私は、薄暗い夜の城を歩いていた。
　巨大な城の篝火の灯された回廊は、無骨な石材の表面を晒しながらもどこか荘厳で、床に敷かれた紅い絨毯は、高貴さを見る者に伝えてくる。
　この回廊は城の最南に位置しているようで、南側は大きく開けた造りになっていた。美しく弧を描くアーチ状の窓は、怜悧な月光と城を囲む林、その奥に見える湖という幻想的な景色を楽しませてくれる。
　美しい。まるでこの世のものではないかのように。
　それは、ある意味では正しいのだろう。特に、私のような者にとっては。
　ここは魔界。魔族の統べる、地上の異界なのだ。
　そんな、魔界の城の回廊を、私は歩いていた。私の前には、今日もメイドの恰好をした女性が道案内をするように歩いている。
　いくら私が人ならざる才能を持った戦士だとて、単独でここまで侵入できたかどうかは怪しいところだ。勇者として単独で魔界の城攻めを果たしたのは、私の知る限り“アメシスト”と呼ばれる素性不明の勇者だけなのだ。
　彼か彼女は、少なくとも私の国ではよく知られた戦士だった。その功績を讃える英雄譚も多数あり、それらは決まって、最期に魔王の娘、リリムと相討ちになるというストーリーで終わる。
　彼か彼女に関する逸話には事欠かないが、事素性となるとほぼ一切が不明という、変わった英雄だった。唯一解っているのは、彼か彼女が真心から民を、国を、世界を愛し、自らの力を愛するべきもののために使ったという事だけだ。それ故、“アメシスト”は別名“愛全”とも呼ばれる。
　あろうことか、彼か彼女は最後に、自らの手で致命傷を負わせたリリムへと、感謝を述べたとされている。
　そんな、最早伝説になったような人物がやっと果たした偉業を、この私がそんな簡単にできるわけがない。今この私が魔界の城の奥深くまで入り込んでいるのは、もっと単純な理由だ。
　――私が、魔に堕したから。
　私は、“愛全”のように全てを愛せなかった。期待だけ投げる無責任な人々に、真摯を返せなかった。私を騙し続けた教会に、忠誠を誓えなかった。
　そして。私には、ただ一人愛する人がいる――。
　ちっぽけな理由だろう。所詮、私には大きすぎたタスクだったということか。
　だが、そのちっぽけな私の居場所を奪うのならば。神でもなんでも、私がこの手で殺してやる。
　それは、逆を言えば。私に力を貸してくれるというのなら、悪魔でもなんでも、その手を取ろう――。

「着きましたよ。この奥に我が主はおられます」

　気がつけば、メイドは足を止めていた。回廊の突き当たり、幾つもの燭台に囲まれた大きな扉、その前で。
　それは見る者を委縮させるのに十分で、非力なものでは開けることすら叶わぬのではないかと思わせるような巨大な扉だった。

「この奥に、彼女が……」

「はい。くれぐれも失礼の無いように――、とは言いませんよ。砕けた方ですから」

「……武器も持ったままで良いの？」

　仮にもこの魔都の主だろうに、その部屋に武器を持った勇者を入れるというのか。既に籠絡済みとはいえ、それが演技でないと言いきれないだろうに。
　それでも、メイドは微笑を崩さずに言う。

「武器など、あっても無くても大差ないでしょう？
　勇者の武装を封じようと思うのなら、全身を鎖で縛った上で猿轡を噛ませたとしてもまだ不十分だというのに」

　十分すぎるほどに十分だと思うが、それは言わないでおく。こちらとしても、この腰を重みが無いというのはいささか不安になるものなのだ。
　それ以上は私もメイドも何も言わず、私はドアのノブに手をかける。
　一度息を吐いて、それを回した。以外にも無音でそれは回転し、力をかければ素直に扉は開いた。部屋の中から吹き出た風が私の髪とスカートを揺らす。
　部屋の中には、白い髪と黒い角を持つ女が大きなイスに腰掛けていた。

