Take Off!
僕がその夢を抱いたのは、一体いつ頃の事だったろうか。
それはもう遠い記憶の彼方に過ぎ去り、思い出すことはできないけど――。それを夢見た理由なら、今もありありと思い出せる。
彼女と同じ景色が見たかったのだ。
僕には幼馴染がいた。友達と呼ぶにはあまりに親しすぎ、かといって恋人かと問われれば、そういう訳でもなく。それでも、僕と彼女は長い時間を一緒に過ごした。
彼女は人ではなかった。翼があり、角があり、鱗と尻尾が生えていて、堅固な甲殻を持っていた。
彼女は空を飛べた。自由自在に、美しく。まるで天空を舞うように、小鳥たちと舞うように、空を飛べた。
もちろん、飛竜である彼女にしてみれば僕一人分の重さなんて大したことはない。頼めば"私はお前の馬じゃないんだ"とかぶつぶつと文句を言いながらも乗せてくれるだろう。
僕が彼女に乗せてもらって空を飛んだのは、最初の一度きりだった。一度で十分だった。
落ちれば間違いなく死ぬ高さ。人の身では望み得ぬ覇者の頂。全てを見下す王者の視線。
僕はそれに惚れ込んだ。ずっとこれを味わっていたいと思い、また望むときに空を舞える彼女のうらやましく思った。同時に、空に憧れる自分自身に恐怖した。
飛ばなければ良かった、と僕は思った。そして、飛べて良かった、とも僕は思った。
ああ、きっと、この時だろう。僕が"空を飛ぶ"という夢を抱いたのは。その時から、僕はあの大空の虜になってしまったのだ。
その日から、僕は空を飛ぶにはどうしたらいいかを常に考えてきた。
そして今。僕は、あの大空へ羽ばたく翼を手にしようとしている。
◆◇◆◇◆
「なあ、やっぱり無謀だろ。こんなガラクタで空を飛ぶなんて」
「いいや、きっと飛ぶさ。飛ぶように、僕が造った」
僕がそう答えると、彼女はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
そんな彼女は、その立派な翼をだらしなく投げ出し、草原に寝転んでいる。緑の草と彼女の鱗の色が混ざり合い、彼女の綺麗な柔肌が否が応にも目に入った。
僕はそんな彼女から意思の力を振り絞って目を逸らし、手製の翼へと向き直る。
そこにあるのは、お世辞にも美しいとは言い難い、武骨なフォルムの物体だった。幾枚も組み合わされた板、不恰好にそれを支える柱、固定され、羽ばたくことのない翼。
一目見ただけでは、誰もこれがなんの用途に使われるのかわからないだろう。ましてや、人の身で空を飛ぶためのものだとは――誰も思うまい。
「ねえ。僕は明日、これに乗って飛ぶよ」
「………」
「きっと飛んでみせる。だからさ、その時は――」
一緒に飛ぼう、とは。まだ口に出せなかった。
彼女は僕の言葉を聞いていたのかいないのか、草原に身を投げ出したままそっぽを向いている。
でも、きっと聞いていたのだろう。
それを裏付けるように、次の瞬間、彼女は口を開いた。
「お前はどうしても空が飛びたいのか?」
答えの決まりきった問い。
きっと彼女も、その答えをすでに知っている。
「うん。もう一回、僕はあの大空を飛びたいんだよ。無謀だって、そんなことは知ってるけど……」
「なら――」
私が連れて行ってやる、とその眼は言っていたように思う。
けれど、そうじゃない。彼女に乗せてもらって飛ぶのでは、意味がないのだ。
「僕は、僕の力で飛びたいんだよ」
「――っ」
わかるかい? と僕は続ける。
自ら作り上げた手製の翼を、ゆっくりと撫でながら。
「僕には君のような翼はない。でも、でもさ、それが僕が空を目指さない理由にはならないでしょ?」
「……」
「確かに、体一つで飛ぶなんて無理な話だよ。でも、僕にはこいつがある。この翼が、僕をあの空へ連れて行ってくれる」
武骨で、不恰好な僕の翼。きっとそれは、彼女のあの力強くも美しい竜の翼に遠く及ばない。
それでも、羽ばたけない翼でも、人は空を目指すのだ。
きっと飛べると、夢を託して。
「……なあ。どうしても、私じゃダメなのか?」
気づくと、何故か彼女は泣きそうな顔をしていた。
いつも強気で、勝気な性格の彼女がそんな顔をしたのは、一体いつ以来だろうか。
「空なら、いつだってそこにあるじゃないか。お前が望めば、いつだって私はお前を空に連れて行ってやれるんだ。青空にも、曇天にも、嵐だって、きっと」
そんなガラクタに頼る必要は無いだろう、と泣きそうな声で彼女は言った。
