To Be Continued
彼女は、昔から泳ぎが達者だった。
すぐ近くに海がある僕らの村では、泳ぎは最も身近な遊びのひとつだったと言っていい。白い砂浜、高い岩、深い水深の海中洞窟……。僕らが遊ぶべき場所は沢山あった。
だが、彼女はどんな遊びであろうとも、それが水中で行われる限り無敗だった。速さでも、潜れる深さでも、どれ一つとして他の子供に王者の座を譲ることはなかった。
彼女に聞いた話によると、彼女は船に乗せてもらう事が出来なかったらしい。漁民の間に伝わる、古い伝承のためだ。
曰く、女を船に乗せると、それを見初めた海の神によって船は転覆させられ、女を奪われる。
それを理由に船に乗せてもらえず、だが、海への憧れを捨て切れず、選んだ道が、泳ぎらしい。
だから、彼女は誰よりも速かった。将来船に乗る僕らよりも、ずっとずっと本気だった。それはどこか鬼気迫るものがあり、それが僕らの敗因なのだろうという事は、うっすらと想像がついた。
だけど、僕と彼女は大の親友だった。いつでも二人で遊んでいたし、とりとめの無い事を話しあいもした。こっそり二人で遠くまで泳いだり、二人だけの秘密の場所でいろいろな遊びをした。
でも、海の中でだけは彼女は孤高で。それが僕にはたまらなく恐ろしかった。いつか、彼女が僕の手の届かない所まで泳いでいってしまうんじゃないかと、1人怯えた。
だから、僕は懸命に練習した。それでも彼女には敵わなかった。次第に、諦めの気持ちも広がってきた。
でも、僕にはそれが悔しくて、いつもいつも夜遅くまで練習したけれど、結局最後まで敵わなかった。
そう。最後まで。
彼女は13歳で帰らぬ人となった。まるでそこで生きる人魚の如くなじんだ、海に消えて。
その日、僕は深い入り江で遠泳をしていた。最も速度の出る、クロールと呼ばれる泳法で、まっすぐに沖を目指す。
沖には波があるばかりで、目印になるようなものは何もない。だから、僕はあらかじめ決めておいた時間だけ泳ぐと、すぐに入り江へ引き返した。
伊達に漁師の息子ではない。体内で、かなりの精度を以て時間を刻める。だが、この日は海の機嫌が悪かった。まだ半分も戻らないうちに、波が荒れ出したのだ。
それは、嵐と呼ぶには小さすぎたかもしれない。だが、それでも小さな僕の体力を奪うには十分だった。水は凍えるほどの冷たさとなり、手は重く、その上水をかいてもかいても、から回るばかりで全く進まない。
疲労でかすんだ視界に、僕の出発した入り江はとても小さく見えた。
だが、火事場の馬鹿力とは、ああいうものをいうのだろう。その幼い体の命を燃やしつくすように、僕は泳いだ。
大きな波も、吹きつける潮も、全てを打ち破るようにがむしゃらに。生き残るために、もう一度彼女に会うために僕は泳いだ。
もうすぐ、陸だ。ここまでくれば、もう大丈夫。
その、一瞬の集中力の途切れが、最後の引き金だった。
「――ッ!?」
右足に、違和感。微かに引きつるような、痛みを伴う違和感の正体は――
「うっ、がぁぁあッ!!」
――足が、攣ったのだ。
入り江は目の前。だが、今まで忘れていた疲労と痛み、寒さが途端に蘇ってきて、僕から体力を根こそぎ奪う。
最早、自分で浮くことさえできない。僕の下に構えるは、暗き顎を持つ深い海。その色は決して澄んでなんていなくて、深い緑色に濁った虚無を晒していた。
それを意識した途端、激甚な恐怖を感じた。沈みかけた僕の口に入ってくる、しょっぱい水もその恐怖を助長する。視界はただ揺れるばかりで、パニックに陥った僕には、最早目の前すらみえていない。
攣った足以外の手足も、疲労が満ちて満足に動かない。酸素を吐き出した体は、既に水に浮かばない。
そんな時、父から繰り返し聞いた言葉が耳の奥でこだまする。
“海を甘く見た者の末路は――”
「つかまれッ!」
「!」
聞き覚えのある声と共に、目の前に手が差し出される。日焼けして褐色の、女の子らしい、やや丸みを帯びた手。その手首には、僕が誕生日に贈った髪紐が結ばれている。