「よく来たな、勇者よ。――どうだ、お前に世界を半分、くれてやろう。私の下につく気は無いか？」

　既に、彼女の魔術は始まっている。リリムの持つ権能による、堕落の儀式が。だとしたら、私の答えは、

「ふざけるな、魔王よ。貴様の悪行、この私が成敗してくれる」

　部屋の中央、リリムの腰掛ける玉座へと歩を進めながら、私は言い放つ。
　脱ぎ捨てた勇者の仮面を再び纏わされながら、私は魔王の娘と相対した。
　これは、儀式なのだ。私の中の勇者を、完全に殺しつくすための。私の中に、再び勇者が蘇ってくるのを感じながら、私達の相対が始まった。




　先手は彼女。上品なソファの上で組んだ足を組みかえながら、意志を唇に乗せる。

「何故拒否する？　お前には自分の幸せを追求する権利があるのだぞ？」

「魔王を討ち、世界に平和を取り戻すことが私の幸せだ！」

　それに対し、私も反撃する。数日前の醜態など忘れ、正義の光を心に灯して叫ぶ。

「本当に？　それが教会がお前に施した、邪悪な情報操作だとしても？」

「本能のまま、人を襲い糧とするお前たち邪悪な者を討ち、世界に光を取り戻すことのどこに非がある！？」

　数日前に味わった至上の快楽を忘れ、私は言葉を紡ぐ。
　私の心は、まるで勇者になりたてだった頃のように信ずるものにまっすぐだった。

「ほう。だが、知っているぞ？　人間とは元来、正直なものだ。欲しいものがあれば力で奪い、異なる意見には武力で報いる。我らとの間に、どのような差があるというのだろうな？」

　そこで言葉を切って、だがリリムは続ける。

「いや、差はあるだろう。だが、それは正へと利する差かな？」

　そこで、私は正しく聖典の言葉を理解した。
　魔物とは、口で語るだけ無駄な存在だ。こちらを煙に巻くに一流で、武を以て言葉と代えるにやむを得ない存在だ。

「どうやら、私達は相容れぬようだな……！」

　勢いよく腰の剣を抜き放つ。人では対応が難しい速度の銀光も、しかしリリムには掠りもしない。
　弐の太刀参の太刀も続けざまにかわされ、私の体力を無為に削る。

「そうだ。その意気だ。異なる意見があれば、剣に訴えてしまえば簡単だ」

　だが、剣戟を繰るために研ぎ澄まされた私には、その声は届かない。
　一息に三度の斬撃を叩き込み、回避で出来た隙に本命の一撃を振り下ろす。だが、それすらもリリムは微笑と共にすり抜ける。
　それでいて、彼女は私から離れない。振り下ろす剣の合間を縫うように動きつつ、それでいて大きく距離を取るようなことは無い。その顔に浮かぶのは内側の見えぬ微笑で、私はそれに急かされるように剣の速度を上げた。

「うわあああぁぁぁッッ！！」

　間違い無く、今までの人生で最高の剣技の冴えだった。剣先はわずかな誤差も無く狙った場所を切り裂き、剣が複数本あるかのような激しい乱舞を叩き込む。
　一度斬った場所を、一拍後には再び斬りつけている。教会から下賜された剣といえど、ともすれば折れてしまいそうだ。

「……くすっ」

　だが。
　あろうことか、リリムはその斬撃の雨をすり抜けていた。いや、それは最早すり抜けているのではない。こちらの剣筋が誘導されているのだ。
　当たらない位置に剣を導き、安全地帯に自分の身を置く。理屈が解っても、どこなら彼女に届くのか。
　すると、声がした。

「満足した？」

　耳たぶを甘噛みするような、そんな声。
　次の瞬間、私は彼女に抱かれていた。




　私は、斬りつけてくる彼女の剣を弾いた。振り下ろされる剣の腹を手の甲で殴り、そのまま振り抜く。
　凄まじい痛みに顔をしかめそうになるが、あくまで超然とした微笑を崩さない。
　私が剣を弾いたせいで、彼女はその重みに引きずられ、バランスを崩す。剣の飛んで行った方向へ体を半回転させられ、そのまま私に倒れこんでくる。