「……。ごめんね。でも、これは僕の翼だ。君の、借り物の翼じゃ、ない」
ねえ。僕は明日、これに乗って飛ぶよ、と繰り返した時の彼女の顔を、僕はきっと忘れないだろう。
「……勝手にしろ」
捨て台詞と共に、巻き起こる突風。その途端、蹴飛ばされたように加速して、空を舞った彼女の姿はどこかへと消え去ってしまう。
「……ごめんね」
僕の呟きは遅すぎて、きっと彼女には届かなかった。
◆◇◆◇◆
翌朝。
翼が設置してある崖の上の草原には、ちらほらと人の姿があった。皆、この翼を作る際に協力してくれた人たちだ。
その中に見知った緑の翼が無いか、僕はちらちらと確認していたけれど――ついに見つけることはできなかった。
昨日、怒らせてしまったみたいだから、仕方がないだろう。と、ため息を吐きつつ、僕は翼の最終確認を続けた。
今日はついに、この翼が空を舞う日だ。空はこれ以上ないほどの晴天。風も良好。
きっと、この翼で僕は空を飛ぶ。それは彼女ほど美しくも、速くもないだろう。それでもきっと、翼は飛ぶ。
そう。いつかあの大空を、あの緑の翼と並んで――。
準備はすぐに終わった。
大きな声で飛びます、と周囲に告げて、ゆっくりと翼に乗り込む。
翼が置かれているのは崖の上の草原。そこには、翼を崖の外に投げ出すための装置が設置されている。
僕の翼は羽ばたかない。ただ、風をとらえて空を舞う。
ちらりと、僕はもう一度だけ周囲の人影を確認した。素材の調達で融通を効かせてくれた商人、翼の設計でお世話になった学者、そのほかにも、いろいろな人たち。
しかし――この翼を作るきっかけを作った彼女は、やっぱりいなかった。
今頃、どこかの空を彼女自身の翼で飛んでいるのだろう。何者にも縛られず、見下ろされることもなく、自由気ままに。そこは何人たりとも彼女に並ぶこと敵わぬ、天空の聖域なのだから。
言うなれば、僕はその聖域を穢そうと試みる不心得者だ。彼女が怒ったのも無理はない。
僕が飛んだと知れば、彼女はまた怒るだろうか? それとも、もしかしたら喜んでくれるだろうか?
ふと、そんな都合の良いことを思いながら、僕は覚悟を決めてトリガーとなっているロープの結び目をするりとほどいた。
――途端、体が置いていかれそうな加速度が僕を包む。まるで巨大な何かに蹴飛ばされたように飛び出した僕と翼は、いとも簡単に草原から放り出された。
落ちる、と思ったのは一瞬で、次の瞬間には不思議な浮遊感と共に、僕は飛んでいた。
眼下に見えるのは、遥か崖下の景色。叩き付けられれば、間違いなく命を落とす場所。
そんな僕を浮かせているのは、武骨で不恰好な、手製の翼。翼は重さに耐えかねるように自身を撓らせながら、それでも僕の重さを支えている。時折吹く弱い風もうまくいなし、すり抜け、ふらふらと。
ゆっくりと、ゆっくりと眼下の景色が動くのを見て、ようやく僕は思った。
――飛んでいる。
僕だけで。誰の翼を借りることもなく、僕の翼で、飛んでいる。
ああ、ここがあの日夢見た場所。覇者の頂。そして――
彼女の場所。
「これで…。これで、一緒に飛べる、かな」
思わず、つぶやきが漏れた。
幼い頃から――本当に幼いころからの念願が、ようやく叶う。
そう思った、その時だった。
ぱきん、と。何かが折れる音がした。そして、それを契機として、僕は体が軽くなるのを感じた。
飛んでいたときはくらべものにならない風、そして音。墜ちていく僕の周りには、さっきまで僕を支えていた翼だったものが、見るも無残な破片になって散らばっていた。
風か、設計不良か、それとも、その両方か。翼をもがれた鳥は、なすすべなく墜ちていく。
その先にあるのは、きっと、避けようのない死、だけだ。
"そらみたことか"
ふと、そんな声が聞こえてきた気がした。
しかし、その声の主はどこにもいない。
"無謀だと言っただろう? そんなガラクタで空を飛ぶなんて"
きっと飛ぶさ。飛ぶように、僕が作った。次は、きっとどこまでも飛んで、ちゃんと降りてみせる。
きっとこれは幻聴だ。けれど、そう答えずにはいられなかった。
すると、声はあざけるような笑い声を立てた。僕が一度も聞いたことのないような、あざけるような笑い声。
"はははっ。次? 次なんてないよ。お前は今日、ここでみじめに死ぬんだ。ここは空の上。誰も助けになんて来ない。あはは、残念だねぇ!"
