いつか帰る、その日まで
先ほどまでパラついていた雨も既に上がり、分厚い葉の間からはわずかながら陽光が差し込んでいる。
それのおかげなのか、セルフィア達の行軍速度も上がっているように感じる。
それでも、雨が上がった頃から蒸されるような暑さが漂い始めている。それでなくてもこの森にどんな危険が潜んでいるか分からず、皆神経を尖らせているというのに。
この森に侵入してから半時間ほど。未だ一度たりとも魔物との遭遇は無い。突き出した木の根や枝に引っかかってけがをした者はいるものの、無傷と言ってよいほどの被害だった。
だが、精神的な疲労という点では数時間に及ぶ戦闘にも匹敵するレベルだとセルフィアは思っている。
先遣隊とはいえ、十分すぎる戦力を揃えてきたのだ。当然、魔物との交戦も想定に入っていただろう。それが、何の手ごたえもないままこうして森の中を歩き続けている。
そろそろ、元街だった廃墟や残骸を見つけてもいい頃のはずだが、周りの景色は一向に変わらない。自分たちを取り囲む檻のような木々ばかりだ。頭では目的に近づいていることが解っても、変わらない景色が体に徒労感を刻みつける。
そう。目的だ。この程度のことで、諦められるものではない。
何年も前から準備を重ねてきた。それよりも前から涙を糧に先に進んできた。光を見失っても、折れはしなかった。
「負けるもんか………先に逝った奴らに合わせる顔がねぇ」
誰かがそう呟いた。小さな呟きだったそれは、不思議なほどはっきりと聞こえた。その言葉に、全員無言の肯定を返すように力強く地面を踏みしめる。
「姫様に手出した奴らに、思い知らせてやる……」
「俺たちは負けねぇ。たとえ肉片になっても立ち向かってやる」
「今日で最後だ………!! 絶対にあの日々を取り戻す……!」
それをきっかけに、あちらこちらで堪え切れない思いが呟かれる。中にははっきりとした声で、正しく魂から発せられたようなものもあり、皆の疲労を吹き飛ばしてゆく。
セルフィアもその声に励まされながら、暗い森の中を行軍する。ちらりと脳裏に亡き姉の面影がよぎり、それを刻みつけるように。
どんな敵が待ち受けていようとも、必ず故郷を取り戻すことを胸に誓って。
いつもの、野生に咲く花のような明るい空気を微塵も感じさせず、かといって冷たい訳でもない不思議な空気を纏うアリス。
彼女の表情が窺えぬまま、リィリはアリスの背に言葉を投げる。
「アリスをどこへやった? ――ユレンシア」
ユレンシア。その聞きなれない名前に、ゼノンはしかし困惑しない。
ついさっき、アリスが聞かせてくれた昔話。それに登場した小さな国の最後の姫王の名は、ユレンシアではなかったか。
そんな、全てを見透かした上でのリィリの問いに、アリス=ユレンシアはゆっくり振り向きつつ答える。
「アリスを? いいえ、どこにもやっていないわ」
その仕草だけではなく、口調までもゼノンの知るアリスとは違うことに、今更ながら衝撃を受ける。
ユレンシアは意味ありげな微笑を浮かべ、まっすぐに2人を見据えた。
「では、お前はアリスなのか?」
森の中を走ってきた余韻である息切れも既におさまり、いつもの静かな両の琥珀をユレンシアに向けるリィリ。そこには激したところなど全く無く、ただ事実を淡々と確認しているようだ。
過去にも、ゼノンは幾度かこんなリィリを見たことがあった。それはいつも真実の裏で進行している何かに気がついた時で、そんな時リィリは感情が全く無いかのようにふるまう。それが癖なのか、感情を処理する暇も無いのかは分からないが。
「……本当は気が付いているでしょう? 墓守の黒犬さん」
ユレンシアがそう答える。あくまでその微笑に揺るぎは無く、どこまでもアリスには似合わない表情で。
いつかのようにリィリを“墓守の黒犬”と呼んだユレンシアを、リィリは無表情に見つめる。静かに凪いだその表情からは、一切の思考が読めない。
こころなしか、周囲の木々すらもその存在を縮こまらせ、息を殺しているようだ。さきほどからそれを眺めるだけのゼノンも、また。
もしかしたら、状況は一触即発なのかもしれない。ゼノンにはアリスの様子がおかしいということくらいしか分からないが、状況はそんなに呑気なものではないのかもしれない。
自分たちにとってアリスが脅威になり得るかとか、そういう次元の話では無く。せっかく芽生えたはずの何か大切なものが、儚くも砕け散ってしまうのかもしれない。そう思うと、居てもたっても居られなくなる。
が、ゼノンは自分の相棒を信じていた。いつも無表情で、何を考えているかよく分からない彼女だけど、こう見えて他人の心の機微には敏感なのだ。だから、安心して任せられる。
それから、どれだけの時が流れただろうか。時間にすれば、たったの数瞬なのかもしれない。陳腐な表現かもしれないが、その数瞬がゼノンにはいつまでも続くように感じたのだ。
「ふっ……。ゼノン。そろそろだな」
緊迫した空気が、一気に緩むのを感じた。
「……答え合わせは、後からか?」
「ああ。今は、彼らの相手をしてやらないとな。――ルシ」
リィリがそう呟くと、先ほどまでの雨でドロドロの地面を割って、触手が生えてきた。
地面はあちこちに水たまりが出来ており、足で踏めば沈み込むほどにぬかるんでいる。そんな地面から現れたルシは、当然のように泥にまみれている。
「ユレンシアを連れて逃げてくれ」
リィリの指示に従い、ルシはするすると触手を伸ばしてゼノン達を飛び越え、ユレンシアへ向かう。だが、その手前で、ルシは躊躇するように触手を宙に遊ばせている。
ルシのその様子に、ユレンシアは何かを懐かしむような表情を見せる。
その細い手が汚れるの構わず、ルシの泥まみれの触手に指を這わせて。ルシの触手を抱きしめるように。
「……私は、ここにいます。これは……私が招いた顛末だもの」
裸足の両足をぬかるみに沈め、泥をかぶった触手を抱くその姿は、とても一国の王には見えない。
その碧眼や、絹のような金髪が、かろうじてその血筋を証明するのみだ。
だが。彼女は変わったのだろう。本質はそのままに、より強く。
「……ああ。そこに居てくれ。そこに居て、全てを見届けてくれ」
気がつけば、ゼノンはそう声をかけていた。その言葉に、リィリも反対しない。
当然、リィリは反対するだろうと思っていたゼノンだが、同時に納得もしていた。他人の意思を意味も無く踏みにじるようなヤツではないのだ。良くも悪くも。
それが、本人のためであるならば。素直に自分の意見を取り下げ、応援する。そんな生き方は、少しだけまぶしく思う。
「……後悔の無いようにな」
それだけ言って、くるりとユレンシアに背を向ける。でもそれは決して決別ではなく、背後に庇うような動き。
それに習って、ゼノンも剣を構える。
「敵の数は?」