「あっ……」

　そんな声をわずかに漏らす彼女に、思わず頬を綻ばせながら、倒れこんでくる彼女を受け止める。
　その力に抗わず、私もまた倒れた。
　だが、硬い石造りの床に叩きつけられる事は無く、ベッドがふんわりと私を迎え入れる。
　彼女は気づいていないだろうが、私達は戦闘の最中、かなり移動していたのだ。彼女の顔が、深い驚きに彩られる。

「もう一度、教えてやろう――」

　私は芝居がかった口調で言う。彼女の中の、勇者を殺す儀式に則って。

「――より、深いところに」
　
　仕上げのため、私は彼女の服に手をかける。




　いつの間にか、熱く疼いていた秘裂が、リリムの手によって外気に晒される。下だけでなく、上半身もあっという間に衣服をはぎ取られ、ベッドの上に横たえられる。

「なっ、何を……んっ」

　思わず声を上げるが、唐突に侵入してきた快楽に、言葉を遮断された。
　私の意思とは関係なく動く腰を追うように、私にのしかかる淫魔は微笑む。

「どうだ……？　素直に感想を言っても良いぞ……？」

　薄暗く保たれた部屋の中、彼女の顔に刻まれた陰影は、彼女の妖艶さをより一層引き立てている。
　私は懸命に剣を探すが、それは部屋のどこにも見当たらない。

「くそっ、や、やめろ！」

　私の声は虚しく響き、だが妖艶な淫魔には届かない。

「ふふふ、虚勢を張る必要などない」

　見れば、リリムは私の秘部に自らの尻尾をあてがうようにしていた。それ自体が１つの生物であるかのように動く尻尾は、容赦なく私を責める。
　私にまたがり、その体を押し当てるようにして圧し掛かってくる。近づきすぎた顔と顔の間で、言葉が交わされる。

「やめろッ！　放せ！」

　体を揺らして暴れようとするが、まるで重石でも載っているように、私の体は動かない。
　その間にも、淫魔の尻尾は矢じりのようになったその先端で私に快楽を贈り続ける。それに追い打ちをかけるように、彼女は囁いた。甘い声音で。

「自分の気持ちに背くのか？　お前たちの教義は、愛すらも否定するのか？」

　優しい、諭すような声音。同時に、尻尾の力が少し強まる。
　唇同士が触れ合うような距離で、私と淫魔は交わる。彼女の手は私の顔を抱え、強制的に視線も交わる。
　綺麗だと、素直に思う。快楽の熱に浮かされている思考の中、それだけは明瞭に私にインプットされる。

「はぁ、はぁ……やめろ……。んっ、あぁ…私は、世界に平和を……」

　白い髪に、紅い瞳。その色は狂気にも、深く沈んだ血の色にも見える。
　似ても似つかないのに、私の中にあの少年が思い出される。彼の見せた優しい気づかいやなんでもない素振りが、いちいち私の胸を苦しめたことまで明確に。
　彼のためなら、なんでも棄てられると、それを知ってしまった。だが、私は世界を救うべき者なのだ。

「気持ち良いのだろう？　それとも、この程度では感じないか？」

　それほどまでに、私の瞳は欲望に蕩けているのだろうか。
　この薄暗い部屋でも解るほど。それを知ってか、リリムは更に強く、私を責める。
　決して絶頂を迎えさせないよう、だが、それでいて私を揺らすように。頭に止め処なく流れ込んでくる快楽が、私の意思に因らず私の体を揺らす。
　尻尾に弄ばれる私の秘所からは、どうしようも無いほどの愛液が漏れ出る。それらは私の内股とベッドのシーツを濡らしていく。
　あまりの快楽に、口の端からはよだれが銀の糸を引いて垂れる。全てが快楽に置き換わって行き、同時に、それはフェンへの強烈な恋慕へと変わる。