その言葉に、僕はふと下を見る。不思議なことに、地面はまだずっと遠くにあった。
しかし、その地面が見かけよりもずっと、ずっと近くにあることもまた、よく解っていた。
目を閉じれば、ほんの数秒。あの不恰好な翼をなくせば、僕が空にいられる時間などこの程度のものだ。そして、そのタイムリミットを過ぎたとき、僕の命もまた、あっけなく潰える。
この残酷な空では、人は向きを変えることすらままならない。すっと目を閉じ、僕はその瞬間を待つ。真っ暗な視界のなかでは、ごうごうと耳元で鳴る風の音がやけにうるさく感じた。
一秒、二秒、三秒……。そして暗闇の中、僕にその瞬間が訪れる。まるで全身を揺さぶられるような、しかし想像していたよりはずっと小さな衝撃が僕を襲った。
その瞬間――死の間際、またあの幻聴が僕に囁きかける。
「――お疲れ様」
◆◇◆◇◆
彼は、いつだって空を見ていた。私が彼を空に連れて行ったその日から、彼は空ばかり見るようになった。
私はそんな彼が好きで、けれどそれを伝えないままずっと傍にいた。彼が空を目指すなら、いつか、私の力を求めるだろう――。そんな甘い考えが、そうさせたのかもしれない。
結局、私は彼に必要とされたかったのだ。そして、たとえ彼が私を見なくても、その眼が空を見ている限り、私を求めるはずだった。
けれど、結局彼は私を求めなかった。他人の力を借りて飛ぶことよりも、自らの翼で空を飛ぶことを選んだ。
そして今、彼はついにその夢を、自らの翼と共に掴み取っている。
眼下に浮かぶ、小さな機影。
私のそれに比べれば格段に頼りなく、また不恰好なその翼は、それでも懸命に空を舞っていた。
まるではじめて空を飛んだ鳥のようにふらふらと頼りなく、時折吹く風に翻弄されながら、それでも間違いなく彼ひとりで飛んでいる。
それを認めた瞬間、私が抱いた感情は、紛れもない喜びだった。
当然だ。想い人の念願が叶って、喜ばないはずはない。
けれど、その中に幾ばくかの寂しさがあることもまた、事実だった。
何故、私の翼では駄目だったのか……。きっと、この答えは彼に聞けばあっさりと答えてくれるだろう。けれど、それを訪ねるには、私はあまりにも臆病に過ぎた。
あの不恰好な翼が、まるで"お前など必要ない"と私に告げているようで。彼の期待を一身に背負って懸命に空を舞うあの翼が、私の居場所を奪ってしまったようで。
そんな思考は、私の自由な翼を縛る重い鎖となって、この身を絡め取る。このまま、このまま彼に何も伝えることなく終わってしまえば、最後には私は飛べなくなってしまうのではないか……そんな妄想さえ真実味を帯びるほどに、その鎖は重かった。
けれど、今更どの口で想いを告げるというのか?
