その1
―みずのせせらぎ…。
わたしが うまれてから はじめてかんじたのは そのやすらかなねいろだった。
おもわずかんかくをとじて からだから ちからがぬけてしまうおと。
そのまわりには たくさんのきがたちならんでいて さわさわと はをこすれあわせていた。
まるでわたしがうまれたことを しゅくふくしてくれているようなおとに わたしはおどった。
まわりのなかまたちも そんなわたしをいわってくれて とてもいいかんじである。
「…驚いたな。まさか誕生の瞬間を見れるとは…」
そんないいかんじをくだいたのは どこかつめたいのこえ。
からだがこわばってしまいそうなつめたいこえは いまは おどろきに みちていた。
そのこえにうしろをふりむくと そこにはしろいふくをきたおとこのひとが たっている。
きをけずりだしたつえをてにもつすがたは みたことのないものだった。
「…単純に幸運だったと思うべきか。それとも…」
「うー…!」
わたしたちの てりとりーに いきなりしんにゅうしてきた おとこのひと。
それをくちもとから きいたことのないおとがでた。
まるでけもののうなりごえのようなおとに きづいたのか。
おとこのひとはえんりょなくむけていた しせんをそっとそらした。
「…あぁ、すまない。警戒させるつもりは無かったんだ」
「うー…」
あやまることばとともにおとこのひとは つえをなげすてた。
よくわからないけれど このおとを ききたくはないらしい。
りょうてをひろげ てきいのないことを あぴーるしている。
まだちょっとしんじられないけれど つえをすてたのは きっと「あゆみより」ってやつなのだろう。
―わるいひとじゃないのかも・・・。
いきなりてりとりーに はいってきたおとこのひとに まわりはなにもいわない。
だれよりもてきいにびんかんななかまが なにもいわないということは このひとにてきいはないのだろう。
なら、あまりこのおとを ならしてあげるべきでは ないのかもしれない。
「…俺の名前はフィエロ。君は…?」
「うーうーっ」
なまえを きかれているのは わたしにもわかった。
けれど、わたしは まだまだうまれたばかりで うまくはなせない。
それに なまえもなかった。
いみはわかるけれど わたしたちには あまりひつようないものなのだ。
それを あぴーるしたつもりではあるけれど、かれにつたわっているかは わからない。
「…そうか。まだ無いのか」
「うー…」
どこかざんねんそうなようすに わたしのかたも すとんとおちる。
なぜかはわからないけど このひとがかおをくらくすると わたしもいたい。
むねのあたりがじくじくと いたみをうったえるのだ。
「じゃあ…暫定と言う事で俺が君に名前をやろう。君の名前は――」
それからその男の人は私の住処に近寄ってくれるようになりました。けれど、それは数日に一度のみ。普段は何をしているのかは私には分かりません。近くにある人里に居を構えているというのは話の流れの中で分かりましたが、まだそれ以上に踏み込めるような関係には至っていないのです。
―それに…まだまだ言葉も未熟ですしね。
まだ誕生から数ヶ月しか経っていない私は言語系が不確かで上手く言葉を話す事が出来ません。フィエロが沢山の言葉を教えてくれたり、感情の定義をしてくれたお陰で思考は大分、しっかりとしたものに変わりました。けれど、その意識の成長スピードに肉体が追いつけていないのです。私たちにとって比較的、必要無い部位である咽喉や舌と言うが成熟するのはどうしても後回しになっているのが現状でした。
―…ホント、こんな身体をしているというのにままならない事…。
揺れる葉の間から差し込む日光を掴むように伸ばした手はフィエロのものとはまるで異なるものでした。透き通った青で染められた身体。それは腕だけでなく、身体全てがそうなのです。まるで水で出来ているかのようなその印象はそれほど実態と離れているわけではありません。私の身体の殆どがそれで形成されているのは事実なのですから。
―…こんな身体なのですから少しくらいは融通を利かせてくれてもいいものを。
人間とはかけ離れた不定形なモノで作られている身体。その幾分かを私は自由に操る事が出来るようになっていました。普段は意識せずとも勝手に人型になっていますが、意識すれば指を増やす事だって出来るのです。それも自意識が成長したお陰でしょう。多少、身体の線を弄っても、揺らがない確固とした自己があって初めて可能となる技なのですから。
―けれど、そんな身体と言えども、何もかもを自由に出来るわけではありません。
何れは顔や体格まで変化させる事も可能なのかもしれません。しかし、今の私にとってはそれはまだまだ難しい事なのでした。精神の成長もそうですが…まず人体と言うものに対する理解が足りません。どうすれば咽喉や舌を上手く形成出来るのか。それは一朝一夕では到底、届かない領域なのです。
―…はぁ…早く…フィエロとお話をしたい…。
流れる水の中に横たわる私の口からは小さなため息が漏れ出ました。その胸中には何処か苦々しい感情が仰々しく横たわっています。それは恐らく「残念」と言う感情なのでしょう。まだまだ誕生したばかりで経験は足りませんが、この感情を感じるのは一度や二度ではないのです。最初は「焦り」だとも思いましたが、圧し掛かるような圧迫感はフィエロから教えられた要素からは遠いでしょう。
―そう…教えられてばっかりなのですよね…。
フィエロは何処かで勉強してきたのか、私相手にも臆さず、その豊富な知識を分け与えてくれました。けれど…それはずっと一方通行。彼から私にへと向けられるベクトルだけなのです。それは今までの私の教育にとってプラスであった事でしょう。しかし…今は決してそうであるとは言えません。その心を成長させた私にとって、フィエロに向かって感情や言葉を発する事が出来ないのが、小さなストレスの種でもあるのですから。
―もし…フィエロと話せるようになったら…何をお話ししましょう…?
そんな下らない事を考えるのが私にとってお決まりの暇潰しでした。誕生する以前まではそんな事をしようとも思わなかったと言うのに、今の私にとっては「暇」と感じる感情さえ育ち始めているのです。それもまたフィエロの教えのお陰でしょう。そう思うと清らかな水の中に身体を預けていると言うのに胸と身体が少し熱くなってしまうのでした。
―…これは何と言う感情なのでしょう…?
最近、急速に育ち始めた小さな感情。最初は向日葵の種のように小さなものであったと言うのに、私の心と身体を左右するほどに大きくなっていました。そして、今やはっきりと芽を出しているその感情は私はまだ定義する事が出来ていません。フィエロにも何度か聞こうと思いましたが、彼と顔を合わせるだけでその感情が一気に膨れ上がるのです。私の頭の中から質問しようと言う意識を吹き飛ばし、「嬉しさ」に塗り替える所為で中々、話が出来ていないのでした。
―まぁ…悪い感情ではないのでしょうけれど。
フィエロからは理性を押し流すような感情は悪いものであると教わりました。その定義で言えば、私のこの感情は悪いものなのでしょう。しかし…私にはそうは思えないのです。彼が傍に居てくれるだけで、彼が話しかけてくれるだけで、彼と一瞬でも触れ合うだけで、私の心は暖かい物に満ち溢れるのですから。
―フィエロ…。
数日に一度、山奥にあるこの水源地まで足を運ぶ奇特な人。そして、その度に貴重な紙や本を使って、私に様々な事を教えてくれる恩人。そんな人の名前を心に浮かべるだけでトクンと胸の辺りが高鳴るのです。不定形な液体で象られている私には心臓など存在しないと言うのに、まるで人間のように、胸の辺りに甘い感覚が走るのでした。
「嬉しそうですね」
そっとその甘い感覚に惹かれるようにそっと胸元を押さえた私に仲間の声が届きます。ふと周りを見れば、仲間達が私を覗き込んでいるのが分かりました。まるで観察する様な彼女らの様子に私はそっと顔を歪めて応えます。人間で言う笑みの形に顔を変えた私は胸中で言葉を紡ぐのでした。
「えぇ。勿論♪」
「そんなにあの人と会えるのが嬉しいのですか?」
言葉そのものとは裏腹に、仲間の声にはからかう様な意図はまるでありません。ただ単純に純粋な興味として聞いているのでしょう。それが分かっているが故に私もまた素直に応える事が出来るのです。
「今からでも『待ち遠しい』くらい…♪」
「……そうですか」
少しだけタイムラグがあったのは何かを考え込んでいたと言う事なのでしょうか。そんな事が一瞬、頭の中を過ぎりましたが、仲間達に限ってそれはあまり考えられない事でしょう。私もそうだったから分かるのですが、基本的に私たちの根は単純なのです。その根っこにあるのは基本的には何かの興味と人間への親愛だけで、それ以外の何かに割かれる事は殆ど無いのですから。
「それは貴女も同じでしょう?」
「…頭の中を覗くのはマナー違反ですよ?」
冷たい仲間の言葉に思わず頬を膨らませて反論してしまいます。勿論…それはある種、仕方の無い事なのでしょう。まだまだ咽喉の形成を終えていない私と仲間の会話は意識の上で行われているのです。それは便利である反面、相手にもモノローグが筒抜けになってしまうのでした。勿論、それは一方通行ではなく、今の私にも仲間の考えもちゃんと流れ込んできています。だからこそ、さっきもからかわれている訳ではないと分かったのでした。
―でも……だからと言って良い気がするかというと…答えは否でしょう。
しっかりとした自己を確立し始めている私にとって、考えが筒抜けであると言うのは何よりの羞恥であるのです。人間に近い思考回路を築き始めている私にとってそれは耐え難い事なのでした。それに…仲間の思考が伝わってくるとは言え、基本的に彼女らは思ったことをそのまま口にしているのです。けれど…私には勿論、本音も建前と言う奴もあって……フェアではないような気がどうしてもしてしまうのでした。
「流れてくるのだから仕方ないじゃありませんか」
それら思考の流れも仲間達に伝わっていたのでしょう。一人が私のとても痛い所を突いて来ました。確かに…これしかコミュニケーションの手段がないので仕方ないと言えば仕方ないのです。それは…私にも分かっていました。しかし、私はもう理屈で感情全てを捻じ伏せられないのです。昔のように二分論でのみ考えている事はもう私には出来なくなっていました。
「…それでも見て見ぬ振りをするのが淑女の嗜みと言う奴ですわ」
「…理解不能。さらに…一つ付け加えるなら、貴女自身、そんな事を言っていますが、一日中、彼の事を考えている人が到底、淑女とは思えません」
―この…っ!!
付け加えると言いながら、人の痛い所をズケズケと突いてくる仲間に握り拳を作ってしまいます。そのまま子供のようにぶんぶんと左右に振り回すと仲間達は無言になりました。流石に子供のような癇癪にまで付き合ってられないと思ったのでしょう。最後に伝わってきた言葉もおおむね、そんな感じの内容が殆どでした。
―…ふぅ……。
蜘蛛の子を散らすように逃げていった仲間を見ながら、私は小さくため息を吐きました。勿論…私にだって自分の感情が子供のような幼稚なものであると理解しているのです。しかし、今まで感情と言うものと無縁であった私は、それを上手く制御する術を知りません。怒ったのであれば、それをストレートに表現するしか発散する方法を知らないのです。それが私の心を暗く、沈みこませていました。
―参りましたね…どうにも。
こうしてこの世界に自我を持つものとして生まれた私にとって、『ヒト』のような感情を持つのは一種の憧れでもあるのでした。最初からそれを持っている『ヒト』には何を言っているのだと言われてしまいそうですが…迸る様な強い感情は私達には無いものです。無論、ある程度は私達も感情を持ち、それを理解する術を持っていますが『ヒト』にはどうしても及びません。
―…それに…近づいたはず…なんですけれどね。
フィエロの教えのお陰で私はより人間に近い感情を理解し、造り出せるようになりました。しかし、あくまでそれは造れるようになっただけなのです。未だ感情をきちんと扱う術を知らない私は暖かい感情だけでなく、悪い感情もまたストレートに示してしまうのでした。
―…まだまだ未熟ですね。
フィエロに教えを乞うようになってから数ヶ月。その間、自分なりに彼の講義に着いて来たつもりではありましたが、まだまだ『ヒト』に近づくのは難しいようです。数え切れないほどの課題が山積みとなって私の目の前に載せられているのですから。それらは何れ片付けることの出来る代物でしょうが、我慢を知らない私の心はやはりどうしても『今すぐ』と成果を求めてしまうのです。
―…『ヒト』に近づいたら近づいたで…色々、苦労があるものですね。
昔の私という感覚はもう忘却の彼方に置き去りにされてしまいましたが、今の形になればもっと幸せになれるものだと思っていた気がします。しかし、現実はそれとはまったく違い…出来る事が増えた分、より窮屈にも感じてしまうのです。勿論、フィエロと出会ったり、今の姿になってから素敵な事は沢山、ありました。しかし、その分、苦労もまた増えてしまった訳なのです。それにズシンと心の中に圧し掛かるような重苦しい感覚を味わって、私は大きな溜め息を一つ吐きました。
―……ん?
そして、その瞬間、見覚えのある感覚が私達のテリトリーへと近づいてくるのを感じます。何時ものルートを通って、何時ものように力強く歩いてくるその感覚は…私にとってとても嬉しいものでした。その足音一つ、身振り一つを感じるだけで、心の中が踊るように浮きだって止まらないのです。身体もまた同じように踊りだしたくなる気持ちと共に私はザバリと水の中から起き上がり、その小さな物音の方へと駆けて行くのでした。
―そのまま緑を掻き分けるようにして森の中を進んで…そしてっ♪
「うーっ☆」
「う、うぉぉっ!!」
目の前に見えた染み一つ無い白に向かって、思いっきり飛び込んでいくのです。まるで水の中へと飛び込むように受け止めてくれるという絶対の信頼感を持ちながら。それに私の待ち人――フィエロは確かに応えてくれて私の身体をぎゅっと抱きとめてくれました。その声は驚きに彩られていますが、毎度、飛び込んでいる所為か腕ががっちりと私を受け止めてくれているのです。まるで身体中をフィエロの熱で包まれる感覚に私の胸は歓喜し、舞い上がっていました。
「…こら、うー。いきなり飛び込んでくるのは危ないって何時も言っているだろう?」
「うー…」
叱られるように言われるのも勿論、一度や二度ではありません。いや、出会うたびに何時もであると言っても良いでしょう。勿論、私だってこの行為がイケナイ事であるのは多少、理解していました。しかし、フィエロが近くに来てくれていると、そう思う度に私の心は理性とは別に動いてしまうのです。まるで私とは別の価値観に操られるようなそれは時に私の身体のコントロールさえ奪ってしまうのでした。
―…まぁ、今回は私の意志と同調したのでしょうけれど…ね♪
媚びの浮かぶ思考でそう思いつつ、私はそっとフィエロの身体に意識を向けました。洗い立てのように真っ白なシャツと白衣には染み一つありません。しかし、それとは対照的にその下に着込んでいるなめした皮のズボンには傷が目立っていました。既に結構な年数を着込んでいるのでしょう。山へと登ることも多いフィエロのその服には経年劣化だけではない傷も多いのです。今にも破れそうなズボンですが、フィエロはここに来る度に何時もそれを着ているのでした。
―…また新しい傷……。
一体、どういうルートでここに来ているのか、フィエロのズボンは来る度に新しい傷を刻んできているのです。そっと肩から羽織った白衣やシャツ、そして背負っている大き目のリュックには草の染み一つ無い癖にズボンだけはこうなのですから本当に訳が分かりません。茂みの中を強引に突っ切ったりしていても、ズボンだけに傷がつく…なんて状況にはならないでしょう。それが私にとってはちょっとした謎であり、質問できるようになったら聞いてみたいことでもあるのでした。
―…んー…草の匂い…っ♪
そんな気持ちを胸に思いっきり息を吸い込んでみると嗅ぎなれた草の匂いがそっと私の鼻腔を擽るのです。声帯以上に未発達な私のその部分でも感じ取れる匂いはそれだけフィエロの身体に染み付いていると言う事なのでしょう。そう思うと嗅ぎなれている筈のそれがちょっとだけ特別に感じられて、私の胸を暖かくしてくれるのです。
―ふふ…♪これも…もっと成長すれば…何でこんなに特別なのか分かるのかしら…?
今の私にとって、それがどうしてこんなにも胸を暖かくしてくれるのかは分かりません。けれど…もっと成長すれば、感情面でも身体面でも、もっと『ヒト』に近づければフィエロの匂いと言うだけできゅんと甘い痺れのような感覚を走らせるのが分かるのでしょうか。それもまた…自分の声で何時かフィエロに質問したい事であるのです。
「ほら、とにかく離れろ。このままじゃ歩けないだろう?」
「うー…」
そんな私を引き剥がそうとフィエロの手が私の頭をそっと撫でてくれるのです。強い言葉とは裏腹に、その手つきはとても優しく、思わず目を細めたくなってしまうくらいでした。つれない物言いをする事が多いのですが、フィエロは基本的には優しい人なのです。その手つきに現れている通り、どれだけ乱暴なことを言っても無理矢理、私を引き剥がそうとはしません。
―…だから、どうしても甘えたくなってしまうのですよね。
優しい手つきに離れたくないとばかりに私の腕にぎゅっと力が篭りました。そして、まるで子供がダダをこねるようにしてグリグリと頭を押し付けるのです。勿論、そんな風に我侭を示すのは一度や二度ではありません。感情の育った私にとって、それはある種、フィエロと出会う度に行う恒例行事のようなものなのです。
―…だって離れたくないんですもの。
この前にフィエロがここに来てから既に三日も経っているのです。その間、私がどれだけ寂しい思いをしていたことか。勿論、私の周りには今も仲間達がいて興味深そうにその様子を観察していますが、それで埋められるような感情ではないのです。どれだけ仲間と意思を交わしても、決して埋まらないその溝はフィエロでしか埋まらないのですから。
―…だったら、その溝を早く埋めてもらわないと…お勉強に集中できません♪
そして、その為にはこうしてフィエロに抱きついてその体温を感じるのが一番なのです。何もかも投げ出して子供のようにフィエロに甘える瞬間が、最もその寂しさを埋めてくれるものなのでした。
「…まったく。この甘えん坊め」
「うー☆」
そんな私に呆れたように言いつつもフィエロは無理矢理、引き剥がそうとはしません。それどころか小さな子供のような身長の私をそっと抱きかかえてくれるのです。真正面から抱きついた私をあまり逞しいとは言えない胸板で抱きかかえながら、一歩二歩と水源地へと近づいてくのでした。
―…えへへ♪
そして、その瞬間が私にとってとても嬉しい時間なのです。こうしてフィエロと密着しながらその全てを委ねるようにして運ばれる感覚。それが私の心の大事な部分を擽って止まりません。まるで私の本能的な部分を刺激するようなそれに私の胸はトクンと脈打ってしまうのです。勿論、私の身体には血液が流れてはいませんからそれはきっと気のせいなのでしょう。しかし、胸の底から湧き出る甘い感覚を全身に行き渡らせるような強い衝動は決して気のせいとは思えません。寧ろ、今の私にとって何より大きなリアルさを伴っているそれは私の全身を強く喜ばせているのです。
「ほら、着いたぞ」
「…うー」
しかし、そんな幸せな時間は何時までも続いてはくれません。元々、フィエロは私の意識が届く範囲にまで近づいてきていたのですから。直線距離にしてもう数百メートルもないでしょう。勿論、あまり体力がある方だとは言えないフィエロが小さな子供程度の体重を持つ私を抱きかかえているのですからその歩みは多少、遅くなっています。しかし、それでも終わりのときを永遠に引き伸ばす事など出来ません。数分も経った頃にはさっきの水源地で私は運ばれてしまったのです。
「うー…いい加減、我侭言うのを止めないと怒るぞ」
「…うー」
名前をはっきりと呼ばれて凄まれたら私とて言う事を聞くしかありません。それに…少しだけですがフィエロの事を堪能したのです。まだまだ満足には程遠いですが…彼もまた忙しい身。それを押して来てくれているのですから、あんまり我侭ばかり言っていると呆れて二度と会いに来てはくれないかもしれません。それらの事を考えればここらが潮時と言う奴でしょう。
―…それでも…まだちょっと名残惜しいですが…。
しかし、これ以上、フィエロに迷惑を掛けるわけには行きません。そう決心した私はそっとその背中に回していた手を離しました。ゆっくりと二人の間に間が出来て、空気が入り込んでくる感覚は何時味わっても寂しいものです。まるで二度と出会えないような別離の感覚にじくりと胸の辺りが痛むのを感じながら、私はフィエロから素直に離れたのでした。
「よし。良い子だな」
「うー♪」
そのご褒美と言わんばかりにフィエロの手が私の頭でぽんぽんと跳ねました。まるで身長差を強調するような子ども扱いですが、そんな触れ合いにも私の心は喜んでしまうのです。もし、私に尻尾があれば、構われたことそのものが嬉しい甘えたがりの子犬のように左右に触れていた事でしょう。
―…尻尾…か…作ってみようかしら。
フィエロは勿論、ある程度は私の仕草などから意思を読み取ってはくれますが、それでも絶対と言うわけではありません。私の仲間のように心まで読み取ることが出来ない以上、どうしても情報に齟齬が出てくるのです。勿論、それは『ヒト』の醍醐味と呼べるものなのでしょう。しかし、まだ言葉を上手く扱えず、誤解を解く手段が少ない私にとって判断してもらう要素は大いに越したことはありません。
―…まぁ、考えておきましょうか。それより…今は…♪
フィエロが折角、ここまできてくれたのです。その機会をしっかりと活かす事が『ヒト』へと近づく第一歩でしょう。そう思った私はそのままくるりと身を翻して、大きな切り株の脇へと座りました。フィエロが魔術で切り開いたそこは私達のちょっとした勉強の場として活用されているのです。残念ながら椅子はありませんが、私にとって特に必要はありません。問題はフィエロの方ですが、彼も本の虫なのか一度、講義を始めると凄い集中力を見せるのでした。
「うーっ♪うーっ♪」
「はいはい。分かってるから」
ついさっきまで甘えていたと言うのに、もうやる気を出した私に呆れているのでしょうか。その顔を苦笑いに近いものに変えながらフィエロはそっと近づいてくれました。そのまま何時もの定位置にそっと腰を下ろして、背負っていた革のリュックを下ろします。そのまま中をさっと開いて、幾つかの本と貴重な紙を私の前に広げてくれました。
「それじゃあ、今日も淑女目指して頑張るか」
「うーっ♪」
フィエロの宣言と共に私たちは勉強へと没頭していきます。まずは単純な情緒の教育から、道徳の観念。それからちょっとした魔術の応用技術などを中心に展開していくのです。フィエロは元々、何処かの研究機関にでも所属していたのか教えるのが本当に上手でサクサクと講義が進んでいくのでした。フィエロから言わせれば、私もまた「水のように教えた事を吸収してくれているから教え甲斐がある」らしいですが…自分では余り自覚が無いので分かりません。
「…ふぅ。そろそろ休憩するか」
「うー…」
けれども、私とは違い、フィエロは永遠に体力が続くわけではないのです。特に教える側と言うのは教わる側よりも多くの事に気を使わなければいけません。自然、その講義はどれだけぶっ続けであっても三時間も続かないのです。途中に休憩を挟まなければ、フィエロの体力と気力が尽きてしまうのですから。
「うー♪」
「ん?」
そんなフィエロの身体に抱きついて、そっと全身を包み込んであげるのでした。元々、不定形な水に近いもので形作られている私は意識すればこうして元の性質に近い姿になれるのです。ずっと座りっぱなしであったフィエロの身体を慈しむように包み込み、腕やお尻を重点的にさわさわとマッサージし始めました。無論、マッサージすると言う事は密着すると言う事であり、私の身体にも心地良いフィエロの熱や逞しさが跳ね返ってくるのです。私よりも遥かに大きいフィエロの身体から伝わってくる感覚は逆に私が包まれているようにも感じるのでした。
「…う…ぅ」
私に敵意がないと分かっているからでしょうか。身体の半分を飲み込まれ、包み込まれていると言うのにフィエロは何の抵抗もしません。寧ろ心地良さそうに私に身体を預けてくれるのです。それは紛れも無く彼の信頼の証でしょう。そう思うと私の胸の奥からもっとフィエロを気持ち良くしてあげたいという気持ちが沸き上がって来るのです。
―どうすれば…これ以上、気持ち良くなってくれるんでしょう?