“敵”と言ってしまって良いのかは分からないが、感情的な気持ちを割り切って、あえてそう呼ぶ。
「まだ敵と決まってはいないが、そうだな……。40から50といったところか」
リィリの状況把握能力には毎回舌を巻かされる。こんな雑音まみれの森の中で、聴覚だけを頼りに敵の数を把握するのは並みの所業では無かった。
だが、いつもに比べれば今回は数値のブレが大きい。まだ敵が遠いこともあるだろうが、それ以上に地形が災いしているのか。
雨は去ったとはいえ、未だ風が吹き、遠くで雷光が瞬く足場の悪い開けた場所。個人の技量ではなく、数の問われるフィールドだ。
「状況は芳しくないな………。策はあるのか?」
「合図をしたら、5分……いや、3分でいい。1人で持ちこたえてくれ」
「わかった」
その策がなんなのか、ゼノンは聞かなかった。
たとえそれがどんな策だったとしても、ゼノンはそれに反対しないからだ。自身の剣技と、体術で戦線を支えきるだけ。
負ける可能性など、始めから考慮しない。思考は全て、自らが相棒と認めた相手の魔道を支えるために。覚悟を秘めた瞳は、まっすぐにまだ見ぬ敵に向けられる。
それが、今のゼノンという剣士の生き方だった。
セルフィア達は活気づいていた。森のそこかしこに、見覚えのある残骸が転がっている光景を目にしたからだ。
まるで人間に棄てられた廃墟のように、静かに骸を晒すレンガ造りの家や古い井戸が残るその景色は、無言で人間に抗議しているようにも見えた――のは、人間のエゴなのだろうか。
だが、それが見えてきたことで、目的地に近づいてきた事が証明されたのも事実だ。否が応にも士気は上がる。
木の根を跨ぎ、突き出した枝をくぐり、ぬかるんだ地面に抗いながら懸命に歩を進める。決して軽くはない鎧の重みに耐えながら、前を目指す。
そうして、もうしばらく歩いただろうか。急に、いままで夜のように暗かった森の中に、一筋の光が差し込んだ。
それは森の中の澄みすぎた空気で綺麗に反射して、森の中を進むセルフィア達を明るく照らす。禍々しい外見をした木々やそれらに絡みつく太いツタも一緒に照らし出されて、彼らはここがどういう場所なのかを再確認させられた。
久方ぶりに見た光。それらはセルフィアたち侵入者を明かりに群がる羽虫のごとく吸い寄せる。我先にと光あふれる中庭じみた庭園に駆け込む。
「貴様………は……」
集団の先頭に立って行軍していた、ガウゼルという名の老騎士が声を上げる。その声は憎しみと驚きに彩られていた。
見れば、既にガウゼルは腰に帯びた剣の柄に手をかけている。仲間内では穏健派で知られる、いつでも紳士的な態度を崩さないガウゼルが、だ。
そして、彼に続いて中庭に入り込んだ面々が、次々に自らの得物に手を伸ばす。発せられた声は、全てガウゼルと同じ響きを持っていた。
次いで、集団の最後尾に居たセルフィアが光あふれる中庭に入る。今まで暗闇で目立たなかったくすんだ金髪が光をはじき、控え目に輝く。そして、彼の双の碧眼はそれを見た。
この庭園の主のように、その中央に生える、子供が1人くらいまるまる入れそうな巨木の前に陣取る者の姿を。片方は、ロングソードを構えた人間の剣士。少しくたびれた、頑丈そうな外套が印象的だ。だが、問題は彼では無い。
その横。剣士から半歩ほど下がった位置に立つ、長い黒髪の魔術師。全身を黒系の装束で覆った彼女は、琥珀の瞳でこちらを見つめる。その頭に見える獣の耳が、音を拾うようにピクリと動いた。
――魔物だ。
「魔物かぁッ!!」
制止は間にあわなかった。彼ら2人を包囲するように半円状に取り囲んだ人の群れの中から、長剣を抜き放ったガウゼルが飛び出す。口にするは裂帛の殺意で、動きのキレも申し分なかった。
足もとがぬかるんでいるにも関わらず、驚異的な速度で距離を詰めたガウゼルは、そのまま目の前の男を袈裟に斬り払った。
剣先は寸分の狂い無く男の肩口を切り裂く――直前で、何かに払われた。互いの剣の真芯を捉えた証である、綺麗に澄んだ快音が響く。
「何――」
咄嗟に口をついた言葉すら最後まで言えず、ガウゼルは宙に舞った。どちゃり、と湿った音を立てて、その体が泥に埋まる。地面が柔らかい泥であったのが幸いし、クッションのように彼を受け止めた。
後ろから見ていた者でも一部始終を目撃できたかどうか。ガウゼルの刃を寸前でかわし、そのまま体を捻って足を払ったなどと。
攻撃を喰らった本人は予想だにしなかったようで、受け身も取れずに地面にたたきつけられたようだ。衝撃で気を失ったらしく、起き上がってはこない。
ガウゼルをそんな状態にした当の本人はといえば、相変わらず剣を正眼に構えたままだ。まるで、一歩たりともその場を動いて居ないかのように、元の位置で。
恐らく、本気でこの人数とやり合う気なのだろう。セルフィアは、どこか他人事のようにそう思った。
「なっ、何をしやがった――ッ!?」
剣士と魔術師を囲む人垣から、そんな声が上がる。それは相手が積極的に襲って来ない余裕の表れなのか、はたまた戦士としての自覚が足りないのか。
戦場で、敵と言葉を交わすなど。だが、それは人間として正常な反応なのかもしれなかった。
「総員、武器を構えろッ! ――こいつは敵だ!!」
それでも、誰かが叫んだ。その声に引きずられるように、全員が得物を構えなおす。がちゃがちゃとやかましい金属音の中、取り囲まれた2人は未だに動かない。
――これだけの数に殺意を向けられて、あくまでも静かに武器を構えたままだ。
――敵の目的は、攻撃では無く防衛なのか。
そんな思考が頭をよぎるも、セルフィアもまた周りに合わせて剣を抜いていた。それは本来、赦されざることではあったものの、咎める者は居ない。
剣を抜くときは、敵を倒すと決めた時だけ。それを貫き通した彼らの王に、もとる行いであったにも関わらず。
「うわあああああっっ!!」
見れば、第一陣がたった2人の敵に向けて突撃を開始していた。激情に駆られたように見えるものの、統率はきっちり取れている。
なのに、何故かセルフィアの背筋を冷たいものが駆け抜ける。死神の気配を寸前で悟ったような、どこまでも冷たい直感。敵の異常な落ち着きようがハッタリならば良いが、そうでないならば――。
それを裏付けるように、声を聞いた気がした。
「――恨むなよ」
敵だ。何故聞こえたのかは分からないが、敵の片割れ、剣士の男の声が聞こえた。
それは、彼が現在置かれている絶体絶命の状況にはあまりにも似つかわしくない一言。それは本来勝者が吐くべき台詞で、決して追い詰められた個人が吐いていい台詞ではない。
だというのに。
今しがた突っ込んだ数人が、一瞬で血煙と共に地に沈む。どうやら手を切られたようで、うずくまってもがいている。一瞬で宙を薙いだ銀光は、瞬きする暇もなく剣士の正眼へ。あまりにも無造作に振るわれた刃が、いとも簡単に数人の戦闘力を奪った事実に、セルフィアは戦慄した。
