始まりは唐突に
人生、何があるか分からないものだ。
生きていくために戦う事を選択する人だっているし、生きていくためでなく戦う事を選択する人もいる。
あるいは、選択の余地無く戦う事を運命づけられた人だっているかもしれない。
ならば、生きていくために戦う事を選択した僕は、まだ幸福な部類だろう。
戦い続けつつも、未だ命を落とすには至っていないのだから。
「よし! 素振りやめ!」
教官の怒鳴り声が聞こえる。砦に併設された、微妙な広さの練兵場に、汚いだみ声が広がる。
その声に反応して、僕を含めた兵士たちが一斉に剣を振る手を止めた。その視線の先で、教官がその大きな掌をぱんぱん、と二回打ち鳴らす。
「二人一組で模擬戦だ! 3回やって終わったら各自解散!」
解散、のその一言に反応して、皆素早く試合相手を見つけていく。
早く休みたいと思うのは人の本能だが、そんな覚悟で、戦場で生き残れるのだろうか。
いや。この僕が、この世界で、生き残れるのだろうか。
「おい! フェン! お前だ! ちょっと、お前に相手をしてもらいたい方がおられる!」
僕も顔なじみの同僚をつかまえて、さっさと訓練を終わらせようとしていたのだが、もたもたしていたのが良くなかったようだ。運悪く、教官に呼び出されてしまった。
あの教官が、敬語を遣う相手となると、僕のような一兵卒ではどのように接しなければならないのだろう。
「どうぞ、こちらです。あの少年が相手です」
「彼か。楽しめると、良いのだがな」
準備が整ったようだ、というのはこの場合不適切な表現だろうか。とにかく、僕の戦う相手が現れたようだ。僕の後ろから、ブーツの底が練兵場の砂を踏む音が連続して聞こえてくる。
「よろしくな」
す、と手が差し出される気配がした。いつまでも背を向けたままでは居られないので、僕もくるり振り向く。
まず目に飛び込んできたのは、端正に整った綺麗な顔だった。普通、このような場ではヘルムまできっちりと着用するのが普通だ。なので、素顔を晒していると、よく目立つ。
それが、普通の顔だったらまだましなのかもしれないが、僕の対戦相手はこの場にそぐわぬほど綺麗だったと言っていいだろう。
周りから、視線が集まるのを感じる。
「……よろしくお願いします」
差し出された手に僕も左手を差し出す。差し出す側には差し出す手の選択権があるが、差し出された側にはそれが無い。もちろん僕は、相手が左側に剣を吊っているのに、彼女が左利きだった、などとは考えない。
おかしな事には、それ相応の理由があるものだ。
僕は左手を差し出すと同時に右手で剣を抜き、いきなり襲いかかってきた綺麗な対戦相手の剣を迎え討った。
一撃を交換した時点で、僕たちは左手で握手を交わしたまま剣で打ち合うというおかしな状況を構成してしまった。周りの同僚も教官すら絶句している。
「――不意打ちは関心しませんよ」
「君は見事それを防いで見せた」
防げたのだから、不意打ちではないと、そういう事か。なるほど、言われてみればその通りだ。
それにしても、何という重い剣だろうか。見たところ相手は女性だが、まるで両手で繰り出した剣のような重さだった。そう、噂に聞く勇者か、もしくは僕らの敵――魔物のような。
防いだ僕の手がしびれているというのに、彼女は何事も無かったかのようにその大きな剣を構えなおす。
「次は、受け切れるかしら」
次の瞬間、僕の体は宙を舞った。
本を読むのは良い事だ。嫌なことも悩み事も、全部忘れられる。涼しい木陰に腰掛けて、静かに本を読んでいればこの世界に僕しかいないような、何ともすがすがしい気持ちになるものだ。
だが、それを打ち破る者の存在も邪魔ではないと思えるのは、ダブルスタンダードだろうか。
結局のところ、僕の求めるものは日常――なのだ。
「何を読んでいる? ――と、いきなり聞くのは無粋?」
「分かっているなら、話しかけないでください。――とは言いませんよ」
そんな軽口を叩きながら、先ほどの対戦相手――ミュウというらしい――は僕の隣に腰を下ろした。
先ほどまでは縛っていた髪を下ろしており、その姿はやはり美しいと思う。ミュウは覗きこむように僕の読んでいる本を眺め、興味深そうにしている。
やはり、というべきか、彼女は人ならざる素質を持った人間――いわゆる勇者というやつらしい。教会から、魔界に近い最前線であるこの砦に派遣されて来たのだとか。
そんな素性の持ち主に、ただの一兵卒である僕が勝てる理由など有るわけも無く、あの後僕は3連敗した訳だが。
「本か。聖典以外の書物をじっくり見るのはこれが初めてだな」
勇者、などという仰々しい肩書を背負っていても、こうして僕の本に興味を示す様はあまりにも無防備で。年相応の少女に見えてしまうのが不思議だ。
良い意味でも悪い意味でも、所詮は人の子、ということか。
「良かったら、読みますか?」
そう言って、軽く本を掲げてみせる。自慢ではないが、給料の大半は読書という趣味に費やしている僕である。部屋には結構な量の本があるのだ。
同僚たちは本など女の読み物だろうと言って、見向きもしなかったけれど。
「………良いのか?」
「好みを教えていただければ、数冊見つくろって持っていきますよ」
自分の趣味を、肯定されるのはそれと分かっていても嬉しいものだ。
そして、それが自然に出た言葉であるのなら、広めたくもなるのが人間である。
ミュウは未だ踏ん切りがつかないような顔をしていたが、僕が、
「まだ、ここには友人の1人も居ないでしょう。それまで、本を友達にしても良いと思いますよ」
そうけしかけると、何か納得したように、
「そ、そうね。うん。ではよろしく頼む」
そんなちぐはぐな言葉遣いで返事をもらい、ふと思った。
人間を誘惑する事に成功した悪魔は、こんな気持ちになるのだろうか、と。
もしそうならば、僕には悪魔の資質があるに違いなかった。
ドキドキした。
故郷を出て以来、ずっと教会というある種浮世離れしたところで生活していたのいうのもあるだろう。周りは神官や修道女、召使いばかりで同年代の友人など望むべくもなかった。
