稲荷狐艶話(お試し版)
―誰にだって苦手な人間は居るだろう。
それは母親や父親を始めとする家族であったり、幼馴染であったり様々な場合が考えられる。しかし、その多くが大抵、幼い頃の経験や記憶から苦手意識が来ているのが殆どではないだろうか。
―少なくとも…私にとってはそうだ。
「顔を上げろ。…呼ばれた理由は分かるか?」
まるで抑え付けるような威圧感のある声に顔を上げると、私の目に初老の男が飛び込んできた。見た目の年の頃は四十の半ばほどだろう。誰もが思わず背筋を正したくなるような強面には威厳や経験が刻み込まれているかのような皺が幾つか見受けられる。しかし、まだまだ老いには負けてはおらず、その威圧するような切れ長の瞳を始め、全身には精気のようなものが溢れ返っているようだ。墨をかぶったかのような艶の無い黒髪には白髪が一本も見えない。恐らく男として最も脂が乗っている年頃であろう。しかし、この男は私が物心着くころから今の姿であるので、肉体年齢と実年齢とは大分、乖離していると言って良いだろう。
「いえ…まるで見当も…」
―そう言った私の言葉は少し震えていた。
私にとっては、この目の前の男は苦手と言う言葉では言い表せない程だ。こうして目の前に正座しているだけで、ピンと伸ばした背筋に冷や汗が浮かぶ。必死に押し隠そうとはしているものの、指先が震え、どうにも落ち着かない。足先も柔らかな座布団に体重を預けているはずなのに今にも逃げ出そうとしているかのようにピクピクする。
―落ち着け…大丈夫だ…!
必死にそう言い聞かせようとしていても、私の身体に刷り込まれた記憶がそれを阻む。丁寧に整えられた木々とそれを映す小さな池が襖の間から見えても、まるで心を落ち着けられない。目の前の男が好む質実剛健を現すような簡素なこの客間でさえ、戦場にいるかのように感じる。
「来月…お前も十五になるな」
―そして暖かみも何も無いこの男の言葉はまるで刃だ。
冷たい上に、下手に触れると斬れてしまいそうなほど鋭い。感情を一切込めず、ただ事実を羅列するだけの言葉は、身体に突き刺さるような錯覚を覚える。無論、それはあくまで錯覚だ。しかし、幼少の頃からこの男に苦手意識を植え付けられた私にとって、その痛みは何にも勝る現実である。
―だが…それに怯んでいる暇は無い。
一度、怒りに触れれば、烈火の如く怒り出すこの男を不快にさせる訳にはいかないのだ。罵詈雑言ですらないただの言葉でもこれだけの痛みになるのだから。
「はい…」
―私たち新加茂の一族にとって十五と言う年齢は特別なものである。
表向きは田舎の一豪族でしかない新加茂だが、その正体は帝の墳墓を護る墓守の一族だ。その支配地域には帝の墳墓が数多く隠されており、私たちはそれを様々な意味で管理する事を使命としている。そして、無論、その管理の中には盗掘者に対する制裁も含まれているのだ。
―その為、新加茂は昔から陰陽の術を得手としてきた。
盗掘者に一番、利くのは惨たらしい拷問ではない。呪いと言う目には見えない罰だ。人が行う拷問は捕まらなければどうとでもなるが、呪いはそうはいかない。盗掘した時点で惨たらしい結末が決まっているのに、誰が手を出そうか。無論、それを迷信と信じて墓を暴こうとする愚か者は何時の時代でも一定数居るものだが、それを罰するのが私たちの術である。
―そして、その術に欠かせないのが狐だ。
昔からこの地域を帝に任されてきた新加茂の一族にとって、妖力を持つ狐は代わりの効かない相棒であった。表向きは豪族である新加茂の手足となって働き、盗掘者を見つけ出す。初代頭首が飢饉の際に餓死しかけていた狐を助けた縁から、そんな風に新加茂に仕え、支え続けてきてくれた。その縁は今でも変わらず、『彼女ら』は本家の男子が十五になる日に契約し、その忠実な手足となって仕えてくれる。
―ただし、優秀な男子のみに。
新加茂がまだ小さい一族であったころは良かった。しかし、今は田舎に拠点を置くとは言え、立派な一豪族だ。何処から秘密が漏れるかも分からない。また、何時、身内に墳墓を暴こうとする人間が現れるやもしれない。その為、こうした秘密を知るのは同じ新加茂の中でも一握り…それも頭首に近く、さらに能力を認められた人間だけだ。
―そして…私は優秀ではなかった。
私がこの話を知っているのも、『優秀な』兄とこの男が話しているのを立ち聞きしたからだ。決して私が優秀だからではない。寧ろ、目の前のこの男に『役立たず』との烙印を押され、今の今まで突き放されてきた。
―だからこそ…どうして、呼ばれたのがまるで分からない。
優秀な兄ならばいざ知らず、今の今まで見向きもしなかった私をどうして十五を目前とするこの時期に呼んだのか。少なくとも叱責の類ではないだろう。見放されてから、今まで目立たぬ事だけを考えて生きてきたのだから。まして骨どころか精神まで金剛で出来ているかのようなこの男に叱責されるような事をしでかしたならば、私は既に鉄のような硬い拳で殴り飛ばされているはずだ。
「新加茂の一族にとって十五になる事は、生涯の友を得ることでもある。それも…知っているな」
「えぇ…」
言葉の端に苦々しいものを浮かばせているのは、私が図らずも盗み聞きしてしまった時の事を思い出している所為だろうか。確かにあの時はこの男――新加茂の現頭首であり、私の祖父でもある新加茂源重郎には珍しく気が抜けていた。少なくとも、兄が急に呼ばれた事に悪戯心を掻き立てられた十の子供の気配に気づかないくらいには。兄が五十年に一度とも言われる陰陽の才能を見せ付けた所為だったのだろうか。源重郎本人ではない私には見当もつかないが、その記憶が今、こうして言葉の端に浮かんでいる事くらいは推察できた。
「今日の話は、お前と契約する狐についてだ」
「しかし…お祖父様…っ!」
反射的に否定の言葉が出たのは、昔、源重郎に山ほど罵詈雑言を受けた所為だろうか。それとも私の中にも、この老練で強靭な男に対する反骨心がまだ残っていたのか。それさえも分からないまま出てきた言葉は、睨めつける様な強い視線に途中で遮られてしまう。まるで反論は許さない、と言わんばかりの圧力に私は抗う事が出来ないのだ。
「…何か不満でもあるのか?」
―分かっていてそう言う事を聞くのか…っ!!
値踏みするような言葉に、腹の底に冷たい熱が溜まるのを自覚した。頭が熱くなるほどなのに、腹の底がすっと冷えるような感覚。それに幼い頃からずっと溜め込まれ続けていた怒りが息吹を吹き返し、鳩尾の内側で蠢き始める。しかし、それを新加茂の家の中で絶対的な権力を握るこの男の前で出す訳にもいかず、小さく一呼吸する事で押さえ込んだ。
「……いいえ。何もありません」
―それはある意味、嘘であり、ある意味、本当の事だ。
理由は分からないが新加茂の家の中で狐を使役すると言う事は一種の証である。頭首からその能力を認められたものだけが狐を扱う事ができるのだから当然だろう。その事を知っているものは極一部ではあるが、狐を扱えるかそうでないかはこの一族の中では天と地ほどの権力の差が出来る。逆に、盗掘者への処罰を行う義務が生じるが、源重郎の手腕により治安が良くなってきた最近はその義務も半ば形骸化しているのだ。
―手に入る利益は上々。逆に不利益は殆ど無い。
そう考えればこの申し出は喜んで受けるべきだろう。少なくとも私自身のつまらない反発心で無駄にして良い話ではない。…しかし、同時にあまりにも旨過ぎる話に私の心の中で警報が鳴っているのも事実だ。
―この男が…ただ旨いだけの話を持ってくるはずが無い。
親兄弟でさえ道具として扱い、新加茂一族の利益を追求する事に何の躊躇いも持たない男なのだ。自他共に才能を認められている兄ならばいざ知らず、『使えない』と烙印を押したはずの私に、こんな良い話を持ってくるとは到底、思えない。
―なら…ここは…まず腹を探るべきだろう。
少なくとも何を考えているのか分からない状態で話を受けるのは論外だ。今は少しでも話を引き伸ばし、この男の真意を少しでも探るのが先決だろう。
「しかし…私などで本当に彼女たちの主が務まるのでしょうか…?」
「下らん駆け引きは止せ。元々、お前には何も期待しては居ない」
―お見通し…か。
突き放すような冷たい言葉に、背筋に鳥肌が浮き立った。同時に、元々、冷や汗が浮かんでいた所為か、ぞっとするような感覚が背中から這い上がってくる。それを振り払おうにも、緊張の所為か私の全身は凍ったように動かない。
「今回、お前を呼んだのは―」
「失礼します。お茶が入りました」
そんな暖かい声と共に俺の右手側の襖がそっと開く。望外の助けに身体の緊張が解れるのを感じながらそちらを向くと、一人の女性が漆を塗られた木製の盆に二つの湯飲みを載せて客間へ入ってくるところだった。
「…三ツ葉様…」
―その女性は、この新加茂の家の中で唯一、源重郎へと意見できる貴重な人であり…そして私の初恋の人でもあって…。
そして何より美しい方でもあるのだ。秋にたわわに実る稲穂のような金色の髪は庭から差し込む昼の光に当たって、僅かに色を変えていく。枝毛の一本も、癖の欠片も無い美しい髪は腰までそっと流れていた。それが見せる様々な表情に目を奪われてしまいそうにさえなってしまう。また純金を職人の手で削り上げたような瞳も魅力的だ。共にこの辺りでは滅多に見ない色であると言う事もあり、奇異に映ると同時にどうしても目を惹かれてしまう。
そして目を引かれた先に映るのは、その美しい顔だ。頬から顎に掛けて流れるような細い線も、すっと筋の通っている形の良い鼻も、若干、目尻が垂れ下がっていてこの女性の温和そうな雰囲気の一助となっている目も、どれも芸術的な配置だ。一つ一つを取っても間違い無く美しいのに、お互いを引き立てるような配置が香り立つような魅力を与えている。
また、濡れた紫陽花色の生地に桃色の石楠花模様を縫いこんだ着物は、派手さは無いものも人目で上等な一品だと分かるだろう。しかし、その下に隠されているであろう魅力的な肢体がその感想を全て吹き飛ばす。本来であればそれだけでも目を引くであろう一品が、全体の線は細いが、男好きする部位にはたっぷりと肉を付けている身体の引き立て役に成り下がっているのだ。下手をすれば均衡が崩れ、女性の持つ雰囲気を損なってもおかしくないが、眩いばかり魅力がそれを保たせ、温和な雰囲気の中に取り込んでいる。
「誠示朗様、お久しぶりですわ」
そっと微笑む笑顔が、まるで太陽のように感じる。さっきまで源重郎と二人きりだったのもあるから尚更だ。自然、その笑顔に惹きつけられる様に笑みをこぼしそうになるが、不機嫌そうな咳払いが一つなって中断させられてしまう。
「…三ツ葉。コイツに茶は要らんといった筈だ」
咳払いをした主―源重郎の瞳に明らかに不機嫌そうな色が浮かんでいる。それは話を中断させられたのもあるだろうが、一番の理由は…三ツ葉様に横恋慕していた私の目の前に彼女が姿を現した事だろう。
―相変わらず…新加茂の名と三ツ葉様にだけは執着を見せるんだな。
親兄弟でさえ一切の執着を見せないこの冷血漢が唯一、人で執着を剥き出しにするのが三ツ葉様に関しての事だけだ。普段は滅多な事があっても弱味を悟られる様な表情一つ出さないのに、三ツ葉様の事だけはこうして強い表情を露にする。
―まぁ…その気持ちは分からなくも無いのだが。
三ツ葉様はとても魅力的な女性だ。容姿的な美しさもそうだが、特に内面の魅力に溢れている。源重郎に叱られている時に助けてくれたのは殆ど兄か三ツ葉様であったし、「役立たず」の烙印を押されても以前と変わらず優しくしてくれた。何より、この気難しい男と長年、連れ添っているのだ。その優しさと器量は千尋の谷よりも尚、深いだろう。そして…その優しさと暖かさに誰もが惹かれてしまう。少なくとも私はそうだった。
―それが源重郎としては面白くないのだろう。
三ツ葉様の『主』であり、新加茂の一族の中で絶対的な権力を握っているとは言え、源重郎もまた一人の男と言う事だ。好いた女性が、横恋慕されるのが面白いわけではない。自然、私を遠ざけようと辛く当たってきた時期も無い訳ではなかった。
―まぁ…とっくの昔に諦めているんだがな。
そもそも三ツ葉様の目が違うのだ。源重郎を見る時と…その他大勢を見る時と。無論、彼女はその他大勢にも優しい。度を外れていれば苦言も呈してくれるし、頑張れば褒めてくれる。しかし…それでも違うのだ。源重郎という稀代の名頭首を見る時の恋する乙女のような瞳と…その他の―『源重郎の家族』としての私たちを見る時と。
「あら…お孫さんとは言え、誠示朗様は立派なお客様ですわ。お茶をお出ししない訳には参りません」
「いえ…あの…お気遣い無く…」
―それを本人が気づいてないのだから、一番、性質が悪い。
普段、理知的で威圧する巨人のような男がどうしてか色恋にだけは疎い。源重郎が『役立たず』と言った私でさえ明確に区分されているのに気づき、その恋の終わりを悟ったと言うのに、本人だけはその差を理解していないのか、少し他の男に三ツ葉様が優しくすると敵意に溢れた視線で見つめてくるのだ。無論、こうしてお茶を出そうとしている今も苛立たしそうに私を睨めつけている。
―まるで…針の筵だ…。
無論、三ツ葉様にこうして優しくされるのは嬉しい。初恋が終わったとは言え、三ツ葉様は麗しい女性なのだ。そして、男と言う生き物はそうした女性に優しくされて決して悪い気はしない。しかし、源重郎の刺す様な視線の前では、下手に鼻の下を伸ばすわけにもいかないのだ。かと言って、三ツ葉様を強く拒絶するわけにもいかず…ちょっとした板挟みが私を苛む。
「…はぁ…分かったから、早く下がれ」
そう言って、源重郎は右手でそっと目頭を押さえた。こうして弱っているような仕草を見せるのも…三ツ葉様が居るからだろう。普段、私やその他大勢の前に立つこの男はまるでこちらを抑えつける巨大な壁のようであり、弱味一つ見せないのだから。余りにも巨大な威圧感に足が竦む反面、「この男に着いていけば大丈夫だ」と無意識に信じさせられてしまう新加茂家頭首がこうした仕草を見せるのは三ツ葉様の居る場面以外に私は知らない。
―そして結局のところ、折れるのは何時も源重郎の方だ。
何だかんだ言ってこの男は三ツ葉様に甘いのだ。惚れた弱味か、それとも長年一緒に居て敵わなくなって来ているのか。苦手な反面、偉大な頭首としての源重郎しか知らない私にとって理由は分からないが、それでもこの男が三ツ葉様に勝った所を見た事が無い。
「はい♪では、誠示朗様、少し前を失礼しますね」
言いつつ、三ツ葉様は私と源重郎の間にそっと腰と盆を下ろした。身体に通る軸を揺らす事無く、そっと降りてきた腕は衝撃を完全に殺し、湯呑みの中で湯気を湧き上がらせている茶に波紋一つ出さない。相変わらず見事な重心の制御に感心する暇も無く、私の前に湯呑みを置こうと三ツ葉様が前屈みになる。
―あ…良い匂い…。
金色の髪が流れ落ちることで露出したうなじから三ツ葉様の体臭か、甘い香りが立ち上る。花の甘い蜜を濃縮したような匂いは、意外なほど甘ったるくは無い。何処か清々しささえあるその匂いは、私の中の男を強く惹きつける。
「…三ツ葉。私の分は良いから、早く帰れ」
甘いその匂いに陶酔しそうになる寸前、冷たいその言葉に意識が現実へと引き戻される。ハッとなって源重郎の顔を見ると…その顔は意外なほど冷静であった。三ツ葉様の匂いに惹きつけられていたのを、気づかれていなかったのかもしれないと胸を撫で下ろそうとした瞬間、私の心の臓を針が突き刺す。
「…私はコイツと話がある」
―…これは私の人生は終わりかも知れんな。
その言葉と共に向けられた視線は殺意さえ篭っていた。源重郎が理知的な人間でなければ、今すぐ首を絞められていたであろう程の殺意が明確に向けられている。さっきまでの威圧感がまるでお遊びに感じるような視線に、心臓が高鳴ったのがさっきの針に刺されたような痛みの正体だろう。そしてその痛みは今も続くどころかより強く、より大きくなっている。まるで全身がここから逃げ出せと警告しているようだが、俺の両足はじっとりとした汗を浮かべるだけで再び固まっていた。
「はい。では、誠示朗様。ごゆっくり」
―…あ、あんまりこの状況でゆっくりはしたくないんですが……。
ただの挨拶である事を理解しても、思わず心の中でそう呟いてしまう。しかし、それを口に出す事も出来ず、俺の顔は曖昧で若干引きつった笑顔だけ浮かべた。それに三ツ葉様が笑顔で答えて、そっと手を振ってくれる。まるで「頑張って」と言ってくれているような優しい仕草ではあるものの、今の状況では火に油を注ぐ行為でしかない。再び三ツ葉様が盆を持って、客間から出て行った瞬間、再び威圧感が膨れ上がる。元々、体つきがしっかりしていて長身に見える源重郎が二倍三倍に膨れ上がっていくようにさえ感じるそれに私の頬は再び引きつった笑みを浮かべた。しかし、さっきとは違う意味で。
―これは…本当に終わったかも知れんな…。
人間は真の恐怖に出会った時、顔に浮かべるのは涙ではなく、笑みだと言う。それは多分、間違いではないのだろう。何故ならば今の私がまさにその状態だからだ。どうして今、笑みを浮かべているのか、その理由までは分からないが、源重郎は私の笑みを見てもニコリともしない。元々、無感情で無表情な鉄面皮を顔に貼り付けているような男だが、今はそれに加えて顔のすぐ下で溶岩のような熱く、井戸の底のように暗い感情が煮えたぎっているように見える。
「三ツ葉は…私のモノだ」
搾り出すようなその声は今までの声に比べれば小さかった。しかし、それに反比例するかのように中には溢れんばかりの感情が込められている。殺意や怒り、嫉妬を始め、負の感情ばかりを煮込んだようなその声に涙さえ浮かびそうになる。しかし、下手に黙り込んで今の状態の源重郎を刺激するわけにもいかず、私は必死に首肯を示す。
「私の使役狐だ…。それは分かっているな」
―そう。三ツ葉様は正確な意味での『人間』では無い。
三ツ葉様は新加茂家現頭首の源重郎が契約し、使役する狐だ。表向きは源重郎の妾となっている為、人間の姿をしているが、変化の術を解けば、頭から飛び出る狐の耳と尾が見えるだろう。私はその姿を見た事は無いが…盗み見た兄が言うには「大して、普段と変わっていない」らしい。悪戯好きだが、嘘を何より嫌う兄がそう言うのであればきっとその通りなのだろう。
―しかし、三ツ葉様も昔から今の姿と言うわけではないらしい。
私より五つほど年上の兄が物心着く頃は、まだ今の姿では無く、普通の狐そのものであったらしい。その頃から祖父に懐いていた三ツ葉様は良く、源重郎の膝の上で眠っていたそうだ。幼い頃から陰陽の才能に長けていた兄は、それが妖力を持った狐であると知っていたそうだが、ある日、唐突に三ツ葉様が今の姿へと変わったらしい。
―それがどうして今の関係になったかは…兄も私も知らないが。
しかし、十五の年からずっと一緒に過ごした友のような存在が、ある日、魅力的な女性へと変わればどうなるか。想像に難くない。無論、私の下衆な想像よりも源重郎や三ツ葉様は悩んだのだろう。元々、源重郎は政略結婚で子供を成し、妻を殆ど愛していなかったとは言え、外聞も、祖母の家との折り合いもある。祖母が既に死んでいて、源重郎が独り身であったとしても、妾としてでさえ、迎え入れるのには紆余曲折あったのだろう。
―しかし、それを乗り越えて、今、二人はこうして結ばれている。
正直に言えば私は源重郎が嫌いだ。憎んでいるとさえ言っても良い。毎日、顔を見合わせる度に罵詈雑言を投げかけられた時期――まぁ、私が三ツ葉様に横恋慕していた時期なのだけれど――もあるのだ。そんな相手を好きになれるわけが無い。
…しかし、しかしだ。同時に私は源重郎を尊敬していたりもする。田舎の豪族と言う閉じられた血縁の中で、何の後ろ盾も無い三ツ葉様を迎え入れ、それを認めさせているのだ。その手腕を始めとする能力は私などでは及びもつかない。源重郎の言う通り『役立たず』で何の才能も無い私には決して同じ事は出来ないであろうから。だからこそ、私は源重郎を嫌う反面…その能力に尊敬の念を抱いてしまうのだ。
「え…えぇ…それはとても良く…存じております」
そんな複雑な思いを込めて、示した肯定の言葉に源重郎は若干、冷静になったようだった。肌が逆立ち、瘡蓋を引き剥がされていくようなピリピリとした感覚がすっと薄れる。無論、まだ刺すような感覚が残っているが、先ほどのような押しつぶされるような圧力は無い。まだ安堵のため息を吐けるほどではないが、一旦は矛先を収めてくれたようだ。
「ならば…契約の件は異論無いな?」
―言外に「だから、三ツ葉には手を出すなよ」と言う意味が含まれているその言葉をどうして拒絶出来ようか。
まだ私の中の疑問が晴れたわけではない。晴れた訳ではないが…ここで首を横に振ればそれこそ、この男は激怒するだろう。ただでさえ、三ツ葉様に惚けてしまったので、心象が悪いのだ。これ以上、要らぬ疑念を抱かせても意味が無い。どの道、頭首であるこの男が決めた事に反対できる者など、一族には一人しか居ないのだ。それならば、少しでも疑念を消してもらう為にも、大人しく頷いておいた方が幾らかマシであろう。
「…はい。私などで彼女らの主が務まるか不安ですが…謹んで承ります」
―本当に…な。
私はこの新加茂の家の中では『役立たず』として有名だ。そんな私に彼女たちが…ちゃんと主として認めてくれるだろうか。無論、彼女たちは基本的に穏和な性格の者が多い。しかし…新加茂の家の中では主と従者はある意味、同種と見なされるのだ。私の使役狐となる者も…私と同じく『役立たず』と見られる事を嫌がるのではないだろうか。そんな不安が私の中で渦巻きつつあった。
「……あぁ、それで良い」
肯定の返事に源重郎は頷きつつ、視線を逸らした。同時に、心臓を針で刺されていたような錯覚が消え、私の身体に熱と感覚が戻るが、びっしりと逆立つ鳥肌や、それに浮かぶ冷や汗はまだ残っている。冷え込んだ身体に汗が滲む感覚はどうにも不快であるが。それも余裕のある今だからこそ感じられると思えば、歓迎したい気持ちにさえなった。
―さて…問題はこの後だ。
そう自分に言い聞かせ、二、三度、意識して呼吸する。どう考えても私に狐と契約させるのは本題ではない。何時もの源重郎であれば、ここから無理難題に持って行くだろう。さっきまでの問答ではそれが何なのかその片鱗さえ掴めなかったが、少なくとも楽なモノではない事だけは確かだ。
―何せ『役立たず』の私を引っ張り出したのだからな。
表向きの新加茂の仕事であれば他にも適任者が山ほど居る。最近はめっきり無いと聞くが、裏の仕事であっても兄を始めとする優秀な男子が居るのだ。それなのに、わざわざ私を狐と契約させてまでさせる仕事とは何なのか。…一番、可能性が高いのは捨て駒や人質であろう。自分自身で認めたくは無いが、私を最も有効的に活用できる方法などそれくらいだ。私自身、何をさせても十人並な上、全ての面で上回っている兄が居るのだから。下手に私に経験を積ませるよりも兄に経験を積ませたほうがよっぽど一族の為になる。自然、私に残されているのは…新加茂誠示朗と言う何の役にも立たない名だけだ。しかし、新加茂の本家に属するその名前に、人質としての価値を見出す人間も居る。
―…もし、そうだとすれば争いが近い…って事か。
最近、治安が随分良くなったと言えど、権力の対立構造は変わらない。田舎の一豪族である新加茂にも対立する相手と言うのが存在する。源重郎の代になってから、小競り合い程度で本格的な争いは今まで起こっていなかったが、私が知らない間に、人質が必要になる程、切羽詰った状況になっていたのかもしれない。
「…何を考えているのか大体、分からないでもないが、恐らく全て外れだ」
私自身、自覚しない間に緊張でも顔に浮かばせていたのか、助け舟を出すように源重郎がそう言った。その裏にさっきまでの敵意や怒りのような感情は見えないが、油断はすべきではない。元々、源重郎は三ツ葉様の事以外で感情を露にする事の方が少ないのだ。感情の山が過ぎ去ったのは確かだろうが、今も尚、私に対する怒りがその裏側で渦巻いているのは確実なのだから。
「今回、お前に契約させるのは単純に……人手が足りないからだ」
「人手が足りない…ですか?」
「あぁ、屋敷を維持する人手がな。お前はこれから指定する屋敷へと住み込み、狐と共に維持しろ」
―屋敷の維持…だって…?本当にそれだけの理由で私に…?
しかし、そうであれば私に狐などつけないであろう。始祖と契約した頃と比べて大分、その数を増したとは言え、新加茂と懇意にしている狐の一族は小さい。元々、妖力を生まれ持った狐は出生率が低いのだ。彼らと強い結びつきのある新加茂の一族もそれを解消しようと様々な手段を講じてきたが、彼ら…いや彼女らの数は中々、増えない。近年、何故か『急激に』その数を増やしてはいるものの、まだまだ子供が多く、契約できるくらい能力を持った狐は貴重である。
―少なくとも屋敷の維持と言う目的に使って良い数ではない。
彼女らは言うなれば新加茂の切り札なのだ。彼女たちが居るからこそ陰陽の術をより強力に扱う事が出来、帝から任された墓守の仕事も全う出来る。その力を権力構造に対して使うことは禁止されてはいるものの、自衛と言う目的であれば許可が出ない訳ではない。一人、この土地を任された始祖・新加茂が豪族と呼ばれるまでに成長した裏にも彼女らの尽力もあったと思うのが当然であろう。
―その彼女らを…ただの小間使いに使うだろうか?
そんな訳は無い。屋敷の維持だけであるならば、人を遣わせれば良いだけだ。無論、今の彼女らは下手な女中や小間使いよりも立派に家事をこなしてくれる。それは三ツ葉様だけでなく、今も一族の男に仕えている彼女たちを見れば良く分かるだろう。しかし、それを目的に彼女らを扱うのは、野菜を切るのに家宝の刀を持ち出すようなものだ。大は小を兼ねるとは言え、目的に対して新加茂の切り札は不必要なほど大きい。
「しかし…それは…」
「反論は許さん」
ピシャリと言い切った源重郎の目はこれ以上私と会話する気が無いようだった。全身で「分かったら出て行け」と言わんばかりに威圧している。それに竦みそうになるが、心の中に溜まりこんだ冷たい熱がそれを許さない。
―何時もこの男は…源重郎はそうだ…!!!
何時だって人を見下すばかりで話一つ聞いてはくれない。確かに……私は人に誇れるようなものなんて殆ど無い。容姿も身体も学も芸も何もかもが十人並みだ。しかし、それでも意見の一つくらい聞き入れる姿勢を持ってくれても良いのではないだろうか。少なくとも…理由も言わず、こうして上から命じられるばかりでは反発心を覚えてしまうのも仕方ないだろう。
―いや…こうして何も言わず受け入れて来たのが、駄目なのだ。
源重郎をどれだけ嫌っていても、結局のところその圧力に屈して、質問一つせず受け入れてきたのが今までの私だった。刃向かう事もせず、心の中で愚痴を漏らすだけが私であった。今まではそれを許される立場であったかもしれない。しかし、これほど重大な決定を前にして、何も言わず受け入れる事が出来るだろうか。
―…私はそれほど物分りの良い人形ではない。
私は無能であり、源重郎は有能だ。何も言わず、源重郎に従う事だけを考えていれば良いのかも知れない。そっちの方が正しいのかも知れない。しかし、私は…どれだけ十人並みと、役立たずと罵られ様とも人間なのだ。理由も聞かず、心の中で文句を垂れながら、表層だけ取り繕って、「はい。分かりました」と従うのは今日まで…いや、ここまでにするべきだろう。
「…せめて理由だけでもお聞かせ願えませんか?」
「……」
しかし、私のそんな言葉にも源重郎は答えてはくれない。当然だろう。さっきこの男は「反論は許さん」と言ったばかりなのだから。三ツ葉様の事を除けば、鉄で全身が出来ているような源重郎が一度言った事をそう簡単に曲げてくれるはずも無い。
―結局のところ…何を言っても変わらないって事か。
私に出来るのは恭しく頭を下げて、源重郎の命令を受け取る事だけだ。どれだけ異論があろうと、疑問があろうと、そこに口を挟むのは許されない。その現実がまるで壁のように圧し掛かって、心が悲鳴を上げる。目の裏が真っ暗になって、頭が揺れそうになるが、それは歪みに泣き叫ぶ心が必死に堪えさせていた。
―これ以上…この男に弱いところを見せたくは無い…っ!