そして、彼らを切った男は、憎らしいほど無表情で、再び元の位置へ戻っている。先にやられたガウゼルも地面に倒れたままで、既に剣士の周りには4人の負傷者が転がっていた。
「………ひっ、ひるむな! 敵はたったの二人――ぎゃッ!!」
声の主が、唐突に倒れた。見れば、普通の長剣よりも一回りも大きい光の剣が、騎士のふとももに突き立っている。鎧をいとも簡単に貫通し、そのまま騎士を地面に縫いつける光の剣は、疑いようもなく魔力の産物だ。
「――おい! 伏せろッ!!」
誰かが叫ぶ。その声と共に飛来した後続の光剣が、侵入者を次々と地面に磔にしていく。尾を引いて飛ぶ光剣は、ともすれば流星と見まがうほどに綺麗だ。だが、その流星は見る者に死を告げる凶星なのだ。
光に撃たれた者が呪詛を彷彿とさせるうめき声を上げるのに対し、漆黒の魔物が放つ純白の剣は空を裂く音すら発しない。放たれる度に味方が血を噴き出し倒れるというのに、それは土を抉る音すら立てないのだ。見た目は神々しい、その実死神の輝き。
セルフィアのいる場所にも、幾つか光剣が飛来する。だが、幸いなことにそれらは誰にも当たらずに地面を穿った。
だが。
「戦える者は何人いる!? 負傷者の回収も忘れるなよ!」
攻撃を仕掛けたのはこちらだというのに。敵は手傷を負うどころか、息すら乱さずに淡々と切り返してくる。味方の魔術師を無傷で護り抜く剣士も、針の穴を通すような精度で以て魔道を行使する魔術師も、並みの技量ではない。
なぜなら、彼らが攻撃したこちら側の人員には、未だ1人の死者も出ていないのだから。先ほどのセルフィア達を狙った光剣が誰にも当たらなかったのは、そういう訳だ。手加減して、間違っても殺さない程度の魔道しか行使しなかっただけ。
「――あとは頼む。3分だ」
その声に、ハッとセルフィアは現実に引き戻される。
「―――♪」
澄んだ、女声の調べ。透き通った歌声が、戦場に響きわたる。
それがただの歌でない事は、周りの兵たちも察したようだ。こころなしか身を強張らせ、剣を構えなおしている。心をかき乱すような、それでいて子供をあやすような、不思議な旋律。
そう。これは魔法の文言だ。それを、敵の剣士の陰から魔法の剣を飛ばしていた黒衣の魔物が唱っている。ここが戦場でなく、歌い手が魔物でないならば何時間でも聞いていたくなるような、心に直接響くような綺麗な唱を。
セルフィアは、思わず駆け出していた。
「皆さんは脇を回り込んで敵の魔物を攻めてください! 僕はあの剣士を食い止めます!」
足場が悪く、思うように加速がかからない。それでも揺れる刀身を体の前でぴたりと固定した。そして、そのまま最小の動きで目の前の剣士に振り下ろす。
剣士は一歩右に引きセルフィアの剣先をかわし、逆に突きを叩きこんでくる。セルフィアはそれを振りあげた剣で払いながら体を捻って足払いを仕掛けた。
だが、敵はそれを読んでいたようだ。技の途中、体のバランスが不安定なところに蹴りを入れられ、大きく蹴り飛ばされる。
「――――♪」
そうしている間にも、スペルの詠唱は進んでいく。未だ味方の剣は魔術師に届かず、セルフィアがひきはがされたその隙にも新たに2人が打ち倒された。
泥の上に転がされ、軽鎧のあちこちに泥をまといながら、セルフィアは立ちあがった。蹴飛ばされても手放さなかった剣を手に、再び敵に斬りかかる。
キィン、と金属同士がぶつかり合う澄んだ音が連続して響く。それでも戦いは互角と呼ぶには程遠く、剣士に護られる魔術師に剣は届かない。今も、セルフィアの脇を通り抜け魔物へと向かった2人の兵が強烈な蹴りを叩き込まれて昏倒させられた。
今や、セルフィアは全身傷だらけの泥まみれだ。対する剣士のマントにも跳ねた泥などが付着しているが、傷らしい傷は見当たらない。
「くそ――」
悔しいが、格が違う。戦士としての、核が違う。
気の迷いから、セルフィアの振るう剣がわずかに鈍った時。そんな、一瞬にも満たない刹那の隙を、敵は見逃しはしなかった。
――しまったッ!
マントの剣士が放った剛剣が、セルフィアの手から剣を打ち飛ばす。剣腹で思い切り振り抜かれ、手がかつてないほど痺れた。
初めてまみえる強敵との戦いに、心身共に思わぬほど消耗していたのかもしれない。剣はあっさりと弾き飛ばされ、のけぞった体は即座に回避に移れない。
セルフィアの脳裏を、“死”という文字が埋め尽くす。彼らがこれまで非殺を貫いてきたことすら頭から消え、ただ漠然と死を意識した。
「―――――♪」
そして、終止符は打たれた。
未だ乾かない液状の地面に、薄青の燐光を放つ巨大な魔法陣が浮かび上がる。ゼノンはそれを視認すると同時に、思いきり後方へ跳んでいた。
足元がぬかるんでいる中、それを感じさせない勢いの跳躍を見せ、一気に戦線を離脱する。リィリも既に中庭の中央から脱出しており、侵入者たちだけが取り残されたかたちになる。
――ゴッ
音というよりは、衝撃。空気そのものを凶器に変えるような凶悪な振動が大気を震わせる。
だが、そんな音すら副産物に過ぎない破壊が背後で起きていた。行き場のない不安定な魔力が暴走し、そのくせ計算され尽くした配置で爆発が巻き起こる。
爆心が地下だったため、爆風そのものが取り残された鎧の集団を傷つけることは無かった。だが、その爆発は広範囲の地面を掘り返し、大量の土砂を巻きあげる。
「うわああぁぁぁっっ!!?」
当然、左右を封じられた衝撃は大半が上に逃げる。水を吸って重たい土のおかげで致命傷になるほどではないが、それは十分に攻撃足り得る威力を秘めていた。
ゼノンの伏せていた地面も爆発の余波で揺れ、同じく揺らされた木々の葉から冷たいしずくが降り注ぐ。
地面すら揺るがす一撃を受けた集団は、そのほとんどが全身泥まみれになって地面の上に横たわっていた。中には膝をつき、かろうじて持ちこたえている者も居るが、彼らも消耗が激しく、もはや戦える状況ではない。
「――動くな」
だから、そんな聞き覚えのある冷たい声が聞こえた時、ゼノンは一瞬固まった。
恐る恐る、身を起して見れば、見覚えのある黒衣が雷光に輝く右腕を集団に突き付けている姿だった。
「オイ! もうそいつら動けないよ!」
咄嗟に飛び出して制止の声をかけると、リィリは首だけでこちらを振り向き、口の端で笑った。
「ああ、ありがとう。三分は短すぎたみたいだな」
「いや、そういう事じゃないよ! その追撃は必要なのか?」
そう言うと、リィリは微かに首をかしげ、言った。あくまで右手は鎧の集団に向けたまま、纏う雷光も消さず。
「必要だよ。――ユレンシア」
「――はい」
リィリの呼びかけに、彼女のすぐ脇、先ほどの戦闘でゼノンが背後に庇うようにしていた巨木が、解ける。するすると、幾本もの太い触手にほどけていく。
