激動と停滞
ここ数日で、戦局は大きく変化した。
今まで、砦の存在や国の後ろ盾によって激化を免れてきたこのあたりの戦場も、一気に修羅場へと変わった。
数年前に魔界に呑まれた、とある街から進攻する魔の軍勢が、積極的に戦闘を始めたためだ。その最初の標的に選ばれたのが、この街だった。
僕の居た砦に常駐していた兵力は、規模を半分に減らしながらも街を死守。各地に要請した増援が到着する頃には既に壊滅していたと言っても過言ではない。
砦を居城としていた領主はさっさと外へ逃げ、その力の無い住民だけが砦の裏の町に取り残された。幾度も繰り返される魔物による襲撃に、兵士たちは疲弊し、日に日にその数を減らしていった。
教会より派遣された騎士、ミュウの行方は依然不明――というのが公式見解で、僕だけは知っているが、誰にも言えない。
今日も魔物の攻勢を水際で食い止め、城壁の内側に引っ込む。僕の他数人いる兵士も皆、疲れた表情を隠せず、武具を引きずるようにエントランスのイスに座り込んでいる。
各地から増援が送られてくるものの、一気に大人数は送れないため、ぎりぎりの攻防はまだまだ続きそうだ。
「いつまで、続くんだよ……」
「やってられない……もう楽になりてぇよ」
ぼやく声も日に日に大きくなり、それに反比例してぼやく人間は減って行く。
僕自身、毎日なんとか生き残っているような状況だ。
だが、僕らが斃れれば、次に彼女らの手に掛かるのは、力を持たない街の住人達だ。
決して、斃れる訳にはいかない――。
僕は立ちあがった。今日は早めに休もう。明日もまた、戦場が待っているのだから。
ミュウは暗い廊下を歩いていた。堅牢な石造りの廊下を、かつかつと足音を響かせて歩く。歩く度にその長い亜麻色の髪は揺れ、時折角に引っ掛かる。服装は勇者のそれでは無く、光沢のある黒い革の衣装だ。装飾の金属と黒の革で造られたそれは、大胆な露出を持つデザインで、足や手もなめらかな曲線を強調するようなデザインになっていた。
それらにドレスのようなシルエットを与えるように、これだけは勇者時代と変わらないソードベルトで吊った、前の開いたスカートのようなクロースがあしらわれている。剣帯によって吊られる剣は、教会より下賜された、十字の柄を持つ銀製の長剣ではなく、左右非対称の攻撃的デザインの柄を持つ、黒を基調とした細身の長剣だ。
そんな装備に身を固めた今の私は、正しく悪魔としての外見を持っているのだろう。淫靡な夜の悪魔、サキュバスとしてのいでたちを。
勇者時代の実直なイメージとはかけ離れ、妖艶や狂美的とでも表現するのが適切なその姿は、実を言うと自分でも恥ずかしかった。
だが、敬愛するリリム、シルヴィアに褒められてからは特に気にならなくなったのも事実だ。後はフェンの評価次第だろうか、と思う。
今は、捕虜の部屋を覗きに行った帰りだ。だが、中には場所も考えず情事に耽る淫魔などの魔物と、両手足を縛られ抵抗すらままならない兵士たちの姿があるだけだった。
妙に扉の造りが堅牢なのは、恐らく声を外に漏らさぬようにという配慮なのだろう。自らも魔に染まっておいてなんだが、恐怖を感じる。
考えに耽っていると、廊下の突き当たりまで歩みを進めてしまった。上層に位置する廊下なので、両脇に壁は無く、代わりに柱と手すりがある。柱と柱の間はそのまま開けており、手すりに身を預ければ一面の景色を堪能できる。
風が吹き抜け、私の髪を攫う。風と戯れる髪を手で押さえながら、一面の景色を拝む。
この景色を作りだした者が誰であれ、その者は良い仕事をしたと思う。沈みかけの日の赤に染まる、魔都の歪な建物の群れは、背後の湖を隠すような配置で目に飛び込む。東に位置する深い森からは鳥が集団で飛び立ち、黒いシルエットで以て空を彩る。
綺麗だ。以前までの私なら、こんなことは思わなかっただろう。だが、堕ちて、堕して、そう思えるようになった。
手を伸ばせば届きそうな、まるで奇抜な絵画のような、綺麗な世界に、私は実際に手を伸ばした。手すりを乗り越え、手を伸ばす。
だが、黒い革の手袋に覆われた、私の指先がその世界に届く前に、私の体が重力に囚われた。体を前に傾けていた私は、頭から地面へと墜ちていく。
人であれば、生還は難しかったかもしれない。私は空中で身を捻って体勢を立て直し、畳んでいた背中の翼を展開した。漆黒を固めたような翼が風を孕み、力強く下へ打ち下ろす。
手でも足でも無い、四肢に含まれぬ新たな器官を得て、最初はかなり戸惑った。だが今は、文字通り手足の如く使いこなすことができる。
十分な加速を得て、羽ばたきを止める。水平に大きく広げ、滑空して速度を稼ぐ。
目指すは自分の部屋。城の大分奥まったところに位置するその部屋は、あの時のように殺風景なままだ。
今度こそ、フェンに手伝ってもらって内装を決めようと思う。むしろ、フェンと同じ部屋でも良いと思う。ついでに、好みの髪形も聞いておこう。切るのが面倒でただ伸ばしていただけの長髪は、飛ぶのには不向きだ。
そんな事を考えつつ、柱の合間を縫って廊下へ突入する。速度を落としつつ、城の内部に飛び込み階段を上がる。未だ地に足を着けずに吹き抜けを飛びぬけ、細い廊下へと至り、長い通路を滑空し抜ける。
その辺りで速度を緩め、豪奢な絨毯に足を着け着陸する。歩みを止めた場所は、正に自室の前だった。
ドアノブを捻りながら思う。今日は早く寝よう、と。なにせ、明日からは私も戦地に赴くのだから。
戦場は、安全な教国の教会で想像していたよりも、遥かに過酷な場所だった。
神の奇跡の代行者である、高位神官とてその過酷さに変わりはない。毎日、戦闘が終われば、依代である鉄杖を地面につき、寄りかかるようにして拠点へ帰還する。
私の奇跡を以てしても命を救えず、家族の名前を口にしながら天に召されたり、目の前で捕虜になった兵士を救うことができなかったり、挫折も何度も味わった。
だが、ここが彼女の居場所だったのだ。私達が勝手に勇者と、才を与えられし者と呼び、孤独に戦場へ送り出した、1人の少女の。
何故、彼女が派遣先で消息を絶ったのか。それは、彼女と同じ場所に立たねば解らない気がした。
汗と戦塵にまみれ汚れた神官服を纏い、野営地へと帰還する。足は幾度も攣り、体中が筋肉痛で激しく痛む。敵の攻撃を受けた背中は疼痛を訴え、何よりも激しい疲労で体が重い。
それも当然だ。ずっと安全な場所に引きこもり、耳当たりの良い綺麗事ばかり説いてきたのだから。高度な教育を受けるための費用も、生まれという自分の努力とは何の関係もないファクターによってクリアし、今の今までこの世界にこんな過酷な生き方があるだなんて想像もしていなかった。
生きるために命がけになる必要なんてないと、日々、決死の覚悟で生きている人達をあざ笑うかのような日常を送っていた。そして、それを当たり前だと思っていた。
いや、それすらも自分を騙すための欺瞞だ。今まで必死になって神官としての技量を磨いてきたのは、ちっぽけな自尊心を満たすためだ。
同期の中では敵知らず、先輩や既に神官として働いている本職にだって負けることは少なかった。だが、それは本当に救われぬ人々に救いの手を差し伸べるためだったのだろうか。
こんな現実を知りもせず、ただ神官となって出世するためだけに磨いた技能ではないか。周囲からの尊敬の視線を集め、それによって自己顕示欲を満足させた、どこまでも矮小で卑劣な人間だ。
彼の少女は、知っていたのだろう。だから、あれほど強かったのだろうが。
教国に居た時、唯一私よりも強く、また魔術の素養があったのは彼女だった。それゆえ、自分のプライドを護るように彼女を避けた。彼女は、私の事を覚えてすらいないだろう。
だから、戦場へ赴いた。自ら志願し、今まで鍛えた力を頼りに戦乱の渦に飛び込んだ。
私の覚悟は、この程度で折れる物か。
否。ならば進め。エリカ=デア=フェーゲルアイン。
今日はもう寝よう。明日があることを感謝しつつ、明日の戦闘へ備えるために。
朝、背中の翼は使わずに、城主の部屋へと向かう。
ブーツのヒールがカツコツと石造りの床を叩き、連続した音を鳴らす。鳴った音の分だけ、戦場へと近付く。