ただ、その一念だけで、身体を制御し、キッと源重郎を睨めつける。様々な感情を混ぜ込んだその視線に、源重郎は怯む様子すら見せず、寧ろ威圧するように見下していた。それに心の何処かが脅え、萎縮しそうになる反面、私の中に育ち始めた反抗心が私の背筋をすっと伸ばしてくれる。
「…その命。謹んでお受けいたします」
そのまますっと頭を床に下げ、両手を畳へと着いた私の気持ちは…源重郎にだって分かるまい。私自身、今の感情がどういうものかはっきりと判別がつかないのだから。怒りとも違う、憎しみとも違う、悲しみでも無い。それら全部を同じ鍋で煮込んだような熱い感情が湧き上がってきている。まだ私自身、はっきりと名前の付けられないその感情は源重郎への反抗心と結びつき、何かドス黒いモノへと変わっていこうとしていた。
「…あぁ。では、件の屋敷の場所だが――」
―そう前置きして源重郎が告げた場所はここから馬で一日ほどの場所だった。
早駆けすれば、半日も掛からない程度の距離だ。新加茂の治める領地の中でもかなり端の方にあるが、他の豪族との境界線とは程遠い。また対立している一族とは面しておらず、比較的、穏便な場所にある。てっきり対立する家の境界線近くに置かれ、鳴り子ついでの捨て駒として扱われるものだと思っていた私は正直、拍子抜けしてしまった。
―でも…そこは……。
私の記憶が確かならば、そこは叔父の屋敷であったはずだ。最近はまるで会っていないが、この源重郎の血を引いているとは思えないほど温和で穏やかな性格の叔父が治め、盗掘者の監視をしていた屋敷である。父と母も兄ばかりに構っていて、見向きもされなかった私が一番懐いていた年上の男が叔父であり、何度も遊びに行った事があるのだから間違うはずが無い。
そして、その叔父の屋敷が新しい人間の手に渡ると言うのは…前の持ち主に何か悪い事が起こった可能性が一番高いだろう。最悪、死んだか…悪くても病で療養中か。私の知る叔父は源重郎へ反旗を翻す類には見えないが、その可能性だって否定は出来ない。何れにせよ、安心できる要素は何一つとしてないのだ。
―とは言え、この男に聞いても教えては貰えないのだろうが…。
ならば、自分で叔父がどうなったのか調べるしかない。そう心に決めつつ、私は源重郎に同意を示した。
「宜しい。では、今から屋敷へ向かえ」
「…は?…い、今からですか…?」
襖の合間から覗く光は昼を過ぎたと言っても、まだ暖かい。しかし、それは同時に後数時間もすれば、日が沈む事と同義である。今からこの屋敷を出て、準備もせずに早駆けしたとしても着くのは夜中になるだろう。源重郎の政策により、治安が大分良くなったし、かつて妖怪と呼ばれた者達もその性質を変えているとは言え、夜の一人歩きは危険だ。かと言って、準備も無しに野宿するのは論外である。
―しかし…準備をするのは…きっとこの男は許さないだろう。
源重郎が今から、と言えば文字通り「今から」なのだ。一度、部屋に戻って準備をすることなど許すはずが無い。まして一夜置いてから出るなど口にした瞬間、拳が飛んでくるだろう。
「何か不服でもあるのか?」
―寧ろ無いとでも思っているのか…っ!!!
心の中のその声を表に出す訳にも行かず、私は無言のまま首を左右に振るう。私の身体の中でふつふつと煮えたぎるような感情が咽喉を塞いで、何か言葉を話そうものなら、怨嗟の言葉が出そうだったからだ。礼儀に五月蝿い源重郎の前で、首肯だけを示すなんて、殴られてもおかしくはない。しかし、この男の前で恨み言を漏らせば、殴られる所で済まないのは明白だった。
―殴るつもりならば、そうすれば良い…!!
ただし、何時か、それ以上の目にあわせてやる、と心に誓う私の予想とは裏腹に、源重郎の拳は飛んでこなかった。それどころか小言一つすら無い。今のやり取りで、私への興味を失ったかのように、庭へと視線を外すだけだ。それに釣られる様に、私の視線も庭へと寄せられるが、何時もどおりの庭である。秋に入り始めたのを知らせるような、肌寒い風がさわさわと木々を揺らし、その下で紅白の模様が美しい鯉が気ままに泳いでいるだけの、何の変哲も無い何時もの庭だ。
―何の…つもりだ…?
何時もの源重郎であれば、有無を言わさず殴っていただろう。少なくとも威圧するような大声で、私を罵っていたはずだ。しかし、ソレさえも無い今の状況は、私の中に強い違和感を産み出す。日頃、「役立たず」と罵っていた私に狐と契約させようとしている事と言い、今の事と言い…何かが変なのだ。しかし、それを『実感』する事が出来ても、原因まで理解する事が出来ない。
―結局…気になるのであれば自分で調べる必要があるという事か。
そう一人ごちながら、私は床へと垂直に突き立てる様に両手を着けて、そっと頭を下げた。
「…では、不肖の身ではありますが、今から向かわせていただきます」
「……うむ」
源重郎にしては珍しく、少し遅れた声を受け、そっと私は立ち上がった。頭の中で最低限、必要な荷物をどうするか思考しつつ、三ツ葉様がやって来た右側の襖へと向かう。そして、一歩二歩三歩と踏み出し、襖に手をかけようとした瞬間、私の後ろから源重郎の声が掛かった。
「…誠示朗」
「…はい。何でしょう?」
振り向いた先には未だ座ったままの源重郎が居た。背筋にしっかりと軸が通っているその姿は、何時も通り鉄で出来ているかのように感じる。…しかし、少しだけ、ほんの少しだけ、刃のようなその姿に翳りが見えたような気がした。
「…何でも無い。励めよ」
「…はい」
―…何が言いたかったんだ?
源重郎から「励めよ」なんて言葉を貰った事は一度も無い。それだけでも驚きに値する出来事なのに、あの源重郎が言葉に詰まる瞬間を見られるなんて思っても見なかった。私が物心ついた頃からずっと、何時でも、何人に対しても――まぁ、三ツ葉様を例外とする必要があるが――鉄のように硬く、火のように苛烈で、山のように大きな男だったのだから。
―…源重郎が耄碌?…まさか。そんなはずは無い。
私にとって源重郎は憎んでいる相手ではあるが、同時にその能力を高く評価しているのだ。そりゃ、歳だって、結構な域に達しているが、まだまだ姿も若々しい。さっきまでのやり取りだって、何時もどおりの高圧的で、しかし、だからこそ反論一つ許さない効果的なモノであった。確かに今の様子は変であったが、気の迷いか何かだったのであろう。
「…では、行って参ります」
そう自分の中で決着をつけながら、私はそっと襖を引いて、一歩を踏み出した。そのまま振り返って襖を閉じ、私の馬が繋がれている厩へと足を進める。
―荷物は日が明けてからでも、どうにかするとして…夕餉はどうするか。
そう思考する私の中には先ほどの源重郎の様子は無く、目の前に迫った状況をどうするかという事だけに一杯になっていたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
―新加茂の屋敷は、一部の例外を除き、殆どが小高い丘の近くにある。
元々、新加茂は帝から墓守の任を任せられた一族なのだ。自然、常駐する屋敷の近くには歴代帝の墓がある。そして、この国では権力者の墓は盗掘者から護る為に小高い丘へと偽装されているのだ。
―つまり…丘さえ見えれば、もう屋敷はすぐ其処と言える。
「…長かった……」
思わずそう呟くが、辺りはもう完全に日が落ちて結構な時間が経っている所為か、人っ子一人居ない。馬が五頭は優に通れそうなこの道は普段、新加茂の領地の大動脈として多くの荷物を積んだ荷馬車などが行き来しているが、流石にこの時間に外を出歩く馬鹿は私くらいなものだろう。
―その私だって、出来ればこんな強行軍などしたくなかったが。
しかしながら、その強行軍のお陰で、野宿をする必要はなさそうだ。月明かりの加減では馬をマトモに走らせることは出来ないので、野宿も覚悟の上であったが、その心配は殆ど無くなったと言って良いだろう。
「あと少しだから、頑張ってくれ」
月明かりと林の合間にぽつんと浮き出た丘の頭を見ながら、首筋を撫でてやると、馬…いや、浜風は嬉しそうに「ぶるる」と茶色の鬣を震わせる。数年前に叔父から譲ってもらったこの牝馬は駿馬と言えるほどではないが、人懐っこく、こうして私の言う事にも素直に従ってくれる。源重郎からの扱きに耐えかねて何度も愚痴を漏らした相談相手は、そろそろ老齢の域に差し掛かってはいるものの、会った頃と遜色無い力強い走りで私をここまで連れてきてくれた。
―さって…後は……と。
丘さえ見えれば後は屋敷まで目と鼻の先だ。確か、この道を抜けたすぐ先に叔父の屋敷への入り口があったはずだが…。
―あぁ、あった。
ぼんやりとした月明かりの下で、見えづらいものの林の切れ目に白塗りの壁がポツンと浮かび上がる。浜風も疲れているだろうし、ゆっくりと近づいていくと独特の鬼瓦が見えてきた。墓守と言う死者に近い仕事をしている所為か、魔除けとして発達したそれを見ると新加茂の屋敷についたのだと言う実感が湧き上がって来る。
―やれやれ…。っと…それより確か厩に一番近い門は…。
記憶が確かならば、このまま進めばいいはずだ。そこそこ大きな屋敷で、馬で移動しても門が見えるまで多少、時間は掛かるだろうが、ここまで来て我慢できないほど子供じゃない。浜風の足取りもしっかりしているとは言え、かなりの速度で早駆けさせたのだ。ここで下手に急がせてやるのも可哀想だろう。
―とは言え、屋敷に入った後はどうするか、なんだが…。
叔父はこの大きな屋敷に双葉様と言う狐と共に住んでいた。双葉様も三ツ葉様のように家事万能で、少なくとも私の記憶にある中では小間使いの一人も雇ってはいない。それでも立派にこの広大な屋敷を維持する辺り、流石、狐と言えるだろう。しかしながら、その微笑ましい記憶が私に面白くない未来を想像させるのだ。
―叔父がこの屋敷に居ないと言う事は…つまり双葉様も居ないと言う事で…。
双葉様と叔父はある意味、源重郎と三ツ葉様以上に仲睦まじい関係にあった。余りにも仲が良すぎて、双葉様が狐であると知っている人々からは色々と噂――やれ獣と交わっているだの、一族の誇りを捨てただの――されていたらしい。それらは源重郎が三ツ葉様を妾として正式に家へ迎え入れた辺りから徐々に減っていったが、今も口さがない小間使い達の噂話の種になっている。それは双葉様の本性を知らないが故に出るような憶測混じりの噂ではあったが、そうした噂にも昇るくらい二人は仲睦ましかったのだ。
―そんな二人が…一緒に居ないはずもなく…。
常々、双葉様は「我が主が死ねば、私もすぐ後を追いますわ」と言っていた。子供心ながらにそれは間違いなく本気だと感じ、そこまで強い絆に結ばれている二人の事をとても羨ましいと思ったのを覚えている。そして、死後の世界まで追いかけると公言するような双葉様が叔父と離れる訳が無いのだ。叔父が今、何処に居るにしても、双葉様は第一の忠臣――或いは叔父の妻かも知れないが――としてその傍に居る事だろう。
―つまり…今、この屋敷には誰も居ないと言う可能性が高いのだ。
普通であれば本家からでも何人か小間使いを派遣してくれているだろう。しかし、いきなり「今から屋敷へ向かえ」と言い出すような男がそんな気配りをしてくれるはずも無い。三ツ葉様はそんな源重郎に意見できる数少ない人であるものの、新加茂の家での扱いはただの妾であり、権限は一切持っていないに等しいのだ。幾ら三ツ葉様と言えど、権限外の事まで望むのは無理難題にも程がある。
―まずは火を起こすところから始めないとなぁ…。
秋口に入り始めた時期とは言え、日が落ちた今は肌寒いのだ。何より暗い屋敷の中で寝具を探すのにも明かりが必要である。普段、小間使い達に任せっきりの仕事を自分で何とかしなければいけないと知り、心に憂鬱の感情が圧し掛かってきた。
「…って…あれ…?」
考え事をしている内に近づいてきた門に、私はそんな間抜けな声を上げた。しかし、それも仕方が無い事だろう。馬が通れるくらい大きな引き戸式の門が、まるで私を迎え入れるように大きく開いているのだから。誰も居ないであろう屋敷の門が開いてる…そんな状況で思いつくのは一つしかない。
―賊…か…?
本家にある大屋敷には及ばないとは言え、この叔父の屋敷もかなりの大きさだ。叔父は芸術には疎く、余り値打ち物などは無かった記憶があるが、それでもこの地域を治める豪族の屋敷である。探せば売れる物も多く見つかるだろう。
―治安が大分、良くなった…と言っても誰も居ない屋敷があるって噂があれば荒らされるだろうな。
他人事のようにそう思う反面、心の中にふつふつと熱い物が込み上げてくる。叔父がどうなったかはまだ何も調べていないので分からない。分からないが…それでも、ここは私にとって私自身の屋敷ではなく、叔父の屋敷なのだ。新加茂の家で私に優しくしてくれた数少ない人の屋敷を荒らされて、完全に冷静で居られるはずもない。自分の命も危ないかもしれないと言う危機感と相まって、私はそっと腰の刀を確認した。
―大丈夫だ…何とかなる。
確かに私は剣の腕も十人並みだ。弱くも無いが、手放しで褒められるほどでもない。しかし、それでもそこらの農民程度に遅れは取らない自信がある。…まぁ、人を斬った経験が無いのが唯一の不安要素ではあるが、自分の身を護る程度なら何とかなるはずだ。…多分。
―さて…鬼が出るか蛇が出るか…。
そんな事を思いながら、浜風と共に門を潜ると…そこには私の記憶どおりの庭が広がっていた。屋敷へと一直線に伸びる石畳は腕の良い職人が施工したのかまるで乱れが無い。石畳の左右に広がる砂利の原にも、雑草一本さえ生えては居なかった。顔を左右に向ければ目に入る立派な木々も目立たぬ程度に刈り込まれている。叔父がこの屋敷から離れたのが何時か私は知らないが、この様子であればそれほど前ではないのだろう。
―それより問題は…。
前の大通りほどではないにせよそこそこ広い石畳の先には叔父の屋敷があった。砂利の原を超えて木々の向こうへと伸びる長い廊下も、その先に張られている純白の障子も、全て私の記憶通りで、荒らされているようには思えない。それどころか暖かい火の光が玄関から漏れ出ているのが見えるのだ。
―誰か居る…のは確かなんだろうが…。
てっきり荒れ果てた屋敷の姿を想像していたので、何時も通りの屋敷の姿に何処か肩透かしを食らったような気分になる。しかし、かと言って油断は出来ない。誰も居ないはずの屋敷に誰かが居て…その誰かが私の敵か、味方か、それさえも分からない状態に変わりは無いのだから。
「浜風、ここで待っていてくれ」
首を撫でながらそう告げると浜風は小さく身体を震わせて同意の意を示してくれる。物分りの良い彼女に笑みを浮かべながら、私はそっと石畳の上に降りた。長い間、浜風の上に載っていた所為か、降りた瞬間にズンとした衝撃がやけに足に響く。その感覚は足が痺れるほどでは無いにせよ、誰だってあまり歓迎したくない類だ。
―まぁ…歩けば何時かは収まっているだろう。
そんな事を考えながら私は腰の刀に手をかけてゆっくりと屋敷へと近づいていった。一歩進むごとに草履が擦れてカサリ、と鳴るのが秋口の夜に妙に響く。一瞬、気づかれたかもしれないと思って足を止めたが、屋敷の中の雰囲気は変わらない。恐らく緊張して神経過敏になり過ぎ、必要以上に大きく聞こえたのだろう。
―落ち着け…大丈夫だ…。
そう言い聞かせつつ、足を進めるとすぐ玄関にたどり着く。確認するように後ろを振り返ると浜風が心配そうにこちらを見ていた。まるで「大丈夫?」と気遣うような目線に小さく頷いて、私はそっと扉に手をかけて、音を立てないようにゆっくりと開く。細心の注意を払いつつ、開けたその扉の合間から床に三つ指を突いている女性の姿が見えた。
「ようこそいらっしゃいました。ご主人様」
まるで風に風鈴が揺れるような穏やかで優しい声と共にそっと女性が頭を下げる。まるで嫁入りの挨拶に来たかのようなその仕草は、とても流麗かつ優雅であり、何より美しいものだった。思わず溜息が出て、見惚れてしまいそうなそれは、目の前の女性が並々ならぬ教育を受けてきた事を何より如実に現している。
―って、見惚れてる場合じゃない。
思わず視線を奪われてしまった事に顔を赤くしながら、私は扉を完全に開いた。瞬間、暖かい空気が私を包む。女性の横で灯されている行灯の所為だろうか。何にせよ秋口の寒空で冷えている私にとっては、その暖かさは有難い。屋敷について当分は火を点ける為に格闘しなければいけないと思っていたので、尚更だ。
―まぁ、それでも聞くべきことは聞かなければいけない。
「ご主人様って事は…もしかして貴女は…」
「申し送れました。私は、この度、ご主人様の使役狐となりました一ツ葉と申します。これからよろしくお願いします。」
―…やっぱりか。
私のような成人前の若造にも恭しく頭を下げたままの姿勢で答えている事と言い、その頭からは可愛らしい耳が、背中の下辺りからは器用に揺れる狐の尻尾が出ている事と言い…もしやとは思ったが…女性、いや、一ツ葉様は私の『狐』であるらしい。まさか契約前からこうして会う事になるとはまったく思っていなかったのでかなり混乱しているが…ここまでやって賊が私を誤魔化そうとしている、と言う事は無いだろう。
―…と言うか手配してるんだったらちゃんと言って欲しいんだが…。
心の中で本日、何度目かになる源重郎への文句を呟きつつ、私はそっと一ツ葉様へと視線を落とした。未だ屋敷の入り口で伏している彼女の身体は、目を凝らさないと分からないほど小さなものだが確かに揺れている。きっと一ツ葉様も緊張しているのだろう。で、あれば、これからの円滑な関係の為にもそれを解すのが最初の作業とするべきだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。…それで…楽にして欲しいんですが…」
「あ……はい」
その言葉と共にそっと上がった顔は、私の良く知る人ととても似ていた。
年の頃は20程だろうか。人間での換算であるので実際はもっと上であろうが、女性として成熟しきってすぐの年齢に見える。しかし、全身から溢れ出るような母性がそれをあまり感じさせない。思わずその身体に甘えたくなる優しげな雰囲気は、彼女をより魅力的に見せている。
また狐独特の金色の髪は稲穂と言うより太陽に近い。光を受け取るのではなく、自ら放つようなその色は行灯の炎にも決して負けては居ない。その金色はそのままであれば、触れれば融かされてしまうのではないだろうか、と下らない考えを思いつく程、苛烈だ。しかし、今、こうして私の目の前にある金色は彼女の母性に中和されて、暖かさに満ち溢れているように感じる。腰ほどの長さの金色が三ツ葉様のように癖ッ毛一つ見せず、芯の入った背筋に流れ落ちていく様は何処か神秘的な雰囲気を彼女に与えていた。
瞳は隠されるように目蓋で閉ざされているので良くは見えない。しかし、常に微笑んでいるようにも見えるその目が一ツ葉様の優しそうな雰囲気に拍車をかけている。瞳は見えないでも目蓋の向こうにある優しい瞳を感じられるようで、見ているだけでも暖かい気持ちにさせられる。
三ツ葉様がその奇異さで人の目を惹きつけるのであれば、一ツ葉様の髪と目は奇異さをまるで感じさせない暖かさで人の目を惹き付けて来るのだ。その違い通り、一ツ葉様は三ツ葉様に比べればハッと目が覚めるような美人ではない。しかし、見ているだけで穏やかになるような垂れ目尻や、その下の泣き黒子などが絶妙に配置されている。三ツ葉様とはまた方向性が違うが、一ツ葉様も間違いなく美人と呼ばれるだろう。
そして、普通の人には見られない狐耳と尻尾だ。どちらも髪の色を引き継いでいるのか、煌く太陽のような色をしている。しかし、髪とは違いフサフサとした毛で覆われているその二箇所は、また違う別の感触なのだろう。思わず手を伸ばして触ってみたくなるようなソレは本来、見られない部位であるものの、一ツ葉様の雰囲気に妙に一致している。
また、その肢体も魅力的だ。三ツ葉様も男好きをする身体ではあったが、一ツ葉様はさらに輪をかけて肉付きが良い。しかし、絞るべきところはしっかりと絞られていて、見ているだけでも楽しめる。母性さえ感じる温和な雰囲気の下に、男として咽喉を鳴らしてしまいそうなほど魅力的な肢体があると言う二面性にまた、強く惹きつけられる。
その肢体を、男の下卑た視線から護るような着物は薄い青地に乱れ咲く白百合が描かれている独特なものだ。布地に触れるまでも無く、柔らかにその表情を変えて、楽しませる着物は一目で高級品であると分かる。しかし、思わず「肢体にむしゃぶりつきたい!」と思わせるような一ツ葉様の前では、その高級さは襲いたくなるような衝動に対する抑止力以外の何物にもなれなかった。
―素敵な方だが…三ツ葉様と双葉様に似ているような…。
無論、細かい差異は数え切れないほどあるし、全体の雰囲気だって少し異なっている。何より私は三ツ葉様や双葉様の本性を前に出した姿なんて一度だって見たことは無いのだ。しかし、それでも、目の前の女性は私の知るお二方にとても似ているような気がする。
―まぁ…名前から察するに姉妹であろうし…似ていてもおかしくないのだが。
元々、新加茂に仕えてくれる狐の一族と言うのはそう大規模なものではない。近年、増加傾向にあるとは言え、その規模はまだまだ小さいものだ。自然、その中には姉妹や家族関係の者が多くなる。彼女らがどういった基準で名前をつけているのか私は知らないが、それでも「一ツ葉」「双葉」「三ツ葉」と関係性の見出せる三つの名前は姉妹、最低でも近い家族以外にはあまり付けないだろう。
「それよりご主人様も…外はお寒かったでしょう?早く中にどうぞ」
未だ入り口に棒立ちになる私を気遣ってくれたのか、優しく招くように一ツ葉様が言った。それに導かれるように一歩踏み出そうとした瞬間、後ろへ置いたままの浜風を思い出す。元々、あそこに置いてきたのは浜風自身の安全の為だったのだ。危険が無いと分かった今、私をここまで運んできてくれた浜風をまず最初に厩で休ませてやるべきだろう。
「いや…外に馬を置いてきていますので、それをまず厩で休ませてからにします」
「まぁ…なんて優しい方…。ですが、これからこの屋敷の主になるお方にそんなお仕事をさせる訳には参りません」
まるで世辞と思える程、耳触りの良すぎる言葉の後にすっと一ツ葉様が立ち上がった。そのまま草履を履いて、玄関へと降りてくる。元々、私自身が長身ではなく、成長途中にあることもあってか、並んで立つと一ツ葉様の方が若干、大きい。見た目の年齢も違うので仕方の無い事とは言え、これから遣っていかなければいけない関係の女性が私よりも年上で大きいと言うのはやはり何処かやりづらい感覚を与える。
「私が浜風さんを厩に案内してきます。ご主人様は玄関へ入ってお待ちください」
「え…あ、いや…」
―その瞬間、私の鼻に甘い香りが届いた。
それは静止の言葉を掛けようとした瞬間、さっと私の脇を抜けて浜風へと向かった一ツ葉様の体臭なのだろう。一瞬の出来事であったものの、確かに私に届いたその香りは、白百合に良く似ている。何処か清々しいその香りは、何時までもそれに浸って居たくなる様な危険な魅力を含んでいた。三ツ葉様とはまた違うが…同じくらい魅力的で、かつ同じくらい魅惑的なその匂いに一瞬、思考を奪われてしまう。そんな私の口からは私の制止は出てこず、結局、一ツ葉様を見送ってしまった。。
―…参ったな…どうにも。
既に一ツ葉様は浜風の手綱と鞍を引いて厩へと向かっているところだった。浜風自身も彼女に敵意が無い事を悟ったのか大人しく従っている。今更、そこに横槍を入れても一ツ葉様も戸惑うだけであろう。結局、さっき一ツ葉様の香りに負けた私に出来る事と言えば、大人しく玄関にでも腰掛けて待つ事だけだ。そう思いつつ、私は行灯の光に溢れる屋敷へ一歩踏み出し、玄関と屋敷の縁の部分へ腰掛ける。
―…ってこれじゃどっちが使役されてるんだか、分からないな…。
源重郎に対しても、一ツ葉様に対しても、ただ言われた事に従っているだけの状況に、苦々しい感情が湧き上がってきた。無論、源重郎はともかくとしても一ツ葉様には悪気は決してないのだろう。ただ、私の事を思って言ってくれているのはこの短い邂逅の中でも良く分かる。問題は…自己主張が苦手な私なのだ。
―やはり…人に何かを命令するのは苦手だ。
そもそも私は新加茂の本家筋に属するとは言え、その頭首である源重郎に疎まれて育ったのだ。自然、私の新加茂の中での権力的地位はそう高いものではない。元来の性格が活発でないのと相まって、人に命じた経験など無いに等しいのだ。それなのに、これから一ツ葉様に命令しなければいけない。その事実が私の胸に圧し掛かってくる。
―こういう時…源重郎であればどうするのだろうか…?
人の上に立つ為に生まれてきたようなあの男ならば、戸惑う事無く一ツ葉様を扱うだろう。幼い頃から大人が媚びへつらっていた兄も、違和感無く一ツ葉様を遣ってみせるに違いない。しかし、私はそのどちらでも無いのだ。人を従わせるのが当然のように振舞う事も、その時々に的確に指示を下す事も出来ない、ただの『役立たず』なのだから。
「…ふぅ…」
「あら…ご主人様、どうかなさいましたか?」
思わず漏れ出た溜息に答える声が前から掛かる。その声に惹かれる様に視線を上げると、私の目の前には何時の間にか一ツ葉様が帰ってきていた。ここから多少、離れている厩まで走って、すぐに帰ってきてくれたのだろう。その顔は少し上気して、息が少し荒くなっている。
「いえ、何でもありません」
「……そうですか」
―…ん?…なんだ?
一瞬だけ遅れた一ツ葉様の反応に私は内心、首を傾げた。今まで打てば響く楽器のように的確に返事を返してくれていた一ツ葉様の始めての遅れなのだから、やはり気になってしまう。まだ短い付き合いであるとは言え、その遅れは今までの一ツ葉様からは考えられないものだ。
「それでは、ご主人様。中へと案内させていただきますが…夕餉の準備などはどうしましょう?」
「えぇ。是非とも」
ここまで来るまでは野宿するかどうかの瀬戸際であったので、何も食べていなかったのだ。普段から間食する習慣などは無いので、さっきから腹が自己主張を続けている。急にここへ来る事になったので、夕餉の件は心配事項の一つではあったし、こうして一ツ葉様が作ってくれるのであれば断る理由は無い。
―それに…楽しみでもあるしな。
今まで見てきた一ツ葉様の一挙一動全てが洗練されていて、まるで舞っているようにも見えるのだ。私の知る中で最も美しい仕草をする女性は三ツ葉様であったが、目の前の女性はその三ツ葉様が及ばない程である。そんな一ツ葉様がどんな料理を作るのか。そう考えると、否応にも期待は高まってしまうだろう。
「分かりました。では、ご案内いたしますね」
そう言いつつ一ツ葉様は私を追い抜いて、そっと前に立つ。一ツ葉様が通り過ぎる瞬間、また陶酔しそうになるのを必死に堪えつつ、私もまた草履を脱いで、屋敷へと上がった。鏡のように磨き上げられた床の冷たさがそっと私の足に抱きついてくるようだが、所詮は秋口。足の進みが鈍るほどではなかった。
「そう言えば…ご主人様は何か好き嫌いなどありますか?」
「いえ、特にありません。この辺りで採れるものならば何でも大丈夫です」
そんな他愛の無い会話をしつつ、これから私の物になる屋敷の奥へと私たちは足を進めていくのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
―かつて叔父と双葉様の寝室であったその部屋は、不気味なほど何も無かった。
かつて双葉様が叔父の為に描いた絵画も、叔父が双葉様へ贈った掛け軸も、私が二人へと贈った花瓶――あまりに不恰好すぎて形状は花瓶よりも壷と言った方が近いのは内緒である――も、何もかもが無い。あるのは畳と襖と壁と…そして一組の寝具が置いてあるだけだ。かつて人が住んでいたとは思えないほど殺風景なその部屋を見た瞬間、私の足は入るのを拒絶するかのように凍り付いてしまう。
―…やっぱり…二人はもうここには居ないんだな。
予想はしていた事だが、こうして目の前に突きつけられると何処か心の奥が痛むのを感じる。実の両親よりも遥かに私を可愛がってくれた二人がここにいた痕跡も無いのだから。何度かこの屋敷で過ごした日々が、まるで私の妄想であったのだと突きつけられるような部屋の冷たさにじわりと暖かいものが目尻に浮かびそうにさえなった。
―しっかりしろ…!私はもう一人じゃないんだぞ…!
余り表沙汰にはならないが、主人の品格はそのまま使役狐の品格にも繋がる。その逆もまた然りだ。主人が見下されるような行為をすれば、当然、その目は狐にも向かう。つまり主人は彼女らの為にも毅然とした男でなければいけないのだ。少なくとも…いない二人の事を思い出して涙を浮かべるような男では、一ツ葉様自身にも迷惑が掛かってしまう。
―こういう時は楽しかった事を思い出すんだ…!