つい……と、解けゆく巨木の中から、歩み出る影があった。蒼天の瞳に、黄金色の髪を持つ、小さな人影――ユレンシア。見たことも無いような自由なカタチのドレスを身に纏い、あちこちに入ったスリットからは彼女の悪魔の証がのぞく。
だが、角も翼も尾も、彼女の外見を凶悪に彩る事は無い。あくまで、自然にそこに有り、彼女の一部として何の違和感もなく存在していた。
「皆さん……聞いてください」
今や、この場の全員がユレンシアに注目していた。
リィリが、ゼノンが、名も知らぬ騎士が、泥にまみれた戦士が、負傷して樹にもたれる剣士が、彼女に注目していた。自らに集まる数多の視線に臆することなく、ユレンシアは言葉を紡ぐ。
「私は、貴方たちの王だった者です」
彼女の声は続く。一拍の間を挟んで、
「数年前。私は選択を誤りました。そして、それ故貴方たちに無理を押しつけてしまった」
もはや、この場の主役はユレンシアだ。数分前まで己が命を削るような死闘を繰り広げたゼノン達も、戦況を一気に決めたリィリの魔法も、全ては余興。
この一瞬を、最大限に盛り上げるための演出に過ぎない。
「せめてもの償いをと、私と志を同じくする者らだけで盾となった今も、私だけがおめおめと生き恥を晒しています」
彼女の話に出てきた、小さな国の姫王は。“人間”だったはず――。
それがどうして、ここでユレンシアという“魔物”の姿を取っているのか。
「全てを忘れたふりをして、この森で暮らしても。何時か貴方たちがやってくる事は分かっていました」
そして何故。“彼女”1人がこの森に残り。
それを支えた“彼等”の姿が無いのか。
「その時は甘んじてその刃を受け入れようと、そう思っていました」
それは、目の前の“姫王”の言葉なのか。
それともかつての“少女”の言葉なのか。
「ですが、それすらも“アリス”に救われて。………私は救われてばかりです」
その言葉は目の前の“敵”に向けられたものなのか。
それとも、遠い日の“友”に向けられたものなのか。
事情を知らないゼノンには、ユレンシアの言葉の重みは分からない。
ただ、その重みだけが伝わってくる。
ですから、とユレンシアは一呼吸置いて続ける。
「この場で、貴方たちの望みを果たすというのなら。私はそれを止めません」
この場合、彼らの望みとは。
――森に巣くう魔物を殺し、国土を回復することだ。
そして、この場合。森に巣くう魔物とはユレンシアを指す。
皮肉な話だ、とリィリは思う。人間として、魔物と友好を求めた姫王に。自らを盾として民を庇った王者に。侵略者の汚名を着せようというのだから。
全ては、魔物に対する正確な知識が無かった故の悲劇だっただろう。基本的に魔物は人間を殺さない。それさえ知っていれば、ここまでのバッドエンドは回避できたはずなのに。
「………それは違うんじゃないのか」
そう言いつつ、ゼノンは一歩前に出る。ユレンシアを含めた皆の視線が自分に集まるのを感じながら、ゼノンは続ける。
「とっくに気づいてるんだろ。アリスは……ユレンシアはアンタらの王様だったんだ。確かに一度失敗したかもしれない。でも、ユレンシアは生きてそこに居るんだ。またやり直せばいいじゃないか」
言いながら、足を動かし続ける。少しだけくたびれた、丈夫な生地のマントがユレンシアの前に立ちふさがり、泥にまみれた集団に瞳を向ける。
その瞳に宿る光はどこまでもまっすぐで、けれども全く鋭くない。
「それとも、ここで彼女を殺すのか?」
その言葉が引き金になったように、あちこちで言葉が上がる。彼らは顔を見合わせ、それから口々に、
「姫様……生きていらしたのか……?」
「また……また昔みたいに、あの国で暮らせるのか……?」
口にした意見の大多数がユレンシアに好意的な意見で、それにゼノンはユレンシアを振り向いて言う。
「人気あるんじゃないか。お前は自分が思うほどに嫌われてなんかいないんだよ」
だから、と続ける。
「自分を偽るなよ。ルシばかりに頼るな。自分の足で歩くんだ。“アリス”」
「――はい」
その声が涙に濡れているのを知って、ゼノンは苦笑するように頬を緩めた。その涙も、ルシが触手で優しく拭う。ユレンシアの立場が明らかになった今となっては、傍で影のように仕える執事を彷彿とさせるような動きに、ゼノンの頬をよりいっそう緩ませる。
「お前も。言いたいことがあるなら言っちまえ。後悔しないようにな」
ゼノンが、そう言って手招きした少年は。
「姉様……。生きていらしたのですね」
泥にまみれた鎧を纏い、すこしくすんだ金髪にも泥をはねさせた少年が、背後の集団から歩み寄り、告げる。
「……セルフィア?」
「はい。姉様」
ユレンシアを姉と呼び、顔つきに似通ったところのあるセルフィム。今ではユレンシアの方が妹のように見える。
「大きくなったわね……。これなら王者のイスも、安心して渡せるわ」
そう言ってユレンシアが見せたのは、心からの笑み。いつものようにルシに腰掛けず、自らの全存在を二本の足だけで支える彼女は、より一層、野生に咲く花のような力強さを見せている。
そんなユレンシアの顔を、セルフィムは眉根を寄せて見つめる。
「姉様……。まだ姉様は皆の王様なんだ……! 僕じゃ代役なんて勤まらないよ……」
そう言って目の端に涙を浮かべる。そして、今度はそれをユレンシアが拭う。その繊手でやさしく、彼女がルシにそうしてもらったように。
「私は代役をやれなんて言っていないわ。セルフィム。貴方が次の王だと言っているの」
「でも……姉様!」
「わしは、それでも良いのではないかと思うぞ」
唐突に挟まれた言葉に、2人の姉弟とその他の観衆の視線が集まる。その視線の先に立っていたのは、1人の老騎士。
「ガウゼル……!」
セルフィムがポツリと漏らす。ガウゼルと呼ばれた老騎士は、ゼノンに足を払われた際にぶつけた後頭部をさすりながら言葉を紡ぐ。
「この数年、お主の成長を見守ってきたが……。まあ姉王にそっくりで驚いていたところじゃよ」
瞳の色までな、とガウゼルがつけ足し、2人は互いの瞳をじっと見つめる。
向かい合わせの二つの蒼天は、その身に相手を映す。
「……僕が王になれば。また、会えますか?」
「会えるわ。だって、私も貴方も生きているでしょう?」
そう言って、ユレンシアはセルフィアに背を向ける。長い髪が首の動きを追うように尾を引いて、2人の間を隔絶した。――少なくとも、セルフィアにはそう見えた。
そして、それは間違いではないのだろう。セルフィアの脇の老騎士も、かけるべき言葉が見つからずに押し黙っている。
「――いいのか?」
ふとかかる、そんな声。
見れば、いつの間にか近くに来ていたリィリが、相変わらずの冷たい瞳でこちらを見つめていた。
