし、多少、不恰好でも違和感などは無いだろう。
「だ、だから、アタシ、簪の着け方なんて知らないんだよ!」
だが、六花にとってはそれはとても恥ずかしい事だったらしい。私の態度を理解できなかったのだと誤解して叫ぶように言った。その大声に周りがシンと静まって、こちらに視線が集まる。四方八方から集まる視線――面白がるものから、訝るものまで様々だ――に思わず顔が俯きそうになってしまう。だが、六花に此処まで言わせたのだ。一人だけ逃げるなんて出来ないだろう。
「あー…なら、私が指してやろうか?」
「え…?」
私の言葉に六花はその顔を驚きに染める。しかし、そのまま彼女が断る前に私はもう椅子から立ち上がっていた。ガタガタと木製の椅子を揺らし、立ち上がった私は彼女の前にある白い包みを手に取る。そのまま、一緒に入っているであろう根付を落とさないように慎重に包みを解いていった。その仕草に店内中から少なくない数の視線が集まり、思わず手が震えそうになってしまう。だが、ここで尻込みをする訳にはいかず、必死に自分を叱咤しながら私は包みから白銀の簪を手に取った。
―…見れば見るほど美しいなこれは。
十手を模したような独特の形は髪を止めるために進化して言ったからだろう。この国の女性はそう頻繁に髪を切る訳ではない。美しく伸ばされた髪を結い上げ、縫い止めるには頑丈さだけでは足りなかったのだろう。より多くの髪を縫いとめられるように櫛状になっているものも存在するそうだ。しかし、六花の髪は首元の辺りで適当に切り揃えられている程度である。それを止めるのであればこの十手状のもので十分だろう。
―…あれ?
しかし、私はそこで微かな違和感を覚えた。形にならないそれに何度か首を傾げるが、私はそれの原因がその簪の根元にある鶯状の細工である事に気付く。ついさっき、六兵衛の所で見た時はこんな真下を向く様な首の角度ではなかったような気がするのだ。しかし、何かしらの陰陽の術が篭っているとは言え、これはあくまで装飾品。生きているはずがない。世の中には物体を生きているように動かす術もあると聞くが、少なくともそんな大規模な術が掛かっていれば私だって一目で気付けるのだから。
「少し下を向け。髪を纏めるから」
「え?え?ひゃんっ!?」
困惑するような六花の首筋にそっと手を触れると、彼女は可愛い悲鳴を上げた。まさか六花がそんな声をあげるとは想像もしていなかった私はそれだけでも手が止まりそうになってしまう。だが、最早、状況は動き出してしまっているのだ。今更、歩みを止めるわけにも行かず、私はそのまま彼女の髪をそっと手の中に纏めていく。独特の癖を持つふわふわの髪は見た目通り、とても肌触りが良い。するすると手の櫛の中を通り抜けていこうとする髪を捕まえるのが精一杯なくらいだ。滑らかなその髪に楽しむような感情さえ感じながら、私はうなじの上辺りで手早く纏めて結い上げていく。
―後はこの根元に…と。
小さなお団子一つ作れはしなくとも、纏め上げれば結構な量になる。それをくるくると紙を丸めるように巻き上げながらその根元に簪を挿すのだ。特に抵抗もしないままするすると入り込んでいく簪はしっかりと彼女の髪を止めてくれた。ちゃんと止められているか少し動かして確認してみたが、特に問題はないようだ。それを踏まえて彼女を見れば――。
「…綺麗だ」
「…え?」
思わず漏れた言葉は私自身でさえ意図していないものであった。当然だろう。こんな大衆の前でそんな恥ずかしい事が言えるほど私の羞恥心は低い訳ではないのだ。二人っきりでさえ、言うのに大変な苦労するだろう。それだけの言葉がそう易々と出てくるはずがない。だから、それは私が言おうと思った言葉ではなく、「言ってしまった」言葉で…。
「あ、か、簪がだな。やっぱりその、綺麗だなぁ、と。ほ、ほら、見ろ。この今にも飛び立ちそうな鶯と言い、枝の表現と言い、見事としか言いようがないだろう!!」
「い、いや、見ろと言われてもアタシは見れないんだけど…」
そんな事は私だって理解している。だが、今の私はこの余りにも気恥ずかしい空気を何とかするのに必死であった。それも当然だろう。誰がこんな公衆の面前で、そんな恥ずかしい事を――しかも、見惚れていた所為で漏れてしまった言葉を認めたいだろうか。これが女を口説くのを生き甲斐にしているような男であればまだ違うのかもしれないが、残念ながら私は違う。寧ろそういうのに晩生な人間としての道をこれまでに歩んできたのだ。
「おい!兄ちゃん!六花が困ってるんだろうが!」
「ちゃんと褒めてやれよ!!」
「外野は黙ってろ!!」
より面白くしようと外野から野次にも揶揄にも似た声が飛んでくる。それに乱暴な言葉で返しつつも、六花がそれを望んでいることに内心、気付いていた。幾ら私が鈍感と言えど、潤んだ瞳でそっと私を振り返ってきているのだから。その瞳を濡らす色が他でもない期待である事くらいは分かる。
―あぁ…くっそ…反則だろ…。
たまに見せる弱った表情でもない。拗ねた表情でもない。怒った表情でも勿論ない。頬を赤く染め、小さく胸を上下させながら熱の篭った吐息を吐く。晒されたうなじにも朱が差し込んでいて、他よりも格段に赤くなっている。そんな上には銀の簪とそれに纏められた見事な髪があり、何時もと違う印象を六花に与えていた。普段の傍若無人ではなく、何処か撫子のような印象を受けるのはその髪だけではなく、その瞳もそうだろう。何処か弱気な、しかし、誘うような色も見せる瞳。普段であれば考えるよりも先に口が出てくる彼女なだけにそんな瞳を見るのは初めてで…そして、だからこそとても私の胸を打つのだ。
「……だ」
「…え?」
「だから、綺麗だって言ってるんだ!二度も言わせるな恥ずかしい!!!」
―そこで店内が騒ぎになった。
指を咥えて、息を噴出し、音を立てる者。拍手をしながら、素直に六花を祝福する者。私と六花そのものを揶揄する者。私を揶揄する者。あげていけばキリがない程の歓声と声が店中を支配する。その渦中に置かれた私は揶揄が聞こえない振りをしながら、再び六花の前へと戻った。
「あ…っ」
真正面から見る彼女の顔は思ったとおり真っ赤だった。しかし、それはさっきまでのような羞恥の色だけではない。歓喜と興奮を伴った艶かしいものだったのである。潤んだ瞳に熱を灯す顔は今まで一度も見たことの無い覚えのないものであった。それに胸を鷲掴みにされるのを感じてしまう。ギシリときしんだ胸の奥でむくむくと男としての興奮が鎌首を擡げ、六花が魅力的にさえ見えてくるのだ。
―お、落ち着け…ここは素数を数えるんだ…!!