戦場が近付いている、という高揚は、普通の高揚とは少し違う。体が火照るのと同時に、冷たく重いものが体の奥に沈むような感覚だ。
それは時に鎖となり、実戦での剣の動きを妨げる。そして時に枷となり、いざという時の足の運びを妨げる。
私にとっては慣れたものだ。だが、無くなる事は決してない。あるとすれば、それは己の死期と同義だ。
「おはようございます」
そんな事を考えていると、シルヴィアの部屋の前に辿りついていた。
部屋の前にはメイド姿のアメシストの姿があり、いつもの微笑で私を待っていた。
いつかと同じように、彼女は重厚な扉を指し、言う。
「中で、主がお待ちです」
「……はい」
私は扉を開けた。閉めた。
中は採光のためか、カーテンを開けており、この前来た時よりも大分明るくなっていた。
部屋のインテリアを無視して中央に置かれた玉座、調度をぶち壊して置いてあるそれに、シルヴィアは腰掛けてこちらを見ている。
着替えていないのか、その姿はネグリジェ一枚で、足を汲んで大きめなイスに座るその姿は、とても扇情的だ。
「遅いわよー。もうちょっとで寝ちゃうとこだったわよー」
……ただ眠かっただけのようだ。
半目でとろんとした目をこちらに向けながら、彼女は言う。
「今日は自由行動で良いわ。街囲んでる部隊と合流しても良いし、上から奇襲かけても良いしー。好きにやって頂戴」
「え、えっと、そんな命令で良いの?」
教会からの、がちがちに堅い文章での命令に慣れ親しんだ身としては、かなりの違和感を覚える。
「いいのいいのー。なんならサボって私と遊ぶー?」
良いわけがない。サボって遊ぶなどもってのほかだ。
だが、事あるごとにサボっていた、あの少年は今、どうしているだろうか。
必死になって戦っているだろうか。それとも、適当に息を抜きつつやっているだろうか。
――彼に会いに行くのも、いいかもしれない。彼がどんな答えを持っているのか、恐怖の気持ちはあるけれど。
もし、彼が私を好いてくれたのなら。今度こそ、彼と共に居ようと思う。
「命令、了解。我が剣に賭けて、主の命を果たすことを誓います」
「私と遊ぶー? 遊んじゃう?」
もしかしてこの淫魔、酒入ってないだろうか。目も据わっているし、こころなしか頬も赤い。
人がビシッと決めたというのに、一瞬で張り詰めた空気をぶち壊してくれた。
そのまま、酔った中年のような手つきで私に手を伸ばしてきたので、軽く後ずさってかわす。
「ちょっと、酒! 酒入っているでしょ!」
「ちょっとだけー。減るものじゃないでしょー?」
駄目だ。これはちょっと対応できない。
この酔っ払いの相手はアメシストに任せて、私はさっさと退散するのが得策のようだ。
「じゃあ、私は行くからね」
くるり、と踵を返す。そのままドアへと歩みを進める私に、
「その服。着てくれるとは思わなかった」
……これは喜ぶ場面か? 怒る場面か?
静かに私は自分の服装を見下ろす。光沢のある黒の革で統一された衣装は、翼や角、尻尾とも相まって十分以上に扇情的だ。
「でもね、似合ってるわよ。ミュウに」
……こういうことを言うのは、ずるい、と思う。だって、
脱ぐに脱げなくなってしまう――。
褒められた嬉しさと、照れを隠しながら、言う。
「……ありがとう」
それを言って、一層頬が赤くなったのを自覚しながら、扉を開ける。
「幸運を祈るわ。貴女自身にね」
背後から投げられたシルヴィアの言葉を受け、それに返事をせずに私は宙に飛び出した。
裏門は、正面の門とは違いあまり丈夫に造られていない。
その分小さめで、防衛は容易と言えるが、
「クソッ、貰っちまった! 悪いが下がる!!」
少数対少数、言いかえるなら個人戦が並列して行われているような状態だ。集団で威力を発揮するような武器は使いづらく、連携よりも個人の武勇がモノをいう場所と言えた。
深追いや無理は、即、死に繋がる。それでもこの戦場で戦う者は、尊い魂の持ち主と言えた。
私も、襲いかかって来たリザードマンの剣を杖で迎撃し、すかさず距離を取る。
この魔物は危険だと、ここ数日で身を以て知った。とりまわしで劣る杖、さらに筋力でも負けているとなれば、接近した間合いで勝てる道理が無い。
「――光よ」
「!」
杖を向け、スペルを唱える。唱え終わると同時に展開した魔法陣から、光の剣が現れ、敵に向かって直進した。
かなりの速度で飛んだ光剣は、だが敵を捉えるには至らず、彼女の背後を抉る。
そして、それは決定的な私の隙になった。思い切りの良い踏み込みと共に放たれた剣戟が、私の胴を薙ぐ。
「――ッ」
浅く、朱が飛んだ。服の胸元が切り裂かれ、下の肉もわずかだが切れる。
続く二の太刀も浅く受け、だが致命傷には至らない。
切られつつ、杖を構えた。
「光よ!」
展開は一瞬。容赦なく胴体へ向けて放たれた光剣が、相手の脇腹を抉るように飛んだ。一瞬、驚愕に満ちたリザードマンと目が合い、すぐに離れた。
彼女は手で脇腹を押え、その出血を確かめる。
「……撤退する」
悔しそうに、それだけを言って彼女は後方に下がって行った。
だが、気は抜けない。視界を巡らせばあちらこちらに敵の姿が見え、それと同数の味方の数がある。ある者は剣で、ある者は槍で、またある者は杖で。それぞれの得物を掲げ、敵の攻撃を防いでいる。
見渡す限り、無傷のものは1人も居ない。敵も味方もどこかから血を流し、それでも眼光鋭く、相対する者を見つめる。
剣戟を応酬し、時に防ぎ、かわし、それでも斃れぬように、退かぬように。全力と全力がぶつかる、なにか美しいものが、そこには有った。
「どうした!? 休めるときに休んどけ!」
私の脇を通り抜けて行った1人の剣士が、そう声をかけてくる。その声に引き戻されるように、私は我に返った。
幾度も幾度も行い、既に身についてしまった癒しの奇跡を、半ば自失した状態で行う。
「癒しの光よ……」
指先に灯った緑の光が、傷を癒す。切り裂かれた服は元には戻らないが、肌に刻まれた傷は跡形も無く修復される。
ここに来てから幾度となく味わった、傷口の上に何かが這いずっているような感触と共に、出血が止まったのを感じた。流れた血は戻らないが、それは元より多くない。
「……ミュウは……」
思わず、口を突いて出る。
彼女は、こんな過酷な場所で戦っていたのだろうか、と。己の力以外、頼れるものの無い孤独な場所で、されど皆の期待を背負って戦っていたのだろうか。
だとしたら、それはどれほどの苦痛か。そして、どれほど誇らしかっただろうか。一度負ければ、それらが全て自分への怨嗟に変わると知っていながら、それでも向けられる称賛に、どれほど誇らしい気持ちになっただろうか。
他人に無い力を振るい、人ではあり得ぬほどの戦果を打ち立てる。しかし、その身に自由はなく、裏で糸を引かれる操り人形。
私は思う。この感情は嫉妬だ、と。それも、相手の良い部分ばかりを見て感じる、最低の嫉妬だと。
己の力が彼女に及ばなかったことに、それ程の引け目を感じているのだろうか。もしそうだとすれば、神の奇跡の代演者たる神官が、聞いてあきれる。
敵わない。何をやっても敵わない。その事実に、涙が溢れ出そうになる。
だが、それを堪え、きっと前を見据える。
その視線の先に、こちらに歩いてくる人影が見えた。それを視認した瞬間、全身が一瞬強張り、すぐにでも動けるように臨戦態勢を取る。杖を握る手にも適度に力が入り、思考も研ぎ澄まされてゆく。
次の敵は、あいつだ。
いいだろう。この戦場で答えを見つけるまで、何とだって闘ってやろう。
がしゃがしゃと音を鳴らし、城壁の外を走る。既に鎧はボロボロで、剣もあちこち欠けている。体中に傷を得て、それでも僕は止まらない。
体中から血を流し、それでも瞳に込めた力だけは失わず、僕は走る。
視界の先では、2人の人影が向かい合っていた。片方は黒の神官服を纏った、灰色の髪を持つ少女だった。そして、もう片方は――。
「ミュウ――!!」
未だ遠く、声は届かない。
だが、あそこまでたどり着いたとして。僕はどちらの味方をするのだろうか。
ミュウの問いに決着を出し、彼女と共に歩むのか。あくまで優柔不断に回答を引き延ばし、彼女に剣を向けるのか。