何も考えず、それを掴んだ。藁にもすがる思いだった。彼女は一度だけ真剣な表情で僕を見て、微笑んだ。そしてすぐに前に向き直る。
パニックに陥り、ばたばたと暴れる僕を、無理やり押さえつけて、彼女は泳ぎ出した。
彼女はまだ13歳で、同年代の子供を1人抱えているだけで十分な重石となるはずだった。そのうえ、海はまだ荒れており、波も高く、潮のうねりも力強い。
その幼い身には、未だ衣服を纏ったままで、それらは水を吸って彼女を縛る重りにしかならない。
だが、彼女の速度は一向に衰えなかった。波に乗るように速度を上げ、うねりを利用して体力を温存する。まるでこの世に彼女を縛るものなど存在しないとでも言うように、軽やかに泳いだ。
今にして思えば、あれは秤にかけていたのだろう。僕の命と、自分の体力を。そして、天秤は僕の命に傾いた。
それは、決死の覚悟だったのだろう。
彼女の、波をもものともしない泳ぎで、僕はなんとか入り江まで運ばれた。だが、彼女は僕を岩場に上げた後、力尽きたように大波に攫われる。
まるで彼女を狙ったかのような、唐突な大波。それはまるで巨大な海の神の手のように、彼女の小さな体を捕まえて、暗い海に引きずり込んだ。
咄嗟に伸ばした僕の指先は、彼女の手に触れ――掴むこと適わず、離れた。その時、悲しそうな、そして嬉しそうな顔をした、彼女の顔が見えた。
僕を助けられた事を安堵するように、そして、別れを惜しむように。
――それは、英雄の表情だ。人を救い、自らは何処かへ消えていく、名もなき英雄の。
一瞬が、スローモーションに感じられた。
「――アルエット!!」
そんな表情は、見たくない。
君は死んじゃうんだぞ! なんでそんな表情ができるんだ!?
僕を救って、それで君だけ死んでしまうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「――来ないで」
聞こえるはずがないのに。そんな時間はなかったはずなのに、その声は確かに聞こえた。
その声に、痛む足を引きずって起き上がっていた僕は凍りつく。
僕の視線の先には、相変わらずあの微笑を浮かべる彼女がいる。
「来ないで。来たら、君まで死んじゃう」
拒絶。
微笑みに含まれた意味は、重かった。
「良いの。君を助けられたなら、私は笑って死ねる」
人間らしく――と、彼女は言った。
自分の死を嘆くのではなく、僕を救えた事を誇りとして、笑って死ねると。
「――好きだよ」
その声が最後だった。時間はいつの間にか現実の流れを取り戻し、彼女の姿は一瞬で海に消える。その後も海は激しく荒れ狂い、二度と彼女が浮かんでくることはなかった。
5年後、僕はふらりとあの入り江を訪れていた。今日は彼女の命日で、花を供えに来たのだ。
墓はもちろん村にあるけれど、僕が彼女に手向ける花は海に撒くと決めていた。
あの日から、僕は地獄を見てきた。巻き戻すことのできない時間の中、彼女を欠いた日常が続いて行くのは、誰のどんな言葉よりも僕を深く引き裂いた。
しかし、それ以上に僕を痛めつけたのは、僕には傷つく資格すら無いという事実だ。自らの過失で彼女を殺しておきながら、その罪まみれの僕が涙を流すなんて、赦されることではない。
献花も、本当はそれを行う資格なんて持たないのだ。
そんな思いを振り切って、あの日以来、立ち入り禁止になった入り江に、足を踏み入れる。
ざりざりと足裏で小石を踏み、岩場の上を歩いた。そうして見た海は、やっぱり荒れていた。
あの日以来、彼女の命日には海はいつも荒れている。まるで、泣いているようだ、と僕は思った。
でも、彼女は泣かないだろう。あの日のように、嬉しそうに、悲しそうに、笑うだけなのだろう。
「アルエット……受け取ってくれ」
岩場の端に立ち、花束を海に投げ入れる。ゆるく束ねてあったそれは、潮風に吹かれ、するりと解ける。ばらばらの軌道を描いて、沢山の花は海へと落ちた。