そして、戦闘で自分に追いつけるものが居なかったというのもあるだろう。あのフェンという少年にしても私の力には遠く及ばないが、こと先の読み合い、裏のかき合いになると、ほぼ遅滞なく付いてくる。
そんな経験、初めてだ。
昼間、勇気を出して話しかけたのも確か彼だった。彼にはお似合いというか、あまりにもしっくりくる趣味だったせいで逆に印象に残っている。
老生しているというか、最早枯れている。
そんな彼のおかげで、緊張やらなんやら、全部吹っ飛んでしまった。まあ、それは悪い事ではないだろうが。
1つ残念なことがあるとすれば、彼が私に興味を持っていないことがありありと分かる点だろうか。昼間の会話でも、会話よりも本に関心がある事を隠そうともしなかった。
それは裏表が無いということであり、ある種すがすがしいものがあるのも事実だけど……
「って、私は何を考えているのよ……」
教会派遣の勇者ということで、砦の中にある割と広い一室を割り振られている私だけど、もともと部屋をどのように活用すればいいのかよく分からない。
教会に居た頃は毎日が忙しく、部屋に戻ることすら稀だったのだから、それは私のせいではない。だから、私の部屋は女の子の1人住まいだというのに、無機質な印象をこれでもかと見る者に焼きつける。
「……フェンに手伝ってもらおうか」
いや、それは流石にまずいだろうが、それとなく探ってみてもいいかもしれない。しかし、あまりに聡いフェンのこと、あっという間に感づかれるような気もしていた。
そうなった時の事を想像して、少しだけ頬が熱くなる。
別に、フェン個人の事が気になっているんじゃない。たまたま、一番親しいのが彼であるだけ。そう、自分で自分を納得させようとするものの、
「……難しいな」
今までも、同じ年頃の少女が頭を悩ませたであろうこの問題に、私もまた、頭を悩ませていた。
この砦に派遣されて数日。ずらりと兵士たちが列を組んで並び、私は教官の隣、並んだ兵士たちと向き合うように立つ。私は、顔ではなんでもないような表情をしているものの、一糸乱れぬ統率で並んだその姿には、ある種、気圧されるような居心地の悪さがあった。
だが、私は彼らとは違う。1人で一騎当千の力を持った者なのだ。それが、こんなちっぽけなことで揺らいでどうする、とあくまで無感動な姿勢を決め込んだ。
「昨日、付近の村で魔物が出たという知らせがあった。幸い犠牲者は出ていないようだが、村の自警団の数名が負傷している」
横では、教官が事件発生の報告をしている。どうやら、今日の訓練は取りやめで、急遽哨戒任務に当たることになりそうだ。
「これ以上の被害を出しては、我らの名折れだ。諸君らも気を張って任務に臨むように」
そのような締めくくりで教官の話が終わり、兵士たちもいったん解散する。それにまぎれて、私も動いた。
「おい、そこの少年」
「……なんでしょうか」
兜を小脇に抱え、兵士として完全装備のフェンに、声をかける。もちろん、口調は勇者としてのそれだ。
教官の演説中、ずっと彼を探していたことなどまるで感じさせない口ぶりで、私は話す。
それにしても、口調が無愛想すぎやしないか。まったく、私が傷つかないとでも思っているのだろうか――と、これは勝手な独りよがり。
「このあたりの地理はよく分からない。私を案内してくれ」
彼は、おどけるように肩をすくめ、言った。
「御意に。――勇者様」
私達は、小高い丘のような場所をゆっくり歩いていた。少し下には小さな森があり、それを抜ければ街、つまり砦もある。
私はそんな、すこし気の利いたピクニックコースのような場所を、フェンと歩いていた。
フェンとは年が近い事もあり、互いに気づけば言葉を交わすような仲になっていた。だが、まだ遠慮というか、一歩退いている部分があるのも確かだ。
「おい、少年」
「その口調」
話しかけた瞬間、ピシャリと出鼻をくじくようにそう言われた。
「演技でしょう? やめませんか。僕はそういうのはあまり好きではないので」
「……そういうフェンだって」
やはり、あまりにも聡い。私と、そう年齢は変わらないはずなのに。
そして、同時に強い、とも思う。なんというか、拘らない奴だ。
私がどさくさにまぎれて彼を名前で呼んだのも、しっかりバレていることだろう。
「僕は良いんですよ。キャラづくりですから」
「言い切ったわね……」
「僕の一人称、実は『俺様』なんです」
「俺様!? そんな人いないよ!」
「いますよ。……小説の悪役で」
「フェンは悪役だったのか! せっかく友人ができたと思っていたのに!」
「俺様は、実は砦の内情を探るために派遣されてきたスパイなんですよ」
「『俺様』と敬語の相性最悪ね……」
冗談はさておき、とフェンは言う。そんなフェンを見て、私は思う。
――今のは、彼なりの優しさなのだろうか。
だとしたら、フェンは不器用な奴だ。乙女心の機微なんて全く分からないだろうし、そもそもそんなものに取り合おうとすらしないだろう。
だが、そんな彼でも、私という個人には取り合ってくれる。全く、不器用な優しさだった。
「ちょっとサボって、休みましょう」
「うん……」
もし、その優しさに私が甘えたくなってしまうことすら彼の計算の内なら。彼には正しく悪魔の資質が、あるのだろう。
ちょっと傾斜のかかった丘、そこに二人で並んで寝ころぶ。
隣には、軽めの鎧に身を包んだ勇者の少女。長い亜麻色の髪を芝生に乱れさせ、剣も剣帯から外して近くに置いてあるだけだ。その黒い瞳は空を見つめ、雲の動きを追っている。
無防備すぎると、思う。これでも僕は、男なのだが。
それとも、これは信用の裏返しなのだろうか。
「なあ」
「ん?」
「フェンは、いつもこうしてここでサボっているの?」
そんな事を聞かれて、心の中で苦笑する。
お堅い勇者様を、こんなところでサボりに付き合わせるなんて、そんな兵士は僕くらいのものだろう。
「いつもじゃないですよ。サボりたい時だけです」
それは、遠回しな肯定。
「そう、か」
「怠惰だと、僕を怒りますか?」
怠慢は罪だと、聖典には書いてあることだし。
怒られたとして、僕に反論する権利は無いだろう。
「いや。フェンがサボっても問題ないと思ったのなら、それは正解なんだろう」
だが、帰って来たのはそんな言葉で、僕は少し驚く。