そう言い聞かせた瞬間、思い出すのはさっき食べた料理の数々だ。空腹であると言う事を考慮してくれていたのだろう。私が案内されてからすぐさま出された品々は、決して手が込んだ物ではなかった。しかし、一品一品丁寧に作られているのが良く分かる。豪華な食材など使わず、この辺りで採れる食材のみで構成されたその料理の数々は、思わず飛び上がるほどの旨さでは決して無い。しかし、身体の芯に染み入るような温かい味は、長旅に疲れた身体を癒してくれた。
―あぁ言うのが家庭料理って言うのだろうな…。
本家で三ツ葉様の料理を何度か食べた事があるが、それは正にご馳走であった。豪族である新加茂の頭首も食べるその料理の数々は、普段は見ない食材をあの手この手の工夫を凝らし、調理した品々であったと記憶している。それは無論、とても美味しかった。見栄の意味もあったのだろうが、見た事の無い食材を口に運ぶのは新鮮で、口に含むたびに驚かされた経験も楽しかったものである。
けれど、先ほど食べた一ツ葉様の料理は、驚きは決して無い。代わりにあるのは、安心だ。方向が違えども、その安心は私にとって、三ツ葉様のご馳走を食べたときと遜色無い強い感動を齎してくれた。
―疲れているからと沸かしてくれた風呂も良い湯加減であったし…本当に一ツ葉様は良い狐だ。
家事は全て完璧で、こちらの行動を読んだ仕え方をしてくれる。こうして寝室の中に寝具――何故かかなり大型で二人くらいであれば優に眠れそうな物である――と水差しが一組置いてあるのもその一環だろう。その心遣いに感謝する一方で、本当にこんな人が私などに仕えてくれていいのかと不安になってしまう。
―…いかんな。夜になるとどうも思考が悪い方に転んでしまう。
それは夜の妖力とでも言うべきか。何にせよ夜中にあまり深く考え込まないのがいいだろう。私などのように物事を悪い方へと考えがちな人間は特に。
―…今日はもう寝よう。
まだ外は真っ暗で、月明かりがそっと襖から差し込んでいるが、夏であれば空が白んじている頃だろう。今から寝てもそれほど長い間は寝てはいられないかもしれない。しかし、今日は色々な事があって、精神的にも肉体的にも疲れた。別に今すぐ倒れこむほどではないが、起きている道理は一つも無い。
そんな事を考えながら私はそっと寝室の中へと足を踏み出し、襖を閉めた。以前、ここに足を踏み入れさせてもらったのは何時だったか。それさえも定かではないが、あの時感じた優しい香りはここには無い。誰か住み着いていれば、必ず染み込んでいるだろう「香り」さえ、もうこの寝室には残っていなかった。
「ふぅ…」
また悪い方に転びそうになっていく思考の手綱を必死で引きながら、私はそっと布団へと潜り込んだ。秋口の寒さから途絶されていた布団の中はじんわりと温かい。冬場であれば、何かの術かと思える程、引き剥がし難い温かさの片鱗がそこにはあった。その温かさに浸るようにそっと目を閉じようとした瞬間、私の耳に小さな振動が届く。
―…?なんだ?
そっと足音を殺すようなその震えは、恐らく一ツ葉様の物だろう。食事の時の雑談として聞いたものではあるが、この屋敷には私と一ツ葉様しかいないのだから。しかし、もう時刻は丑三つ時も過ぎようとしている頃である。それでも動き回る一ツ葉様に首を傾げながら、もう今日は休むように言おうと思い、上体を起こした。しかし、その瞬間、その震えが寝室の前で止まる。
「あの…ご主人様。まだ起きておられますか?」
「あ、はい。大丈夫ですから、入ってきてください」
襖越しの短いやり取りの後、そっと襖が開いて床に正座する一ツ葉様の姿が露になる。もう寝るつもりだったのか、その格好はさっき私が見た白百合の着物ではなく、白絹から仕立てた白無垢のような寝間着だ。何の変哲も無い一般的な寝間着だが、一ツ葉様が身に纏うだけで、何処か高貴な衣装のように見える。無論、白絹から仕立てなので、そこそこ金子は掛かっているだろうが、所詮は寝間着だ。普段、着る着物には敵わない。しかし、今、私の目の前にあるその寝間着は、着物に勝るとも劣らない不思議な魅力を持った衣装に見えてしまうのだ。
―と…言うか、寝間着で男の寝室に…って事は…。
まぁ…その…そこから導かれる意味なんて一つしかない。そりゃ…私だって男だ。『そう言う事』には勿論、少なからず興味がある。仲睦ましい人と狐の関係を見て育ったのだから、そう言った関係に憧れているのも事実だ。しかし…私はまだ一ツ葉様と正式に契約しては居ないし、彼女と出会ってまだ一日も経っていない。それなのにそういう関係になるというのは…やはりどうにも尻込みをしてしまう。
―し、しかし…もし、一ツ葉様が迫ってきたら……!
恐らく、私にはそれを拒絶する事は出来ない。何度も言うが…一ツ葉様はとても魅力的な女性なのだ。何でも受け止めてくれるような優しい雰囲気と、穏やかな表情がまるで母性にも感じられる。しかし、その母性の奥には男としては垂涎物の肢体があるのだ。容姿も美しく、飛び出た尻尾や耳も魅力的なのだから、性に興味が出てきた十四の男に断りきれる訳が無い。
―あぁ…っ!わ、私はどうしたら…!?
拒絶する事も出来ず、かと言って、一ツ葉様を今更追い出す事も出来ない。胸の中では際限無く期待が膨らみ、鼻息が荒くなってしまいそうだ。さっきまで私の中に確かにあったはずの眠気さえ追い出す興奮が鎌首を擡げ始めて、胸を締め付け始める。それを必死に表に出さないとしながらも、私の指と視線は世話しなく揺れていた。
「…?あの…もしかして起こしてしまいましたか?」
「い、いいえ!ぜ、全然、大丈夫です!」
反射的に答えてしまったその言葉は予想外に大きくて、力強いものであった。もし、この屋敷に人が居れば、何処に居たとしてもその人にまで届くであろう大声に、自分自身で驚いてしまう。同時に、私の中の期待と興奮がそのまま漏れ出たかのような声に、強い羞恥の感情を抱いた。当然、私の顔に熱が集まり、真っ赤に染まってしまう。余りに恥ずかしすぎる醜態に穴を掘って埋まりたくなってしまうが、状況はそれを決して許してはくれない。
「あ、あのですね。い、今のは…」
「プッ…」
弁解しようと声のトーンを落として続けようとした私の耳に一ツ葉様の押し殺した笑い声が届いた。見れば右手とそっと口元に当てて、必死で隠そうとしながらもその端からは笑顔が零れ落ちている。笑われている、と言う事実に私の中の羞恥がさらに膨れ上がり、言葉に詰まってしまった。それでも何とか言葉を紡ごうと口を開くが、出てくるのは意味の無い声だけで決して「言葉」にはならない。
「い、いえ、申し訳ありません…。で、でも…お、おかしくて…」
私が必死に弁解しようとするそんな姿もまた一ツ葉様のツボに入ったのだろう。小さい笑い声を上げながら、そんな言葉をくれる。ここまで来ると、私のどんな弁解の言葉も無意味だ。寧ろ変に言い訳しようとした方が、彼女への追い討ちになりかねない。一ツ葉様だって好きで笑っているわけでは…多分、無いだろうから、黙っている方が良いだろう。
―まぁ…私もこれ以上、物笑いの種を蒔くほど物好きではない。
そんな事を思いつつ黙り込んでいた所為だろうか。一ツ葉様がそっと真剣な顔に戻って、寝室の中へと入ってくる。妙齢の女性が、こんな夜更けに自分の寝室へ来ていると言う状況に、再び興奮の熱を灯るのを感じた。しかし、さっきの失態が脳裏に焼きついている私は、それを表に出すまいと堪える。自然、私の顔は機嫌の悪そうな物になり…一ツ葉様を気まずそうな表情へと変えた。
「そ、その…本当に申し訳ありません…」
その場に伏しつつ、尻尾をくたりと垂らせて謝る彼女の姿が、私にじくりと鈍い痛みを走らせる。まるで心の中へと滲むようなその痛みは、馬鹿のように浮かれあがっている私の頭を若干、冷静にしてくれた。
―何をやっているんだ私は……。
下手な言葉は言わず、ただ表情や仕草で自分より立場の弱い者を強く威圧する。これではまるで…まるであの源重郎のようではないか。いや…本来であれば対等である彼女の優しさに漬け込み、威圧する今の私はそれ以下だろう。私は自分の狐と、そんな不平等な関係を築きたかったわけではない。もっと…叔父と双葉様のような、悔しいが源重郎と三ツ葉様のような、そんな仲睦ましい関係になりたかったはずだ。
―それなのに…私は何をやっているのか…。
自己嫌悪から漏れ出る溜息は必死で自制する。この状況での溜息は一ツ葉様への叱責と取られかねないからだ。そんなつもりは一切無いのに誤解させてしまうのは私にとってもとても辛い。だから、私は溜息の代わりに言葉を選びながら口を開く。
「いや…怒っている訳ではないのです。ただ…少し気まずくて…」
言い訳のようなその言葉に、一ツ葉様はそっと顔を上げてくれた。そこにはもう気まずそうな色は余り見えない。何処かほっとしたような、安心したような、そんな表情が浮かんでいるように私には思える。あくまで主観ではあるものの…それはそう的外れではないだろう。伏したときには気の毒になるくらい力を失った尾が、ふるふると左右に揺れ始めているのだから。
―確か…尻尾を振るときは…嬉しいとき…であったか。
機嫌良く左右に揺れる尾に、まるで犬のようだと思う反面、こうして分かりやすい指標があることに感謝の気持ちを抱いてしまう。その気持ちを内に秘めつつ、私は一ツ葉様にもう一度、向き合って口を開いた。
「それで…何の御用でしょう?」
そう言うと一ツ葉様は少し肌白の頬を、紅でも落としたのかと思うほど赤くした。目も、顔ごと動かすように、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと世話しなく動いている。寝間着からはち切れそうな豊満な胸の前で組まれた両手は落ち着く無く、指を絡ませあっていた。畳の上でしっかりと正座している膝も所在無さ気にふるふると揺れていて、居心地が悪そうに見える。
―…まさか本当に夜這い…なのか…?
母性すら感じさせる妙齢の女性がそこまで恥らう姿を見せられて、そんな妄想を抱かないほど私は清廉潔白な男ではない。年齢としても、男盛りに差し掛かっている時期なのだ。こんな真夜中に訪ねる時点でさえ、淫らな妄想が頭を駆け巡っていたのだから、目の前でこうして恥らう姿を見せられて我慢できるはずも無いだろう。
―まぁ…実際には違うんだろうが。
まだ私と一ツ葉様と出会って、数時間程度しか経っていない。そんな時間ではまだまだ一ツ葉様の人となりを全て把握できているとは言えないだろう。長年連れ添った夫婦でさえ、お互いに知らない事や秘密を持っていることも多いのだから、そもそも全てを知ろうと言う事自体、間違っているのかもしれない。しかし、例えそうであっても、この数時間の間に私が接してきた一ツ葉様は優しくお淑やかな女性であった。そんな方が、普通の女性でさえ中々しないような夜這いを、しかも、出会って数時間の男相手にするだろうか。
―私にはそうは思えない。
無論、こうして恥じらいを浮かべる様を見て、年頃の男子である私はどうしても性的なものへと結び付けてしまう。しかし、きっとそれは誤解なのだ。貞淑と言う言葉の見本のような一ツ葉様の事だから、きっと、こうして男の寝室に入るだけでも恥ずかしかったのだろう。もしくは、その用事の内容が少しばかり恥ずかしいものだったり――
「その…実はこの屋敷にはその一組しか布団が無いようなので…不躾で申し訳ないのですが私も一緒に入れてもらえないでしょうか…?」
―そう。例えばこんな風な同衾のお願いだったり……って…。
「…え?」
「あ、あの、勿論、疚しい意味は無くてですね!私も今日、ここへ着いたばかりでして片付けに夢中で布団の数を確認出来ておらず…っわ、私の不手際を押し付ける事になりますが…も、勿論!あ、明日には買いに走るつもりです!!けれど、もし宜しければで良いのですが…断られても一晩程度であれば風邪を引く事もありませんし…」
余りにも恥ずかしいのか、一ツ葉様は真っ赤になっている。その様子は私がさっきまで見ていた落ち着いた女性と言う印象とはかけ離れていた。しかし、淑女の見本のような一ツ葉様がこうして顔を赤くする姿と言うのは強く私の胸を高鳴らせる。そして、段々と支離滅裂になっていっている一ツ葉様の言葉の半分も私の耳には入ってこない。だって…仕方が無いだろう。確かに夜這いでは無かったとは言え、ここで同衾の申し出だなんて思ってもみなかったのだ。妄想通りではない、しかし、妄想とそれほどかけ離れていない結果が、手の中に転がり込んだのだから…呆然としながら悶々とした妄想が広がるのも不可抗力である。
―一ツ葉様と同衾…だって…?
目の前で身振り手振りを加えて、必死に説明する度に大きな胸がふよふよと揺れる。重力に引かれつつも、逆らうようなその動きは、それだけ中にもみ応えのある『肉』が詰まっている事を一目で教えてくれるのだ。そんな胸の感触を想像するだけでも、ゴクリと咽喉を鳴らしてしまう。
―そして…一ツ葉様の魅力は決して胸だけではないのだ。
むっちりとした太ももの線も薄手の寝間着からはっきりと確認できる。決して太過ぎると言う印象を与えない絶妙な流線は、思わず手を引くような誘惑を伴っているのだ。まるで吸い寄せられるような、薄い桃色に染まった唇と言い、他にも男の興奮を掻き立てる部分が山ほどある。それらが…自分のすぐ横に無防備に晒される、となる事に興奮を覚えない男は居ないだろう。
―…いや…逆に襲われると言うのも良いかもしれない。
貞淑と母性が手を取り合って、現れたような一ツ葉様ではあるものの、そんな人に襲われると言うのも興奮する。一本一本が百合の花弁のような美しい指で愛撫され、抵抗できないまま喘がされるのは…素敵な想像と言えるだろう。また襲われなくても、甘えると言う選択肢だってあり得る。あの大きな胸に包まれて、眠る感覚はさぞや気持ち良いに違いない。
―…あ、やばい…鼻血が出そうだ…。
「あ…あの…ご主人様…?」
「あ、いえ…すみません。何でも…」
気遣うようなその言葉に、思考が妄想から脱した。そのまま自分を落ち着かせるように大きく深呼吸しつつ、硬くなった男根を布団で誤魔化そうと膝を立てる。幾ら妄想の中で男根を見られる以上に淫らで恥ずかしい事を考えても、それを見抜かれるのは男として中々、屈辱的なことなのだ。
―とりあえず…一度、冷静になって問題を整理しよう。
結局のところ、この屋敷に二人存在するのにも関わらず、布団が一組しかないのが問題なのだ。しかも、その二人は若い男女――いや、より正確に言うならば男雌なのかもしれないが――と来ている。今は少し冷静になれたのでマシだが、正直、この状況で間違いを犯さない自信は私には無い。
―…となると選択肢は一つつしかないだろう。
「とにかく布団は一ツ葉様が使ってください。私は厩で浜風と一緒に寝るので…」
二人で眠るのも、正常な男子としてほぼ無理。かと言って、女性である一ツ葉様を放っておく訳にもいかない。もし、ここで彼女を拒絶するくらいならば、私が野宿した方が幾らかマシであろう。幸い、源重郎の嫌味に耐えかねて浜風の厩に愚痴りに行って、そのまま一緒に眠った事も少なからずあるのだ。秋口とは言え、干草に包まれば寒さに震えるほどではないし、一晩くらいならば問題は無いだろう。
「却下です」
しかし、そんな私の提案はあっさりと一ツ葉様に拒否されてしまう。一応、こちらから歩み寄ったつもりではあるものの、一ツ葉様には受け取ってもらえなかったようだ。一応、形式上は私が主で、彼女が従僕と言う形なので遠慮しているのかもしれない。
「ご主人様の布団を奪うくらいなら、私が野宿をした方がマシです」
「いや…でも、浜風と一緒に眠るのは慣れていますし…野宿の経験も私は少なからずありますから…」
「それは私も同じですわ。それにこの布団はご主人様の物なのですから、布団を使うべきはご主人様の方です」
―駄目だ…平行線過ぎる…。
それはお互いがお互いを思っているが故に交わる事のない議論である。下手に利益が対立するよりも決着を着け辛い二つの主張は、そのままであれば当分、水掛け論を続ける事になってしまうだろう。それならば必要なのは、より違う視点からの一石である。それもより本音に近く、一ツ葉様が思わず納得してしまうような、そんな身の危険を伴うような理由。…そんなもの私には一つくらいしか思いつかない。
「その…正直に申しますと…このまま一緒に同衾してしまうと…一ツ葉様を襲ってしまいそうで…」
―は…恥ずかしい……っ!!
自制心の無い事を示すのと同時に、「魅力的だ」と伝えているのだから、恥ずかしく無い訳が無い。しかも、それは決して嘘ではなく、全て本音だと言うのが、まるで火に油を注ぐように羞恥の感情を助長している。下手に告白するよりもよっぽど恥ずかしいであろう行為に私の顔にまるで炎でも灯ったかのように熱が弾けた。
「あらあら……」
―よし…怯んでくれた…!
困ったように頬に手を当て、考え込むような表情は、紛れも無く付け入る隙であろう。玉砕覚悟であったとは言え、怯んでくれた様子に内心、握り拳を作る。しかし、そのまま見ているだけではこの議論は決着はしない。だからこそ、この隙に言葉を覆いかぶせて有耶無耶の内に決める必要があるのだ。
「だ、だから、外で寝るのは…」
「それの何がいけないんですの?」
―本当に何がいけないのか分かっていない…とても不思議そうな表情で…一ツ葉様はそう言った。
え?いや、ちょっと待ってくれこれはどういうことなんだまるで分からないもしかして本当に夜這い?まさか一ツ葉様に限ってそんなはずはでも現実に一ツ葉様はそう言っていていやそもそもこれは現実なのか既に私は寝ていて夢を見ているのかもしれないいやむしろそっちの方が正しいんじゃないだろうかうんそうだこれはきっと夢だ夢に違いない。
「それでは…異論も無いようですしお邪魔致します」
「え?あ、いや…っ!!」
予想外の反撃に私が現実逃避していた間に、そっと一ツ葉様は布団へと潜り込んでくる。何処かひんやりとした空気と共に私の足にすべすべとした感触が当たった。それが一ツ葉様の足であると意識する間も無く、とても魅力的な女性は私と同じ布団に完全に入り込む。自然、玄関で嗅いだあの危ない香りが私の鼻をつき、思考能力を削ぎ落としていった。
―…うん…これは夢じゃないな…。
目の前に広がる整った一ツ葉様の顔立ち。思わず陶酔に堕ちていきそうな匂い。足や手には時折、すべすべとした感触が当たり、少しばかり冷えた感覚を私に与えてくる。ここまで来て現実逃避できるほど私の意志は強くは無い。逃げ道を全て塞がれ、無理矢理、現実だと向き合わされてしまうのだ。
―しかし…本当に綺麗な顔立ちだ…。
女性の顔をじっくり見るのは失礼に当たるので、そこまでしっかりと把握していたわけではないが、こうして間近で見る一ツ葉様の顔は本当に美しい。艶やかに光り、男を誘うような桃色の唇、スラリと通っていて、清涼な美しさの強調する鼻筋、一般的な女性の肌よりも少しばかり色白な肌は肌理細かく、これだけ間近でも粗一つ見えない。金色の眉はきちんと手入れされているのかすらりと伸びていて乱れ一つ無く、目蓋から伸びるまつげもピンと張って、一ツ葉様の美しさに助長している。
―その中でも特に…美しいのは唇だ。
まるで濡れているような光り方をするその唇は、一ツ葉様の中でも飛びぬけた魅力を持っている。こうして見ているだけでも瑞々しく、柔らかい事が分かるのだ。それに男の本能のようなものが引き寄せられ、「口付けをしたい」とそんな事を考えてしまう。
「あ、あの…流石にそんな風に顔を見つめられると恥ずかしいのですが…」
「あ、す、すみません……」
恥ずかしそうなその言葉に正気に戻った私は弾かれた様に後ろを向いた。丁度、一ツ葉様へ背中を向けるような形ではあるが、それでも興奮が収まらない。胸に手を当ててみると、心の臓が激しく収縮し、凄まじい勢いで鼓動を作り出していた。一ツ葉様の顔にどれだけ夢中になっていたのかを示すようなその鼓動に、再び顔が赤くなってしまう。
―落ち着け…ここまで来ると…もう出来るだけ早く寝るしかない。
自分から布団に乗り込んでくるくらいなのだから、私が譲るといってもさっきと同じ平行線の議論へと陥るだけだ。結局、思わぬ反撃で呆然としてしまった時点で私の負けは決まったも同然だったのだろう。そして、敗者の私に出来る事と言えば可能な限り早く寝て朝を迎える事だ。すぐ後ろに一ツ葉様が居る状態で寝れるのか自分でも疑問だが、一ツ葉様を襲わないためにはそれしかないのだ。
―でも…一ツ葉様は襲って良いとも受け取れる事を言っていて…。
ふと脳裏に浮かんだその言葉に、頭の後ろがカッと赤くなる。それを振り払おうにも布団の中で暴れるわけにもいかない。せめて、その言葉を忘れようとしても、逆に意識しすぎて心臓の鼓動がさらに早くなった。まるでジリ貧のような状態に思わず頭を抱えたくなってしまうが、すぐ後ろに一ツ葉様が居る状態ではそれも出来ない。
―どうしろって言うんだ本当に……。
意識しまいとすると逆にドツボに嵌り…しかし、意識しないようになんて出来ない。すぐ後ろに男ならば誰しも目を惹かれるような美人が寝ているのだ。ただでさえ、『意識的に意識しない』事は難しいと言うのに、意識せざるを得ない人が後ろに居る状態では無理も同然だろう。
―いっそ襲ってしまえば…いや、それこそ駄目だろう。
一ツ葉様が何を考えているのか私には分からないが、今の状況は決して普通じゃない。説明しているときの一ツ葉様を様子を見るに、彼女も布団さえあればこんな同衾のような形を取るつもりは無かったのだ。また、私の事を必死に立てようとしてくれる一ツ葉様の様子から察するに、私を野宿させない為の方便だった可能性も高い。それを本気にして、一ツ葉様を襲うなんて、これからの関係に修復不可能な亀裂を入れる事になるかもしれないのだ。
―結局のところ…臆病なだけなのかもしれないが。
しかし、そうで無ければ一ツ葉様がこうして出会った数時間ほどの男の寝室に来るとは到底、思えないのだ。無論、私と彼女はこれから長い時間をかけて共に歩む友になる関係であるが、今はまだ殆ど何の関係も無い男女である。これが天賦の才を幾つも授けられ、自信が溢れた顔立ちをしている兄であれば話は別なのかもしれないが…生憎と私はその出涸らしとして新加茂で有名なのだ。少なくとも会って数時間の女性に好かれる要素なんて一つたりとも無い。
―また悪い方向に転びかけているな…。早く寝よう…。
そんな事を思って目蓋を閉じても、中々、睡魔はやってこない。肉体的にも精神的にも疲れているはずなのに、身体中を駆け巡る興奮が未だ熱を持っていて、それを阻害しているのだ。その熱を冷まそうにも、興奮の元がすぐ後ろに居る状態では中々、難しい。
―ふぅ……。
「…あ、あの…ご主人様…まだ起きていますか…?」
内心、目が冴え切って困っていた所に一ツ葉様のそんな声が届くが、また何か興奮するような事を言われるんじゃないかと思い、返事をするかどうか迷ってしまう。しかし、既に身体中に熱が灯り、男根も半勃ちになっている今より悪化はしないだろう…と反論する声も私の中にはあった。ましてや少し震えた声で私の名前を呼ぶ相手に狸寝入りをするのも気が悪い。結局、少しの逡巡の後、私は口を開いた。
「…はい」
「あ……えっと…いきなり押しかけたりして申し訳ありません」
「それは気にしてなんか居ませんよ」
―それは紛れも無く本当の事だ。
確かに少し驚いたし、今、こうして興奮して眠れない状況ではある。しかし、一ツ葉様のまた違った面は見れたのも事実なのだ。温和で貞淑な女性と言う表層しか見ていなかった私が、少し一ツ葉様に踏み込めたような気がする。それは睡眠と比べても得難い経験だろう。ましてや、これから長い間を一緒に過ごす事になる二人であれば尚更である。
「有難うございます。…それで…あの…まだ眠くないのであれば…少し私の話を聞いていただけませんか…?」
―…一ツ葉様の話…?
何を話してくれるのだろうかと一瞬、首を捻ってしまう。しかし、まだまだ眠気が来る気配すらないのだ。それがどんな話であろうと、聞く余裕や理由も十二分にあるだろう。そんな事を考えながら、私は短く「はい」と同意の言葉を返す。その言葉に一ツ葉様も感謝の言葉を返して…一拍ほど置いた後、彼女はゆっくりと語り始めた。
「もうお気づきかもしれませんが……私は…変化の術さえもマトモに使えない役立たずなのでございます」
―『役立たず』
その言葉が妙に私の言葉に突き刺さる。それは…私にもそう呼ばれ、疎まれていた時期があったからだろうか。それとも…その言葉に今まで一ツ葉様が溜め込んできた苦悩などが込められていた所為だろうか。…恐らくはその相乗効果だったのだろう。だからこそ、私はその言葉に胸が押しつぶされるほどの衝撃を受けたのだ。
「私どもは新加茂の一族の方々に使役狐…つまり主に呪殺の手伝いとして仕えておりました。今はどちらかと言えば家事手伝いの面を求められる事の方が多いですが…しかし、私が生まれた時代は…そういう時代だったのです」
―『そういう時代だった』…その言葉に込められた思いは私などでは想像もつかないほど複雑なのだろう。
私だって…一言では言い表せないような気持ちは沢山ある。源重郎に抱く気持ちだってそうだし、兄に対しても、両親に対してもそうだ。けれど…そんな私でさえ、一ツ葉様のその言葉に込められた思い全てを読み解くことは出来ない。きっと、ソレが出来るのは、一ツ葉様自身か、或いは未来の私くらいだろう。
「子供の頃から…私は殆ど妖力も持ってはおりませんでした。人の言葉を理解し、妖力を扱う術も持ってはおります。なので…分類上は同族と同じなのでしょう。…しかし、私にはこれっぽっちも…妖力が無かったのです」
独白のようなその言葉に私は口を挟むことは出来ない。だって…その気持ちは全てではなくとも私にも通じるところがあったのだから。新加茂の本家に生を受けながら、一切の才能を持たないと断じられた私には、一族の中で逸れ者となった彼女の気持ちはある程度、察する事ができる。そして、だからこそ、私は下らない相槌でそれを遮るのは躊躇われるのだ。
「表向きは皆、私に優しくしてくれました。けれど…それは私が持たないが故の優しさであったのです。…当然でしょう。だって…私は新加茂の使役狐には決してなれないのですから。その為の一族に生まれながら…その為には決して使われない狐。…誰だって…そんな相手には哀れだと思いますわ」
―否定は出来ない。
無論、私は一ツ葉様を哀れだなんて思ったことは無い。まして『役立たず』などと思うはずが無いのだ。こうしてお腹一杯に美味しい食事を食べられたのも、良い湯加減だった風呂を浴びて暖かいまま布団の中に入れるのも、全て一ツ葉様のお陰なのだから。今日のこの数時間だけでさえ一ツ葉様は数え切れないくらい私の役に立っている。
―でも…それはきっと…今の姿の…今の価値観なのだ。
私が物心着いた頃にはもう彼女たちは美しい女性そのものであり、誰よりも献身的に主へと尽くす姿だったのだ。けれど、その前の…狐そのものの姿であった頃はどうだったのか。新加茂の大切な『友』であり、呪殺の為の重要な道具であった頃にはどうだったのか。無論、使役狐の仕事は呪殺だけではない。しかし、それでもその仕事には妖力を使うことが多いのだ。
―そんな中…妖力の使えない同族が居ればどうなるか…。
私だって…きっとそんな中に居れば哀れむだろう。だって、それは存在意義が根本から否定されたのと同じなのだから。そんな相手に辛く当たってやる程、私は冷酷な性格をしていない。しかし、同時に…見下すであろう。『その為の一族の中で、決してその為に活躍できない相手』として、自分より無条件に下の相手として、彼女を見るに違いない。私は相手を決して下に見ないと言えるほど聖人ではないのだ。
「だから…私は努力しました。妖力が無くても…何れ仕えるかも知れない新加茂の方に役に立てるように、様々な技術を磨きましたわ。今の姿になる前から炊事に洗濯…お掃除も。人の姿になることは出来ないのでお買い物なんかは出来ませんが、今でも山の中で食料を採るのは…一族の誰にも負けません。」
―…耳が痛い…。
その言葉は源重郎に『役立たず』と罵られて、不貞腐れていた私にとっては…とても耳が痛い話だった。無論…私も人並みに努力したつもりだ。だからこそ、剣の腕を始め、様々な面で『人並み』程度にはなれている。しかし…それでも所詮、私の努力は『人並み』なのだ。まったく努力してこなかった訳ではない…と言い訳出来る様な努力だけ。決して血反吐を吐くほどの努力をした事などない。
しかし、今、私の後ろに居る女性はどうだろう。無論、才能もあったのかもしれない。しかし、妖力を持つ事を何より重視する一族で、必要とされるかも分からない技術を磨き上げるのにどれだけの努力を重ねたのか…私には推察する事も出来ないのだ。無論、私と一ツ葉様では生きた時間が違うが…それでも、私のように不貞腐れず、自分なりの部分で勝負しようとしてきた彼女の姿が…とても眩しく思える。
―それは…私には無かった発想だ。
私は…結局、源重郎に貼り付けられた『役立たず』と言う言葉に甘えていたのだろう。彼女のように自分でしか出来ない仕事を探す事もせず、日々、不満だけを募らせて生きていた。兄の才能に嫉妬する一方で、兄の才能を理由に『努力しても無駄だ』と思っていたのだ。私の何倍もの速さで先を行く兄に追いつく為に何倍も努力する事もせず、それを理由に足を止めていたのは…甘えていた以外の何物でもない。少なくとも…こうして自分だけの特性を手に入れ、しっかりと活かしている一ツ葉様の前では…そう思う。
「しかし、それでも私にお声は掛かりませんでした。…当然ですわ。どれだけ家事手伝いが上手くなろうとも、使役狐の本分は呪殺。その為には妖力が無くてはなりません。しかし…そうと分かっていても…私は止まる訳には参りませんでした。だって…もし、止まってしまえば私の存在意義は…本当に無くなってしまうのですもの」
―その言葉は…とても実感に溢れた言葉だった。
必要とされるかどうかも分からない技術を磨き、自分にしか出来ない方面で勝負しようとし続けてきた一ツ葉様。その思いはどれだけのものだったのだろう。そして、何より…どれほど怖かったのだろうか。自分の努力が実るかどうか以前に、方向があっているかも分からない闇の中をひたすら走るようなものなのだ。正しいのかどうかさえ分からないまま、突き動かされるように進み続ける感覚は…その領域に足を踏み入れたことが無い私には分からない。しかし…何時、心が折れるとも分からぬ辛い時間であったのだけは確かだろう。
「そうして…長い年月が過ぎて…妹たちも新加茂の方々に仕える様になって…最近、私にようやくお声が掛かりましたの。その時は…飛び上がるほど嬉しかったのです。だって、私の進んでいた方向が間違っていなかったのだとそう認められたのですから。…ですが、同時に怖くもありました。どれだけ努力しても…私は『役立たず』。今に至っても、耳と尾を隠す術さえ使えないのですから。もし、主となる方に拒絶されればどうしようかと…今日までずっとそれまでを思い続けていました」
「私は…一ツ葉様を役立たずだなんて思いません。今日だって…沢山、私を助けてくれたではないですか」
今まで沈黙を護ってはいたが…その言葉だけは聞き逃せなかった。似た痛みを持つものとして…その気持ちは良く分かる。私自身、主として認めてもらえるか不安な気持ちは確かにあったのだから。それと似た気持ちを…これほど有能な一ツ葉様が抱いていたというのは意外ではあったが、誰にも認められない道を只管歩いてきて…きっと褒められた事も無かったのだろう。それはただの推察ではあるが、同じ閉じられた社会の中で生きてきた者としてそう的外れな予想とは思えない。
「…有難うございます」
―その言葉と共に私の背中に何か暖かくて、柔らかいものが押し当てられる。
まるで湯たんぽのようなじんわりとした暖かさは決して不快じゃない。寧ろ、冷えそうな心と身体を暖めてくれているような熱は何時までも感じていたい不思議な魅力がある。しかし、魅力と言う面では柔らかい感触もまた引けをとらないのだ。ふよふよと形を変えつつも、しっかりと弾力を示す独特の柔らかさは今まで感じた事が無い。だが、全てが全て柔らかいわけではなく、肩甲骨に触れる部位には独特のシコリがある。思わず手の中で転がしたくなるようなその二つの感触は背中を通して、脳髄に突き刺さるような興奮を与えてくるのだ。
―こ…れ……は………?