しかし、知識としてどうしてもフィエロの後追いになってしまっている私はこれ以上に気持ち良くなってくれることを知りません。このマッサージも自分から察したのではなく、フィエロから教えてもらったことなのです。そこから自分なりに色々と試してみて、今の形に変わってきてはいますが、そのアイデアの源泉が彼であると言う事は変わりません。
―…やっぱり私は『ヒト』とは違って何かを作り出すことなんて出来ないんでしょうか…。
勿論、私達だって人間には出来ない事を幾つか可能ではあるのです。今のフィエロを包み込んでいる液体の身体もその一つでしょう。けれど、『ヒト』に憧れて今の形になった私としてはそれは決して誇らしいものではないのです。彼を気持ち良くさせていると言うのは喜ばしい事ではありますが、それは自分で考え、思いついたものではないのですから。その動機こそ能動的ではありましたが、あくまで教わったことを受動的に繰り返しているだけに過ぎないのです。
―でも…フィエロは…そんな私に多くの事を教えてくれています。
それも上から目線で教え込むだけではありません。私の成長に合わせて、少しずつ答えを聞き出すものへと変えてきてくれているのです。道徳の時間では、答えが決して一つではない質問も飛び出るようになりました。それらは…彼が私に多くの事を期待してくれている証なのでしょう。そう思うと…ここでへこたれる訳には参りません。フィエロが私を見放すまでは…彼の為にも努力を続けなければ失礼にあたってしまうでしょう。
―…でも、フィエロって本当に何者なんでしょう…?
初めて会った時には多少、警戒もしていましたが、今はもう仲間たちにも完全に受け入れられているのです。一度だけ見た魔術も見事なものでしたし、本来は魔術師であるのかもしれません。そうであれば、こんな山奥にまで足を進めている理由も幾らか分かるのです。しかし、それでもこうして私に勉強を教える理由など無いでしょう。
―…それにもっと気になるのは…私は普段、フィエロが何をしているのかさえ知らないのです。
この近くにある人里に住んでいるというのは彼の口から聞いた事があるのです。しかし、そこでフィエロがどんな仕事をして、どんな生活をしているのかはまるで伝わってきません。私の知っている彼はこの閉じられた世界の中の、閉じられた一面でしかないのです。それが何処か悲しくて、私はそっと目を伏せました。
―…フィエロ。貴方は…一体…誰なのですか?
私の知るフィエロと言う男性は良い教師であり、いないと寂しい存在であり、ぶっきらぼうな物良いの割りに優しい人であるのです。まるで満月のような透き通った白銀色の髪を肩の辺りで縛っているのが冷たい雰囲気に纏まっている容姿と相まって素敵な男性で、その海の底のような深い蒼い双眸は見つめられるだけでも胸を掴まれているように感じる方なのでした。すらりと通った鼻筋も細いラインを描く頬から顎のラインも男らしさの中に美しさを共存させています。男らしいよりも美しいと言う言葉がまず出てくるフィエロの身体はお世辞にも鍛えられているとは言えませんが、この山奥に汗だくになりながらやってきてくれる程度の筋力をつけていました。その白衣の下にある肢体を見たことがありませんが、こうしてマッサージの最中に感じられる肉の着き方から察するに昔はそれなりに鍛えていたのでしょう。
―…でも、それはあくまで一面でしかありません。
私は彼のルーツとも言える過去も、ここにいるという目的も、何もかもを知らないのです。まるで意図的にそれを私に教えまいとしているかのようにフィエロはそれを語ってはくれません。彼から齎される貴重な紙を余り無駄な質問で埋めたくは無いのでまだ聞いてはいませんが、こうした雑談の時間でさえ私に語ってくれないのは彼が言いたくないからなのでしょう。その程度の情緒と感情に対する理解は私の中で進んでいるのです。
―…何時か語ってくれるでしょうか…。
いえ…今は無理でも何時かは…何時かはその口から彼の過去や目的を聞けるように努力を積み重ねていく。それが…これからの私に必要なことでしょう。ただ漠然と『ヒト』に近づきたいが故に勉強しているだけではいけないのです。目標を達成する為の技術や手段として知識を積み重ねていかなければなりません。少なくとも…今のままではフィエロに恩返しすることも、その心に踏み込むことも出来ないのですから。
「…ふぅ。もう良いぞ。そろそろ続けないとな」
「うー……」
そんな風に私を決意させた人はその冷たい双眸をそっと微笑みの形に歪めて頭の辺りを撫でてくださいました。そんな優しい仕草で頭を撫でられると私も嫌とは言えません。大人しくフィエロの身体を解放し、元の人型へと戻りました。そして、さっきと同じ場所に座って再び広げられた本の中に目を落とします。けれど、中々、その内容が頭の中に入ってはきません。さっきフィエロの事を考えてしまった所為で集中が途切れてしまったのでしょうか。どうにも彼の事がチラついて、思うように集中できないのです。
「それじゃあさっきの続きから行くか」
「うー…」
そんな私の様子に気付かずにフィエロは筆を取って、熱心に講義を再開しました。それに内心、焦りを感じながらも、一度途、切れた集中力は戻ってはくれません。寧ろ焦りを感じれば感じるほど、斜面を滑り落ちるようにして集中から遠ざかっていくようにも感じるのです。
「以上の事から今も精霊使いを目指そうとする魔術師は多い。だが、地位や名声の為に精霊と契約しようとする『道化』のような魔術師の前に精霊が現れる事はない。魔術によって呼びかければ力くらいは貸してもらえるだろうが、それだけだ。彼女らにとって真に信頼できるものの前にこそ精霊は現れるのだからな」
そんな私にフィエロは一生懸命、様々なことを教えようとしてくれていましたが、その殆どが右から左へと抜けていくのでした。今もこうして精霊の現在の問題について論じてくれているというのに、その内容そのものよりもフィエロの顔が気になってしまうのです。まるで強く憤るような、苦々しいような形容しがたい表情は見覚えのあまり無いものです。彼もまた…その『道化』と呼ぶ魔術師に嫌な思い出でもあるのでしょうか。…それなら是非ともそれを話して欲しい。そんな考えがちらついて、フィエロの話に集中できません。
「お前もそんな連中には近づかないようにしておけ。…さて、今日はここまでにしようか」
そうフィエロが言ったのは日も落ちて辺りが暗くなり始めた頃でした。昼前から始めた講義ですから、既に数時間が経過していることになります。しかし、その歩みは決して順調とは言えませんでした。結局、最後の最後まで集中できなかった私は殆どその知識を増やすことが出来なかったのです。
―…フィエロに無駄足を踏ませてしまうなんて…。
普段はもっとしっかりと勉強に取り組むことが出来ている筈なのです。フィエロの事を考えていても、いざ勉強となるとしっかりと意識を切り替えることは今まではそう難しいことではありませんでした。しかし…日に日に彼への暖かい感情が募ってきているからでしょうか。今日の後半はまったく集中できないまま、長い時間と無駄に過ごしてしまったのです。
別に私はそれでも構わないでしょう。私は無限にも近い生を手に入れたのですから。ほんの数時間の無駄など微かなものです。それに時間を無駄にしたのは私の自業自得なのですから何かを言える筋合いはありません。
―けれど…フィエロは…。
何をしているのかまでは知りませんがフィエロが何かの研究をしていているのくらいはその格好から分かります。それが何かまでは未だ聞く事は出来ていませんが、私に構っている時間はそれほどないでしょう。しかし、そんな時間の合間を縫って、フィエロはこんな山奥にまで足を運んで私に様々なことを教えてくれているのです。けれど…私はそんな彼の時間を無駄にしてしまった。彼の好意を無駄にしてしまったも同然の結果を招いてしまったのですから。
「…どうした?何かあったのか?」
「うー……」
そんな風に自分を責める私にフィエロが優しくそう言ってくれました。けれど…私はそれを上手く表現する術を知りません。咽喉はまだまだ形成の途中ですし、感情的にもどう現せば良いのか分からないのです。言葉でも伝えられるか怪しい今のもやもやとした感情を文字で表現するのはさらに至難の業でしょう。結局、私は上手くフィエロに今の気持ちを伝えることが出来ず、小さな呻き声を上げてしまうのでした。
「…うー…うー……っ」
「…すまん。分からないんだ」
そっと申し訳なさそうに目を伏せるフィエロの姿にズキリと胸が痛みました。だって、彼がこんな風に自分を責める必要は何処にも無いのです。悪いのは集中できなかった私で、それを上手く表現できない私なのですから。悪いのは全部、私であってフィエロには何の責任もありません。しかし、目の前の教師はまるで私が上手く表現できないのを自分の責任のように受け止めて、その端正な顔を暗く染めるのです。
―やだ…っ!そんな顔…見たくありません…っ!!
私の所為でフィエロが自分を責めている。その感情は痛みと呼ぶには激しすぎる衝撃となって私の胸を打ちました。まるでハンマーか何かで思いっきり叩かれたようなそれは私の目尻とじわりと溶かし、小さな涙を形成します。まるで本物の『ヒト』のように零れ落ちる涙は私だって制御できないものでした。まるで…『ヒト』が持つ生理現象のように、何もかもを思い通りに出来る筈の私の身体から溢れて止まらないのです。
―泣きたくない…っ!泣きたくないのに…っ!!
しかし、未熟な私の心はどれだけそう思っても後から後から感情を湧き上がらせてくるのです。抑えを知らない未熟な私の心は私の意思を離れて勝手に身体を動かしていました。本来はそんな機能など必要ないはずなのに、まるで自分の感情を伝えるように涙のような液体を目尻から流し続けているのです。
「…うー」
そんな私の目尻をフィエロは名前を呼びながらそっと拭ってくれます。手の甲でそっと拭ってくれる仕草は、とても優しいものでした。それに私の胸が暖かくなりますが、そんな優しい人を追い詰めているのも私であるのです。その感情に思わず胸を鷲掴みにされるように感じながら私の目尻からまた小さな涙が零れるのでした。
「うー…泣かないでくれ。俺は…お前の泣き顔を見たいんじゃないんだ」
フィエロは目尻を拭いながら、そっと頭も撫でてくれました。まるで泣きじゃくる子供をあやす様なそれに私の心が少しずつ落ち着いていきます。やはり…私はまだまだ『子供』と言う事なのでしょう。癇癪の様に泣き出したとしても、フィエロの優しい手には敵いません。まだまだ心の中には自責と後悔の感情が渦巻いていましたが、それを涙と言う形で表現しなくはなりました。それに内心、安堵の溜め息を吐きながら、私は濡れた目でそっと彼を見上げます。
「何、調子が悪い時もあるさ。俺だってどうしても集中できない時くらいある」
―フィエロ……。
そう慰めるフィエロの顔は何処か遠いものを見ていました。私ではなく、その向こう側にある何か遠いものを。それはきっと彼の過去に関係するものなのでしょう。しかし、今の私にはそんな彼に踏み込む勇気も、資格も、言葉も足りません。目の前で遠い羨望を見つめたフィエロの言葉に小さく頷くしかないのです。
―…勿論、それはとても悔しいことでした。
私がもっと『大人』であればフィエロの過去に踏み込めるのかもしれない。私がもっと『大人』であれば彼にそんな表情をさせなくて済んだのかもしれない。私がもっと『大人』であれば、フィエロに頼ってもらえたのかもしれない。しかし、現実の私は急成長する精神に様々なものが追いついていないのが現状です。経験的に情緒を理解できるようにはなりましたが、それを制御する術も、また上手く発散する術も知りません。そんな私がどうにも不甲斐なくて、さっきの自責と共に大きな重石となって私の心に圧し掛かるのです。
「…うー?」
「うー…」
その重苦しい感情に押しつぶされるように俯いた私の顔をフィエロはそっと覗き込んでくれました。優しげな光を宿す双眸はもう遠いものを見てはいません。しっかりと私を射抜き、見つめ、心配してくれているのです。そんな彼にまたトクンと胸が脈打って、私は彼へと抱きついてしまいました。
「…まったく甘えん坊だな、お前は」
呆れたような言葉は優しく私の心に響いてくれました。フィエロの性根はとても優しい人ですから当然でしょう。そのまま私の頭を撫でる手も、背中を抱きとめる手も、とても優しく暖かいものなのです。その心を示しているような暖かさに私は重苦しい感情から逃避するようにそっと思考と身体を預けました。
「うー…♪」
「まぁ…泣き止んでくれたのは嬉しいけどな」
ぶっきらぼうに付け加えながら、フィエロは彼の胸板に顔を埋める私の目尻を最後にそっと拭ってくれました。彼の言葉で止まった涙はもう頬を濡らす事はありません。その痕跡も彼の手で拭い去られた今、何の気兼ねなくフィエロの身体に抱きつくことが出来るでしょう。それは私の心を押し潰そうとする重苦しい感情からの逃避ではありますが、だからこそ、素直に歓喜の念を抱ける事でもあったのでした。
「ただ…そろそろ離れてくれないと時間が…」
フィエロの言葉にそっと空を見上げれば、黒ずんだ色が広がっていました。私が泣いている間に結構な時間が経ってしまったのでしょう。もう夕方ではなく、夜という表現が相応しい空がその証拠です。それに私は小さな胸の痛みを感じながらも、フィエロを手放しませんでした。
―だって…このまま帰るなんて危険です。
金色の光が木々の間から差し込んでくるとは言え、日中とは比べ物にならない暗さです。淡い月光は闇を振り払ってくれますが、日の光のように駆逐してくれるほどではありません。日が出ているときとは距離感も見え方も何もかもが違うのです。そんな場所を見るからに山歩きに慣れていないフィエロが帰るのは危険としか言い様がありません。最悪、遭難して崖から転落…と言うのも考えられるでしょう。
―…そんなの…私は我慢出来ません…っ!
勿論、フィエロがこんなに遅くまでここにいたのは私の勉強の進みが遅かったり、その事で泣いたのが原因です。けれど…だからと言って彼が大怪我をするかもしれない可能性を見過ごせるはずがありません。自分を責める気持ちはありますが、今の私にとってそれは二の次に置かれるものでした。まずはこの暗い中、フィエロを帰す訳にはいかないと必死に彼の体を抱き締めるのです。
「…うー。放してくれないと帰れないんだが…」
「うーっ!うぅーっ!!」
聞き分けの無い子供のようにイヤイヤを繰り返す私に諭すようにフィエロが言いました。けれど、私にはフィエロを帰すつもりなどないのです。例え何を言われてもその身体だけは放すまいと必死に腕をがっちりと繋げます。人のような手ではなく一本の輪になった私に抵抗を諦めたのでしょうか。彼は小さく溜め息を吐きながら、私の頭をそっと撫でてくれました。
「…またすぐに来るから。…な?」
「うー…」
子供に言い聞かせるようなフィエロの言葉に少しだけ心が動きそうになってしまいました。けれど…別に私は彼との別離が寂しいからこんな我侭を言っているわけではないのです。まぁ…その気持ちもちょこっと…いや、かなりあるとは言えるかもしれませんが、その根っこはフィエロを心配するものなのですから。寂しいと言う気持ちは確かにありますが、それは二の次、三の次なのです。えぇ。絶対!
