連載小説
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その1
 ―朝と言うのは後悔の時間だ。

 例えば神学校の宿題をやらず、当日を迎えた日の朝。テスト勉強をしないまま一夜漬けしようとして途中で力尽きてしまった時の朝。夜更かしし過ぎて起きられず、寝坊してしまった朝…などなど。生きている中で朝と言う時間は最も後悔と言う時間と縁の深いものであろうと思う。

 ―そして…今、俺の心の中に飛来しているのも間違いなく後悔の念だった。……それも上記とは比べ物にならないほど大きな後悔。

 「…これどうすんだよ…」

 言いながら見渡す部屋は俺のモノではない。俺の部屋はもっと雑多で衣服や下着がそこら中に脱ぎ捨てられて、足の踏み場も探さなければいけないほどだ。床一面を綺麗に磨き上げられたように掃除されていて、壁にも趣味の良い装飾を施された武具が飾られているようなお洒落な部屋でもないし、ましてやそんな武具の下にちょこんと並べられているぬいぐるみがあるようなファンシーな部屋では断じてない。

 ―…そしてさらにもう一つ付け加えるべきなのは。

 今、起きたばかりの俺が腰掛けるベッドの右側に…シーツに埋もれて規則的に寝息を立てるような『モノ』は俺の部屋には存在しない。俺はまだまだ独身だし、軍人紛いの生活をしている所為で恋人だっていない。自然、部屋の中に居るナマモノは俺一人だけなはずだ。…しかし、今、俺の右には確かに『それ』が存在している。…いや、『それ』と言うのは相応しくないだろう。『彼女』は俺にとって、ここで最も深い付き合いのある同僚なのだから。

 ―そんな相手となんでこんな事に…っ!?

 勿論、俺に昨夜の記憶はある。けれど、それでも尚、信じられないのだ。『腐れ縁』でもあるコイツとまさか『寝た』なんて…どれだけ酒が入っていたとしても正気とは思えない。

 「うぅぅん…」
 「っ!?」

 突然、呻き声をあげる彼女―カルナに首ごとそちらに視線を吸い寄せられるが、カルナはまだ夢の中に居るようだった。その表情はさっきまでと同じように何処か安らいだもので、普段の片意地を張っている姿を知っているだけに意外な気がして目を引き寄せられてしまう。

 ―まぁ、元は良いからなこいつ。

 天井に生息域を広げているヒカリゴケの幻想的な光の下では、神話に出てくる女神様のような艶やかな金色が白いシーツに波打って、寝息のたびに揺れている。さらさらとした髪が寝息の度に光を受ける角度を変えて、シーツよりも白い純白を宿すのは見ていて愉しいくらいだ。その髪の間から覗きこめる白い肌は、吸い寄せられるような美しさと同時にカルナが身に秘める力を教えてくるようで何処か健康的な気もする。健康系美人…なんて本人に言ったらその白い肌を真っ赤にして怒るだろうが、そんな言葉が何より相応しい。俺の腕にしなだれかかるように眠る肢体は全体的に肉付きが良く、一晩中愛していても飽きさせないほどの感度を持っている。そして今は閉じられて見えない瞳は深いダークブルーを湛え、じっと見つめられると、まるで引き込まれそうな感覚にも陥るのだ。

 ―実際、昨日はそれで道を踏み外したわけだし…。

 昨日の戦い―教会が魔界へと侵攻するのを防衛する防衛戦争は俺たちの直轄の指揮官に当たる司令官殿の作戦が大当たりして、大勝利ともいえる結果に終わった。こちらの損害は殆ど無いまま、相手の大部分を捕虜に出来た結果は、無論、お祭り好きな魔物娘に宴会を呼び起こす。そして、その戦いに参加していた俺とカルナも、その宴会騒ぎに巻き込まれたというわけだ。

 ―それだけならまだ良かったんだけどなぁ。

 しかし、俺もカルナもそう言ったドンちゃん騒ぎは好きではない。嫌いではないが、輪の中心で皆と騒ぎ会うより、それを輪の外から見て、酒を煽る方が好みなのだ。しかし、昨日はあっちやこっちで酒の入った魔物娘たちが愉しそうにしていて…いや、し過ぎていて落ち着いて酒を飲むことも出来ない。壁際で飲んでいるのに独身の魔物娘に誘われたことなんて一度や二度ではないのだ。尤も俺の隣にずっと居るカルナの一睨みで何故か訳知り顔になりつつ、全て退散したわけだが。

 ―そんな場所より落ち着いて飲みなおそうと言い出したのはカルナだった。

 無論、それには俺も賛成した。カルナと飲むのは初めてではなかったし、彼女が指定した店も何度も二人で行った行きつけの店だったから当然だろう。賛成する理由どころか、断る理由が思いつかないほどの提案に俺はすぐさま乗り、行きつけのバーへと足を向けたわけだ。ちょっぴり小洒落た雰囲気のショットバーに。

 ―けれど、そこからが何か変だった。
 
 何が気に入らないのかカルナはずっと愚痴を漏らしっぱなしだった。詳しい内容は俺も酒が入っていたので覚えては居ないが、確か、俺は女性関係に甘く、だらしない…とか言う内容だった、と思う。これだけ魅力的な魔物娘が揃う魔王城に暮らして、今まで特に誘われるままほいほいヤらなかったし、自分では身持ちの硬いほうだと思っていたのだが、カルナに言わせれば、女性に声をかけられるたびにだらしなく頬が緩んでいるらしい。…自覚はないが、それだけ美女や美少女が多い環境なのだから、これからは気をつけようと心に決めたのは俺の秘密だ。

 ―そうやって愚痴ってる所為かカルナはあっさりと許容範囲を超えた。

 元々、カルナはあまり酒の強いほうではない。味を感じ、楽しむ為に酒を飲むタイプで、酔う感覚を求めてガブ飲みするタイプではなかったのだが、昨日は何がどう気に入らなかったのか明らかに後者の飲み方を続けていた。無論、特にザルと言うわけでもないカルナはあっさりと酔い潰れ、俺に背負われて、この部屋に帰ってきた事になる。

 ―それが全ての間違いと言うか諸悪の根源と言うか。

 元々、同僚としてはそこそこ仲の良い方だが、こうやって部屋に上がるほど親しかった訳ではない。そもそも一人暮らしで、しかも、独身の…曲がりなりにも―こんな事を言うと半殺しの目に会うだろうが―女性の部屋に上がれる特権なんぞ恋人くらいしか持って居ないだろう。けれど、俺はそのタブーを仕方なく破り、カルナをベッドに運ぼうとした訳だ。
 …誓って言うが、この時の俺にはカルナをどうこうしよう何ていう気はまったくなかった。だって、相手は俺よりも強く、何より仕事場の同僚なのだから。一時の気の迷いで半殺しになったり、仕事の空気が悪くなるのは俺としては御免蒙りたい。だから、俺はカルナをベッドに運んだ後はすぐ帰ろうと、本気でそう思っていたわけだ。

 ―しかし、そんな考えは捕まれた腕と酒に濡れた目で流されてしまった。

 カルナをゆっくりと背より下ろし、ベッドに横たえようとした俺の手を逃がさないようにカルナが掴んだ。そのまま何も言わないで、じぃぃっと見つめる瞳に…興奮で濡れ、目尻に少し涙を溜めた彼女の目に俺はどんどん引き込まれて…吸い込まれるように、キスをした。初めて味わう同僚とのキスは…とても甘くて、ぎこちなかったのを良く覚えている。きっとカルナにとっては初めての経験で…だからこそ「責任取りなさいよね…」なんて言ったのだろう。