しかし、それはあくまで幻想だ。確かに六花が美しく、魅力的である事は私も認めている。だが、今の彼女は何時もの活力に満ち溢れた頼りがいのある女ではないのだ。何処か弱弱しく、触れれば消える雪のような儚さを持つ魅力を灯しているのだから。それにどれだけ庇護欲を掻きたてられようとも、それはあくまで私の心の作り出した幻想に過ぎないのだ。本来の彼女とは余りにも程遠い影絵のようなものである。
「あり…がとう…」
そんな何時もとはまるで正反対の六花はぽつりと声を漏らした。何時もであればハキハキと私の耳に届くその声は今は妙に歯切れが悪い。聞きたくなくても私の鼓膜を打つ何時もの軽やかな声とはまったく違うそれに私の胸がまた高鳴ってしまう。それを幻想だと偽者だと何度も言い聞かせるが、私の胸は止まってはくれない。ドクドクと興奮を載せるようにして熱い血液を身体中に送り出しているのだ。
「…良いって。礼を言われるなんて調子が狂う」
だからこそ、私はそんな素っ気無い返事しか返せなかった。それはただ素直になれなかったと言うだけではない。彼女に女としての魅力を感じ始めている自分を認めたくなかったからだ。何時も私の胃を軋ませるほど、悩みの種になっている六花が性的な対象として魅力的に見えるだなどと認められるわけがない。それを認めてしまえば、私は次に彼女にからかわれた時にどうすればいいのか分からなくなってしまうだろう。今日のような誘惑のされ方をすれば本当に押し倒してしまうかもしれない。しかし、それは治安を維持する側としてはありえない事だ。それを防ぐ為にも、私は自分の心を何時も以上に戒めなければならないだろう。
「兄ちゃん。もっと素直になれって」
「そうそう。ここはガバーと…ガバーっとだな!!」
そんな私の心を知らず、無遠慮に外野が騒ぎ立ててくる。元々、この小さな町には娯楽らしい娯楽など殆どないのだ。その為、こうした出来事を可能な限り楽しもうとするのは私だって知っている。だが、余裕の無い状態で揶揄される事ほど面白く無い事はない。何とか自分の心を律するのに必死な私は一々、外野の無責任な言葉に気を遣ってはやれないのだ。
「外野は黙ってろと言ったはずだ。次に下手な事を言ってみろ。営業妨害と名誉毀損で貴様ら全員引っ張ってやる」
―冷たいその言葉にまるで店内が水を掛けられたかのように冷たくなった。
腰の十手に手をかけた私の言葉が怒りを表している事にようやく気付いたのだろう。面白そうな出来事に沸いていた店内が一気に静かになった。無論、名誉毀損はこんな下らない場末の出来事に適用できるものではないし、営業妨害は店側の訴えがなければ不可能である。だが、そんな事を彼らは知らない。彼らが知っているのは私が真面目な公僕であるという事だけ。そんな私が嘘を言っているとは思えないのだろう。怯えの走った空気は一瞬で白けて、各々が自分の席に戻っていった。
「…なんでぇ。面白くねぇ」
―別にお前らを楽しませるために生きている訳じゃない。
それを口にするのは買い言葉になってしまう。余裕がなくともそれくらいは理解出来る私は、その言葉を胸中の中でだけで呟いた。実際、揶揄をされるのは六花で十分、間に合っている。別に彼女が特別と言う訳ではないが、揶揄されるのが好きと言う訳でもないのだ。からかわれるのは言っても聞かないこのアカオニだけで良い。そう思いながら、私は一つ溜め息を吐いた。
―…あ、やばい…また胃が…。
吐き出した溜め息で少し心が落ち着いたからだろうか。引き絞られるような痛みを訴える胃に思わず胃薬を求めてしまう。だが、まだまだ注文した芋粥は出てきてはいないのだ。医者から食後に飲むことを勧められているだけに、まだ胃薬に頼るわけにはいかない。強まる痛みは最高点にまで達し始めているが、あと少し我慢するだけならば可能だろう。
「…あの…あ、ありがとう」
そんな私に向かって六花が再びお礼の言葉を漏らした。それに手を振って簡単に答えながら、私はそっと胃を押さえる。興奮と羞恥の所為で未だ熱を篭めるその手で胃を温めようとするが中々、上手くはいかない。じんわりとした熱は確かに腹部に広がっていくか、それは冷たい壁に遮られるようにして胃に届かないのだ。自然、冷たいままの胃は染み出す痛みを強くして、頭痛と共に私に襲い掛かる。
「…礼を言う位ならばもう少し大人しくしていてくれ」
しかし、そんな彼女に私は気を遣う余裕は殆どない。最高潮にまで膨れ上がった頭痛と胃痛。そして欲望が私の余裕を鑢のように削りとっているのだ。今、こうしている時でさえゴリゴリとゾリゾリと粉になっていくそれらを見て私は冷静ではいられない。その言葉に幾つかの棘を含ませて、彼女へと放ってしまった。
「…うん」
何時もであれば彼女はそれをまるで気にしなかっただろう。揶揄される仕返しであるともっと酷い事を言った事だってあるのだから。しかし、目の前の六花はそう返事をして、気まずそうに俯いてしまった。今までは一つ笑って吹き飛ばしていた私の言葉に、彼女は間違いなく傷ついている。それに私は軽い混乱を覚えてしまうのだった。
―え?いや…え??
今日の六花は何かがに違う。それは私もいい加減、気付き始めていた。しかし、それをどうしても私は言葉にする事が出来ない。胸に募る違和感を言葉として表すことが出来ないのだ。その不快感と共に沸き起こる自己嫌悪の感情に心が軋む。キリキリとズキズキと言う音と共にさらなる悲鳴をあげる胃はもう限界に達し始めていた。
―…私が何をしたって言うんだ…。
世界と言うものが決して一筋縄ではいかない事を私は知識的にも経験的にも知っている。だが、コレは余りにも理不尽な展開ではなかろうか。私は特に悪い事は――いや、六花に八つ当たりをしたのは確かに悪い事だっただろう。しかし、それでこれだけの痛みを覚えるのは流石に理不尽ではなかろうか。自分の身体の事とは言え、思わずそう思ってしまう。マトモに思考すら練り上げられない頭痛と、思わず腕で押さえてしまうほどの胃痛、そして今にも吐いてしまいそうな自己嫌悪が私を襲っているのだから。
「で、でもね…。別にアタシは…アンタに迷惑掛けようと思ってるんじゃなくて…」
そんな私の目の前でそっと六花の手が私の腕を掴んだ。しかし、それは鬼の手とは思えないほど弱弱しいものであった。掴むと言うよりも縋るようなそれに私の心がさらに軋む。それも当然だろう。そこまで彼女を追い込んだのは紛れも無く、私の言葉なのだ。別に冷血漢と言う訳でもない私は良心の痛みとは無縁ではいられない。瞳を潤ませて、まるで棄てられる子犬のように訴えかけてくる彼女の姿に良心が悲鳴を上げてのた打ち回った。
「いや…実際、迷惑を掛けてるのは分かってるんだよ。でも…アタシは他に方法を知らなくて…本当はもっと良い方法が在るのは分かるんだけど…不器用で…馬鹿…で…さ」
まるで一つ一つ感情を吐露していく姿から私の心は逃げようとしていた。しかし、真摯に訴えかける彼女の様子がそれを許さない。真正面から私の瞳を射抜く濡れた瞳が一瞬たりとも視線を背けるを禁じているように感じるのだから。そして、その瞳が、縋るような手が、私の意識を自分から彼女へと向けさせる。胃痛も頭痛も自己嫌悪もゆっくりと薄れていく感覚と共に、私の全身は六花に傾けられ始めていた。
「でも…あ、アタシは本当に…本当はアンタの事を……」