「…参ったな」
私にフィエロを手放すつもりは無いと言う事を理解したのでしょう。もう一つ小さな溜め息を吐いて、彼がぽつりとそう言いました。本当に困ったような――心の底から困り果てたような声に胸がズキリと痛みます。彼だって別に私に意地悪をする為に帰ろうとしているわけではないのでしょう。帰ってからやりたい事やしたかった事もあったはずです。その上…そもそもの原因は私で…私がちゃんと集中できてればこんな風に彼を困らせることもありませんでした。それでも私は退く訳にはいかず、胸を押し潰そうとする重苦しい感情と波と戦いながらぎゅっとフィエロを捕まえ続けたのです。
「…分かった。分かったってば。流石にこの暗さじゃ帰るのは難しそうだしな」
そんな私に根負けしたのでしょう。私の頭を撫でながら、彼が敗北宣言をしてくれました。まさかこんな簡単に自分から折れてくれるとは思わず、私は信じられない気持ちでフィエロの顔を見上げます。そこには私の予想したような怒ったような表情はありません。諦めに近い――けれど、困ったものとは違う笑顔があったのでした。
「この暗さじゃ遭難してもおかしくないしな。それが分かってるからうーは引き止めたんだろ」
「うー♪」
私の心を理解してくれていたフィエロの言葉に私はそっと頷きます。その心は自責を隅へと追いやる勢いで歓喜に満ちていました。当然でしょう。私の我侭を理解し、彼がここに残ってくれると言っているのですから。私の真意を理解してくれていただけでも嬉しいのに、それを受け入れるとまで言ってくれているのです。我侭を言っていた私自身、そこまで期待していた訳ではありませんでした。けれど、彼は私の期待を遥かに超えて、我侭を受け入れてくれたのです。それが私にとっては液体の身体を震わせるほど嬉しいものでした。
「とは言え…流石に食事とベッドを用意しないと…な」
「うー」
困ったように辺りを見渡すフィエロの視界には恐らく地面から突き出る木々と苔の生えた石が目に入っていることでしょう。山奥の水源地にあるここはそれ以外は殆ど存在しないのです。私や仲間たちにとってはそんな環境でも十分でしたが、『ヒト』であるフィエロはそうもいきません。まず彼は食事を必要としていますし、寝る場所だって硬い地面や石しかないここでは厳しいでしょう。私達にとってはここはとても居心地の良い場所ではありますが、『ヒト』にとっては必ずしもそうであるとは限らないのです。
「まぁ…まずは食事だな。流石に…ちょっと腹が減った」
そう言ってフィエロは誤魔化すように微笑みました。思い返せば彼は昼前からこの水源地に来てくれていたのです。何時から彼が出発したのかは定かではありませんが、きっと朝食を食べてすぐには人里を出たのでしょう。ここに着てからも昼食を食べている姿を見たことがありませんし、食事を抜いていてもおかしくはありません。それは私の勉強の為か、他に理由があるのか。それさえも分かりませんが、ともあれフィエロが御腹を空かせているのだけは事実でしょう。
―じゃあ…食事の出来る所に案内しないといけませんね。
私だって生まれてから数ヶ月、ずっとこの水源地に引きこもっていたわけではありません。フィエロが来ない暇な日は何度か『冒険』と言う奴をしたことがあるのです。この水源地に帰って来れなくなると彼と二度と会えなくなる様な気がしてそう遠い所まで出かけた事はありませんが、美味しそうな果実をつける木々は何本か見つけていました。
―フィエロもそれを美味しいと言って食べてくれていましたし。
以前、それをもいでフィエロにプレゼントした時には嬉しそうに食べてくれていたのです。私にはその果実の正式名称は分かりませんが、喜んで食べてくれたと言う事は『ヒト』にとっての食べ物になると言う事でしょう。ならば、そこまで行けばフィエロの食事を確保できるのです。そう思った私は以前、見つけた木々への道を頭の中で思い浮かばせました。
―この距離ならば…いけますかね。
直線距離にして五分足らずの距離にある一本の木に果実がなっているのを思い出した私は腕を元の状態に戻します。そして、人型になった手でフィエロの手を繋いで一歩二歩と歩こうとしました。
「うーっ♪」
「ん?…あぁ、この前の果物か。案内してくれるんだな」
その意図を理解してくれたのでしょう。必死で彼を引っ張ろうとする私の力に抗わず、彼もまた足を踏み出してくれました。そのまま一歩二歩と私の先導に従うように歩いてくれるのです。
それは私にとっては初めての経験でした。今まではずっとフィエロが私の前に立って先導し、導いてくれていたのです。甘えるのも何時も私の方からで彼の側からではありません。それは年齢差を考えれば正しいことなのでしょう。急激に成長したとは言え、私はまだまだ生まれて数ヶ月。フィエロの詳しい年齢は分かりませんが、十代という事は無いでしょう。冷たささえ感じさせる大人びた表情は三十代に入っていてもおかしくはありません。生まれて一年も経っていない赤ん坊と20から30の男盛りの男性。その二人が並び立てば自然と前者が後者に甘えると言うのが正しいでしょう。
―でも…♪
今の私はこうしてフィエロを導く側にあると言うのに大きな歓喜を感じているのです。しかも、それは今まで感じたものとはまるで色が異なるものでした。今までのような強い信頼感と安心感を伴ったものではなく、身体…特に下腹部に熱を灯すような物なのです。それがなんなのか私にはまだ分かりません。胸のわき踊る感覚から歓喜と表現しましたがもしかしたら別の物の可能性もあるでしょう。しかし…決して悪い気分ではありません。浮ついた気分が身体を軽くするのさえ、今の私には歓迎するものであるように感じるのです。
―もしかしたら…私はこっちの方が好みなのかもしれませんね…♪
誰かを――いえ、フィエロを先導し、彼の役に立つという事。その歓喜は今までのものよりもストレートに私の心に受け止められるのです。ずっと『される側』であったフラストレーションが解放されたのも強く関係しているでしょうが、それを差し引いても大きな感動でした。もしかしたら、私は尽くす事に喜びを感じるのかもしれない。そんな事を考えるくらい、私にとってそれは衝撃的であったのです。
―っと…それに惚けている暇はありませんね。
こうして私が先導する以上、ミスは許されません。ただでさえ今日はミスばっかりだったのです。この辺りで多少は挽回しておかないとフィエロに合わす顔がありません。そう思った私は辺りに必死で気を配りながら、慎重に足を進めます。後ろを歩くフィエロが足を踏み外したりしないように月の光が遮られる森の中で必死でルートを検索しながらゆっくりと。それはおおなめくじよりも多少早いだけと表現できるかもしれません。しかし、ただでさえ身体を得て間もない私は鈍足で、その上、後ろにフィエロがいる状態では無理は出来ないのです。これが私の出せる最高速度で、精一杯でした。
―でも…ここで焦っては夕方の二の舞です。
焦って結果を得ようとするから空回りしてしまうのです。勉強もそうですが必要なのはしっかりと足を地に着けた計画性。そして、壁を乗り越えるショートカットなどではなく、回り道してでも確実に目的地へとたどり着く確実性です。出来ればそれは夕方に分かりたかったですが…今更、何を言っても始まりません。ならば、同じ轍を踏まないように、と心を引き締めてミスを挽回するしかないでしょう。
「…おぉ…」
そんな風にぎゅっと心を引き締め続けた私の目の前に大きな一本の木が現れました。秋と言う季節のお陰でしょう。その枝には幾つかの実がなっていました。真っ赤に熟れた果実はそれを食する必要の無い私の眼から見ても美味しそうに見えます。そっと腕を延ばして一つもぎ取ってみましたが、私の透き通る身体とは対照的なその果実はしっかりとした感触を返して来ました。魔術や倫理、道徳を中心としてフィエロに教えてもらっている私は果実の知識など殆どありませんが、それはきっと『食べ頃』と言う奴なのでしょう。
「うー♪」
「あぁ、ありがとうな」
そのまま数個の果実をもいでそっとフィエロの方に差し出せば、彼が短くお礼を言ってくれました。それはとっても珍しいことでしょう。いえ…もしかしたら今まで一度も聞いた事が無かったことかもしれません。少なくとも…こうして胸が騒いで、沸き立つ感情は今まで経験したことがないように思えるのでした。
―ふわぁ…♪
その上、激しく動悸するように震える胸とは違って、私の全身には蕩けるような感覚が広がっていくのです。人型を維持できず液体に戻ってしまいそうなその優しい熱は止まりません。胸の動悸と共に全身に波及するその優しい熱は私とその外の境界を陽炎のように揺らめかせていたのです。特にフィエロと繋いだままになっている手はそれが顕著で何処から先が彼の手で何処までが私なのか。その感覚さえ希薄になっていました。私に骨があれば、それが溶けていると感じていたのかもしれない。そんなありえない事を思うくらい優しくも熱い感覚は私の全身を包んでいたのです。
「…どうした?」
「う…うぅー…っ♪」
その強い感覚は本当に全身を液体に戻すほどではありません。あくまでそれは錯覚であるのでしょう。しかし、初めて味わうその感覚に私は抗う術を知らず、脱力してその場に崩れ落ちてしまいました。そんな私を心配そうにフィエロが見つめてくれますが、その返事も妙に力がありません。それどころか妙に間延びして、胸を震わすような聞いたことも無いような声だったのです。
―私…どうしちゃったんでしょう…。
今までこんな不調を訴えたことはありませんでした。元々、私は『ヒト』あらざる身。風邪などの病気の類とは無縁の存在です。しかし、今の私の不調は残念ながら病気か何かとしか思えません。一緒にいるフィエロに何の症状も見えない辺り、恐らくは私達だけに効く病気でしょう。それが私にとっての唯一の救いでした。
―良かった…フィエロは少なくとも無事…なんですね…。
熱く火照る身体でそう呟きながら私の腰はストンと地面に落ちてしまいました。情けない自分の身体を必死に叱咤しますが、まるでそこだけ液体に戻ってしまったように動いてはくれません。それは人間で言う腰砕けに近い状態なのでしょう。どうしてそんな風になったのかは私にも分かりませんが、これもまた病気の症状なのかもしれません。しかし…フィエロにはまったくそれらしい様子が見当たりません。何時もどおりしっかりと二本の足で大地に立っているのです。その様子に私は彼が無事であると言う確信を強めて、内心、安堵の溜め息を漏らしました。
―けれど…これからどうしましょう…。
歩けなくなってしまった今、私は彼にとっての足手纏いでしかありません。その上、病気にかかっている可能性が高いのです。ならば、ここに置いて行って貰うのが一番でしょう。けれど、私にはそれをフィエロに伝える術がありません。簡単な意思表示くらいならば「うー」と言うだけでも理解してもらえますが、「置いていって欲しい」は流石に複雑すぎます。普段、そういう会話はフィエロが持ち込んでくれている紙に書いていますが、その紙もそして筆も私の手元にはありません。
「お、おい…ホント、どうしたんだ?」
焦ったように私の身体を抱き上げるフィエロの表情には強い憔悴と心配が見えていました。何の前触れも無く、いきなり倒れこんだのですから当然でしょう。しかし、私はそんな彼に心配しないで欲しいの一言も言えないのです。そんな自分が情けなくもありましたが、私には如何することも出来ません。未だ芯を持たない私の身体に響く優しい熱は私の力を奪っているのですから。
「う…うー……♪うー…♪」
「風邪…は考えられないな。となれば…疲れて倒れたのか?」
伺うように私に問いかけるフィエロの言葉を首を左右に振って否定しました。それに彼は小さく首を傾げます。当たり前でしょう。疲労や病気などと言う事から無縁である筈の私達がこうして倒れこむなんてそう考えられないのです。当事者である私自身、本来はありえないはずの病気としか思えないのですから。それを目の前で見ているフィエロはもっと訳が分からないに違いありません。
「まぁ、食べ物も手に入れた事だし、さっきの水源に帰ろう。うー。この林檎を持てるか?」
「うー…」
本当は私の事を置いていって欲しいのですが…フィエロにそれを伝える術がありません。ならば…その病気の原因かもしれないここから急いで離れるのが良いでしょう。そう判断した私は彼の言葉に小さく頷いて四つの果実を抱えました。それを確認したフィエロは私に背中を向けて倒れこんだ私をそっと拾い上げてくれるのです。まだまだ小さな私の身体は大した抵抗もせずふわりと浮き上がり、フィエロの背中におんぶされていました。
―…フィエロ…♪
元々、鍛えていた形跡が見えるとは言え、今の彼の背中は決して逞しいものではありません。もやしと言う程ではありませんが、あくまで標準的な体型を抜き出してはいないのです。けれど…それでも私にとってその背中は特別でした。まだまだ小さいとは言え、私を難なく持ち上げて負ぶさってくれているのです。それにどうしても心を揺れ動かされて、私の腕は密着するように首に回るのでした。
「よし。そうやってしっかり掴まっていろよ」
力強くそう言い放ちながら、フィエロの足はゆっくりと元の道を戻っていきます。それは思ったよりもしっかりしていて、何の危なさも感じません。普段から抱きついて来た私を水源まで運んでいるからでしょうか。重心の通し方も、足運びの仕方も危険な要素が何一つとしてありません。薄暗く、足元があまり見えないと言うのに危なげなく私を負ぶさりながら進むフィエロに舌を巻くような思いでした。
―…こんな事出来るんですね…。
何度も言う通り私はフィエロの過去を知りません。一体、どういう経緯でここに来ているのか、その目的さえ教えてもらってはいないのです。普段からズボンを傷だらけにする姿からてっきり山登りが不慣れであると思っていましたが、実はかなり経験を積んでいるのかもしれません。そう思うと…さっきの私の道化っぽさに嫌気が差しました。
―でも…それならどうして受け入れてくれたのですか…?
こうして闇の中でもしっかりとした足取りで進めるのであれば、帰る事も出来たかもしれません。確かに…あの時の私はそう簡単に譲るつもりはありませんでしたが、しっかりと説得すれば譲る可能性だってあったでしょう。それなのに自分から折れてくれたと言うのは『大人』として『子供』の私に折れてくれたのか。それとも――
―それだけ…自分の過去を私に言うのが嫌だったのですか…?
その推察は私の胸をズキリと痛ませます。この液体の身体には『ヒト』のように心臓など無い筈なのに、胸の辺りに針を刺されたように感じるのです。その苦しくも辛い感覚から必死でその考えを否定しますが…今までの付き合いからどうしても否定しきれません。彼はどうしても意図的に情報を伏せているとしか思えない節があるのですから。
―…どれだけ聞いても誤魔化される事と言うのもあるのです。
所在地などは比較的簡単に明かしてくれましたが、聞いても誤魔化すように話を逸らされたのは一度や二度ではありません。過去や目的などに踏み込む前ででさえそうして誤魔化されてしまうのですから、きっとフィエロには私に伝えるつもりは無いのでしょう。それを省みれば…単純に私の事を気遣ってくれたと言うよりは説得する材料となる物を言いたくなかった…と言うのが正しい気がするのです。
―フィエロ…貴方は…本当に……。
今更、彼が悪人であるだなんて思ってはいません。こうして数日に一度とは言え、山を登ってきてくれて私に勉強を教えてくれているのですから。何の得にもならない講義を続けている彼が悪人と言うのはまず考えられないでしょう。私の力が欲しいのであればもう十二分すぎるほどに取り入っていますし、本当の悪人であればそもそも取り入る事自体しません。それ以前に生まれて間もない頃の無力な私を浚ってしまえば良いだけなのですから。
―でも…どうしてこれだけ私に良くしてくれるのですか…?
私が彼に返せることなど何もありません。他と比べて多少、力は強いですがそれだけです。本気になった人間の魔術を受ければ痛いですし、死んでしまうことだってあるのですから。そんな私に…彼が良くしてくれる理由も…彼の目的も分かりません。まるで高い壁に遮られているようにまったく情報が入ってこないのです。
―私は…勿論…貴方の事を信頼しています。でも…
でも…何も話されないのは…秘密にされるのはやっぱり不安ですし、寂しいのです。話せるようになったら、と先延ばしにしている数々も…出来れば今すぐにでも聞きたいのですから。それは単純な好奇心だけではなく…フィエロにもっと頼って欲しいと言う感情からも来ているのでした。少なくとも私が彼に受けた恩くらいは彼に返したいと。その為には彼の事をもっと知りたいと…どうしてもそう思ってしまうのです。
―…フィエロ…。
ぎゅっと甘えるように身体を密着させましたが、さっきのように身体が暖かくなってはくれません。彼と私の間に高い壁のようなものを感じた所為でしょうか。身体はこうして触れ合っているはずなのに、心は妙に遠くにあるように思えるのです。どれだけ手を伸ばしてもすぐに逃げていってしまうような感覚に私はさっきとは違う意味で身を震わせながら縋るようにフィエロの背中に抱きついていました。
「さって…着いたな」
けれど、その瞬間、フィエロの足は元居た水源地に踏み込んでいました。さらさらと耳を震わせる心地良い音も聞きなれた葉のざわめきも全てここが私の住処である事を示しています。しかし、普段は安心感を持って私を迎えてくれるその光景は今は何処か空虚なものに思えるのです。それもまた…フィエロとの間に遠い距離が離れているのを感じた所為でしょうか。色あせたセピア色の光景は普段の暖かさをまったく感じさせず、私の胸をまたズキリと痛ませるのです。
「じゃあ…一端、降りてくれるか?」
「うー…」
屈みながら促すフィエロの言葉に従い、私の足はすっと地面に降ります。ストンと大地に着いた両足はさっきの病気の余韻さえ感じさせず、しっかりとしたものでした。あんなに大騒ぎしていましたが…もしかしたら…いえ、多分、病気などではなかったのでしょう。その恥ずかしさで身悶えしたくもありますが、お陰でフィエロにこれ以上の迷惑を掛けることはありません。
―…まぁ…そう思っても…あんまり嬉しくはないのですが…。
心配したような病気などではなく、こうしてフィエロとまた一緒に居る事が出来る。それは勿論、嬉しい事でしょう。しかし、私の心はまるで晴れる事無く、未だ暗雲がその半分以上を支配していました。さっきまでは迷惑を掛けていると言う事にその大半を割いていたと言うのに、今の私の心はもうフィエロとの距離感にその殆どを支配されているのです。
―…はぁ……。
そんな私の心に追い討ちをかけるように離れ離れになった身体に秋の寒さが突き刺さります。勿論、本来であれば私は寒さなど感じるはずがありません。元々、身体が液体できているのもありますが、昼前には水源の中で漂っていたように寧ろ心地良い感覚であるのです。しかし、ついさっきまでフィエロに背負われ…そしてその距離感を見せ付けられた所為でしょうか。抱き締められていた時にも感じなかった寒さが私の肌や心に突き刺さるのです。まるでフィエロがいないと駄目だと心や身体に訴えかけるようにその寒さは私を震わせ続けていました。
「…大丈夫か?」
「うー」
そんな私を覗き込むようにしてフィエロは屈んだままこっちへと振り返ってくれました。そのまま子供の体温を測るようにそっと額に手を当ててくれますが、私の身を通り過ぎる寒さは決して収まってはくれません。恐らくこの程度の触れ合い方では足りないのでしょう。身体ももっと彼に触って欲しいと、密着したいと騒いでいました。
―でも…それは……。
今まで我侭を何度も言ってきた私ですが…流石にそれは出来ません。ただでさえ現時点でも迷惑を山積みにしているのですから。この上、これから食事に入ろうとするフィエロの邪魔まではしたくありません。そう心の中で結論付けた私は纏わり着く様な寒さを振り払って、彼と距離を取るのでした。
「ふむ…」
そんな私を見るフィエロの目はとても心配そうな色に彩られていました。多分、私の顔が辛そうに歪んでいたのでしょう。フィエロから離れる事で心が埋め尽くされて、表情の事にまで意識がいっていなかったのですから当然です。そもそも私は今まで嘘を吐いた事がありません。考えがそのまま伝わる仲間相手に嘘など吐ける筈が無いのですから。そんな私には圧倒的に経験が不足していて、こうして彼にあっさりと強がりを見抜かれてしまうのです。
「うー…どうしたんだ。今日は本当に変だぞ」
「うー…」
とは言われても、私だって、どうしてこんな風になったのかは分かりません。生まれた当初は感情と言うのがこれほど激しいモノであるとは想像もしていなかったのです。日に日に大きく、強くなっていく強い衝動の波を私は上手くコントロールする事が出来ません。つい数日前にフィエロが来てくれたときには確かにコントロールする事が出来たのに、今はもうその感情に振り回される側になってしまっていました。
―心の発達に精神の発達が追いついていない…と表現するのが良いのでしょうか。
フィエロの講義や経験と言う形で私の感受性は大きく育っていきました。けれど、その反面、私はその感受性から受け取る様々な情報を上手く処理するのがまだまだ苦手なのです。『ヒト』で言えば子供…と言うか赤ん坊の年齢ですから、それも仕方ないのかもしれません。しかし、感受性の育った私はフィエロの反応などから『それがいけないこと』であると学習しているのです。『恥』の概念まで彼に教えてもらった私は未熟な精神とは裏腹に、我慢の出来ない自分を『恥じる』段階にまで進んでいました。
―…どうにもままならない事ですね…。
本来は心の有様を左右する精神。それを育てるのは教えてもらって出来るものではありません。日々日常の中で培われる経験知の積み重ねしか、それを育てることは出来ないのです。だから…今のまま焦っても無駄と言えば無駄なのでしょう。しかし、現実問題、その所為でフィエロに迷惑を掛けていると言う事が強い焦りを呼び、悪循環に陥っているのでした。
―…もし、私が『ヒト』であれば…。
それは無意味な仮定でしょう。そもそも『ヒト』でない私など存在しないのですから。普通の生物とは違う生まれ方をした私にはそれ以外の生き方などありません。それに…もし、『ヒト』に生まれていたとしてもこうしてフィエロに出会うことは無かったでしょう。それは…私のこれまでの人生の全否定も同然です。良くも悪くも私の人生は彼によって埋め尽くされ、彼によって彩られているのですから。彼と出会わなかった私など私ではないでしょう。
でも…そこまで理解していて尚、私の心は止まりません。無意味な「たら・れば」を浮かばせ続けているのです。それは今日だけで数え切れないほどの迷惑を掛けたことに対する逃避なのでしょう。そう心の中で呟く自分がいますが、それでも弱い私は必死でそれから逃げようとしていたのです。
「…うー」
そんな私の名前を呼びながら、そっとフィエロの手が頬を撫でてくれました。さっきのように涙――アレを涙と呼べるのかは些か疑問ですが――を拭おうとするような仕草はとても暖かく、優しいものです。私には決して無い命の暖かさをそっと伝えようとするその手に私の胸がズキリと痛みました。だって、私にはそんな風に優しくされる資格など無いのです。
「うー。私は迷惑などと思ってはいない」
―…え?
そう自分を責める私に信じられない言葉が聞こえました。驚いて俯いていた視線を上げれば、冷たい造形の顔をそっと微笑ませているフィエロと目が合います。そこには本当にこれだけ迷惑を掛けた私を責めるような色はありませんでした。子供をあやす兄や父のような優しく、暖かい表情だけがあるのです。それが私にとっては信じられず、呆然と彼の顔を見つめたまま固まってしまいました。
「この程度は助け合いの範疇だろう。お前だって俺の事を思ってやってくれてるんだからな」
―それは…そうですけれど……。
でも、結果だけがそれに伴っていないのです。どれだけ一生懸命、走っても足が前に進まないように全て徒労に終わってしまったのですから。それで…私だけが疲れて無力感に打ちひしがれるのであれば構いません。ですが…それは私だけでなくフィエロにも害を及ぼす結果になっているのです。それが…私にはどうしても許せません。
「結果だけを求めれば人は本質を見失う。大事なのは一歩ずつ前へと進もうとする意思だ」
そう否定する私にフィエロは優しく言い聞かせるように口を開きました。そこから飛び出た言葉は…私にとって耳が痛いものでした。だって、ついさっき…私はその結果だけを求めていたのです。フィエロの言葉を借りれば私は『本質を見失っていた』状態にあったのでしょう。それを見抜かれていたような言葉に、私の胸はまた小さな痛みを訴えました。情けない自分をフィエロの知られて、しかも、それを叱責されてしまったと言うその痛みは足元が崩れ落ちていくような絶望的な浮遊感を伴っています。
「あぁ、すまない。お前を責めている訳じゃないんだ。これは…俺の好きな言葉でな。そして…ある種の真理であると思っている」
―…真理…?
続けられたフィエロの言葉で何とか持ち直した私は未だ痛む胸を抑えながらそっと首を傾げます。勿論、私だって、真理の意味くらいは理解していました。けれど、その短い言葉をどうして『真理』と呼ぶほど大きく取り扱うのか。それが分からない私は身体でそれを表現していたのです。
「あぁ。急ぎ足で歩くと…周りの物を見る余裕がなくなってしまうだろう?でも、一歩一歩進めば、多くの物が見えてくる。人の成長で言えば、その見えてくる色々な物が重要なんだ。成長と言う結果だけを求めると…その過程で見えたり、気付けたりするとても大事なものを見失ってしまう」
―その瞬間、フィエロの目がそっと遠くを見ていました。
フィエロの過去を知らない私には…彼が何を見ているのかは分かりません。しかし…その言葉は彼の実体験から来た言葉なのでしょう。実感の篭った言葉やその視線に何となくそう思います。
―なら…フィエロ…貴方は…。
彼が言う大事な物を、きっと見失ってしまったのでしょう。それは多分、確実です。ですが…見ているだけで胸が握りつぶされるような辛そうな彼の表情は決してそれだけとは思えません。まるで…その大事な何かが永遠に手に入らなくなったような辛く、悲しい色に満ちているのですから。
「…俺はお前にはそんな急ぎ足の成長なんてして欲しくないんだ。一歩一歩…お前のペースで進んで欲しい。他人のペースなどに心惑わされず、お前らしいお前になる為に」
―私らしい私…?