まったく、無防備にそんな言葉を吐いて。僕が誘惑されないとでも思っているのだろうか。
だとしたら、とんだ買いかぶりだ。
過大評価にも、程がある――。
「フェン。何故フェンは兵士なんて職業をやっているの?」
「何故、ですか?」
難しい質問だ。それは僕の根幹に関わる質問なのだから。
いや、それは僕だけではないだろう。全ての人の――ひょっとしたら魔物すら――根幹を揺るがす質問だ。
「力が欲しいから、ですかね」
揺るがされて、困るようなものでもないけれど。
思い出すのも、忌まわしいだけで。
「力?」
「そう、力です。個人的な復讐のために」
家族を奪い、僕を復讐に走らせたあの、くそったれな神様に。
笑われるかもしれないが、僕はそんな理由で兵士なった。それを果たすには、僕の一生は短すぎるだろう。だが、動かずにはいられない。
復讐とは、理性で図れるのもではないのだ。そんなものなら、僕はここまで固執しないだろう。
「ミュウは、何故勇者なんてやっているのですか?」
僕は、生まれてから始めて彼女の名前を唇に乗せた。
質問とは、良いものだ。相手からの質問を封じ、さらに時間を稼ぐこともできる。
案の定、彼女は答えに窮しているようだった。
「……私は、勇者だったから。この力を皆のために使わなきゃって」
「嘘ですね」
間髪いれずに言う。
「そうでなければ、貴女が気が付いていないだけです」
「………何に?」
僕の睨んだ通りか。彼女は気がつかないのだろう。その問いが、何よりも雄弁に彼女の欺瞞を証明していることに。
「いいえ、ただの戯言です。――食べますか?」
そう言って、ずっと手に持っていた包みを掲げる。油でからっと揚げた肉を串で刺したものだ。
いつもは1人で食べるのだが、今日は2人分買ってある。
「なに? それ」
「おいしいですよ。1つどうぞ」
今日も僕は、欺瞞に満ちている。
今回の任務で、私の中の疑念というか、しこりのようなものは、確信へと変わってしまった――と思う。
目を閉じれば、フェンの無愛想なように見えて、あちこちに覗く小さな優しさの数々が思い出されて、想いが加速する。
「でも」
でも、私は勇者なのだ。色恋沙汰にうつつをぬかす訳にはいかない。
私の存在意義は、ただ魔を滅する、そのためにあるのだから。
だから、こんな感情はまやかしだ。私がフェンに好意なんて持っているはずがないし、その逆はもっとないだろう。
そう。きっとフェンは、だれにでも優しいのだ。
「罪作りなヤツ……」
彼に借りた本を閉じながら、独りごちる。
いつでもクールな表情を浮かべている、彼の顔も、もう少し手をかければ見違えるだろうに。彼には、そういった色気とか、そういうものへの興味が全く感じられない。
ふと、自分の長い髪を手で触る。亜麻色のその髪も、私の捨てきれなかった女の部分だ。いろんな人に綺麗だと言われるけれど、それですらフェンは何も感じないのだろうか。そう思うと、少し悲しくなる。
昔、故郷で近所に住むお姉さんが言っていた気がする。恋は、胸が張り裂けそうになるくらい苦しい、でも、癖になるほど甘い、と。
まやかしの恋でもこれほど苦しいのだ。ちょっと当てられただけで、この有り様なのだ。今でも虜になるほど甘いというのに。
本物の恋とは、いったいどれほどの苦しみなのだろうか。そして、どれほどの甘さなのだろうか。
ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。規則正しく二回。慌てて私は表情を引き締める。すると、メイドのものだろう女の声で、扉越しに要件を伝えられた。
「お茶が入りました」
「お茶?」
そんなものを頼んだ覚えはない。
「はい……。ここのお茶は美味しいとのことで、フェンさまから」
お聞きになっておられないのでしたら、下げた方がよろしいですか? と聞かれたので、反射的に、
「あ、いや、聞いている。入れてくれ」
「失礼致します」
ドアを開けて入って来たのは、やはりメイドで、小さなワゴンを押していた。その上には綺麗な装飾が施されたティーポットと恐らくセットになっているカップがある。その隣には何も乗っていない皿と、各種ジャムの瓶。
フェンらしくない気遣いだが、今回の任務を共にしたことで、彼も彼なりになにか考えてくれたのだろうか。
「どうぞ」
私が物思いに耽っている間に、メイドはてきぱきと準備してお茶を淹れてくれたようだ。湯気がうっすらと上るカップを受け取り、教会で教えられた通りに、上品にそれを飲む。
フェンが勧めてきたというだけあって、それは確かに、
「おいしい………」
「そうですか。それではもう一杯、どうぞ」
今度はジャムを盛った皿も共に机に置かれ、紅茶とジャムの甘みを同時に楽しむ。
それは本能に直接働きかけてくるように身に沁みて、あるいは、心に沁みた。
どうして、こんなにおいしいのだろう。教会で初めて飲んだ時から、紅茶は苦手だったはずなのだが……。
「食欲と性欲は、似通っていると言いますからね」
メイドがそう言う。私は、何の気なしにうむ、と相槌を打った。
「余計なことをごちゃごちゃと抱え込むせいで、おいしい食事が摂れない。同じことです。余計なことを考えるから、本当に自分のしたい事が見えていないだけです」
私は、紅茶とジャムの甘さに夢中で、うむ、と機械的な相槌を打つだけにとどめる。
舌にのせたジャムと、そのせいで甘さが弱まる紅茶の組み合わせは、思わず身震いするほどに最高だ。
「一度おいしいものにめぐり合ってしまえば、素直にそれを食べる。一度自分の真意が見えてしまえば、あとはそれに向かって進むだけです」
「本当は気がついているのかもしれませんね。なぜなら――」
「――フェンさまから出された、と聞いて、毒が入っているとも知らずに口になさってしまうのですから」
今、なんと言った? 今、この女はなんと言った?
目を見開いて固まった私の手からカップが滑り落ち、かしゃんと軽い音と共に割れる。中身は、飛び散らなかった。
私が、飲み干してしまっていたから。
思えば、私が機械的に相槌を打っていた間も、このメイドはおかしなことを言っていなかったか?