「はぁい。お待たせしましたー」
「う、うわぁぁぁっ!!」
しかし、そこまで言った六花の言葉を遮るように紅葉が私達の食卓にまで足を運んでいた。何時の間に来ていたのだろうか。近づく気配すら感じさせなかった紅葉に六花が大声をあげて手を離した。その瞬間、彼女に傾けられていた意識が内面へと戻り、痛みがぶり返してくる。思わず頬を顰める私の目の前で紅葉が注文した料理を読み上げて並べていった。両手に四つ、尻尾に一つの盆を載せる彼女の手でどんどん広がる料理は一気に机の上を埋め尽くす。
「あ、そうそう。当店は乱痴気騒ぎや喧嘩騒ぎをお断り致しております。勿論、襲ったり襲われたりもご法度ですわ」
「そ、そんなつもりじゃなかったんだよ!」
並べ終えてから付け加えた紅葉の言葉に六花は大声で言葉を返した。どうやら言葉を遮られたのはよっぽど逆鱗に触れたらしい。そこには今までにはない激しい怒りが篭められている。今にも弾けそうな怒りを間近で見て、恐ろしいと思う反面、私は内心、安堵していた。何せそこにはさっきまでの弱弱しい彼女の姿はまるでないのである。何時も通り、活気に満ち溢れた力強いアカオニの姿だ。別にさっきの姿を見るのが嫌だったというわけではないが、彼女らしい様子に安心すら感じてしまう。
―まぁ…どうにも気にしてはいないようだしな。
紅葉に食って掛かる六花の姿はあまり傷ついているようには見えない。それはそれ以上の怒りを覚えている所為か、それとも単純な彼女は忘れてしまったのか。何はともあれ、私の心は少しだけ軽くなる。それに頭痛と胃痛が弱まるのと同時に湧き上がる欲望を律する必要も無くなったのだ。お陰で心の中に僅かな余裕を取り戻した私は胸中で再び安堵の溜め息を吐く。
「そうですか?あわよくば…って考えてる顔でしたけれど」
「うぐ…っ」
しかし、そうこうしている内に六花の旗色はドンドンと悪くなっていっているようだ。ズバズバと容赦なく切り込んでいく紅葉の言葉にたじたじになっている。元々、六花は舌戦が上手いとはお世辞には言えない性格をしているのだ。人をからかうのは好きだが、攻められるのが苦手な彼女が紅葉に勝てるはずがない。
「以前も言いましたけれど…合意の上でならば問題はありませんわ。ですが…」
「分かってる!分かってるってば!!」
まるで子供のように言葉を打ち切って、六花は不機嫌そうに肘を机に突いた。どうやら彼女は旗色が悪いと見て、そのまま戦略的撤退をするつもりらしい。紅葉から視線を逸らした姿は話をするつもりはないと全身で表現しているようだ。それに紅葉は一つ微笑んで、厨房の方へと戻っていく。凱旋にも似たその優雅な仕草を横目で追いながら、私は不機嫌そうな六花に口を開いた。
「…食べないのか?」
「…勿論、食べるよ。…食べなきゃやってられないからね、ったく。…後、もうちょっとだったってのに…」
ぶつぶつと口の中で文句を言いながら、六花は運ばれてきた串を一つ乱暴に取った。甘辛いタレがたっぷりかかった肉をガツガツと力強く食べていく姿は何時も通りと言えるだろう。それに微笑ましいものを感じながら、私は木製の匙でそっと目の前の芋粥を掬う。そのまま口に運んで食道に通せば、荒れた身体を内側から癒すような熱が広がっていくのだ。それに感謝の念を抱きながら、私は一つ二つと掬い、嚥下していく。
「はぁ…まったく…。うぅぅ…くっそぅ…」
そんな私の目の前で六花は何度も恨みがましそうな声を浮かばせて、自棄酒のように徳利を直接、煽る。よっぽど悔しかったのだろう。口の端から零れているのにも構わず、ぐびぐびと嚥下している。しかし、白濁した酒が彼女の口から垂れ落ちる姿は妙に扇情的で、男の本能を擽るものであった。ドロリとした白濁液がまるで男の体液にしか見えず、交わりを連想させるのだろう。
「もうアンタも飲みなよ!!飲まなきゃやってられないよ!!」
「飲めるわけないだろうが。と言うかそもそもお前の酒じゃない」
倒れるほどではないとは言え、激しい胃痛を慢性的に感じる私は刺激物の摂取を禁じられているのだ。その中には勿論、酒類も入る。元々、酒を好む方ではなかったので特に気にしてはいないが、こうして絡まれる時は本当に困る。私だって本当は飲んでやりたいが、今の私にはそれさえ命取りになりかねないのだ。ただでさえ痛んでいる身体をこれ以上、痛めつける気にはなれず、私ははっきりと断る。
「うー…うー…うー…っ!」
「はいはい。唸ってないでがんもでも食べろよ。美味そうだぞ」
自分が食べれないものを美味そうと言うのは妙に侘しいが、諦めるしか仕方が無いだろう。そう心に言い聞かせながら、私は六花に向かって幾つも料理を勧める。それを彼女は律儀に一口ずつ口に入れて、酒を煽りを繰り返し、そんな何時も通りの姿に私はついに笑ってしまって…彼女にからかわれたりして――。
―そして、そんな風にして楽しい夕食の時間は過ぎていったのだった。
―上機嫌な六花と共に歩くのはそう悪いものではない。
元々、気の良い彼女は、隙あらば私をからかおうとさえしなければ良い女だ。酒が入って上機嫌になった彼女は基本的には大人しいので、傍に居ても特に害は無い。なので、私としても安心して隣を歩ける存在であるのだ。
「あはははは♪あははははははっ♪」
―声がうるさい事を除けば。
六花は鬼だけあって基本的に声が大きい。しかし、そんな彼女の声に慣れた私とは言え、耳に響くような感覚を受けるほどだ。それが夜も更けて静まり返った町に響けばどうなるか。勿論、迷惑にしかならない。
「おい。うるさいぞ。少しは声を小さくしないか」
「あぁ、悪いねぇ…♪これからは気をつけるよ」
けれど、何度、注意しても六花の声は小さくはならないのだ。人は興奮すれば声を張り上げる生き物であるから、ある程度は仕方ないのかもしれない。しかし、彼女の場合、その許容量を大きく上回っているのだ。何時もに比べれば安心して隣を歩けるとは言え、胃痛が治まってくれる存在と言うわけではない。寧ろ、悪意がない分、どう注意したものかと新しい悩みを覚えてしまうくらいなのだ。
―しかし、まぁ…上機嫌な事で。
つい数時間前には机に突っ伏して悔しそうにしていた女と同一人物とは思えない。アレだけ管を巻いていたというのに、今は浮かれきって恥ずかしい位だ。変に落ち込まれるよりも気が楽とは言え、両極端な彼女の様子に溜め息さえ漏れそうになってしまう。丁度、その間くらいが良いのだが、彼女がそこに留まる事はない。常に最低と最高の気分を行き来しているのだ。
―まぁ…悪くはないがな。
楽しそうな――本当に楽しそうな六花の様子に何となくそんな言葉を胸中で漏らした。無論、私は彼女の事が苦手だ。それは変わらない。しかし、横でこれだけ楽しそうにされるとこっちも悪い気分ではない。それに上機嫌な所為か揶揄するのが比較的、大人しくなっているのだ。普段よりも接しやすい様子にそう思っても不思議ではないだろう。
「あは♪ねぇ、見なよ。アソコの茂み、ガサガサ揺れてるけど絶対、ヤってるよねぇ♪」
「おい馬鹿やめろ」
上機嫌に目の前の茂みを指差す六花の指をそっと下ろした。確かに彼女の指の先には規則的にガサガサと揺れる茂みがあり、微かに喘ぎ声らしきものが聞こえてくる。これが他の地方と同じように薄暗い視界の中であれば気付かなかったかもしれない。しかし、真っ赤な月に照らされ、ふわふわと淡い光を灯す中では一目瞭然だ。昼よりも明るい視界の中では揺れる茂みはどうしても目立つ。しかも、それは一つではなく複数あるのだから、より分かりやすいだろう。