結局のところ……今の私に許されるのは、こうして遠くから彼の翼の行く末を見守ることだけなのだ……。
「…っ」
乱れた気流が、私の全身を包んだ。
反射的に翼を広げ体を安定させつつ、全身で飛行姿勢を維持する。尻尾をうまく使って微調整を行いつつ、空飛ぶものを叩き落さんと荒れる風を抜ける。
「こんな低いところで、それも晴れてるのに風が乱れるなんて……」
乱れた風というのは、空を往く者にとっては天敵だ。私も昔は気流に翻弄され、何度も墜落しかけたことがある。
それにも慣れた今となっては、例え思考の片手間にも抜けることができるが、初めて空を知った鳥よりも拙く空を渡る彼の翼など、あのような気流に巻き込まれてしまえばひとたまりも――
「――!」
咄嗟に私が下を見ると、今まさに、あの不恰好な翼が木端微塵に砕け散るところだった。木材やら布やら、その翼を構成していた様々なものが、ただ風に揉まれただけで脆くも空中へと投げ出されていく。
そして、それはもちろん、その翼で空を飛んでいた彼も例外ではなかった。
空中へと投げ出された彼の姿を目にとらえたころには、私は既に垂直降下の姿勢に移っていた。翼膜を地面に垂直に。そればかりか、落ちるだけでは遅いとばかりに翼を駆る。下へ、下へと。
自由落下を追い抜かんと、下へ向けて全速力。砕けた彼の翼の破片をすり抜け、抜けられず肌に傷を負いながら、それでも疾く速く、ひたすらに先を目指す。
「そらみたことかッ……!」
一心不乱に地面へと向かいながら、私は思わず叫んでいた。心の中にあるのは、純粋な怒りだった。
私を頼っていればこんなことにはならなかったのに、と。一人で先走った結果がこれだ、と。声にならない怒りを表すように、翼は荒々しく空を蹴る。
翼を失い、重力の顎に捕らわれ墜ちていく彼は、まだまだ遠くに。
「無謀だと言っただろう、そんなガラクタで空を飛ぶなんて…!」
細かく砕けた彼の翼の破片は、高速でそれをすり抜ける私を容赦なく傷つける。しかし、頬に、翼に、脚に、痛々しい傷が刻まれてもなお、空を駆ける翼が休まることはなかった。
瞳を閉じ、静かにその時の訪れを待つかのように落ち続ける彼の姿は、もうすぐ手が届く場所に。
「墜ちるな……! お前に次なんて無いんだぞ……!」
ついに追いついた。そのまま、落ち続ける彼の身体をしたから掬い上げるように背中に乗せる。ずしりと、背中に重さが増したのを感じた。
けれど、もう眼下には地面が広がっている。崖下を流れる川に立つ白い水しぶきがはっきりと見える高さまで、私達は落ちてきていた。
両手の翼を目いっぱいに広げて、私は姿勢を立て直そうと試みる。けれど、長い急降下で乗ったスピードはそう簡単に殺しきれはしない。
けれど。私は翼竜だ。あんな雑な作りの、不恰好な翼とはわけが違う。
この程度で、無様に墜ちるわけがない。
「………っ!」
足の爪がかすかに水面を叩き、私が纏っていた風に煽られ、背後で爆発的な水しぶきが上がった。高度は水面まで1mもない。本当にぎりぎりのところで――そう思うと、冷たいものが背中をつたった様な、そんな悪寒を感じた。
自分がまきあげた水しぶきを頭からかぶりながら、私はずっと前から止めていたような気がする息を、ほっと吐き出す。その瞬間、文字通り頭でも冷えたのか……私の中にあった彼への怒りが、すっと冷めていくのを感じた。
そして、背中で身動き一つしない彼に、怒号の代わりに言葉を一言、語りかけた。
「――お疲れ様」
何度だって挑戦すればいい。
失敗したなら、私が助けてやる。
その代り……お前の隣で飛ぶのは私だけの特権だ。
◆◇◆◇◆
「ねぇ、僕は明日これに乗って飛ぶよ」
「そうか。うまく飛べるといいな」
「……言わないの? 無謀だ、って」
「言わないよ。言ってもお前は、ひとりで飛ぶつもりなんだろう?」
「………」
「なら、せめて私の隣で飛べ」
「え……?」
「次こそ、きっとどこまでも飛んで――ちゃんと降りて見せてくれ」
「――うん」
それはもう遠い記憶の彼方に過ぎ去り、思い出すことはできないけど――。それを夢見た理由なら、今もありありと思い出せる。
彼女と同じ景色が見たかったのだ。