 ―そこから先はまるで急流下りの様だった。

 そんな事を言われたら責任を取るしかないだろう?だから、俺はカルナの服を脱がし、全身を愛撫した。唇や胸だけじゃない。初めてで身体に緊張を走らせる彼女の為に耳や脇だって舌先でなぞってみたりした。そんな俺の努力は報われ、少し身体に力を抜いたカルナの処女をまんまと奪った俺は…そのまま何度も彼女の膣の中で果てたと言うわけだ。

 ―そして、今、冷静になった俺は明らかな佳境に立たされている。

 「如何考えたってまずいよなぁ…」

 我が同僚殿は魔物娘とは到底思えないほど真面目である。まぁ、デュラハンは魔王軍の中核をなす種族だからある意味仕方ないといえば仕方ないのだろうが…それにしたって性に対する反応は好意的とは言えない。城下町で濃厚に愛し合うカップルを見つけたら「家でやりなさいよっ」と説教するくらいだ。俺としては別に外でヤろうが、ペッティングしようが、『ここ』では特に普通なのだから、放っておいてやればいいと思うのだが、下手に倫理観やらが強い分、我慢できないのだろう。

 ―そんなカルナが冷静になったらどうなるか…。

 一発殴られるだけならまだ良いが、下手をすれば出会った時のように半殺しの目に合うかもしれない。倫理観が強いカルナにとって、恋人でもない二人が一夜を共にして同衾したなんて、許せるわけもないのだから。これが彼女から迫ってきてくれたのであればまだ言い訳のしようがあるが、実質、俺が襲い掛かったのであり、彼女は流されただけと言うのがまた事態をややこしくさせる。

 ―…いっそ逃げるか。

 ふと頭の中に浮かび上がったその考えを頭を振って否定する。…それは保身としてはそこそこかもしれないが、男としては最低の行為だ。半ば事故…と言うかレイプにも近いような形とは言え、一晩、愛した女を勝手に置いて全て夢であった、と片付けるのは罪悪だろう。せめて起きるまでは傍に居て、殴られるくらいの責任の取り方はするべきだ。…それで死ぬかもしれないが、まぁ、これだけ美人の女とヤれただけで十分お釣りは来る。

 「うぅ…ん………あれ…?」

 そんな事を考えていると俺の右側で、もぞもぞとカルナが身じろぎして目を開けた。そのまま思考が纏まらないのか半開きの目で俺を見上げて固まる。

 「…よ、よぅ。おはよう」
 「…おはよぉ」

 少し間延びした声で俺の声に応えながら、シーツしか纏っていないのもお構い無しにカルナは両手を広げた。まるで今からまた俺を受け入れようとしているようなその姿に昨日の情事を思い出して興奮しそうになるが、彼女の目に宿っていたのは欲情ではなく甘えのようなものに近い。普段はキリッとしているカルナの子供のような姿に、胸が高鳴りそうになるのを堪えながら、俺は何を求めているのかと首を傾げた。

 「…抱っこぉ」

 ―なるほど。良く分かった。

 察しの悪い俺を叱るように口を尖らせながらカルナは不機嫌そうに身を捩る。…とは言え、その目には未だ甘えるようなものが浮かんでいて、本気で不機嫌なわけではないのだろう。…本気だったら言葉よりも先にボディランゲージが飛んでくるだろうから。流石に自分から殴られる理由を作るつもりは無いので、大人しくカルナの身体を抱き、特に首をしっかり持ってやって抱き起こしてやる。

 「んふふ……良い子良い子」
 「あ、あぁ…ありがとうな」

 そんな俺のご褒美とばかりにカルナが頭を撫でてくる。少しくすぐったいその感覚は、外見が俺より二周りほど小柄で、そろそろいい歳になってきた俺よりも幼く見える彼女に子ども扱いされているからか、それとも剣術を齧っているのに異常なほど細く形の良い指先に触れられているからか、俺自身判別がつかなかった。…もしかしたら両方なのかもしれないが。

 ―しかし、体温高い奴だなこいつ。

 触れられている首筋や、胸板にはさっきからじんわりとした甘い熱が広がっている。昨日の甘い情事を思い出させるような、その熱はどろどろとした淫欲に俺を引きずり込もうとしているようにさえ感じるのだ。しかし、俺にその熱を送り込んでくるカルナは、そんな気はまるで無いようで単純に甘えるように胸板に抱きついている。その子供のような無防備な姿に、ぎりぎり押し倒すのを堪える事が出来ていた。

 ―…まるで別人だな。

 デュラハンは首が外れると『別人』のようになる…と聞いた事はあるが、俺がしっかり握っている首は外れていない。普段、必ずと言っていいほど身につけている首の固定具は昨日の情事の最中に放り投げているが、一部の隙も無いはずだ。多分。

 ―…と言う事は単純に寝起きが悪いのか?

 戦場で夜を共にしたのは一度や二度ではないとは言え、こうして寝起きを見る機会なんてあるわけがない。同僚とは言え、普段住んでいる区画も、戦場で一夜を過ごした場合の野営地も離れているのだから当然だ。だからこそ、今まで知らなかっただけで本当は何時もこんな感じなのかもしれない。

 「…フェイの胸…良い匂い…っ♪」

 ―まぁ、何が原因とは言え、こんな風に甘えるカルナの姿が見れるのは新鮮だ。

 甘えるように俺の背に手を回し、胸板の近くですんすんと鼻を鳴らすその姿は愛らしい子犬のようだ。主人に媚を売って沢山愛してもらおうと、可愛がってもらおうとするようなその仕草に朝勃ちが萎え始めていた俺のムスコは敏感に反応し、むくむくと鎌首を擡げ始める。

 ―静まれ…!俺のエクスカリバー!!!

 心の中でそう念じようとするものの俺のムスコは反抗期のようで、中々言う事を聞いてくれない。自然、硬くなったモノは抱き合ったカルナの下腹部に当たり、彼女に気づかれてしまう。

 「んふふ〜…♪…なぁにこれ…?」
 「さ、さぁ?なんだろうな」

 ―つか、これだけ魅力的な身体を押し付けられて反応しないわけないだろうが。

 ヤりたいざかりのガキならば、何も考えず今すぐ襲い掛かってもおかしくないであろう肉付きの良い肢体がシーツ越しに押し付けられてるのだ。反応しないのはホモか不能か爺かのどれかしかないだろう。…そして残念ながら俺はその全部とも違うのだ。

 「こんなに大きくしちゃってぇ…私といやらしい事したいの…?」

 その瞳に甘えるものだけでなく悪戯っぽそうなものも浮かべて、カルナは耳元で囁いてくる。同時に下腹部を押し当て、左右へと擦るような動作を加え、挑発するように微笑んだ。昨日、俺の下であんあん喘いでいただけの女とは思えないほど、情欲をそそるその笑みは俺の心を鷲掴みにして離さない。抵抗しようと言う気もなく、寧ろこのまま彼女に任せて射精したい…そしてその後にこの情婦を思うがまま貪りたい、と言う気さえ、起こるのだ。

 ―けれど、まぁ、世の中、そんなに良い話があるわけもない。

 目覚めの悪いカルナも段々、自分のやっている行為に気づき始めたのだろう。その目にはいつものように理性が灯り始め、左右に腰を揺らしていた動きは止まり、俺の背に回した手も震え始めた。