僕はそれを無言で眺める。
花は、彼女に届くだろうか。この場所で、この海で散った彼女へと。歪むことなく、届くだろうか。
きっと、届かないだろう。だが、それでいい。届いたところで、それは彼女に悲しみしか届けないだろうから。
それでも資格なき献花を続けるのは、ひとえに僕の自己満足だ。
「本当に……ごめんな……」
「――ぇぇぇん……えぇぇん」
その時、妙な声が聞こえた。僕以外誰も居ないはずのこの入り江で。
慌てて声のした方に振り返る。そこには1人の子どもが座り込んで泣いていて、その泣き声が潮風に乗って聞こえてきたようだ。
ここまで来たときは、まったく気付かなかった。それほどまでにその子供は消沈し、聞くに堪えない嗚咽を漏らしている。
良く見ると、その髪や身に纏う衣服が濡れている。そして、右手は何かを指すように海へと向けられ――
怖気というか、ある種確信にも似た予感が僕の背筋を電流の如く駆け抜けた。
「――まさかッ!」
その子供の指先を辿って、見つけた。沖と岸の狭間で浮き沈みするように、人影が上下している。
――間違いない。溺れている。
「くそッ、おい、大人を呼べるか!? 僕が今から助けに行く! その間に大人を呼ぶんだ!」
相手を見もせず、海に向かって駆け出しながら、そう言い放つ。
だが、今は丁度漁の時間帯だ。村には女子供しか残っていないだろう。だが、それでもいい。とにかく助けた後の面倒をみられる相手が必要だった。
――助けた後も、僕が居るとは限らないから。
「早く行けッ!」
それだけ言うと、僕は海に飛び込んだ。背後の足音が水の音にかき消され、同時に心地よい冷たさが全身を包む。
僕は泳いだ。およそ、今までにないほど全力で。彼女も、そうだったのだろう。目の前でかき消えそうになっている命を救うために、全力を以て泳いだのだろう。
青く、深い海を、どんどん沖へ向かっていく。口に幾度も幾度も塩気を感じながら、決して止まらず前へと急いだ。
そして、見えてきた。最早殆ど沈んでいる、それでも懸命にもがく子供の姿を。
「つかまれッ!」
それは奇しくも、いつか彼女が僕に言った台詞と同じもの。
そして、僕はがっしりとその小さな手を掴むのだった。
僕は、暗い海の中を漂っていた。もう、上も下も分からない。だが、どこからともなく光がカーテンのように射し込んでいる。そのカーテンを辿っていけば、底か海面に着くだろう。
(無事、だったな)
静かに、助けた少年の事を思い出す。陸に上げた後、すぐに水を吐き出した。あれなら、助かるだろう。
最初に泣いていた子が、すぐに大人を呼びに行ってくれていたから、助かった。
(それにしても、本当に、こうなるとはな……)
岸まで泳ぎきった時、ほとんど体力は残っていなかった。きっと、あの時の彼女も同じだろう。そして、力の抜けた体は、いとも容易く波に攫われるのだ。
だが、それも覚悟の上、だ。
こうして暗い海を漂うのも、そのまま底へ引きずり込まれるのも。
だが、希望も、あった。
(もしかしたら、彼女に逢える、かも……)
もし逢えたら、なんと言おうか。
謝っても、彼女は怒るだけだろう。ならば、ひさしぶり、だろうか。
(もし、逢えたら……。またいっぱい遊ぼう。あの頃から溜めてた分、全部)
海が、暗さを増した。その分、カーテンはより一層輝いている。水も冷たくなって、身体の中に入り込んで来た。
それと反比例するように意識は遠のいて、視界は暗くなっていく。
(あ……ダメだ。もう、眠い……)
寝てはダメだ。彼女が逢いに来るのだから、しっかり起きていないと怒られてしまう。
(ああ、でも、本当に……)
暗い水の中、カーテンのように射し込む陽光は、僕への最後のご褒美か。それは、何よりも神々しく、僕を祝福してくれているようだった。
(綺麗だ……)
To Be Continued...