僕には幼馴染がいた。友達と呼ぶにはあまりに親しすぎ、かといって恋人かと問われれば、そういう訳でもなく。それでも、僕と彼女は長い時間を一緒に過ごした。
彼女は人ではなかった。翼があり、角があり、鱗と尻尾が生えていて、堅固な甲殻を持っていた。
彼女は空を飛べた。自由自在に、美しく。まるで天空を舞うように、小鳥たちと舞うように、空を飛べた。
もちろん、飛竜である彼女にしてみれば僕一人分の重さなんて大したことはない。頼めば"私はお前の馬じゃないんだ"とかぶつぶつと文句を言いながらも乗せてくれるだろう。
僕が彼女に乗せてもらって空を飛んだのは、最初の一度きりだった。一度で十分だった。
落ちれば間違いなく死ぬ高さ。人の身では望み得ぬ覇者の頂。全てを見下す王者の視線。
僕はそれに惚れ込んだ。ずっとこれを味わっていたいと思い、また望むときに空を舞える彼女のうらやましく思った。同時に、空に憧れる自分自身に恐怖した。
飛ばなければ良かった、と僕は思った。そして、飛べて良かった、とも僕は思った。
ああ、きっと、この時だろう。僕が"空を飛ぶ"という夢を抱いたのは。その時から、僕はあの大空の虜になってしまったのだ。
その日から、僕は空を飛ぶにはどうしたらいいかを常に考えてきた。
そして今。僕は、あの大空へ羽ばたく翼を手にしようとしている。
◆◇◆◇◆
「なあ、やっぱり無謀だろ。こんなガラクタで空を飛ぶなんて」
「いいや、きっと飛ぶさ。飛ぶように、僕が造った」
僕がそう答えると、彼女はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
そんな彼女は、その立派な翼をだらしなく投げ出し、草原に寝転んでいる。緑の草と彼女の鱗の色が混ざり合い、彼女の綺麗な柔肌が否が応にも目に入った。
僕はそんな彼女から意思の力を振り絞って目を逸らし、手製の翼へと向き直る。
そこにあるのは、お世辞にも美しいとは言い難い、武骨なフォルムの物体だった。幾枚も組み合わされた板、不恰好にそれを支える柱、固定され、羽ばたくことのない翼。
一目見ただけでは、誰もこれがなんの用途に使われるのかわからないだろう。ましてや、人の身で空を飛ぶためのものだとは――誰も思うまい。
「ねえ。僕は明日、これに乗って飛ぶよ」
「………」
「きっと飛んでみせる。だからさ、その時は――」
一緒に飛ぼう、とは。まだ口に出せなかった。
彼女は僕の言葉を聞いていたのかいないのか、草原に身を投げ出したままそっぽを向いている。
でも、きっと聞いていたのだろう。
それを裏付けるように、次の瞬間、彼女は口を開いた。
「お前はどうしても空が飛びたいのか?」
答えの決まりきった問い。
きっと彼女も、その答えをすでに知っている。
「うん。もう一回、僕はあの大空を飛びたいんだよ。無謀だって、そんなことは知ってるけど……」
「なら――」
私が連れて行ってやる、とその眼は言っていたように思う。
けれど、そうじゃない。彼女に乗せてもらって飛ぶのでは、意味がないのだ。
「僕は、僕の力で飛びたいんだよ」
「――っ」
わかるかい? と僕は続ける。
自ら作り上げた手製の翼を、ゆっくりと撫でながら。
「僕には君のような翼はない。でも、でもさ、それが僕が空を目指さない理由にはならないでしょ?」
「……」
「確かに、体一つで飛ぶなんて無理な話だよ。でも、僕にはこいつがある。この翼が、僕をあの空へ連れて行ってくれる」
武骨で、不恰好な僕の翼。きっとそれは、彼女のあの力強くも美しい竜の翼に遠く及ばない。
それでも、羽ばたけない翼でも、人は空を目指すのだ。
きっと飛べると、夢を託して。
「……なあ。どうしても、私じゃダメなのか?」
気づくと、何故か彼女は泣きそうな顔をしていた。
いつも強気で、勝気な性格の彼女がそんな顔をしたのは、一体いつ以来だろうか。
「空なら、いつだってそこにあるじゃないか。お前が望めば、いつだって私はお前を空に連れて行ってやれるんだ。青空にも、曇天にも、嵐だって、きっと」
そんなガラクタに頼る必要は無いだろう、と泣きそうな声で彼女は言った。
「……。ごめんね。でも、これは僕の翼だ。君の、借り物の翼じゃ、ない」