 ―まずい。逃げなければ。

 そう本能が囁くがとっくに逃げられる時間は過ぎている。ついでに言えば甘い後朝の時間も。ここから先は懺悔と禍根の時間だ。

 「…な、何でアンタがここにいるのよ!?」

 驚いたように俺の顔を見据え―けれど、俺の背に回した手は離さないまま―カルナが言った。まだ記憶が混乱から立ち直っていないのかその目は純粋に驚きと、そして多分、寝起きのあんな姿を見られたという羞恥に強く彩られている。

 「何でって言うか…」

 ―まさか昨日、送り狼してそのまんま襲っちゃいましたなんて言える訳もなく…。

 けれど、それ以上の説明が無いのも事実だ。やはり男として最低限、情事の言い訳や言い逃れなどするべきではないのだから。

 ―それにこれ以上無い状況証拠が山ほどある。

 例えばシーツに着いた破瓜の血から杜撰に脱ぎ捨てられたお互いの服。裸で朝を迎えるカルナの首筋には昨日、俺がつけたキスマークが着いてるし、俺の背中にはカルナの爪で引っかかれた男の勲章もある。
 これだけ揃っていれば今、言い逃れしてもすぐに気づかれるのも自明だ。

 「昨日の記憶は何処まである?」
 「アンタと一緒にお酒飲んで…潰れた辺りまでしか思い出せない。…って言うか、何時までくっついてるの変態っ!」

 ―いや、くっついてるのはお前もだろ。

 そんな反論をする暇もないで、カルナはすばやく俺の身体から離れていった。じんわりと首の後ろと、胸で広がっていたカルナの熱が取り除かれ、何処か寂しいような、寒いような気持ちになってしまう。まぁ、きっとそろそろ秋に入るかと言う時期だから、気温も下がっている所為だろう。
 そして、そんな感情に首を傾げる俺とは対照的に、カルナは自分一人だけシーツを胸元に引き寄せたまま―ちなみに、動揺していて気づいていない所為か完全に胸が隠れておらず、形の良い乳房が片方安全に露出している―、ちらちらとこちらを真っ赤な顔で窺っている。その視線を追ってみると…どうやら俺の股間のエクスカリバーがカルナの関心を惹いているようだった。

 ―普段ならここで、からかいの一つでもしてやるんだが…。

 残念ながら流石にここでボケてやるほど俺の心臓に毛は生えていないし、デリカシーが無いわけではない。昨日の情事の最中の反応と、そして血から、カルナはきっとこういった経験は初めてなのだろうし、素直にパンツの一つでも履いてやるべきだろう。

 ―っと、パンツパンツ…っと。

 探し物はベッドの脇に杜撰にほうり投げられている衣服とは違い、ベッドの上に脱ぎ捨てられている。昨日の記憶が確かなら、挿入直前に先走りで濡れた感覚が気持ち悪くて脱いでいたはずだ。その感覚までも思い出し、頬を引きつらせながら持ち上げたそれはまだじっとりと濡れている。

 ―部屋に帰らなければ下着もねぇしなぁ…。

 気持ち悪いが、今はこれを履くしかない。そう結論付けて、身を隠すものが何も無い場所で一人ごそごそと使用済みの下着を身につける。

 「…って、何でアンタ裸なのよっ!」
 「いや、今更かよ」

 今、気づいたって言うよりは、ようやくその言葉が出てきたって感じだろうが、だからって反応が遅すぎる。どれだけ俺のムスコを夢中で見つめてたんだよお前。

 ―そう思うと何かすげぇやらしいな。

 いや、俺に露出狂の気はないが、反応が遅れるほど夢中でムスコを見つめてくれていたと思うと、男としての自尊心を刺激される。娼婦がよく言うたくましいだの、なんだのと言う着飾った言葉よりも、何の混じり気の無い行動一つに、俺の肉棒は誇らしげにその身を反り返させるのだ。

 ―しかし、こうなる前にパンツを履いてて良かった。

 さっきまでのカルナならばともかく、今の彼女相手に本気で勃起してしまったらどんな化学反応を起こすか分からない。今はどうにも大人しいが、暴発してしまえば、俺の首なんてあっさりと吹き飛ばされてしまうのだから細心の注意を払わなければいけないだろう。

 「…まぁ、裸だったんだよな。お互い」
 「……まぁ、その、それは分かるわよ?」

 真っ赤になりながら俯くカルナの手は少し震えて、シーツが少し波打った。…恐らくはカルナも記憶がないにしろ大体、何が起こったのかを察しているのだろう。元々、洞察力や推察する力に優れているのだから、寝起きや出会い頭の混乱さえ無ければ、すぐさま気づいていてもおかしくはなかったのだ。

 ―でも、それを口にしないという事は…恐らくは信じたくない…って事なんだろうな。

 昨日までただの同僚で、からかわれたりした男とこんな仲になってしまうのなんて、そりゃ信じたくはないだろう。主犯である俺でさえ、夢なんじゃないかとさえ思ってしまうのだから。カルナにとっては、夢であって欲しい、と言う気持ちの方が恐らく強いに違いない。

 ―だからこそ、俺が言わなきゃいけない。

 「で、まぁ、その…潰れたお前をこの部屋に運んでだな。ベッドに寝かせて自分の部屋に帰ろうとしたら、ぎゅっと裾を掴まれて…見つめられて、そのままホイホイと…」
 「そ、そう…」

 そう言って、俯いたまま何も言わないカルナの顔が赤いのだけは何となく分かる。けれど、その表情までは明確に把握できなかった。気まずいのか、怒っているのか、自失となっているのか…どれもありそうなだけに言葉が出ない。そのまま数十秒ほど迷った後、俺は慰めにもなりはしない一言を口に出す。

 「その…俺で良ければ責任…取るから」
 「せきにん…?」

 緩やかな動作で顔を上げたカルナの目尻には小粒の涙が溜まっていた。

 ―え?涙…って…え?カルナが泣いてる?

 戦場でどれだけ傷を負っても涙一つ見せず、果敢に戦う女傑が、俺よりも強くて意地っ張りだけど優しい同僚が、俺を叩きのめして捕虜にした後、この愉しくも変わった軍に引きずり込んだカルナが、泣いている。
 その現実が、怒っているものだとばかり思っていた俺の心を酷く打つ。…いや、打つという表現は適切じゃないだろう。胸の中で荒れ狂い、なんと名づけていいのか分からない感情の波が自責となって襲い掛かってくる。まるで沢山の針が心臓にぶっささったように感じる感覚は、俺を自失へと叩き込んでくれた。

 「…なら、今は一人にして」
 「いや、だけど…」

 泣いている女を一人にして良いのか、と言う男として当然の気遣いのようなものはある。けれど、それよりも大きいのは贖罪の念だった。俺がカルナを泣かせたのであれば、その責任は取るべきだ、と言う自分勝手な感情である。…そしてそれを見抜かれたのか、カルナは小さく首を左右に振って、拒絶した。

 「…泣いてる顔は……見られたくないの…」
 「あ、あぁ…」

 その言葉に俺は何も言えない。言える訳が無い。今までガキのようにカルナをからかってきて万の罵りの言葉を受けたが、今の拒絶の言葉一つで俺の心は完全に打ちのめされてしまった。バキバキと、心の中の何かが折れる音が聞こえ、マトモな思考一つできなくなってしまう。