すぐ近くに海がある僕らの村では、泳ぎは最も身近な遊びのひとつだったと言っていい。白い砂浜、高い岩、深い水深の海中洞窟……。僕らが遊ぶべき場所は沢山あった。
だが、彼女はどんな遊びであろうとも、それが水中で行われる限り無敗だった。速さでも、潜れる深さでも、どれ一つとして他の子供に王者の座を譲ることはなかった。
彼女に聞いた話によると、彼女は船に乗せてもらう事が出来なかったらしい。漁民の間に伝わる、古い伝承のためだ。
曰く、女を船に乗せると、それを見初めた海の神によって船は転覆させられ、女を奪われる。
それを理由に船に乗せてもらえず、だが、海への憧れを捨て切れず、選んだ道が、泳ぎらしい。
だから、彼女は誰よりも速かった。将来船に乗る僕らよりも、ずっとずっと本気だった。それはどこか鬼気迫るものがあり、それが僕らの敗因なのだろうという事は、うっすらと想像がついた。
だけど、僕と彼女は大の親友だった。いつでも二人で遊んでいたし、とりとめの無い事を話しあいもした。こっそり二人で遠くまで泳いだり、二人だけの秘密の場所でいろいろな遊びをした。
でも、海の中でだけは彼女は孤高で。それが僕にはたまらなく恐ろしかった。いつか、彼女が僕の手の届かない所まで泳いでいってしまうんじゃないかと、1人怯えた。
だから、僕は懸命に練習した。それでも彼女には敵わなかった。次第に、諦めの気持ちも広がってきた。
でも、僕にはそれが悔しくて、いつもいつも夜遅くまで練習したけれど、結局最後まで敵わなかった。
そう。最後まで。
彼女は13歳で帰らぬ人となった。まるでそこで生きる人魚の如くなじんだ、海に消えて。
その日、僕は深い入り江で遠泳をしていた。最も速度の出る、クロールと呼ばれる泳法で、まっすぐに沖を目指す。
沖には波があるばかりで、目印になるようなものは何もない。だから、僕はあらかじめ決めておいた時間だけ泳ぐと、すぐに入り江へ引き返した。
伊達に漁師の息子ではない。体内で、かなりの精度を以て時間を刻める。だが、この日は海の機嫌が悪かった。まだ半分も戻らないうちに、波が荒れ出したのだ。
それは、嵐と呼ぶには小さすぎたかもしれない。だが、それでも小さな僕の体力を奪うには十分だった。水は凍えるほどの冷たさとなり、手は重く、その上水をかいてもかいても、から回るばかりで全く進まない。
疲労でかすんだ視界に、僕の出発した入り江はとても小さく見えた。
だが、火事場の馬鹿力とは、ああいうものをいうのだろう。その幼い体の命を燃やしつくすように、僕は泳いだ。
大きな波も、吹きつける潮も、全てを打ち破るようにがむしゃらに。生き残るために、もう一度彼女に会うために僕は泳いだ。
もうすぐ、陸だ。ここまでくれば、もう大丈夫。
その、一瞬の集中力の途切れが、最後の引き金だった。
「――ッ!?」
右足に、違和感。微かに引きつるような、痛みを伴う違和感の正体は――
「うっ、がぁぁあッ!!」
――足が、攣ったのだ。
入り江は目の前。だが、今まで忘れていた疲労と痛み、寒さが途端に蘇ってきて、僕から体力を根こそぎ奪う。
最早、自分で浮くことさえできない。僕の下に構えるは、暗き顎を持つ深い海。その色は決して澄んでなんていなくて、深い緑色に濁った虚無を晒していた。
それを意識した途端、激甚な恐怖を感じた。沈みかけた僕の口に入ってくる、しょっぱい水もその恐怖を助長する。視界はただ揺れるばかりで、パニックに陥った僕には、最早目の前すらみえていない。
攣った足以外の手足も、疲労が満ちて満足に動かない。酸素を吐き出した体は、既に水に浮かばない。
そんな時、父から繰り返し聞いた言葉が耳の奥でこだまする。
“海を甘く見た者の末路は――”
「つかまれッ!」
「!」
聞き覚えのある声と共に、目の前に手が差し出される。日焼けして褐色の、女の子らしい、やや丸みを帯びた手。その手首には、僕が誕生日に贈った髪紐が結ばれている。