いや、そんなことよりも――
「体が、熱い――ッ」
体が火照る。頭が靄につつまれたようになって、思考がまとまらない。
どうしようもない。熱に浮かされて、自発的な思考は全て形を成す前に崩れ去って行く。
「大丈夫ですよ。死にはしません」
そんな私の耳に、メイドの――いや、メイドの振りをしてこの砦に入り込んだ何者かの、声が響く。
「そのお茶に入れてあったのは、媚薬です。とても、とても弱い、ね」
「び、やく――」
弱い、だって――? これで、弱いというのか。
だって、こんなにも熱いのに。こんなにも苦しいのに。そして――こんなにも気持ちいい。
「この媚薬、ホントはすごく苦いんですよ。でも、一部の女には、その限りじゃないんです」
つい、とメイドが私の顎を人差し指で上に向かせる。
視界に入ったメイドは、若い、女だった。長いアメジスト色の髪を後ろで束ね、その体をメイド服に包んでいる。
怜悧に整った美貌は、優しく私を覗きこんでいた。その瞳に宿る色は、決して敵対の憎悪ではなく、むしろ、近親の親愛――?
「貴女、恋をしていませんか?」
「――ッ!?」
「でも、いろんなしがらみに縛られて、自ら目を背けている。そんなところでしょう?」
くすり、と笑う。
その瞳には人間では有り得ない、妖艶な光が灯っていた。
彼女は、イスに腰掛けた私に覆いかぶさるように、私を覗きこむ。私は、その気配に当てられたように、視線も体も、釘づけにされる。
その手が、私の剣帯にかけられて、ちゃり、と小さな音を鳴らす。
「かわいそうですね。何も知らずに、教会に操られて。自分すら犠牲にして」
ちゃりちゃりと鳴る、腰の小さな音だけが私の脳内に響いて、その他はすべて崩れた思考に飲み込まれる。
「縛られる必要は無いのですよ」
そこまで言って、女は私の耳元に口を寄せ、囁くように、言った。
甘噛みするような声音で。
「――好きな人が、居るのでしょう?」
とたん、熱すぎる熱すら一瞬忘れて、爆発する。
口が勝手に動いて、いつもの魔法の呪文を唱える。これさえ唱えれば、わがままな心を殺して、いつもの勇者に戻れる。そんな呪文を。
「だって、私は勇者で、世界を魔王から救わなきゃいけなくて、だから――」
「嘘、です」
しかし、そんな試みすら一瞬で砕かれた。奇しくも、フェンの台詞をそのままなぞるように。メイドはくすり、と笑って、言葉を重ねる。
「勇者は、嘘をついてはいけない、と教わらないのですか?」
気がつけば、私は露わにされていた。剣帯を通していたスカートも、その下の下着も少しだけずらされる。
女は私を弄ぶように、熱に疼く私の秘部をそっと撫でた。
「ひゃう――」
気持ちいい。快楽のみが脳を犯し、いままでの靄もだるさも根こそぎ吹き飛ばしてく。
そんな私に、女の言葉が沁みていく。
「良いのですか? 彼が好きなのでしょう? それなのに、目を背けて良いのですか?」
沁みていく。同時に、彼女の手がもたらした快楽が、私を溶かしてゆく。
「余計な物を抱え込んで、自分の真意を濁しても良いのですか?」
そして、聞かれる。
「さあ、貴女の答えは、なんですか?」
彼女の言葉の合間にも、指は絶え間なく私を愛撫する。蜜を滴らせるほど火照った秘裂は、恐ろしいほどの快楽を以て私を悦ばせる。
間違い無く、今までの短い人生で最高の快楽と言えた。教会で教わったような、淑女の振る舞いなど遠くに吹き飛び、ただ獣のように悦楽に身を震わせる。
何故、こんな快楽を私は知らなかったんだろう。呼吸が激しいものになっていくのにも構わず、私は大きく息をする。
「あっ、んッ! わ、私は……」
フェンが好きだ。フェンが欲しい。フェンの全てが欲しい。
本当に、見ず知らずの人たちのために自らの幸せを投げ打ち、魔王を討つのが正しい事なのか。
いや、それは正しいだろう。
だが、その正義は、私の正義を否定するに足る証左とはならない――。
「はぁ、はぁ……。私は――フェンが欲しい」
そう言った瞬間、目の前の女が優しく微笑み、私の秘裂の奥までその繊手を挿し入れた。途端、電撃のように私の体を貫いた刺激が、凄まじい威力で以て私の中の理性を駆逐していく。
ここに居るのは、最早勇者などではない。だだの、発情した獣だ。
「うぁッッ――ッ!?」
私は、快楽に耐えきれず、体を激しく震わせながら一気に絶頂まで上り詰めてしまった。解放感に似た恍惚を味わいながら、蜜が股をべたべたに濡らすのを感じた。
なんとか声を上げる事はこらえたものの、秘所から溢れでた蜜はメイドの手を汚し、イスと床に零れおちる。
果てたことで脱力した私は、だらしなく股を開いてイスにもたれかかる。それを、優しく抱きとめながら、メイドは言う。
「傀儡の勇者より、恋する少女でありたい――そう願うことは、決して悪などではないのです」
「傀儡の――勇者」
『嘘ですね』と、フェンの言った台詞が蘇る。その後、彼は何と言った?