 ―せめてカルナの望みは叶えてやらなければ…。

 そう心の中で思うものの、本当はこの居たたまれない空間から今すぐにでも逃げ出したかったのが本音だったのかもしれない。…本当のところは俺にも分からないのだ。未だ胸の中で嵐のように暴れる感情は収まるところを知らず、そのほかの感情を巻き込んで、どんどんと激しくなっているようで、自分の気持ち一つまともに察することが出来ないのだから。

 「じ、じゃあな」

 しかし、そんな俺でも、ぎこちないながらに自分の服を纏めて、部屋の扉に手をかける事くらいは出来たようだ。声をかけながら後ろを振り向くと…聞こえていないのか、それとも聞いている上で無視しているのか、シーツをかぶせた膝に、腕と頭を預けるようにしてベッドの上に座っているカルナは、何の反応も示していない。嗚咽の声は聞こえないが、恐らくは我慢しているだけなのだろう。…そしてそんな風に我慢させているのも俺なのだ。変な未練は見せず、今すぐ部屋から出てやるべきだろう。

 ―バタン。

 そう扉を閉めた音を知覚した瞬間、俺はずるずるとその場から離れるように移動する。…しかし、どうにも足が持ち上がらず、その歩みは大ナメクジのものとそう大差ないだろう。裸で衣服だけ持って、虚ろな目で移動する俺を、時折、魔物娘やその旦那が珍しそうに見ているがそう理解して尚、衣服を着る気分になれない。…そして、その内、視線よりも暴れる感情に心を奪われていた俺はついに堪えきれなくなって足を止めた。

 ―ま、まさか泣くなんて…泣くなんて…。

 怒られるのは覚悟していた。半殺し…場合によっては殺される事だって覚悟していたのだ。だけど、あのカルナが泣くなんてまったく予想していなかった。何時も俺のどんな下ネタやからかいにだって、泣くことは無く、怒って反撃するカルナが、…いや、勿論、それとはレベルが違うわけだが、泣いたところなんて今まで、一度もみたことが無いあのカルナが…まさか…。

 「うぅ…」

 ―そんなに…泣くほど嫌だったのか…。

 いや、勿論、俺とカルナの関係はただの同僚だ。特別だったり、甘かったりするものではない。少しだけ他の同僚より仲が良いだけの、ガキのようにちょっかい出す俺をカルナがあしらうだけの関係だ。だから、無論、喜んでくれるとは思ってなかった。でも、泣かれるほど嫌がられるなんて…いや、やっぱり女にとっては始めては特別なものなのだろう。…出来れば好きな相手にささげたい、と思うのは当然のことで………好きな相手…?

 ―カルナに好きな相手…だと…?

 そんな素振りはまったくなかった。俺が知る限り、マトモな接点がある独身の男なんて俺くらいで、他には既婚の男と戦場で一緒になるくらいのはずなのだ。…いや、待て。そんな男の一人に横恋慕してるのかもしれない。カルナは意地っ張りで、素直になれない…だが、それが少し魅力的な女だから横恋慕してて言い出せないまま、影からこっそりと想っている相手がいたのだろう。

 ―そんなカルナの処女を半ば強引に俺が奪ってしまったわけで。

 …ふと窓を見ると、外には果てしない地平線が見えていた。そこそこの重要な戦力であるデュラハンの騎士団はこの広大な魔王城の中でも、上部に部屋が用意されていて、窓からは紫色の葉をつける木々を越えて、地平線を見ることが出来る。その高さは結構なもので、入り口から階段でここまで上ってくるのは鍛えた人間でも、そこそこ重労働だったりするのだ。

 ―そしてそんな高さから飛び降りれば死ねるだろう。

 そう思って、窓を開き、窓枠に手をかけようとした俺を周りに居た魔物娘やその伴侶がいっせいに飛び掛って、押しとどめる。それを離そうとしても、全員が全員、歴戦の勇士なのだ。それだけ囲まれてマトモな抵抗が出来る訳が無い。しかし、それでも尚、責任ある死と言う逃げを求める俺の心は身体に今までに無い力を込めて暴れさせる。

 「馬鹿な真似はよしなさい!」
 「後生だっ!死なせてくれええええええっ!」
 「暴れるな!くそっおい、誰か人呼んで来い!!!」

 そして、魔王城の上部は朝っぱらからちょっとした大騒ぎになってしまったのである。













  自殺さえ止められて数日…その間、俺の生活は地獄そのものだった。俺が道を歩く度に、噂を聞いているのか、酷く注視され、今にも飛び降りるのではないかと身構える魔物娘も少なくない。親しい相手と話すのにも何処か腫れ物を触るように接されるのが、ここ数日続いているのだ。これで辛いはずがない。

 ―まぁ、それは自業自得なんで仕方ないんだが。

 既に耐え難い自殺衝動は鳴りを潜め、何とか元の生活にも戻れるようになった。寧ろ事情を知って、俺の顔を見る度に身構える魔物娘やその伴侶に、申し訳ない気持ちすらある。…だから、辛いと感じるこそあるものの、問題はそれではない。

 ―問題は、俺が謹慎を受けてるって事で…。

 あの日、自殺騒ぎを起こした俺は城の中で待機を命じられた。当然だろう。死にたがりを戦場に連れて行くほど危ない事は無い。普通の価値観で図れない奴は何時、どんなキッカケで暴走するか分からないのだ。それが本人だけを殺すならまだしも、時として仲間をも殺す猛毒にもなりうる。だからこそ、死にたがりはどんな場所でも戦う組織であれば忌避されるのだ。

 ―だけど、その間にも戦いは起こるわけだ。

 教会と絶賛戦争中の魔王軍にはあまり長い休暇は無い。今回も俺の自殺騒ぎの後、急遽侵攻してきた教会軍に対抗する為に出撃が決まった。自然、そうなると謹慎中の俺をおいて、同僚は皆、戦う為に出て行く。…そしてその中には無論、俺が傷つけたカルナも含まれるのだ。

 ―戦場で一緒にいれる内はまだ良い。

 けれど、今の俺は後方の安全な場所でぬくぬくしているだけなのだ。カルナと共に戦うことも、護ってやることもできない。…無論、カルナは俺よりもずっと強いわけだから、俺が護られる事も多いだろう。傷つくことも少ないと思う。…けれど、そんな理屈では、俺の中の焦燥を抑える事は出来ない。どうしても俺の見ていないところで、最悪の場面を想像してしまうのだ。

 「はぁ…」
 「おいおい。人の前でため息吐くなよ」

 呆れた様に言いながら杯を傾ける隣の男は間違いなく美形と言えるだろう。純金のような染み一つない金色を惜しげもなく晒す長い髪は、それだけで見る人の目を惹きつける。長いのに枝毛一つさえ出ていないその髪は三つ編みにされて、ダラしなく男の背に垂らされているはずなのに、それがまた絵になるのが、同じ男として理解できない。ターコイズブルーの瞳は、まるで珊瑚礁をその身に孕む海のように澄んでいて、何処か浮世離れしたイメージを与えていた。初心な娘であれば、見つめられるだけでも心奪われそうな優しい瞳は、実際、それだけ多くの女を毒牙にかけてきたのを俺だけは知っている。それだけでも見る人の目を釘付けにするだろうに、目立ちも鼻筋もしっかりしているこの男はまさに神話から出てきた英雄や、王族と言われても多くの人が納得するだろう。
 そんな美形の男…かつて俺と同じ傭兵団に所属していたハンスが今、黒の染料で染められたシャツとズボンだけと言う、ラフな部屋着で俺の隣に座っているのは―まぁ、少しおまけはあるが―ちょっとした理由がある。

 「仕方ないだろ。こっちは大変なんだ」
 「大変…ねぇ」

 目を閉じて、全て見透かしているような笑みを浮かべるその姿でさえ絵になる。俺たちが居るのは場末の安酒を提供する酒場のはずが、この男がそんな表情をするだけで、何処か華やかさが広がるのだ。

 ―まったく。この野朗、生まれ変わる時に死神でも買収したんじゃねぇか?