しかし、後者の回答は不適だ。なぜなら、それは“ミュウなら僕を切らない”という自惚れにも似た甘えによるものだから。
ならば、ミュウに味方し、見知らぬ少女を斬るか。
この回答も不適だ。そんな所業に、他ならぬ僕自身、耐えられない。
結局、僕は理由なくミュウに会いに向かっているだけなのだろう。その行為自体が、彼女の問いに対する答えとするのは、逃避だろうか。
葛藤がある。僕は彼女がきっと好きだ。だが、僕はかつての仲間に剣を向けることができるだろうか。家族を奪われた僕に、誰かの家族を奪う選択ができるだろうか。
詰まる所、僕は怖いのだ。闇に身を堕とし、悪に身を染めるのが。どうしようもなく臆病で、それ故に彼女の気持ちにも答えず。
だから、彼女に会いに行くのだ。僕は臆病で、どうしようもなく怖がりだから。僕に僕は殺せないから、彼女に殺してもらうために。
――彼女は。僕を正しく狂わせる力を持っているだろうから。
もし、彼女が僕を狂わせるに足る存在なら。僕は――。
思考を回す間にも距離は縮み、その分だけ足が悲鳴を上げる。だが、そんなものは些細な犠牲だ。
彼女が彼女の手に掛かるのも、彼女が彼女に殺されるのも、許容できない。僕が行っても止まる保証はない。逆に、僕の早とちりなのかもしれない。
僕の杞憂であればいい。だが、そうでなかったなら。
無駄と知りつつ、それでも手を伸ばす。
「――すみませんが、ここから先は通行止めです」
「……やっぱり、出てきますか」
伸ばした手の先に、1人の女が立っていた。不思議な薄紫の髪に、あまりにもこの場にそぐわぬメイド服。手に持つは、掃除用のモップ。
ここで邪魔が入るということは、やはり、あの戦いはミュウにとって、特別な意味をもつものなのだろう。そうでなくても、第三者の介入を許さぬ程には、重要な邂逅だったのだろう。
邪魔者の出現に、安堵と焦りを得ながら、僕は武器を構える。疲労で揺れる剣先に、ボロボロになった鎧。大層な装備だが、ここで斃れるわけにはいかないのだ。
「手加減は、しませんよ」
「お気遣いなく。――では、参ります」
次の瞬間、僕たちは衝突した。
私の目の前に居たのは、私と同じくらいの年頃の少女だった。教会で幾度か目にした、高位の神官のみが着用を赦された、黒を基調とした服を着ている。首からはロザリオを下げ、手にはシンプルなデザインの鉄杖を持っている。
その金の眼は、明らかにこちらを敵視している。同じように、相手から見れば私もそう見えていることだろう。戦場とは、そういう場所なのだ。
「――光よ!」
挨拶代わりの攻撃。こちらに向けた杖を媒介として展開した魔法陣から、高速で飛ぶ光剣が射出される。
こちらは、その術式を知っている。それは光を用いた一般的な魔術で、
――速度は速いが、直線軌道でしか飛ばない……!!
それでも、魔物相手ならば結構有用なのだ。魔術故に防御がしづらく、判断を誤れば盾ごと串刺しになる。その分、手の内を知られてしまうと殆ど当たらず、逆に隙となってしまいがちでもあるが。
なにより、直線軌道は撃たれる側――私から見たならば、点だ。上、下、右、左、正面さえ避ければいくらでも回避が可能だ。故に、私は避けた。
「はっ!」
避ける勢いで、踏み込みつつの斬撃を放つ。もちろんそんな牽制にも満たない攻撃は当たらず、相手の注意を逸らしただけで宙を斬る。
「走れ! 光よ!」
再び一瞬で魔法陣が展開し、私を狙う。今度は杖を媒介せず、空中に複数の光剣が浮かんでいるような形になる。
その射線を逃れるように身を捩るが、代わりに神官の少女からは遠ざかってしまう。彼女自身、距離を取るように後退し、次の術式を杖に絡めて展開を待っている。
まずい、と思う。このままでは相手のペースだぞ、と。
「――ッ」
短い呼気を吐き、無数に飛び交う光剣の内、当たるものだけを見極めて叩き斬る。
――この敵は、手強い。一瞬で展開される術式もそうだが、その術式の使い方を心得ている。戦場に心乱されることなく、それを的確に行使してくる。
そういった者を、なんと言うか。
――強敵だ。
「――光よ! 我が剣を喰らい輝きとせよ!」
一息に唱えた。詠唱に導かれた輝く文字列が、私の漆黒の剣を包む。
悪魔の外見を持ちながら、神の加護を行使した私を見て、敵である神官の少女が息を飲む。
「ごめんね。私、元はそっち側の人間だったの」
剣を構えつつ、言う。
もし、相手がフェンだったなら、読まれているだろうな、と思いながら。未だ驚愕に目を見開く相手は、それでも唇から言葉を紡ぎ、
「ミュ、ウ……?」
と言った。
自分の耳が信じられなかった。だが、飛び込んできた声はやはり、澄んだ高音で。聞き間違えるはずのない、私に敗北を刻んだ勇者のものだった。
今、敵の悪魔が使用した加護の術式も、やはり彼女が多用した自らの剣を強化するものだ。
「ミュウなんですか……?」
相手からの返事はない。だが、わずかに逸らすようにした端正な顔と、それを彩る亜麻色の長い髪には見間違いようがない。
「ミュウなんですね……」
ひたすらに避けていた相手と、こんなところで出くわしてしまうのは、運命の悪戯としか言えないが。それが幸いであるのか、それともこの上ない不幸であるのかは、解らない。
「――そう。私はミュウ」
一呼吸。
「シルヴィア様の眷族たるサキュバス、ミュウよ」
「ッ――」
その言葉に対して、何を言えば良いのか解らなかった。だが、名前のつけられない、どす黒い感情が渦を巻く。私を塗り替えるように、生かしたまま殺すように。
簡単に私を超えておきながら。私では到底救えない数の人を助けておきながら。私にない力を持ちながら。
――それすらも捨てるのか。価値などないと。それよりも、もっと大切なものがあると。
操り人形をやめて。勇者をやめて。更には、人であることすらやめて。だとしたら、みっともなく“正義”にしがみつく私はなんなのだ。以前、目の前で示された圧倒的な“正義”に。
それらの感情は、明確な名前を得て、私の内側に溜まる。
まるで、私と言う皮を破って、外に出ようとするが如く。
「なんで、なんで、人形のままでいてくれなかったんですか……!!」
理不尽な叫びだと、自分でも解っている。
「私に、他の全員に勝っておきながら、それを適当に捨てるだなんて……!」
この感情は、嫉妬だ。
だが、まるで坂を転がり出した鉄球の如く、その感情は止まらない。
「その気になれば、幾らでも人を救うことができるのに! 私なんかじゃ到底及ばない、圧倒的なまでの“正義”を実現できるのに!」
感情のままにぶつけられる私の言葉に、それでもミュウは眉ひとつ動かさない。
「なんで、私達の勇者でいてくれなかったんですかっ!!」
「それだと、私の居場所がないもの」
簡単に、それだけを返してきた。最早、ここは戦場ではない。剣ではなく言葉を交わし、魔法ではなく批判を飛ばす。
「“勇者”の居場所はあるわよね。皆に敬われて、畏れられて。それでいて、感謝されて」
でも、と彼女は言う。
「私の居場所は? 勇者である前に人であった、私の居場所はどこにあるの?」
私は考える。今まで、ミュウの居場所はあっただろうか、と。
教会では、どんな魔法でも一瞬で使いこなして見せた。本職の神官ですら手こずるような高位の奇跡ですら、仕組みを聞けば理解を示し、即座に使いこなした。
それを見て、私達はなんと言っていただろうか。
(まるで化物だ、と、言っていた――)
人として見られていない。身内からはその力ゆえに畏れられ、民からはその力ゆえに崇められる。どれ一つとして、人間として彼女に向き合った者はいない。
だから、彼女はそれほどまでに惹かれてしまったのだろう。
「――貴女の目を覚ましてあげます……!」
これは嫉妬だ。全て自分よりも先に行く、優れた者への醜い嫉妬だ。それをあたかも正しい行為のように見せているだけに過ぎない。
それでも、やるしかない。杖を握る手に、力を込める。
「――今のエリカには、無理、だと思う」
彼女は身がまえもせずに、私の名前を呼ぶ。
――この期に及んで、まだ揺さぶるような真似を……!