それは私にとってはとても曖昧な概念でした。こうして生まれたとは言え、私は『私達』との境がとても曖昧です。意識が繋がっているのを見れば分かるように時に同化しかねないレベルにまで意識が近づいていくのですから。
けれど、そんな私にフィエロは『私らしい私』になれと言っているのです。それは…きっと何か意味のある事なのでしょう。まだまだ知識も経験も足りない私には理解の及ばないものではありますが、彼が言うのであれば…きっと間違いはありません。
「その過程で傷ついたり辛い思いをするかもしれない。けれど…それはきっとお前らしいお前の糧となる。だから、咽喉がまだ上手く作れないからと言って、失敗したからと言ってお前が気に病む事は無い。もし、その失敗でとても悪い事が起こったとしても、必ず俺が助けてやるから」
「うー…っ」
―なんと言う…殺し文句なのでしょう。
胸をグサリと突き刺される感覚はさっきのものとは比にはなりません。まるで本物の刃物が突き刺さっているような感覚が私を襲っているのです。けれど、さっきとは違い、刺さった場所から溢れるのは痛みではなく歓喜です。まるで世界に全肯定されたような強い高揚感を伴ったそれは私の胸を席捲し、湧き上がる様々な感情を飲み込んでいくのでした。さっきまで心を支配していた自責の感情なども例外ではありません。身体中全てが歓喜一色に染め上がる感覚に衝動的にフィエロへと抱きついた私の身体は大きく震えて止まりません。
―あぁ…フィエロ…っ♪
「うーっ♪うー…っ♪うーっ♪♪」
その嬉しさを少しでも伝えようと必死で咽喉を震わせますが、やっぱり出てくるのは子供のような単音だけ。しかし、普段よりもさらに歓喜に彩られたそれはフィエロに少しは伝わってくれたのでしょう。優しい表情の中に少しだけ嬉しそうな色を灯してくれるのでした。フィエロがそんな風に嬉しそうにしてくれるのを見る私もまた嬉しくて、自然と咽喉が震えて高い声が漏れ出てしまうのです。
―勿論…そんなんじゃ私の気持ちは1/3も伝わりません…っ♪
けれど…フィエロはそれで良いと言ってくれました。焦らずそのまま成長していけば良いと、そう教えてくれたのです。なら…私がそれを気に病む必要はありません。確かにはっきりと意思の疎通が出来ないのは辛いですが…こうして感情の一端は彼もすぐに受け取ってくれるのです。今の私にとってはそれで十二分であり、それ以上を望む必要はありません。だって、私にとっての『世界』そのものであるフィエロが、そう教えてくれたのですから。
「はいはい…。まったく…随分と甘えん坊になったものだな」
最初の頃の警戒心を丸出しにしている私を思い出したのでしょう。そっとその顔を意地悪そうなものに変えて、そんな事を言いました。けれど…いきなり仲間たちのテリトリーの中に入ってきたのはフィエロの方なのです。仲間たちがスルーしていたとは言え、それに強い警戒心を抱くのは当然でしょう。ましてや私は生まれたてで文字通り右も左も分からないような状態だったのです。初めて見る『ヒト』に興味よりも先に恐怖にも似た警戒心を抱くのは自然の流れです。
「うー…っ」
「あぁ、分かってる。冗談だってば」
拗ねているのを伝えようと少しばかり凄んでやれば彼はあっさりと折れてくれました。抱き締めたままそっと見上げた顔は金色の月光に染まっている筈なのに赤く染まっているように見えます。多分、さっきのは照れ隠しと言う奴なのでしょう。私には良く分からないのですが、フィエロが言うには「男の半分は意地や面子やプライドで出来ている」らしいのです。きっとさっきのフィエロの言葉がそのどれかの喫線に触れてしまったのでしょう。そう思うと、赤い頬を隠そうとしているように目を逸らす彼が妙に可愛らしい気がしました。
「うーっ♪」
「…も、もう良いから。さっさと食事にしないか?」
それをからかうつもりはありませんでしたが、私の声に何かを感じたのでしょう。唐突に話題を変えながらフィエロはそっと身動ぎしました。まるで放して欲しいと表現するような動きでしたが、ここで手放すつもりはありません。だって、このまま放してしまえば可愛いフィエロの顔が見れなくなってしまうのですから。普段の冷たい表情やさっきの優しい表情、そして格好良い表情も素敵ですが、私の心を何より掴むのはこうした可愛いフィエロの表情なのでした。
「うーっ♪」
「……むぅ」
数度、身動ぎしても私が放さないと言う事に小さく彼が呻き声を上げました。少しばかり困惑しているようなそれに少しだけ胸が痛みますが…もうそれが彼に迷惑であるとは思いません。別にさっきの言葉を免罪符にしているわけではありませんが…彼は私なりの成長を受け入れてくれると言ったのです。ならば…一つ成長している所を見せてあげようではありませんか。
「うー♪うーーっ♪」
「ん…?あぁ、さっきの果実だな」
その気持ちを糧に私は手に持つ果実をそっとフィエロの前に送ってきました。その間も腕はがっちりと彼の身体をロックしています。勿論、それでは私は『腕』を使うことは出来ません。しかし、私は『ヒト』ではないのです。その姿をある程度、自在に変えられる私にとって、四肢と言う括りは余り意味がありません。今回も体表に小さな腕を幾つか作り、それをバケツリレーのようにして四つの果実を彼の前へと運んできたのでした。
―でも、そこまではあくまで前菜…いえ、前座です。
大事なのはここからだと私はそっと身体の境界に意識を這わせます。普段、意識しないでも作られている認識範囲を捻じ曲げ、さっき作った小さな腕をどんどんと薄く切り替えていきました。どんどんと不要なものをこそぎ落すようなそれは一分ほど続き、小さな腕から細長く先鋭的なものへと変わります。紙ほどに薄くなったそれは私の身体の一部であるので…勿論、その長さもある程度は自由自在なのでした。
―だから…こんな事も出来るんですよぉ♪
まるで自慢する子供のような言葉を思い浮かべながら、そっと細長い部分を一気に伸ばしていくのです。シュンという音と共に伸びた私の身体はさくりと果実を真っ二つにしました。パカリと割れた果実の皮の部分もそのまま剃って行き、フィエロの食べやすいように加工していくのです。
「…驚いたな」
そんな私を見てポツリとフィエロが言葉を漏らしました。出会った時を髣髴とさせるほど感嘆に満ちたそれは私の芽生え始めた自尊心を満足させてくれます。けれど、それは満足させただけで終わりではありません。満たされた自尊心がもっと彼に褒めて欲しいと、もっと彼に尽くしたいと、そう叫び始めているのでした。
―でも…それを抑える必要はありません…♪
フィエロのあの言葉を聞くまではもしかしたら失敗を怖がってやらなかったかもしれません。いえ、それ以前に彼の迷惑にならないようにとフィエロから離れていたことでしょう。しかし、今、こうして目の前に広がっている現実はそれとは違います。たった一言で私の全てを変えてくれた大事な大事な人にご奉仕しようと失敗を恐れず足を踏み出しているのですから。決して焦らず、自分に出来る事を一つ一つ確認するように。フィエロの教えを護る様なそれは私に確かな安心感と自信を与え、次の行為へと進ませる糧となってくれるのでした。
「うーっ♪」
「…む」
薄皮を剥いた果実に先端を尖らせた身体をぷすりと刺してフィエロの方へとそっと差し出します。一口サイズに切り揃えられたそれらは練習の賜物でしょう。何時かフィエロにこうして食べさせてあげられる日が来るかもしれないと密かに練習を続けてきたのです。最初は身体の制御も上手く出来ず、薄皮を剥くと言うよりは抉るような形でしたが、重ねた修練がこうして形になっているのでした。そして、その成長の証を彼に受け取って欲しくて私はフィエロを促すように大きく口を開けるのです。
「いや…流石にそれは…な」
その私の意図を正確に察したのでしょう。フィエロは口の端を引きつらせながら、首を左右に振りました。けれど、さっきよりもさらに真っ赤になった頬はそれが彼の照れ隠しである事を教えてくれます。なら、私が遠慮する必要はありません。多少、強引ですが、逃げようとするフィエロに向かって突きつけ続けるのです。彼はその度に首を振って必死に拒絶の意を示していましたが、数分もした頃には諦めてそっとその口を開いてくれたのでした。
「…」
「うー♪」
無言で口を開くフィエロの中にそっと切り揃えた果実を一つ送ります。けれど、まだ何処かに照れが残っているのでしょうか。送った果実を中々、食べずに躊躇の色を見せました。真っ赤に染まった可愛らしい顔でそっと視線を明後日に送りながら数秒。それだけの間、私を焦らした大事な人は諦めて私のフォークを口に含んでくださったのです。
―〜〜〜〜〜〜っっ♪
そして、その瞬間、私に堪えようの無い痺れが走りました。パクリとフィエロに食べられてしまった部分から、ビリビリと電流が走って止まらないのです。脳を焼くような激しいそれは私にとっては初めてのもので…我慢する術も、堪える術も分かりません。ビクンッと身体を大きく跳ねさせながら、身悶えるするように身体を揺するのでした。
―ふ…わぁぁっ♪♪
けれども、それでそのビリビリとした感覚は止まってはくれません。フィエロの粘膜と触れ合っている部分から幾らでも沸き上がってくるのでした。そして、その無限に湧き出る感覚は身体中をひた走った後、私の下腹部にストンと落ちてそこをドロドロに溶かしているように感じるのです。絶え間ないその激しい感覚はそれまでは各々が好き勝手に私の身体を這い回っていると言うのに、まるでそこが定位置であるかのように常にそこを終着点としているのでした。
―その上…ビリビリッ…がぁっ♪
咀嚼する為にフィエロの口から吐き出された後もビリビリとした感覚は後に響いていました。まるで水を叩いたようにその波紋を広げ続けているのです。何処までも後ろの方へと続いていくその余韻に私の頭がドロリと溶けてしまうようにさえ感じるのです。大事な部分が原初の液体に還ってしまうという独特の恐怖。それを伴うはずの感覚は、何故か私の身体にとっては喜ばしいものであるとして受け止められ、その背筋を震わせました。
「…んぐ…うー?」
「うぅ…♪う……うぅ♪」
気遣うように私の顔を見るフィエロの言葉にも応える余裕が無いぐらいの強い感覚。けれど、それは私にとって決して悪いものではありません。いえ…寧ろ良いものであると言った方が正しいのかもしれません。身体中が雷に打たれるようなその感覚は、フィエロに撫でられるあの感覚を何千倍にも激しくしたようにも感じるのですから。本来であれば真逆であるはずのそれら二つが結びつくのかが私にはまだ理解できませんが、私にとってそれは激しいだけのものではありませんでした。
―ううん…寧ろ…その激しさが…素敵です…っ♪
そして、その感覚に一瞬で虜になってしまった私はもっとそれを味わおうとフィエロの方へとまた別の果実を差し出すのです。そんな私の様子に何か鬼気迫ったものでも感じたのか彼の身体が一瞬だけ私から逃げようとしました。けれど、それはきっと気のせいでしょう。だって…私はこうしてフィエロに成長の成果を見せているだけなのですから。私が彼を傷つけようだなどと思わないのと同じように、彼が私を怖がるだなんてあるはずがないのです。
―だから…ね…♪そんな風に意地悪しないで…もっともっと…食べてください…っ♪
そう胸中で呟きながら、諦めて再び口を開いたフィエロの中へと私が入り込んでいきます。そして、パクリと口が閉じて粘膜に包まれた瞬間、さっきと同じ激しい感覚がまた私を襲いました。ビリビリと身体中が弾ける様なそれは二度目であっても、まるで色褪せません。最初と同じ鮮烈さと新鮮さを持って、私の心を掻き乱すのです。
―あぁ…素敵ぃ…っ♪食べられるの素敵です…っ♪♪
その感覚が一体、何なのか経験の無い私には分かりません。けれど、きっと悪いものではないでしょう。だって…こんなに甘くてビリビリでドロドロになってしまうのです。本来は自分とは別の個体の口腔に身体の一部が入り込んでいると言う事に恐怖を感じるべきなのかもしれません。しかし、今の私に去来するのは恐怖とは真逆の安堵や安心感でした。まるでフィエロに口の中が私にとって安心できる場所であると刻み込まれているようにその感覚が止まらないのです。
―けれど、それも長くは続きません……。
そもそも私の身体は今、フォークの役割を果たしているだけなのです。彼の口腔に食べ物を運べばそれで役割が終わり、口の外に放り出されるだけでしょう。そうしなければ、彼としても咀嚼し辛いでしょうし、それに何か文句をつけるつもりはありません。しかし、あのビリビリと震える感覚に虜になった私は、もっとそれを味わいたいとどうしても思ってしまうのです。
―何か…何か無いでしょうか…?
完全に諦めたのか、素直にもぐもぐと咀嚼するフィエロの姿を見ながら私は痺れた思考を張り巡らせました。あの感覚はきっと私の身体と彼の口腔が触れ合ったからこそ起こる現象でしょう。こうして彼に向かって密着している他の部分ではアレほどの衝撃は起こってはいません。トロリと身体が溶かされるような優しい熱を感じ取ってはいますが、それだけなのです。私がフォークにしている肩の部分はこれまでもフィレオと触れ合っていましたし、きっと主な原因は彼の口腔にあるのでしょう。
―でも…今はあくまで食事の時間で……。
それを遮る権利は私にはありません。ただでさえ、私の成長を見て欲しいと言う私の衝動に付き合ってもらっているのですから。フィレオのあの言葉を聞いた今、それが我侭であるとまでは思ってはいませんが、付き合ってもらっているのは事実でしょう。それに…食事の邪魔をするのは淑女のする行いではありません。彼の為にも立派な淑女を目指している私にとって、食事の邪魔になる行為は忌避すべきものであるのです。
―と言う事は…ほぼ手詰まり…と言う事ですね…。
道は一つしかない。けれど、その道を押し通るには私の中の核となる部分が邪魔をするのです。ならば、それはもう諦めるしかないでしょう。少し…いえ…かなり残念ではありますが、それを押し通すとなれば「我侭」になってしまうのです。心が軽くなり、物事の受け止め方が変わったとは言え、彼に迷惑を掛けた事実を私は忘れていません。これ以上、フィエロに迷惑を掛けたくは無い。その気持ちが私を何とか踏みとどまらせてくれました。
―まぁ…それに…今のままでも十分、素敵…ですしね…♪
咀嚼し終えたフィエロの口に再び果物を運びながらそんな事を考えます。勿論、それはさっきの痺れるような感覚も含めての事ですが、こうして彼に尽くしていると言う感覚が私の心を浮き上がらせて止まらないのです。まるで宙に浮いているかのようにふわふわとしたその感覚はフィエロにお礼を言われた時と似た歓喜の色を伴っていました。普通に彼に抱き締められるよりも遥かに強いその感覚と甘い痺れ。それら二つに心を奪われた私は彼に給餌する行為にドンドンと没頭していくのです。
―あぁ…フィエロ…フィエロぉ…♪♪
そして一つ彼に食事を運ぶ度に私の胸が大きく脈打って止まりません。そこには『ヒト』のような心臓が埋め込まれてもいないというのにまるでそこだけ魚が跳ねているように脈打つのです。そして、その度に膨れ上がった歓喜は私の中の暖かい感情を結びつき、膨れ上がっていくのでした。まるで相乗効果を発揮するように溢れたその感情の波は、甘い余韻に溺れる私の心を彼の名前で埋め尽くします。
「ん…ん。ご馳走様」
「うー……」
けれど、そんな楽しい時間はやっぱり永遠には続いてはくれないのです。私がもいだ果実は全てフィエロの御腹の中に収まってしまって、無くなってしまったのでした。全て食べきってくれたと言う事に私の心が喜びながらも、この楽しい時間が終わってしまったと言う事に残念に感じるのを禁じえません。それだけ私の心はフィエロの食事の世話をすると言う事に没頭し、奪われてしまっていたのですから。
―でも…無理矢理、食事をさせるなんて苦痛でしかありません。
『人間』は無限に食べ物を取り込める訳ではないのです。やっぱり有限であるその身体には許容量と言うのが存在しますし、それを超えると苦痛を感じるのですから。私達にとっては遠い感覚ではありますが、満ち足りないのも満ち過ぎるのも辛い事なのです。そして…私は大事な人に苦痛を感じさせたり、辛い事をさせて喜ぶような趣味は持っていません。やっぱり大事な人には心地良くあってほしいですし、楽しくあってほしいのです。
「有り難う。うー。美味しかったよ」
「うーっ♪」
―それに…この言葉だけで十分に報われています♪
果実をもいだ時と同じように私を打つフィエロのお礼の言葉。それに私の心はさらに舞い上がって、止まりません。全身が歓喜に満ちるようなそれに返事を返してもまだジンジンと身体中が喜んでいるくらいです。食事の時間が終わったのは勿論、残念ですが、そんな風にお礼を言ってもらえるのが私にとって最高のご褒美。それだけで報われていると言っても良いでしょう。
「それじゃあ、うーの御飯の番だな。…と言う訳で放してくれると嬉しいんだが」
「うー…」
―…けれど、それはやっぱり頂けません。
私の『御飯』を運んでくれるリュックは未だ切り株の上で放置されていました。水源近くでこうして抱きあっている状態ではどうしてもそこに手を伸ばす事が出来ません。私自身、ある程度、身体を伸ばす事が出来るとは言え、そこまで伸ばせるほど身体が発達しているわけではありません。どれだけ頑張っても、1mくらいが限度なのです。
―だから、勿論…そろそろ離れなければいけないというのは理解しているのですが…。
しかし、こうして食事と言う短くは無い間、ずっとフィエロを抱き締めていた私は今更、手放すのが惜しいと思ってしまうのです。さっきも感じた別離の感覚が私の心を襲い、暖かかったはずの心をそっと冷たくしていきます。その冷気にも似た感覚はこうして彼を抱き締めている熱が防いでくれていますが、彼と離れた時にどうなるのか。想像もしたくありません。
「うー……」
甘えるように小さな唸り声をあげてフィエロを見上げてみましたが、今度の彼は譲ってくれそうにはありません。しっかりとした決意を持って私を見下ろしていたのです。それでもまだ諦めきれない私は数分ほど彼を見上げていましたが…結局、根負けしまいました。彼を逃がさないように背中に回っていた腕をそっと解いてフィエロの身体を解放するのです。
―瞬間、私の身体を大きな寒気が襲いました。
今まで私の防壁となってくれていたフィエロの身体が離れたからでしょう。最早、護るものがなくなった私の心を蹂躙しようとするかのようにその寂しくも冷たい感覚が私の心を突き刺していくのです。それは勿論、錯覚も錯覚でしょう。本当に氷を突き刺されているわけではありません。しかし、精神によって今の『形』を維持している私にとって、それは本物の傷みにも似た感覚なのでした。
―あぁ…フィエロ…。
もっと彼に抱きつきたい。もっと彼の体温が欲しい。もっと彼に暖めて欲しい。衝動的に湧き出た欲望の数々。それらはさっき離れた時に感じたものとは比べ物になりません。まるでどんどんと私の心を取り込んで転がり落ちていく雪だるまのように大きくなっているのでした。際限無く膨れ上がっていく大きな欲望。理性がそれに小さな怯えを見せ、それから逃避するように視線をそっと彼の方へと送ります。解放された私の大事な人は既に私から数十歩離れてリュックの中から一つのビンを取り出していました。透明なガラスで作られたそれは中に白い錠剤を幾つも入れられていて、動く度にカラカラと音を鳴らせます。
「はい。これが今日の分だ」
そう言ってフィエロは私の掌にビンから取り出した錠剤を一つ置いてくれました。この小さな私の人差し指くらいの小さな錠剤がフィエロから与えられる御飯です。生まれるまで食事と言う概念を余り強く持っていませんでしたが、これを取り込むと身体の調子が良いのは確かでした。一体、どういう成分で出来ているのかまでは聞いていませんが、所謂、栄養剤と言う奴なのかもしれません。
―まぁ…どうして私も仲間達も『ヒト』と同じものを欲しがらないのか疑問は尽きませんが…。
生まれ方からして私達は自然の摂理に反しているのです。やはり、そんな生き物が『ヒト』と同じように生き様などは無理なことなのかもしれません。出来ればそんな事は認めたくはありませんが、食性と言うのは大きな亀裂になりかねないのです。習性が殆ど同じの人間同士でさえ強い諍いの原因になるのですからまったく異なる食性を持つ生物がずっと一緒にいるというのは難しいでしょう。
―ずっと一緒…かぁ…。
ふと頭の中に湧き出た言葉。それは私が意図的に目を逸らしている事でした。こうして目的も過去も明かさないままフィエロが私の傍にいるという事は何時かはいなくなってしまう可能性が高いのです。さっきもフィエロが言ったのは「必ず助けてやる」であって、「ずっと」ではありません。それは…やっぱり何れ自分がいなくなる事を想定しての言葉なのでしょうか。
―…そんなの…嫌…っ!!
湧き上がる強烈な拒絶の感情は止まりません。冷たい寂しさを駆逐するように私の心を塗り替えたそれはふつふつとドス黒い色に私の心を染めていきます。ずっと自分でも見ないようにし続けていたからでしょうか。それはもう抑えが利かず、私の心全てを飲み込もうとする濁流のようになっていました。
―フィエロと離れるなんて…絶対に嫌…っ!!
ずっと色んな事を教えて欲しい。ずっとその暖かい熱で暖めて欲しい。ずっとその優しい手で触れていて欲しい。ずっと私にだけ微笑んで欲しい。ずっとずっとずっとずっと…っ!!
―その為なら…私は……っ!!!
「…うー?}
「う、うーっ!?」
―ひゃあっ!!!
そのドス黒い感情に何もかも飲まれようとした瞬間、そっとフィエロの手が私の額に触れました。その刺激は私が現実に引き戻されるには十分なものです。だって、それはとっても暖かくて優しい熱なのですから。ゴツゴツしている筈なのに、私が心を奪われるほど優しくて暖かい手なのです。けれど…それ故に私はさっきの欲望を見抜かれてはいないかと冷たい汗を背中に流すのでした。
「どうした…?何か辛そうだったが」
「う…うー…」
―よ、良かった…見抜かれてはいないようです…。
欲望を丸出しにして、それに飲み込まれようとしていたのを知られるなんて事ほど恥ずかしい事はそうありません。私達には裸を羞恥と取る感覚は希薄ですが、恐らくそれに近い感覚でしょう。しかし、一歩間違えればそんな事になっていたのかもしれない。そう思うだけで私の背筋に再び冷たい汗が走るのでした。
―…でも…なんであんな風に……。
今までフィエロと離れると言う想像をした事はありませんでした。考えても無駄ですし、私が想像してどうにかなるものでもないのです。本人の意思もそうですが、『ヒト』であるフィエロには私などでは想像もつかないような多くのしがらみがあるのでしょうし、それに従わなければならないこともあるのでしょう。そうなった場合、私には太刀打ちする術がありません。だからこそ、私はそれを考えないようにしてきたのです。
けれど…一度、蓋が外れた私の中から多くの欲望が飛び出てきました。それらは普段、考えていることとはそう離れているものではありませんでしたが、その強度が比べものにありません。まるで身体中全てを欲望に染め上げるような激しい衝動は今まで私の生きてきた中では何度か経験のあるものでしたが、それらが幾つも折り重なって噴き出たのですから。相乗効果によって何処までも高まっていこうとするその欲望は私の意識から理性から、何もかもを飲み込む寸前まで進んでいたのです。もし、フィエロが私に触れてくれなければ、私はそれに飲み込まれていたでしょう。
―そうなっていたら…どうなっていた事か。
私自身にもその果てにある結果がどうなっていたかの想像がつきません。その本能を剥き出しにして彼をどうしたいのか。まだまだ生まれて間もない私には想像もつかないのです。分かっているのはただ、彼が傍にいて欲しい。独占して欲しいと言う爛れた欲望が私の中にもあると言う事でした。
―…まぁ、考えてもどうなるものではありませんか。
これから自分がどうなるのか。その欲望に負けてしまうのか、或いは打ち勝てるのか。今の時点では前者の方が濃厚でしょう。湧き上がる度に何もかもを飲み込まれそうになる激しい衝動を今の私では堪える事が出来ません。それ以前にも普段、感じる欲望や衝動を抑えきれなくなってきているのです。
けれど、それで私に何か出来るかと言えば何もありません。フィエロがそんな自分のペースで成長して欲しいと言ってくれたのです。ならば、そんな自分に合わせて無理に背伸びをした成長を目指す訳には参りません。それに精神そのものを急激に鍛える術もないのです。何時か来る衝動に負けてしまう日を視野に入れる必要はあるでしょうが、かといって私に何か出来る事は無い…と言うのが現状でした。
―とりあえず御飯にしましょうか。
問題の先延ばしにも近い結論を胸の中で咀嚼しながら、私はそっと掌の錠剤に意識を向けました。そのまま掌を口に押し付けるようにしてパクリと粘膜の内側に取り込みます。別に『ヒト』がやるような経口摂取の必要は無いのですが、これは気分の問題でしょう。掌を一部だけ液体に戻せば薬を取り込むことは出来ますが、それだとフィエロとの違いが浮き彫りになってしまうようで好きではないのです。
―…にしても…相変わらず、味気ない感覚ですね…。
私そのものが味を感じる機会は殆どありません。基本的に食べ物を摂取する必要はありませんし、味覚となる部分は発達してこなかったのですから。しかし、無味乾燥と言っても良いその味は間違いなく『ヒト』が『不味い』と言う様なものでしょう。まるで石を食べているように何の味もせず、本当に必要最低限の栄養を摂取しているだけ、と言う感覚なのですから。味覚のまったく育っていない私にもこれが味気ないと言われる感覚であろう事は一瞬で理解出来る程なのです。
―さて…では、食事も終わりましたし…。
まだまだ咽喉の辺りで錠剤が残っていますが、放っておけば何時かは消えてしまうでしょう。そういう意味でも、する事はもう殆どありません。何せこんな山奥では娯楽の一つもないのですから。人里であれば酒場などが賑わっている時間でしょうが、残念ですがここには一軒もありません。明かりさえあればまた勉強や質問をするのも良いかもしれませんが、薄暗い森の中では小さな文字を判別するのは難しいでしょう。自然、文字を大きく書かなければいけませんが、それでは貴重な紙が無駄になってしまいます。こんな山奥では紙も鉛筆も手に入らず、フィエロに頼りきりなのですから極力、無駄にすべきではありません。
―…と言う事は寝るしか残されていないのですよね。
まだまだ宵に入ったばかりですが、他にするべきことも無いのでした。私が言葉を話せるのであればフィエロの話し相手になれたかもしれませんが、生憎とまだまだ咽喉は未整備の状態です。私が出せるのは簡単な単音だけであり、会話出来る程の発達はまだ先になってしまうでしょう。それが私の心に悲しさを齎しますが…フィエロの言葉がそれを軽減してくれていました。
「さて…それじゃあ寝るか」
「うー」
フィエロもまた寝るしか残されていないというのを理解しているのでしょう。その顔を苦々しい笑みのような形に少し変えて言いました。それに私も拳を上げて同調します。まるで子供のような仕草は淑女を目指す一人の女――この表現は正しくないかもしれませんが――としてはしたないと自重すべきものだったでしょう。しかし、薄暗いこの場所では雰囲気がすぐに落ち込みかねません。それを防ぐためにもはしゃぎすぎくらいが丁度良いのです。
―…まぁ、ちょっとやりすぎたかもしれませんが。
自分でやっておいてなんですが…これはとっても恥ずかしいです。なんと言うか…ダダ滑りした感が拭えません。狙いすぎて外したと言うか、こう…なんとも言い難い感覚なのですが…フィエロがクスリともしてくれなかった辺りがとても痛々しいと言うか…その…う、うーっ!!