 そう思うほど、ハンスの美しさは抜きん出ている。才能も人並み以上だし、性格も…少しばかり女癖は悪かったのは矯正されて、単純に良い奴だ。…少なくとも、こうして自殺騒ぎまで起こした昔馴染みを酒場に連れ出して、愚痴を聞いてくれる程度には。

 「俺にはそれはとても単純で贅沢な悩みに思えるがね」

 笑いながら、杯を揺らすハンスにちょっとした反発を覚えるのは仕方ないだろう。衝動的に自殺と言う手段を選んでしまうほど、思い悩んでいる悩みを単純だの贅沢だの言われれば、誰だってきっとそうなる。…だから、俺はまるで拗ねたガキのように唇を尖らせて、嫌味を口の端に上らせてしまうのだ。

 「嫁に捕まるまで女にモテ続けたてめぇにゃ確かに取るにたらない単純で贅沢な悩みだろうよ」
 「おいおい。別にそう言った意味で言ってるんじゃない。…と言うか、それは特に問題じゃないだろ」

 ―何がだよ。

 カルナには好きな相手が居て、俺はそれを知らずに彼女の処女を散らせてしまったわけだ。そして、マトモに顔を合わせたり、謝ることもできないまま、カルナは戦場で戦っている。俺にはどうしようもない場所で、だ。その悩みがどうして問題じゃないというのか。俺には理解できない。

 「…もしかして本気で気づいていないのか?」

 呆れたように、と言うか、本当に驚いたように目を見開いて、俺を見つめるその面は一発殴ってやろうと言う気さえ起こらないほど無様なものだった。本気で気づいていない、と言う内容がどんなものかは知らないが、それはこの何より体面を気にする男から、そんなポリシーさえ奪ってしまうほどのものだったらしい。…それに、少しばかりの満足感を感じながら、俺はとりあえず素直に頷いた。

 「どれだけガキなんだよお前」

 次にハンスが浮かべたのは呆れたような、でも、何処か羨ましげな笑みだった。例えるならそれは、もうとっくの昔に純情なんて捨てた俺たちが他愛無い悪戯をして怒られる子供を見るようなモノに近い。もう手に入らない事を知って、羨ましがっている、と感じたのは、こいつの言葉からもそれほど的外れな予想ではないと思う。

 ―しかし、何が羨ましいのかね。

 ハンスは突出した美しさと人並み以上の才能を持っている。それは剣の腕でもあるし、音楽の才能だってそうだ。料理を含めた家事だって、完璧に近い。さらに、外から見ててもちょっぴり嫉妬深いと感じるが、美人な嫁に捕まっているこいつが俺の―剣の腕はこいつより上ではあるが、世の中には俺以上の化けモンなんてゴロゴロいる。顔立ちは、男臭いモノで傭兵その4辺りがお似合いだろう―何処が羨ましいのか予想もつかなかった。

 ―俺がハンスに羨ましがられる要素…ねぇ…。

 少し振り返って考えてみるもののハンスが俺に羨ましいと感じるほどの要素なんて結局、見つからなかった。その心の動きが目の前の男には手に取るように分かったのだろう。ため息をついて、杯をくるくると手の中で弄び始めた。

 「やれやれ。こんなに自分の事にも相手の事にも鈍感じゃ彼女の苦労が思い知れるな」
 「ほっとけ。馬鹿」

 ―俺自身そう思ってるよ。

 確かにもう少し敏感であれば情事の最中に、懸想する男の存在を感じ取れただろう。そうすれば、彼女も俺も傷つかずに済んだ。知らないで行う悪事ほど、害悪なモノは無い…と言うが、まさにその通りだろう。そして、俺がやったのは、そういう害悪そのものの行為なのだ。

 「はぁ…」
 「まったく。また変な風に考えてるなお前」
 「変な風って何なんだよ」

 ―少なくともそう的外れの考えではないはずだ。

 「そう落ち込むってのが変って言うんだよ。…まぁ、良いか。そのままだと一生、気づかなさそうだから少し手伝ってやるよ」

 苦笑しながら、ハンスはきっ、と俺の方へと顔を向けた。今までは安酒を傾けるついでくらいに、俺の話を聞いていた奴が、いきなり真面目な顔つきになって、こっちに向くものだから思わず背筋を伸ばしてしまう。…こう言った点はやはり美形と言う特性を持つ奴の利点だろう。少なくとも、俺が奴のように人を見据えたとしても、人はこうやって真面目に聞く姿勢は取ってはくれないだろうから。

 「まぁ、最初から行こうか。何で彼女と寝たのを後悔するんだ」
 「何でってお前…決まってるだろ?」

 そんな事はこの酒場に来てすぐくらいに吐露してるはずだ。今更、こんな風に応えるようなものでは無いだろう。…しかし、そう思う俺とは違い、ハンスには何かしら考えがあるらしい。相変わらず、じっと俺を見つめて、反論を許さない。

 ―こうなったこいつは頑固なんだよなぁ…。

 昔から、女癖は悪いくせに人の悩みだけは誰よりも真摯に受け止め、解決しようとしてきたのだ。例えば夜の酒場へと現れた物憂げな女の悩みを、夜通し聞いてやったり、優しく諭してやったりもしているのを覚えている。それは必ずしも下心だけから来ている物ではなく、何かしらのトラウマのような過去から来ているのは何となく察しが着いてはいるものの詳しくは突っ込んでいない。

 ―まぁ、それは俺よりも嫁さんの仕事だろうしな。

 俺にとっての問題は、そんなトラウマを持っているかもしれない所為で、この男は本当の心を吐露するまで俺を離してくれないだろう、と言うことだ。どれだけの偽りを並べたとしても、この男の瞳はそれを見抜き、想いを口に上らせるまで逃がさないだろう。

 ―それなら素直にこいつの言うとおりにしたほうが良い。

 「そりゃカルナに好きな相手がいたからで…」
 「彼女がそれを言ったのか?」
 「いや…。でも、泣いたんだぞ?あのカルナが、どんなちょっかいだしても泣かなかったあの女が、泣くほど嫌だったんだぞ?」

 思わず目尻に小さく涙粒を浮かべたカルナの姿が脳裏に浮かんだ。それだけで俺の心は軋み始め、痛みを訴える。しかし、ハンスにとっては、それはお見通しだったようで、その考えを拭うように右手をふらふらと振った。

 「女の涙ってのは悲しい時だけに流すモンじゃねぇよ。本当に嬉しい時だって泣くんだぜ?」
 「そんなの……嬉しい訳ねぇだろ。俺はただの同僚なんだぜ?」
 「じゃあ、聞くが、お前の知るカルナってデュラハンは、ただの同僚をほいほい部屋へと上がらせるほど安い女なのか?」
 「それは…」