『そうでなければ、貴女が気が付いていないだけです』と言ったのではなかったか――
教会では、魔物は人間に害なす存在だと教わった。私はただ漠然とそれを信じ、剣と魔法を磨いてきた。勇者に相応しい振る舞いを身につけ、本来の私を殺してまで勇者であろうとした。
だが、真実はどうか。
人間よりも、魔物の方が、私を解ってくれるじゃないか。
「魔物よりも、人間が、貴女の敵なのですよ」
再び、彼女は私の中に挿れた手を、わずかに動かす。淫靡な音と共に、震えるほどの快楽が襲ってくる。さっきあれほど漏れ出たばかりだというのに、早くも私の火処は蜜で溢れんばかりになる。
「はぁっ、人間を、フェンを……んっ、悪く、言わないで……」
「そう、そうですよね。貴方の中で、彼はそれほど大きな存在なのですね」
彼女は、瞳を閉じて、噛みしめるように言う。今や、私にはこのメイドが、聖典に語られる天使のように見えて仕方が無かった。人間を導き、残酷な真実を教えてくれる優しく淫らな堕天使――。
私はその天使の腕を掴み、言う。
「ん、あぁ……。ねぇ、もっと教えて……。もっと、私に……」
もう、熱くたぎった火処は納まらない。情欲の劫火で煮えた私の蜜が、私自身を淫乱に彩るの自覚しながら、私はそうねだった。
そんな、プライドのかけらも窺えない私の言葉に、彼女は答える。
「ええ。――もちろん」
私は、その夜、勇者を辞めた。
1人の、人間のために。
生きていくために戦う事を選択する人だっているし、生きていくためでなく戦う事を選択する人もいる。
あるいは、選択の余地無く戦う事を運命づけられた人だっているかもしれない。
ならば、生きていくために戦う事を選択した僕は、まだ幸福な部類だろう。
戦い続けつつも、未だ命を落とすには至っていないのだから。
「よし! 素振りやめ!」
教官の怒鳴り声が聞こえる。砦に併設された、微妙な広さの練兵場に、汚いだみ声が広がる。
その声に反応して、僕を含めた兵士たちが一斉に剣を振る手を止めた。その視線の先で、教官がその大きな掌をぱんぱん、と二回打ち鳴らす。
「二人一組で模擬戦だ! 3回やって終わったら各自解散!」
解散、のその一言に反応して、皆素早く試合相手を見つけていく。
早く休みたいと思うのは人の本能だが、そんな覚悟で、戦場で生き残れるのだろうか。
いや。この僕が、この世界で、生き残れるのだろうか。
「おい! フェン! お前だ! ちょっと、お前に相手をしてもらいたい方がおられる!」
僕も顔なじみの同僚をつかまえて、さっさと訓練を終わらせようとしていたのだが、もたもたしていたのが良くなかったようだ。運悪く、教官に呼び出されてしまった。
あの教官が、敬語を遣う相手となると、僕のような一兵卒ではどのように接しなければならないのだろう。
「どうぞ、こちらです。あの少年が相手です」
「彼か。楽しめると、良いのだがな」
準備が整ったようだ、というのはこの場合不適切な表現だろうか。とにかく、僕の戦う相手が現れたようだ。僕の後ろから、ブーツの底が練兵場の砂を踏む音が連続して聞こえてくる。
「よろしくな」
す、と手が差し出される気配がした。いつまでも背を向けたままでは居られないので、僕もくるり振り向く。
まず目に飛び込んできたのは、端正に整った綺麗な顔だった。普通、このような場ではヘルムまできっちりと着用するのが普通だ。なので、素顔を晒していると、よく目立つ。
それが、普通の顔だったらまだましなのかもしれないが、僕の対戦相手はこの場にそぐわぬほど綺麗だったと言っていいだろう。
周りから、視線が集まるのを感じる。
「……よろしくお願いします」
差し出された手に僕も左手を差し出す。差し出す側には差し出す手の選択権があるが、差し出された側にはそれが無い。もちろん僕は、相手が左側に剣を吊っているのに、彼女が左利きだった、などとは考えない。
おかしな事には、それ相応の理由があるものだ。
僕は左手を差し出すと同時に右手で剣を抜き、いきなり襲いかかってきた綺麗な対戦相手の剣を迎え討った。
一撃を交換した時点で、僕たちは左手で握手を交わしたまま剣で打ち合うというおかしな状況を構成してしまった。周りの同僚も教官すら絶句している。
「――不意打ちは関心しませんよ」
「君は見事それを防いで見せた」
防げたのだから、不意打ちではないと、そういう事か。なるほど、言われてみればその通りだ。
それにしても、何という重い剣だろうか。見たところ相手は女性だが、まるで両手で繰り出した剣のような重さだった。そう、噂に聞く勇者か、もしくは僕らの敵――魔物のような。
防いだ僕の手がしびれているというのに、彼女は何事も無かったかのようにその大きな剣を構えなおす。
「次は、受け切れるかしら」
次の瞬間、僕の体は宙を舞った。
本を読むのは良い事だ。嫌なことも悩み事も、全部忘れられる。涼しい木陰に腰掛けて、静かに本を読んでいればこの世界に僕しかいないような、何ともすがすがしい気持ちになるものだ。
だが、それを打ち破る者の存在も邪魔ではないと思えるのは、ダブルスタンダードだろうか。
結局のところ、僕の求めるものは日常――なのだ。
「何を読んでいる? ――と、いきなり聞くのは無粋?」
「分かっているなら、話しかけないでください。――とは言いませんよ」
そんな軽口を叩きながら、先ほどの対戦相手――ミュウというらしい――は僕の隣に腰を下ろした。
先ほどまでは縛っていた髪を下ろしており、その姿はやはり美しいと思う。ミュウは覗きこむように僕の読んでいる本を眺め、興味深そうにしている。
やはり、というべきか、彼女は人ならざる素質を持った人間――いわゆる勇者というやつらしい。教会から、魔界に近い最前線であるこの砦に派遣されて来たのだとか。
そんな素性の持ち主に、ただの一兵卒である僕が勝てる理由など有るわけも無く、あの後僕は3連敗した訳だが。
「本か。聖典以外の書物をじっくり見るのはこれが初めてだな」
勇者、などという仰々しい肩書を背負っていても、こうして僕の本に興味を示す様はあまりにも無防備で。年相応の少女に見えてしまうのが不思議だ。
良い意味でも悪い意味でも、所詮は人の子、ということか。
「良かったら、読みますか?」
そう言って、軽く本を掲げてみせる。自慢ではないが、給料の大半は読書という趣味に費やしている僕である。部屋には結構な量の本があるのだ。
同僚たちは本など女の読み物だろうと言って、見向きもしなかったけれど。
「………良いのか?」
「好みを教えていただければ、数冊見つくろって持っていきますよ」
自分の趣味を、肯定されるのはそれと分かっていても嬉しいものだ。