「こうきょーりょーぞくのしんがいってので逮捕しなくても良いのかい♪」
「する訳ないだろうが」
確かに人目のつく場所で全裸になられたりするのは私の出番かもしれない。しかし、あくまで彼らは茂みの中で愛を育んでいるだけに過ぎないのだ。それを一々逮捕していてはキリがない。確かに最初は戸惑いもしたし、悩んだりもしたが、人に迷惑を掛けようとしている訳でもないのだから放置するべきだろう。
「ふふん♪」
「なんだ嬉しそうに」
そんな私の言葉の何処が嬉しかったのだろうか。隣を歩く六花は嬉しそうに頬を緩めて、私の腕に抱きついて来た。豊満な胸に腕が包まれる感覚にボッと頭の芯が熱くなるが、欲望に負けるわけにはいかない。そう自分を戒めながら、私は努めて冷静に声を紡いだ。
「だって、つまりアンタが逮捕するのはアタシだけって事だよねぇ♪」
「…それは嬉しい事なのか?」
結局の所、この町で捕まえられるような事をしているのは六花だけと言う事なのだ。それは名誉か不名誉かで言えば間違いなく前者だろう。しかし、六花の顔に浮かんでいるのは嬉しそうな色合いである。それが私には理解出来ず、抱きつかれたままの姿勢で首を傾げた。
「当たり前じゃないか♪それってつまりアンタの特別って事だろぉ♪」
「…出来れば、そんな特別じゃなくなって欲しいんだがな」
他の有象無象と同じように大人しくしてくれれば、私のこの胃痛ももう少しはマシになるだろう。六花が落ち着いてくれたお陰でかなり今はマシになったとはいえ、それでも慢性的に痛みは続いているのだ。このまま永遠に胃薬の世話になる人生など考えたくもない。しかし、六花がこうして『特別』である事に喜んでいる以上、当分は医者との付き合いも続くだろう。
「じゃあ、どんな特別が良いんだい♪」
「そりゃお前…」
―…いや、何なんだろうな。
六花とは友人でもない。恋人でもない。家族でもない。ただ、私の職業でだけ繋がれた関係だ。それがダラダラと尾を引くようにして続き、こうしてそれらしく収まっているだけである。もし、それが途切れてしまったらどうなるか。きっと私と六花の接点はなくなってしまうだろう。仕事の延直線状として結ばれた関係ではなく、本来のなんでもない『他人』に戻ってしまうだけだ。
―…それは流石に寂しいかな。
何度でも言うが私は六花の事が苦手だ。出来れば係わり合いになりたくはない。だが、それでも彼女の事を嫌っているかと言えば否である。こうして大人しい彼女の傍に居るのは悪い気分ではない。それに何より六花は良くも悪くも私に大きな影響を与えた人物なのだ。それがいなくなってしまうと考えるだけで、自分の中にぽっかりと穴が開いてしまうようにも思える。
「アタシとしては恋人とかがオススメなんだけれどねぇ♪」
「あ、それだけは絶対にないな」
こんな手間が掛かる女を恋人にすれば、私の心労はさらに跳ね上がるだろう。どちらかと言えば癒される様な女の方が好みなだけにその『特別』だけはありえない。常日頃から心労を掛けられている私としては親密な関係になって、より負担を掛けさせられるのは真っ先に弾きたい選択肢だ。
「ホント、釣れないねぇ…。まぁ、もう諦めてるけどさ。じっくりねっとりと攻略するさね♪」
「良くは分からんがお手柔らかに頼むぞ」
そんな事を話していると目の前に小さな小屋が見えてきた。私に割り当てられた詰め所よりもさらに一回り小さなそこが私の家だ。詰め所と同じく茅葺屋根で障子が扉にもなる家は防犯意識の欠片もない。末席であるとは言え公家出身者、しかも、都から派遣されてきた人間が住むような場所ではないだろう。しかし、住めば都と言うのは本当のようで、今ではもうその小さなボロ家に慣れてしまっていた。
「相変わらずの幽霊屋敷っぷりだねぇ」
「仕方ないな。棄てられてたものだから」
詰め所も家も都から派遣されてきた私の為に特別に誂えたものではない。この町の長である男から、住む人間がいないから、と譲り受けたものだ。交通の要所にある訳でもないこの小さな町には余所者に新しい家を建てる余力はなかったらしい。いきなりやって来た側であるとは言え、最初はその対応に豪く憤慨したものだ。しかし、今ではその言葉が決して嘘では無い事が分かる。
―何せこの町で働いてるのは一握りだけだからなぁ…。
六兵衛や紅葉、その旦那と言う例外を除けば殆どの人間は日々、享楽に耽っている。他では既に畑に出ている時間にようやく起きだし、それぞれの想い人と交わるのが殆どなのだ。無論、そんな生活が行えるのは、そうした人生でも十二分に食べていけるという背景があるからである。畑には耕さずとも曲がりくねった奇妙な木が生え、その先端に幾つもの実をつけるのだ。白濁色の果肉を孕むその実はそのまま食べても、甘味にしても、酒にしても美味しく十分な栄養も含んでいるらしい。そんな果実が放っておいても幾つも実を着けるのだから誰も働かなくなるだろう。
―無論、金子を欲しがる人間は少なからずいて、多少は畑も耕しているようだが。
油揚げ亭で出る料理もそうした野菜から作られているものである。しかし、それも種を植えて水をやる程度で、耕作らしい耕作は行わない。それこそ種を植えてから、数ヶ月交わりっぱなしで芽が出てからようやく収穫、何てこともザラにあるようだ。そんな住人が殆どなのだから、この町がどれだけ平和で、どれだけ人手が足りないかが分かるだろう。
―私も最初はそんな住人を毛嫌いしていたはずなんだがなぁ…。
公僕としての仕事に差異はつけられないが、自分が働いている時間に享楽に耽っている人間を好きになれるはずがない。それをを取り締まる法は無くとも個人としての好悪は別だ。やはりどうしてもそんな彼らを堕落した、と言う見方をしていたのである。それが明確に変わったのが何時頃かは覚えていないが、今ではそれほど悪くない生き方だと思っているのだ。
―まぁ…自分がそうなりたいとは思わないが。
「早く開けておくれよ」
「あぁ、すまない」
考え事をしている内に家の前に着いていたようだ。目の前には木の扉が視界を塞ぎ、腕に抱きついたままの六花からは不満の声があがる。そんな彼女に小さく謝りながら、私はそっと閂を外し、扉を開いた。ガラガラと言う音とともに主を迎える郊外の家に安心感を感じながら、私は一歩、足を踏み出す。それに釣られるようにして六花も足を進めて、部屋の中に入ってきた。
「ふぅ…また掃除サボってただろ」
その第一声は私にとって耳の痛い一言であった。天井の隅辺りを見渡す彼女の視線は隙無く、蜘蛛の巣を発見したようだ。以前、彼女に掃除してもらってから既に一週間余りが経過している。その間、一度も家の掃除をしていなかった私にとって、六花の言葉は事実が故に痛いものであった。
「…別にしないでも生きていけるからな」
その言葉は強がりではなく、本当の事だ。別に掃除が面倒なわけではない。公家育ちであるとは言え、私だってやろうと思えば出来るはずだ。しかし、私には圧倒的に時間が不足しているわけである。そんな暇があれば本の一つでも読んでしまいたいし、書き物の一つでもしたい。そうしているうちに夜も更けて寝なければいけない時間になってしまう。そんな事を繰り返し続けてきたが、今まで特に問題は無かったのだから。