それは私にはまったく馴染の無い感触だ。しかし、それでも『それ』が何であるのかを、男の本能のようなものが教えてくれる。しかし、それは余りにも衝撃的過ぎる事であり…私の思考は一時的にその動きを止めてしまった。
「ご主人様…いえ…誠示朗様は…とてもお優しい方なのですね…」
その言葉と同時に私の肩を超えてそっと一ツ葉様の白い腕が下りてくる。布団の中で寝転んでいる状態とは言え、今の状態はまさに後ろから抱きすくめられているような格好になるだろう。まるで恋人同士がするような甘い抱擁だが…それは私の幼さの所為か、彼女が漂わせる母性の所為か、姉か母に甘えているようにさえ見える。しかし、姉か母であれば決して反応しないであろう男の部分は、しっかりとその身を硬くして自己主張をしているのだ。
―って言うか…胸…胸…が…っ!!
そして抱きすくめられていると言う事は…私の背中にある柔らかいモノが胸である以外の何者でもないだろう。女性の性の象徴でもある乳房が今、かつてない程触れ合っている。数分前までは決して想像もしていなかった――まぁ、妄想はしていたが――展開に、私の脳は着いて行けず白旗を揚げようとしていた。
「その優しさに付け入るようで恐縮ですが…それでは一つ…ご褒美を頂けませんか…?」
―ご…ご褒美……ですと…?
そのまま、ぎゅっと胸の中に埋められるように抱きすくめられ、耳元で甘く囁くように言われたら…そりゃ誰だって淫らなものを連想するだろう。まして、私は男盛りに片足を踏み込んだ歳なのだ。ここまで水と種を与えられれば、幾らでも妄想の花を咲かせられる。しかも、それは展開的に十二分に『有り得る』話なのだ。倫理感を超えた、興奮と期待が私の胸にドンドンと満ち、今にも溢れそうになっている。
「わ、私で出来ることなら何なりと…」
「それでは……」
―く、来るのか…つ、ついにこの歳で筆卸ししてしまうのか…!?
余り大きな声では言えないが、『年上の美人のお姉さんに優しく手解きされながら、筆卸し』と言うのは男が持つ共通の夢であろう。しかし、現実は中々、そうはいかない。妄想の種としてはポピュラーではあるが、だからこそ、それは高嶺の花なのだ。しかし、全国の男達が皆、望んでいながら…多くの者が手に入れることの出来ないその夢が今、私の目の前で現実になろうとしている。そう思うだけで私の胸は早くなり、痛いほどの興奮が身体中に走っていくのだ。
「…私などに敬語を使わず…一ツ葉と御呼び下さいませ」
―………え?
しかし、そんな興奮とは裏腹に…告げられた要求は可愛らしく…何より期待外れな物だった。余りにも可愛らしすぎて、最高潮にまで膨れ上がりかけていた興奮が、音を立てるように崩れていき、頭の中の熱がどんどんと引いていく。高まりきった期待からの落差に、目の前が白く染まっていくようにさえ感じるのだ。立っていれば思わず倒れこんでいたような強い疲労感と肩透かし感も、私の身体を押しつぶすように寄りかかってくる。
―しかも…それらは…とてつもない自己嫌悪を伴っていて……。
そもそも、私などが一ツ葉様とそんな事が出来る筈がないのだ。私はこんな短時間で一ツ葉様が惚れてくれるほどの魅力を持つ男では決して無いし、何より、一ツ葉様がそんな軽い女性だとも思えない。そもそも、私とは比べ物にならないくらい努力し、自分だけの特技を勝ち得た一ツ葉様は私には勿体無いくらいなのだ。長い年月を掛けても、「そんな」関係になれるとは余り思えないほどの高嶺の花が…こうして数時間で同衾してくれるだけでも幸運だというのに、その先を期待する事自体が間違っているのだろう。
―あばばばばばばばばっ!死にたい…!ほんの数分前の自分を殺したい…っ!!
努力も何もせず、好きになってもらえる筈が無い。ただでさえ、私は元の能力は低いのだから、人並み程度の努力では一ツ葉様の心を射止めるのは難しいだろう。それでも…そんな妄想をしていたと言うのは、思春期独特の物もあるが、自惚れのような感情が私の何処かにあったのも関係しているに違いない。さらに、ここまで盛大な思い違いをしていたと言う現実と相まって、今すぐ布団の中でゴロゴロと転げまわりたくなるような衝動を産んだ。
「あの…ご主人様…?」
「あ、いや、なんでもないです」
「…んもぅ…。敬語は使わないで下さいって言ったじゃありませんか」
―しかし…そうは言われましても…。
拗ねるような色を帯びた一ツ葉様の声にやはりどうしてもそう思ってしまう。誤解が元になっていたとは言え、さっきの言葉は嘘ではない。私としても勿論、彼女の要求には可能な限り応えたいと思っているのだ。しかし、それでも…私は『役立たず』である。しかも、一ツ葉様と違い、ただ環境に甘えていただけの。そんな私が彼女に横柄な口を利ける筈が無い。
「そもそも私たちは主従の関係なのですよ?ご主人様は敬語を使っていると他の方に示しがつきません」
「理屈としてはそうなんですが…」
新加茂は狭い血縁の中の閉じられた社会だ。特に、その中でも狐との関係を知っているものは一握りである。その一握りは叔父のような例外は居るものの、大体、気位が高く、他の人間を見下す傾向にあるのだ。そんな連中に、もし、使役狐に敬語を使っているなどと知られれば、物笑いの種になってしまうだろう。最近は源重郎と三ツ葉様の様子を見て、風当たりも変わって来ているが、それでも昔から狐と共に過ごしてきた年長者や、新加茂の家で権力を握っている連中ほど、彼女らを道具として見る傾向があるのは同じだ。そして、そんな彼らから漏れる噂は、形を変えつつも、すぐに一族中を駆け巡り、陰口となるだろう。
―私だけであれば、それでも構わないのだが…。
元々、役立たずと陰口を叩かれて育ってきたようなものだ。今更、その噂の中に、「女中にさえ顔が上がらない男」と言う話が加わったところで痛くも痒くも無い。しかし、私はそうでも私と一組で語られる一ツ葉様の風当たりも悪くなる可能性があるのだ。そういう意味では、既に一人の身体ではないので、彼女の言う事も無論、一理所か十理はある。
―しかし…それでも……一度、身についたモノは中々、変わらない。
元々の自信の無く、命令した経験など殆ど無い所為か。或いは三ツ葉様に下手に馴れ馴れしくすると怒髪天となる源重郎の近くで育った所為か。どちらとも分からないが、私が彼女らに一歩引いた言葉遣いをしてしまうのは殆ど癖のようなものなのだ。それに加えて、さっきの話で完全に圧倒されてしまったのだから、敬語を止められる訳も無い。
―参ったな…どう説明すれば良いのか…。
一番、分かりやすいのは『癖』の一言であろう。ある意味で反論を許さないその言葉は、理不尽ではあるものの、真実とそれほど乖離しているわけではないのだから。しかし、それは同時に根本からの解決を拒絶する言葉でもあるのだ。折角、こうして一ツ葉様のほうから歩み寄ってきてくれたのだし、此方としてもそんな突き放すような言葉は使いたくは無い。
「それとも…やはり私では…ご主人様の使役狐には相応しくありませんか…?」
「そ、そんな訳無いですよ!一ツ葉様は私には勿体無いくらいの方です!」
「…では…どうしてですの…?」
―ぎゅっと強く力を込められた腕は…少しばかり震えていた。
きっと一ツ葉様も不安なのだろう。長い間、使役狐として見向きもされていなかった分、マトモに主従関係を結べるかは彼女にとっての死活問題なのだから。…この期に及んでも殆ど自分の事しか考えていなかったが、私よりも一ツ葉様に余裕がないのは少し考えれば分かる話だ。
―なら…断るにしても…やはり真摯に胸の内を打ち明けるべきだろう。
「…私は…ずっと『役立たず』と呼ばれ続けてきました」
―ゆっくりと漏れ出た独白は、自分でも思ったよりするすると出てきた。
正直に言えば…その想いはずっと胸の内に溜め込んでいたかった。一ツ葉様はこんな私の所に来てくれた人でその人の前でだけは、立派な主人で居たいと思うのは当然の気持ちだろう。無論、私には人に誇れる所なんて何一つ無いから、何時かは箔が剥がれる日がやってきたのは確かである。しかし…しかし、それでも…私はその日まで、普通の主人として『役立たず』として見ないで欲しかったのだ。
―でも…事ここに至って…黙り込んでいるわけにもいかない。
私が傷つくのは良い。一ツ葉様を消極的に騙そうとしたのも、今まで努力してこなかったのも私の罪だ。それで何の罰を、痛みを受けようと、自業自得である。しかし、その私の罪で、何の罪も無い一ツ葉様を傷つけるわけにはいかないのだ。例え、この話の後に軽蔑されようとも…ここまで努力し、好機をもぎ取って見せた一ツ葉様にだけは真摯に向かい合わなければいけない。
「源重郎…頭首が言うには兄の劣化品であるそうです。…正直、私もそう思います。何をやらせてもすぐに人並み以上の結果を出す兄と、努力してようやく人並みになれる私……その差は誰が見ても明らかでしょう。これがまた兄が居ないか…年齢が逆であったら話は違ったかもしれません。…しかし、私の上には兄が居ました」
「………」
―呟く様な独白に一ツ葉様の返事は無い。
呆れているのか…それとも急に始まった独白に戸惑っているのか。依然、私の後ろから一ツ葉様が抱きしめる形なので、顔が見えず、私にはどちらか分からない。…しかし、触れ合う部分から伝わる優しい体温がそのどちらでもないと言ってくれている様に感じるのだ。まるで独白し、冷えた心を癒してくれるような温かさに引かれる様に私は次の言葉を紡いでいく。
「そんな状態では…兄の身体に期待が圧し掛かります。それは…傍目から見ても、常人であれば潰れかねないほど過度なものでしたが…兄は立派にその期待に応えていました。それは…頭首の後釜を狙う親戚連中には面白くなかったに違いありません。…そして…その鬱憤は、その兄のすぐ横に居る子供に向けられていったのです」
―…その頃の事は今でも強く記憶に残っている。
元々、決して優しいとは言えなかった親戚の視線が、見下すようなモノに変わった日。仲の良かった親戚の子供に遊ぶのを拒絶された日。そして…実の両親にさえ、「お前さえ居なければ…」と詰られた日。今でも全部、昨日の事のように思い出せる。無論、その時の辛い気持ちも。
―そして…皮肉にもそうした荒波から護ってくれたのは…他の誰でもない。兄だった。
無論、三ツ葉様も叔父も双葉様も護ろうとはしてくれていた。しかし、実の両親からさえ疎まれていた私を誰よりも護ってくれたのは…やはり兄だろう。次期頭首候補筆頭の兄の前で、その弟を詰るような度胸があるのはこの新加茂の家で一人しかいない。自然、私は兄により近づくようになり、兄もまた私の傍に居てくれたのだ。
―今だからこそ思うが…きっと兄は自分の所為で、こうした状況になっていることを知っていたのだろう。
兄は何度か、詰られて泣き続ける私を慰める際に謝っていた。当時の私はその理由までは分からなかったものの、きっとアレは自分が引き金となったことを詫びていたのだろう。
―そんな兄を…嫌えるはずもない。
正直に言えば「もし、兄が居なければ」と想像した事は一度や二度ではない。しかし、それはただの妄想だ。兄に対する怒りや憎しみのような感情は一切無い。寧ろ、幼少期、私がこれ以上歪まずに済んだのは間違いなく兄のお陰であるのだ。感謝の気持ちこそ抱けど、殺意の類を感じるはずがない。未だその感情は複雑ではあるが、逆恨みをする程、私は愚かではないのだ。
「恐らく…頭首も最初はそんなつもりで言ったのではないのでしょう。…しかし、彼が私に向かって言った『役立たず』の一言はある意味、その子供を詰る免罪符となりました。頭首がそう言ったのであれば…例えそれが違ったとしてもそうなってしまうのです。そして…そう詰る大人達の言葉は子供にも伝播して行き…私は一族の集まりの中で必ずと言って良いほど、良く苛められるようになりました」
無論、源重郎から私が疎まれていたのも事実だ。欠陥品や役立たずと呼ばれた事は一度や二度ではない。しかし、源重郎は口々に噂させるつもりで言った訳ではないのだろう。彼は新加茂の為ならば、手段も目的も選ばない非情な男ではあるが、同時に無駄なことは殆どしない男なのだから。発奮を促す為に罵る事をするかもしれないが、必要以上に萎縮させるつもりまでは無かったのだろう。
―…多分だが。
私が源重郎に問いただしたわけではないのでただの推察である。しかし、私の知る源重郎の性格を考えると、それほど事実とかけ離れていると思えない。親戚連中に詰られ、女中相手からも陰口を叩かれるようになってからは激しい鍛錬や頭痛がする程の勉強もさせられるようにはなったが…それも責任感の表れだと思えないことも無い…気がする。…いや、やはり無いか。
「それでもそんな言葉を跳ね返そうと努力していたのです。…しかし、それは所詮、人並み程度の努力でしかありませんでした。結局…私は『役立たず』と言う言葉に負けて、それを言い訳にしていたのです。…一ツ葉様のように…自分だけの独自性を確立する事もせず…決められた枠の中でのうのうと生きてきただけの男なのです…」
源重郎の意図はどうであれ、私はそうした扱きに耐え切れなかった。ドンドン増していく鍛錬の量や、勉強の量に着いていこうと努力していたが、ある日、ついに心が折れてしまったのである。浜風を伴って逃げ出して…この屋敷へと駆け込み、そのまま一週間ほど此処で過ごした。その間、源重郎や両親から何の便りも無く、ある日、不安になって帰ってみると、源重郎から完全に見放されてしまっていた。
―しかし…気づいた時にはもう遅い。
弁解する機会や場さえ与えられず、まるで私が存在しないかのように一切を無視されるようになった。自然、普段、使っていた勉学や鍛錬の時間も無くなり、一気に自由な時間ができる事になる。ここで普通の子供であれば、遊びにでも興じるのかもしれない。しかし、残念ながら友人など一人もいなくなってしまった私はいきなり降って生まれた時間に戸惑いつつ、結局、同じ時間を鍛錬や勉学に割き始めた。
―しかし、どうしても私の心の中には『役立たず』の言葉が居なくならない。
どれだけ剣を振るっても、筆を取っても、「どうせ役立たずなのだから」「無駄だから止めよう」と言う声が聞こえるのだ。ついこの間までは源重郎の圧倒的な威圧感の中で億尾にも出てこなかったその声が、私一人の時には途切れる事がない。…そして、私はその声に屈し、結局、その努力さえも半ば、投げ出してしまったのだ。
「それで…それでどうして…一ツ葉様に横柄な態度を取れましょう…。自分自身の武器を磨き上げてきた方に、命令など出来ましょうか…。私は余りにも矮小で…人の上に立つに相応しくない男なのに…」
「……ご主人様」
―その声と共にそっと後ろから強く抱きしめられる。
まるで暗い意識の底へと堕ちていこうとしているのを抱きとめてくれているかのような、その抱擁に思わず目尻から涙が零れた。それを反射的にぬぐおうとしても、まるで鉛で上に乗せられているかのように動かない。自然、ボロボロと零れ落ちていく涙は頬を伝って、布団を濡らす。まだ真新しい感触の布団を涙で穢さまいとしても…私の目尻から涙が止まらないのだ。
―くっそ…!どうして……っ!
私だって男だ。こうして…女性の前で泣いている姿と言うのは見せたくは無い。しかし、今まで押さえ込んできた感情を吐露した所為だろうか。どうにも…感情の抑制が効かず、涙となって溢れ出ていく。それを拭う事も出来ないまま、身体を震える私の頬を…一ツ葉様の指がそっと撫でてくれた。慰めるようなその仕草に、自分でも分からない感情が涙となって溢れるのを感じる。
「…ご主人様……私…本当は…お…いえ、妹から聞いていたんです」
「…え?」
―三ツ葉様が……?どうして……?
もしかして、私が余りにも不甲斐無さ過ぎるから一ツ葉様が幸せになれないと…そういう意味で話をしていたのだろうか。いや、三ツ葉様がそんな事をするとは思えない。思えないが…しかし、私の自信の無さがそれをどうにも現実に有り得る話のように感じさせるのだ。
「新加茂の本家の中で…不当な扱いを受けている子がいる。もし、その覚悟があるなら助けてあげて欲しい…。その話を聞いた時は…何かの冗談だと思いましたわ。だって…その子が置かれている立場は…私などよりもよっぽど辛いものだったのですもの。…私のように最初から持っていないのではなく…持っていても認められないその子の話を聞いて…私は壱も弐もなく話を受けましたわ」
「勿論、私が使役狐に憧れていたのもありますけれど」と悪戯っぽくそう付け加えて、一ツ葉様は目の下ほどをそっと撫でてくれる。涙の跡をそっと消すようなそれは、私が泣いているのを知っているからのものなのだろう。しかし…それでも何も言わない彼女の心遣いが、後ろの押し当てられた体温以上に私の心を暖かくしてくれる。
「勿論…今、こうしてご主人様のお話を聞いても…私の決意は変わりません。…誠示朗様は私のご主人様です。私に似た傷を持つ…優しいお方ですわ」
「でも……私は…っ!」
「それでも…と申されるのでしたら…これからそうなれば宜しいではありませんか。他の誰もが羨む様な…立派な方に」
「そんな事……っ」
―それが…それが出来れば苦労はしない。
勿論、一ツ葉様は私の事を思って慰めてくれているのだ。それは分かっている。けれど…それは胸が痛くなるくらいの理想論だ。そう簡単にそんな理想を叶えられるのであれば、世界はもっと平和になるだろう。しかし、実際はそうではない。心の中でどれだけそう願っても…結果がついてくるとは限らないのだ。
「―…では、諦めますの?結局、何もしないまま、何も変わらないまま…ずっとこうして自分を責めているだけのおつもりですか?」
「それは…」
―……それは…嫌だ。
私だって…自分を変えたいと思ったことは少なからずある。けれど、それは根本的に自分に甘い性格の所為で中々、実を結ばず、今も心の中で不平や不満を垂れるだけだ。そしてそんな自分に自己嫌悪して…また言い訳する材料を増やす。そんな循環はいい加減、断ち切らなければいけない。それは勿論、私にだって分かっているのだ。
「でも…私一人じゃ…」
―源重郎からも逃げ出した私に…変わる事なんて出来るとは…思えない。
当時としては押しつぶされそうなくらいの量だと思ったが、今思い返せば処理しきれない分ではなかったのだ。兄などに課せられていた量から倍近く差があったが、それだけやりこまなければ舐められたままだと源重郎は思っていたのだろう。…しかし、私はそんな源重郎の心も知らず逃げ出した。一度、逃げ出して、心が折れて…ある意味、誰よりも目を掛けてくれていた男を裏切ってしまっているのだ。そんな私が…一人で努力して変われるだろうか…?
―そんな風に思い詰める私の手をそっと一ツ葉様の温かい右手が包んでくれる。
手の甲で感じる一ツ葉様の手は、絹の様に滑らかでありながら、吸い付いてくるようだ。ゾクゾクとした妖しい感覚が背筋を這い上がって来るのさえ感じる。はっきりと性感とも言い難い妖しい感覚は、自責の渦へと飲み込まれそうな私を現実へと引き戻してくれた。
「誠示朗様は決して一人じゃありません。誠示朗様と似た傷を持っていて…同じように変わりたいと願う私がおりますもの。貴方様を決して裏切らず…その助けになろうと心に決めてここに居る私がおります。…だから、一緒に頑張りましょう…?」
―その言葉は…とても温かく、優しかった。
最後の最後まで張っていた虚勢が、「やっても無駄だったじゃないか」と、何処か冷めた感情を溶かしていく。努力した先で傷つかない為に、努力した後で変わらなかった絶望を見ない為に、ずっと私を護ってくれていた殻が無くなり…今までも胸の内で声を上げていた感情が言葉となって出て行くのだ。
「私も…私も…変わりたい…っ!今の…今の私は…嫌だ…っ」
「…えぇ。分かります。私もそうですから…」
―そのまま一ツ葉様は指を絡めつつ…ぎゅっと力強く手を握った。
まるで恋人のような情熱的な繋ぎ方にも、私の胸は高鳴らない。ソレよりももっと重要な…覚悟にも似た感情が胸を占めていたからだ。私の事だからそれはただ場の空気に流されただけの思い込みであるのかもしれない。しかし、一ツ葉様の手から流れ込むような熱が、それを否定するかのようにがっちりと私の心を掴み、軸を作り上げようとしている。それはまだまだ鉄には程遠い柔らかい芯だ。しかし、私の中に今まで決してなかったそれは、私の考えを今この瞬間だけでも固めるのには十分すぎるものだった。
「一ツ葉様…私は……」
「一ツ葉と。そうお呼び下さい」
―…気恥ずかしい…けれど……。
「変わりたい」と私はさっきそう言ったのだ。一ツ葉様と同じように今の自分から脱したいと…他の誰でもない、私に仕えてくれるこの優しい女性に。ならば、今、この瞬間にでも変わらなければいけない。こんな私でも信じようと、救ってくれようとした一ツ葉様の為にも、敬語如きで、もたついているわけにはいかないのだ。
「…一ツ葉。…私は…約束する。…必ず…お前が人に誇れるような主になると」
「では…私はそんなご主人様に相応しい使役狐になりますわ」
―誓い合ったその言葉は…神聖さの欠片も無い。
一枚の布団の中でお互い肩を寄せ合っての宣誓なのだ。まして、片方は恥ずかしいくらい涙を流しているのだから、そんな物があるはずもない。しかし、私にとってこのやり取りは何より大事なモノだ。他の誰がなんと言おうと、下らないと言われても、恐らく一生、忘れられない…いや、忘れてはいけないものだろう。
「…もう夜も白んじて来ました。…長話に付き合せて申し訳ありません」
仕切りなおすような一ツ葉様の…いや、一ツ葉の言葉に襖を見るとうっすらと白い物が映っている。仄かな月の光とは決して違う、力強い白は太陽が昇り始めた証だろう。結局、殆ど徹夜してしまったようだ。…まぁ、そこそこ長い時間、お互いに言葉を交わしていたのだから仕方が無いといえば仕方が無い。
―それに…何も収穫が無い訳ではなかった。
いや、寧ろ自分の内面が大きく転換した大事な一夜と言うべきか。出会ってまだ一日も経っていない女性に諭されて、あっさり転換するなんて今まで自分は何をやっていたんだ、と言う気さえするものの、うじうじといじけていた事から抜け出したのは歓迎すべきだろう。「変わっていく」と言う明白な課題が出来た今、大事なのは「今まで」よりも「これから」なのだから。
「いや…私は…とても楽になった。これも…一ツ葉のお陰だ。有難う」
「…勿体無いお言葉です」
―その返事の言葉が…少し鼻声に聞こえたのは気のせいだろうか。
勿論、私自身も既にかなりの鼻声であるので、耳が麻痺している可能性もある。寧ろ、その可能性が高いと言えるかもしれない。いや…きっと、そうだ。そうに違いない。そう思い込もう。
―…だって、例え一ツ葉が泣いていても私には何も出来ない。
もし、泣いていたとしても、泣き顔は見られたくないだろう。男ほどではないにせよ、女性は男以上に外見を気にするのだから。これが恋人同士であれば…振り向いて涙を拭ってあげるのも手かもしれない。しかし、私は…一ツ葉の主だ。ただ、それだけの関係なのだ。私に出来るのは…その声を聞かぬ振りをしてあげる事くらいだろう。
―後は…この結びついた手をどうするか……くらいか。
所謂、『恋人繋ぎ』の変型のまま繋がった手は未だ解かれては居ない。そして、正直に言えば、余り離したくはなかった。勿論、あんまり過剰に反応して一ツ葉を傷つけることになるんじゃないかと言う懸念…いや、言い訳もある。しかし、一番の理由は…やっぱりその滑らかな手を、優しくて温かい手を私自身、積極的に離したくないのだ。
―それが…まだ、どんな感情から来るものかは分からないが。
まだ少しずつ芽を出し始めた状態なのだ。これからどんな花が咲くのか私には分からない。けれど、少なくともそれは悪い感情ではないような気がする。これからどう転ぶか知っているのは神くらいだろうが、それでも、その感情はきっと素敵な花を咲かせてくれる。そんな予感が私にはあった。
―…けれど、そんな予感があったって、正直、離したく無いと思っても、そういうわけにはいかない。
当たり前だが、私は一ツ葉の主だ。実質的には対等…いや、私の方が地位が低いとは言え、対外的には私が上となる。そして、勿論、一ツ葉は私を立ててくれるだろう。長い間、主が居なかった所為か…彼女の献身は筋金入りなのだから。様々な面で劣っている――いや、そう考えるのが自虐の元なのだ。よそう――成人前の子供とは言えど、無碍には扱うまい。
―そんな彼女が自分から手を離してくれと言うだろうか。
賭けても良いが、それは決してないだろう。少し行き過ぎと思う面はあるが、この短時間で感じた彼女の献身は本物だ。ただ、無条件で奉仕するのではなく、先ほどのように間違っていれば訂正する苦言も呈するのだから。しかし、それは逆に、間違っていなければ、或いは余程、嫌でない限り、そういう主張はしないという事でもある。
―だから…こっちから聞かないと…何時まで経っても今の状況のままだろう。
「それで…この手なんだが…」
「……宜しければ…もう少しこのままでお願いします」
―…その声は完全に鼻声に聞こえた。
あくまで…あくまで推察でしかない。推察でしかないが、やはり一ツ葉にも色々あったのだろう。私が意図的に彼女に話さなかったことがあるように、一ツ葉もまた胸の中に秘めているものがある。それは…まだ私が踏み込めない――いや、踏み込んではいけない領域だ。一ツ葉から表面的なものしか聞いていない私には、まだ手を伸ばしてはいけない問題だろう。
―そうは思っても…やはり胸が疼く。
すぐ後ろで泣いている女性が居るのに、しかも、その女性は、泣いている私を何も言わず慰めてくれていたのに、私には何も出来ない。その無力感と…まだ名前の付けられない痛みが合わさって、ずきずきとした痛みを走らせる。しかし、その痛みを追い出そうにも、私には言われるように手を繋いでいるしかない。
―…いや…せめて何か…優しい言葉の一つでも…。
今までであれば、ただ言われた様にしているだけで良かったかもしれない。しかし、折角、変わると決めたのだ。自分から受身の状態から…少しでも人を引っ張っていける人間になると約束したのだ。無論、嫌がるような事はする訳にはいかないが…彼女がそうしてくれたように言葉の一つでも探すべきだろう。
―しかし…優しさの押し付けにならず…尚且つ優しい言葉なんて…そうあるものじゃない。
これが学のある人間であればまた別なのかもしれない。しかし、私はそこそこの教育を受けていたとは言え、途中で逃げ出した男だ。勿論、こんな時にパッとぴったりの言葉が出てくる訳もなく…結局、私は無難な言葉を選んで口を開く。
「あぁ、分かった…。それで…私はそろそろ寝るから…」
「ご、ごめんなさい…っ!じ、邪魔ですわね…」
「あ、いやっ…だから…好きなだけ…その、このままで構わない…と…」
―…な、なんていうか…まるで口説いているような気分に……。
どんどん尻すぼみになっていく言葉は私の自信の無さの現れだ。それも仕方がないだろう。変わると決めたとは言え、いきなり自信満々になれるはずもない。まして、今までこんな風な事を女性に言う機会なんてなかったのだ。その経験の無さは致命的なまでに羞恥心を掻き立て、自信の無さは「これで本当に良いのか?」と疑問を呼び起こす。
「……有難うございます…」
―…しかし、それはどうやら杞憂であったようだ。
後ろから聞こえてきた感謝の言葉は涙ぐんではいたものの、嫌そうな色は決して無かった。自分では少々、気障な言葉かとも思ったが、どうやらそれほど的外れではなかったらしい。それに胸を撫で下ろしつつも私はそっけなく言葉を返す。
「いや…それではお休み」
「えぇ…お休みなさいませ、ご主人様」
優しいその言葉と同時に…さっきより強く手を握られる。完全に密着し、熱を全て送り込んでくるような繋ぎ方は恋人に成り立ての二人のようで何処か気恥ずかしい。しかし、その感情を余り感じる暇も無く、私の目蓋はずるずると凄い勢いで落ちてくる。
―…あ…これは……。
色々あって眠気を感じる暇も無かったが…流石に緊張の糸が途切れてしまったらしい。今まで眼が冴えていたのが嘘のように、身体が眠気へと落ちていく。それに抵抗しようと思う間も無く、私を飲み込んだ睡魔は…そのまま深い深い眠りの底へ私を誘っていくのだった。
それは母親や父親を始めとする家族であったり、幼馴染であったり様々な場合が考えられる。しかし、その多くが大抵、幼い頃の経験や記憶から苦手意識が来ているのが殆どではないだろうか。
―少なくとも…私にとってはそうだ。
「顔を上げろ。…呼ばれた理由は分かるか?」
まるで抑え付けるような威圧感のある声に顔を上げると、私の目に初老の男が飛び込んできた。見た目の年の頃は四十の半ばほどだろう。誰もが思わず背筋を正したくなるような強面には威厳や経験が刻み込まれているかのような皺が幾つか見受けられる。しかし、まだまだ老いには負けてはおらず、その威圧するような切れ長の瞳を始め、全身には精気のようなものが溢れ返っているようだ。墨をかぶったかのような艶の無い黒髪には白髪が一本も見えない。恐らく男として最も脂が乗っている年頃であろう。しかし、この男は私が物心着くころから今の姿であるので、肉体年齢と実年齢とは大分、乖離していると言って良いだろう。
「いえ…まるで見当も…」
―そう言った私の言葉は少し震えていた。
私にとっては、この目の前の男は苦手と言う言葉では言い表せない程だ。こうして目の前に正座しているだけで、ピンと伸ばした背筋に冷や汗が浮かぶ。必死に押し隠そうとはしているものの、指先が震え、どうにも落ち着かない。足先も柔らかな座布団に体重を預けているはずなのに今にも逃げ出そうとしているかのようにピクピクする。
―落ち着け…大丈夫だ…!