そして、それが自然に出た言葉であるのなら、広めたくもなるのが人間である。
ミュウは未だ踏ん切りがつかないような顔をしていたが、僕が、
「まだ、ここには友人の1人も居ないでしょう。それまで、本を友達にしても良いと思いますよ」
そうけしかけると、何か納得したように、
「そ、そうね。うん。ではよろしく頼む」
そんなちぐはぐな言葉遣いで返事をもらい、ふと思った。
人間を誘惑する事に成功した悪魔は、こんな気持ちになるのだろうか、と。
もしそうならば、僕には悪魔の資質があるに違いなかった。
ドキドキした。
故郷を出て以来、ずっと教会というある種浮世離れしたところで生活していたのいうのもあるだろう。周りは神官や修道女、召使いばかりで同年代の友人など望むべくもなかった。
そして、戦闘で自分に追いつけるものが居なかったというのもあるだろう。あのフェンという少年にしても私の力には遠く及ばないが、こと先の読み合い、裏のかき合いになると、ほぼ遅滞なく付いてくる。
そんな経験、初めてだ。
昼間、勇気を出して話しかけたのも確か彼だった。彼にはお似合いというか、あまりにもしっくりくる趣味だったせいで逆に印象に残っている。
老生しているというか、最早枯れている。
そんな彼のおかげで、緊張やらなんやら、全部吹っ飛んでしまった。まあ、それは悪い事ではないだろうが。
1つ残念なことがあるとすれば、彼が私に興味を持っていないことがありありと分かる点だろうか。昼間の会話でも、会話よりも本に関心がある事を隠そうともしなかった。
それは裏表が無いということであり、ある種すがすがしいものがあるのも事実だけど……
「って、私は何を考えているのよ……」
教会派遣の勇者ということで、砦の中にある割と広い一室を割り振られている私だけど、もともと部屋をどのように活用すればいいのかよく分からない。
教会に居た頃は毎日が忙しく、部屋に戻ることすら稀だったのだから、それは私のせいではない。だから、私の部屋は女の子の1人住まいだというのに、無機質な印象をこれでもかと見る者に焼きつける。
「……フェンに手伝ってもらおうか」
いや、それは流石にまずいだろうが、それとなく探ってみてもいいかもしれない。しかし、あまりに聡いフェンのこと、あっという間に感づかれるような気もしていた。
そうなった時の事を想像して、少しだけ頬が熱くなる。
別に、フェン個人の事が気になっているんじゃない。たまたま、一番親しいのが彼であるだけ。そう、自分で自分を納得させようとするものの、
「……難しいな」
今までも、同じ年頃の少女が頭を悩ませたであろうこの問題に、私もまた、頭を悩ませていた。
この砦に派遣されて数日。ずらりと兵士たちが列を組んで並び、私は教官の隣、並んだ兵士たちと向き合うように立つ。私は、顔ではなんでもないような表情をしているものの、一糸乱れぬ統率で並んだその姿には、ある種、気圧されるような居心地の悪さがあった。
だが、私は彼らとは違う。1人で一騎当千の力を持った者なのだ。それが、こんなちっぽけなことで揺らいでどうする、とあくまで無感動な姿勢を決め込んだ。
「昨日、付近の村で魔物が出たという知らせがあった。幸い犠牲者は出ていないようだが、村の自警団の数名が負傷している」
横では、教官が事件発生の報告をしている。どうやら、今日の訓練は取りやめで、急遽哨戒任務に当たることになりそうだ。
「これ以上の被害を出しては、我らの名折れだ。諸君らも気を張って任務に臨むように」
そのような締めくくりで教官の話が終わり、兵士たちもいったん解散する。それにまぎれて、私も動いた。
「おい、そこの少年」
「……なんでしょうか」
兜を小脇に抱え、兵士として完全装備のフェンに、声をかける。もちろん、口調は勇者としてのそれだ。
教官の演説中、ずっと彼を探していたことなどまるで感じさせない口ぶりで、私は話す。
それにしても、口調が無愛想すぎやしないか。まったく、私が傷つかないとでも思っているのだろうか――と、これは勝手な独りよがり。
「このあたりの地理はよく分からない。私を案内してくれ」
彼は、おどけるように肩をすくめ、言った。
「御意に。――勇者様」
私達は、小高い丘のような場所をゆっくり歩いていた。少し下には小さな森があり、それを抜ければ街、つまり砦もある。
私はそんな、すこし気の利いたピクニックコースのような場所を、フェンと歩いていた。
フェンとは年が近い事もあり、互いに気づけば言葉を交わすような仲になっていた。だが、まだ遠慮というか、一歩退いている部分があるのも確かだ。
「おい、少年」
「その口調」
話しかけた瞬間、ピシャリと出鼻をくじくようにそう言われた。
「演技でしょう? やめませんか。僕はそういうのはあまり好きではないので」
「……そういうフェンだって」
やはり、あまりにも聡い。私と、そう年齢は変わらないはずなのに。
そして、同時に強い、とも思う。なんというか、拘らない奴だ。
私がどさくさにまぎれて彼を名前で呼んだのも、しっかりバレていることだろう。
「僕は良いんですよ。キャラづくりですから」
「言い切ったわね……」
「僕の一人称、実は『俺様』なんです」
「俺様!? そんな人いないよ!」
「いますよ。……小説の悪役で」
「フェンは悪役だったのか! せっかく友人ができたと思っていたのに!」
「俺様は、実は砦の内情を探るために派遣されてきたスパイなんですよ」
「『俺様』と敬語の相性最悪ね……」
冗談はさておき、とフェンは言う。そんなフェンを見て、私は思う。
――今のは、彼なりの優しさなのだろうか。
だとしたら、フェンは不器用な奴だ。乙女心の機微なんて全く分からないだろうし、そもそもそんなものに取り合おうとすらしないだろう。
だが、そんな彼でも、私という個人には取り合ってくれる。全く、不器用な優しさだった。
「ちょっとサボって、休みましょう」
「うん……」
もし、その優しさに私が甘えたくなってしまうことすら彼の計算の内なら。彼には正しく悪魔の資質が、あるのだろう。
ちょっと傾斜のかかった丘、そこに二人で並んで寝ころぶ。
隣には、軽めの鎧に身を包んだ勇者の少女。長い亜麻色の髪を芝生に乱れさせ、剣も剣帯から外して近くに置いてあるだけだ。その黒い瞳は空を見つめ、雲の動きを追っている。
無防備すぎると、思う。これでも僕は、男なのだが。
それとも、これは信用の裏返しなのだろうか。
「なあ」
「ん?」
「フェンは、いつもこうしてここでサボっているの?」
そんな事を聞かれて、心の中で苦笑する。