何も考えず、それを掴んだ。藁にもすがる思いだった。彼女は一度だけ真剣な表情で僕を見て、微笑んだ。そしてすぐに前に向き直る。
パニックに陥り、ばたばたと暴れる僕を、無理やり押さえつけて、彼女は泳ぎ出した。
彼女はまだ13歳で、同年代の子供を1人抱えているだけで十分な重石となるはずだった。そのうえ、海はまだ荒れており、波も高く、潮のうねりも力強い。
その幼い身には、未だ衣服を纏ったままで、それらは水を吸って彼女を縛る重りにしかならない。
だが、彼女の速度は一向に衰えなかった。波に乗るように速度を上げ、うねりを利用して体力を温存する。まるでこの世に彼女を縛るものなど存在しないとでも言うように、軽やかに泳いだ。
今にして思えば、あれは秤にかけていたのだろう。僕の命と、自分の体力を。そして、天秤は僕の命に傾いた。
それは、決死の覚悟だったのだろう。
彼女の、波をもものともしない泳ぎで、僕はなんとか入り江まで運ばれた。だが、彼女は僕を岩場に上げた後、力尽きたように大波に攫われる。
まるで彼女を狙ったかのような、唐突な大波。それはまるで巨大な海の神の手のように、彼女の小さな体を捕まえて、暗い海に引きずり込んだ。
咄嗟に伸ばした僕の指先は、彼女の手に触れ――掴むこと適わず、離れた。その時、悲しそうな、そして嬉しそうな顔をした、彼女の顔が見えた。
僕を助けられた事を安堵するように、そして、別れを惜しむように。
――それは、英雄の表情だ。人を救い、自らは何処かへ消えていく、名もなき英雄の。
一瞬が、スローモーションに感じられた。
「――アルエット!!」
そんな表情は、見たくない。
君は死んじゃうんだぞ! なんでそんな表情ができるんだ!?
僕を救って、それで君だけ死んでしまうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「――来ないで」
聞こえるはずがないのに。そんな時間はなかったはずなのに、その声は確かに聞こえた。
その声に、痛む足を引きずって起き上がっていた僕は凍りつく。
僕の視線の先には、相変わらずあの微笑を浮かべる彼女がいる。
「来ないで。来たら、君まで死んじゃう」
拒絶。
微笑みに含まれた意味は、重かった。
「良いの。君を助けられたなら、私は笑って死ねる」
人間らしく――と、彼女は言った。
自分の死を嘆くのではなく、僕を救えた事を誇りとして、笑って死ねると。
「――好きだよ」
その声が最後だった。時間はいつの間にか現実の流れを取り戻し、彼女の姿は一瞬で海に消える。その後も海は激しく荒れ狂い、二度と彼女が浮かんでくることはなかった。
5年後、僕はふらりとあの入り江を訪れていた。今日は彼女の命日で、花を供えに来たのだ。
墓はもちろん村にあるけれど、僕が彼女に手向ける花は海に撒くと決めていた。
あの日から、僕は地獄を見てきた。巻き戻すことのできない時間の中、彼女を欠いた日常が続いて行くのは、誰のどんな言葉よりも僕を深く引き裂いた。
しかし、それ以上に僕を痛めつけたのは、僕には傷つく資格すら無いという事実だ。自らの過失で彼女を殺しておきながら、その罪まみれの僕が涙を流すなんて、赦されることではない。
献花も、本当はそれを行う資格なんて持たないのだ。
そんな思いを振り切って、あの日以来、立ち入り禁止になった入り江に、足を踏み入れる。
ざりざりと足裏で小石を踏み、岩場の上を歩いた。そうして見た海は、やっぱり荒れていた。
あの日以来、彼女の命日には海はいつも荒れている。まるで、泣いているようだ、と僕は思った。
でも、彼女は泣かないだろう。あの日のように、嬉しそうに、悲しそうに、笑うだけなのだろう。
「アルエット……受け取ってくれ」
岩場の端に立ち、花束を海に投げ入れる。ゆるく束ねてあったそれは、潮風に吹かれ、するりと解ける。ばらばらの軌道を描いて、沢山の花は海へと落ちた。