必死にそう言い聞かせようとしていても、私の身体に刷り込まれた記憶がそれを阻む。丁寧に整えられた木々とそれを映す小さな池が襖の間から見えても、まるで心を落ち着けられない。目の前の男が好む質実剛健を現すような簡素なこの客間でさえ、戦場にいるかのように感じる。
「来月…お前も十五になるな」
―そして暖かみも何も無いこの男の言葉はまるで刃だ。
冷たい上に、下手に触れると斬れてしまいそうなほど鋭い。感情を一切込めず、ただ事実を羅列するだけの言葉は、身体に突き刺さるような錯覚を覚える。無論、それはあくまで錯覚だ。しかし、幼少の頃からこの男に苦手意識を植え付けられた私にとって、その痛みは何にも勝る現実である。
―だが…それに怯んでいる暇は無い。
一度、怒りに触れれば、烈火の如く怒り出すこの男を不快にさせる訳にはいかないのだ。罵詈雑言ですらないただの言葉でもこれだけの痛みになるのだから。
「はい…」
―私たち新加茂の一族にとって十五と言う年齢は特別なものである。
表向きは田舎の一豪族でしかない新加茂だが、その正体は帝の墳墓を護る墓守の一族だ。その支配地域には帝の墳墓が数多く隠されており、私たちはそれを様々な意味で管理する事を使命としている。そして、無論、その管理の中には盗掘者に対する制裁も含まれているのだ。
―その為、新加茂は昔から陰陽の術を得手としてきた。
盗掘者に一番、利くのは惨たらしい拷問ではない。呪いと言う目には見えない罰だ。人が行う拷問は捕まらなければどうとでもなるが、呪いはそうはいかない。盗掘した時点で惨たらしい結末が決まっているのに、誰が手を出そうか。無論、それを迷信と信じて墓を暴こうとする愚か者は何時の時代でも一定数居るものだが、それを罰するのが私たちの術である。
―そして、その術に欠かせないのが狐だ。
昔からこの地域を帝に任されてきた新加茂の一族にとって、妖力を持つ狐は代わりの効かない相棒であった。表向きは豪族である新加茂の手足となって働き、盗掘者を見つけ出す。初代頭首が飢饉の際に餓死しかけていた狐を助けた縁から、そんな風に新加茂に仕え、支え続けてきてくれた。その縁は今でも変わらず、『彼女ら』は本家の男子が十五になる日に契約し、その忠実な手足となって仕えてくれる。
―ただし、優秀な男子のみに。
新加茂がまだ小さい一族であったころは良かった。しかし、今は田舎に拠点を置くとは言え、立派な一豪族だ。何処から秘密が漏れるかも分からない。また、何時、身内に墳墓を暴こうとする人間が現れるやもしれない。その為、こうした秘密を知るのは同じ新加茂の中でも一握り…それも頭首に近く、さらに能力を認められた人間だけだ。
―そして…私は優秀ではなかった。
私がこの話を知っているのも、『優秀な』兄とこの男が話しているのを立ち聞きしたからだ。決して私が優秀だからではない。寧ろ、目の前のこの男に『役立たず』との烙印を押され、今の今まで突き放されてきた。
―だからこそ…どうして、呼ばれたのがまるで分からない。
優秀な兄ならばいざ知らず、今の今まで見向きもしなかった私をどうして十五を目前とするこの時期に呼んだのか。少なくとも叱責の類ではないだろう。見放されてから、今まで目立たぬ事だけを考えて生きてきたのだから。まして骨どころか精神まで金剛で出来ているかのようなこの男に叱責されるような事をしでかしたならば、私は既に鉄のような硬い拳で殴り飛ばされているはずだ。
「新加茂の一族にとって十五になる事は、生涯の友を得ることでもある。それも…知っているな」
「えぇ…」
言葉の端に苦々しいものを浮かばせているのは、私が図らずも盗み聞きしてしまった時の事を思い出している所為だろうか。確かにあの時はこの男――新加茂の現頭首であり、私の祖父でもある新加茂源重郎には珍しく気が抜けていた。少なくとも、兄が急に呼ばれた事に悪戯心を掻き立てられた十の子供の気配に気づかないくらいには。兄が五十年に一度とも言われる陰陽の才能を見せ付けた所為だったのだろうか。源重郎本人ではない私には見当もつかないが、その記憶が今、こうして言葉の端に浮かんでいる事くらいは推察できた。
「今日の話は、お前と契約する狐についてだ」
「しかし…お祖父様…っ!」
反射的に否定の言葉が出たのは、昔、源重郎に山ほど罵詈雑言を受けた所為だろうか。それとも私の中にも、この老練で強靭な男に対する反骨心がまだ残っていたのか。それさえも分からないまま出てきた言葉は、睨めつける様な強い視線に途中で遮られてしまう。まるで反論は許さない、と言わんばかりの圧力に私は抗う事が出来ないのだ。
「…何か不満でもあるのか?」
―分かっていてそう言う事を聞くのか…っ!!
値踏みするような言葉に、腹の底に冷たい熱が溜まるのを自覚した。頭が熱くなるほどなのに、腹の底がすっと冷えるような感覚。それに幼い頃からずっと溜め込まれ続けていた怒りが息吹を吹き返し、鳩尾の内側で蠢き始める。しかし、それを新加茂の家の中で絶対的な権力を握るこの男の前で出す訳にもいかず、小さく一呼吸する事で押さえ込んだ。
「……いいえ。何もありません」
―それはある意味、嘘であり、ある意味、本当の事だ。
理由は分からないが新加茂の家の中で狐を使役すると言う事は一種の証である。頭首からその能力を認められたものだけが狐を扱う事ができるのだから当然だろう。その事を知っているものは極一部ではあるが、狐を扱えるかそうでないかはこの一族の中では天と地ほどの権力の差が出来る。逆に、盗掘者への処罰を行う義務が生じるが、源重郎の手腕により治安が良くなってきた最近はその義務も半ば形骸化しているのだ。
―手に入る利益は上々。逆に不利益は殆ど無い。
そう考えればこの申し出は喜んで受けるべきだろう。少なくとも私自身のつまらない反発心で無駄にして良い話ではない。…しかし、同時にあまりにも旨過ぎる話に私の心の中で警報が鳴っているのも事実だ。
―この男が…ただ旨いだけの話を持ってくるはずが無い。
親兄弟でさえ道具として扱い、新加茂一族の利益を追求する事に何の躊躇いも持たない男なのだ。自他共に才能を認められている兄ならばいざ知らず、『使えない』と烙印を押したはずの私に、こんな良い話を持ってくるとは到底、思えない。
―なら…ここは…まず腹を探るべきだろう。
少なくとも何を考えているのか分からない状態で話を受けるのは論外だ。今は少しでも話を引き伸ばし、この男の真意を少しでも探るのが先決だろう。
「しかし…私などで本当に彼女たちの主が務まるのでしょうか…?」
「下らん駆け引きは止せ。元々、お前には何も期待しては居ない」
―お見通し…か。
突き放すような冷たい言葉に、背筋に鳥肌が浮き立った。同時に、元々、冷や汗が浮かんでいた所為か、ぞっとするような感覚が背中から這い上がってくる。それを振り払おうにも、緊張の所為か私の全身は凍ったように動かない。
「今回、お前を呼んだのは―」
「失礼します。お茶が入りました」
そんな暖かい声と共に俺の右手側の襖がそっと開く。望外の助けに身体の緊張が解れるのを感じながらそちらを向くと、一人の女性が漆を塗られた木製の盆に二つの湯飲みを載せて客間へ入ってくるところだった。
「…三ツ葉様…」
―その女性は、この新加茂の家の中で唯一、源重郎へと意見できる貴重な人であり…そして私の初恋の人でもあって…。
そして何より美しい方でもあるのだ。秋にたわわに実る稲穂のような金色の髪は庭から差し込む昼の光に当たって、僅かに色を変えていく。枝毛の一本も、癖の欠片も無い美しい髪は腰までそっと流れていた。それが見せる様々な表情に目を奪われてしまいそうにさえなってしまう。また純金を職人の手で削り上げたような瞳も魅力的だ。共にこの辺りでは滅多に見ない色であると言う事もあり、奇異に映ると同時にどうしても目を惹かれてしまう。
そして目を引かれた先に映るのは、その美しい顔だ。頬から顎に掛けて流れるような細い線も、すっと筋の通っている形の良い鼻も、若干、目尻が垂れ下がっていてこの女性の温和そうな雰囲気の一助となっている目も、どれも芸術的な配置だ。一つ一つを取っても間違い無く美しいのに、お互いを引き立てるような配置が香り立つような魅力を与えている。
また、濡れた紫陽花色の生地に桃色の石楠花模様を縫いこんだ着物は、派手さは無いものも人目で上等な一品だと分かるだろう。しかし、その下に隠されているであろう魅力的な肢体がその感想を全て吹き飛ばす。本来であればそれだけでも目を引くであろう一品が、全体の線は細いが、男好きする部位にはたっぷりと肉を付けている身体の引き立て役に成り下がっているのだ。下手をすれば均衡が崩れ、女性の持つ雰囲気を損なってもおかしくないが、眩いばかり魅力がそれを保たせ、温和な雰囲気の中に取り込んでいる。
「誠示朗様、お久しぶりですわ」
そっと微笑む笑顔が、まるで太陽のように感じる。さっきまで源重郎と二人きりだったのもあるから尚更だ。自然、その笑顔に惹きつけられる様に笑みをこぼしそうになるが、不機嫌そうな咳払いが一つなって中断させられてしまう。
「…三ツ葉。コイツに茶は要らんといった筈だ」
咳払いをした主―源重郎の瞳に明らかに不機嫌そうな色が浮かんでいる。それは話を中断させられたのもあるだろうが、一番の理由は…三ツ葉様に横恋慕していた私の目の前に彼女が姿を現した事だろう。
―相変わらず…新加茂の名と三ツ葉様にだけは執着を見せるんだな。
親兄弟でさえ一切の執着を見せないこの冷血漢が唯一、人で執着を剥き出しにするのが三ツ葉様に関しての事だけだ。普段は滅多な事があっても弱味を悟られる様な表情一つ出さないのに、三ツ葉様の事だけはこうして強い表情を露にする。
―まぁ…その気持ちは分からなくも無いのだが。
三ツ葉様はとても魅力的な女性だ。容姿的な美しさもそうだが、特に内面の魅力に溢れている。源重郎に叱られている時に助けてくれたのは殆ど兄か三ツ葉様であったし、「役立たず」の烙印を押されても以前と変わらず優しくしてくれた。何より、この気難しい男と長年、連れ添っているのだ。その優しさと器量は千尋の谷よりも尚、深いだろう。そして…その優しさと暖かさに誰もが惹かれてしまう。少なくとも私はそうだった。
―それが源重郎としては面白くないのだろう。
三ツ葉様の『主』であり、新加茂の一族の中で絶対的な権力を握っているとは言え、源重郎もまた一人の男と言う事だ。好いた女性が、横恋慕されるのが面白いわけではない。自然、私を遠ざけようと辛く当たってきた時期も無い訳ではなかった。
―まぁ…とっくの昔に諦めているんだがな。
そもそも三ツ葉様の目が違うのだ。源重郎を見る時と…その他大勢を見る時と。無論、彼女はその他大勢にも優しい。度を外れていれば苦言も呈してくれるし、頑張れば褒めてくれる。しかし…それでも違うのだ。源重郎という稀代の名頭首を見る時の恋する乙女のような瞳と…その他の―『源重郎の家族』としての私たちを見る時と。
「あら…お孫さんとは言え、誠示朗様は立派なお客様ですわ。お茶をお出ししない訳には参りません」
「いえ…あの…お気遣い無く…」
―それを本人が気づいてないのだから、一番、性質が悪い。
普段、理知的で威圧する巨人のような男がどうしてか色恋にだけは疎い。源重郎が『役立たず』と言った私でさえ明確に区分されているのに気づき、その恋の終わりを悟ったと言うのに、本人だけはその差を理解していないのか、少し他の男に三ツ葉様が優しくすると敵意に溢れた視線で見つめてくるのだ。無論、こうしてお茶を出そうとしている今も苛立たしそうに私を睨めつけている。
―まるで…針の筵だ…。
無論、三ツ葉様にこうして優しくされるのは嬉しい。初恋が終わったとは言え、三ツ葉様は麗しい女性なのだ。そして、男と言う生き物はそうした女性に優しくされて決して悪い気はしない。しかし、源重郎の刺す様な視線の前では、下手に鼻の下を伸ばすわけにもいかないのだ。かと言って、三ツ葉様を強く拒絶するわけにもいかず…ちょっとした板挟みが私を苛む。
「…はぁ…分かったから、早く下がれ」
そう言って、源重郎は右手でそっと目頭を押さえた。こうして弱っているような仕草を見せるのも…三ツ葉様が居るからだろう。普段、私やその他大勢の前に立つこの男はまるでこちらを抑えつける巨大な壁のようであり、弱味一つ見せないのだから。余りにも巨大な威圧感に足が竦む反面、「この男に着いていけば大丈夫だ」と無意識に信じさせられてしまう新加茂家頭首がこうした仕草を見せるのは三ツ葉様の居る場面以外に私は知らない。
―そして結局のところ、折れるのは何時も源重郎の方だ。
何だかんだ言ってこの男は三ツ葉様に甘いのだ。惚れた弱味か、それとも長年一緒に居て敵わなくなって来ているのか。苦手な反面、偉大な頭首としての源重郎しか知らない私にとって理由は分からないが、それでもこの男が三ツ葉様に勝った所を見た事が無い。
「はい♪では、誠示朗様、少し前を失礼しますね」
言いつつ、三ツ葉様は私と源重郎の間にそっと腰と盆を下ろした。身体に通る軸を揺らす事無く、そっと降りてきた腕は衝撃を完全に殺し、湯呑みの中で湯気を湧き上がらせている茶に波紋一つ出さない。相変わらず見事な重心の制御に感心する暇も無く、私の前に湯呑みを置こうと三ツ葉様が前屈みになる。
―あ…良い匂い…。
金色の髪が流れ落ちることで露出したうなじから三ツ葉様の体臭か、甘い香りが立ち上る。花の甘い蜜を濃縮したような匂いは、意外なほど甘ったるくは無い。何処か清々しささえあるその匂いは、私の中の男を強く惹きつける。
「…三ツ葉。私の分は良いから、早く帰れ」
甘いその匂いに陶酔しそうになる寸前、冷たいその言葉に意識が現実へと引き戻される。ハッとなって源重郎の顔を見ると…その顔は意外なほど冷静であった。三ツ葉様の匂いに惹きつけられていたのを、気づかれていなかったのかもしれないと胸を撫で下ろそうとした瞬間、私の心の臓を針が突き刺す。
「…私はコイツと話がある」
―…これは私の人生は終わりかも知れんな。
その言葉と共に向けられた視線は殺意さえ篭っていた。源重郎が理知的な人間でなければ、今すぐ首を絞められていたであろう程の殺意が明確に向けられている。さっきまでの威圧感がまるでお遊びに感じるような視線に、心臓が高鳴ったのがさっきの針に刺されたような痛みの正体だろう。そしてその痛みは今も続くどころかより強く、より大きくなっている。まるで全身がここから逃げ出せと警告しているようだが、俺の両足はじっとりとした汗を浮かべるだけで再び固まっていた。
「はい。では、誠示朗様。ごゆっくり」
―…あ、あんまりこの状況でゆっくりはしたくないんですが……。
ただの挨拶である事を理解しても、思わず心の中でそう呟いてしまう。しかし、それを口に出す事も出来ず、俺の顔は曖昧で若干引きつった笑顔だけ浮かべた。それに三ツ葉様が笑顔で答えて、そっと手を振ってくれる。まるで「頑張って」と言ってくれているような優しい仕草ではあるものの、今の状況では火に油を注ぐ行為でしかない。再び三ツ葉様が盆を持って、客間から出て行った瞬間、再び威圧感が膨れ上がる。元々、体つきがしっかりしていて長身に見える源重郎が二倍三倍に膨れ上がっていくようにさえ感じるそれに私の頬は再び引きつった笑みを浮かべた。しかし、さっきとは違う意味で。
―これは…本当に終わったかも知れんな…。
人間は真の恐怖に出会った時、顔に浮かべるのは涙ではなく、笑みだと言う。それは多分、間違いではないのだろう。何故ならば今の私がまさにその状態だからだ。どうして今、笑みを浮かべているのか、その理由までは分からないが、源重郎は私の笑みを見てもニコリともしない。元々、無感情で無表情な鉄面皮を顔に貼り付けているような男だが、今はそれに加えて顔のすぐ下で溶岩のような熱く、井戸の底のように暗い感情が煮えたぎっているように見える。
「三ツ葉は…私のモノだ」
搾り出すようなその声は今までの声に比べれば小さかった。しかし、それに反比例するかのように中には溢れんばかりの感情が込められている。殺意や怒り、嫉妬を始め、負の感情ばかりを煮込んだようなその声に涙さえ浮かびそうになる。しかし、下手に黙り込んで今の状態の源重郎を刺激するわけにもいかず、私は必死に首肯を示す。
「私の使役狐だ…。それは分かっているな」
―そう。三ツ葉様は正確な意味での『人間』では無い。
三ツ葉様は新加茂家現頭首の源重郎が契約し、使役する狐だ。表向きは源重郎の妾となっている為、人間の姿をしているが、変化の術を解けば、頭から飛び出る狐の耳と尾が見えるだろう。私はその姿を見た事は無いが…盗み見た兄が言うには「大して、普段と変わっていない」らしい。悪戯好きだが、嘘を何より嫌う兄がそう言うのであればきっとその通りなのだろう。
―しかし、三ツ葉様も昔から今の姿と言うわけではないらしい。
私より五つほど年上の兄が物心着く頃は、まだ今の姿では無く、普通の狐そのものであったらしい。その頃から祖父に懐いていた三ツ葉様は良く、源重郎の膝の上で眠っていたそうだ。幼い頃から陰陽の才能に長けていた兄は、それが妖力を持った狐であると知っていたそうだが、ある日、唐突に三ツ葉様が今の姿へと変わったらしい。
―それがどうして今の関係になったかは…兄も私も知らないが。
しかし、十五の年からずっと一緒に過ごした友のような存在が、ある日、魅力的な女性へと変わればどうなるか。想像に難くない。無論、私の下衆な想像よりも源重郎や三ツ葉様は悩んだのだろう。元々、源重郎は政略結婚で子供を成し、妻を殆ど愛していなかったとは言え、外聞も、祖母の家との折り合いもある。祖母が既に死んでいて、源重郎が独り身であったとしても、妾としてでさえ、迎え入れるのには紆余曲折あったのだろう。
―しかし、それを乗り越えて、今、二人はこうして結ばれている。
正直に言えば私は源重郎が嫌いだ。憎んでいるとさえ言っても良い。毎日、顔を見合わせる度に罵詈雑言を投げかけられた時期――まぁ、私が三ツ葉様に横恋慕していた時期なのだけれど――もあるのだ。そんな相手を好きになれるわけが無い。
…しかし、しかしだ。同時に私は源重郎を尊敬していたりもする。田舎の豪族と言う閉じられた血縁の中で、何の後ろ盾も無い三ツ葉様を迎え入れ、それを認めさせているのだ。その手腕を始めとする能力は私などでは及びもつかない。源重郎の言う通り『役立たず』で何の才能も無い私には決して同じ事は出来ないであろうから。だからこそ、私は源重郎を嫌う反面…その能力に尊敬の念を抱いてしまうのだ。
「え…えぇ…それはとても良く…存じております」
そんな複雑な思いを込めて、示した肯定の言葉に源重郎は若干、冷静になったようだった。肌が逆立ち、瘡蓋を引き剥がされていくようなピリピリとした感覚がすっと薄れる。無論、まだ刺すような感覚が残っているが、先ほどのような押しつぶされるような圧力は無い。まだ安堵のため息を吐けるほどではないが、一旦は矛先を収めてくれたようだ。
「ならば…契約の件は異論無いな?」
―言外に「だから、三ツ葉には手を出すなよ」と言う意味が含まれているその言葉をどうして拒絶出来ようか。
まだ私の中の疑問が晴れたわけではない。晴れた訳ではないが…ここで首を横に振ればそれこそ、この男は激怒するだろう。ただでさえ、三ツ葉様に惚けてしまったので、心象が悪いのだ。これ以上、要らぬ疑念を抱かせても意味が無い。どの道、頭首であるこの男が決めた事に反対できる者など、一族には一人しか居ないのだ。それならば、少しでも疑念を消してもらう為にも、大人しく頷いておいた方が幾らかマシであろう。
「…はい。私などで彼女らの主が務まるか不安ですが…謹んで承ります」
―本当に…な。
私はこの新加茂の家の中では『役立たず』として有名だ。そんな私に彼女たちが…ちゃんと主として認めてくれるだろうか。無論、彼女たちは基本的に穏和な性格の者が多い。しかし…新加茂の家の中では主と従者はある意味、同種と見なされるのだ。私の使役狐となる者も…私と同じく『役立たず』と見られる事を嫌がるのではないだろうか。そんな不安が私の中で渦巻きつつあった。
「……あぁ、それで良い」
肯定の返事に源重郎は頷きつつ、視線を逸らした。同時に、心臓を針で刺されていたような錯覚が消え、私の身体に熱と感覚が戻るが、びっしりと逆立つ鳥肌や、それに浮かぶ冷や汗はまだ残っている。冷え込んだ身体に汗が滲む感覚はどうにも不快であるが。それも余裕のある今だからこそ感じられると思えば、歓迎したい気持ちにさえなった。
―さて…問題はこの後だ。
そう自分に言い聞かせ、二、三度、意識して呼吸する。どう考えても私に狐と契約させるのは本題ではない。何時もの源重郎であれば、ここから無理難題に持って行くだろう。さっきまでの問答ではそれが何なのかその片鱗さえ掴めなかったが、少なくとも楽なモノではない事だけは確かだ。
―何せ『役立たず』の私を引っ張り出したのだからな。
表向きの新加茂の仕事であれば他にも適任者が山ほど居る。最近はめっきり無いと聞くが、裏の仕事であっても兄を始めとする優秀な男子が居るのだ。それなのに、わざわざ私を狐と契約させてまでさせる仕事とは何なのか。…一番、可能性が高いのは捨て駒や人質であろう。自分自身で認めたくは無いが、私を最も有効的に活用できる方法などそれくらいだ。私自身、何をさせても十人並な上、全ての面で上回っている兄が居るのだから。下手に私に経験を積ませるよりも兄に経験を積ませたほうがよっぽど一族の為になる。自然、私に残されているのは…新加茂誠示朗と言う何の役にも立たない名だけだ。しかし、新加茂の本家に属するその名前に、人質としての価値を見出す人間も居る。
―…もし、そうだとすれば争いが近い…って事か。
最近、治安が随分良くなったと言えど、権力の対立構造は変わらない。田舎の一豪族である新加茂にも対立する相手と言うのが存在する。源重郎の代になってから、小競り合い程度で本格的な争いは今まで起こっていなかったが、私が知らない間に、人質が必要になる程、切羽詰った状況になっていたのかもしれない。
「…何を考えているのか大体、分からないでもないが、恐らく全て外れだ」
私自身、自覚しない間に緊張でも顔に浮かばせていたのか、助け舟を出すように源重郎がそう言った。その裏にさっきまでの敵意や怒りのような感情は見えないが、油断はすべきではない。元々、源重郎は三ツ葉様の事以外で感情を露にする事の方が少ないのだ。感情の山が過ぎ去ったのは確かだろうが、今も尚、私に対する怒りがその裏側で渦巻いているのは確実なのだから。
「今回、お前に契約させるのは単純に……人手が足りないからだ」
「人手が足りない…ですか?」
「あぁ、屋敷を維持する人手がな。お前はこれから指定する屋敷へと住み込み、狐と共に維持しろ」
―屋敷の維持…だって…?本当にそれだけの理由で私に…?
しかし、そうであれば私に狐などつけないであろう。始祖と契約した頃と比べて大分、その数を増したとは言え、新加茂と懇意にしている狐の一族は小さい。元々、妖力を生まれ持った狐は出生率が低いのだ。彼らと強い結びつきのある新加茂の一族もそれを解消しようと様々な手段を講じてきたが、彼ら…いや彼女らの数は中々、増えない。近年、何故か『急激に』その数を増やしてはいるものの、まだまだ子供が多く、契約できるくらい能力を持った狐は貴重である。
―少なくとも屋敷の維持と言う目的に使って良い数ではない。
彼女らは言うなれば新加茂の切り札なのだ。彼女たちが居るからこそ陰陽の術をより強力に扱う事が出来、帝から任された墓守の仕事も全う出来る。その力を権力構造に対して使うことは禁止されてはいるものの、自衛と言う目的であれば許可が出ない訳ではない。一人、この土地を任された始祖・新加茂が豪族と呼ばれるまでに成長した裏にも彼女らの尽力もあったと思うのが当然であろう。
―その彼女らを…ただの小間使いに使うだろうか?
そんな訳は無い。屋敷の維持だけであるならば、人を遣わせれば良いだけだ。無論、今の彼女らは下手な女中や小間使いよりも立派に家事をこなしてくれる。それは三ツ葉様だけでなく、今も一族の男に仕えている彼女たちを見れば良く分かるだろう。しかし、それを目的に彼女らを扱うのは、野菜を切るのに家宝の刀を持ち出すようなものだ。大は小を兼ねるとは言え、目的に対して新加茂の切り札は不必要なほど大きい。
「しかし…それは…」
「反論は許さん」
ピシャリと言い切った源重郎の目はこれ以上私と会話する気が無いようだった。全身で「分かったら出て行け」と言わんばかりに威圧している。それに竦みそうになるが、心の中に溜まりこんだ冷たい熱がそれを許さない。
―何時もこの男は…源重郎はそうだ…!!!
何時だって人を見下すばかりで話一つ聞いてはくれない。確かに……私は人に誇れるようなものなんて殆ど無い。容姿も身体も学も芸も何もかもが十人並みだ。しかし、それでも意見の一つくらい聞き入れる姿勢を持ってくれても良いのではないだろうか。少なくとも…理由も言わず、こうして上から命じられるばかりでは反発心を覚えてしまうのも仕方ないだろう。
―いや…こうして何も言わず受け入れて来たのが、駄目なのだ。
源重郎をどれだけ嫌っていても、結局のところその圧力に屈して、質問一つせず受け入れてきたのが今までの私だった。刃向かう事もせず、心の中で愚痴を漏らすだけが私であった。今まではそれを許される立場であったかもしれない。しかし、これほど重大な決定を前にして、何も言わず受け入れる事が出来るだろうか。
―…私はそれほど物分りの良い人形ではない。
私は無能であり、源重郎は有能だ。何も言わず、源重郎に従う事だけを考えていれば良いのかも知れない。そっちの方が正しいのかも知れない。しかし、私は…どれだけ十人並みと、役立たずと罵られ様とも人間なのだ。理由も聞かず、心の中で文句を垂れながら、表層だけ取り繕って、「はい。分かりました」と従うのは今日まで…いや、ここまでにするべきだろう。
「…せめて理由だけでもお聞かせ願えませんか?」
「……」
しかし、私のそんな言葉にも源重郎は答えてはくれない。当然だろう。さっきこの男は「反論は許さん」と言ったばかりなのだから。三ツ葉様の事を除けば、鉄で全身が出来ているような源重郎が一度言った事をそう簡単に曲げてくれるはずも無い。
―結局のところ…何を言っても変わらないって事か。
私に出来るのは恭しく頭を下げて、源重郎の命令を受け取る事だけだ。どれだけ異論があろうと、疑問があろうと、そこに口を挟むのは許されない。その現実がまるで壁のように圧し掛かって、心が悲鳴を上げる。目の裏が真っ暗になって、頭が揺れそうになるが、それは歪みに泣き叫ぶ心が必死に堪えさせていた。
―これ以上…この男に弱いところを見せたくは無い…っ!