その両の琥珀には何の感情も浮かんでいないように見えて、ユレンシアは少しだけ戸惑う。
「……何がですか?」
思わずそう聞き返すと、リィリは静かにこう言った。
「本当は気が付いているだろう? 絶対の女王」
それはついさっきユレンシアがリィリに対して投げかけた言葉で、それでもその真意が掴めずにユレンシアは困惑する。
「一体何を――」
「じゃあ、その涙は何なんだ」
その一言に、ユレンシアははっと手で目を拭う。
先ほどの涙は既に乾いて、その手が濡れる事は無い。
「涙なんて――」
「お前じゃない。――後ろを見ろ」
言われて、振り返る。
その先には、泥だらけの腕で必死に涙をぬぐう頼りない弟の姿があった。歯を食いしばって耐えても、時折口に入るしょっぱさが涙を加速させる、身に覚えのある泣き方の。
弟の泣き方は、いつかの自分の姿だった。この森に1人残された時、自分もそうして泣いたのではないか。
「……セルフィア」
もう自分は必要ないと思っていた。死んだことになっていたのに、今更しゃしゃり出ても迷惑なだけだろうと。
それなのに。それなのに、彼は――
「私のために、泣いてくれるの……?」
「ねえさんッ……!! もうどこにも行かないでよ……!」
倒れかかるように姉の体に縋りつき、もはや涙も隠さずに号泣するセルフィア。
確かに、多感な時期に居なくなってしまったな、とユレンシアは思う。
「泣けよ。ユレンシア。涙はまだ残ってるだろう――?」
それは、ゼノンの声か、それともリィリの声か。
その声に促されるように。ユレンシアもまた、大きくなった弟の体を抱きしめて嗚咽を洩らすのだった。
「少しだけ。ほんの少しだけさようなら――ルシ」
小さな少女の、体を目いっぱい使った抱擁に、ルシと呼ばれた触手はくすぐったそうに身をくねらせる。
「ティルもね。ほかの皆にもよろしく」
顔を向けてそう言った先にも、ルシに比べると少し細い触手がいる。
ティルは頷くように触手の先を上下させ、するすると森の中に消えていく。
「おーい! 準備は良いかー?」
森の出口付近に、旅装を整えたゼノンとリィリの姿がある。ゼノンはこちらを手招きしており、リィリはどこか遠くを見つめている。
いつも通りの、彼らの日常。彼らはこの森で経験したような冒険を、いつもどこかで味わっているのだろうか。
「うん、今行くよー!」
そう言って少女は駆け出す。彼女の纏うドレスが風を孕み、一輪の花を彷彿とさせる形に広がる。
その右腰に揺れるのは、一振りの剣。ともすれば刺突剣にも見える、細身の剣。
しばらくすれば、またここに帰って来るだろう。その時まで、しばしこの森ともお別れだ。
そして。再び帰って来る頃には、この森の入口に新たな国が出来ている事だろう。その国の土を踏むことも、今の少女にとっては楽しみの一つでもある。
「ああ。――行こうか」
いつか帰る、その日まで。
それのおかげなのか、セルフィア達の行軍速度も上がっているように感じる。
それでも、雨が上がった頃から蒸されるような暑さが漂い始めている。それでなくてもこの森にどんな危険が潜んでいるか分からず、皆神経を尖らせているというのに。
この森に侵入してから半時間ほど。未だ一度たりとも魔物との遭遇は無い。突き出した木の根や枝に引っかかってけがをした者はいるものの、無傷と言ってよいほどの被害だった。
だが、精神的な疲労という点では数時間に及ぶ戦闘にも匹敵するレベルだとセルフィアは思っている。
先遣隊とはいえ、十分すぎる戦力を揃えてきたのだ。当然、魔物との交戦も想定に入っていただろう。それが、何の手ごたえもないままこうして森の中を歩き続けている。
そろそろ、元街だった廃墟や残骸を見つけてもいい頃のはずだが、周りの景色は一向に変わらない。自分たちを取り囲む檻のような木々ばかりだ。頭では目的に近づいていることが解っても、変わらない景色が体に徒労感を刻みつける。
そう。目的だ。この程度のことで、諦められるものではない。
何年も前から準備を重ねてきた。それよりも前から涙を糧に先に進んできた。光を見失っても、折れはしなかった。
「負けるもんか………先に逝った奴らに合わせる顔がねぇ」
誰かがそう呟いた。小さな呟きだったそれは、不思議なほどはっきりと聞こえた。その言葉に、全員無言の肯定を返すように力強く地面を踏みしめる。
「姫様に手出した奴らに、思い知らせてやる……」
「俺たちは負けねぇ。たとえ肉片になっても立ち向かってやる」
「今日で最後だ………!! 絶対にあの日々を取り戻す……!」
それをきっかけに、あちらこちらで堪え切れない思いが呟かれる。中にははっきりとした声で、正しく魂から発せられたようなものもあり、皆の疲労を吹き飛ばしてゆく。
セルフィアもその声に励まされながら、暗い森の中を行軍する。ちらりと脳裏に亡き姉の面影がよぎり、それを刻みつけるように。
どんな敵が待ち受けていようとも、必ず故郷を取り戻すことを胸に誓って。
いつもの、野生に咲く花のような明るい空気を微塵も感じさせず、かといって冷たい訳でもない不思議な空気を纏うアリス。
彼女の表情が窺えぬまま、リィリはアリスの背に言葉を投げる。
「アリスをどこへやった? ――ユレンシア」
ユレンシア。その聞きなれない名前に、ゼノンはしかし困惑しない。
ついさっき、アリスが聞かせてくれた昔話。それに登場した小さな国の最後の姫王の名は、ユレンシアではなかったか。
そんな、全てを見透かした上でのリィリの問いに、アリス=ユレンシアはゆっくり振り向きつつ答える。
「アリスを? いいえ、どこにもやっていないわ」
その仕草だけではなく、口調までもゼノンの知るアリスとは違うことに、今更ながら衝撃を受ける。
ユレンシアは意味ありげな微笑を浮かべ、まっすぐに2人を見据えた。
「では、お前はアリスなのか?」
森の中を走ってきた余韻である息切れも既におさまり、いつもの静かな両の琥珀をユレンシアに向けるリィリ。そこには激したところなど全く無く、ただ事実を淡々と確認しているようだ。
過去にも、ゼノンは幾度かこんなリィリを見たことがあった。それはいつも真実の裏で進行している何かに気がついた時で、そんな時リィリは感情が全く無いかのようにふるまう。それが癖なのか、感情を処理する暇も無いのかは分からないが。
「……本当は気が付いているでしょう? 墓守の黒犬さん」
ユレンシアがそう答える。あくまでその微笑に揺るぎは無く、どこまでもアリスには似合わない表情で。
いつかのようにリィリを“墓守の黒犬”と呼んだユレンシアを、リィリは無表情に見つめる。静かに凪いだその表情からは、一切の思考が読めない。
こころなしか、周囲の木々すらもその存在を縮こまらせ、息を殺しているようだ。さきほどからそれを眺めるだけのゼノンも、また。