呼ばれないと思っていた名前。彼女は私を覚えていたのだろうか。
首を振って、その思考を打ち消す。目の前に居るのは、倒すべき敵だ。
「――光よ!」
光が走った。
僕は口の中に幾許かの土を得ながら、汚れた地面に転がる。最早鎧はただの錘と成り下がり、剣は角度のついた鈍器にしかならない。
それでもそれを手放さず、転がりながら立ちあがる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
これで何度めだろうか。重たい身をゆっくりと起こす僕の視線の先には、最初となんら変わらぬメイド姿の女性が立っている。
その手には掃除用のモップがあり、だが構えられることなくただ保持されている。
「――諦めて下さい。幾度挑戦しようと、今の貴方では私には勝てません」
勝てなくても良いのだ。この相手を抜き、ミュウの下までたどり着ければ――。
だが、それは見透かされる。
「彼女の下まで行き、それでどうするのですか?」
それは矢の鋭さを以て僕の下に届き、
「その中途半端な気持ちで、彼女をどうするつもりですか? 会いに行く理由すら彼女に押しつけて、それで彼女が満足すると思っているのですか?」
いつの間にか、メイドの微笑が消えていた。そのことに、今更気づく。
彼女は、怒っているのだ。他ならぬ、この僕に。
だが、メイドは一瞬首を振り、考え込むような素振りを見せた。そして、言う。
「――タイムアップです。彼女から、貴方宛てに荷物を預かっています。――お受け取りください」
一瞬で、メイドが元の微笑を浮かべる。その手には、どこから取り出したのか、一振りの長剣があった。
それを柄をこちらに向けて差し出され、力なく手に取る。
「これは、ミュウの、剣――?」
十字架を模した柄を持つ、銀の装飾をあしらった長剣だ。
手になじむように巻かれた革が、しっかりとした感触をてのひらに伝えてくる。
「では。また機会がありましたら」
そう言って去っていくメイドには目もくれず、僕は渡された長剣を抱くようにして地面に倒れ込んだ。まるで、宝物でも抱くかのごとく、大切に、大切に抱いて。
その衝撃でついに崩壊した鎧の部品を周りに撒き散らし、それに囲まれて眠る。
草花の代わりに無骨な鉄片。ドレスの代わりにボロボロの鎧。手には綺麗な長剣を抱いて、僕は眠る。どこまでもちぐはぐな構図で、でも、もしかしたらそのちぐはぐさ故に、
「僕を起こすのは……だれだろうな」
ミュウだったら良い、とそう思う。
強かった。彼女は強かった。
圧倒的な力でねじ伏せられ、それでも生かされ。ぼろぼろになった神官服は、私を隠しきれずに白い肌を外気に晒している。
ただ何をするでもなく、地面に倒れ伏し。目は景色を反射するガラス玉、あれほど燃えていた意志の光はどこにも無く、虚ろに空を見上げていた。
「悔しいですか?」
声をかけられても、反応できない。
「彼女が。彼女に勝てなかったことが、悔しいですか?」
……悔しいに決まっているだろう。
負けたのだから。彼女に、勝てなかったのだから。
「では、力が手に入るとしたら、貴女は悪魔の手を取れますか?」
悪魔の手を――。
神の手先を演じ、しかしそれすらも果たせなかった私に、相応しい末路ではあるのかもしれない。
彼女を追いかけ、そして、抜かせるのならば。
「そうですか。では、貴女は私の仲間です」
す、と眼前に差し出された手の主。不思議な薄紫の髪を持つ、何故かメイド服を着た人影。
ぱしり、とその手を取る。
その瞬間、何故か、体が軽くなったように感じた。
エリカとの戦闘を経て、私は城壁の周りをとぼとぼと歩く。この城壁が、フェンと私の間を隔てる壁なのだと思うと、気軽に飛び越えることもできない。
城壁の周りには戦闘の形跡が生々しく残り、折れた剣や槍、壊れた鎧のパーツなどが転がる。既に両陣営共に戦闘を終えており、周りに人の姿はない。
だが、稀に斃された者たちが元戦場に倒れ、誰にも回収されずにその躯を晒している。
今歩みを進める先の地面にも、ボロボロになった剣を手に、壊れた鎧の部品に囲まれて動かない少年が倒れていた。
彼はもう一つの剣を宝物のように抱いており、だがそれは抜かれずに鞘に納まった状態だ。その顔は安らかで――
「――フェン!?」
駆け寄って確かめると、それは確かにフェンだった。口に手をやって息も確かめるが、幸い息はしている。
だが、目は覚まさず、体を動かすこともしない。
死んだように眠っている。
「フェン……」
眠り姫。フェンの整った顔を見ていると、そんな言葉が浮かんでくる。
花草の代わりに、鎧の部品。ドレスの代わりに、無骨な鎧。その手に抱くは、私の贈った長剣。さしずめ、キスをして起こす王子の役は、私だろうか。
「………」
彼を抱き起こし、背を膝に乗せる。その上で頭を持ち上げ、仮想の視線を合わせる。
そこから、一気にいった。
「……ん…」
唇を重ねるだけでなく、舌も入れる。無意識に動く相手の舌を吸い、絡めるように濃密なキスを交わす。
淫靡な、粘着質の音がぴちゃぴちゃと鳴り、口の端からこぼれた唾液が彼の頬を伝う。
それでも、止めない。フェンの全存在を吸うように、口づけを続ける。
どれほど、そうしていただろうか。唐突に、私は口を放した。舌に乗った唾液が、二人の間に銀色の橋を架ける。
口を拭って立ちあがり、
「ありがとう、フェン。まだ私は待てるよ。だから――」
――絶対に、迎えに来てね。
言葉は、風に乗って消えた。
今まで、砦の存在や国の後ろ盾によって激化を免れてきたこのあたりの戦場も、一気に修羅場へと変わった。
数年前に魔界に呑まれた、とある街から進攻する魔の軍勢が、積極的に戦闘を始めたためだ。その最初の標的に選ばれたのが、この街だった。
僕の居た砦に常駐していた兵力は、規模を半分に減らしながらも街を死守。各地に要請した増援が到着する頃には既に壊滅していたと言っても過言ではない。
砦を居城としていた領主はさっさと外へ逃げ、その力の無い住民だけが砦の裏の町に取り残された。幾度も繰り返される魔物による襲撃に、兵士たちは疲弊し、日に日にその数を減らしていった。
教会より派遣された騎士、ミュウの行方は依然不明――というのが公式見解で、僕だけは知っているが、誰にも言えない。
今日も魔物の攻勢を水際で食い止め、城壁の内側に引っ込む。僕の他数人いる兵士も皆、疲れた表情を隠せず、武具を引きずるようにエントランスのイスに座り込んでいる。
各地から増援が送られてくるものの、一気に大人数は送れないため、ぎりぎりの攻防はまだまだ続きそうだ。
「いつまで、続くんだよ……」
「やってられない……もう楽になりてぇよ」
ぼやく声も日に日に大きくなり、それに反比例してぼやく人間は減って行く。
僕自身、毎日なんとか生き残っているような状況だ。
だが、僕らが斃れれば、次に彼女らの手に掛かるのは、力を持たない街の住人達だ。
決して、斃れる訳にはいかない――。
僕は立ちあがった。今日は早めに休もう。明日もまた、戦場が待っているのだから。
ミュウは暗い廊下を歩いていた。堅牢な石造りの廊下を、かつかつと足音を響かせて歩く。歩く度にその長い亜麻色の髪は揺れ、時折角に引っ掛かる。服装は勇者のそれでは無く、光沢のある黒い革の衣装だ。装飾の金属と黒の革で造られたそれは、大胆な露出を持つデザインで、足や手もなめらかな曲線を強調するようなデザインになっていた。