「っくぁ…はぁ、はぁ……。や、めろ……！　やめてくだっ、さい……」

　それでも、勇者という肩書きに邪魔されてしまうのは、光への渇望だろうか。
　だが。私の悪あがきもここまでだった。

「……。そう。じゃあ、止めるわ」

　そう言うと、リリムは私の上から退いてしまう。何の未練も無いように、尻尾を抜き、横に退く。
　乱暴に尻尾を抜かれた時に感じた快感に、一瞬身を震わせた私は、あっけにとられて数瞬、呆けたように固まった。
　そして、状況を理解して凍りつく。思考すらも止まる中、火処のみが疼きを伴う熱を放ち続ける。
　もっと激しい快楽を求めるように、痛みでない疼きが私を支配する。最早それは衝動と言い換えても良いかもしれない。
　そんな私を、隣のリリムは醒めた目で見つめる。先ほどまでの熱っぽさが嘘のように、

「もう良いわよ。帰っても。貴女は私に勝ったのよ」

「うぅ……あぁ、はぁん……」

　そんな彼女の前で、私は盛りのついた猫のように喘ぐ。
　仰向けに、両の足を立ててＭ字に開いた姿勢で、秘部を自らの指でなぞる。素直に反応し、淫らに液を滴らせる自分の花弁を見て、まただらしなく口を緩める。
　だが、まだ足りない。先ほどまでの、何もかもを溶かすような甘美な感触には程遠い。
　尻尾の感触を思い出して、残った温もりをかき集めるように自らを慰撫する。溢れ出る蜜を淫らに飛び散らせ、それすらも気に介さず指を動かす。

「ぁあっ……だめぇ…もっと、もっとしてよぉ……！」

　先ほどまでは逆に、拒絶するのではなく求める。
　こんな衝動に、抗える訳がない。もっと感じたい。もっと溺れていたい。
　そして、この感動を、フェンにも教えてあげたい。
　人々の幸せなんて、もうどうでもいい。いや、元からどうでも良かったのか。自分を抑えて、欲望を押し込めて、何になるというのか。全くもって無駄な行為だ。

「さっき、自分で言ってたでしょう？　『やめてください』って」

　リリムはベッドの隅に腰掛けたまま言う。右足を抱えるような姿勢で、首だけでこちらを見ている。
　表情は、暗くてよくわからない。

「あっ、ふぅ……、もっと、やってください……んっ」

　せっかくかき集めた温もりも、するりと指の間から逃げるように消えていく。
　私自身は熱くたぎって、疼きにも似た衝動が全身を駆けるというに、どれだけ指を擦りつけようと、まったく納まらない。
　このままでは、狂ってしまう――。

「お、ねがいします、からぁ！！　私を、犯してぇッ！！」

「良いの？　貴女は人間を――勇者であることを捨てられるの？」

　リリムはこちらに身を乗り出して聞く。
　私はがくがくと頷き、肯定の意を示す。

「ふふふ、手のかかる子ね。最初からそう言えばいいのに」

　そう言って、彼女は再び私にまたがって来た。尻尾もするりと私の股の間に突きたてられ、搾取を始める。
　ぶるり、と震えに似た感動が走る。

「あ、ふあぁぁぁあぁああッッ！！」

　もう、自分を抑えられない。
　びくり、と体を大きく震わせる。同時に、こみあげてきた熱い衝動を解き放った。
　がくがくと震える体から、べとべとの愛液が吹き出される。私の意思とは関係なく、体はのけぞるようにのたうつ。
　虚脱したように力を抜く私を、優しく淫魔が抱きとめる。

「くすくす、立派に出来るんじゃない」

　見れば、目の前の淫魔が笑っている。私の火処から放たれた熱い蜜を指に絡め、それを舌で舐めとる。
　抱き寄せるように、彼女は私を抱える。
　尻尾にかかる力も強くなり、それは蜜をもとめるように更に激しく奥を掘る。