お堅い勇者様を、こんなところでサボりに付き合わせるなんて、そんな兵士は僕くらいのものだろう。
「いつもじゃないですよ。サボりたい時だけです」
それは、遠回しな肯定。
「そう、か」
「怠惰だと、僕を怒りますか?」
怠慢は罪だと、聖典には書いてあることだし。
怒られたとして、僕に反論する権利は無いだろう。
「いや。フェンがサボっても問題ないと思ったのなら、それは正解なんだろう」
だが、帰って来たのはそんな言葉で、僕は少し驚く。
まったく、無防備にそんな言葉を吐いて。僕が誘惑されないとでも思っているのだろうか。
だとしたら、とんだ買いかぶりだ。
過大評価にも、程がある――。
「フェン。何故フェンは兵士なんて職業をやっているの?」
「何故、ですか?」
難しい質問だ。それは僕の根幹に関わる質問なのだから。
いや、それは僕だけではないだろう。全ての人の――ひょっとしたら魔物すら――根幹を揺るがす質問だ。
「力が欲しいから、ですかね」
揺るがされて、困るようなものでもないけれど。
思い出すのも、忌まわしいだけで。
「力?」
「そう、力です。個人的な復讐のために」
家族を奪い、僕を復讐に走らせたあの、くそったれな神様に。
笑われるかもしれないが、僕はそんな理由で兵士なった。それを果たすには、僕の一生は短すぎるだろう。だが、動かずにはいられない。
復讐とは、理性で図れるのもではないのだ。そんなものなら、僕はここまで固執しないだろう。
「ミュウは、何故勇者なんてやっているのですか?」
僕は、生まれてから始めて彼女の名前を唇に乗せた。
質問とは、良いものだ。相手からの質問を封じ、さらに時間を稼ぐこともできる。
案の定、彼女は答えに窮しているようだった。
「……私は、勇者だったから。この力を皆のために使わなきゃって」
「嘘ですね」
間髪いれずに言う。
「そうでなければ、貴女が気が付いていないだけです」
「………何に?」
僕の睨んだ通りか。彼女は気がつかないのだろう。その問いが、何よりも雄弁に彼女の欺瞞を証明していることに。
「いいえ、ただの戯言です。――食べますか?」
そう言って、ずっと手に持っていた包みを掲げる。油でからっと揚げた肉を串で刺したものだ。
いつもは1人で食べるのだが、今日は2人分買ってある。
「なに? それ」
「おいしいですよ。1つどうぞ」
今日も僕は、欺瞞に満ちている。
今回の任務で、私の中の疑念というか、しこりのようなものは、確信へと変わってしまった――と思う。
目を閉じれば、フェンの無愛想なように見えて、あちこちに覗く小さな優しさの数々が思い出されて、想いが加速する。
「でも」
でも、私は勇者なのだ。色恋沙汰にうつつをぬかす訳にはいかない。
私の存在意義は、ただ魔を滅する、そのためにあるのだから。
だから、こんな感情はまやかしだ。私がフェンに好意なんて持っているはずがないし、その逆はもっとないだろう。
そう。きっとフェンは、だれにでも優しいのだ。
「罪作りなヤツ……」
彼に借りた本を閉じながら、独りごちる。
いつでもクールな表情を浮かべている、彼の顔も、もう少し手をかければ見違えるだろうに。彼には、そういった色気とか、そういうものへの興味が全く感じられない。
ふと、自分の長い髪を手で触る。亜麻色のその髪も、私の捨てきれなかった女の部分だ。いろんな人に綺麗だと言われるけれど、それですらフェンは何も感じないのだろうか。そう思うと、少し悲しくなる。
昔、故郷で近所に住むお姉さんが言っていた気がする。恋は、胸が張り裂けそうになるくらい苦しい、でも、癖になるほど甘い、と。
まやかしの恋でもこれほど苦しいのだ。ちょっと当てられただけで、この有り様なのだ。今でも虜になるほど甘いというのに。
本物の恋とは、いったいどれほどの苦しみなのだろうか。そして、どれほどの甘さなのだろうか。
ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。規則正しく二回。慌てて私は表情を引き締める。すると、メイドのものだろう女の声で、扉越しに要件を伝えられた。
「お茶が入りました」
「お茶?」
そんなものを頼んだ覚えはない。
「はい……。ここのお茶は美味しいとのことで、フェンさまから」
お聞きになっておられないのでしたら、下げた方がよろしいですか? と聞かれたので、反射的に、
「あ、いや、聞いている。入れてくれ」
「失礼致します」
ドアを開けて入って来たのは、やはりメイドで、小さなワゴンを押していた。その上には綺麗な装飾が施されたティーポットと恐らくセットになっているカップがある。その隣には何も乗っていない皿と、各種ジャムの瓶。
フェンらしくない気遣いだが、今回の任務を共にしたことで、彼も彼なりになにか考えてくれたのだろうか。
「どうぞ」
私が物思いに耽っている間に、メイドはてきぱきと準備してお茶を淹れてくれたようだ。湯気がうっすらと上るカップを受け取り、教会で教えられた通りに、上品にそれを飲む。
フェンが勧めてきたというだけあって、それは確かに、
「おいしい………」
「そうですか。それではもう一杯、どうぞ」
今度はジャムを盛った皿も共に机に置かれ、紅茶とジャムの甘みを同時に楽しむ。
それは本能に直接働きかけてくるように身に沁みて、あるいは、心に沁みた。
どうして、こんなにおいしいのだろう。教会で初めて飲んだ時から、紅茶は苦手だったはずなのだが……。
「食欲と性欲は、似通っていると言いますからね」
メイドがそう言う。私は、何の気なしにうむ、と相槌を打った。
「余計なことをごちゃごちゃと抱え込むせいで、おいしい食事が摂れない。同じことです。余計なことを考えるから、本当に自分のしたい事が見えていないだけです」
私は、紅茶とジャムの甘さに夢中で、うむ、と機械的な相槌を打つだけにとどめる。
舌にのせたジャムと、そのせいで甘さが弱まる紅茶の組み合わせは、思わず身震いするほどに最高だ。
「一度おいしいものにめぐり合ってしまえば、素直にそれを食べる。一度自分の真意が見えてしまえば、あとはそれに向かって進むだけです」
「本当は気がついているのかもしれませんね。なぜなら――」
「――フェンさまから出された、と聞いて、毒が入っているとも知らずに口になさってしまうのですから」
今、なんと言った? 今、この女はなんと言った?
目を見開いて固まった私の手からカップが滑り落ち、かしゃんと軽い音と共に割れる。中身は、飛び散らなかった。
私が、飲み干してしまっていたから。
思えば、私が機械的に相槌を打っていた間も、このメイドはおかしなことを言っていなかったか?