それらにドレスのようなシルエットを与えるように、これだけは勇者時代と変わらないソードベルトで吊った、前の開いたスカートのようなクロースがあしらわれている。剣帯によって吊られる剣は、教会より下賜された、十字の柄を持つ銀製の長剣ではなく、左右非対称の攻撃的デザインの柄を持つ、黒を基調とした細身の長剣だ。
そんな装備に身を固めた今の私は、正しく悪魔としての外見を持っているのだろう。淫靡な夜の悪魔、サキュバスとしてのいでたちを。
勇者時代の実直なイメージとはかけ離れ、妖艶や狂美的とでも表現するのが適切なその姿は、実を言うと自分でも恥ずかしかった。
だが、敬愛するリリム、シルヴィアに褒められてからは特に気にならなくなったのも事実だ。後はフェンの評価次第だろうか、と思う。
今は、捕虜の部屋を覗きに行った帰りだ。だが、中には場所も考えず情事に耽る淫魔などの魔物と、両手足を縛られ抵抗すらままならない兵士たちの姿があるだけだった。
妙に扉の造りが堅牢なのは、恐らく声を外に漏らさぬようにという配慮なのだろう。自らも魔に染まっておいてなんだが、恐怖を感じる。
考えに耽っていると、廊下の突き当たりまで歩みを進めてしまった。上層に位置する廊下なので、両脇に壁は無く、代わりに柱と手すりがある。柱と柱の間はそのまま開けており、手すりに身を預ければ一面の景色を堪能できる。
風が吹き抜け、私の髪を攫う。風と戯れる髪を手で押さえながら、一面の景色を拝む。
この景色を作りだした者が誰であれ、その者は良い仕事をしたと思う。沈みかけの日の赤に染まる、魔都の歪な建物の群れは、背後の湖を隠すような配置で目に飛び込む。東に位置する深い森からは鳥が集団で飛び立ち、黒いシルエットで以て空を彩る。
綺麗だ。以前までの私なら、こんなことは思わなかっただろう。だが、堕ちて、堕して、そう思えるようになった。
手を伸ばせば届きそうな、まるで奇抜な絵画のような、綺麗な世界に、私は実際に手を伸ばした。手すりを乗り越え、手を伸ばす。
だが、黒い革の手袋に覆われた、私の指先がその世界に届く前に、私の体が重力に囚われた。体を前に傾けていた私は、頭から地面へと墜ちていく。
人であれば、生還は難しかったかもしれない。私は空中で身を捻って体勢を立て直し、畳んでいた背中の翼を展開した。漆黒を固めたような翼が風を孕み、力強く下へ打ち下ろす。
手でも足でも無い、四肢に含まれぬ新たな器官を得て、最初はかなり戸惑った。だが今は、文字通り手足の如く使いこなすことができる。
十分な加速を得て、羽ばたきを止める。水平に大きく広げ、滑空して速度を稼ぐ。
目指すは自分の部屋。城の大分奥まったところに位置するその部屋は、あの時のように殺風景なままだ。
今度こそ、フェンに手伝ってもらって内装を決めようと思う。むしろ、フェンと同じ部屋でも良いと思う。ついでに、好みの髪形も聞いておこう。切るのが面倒でただ伸ばしていただけの長髪は、飛ぶのには不向きだ。
そんな事を考えつつ、柱の合間を縫って廊下へ突入する。速度を落としつつ、城の内部に飛び込み階段を上がる。未だ地に足を着けずに吹き抜けを飛びぬけ、細い廊下へと至り、長い通路を滑空し抜ける。
その辺りで速度を緩め、豪奢な絨毯に足を着け着陸する。歩みを止めた場所は、正に自室の前だった。
ドアノブを捻りながら思う。今日は早く寝よう、と。なにせ、明日からは私も戦地に赴くのだから。
戦場は、安全な教国の教会で想像していたよりも、遥かに過酷な場所だった。
神の奇跡の代行者である、高位神官とてその過酷さに変わりはない。毎日、戦闘が終われば、依代である鉄杖を地面につき、寄りかかるようにして拠点へ帰還する。
私の奇跡を以てしても命を救えず、家族の名前を口にしながら天に召されたり、目の前で捕虜になった兵士を救うことができなかったり、挫折も何度も味わった。
だが、ここが彼女の居場所だったのだ。私達が勝手に勇者と、才を与えられし者と呼び、孤独に戦場へ送り出した、1人の少女の。
何故、彼女が派遣先で消息を絶ったのか。それは、彼女と同じ場所に立たねば解らない気がした。
汗と戦塵にまみれ汚れた神官服を纏い、野営地へと帰還する。足は幾度も攣り、体中が筋肉痛で激しく痛む。敵の攻撃を受けた背中は疼痛を訴え、何よりも激しい疲労で体が重い。
それも当然だ。ずっと安全な場所に引きこもり、耳当たりの良い綺麗事ばかり説いてきたのだから。高度な教育を受けるための費用も、生まれという自分の努力とは何の関係もないファクターによってクリアし、今の今までこの世界にこんな過酷な生き方があるだなんて想像もしていなかった。
生きるために命がけになる必要なんてないと、日々、決死の覚悟で生きている人達をあざ笑うかのような日常を送っていた。そして、それを当たり前だと思っていた。
いや、それすらも自分を騙すための欺瞞だ。今まで必死になって神官としての技量を磨いてきたのは、ちっぽけな自尊心を満たすためだ。
同期の中では敵知らず、先輩や既に神官として働いている本職にだって負けることは少なかった。だが、それは本当に救われぬ人々に救いの手を差し伸べるためだったのだろうか。
こんな現実を知りもせず、ただ神官となって出世するためだけに磨いた技能ではないか。周囲からの尊敬の視線を集め、それによって自己顕示欲を満足させた、どこまでも矮小で卑劣な人間だ。
彼の少女は、知っていたのだろう。だから、あれほど強かったのだろうが。
教国に居た時、唯一私よりも強く、また魔術の素養があったのは彼女だった。それゆえ、自分のプライドを護るように彼女を避けた。彼女は、私の事を覚えてすらいないだろう。
だから、戦場へ赴いた。自ら志願し、今まで鍛えた力を頼りに戦乱の渦に飛び込んだ。
私の覚悟は、この程度で折れる物か。
否。ならば進め。エリカ=デア=フェーゲルアイン。
今日はもう寝よう。明日があることを感謝しつつ、明日の戦闘へ備えるために。
朝、背中の翼は使わずに、城主の部屋へと向かう。
ブーツのヒールがカツコツと石造りの床を叩き、連続した音を鳴らす。鳴った音の分だけ、戦場へと近付く。
戦場が近付いている、という高揚は、普通の高揚とは少し違う。体が火照るのと同時に、冷たく重いものが体の奥に沈むような感覚だ。
それは時に鎖となり、実戦での剣の動きを妨げる。そして時に枷となり、いざという時の足の運びを妨げる。
私にとっては慣れたものだ。だが、無くなる事は決してない。あるとすれば、それは己の死期と同義だ。
「おはようございます」
そんな事を考えていると、シルヴィアの部屋の前に辿りついていた。
部屋の前にはメイド姿のアメシストの姿があり、いつもの微笑で私を待っていた。
いつかと同じように、彼女は重厚な扉を指し、言う。
「中で、主がお待ちです」
「……はい」
私は扉を開けた。閉めた。
中は採光のためか、カーテンを開けており、この前来た時よりも大分明るくなっていた。
部屋のインテリアを無視して中央に置かれた玉座、調度をぶち壊して置いてあるそれに、シルヴィアは腰掛けてこちらを見ている。
着替えていないのか、その姿はネグリジェ一枚で、足を汲んで大きめなイスに座るその姿は、とても扇情的だ。
「遅いわよー。もうちょっとで寝ちゃうとこだったわよー」
……ただ眠かっただけのようだ。
半目でとろんとした目をこちらに向けながら、彼女は言う。
「今日は自由行動で良いわ。街囲んでる部隊と合流しても良いし、上から奇襲かけても良いしー。好きにやって頂戴」