「って言ってさぁ。実は結構、アタシが掃除するのを期待してたんじゃないのかい?」
「…まぁ、ないとは言い切れんな」
そんな私の横で嬉しそうに頬を綻ばせる六花にそう返した。正直に言えば…彼女の言う通りではある。どうにも不精な私は掃除をしたいとは思わないのだ。これが住めなくなるほど壊滅的になれば話は別かもしれないが、今まではその前に彼女が掃除してくれている。どの道、六花が掃除をするのは「泊めてくれるお礼」であるのだ。ならば、その恩恵をしっかり預かろうとして、掃除をサボっていても問題はないだろう。
―まぁ、それに最低限の掃除はしている。
私は男の一人暮らしである。勿論、そんな住処の中には六花に見られれば困るものも少なからず存在するのだ。例えば…自慰の後始末に使ったものであるとか。この地方にやってきてから急激に増した私の性欲は数日に一度の自慰を欠かさなければ眠れなくなってしまうほどにまでなっている。それまでは性欲が薄い方で殆ど自慰などしたことがないが、ここに赴任してから多いときには二度三度と繰り返してしまうこともある。そんな自分に自己嫌悪をしながら後始末をした後にはちゃんと掃除をすることにしているのだ。
―六花は何時来るか分からない訳だしな。
基本的に気まぐれ屋な彼女は人里に降りてきて無銭飲食をした時でも必ず私の家に泊まるというわけではない。そのまま素直に山に帰っていくときもあるのだ。しかも、降りてくる頻度もまちまちであり、必ずしもこの日に来るとは言い切れない。そんな彼女が何時、泊まると言い出すかは六花自身にだって分からないのだ。無論、神ではない私にそれが分かる筈もなく、何時来ても困らないように自慰の後始末だけはしっかりするようになったのである。
「えへへ…♪」
そんな私の腕をぎゅっと抱き締めながら、六花の顔に溢れんばかりの笑みが浮かんだ。活力に満ち溢れた顔を酒気で真っ赤に染めながら、そうやって笑う姿はやはり魅力的である。さっきのように胸を掻き毟られるような魅力ではないが、確かに目を惹かれる美しさが彼女にはあるだろう。それは彼女の事を苦手としている私でさえ、その表情に釘付けにする程、美しく、魅力に溢れたものであった。
「それじゃあ期待されてた分、しっかりとお掃除しないとねぇ♪」
「泊める礼だからな。しっかりとしてもらわなければ困る」
彼女に釘付けになっているのを知られたくなくて、私は強気に言い放つ。同時に、私は彼女の拘束から逃れようと腕を引っ張った。掃除をする六花の邪魔にならないように、との行動であったが、それは彼女の腕に遮られてしまう。まるで大事なものを包み込むような彼女の抱擁に私の腕は捕まってしまい、身動きが取れないのだ。
「…おい」
「何さぁ…♪もうちょっとこのままでもいいだろぉ…♪」
「いや…両手を使えないと掃除も出来ないだろうが」
少なくとも人間に近い形をしているアカオニが最も良く使う身体の部位は腕だ。酒を飲む時にも、食事をする時にも使われるそれは彼女の中でも最も器用な部分であろう。無論、掃除をする時にも必ずそれを使うはずだ。しかし、私の腕を捕まえる事に使っていては何時までも掃除は出来ない。そんな事は彼女にだって分かっている筈だ。
「そりゃそうだけどねぇ…♪これからアンタの家を掃除しようって言うんだから…ちょっとくらいご褒美があっても良いだろぉ♪」
「ご褒美って…お前な」
そもそも掃除をするのは彼女の側からのお礼ではなかったのか。それを何時の間にか私から申し出た形になっているという事に胃痛が強まるのを感じる。とは言え、彼女とて本気で「ご褒美」を求めているのではないのだろう。その顔には悪戯っぽい表情が浮かび、にやにやと私を見つめている。
「アタシは謙虚だからねぇ…口付け九回で良いよ♪」
「何処が謙虚なんだそれは」
一回でも多大な勇気が必要である口付けを九回も要求しておいて何処が謙虚だと言うのか。寧ろ一回でも厚顔無恥と言われてもおかしくはないはずだ。そんな斬り返しが脳裏にいくつかも浮かんでは消えていく。しかし、私が口にしたのはそれとはまた違う別の言葉であった。
「…良いぞ」
「え?」
「いや、だから、口付け九回で良いって言ってるんだ」
私の言葉に六花はまるでこの世の全てが酒になったと聞いた様な顔をした。嬉しい様な、信じられない様な、そんな色を浮かばせた六花の背中を空いた手でそっと抱き寄せてやる。それに彼女は身体中を跳ねさせるように反応して、潤んだ瞳を見せた。酒とは違う別種の輝きに私の胸も自然と興奮を高めて行く。
「あ…ほ、ホントに?ホントに良いのかい?あ、アタシ…♪」
「良いから目を瞑れ。出来ないだろ」
「う、うん…♪」
普段の様子とは打って変わった大人しい姿に私の胸が痛んだ。それは勿論、良心の痛みであったのだろう。しかし、ここまで来てはもう後戻りは出来ない。元々、考えていた策を強行して突っ走るしかないのだ。
―そう自分に言い聞かせて私は六花の唇に『指』で九回触れた。
「…え?」
「はい。終わり。掃除頑張れよ」
九回目が終わった後、瞳を開けて呆然とした六花にそう言い放つ。同時に弱まった拘束から腕をするりと抜き出し、居間の方へと上がっていった。乱雑に本が並べられている居住空間に足を進めながら、私は大きく背伸びをする。その心の中に満ちるのは六花をからかってやったと言う充足感と微かな良心の痛みだ。やはりどうしても呆然とした彼女に悪いと言う気が起こってしまうのである。
「ふ、ふ…ふざけるんじゃないよ!!」
そんな私に六花の大声が届いた。顔を真っ赤にさせながら、思いっきり腕を振るい、私を指差す姿は本当に悔しそうだ。もしかして本当に期待していたかもしれない。そう思うほどの仕草に私の胸が充実感を強める。だって、普段は私がそうやってからかわれている側なのだから。たまにはこうして仕返しをしないと割に合わない。
「あ、あんなのが口付けな訳ないだろ!再度のやり直しを要求するよ!!」
「ちゃんと口付けの定義を確認しなかったお前が悪い」
そう。別に口付けと接吻は唇にするものであると限るわけではない。例えばこの国以外では手の甲に接吻を落として親愛を示す文化もあると聞く。他にも出会うたびに抱擁し合い、首筋に口付けをするものもあるそうだ。それから考えれば口付けと接吻は唇にするもの、と言うのは既成概念に囚われた見方でしかない。それに彼女はどっちの側から見ての口付けであるかも定義してはいなかったのだ。つまり、『彼女が私の指に接吻する行為』も無論、口付けのなかに入ってしまうだろう。
「へ、屁理屈だ!横暴だよ!!乙女心を弄んで何が面白いんだ、この鬼!!」
「何とでも言え。後、鬼はお前だお前」
ついに地団駄を踏む勢いで悔しがり始めた六花にそう切り返す。それに乙女心云々と言うが、男の本能を弄んでいるのは六花も同じだ。何せ彼女がからかう手段の殆どが性的なものであるのだから。同衾を強要された挙句、耳元で猥談を聞かされ続けるのに比べればよっぽど良心的だろう。
「それより契約は契約だ。さっさと掃除に取り掛かってくれ」
「うぅ…勝ったと思うんじゃないよ…」
「もう勝負ついてるから」