「っ！」

　思わず、力を込める。矢じり状になったリリムの尻尾を、意思とは関係なく、ぎゅっと締める。
　目の前の淫魔の口元が、にやり、と笑うのが見えた。

　次の瞬間、確かに私の目の前で火花が散った。
　認識さえ一瞬遅れるような、声すらも出ないような、最早明確な殺傷力すら秘めた快楽が私を貫く。

「―――！！」

　声が出ない代わりに、体を動かそうとした時、腕をリリムに掴まれる。
　その細腕がだせるとは思えない怪力で、動きを束縛される。快楽に狂ったわたしはそれに気付かないまま、体を不規則に揺らす。
　この快楽を紛らわすための、何かが欲しかった。
　下の口からは噴水のように蜜が漏れ、私と彼女に均等に降り注ぐ。上の緩んだ口からはよだれが垂れ流され、途中で涙と混じってシーツを汚した。

「これが明ければ、貴女も私達の仲間」

　彼女が何か言っているのを感じる。欲望に支配された頭の中、どこか遠くで彼女が喋っているような不明瞭さではあるものの、確かに聞こえる。
　淫魔は私を責める力を一切緩めないまま、優しい笑顔で続ける。

「さようなら、勇者。ようこそ、――ミュウ」

「――――ッッ！！！」

　勇者は、死んだ。他の誰でもない、私の手によって。
　人間が感じ得る、最高点の快楽を味わったとき、私の意識はぶつりと断ち切られたように漆黒に塗りつぶされた。




　糸の切れた操り人形のように、ミュウという名の少女は微動だにせずベッドに横たわっている。
　いや、私から言わせれば、彼女は“糸の切れた操り人形”そのものなのだ。
　自分の足で立つには、少しだけ、時間が必要だろう。
　私が、そんなことを思いながら彼女の顔を見下ろしていると、部屋にノックの音が響いた。

「入りなさい」

「失礼致します」

　かちゃり、とドアを開けて入って来たのは、メイド服の女。紫がかった艶のある髪が美しい、若い女だ。夜目が利く私には、女の表情までよく見える。
　私は彼女に半眼を向け、問う。

「その服。気に入ったの？」

　女は微笑を崩さずに言う。

「気に入りました」

　昔から、臆面もなくこう言うことを人間だった、と私は苦笑する。
　そして、昔からよく気がつく人間だった、とも思う。
　だからこそ、“愛全”などという大仰な二つ名で呼ばれたのだろうか。

「ミュウを、引き取りに」

　こちらの先を制すように、短く言う。それを言う頃には、部屋の隅に転がった彼女の剣を回収し、鞘に納めて手に提げている。
　その姿には、勇者として自分と相対した頃の面影が、わずかに漂っていた。今でも思い出す、彼女の剣によって命を落としかけた時の恐怖は、それでも私と彼女の親愛の証だ。
　まったく、良い友人を持ったものだと思う。

「アメシスト」

　女の名前を呼ぶ。彼女はぐったりと動かないミュウを慎重に持ちあげ、首をかしげる。

「はい？」

「ミュウを、よろしくね」

「はい」

　簡潔な返事には、それでも親愛の情が籠っていた。
　最早以心伝心、相手の思うことは手に取るように解る仲だが、それでも言葉を捨てないのは、情のようなものだと思う。
　だが、それを失ったら最期、私達は“他人”でいられなくなるような気もしていた。
　だから、私の最初の眷族にして、最高の友人、アメシストは、人間だったころと全く変わらない笑顔で言うのだ。

「承りました。――我が主」




　ミュウが、行方不明になった。詳しい経緯はわからない。
　ついこの間、この砦にやってきたばかりだというのに。ついこの間、一緒に任務に就いたばかりだというのに。
　なんでも、メイドが朝起こしに行ったら、既に居なかったとか。部屋の中に争った形跡は無いし、しかし脱出したとしても誰にも目撃されずになど不可能だ。
　神隠し――。神の使いたる勇者が、神に隠されるなんて、皮肉も良いところだ。