「え、えっと、そんな命令で良いの?」
教会からの、がちがちに堅い文章での命令に慣れ親しんだ身としては、かなりの違和感を覚える。
「いいのいいのー。なんならサボって私と遊ぶー?」
良いわけがない。サボって遊ぶなどもってのほかだ。
だが、事あるごとにサボっていた、あの少年は今、どうしているだろうか。
必死になって戦っているだろうか。それとも、適当に息を抜きつつやっているだろうか。
――彼に会いに行くのも、いいかもしれない。彼がどんな答えを持っているのか、恐怖の気持ちはあるけれど。
もし、彼が私を好いてくれたのなら。今度こそ、彼と共に居ようと思う。
「命令、了解。我が剣に賭けて、主の命を果たすことを誓います」
「私と遊ぶー? 遊んじゃう?」
もしかしてこの淫魔、酒入ってないだろうか。目も据わっているし、こころなしか頬も赤い。
人がビシッと決めたというのに、一瞬で張り詰めた空気をぶち壊してくれた。
そのまま、酔った中年のような手つきで私に手を伸ばしてきたので、軽く後ずさってかわす。
「ちょっと、酒! 酒入っているでしょ!」
「ちょっとだけー。減るものじゃないでしょー?」
駄目だ。これはちょっと対応できない。
この酔っ払いの相手はアメシストに任せて、私はさっさと退散するのが得策のようだ。
「じゃあ、私は行くからね」
くるり、と踵を返す。そのままドアへと歩みを進める私に、
「その服。着てくれるとは思わなかった」
……これは喜ぶ場面か? 怒る場面か?
静かに私は自分の服装を見下ろす。光沢のある黒の革で統一された衣装は、翼や角、尻尾とも相まって十分以上に扇情的だ。
「でもね、似合ってるわよ。ミュウに」
……こういうことを言うのは、ずるい、と思う。だって、
脱ぐに脱げなくなってしまう――。
褒められた嬉しさと、照れを隠しながら、言う。
「……ありがとう」
それを言って、一層頬が赤くなったのを自覚しながら、扉を開ける。
「幸運を祈るわ。貴女自身にね」
背後から投げられたシルヴィアの言葉を受け、それに返事をせずに私は宙に飛び出した。
裏門は、正面の門とは違いあまり丈夫に造られていない。
その分小さめで、防衛は容易と言えるが、
「クソッ、貰っちまった! 悪いが下がる!!」
少数対少数、言いかえるなら個人戦が並列して行われているような状態だ。集団で威力を発揮するような武器は使いづらく、連携よりも個人の武勇がモノをいう場所と言えた。
深追いや無理は、即、死に繋がる。それでもこの戦場で戦う者は、尊い魂の持ち主と言えた。
私も、襲いかかって来たリザードマンの剣を杖で迎撃し、すかさず距離を取る。
この魔物は危険だと、ここ数日で身を以て知った。とりまわしで劣る杖、さらに筋力でも負けているとなれば、接近した間合いで勝てる道理が無い。
「――光よ」
「!」
杖を向け、スペルを唱える。唱え終わると同時に展開した魔法陣から、光の剣が現れ、敵に向かって直進した。
かなりの速度で飛んだ光剣は、だが敵を捉えるには至らず、彼女の背後を抉る。
そして、それは決定的な私の隙になった。思い切りの良い踏み込みと共に放たれた剣戟が、私の胴を薙ぐ。
「――ッ」
浅く、朱が飛んだ。服の胸元が切り裂かれ、下の肉もわずかだが切れる。
続く二の太刀も浅く受け、だが致命傷には至らない。
切られつつ、杖を構えた。
「光よ!」
展開は一瞬。容赦なく胴体へ向けて放たれた光剣が、相手の脇腹を抉るように飛んだ。一瞬、驚愕に満ちたリザードマンと目が合い、すぐに離れた。
彼女は手で脇腹を押え、その出血を確かめる。
「……撤退する」
悔しそうに、それだけを言って彼女は後方に下がって行った。
だが、気は抜けない。視界を巡らせばあちらこちらに敵の姿が見え、それと同数の味方の数がある。ある者は剣で、ある者は槍で、またある者は杖で。それぞれの得物を掲げ、敵の攻撃を防いでいる。
見渡す限り、無傷のものは1人も居ない。敵も味方もどこかから血を流し、それでも眼光鋭く、相対する者を見つめる。
剣戟を応酬し、時に防ぎ、かわし、それでも斃れぬように、退かぬように。全力と全力がぶつかる、なにか美しいものが、そこには有った。
「どうした!? 休めるときに休んどけ!」
私の脇を通り抜けて行った1人の剣士が、そう声をかけてくる。その声に引き戻されるように、私は我に返った。
幾度も幾度も行い、既に身についてしまった癒しの奇跡を、半ば自失した状態で行う。
「癒しの光よ……」
指先に灯った緑の光が、傷を癒す。切り裂かれた服は元には戻らないが、肌に刻まれた傷は跡形も無く修復される。
ここに来てから幾度となく味わった、傷口の上に何かが這いずっているような感触と共に、出血が止まったのを感じた。流れた血は戻らないが、それは元より多くない。
「……ミュウは……」
思わず、口を突いて出る。
彼女は、こんな過酷な場所で戦っていたのだろうか、と。己の力以外、頼れるものの無い孤独な場所で、されど皆の期待を背負って戦っていたのだろうか。
だとしたら、それはどれほどの苦痛か。そして、どれほど誇らしかっただろうか。一度負ければ、それらが全て自分への怨嗟に変わると知っていながら、それでも向けられる称賛に、どれほど誇らしい気持ちになっただろうか。
他人に無い力を振るい、人ではあり得ぬほどの戦果を打ち立てる。しかし、その身に自由はなく、裏で糸を引かれる操り人形。
私は思う。この感情は嫉妬だ、と。それも、相手の良い部分ばかりを見て感じる、最低の嫉妬だと。
己の力が彼女に及ばなかったことに、それ程の引け目を感じているのだろうか。もしそうだとすれば、神の奇跡の代演者たる神官が、聞いてあきれる。
敵わない。何をやっても敵わない。その事実に、涙が溢れ出そうになる。
だが、それを堪え、きっと前を見据える。
その視線の先に、こちらに歩いてくる人影が見えた。それを視認した瞬間、全身が一瞬強張り、すぐにでも動けるように臨戦態勢を取る。杖を握る手にも適度に力が入り、思考も研ぎ澄まされてゆく。
次の敵は、あいつだ。
いいだろう。この戦場で答えを見つけるまで、何とだって闘ってやろう。
がしゃがしゃと音を鳴らし、城壁の外を走る。既に鎧はボロボロで、剣もあちこち欠けている。体中に傷を得て、それでも僕は止まらない。
体中から血を流し、それでも瞳に込めた力だけは失わず、僕は走る。
視界の先では、2人の人影が向かい合っていた。片方は黒の神官服を纏った、灰色の髪を持つ少女だった。そして、もう片方は――。
「ミュウ――!!」
未だ遠く、声は届かない。
だが、あそこまでたどり着いたとして。僕はどちらの味方をするのだろうか。
ミュウの問いに決着を出し、彼女と共に歩むのか。あくまで優柔不断に回答を引き延ばし、彼女に剣を向けるのか。
しかし、後者の回答は不適だ。なぜなら、それは“ミュウなら僕を切らない”という自惚れにも似た甘えによるものだから。
ならば、ミュウに味方し、見知らぬ少女を斬るか。
この回答も不適だ。そんな所業に、他ならぬ僕自身、耐えられない。
結局、僕は理由なくミュウに会いに向かっているだけなのだろう。その行為自体が、彼女の問いに対する答えとするのは、逃避だろうか。
葛藤がある。僕は彼女がきっと好きだ。だが、僕はかつての仲間に剣を向けることができるだろうか。家族を奪われた僕に、誰かの家族を奪う選択ができるだろうか。