 ―それは違う。

 確かに泥酔こそしていたもののカルナの意識はしっかりあった。自分が酔いすぎていた事を自覚して、部屋に送ってくれと言ったのもカルナなのだから。けれど、それは決してカルナが安い女であるという証左ではない。断じて。…きっと俺が何もしないと信じていたくれていたのだろう。

 「お前は純粋すぎるんだよ。女ってのは案外、打算的だz…グェ」

 まるで鳥が首を絞められたような声は無視する事にする。少しばかり強めに締め付けられながら、必死に真面目な顔を保とうとしている奴の努力を無駄にするのも可哀想だと思ったし、何より、突っ込んでしまったら永遠に戻って来れなくなってしまいそうだからだ。

 「カルナはその辺に転がってる女と一緒じゃねぇよ」

 カルナは何時だって努力しているのだ。休暇でさえ毎日剣を振るって、日々強くなろうと努力しているし、物事をより広く考えられるようになろうと様々な分野の知識を身につけようとしている。根を詰めすぎて、倒れる寸前まで身体を鍛えたり、本を読みふけっていたのは一度や二度ではない。それがなんとも痛ましくて、この俺がちょっかいをかけ始めるほどなのだから。それほど努力し、自分を鍛え上げ…そして護れなかった命を思って一人陰で泣くような女が、その辺にいる有象無象と一緒のはずがない。

 「それはお前に取ってか、それとも一般的に、か?」
 「そりゃ勿論…」

 ―…あれ?何で応えられないんだ?

 そりゃ勿論、カルナは良い女だとは思う。元々傭兵として各地を転々としてきたこの俺は純粋な善意だけで、ちょっかいだすはずはないのだから。勿論、最初は下心が山ほどあった。けれど、今は、カルナと言う女の凄さに圧倒されて、そんな気持ちは無い。…そのはずだ。少なくとも、ただ、性欲を向けるだけの対象ではない…と思う。

 ―じゃあ、なんで俺、カルナと寝たんだ…?

 確かにぎゅっと袖を掴まれた時のあの瞳に吸い込まれた…それもある。それも勿論あるが…けれど、それだけとは言いがたい。他の女であれば…魅力的な美女ばかりが揃うこの魔王城でも、カルナ以外の女とそんな風になる光景が想像できないのだ。カルナ以外であれば適当に寝かしつけて、とっとと部屋から出て行くだろう。

 ―え?いや、ちょっと待て。これってまさか…。

 「ようやく気づいたか鈍感馬鹿」

 にやりと意地の悪そうな笑みを唇に浮かべて、ハンスは俺から視線を外した。まっすぐに俺を射抜いていた目がなくなり、何処か身体が軽くなったような感覚を感じるが、それよりもさっき気づいた事実に、俺の身体はまるで釘付けになったように動かなくなる。

 ―…いや、だって、カルナのことが好きだなんて…なぁ。

 何度も言うがカルナは勿論、良い女だ。あれほどの上玉、そうそうお目にかかれない。それは容姿的なモノだってそうだし、性格や、その一本芯の通った姿勢も含めてだ。様々な魔物娘が山ほど居る広大なこの城の中にはそりゃ、カルナに匹敵したり、それ以上の良い女が居るかもしれないが、俺にはちょっとカルナ以上の良い女と言うのは思いつかない。

 ―っておい。ベタ惚れじゃねぇかよ俺…っ!!!!

 思わず顔に火がついたような熱を感じる。それは…きっと飲んでいる酒の所為ではないだろう。俺は比較的酒には強いほうなのだから。

 「大体、好きな女のちょっかいかけて、興味を惹こうとしてる時点で何処の悪ガキだよって感じだよな」
 「うっせー!ほっときやがれ!!!」

 そんな俺を見てにやけた笑みを浮かべる奴に叫びながら、俺は手の中の発泡酒をぐいっと煽った。咽喉の奥へと独特の酸味と苦味が混じった液体が流し込まれて、顔の熱がまた一段と強くなる。身体の隅々まで広がるような熱を感じ、少しだけ落ち着いたのを自分で確認しながら、俺は熱を持ち始めた額に手を置いた。

 ―そこはまるで熱病にでも浮かされたような熱を持っている。

 けれど、それはあまり嫌ではなかった。何処か浮世は慣れしたようなふわふわとした感覚と、羞恥と興奮、そしてアルコールで引き出された熱は何処か心地良い。女なんて今までに娼婦しか知らず、初恋もしてないからだろうか。どうにも現実味の無い夢のような感覚だった。

 ―ってそれは良いとしてだ。問題は…。

 「ど、どうしよう…?」
 「…は?」
 「だ、だって、俺は好きな女にあんな酷い事をしちまったんだぞ…?」

 ―そう。問題はそこだ。

 無論、俺がカルナの事を異性として好きだった、と言うのも問題ではあった。けれど、それは認めてしまった今、そう大きな課題では無い。寧ろ、自分自身で認めた分、何処かすっきりした感覚さえある。

 ―だから、問題はこれからどうするかって事で…。

 けれど、俺はついこの間、あんな真似で、カルナの信頼を裏切ってしまったわけだ。元々、プラス寄りではあったかもしれないが、あの一件で彼女の心象は大きくマイナスに傾いてしまっているだろう。そこからどう挽回すれば、カルナと元の関係に戻れるのか、俺には想像もつかない。…だから、俺は目の前の百戦錬磨のハンスに教えを乞おうと口を開いた。

 「教えてくれ。俺はどうすれば良い?」
 「とりあえずつい数分前に俺の言った言葉を思い出せばいいと思うぞ」
 「俺を好いてくれてるかもって奴か?信頼はあったにしても、好意はないだろ」

 呆れたように言うハンスから視線を外して、俺は目の前の発泡酒に目を落とした。原色の黄色を透明に近づけたような液体の向こう側には底が見え始めていて普段であれば、もう一杯注文している頃だろう。けれど、今の俺はどうにも酒をまだ飲み続ける気分にはなれなかった。初めての恋に戸惑っているからだろうか、それとも今の想いを酒で薄めたくは無かったのか…俺自身、判別がつかない。

 「俺は脈アリだと思うが…そんなに気になるなら知ればいいだろ」
 「何をだよ?」
 「彼女の事を、さ。お前、デュラハンについて、何処まで知ってる?」

 他の魔物娘たちと違って、デュラハンの外見は人間に限りなく近い。サキュバスのように尻尾や羽が生えているわけでも、バフォメットのように動物の四肢を持っているわけでもないのだ。肌は精霊と呼ばれる類の魔物娘たちとは違い人間っぽい―とは言え、ちょっと白過ぎる気もするが―モノだし、数々の魔物娘の中でも一番人間に近い種族だろう。一般的に言う魔物娘のように所構わず男を襲ったりする訳でもなく、人間と比べて尚、真面目な一面が強い。無論、個体差はあるが、大体のデュラハンは騎士の名に相応しい連中だ。そんなデュラハンの特徴と言えば…数えるほどしか思いつかない。

 「首の外れる魔物娘で、弱い固体でさえ普通の人間とは比べ物にならないほど強いって事くらいしか…」
 「その首が外れるとどうなるか知ってるか?」
 「別人格になるって言う噂は聞いたことあるがな」
 「そりゃ間違いだ」