―や、やらなきゃ良かった……。
恐らく今の私の顔は羞恥に塗れた表情を浮かばせているでしょう。『ヒト』のように血液が流れているわけではありませんから、血液が集まって顔が赤くなる事はありません。しかし、その代わり私はまだまだ表情や感情を抑えると言う技術に不得手なのです。自覚して尚、表情を平坦なものに切り替えられないくらい。そんな私の表情を見抜くのはきっとフィエロにとっては普通に歩くのと同じぐらい簡単で…彼の顔に小さな笑みを浮かばせたのでした。
「何をやってるんだお前は」
「う、うー…」
何をやっているかと聞かれたら盛大に自爆したとしか言い様が無いでしょう。けれど、それをフィエロに伝えるのはどうしても気が進みません。別にプライドや意地などを持っているわけではありませんが、やっぱり大事な人にはあんまり恥ずかしい姿を見せたくは無いのですから。
「それより…どうしようか。ここじゃあ…眠りにくいしな」
そんな私の感情に気付いたのでしょうか。そっとフィエロは後ろを振り向き、話題を逸らしてくれました。まるでその間に冷静に戻れと言っているような彼の様子に私は大きく胸を膨らませて深呼吸をします。別に『ヒト』と同じように呼吸が必要と言うわけではありませんが、落ち着く手段としてはそれなりに有効でしょう。その証拠に二度三度、空気を中に取り込んで身体と頭をクールダウンさせた私は落ち着きを取り戻していました。
「石ばっかりで退けるのも大変だし…退けた所で水ばっかでぐちょぐちょになってるだろうしな」
「うー」
続く彼の言葉に周りを見渡してみると、確かに此処には石ばかりでした。山奥の水源地だからでしょうか、無造作に放って置かれた石がその土肌を隠していました。その上で眠るのは流石に『ヒト』であるフィエロには辛い事でしょう。『ヒト』も時には野宿をする生き物だとは聞きましたが、基本的に『ヒト』は定住する生き物です。自分で寝心地の良い場所を開拓し、作り上げる事をしてきた彼らが岩肌の上に眠るというのは強い苦痛が伴うでしょう。
―けれど…その石を退けたとしても…次に待っているのは水が染み出す地面なのです。
ここはこれから先、ずっと流れていくだろう川の大元。そこに含まれている水の量は決して少ないものではなく、滾々と湧き出る水源以外もまたかなり湿っています。石の上で眠るのに比べれば苦痛は少ないでしょうが、そこで眠るのは大きな不快感を感じてしまうことでしょう。下手をすれば石の上で眠るよりも辛いかもしれません。
―唯一、マシなのは切り株くらいですが……。
石よりも多少は柔らかく、地面のように湿っているわけではない。そんな切り株がここでは最も寝る場所に適しているでしょう。しかし、かと言ってそれはフィエロが眠るベッドにするには小さすぎます。私よりも二周りほど身長が高いフィエロがどう身体を縮めたとしても切り株の上に全身を収めるのは不可能でしょう。かと言って四肢が心臓よりも低い場所にあるというのはそこに血液が溜まってしまうと言う事でもあるのです。それは『ヒト』にとってはとても寝苦しい感覚でしょう。
「んー…どれを選んでも余りよろしくないな」
「うー…」
彼の言葉通り、どれも一長一短です。強いて言えば切り株の上が一番、マシかもしれませんが、それだって決して寝心地が良いとは言えないでしょう。元々、眠る為に作られたものではないから当然とは言え、どうしても寝具には劣ります。こんな山奥であるので別に最高の寝心地を提供したいと考えているわけではありませんが、それでもやっぱり一般的な寝具程度には身体を休ませて上げたいのでした。
―何か柔らかいクッションでもあれば話は違うのでしょうが…。
そうすれば石の硬さは軽減できます。そうすれば、クッションの柔らかさに寄りますが、寝具にも負けない寝心地が提供できるでしょう。しかし…こんな山奥にはそんな柔らかいものなんてあるはずがありません。私は内心、小さく溜め息を吐きながらそっと頭を抱えました。
―ん?
しかし、その瞬間、私の手にふにょんと柔らかい感触が帰ってくるのです。柔軟性があり、衝撃も吸収しているその感覚に私はそっと視線をそこへと送りました。こんな山奥には相応しくない柔らかい感覚は頭と手との設置面から生まれていました。まるで彼の言う『クッション』のような感覚に私は数秒沈黙し、そして名案を思いついたのです。
―私がクッションになれば良いじゃありませんか!
幸いにして私の身体は流動性。『ヒト』の肉よりも液体に近い性質を持っています。その気になればある程度、硬く出来るとは言え、普段の状態であれば強い柔軟性を伴っているのでした。序でに言えば私の身体はそこそこ鈍感で、痛みや圧迫感にもそこそこ強いのです。フィエロの体重がどれくらいかは私も知りませんが、きっと彼の身体が圧し掛かっても痛みを訴えることはあまり無いでしょう。
―それに…彼と密着すればまたあの感覚が味わえるかもしれません…♪
フィエロの優しい体温で身体が溶かされてしまう感覚は私にとって待ち望んでいるも同然の感覚でした。それを合法的に…いえ、副産物として味わえるかもしれない。そう思うだけで私の心は歓喜で躍り始めます。しかも…それをもう抑える必要がありません。フィエロも安らかに眠れて嬉しいし、私も彼と密着できて嬉しい。そんなお互いが得をする名案なのですから。
「うー?どうしたんだ?」
「うー…♪」
その結論に後押しされるように私の身体がそっとフィエロへとしなだれかかります。あまり彼が重いと感じないように体重を掛けすぎず、かと言って離れすぎない程度に。まだまだ私には経験が足りないので、その丁度良い感覚を掴むのに四苦八苦しましたが、一分ほど格闘してそれなりに良い位置を見つけました。彼の首筋にそっと息が掛かる程度の距離。それがとりあえずの私の居場所になったのです。
「うー♪」
そして丁度、良い場所を見つけた私はそのまま身体の線を広げていきます。まだまだ未発達な身体ではフィエロの全身を包み込むことは出来ません。けれど、その背中位であればカバーすることは出来るでしょう。そう考えた私の身体はまるで後ろからフィエロを包み込むような形へと変わりました。
―もうちょっと足首や手首辺りから先まではカバーする事は出来ると思っていましたが…。
けれど、これ以上、身体を広げるとクッションとしての役割を果たせなくなってしまいそうです。それではこうして彼の身体を包むように線を歪めた意味がありません。片手落ちになって少しだけ残念ではありますが、今の私ではこれ以上の成果を望むのは無理でしょう。そう結論付けた私はフィエロの身体をそっと捕まえながら、後ろへと体重を掛けていくのです。
「うーっ♪」
「え?す、すまん。何を言っているのかさっぱり…」
心配しないで、と一声かけたつもりですが、やっぱりフィエロには伝わっていないようです。そんな単純な一言でさえ伝わらないのですから、これから私がしようとしている事はを彼に理解してもらうのは無理でしょう。フィエロを怖がらせてしまうかもしれないので残念ですが、このまま決行するしかないようです。
「うー♪うーっ♪」
「え?ちょ…何を…うー!?う、うわぁ!?」
そう決意した私が後ろに体重を掛けていくとフィエロもまた重力へと引かれて背中を反り返らせます。それでも本能的な恐怖が邪魔しているのか、必死でバランスを取っていますが、既に身体の軸はブレていました。その状態でバランスを保てる筈も無く、数十秒ほどの拮抗状態の後、フィエロの身体は地面へと落ちてしまいます。
「あれ…?」
意外そうに首を傾げるフィエロはきっと強い痛みを想像したのでしょう。しかし、あるべき衝撃は全て私が吸収してしまったのです。硬い石と彼の身体の境目に入り込んだ私の身体が、彼を護るように。そんな状態にフィエロを追い込んだのは私であるとは言え、彼の役に立てていると言う事に私の心にまた歓喜の感情が宿ります。しかし、こうしてフィエロを受け止めている側である今、それを素直に表現することは出来ません。仕方なく私は身体の一部を蠢かせて、彼の頭を天辺から抱き抱えるような態勢へと変わり、喜びを表現する為にそっと微笑んだのでした。
「あぁ…なるほど。そう言う事か」
「うー♪」
察しの良いフィエロは今の状況を理解したのでしょう。首を傾げた数秒後には私の意図を理解したようにそう言ってくれました。頷くその表情は何処か悔しいような、あっけに取られたような表情に彩られています。私がここまで自分の身体を制御できるようになっているのが意外だったのでしょうか?いえ…でも、さっきはもっと難しい事をして見せましたし、あんまりそれは考えられません。そのまま数秒ほど上からフィエロを見下ろしながら考えてみましたが、結局、答えは出ませんでした。
「それでも一言くらい言ってくれても…いや…言っても分からなかっただろうが…」
「うー……」
不満そうなフィエロの言葉に私の背筋に嫌なものが走りました。私としては良かれと思ってやったことですが…どうやらフィエロを怒らせてしまったようです。思い返せば…勝手に結論を出して、相談もせずに行動に移したのですから当然かもしれません。強引なそのやり口は叱られても仕方のない事でしょう。
「…いや、別に怒っている訳じゃないんだ。ただ…」
「うー?」
けれど、フィエロの言葉をどうやらそれに怒っている訳ではないようです。驚いたように視線を彼に戻せば、不満そうな表情が苦いものに変わっていました。その胸中にどんな感情が渦巻いているのかは分かりませんが…余りフィエロにとって宜しくはない状態でしょう。
―ごめんなさい…。
彼は怒っている訳ではないと言ってくれましたが、そんな状態に追い込んだのは間違いなく私です。ならば…その償いをしなければいけないでしょう。そう思った私の身体は自然と動き、新しく作られた手が彼の頬をそっと撫でました。まるで赦しを乞うように何度も何度も。それに少しは気持ちを持ち直してくれたのでしょうか。少しだけフィエロの表情が明るいものへと戻りました。
「…すまない。気を使わせてしまったようだな。私は大丈夫だ。それよりありがとう」
「うー…」
さっきは心躍らせるほど嬉しかったありがとうと言う言葉。しかし、今はそれが余りにも無味乾燥的に響きました。彼が本当に喜んでくれているとは思えない所為でしょうか。勿論、幾つかは喜んでくれてはいるのでしょう。しかし…その言葉尻に苦々しい感覚が浮かんでいる所為で、言葉は同じ筈なのに、どうしても素直に喜ぶことが出来ないのです。
―…どうしてフィエロは喜んでくれなかったのでしょう…?
フィエロの身体を後ろから抱きとめるようにしながらも、その考えが離れません。勿論、私が少し強引過ぎたと言うのもその原因の一つであるのは確かです。けれど、強引な手法は今までだって何度かとっていることでしょう。それだけでフィエロがこうして表情を歪ませるとは到底、思えません。寧ろ…私の行為が彼の過去や心の傷に触れた、と言うほうがまだ納得できるのです。
―とは言え…やっぱりまだまだそれが何なのかは分からないのですが…。
一体、彼の心のどんな喫線に触れたのか。出来れば次に同じ轍を踏まないように教えて欲しいですが、彼は私に教えてくれません。それがやっぱり悲しくて私の心をズキリと痛ませました。一個人としての人格を確立し始めた私にとって、彼はとても大事な人なのです。その過去の事はどうしても気になりますし、教えてくれないと言う事が大きな壁のように感じてしまうのですから。
「うー…」
「…すまないな」
思わず漏れ出る小さな呻き声。それにフィエロは小さく謝ってくれました。きっと私の心の動きが彼にもある程度、伝わっているのでしょう。申し訳無さそうなその表情からもそれが分かります。しかし、彼はそれでも私に話してはくれません。まるで大きな岩戸のように彼の口は閉ざされたままで、踏み込もうとする私の足を阻んでいるのです。
―…それなら…仕方ありませんね。
本当は彼の心や過去に思いっきり踏み込んでいきたいのです。しかし…それをフィエロが拒絶している今、踏み込む術はありません。しっかりと経験を詰めば理詰めや言いくるめで彼の口から情報を引き出せるかもしれませんが…或いはちゃんとフィエロが私を信頼してくれれば何れは話してくれるかもしれません。しかし、今の私にはどちらも決定的に不足しているものでした。
―もっと…大人になれば…いえ…それを考えるのは野暮ですね。
それは他ならぬフィエロによって否定された考えなのですから。そう考えて私は胸中で小さな溜め息を吐きました。どうにも思考がさっきから悪い方向へとばかり進んでいる気がします。フィエロが慰めてくれた時はあんなに明るく様々な色に彩られていた筈の心も今は冷たく凍えそうになっていました。
「それじゃあ…俺は寝るよ」
「うー」
そんな私の視線の下で逃げるようにフィエロがそう言いました。それに短く「お休み」と言う意識を込めて返事をします。私の返事にフィエロは少しだけ笑顔のような表情を作ってからそっと瞳を閉じました。その余りにも無防備な姿で凍える私の心を少しだけ暖かくしてくれます。私に身体を預けてくれただけでなく、その意識さえも夢の中へと投げようとしてくれているのですから当然でしょう。
―そのまま数分もした頃には寝息を立て始めて…。
今日は色々あって疲れていたのでしょう。瞬く間に夢の中へと意識を落とし、規則的に胸を上下させる姿にそんな事を思いました。その疲れさせた原因である私は胸に小さな痛みを覚えます。しかし…『ヒト』あらざる身の私はその胸の痛みから逃げようにも眠る事さえ出来ません。睡眠を必要としない私の身体は夜もずっと起きっ放しでこの退屈と言う敵と戦い続けなければいけないのです。
―まぁ…それも今日はかなりマシではあるのですが。
こうして安らかな寝顔をフィエロが晒してくれているのです。彼の冷たい印象を加速させるその綺麗な双眸も目蓋の裏へ隠し、小さく口を開きながら眠る姿を見せてくれているのです。元々、整った顔をしているフィエロがそんな無防備になれば、勿論、『可愛い』と言う感情が加速するに決まっているでしょう。少なくともそれを間近で見ている私にとって、彼のそんな表情は例えようの無いくらい可愛らしいものであったのです。
―ふふ…可愛い寝顔…♪
胸の痛みや凍えから逃避するように私は彼の無防備な寝顔に没頭していきます。その肌のきめ細かさや睫の長さ。少しだけ開いた唇の妙な熱っぽさ。それら全てを余す所なく見つめながら、私は初めての『添い寝』を堪能し続けたのでした。
―あの運命の日から一ヶ月。
私が初めて彼と『添い寝』をした日。彼が初めて『お泊り』をした日。それは私にとって運命を別つ一日になりました。あの日、全身でフィエロを包むと言う『添い寝』の味を知った私はそれから色々と理由をつけて彼を引き止めるようになったのです。流石に、フィエロも用事があるのでそれに応えてくれるのはそう多くはありませんでしたが、その最中に私は彼に抱いている感情が『欲情』であると気付いてしまったのです。
―あれは…三度目の『お泊り』だったでしょうか。
何時ものようにフィエロの食事を手伝っていた最中に甘い痺れを味わいました。けれど、何時もと違ったのはそれが『疼き』である事に気づいてしまった事です。まるでお菓子のようにもっと欲しくなってしまうようなその甘い疼きは決して良い物ではなく、快楽を求める私の淫らな本性から生まれたものであると気付いてしまったのでした。そして、気付いてしまった以上、私の下腹部にドロドロと溜まっていくそれから目を背ける事は出来ません。抑えようとしているはずなのに、意識すれば意識するほど貪欲に彼を、そして快楽を求めてしまうのです。
―こんなんじゃ…淑女なんて遠いですね…。
フィエロの言うお淑やかで慎ましく、優しく素晴らしい女性。私なりにそれを目指そうと努力してきたつもりでした。しかし、私が今、抱いているこのドロドロとした欲望はそれとは正反対のものでしょう。そうと理解していても、フィエロを、そして快楽を求める思考は止まりません。彼がそれを決して望んでいないと理解している筈なのに、気が付いた時にはそれが頭や心に湧き上がってしまうのです。
―…やっぱり私は彼の事が『好き』なんでしょうか。
『ヒト』は交配する相手に『好き』と言う独特の感情を持つ相手を選びます。そして、私が内心、強く求めているのもその交配でしょう。一般的に言う生殖行動とは違えども、その相手としてフィエロを望んでいると言う事は私は彼を好いている事になるのでしょうか?