ただ、その一念だけで、身体を制御し、キッと源重郎を睨めつける。様々な感情を混ぜ込んだその視線に、源重郎は怯む様子すら見せず、寧ろ威圧するように見下していた。それに心の何処かが脅え、萎縮しそうになる反面、私の中に育ち始めた反抗心が私の背筋をすっと伸ばしてくれる。
「…その命。謹んでお受けいたします」
そのまますっと頭を床に下げ、両手を畳へと着いた私の気持ちは…源重郎にだって分かるまい。私自身、今の感情がどういうものかはっきりと判別がつかないのだから。怒りとも違う、憎しみとも違う、悲しみでも無い。それら全部を同じ鍋で煮込んだような熱い感情が湧き上がってきている。まだ私自身、はっきりと名前の付けられないその感情は源重郎への反抗心と結びつき、何かドス黒いモノへと変わっていこうとしていた。
「…あぁ。では、件の屋敷の場所だが――」
―そう前置きして源重郎が告げた場所はここから馬で一日ほどの場所だった。
早駆けすれば、半日も掛からない程度の距離だ。新加茂の治める領地の中でもかなり端の方にあるが、他の豪族との境界線とは程遠い。また対立している一族とは面しておらず、比較的、穏便な場所にある。てっきり対立する家の境界線近くに置かれ、鳴り子ついでの捨て駒として扱われるものだと思っていた私は正直、拍子抜けしてしまった。
―でも…そこは……。
私の記憶が確かならば、そこは叔父の屋敷であったはずだ。最近はまるで会っていないが、この源重郎の血を引いているとは思えないほど温和で穏やかな性格の叔父が治め、盗掘者の監視をしていた屋敷である。父と母も兄ばかりに構っていて、見向きもされなかった私が一番懐いていた年上の男が叔父であり、何度も遊びに行った事があるのだから間違うはずが無い。
そして、その叔父の屋敷が新しい人間の手に渡ると言うのは…前の持ち主に何か悪い事が起こった可能性が一番高いだろう。最悪、死んだか…悪くても病で療養中か。私の知る叔父は源重郎へ反旗を翻す類には見えないが、その可能性だって否定は出来ない。何れにせよ、安心できる要素は何一つとしてないのだ。
―とは言え、この男に聞いても教えては貰えないのだろうが…。
ならば、自分で叔父がどうなったのか調べるしかない。そう心に決めつつ、私は源重郎に同意を示した。
「宜しい。では、今から屋敷へ向かえ」
「…は?…い、今からですか…?」
襖の合間から覗く光は昼を過ぎたと言っても、まだ暖かい。しかし、それは同時に後数時間もすれば、日が沈む事と同義である。今からこの屋敷を出て、準備もせずに早駆けしたとしても着くのは夜中になるだろう。源重郎の政策により、治安が大分良くなったし、かつて妖怪と呼ばれた者達もその性質を変えているとは言え、夜の一人歩きは危険だ。かと言って、準備も無しに野宿するのは論外である。
―しかし…準備をするのは…きっとこの男は許さないだろう。
源重郎が今から、と言えば文字通り「今から」なのだ。一度、部屋に戻って準備をすることなど許すはずが無い。まして一夜置いてから出るなど口にした瞬間、拳が飛んでくるだろう。
「何か不服でもあるのか?」
―寧ろ無いとでも思っているのか…っ!!!
心の中のその声を表に出す訳にも行かず、私は無言のまま首を左右に振るう。私の身体の中でふつふつと煮えたぎるような感情が咽喉を塞いで、何か言葉を話そうものなら、怨嗟の言葉が出そうだったからだ。礼儀に五月蝿い源重郎の前で、首肯だけを示すなんて、殴られてもおかしくはない。しかし、この男の前で恨み言を漏らせば、殴られる所で済まないのは明白だった。
―殴るつもりならば、そうすれば良い…!!
ただし、何時か、それ以上の目にあわせてやる、と心に誓う私の予想とは裏腹に、源重郎の拳は飛んでこなかった。それどころか小言一つすら無い。今のやり取りで、私への興味を失ったかのように、庭へと視線を外すだけだ。それに釣られる様に、私の視線も庭へと寄せられるが、何時もどおりの庭である。秋に入り始めたのを知らせるような、肌寒い風がさわさわと木々を揺らし、その下で紅白の模様が美しい鯉が気ままに泳いでいるだけの、何の変哲も無い何時もの庭だ。
―何の…つもりだ…?
何時もの源重郎であれば、有無を言わさず殴っていただろう。少なくとも威圧するような大声で、私を罵っていたはずだ。しかし、ソレさえも無い今の状況は、私の中に強い違和感を産み出す。日頃、「役立たず」と罵っていた私に狐と契約させようとしている事と言い、今の事と言い…何かが変なのだ。しかし、それを『実感』する事が出来ても、原因まで理解する事が出来ない。
―結局…気になるのであれば自分で調べる必要があるという事か。
そう一人ごちながら、私は床へと垂直に突き立てる様に両手を着けて、そっと頭を下げた。
「…では、不肖の身ではありますが、今から向かわせていただきます」
「……うむ」
源重郎にしては珍しく、少し遅れた声を受け、そっと私は立ち上がった。頭の中で最低限、必要な荷物をどうするか思考しつつ、三ツ葉様がやって来た右側の襖へと向かう。そして、一歩二歩三歩と踏み出し、襖に手をかけようとした瞬間、私の後ろから源重郎の声が掛かった。
「…誠示朗」
「…はい。何でしょう?」
振り向いた先には未だ座ったままの源重郎が居た。背筋にしっかりと軸が通っているその姿は、何時も通り鉄で出来ているかのように感じる。…しかし、少しだけ、ほんの少しだけ、刃のようなその姿に翳りが見えたような気がした。
「…何でも無い。励めよ」
「…はい」
―…何が言いたかったんだ?
源重郎から「励めよ」なんて言葉を貰った事は一度も無い。それだけでも驚きに値する出来事なのに、あの源重郎が言葉に詰まる瞬間を見られるなんて思っても見なかった。私が物心ついた頃からずっと、何時でも、何人に対しても――まぁ、三ツ葉様を例外とする必要があるが――鉄のように硬く、火のように苛烈で、山のように大きな男だったのだから。
―…源重郎が耄碌?…まさか。そんなはずは無い。
私にとって源重郎は憎んでいる相手ではあるが、同時にその能力を高く評価しているのだ。そりゃ、歳だって、結構な域に達しているが、まだまだ姿も若々しい。さっきまでのやり取りだって、何時もどおりの高圧的で、しかし、だからこそ反論一つ許さない効果的なモノであった。確かに今の様子は変であったが、気の迷いか何かだったのであろう。
「…では、行って参ります」
そう自分の中で決着をつけながら、私はそっと襖を引いて、一歩を踏み出した。そのまま振り返って襖を閉じ、私の馬が繋がれている厩へと足を進める。
―荷物は日が明けてからでも、どうにかするとして…夕餉はどうするか。
そう思考する私の中には先ほどの源重郎の様子は無く、目の前に迫った状況をどうするかという事だけに一杯になっていたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
―新加茂の屋敷は、一部の例外を除き、殆どが小高い丘の近くにある。
元々、新加茂は帝から墓守の任を任せられた一族なのだ。自然、常駐する屋敷の近くには歴代帝の墓がある。そして、この国では権力者の墓は盗掘者から護る為に小高い丘へと偽装されているのだ。
―つまり…丘さえ見えれば、もう屋敷はすぐ其処と言える。
「…長かった……」
思わずそう呟くが、辺りはもう完全に日が落ちて結構な時間が経っている所為か、人っ子一人居ない。馬が五頭は優に通れそうなこの道は普段、新加茂の領地の大動脈として多くの荷物を積んだ荷馬車などが行き来しているが、流石にこの時間に外を出歩く馬鹿は私くらいなものだろう。
―その私だって、出来ればこんな強行軍などしたくなかったが。
しかしながら、その強行軍のお陰で、野宿をする必要はなさそうだ。月明かりの加減では馬をマトモに走らせることは出来ないので、野宿も覚悟の上であったが、その心配は殆ど無くなったと言って良いだろう。
「あと少しだから、頑張ってくれ」
月明かりと林の合間にぽつんと浮き出た丘の頭を見ながら、首筋を撫でてやると、馬…いや、浜風は嬉しそうに「ぶるる」と茶色の鬣を震わせる。数年前に叔父から譲ってもらったこの牝馬は駿馬と言えるほどではないが、人懐っこく、こうして私の言う事にも素直に従ってくれる。源重郎からの扱きに耐えかねて何度も愚痴を漏らした相談相手は、そろそろ老齢の域に差し掛かってはいるものの、会った頃と遜色無い力強い走りで私をここまで連れてきてくれた。
―さって…後は……と。
丘さえ見えれば後は屋敷まで目と鼻の先だ。確か、この道を抜けたすぐ先に叔父の屋敷への入り口があったはずだが…。
―あぁ、あった。
ぼんやりとした月明かりの下で、見えづらいものの林の切れ目に白塗りの壁がポツンと浮かび上がる。浜風も疲れているだろうし、ゆっくりと近づいていくと独特の鬼瓦が見えてきた。墓守と言う死者に近い仕事をしている所為か、魔除けとして発達したそれを見ると新加茂の屋敷についたのだと言う実感が湧き上がって来る。
―やれやれ…。っと…それより確か厩に一番近い門は…。
記憶が確かならば、このまま進めばいいはずだ。そこそこ大きな屋敷で、馬で移動しても門が見えるまで多少、時間は掛かるだろうが、ここまで来て我慢できないほど子供じゃない。浜風の足取りもしっかりしているとは言え、かなりの速度で早駆けさせたのだ。ここで下手に急がせてやるのも可哀想だろう。
―とは言え、屋敷に入った後はどうするか、なんだが…。
叔父はこの大きな屋敷に双葉様と言う狐と共に住んでいた。双葉様も三ツ葉様のように家事万能で、少なくとも私の記憶にある中では小間使いの一人も雇ってはいない。それでも立派にこの広大な屋敷を維持する辺り、流石、狐と言えるだろう。しかしながら、その微笑ましい記憶が私に面白くない未来を想像させるのだ。
―叔父がこの屋敷に居ないと言う事は…つまり双葉様も居ないと言う事で…。
双葉様と叔父はある意味、源重郎と三ツ葉様以上に仲睦まじい関係にあった。余りにも仲が良すぎて、双葉様が狐であると知っている人々からは色々と噂――やれ獣と交わっているだの、一族の誇りを捨てただの――されていたらしい。それらは源重郎が三ツ葉様を妾として正式に家へ迎え入れた辺りから徐々に減っていったが、今も口さがない小間使い達の噂話の種になっている。それは双葉様の本性を知らないが故に出るような憶測混じりの噂ではあったが、そうした噂にも昇るくらい二人は仲睦ましかったのだ。
―そんな二人が…一緒に居ないはずもなく…。
常々、双葉様は「我が主が死ねば、私もすぐ後を追いますわ」と言っていた。子供心ながらにそれは間違いなく本気だと感じ、そこまで強い絆に結ばれている二人の事をとても羨ましいと思ったのを覚えている。そして、死後の世界まで追いかけると公言するような双葉様が叔父と離れる訳が無いのだ。叔父が今、何処に居るにしても、双葉様は第一の忠臣――或いは叔父の妻かも知れないが――としてその傍に居る事だろう。
―つまり…今、この屋敷には誰も居ないと言う可能性が高いのだ。
普通であれば本家からでも何人か小間使いを派遣してくれているだろう。しかし、いきなり「今から屋敷へ向かえ」と言い出すような男がそんな気配りをしてくれるはずも無い。三ツ葉様はそんな源重郎に意見できる数少ない人であるものの、新加茂の家での扱いはただの妾であり、権限は一切持っていないに等しいのだ。幾ら三ツ葉様と言えど、権限外の事まで望むのは無理難題にも程がある。
―まずは火を起こすところから始めないとなぁ…。
秋口に入り始めた時期とは言え、日が落ちた今は肌寒いのだ。何より暗い屋敷の中で寝具を探すのにも明かりが必要である。普段、小間使い達に任せっきりの仕事を自分で何とかしなければいけないと知り、心に憂鬱の感情が圧し掛かってきた。
「…って…あれ…?」
考え事をしている内に近づいてきた門に、私はそんな間抜けな声を上げた。しかし、それも仕方が無い事だろう。馬が通れるくらい大きな引き戸式の門が、まるで私を迎え入れるように大きく開いているのだから。誰も居ないであろう屋敷の門が開いてる…そんな状況で思いつくのは一つしかない。
―賊…か…?
本家にある大屋敷には及ばないとは言え、この叔父の屋敷もかなりの大きさだ。叔父は芸術には疎く、余り値打ち物などは無かった記憶があるが、それでもこの地域を治める豪族の屋敷である。探せば売れる物も多く見つかるだろう。
―治安が大分、良くなった…と言っても誰も居ない屋敷があるって噂があれば荒らされるだろうな。
他人事のようにそう思う反面、心の中にふつふつと熱い物が込み上げてくる。叔父がどうなったかはまだ何も調べていないので分からない。分からないが…それでも、ここは私にとって私自身の屋敷ではなく、叔父の屋敷なのだ。新加茂の家で私に優しくしてくれた数少ない人の屋敷を荒らされて、完全に冷静で居られるはずもない。自分の命も危ないかもしれないと言う危機感と相まって、私はそっと腰の刀を確認した。
―大丈夫だ…何とかなる。
確かに私は剣の腕も十人並みだ。弱くも無いが、手放しで褒められるほどでもない。しかし、それでもそこらの農民程度に遅れは取らない自信がある。…まぁ、人を斬った経験が無いのが唯一の不安要素ではあるが、自分の身を護る程度なら何とかなるはずだ。…多分。
―さて…鬼が出るか蛇が出るか…。
そんな事を思いながら、浜風と共に門を潜ると…そこには私の記憶どおりの庭が広がっていた。屋敷へと一直線に伸びる石畳は腕の良い職人が施工したのかまるで乱れが無い。石畳の左右に広がる砂利の原にも、雑草一本さえ生えては居なかった。顔を左右に向ければ目に入る立派な木々も目立たぬ程度に刈り込まれている。叔父がこの屋敷から離れたのが何時か私は知らないが、この様子であればそれほど前ではないのだろう。
―それより問題は…。
前の大通りほどではないにせよそこそこ広い石畳の先には叔父の屋敷があった。砂利の原を超えて木々の向こうへと伸びる長い廊下も、その先に張られている純白の障子も、全て私の記憶通りで、荒らされているようには思えない。それどころか暖かい火の光が玄関から漏れ出ているのが見えるのだ。
―誰か居る…のは確かなんだろうが…。
てっきり荒れ果てた屋敷の姿を想像していたので、何時も通りの屋敷の姿に何処か肩透かしを食らったような気分になる。しかし、かと言って油断は出来ない。誰も居ないはずの屋敷に誰かが居て…その誰かが私の敵か、味方か、それさえも分からない状態に変わりは無いのだから。
「浜風、ここで待っていてくれ」
首を撫でながらそう告げると浜風は小さく身体を震わせて同意の意を示してくれる。物分りの良い彼女に笑みを浮かべながら、私はそっと石畳の上に降りた。長い間、浜風の上に載っていた所為か、降りた瞬間にズンとした衝撃がやけに足に響く。その感覚は足が痺れるほどでは無いにせよ、誰だってあまり歓迎したくない類だ。
―まぁ…歩けば何時かは収まっているだろう。
そんな事を考えながら私は腰の刀に手をかけてゆっくりと屋敷へと近づいていった。一歩進むごとに草履が擦れてカサリ、と鳴るのが秋口の夜に妙に響く。一瞬、気づかれたかもしれないと思って足を止めたが、屋敷の中の雰囲気は変わらない。恐らく緊張して神経過敏になり過ぎ、必要以上に大きく聞こえたのだろう。
―落ち着け…大丈夫だ…。
そう言い聞かせつつ、足を進めるとすぐ玄関にたどり着く。確認するように後ろを振り返ると浜風が心配そうにこちらを見ていた。まるで「大丈夫?」と気遣うような目線に小さく頷いて、私はそっと扉に手をかけて、音を立てないようにゆっくりと開く。細心の注意を払いつつ、開けたその扉の合間から床に三つ指を突いている女性の姿が見えた。
「ようこそいらっしゃいました。ご主人様」
まるで風に風鈴が揺れるような穏やかで優しい声と共にそっと女性が頭を下げる。まるで嫁入りの挨拶に来たかのようなその仕草は、とても流麗かつ優雅であり、何より美しいものだった。思わず溜息が出て、見惚れてしまいそうなそれは、目の前の女性が並々ならぬ教育を受けてきた事を何より如実に現している。
―って、見惚れてる場合じゃない。
思わず視線を奪われてしまった事に顔を赤くしながら、私は扉を完全に開いた。瞬間、暖かい空気が私を包む。女性の横で灯されている行灯の所為だろうか。何にせよ秋口の寒空で冷えている私にとっては、その暖かさは有難い。屋敷について当分は火を点ける為に格闘しなければいけないと思っていたので、尚更だ。
―まぁ、それでも聞くべきことは聞かなければいけない。
「ご主人様って事は…もしかして貴女は…」
「申し送れました。私は、この度、ご主人様の使役狐となりました一ツ葉と申します。これからよろしくお願いします。」
―…やっぱりか。
私のような成人前の若造にも恭しく頭を下げたままの姿勢で答えている事と言い、その頭からは可愛らしい耳が、背中の下辺りからは器用に揺れる狐の尻尾が出ている事と言い…もしやとは思ったが…女性、いや、一ツ葉様は私の『狐』であるらしい。まさか契約前からこうして会う事になるとはまったく思っていなかったのでかなり混乱しているが…ここまでやって賊が私を誤魔化そうとしている、と言う事は無いだろう。
―…と言うか手配してるんだったらちゃんと言って欲しいんだが…。
心の中で本日、何度目かになる源重郎への文句を呟きつつ、私はそっと一ツ葉様へと視線を落とした。未だ屋敷の入り口で伏している彼女の身体は、目を凝らさないと分からないほど小さなものだが確かに揺れている。きっと一ツ葉様も緊張しているのだろう。で、あれば、これからの円滑な関係の為にもそれを解すのが最初の作業とするべきだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。…それで…楽にして欲しいんですが…」
「あ……はい」
その言葉と共にそっと上がった顔は、私の良く知る人ととても似ていた。
年の頃は20程だろうか。人間での換算であるので実際はもっと上であろうが、女性として成熟しきってすぐの年齢に見える。しかし、全身から溢れ出るような母性がそれをあまり感じさせない。思わずその身体に甘えたくなる優しげな雰囲気は、彼女をより魅力的に見せている。
また狐独特の金色の髪は稲穂と言うより太陽に近い。光を受け取るのではなく、自ら放つようなその色は行灯の炎にも決して負けては居ない。その金色はそのままであれば、触れれば融かされてしまうのではないだろうか、と下らない考えを思いつく程、苛烈だ。しかし、今、こうして私の目の前にある金色は彼女の母性に中和されて、暖かさに満ち溢れているように感じる。腰ほどの長さの金色が三ツ葉様のように癖ッ毛一つ見せず、芯の入った背筋に流れ落ちていく様は何処か神秘的な雰囲気を彼女に与えていた。
瞳は隠されるように目蓋で閉ざされているので良くは見えない。しかし、常に微笑んでいるようにも見えるその目が一ツ葉様の優しそうな雰囲気に拍車をかけている。瞳は見えないでも目蓋の向こうにある優しい瞳を感じられるようで、見ているだけでも暖かい気持ちにさせられる。
三ツ葉様がその奇異さで人の目を惹きつけるのであれば、一ツ葉様の髪と目は奇異さをまるで感じさせない暖かさで人の目を惹き付けて来るのだ。その違い通り、一ツ葉様は三ツ葉様に比べればハッと目が覚めるような美人ではない。しかし、見ているだけで穏やかになるような垂れ目尻や、その下の泣き黒子などが絶妙に配置されている。三ツ葉様とはまた方向性が違うが、一ツ葉様も間違いなく美人と呼ばれるだろう。
そして、普通の人には見られない狐耳と尻尾だ。どちらも髪の色を引き継いでいるのか、煌く太陽のような色をしている。しかし、髪とは違いフサフサとした毛で覆われているその二箇所は、また違う別の感触なのだろう。思わず手を伸ばして触ってみたくなるようなソレは本来、見られない部位であるものの、一ツ葉様の雰囲気に妙に一致している。
また、その肢体も魅力的だ。三ツ葉様も男好きをする身体ではあったが、一ツ葉様はさらに輪をかけて肉付きが良い。しかし、絞るべきところはしっかりと絞られていて、見ているだけでも楽しめる。母性さえ感じる温和な雰囲気の下に、男として咽喉を鳴らしてしまいそうなほど魅力的な肢体があると言う二面性にまた、強く惹きつけられる。
その肢体を、男の下卑た視線から護るような着物は薄い青地に乱れ咲く白百合が描かれている独特なものだ。布地に触れるまでも無く、柔らかにその表情を変えて、楽しませる着物は一目で高級品であると分かる。しかし、思わず「肢体にむしゃぶりつきたい!」と思わせるような一ツ葉様の前では、その高級さは襲いたくなるような衝動に対する抑止力以外の何物にもなれなかった。
―素敵な方だが…三ツ葉様と双葉様に似ているような…。
無論、細かい差異は数え切れないほどあるし、全体の雰囲気だって少し異なっている。何より私は三ツ葉様や双葉様の本性を前に出した姿なんて一度だって見たことは無いのだ。しかし、それでも、目の前の女性は私の知るお二方にとても似ているような気がする。
―まぁ…名前から察するに姉妹であろうし…似ていてもおかしくないのだが。
元々、新加茂に仕えてくれる狐の一族と言うのはそう大規模なものではない。近年、増加傾向にあるとは言え、その規模はまだまだ小さいものだ。自然、その中には姉妹や家族関係の者が多くなる。彼女らがどういった基準で名前をつけているのか私は知らないが、それでも「一ツ葉」「双葉」「三ツ葉」と関係性の見出せる三つの名前は姉妹、最低でも近い家族以外にはあまり付けないだろう。
「それよりご主人様も…外はお寒かったでしょう?早く中にどうぞ」
未だ入り口に棒立ちになる私を気遣ってくれたのか、優しく招くように一ツ葉様が言った。それに導かれるように一歩踏み出そうとした瞬間、後ろへ置いたままの浜風を思い出す。元々、あそこに置いてきたのは浜風自身の安全の為だったのだ。危険が無いと分かった今、私をここまで運んできてくれた浜風をまず最初に厩で休ませてやるべきだろう。
「いや…外に馬を置いてきていますので、それをまず厩で休ませてからにします」
「まぁ…なんて優しい方…。ですが、これからこの屋敷の主になるお方にそんなお仕事をさせる訳には参りません」
まるで世辞と思える程、耳触りの良すぎる言葉の後にすっと一ツ葉様が立ち上がった。そのまま草履を履いて、玄関へと降りてくる。元々、私自身が長身ではなく、成長途中にあることもあってか、並んで立つと一ツ葉様の方が若干、大きい。見た目の年齢も違うので仕方の無い事とは言え、これから遣っていかなければいけない関係の女性が私よりも年上で大きいと言うのはやはり何処かやりづらい感覚を与える。
「私が浜風さんを厩に案内してきます。ご主人様は玄関へ入ってお待ちください」
「え…あ、いや…」
―その瞬間、私の鼻に甘い香りが届いた。
それは静止の言葉を掛けようとした瞬間、さっと私の脇を抜けて浜風へと向かった一ツ葉様の体臭なのだろう。一瞬の出来事であったものの、確かに私に届いたその香りは、白百合に良く似ている。何処か清々しいその香りは、何時までもそれに浸って居たくなる様な危険な魅力を含んでいた。三ツ葉様とはまた違うが…同じくらい魅力的で、かつ同じくらい魅惑的なその匂いに一瞬、思考を奪われてしまう。そんな私の口からは私の制止は出てこず、結局、一ツ葉様を見送ってしまった。。
―…参ったな…どうにも。
既に一ツ葉様は浜風の手綱と鞍を引いて厩へと向かっているところだった。浜風自身も彼女に敵意が無い事を悟ったのか大人しく従っている。今更、そこに横槍を入れても一ツ葉様も戸惑うだけであろう。結局、さっき一ツ葉様の香りに負けた私に出来る事と言えば、大人しく玄関にでも腰掛けて待つ事だけだ。そう思いつつ、私は行灯の光に溢れる屋敷へ一歩踏み出し、玄関と屋敷の縁の部分へ腰掛ける。
―…ってこれじゃどっちが使役されてるんだか、分からないな…。
源重郎に対しても、一ツ葉様に対しても、ただ言われた事に従っているだけの状況に、苦々しい感情が湧き上がってきた。無論、源重郎はともかくとしても一ツ葉様には悪気は決してないのだろう。ただ、私の事を思って言ってくれているのはこの短い邂逅の中でも良く分かる。問題は…自己主張が苦手な私なのだ。
―やはり…人に何かを命令するのは苦手だ。
そもそも私は新加茂の本家筋に属するとは言え、その頭首である源重郎に疎まれて育ったのだ。自然、私の新加茂の中での権力的地位はそう高いものではない。元来の性格が活発でないのと相まって、人に命じた経験など無いに等しいのだ。それなのに、これから一ツ葉様に命令しなければいけない。その事実が私の胸に圧し掛かってくる。
―こういう時…源重郎であればどうするのだろうか…?
人の上に立つ為に生まれてきたようなあの男ならば、戸惑う事無く一ツ葉様を扱うだろう。幼い頃から大人が媚びへつらっていた兄も、違和感無く一ツ葉様を遣ってみせるに違いない。しかし、私はそのどちらでも無いのだ。人を従わせるのが当然のように振舞う事も、その時々に的確に指示を下す事も出来ない、ただの『役立たず』なのだから。
「…ふぅ…」
「あら…ご主人様、どうかなさいましたか?」
思わず漏れ出た溜息に答える声が前から掛かる。その声に惹かれる様に視線を上げると、私の目の前には何時の間にか一ツ葉様が帰ってきていた。ここから多少、離れている厩まで走って、すぐに帰ってきてくれたのだろう。その顔は少し上気して、息が少し荒くなっている。
「いえ、何でもありません」
「……そうですか」
―…ん?…なんだ?
一瞬だけ遅れた一ツ葉様の反応に私は内心、首を傾げた。今まで打てば響く楽器のように的確に返事を返してくれていた一ツ葉様の始めての遅れなのだから、やはり気になってしまう。まだ短い付き合いであるとは言え、その遅れは今までの一ツ葉様からは考えられないものだ。
「それでは、ご主人様。中へと案内させていただきますが…夕餉の準備などはどうしましょう?」
「えぇ。是非とも」
ここまで来るまでは野宿するかどうかの瀬戸際であったので、何も食べていなかったのだ。普段から間食する習慣などは無いので、さっきから腹が自己主張を続けている。急にここへ来る事になったので、夕餉の件は心配事項の一つではあったし、こうして一ツ葉様が作ってくれるのであれば断る理由は無い。
―それに…楽しみでもあるしな。
今まで見てきた一ツ葉様の一挙一動全てが洗練されていて、まるで舞っているようにも見えるのだ。私の知る中で最も美しい仕草をする女性は三ツ葉様であったが、目の前の女性はその三ツ葉様が及ばない程である。そんな一ツ葉様がどんな料理を作るのか。そう考えると、否応にも期待は高まってしまうだろう。
「分かりました。では、ご案内いたしますね」
そう言いつつ一ツ葉様は私を追い抜いて、そっと前に立つ。一ツ葉様が通り過ぎる瞬間、また陶酔しそうになるのを必死に堪えつつ、私もまた草履を脱いで、屋敷へと上がった。鏡のように磨き上げられた床の冷たさがそっと私の足に抱きついてくるようだが、所詮は秋口。足の進みが鈍るほどではなかった。
「そう言えば…ご主人様は何か好き嫌いなどありますか?」
「いえ、特にありません。この辺りで採れるものならば何でも大丈夫です」
そんな他愛の無い会話をしつつ、これから私の物になる屋敷の奥へと私たちは足を進めていくのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
―かつて叔父と双葉様の寝室であったその部屋は、不気味なほど何も無かった。
かつて双葉様が叔父の為に描いた絵画も、叔父が双葉様へ贈った掛け軸も、私が二人へと贈った花瓶――あまりに不恰好すぎて形状は花瓶よりも壷と言った方が近いのは内緒である――も、何もかもが無い。あるのは畳と襖と壁と…そして一組の寝具が置いてあるだけだ。かつて人が住んでいたとは思えないほど殺風景なその部屋を見た瞬間、私の足は入るのを拒絶するかのように凍り付いてしまう。
―…やっぱり…二人はもうここには居ないんだな。
予想はしていた事だが、こうして目の前に突きつけられると何処か心の奥が痛むのを感じる。実の両親よりも遥かに私を可愛がってくれた二人がここにいた痕跡も無いのだから。何度かこの屋敷で過ごした日々が、まるで私の妄想であったのだと突きつけられるような部屋の冷たさにじわりと暖かいものが目尻に浮かびそうにさえなった。
―しっかりしろ…!私はもう一人じゃないんだぞ…!
余り表沙汰にはならないが、主人の品格はそのまま使役狐の品格にも繋がる。その逆もまた然りだ。主人が見下されるような行為をすれば、当然、その目は狐にも向かう。つまり主人は彼女らの為にも毅然とした男でなければいけないのだ。少なくとも…いない二人の事を思い出して涙を浮かべるような男では、一ツ葉様自身にも迷惑が掛かってしまう。
―こういう時は楽しかった事を思い出すんだ…!
そう言い聞かせた瞬間、思い出すのはさっき食べた料理の数々だ。空腹であると言う事を考慮してくれていたのだろう。私が案内されてからすぐさま出された品々は、決して手が込んだ物ではなかった。しかし、一品一品丁寧に作られているのが良く分かる。豪華な食材など使わず、この辺りで採れる食材のみで構成されたその料理の数々は、思わず飛び上がるほどの旨さでは決して無い。しかし、身体の芯に染み入るような温かい味は、長旅に疲れた身体を癒してくれた。
―あぁ言うのが家庭料理って言うのだろうな…。
本家で三ツ葉様の料理を何度か食べた事があるが、それは正にご馳走であった。豪族である新加茂の頭首も食べるその料理の数々は、普段は見ない食材をあの手この手の工夫を凝らし、調理した品々であったと記憶している。それは無論、とても美味しかった。見栄の意味もあったのだろうが、見た事の無い食材を口に運ぶのは新鮮で、口に含むたびに驚かされた経験も楽しかったものである。
けれど、先ほど食べた一ツ葉様の料理は、驚きは決して無い。代わりにあるのは、安心だ。方向が違えども、その安心は私にとって、三ツ葉様のご馳走を食べたときと遜色無い強い感動を齎してくれた。
―疲れているからと沸かしてくれた風呂も良い湯加減であったし…本当に一ツ葉様は良い狐だ。
家事は全て完璧で、こちらの行動を読んだ仕え方をしてくれる。こうして寝室の中に寝具――何故かかなり大型で二人くらいであれば優に眠れそうな物である――と水差しが一組置いてあるのもその一環だろう。その心遣いに感謝する一方で、本当にこんな人が私などに仕えてくれていいのかと不安になってしまう。
―…いかんな。夜になるとどうも思考が悪い方に転んでしまう。
それは夜の妖力とでも言うべきか。何にせよ夜中にあまり深く考え込まないのがいいだろう。私などのように物事を悪い方へと考えがちな人間は特に。
―…今日はもう寝よう。
まだ外は真っ暗で、月明かりがそっと襖から差し込んでいるが、夏であれば空が白んじている頃だろう。今から寝てもそれほど長い間は寝てはいられないかもしれない。しかし、今日は色々な事があって、精神的にも肉体的にも疲れた。別に今すぐ倒れこむほどではないが、起きている道理は一つも無い。
そんな事を考えながら私はそっと寝室の中へと足を踏み出し、襖を閉めた。以前、ここに足を踏み入れさせてもらったのは何時だったか。それさえも定かではないが、あの時感じた優しい香りはここには無い。誰か住み着いていれば、必ず染み込んでいるだろう「香り」さえ、もうこの寝室には残っていなかった。
「ふぅ…」
また悪い方に転びそうになっていく思考の手綱を必死で引きながら、私はそっと布団へと潜り込んだ。秋口の寒さから途絶されていた布団の中はじんわりと温かい。冬場であれば、何かの術かと思える程、引き剥がし難い温かさの片鱗がそこにはあった。その温かさに浸るようにそっと目を閉じようとした瞬間、私の耳に小さな振動が届く。
―…?なんだ?