 ガラスで作られた杯をカウンターに置いて奴は、突き出しの果実を摘んだ。魔界の魔力で汚染されきった土壌に育てられた果実は、一口、口にするだけで身体が燃え上がるほどの興奮を得る。相手の居ない人間は興奮している所を魔物娘にお持ち帰りされて結婚まで一直線になりかねないので、口にする事は殆ど無いが、その果実は口の中が蕩けそうなほど甘く、栄養価も高いらしい。風俗や娼婦があれば後腐れなく口に出来るだろうが、この魔王城にはこれだけ好色な魔物娘たちが揃っているのに、風俗や娼婦の類は一切無い―恐らくはそんな所に世話になる前に嫁に捕まってしまうだろうから―ので、甘い甘いという噂だけ聞いても、実際に口にする独身男はまずいないのだ。…勿論、俺も相手なんて今まで居なかったので、それを口にする機会はなく、そして今も口にする訳にもいかない。

 「デュラハンはあの首で精が漏れ出たり、感情を押さえ込んでいるんだよ。まぁ、つまり…すげぇ意地っぱりって事だ」

 果実を口に含みながら、同じ意地っ張りのメドゥーサを嫁に持つツンデレのエキスパートがそう言った。口の端に少し笑みを浮かべているのは嫁との馴れ初めを思い出しているからだろうか。嫁に足だけ石にされて逃げられないまま、数ヶ月ほど監禁されていたハンスとその嫁の馴れ初めは、決して微笑ましいものではないと思うのだが、こいつの度量が凄いのか、それとも数ヶ月の監禁生活で螺子がぶっ飛んだのか、時折、こんな笑みを浮かべながらハンスは惚気てくるのだ。

 ―まぁ、触れないほうが良い事もあるだろう。

 その監禁生活の反動か、今もこうして俺と話す横で嫁に巻きつかれて、幸せそうにしている現実も含めて、世の中には知らないほうが良い事って奴があるのだから。

 「つまり…その首を外すと…?」
 「そう。感情をそのままストレートに表してくれるって寸法さ。簡単だろ?」

 片目を瞑って、笑みを浮かべながらこいつは指先で果実をもう一つ摘んで、嫁へと差し出した。それを少し迷った後、口を小さく開けて、幸せそうに頬張るメドゥーサの姿を見ると、もう何も言えない。彼らにとって、これが自然体であるという事を見せ付けられ、気にするほうが馬鹿らしくなるのだ。それに二人きりの時間を過ごすはずだったのが、俺の相談で割かれているのを敵視して、彼女の髪でもある蛇が何匹か俺を威嚇しているし、それだけの不満を持ちながらそれを彼女自身が我慢して口を挟まないままで居てくれているのだから、下手に刺激するのも危ない。

 ―しかし、まぁ、…簡単に言うよな。

 首を外す…と言うが、相手はデュラハンだ。真正面から挑んだのでは返り討ちが関の山である。普段は首の留め具を身につけているし、外れる所なんて見たことは無い。…まぁ、こいつの言葉が正しければ、意地っぱりである所のデュラハンにとって首が外れるのは死活問題なのだろう。少なくとも一般的な生活の中で首を外すようなヘマはしないはずだ。…そして無論、首を外してくれ、と言って外してくれる訳もない。

 ―何より、もっと大きな問題があるのだ。

 「けど、もし、それで嫌いって言われたら如何すれば良いんだよ…」
 「お前はどれだけへタレなんだ…」
 「仕方ないだろ!初恋なんだから!!!」

 そう。俺にとっては初恋なのだ。初恋は実らないもの…と言う話は聞くが、この歳で初恋の相手に嫌いと言われるのは色んな意味でキツ過ぎる。何より俺とカルナは同僚なのだ。明確にはっきりと嫌いと言われた相手とほぼ毎日、顔を合わせる事になったら職場の雰囲気もぎくしゃくする。勿論、そうなったらすぐに転属願いを出すが…その間の居たたまれないであろう空気を思うと、胃が重くなるほどだ。だから、出来ればもうちょっとソフトな…遠回りでも良いので好意を確認できる方法が欲しい。

 「って言っても他には……なぁ」
 「………無いのか?」
 「いや、あるっちゃあるんだが…」

 珍しく言いよどむ奴の顔は本当に悩んでいるようだった。唇に右手の人差し指を当て、視線をあっちへやったりこっちへやったりして、しばらく迷った後、ハンスは腰に下げた皮袋から一つの果実を取り出す。それは少しばかり形が悪いのか歪んでいて、円形…と言うよりはハートのような形に近い。皮の色は明るいピンク色で、光を反射してとても艶やかだ。奴の掌の上でふるふると震える様子から柔らかいのが一目で見て取れるが、その輝きは宝石に勝るとも劣らないほどだ。見るからに美味そうな果肉がぎっしりと詰まっているのを教えてくるその果実は、俺にとって見た事は数多くあれど食べたことは無い代物だった。

 「虜の果実って知ってるか。魔物娘たちが美容の為に食べる果実なんだが…」
 「あぁ、城下町の中で売ってる奴か」

 それはこの魔王城では割とポピュラーな食べ物だ。…ただし、魔物娘専用のモノとして。魔界の汚染された土壌で育ったこの果実は奴の言うとおり美容と強壮の効果を強く持ち、魔物娘にとても人気が高い。しかし、同時に、何故か男が食べるのには責任が持てないと注意書きをされているのでも有名だった。禁止されてる訳では無いので、何人かそれを口にした男も知り合いの中にはいるが、皆、一様に口を噤み、「あれを食べる時は気をつけろ」と言う。反応からして強力な媚薬の類だろうと思ってはいるものの、怖くて食べる事は今までしていなかった。

 ―しかし、そんなものをどうして持ってるんだ?

 嫁へのプレゼントだったにしては、まだその果実は瑞々しい。元々、傷つけられない限り、そこそこの日数が持つその果実ではあるが、その瑞々しさはまるでたった今、露店で買ってきたのかと思うほどだった。

 「これを男が食べるとな。すごいフェロモンが出るらしい」
 「フェロモン?」
 「いや、俺も見えるわけじゃないんで分からないが、その男を好いた魔物娘にとってたまらないんだそうだ」

 ―流石にそれは都合よすぎじゃないか。

 そうは思うものの、何処かありえないと否定しきれない。…と言うか、エロで世界を征服しようなんて真面目に考えている俺らの上司様の気まぐれで、かつて人間の敵でしかなかった魔物は全て美しい魔物娘へと変わり俺たちの隣人として生活しているのだ。それよりは好いた娘にだけ感じられるフェロモンが出る果実…の方がまだ現実的な気さえする。

 「まぁ、効果の程は太鼓判を押すよ。これのお陰で俺の嫁も何度か機嫌を直して…イタイイタイっ!ちょ…締めすぎ…っ!」

 一目で分かるほど顔を膨らませたメドゥーサが締め上げているのはやはり抗議の意味合いを含めているのだろう。じゃれあいにしか見えないその様子は、実際にそうやって誤魔化された経験からきているのかもしれない。

 ―…となると、これはやっぱり本物で効果があるのか。

 そう思うと、奴の手に乗る果実が妙に神々しいようにさえ感じる。まぁ、俗に言う神様と言う存在の持つ真逆の力で育った果物なのだが、俺にとってはあるかどうかも分からない神様の奇跡よりもこういった実際に効果のあるアイテムの方がよぽど有難い。

 「ま、まぁ、これは選別としてお前にやるよ。ただし、食べるのは彼女と二人きりの時にしろよ」

 手渡されたその果実は、手ごたえのような重さを俺の腕に与えた。それを確かめるように少し上下させながら、息を大きく吐くと、少しだけ浮ついた気分と漠然とした不安が消えていく。さらに酒でどろどろとさせられていた思考が、少しずつ晴れ、身体に力が戻ってきたような気もした。