―そりゃ…勿論、フィエロの事は好きですが…。
彼は本当に様々な事を私に教えてくれているのです。感情だけのみならず、倫理や道徳。一般常識。世界の成り立ちから、魔術まで。生きていくのに必要な様々な情報を濃厚な講義の中で教えてくれたのでした。今、こうして様々な感情や知識を言葉にして考える事が出来るのも彼のお陰でしょう。それに勿論、強い感謝の気持ちを持っていますし、好きか、と聞かれれば彼の事は大好きです。
―だけど…それが交配相手としての『好き』と聞かれると自信がなくなってしまいます。
こうして私の身体がフィエロの事を求めている。それは間違いなく事実であります。だけど…私は他の『ヒト』を知りません。生まれてから殆どの時間を山奥で引きこもって生活しているのでフィエロ以外の人間に出会ったことなど無いのです。余り考えたくはありませんが、誰にも会った事がないが故に消去法で彼を求めていると言うのも棄てきれないでしょう。少なくともそれが『無い』と言い切れるほど、私の胸に抱く欲情は清らかなものではないのです。
―やっぱり…一度、山を降りてみましょうか…。
それは今までにも何度か考えた事でした。フィエロが住居を構える人里はこの山の麓あたりにあるそうなのです。そこまでどれくらいの時間が掛かるかは分かりませんが、こうして彼が昇ってきている以上、一日二日掛かる距離ではないでしょう。下りと言う事もあり、私の足でもそんなに時間が掛からないはずです。けれど、そこまで思っても二の足を踏んでしまうのはやはり種族の問題で…。
―…フィエロには山を降りる事を禁止されてはいないのですが……。
けれど、待ち合わせは常にこの水源地です。そこから離れてフィエロと行き違いになるのだけは可能な限り避けたい。その考えも私の足を鈍らせる原因でした。例え行き違いになったとしても二度と生き別れる訳ではないでしょうが、やっぱり私はフィエロの事が好きなのです。出来るだけ長い時間会いたいですし、機会があれば是非とも会ってみたいのでした。
―でも……今のままじゃ…。
今の答えの出ない状態で悶々としていても、何の進展もありません。フィエロは自分のペースで良いと言ってくれていましたが足踏みすることを肯定してくれた訳ではないのです。けれど、ぐるぐると答えの出ない仮定の問題を考え続けているのは停滞に他ならないでしょう。ならば、少しばかり強引でも状況を打開する為には自発的に動くと言うのが必要です。
「うー…」
この数週間、ずっとうじうじと考えた末の結論。それにようやく至り、決心した私はザパリと水の中から身体を引き揚げました。秋から冬に入ろうとするこの寒い時期では流石の私もヒンヤリとした冷たさを感じてしまいます。しかし、その冷たさは水源地で生まれた私にとってはあまり嫌いなものではありません。寧ろ、今の私にとっては思考に熱していた頭を冷やしてくれるようで心地良いものであったのです。
―さて…そうと決まればまずは下山ですね。
「…ようやく決めたんですか?」
「うじうじされっぱなしでこっちまで嫌な気分になるのはもう終わりなんですかー!やったー!!」
―この子達は……。
立ち上がった私の両脇から言葉と感情の波が伝わってきました。彼女らもまたフィエロに強い影響を受けているのでしょうか。その身体は確かなものになりつつあり、感情もまた豊かになってきていました。それは彼女らを『仲間』と呼ぶ私にとっては喜ばしい事でしたが、同時に小さな悩みの種を産み出す事にもなっていたのです。
「えぇ。ですから少しだけ静かに…」
「まったく…本当は答えを出してる筈なのにうじうじと…遅すぎですよ」
「これって実質、答え合わせに行くだけじゃないですかー!じゃあ、それだけの決心するのにこの数週間も悩み続けだったんですかー!やだー!!」
「う、うるさいですよ!!」
左右から時間差で叩きつけられる思考を跳ね返そうとしますが、中々、上手くはいきません。昔はあまり五月蝿くはしなかったと言うのに最近では私と同じように『自己』を確立しつつあるのか、機会があれば話し始めるのです。しかも、コミュニケーション維持の為に思考が繋がっている所為か二人とも妙に痛い所を突いて来るからとても困ってしまうのでした。
―まぁ…今でもフィエロが来てくれると騒ぐのは止めているのですが。
まるで全身全霊を彼の存在に傾けているかのように仲間達の声が聞こえなくなってしまうのです。それはきっと私が彼にそれだけ心惹かれていると言う訳ではないのでしょう。仲間達もまたフィエロに淡い好意のようなものを抱いているのです。だからこそ、彼が水源地に足を踏み入れるだけで喜び、私以外には決して届かない口を噤んで熱っぽくフィエロを見つめているのでしょう。
「あーあ…と言う事はこれで四六時中惚気られっぱなしの生活に逆戻りですか」
「また彼の事を思い返してにやける作業に戻るんですかー!やd…やったー!!」
「ま、まだそうと決まった訳じゃ…と、と言うかそんなににやけてますか…?」
そっと頬に手を当てれば、確かに何時もより緩んで水っぽい感じがします。自分の中の疑問を確かめると決心し、少し吹っ切れた所為でしょうか。以前に比べれば確かにそこは柔らかく、にやけているような感じがするのでした。あまり認めたくは無いですが、フィエロから貰ったお薬の所為で太った可能性も否定できません。そう思うとやはり一人の乙女として、胸にズシンと圧し掛かるものを感じるのです。
「また右斜め上に行ってる…。まぁ、別に良いんですけれど。それより早く行かないと日が暮れちゃうかも知れませんね」
「流石に夜になったら動くのは難しいんですかー!もしかしたら、迷うかもしれないんですかー!やだー!!」
「そ、それもそうですね…」
そう思うなら、出発前に足を鈍らせるような事をしないで欲しい。そんな事を思いながら足を進めました。残る仲間達にそっと手を振って、茂みの中へ。こんな山奥には道らしい道など存在しません。途中の川辺であればまだ獣道が作られる事もあるかもしれませんが、野生動物だってこんな山奥にまで水を飲みに来るような酔狂はいないのです。自然、私の住む周りには野生動物も殆どおらず、何度か暇潰しに探検をしてみましたが、一度も動物に出会う事はありませんでした。
「右斜め上に思考を進めて足を止めたのは貴女の方でしょうに」
そして当然のように付いて来る仲間が私を揶揄するようにそう言いました。その思考までしっかりと伝わっているのでしょう。何処かにやにやとしているような感覚が伝わってきました。余り愉快とは言えないそれにむっとして言い返そうとした瞬間、今度は逆側から感じた事のない歓喜の色が膨れ上がります。
「私の所為なんですかー!御仕置きですかー!!やったー!!」
「…え?」
「あ、間違えた。やだー!!」
驚いて伝わってきた方を見ると、必死で誤魔化そうと心を掻き乱す感覚が伝わってきます。まるでゴチャゴチャと糸が絡まりあうような思考の感覚は私にとっては馴染みの多いものでした。だって、何時もは私が誤魔化そうとする時にはそんな風に思考がごちゃ混ぜになってしまうのです。自分がする側ではなく、見る側に立つとは思っても見ませんでしたが、ほんの少しだけ新鮮でした。
「貴女…もしかして…」
「何の話ですか?私、実は虐められるのが大好きとかそんなんじゃないですよ?実は何時も弄られてる貴女を羨ましく思ってるとか全然、そんなんじゃないですから」
ぷいっと明後日の方を向くようにして仲間の一人が感覚を逸らそうとしています。しかし、繋がったままの意識がそれが誤魔化しであると告げていました。彼女も必死なのでしょう。私だって逆の立場――つまり性癖がバレそうになってしまったら同じように焦ってしまいます。
―…とは言え、ここでからかわない理由なんてありませんね。
何時もは私をからかってばかりいるのです。多少は反撃しても良いでしょう。それで少しは私の気持ちも分かれば、次から揶揄に手加減を加えてくれるかもしれませんし。そう思った私はさらに突っ込もうと頭の中で言葉を紡いでいきます。
「いや…私達相手に嘘つけませんからね。それに何時もの口調はどうしたんですか。アレってもしかしてキャラ付け…」
「何時も彼に向かって『うー☆』とか言ってる人にだけは言われたくありません。うー☆(笑)」
―それは私にとっては禁句も同然でした。
私だって好きで単音だけで会話しているのではありません。咽喉さえちゃんと形成されれば私だってもっとフィエロと色んなお喋りがしたいんどえす。しかし、急成長する仲間達に反比例するように一向に咽喉は成長していきません。未だに複雑な音を出す事は出来ず、単音だけで会話しなければいけない現状が続いているのです。お喋りしたいと言う欲求が満たされないと言う苦しさは大きなストレスとなって私の心に圧し掛かっているのでした。
―って言うか、そもそもそんなぶりっ子っぽく言ってません…!!
揶揄する為にあえてオーバーな言い方をしたのでしょう。それくらいは私にだって理解できていました。しかし、だからと言ってそれが許せるわけではありません。私の心のあまり触れて欲しくない部分に触れてしまったのです。燃え上がるようなその怒りは、その小さな言い方一つ見逃せない程、成長していました。
「おっけー。表へ出なさい」
「落ち着いてください二人とも。喧嘩なんて不毛にも程がありますよ。って言うかそんな風にしてたらこけかねません」
―…むぅ。
この期の呼んでもまだ何処か冷静な仲間がぽつりと言いました。確かに彼女の言う通り不毛は不毛です。しかし、最近、二人とも調子に乗り始めているのでした。私の方が成長の度合いで言えば遥かに上であると言うのに、揶揄する事が多くなってきているのです。別に上下関係にこだわるつもりはありませんが、ここらで一つ『躾』をしておくのも良いかも知れません。
―そう思って踏み出した足の先には地面がありませんでした。
いえ、正確に言えばあったのです。しかし、それは私の想定していた場所よりも遥かにしたでした。その小さなズレが私の中のバランスを崩し、軸を揺らします。思わず前のめりになり、重い頭の部分が前に出た事で一気に重力に引かれてしまいました。背筋を反り返らせてそれに堪えようと思う暇も無く、私の身体は思いっきり斜面に向かってダイブしていたのです。
「…きゅう…」
「うー」
ビタン!と言う激しい音共に私は斜面にたたきつけられていました。幸い、そのまま転がり落ちる事はありませんでしたが、一歩間違っていればそうなっていたかもしれません。そうなれば私といえども大事故になっていたことでしょう。そう思うと背筋に薄ら寒いものが走りました。
「ほら、言わんこっちゃ無い。さっさと立って下さいな。早く行かないと日が暮れてしまいますよ」
「うぅ…優しさが無い…」
暖かみもまるで無い仲間の言葉に私はゆっくりと立ち上がりました。そっと身体を見回してみましたが、葉っぱがくっついているくらいで、特に異常はありません。痛みや衝撃も独特の柔らかさを持つ身体が吸収し、逃がしたのでまるで残ってはいませんでした。私の身体の下敷きになった仲間から何の返答もありませんが、マゾな彼女はきっと喜んでくれているのでしょう。例えそうでなくとも、とりあえず歩くのには支障はなさそうです。
「貴女に優しくしてどうするんですか。私の優しさは全て彼のものであると決めています」
「仲間が露骨に冷たくしてくる…別れたい…」
冷たい仲間の言葉に涙が流れそうになりながら、私はまた歩き始めます。しかし、元々、とてとてとしていた足取りはより遅くなっていました。別にさっきの事故は痛くもなんともなかった――まぁ、少しだけ痛かったかもしれませんが、それだけです――ので、痛みを怖がっているわけではありません。しかし、痛みが無くともやっぱり、やっぱり頭から地面にダイブするまでのあの独特の浮遊感は怖いものなのです。急がなくてはいけないと分かってはいても、どうしてもそれを警戒してしまうのでした。
「馬鹿言ってないでもう少し急いでくださいな。このペースじゃ本当に日が暮れかねませんよ」
「う…うぅ…分かってますけど…」
しかし、一度、さっきの恐怖を覚えた私の足はそう簡単に進んではくれないのです。まるで一歩一歩、先の足場を確かめるようにゆっくりとした速度のまま変わりません。それに仲間があからさまな溜め息を胸中で浮かべられて、呆れたような感覚を送ってきました。
「まぁ、良いです。そっちの子もまだ意識が戻っていないようですしね」
冷たい仲間の言葉に逆方向に意識を向けるとマゾい仲間の方はまだまだ意識がブラックアウトしているようです。私に比べてまだまだ直接的な刺激に弱い彼女はそんなに重くない――こことっても重要です――私に潰されただけで意識を飛ばしているのでした。それはつまり私の勝ちも同然でしょう。そう思うと胸の中に微かな満足感とそれ以上の虚しさが去来するのです。
「う、うーん…重い…苦しい…あぁ…でも、それがイイ…かもぉ…♪」
「……」
「……」
「…満足ですか?」
「…ごめんなさい。今はそれを聞かないで…」
小さな呻き声やブラックアウトした意識の中に時折、喜悦を浮かばる仲間の感覚。それが私達にもはっきりと伝わってきているのです。それで満足などと言える訳がありません。さっきの時点でさえ勝利の喜びよりも虚しさの方が大きかったと言うのに、今はさらに虚しさが膨れ上がっているのですから。思わず「どんな理由があっても、戦いはいけない事だ」と私が学習するくらい、それは虚しい感覚であったのです。
「…っ!止まってください」
「う?どうしたの…」
胸中に巻き起こるその虚しい感覚にストンと肩を落とした瞬間、鋭い声が聞こえました。まるで誰かに聞かれたくは無いような小さなその声に私の足は自然と止まります。そのまま左右を見渡せば、私の他に草を踏み荒らす小さな足音が聞こえてきました。小さすぎて私には見過ごされていた――いや、聞き過ごされていた?――それも仲間にとって見れば確かな手かがリだったのでしょう。警告した仲間かたは珍しく緊張した感覚が伝わり、今にも冷や汗が流れそうでした。
「ど、どどど…どうしよう…!?」
「落ち着いてください」
こういう時、思考が繋がっていると言うのは便利です。どれだけ大声をあげても、仲間以外にはそれが伝わらないのですから。しかし、今の私にはその便利さを喜ぶ余裕などあろうはずもなく、パニックに近い状態に心を掻き乱していました。そんな私の感覚が全て流れ込んでいるのですから酷く不快だったのでしょう。イラついたような不快感と共に落ち着いた声が私に返って来ました。
「幸いにしてあちら側はまだこっちには気付いていないようです」
「あ、あちらって何なんですかぁぁっ!!」
「だから、落ち着いてくださいってば!!音が複数伝わってくるのに気付かないんですか!?」
珍しく焦っている仲間が言ったとおり、足音や葉擦れの音は時折、重なってもいますが一つではありません。最低でも三つ…いえ、恐らく四つでしょうか。流石にその全ては意識を集中させても分かりませんが、確かに微かに音が聞こえる範囲に私とフィエロ以外の生物は複数いるのです。
―しかも…それらはきっと……。
「…『あちら』って何だと思います?」
「一組以上の集団行動。それも葉擦れすると言う事はそこそこ大型ですね。しかも…一足ごとに大地を踏みしめるこの音は二足歩行生物独特のものであると推察します」
「それってつまり…」
「野生動物である可能性はとても低いって事ですね」
野生動物は全て単体や番のみで行動している…と言う訳ではありません。この山の中に居るかは分かりませんが、狼などは『ヒト』と同じように大きな集団を作るのです。しかし、大地に落ちた枝や葉をしっかりと踏みしめる音はそこそこ離れている筈の私たちにもしっかりと届いているのでした。私は資料でしかフィエロ以外の哺乳類を見た事がありませんが、体重がより分散する四足歩行では多分、そうはならないでしょう。
「それは…もっとに言えば…『ヒト』である可能性が高いって事ですね…」
「そうなりますね」
「……」
「……」
「…ちょ、いきなりハードル高すぎるんですけどおおおおおっ!!」
「さ、叫ばないで下さいってばっ!!」
五月蝿そうに仲間が言いますが、これで大人しくしていられる筈がありません。だって、最初は小さな野生動物なんかで慣れていこうと思っていたのです。人里に降りる間にそれらに出会えるだろうし、まずは自分以外の生物との触れ合いからステップアップしていく計画だったのでした。しかし、それはいきなりの『ヒト』とのエンカウントと言う形で脆くも崩れ去ってしまったのです。対人関係の経験値がフィエロしかない私にとって、それはパニックになるには十分過ぎるものでしょう。
「だ、だってだってだってだってだってぇぇ!!」
「だってじゃありません、まったく…。どの道、顔を出すには危険過ぎますよ。『ヒト』がこの辺りにまで踏み込んでくるなんて考えにくいんですから」
呆れたような感覚と共に齎された言葉は私にとってはとても意外なものでした。てっきり突撃しろと言われると思っていたのです。私相手にはとても容赦の無く、無慈悲で、冷酷な「それも伝わっているって理解してますよね?」…それでいてとってもプリティな仲間であれば、怖気づく私の背中を蹴っ飛ばすと思っていたのです。しかし、現実はそれとは異なり、寧ろ隠れているのを推奨しているようでした。
「樵さんと言う可能性は…?」
「集団で移動する樵と言うのは考えにくいですね。そもそもこんな山奥にまで足を踏み入れる理由が分かりません。斬った木を運ぶだけでも一苦労になるんですから」
「確かに……」
言われて見れば、こんな山奥にまで入り込んでくる理由が分かりません。以前、崖から見た景色はとても美しい反面、真下に広がる緑色の斜面が何処までも続いているように思えたのです。反対側までは見た事がないので分かりませんが、この山が実はこじんまりとしている、と言う事は考えにくいでしょう。さらに、フィエロのような例外を除けば、この辺りは野生動物でさえ近づかないような領域なのです。それはつまりここに近寄らなくても野生動物が分布できるだけの広さがあると言う事でしょう。それらの事を踏まえれば、『ヒト』がここに近づいてくる理由は殆ど無いように思えるのです。
「では、ゴブリンと言うのはどうでしょう…?」
フィエロが持ってくる教科書の中に書いてあった小人であれば、山奥に拠点を作る事も珍しくはないかもしれません。悪戯好きの彼女らは人を襲う山賊のような面も持っているのです。その拠点となる場所は人目に付かない場所の方が良いでしょう。そして、その条件として見れば、この山奥はピッタリです。
「どうでしょうね…。可能性はありますが、断言できる要素は無いと思いますよ」
「むぅ…」
けれど、仲間はそうは思ってはいないようです。断言出来る要素が無いと遠回しに否定していますが、同時にそれは無いと思っているのが伝わってきました。ただし、それは何らかの根拠のあるものではないようです。ナンセンスな物言いではありますが所謂、『女の勘』と言う奴なのでしょうか。彼女はどうやら相手の事を『ヒト』ではなく、人間であると思っているようでした。
「とにかく…ここはやり過ごすのが一番ですね。下手にトラブルを背負い込む必要はありません」
「そうですね」
少なくともその点においては私も彼女と同意見です。別に怖気づいている訳ではありませんが…いや、ちょっぴり怖がっているのはあるかもしれませんがそれだけではありません。仲間の言う通り、ここで顔を出すには不確定な要素が強すぎるのです。消極的であるとは私自身も思いますが、小さな所からコツコツとステップアップしていきたい私にとってトラブルを招きかねないエンカウントは出来れば避けたいものでした。
「う…うーん…」
「あら…ようやく起きたのね。寝ぼすけさん」
静かだった左側から伝わってくる感覚にそっと目線をそちらへ送れば、うごうごと仲間が蠢いている所でした。どうやらさっきの刺激から立ち直り始めたようです。それに少しばかりの安堵を覚えながら、私の意識は再び足音の方へ戻りました。さっきよりも幾分、足音が近づいてきましたが、それは多分、私に向かっているものではありません。恐らくですが、私の前の辺りを右から左へ通り過ぎようとしているのでしょう。
「なら…ここに隠れていれば、多分、やり過ごせますね」
仲間が先立って警告してくれたお陰で私の身体は伏せた状態で茂みの中へと入り込んでいました。お陰で独特の青みがかった身体の全てを自然の中に紛れさせる事が出来ていたのです。元々が水に近い色合いをしていますし、自然にあっても違和感のある色ではありません。このまま動かずにいれば多分、気付かれずに済むでしょう。
「ふみゅん…何がですか?」
まだ起き抜けでこの切羽詰った状況が理解出来ていないのでしょう。ようやく意識を取り戻した仲間はその不定形な身体を蠢かせて無邪気に聞いてきました。私よりもさらに子供っぽいその感情の波に自分の過去――と言えるほど長く生きている訳ではないのですが――を思い出し、苦々しいような微笑ましいような笑みを形作ります。そして、その瞬間、その仲間は歓喜の波を湧き上がらせました。この切羽詰った状況でどうしてそんな感情を抱くのか。それに首を傾げた瞬間、彼女はそっと顔をあげたのでした。
「あ、何だ。もう人里に着いたんですかー!やったー!!」
―その時の私達にミスがあるとすれば、自分達の感応能力を過大評価していたことでしょう。
言葉にせずとも伝わる私達の能力も、思い浮かべなければ伝わりません。そして、一から十まで一度に全て送られるわけでも無いのです。それを…あの水源地から殆ど出た事のない私達は気付いていませんでした。結果として…意識を取り戻した仲間に伝わったのは『近くに人間がいるかもしれない』と言う情報だけで、隠れていると言う事までは伝わっていなかったのです。
「あ…っ!ば、馬鹿ぁっ!!」
「え?えぇぇ!?」
その失敗をリカバリーしようと思わず仲間を茂みの中へと引き込みましたが、起こってしまった事は取り消せません。茂みの中で暴れるような動きをした私達はガサガサと葉を擦れさせ、大きな音を立てるのです。それは水のせせらぎと足音が小さく聞こえる山奥では余りにも大きなものでした。一気に緊張した空気が広がり、小さな沈黙が辺りを支配し始めました。
「…おい」
「はい」
次いで聞こえてきたのは野太い男性の声でした。フィエロの物とは似ても似つかない粗暴な声に私の背筋が完全に凍りついてしまいます。その声には明らかな敵意が溢れて、私を歓迎してくれているとは到底、思えません。その上、男性の声と言う事はつまり冷静な仲間が感じていた通り彼らが人間であると言う事で…。
「ど、どどどどうしましょう!?」
「どうしたもこうしたもないでしょう!?」
先ほどとは違い、こちらに真っ直ぐ近づいてくる足音。それはまだ私達を見つけた訳ではないのでしょう。保護色に包まれる私はそう簡単に見つける事が出来ないのですから。しかし、だからと言って、これから先も見つからないとは限りません。このまま声のした辺りを捜索されれば、そう遠くない内に見つかってしまうでしょう。その時…私はどうなるか。少なくともさっきの声の調子から察するに歓迎されるような事はなさそうです。
「に、逃げますか…?」
「逃げ切れる自信があるのならそれもいいかもしれませんね。でも…きっと無理でしょう」
こんな山奥であると言うのに彼らの足音はしっかりしていました。それは彼らが明らかに山歩きに慣れている証左でしょう。そして、私はまだまだ小さく、山歩きにも不慣れです。ここで思いっきり後ろ向きに駆け出しても、きっとすぐに追いつかれてしまう。それくらいは私の僅かな経験でも理解できました。
「あうあう…ご、ごめんなさい…」
そんな事態を引き起こしてくれた仲間はそっと謝意の感覚を行き渡らせました。本当に落ち込んでいるようなその様子に責めるような気持ちは沸き起こりません。状況もいよいよ佳境と言う段階に入ってきて、そんな事を考える余裕も殆ど無いというのもあるのでしょう。しかし、彼女は別に悪気があった訳ではないのです。意識を取り戻した時に彼女にちゃんと説明をしなかった私達にも責任はあるのでしょうから。
「良いですよ。それより…ここからどうにかする手段を見つけないと…」
「は、はい…わ、私も頑張りますね…!」
普段はまるでバラバラな私達の思考。それが一つの目的に収束されていくのは、独特の高揚感を伴っていました。団結する事で得られるその感情は私にとってとても久しい感覚です。仲間達にこうした自我が芽生え始めてからが、それぞれが思うとおりに別々の事を考え始めていたのですから。けれど、今、それが以前のように一つになっていく。しかも、それは後退ではなく、前進する為に。それが私の心を浮き上がらせているのでした。
「…とは言え」
「それでアイデアが出るとは」
「限らないんですよね……」
茂みを探る音はもう近くまで迫ってきていました。そう遠くない内に私達が潜むここにまで手が迫ってくるでしょう。そうなった時にどうなるかは考えたくもありません。けれど…その時は刻一刻と迫ってきているのです。それがまた憔悴となって私達の心に蓄積し始めました。
「…駄目元で逃げるのも良かったかもしれませんね」
「今更!?今更ですか!?」
「仕方ないでしょう!?私だって焦る時くらいあるんですから!?」
「け、喧嘩しないでくださいー!」
そしてその憔悴があっさりと私達の団結を打ち砕きます。あっさりと仲間割れを起こした私達の意識は喧嘩別れと言う形でそっと離れてきました。まだまだ考えを共有する根幹の部分は残していますが、さっきのような高揚感はもうありません。あるのは『良くない予感』が少しずつ近づいてきているという憔悴と不安感だけです。
「あ、あの…い、いっその事、自分から顔を出しちゃうのはどうです?」
「…確かに今のままじゃそう遠くない内に見つかってしまいますしね…」
仲間の意見をもう一人の仲間も肯定します。確かに二人の考えている通り、このままここに隠れ続けていても何時かは見つかってしまうでしょう。それならば早めに自分から出て行って、敵意がない事を示したほうが先の展開がまだマシになるかもしれません。
「…なら、満場一致で顔を出すと言う事で」
そう結論付けた事に二人からも肯定の意が伝わりました。それに一つ息を吐き、怖気づこうとする身体に活を入れながらそっと茂みから顔を出しました。勿論、降参の意を示す両手も一緒にです。けれど…それでも突き刺すような敵意の視線は治まりません。近くから一つ、そして遠くから十数にもなる視線が私に突き刺さっていたのです。
―こ…こんなに大勢いたなんて…
それは余りにも予想外な光景でした。人間の男性が十数人程並んでいるからではなく、皆一様に鎧や武器などの武具を身に着けているからです。しかし、その姿に統一性は無く、身に着けている鎧も武器もバラバラです。何処から調達してきたのか、身の丈にあわない武器を身に着ける男性もいました。それはつまり…彼らが正規の販売ルートでそれを買ったとは言えないと言う事でしょう。
―…つまり山賊って奴ですか…。
髭を伸ばし、汚れ塗れの姿は人里で暮らしているとは到底、思えません。それどころか半裸でモヒカンと言う良く分からない格好をしている人だっているのです。私の知る人間の文化ではそれは忌避されても仕方の無い格好でしょう。そんな集団が人間の集落に馴染んで暮らしているとはどうしても思えないのです。ならば…考えられるのは彼らがそこから爪弾きにされた、或いはされても構わないと考えている集団と言う事でしょう。つまり…山賊や野盗などの類が一番、濃厚になってくるのです。
「おい、お前」
「う、うーっ!?」
その中の一人――茂みを探るために私の近くまで接近してきた男性――に話しかけられた私は思わず上ずった声をあげてしまいました。しかし、それがいけなかったのでしょう。からかわれたとでも思ったのか、顎鬚を生やす男臭い顔を怒りに歪めました。
「あぁ?うーだ?何言ってんだお前?」
「う、うーっ!うー…」
私が単音しか発音できない事を必死で身振り手振りで伝えようとしますが、男性の怒りは収まりません。ついにその腰につけた剣を抜いて私に突きつけるのです。初めて見る刃の鋭い光に私の咽喉からは悲鳴にも似た音があがりました。しかし、男性はそれでも怒りを収めてはくれず、ギラついた目で私を見据えています。
「次…そんな事を言ってみろ。叩き切ってやる」
「ひっ…」
勿論、私には肺なんて器官はありません。しかし、恐怖が私の身体を一瞬で作り変えていたのか小さく痙攣した胸が悲鳴のような声をあげるのです。まるでひきつったようなその音はまるで助けを求めているようにも聞こえるのでした。しかし、剣を突きつけられている私を助けようとしてくれる人は誰もいません。寧ろ恐怖で固まる私を笑う人が殆どだったのです。唯一の例外――奥に見えるフードを被って顔の見えない男性――だけは表情が分かりませんが、きっと彼もそのフードの奥では笑いを堪えているのでしょう。
―嫌嫌嫌嫌っ!!怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いっ!!