そっと足音を殺すようなその震えは、恐らく一ツ葉様の物だろう。食事の時の雑談として聞いたものではあるが、この屋敷には私と一ツ葉様しかいないのだから。しかし、もう時刻は丑三つ時も過ぎようとしている頃である。それでも動き回る一ツ葉様に首を傾げながら、もう今日は休むように言おうと思い、上体を起こした。しかし、その瞬間、その震えが寝室の前で止まる。
「あの…ご主人様。まだ起きておられますか?」
「あ、はい。大丈夫ですから、入ってきてください」
襖越しの短いやり取りの後、そっと襖が開いて床に正座する一ツ葉様の姿が露になる。もう寝るつもりだったのか、その格好はさっき私が見た白百合の着物ではなく、白絹から仕立てた白無垢のような寝間着だ。何の変哲も無い一般的な寝間着だが、一ツ葉様が身に纏うだけで、何処か高貴な衣装のように見える。無論、白絹から仕立てなので、そこそこ金子は掛かっているだろうが、所詮は寝間着だ。普段、着る着物には敵わない。しかし、今、私の目の前にあるその寝間着は、着物に勝るとも劣らない不思議な魅力を持った衣装に見えてしまうのだ。
―と…言うか、寝間着で男の寝室に…って事は…。
まぁ…その…そこから導かれる意味なんて一つしかない。そりゃ…私だって男だ。『そう言う事』には勿論、少なからず興味がある。仲睦ましい人と狐の関係を見て育ったのだから、そう言った関係に憧れているのも事実だ。しかし…私はまだ一ツ葉様と正式に契約しては居ないし、彼女と出会ってまだ一日も経っていない。それなのにそういう関係になるというのは…やはりどうにも尻込みをしてしまう。
―し、しかし…もし、一ツ葉様が迫ってきたら……!
恐らく、私にはそれを拒絶する事は出来ない。何度も言うが…一ツ葉様はとても魅力的な女性なのだ。何でも受け止めてくれるような優しい雰囲気と、穏やかな表情がまるで母性にも感じられる。しかし、その母性の奥には男としては垂涎物の肢体があるのだ。容姿も美しく、飛び出た尻尾や耳も魅力的なのだから、性に興味が出てきた十四の男に断りきれる訳が無い。
―あぁ…っ!わ、私はどうしたら…!?
拒絶する事も出来ず、かと言って、一ツ葉様を今更追い出す事も出来ない。胸の中では際限無く期待が膨らみ、鼻息が荒くなってしまいそうだ。さっきまで私の中に確かにあったはずの眠気さえ追い出す興奮が鎌首を擡げ始めて、胸を締め付け始める。それを必死に表に出さないとしながらも、私の指と視線は世話しなく揺れていた。
「…?あの…もしかして起こしてしまいましたか?」
「い、いいえ!ぜ、全然、大丈夫です!」
反射的に答えてしまったその言葉は予想外に大きくて、力強いものであった。もし、この屋敷に人が居れば、何処に居たとしてもその人にまで届くであろう大声に、自分自身で驚いてしまう。同時に、私の中の期待と興奮がそのまま漏れ出たかのような声に、強い羞恥の感情を抱いた。当然、私の顔に熱が集まり、真っ赤に染まってしまう。余りに恥ずかしすぎる醜態に穴を掘って埋まりたくなってしまうが、状況はそれを決して許してはくれない。
「あ、あのですね。い、今のは…」
「プッ…」
弁解しようと声のトーンを落として続けようとした私の耳に一ツ葉様の押し殺した笑い声が届いた。見れば右手とそっと口元に当てて、必死で隠そうとしながらもその端からは笑顔が零れ落ちている。笑われている、と言う事実に私の中の羞恥がさらに膨れ上がり、言葉に詰まってしまった。それでも何とか言葉を紡ごうと口を開くが、出てくるのは意味の無い声だけで決して「言葉」にはならない。
「い、いえ、申し訳ありません…。で、でも…お、おかしくて…」
私が必死に弁解しようとするそんな姿もまた一ツ葉様のツボに入ったのだろう。小さい笑い声を上げながら、そんな言葉をくれる。ここまで来ると、私のどんな弁解の言葉も無意味だ。寧ろ変に言い訳しようとした方が、彼女への追い討ちになりかねない。一ツ葉様だって好きで笑っているわけでは…多分、無いだろうから、黙っている方が良いだろう。
―まぁ…私もこれ以上、物笑いの種を蒔くほど物好きではない。
そんな事を思いつつ黙り込んでいた所為だろうか。一ツ葉様がそっと真剣な顔に戻って、寝室の中へと入ってくる。妙齢の女性が、こんな夜更けに自分の寝室へ来ていると言う状況に、再び興奮の熱を灯るのを感じた。しかし、さっきの失態が脳裏に焼きついている私は、それを表に出すまいと堪える。自然、私の顔は機嫌の悪そうな物になり…一ツ葉様を気まずそうな表情へと変えた。
「そ、その…本当に申し訳ありません…」
その場に伏しつつ、尻尾をくたりと垂らせて謝る彼女の姿が、私にじくりと鈍い痛みを走らせる。まるで心の中へと滲むようなその痛みは、馬鹿のように浮かれあがっている私の頭を若干、冷静にしてくれた。
―何をやっているんだ私は……。
下手な言葉は言わず、ただ表情や仕草で自分より立場の弱い者を強く威圧する。これではまるで…まるであの源重郎のようではないか。いや…本来であれば対等である彼女の優しさに漬け込み、威圧する今の私はそれ以下だろう。私は自分の狐と、そんな不平等な関係を築きたかったわけではない。もっと…叔父と双葉様のような、悔しいが源重郎と三ツ葉様のような、そんな仲睦ましい関係になりたかったはずだ。
―それなのに…私は何をやっているのか…。
自己嫌悪から漏れ出る溜息は必死で自制する。この状況での溜息は一ツ葉様への叱責と取られかねないからだ。そんなつもりは一切無いのに誤解させてしまうのは私にとってもとても辛い。だから、私は溜息の代わりに言葉を選びながら口を開く。
「いや…怒っている訳ではないのです。ただ…少し気まずくて…」
言い訳のようなその言葉に、一ツ葉様はそっと顔を上げてくれた。そこにはもう気まずそうな色は余り見えない。何処かほっとしたような、安心したような、そんな表情が浮かんでいるように私には思える。あくまで主観ではあるものの…それはそう的外れではないだろう。伏したときには気の毒になるくらい力を失った尾が、ふるふると左右に揺れ始めているのだから。
―確か…尻尾を振るときは…嬉しいとき…であったか。
機嫌良く左右に揺れる尾に、まるで犬のようだと思う反面、こうして分かりやすい指標があることに感謝の気持ちを抱いてしまう。その気持ちを内に秘めつつ、私は一ツ葉様にもう一度、向き合って口を開いた。
「それで…何の御用でしょう?」
そう言うと一ツ葉様は少し肌白の頬を、紅でも落としたのかと思うほど赤くした。目も、顔ごと動かすように、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと世話しなく動いている。寝間着からはち切れそうな豊満な胸の前で組まれた両手は落ち着く無く、指を絡ませあっていた。畳の上でしっかりと正座している膝も所在無さ気にふるふると揺れていて、居心地が悪そうに見える。
―…まさか本当に夜這い…なのか…?
母性すら感じさせる妙齢の女性がそこまで恥らう姿を見せられて、そんな妄想を抱かないほど私は清廉潔白な男ではない。年齢としても、男盛りに差し掛かっている時期なのだ。こんな真夜中に訪ねる時点でさえ、淫らな妄想が頭を駆け巡っていたのだから、目の前でこうして恥らう姿を見せられて我慢できるはずも無いだろう。
―まぁ…実際には違うんだろうが。
まだ私と一ツ葉様と出会って、数時間程度しか経っていない。そんな時間ではまだまだ一ツ葉様の人となりを全て把握できているとは言えないだろう。長年連れ添った夫婦でさえ、お互いに知らない事や秘密を持っていることも多いのだから、そもそも全てを知ろうと言う事自体、間違っているのかもしれない。しかし、例えそうであっても、この数時間の間に私が接してきた一ツ葉様は優しくお淑やかな女性であった。そんな方が、普通の女性でさえ中々しないような夜這いを、しかも、出会って数時間の男相手にするだろうか。
―私にはそうは思えない。
無論、こうして恥じらいを浮かべる様を見て、年頃の男子である私はどうしても性的なものへと結び付けてしまう。しかし、きっとそれは誤解なのだ。貞淑と言う言葉の見本のような一ツ葉様の事だから、きっと、こうして男の寝室に入るだけでも恥ずかしかったのだろう。もしくは、その用事の内容が少しばかり恥ずかしいものだったり――
「その…実はこの屋敷にはその一組しか布団が無いようなので…不躾で申し訳ないのですが私も一緒に入れてもらえないでしょうか…?」
―そう。例えばこんな風な同衾のお願いだったり……って…。
「…え?」
「あ、あの、勿論、疚しい意味は無くてですね!私も今日、ここへ着いたばかりでして片付けに夢中で布団の数を確認出来ておらず…っわ、私の不手際を押し付ける事になりますが…も、勿論!あ、明日には買いに走るつもりです!!けれど、もし宜しければで良いのですが…断られても一晩程度であれば風邪を引く事もありませんし…」
余りにも恥ずかしいのか、一ツ葉様は真っ赤になっている。その様子は私がさっきまで見ていた落ち着いた女性と言う印象とはかけ離れていた。しかし、淑女の見本のような一ツ葉様がこうして顔を赤くする姿と言うのは強く私の胸を高鳴らせる。そして、段々と支離滅裂になっていっている一ツ葉様の言葉の半分も私の耳には入ってこない。だって…仕方が無いだろう。確かに夜這いでは無かったとは言え、ここで同衾の申し出だなんて思ってもみなかったのだ。妄想通りではない、しかし、妄想とそれほどかけ離れていない結果が、手の中に転がり込んだのだから…呆然としながら悶々とした妄想が広がるのも不可抗力である。
―一ツ葉様と同衾…だって…?
目の前で身振り手振りを加えて、必死に説明する度に大きな胸がふよふよと揺れる。重力に引かれつつも、逆らうようなその動きは、それだけ中にもみ応えのある『肉』が詰まっている事を一目で教えてくれるのだ。そんな胸の感触を想像するだけでも、ゴクリと咽喉を鳴らしてしまう。
―そして…一ツ葉様の魅力は決して胸だけではないのだ。
むっちりとした太ももの線も薄手の寝間着からはっきりと確認できる。決して太過ぎると言う印象を与えない絶妙な流線は、思わず手を引くような誘惑を伴っているのだ。まるで吸い寄せられるような、薄い桃色に染まった唇と言い、他にも男の興奮を掻き立てる部分が山ほどある。それらが…自分のすぐ横に無防備に晒される、となる事に興奮を覚えない男は居ないだろう。
―…いや…逆に襲われると言うのも良いかもしれない。
貞淑と母性が手を取り合って、現れたような一ツ葉様ではあるものの、そんな人に襲われると言うのも興奮する。一本一本が百合の花弁のような美しい指で愛撫され、抵抗できないまま喘がされるのは…素敵な想像と言えるだろう。また襲われなくても、甘えると言う選択肢だってあり得る。あの大きな胸に包まれて、眠る感覚はさぞや気持ち良いに違いない。
―…あ、やばい…鼻血が出そうだ…。
「あ…あの…ご主人様…?」
「あ、いえ…すみません。何でも…」
気遣うようなその言葉に、思考が妄想から脱した。そのまま自分を落ち着かせるように大きく深呼吸しつつ、硬くなった男根を布団で誤魔化そうと膝を立てる。幾ら妄想の中で男根を見られる以上に淫らで恥ずかしい事を考えても、それを見抜かれるのは男として中々、屈辱的なことなのだ。
―とりあえず…一度、冷静になって問題を整理しよう。
結局のところ、この屋敷に二人存在するのにも関わらず、布団が一組しかないのが問題なのだ。しかも、その二人は若い男女――いや、より正確に言うならば男雌なのかもしれないが――と来ている。今は少し冷静になれたのでマシだが、正直、この状況で間違いを犯さない自信は私には無い。
―…となると選択肢は一つつしかないだろう。
「とにかく布団は一ツ葉様が使ってください。私は厩で浜風と一緒に寝るので…」
二人で眠るのも、正常な男子としてほぼ無理。かと言って、女性である一ツ葉様を放っておく訳にもいかない。もし、ここで彼女を拒絶するくらいならば、私が野宿した方が幾らかマシであろう。幸い、源重郎の嫌味に耐えかねて浜風の厩に愚痴りに行って、そのまま一緒に眠った事も少なからずあるのだ。秋口とは言え、干草に包まれば寒さに震えるほどではないし、一晩くらいならば問題は無いだろう。
「却下です」
しかし、そんな私の提案はあっさりと一ツ葉様に拒否されてしまう。一応、こちらから歩み寄ったつもりではあるものの、一ツ葉様には受け取ってもらえなかったようだ。一応、形式上は私が主で、彼女が従僕と言う形なので遠慮しているのかもしれない。
「ご主人様の布団を奪うくらいなら、私が野宿をした方がマシです」
「いや…でも、浜風と一緒に眠るのは慣れていますし…野宿の経験も私は少なからずありますから…」
「それは私も同じですわ。それにこの布団はご主人様の物なのですから、布団を使うべきはご主人様の方です」
―駄目だ…平行線過ぎる…。
それはお互いがお互いを思っているが故に交わる事のない議論である。下手に利益が対立するよりも決着を着け辛い二つの主張は、そのままであれば当分、水掛け論を続ける事になってしまうだろう。それならば必要なのは、より違う視点からの一石である。それもより本音に近く、一ツ葉様が思わず納得してしまうような、そんな身の危険を伴うような理由。…そんなもの私には一つくらいしか思いつかない。
「その…正直に申しますと…このまま一緒に同衾してしまうと…一ツ葉様を襲ってしまいそうで…」
―は…恥ずかしい……っ!!
自制心の無い事を示すのと同時に、「魅力的だ」と伝えているのだから、恥ずかしく無い訳が無い。しかも、それは決して嘘ではなく、全て本音だと言うのが、まるで火に油を注ぐように羞恥の感情を助長している。下手に告白するよりもよっぽど恥ずかしいであろう行為に私の顔にまるで炎でも灯ったかのように熱が弾けた。
「あらあら……」
―よし…怯んでくれた…!
困ったように頬に手を当て、考え込むような表情は、紛れも無く付け入る隙であろう。玉砕覚悟であったとは言え、怯んでくれた様子に内心、握り拳を作る。しかし、そのまま見ているだけではこの議論は決着はしない。だからこそ、この隙に言葉を覆いかぶせて有耶無耶の内に決める必要があるのだ。
「だ、だから、外で寝るのは…」
「それの何がいけないんですの?」
―本当に何がいけないのか分かっていない…とても不思議そうな表情で…一ツ葉様はそう言った。
え?いや、ちょっと待ってくれこれはどういうことなんだまるで分からないもしかして本当に夜這い?まさか一ツ葉様に限ってそんなはずはでも現実に一ツ葉様はそう言っていていやそもそもこれは現実なのか既に私は寝ていて夢を見ているのかもしれないいやむしろそっちの方が正しいんじゃないだろうかうんそうだこれはきっと夢だ夢に違いない。
「それでは…異論も無いようですしお邪魔致します」
「え?あ、いや…っ!!」
予想外の反撃に私が現実逃避していた間に、そっと一ツ葉様は布団へと潜り込んでくる。何処かひんやりとした空気と共に私の足にすべすべとした感触が当たった。それが一ツ葉様の足であると意識する間も無く、とても魅力的な女性は私と同じ布団に完全に入り込む。自然、玄関で嗅いだあの危ない香りが私の鼻をつき、思考能力を削ぎ落としていった。
―…うん…これは夢じゃないな…。
目の前に広がる整った一ツ葉様の顔立ち。思わず陶酔に堕ちていきそうな匂い。足や手には時折、すべすべとした感触が当たり、少しばかり冷えた感覚を私に与えてくる。ここまで来て現実逃避できるほど私の意志は強くは無い。逃げ道を全て塞がれ、無理矢理、現実だと向き合わされてしまうのだ。
―しかし…本当に綺麗な顔立ちだ…。
女性の顔をじっくり見るのは失礼に当たるので、そこまでしっかりと把握していたわけではないが、こうして間近で見る一ツ葉様の顔は本当に美しい。艶やかに光り、男を誘うような桃色の唇、スラリと通っていて、清涼な美しさの強調する鼻筋、一般的な女性の肌よりも少しばかり色白な肌は肌理細かく、これだけ間近でも粗一つ見えない。金色の眉はきちんと手入れされているのかすらりと伸びていて乱れ一つ無く、目蓋から伸びるまつげもピンと張って、一ツ葉様の美しさに助長している。
―その中でも特に…美しいのは唇だ。
まるで濡れているような光り方をするその唇は、一ツ葉様の中でも飛びぬけた魅力を持っている。こうして見ているだけでも瑞々しく、柔らかい事が分かるのだ。それに男の本能のようなものが引き寄せられ、「口付けをしたい」とそんな事を考えてしまう。
「あ、あの…流石にそんな風に顔を見つめられると恥ずかしいのですが…」
「あ、す、すみません……」
恥ずかしそうなその言葉に正気に戻った私は弾かれた様に後ろを向いた。丁度、一ツ葉様へ背中を向けるような形ではあるが、それでも興奮が収まらない。胸に手を当ててみると、心の臓が激しく収縮し、凄まじい勢いで鼓動を作り出していた。一ツ葉様の顔にどれだけ夢中になっていたのかを示すようなその鼓動に、再び顔が赤くなってしまう。
―落ち着け…ここまで来ると…もう出来るだけ早く寝るしかない。
自分から布団に乗り込んでくるくらいなのだから、私が譲るといってもさっきと同じ平行線の議論へと陥るだけだ。結局、思わぬ反撃で呆然としてしまった時点で私の負けは決まったも同然だったのだろう。そして、敗者の私に出来る事と言えば可能な限り早く寝て朝を迎える事だ。すぐ後ろに一ツ葉様が居る状態で寝れるのか自分でも疑問だが、一ツ葉様を襲わないためにはそれしかないのだ。
―でも…一ツ葉様は襲って良いとも受け取れる事を言っていて…。
ふと脳裏に浮かんだその言葉に、頭の後ろがカッと赤くなる。それを振り払おうにも布団の中で暴れるわけにもいかない。せめて、その言葉を忘れようとしても、逆に意識しすぎて心臓の鼓動がさらに早くなった。まるでジリ貧のような状態に思わず頭を抱えたくなってしまうが、すぐ後ろに一ツ葉様が居る状態ではそれも出来ない。
―どうしろって言うんだ本当に……。
意識しまいとすると逆にドツボに嵌り…しかし、意識しないようになんて出来ない。すぐ後ろに男ならば誰しも目を惹かれるような美人が寝ているのだ。ただでさえ、『意識的に意識しない』事は難しいと言うのに、意識せざるを得ない人が後ろに居る状態では無理も同然だろう。
―いっそ襲ってしまえば…いや、それこそ駄目だろう。
一ツ葉様が何を考えているのか私には分からないが、今の状況は決して普通じゃない。説明しているときの一ツ葉様を様子を見るに、彼女も布団さえあればこんな同衾のような形を取るつもりは無かったのだ。また、私の事を必死に立てようとしてくれる一ツ葉様の様子から察するに、私を野宿させない為の方便だった可能性も高い。それを本気にして、一ツ葉様を襲うなんて、これからの関係に修復不可能な亀裂を入れる事になるかもしれないのだ。
―結局のところ…臆病なだけなのかもしれないが。
しかし、そうで無ければ一ツ葉様がこうして出会った数時間ほどの男の寝室に来るとは到底、思えないのだ。無論、私と彼女はこれから長い時間をかけて共に歩む友になる関係であるが、今はまだ殆ど何の関係も無い男女である。これが天賦の才を幾つも授けられ、自信が溢れた顔立ちをしている兄であれば話は別なのかもしれないが…生憎と私はその出涸らしとして新加茂で有名なのだ。少なくとも会って数時間の女性に好かれる要素なんて一つたりとも無い。
―また悪い方向に転びかけているな…。早く寝よう…。
そんな事を思って目蓋を閉じても、中々、睡魔はやってこない。肉体的にも精神的にも疲れているはずなのに、身体中を駆け巡る興奮が未だ熱を持っていて、それを阻害しているのだ。その熱を冷まそうにも、興奮の元がすぐ後ろに居る状態では中々、難しい。
―ふぅ……。
「…あ、あの…ご主人様…まだ起きていますか…?」
内心、目が冴え切って困っていた所に一ツ葉様のそんな声が届くが、また何か興奮するような事を言われるんじゃないかと思い、返事をするかどうか迷ってしまう。しかし、既に身体中に熱が灯り、男根も半勃ちになっている今より悪化はしないだろう…と反論する声も私の中にはあった。ましてや少し震えた声で私の名前を呼ぶ相手に狸寝入りをするのも気が悪い。結局、少しの逡巡の後、私は口を開いた。
「…はい」
「あ……えっと…いきなり押しかけたりして申し訳ありません」
「それは気にしてなんか居ませんよ」
―それは紛れも無く本当の事だ。
確かに少し驚いたし、今、こうして興奮して眠れない状況ではある。しかし、一ツ葉様のまた違った面は見れたのも事実なのだ。温和で貞淑な女性と言う表層しか見ていなかった私が、少し一ツ葉様に踏み込めたような気がする。それは睡眠と比べても得難い経験だろう。ましてや、これから長い間を一緒に過ごす事になる二人であれば尚更である。
「有難うございます。…それで…あの…まだ眠くないのであれば…少し私の話を聞いていただけませんか…?」
―…一ツ葉様の話…?
何を話してくれるのだろうかと一瞬、首を捻ってしまう。しかし、まだまだ眠気が来る気配すらないのだ。それがどんな話であろうと、聞く余裕や理由も十二分にあるだろう。そんな事を考えながら、私は短く「はい」と同意の言葉を返す。その言葉に一ツ葉様も感謝の言葉を返して…一拍ほど置いた後、彼女はゆっくりと語り始めた。
「もうお気づきかもしれませんが……私は…変化の術さえもマトモに使えない役立たずなのでございます」
―『役立たず』
その言葉が妙に私の言葉に突き刺さる。それは…私にもそう呼ばれ、疎まれていた時期があったからだろうか。それとも…その言葉に今まで一ツ葉様が溜め込んできた苦悩などが込められていた所為だろうか。…恐らくはその相乗効果だったのだろう。だからこそ、私はその言葉に胸が押しつぶされるほどの衝撃を受けたのだ。
「私どもは新加茂の一族の方々に使役狐…つまり主に呪殺の手伝いとして仕えておりました。今はどちらかと言えば家事手伝いの面を求められる事の方が多いですが…しかし、私が生まれた時代は…そういう時代だったのです」
―『そういう時代だった』…その言葉に込められた思いは私などでは想像もつかないほど複雑なのだろう。
私だって…一言では言い表せないような気持ちは沢山ある。源重郎に抱く気持ちだってそうだし、兄に対しても、両親に対してもそうだ。けれど…そんな私でさえ、一ツ葉様のその言葉に込められた思い全てを読み解くことは出来ない。きっと、ソレが出来るのは、一ツ葉様自身か、或いは未来の私くらいだろう。
「子供の頃から…私は殆ど妖力も持ってはおりませんでした。人の言葉を理解し、妖力を扱う術も持ってはおります。なので…分類上は同族と同じなのでしょう。…しかし、私にはこれっぽっちも…妖力が無かったのです」
独白のようなその言葉に私は口を挟むことは出来ない。だって…その気持ちは全てではなくとも私にも通じるところがあったのだから。新加茂の本家に生を受けながら、一切の才能を持たないと断じられた私には、一族の中で逸れ者となった彼女の気持ちはある程度、察する事ができる。そして、だからこそ、私は下らない相槌でそれを遮るのは躊躇われるのだ。
「表向きは皆、私に優しくしてくれました。けれど…それは私が持たないが故の優しさであったのです。…当然でしょう。だって…私は新加茂の使役狐には決してなれないのですから。その為の一族に生まれながら…その為には決して使われない狐。…誰だって…そんな相手には哀れだと思いますわ」
―否定は出来ない。
無論、私は一ツ葉様を哀れだなんて思ったことは無い。まして『役立たず』などと思うはずが無いのだ。こうしてお腹一杯に美味しい食事を食べられたのも、良い湯加減だった風呂を浴びて暖かいまま布団の中に入れるのも、全て一ツ葉様のお陰なのだから。今日のこの数時間だけでさえ一ツ葉様は数え切れないくらい私の役に立っている。
―でも…それはきっと…今の姿の…今の価値観なのだ。
私が物心着いた頃にはもう彼女たちは美しい女性そのものであり、誰よりも献身的に主へと尽くす姿だったのだ。けれど、その前の…狐そのものの姿であった頃はどうだったのか。新加茂の大切な『友』であり、呪殺の為の重要な道具であった頃にはどうだったのか。無論、使役狐の仕事は呪殺だけではない。しかし、それでもその仕事には妖力を使うことが多いのだ。
―そんな中…妖力の使えない同族が居ればどうなるか…。
私だって…きっとそんな中に居れば哀れむだろう。だって、それは存在意義が根本から否定されたのと同じなのだから。そんな相手に辛く当たってやる程、私は冷酷な性格をしていない。しかし、同時に…見下すであろう。『その為の一族の中で、決してその為に活躍できない相手』として、自分より無条件に下の相手として、彼女を見るに違いない。私は相手を決して下に見ないと言えるほど聖人ではないのだ。
「だから…私は努力しました。妖力が無くても…何れ仕えるかも知れない新加茂の方に役に立てるように、様々な技術を磨きましたわ。今の姿になる前から炊事に洗濯…お掃除も。人の姿になることは出来ないのでお買い物なんかは出来ませんが、今でも山の中で食料を採るのは…一族の誰にも負けません。」
―…耳が痛い…。
その言葉は源重郎に『役立たず』と罵られて、不貞腐れていた私にとっては…とても耳が痛い話だった。無論…私も人並みに努力したつもりだ。だからこそ、剣の腕を始め、様々な面で『人並み』程度にはなれている。しかし…それでも所詮、私の努力は『人並み』なのだ。まったく努力してこなかった訳ではない…と言い訳出来る様な努力だけ。決して血反吐を吐くほどの努力をした事などない。
しかし、今、私の後ろに居る女性はどうだろう。無論、才能もあったのかもしれない。しかし、妖力を持つ事を何より重視する一族で、必要とされるかも分からない技術を磨き上げるのにどれだけの努力を重ねたのか…私には推察する事も出来ないのだ。無論、私と一ツ葉様では生きた時間が違うが…それでも、私のように不貞腐れず、自分なりの部分で勝負しようとしてきた彼女の姿が…とても眩しく思える。
―それは…私には無かった発想だ。
私は…結局、源重郎に貼り付けられた『役立たず』と言う言葉に甘えていたのだろう。彼女のように自分でしか出来ない仕事を探す事もせず、日々、不満だけを募らせて生きていた。兄の才能に嫉妬する一方で、兄の才能を理由に『努力しても無駄だ』と思っていたのだ。私の何倍もの速さで先を行く兄に追いつく為に何倍も努力する事もせず、それを理由に足を止めていたのは…甘えていた以外の何物でもない。少なくとも…こうして自分だけの特性を手に入れ、しっかりと活かしている一ツ葉様の前では…そう思う。
「しかし、それでも私にお声は掛かりませんでした。…当然ですわ。どれだけ家事手伝いが上手くなろうとも、使役狐の本分は呪殺。その為には妖力が無くてはなりません。しかし…そうと分かっていても…私は止まる訳には参りませんでした。だって…もし、止まってしまえば私の存在意義は…本当に無くなってしまうのですもの」
―その言葉は…とても実感に溢れた言葉だった。
必要とされるかどうかも分からない技術を磨き、自分にしか出来ない方面で勝負しようとし続けてきた一ツ葉様。その思いはどれだけのものだったのだろう。そして、何より…どれほど怖かったのだろうか。自分の努力が実るかどうか以前に、方向があっているかも分からない闇の中をひたすら走るようなものなのだ。正しいのかどうかさえ分からないまま、突き動かされるように進み続ける感覚は…その領域に足を踏み入れたことが無い私には分からない。しかし…何時、心が折れるとも分からぬ辛い時間であったのだけは確かだろう。
「そうして…長い年月が過ぎて…妹たちも新加茂の方々に仕える様になって…最近、私にようやくお声が掛かりましたの。その時は…飛び上がるほど嬉しかったのです。だって、私の進んでいた方向が間違っていなかったのだとそう認められたのですから。…ですが、同時に怖くもありました。どれだけ努力しても…私は『役立たず』。今に至っても、耳と尾を隠す術さえ使えないのですから。もし、主となる方に拒絶されればどうしようかと…今日までずっとそれまでを思い続けていました」
「私は…一ツ葉様を役立たずだなんて思いません。今日だって…沢山、私を助けてくれたではないですか」
今まで沈黙を護ってはいたが…その言葉だけは聞き逃せなかった。似た痛みを持つものとして…その気持ちは良く分かる。私自身、主として認めてもらえるか不安な気持ちは確かにあったのだから。それと似た気持ちを…これほど有能な一ツ葉様が抱いていたというのは意外ではあったが、誰にも認められない道を只管歩いてきて…きっと褒められた事も無かったのだろう。それはただの推察ではあるが、同じ閉じられた社会の中で生きてきた者としてそう的外れな予想とは思えない。
「…有難うございます」
―その言葉と共に私の背中に何か暖かくて、柔らかいものが押し当てられる。
まるで湯たんぽのようなじんわりとした暖かさは決して不快じゃない。寧ろ、冷えそうな心と身体を暖めてくれているような熱は何時までも感じていたい不思議な魅力がある。しかし、魅力と言う面では柔らかい感触もまた引けをとらないのだ。ふよふよと形を変えつつも、しっかりと弾力を示す独特の柔らかさは今まで感じた事が無い。だが、全てが全て柔らかいわけではなく、肩甲骨に触れる部位には独特のシコリがある。思わず手の中で転がしたくなるようなその二つの感触は背中を通して、脳髄に突き刺さるような興奮を与えてくるのだ。
―こ…れ……は………?