いや、そんなことよりも――
「体が、熱い――ッ」
体が火照る。頭が靄につつまれたようになって、思考がまとまらない。
どうしようもない。熱に浮かされて、自発的な思考は全て形を成す前に崩れ去って行く。
「大丈夫ですよ。死にはしません」
そんな私の耳に、メイドの――いや、メイドの振りをしてこの砦に入り込んだ何者かの、声が響く。
「そのお茶に入れてあったのは、媚薬です。とても、とても弱い、ね」
「び、やく――」
弱い、だって――? これで、弱いというのか。
だって、こんなにも熱いのに。こんなにも苦しいのに。そして――こんなにも気持ちいい。
「この媚薬、ホントはすごく苦いんですよ。でも、一部の女には、その限りじゃないんです」
つい、とメイドが私の顎を人差し指で上に向かせる。
視界に入ったメイドは、若い、女だった。長いアメジスト色の髪を後ろで束ね、その体をメイド服に包んでいる。
怜悧に整った美貌は、優しく私を覗きこんでいた。その瞳に宿る色は、決して敵対の憎悪ではなく、むしろ、近親の親愛――?
「貴女、恋をしていませんか?」
「――ッ!?」
「でも、いろんなしがらみに縛られて、自ら目を背けている。そんなところでしょう?」
くすり、と笑う。
その瞳には人間では有り得ない、妖艶な光が灯っていた。
彼女は、イスに腰掛けた私に覆いかぶさるように、私を覗きこむ。私は、その気配に当てられたように、視線も体も、釘づけにされる。
その手が、私の剣帯にかけられて、ちゃり、と小さな音を鳴らす。
「かわいそうですね。何も知らずに、教会に操られて。自分すら犠牲にして」
ちゃりちゃりと鳴る、腰の小さな音だけが私の脳内に響いて、その他はすべて崩れた思考に飲み込まれる。
「縛られる必要は無いのですよ」
そこまで言って、女は私の耳元に口を寄せ、囁くように、言った。
甘噛みするような声音で。
「――好きな人が、居るのでしょう?」
とたん、熱すぎる熱すら一瞬忘れて、爆発する。
口が勝手に動いて、いつもの魔法の呪文を唱える。これさえ唱えれば、わがままな心を殺して、いつもの勇者に戻れる。そんな呪文を。
「だって、私は勇者で、世界を魔王から救わなきゃいけなくて、だから――」
「嘘、です」
しかし、そんな試みすら一瞬で砕かれた。奇しくも、フェンの台詞をそのままなぞるように。メイドはくすり、と笑って、言葉を重ねる。
「勇者は、嘘をついてはいけない、と教わらないのですか?」
気がつけば、私は露わにされていた。剣帯を通していたスカートも、その下の下着も少しだけずらされる。
女は私を弄ぶように、熱に疼く私の秘部をそっと撫でた。
「ひゃう――」
気持ちいい。快楽のみが脳を犯し、いままでの靄もだるさも根こそぎ吹き飛ばしてく。
そんな私に、女の言葉が沁みていく。
「良いのですか? 彼が好きなのでしょう? それなのに、目を背けて良いのですか?」
沁みていく。同時に、彼女の手がもたらした快楽が、私を溶かしてゆく。
「余計な物を抱え込んで、自分の真意を濁しても良いのですか?」
そして、聞かれる。
「さあ、貴女の答えは、なんですか?」
彼女の言葉の合間にも、指は絶え間なく私を愛撫する。蜜を滴らせるほど火照った秘裂は、恐ろしいほどの快楽を以て私を悦ばせる。
間違い無く、今までの短い人生で最高の快楽と言えた。教会で教わったような、淑女の振る舞いなど遠くに吹き飛び、ただ獣のように悦楽に身を震わせる。
何故、こんな快楽を私は知らなかったんだろう。呼吸が激しいものになっていくのにも構わず、私は大きく息をする。
「あっ、んッ! わ、私は……」
フェンが好きだ。フェンが欲しい。フェンの全てが欲しい。
本当に、見ず知らずの人たちのために自らの幸せを投げ打ち、魔王を討つのが正しい事なのか。
いや、それは正しいだろう。
だが、その正義は、私の正義を否定するに足る証左とはならない――。
「はぁ、はぁ……。私は――フェンが欲しい」
そう言った瞬間、目の前の女が優しく微笑み、私の秘裂の奥までその繊手を挿し入れた。途端、電撃のように私の体を貫いた刺激が、凄まじい威力で以て私の中の理性を駆逐していく。
ここに居るのは、最早勇者などではない。だだの、発情した獣だ。
「うぁッッ――ッ!?」
私は、快楽に耐えきれず、体を激しく震わせながら一気に絶頂まで上り詰めてしまった。解放感に似た恍惚を味わいながら、蜜が股をべたべたに濡らすのを感じた。
なんとか声を上げる事はこらえたものの、秘所から溢れでた蜜はメイドの手を汚し、イスと床に零れおちる。
果てたことで脱力した私は、だらしなく股を開いてイスにもたれかかる。それを、優しく抱きとめながら、メイドは言う。
「傀儡の勇者より、恋する少女でありたい――そう願うことは、決して悪などではないのです」
「傀儡の――勇者」
『嘘ですね』と、フェンの言った台詞が蘇る。その後、彼は何と言った?
『そうでなければ、貴女が気が付いていないだけです』と言ったのではなかったか――
教会では、魔物は人間に害なす存在だと教わった。私はただ漠然とそれを信じ、剣と魔法を磨いてきた。勇者に相応しい振る舞いを身につけ、本来の私を殺してまで勇者であろうとした。
だが、真実はどうか。
人間よりも、魔物の方が、私を解ってくれるじゃないか。
「魔物よりも、人間が、貴女の敵なのですよ」
再び、彼女は私の中に挿れた手を、わずかに動かす。淫靡な音と共に、震えるほどの快楽が襲ってくる。さっきあれほど漏れ出たばかりだというのに、早くも私の火処は蜜で溢れんばかりになる。
「はぁっ、人間を、フェンを……んっ、悪く、言わないで……」
「そう、そうですよね。貴方の中で、彼はそれほど大きな存在なのですね」
彼女は、瞳を閉じて、噛みしめるように言う。今や、私にはこのメイドが、聖典に語られる天使のように見えて仕方が無かった。人間を導き、残酷な真実を教えてくれる優しく淫らな堕天使――。
私はその天使の腕を掴み、言う。
「ん、あぁ……。ねぇ、もっと教えて……。もっと、私に……」
もう、熱くたぎった火処は納まらない。情欲の劫火で煮えた私の蜜が、私自身を淫乱に彩るの自覚しながら、私はそうねだった。
そんな、プライドのかけらも窺えない私の言葉に、彼女は答える。
「ええ。――もちろん」
私は、その夜、勇者を辞めた。
1人の、人間のために。
11/06/11 01:14更新 / 湖
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