ねえ。僕は明日、これに乗って飛ぶよ、と繰り返した時の彼女の顔を、僕はきっと忘れないだろう。
「……勝手にしろ」
捨て台詞と共に、巻き起こる突風。その途端、蹴飛ばされたように加速して、空を舞った彼女の姿はどこかへと消え去ってしまう。
「……ごめんね」
僕の呟きは遅すぎて、きっと彼女には届かなかった。
◆◇◆◇◆
翌朝。
翼が設置してある崖の上の草原には、ちらほらと人の姿があった。皆、この翼を作る際に協力してくれた人たちだ。
その中に見知った緑の翼が無いか、僕はちらちらと確認していたけれど――ついに見つけることはできなかった。
昨日、怒らせてしまったみたいだから、仕方がないだろう。と、ため息を吐きつつ、僕は翼の最終確認を続けた。
今日はついに、この翼が空を舞う日だ。空はこれ以上ないほどの晴天。風も良好。
きっと、この翼で僕は空を飛ぶ。それは彼女ほど美しくも、速くもないだろう。それでもきっと、翼は飛ぶ。
そう。いつかあの大空を、あの緑の翼と並んで――。
準備はすぐに終わった。
大きな声で飛びます、と周囲に告げて、ゆっくりと翼に乗り込む。
翼が置かれているのは崖の上の草原。そこには、翼を崖の外に投げ出すための装置が設置されている。
僕の翼は羽ばたかない。ただ、風をとらえて空を舞う。
ちらりと、僕はもう一度だけ周囲の人影を確認した。素材の調達で融通を効かせてくれた商人、翼の設計でお世話になった学者、そのほかにも、いろいろな人たち。
しかし――この翼を作るきっかけを作った彼女は、やっぱりいなかった。
今頃、どこかの空を彼女自身の翼で飛んでいるのだろう。何者にも縛られず、見下ろされることもなく、自由気ままに。そこは何人たりとも彼女に並ぶこと敵わぬ、天空の聖域なのだから。
言うなれば、僕はその聖域を穢そうと試みる不心得者だ。彼女が怒ったのも無理はない。
僕が飛んだと知れば、彼女はまた怒るだろうか? それとも、もしかしたら喜んでくれるだろうか?
ふと、そんな都合の良いことを思いながら、僕は覚悟を決めてトリガーとなっているロープの結び目をするりとほどいた。
――途端、体が置いていかれそうな加速度が僕を包む。まるで巨大な何かに蹴飛ばされたように飛び出した僕と翼は、いとも簡単に草原から放り出された。
落ちる、と思ったのは一瞬で、次の瞬間には不思議な浮遊感と共に、僕は飛んでいた。
眼下に見えるのは、遥か崖下の景色。叩き付けられれば、間違いなく命を落とす場所。
そんな僕を浮かせているのは、武骨で不恰好な、手製の翼。翼は重さに耐えかねるように自身を撓らせながら、それでも僕の重さを支えている。時折吹く弱い風もうまくいなし、すり抜け、ふらふらと。
ゆっくりと、ゆっくりと眼下の景色が動くのを見て、ようやく僕は思った。
――飛んでいる。
僕だけで。誰の翼を借りることもなく、僕の翼で、飛んでいる。
ああ、ここがあの日夢見た場所。覇者の頂。そして――
彼女の場所。
「これで…。これで、一緒に飛べる、かな」
思わず、つぶやきが漏れた。
幼い頃から――本当に幼いころからの念願が、ようやく叶う。
そう思った、その時だった。
ぱきん、と。何かが折れる音がした。そして、それを契機として、僕は体が軽くなるのを感じた。
飛んでいたときはくらべものにならない風、そして音。墜ちていく僕の周りには、さっきまで僕を支えていた翼だったものが、見るも無残な破片になって散らばっていた。
風か、設計不良か、それとも、その両方か。翼をもがれた鳥は、なすすべなく墜ちていく。
その先にあるのは、きっと、避けようのない死、だけだ。
"そらみたことか"
ふと、そんな声が聞こえてきた気がした。
しかし、その声の主はどこにもいない。
"無謀だと言っただろう? そんなガラクタで空を飛ぶなんて"
きっと飛ぶさ。飛ぶように、僕が作った。次は、きっとどこまでも飛んで、ちゃんと降りてみせる。
きっとこれは幻聴だ。けれど、そう答えずにはいられなかった。
すると、声はあざけるような笑い声を立てた。僕が一度も聞いたことのないような、あざけるような笑い声。
"はははっ。次? 次なんてないよ。お前は今日、ここでみじめに死ぬんだ。ここは空の上。誰も助けになんて来ない。あはは、残念だねぇ!"