それは私にはまったく馴染の無い感触だ。しかし、それでも『それ』が何であるのかを、男の本能のようなものが教えてくれる。しかし、それは余りにも衝撃的過ぎる事であり…私の思考は一時的にその動きを止めてしまった。
「ご主人様…いえ…誠示朗様は…とてもお優しい方なのですね…」
その言葉と同時に私の肩を超えてそっと一ツ葉様の白い腕が下りてくる。布団の中で寝転んでいる状態とは言え、今の状態はまさに後ろから抱きすくめられているような格好になるだろう。まるで恋人同士がするような甘い抱擁だが…それは私の幼さの所為か、彼女が漂わせる母性の所為か、姉か母に甘えているようにさえ見える。しかし、姉か母であれば決して反応しないであろう男の部分は、しっかりとその身を硬くして自己主張をしているのだ。
―って言うか…胸…胸…が…っ!!
そして抱きすくめられていると言う事は…私の背中にある柔らかいモノが胸である以外の何者でもないだろう。女性の性の象徴でもある乳房が今、かつてない程触れ合っている。数分前までは決して想像もしていなかった――まぁ、妄想はしていたが――展開に、私の脳は着いて行けず白旗を揚げようとしていた。
「その優しさに付け入るようで恐縮ですが…それでは一つ…ご褒美を頂けませんか…?」
―ご…ご褒美……ですと…?
そのまま、ぎゅっと胸の中に埋められるように抱きすくめられ、耳元で甘く囁くように言われたら…そりゃ誰だって淫らなものを連想するだろう。まして、私は男盛りに片足を踏み込んだ歳なのだ。ここまで水と種を与えられれば、幾らでも妄想の花を咲かせられる。しかも、それは展開的に十二分に『有り得る』話なのだ。倫理感を超えた、興奮と期待が私の胸にドンドンと満ち、今にも溢れそうになっている。
「わ、私で出来ることなら何なりと…」
「それでは……」
―く、来るのか…つ、ついにこの歳で筆卸ししてしまうのか…!?
余り大きな声では言えないが、『年上の美人のお姉さんに優しく手解きされながら、筆卸し』と言うのは男が持つ共通の夢であろう。しかし、現実は中々、そうはいかない。妄想の種としてはポピュラーではあるが、だからこそ、それは高嶺の花なのだ。しかし、全国の男達が皆、望んでいながら…多くの者が手に入れることの出来ないその夢が今、私の目の前で現実になろうとしている。そう思うだけで私の胸は早くなり、痛いほどの興奮が身体中に走っていくのだ。
「…私などに敬語を使わず…一ツ葉と御呼び下さいませ」
―………え?
しかし、そんな興奮とは裏腹に…告げられた要求は可愛らしく…何より期待外れな物だった。余りにも可愛らしすぎて、最高潮にまで膨れ上がりかけていた興奮が、音を立てるように崩れていき、頭の中の熱がどんどんと引いていく。高まりきった期待からの落差に、目の前が白く染まっていくようにさえ感じるのだ。立っていれば思わず倒れこんでいたような強い疲労感と肩透かし感も、私の身体を押しつぶすように寄りかかってくる。
―しかも…それらは…とてつもない自己嫌悪を伴っていて……。
そもそも、私などが一ツ葉様とそんな事が出来る筈がないのだ。私はこんな短時間で一ツ葉様が惚れてくれるほどの魅力を持つ男では決して無いし、何より、一ツ葉様がそんな軽い女性だとも思えない。そもそも、私とは比べ物にならないくらい努力し、自分だけの特技を勝ち得た一ツ葉様は私には勿体無いくらいなのだ。長い年月を掛けても、「そんな」関係になれるとは余り思えないほどの高嶺の花が…こうして数時間で同衾してくれるだけでも幸運だというのに、その先を期待する事自体が間違っているのだろう。
―あばばばばばばばばっ!死にたい…!ほんの数分前の自分を殺したい…っ!!
努力も何もせず、好きになってもらえる筈が無い。ただでさえ、私は元の能力は低いのだから、人並み程度の努力では一ツ葉様の心を射止めるのは難しいだろう。それでも…そんな妄想をしていたと言うのは、思春期独特の物もあるが、自惚れのような感情が私の何処かにあったのも関係しているに違いない。さらに、ここまで盛大な思い違いをしていたと言う現実と相まって、今すぐ布団の中でゴロゴロと転げまわりたくなるような衝動を産んだ。
「あの…ご主人様…?」
「あ、いや、なんでもないです」
「…んもぅ…。敬語は使わないで下さいって言ったじゃありませんか」
―しかし…そうは言われましても…。
拗ねるような色を帯びた一ツ葉様の声にやはりどうしてもそう思ってしまう。誤解が元になっていたとは言え、さっきの言葉は嘘ではない。私としても勿論、彼女の要求には可能な限り応えたいと思っているのだ。しかし、それでも…私は『役立たず』である。しかも、一ツ葉様と違い、ただ環境に甘えていただけの。そんな私が彼女に横柄な口を利ける筈が無い。
「そもそも私たちは主従の関係なのですよ?ご主人様は敬語を使っていると他の方に示しがつきません」
「理屈としてはそうなんですが…」
新加茂は狭い血縁の中の閉じられた社会だ。特に、その中でも狐との関係を知っているものは一握りである。その一握りは叔父のような例外は居るものの、大体、気位が高く、他の人間を見下す傾向にあるのだ。そんな連中に、もし、使役狐に敬語を使っているなどと知られれば、物笑いの種になってしまうだろう。最近は源重郎と三ツ葉様の様子を見て、風当たりも変わって来ているが、それでも昔から狐と共に過ごしてきた年長者や、新加茂の家で権力を握っている連中ほど、彼女らを道具として見る傾向があるのは同じだ。そして、そんな彼らから漏れる噂は、形を変えつつも、すぐに一族中を駆け巡り、陰口となるだろう。
―私だけであれば、それでも構わないのだが…。
元々、役立たずと陰口を叩かれて育ってきたようなものだ。今更、その噂の中に、「女中にさえ顔が上がらない男」と言う話が加わったところで痛くも痒くも無い。しかし、私はそうでも私と一組で語られる一ツ葉様の風当たりも悪くなる可能性があるのだ。そういう意味では、既に一人の身体ではないので、彼女の言う事も無論、一理所か十理はある。
―しかし…それでも……一度、身についたモノは中々、変わらない。
元々の自信の無く、命令した経験など殆ど無い所為か。或いは三ツ葉様に下手に馴れ馴れしくすると怒髪天となる源重郎の近くで育った所為か。どちらとも分からないが、私が彼女らに一歩引いた言葉遣いをしてしまうのは殆ど癖のようなものなのだ。それに加えて、さっきの話で完全に圧倒されてしまったのだから、敬語を止められる訳も無い。
―参ったな…どう説明すれば良いのか…。
一番、分かりやすいのは『癖』の一言であろう。ある意味で反論を許さないその言葉は、理不尽ではあるものの、真実とそれほど乖離しているわけではないのだから。しかし、それは同時に根本からの解決を拒絶する言葉でもあるのだ。折角、こうして一ツ葉様のほうから歩み寄ってきてくれたのだし、此方としてもそんな突き放すような言葉は使いたくは無い。
「それとも…やはり私では…ご主人様の使役狐には相応しくありませんか…?」
「そ、そんな訳無いですよ!一ツ葉様は私には勿体無いくらいの方です!」
「…では…どうしてですの…?」
―ぎゅっと強く力を込められた腕は…少しばかり震えていた。
きっと一ツ葉様も不安なのだろう。長い間、使役狐として見向きもされていなかった分、マトモに主従関係を結べるかは彼女にとっての死活問題なのだから。…この期に及んでも殆ど自分の事しか考えていなかったが、私よりも一ツ葉様に余裕がないのは少し考えれば分かる話だ。
―なら…断るにしても…やはり真摯に胸の内を打ち明けるべきだろう。
「…私は…ずっと『役立たず』と呼ばれ続けてきました」
―ゆっくりと漏れ出た独白は、自分でも思ったよりするすると出てきた。
正直に言えば…その想いはずっと胸の内に溜め込んでいたかった。一ツ葉様はこんな私の所に来てくれた人でその人の前でだけは、立派な主人で居たいと思うのは当然の気持ちだろう。無論、私には人に誇れる所なんて何一つ無いから、何時かは箔が剥がれる日がやってきたのは確かである。しかし…しかし、それでも…私はその日まで、普通の主人として『役立たず』として見ないで欲しかったのだ。
―でも…事ここに至って…黙り込んでいるわけにもいかない。
私が傷つくのは良い。一ツ葉様を消極的に騙そうとしたのも、今まで努力してこなかったのも私の罪だ。それで何の罰を、痛みを受けようと、自業自得である。しかし、その私の罪で、何の罪も無い一ツ葉様を傷つけるわけにはいかないのだ。例え、この話の後に軽蔑されようとも…ここまで努力し、好機をもぎ取って見せた一ツ葉様にだけは真摯に向かい合わなければいけない。
「源重郎…頭首が言うには兄の劣化品であるそうです。…正直、私もそう思います。何をやらせてもすぐに人並み以上の結果を出す兄と、努力してようやく人並みになれる私……その差は誰が見ても明らかでしょう。これがまた兄が居ないか…年齢が逆であったら話は違ったかもしれません。…しかし、私の上には兄が居ました」
「………」
―呟く様な独白に一ツ葉様の返事は無い。
呆れているのか…それとも急に始まった独白に戸惑っているのか。依然、私の後ろから一ツ葉様が抱きしめる形なので、顔が見えず、私にはどちらか分からない。…しかし、触れ合う部分から伝わる優しい体温がそのどちらでもないと言ってくれている様に感じるのだ。まるで独白し、冷えた心を癒してくれるような温かさに引かれる様に私は次の言葉を紡いでいく。
「そんな状態では…兄の身体に期待が圧し掛かります。それは…傍目から見ても、常人であれば潰れかねないほど過度なものでしたが…兄は立派にその期待に応えていました。それは…頭首の後釜を狙う親戚連中には面白くなかったに違いありません。…そして…その鬱憤は、その兄のすぐ横に居る子供に向けられていったのです」
―…その頃の事は今でも強く記憶に残っている。
元々、決して優しいとは言えなかった親戚の視線が、見下すようなモノに変わった日。仲の良かった親戚の子供に遊ぶのを拒絶された日。そして…実の両親にさえ、「お前さえ居なければ…」と詰られた日。今でも全部、昨日の事のように思い出せる。無論、その時の辛い気持ちも。
―そして…皮肉にもそうした荒波から護ってくれたのは…他の誰でもない。兄だった。
無論、三ツ葉様も叔父も双葉様も護ろうとはしてくれていた。しかし、実の両親からさえ疎まれていた私を誰よりも護ってくれたのは…やはり兄だろう。次期頭首候補筆頭の兄の前で、その弟を詰るような度胸があるのはこの新加茂の家で一人しかいない。自然、私は兄により近づくようになり、兄もまた私の傍に居てくれたのだ。
―今だからこそ思うが…きっと兄は自分の所為で、こうした状況になっていることを知っていたのだろう。
兄は何度か、詰られて泣き続ける私を慰める際に謝っていた。当時の私はその理由までは分からなかったものの、きっとアレは自分が引き金となったことを詫びていたのだろう。
―そんな兄を…嫌えるはずもない。
正直に言えば「もし、兄が居なければ」と想像した事は一度や二度ではない。しかし、それはただの妄想だ。兄に対する怒りや憎しみのような感情は一切無い。寧ろ、幼少期、私がこれ以上歪まずに済んだのは間違いなく兄のお陰であるのだ。感謝の気持ちこそ抱けど、殺意の類を感じるはずがない。未だその感情は複雑ではあるが、逆恨みをする程、私は愚かではないのだ。
「恐らく…頭首も最初はそんなつもりで言ったのではないのでしょう。…しかし、彼が私に向かって言った『役立たず』の一言はある意味、その子供を詰る免罪符となりました。頭首がそう言ったのであれば…例えそれが違ったとしてもそうなってしまうのです。そして…そう詰る大人達の言葉は子供にも伝播して行き…私は一族の集まりの中で必ずと言って良いほど、良く苛められるようになりました」
無論、源重郎から私が疎まれていたのも事実だ。欠陥品や役立たずと呼ばれた事は一度や二度ではない。しかし、源重郎は口々に噂させるつもりで言った訳ではないのだろう。彼は新加茂の為ならば、手段も目的も選ばない非情な男ではあるが、同時に無駄なことは殆どしない男なのだから。発奮を促す為に罵る事をするかもしれないが、必要以上に萎縮させるつもりまでは無かったのだろう。
―…多分だが。
私が源重郎に問いただしたわけではないのでただの推察である。しかし、私の知る源重郎の性格を考えると、それほど事実とかけ離れていると思えない。親戚連中に詰られ、女中相手からも陰口を叩かれるようになってからは激しい鍛錬や頭痛がする程の勉強もさせられるようにはなったが…それも責任感の表れだと思えないことも無い…気がする。…いや、やはり無いか。
「それでもそんな言葉を跳ね返そうと努力していたのです。…しかし、それは所詮、人並み程度の努力でしかありませんでした。結局…私は『役立たず』と言う言葉に負けて、それを言い訳にしていたのです。…一ツ葉様のように…自分だけの独自性を確立する事もせず…決められた枠の中でのうのうと生きてきただけの男なのです…」
源重郎の意図はどうであれ、私はそうした扱きに耐え切れなかった。ドンドン増していく鍛錬の量や、勉強の量に着いていこうと努力していたが、ある日、ついに心が折れてしまったのである。浜風を伴って逃げ出して…この屋敷へと駆け込み、そのまま一週間ほど此処で過ごした。その間、源重郎や両親から何の便りも無く、ある日、不安になって帰ってみると、源重郎から完全に見放されてしまっていた。
―しかし…気づいた時にはもう遅い。
弁解する機会や場さえ与えられず、まるで私が存在しないかのように一切を無視されるようになった。自然、普段、使っていた勉学や鍛錬の時間も無くなり、一気に自由な時間ができる事になる。ここで普通の子供であれば、遊びにでも興じるのかもしれない。しかし、残念ながら友人など一人もいなくなってしまった私はいきなり降って生まれた時間に戸惑いつつ、結局、同じ時間を鍛錬や勉学に割き始めた。
―しかし、どうしても私の心の中には『役立たず』の言葉が居なくならない。
どれだけ剣を振るっても、筆を取っても、「どうせ役立たずなのだから」「無駄だから止めよう」と言う声が聞こえるのだ。ついこの間までは源重郎の圧倒的な威圧感の中で億尾にも出てこなかったその声が、私一人の時には途切れる事がない。…そして、私はその声に屈し、結局、その努力さえも半ば、投げ出してしまったのだ。
「それで…それでどうして…一ツ葉様に横柄な態度を取れましょう…。自分自身の武器を磨き上げてきた方に、命令など出来ましょうか…。私は余りにも矮小で…人の上に立つに相応しくない男なのに…」
「……ご主人様」
―その声と共にそっと後ろから強く抱きしめられる。
まるで暗い意識の底へと堕ちていこうとしているのを抱きとめてくれているかのような、その抱擁に思わず目尻から涙が零れた。それを反射的にぬぐおうとしても、まるで鉛で上に乗せられているかのように動かない。自然、ボロボロと零れ落ちていく涙は頬を伝って、布団を濡らす。まだ真新しい感触の布団を涙で穢さまいとしても…私の目尻から涙が止まらないのだ。
―くっそ…!どうして……っ!
私だって男だ。こうして…女性の前で泣いている姿と言うのは見せたくは無い。しかし、今まで押さえ込んできた感情を吐露した所為だろうか。どうにも…感情の抑制が効かず、涙となって溢れ出ていく。それを拭う事も出来ないまま、身体を震える私の頬を…一ツ葉様の指がそっと撫でてくれた。慰めるようなその仕草に、自分でも分からない感情が涙となって溢れるのを感じる。
「…ご主人様……私…本当は…お…いえ、妹から聞いていたんです」
「…え?」
―三ツ葉様が……?どうして……?
もしかして、私が余りにも不甲斐無さ過ぎるから一ツ葉様が幸せになれないと…そういう意味で話をしていたのだろうか。いや、三ツ葉様がそんな事をするとは思えない。思えないが…しかし、私の自信の無さがそれをどうにも現実に有り得る話のように感じさせるのだ。
「新加茂の本家の中で…不当な扱いを受けている子がいる。もし、その覚悟があるなら助けてあげて欲しい…。その話を聞いた時は…何かの冗談だと思いましたわ。だって…その子が置かれている立場は…私などよりもよっぽど辛いものだったのですもの。…私のように最初から持っていないのではなく…持っていても認められないその子の話を聞いて…私は壱も弐もなく話を受けましたわ」
「勿論、私が使役狐に憧れていたのもありますけれど」と悪戯っぽくそう付け加えて、一ツ葉様は目の下ほどをそっと撫でてくれる。涙の跡をそっと消すようなそれは、私が泣いているのを知っているからのものなのだろう。しかし…それでも何も言わない彼女の心遣いが、後ろの押し当てられた体温以上に私の心を暖かくしてくれる。
「勿論…今、こうしてご主人様のお話を聞いても…私の決意は変わりません。…誠示朗様は私のご主人様です。私に似た傷を持つ…優しいお方ですわ」
「でも……私は…っ!」
「それでも…と申されるのでしたら…これからそうなれば宜しいではありませんか。他の誰もが羨む様な…立派な方に」
「そんな事……っ」
―それが…それが出来れば苦労はしない。
勿論、一ツ葉様は私の事を思って慰めてくれているのだ。それは分かっている。けれど…それは胸が痛くなるくらいの理想論だ。そう簡単にそんな理想を叶えられるのであれば、世界はもっと平和になるだろう。しかし、実際はそうではない。心の中でどれだけそう願っても…結果がついてくるとは限らないのだ。
「―…では、諦めますの?結局、何もしないまま、何も変わらないまま…ずっとこうして自分を責めているだけのおつもりですか?」
「それは…」
―……それは…嫌だ。
私だって…自分を変えたいと思ったことは少なからずある。けれど、それは根本的に自分に甘い性格の所為で中々、実を結ばず、今も心の中で不平や不満を垂れるだけだ。そしてそんな自分に自己嫌悪して…また言い訳する材料を増やす。そんな循環はいい加減、断ち切らなければいけない。それは勿論、私にだって分かっているのだ。
「でも…私一人じゃ…」
―源重郎からも逃げ出した私に…変わる事なんて出来るとは…思えない。
当時としては押しつぶされそうなくらいの量だと思ったが、今思い返せば処理しきれない分ではなかったのだ。兄などに課せられていた量から倍近く差があったが、それだけやりこまなければ舐められたままだと源重郎は思っていたのだろう。…しかし、私はそんな源重郎の心も知らず逃げ出した。一度、逃げ出して、心が折れて…ある意味、誰よりも目を掛けてくれていた男を裏切ってしまっているのだ。そんな私が…一人で努力して変われるだろうか…?
―そんな風に思い詰める私の手をそっと一ツ葉様の温かい右手が包んでくれる。
手の甲で感じる一ツ葉様の手は、絹の様に滑らかでありながら、吸い付いてくるようだ。ゾクゾクとした妖しい感覚が背筋を這い上がって来るのさえ感じる。はっきりと性感とも言い難い妖しい感覚は、自責の渦へと飲み込まれそうな私を現実へと引き戻してくれた。
「誠示朗様は決して一人じゃありません。誠示朗様と似た傷を持っていて…同じように変わりたいと願う私がおりますもの。貴方様を決して裏切らず…その助けになろうと心に決めてここに居る私がおります。…だから、一緒に頑張りましょう…?」
―その言葉は…とても温かく、優しかった。
最後の最後まで張っていた虚勢が、「やっても無駄だったじゃないか」と、何処か冷めた感情を溶かしていく。努力した先で傷つかない為に、努力した後で変わらなかった絶望を見ない為に、ずっと私を護ってくれていた殻が無くなり…今までも胸の内で声を上げていた感情が言葉となって出て行くのだ。
「私も…私も…変わりたい…っ!今の…今の私は…嫌だ…っ」
「…えぇ。分かります。私もそうですから…」
―そのまま一ツ葉様は指を絡めつつ…ぎゅっと力強く手を握った。
まるで恋人のような情熱的な繋ぎ方にも、私の胸は高鳴らない。ソレよりももっと重要な…覚悟にも似た感情が胸を占めていたからだ。私の事だからそれはただ場の空気に流されただけの思い込みであるのかもしれない。しかし、一ツ葉様の手から流れ込むような熱が、それを否定するかのようにがっちりと私の心を掴み、軸を作り上げようとしている。それはまだまだ鉄には程遠い柔らかい芯だ。しかし、私の中に今まで決してなかったそれは、私の考えを今この瞬間だけでも固めるのには十分すぎるものだった。
「一ツ葉様…私は……」
「一ツ葉と。そうお呼び下さい」
―…気恥ずかしい…けれど……。
「変わりたい」と私はさっきそう言ったのだ。一ツ葉様と同じように今の自分から脱したいと…他の誰でもない、私に仕えてくれるこの優しい女性に。ならば、今、この瞬間にでも変わらなければいけない。こんな私でも信じようと、救ってくれようとした一ツ葉様の為にも、敬語如きで、もたついているわけにはいかないのだ。
「…一ツ葉。…私は…約束する。…必ず…お前が人に誇れるような主になると」
「では…私はそんなご主人様に相応しい使役狐になりますわ」
―誓い合ったその言葉は…神聖さの欠片も無い。
一枚の布団の中でお互い肩を寄せ合っての宣誓なのだ。まして、片方は恥ずかしいくらい涙を流しているのだから、そんな物があるはずもない。しかし、私にとってこのやり取りは何より大事なモノだ。他の誰がなんと言おうと、下らないと言われても、恐らく一生、忘れられない…いや、忘れてはいけないものだろう。
「…もう夜も白んじて来ました。…長話に付き合せて申し訳ありません」
仕切りなおすような一ツ葉様の…いや、一ツ葉の言葉に襖を見るとうっすらと白い物が映っている。仄かな月の光とは決して違う、力強い白は太陽が昇り始めた証だろう。結局、殆ど徹夜してしまったようだ。…まぁ、そこそこ長い時間、お互いに言葉を交わしていたのだから仕方が無いといえば仕方が無い。
―それに…何も収穫が無い訳ではなかった。
いや、寧ろ自分の内面が大きく転換した大事な一夜と言うべきか。出会ってまだ一日も経っていない女性に諭されて、あっさり転換するなんて今まで自分は何をやっていたんだ、と言う気さえするものの、うじうじといじけていた事から抜け出したのは歓迎すべきだろう。「変わっていく」と言う明白な課題が出来た今、大事なのは「今まで」よりも「これから」なのだから。
「いや…私は…とても楽になった。これも…一ツ葉のお陰だ。有難う」
「…勿体無いお言葉です」
―その返事の言葉が…少し鼻声に聞こえたのは気のせいだろうか。
勿論、私自身も既にかなりの鼻声であるので、耳が麻痺している可能性もある。寧ろ、その可能性が高いと言えるかもしれない。いや…きっと、そうだ。そうに違いない。そう思い込もう。
―…だって、例え一ツ葉が泣いていても私には何も出来ない。
もし、泣いていたとしても、泣き顔は見られたくないだろう。男ほどではないにせよ、女性は男以上に外見を気にするのだから。これが恋人同士であれば…振り向いて涙を拭ってあげるのも手かもしれない。しかし、私は…一ツ葉の主だ。ただ、それだけの関係なのだ。私に出来るのは…その声を聞かぬ振りをしてあげる事くらいだろう。
―後は…この結びついた手をどうするか……くらいか。
所謂、『恋人繋ぎ』の変型のまま繋がった手は未だ解かれては居ない。そして、正直に言えば、余り離したくはなかった。勿論、あんまり過剰に反応して一ツ葉を傷つけることになるんじゃないかと言う懸念…いや、言い訳もある。しかし、一番の理由は…やっぱりその滑らかな手を、優しくて温かい手を私自身、積極的に離したくないのだ。
―それが…まだ、どんな感情から来るものかは分からないが。
まだ少しずつ芽を出し始めた状態なのだ。これからどんな花が咲くのか私には分からない。けれど、少なくともそれは悪い感情ではないような気がする。これからどう転ぶか知っているのは神くらいだろうが、それでも、その感情はきっと素敵な花を咲かせてくれる。そんな予感が私にはあった。
―…けれど、そんな予感があったって、正直、離したく無いと思っても、そういうわけにはいかない。
当たり前だが、私は一ツ葉の主だ。実質的には対等…いや、私の方が地位が低いとは言え、対外的には私が上となる。そして、勿論、一ツ葉は私を立ててくれるだろう。長い間、主が居なかった所為か…彼女の献身は筋金入りなのだから。様々な面で劣っている――いや、そう考えるのが自虐の元なのだ。よそう――成人前の子供とは言えど、無碍には扱うまい。
―そんな彼女が自分から手を離してくれと言うだろうか。
賭けても良いが、それは決してないだろう。少し行き過ぎと思う面はあるが、この短時間で感じた彼女の献身は本物だ。ただ、無条件で奉仕するのではなく、先ほどのように間違っていれば訂正する苦言も呈するのだから。しかし、それは逆に、間違っていなければ、或いは余程、嫌でない限り、そういう主張はしないという事でもある。
―だから…こっちから聞かないと…何時まで経っても今の状況のままだろう。
「それで…この手なんだが…」
「……宜しければ…もう少しこのままでお願いします」
―…その声は完全に鼻声に聞こえた。
あくまで…あくまで推察でしかない。推察でしかないが、やはり一ツ葉にも色々あったのだろう。私が意図的に彼女に話さなかったことがあるように、一ツ葉もまた胸の中に秘めているものがある。それは…まだ私が踏み込めない――いや、踏み込んではいけない領域だ。一ツ葉から表面的なものしか聞いていない私には、まだ手を伸ばしてはいけない問題だろう。
―そうは思っても…やはり胸が疼く。
すぐ後ろで泣いている女性が居るのに、しかも、その女性は、泣いている私を何も言わず慰めてくれていたのに、私には何も出来ない。その無力感と…まだ名前の付けられない痛みが合わさって、ずきずきとした痛みを走らせる。しかし、その痛みを追い出そうにも、私には言われるように手を繋いでいるしかない。
―…いや…せめて何か…優しい言葉の一つでも…。
今までであれば、ただ言われた様にしているだけで良かったかもしれない。しかし、折角、変わると決めたのだ。自分から受身の状態から…少しでも人を引っ張っていける人間になると約束したのだ。無論、嫌がるような事はする訳にはいかないが…彼女がそうしてくれたように言葉の一つでも探すべきだろう。
―しかし…優しさの押し付けにならず…尚且つ優しい言葉なんて…そうあるものじゃない。
これが学のある人間であればまた別なのかもしれない。しかし、私はそこそこの教育を受けていたとは言え、途中で逃げ出した男だ。勿論、こんな時にパッとぴったりの言葉が出てくる訳もなく…結局、私は無難な言葉を選んで口を開く。
「あぁ、分かった…。それで…私はそろそろ寝るから…」
「ご、ごめんなさい…っ!じ、邪魔ですわね…」
「あ、いやっ…だから…好きなだけ…その、このままで構わない…と…」
―…な、なんていうか…まるで口説いているような気分に……。
どんどん尻すぼみになっていく言葉は私の自信の無さの現れだ。それも仕方がないだろう。変わると決めたとは言え、いきなり自信満々になれるはずもない。まして、今までこんな風な事を女性に言う機会なんてなかったのだ。その経験の無さは致命的なまでに羞恥心を掻き立て、自信の無さは「これで本当に良いのか?」と疑問を呼び起こす。
「……有難うございます…」
―…しかし、それはどうやら杞憂であったようだ。
後ろから聞こえてきた感謝の言葉は涙ぐんではいたものの、嫌そうな色は決して無かった。自分では少々、気障な言葉かとも思ったが、どうやらそれほど的外れではなかったらしい。それに胸を撫で下ろしつつも私はそっけなく言葉を返す。
「いや…それではお休み」
「えぇ…お休みなさいませ、ご主人様」
優しいその言葉と同時に…さっきより強く手を握られる。完全に密着し、熱を全て送り込んでくるような繋ぎ方は恋人に成り立ての二人のようで何処か気恥ずかしい。しかし、その感情を余り感じる暇も無く、私の目蓋はずるずると凄い勢いで落ちてくる。
―…あ…これは……。
色々あって眠気を感じる暇も無かったが…流石に緊張の糸が途切れてしまったらしい。今まで眼が冴えていたのが嘘のように、身体が眠気へと落ちていく。それに抵抗しようと思う間も無く、私を飲み込んだ睡魔は…そのまま深い深い眠りの底へ私を誘っていくのだった。
12/08/13 12:53更新 / デュラハンの婿