もしかしたら、状況は一触即発なのかもしれない。ゼノンにはアリスの様子がおかしいということくらいしか分からないが、状況はそんなに呑気なものではないのかもしれない。
自分たちにとってアリスが脅威になり得るかとか、そういう次元の話では無く。せっかく芽生えたはずの何か大切なものが、儚くも砕け散ってしまうのかもしれない。そう思うと、居てもたっても居られなくなる。
が、ゼノンは自分の相棒を信じていた。いつも無表情で、何を考えているかよく分からない彼女だけど、こう見えて他人の心の機微には敏感なのだ。だから、安心して任せられる。
それから、どれだけの時が流れただろうか。時間にすれば、たったの数瞬なのかもしれない。陳腐な表現かもしれないが、その数瞬がゼノンにはいつまでも続くように感じたのだ。
「ふっ……。ゼノン。そろそろだな」
緊迫した空気が、一気に緩むのを感じた。
「……答え合わせは、後からか?」
「ああ。今は、彼らの相手をしてやらないとな。――ルシ」
リィリがそう呟くと、先ほどまでの雨でドロドロの地面を割って、触手が生えてきた。
地面はあちこちに水たまりが出来ており、足で踏めば沈み込むほどにぬかるんでいる。そんな地面から現れたルシは、当然のように泥にまみれている。
「ユレンシアを連れて逃げてくれ」
リィリの指示に従い、ルシはするすると触手を伸ばしてゼノン達を飛び越え、ユレンシアへ向かう。だが、その手前で、ルシは躊躇するように触手を宙に遊ばせている。
ルシのその様子に、ユレンシアは何かを懐かしむような表情を見せる。
その細い手が汚れるの構わず、ルシの泥まみれの触手に指を這わせて。ルシの触手を抱きしめるように。
「……私は、ここにいます。これは……私が招いた顛末だもの」
裸足の両足をぬかるみに沈め、泥をかぶった触手を抱くその姿は、とても一国の王には見えない。
その碧眼や、絹のような金髪が、かろうじてその血筋を証明するのみだ。
だが。彼女は変わったのだろう。本質はそのままに、より強く。
「……ああ。そこに居てくれ。そこに居て、全てを見届けてくれ」
気がつけば、ゼノンはそう声をかけていた。その言葉に、リィリも反対しない。
当然、リィリは反対するだろうと思っていたゼノンだが、同時に納得もしていた。他人の意思を意味も無く踏みにじるようなヤツではないのだ。良くも悪くも。
それが、本人のためであるならば。素直に自分の意見を取り下げ、応援する。そんな生き方は、少しだけまぶしく思う。
「……後悔の無いようにな」
それだけ言って、くるりとユレンシアに背を向ける。でもそれは決して決別ではなく、背後に庇うような動き。
それに習って、ゼノンも剣を構える。
「敵の数は?」
“敵”と言ってしまって良いのかは分からないが、感情的な気持ちを割り切って、あえてそう呼ぶ。
「まだ敵と決まってはいないが、そうだな……。40から50といったところか」
リィリの状況把握能力には毎回舌を巻かされる。こんな雑音まみれの森の中で、聴覚だけを頼りに敵の数を把握するのは並みの所業では無かった。
だが、いつもに比べれば今回は数値のブレが大きい。まだ敵が遠いこともあるだろうが、それ以上に地形が災いしているのか。
雨は去ったとはいえ、未だ風が吹き、遠くで雷光が瞬く足場の悪い開けた場所。個人の技量ではなく、数の問われるフィールドだ。
「状況は芳しくないな………。策はあるのか?」
「合図をしたら、5分……いや、3分でいい。1人で持ちこたえてくれ」
「わかった」
その策がなんなのか、ゼノンは聞かなかった。
たとえそれがどんな策だったとしても、ゼノンはそれに反対しないからだ。自身の剣技と、体術で戦線を支えきるだけ。
負ける可能性など、始めから考慮しない。思考は全て、自らが相棒と認めた相手の魔道を支えるために。覚悟を秘めた瞳は、まっすぐにまだ見ぬ敵に向けられる。
それが、今のゼノンという剣士の生き方だった。
セルフィア達は活気づいていた。森のそこかしこに、見覚えのある残骸が転がっている光景を目にしたからだ。
まるで人間に棄てられた廃墟のように、静かに骸を晒すレンガ造りの家や古い井戸が残るその景色は、無言で人間に抗議しているようにも見えた――のは、人間のエゴなのだろうか。
だが、それが見えてきたことで、目的地に近づいてきた事が証明されたのも事実だ。否が応にも士気は上がる。
木の根を跨ぎ、突き出した枝をくぐり、ぬかるんだ地面に抗いながら懸命に歩を進める。決して軽くはない鎧の重みに耐えながら、前を目指す。
そうして、もうしばらく歩いただろうか。急に、いままで夜のように暗かった森の中に、一筋の光が差し込んだ。
それは森の中の澄みすぎた空気で綺麗に反射して、森の中を進むセルフィア達を明るく照らす。禍々しい外見をした木々やそれらに絡みつく太いツタも一緒に照らし出されて、彼らはここがどういう場所なのかを再確認させられた。
久方ぶりに見た光。それらはセルフィアたち侵入者を明かりに群がる羽虫のごとく吸い寄せる。我先にと光あふれる中庭じみた庭園に駆け込む。
「貴様………は……」
集団の先頭に立って行軍していた、ガウゼルという名の老騎士が声を上げる。その声は憎しみと驚きに彩られていた。
見れば、既にガウゼルは腰に帯びた剣の柄に手をかけている。仲間内では穏健派で知られる、いつでも紳士的な態度を崩さないガウゼルが、だ。
そして、彼に続いて中庭に入り込んだ面々が、次々に自らの得物に手を伸ばす。発せられた声は、全てガウゼルと同じ響きを持っていた。
次いで、集団の最後尾に居たセルフィアが光あふれる中庭に入る。今まで暗闇で目立たなかったくすんだ金髪が光をはじき、控え目に輝く。そして、彼の双の碧眼はそれを見た。
この庭園の主のように、その中央に生える、子供が1人くらいまるまる入れそうな巨木の前に陣取る者の姿を。片方は、ロングソードを構えた人間の剣士。少しくたびれた、頑丈そうな外套が印象的だ。だが、問題は彼では無い。
その横。剣士から半歩ほど下がった位置に立つ、長い黒髪の魔術師。全身を黒系の装束で覆った彼女は、琥珀の瞳でこちらを見つめる。その頭に見える獣の耳が、音を拾うようにピクリと動いた。
――魔物だ。
「魔物かぁッ!!」
制止は間にあわなかった。彼ら2人を包囲するように半円状に取り囲んだ人の群れの中から、長剣を抜き放ったガウゼルが飛び出す。口にするは裂帛の殺意で、動きのキレも申し分なかった。
足もとがぬかるんでいるにも関わらず、驚異的な速度で距離を詰めたガウゼルは、そのまま目の前の男を袈裟に斬り払った。
剣先は寸分の狂い無く男の肩口を切り裂く――直前で、何かに払われた。互いの剣の真芯を捉えた証である、綺麗に澄んだ快音が響く。
「何――」