僕はそれを無言で眺める。
花は、彼女に届くだろうか。この場所で、この海で散った彼女へと。歪むことなく、届くだろうか。
きっと、届かないだろう。だが、それでいい。届いたところで、それは彼女に悲しみしか届けないだろうから。
それでも資格なき献花を続けるのは、ひとえに僕の自己満足だ。
「本当に……ごめんな……」
「――ぇぇぇん……えぇぇん」
その時、妙な声が聞こえた。僕以外誰も居ないはずのこの入り江で。
慌てて声のした方に振り返る。そこには1人の子どもが座り込んで泣いていて、その泣き声が潮風に乗って聞こえてきたようだ。
ここまで来たときは、まったく気付かなかった。それほどまでにその子供は消沈し、聞くに堪えない嗚咽を漏らしている。
良く見ると、その髪や身に纏う衣服が濡れている。そして、右手は何かを指すように海へと向けられ――
怖気というか、ある種確信にも似た予感が僕の背筋を電流の如く駆け抜けた。
「――まさかッ!」
その子供の指先を辿って、見つけた。沖と岸の狭間で浮き沈みするように、人影が上下している。
――間違いない。溺れている。
「くそッ、おい、大人を呼べるか!? 僕が今から助けに行く! その間に大人を呼ぶんだ!」
相手を見もせず、海に向かって駆け出しながら、そう言い放つ。
だが、今は丁度漁の時間帯だ。村には女子供しか残っていないだろう。だが、それでもいい。とにかく助けた後の面倒をみられる相手が必要だった。
――助けた後も、僕が居るとは限らないから。
「早く行けッ!」
それだけ言うと、僕は海に飛び込んだ。背後の足音が水の音にかき消され、同時に心地よい冷たさが全身を包む。
僕は泳いだ。およそ、今までにないほど全力で。彼女も、そうだったのだろう。目の前でかき消えそうになっている命を救うために、全力を以て泳いだのだろう。
青く、深い海を、どんどん沖へ向かっていく。口に幾度も幾度も塩気を感じながら、決して止まらず前へと急いだ。
そして、見えてきた。最早殆ど沈んでいる、それでも懸命にもがく子供の姿を。
「つかまれッ!」
それは奇しくも、いつか彼女が僕に言った台詞と同じもの。
そして、僕はがっしりとその小さな手を掴むのだった。
僕は、暗い海の中を漂っていた。もう、上も下も分からない。だが、どこからともなく光がカーテンのように射し込んでいる。そのカーテンを辿っていけば、底か海面に着くだろう。
(無事、だったな)
静かに、助けた少年の事を思い出す。陸に上げた後、すぐに水を吐き出した。あれなら、助かるだろう。
最初に泣いていた子が、すぐに大人を呼びに行ってくれていたから、助かった。
(それにしても、本当に、こうなるとはな……)
岸まで泳ぎきった時、ほとんど体力は残っていなかった。きっと、あの時の彼女も同じだろう。そして、力の抜けた体は、いとも容易く波に攫われるのだ。
だが、それも覚悟の上、だ。
こうして暗い海を漂うのも、そのまま底へ引きずり込まれるのも。
だが、希望も、あった。
(もしかしたら、彼女に逢える、かも……)
もし逢えたら、なんと言おうか。
謝っても、彼女は怒るだけだろう。ならば、ひさしぶり、だろうか。
(もし、逢えたら……。またいっぱい遊ぼう。あの頃から溜めてた分、全部)
海が、暗さを増した。その分、カーテンはより一層輝いている。水も冷たくなって、身体の中に入り込んで来た。
それと反比例するように意識は遠のいて、視界は暗くなっていく。
(あ……ダメだ。もう、眠い……)
寝てはダメだ。彼女が逢いに来るのだから、しっかり起きていないと怒られてしまう。
(ああ、でも、本当に……)
暗い水の中、カーテンのように射し込む陽光は、僕への最後のご褒美か。それは、何よりも神々しく、僕を祝福してくれているようだった。
(綺麗だ……)
To Be Continued...
11/07/08 21:45更新 / 湖