そんな状況の真っ只中に置かれた私の心はその二つの感情で埋め尽くされていました。フィエロと接していた時とは比べ物にならないその負の感情は私の心をバラバラに引き裂いていくようでした。そして、バラバラになりそうな感情は今すぐこんな場所からは逃げ出したいと言う部分でだけ繋ぎ止められています。だって…こんな下卑た視線も、馬鹿にするような声も、あの場所ではなかったものなのですから。こんな風に…フィエロは私に剣を突きつけたりはしませんでした。どれだけ迷惑を掛けても…優しく慰めてくれたのです。けれど…この人たちは隙あらば私を馬鹿にして、傷つけようとしているのでした。それは私にとっては初めての感覚であり、出来れば知りたくなかったものなのです。
―でも、逃げたらきっと殺される…!
私に死の概念があるのかは謎ですが、きっと痛い事をされてしまうのでしょう。痛みに鈍感なこの身体とは言え、痛い事を続けられれば死んでしまうかもしれません。それは出来れば避けたい事でした。私はまだまだ知りたい事がありますし、フィエロに伝えたい事だってあるのです。その為にも消極的ではありますが、このまま穏便に事が進めばそれに越した事は無いと考えてしまうのでした。
「じゃあ、質問だ。お前はどうしてこんな所にいるんだ?」
そんな私に向かって一番、立派な装備を身に着けている男性が聞きました。それはさっき聞こえた声とほぼ一致します。恐らくはこの男性がリーダー格なのでしょう。辺りの下卑た笑い声も彼の言葉に道を譲るようにして収まりましたし、立派にこの集団を統一している事が分かるのです。
―で、でも…それに答えたらまた…!!
私の咽喉はまだまだ単音しか表現する事が出来ないのです。それだけ複雑な質問に答える事はできません。しかも、もし、答えたとしても剣を突きつけた男性にきっと斬られてしまうでしょう。それがどんな感覚なのかは今まで味わった事の無い私には分かりませんが、きっとそれは痛い筈です。
―ど、どうしましょう…!?
このまま黙り込んでいてもきっと状況は好転しません。それは私にも分かっているのでした。しかし、進むのも戻るのも私にとっては歓迎したくない結果が待ち受けているのは明白です。優柔不断な私はその足を止めて、どっち着かずのままオロオロとし続けるのでした。
「頭が質問してるんだ。とっとと答えろ」
そんな私を急かすようにひたひたと冷たい刃が私の身体に押し当てられます。鉱物特有のその冷たさは水の包み込んでくれるようなものとはまるで違いました。命を奪う冷酷さを孕んでいると直感で感じるそれは私の背筋を凍りつかせるのです。その余りにも強い恐怖に急かされて、私は決断しないままに口を開きました。
「うー…うーっ!」
「…舐めてるのかお前は!!」
けれど、それはやっぱり男性の怒りを買ったようです。その瞳に浮かばせた怒りをより激しいモノにして腕を振上げました。ぐっと力の篭ったそれはきっと威嚇ではないのでしょう。そのまま振り下ろされると直感的に悟った私はぎゅっと目を瞑って、身を縮めました。
「…待て」
「あ?」
そんな私の耳に制止の声が届きました。驚いて目を開けると剣を振りかぶったまま振り返る男性と、その視線の先でこっちに向かって歩いてくるフードの男性が目に入ります。けれど、私が驚いたのはその男性が制止の声をあげたからではありません。フードを被ったままの男性の声が聞き覚えのあるものだったからで――。
「こんな状況になっても、うーとしか言わないんだ。きっと話せないんだろう。なら、俺達の事を誰かに言われる心配は無い。下手に騒がずアジトに帰るべきだ」
「そいつは出来ないな、先生」
フードを被った男性――リーダーに先生を呼ばれたその人はその声に振り返りました。彼と対峙するように私に向けられたその背は決して逞しいとは言えません。けれど…今の私にとってそれはどんな城壁よりも堅固で、安全に感じられるのです。
「俺は完璧主義者なんだ。先生だってそれはご存知でしょう?仲間の為にも下手なリスクは背負うべきじゃねぇ。目撃者は全て殺すのが…俺のやり方だ」
「…そうか」
はっきりと私を殺すと告げたリーダーの言葉にも私の心はもう揺れ動きませんでした。だって…それはきっと無理なのです。どれだけこの人が凄んでも、きっと私は殺せません。それは別に私が死なないとか、そんなレベルの話ではないのです。私の前には…まるで私を護るようにして、この人が立ってくれているのですから。
「なら…ここで決別だな」
―そう言って、その人はそっと自らのフードを外しました。
そこからパサリと広がる髪は美しい白銀色をしていました。木々の間から微かに差し込む光をキラキラと反射する姿はまるで御伽噺に出てくる勇者様のようです。短く切り揃えられたそれは何時もより少しだけ汚れていましたが、その輝きは変わりません。何時もと変わらないように、何時も私に会いに来てくれるときと変わらないようにキラキラと輝いて私の心を照らしてくれるのです。
―フィエロっ!
フードを被った男性。それは私の大事な人であるフィエロでした。どうしてフィエロがこんな集団の中に居たのかは分かりませんが、今、大事なのは彼が私を護ろうとしてくれているという事です。それだけで私の心はさっきとは打って変わった信頼感や安心感などの暖かなものに満ち溢れていくのでした。そして、その暖かな感情が私の心の奥からまた燃え上がるような衝動を引き出していくのです。
―あぁ…やっぱり私は…貴方の事が…♪
今までその感情に結論付けるのを避けてきました。他の誰でも良いのではないかとずっと思っていたからです。しかし…今、確信しました。私は誰でも良かったわけではないのです。こうして数多くの人間の男性に囲まれても、私の心は燃え立ちません。ただ一人…世界でただ一人、フィエロに対してだけあの淫らで甘い欲望を抱いてしまうのでしょう。そして…今の私の心から確かに湧き上がるこの衝動はきっと『恋』と定義出来るもので――。
「先生…アンタ、頭に逆らうんですかい?」
「このまま…お前達がそいつを害すると言うのであればそうなるな」
私に剣を突きつけているという位置関係上、その人はフィエロの後ろに立っているのでした。しかし、彼はまるでそれを意に介しません。普段の白衣よりも似合っているフードコートをそっと脱ぎ捨て、無造作に立っていました。手に持つ木彫りの杖をリーダーへと突きつける姿もまるで淀みがありません。まるで身体中で私を護ろうとしてくれているかのように、その存在全てで周りを威嚇していました。
「先生…そいつは中々、賢い選択とは思えないんですがねぇ…。俺達はそこそこ上手くやっていけていたでしょう?」
「そうだな。それは否定しない。俺もお前達と同じクズだ」
きっとフィエロは彼らの中でもかなり重要な位置に居れたのでしょう。リーダーの男性は説得しようとしていました。しかし、それをフィエロはあっさりと袖にします。しかも、挑発するという手土産着けて。その表情は背中側にいる私には分かりませんが、きっと自嘲する様に歪んでいるのでしょう。微かに見える唇がそっと吊りあがる仕草から何となくそう思いました。
「クズとは…中々、手厳しい言い様ですな」
「事実だ。それはお前自身が良く知っているだろう?」
再び挑発するようなフィエロの言葉にリーダーはやってられないとばかりに首を振りました。恐らく説得は無理であると諦めたのでしょう。しかし、最初に感じたようなあからさまな敵意は感じられません。予想外の展開に彼もまた困っているのでしょうか。
「分かりませんなぁ…。利己主義であった貴方がそんなただのスライム相手にそこまで執着するなんて」
―ただのスライム。
そう。私はスライムなのです。それも何か特別な能力を持っているわけではありません。普通の個体よりも能力の高いレッドスライムでも、嗅覚を麻痺させ匂い中毒にするバブルスライムでも、強いサキュバスの魔力を受けて変異したダークスライムでも、海と言う環境に適応したシースライムでも…他、様々なスライムではありません。普通の個体よりも足も遅くてドジな何の変哲も無いスライム。沢で親から分離し、彼らの生活を邪魔しないようにと水源まで上って来ただけのスライムが私なのです。
「…俺の勝手だろう。それより…返答はどうする?」
そう自分を納得させる私とは逆でフィエロはそんなリーダーの言葉がとても不愉快なようでした。その声に強い苛立ちを浮かばせながら、答えを急かします。ぎゅっと力の篭ったその腕は今にも魔術を撃ちそうなそんな雰囲気でした。
「…分かりました。先生に無傷で勝てるとは思えませんし…ここは手を出しませんよ。…ただし、魔物を遠ざけるあの香水の作り方を教えて貰えるなら…ですがね。アレは俺達に必要なものだって言うのは先生だって良くご存知でしょう?」
―あぁ…なるほど……。
こんな山奥にまでこれだけの男所帯がどうやって上ってきたかと思えば、確かにその身体からは様々な魔物娘の匂いが漂っていました。声帯以上に後回しにされている私の嗅覚ではしっかりと受け止める事は出来ませんでしたが、意識すれば独特の甘ったるいメスのフェロモンを感じる事が出来ます。だからこそ、仲間はきっと彼らが人間であると感じていたのでしょう。しっかりと言葉には出来ませんでしたが、私にも宿る魔物娘の本能がきっとそれを嗅ぎ取っていたのです。
―そして…さっきの言葉が正しければ…。
フィエロの言葉が正しければ彼らはアジトへと帰る途中であったのでしょう。麓から山奥へと入り込もうとするその足の先がどこまで伸びるのかは分かりませんが、その行軍途中に魔物娘と出会っていた確率は高いはずです。しかし、魔物娘が溢れているであろう山奥を歩くにしては彼らの態度には強い余裕が見受けられました。さっき私を揶揄していたのも、その余裕の現れでしょう。しかし、その身体に魔物娘の香水が振り掛けられていて、魔物娘避けになっているとすればその余裕も理解できるのでした。
「断る」
しかし、そんなリーダーの言葉をフィエロをにべもなく切り捨てました。一刀両断と言う言葉が何より相応しいだろう断りっぷりにリーダーが意外そうな表情を見せます。それも当然でしょう。私だってその取引は悪くないものに思えるのです。リーダーは勝てないと言っていますが、それはあくまでも無傷の話。フィエロの詳しい実力は私も知りませんが、きっとこの数を相手では多勢に無勢でしょう。そもそも攻撃に詠唱と言う隙が生じる魔術師と言うのは前衛の援護があって初めて成立するものなのですから。
「それを聞き出したら用済みとばかりに始末するつもりだろう?お前は『完璧主義者』だからな」
「はは…先生にゃホント敵いませんなぁ」
フィエロの言葉に困ったように笑いながらも一瞬、リーダーの視線は鋭くなりました。フィエロではなく、その後ろに立つ男性に向けられたそれにそっと男性は頷きます。そして、すっと男性は剣を私から離しました。よどみの無いその動作はまるで最初から打ち合わせをしていたようです。多分ですが…このリーダーはフィエロの事を何れ亡き者にするつもりだったのかもしれません。そう思うと胸の内から小さな怒りが沸いて出てきました。
―この人たちは…!!
私はフィエロがどうして彼らと一緒に行動しているのかは分かりません。話を聞く限り、彼らとフィエロは良好な関係を保っていたようです。そこから察するに…彼もまたその手を血に染めていたのかもしれません。けれど、そんな事は今はどうでもいいのです。重要じゃありません。重要なのは…そんな関係にも拘らず、彼らはフィエロをあっさりと切り捨て、後ろから害そうとしている。それが私には我慢なりませんでした。
―でも…私に出来る事なんて…!
一般的なスライムであれば粘液で男性を絡め取る術も心得ているのかもしれません。しかし、私は産まれてからすぐに親元から離れてフィエロの教育を受けてきたのです。そういう意味ではまったく身体は成長しておらず、未だ少女としか表現できない体型でした。勿論、自由に出来る粘液は殆どありませんし、その方法もあまり理解していません。もっと過激な方法で言えば先日、果実を真っ二つにした技がありますが…あれは射程が短いのです。そもそも…怒りを覚えているとは言え人を殺すような覚悟はまだ私には無く、どうしても躊躇してしまうのでした。
「なら…殺り合うしかねぇなぁ!フィエロォォ!!」
今までの敬語を投げ捨ててリーダーが剣を抜いてフィエロへ向かって足を進めます。しかし、それはきっと囮。本命は後ろにいる男性の方なのでしょう。だって、そちらもまたその声を合図にして彼へと足を進めているのです。剣を振り上げながら近づいていくそれは明らかにフィエロを殺すつもりなのでしょう。
―そう思うともう我慢が出来ませんでした。
フィエロは無理な成長はいけないと言ってくれていました。けれど…こんな事態を引き起こしておいて何もしないでいられるでしょうか。ただ、助けられるのを待って、後ろで震えるお姫様のようにしていられるでしょうか。彼が血だまりの中に沈むかもしれないのと恐々として見つめているだけでしょうか。
―そんな訳…あるはずないでしょう…っ!!
私は別に多少傷ついた所で幾らでも修復が利きます。しかし、フィエロはそうはいきません。斬られればきっと大怪我を負いますし、死んでしまうことだってありえるのです。そして…死んでしまえばもう二度と会えません。どれだけ悲しくても辛くても、彼は二度と笑いかけてはくれませんし、頭を撫でてはくれないのです。例え…これから先、私が歪むとしてもそれだけは決して許容出来ない事でした。
―だから…っ!
その思いを胸に私の意識は咽喉の奥へと集中していきます。きゅぅっとそこが唸るような感覚に惹きつけられる様に、手や足から意識が離れ、声帯へ。まるで身体中がそこに集約していくような感覚は私を今までとは違うレベルの肉体操作へと誘います。今まではどれだけ願っても後回しにされていた声帯が凄まじい勢いで作り変えられ、完成へと近づいていきました。爪の先レベルまでをはっきりと意識し、認識できるようになった今の私にとって、咽喉を作り変えるというのはそう難しい作業ではありません。しかし、私の目的は声帯を人間に近づけて完成させる事ではないのです。その作業もそこそこに切り上げ、私はそっと口を開きました。
「ふぃろ! うひろ!」
「っ!!」
大事な場面にはギリギリ間に合った私の警告に彼の身体が反応してくれました。魔術を発動する為の呪文を詠唱しているのか。小さく口を動かしながら、横目で近づいてくる男性を捉えます。しかし、私の警告が数瞬ばかり遅かったのでしょう。既に両側から挟み撃ちが完成してしまった今では魔術を間に合わせたとしてもどちらか一方だけしか攻撃出来ません。仮に今の状態から逃げ出しても辺りにはまだ十数人もの荒くれものどもがいるのです。魔術師であるフィエロは多対多の戦いは得意でしょうが…少しばかり分が悪いでしょう。
―私も加勢しないと…!
相手を殺す覚悟はまだまだありませんが、私の柔らかい身体は彼らの剣や鈍器などからフィエロを護る盾になれるはずです。さっきはそれらの齎すであろう痛みに恐怖を感じていましたが、今はそんな事を言っている暇はありません。私ではなくフィエロが生きるか死ぬかの瀬戸際なのですから。多少の痛みは覚悟して、私の足も数歩踏み出します。
「――甘いな」
けれど、そんな私の耳に届いたのは強い自信に溢れたフィエロの言葉でした。そして、その言葉を文字通り、キーワードとして魔力の扉が開いていくのが『見えました』。その扉を通り、一瞬で世界を書き換えた魔術が烈風と言う形で駆け寄っていた二人を吹き飛ばします。剣を放して、私の脇を無残にも転がり幹へと頭を叩き付けて失神した男性の姿を見ながら、私はその桁違いの威力に呆然としました。
―…凄い。
まるでそこだけ竜巻が通った後のようにフィエロの周りは草木が捲り上げられ、抉れていました。小さなクレーターすら生み出しているその状況はさっきの魔術に篭っていた威力を感じさせます。直接的な殺傷力がある訳ではなかったにせよ、大の男二人をまるでゴミのように転がしていく威力は並みの魔術師にはそうは出せない威力でしょう。
―しかも…それをほぼ無詠唱で…。
私が知る魔術の基礎は殆どフィエロから教えられたものです。なので…私の考える魔術とフィエロの使った魔術はそう遠くないものでしょう。しかし、今の私の目の前の現実はそれを信じられなくするようなものでした。だって、私が知る魔術と言うのは基本的に詠唱をしないとロクな威力にならないのです。刻み込まれたルーンに魔力を注ぎ込むだけの簡易術式も存在しますが、彼が身に着ける装備品にはルーンが刻まれている様子はありません。そもそも、それを使っていたのだとすれば詠唱をするように口を動かしていた説明がつかないでしょう。
―ならば…これは彼が自らの口で詠唱し、唱えたものの結果であるとしか考えられません。
詠唱とは所謂、数式のようなものなのです。長ければ長いほど代入する魔力が小さくても大きな現象を引き起こせるのですから。無論、数式と表現される以上、途中で詠唱を切り上げる簡易詠唱と言う方法もありますが、無理矢理、詠唱を終わらせ、結果だけを引き出そうとする為、消費する魔力が通常の物とは比べ物にならないと聞きます。しかし、彼の口が動いていた時間を省みるに恐らく長くても三節が限界でしょう。それはこれほどの魔術を発動するには余りにも短すぎる詠唱です。ならば…彼がやったのは簡易詠唱なのでしょう。
―だけど…これほどの簡易詠唱が可能なものなのですか…?
一般的な人間の魔力の貯蔵量は簡易詠唱一発で枯渇しかねないものであると聞きます。ごくごく普通に使われている魔術でさえそうなのですから、これほどの規模を簡易詠唱で作り出すにはどれほどの魔力が必要な事か。実体験的に魔術を知っているわけではないですが、度を過ぎる魔力の酷使は倒れかねないと聞きます。しかし、私の前で堂々と立つフィエロにはそんな様子がまるでありません。何時も通り、自然体として…その素敵な姿で立っているのです。
「ぐっ…フィエロ…ォ!てめぇ…!!」
転がった先の岩で頭をぶつけたリーダーがふらつく身体を仲間に支えられながら立ち上がりました。手で押さえる額はどうやら割れているようで、多量の血が流れています。押さえる指の間からダラダラと血を流し、怒りに目を血走らせる姿はまるで鬼のようでした。
「何時もの魔術が全力だとでも思っていたのか?仮にも最高学府の一つに所属した人間を舐めすぎだろう?」
しかし、その怒りと殺意を真正面から受け止めるフィエロは飄々としているままでした。私にまで伝わってくるような激しい怒りや殺意をまるでものともしていないかのように冷たい笑みさえ浮かべています。それにリーダーは我慢しきれなくなったのでしょう。ぎゅっと手に持つ剣を振り上げて叫ぶように口を開きました。
「お前ら何をしてやがる…!囲んで殺れ!!」
「は、はい!!」
リーダーの一喝に余りの威力に怖気づいていた周りが動き始めました。しかし、それでもフィエロは動じません。杖を構えて冷静に詠唱を始めます。さっきの威力を見ていたからでしょうか。そんな彼の様子に目に見えて、周りの動きは鈍りました。下手をすれば大怪我をするかもしれない場所に向こう見ずに飛び込んでいけるほど、勇気のある連中ではないと言う事なのでしょう。
―ならば…今が好機です…!!
フィエロの放った魔術が余りにも大きな威力を発揮したので、思わず足を止めていましたが今の間であれば彼らとフィエロの間に割り込む事も可能でしょう。さっきの威力を見る限り私の助けが必要ではないかもしれませんが、だからと言って何もしないという選択肢はありません。そう思う私の足は再び動き出し、フィエロの前に身体を晒したのでした。
「っ!!」
そんな私の後ろからフィエロの作り出した雷の矢が飛んでいきます。一気に三つ飛んでいったその雷は私達の方へと進む幾人かを貫いてその場に膝を着かせました。しかし、こちらへと歩みを進めているのはまだ十人以上残っているのです。油断は出来ないと気を引き締めながら、私は彼を護るようにしてその身体を広げました。
「うーっ!止めろ!」
「でき、まえん!」
咎めるようなフィエロの言葉が後ろから届きますが、ここで止める程度の覚悟であれば最初からこんな事はしていません。まだまだ未発達な咽喉で彼に抗う言葉を紡ぎつつ、私は近づいてくる彼らを見据えます。
幾人かの犠牲は織り込み済みであったのでしょう。少なくない数がフィエロの雷に撃ち抜かれ、地面で痙攣していますが誰もそれを助けようとはしません。寧ろ今が好機とばかりに回りに広がって、的を絞れなくしていました。同時に後ろに控えた何人かがそっと弓を絞って、フィエロに狙いをつけています。見るからに作りの荒い弓の形ではありますが、放たれるのは本物の矢。私は兎も角、フィエロにあたれば洒落にならないのです。
「くそっ!!」
そんな状況にか、或いは言う事を聞かない私にか。フィエロが毒づきながら再び詠唱を開始します。さっきと同じ構成の詠唱から察するに、またあの雷の矢を放つつもりなのでしょう。それを私が感じ取った瞬間、何人かがこちらへと突っ込んできました。同時に何本かの矢が私たち目掛けて飛翔してきます。たった二人に行うには余りにも過剰すぎる攻撃の波は、詠唱前にフィエロを殺してしまう算段をつけているからでしょう。
―でも…それはさせません…!