咄嗟に口をついた言葉すら最後まで言えず、ガウゼルは宙に舞った。どちゃり、と湿った音を立てて、その体が泥に埋まる。地面が柔らかい泥であったのが幸いし、クッションのように彼を受け止めた。
後ろから見ていた者でも一部始終を目撃できたかどうか。ガウゼルの刃を寸前でかわし、そのまま体を捻って足を払ったなどと。
攻撃を喰らった本人は予想だにしなかったようで、受け身も取れずに地面にたたきつけられたようだ。衝撃で気を失ったらしく、起き上がってはこない。
ガウゼルをそんな状態にした当の本人はといえば、相変わらず剣を正眼に構えたままだ。まるで、一歩たりともその場を動いて居ないかのように、元の位置で。
恐らく、本気でこの人数とやり合う気なのだろう。セルフィアは、どこか他人事のようにそう思った。
「なっ、何をしやがった――ッ!?」
剣士と魔術師を囲む人垣から、そんな声が上がる。それは相手が積極的に襲って来ない余裕の表れなのか、はたまた戦士としての自覚が足りないのか。
戦場で、敵と言葉を交わすなど。だが、それは人間として正常な反応なのかもしれなかった。
「総員、武器を構えろッ! ――こいつは敵だ!!」
それでも、誰かが叫んだ。その声に引きずられるように、全員が得物を構えなおす。がちゃがちゃとやかましい金属音の中、取り囲まれた2人は未だに動かない。
――これだけの数に殺意を向けられて、あくまでも静かに武器を構えたままだ。
――敵の目的は、攻撃では無く防衛なのか。
そんな思考が頭をよぎるも、セルフィアもまた周りに合わせて剣を抜いていた。それは本来、赦されざることではあったものの、咎める者は居ない。
剣を抜くときは、敵を倒すと決めた時だけ。それを貫き通した彼らの王に、もとる行いであったにも関わらず。
「うわあああああっっ!!」
見れば、第一陣がたった2人の敵に向けて突撃を開始していた。激情に駆られたように見えるものの、統率はきっちり取れている。
なのに、何故かセルフィアの背筋を冷たいものが駆け抜ける。死神の気配を寸前で悟ったような、どこまでも冷たい直感。敵の異常な落ち着きようがハッタリならば良いが、そうでないならば――。
それを裏付けるように、声を聞いた気がした。
「――恨むなよ」
敵だ。何故聞こえたのかは分からないが、敵の片割れ、剣士の男の声が聞こえた。
それは、彼が現在置かれている絶体絶命の状況にはあまりにも似つかわしくない一言。それは本来勝者が吐くべき台詞で、決して追い詰められた個人が吐いていい台詞ではない。
だというのに。
今しがた突っ込んだ数人が、一瞬で血煙と共に地に沈む。どうやら手を切られたようで、うずくまってもがいている。一瞬で宙を薙いだ銀光は、瞬きする暇もなく剣士の正眼へ。あまりにも無造作に振るわれた刃が、いとも簡単に数人の戦闘力を奪った事実に、セルフィアは戦慄した。
そして、彼らを切った男は、憎らしいほど無表情で、再び元の位置へ戻っている。先にやられたガウゼルも地面に倒れたままで、既に剣士の周りには4人の負傷者が転がっていた。
「………ひっ、ひるむな! 敵はたったの二人――ぎゃッ!!」
声の主が、唐突に倒れた。見れば、普通の長剣よりも一回りも大きい光の剣が、騎士のふとももに突き立っている。鎧をいとも簡単に貫通し、そのまま騎士を地面に縫いつける光の剣は、疑いようもなく魔力の産物だ。
「――おい! 伏せろッ!!」
誰かが叫ぶ。その声と共に飛来した後続の光剣が、侵入者を次々と地面に磔にしていく。尾を引いて飛ぶ光剣は、ともすれば流星と見まがうほどに綺麗だ。だが、その流星は見る者に死を告げる凶星なのだ。
光に撃たれた者が呪詛を彷彿とさせるうめき声を上げるのに対し、漆黒の魔物が放つ純白の剣は空を裂く音すら発しない。放たれる度に味方が血を噴き出し倒れるというのに、それは土を抉る音すら立てないのだ。見た目は神々しい、その実死神の輝き。
セルフィアのいる場所にも、幾つか光剣が飛来する。だが、幸いなことにそれらは誰にも当たらずに地面を穿った。
だが。
「戦える者は何人いる!? 負傷者の回収も忘れるなよ!」
攻撃を仕掛けたのはこちらだというのに。敵は手傷を負うどころか、息すら乱さずに淡々と切り返してくる。味方の魔術師を無傷で護り抜く剣士も、針の穴を通すような精度で以て魔道を行使する魔術師も、並みの技量ではない。
なぜなら、彼らが攻撃したこちら側の人員には、未だ1人の死者も出ていないのだから。先ほどのセルフィア達を狙った光剣が誰にも当たらなかったのは、そういう訳だ。手加減して、間違っても殺さない程度の魔道しか行使しなかっただけ。
「――あとは頼む。3分だ」
その声に、ハッとセルフィアは現実に引き戻される。
「―――♪」
澄んだ、女声の調べ。透き通った歌声が、戦場に響きわたる。
それがただの歌でない事は、周りの兵たちも察したようだ。こころなしか身を強張らせ、剣を構えなおしている。心をかき乱すような、それでいて子供をあやすような、不思議な旋律。
そう。これは魔法の文言だ。それを、敵の剣士の陰から魔法の剣を飛ばしていた黒衣の魔物が唱っている。ここが戦場でなく、歌い手が魔物でないならば何時間でも聞いていたくなるような、心に直接響くような綺麗な唱を。
セルフィアは、思わず駆け出していた。
「皆さんは脇を回り込んで敵の魔物を攻めてください! 僕はあの剣士を食い止めます!」
足場が悪く、思うように加速がかからない。それでも揺れる刀身を体の前でぴたりと固定した。そして、そのまま最小の動きで目の前の剣士に振り下ろす。
剣士は一歩右に引きセルフィアの剣先をかわし、逆に突きを叩きこんでくる。セルフィアはそれを振りあげた剣で払いながら体を捻って足払いを仕掛けた。
だが、敵はそれを読んでいたようだ。技の途中、体のバランスが不安定なところに蹴りを入れられ、大きく蹴り飛ばされる。
「――――♪」
そうしている間にも、スペルの詠唱は進んでいく。未だ味方の剣は魔術師に届かず、セルフィアがひきはがされたその隙にも新たに2人が打ち倒された。
泥の上に転がされ、軽鎧のあちこちに泥をまといながら、セルフィアは立ちあがった。蹴飛ばされても手放さなかった剣を手に、再び敵に斬りかかる。
キィン、と金属同士がぶつかり合う澄んだ音が連続して響く。それでも戦いは互角と呼ぶには程遠く、剣士に護られる魔術師に剣は届かない。今も、セルフィアの脇を通り抜け魔物へと向かった2人の兵が強烈な蹴りを叩き込まれて昏倒させられた。
今や、セルフィアは全身傷だらけの泥まみれだ。対する剣士のマントにも跳ねた泥などが付着しているが、傷らしい傷は見当たらない。
「くそ――」
悔しいが、格が違う。戦士としての、核が違う。
気の迷いから、セルフィアの振るう剣がわずかに鈍った時。そんな、一瞬にも満たない刹那の隙を、敵は見逃しはしなかった。
――しまったッ!