その言葉に、僕はふと下を見る。不思議なことに、地面はまだずっと遠くにあった。
しかし、その地面が見かけよりもずっと、ずっと近くにあることもまた、よく解っていた。
目を閉じれば、ほんの数秒。あの不恰好な翼をなくせば、僕が空にいられる時間などこの程度のものだ。そして、そのタイムリミットを過ぎたとき、僕の命もまた、あっけなく潰える。
この残酷な空では、人は向きを変えることすらままならない。すっと目を閉じ、僕はその瞬間を待つ。真っ暗な視界のなかでは、ごうごうと耳元で鳴る風の音がやけにうるさく感じた。
一秒、二秒、三秒……。そして暗闇の中、僕にその瞬間が訪れる。まるで全身を揺さぶられるような、しかし想像していたよりはずっと小さな衝撃が僕を襲った。
その瞬間――死の間際、またあの幻聴が僕に囁きかける。
「――お疲れ様」
◆◇◆◇◆
彼は、いつだって空を見ていた。私が彼を空に連れて行ったその日から、彼は空ばかり見るようになった。
私はそんな彼が好きで、けれどそれを伝えないままずっと傍にいた。彼が空を目指すなら、いつか、私の力を求めるだろう――。そんな甘い考えが、そうさせたのかもしれない。
結局、私は彼に必要とされたかったのだ。そして、たとえ彼が私を見なくても、その眼が空を見ている限り、私を求めるはずだった。
けれど、結局彼は私を求めなかった。他人の力を借りて飛ぶことよりも、自らの翼で空を飛ぶことを選んだ。
そして今、彼はついにその夢を、自らの翼と共に掴み取っている。
眼下に浮かぶ、小さな機影。
私のそれに比べれば格段に頼りなく、また不恰好なその翼は、それでも懸命に空を舞っていた。
まるではじめて空を飛んだ鳥のようにふらふらと頼りなく、時折吹く風に翻弄されながら、それでも間違いなく彼ひとりで飛んでいる。
それを認めた瞬間、私が抱いた感情は、紛れもない喜びだった。
当然だ。想い人の念願が叶って、喜ばないはずはない。
けれど、その中に幾ばくかの寂しさがあることもまた、事実だった。
何故、私の翼では駄目だったのか……。きっと、この答えは彼に聞けばあっさりと答えてくれるだろう。けれど、それを訪ねるには、私はあまりにも臆病に過ぎた。
あの不恰好な翼が、まるで"お前など必要ない"と私に告げているようで。彼の期待を一身に背負って懸命に空を舞うあの翼が、私の居場所を奪ってしまったようで。
そんな思考は、私の自由な翼を縛る重い鎖となって、この身を絡め取る。このまま、このまま彼に何も伝えることなく終わってしまえば、最後には私は飛べなくなってしまうのではないか……そんな妄想さえ真実味を帯びるほどに、その鎖は重かった。
けれど、今更どの口で想いを告げるというのか?