「うぉぉぉ!!」
その内の一人が私の身体へと到達し、手に持つ鈍器を振り下ろしました。しかし、大きく撓った水色の身体はまるで応えた様子が無く、ふにょん、と言う音と共に鈍器をそのまま跳ね返します。自分の放った一撃を何倍の衝撃として跳ね返された男性は仰向けになるように後ろへと倒れこんでいきました。しかし、私はそれを見ている余裕はありません。放たれた矢は私の身体を貫く事はできず、そのまま勢いを失って地に落ちていますが、まだまだ攻撃はこちらへと飛んできているのです。まずはその対処を考えなくてはいけないでしょう。
―落ち着いて…私なら出来るのですから…。
矢や鈍器の一撃は転んだ時よりも多少、痛覚に近い感じではありました。しかし、我慢出来ないほどではないのです。元々、私の身体は鈍感な粘液で構成されているのですから当然でしょう。鈍器でこれなのですから、剣だってきっと痛くはない。そう心の中で念じながら、私は振り下ろされる剣を見据えていました。
「雷よ!」
そんな私を護るようにしてフィエロの詠唱が完了しました。さっきとは違い、五本に増えた雷の矢は各々の方向へと飛んでいき、彼らを倒れさせていきます。中には逃げようとしたものもいるようですが、追尾性が高いのかあっという間に追いついて例外なく地面へ縫い付けました。
「く…!!」
これでフィエロの魔術で倒れたのは九人。その全てが死んでいるわけではないでしょうが、当分の戦闘は不可能でしょう。状況が進展しないまま数的有利を失いつつあるリーダーは憎憎しげにフィエロと、そして私を睨みました。血のカーテンの間から睨みつける視線はさっきも感じたとおり、殺気に溢れていて背筋が凍ってしまいそうです。しかし、そんな私の背中をフィエロが護ってくれているのですから怖くはありません。とても素敵で大事で…そして大好きな人が私の後ろにいるのですから、怖くなどあろうはずがないのです。
「何、足を止めてるんだ!突っ込め!!」
リーダーが足を止めた仲間達を一喝します。しかし、瞬く間に彼らの戦力の半分が壊滅したのです。今、無闇に突っ込めば自分があの雷の矢の餌食になると言う事を多くのものが理解しているのでしょう。その足は鈍く、お互い顔を見合わせながらも、こっちへと近づいてはきません。
「…ここらが潮時だろう。このまま見逃してくれれば俺は何もしない」
戦意を失いつつある彼らに向かって、フィエロは冷静に言い放ちます。しかし、その言葉とは裏腹にその息は荒いものになり始めていました。きっと意識して堪えているのでしょう。そっと振り返れば、顔色一つ変えない余裕と言わんばかりの表情が目に入ります。しかし、近づいている私が微かに感じられるレベルで呼吸が乱れ始めているのでした。
―やっぱり…辛いのですね…。
そもそも魔術師と言うのは一人で戦うものではありません。前衛が安心して彼らを護り、詠唱を行って初めて成立する役割なのです。しかし、さっきからフィエロが使っているのは詠唱を途中で切り上げる簡易詠唱のみ。数的不利を早期に解消する為とは言え、その負担は大きなものになっているはずです。その身に孕む魔力がどれほどの物かは私も知りませんが、枯渇し始めていてもおかしくはありません。
「それじゃあ示しがつかないってのはお前も知ってるだろうが…!!」
しかし、辛いのは彼らの方も同じなのでしょう。血を流すリーダーに迷いは見えませんが、他の男性には明らかに迷いの色が見え始めていました。当然でしょう。だって、これはあくまでケジメをつける為の戦いなのです。命を懸けて戦ったとしても何のメリットもありません。これが盗賊や山賊としての仕事の中であればまた別かもしれませんが、得るものの無い戦いで身を投げ出せる人間と言うのは数少ないのです。
「それだけか?それはお前の私怨でないと誰が言える?」
「なっ!!」
―しかも…フィエロはそれを揺さぶりに掛け始めています。
ここが好機と見て取ったのでしょう。矢継ぎ早にフィエロは言葉を投げ掛けました。それに彼らの周りで顔を見合わせ始める者が出てきます。しっかりと統率されているように見えても、やはりリーダーに対する不信感はあったのでしょう。お互いに思うところがあるのか、顔を伺い合って意見を交換し合っていました。そんな仲間を不甲斐ないと感じたのでしょうか。血走った目で仲間を睨みつけながら、リーダーは大きく口を開くのです。
「チッ…!馬鹿どもが!!長引けばあっちに有利なんだぞ!!さっさと突っ込め!!」
「一番、最初に突っ込んで無様に負けた挙句、後ろで指示してるだけの奴に皆も言われたくないだろうさ」
「…んだとぉ!!」
揶揄するフィエロの言葉にリーダーは血走った目をこちらへと向けなおします。今にも爆発しそうなその瞳の色はそれだけの激情をこの男性が溜め込んでいると言う事でしょう。本人の身を焦がすようなそれは、まるで全身からオーラとなって迸っているようです。しかし…それでも何も出来ません。フィエロの言葉に多くの者が飲まれ始めているのです。そんな状態で一人だけ怒りを滾らせた所で孤立し、周りを冷めさせるだけでしょう。
「さぁ、どうする?俺は…別に次の魔術で全員を吹き飛ばしても構わないんだぞ」
そんな状況にトドメを刺す様にフィエロが頬をそっと上げながら言い放ちました。まるで全身から見下しているというオーラを吐き出すような姿に周りが一歩後ろへと引き下がります。彼らは今のフィエロの姿に気圧されているのでしょう。だって、彼の言葉が決してハッタリではありえないと言う事を目に見えて知っているのですから。最初にリーダー他一名吹き飛ばした魔術はそれだけの範囲を誇っている大きなものであったのです。
「くっ…くっくっくっくっく…!!」
しかし、その渦中にあるはずのリーダーは血塗れの頭を抱えて笑い出しました。今までの怒りや殺意を何処かへと置き忘れたかのようなその無邪気な笑い声は不利な立場であるリーダーには決して似つかわしくないものでしょう。腹の底から笑えて仕方ないというその姿は、余りにも不気味で私の背筋に嫌な汗を流しました。
「…何がおかしい?」
「せんせーよ。焦りすぎて墓穴を掘ったな?」
「…何の話だ」
この状況を切り返せる言葉があるとは思いません。しかし、リーダーの声には自信が満ち溢れていました。まるでフィエロの余裕が虚勢であるという証拠を握っているかのように、勝ちを確信した声であったのです。
「そんな魔術があるなら、最初から使ってるだろうが。今にも殺るか殺られるかの場面で情けをかけるような男じゃねぇだろお前は。だが、よくよく見れば部下どもも失神してるだけで死んじゃいない。以上の事から察するに…フィエロ。お前、もう必要最低限の魔術しか使えないくらい魔力がヤバイな?」
「…どうかな?試してみるか?」
―それはあくまで推察です。
だから、起死回生に見えるリーダーの言葉はきっとカマをかけているに過ぎません。フィエロもきっとそう判断したのでしょう。冷たく言葉を返しながら、杖を構えるのが分かります。私もまたそんなフィエロに応えるようにして、自信に溢れた表情を心がけるのでした。
「おいおい無理すんなよせんせーよぉ。…愛しのスライムちゃんが不安そうにしてるぜ?」
「っ!!」
それはあまりにも予想外な話の流れでした。だって、まさか私の事が二人のやり取りにあがるとは思っても見なかったのです。瞬間、私の身体はどうしても反応し、ビクリと身体を震わせてしまいました。それは他の者にとっては肯定するような反応に見えたのでしょう。そして…風向きが変わるのはそれだけで十二分すぎました。勝ちが近いと確信した彼らの目には再び敵意が宿り、各々の構える武器に力が篭り始めるのです。
―そんな…わ、私の所為で…!?
確かに一瞬、私はフィエロの表情を察して、不安そうな色を見せていたかもしれません。しかし、それはフィエロの挑発前。あくまでもこの流れが決する以前の事です。さっきのリーダーの様子から察するにそれを思いついたのは数秒前だったのでしょう。ですが、私の反応の所為でそれは現実味のあるものとして受け止められてしまいました。…そう。ここ一番で私はフィエロの足を引っ張ってしまったのです。
「って事だ!!突っ込め野郎共!!」
「「「おぉぉぉ!!!」」」
リーダーの声にあわせて雄たけびを上げた集団が何人もこちらへと突っ込んできます。それは勝利を確信した所為か、さっきよりもしっかりとしていて早い動きです。フィエロの詠唱が完了する前にその足を止めるのは難しいでしょう。ならば…私が盾となって護っている間に、詠唱を完成させて少しでも魔力を節約してもらわなければいけません。
「ふぃえお!」
「雷よ!!」
しかし、そんな想いを込めた私の言葉とは裏腹にフィエロはまた簡易詠唱で魔術を放ちました。さっきと同じように浮かんだ三つの雷の矢はそれぞれの方向へと飛び、地面へと叩き伏せます。しかし、この一撃でフィエロの顔には強い疲労の色が浮かび始めました。恐らく我慢出来る量を超え始めたのでしょう。時折、痛みに顔を顰める姿から強い頭痛を感じている事が分かります。
「わらい、まもりまふ!らから、えいしょーしえくだしゃい!」
「くっ!!」
後ろを振り向きながら言った私に辿り着いた何人もの武器が突き刺さります。しかし、これは私の責任。どれだけ痛みを感じても顔を歪める訳にも、後退するわけにも参りません。それに私達が無事にこの場を生き残るためには私がフィエロに傷一つつけさせないようにするのが重要なのです。包囲された状態からフィエロを護ると言うのは余りにも重い役目ではありますが、こんな状況に彼を引きずり込んだ女としてその責任くらいは果たさなければいけません。
「ははっ!辛そうだなせんせーよぉ!!愛しのスライムちゃんに護ってもらってそんなに辛いかよ?」
既に簡易詠唱を続ける魔力が枯渇しているのでしょう。形勢逆転を悟り、揶揄するリーダーの言葉にフィエロは答えません。その肩を大きく上下させて、きっと睨めつけるだけでした。よっぽど悔しいのでしょう。その瞳には先ほどのリーダーと比べても劣らない強い怒りが宿ってました。
「…めるな…!」
「あ?」
「舐めるなと言っているんだ!クズ野朗が…!!」
その声と共に崩れ落ちそうであったフィエロの身体が起き上がります。同時にぎゅっと力を込めて杖を構えたのが伝わりました。どうやらまだまだフィエロはやるつもりのようです。ならば…私も負けてはいられません。フィエロが少しでも詠唱に集中できるようにこの周りの連中を排除しなければいけないでしょう。
―でも…出来るのですか…?
ふと湧き出る自問。確かに私は彼らの戦闘能力を奪う術を持っています。以前、果実で実践したあの切断術。アレを使えば、彼らの武器を奪う事も可能でしょう。しかし…未熟な私の制御の仕方では、武器だけを狙う自信がありません。下手をすれば腕を、彼らの命を奪ってしまう事にもなりかねないのです。しかし…こうして命を狙われているというのに私はどうしても彼らを殺す決意を固める事ができません。今もこうして剣や矢を突き立てられているのに、鈍器で激しく叩かれているというのに、その命までを奪う覚悟を決められないのでした。
「大地の流れる脈動。其は命に彩を与え、育むもの。我は汝に願いを告げん」
そんな私の後ろでフィエロの本格的な詠唱が始まりました。それは今までの簡易詠唱とは異なり、まるで祝詞をあげるような荘厳な雰囲気です。フィエロが一節を呼び終える度に、まるでその別世界のような雰囲気が広がるように大きく膨れがあがっていくのでした。初めて見る本格的な魔術の詠唱はまるで世界を塗り替えるように空恐ろしく、そして…何処か神聖な雰囲気のものでした。
「巡れ。巡れ。巡れ。そして地の底より至れ。我が元へ。我が力へ。我が願いへ」
「くっ…詠唱をさせるんじゃねぇ!!」
二節目へと入るフィエロの詠唱を聞き、リーダーが焦ったような声を上げました。それに頷いた周りの攻勢が一気に激しくなっていきます。身体中に走る大小様々な痛みは私の心を全方位から突き刺しているように感じました。しかし、それでも私はフィエロを護るのを止めません。必死に痛みに堪えながら、身体をさらに広げて彼らを押し戻そうとするのです。
「この…っ!!スライム如きがぁ!!」
忌々しげにリーダーが言っている間にフィエロは三節を終えて、四節目へと入っていきます。彼の魔力の枯渇具合から察するに恐らく五節までの詠唱が限界でしょう。それ以上はきっと彼が壊れかねません。ならば、後十秒ほど…それだけフィエロを護れば決着が着くのです。そう心を落ち着ける私とは裏腹に、目の前の彼らは明らかに動揺の色を浮かべました。それも当然でしょう。だって、私に剣を振り下ろしていると言う事は、フィエロにも程よく近づいているも同然なのです。そんな状態で魔術を撃たれてしまえば逃げ場などあろうはずがありません。逃げるのか、それともこのまま攻め立てるのか。追加の指示が飛んでこない事に彼らは迷いを浮かべていました。
―そして、それが結果的に命取りになったのです。
「我と汝の契約もて、全ての穢れを祓わん事を!!」
明らかに迷いが纏わりつき、弱まった攻勢。それを受け止める私は何とかフィエロを護り通したのです。そんな私の後ろでフィエロの詠唱が終わりました。後は紡ぎ終わった構成に注いだ魔力をキーワードと共に放つだけ。
「アド・プレッシャー!!!」
水の精霊の力を借りた魔術。その名をキーワードにして顕現した力は私達の足元から一気に水を噴き上げました。丁度、私の足元までを効果範囲としていたのでしょう。そこから四方八方に噴き出る水流は私を囲んでいた人々を一気に押し流しました。まるで鉄砲水のような勢いを孕んだそれに彼らは押し流されるだけでなく、あちらこちらに頭をぶつけていたのでしょう。吹き上がった水が収まり、ぬかるんだ地面が見えるようになった頃には失神した彼らの身体がそこら中に転がっていました。
「ぐぁっ…」
「ふぃれお!」
しかし、その代償も決して少ないものではありませんでした。小さな呻き声を上げてフィエロもまたその場に倒れこんでしまったのです。土気色にまで青ざめた顔色は決して健康そうには見えません。頭痛を堪えるようにして額を押さえる手も震えて、その先の瞳もちゃんとした焦点があるようには思えませんでした。まるで死人のようなフィエロを私はそっと抱き抱えましたが、その反応は余り芳しいものではありません。
「う…あ…ぁ」
「ふぃえろ…ふぃえおぉ…」
かなり無理をしたのでしょう。今にも死んでしまいそうなフィエロの様子に私は必死に彼の名前を呼びますが、まともな反応は一つも返ってはきません。しかし、私はそんな彼に何をすればいいのかさえ分からないのです。フィエロをこんな風になるまで戦わせたのは私が原因だというのに、彼を助ける方法一つ思いつかないのでした。
「ぐ…お…」
「っ!!」
泣きそうになりながら必死にフィエロの身体を抱きかかえる私の後ろで小さな呻き声が聞こえてきます。驚いて後ろを見るとリーダーを含めた、三人かがゆっくりと立ち上がるところでした。リーダー以外はその手に弓を持っているので、恐らく全員、距離を取っていた人々なのでしょう。それが恐らく彼らと倒れ伏している人々との明暗を分けたのです。
「はは…っ!はははははははははっ!!」
そして、その中の一人であるリーダーは狂ったように笑い出しました。大逆転に次ぐ大逆転。それは彼の脳内に興奮物質を大量に分泌させている事でしょう。留め金が吹っ飛んだようなその笑い方はそうとしか思えません。
「勝った…!勝ったぞ俺は!!ざまぁみろ魔術師野朗!!」
「……」
―…勝った?
そう。確かに彼らは買ったのでしょう。フィエロはもう戦闘を行える状態ではありません。それどころか今すぐ医者に見せなければその命が危ないかもしれないのです。そんな状況にまで追い込まれているのですから…確かに負けてしまったのでしょう。
―ですが…それはつまりフィエロへの死と繋がるのです。
ここまでやっておいて彼らが情を見せるなんていう展開は期待できません。となれば…この後、無防備な彼を殺してしまうつもりなのでしょう。それくらいは私にも分かりました。けれど…私にとってそれは決して認めたくは無い。認めてはいけない事であったのです。
―なら…どうするのですか?
―そんなもの…決まっているでしょう。
今までずっと私に思考を明け渡していた仲間の言葉に私はそっと胸中で返しました。そのままフィエロの身体をそっとぬかるんだ土の上に優しく横たえます。汚れるであろう場所に彼の身体を置いておくのは心が痛みましたが…他に置ける場所もありません。仕方ないと自分に言い訳しながら、私はそっと地面に落ちた杖を拾ったのです。
「…なんのつもりだ?スライムちゃんよ」
「…これいじょー、むほーはゆるひません」
「…ぶっ…」
私の舌足らずな声にその場で意識を保たせる全員が噴出しました。やはり咽喉や舌が未完成な状態では格好もつかないのでしょう。それくらい私にだって分かっていました。しかし…しかし、それでも私は『それ』を言わなくてはいけません。後々、後悔しない為にも言わなくてはいけないのです。
―…甘いですね。
―知ってますよ、そんな事。
けれど、これは私の最大限にして最低限の譲歩なのです。それ以上もそれ以下も譲れません。これからする事に後悔しない為にも、私は彼らに『警告』しなければいけないのです。
「ゆるひませんだってか?ただのスライムが?俺達を相手に?」
「…もぉいちろ、いいまふ。これいじょーふぃえろをがいしゅるつもりにゃら、ようしゃはしましぇん」
「…やってみろよスライム如きが」
威嚇するようなリーダーの声に私の背筋が震えそうになってしまいます。しかし、もう後には退けません。元々、彼らは私を逃がすつもりなど無いのです。最初から殺害対象に入っているのですから、容赦などしてくれるはずがありません。ならば…こっちだってそんな事はする必要は無いでしょう。フィエロも倒れてしまった今…彼を護れるのは私だけしかいないのですから。
―では…やりますか。
―えぇ。
―腕がなりますね。
仲間の――私であり、他人である彼女らが応える声と共に私はそっと身体を作り変えます。人の身体を維持したまま、異形へと変わるその変化はきっと彼らには見えていないのでしょう。今から何をするつもりなのかとニヤニヤと余裕を顔に浮かべています。しかし…それが命取りになる事を彼らは知りません。ギリギリの場面で生還し、万能感を感じている彼らが見下すただのスライムがこれから行う事を彼らは想像もしてもいないのですから。
「「「大地の流れる脈動。其は命に彩を与え、育むもの。我は汝に願いを告げん」」」
「…え?」
それはきっと彼らにとっては理解出来ない事であったでしょう。だって、私と言う個体から三つの別々の声が聞こえているのですから。まるで私の小さな身体に別の何かが宿っているように、その声は淀み無く、紡がれ唱和されていくのです。両肩に生まれた二つの口と私の口は完全に一致していました。そしてそこから放たれる三つの声はお互いに響き合い、高まっていくのです。そして…数式である詠唱は増えれば増えるほど、重ねれば重ねるほどその威力を増す傾向にあるのですから、それはさっきのフィエロのものとは比べ物になりません。。
―そう。例えば…
―詠唱の途中でも
―その一部を顕現するくらいに。
「な、なんだ…これ!?」
驚いたようなリーダーの言葉に事態の全てが集約されているでしょう。だって、詠唱の途中であるというのに私の足元からは滾々と水が溢れ始めているのです。まるで私の詠唱に惹かれた水が我慢出来ずに溢れ出してしまったように。強い私の願いに水の精霊たちが力を貸そうとしてくれているように。それは彼らの常識では決して測れないものでしょう。私だって…こんなに凄い事になるとは思ってはいなかったのです。
「「「巡れ。巡れ。巡れ。そして地の底より至れ。我が元へ。我が力へ。我が願いへ」」」
―でも…私たちは言いました。
―容赦するつもりはないと
―しかし、彼らはそれを無視したのです。
単純計算で通常の詠唱の三倍の威力。しかし、完全に一致してお互いに絡み合い、唱和する声は三倍では留まりません。お互いに響き合い、相乗効果を生み出しながら高まっていくのです。その威力はもう人が死んでもおかしくないほどにまで高まっていました。けれど…私はそれでも止めません。だって、私は容赦をするつもりがないと…既に警告しているのですから。逃げるのであれば追うつもりはありませんが、私だって…フィエロをこんな風に追い詰めた一因でもある彼らに怒っていない訳ではないのです。ここで止めてやる道理などありません。
「え、詠唱させるな!!あのスライムを止めろ!!」
そんな私に強い危機感を感じたのでしょう。リーダーは私に向かうように周りに指示を飛ばしました。しかし…それは下策も下策です。まだ距離を取れば何とかなったかもしれません。しかし…今の私に近づこうとするなんて命を投げ捨てようとしているに等しいのです。
「「「流せ。流せ。流せ。穢れたるものを。忌むべきものを。汚穢を。禁忌を」」」
再び続く三重の詠唱。それに応えて湧き出る水が噴出する勢いに変わりました。そして、それを真正面からぶち当たった彼らの足は視界を水で塞がれて止まってしまいます。その間に詠唱は四節を終え、五節へと入っていきました。つまり…この魔術の最後。余波でこれだけの現象を引き起こす魔術の顕現が始まるのです。
「「「我と汝の契約もて、全ての穢れを祓わん事を」」」
「なんで…スライムが…魔術なんかああああっ!!」
驚きと怨嗟に満ちた声が私の耳に届いた様な気がしました。しかし…私はそれにもう心動かされません。呟くのはたった一言。それだけです。
「「「大好きな人に教えてもらったからですよ!」」」
唱和したその言葉をキーワードにして、先ほどのフィエロが放った『アド・プレッシャー』が世界へと顕現します。既に水を噴き上げている地面の後ろ――私の背中のさらに後方から激しく水を吹き上げて、彼らの身体を斜面へと押し流していきました。フィエロが放ったものとは比べ物にならないその威力はまるで土石流のように彼らを飲み込んでいきます。小さな地響きさえ鳴らしながら、何もかも飲み込んでいくそれらは木々すら薙ぎ倒し、山肌を荒地に変えていきました。
11/07/06 02:07更新 / デュラハンの婿
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