負け惜しみを口にする六花にそう言いながら、私はそっと囲炉裏の傍に座った。そのまま手元に読みかけの書物を引き寄せてきて頁を開く。栞によってしっかりと保持されたその頁はつい昨晩、読み耽っていたものであった。政治についての所論を述べるこの書物はそれなりに興味深い内容である。著者はまだ稚拙でしっかりと考えを述べる事はできていないが、その根底にある考えはとても面白い。
―こうした本が世に出るようになったなんてなぁ…。
元々、紙と言うのは嗜好品かつ高級品であった。それを使うのは公家や豪族などの一部、上位層のみであったのである。その中でもこうした書物を書き記すのは高い教養を持つ上位層のみであったのだ。しかし、この本の著者は公家でも豪族でもなく商人である。つまり商人でさえこうして書物を書き記せるようになったほど、今の紙を作る技術は向上してきているのだ。
―これも妖怪のお陰か。
近年、急速に人の社会に浸透してきた妖怪はその技術で多くの分野に発展を齎した。こうした書物だけではなく、食事や武術、鍛冶と感慨など、その分野は本当に多岐に渡る。もはや妖怪の影響を受けていない技術などこの国にはないのではないかと思うくらいだ。元々、人と妖怪との距離が近い国であったとは言え、ここ数十年の融和は異常らしい。
―まぁ、受け売りであるが。
私が生まれた頃にはもう既に今の社会が形作られ始めていたのだ。それを異常と言われてもどうにもピンとこない。ただ…それは悪いものではないように思えるのだ。一昔前には鬼と人間が本気で殺し合いをしていたとも聞く。それに比べれば少しばかり横暴ではあるけれども魅力的な鬼がこうして家の掃除をしてくれる方がよっぽど良いだろう。少なくとも今の六花の姿を見る私には…心からそう思える。
―…今更、六花と殺し合いをしていたかもしれないなんて考えられないしな。
しかし、こうしてぶつくさ文句を言いながら手際よく埃や蜘蛛の巣を払って行く彼女は鬼と呼ばれる種族だ。今でさえ妖怪に理解のない土地では恐れられているアカオニは一昔前であれば真っ先に討伐される対象であっただろう。それは…正直、余り愉快な想像ではない。昔の姿を知らない私はどうしても今の彼女の姿でそれを考えてしまうのだから。
「くっそぉ…。期待はしてなかったけどさぁ…してなかったんだけど…うぅ…」
―…まぁ、良いか。
襖の間から見える彼女は未だに文句を言っている。どうやらよっぽど悔しかったらしい。口を尖らせながらせっせと腕を動かしている。それを見ながら私はそっと微笑んだ。その胸中にはさっきの下らない妄想などはない。文句を言いながらも甲斐甲斐しく働いている彼女の姿があるだけだ。
「ほら、とりあえず台所の方は終わったよ。細かい所は明日やるから」
「あぁ、すまんな」
そんな六花が居間の方へと足を進めてくる。それに短く言葉を返しながら私は視線を書物に戻した。その視界の端で六花がガサガサと書物を整理していくのが見える。読みっぱなしで乱雑に床に置かれたままの書物を分類ごとに並べ替え、戸棚に戻して行ってくれているのだ。正直、それだけでもかなり有難い。無論、自分が分かりやすいように床に置いているとは言え、そろそろ足の踏み場がなくなり始めていたのだ。こじんまりとしたこの家は人一人で住むには丁度良いが、書物と一緒に暮らすのには少々、狭いのである。
「またこんなに本を買っちゃってさぁ…まったく。もうちょっと別の物を買って女に贈るとかないのかねぇ」
「それは今日やった」
―まぁ、一文だったんだがな。
そもそも私は女に贈り物なんて今まで考えた事もなかったのだ。何度も言うように私は本の虫。女に何かを贈るのであれば本を買って生きてきた人間である。無論、私にだって性欲はあるが、それは自分で処理しきれる範囲内だ。好みの傾向こそあれど、本以上に思い入れをした女など今まで一人もいなかったのである。
―…まぁ、そういう意味では六花は特別だな。
女に奢るのなど昔の私では下らなくて断っていただろう。しかし、良くも悪くも押しの強い六花の前では幾ら断っても無駄だ。その上、下手に断れば、機嫌が悪くなって拗ねるのである。そんな彼女に付き合っている内に諦め方を覚えた私はこうして女に奢るという事に抵抗をなくし始めているのだ。そういう意味では私にとって間違いなく彼女は特別だろう。ただし、本より上であるかは議論の余地があるだろうが。
「あ、それで思い出したよ。あの根付なんだけどね」
「ん?」
六花の声に視線を彼女に戻す。そこでは彼女が懐からあの包みを取り出している所であった。最早、衣服とは言えないほど無防備な胸元から包みを取り出す姿は妙に艶かしい。そもそもそんな布地の少ない胸元の何処に入れていたのか。胸の谷間くらいしか挟める場所がないような気が…い、いや、気のせいだろう。きっと。
「はい。これ」
そう言って六花は包みごと私に根付を差し出した。それはやはり私に受け取れという事なのだろう。そう判断し、私はそっと彼女の手から包みを手に取った。白い包みの向こうに微かに見える形はやはり美しい。少なくとも並以上の造詣を誇るそれを手の中でコロコロと転がして、私は彼女の顔をそっと見上げた。
「ん?なんだよ、いきなり人の顔を見て」
そこには油揚げ亭で髪を掻きあげたままの六花の姿がある。無造作に散らばっていた髪を纏めて簪で止めるだけでもかなり印象が変わっている。今の彼女は鬼というよりも何処にでもいる普通の女のようだ。しかし、それが決して悪い訳ではなく、彼女の中に元々あった親しみやすさを高める結果にもなっている。無論、それだけでなく、女らしさは艶やかさが上がっているようにも見えるのだ。それは間違いなく錯覚であろうが、一度、私の心を掴んだ印象は中々、手放さない。
―…まぁ、何も問題はなさそうだしな。
こうしてまじまじと見つめていても彼女に何か変化があるようには思えない。相変わらず勝気で活力と魅力に溢れるアカオニがそこにはいるのだ。やはり六兵衛の言っていた曰くなど嘘っぱちであったのだろう。そう判断した私は一つ笑って、包みから根付を取り出した。そのまま夜の闇を固めたような長方形をそっと腰帯に括り付ける。
「どうだ?」
「はいはい。アンタは前から男前だよ」
私の言葉に素っ気無く答えつつも六花の顔はとても嬉しそうであった。まるで大事なモノを磨き上げてより美しく仕上がった職人のような表情に私の頬も綻んでしまう。…決して彼女に男前だと言われたからではない。断じて。
「まぁ、アタシがこんなの持ってても使わないしねぇ。アンタは薬を飲むみたいだし、アンタが持ってた方が有意義だろ」
「お前がもう少し大人しくしていてくれれば薬も飲まなくても良いんだがな」
元々、ここに赴任してくるまでは胃薬などとは無縁の人間であったのだ。それが一気に反転したのは間違いなくこのアカオニの所為だろう。しかし、そうは言いつつも私はそれほど彼女を嫌えなかった。言葉そのものも冗談めいたものである。まるで友人同士の掛け合いのようなそれに私は微かな安心感すら感じていたのだ。
「はは、そりゃ無理ってもんだね。雪女に男を手放せって言うくらい不可能さ」
「そこまで言うか」
妖怪の中でも特に情熱的で愛情深い事で知られる雪女。そんな彼女達が手に入れた男を手放すのは死ぬときだけであるとさえ言われているのだ。そんな雪女を引き合いに出すという事は、一生このままのつもりなのだろう。それを感じた私の胃は再び確かな胃痛を訴える。しかし、同時にこのままの関係が続いていくと言う事に微かな安堵を覚えるのもまた確かな事であった。