結局のところ……今の私に許されるのは、こうして遠くから彼の翼の行く末を見守ることだけなのだ……。
「…っ」
乱れた気流が、私の全身を包んだ。
反射的に翼を広げ体を安定させつつ、全身で飛行姿勢を維持する。尻尾をうまく使って微調整を行いつつ、空飛ぶものを叩き落さんと荒れる風を抜ける。
「こんな低いところで、それも晴れてるのに風が乱れるなんて……」
乱れた風というのは、空を往く者にとっては天敵だ。私も昔は気流に翻弄され、何度も墜落しかけたことがある。
それにも慣れた今となっては、例え思考の片手間にも抜けることができるが、初めて空を知った鳥よりも拙く空を渡る彼の翼など、あのような気流に巻き込まれてしまえばひとたまりも――
「――!」
咄嗟に私が下を見ると、今まさに、あの不恰好な翼が木端微塵に砕け散るところだった。木材やら布やら、その翼を構成していた様々なものが、ただ風に揉まれただけで脆くも空中へと投げ出されていく。
そして、それはもちろん、その翼で空を飛んでいた彼も例外ではなかった。
空中へと投げ出された彼の姿を目にとらえたころには、私は既に垂直降下の姿勢に移っていた。翼膜を地面に垂直に。そればかりか、落ちるだけでは遅いとばかりに翼を駆る。下へ、下へと。
自由落下を追い抜かんと、下へ向けて全速力。砕けた彼の翼の破片をすり抜け、抜けられず肌に傷を負いながら、それでも疾く速く、ひたすらに先を目指す。
「そらみたことかッ……!」
一心不乱に地面へと向かいながら、私は思わず叫んでいた。心の中にあるのは、純粋な怒りだった。
私を頼っていればこんなことにはならなかったのに、と。一人で先走った結果がこれだ、と。声にならない怒りを表すように、翼は荒々しく空を蹴る。
翼を失い、重力の顎に捕らわれ墜ちていく彼は、まだまだ遠くに。
「無謀だと言っただろう、そんなガラクタで空を飛ぶなんて…!」
細かく砕けた彼の翼の破片は、高速でそれをすり抜ける私を容赦なく傷つける。しかし、頬に、翼に、脚に、痛々しい傷が刻まれてもなお、空を駆ける翼が休まることはなかった。
瞳を閉じ、静かにその時の訪れを待つかのように落ち続ける彼の姿は、もうすぐ手が届く場所に。
「墜ちるな……! お前に次なんて無いんだぞ……!」
ついに追いついた。そのまま、落ち続ける彼の身体をしたから掬い上げるように背中に乗せる。ずしりと、背中に重さが増したのを感じた。
けれど、もう眼下には地面が広がっている。崖下を流れる川に立つ白い水しぶきがはっきりと見える高さまで、私達は落ちてきていた。
両手の翼を目いっぱいに広げて、私は姿勢を立て直そうと試みる。けれど、長い急降下で乗ったスピードはそう簡単に殺しきれはしない。
けれど。私は翼竜だ。あんな雑な作りの、不恰好な翼とはわけが違う。
この程度で、無様に墜ちるわけがない。
「………っ!」
足の爪がかすかに水面を叩き、私が纏っていた風に煽られ、背後で爆発的な水しぶきが上がった。高度は水面まで1mもない。本当にぎりぎりのところで――そう思うと、冷たいものが背中をつたった様な、そんな悪寒を感じた。
自分がまきあげた水しぶきを頭からかぶりながら、私はずっと前から止めていたような気がする息を、ほっと吐き出す。その瞬間、文字通り頭でも冷えたのか……私の中にあった彼への怒りが、すっと冷めていくのを感じた。
そして、背中で身動き一つしない彼に、怒号の代わりに言葉を一言、語りかけた。
「――お疲れ様」
何度だって挑戦すればいい。
失敗したなら、私が助けてやる。
その代り……お前の隣で飛ぶのは私だけの特権だ。
◆◇◆◇◆
「ねぇ、僕は明日これに乗って飛ぶよ」
「そうか。うまく飛べるといいな」
「……言わないの? 無謀だ、って」
「言わないよ。言ってもお前は、ひとりで飛ぶつもりなんだろう?」
「………」
「なら、せめて私の隣で飛べ」
「え……?」
「次こそ、きっとどこまでも飛んで――ちゃんと降りて見せてくれ」
「――うん」
12/09/30 01:46更新 / 湖