 ―現金な奴だな本当に。

 さっきまで落ち込んで不安がっていた奴とは思えないほどの変わりっぷりに自分で自嘲の笑みを浮かべながら俺は少し顔を上げて、受け取った果実を皮袋にしまった。そして、中に入っている事を確かめるように、それを叩き、大きく深呼吸する。

 ―それだけで俺の腹は決まった。

 「ありがとな。色々愚痴を聞いてくれて」
 「気にするな。ただの気まぐれだ」

 そう言って浮かべる笑みは、呆れたようなものではなく、長年一緒に戦った戦友に向けるものだった。その笑みに暴風のような実力を持つ男について各地を転々とする傭兵団として生活していた日々を思い出す。殺し合いをする集団とは思えないほど、気の良い馬鹿ばかり集まって戦い続けていたそれは、愉しい記憶ではあったが、既に遠い過去のようにさえ感じた。

 ―まだアレから一年ちょっとしか経っていないのか…。

 けれど、その一年で傭兵団は敗走。リーダーであった男ともども全員が魔物娘に捕らえられ、この城で暮らしている。今では殆どが魔物娘を嫁に迎えて、幸せな日々を送っているのだろう。かつての仲間であったメンバーの殆どはもう集まることも無く、今でもこうやって酒を飲んでくれる程度の親交があるのは一番の腐れ縁でもあったハンスともう一人くらいのものだ。

 ―それを寂しいとは思っちゃいけないんだろうなぁ。

 仲間の殆どは人を殺した経験を持つ人殺しだ。そうでなければ傭兵なんてやっていけないのだから当然だろう。しかし、皆、それを後悔はしていない。俺を含め、そんな生き方しか出来なかったのを心苦しく思っても、それ以外の道を選ぶことが出来なかった奴が大半なのだから。…けれど、今、彼らはその傭兵と言う過去のお陰で分不相応な幸せを享受している。人殺しと言う耐え難い十字架を背負っているのを許し、受け入れてくれる伴侶がいる。それを喜びこそすれ、寂しいと思ってやるのは彼らに対する冒涜でしかないのだから。

 「また暗い顔になってるぞ」
 「あ、悪い」

 どうやら顔に出ていたらしい感情を必死に抑え、俺は再び笑みを浮かべた。同時に懐から財布を取り出して、銀貨を幾つか摘む。…これだけのアドバイスを貰ったり、長時間、俺の話に付き合ってくれた礼としては少々、少ないが、変な所で義理堅いハンスは大きな金額は決して受け取らないだろうから、せめてここの代金だけは出そうと思ったのだ。

 「ここは俺が出すよ」
 「いや、そりゃ無理だろ」

 ―そりゃどういう意味だ?

 思いもよらない否定の言葉に、そう聞き返そうとした瞬間、バタンッと大きな音を立てて俺の丁度真後ろにある酒場の扉が開く。無論、その音に殆どの奴がそちらへと目を送り…そして、絶句したのが分かった。今まで俺達を含め、がやがやと他愛無い雑談をしていた店内が一発で無音の世界へと堕ちてしまったように静かになったのだから、鈍感である俺だって気づく。

 ―誰が来たんだ?

 そう思って振り向こうする前に、かつかつと床を鳴らしながら近づいてきた『そいつ』は俺の肩を痛いほどに掴んで、無理やり、俺の身体を振り向かせた。

 「よぉおおおやく探したわよフェイぃぃぃいいいっ!」
 「…よ、よぉ、カルナ。元気そうで何よりだ」

 ―それは悪鬼羅刹か何かに近かった。

 いや、無論、戦場から帰ってきて、顔面が崩壊していた訳ではない。顔は最後に見た時のように美しい造詣のままだし、着ている衣服も清涼感に溢れるシャツとミニスカートだ。シャツの下で自己主張する首飾りのような留め具もデュラハンと同じ部署にいる俺にとっては見慣れている。…けれど、そんなカルナが悪鬼羅刹に見えたのは、その身体から立ち上るような激しい怒りの所為なのだろう。

 ―やっぱり怒ってるじゃねぇかあの馬鹿あああああっ!!!

 そう抗議するように目をやると、俺をたきつけた張本人はそそくさと嫁と一緒に離れていくのが見えた。その顔には特に驚きの表情のようなものも見えず、恐らくこいつにとってこの展開は予想済みの事だったのだろう。部屋に引きこもりがちだった俺を誘い、酒場に連れ出したハンスはカルナが帰ってくる時間をきっちりと計算していたようだ。

 ―それは良い。良いんだが…。

 嫁のメドゥーサを抱いたままずるずると引きずられるように移動する姿を見るに、どうやら俺を助けたり、援護したりするつもりはまったくないのだろう。そればかりか無責任に握りこぶしに親指を立てているのが見えた。

 ―今度、絶対〆てやる。…次があれば、だが。

 まずは目の前の鬼の怒りを静めなければ、そこで俺の人生は終了してしまうだろう。奴への復讐のためにも出来ればそれは御免こうむりたいので、ゆっくりと彼女を落ち着けるように、言葉を選んでから口を開く。

 「そ、それで何か用か?」
 「何か用…ですって…?」

 ―あ、これは詰んだわ。

 どうやら俺が選んだ言葉は最悪に近かったようでカルナから立ち上っていた怒りのさらに激しく吹き上がっていくのが分かった。怒りにふるふると震える身体は火山が爆発する直前の予兆を彷彿とさせる。…大袈裟と笑うだろうか?けれど、目の前でその怒りを一身に受ける俺にとっては大災害にも匹敵するほどの恐ろしさなのだ。

 「用なら沢山あるわ。アンタも心当たりが【山ほど】あるでしょう?」
 「ま、まぁな」

 怒気を含めながら、『山ほど』に強いアクセントを置くカルナの声は最初のように荒上げているものではない。けれど、その分、その言葉が孕む怒りは刃物のような静かさを持って、俺に突きつけられているのだ。これで動揺しないほど、俺の心臓は毛が生えておらず、今にも殺されそうな雰囲気に激しい鼓動を刻み始める。

 「お互いの意見が一致したようで嬉しいわ。…それじゃあ勿論、【一緒に】着てくれるわね?」
 「はい…」

 勿論、拒否権は無かった。本気で青筋を浮かべて怒るカルナを相手に、一体、誰が断れるというのか。俺たちのリーダーであった片眼の男ほどの実力か空気の読めなさがあれば可能かもしれないが、そのどちらも所持していない俺には無理だ。ただ、羊飼いに導かれる家畜のように従順に彼女の背を追うことしかできない。
 しかし、店を出る瞬間、せめて文句だけでも言ってやろうと後ろを振り向くと、奴は嫁に巻かれたままその胸に顔を埋めていた。死刑執行台に上る寸前のような俺の事をまるで心配していないその姿に、言いようのない怒りが湧き上がってくる。

 ―畜生…もげろ…いや、今度あったら絶対もいでやる…!

 「…何をしてるの。早く来なさい」
 「あ、あぁ」

 しかし、そんな風に振り向いていたのがまたカルナの癪に障ったようで、さっきよりも強く声に力を込めて急かされる。そして、俺はその声に逆らえないまま、カルナの背を追いつつも…これから死ぬかもしれないという半ば確信めいた未来予想図に小さくため息をついたのだった。











10/10/10 22:42更新 / デュラハンの婿
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