「それよりそこらの本も片付けちゃって構わないのかい?まだ読んでるなら置いとくけど」
「いや、この辺のはもう全部読んだから片付けてくれ」
六花の言葉にそう返しながら私は再び書物を視線に戻す。そんな私に笑顔を浮かべながら、彼女はせっせと本を纏めていった。手際の良いそれらの動きに六花が良い嫁になるかもしれない、とさえ考えてしまう。しかし、それを口にするのは妙に気恥ずかしく、私は無理矢理、本に没頭しようと意識を傾け始めた。
「…あれ?」
しかし、そんな私の耳に六花の声が届いた。しかし、それに反応するのは何となく負けた気がしてしまう。彼女に向かって「良い嫁」だなどと考えてしまった気恥ずかしさもあったのだろう。私は敢えてそれに気づかない振りをして手の中の書物に意識を傾け続けた。しかし、私の中にその内容は入ってこず、目も滑って理解しているとは到底、言えない。
「アンタ、これ…」
―それがただ事ではないと理解したのは六花の震える声を聞いてからだった。
それは今まで一度だって聞いたことがない声であった。今まで弱弱しい姿は少なからず見たことはある。掠れるような弱弱しい声だって聞いた事があるのだ。だが、まるでこんな世界が終わるような声は六花から聞いた事がない。いや、彼女だけではないだろう。今までの私の人生で関わってきた人たち全てはこんな絶望したような声をあげた事はなかった。
「ん…どうした?」
それに内心、不安を掻きたてられながら私は彼女に視線を戻した。そこにはさっきまでの笑顔が嘘のようにして全ての表情を洗い落とした六花の顔がある。そして、その手に握られているのは一通の手紙。つい最近、私の実家から届いたが、あまりにも腹立たしい内容だったので投げ捨てた手紙である。何処に言ったかと思っていたが、どうやら何時の間にか本の間にでも挟まっていたらしい。それが整理していた彼女によって再び日の目を見たのだろう。
「アンタ…結婚するのかい?」
「……」
―そしてその手紙の内容は大まかに言えばそんなものだった。
私は都に居を構える公家の三男坊として生を受けた。最上位の大臣とも呼ばれるほどではないがそこそこの格のあるその家は三男である私を養うのに十分過ぎる財力を持っていたのである。だが、私はそこから飛び出した。公家と言う生き方ではなく、公僕としての生き方を選んだのである。しかし、そんな私ももう弐十五。結婚する適齢期などとうに過ぎ去っている年齢だ。そんな私には以前から見合いの催促の手紙が届いていたのである。
―…実際、もう生き方を違えたのだ。放っておいて欲しいんだがな。
公家と一口に言えば、煌びやかで華やかな世界を想像するかも知れない。しかし、その実、家の中で何時殺し合いが始まってもおかしくはない殺伐とした社会だ。そこには最早、法の介入する余地はない。例え毒殺されたとしても病死と断定され、罪人が裁かれずにのさばっているなど常である。私は…そんな社会に我慢がならなかった。善人が殺され、悪人がのさばるのをどうして笑って見過ごせようか。子供ながらに私はそう思っていたのである。
―だが、私にそれを正す能力はなかった。
残念だが私は凡人で平均的な能力しかない。そんな私がどれだけ大層な理想を抱いたとしても、社会の仕組みと言うのは変わらない。寧ろその歯車の一部として取り込もうとしてくるのである。それに荒れた時期もあったが…そんな中で私が選んだのは公家社会に残る事ではなく、外から正す事だ。つまり社会全体の風紀を正せば、おのずと閉じられたあの公家社会の中も変わらざるを得ないだろうと、そう考えたのである。
―無論、それには多くの反対があったが。
貧困に喘ぐ公家と言うのも数多くあったが、私の生家はそれなりに強かでそれなりに成果を誇っていたのだ。そんな場所から抜け出て、役人になると言った私を止める声も多くあったのである。そして…それ以上に馬鹿にする声も。兄達にとっては私が下らない理想を抱いて迷走する馬鹿にしか見えなかったのだろう。実際、私にだってそう思う。だが、それでも私は諦めずに突き進み、公僕としての道を勝ち得た。そんな愚かな私を兄達は軽蔑し、喧嘩別れのような形で生家を出てきたのである。
―それが今、こうして手紙が届いているのは…。
一つは私の生家は大きく傾きつつあるというのがその大きな理由だ。盛者必衰とは良く言ったモノで私の生家も今、急速に没落していっている。元々、豪族のように決まった支配地域を持つわけでもないのだ。没落が始まれば一瞬である。しかし、それでも兄達は何とか家を護ろうと東奔西走し…そしてある商人と手を組んだ。公家の称号を欲しがっていたその商人の娘と結婚すれば、融資を受けられるというところまで話を漕ぎ着けたらしい。
―だが、上の兄二人は既に結婚してしまっている。
この国では基本的に一夫多妻は認めてはいない。事実婚などは枚挙に暇がないが、それでは公家の称号を欲しがる商人の利益にはならないだろう。つまり兄達に必要なのは今、結婚出来る唯一の男手…つまり私なのだ。
―ずっと昔に馬鹿にして放逐同然に放り出した弟を今更頼って恥ずかしくはないのかとも思うが…。
しかし、よっぽど必死なのか最近はひっきりなしに手紙が届くのだ。その中身は私の近況を伺うのが一割と家の苦しさが二割、そして残りは私の相手になる娘への美辞麗句が書き連ねられている。思わず目が滑るような美辞麗句の数々に思わず目頭が痛くなってしまうほどだ。しかし、それだけ私の結婚意欲を高めようとしている兄達に同情を禁じえないのもまた事実である。
「…正直、迷っている」
あんな家の為に何かしてやるものか、と反発する気持ちは私に強く根付いているのだ。その上、結婚する為には今の仕事を辞めなければいけないらしい。都に戻って公家らしい生活をして欲しいと書いてある辺り、相手側がそう条件を出したのだろう。それなりに今の仕事にやりがいを感じている私にとって、それは決して許容出来るものではない。話にならんと一刀に切り捨てたい気持ちで一杯なのだ。
しかし、同時に私の胸には微かな同情があるのも事実である。決して仲が良い兄弟とは言えなかったとは言え、彼らに対する悪い思い出ばかりではないのだ。兄として人並みに優しくしてもらった記憶は私にもある。それが手紙を今すぐ破り捨てたいと思う私の心を繋ぎ止め、葛藤を生み出していた。
「本当はふざけるなと言って手紙を叩き返してやりたい気持ちで一杯だ。だが…私は…家族を見捨てられるほど冷酷な男でもなかったようだ」
見捨てたい。でも、見捨てられない。そんな狭間で揺れ動く私はそっと顔を俯かせた。結局、未だにどうすればいいのか答えは出てはいないのである。別に…この町に私は決して必要な人間ではない。だが、兄達にとっては私そのものではなくとも必要な人間である。だが、愛着は寧ろこの町の方が強く、兄達には薄い。そんな様々な面で対照的な二つの間で私は揺れ動き続けていた。
「…そう」
そんな私の視界でそっと六花の足が立ち上がるのが見えた。驚いて顔を上げれば、彼女は明後日の方向を向いていた。私と目線を合わせないようにしているかのような姿に微かな違和感を感じた瞬間、ポツリと何かが床に落ちる。それを追って視線が動いた瞬間、ポツポツと幾つかの水滴が零れ落ちてきた。しかし、今は雨ではなく、雨漏りもしていない。となれば、考えられるのは一つしかないだろう。
「あ…」
―泣いてる…?