詰まる所、僕は怖いのだ。闇に身を堕とし、悪に身を染めるのが。どうしようもなく臆病で、それ故に彼女の気持ちにも答えず。
だから、彼女に会いに行くのだ。僕は臆病で、どうしようもなく怖がりだから。僕に僕は殺せないから、彼女に殺してもらうために。
――彼女は。僕を正しく狂わせる力を持っているだろうから。
もし、彼女が僕を狂わせるに足る存在なら。僕は――。
思考を回す間にも距離は縮み、その分だけ足が悲鳴を上げる。だが、そんなものは些細な犠牲だ。
彼女が彼女の手に掛かるのも、彼女が彼女に殺されるのも、許容できない。僕が行っても止まる保証はない。逆に、僕の早とちりなのかもしれない。
僕の杞憂であればいい。だが、そうでなかったなら。
無駄と知りつつ、それでも手を伸ばす。
「――すみませんが、ここから先は通行止めです」
「……やっぱり、出てきますか」
伸ばした手の先に、1人の女が立っていた。不思議な薄紫の髪に、あまりにもこの場にそぐわぬメイド服。手に持つは、掃除用のモップ。
ここで邪魔が入るということは、やはり、あの戦いはミュウにとって、特別な意味をもつものなのだろう。そうでなくても、第三者の介入を許さぬ程には、重要な邂逅だったのだろう。
邪魔者の出現に、安堵と焦りを得ながら、僕は武器を構える。疲労で揺れる剣先に、ボロボロになった鎧。大層な装備だが、ここで斃れるわけにはいかないのだ。
「手加減は、しませんよ」
「お気遣いなく。――では、参ります」
次の瞬間、僕たちは衝突した。
私の目の前に居たのは、私と同じくらいの年頃の少女だった。教会で幾度か目にした、高位の神官のみが着用を赦された、黒を基調とした服を着ている。首からはロザリオを下げ、手にはシンプルなデザインの鉄杖を持っている。
その金の眼は、明らかにこちらを敵視している。同じように、相手から見れば私もそう見えていることだろう。戦場とは、そういう場所なのだ。
「――光よ!」
挨拶代わりの攻撃。こちらに向けた杖を媒介として展開した魔法陣から、高速で飛ぶ光剣が射出される。
こちらは、その術式を知っている。それは光を用いた一般的な魔術で、
――速度は速いが、直線軌道でしか飛ばない……!!
それでも、魔物相手ならば結構有用なのだ。魔術故に防御がしづらく、判断を誤れば盾ごと串刺しになる。その分、手の内を知られてしまうと殆ど当たらず、逆に隙となってしまいがちでもあるが。
なにより、直線軌道は撃たれる側――私から見たならば、点だ。上、下、右、左、正面さえ避ければいくらでも回避が可能だ。故に、私は避けた。
「はっ!」
避ける勢いで、踏み込みつつの斬撃を放つ。もちろんそんな牽制にも満たない攻撃は当たらず、相手の注意を逸らしただけで宙を斬る。
「走れ! 光よ!」
再び一瞬で魔法陣が展開し、私を狙う。今度は杖を媒介せず、空中に複数の光剣が浮かんでいるような形になる。
その射線を逃れるように身を捩るが、代わりに神官の少女からは遠ざかってしまう。彼女自身、距離を取るように後退し、次の術式を杖に絡めて展開を待っている。
まずい、と思う。このままでは相手のペースだぞ、と。
「――ッ」
短い呼気を吐き、無数に飛び交う光剣の内、当たるものだけを見極めて叩き斬る。
――この敵は、手強い。一瞬で展開される術式もそうだが、その術式の使い方を心得ている。戦場に心乱されることなく、それを的確に行使してくる。
そういった者を、なんと言うか。
――強敵だ。
「――光よ! 我が剣を喰らい輝きとせよ!」
一息に唱えた。詠唱に導かれた輝く文字列が、私の漆黒の剣を包む。
悪魔の外見を持ちながら、神の加護を行使した私を見て、敵である神官の少女が息を飲む。
「ごめんね。私、元はそっち側の人間だったの」
剣を構えつつ、言う。
もし、相手がフェンだったなら、読まれているだろうな、と思いながら。未だ驚愕に目を見開く相手は、それでも唇から言葉を紡ぎ、
「ミュ、ウ……?」
と言った。
自分の耳が信じられなかった。だが、飛び込んできた声はやはり、澄んだ高音で。聞き間違えるはずのない、私に敗北を刻んだ勇者のものだった。
今、敵の悪魔が使用した加護の術式も、やはり彼女が多用した自らの剣を強化するものだ。
「ミュウなんですか……?」
相手からの返事はない。だが、わずかに逸らすようにした端正な顔と、それを彩る亜麻色の長い髪には見間違いようがない。
「ミュウなんですね……」
ひたすらに避けていた相手と、こんなところで出くわしてしまうのは、運命の悪戯としか言えないが。それが幸いであるのか、それともこの上ない不幸であるのかは、解らない。
「――そう。私はミュウ」
一呼吸。
「シルヴィア様の眷族たるサキュバス、ミュウよ」
「ッ――」
その言葉に対して、何を言えば良いのか解らなかった。だが、名前のつけられない、どす黒い感情が渦を巻く。私を塗り替えるように、生かしたまま殺すように。
簡単に私を超えておきながら。私では到底救えない数の人を助けておきながら。私にない力を持ちながら。
――それすらも捨てるのか。価値などないと。それよりも、もっと大切なものがあると。
操り人形をやめて。勇者をやめて。更には、人であることすらやめて。だとしたら、みっともなく“正義”にしがみつく私はなんなのだ。以前、目の前で示された圧倒的な“正義”に。
それらの感情は、明確な名前を得て、私の内側に溜まる。
まるで、私と言う皮を破って、外に出ようとするが如く。
「なんで、なんで、人形のままでいてくれなかったんですか……!!」
理不尽な叫びだと、自分でも解っている。
「私に、他の全員に勝っておきながら、それを適当に捨てるだなんて……!」
この感情は、嫉妬だ。
だが、まるで坂を転がり出した鉄球の如く、その感情は止まらない。
「その気になれば、幾らでも人を救うことができるのに! 私なんかじゃ到底及ばない、圧倒的なまでの“正義”を実現できるのに!」
感情のままにぶつけられる私の言葉に、それでもミュウは眉ひとつ動かさない。
「なんで、私達の勇者でいてくれなかったんですかっ!!」
「それだと、私の居場所がないもの」
簡単に、それだけを返してきた。最早、ここは戦場ではない。剣ではなく言葉を交わし、魔法ではなく批判を飛ばす。
「“勇者”の居場所はあるわよね。皆に敬われて、畏れられて。それでいて、感謝されて」
でも、と彼女は言う。
「私の居場所は? 勇者である前に人であった、私の居場所はどこにあるの?」
私は考える。今まで、ミュウの居場所はあっただろうか、と。
教会では、どんな魔法でも一瞬で使いこなして見せた。本職の神官ですら手こずるような高位の奇跡ですら、仕組みを聞けば理解を示し、即座に使いこなした。
それを見て、私達はなんと言っていただろうか。
(まるで化物だ、と、言っていた――)
人として見られていない。身内からはその力ゆえに畏れられ、民からはその力ゆえに崇められる。どれ一つとして、人間として彼女に向き合った者はいない。
だから、彼女はそれほどまでに惹かれてしまったのだろう。
「――貴女の目を覚ましてあげます……!」
これは嫉妬だ。全て自分よりも先に行く、優れた者への醜い嫉妬だ。それをあたかも正しい行為のように見せているだけに過ぎない。
それでも、やるしかない。杖を握る手に、力を込める。
「――今のエリカには、無理、だと思う」
彼女は身がまえもせずに、私の名前を呼ぶ。
――この期に及んで、まだ揺さぶるような真似を……!