「弱いな……僕は」

　そう、すっかり僕は参ってしまっていた。
　初日からあれだけの強さを見せつけてくれた彼女が、あっさり退場した事実に打ちのめされたのか。
　それとも僕が、彼女の事を憎からず思っていたことの裏返しなのか。
　彼女が消えて以来、僕は訓練にも出ず、部屋に引きこもっている。本来は相部屋だが、今は僕１人で使用している部屋の中は、ここ最近の生活でずいぶん荒れた。
　買ったものの、まだ読んでいない本が山と積まれ、読み終わった本は本棚に仕舞われることなく隅に積まれている。
　剣は壁に立てかけられ、うっすらと埃をかぶっているようだ。鎧も脇に無造作に置かれている。
　たった少しだけ、行動を共にした相手が消えただけ。それでも、僕は精神的に追い詰められる。
　こう言うのを、言葉にするのなら。心配というやつだろうか。
　生きていて欲しい、と思う。どんな形であれ、生きてもう一度会えるといい、と。
　僕がベッドの上で静かに思考を巡らしていると、ノックの音が聞こえた。ノッカーを用いない、手の甲を使ったノック。

「……どうぞ。開いてます」

　力なく答える。ついに解雇通告でも来たか、と思う。そうであったところで僕は淡々と荷物をまとめて出ていくんだろうな、と。
　だが、ノックの主は部屋の中には入らず、扉越しに言葉を投げてきた。

「ミュウ様のお部屋にいらしてください」

　声は若い女性のもので、恐らくはメイドのものだろう。
　だが、メイドは隣の棟の、それこそミュウやお偉いさんが使っている建物にしか居ないはずだ。僕ら一般兵がいるこの建物には、そもそも入場許可すら出ていない。
　その禁を破り、かつミュウの部屋に来いという。今でも恐らくは立ち入りを制限されているであろう、ミュウの部屋へ。

「確かにお伝えしました。――では」

　声の主は、そう言ったきり沈黙する。恐らくは既にここから去ったのだろう。
　僕はけだるげに身を起こす。
　声に従い、ミュウの部屋へと行くために。




　外は暗く、どうやら雨も降っているらしかった。誰にも会わずに彼女の部屋の前までやって来られたのは、僕にとって幸運だったと言えるだろう。
　僕は彼女の部屋の扉をノックしようとして、しばし躊躇う。
　それでも、意を決してノックした。こんこん、と控えめに二回。

「開いてる、よ」

　息を呑むような、わずかな間を置いて、返事がある。
　中には、彼女が居た。亜麻色の長い髪を揺らし、簡素な鎧を纏い、剣を提げた、ミュウが居た。
　今までもそこに居たように、これからもそこに居るように。
　だが、それは決して有り得ない。

「どこに、行ってたんですか」

　彼女の数歩手前、部屋の真ん中で立ち止まり、僕は問う。もしかしたら、涙声だったかもしれない。
　その問いに誘発されたように、彼女の瞳もまた、涙に濡れる。
　彼女は一歩、こちらに歩を踏み出し、倒れるように抱きついてきた。僕は少しよろめきつつ、それを受け止める。

「ゴメンね……！　フェンが、フェンの事が好きなの……！」

　唐突に、そんなことを言う。

「今は、無理だけど、絶対に、迎えに来るから……！」

　待っていて、と言う。その時点で、僕は全てを察していた。
　両の腕で、優しく彼女を抱きながら、問う。

「ミュウが選んだ、道なんですか？」

　人間を、捨てる道が。勇者を殺し、魔に堕する道が。彼女自身が選んだ道だというのか。
　胸に抱いたミュウの頭が、微かに上下する。

「なら――」

　思わず、言葉が口をついて出る。

「なら、最後に笑いましょう。手向けと、決意で」

「うん……！」

　そう言って、彼女は笑った。
　泣きながら――笑った。

■作者メッセージ
こんにちは、湖です。

今回は場面転換が多くて読みづらいですが、お付き合いいただきありがとうございます。
少しでも、皆様にこの作品が楽しいと思っていただければ、それほど嬉しいことはありません。

では、ここまで読んで下さった皆様に、心からの感謝を。