私の目の前で六花は大粒の涙を幾つも零していた。鬼の目にも涙と言うが、そんな姿を見るのは始めてである。今まで何度か弱った姿を見たり、落ち込んだ姿を見たが、それとはまるで違っていた。ボロボロと大粒の涙を零す顔はくしゃりと歪んでいて、なんとも言えない辛い感覚が胸中を支配する。胸を押しつぶされるのとは違う、庇護欲をそそられるのとも違う…強いて言えば悲しみを煮詰めたような感情に私の思考が一瞬で染まった。
「六花…」
「あ、アタシ、帰るよ」
その思考のままに彼女に手を伸ばすが、それが届く前に六花はひらりと逃げていってしまう。その瞬間、目尻の端から零れ落ちた涙がポツンと私の手の甲を濡らした。それに気を取られている間にさくさくと足を進める彼女は居間を降りていってしまっている。このままでは六花が言ってしまう。ようやくそれに思い当たった私は弾かれたように腰をあげて、彼女の腕を掴んだ。
「待て。夜に山登りなんて慣れてても危険だってのは分かってるだろ」
「分かってる…よ。そん…なの」
六花が漏らした声はやはり震えていた。絶望し、悲しみに満ちたそれは聞いているだけで胸を握りつぶされるようにさえ感じる。そんなの声をもらす六花は一体、どれだけの悲しみを抱いているのか。きっと私では思い知れない程の感情がその胸中では渦巻いているのだろう。そして…そんな声を漏らさせて男として引き下がれるわけがない。逃がさないという意思を篭めて彼女の腕を必死に掴んだ。
「…離し…て…。今のアタシは…自分を抑えられそうにない…から」
「知るかそんなもの。ともかく落ち着け。話なら聞くから」
「っ!!」
―その瞬間、六花の顔に怒りが込み上げてきた。
どうやら私は彼女の部分の踏み込んではいけない部分に踏み込んでしまったらしい。それは何となく分かった。しかし、そうやって彼女を怒らせたのは残念だが一度や二度ではない。しかし、その度に何とか機嫌を取ってくることが出来たのだ。ならば、今回だって何とかなるだろう。…この時はまだ何処か気楽にそう考えていた。
「話を聞くだって!?今までどれだけ話をしてきたって言うんだよ!!それなのにアンタは一度だって分かってくれなかったじゃないか!!」
だが、次いで放たれた言葉に私はその考えを吹き飛ばされる。それは彼女の怒りが今まで募ってきたものの爆発である事を私に教えた。つまり…今までのような突発的なものではないのである。今までのような、彼女の逆鱗に触れたからではない。今回は逆鱗に触れたのはただの原因でしかあらず、発露させるのは今まで私に見せずに隠されてきた怒りや不信感だ。見るからに根強いそれらに私は掛けるべき言葉を見失ってしまう。
「それなのにこんなに優しくして…アタシを傍に置いてくれて…!幾らなんでも辛いんだよ!悲しいんだよ!鬼だって……鬼だって泣くんだよ!!」
そんな私に叩きつけられるように六花が言った。別に私は優しくしてきたつもりはない。傍に居るのも六花の我侭だ。本当はそう言いたかった。自分はそれだけ立派な人間ではないと言ってやりたかった。しかし、目の前で感情を爆発させる六花の勢いに飲まれて何も言えない。
「…覚悟もないのに優しくするんじゃない!半端な優しさじゃ相手を傷つけるだけだって何で分かってくれないんだよ!!」
「六花…」
―ようやく言えたのは彼女の名前をか細く呼んだだけの頼りないものだ。
六花の腕を逃がさないようにしっかり握っていた私の腕からも力が抜けてしまっていた。まさかそんな風に思われていたとは…いや、私が六花をここまで傷つけているとは思いも寄らなかったのである。その衝撃は私の五臓六腑を駆け巡り、言葉をかき消す。ぐわぐわと揺れるような鼓膜の内側では彼女の言葉が円を描き、私の思考を掻き乱していた。
「っ…!!」
きっとそんな私の姿に失望したのだろう。彼女は深い悲しみを顔に浮かべたまま、そっと夜の町へと駆け出した。それを私は追う事が出来ない。床に転々と涙の後がついているのを知ってなお、私の足は彼女を追おうとはしなかった。
―…くそ…!何なんだよ…何だって言うんだ一体…!
例え治安が良くとも夜の町は危険だ。それに昼より明るいとは言え、夜の山を下手に歩けば遭難しかねない。それらの危険を考えれば今すぐにでも六花を追いかけるべきだろう。そんな事は私にだって分かっていた。
―だけど…追いかけてどんな言葉を掛けろって言うんだ…。
彼女は傷ついていた。他の誰でもない私の所為で。そんな私が彼女に追いついて、どんな言葉を掛ければ良いというのか。きっと何を言っても偽善でしかないだろう。彼女の言う「半端な優しさ」で傷つけてしまうだけだ。
―何故なら、私は…決して優しい人間なんかではない。
とても自己中心的で自己満足の中に浸っている人間だ。誰かに優しくしているように見えてもその実、私は自己満足を充実させているだけに過ぎない。六花に対しても同じだ。彼女に何だかんだと言って付き合っていたのも、鬼にすら付き合う優しい自分に酔っていたのだろう。そんな事…自分でも理解している。しかし、理解して尚、私はそんな偽善を止められない。
―…そんな私が……彼女に何を言える?
自分の性悪さを自覚して尚、止められない自分。それから逃れられるのは全てを平等に扱う法や規則と言う元でだけである。つまり…公僕と化している朝から夕方にかけての時間だけ。しかし、今は夜の帳が下りて、真っ赤な月が天に浮かんでいる。つまり今の私は私人でしかなく…彼女に追いついても傷つけるだけだ。
―……くそ…!
無論、それが半分、言い訳であるのにも気付いていた。私だって人間だ。本気で怒った鬼を見れば、どうしても尻込みしてしまう。例え六花が見た目ほど強くはない、いや、普通の女のように傷ついたり悲しんだりすると理解していても、私の足は震えて前に出ないのだ。今まで見たどんな怒りの形相よりも力強い彼女のそれに本能的な恐怖を煽られて動けない。六花がその気になれば一瞬で私を殺せるほどの力を持っていることを思い出して足が縫い付けられているのだ。
―…くそ…!!!
もう一つ胸中で自嘲の声があがる。しかし、それでも一度、竦んだ身体は動かず――結局、私は一晩中、そこで立ち尽くし続けたのだった。
11/07/03 00:20更新 / デュラハンの婿
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