呼ばれないと思っていた名前。彼女は私を覚えていたのだろうか。
首を振って、その思考を打ち消す。目の前に居るのは、倒すべき敵だ。
「――光よ!」
光が走った。
僕は口の中に幾許かの土を得ながら、汚れた地面に転がる。最早鎧はただの錘と成り下がり、剣は角度のついた鈍器にしかならない。
それでもそれを手放さず、転がりながら立ちあがる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
これで何度めだろうか。重たい身をゆっくりと起こす僕の視線の先には、最初となんら変わらぬメイド姿の女性が立っている。
その手には掃除用のモップがあり、だが構えられることなくただ保持されている。
「――諦めて下さい。幾度挑戦しようと、今の貴方では私には勝てません」
勝てなくても良いのだ。この相手を抜き、ミュウの下までたどり着ければ――。
だが、それは見透かされる。
「彼女の下まで行き、それでどうするのですか?」
それは矢の鋭さを以て僕の下に届き、
「その中途半端な気持ちで、彼女をどうするつもりですか? 会いに行く理由すら彼女に押しつけて、それで彼女が満足すると思っているのですか?」
いつの間にか、メイドの微笑が消えていた。そのことに、今更気づく。
彼女は、怒っているのだ。他ならぬ、この僕に。
だが、メイドは一瞬首を振り、考え込むような素振りを見せた。そして、言う。
「――タイムアップです。彼女から、貴方宛てに荷物を預かっています。――お受け取りください」
一瞬で、メイドが元の微笑を浮かべる。その手には、どこから取り出したのか、一振りの長剣があった。
それを柄をこちらに向けて差し出され、力なく手に取る。
「これは、ミュウの、剣――?」
十字架を模した柄を持つ、銀の装飾をあしらった長剣だ。
手になじむように巻かれた革が、しっかりとした感触をてのひらに伝えてくる。
「では。また機会がありましたら」
そう言って去っていくメイドには目もくれず、僕は渡された長剣を抱くようにして地面に倒れ込んだ。まるで、宝物でも抱くかのごとく、大切に、大切に抱いて。
その衝撃でついに崩壊した鎧の部品を周りに撒き散らし、それに囲まれて眠る。
草花の代わりに無骨な鉄片。ドレスの代わりにボロボロの鎧。手には綺麗な長剣を抱いて、僕は眠る。どこまでもちぐはぐな構図で、でも、もしかしたらそのちぐはぐさ故に、
「僕を起こすのは……だれだろうな」
ミュウだったら良い、とそう思う。
強かった。彼女は強かった。
圧倒的な力でねじ伏せられ、それでも生かされ。ぼろぼろになった神官服は、私を隠しきれずに白い肌を外気に晒している。
ただ何をするでもなく、地面に倒れ伏し。目は景色を反射するガラス玉、あれほど燃えていた意志の光はどこにも無く、虚ろに空を見上げていた。
「悔しいですか?」
声をかけられても、反応できない。
「彼女が。彼女に勝てなかったことが、悔しいですか?」
……悔しいに決まっているだろう。
負けたのだから。彼女に、勝てなかったのだから。
「では、力が手に入るとしたら、貴女は悪魔の手を取れますか?」
悪魔の手を――。
神の手先を演じ、しかしそれすらも果たせなかった私に、相応しい末路ではあるのかもしれない。
彼女を追いかけ、そして、抜かせるのならば。
「そうですか。では、貴女は私の仲間です」
す、と眼前に差し出された手の主。不思議な薄紫の髪を持つ、何故かメイド服を着た人影。
ぱしり、とその手を取る。
その瞬間、何故か、体が軽くなったように感じた。
エリカとの戦闘を経て、私は城壁の周りをとぼとぼと歩く。この城壁が、フェンと私の間を隔てる壁なのだと思うと、気軽に飛び越えることもできない。
城壁の周りには戦闘の形跡が生々しく残り、折れた剣や槍、壊れた鎧のパーツなどが転がる。既に両陣営共に戦闘を終えており、周りに人の姿はない。
だが、稀に斃された者たちが元戦場に倒れ、誰にも回収されずにその躯を晒している。
今歩みを進める先の地面にも、ボロボロになった剣を手に、壊れた鎧の部品に囲まれて動かない少年が倒れていた。
彼はもう一つの剣を宝物のように抱いており、だがそれは抜かれずに鞘に納まった状態だ。その顔は安らかで――
「――フェン!?」
駆け寄って確かめると、それは確かにフェンだった。口に手をやって息も確かめるが、幸い息はしている。
だが、目は覚まさず、体を動かすこともしない。
死んだように眠っている。
「フェン……」
眠り姫。フェンの整った顔を見ていると、そんな言葉が浮かんでくる。
花草の代わりに、鎧の部品。ドレスの代わりに、無骨な鎧。その手に抱くは、私の贈った長剣。さしずめ、キスをして起こす王子の役は、私だろうか。
「………」
彼を抱き起こし、背を膝に乗せる。その上で頭を持ち上げ、仮想の視線を合わせる。
そこから、一気にいった。
「……ん…」
唇を重ねるだけでなく、舌も入れる。無意識に動く相手の舌を吸い、絡めるように濃密なキスを交わす。
淫靡な、粘着質の音がぴちゃぴちゃと鳴り、口の端からこぼれた唾液が彼の頬を伝う。
それでも、止めない。フェンの全存在を吸うように、口づけを続ける。
どれほど、そうしていただろうか。唐突に、私は口を放した。舌に乗った唾液が、二人の間に銀色の橋を架ける。
口を拭って立ちあがり、
「ありがとう、フェン。まだ私は待てるよ。だから――」
――絶対に、迎えに来てね。
言葉は、風に乗って消えた。
11/06/22 21:32更新 / 湖
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