マントの剣士が放った剛剣が、セルフィアの手から剣を打ち飛ばす。剣腹で思い切り振り抜かれ、手がかつてないほど痺れた。
初めてまみえる強敵との戦いに、心身共に思わぬほど消耗していたのかもしれない。剣はあっさりと弾き飛ばされ、のけぞった体は即座に回避に移れない。
セルフィアの脳裏を、“死”という文字が埋め尽くす。彼らがこれまで非殺を貫いてきたことすら頭から消え、ただ漠然と死を意識した。
「―――――♪」
そして、終止符は打たれた。
未だ乾かない液状の地面に、薄青の燐光を放つ巨大な魔法陣が浮かび上がる。ゼノンはそれを視認すると同時に、思いきり後方へ跳んでいた。
足元がぬかるんでいる中、それを感じさせない勢いの跳躍を見せ、一気に戦線を離脱する。リィリも既に中庭の中央から脱出しており、侵入者たちだけが取り残されたかたちになる。
――ゴッ
音というよりは、衝撃。空気そのものを凶器に変えるような凶悪な振動が大気を震わせる。
だが、そんな音すら副産物に過ぎない破壊が背後で起きていた。行き場のない不安定な魔力が暴走し、そのくせ計算され尽くした配置で爆発が巻き起こる。
爆心が地下だったため、爆風そのものが取り残された鎧の集団を傷つけることは無かった。だが、その爆発は広範囲の地面を掘り返し、大量の土砂を巻きあげる。
「うわああぁぁぁっっ!!?」
当然、左右を封じられた衝撃は大半が上に逃げる。水を吸って重たい土のおかげで致命傷になるほどではないが、それは十分に攻撃足り得る威力を秘めていた。
ゼノンの伏せていた地面も爆発の余波で揺れ、同じく揺らされた木々の葉から冷たいしずくが降り注ぐ。
地面すら揺るがす一撃を受けた集団は、そのほとんどが全身泥まみれになって地面の上に横たわっていた。中には膝をつき、かろうじて持ちこたえている者も居るが、彼らも消耗が激しく、もはや戦える状況ではない。
「――動くな」
だから、そんな聞き覚えのある冷たい声が聞こえた時、ゼノンは一瞬固まった。
恐る恐る、身を起して見れば、見覚えのある黒衣が雷光に輝く右腕を集団に突き付けている姿だった。
「オイ! もうそいつら動けないよ!」
咄嗟に飛び出して制止の声をかけると、リィリは首だけでこちらを振り向き、口の端で笑った。
「ああ、ありがとう。三分は短すぎたみたいだな」
「いや、そういう事じゃないよ! その追撃は必要なのか?」
そう言うと、リィリは微かに首をかしげ、言った。あくまで右手は鎧の集団に向けたまま、纏う雷光も消さず。
「必要だよ。――ユレンシア」
「――はい」
リィリの呼びかけに、彼女のすぐ脇、先ほどの戦闘でゼノンが背後に庇うようにしていた巨木が、解ける。するすると、幾本もの太い触手にほどけていく。
つい……と、解けゆく巨木の中から、歩み出る影があった。蒼天の瞳に、黄金色の髪を持つ、小さな人影――ユレンシア。見たことも無いような自由なカタチのドレスを身に纏い、あちこちに入ったスリットからは彼女の悪魔の証がのぞく。
だが、角も翼も尾も、彼女の外見を凶悪に彩る事は無い。あくまで、自然にそこに有り、彼女の一部として何の違和感もなく存在していた。
「皆さん……聞いてください」
今や、この場の全員がユレンシアに注目していた。
リィリが、ゼノンが、名も知らぬ騎士が、泥にまみれた戦士が、負傷して樹にもたれる剣士が、彼女に注目していた。自らに集まる数多の視線に臆することなく、ユレンシアは言葉を紡ぐ。
「私は、貴方たちの王だった者です」
彼女の声は続く。一拍の間を挟んで、
「数年前。私は選択を誤りました。そして、それ故貴方たちに無理を押しつけてしまった」
もはや、この場の主役はユレンシアだ。数分前まで己が命を削るような死闘を繰り広げたゼノン達も、戦況を一気に決めたリィリの魔法も、全ては余興。
この一瞬を、最大限に盛り上げるための演出に過ぎない。
「せめてもの償いをと、私と志を同じくする者らだけで盾となった今も、私だけがおめおめと生き恥を晒しています」
彼女の話に出てきた、小さな国の姫王は。“人間”だったはず――。
それがどうして、ここでユレンシアという“魔物”の姿を取っているのか。
「全てを忘れたふりをして、この森で暮らしても。何時か貴方たちがやってくる事は分かっていました」
そして何故。“彼女”1人がこの森に残り。
それを支えた“彼等”の姿が無いのか。
「その時は甘んじてその刃を受け入れようと、そう思っていました」
それは、目の前の“姫王”の言葉なのか。
それともかつての“少女”の言葉なのか。
「ですが、それすらも“アリス”に救われて。………私は救われてばかりです」
その言葉は目の前の“敵”に向けられたものなのか。
それとも、遠い日の“友”に向けられたものなのか。
事情を知らないゼノンには、ユレンシアの言葉の重みは分からない。
ただ、その重みだけが伝わってくる。
ですから、とユレンシアは一呼吸置いて続ける。
「この場で、貴方たちの望みを果たすというのなら。私はそれを止めません」
この場合、彼らの望みとは。
――森に巣くう魔物を殺し、国土を回復することだ。
そして、この場合。森に巣くう魔物とはユレンシアを指す。
皮肉な話だ、とリィリは思う。人間として、魔物と友好を求めた姫王に。自らを盾として民を庇った王者に。侵略者の汚名を着せようというのだから。
全ては、魔物に対する正確な知識が無かった故の悲劇だっただろう。基本的に魔物は人間を殺さない。それさえ知っていれば、ここまでのバッドエンドは回避できたはずなのに。
「………それは違うんじゃないのか」
そう言いつつ、ゼノンは一歩前に出る。ユレンシアを含めた皆の視線が自分に集まるのを感じながら、ゼノンは続ける。
「とっくに気づいてるんだろ。アリスは……ユレンシアはアンタらの王様だったんだ。確かに一度失敗したかもしれない。でも、ユレンシアは生きてそこに居るんだ。またやり直せばいいじゃないか」
言いながら、足を動かし続ける。少しだけくたびれた、丈夫な生地のマントがユレンシアの前に立ちふさがり、泥にまみれた集団に瞳を向ける。
その瞳に宿る光はどこまでもまっすぐで、けれども全く鋭くない。
「それとも、ここで彼女を殺すのか?」
その言葉が引き金になったように、あちこちで言葉が上がる。彼らは顔を見合わせ、それから口々に、
「姫様……生きていらしたのか……?」
「また……また昔みたいに、あの国で暮らせるのか……?」
口にした意見の大多数がユレンシアに好意的な意見で、それにゼノンはユレンシアを振り向いて言う。
「人気あるんじゃないか。お前は自分が思うほどに嫌われてなんかいないんだよ」
だから、と続ける。
「自分を偽るなよ。ルシばかりに頼るな。自分の足で歩くんだ。“アリス”」
「――はい」
その声が涙に濡れているのを知って、ゼノンは苦笑するように頬を緩めた。その涙も、ルシが触手で優しく拭う。ユレンシアの立場が明らかになった今となっては、傍で影のように仕える執事を彷彿とさせるような動きに、ゼノンの頬をよりいっそう緩ませる。
「お前も。言いたいことがあるなら言っちまえ。後悔しないようにな」
ゼノンが、そう言って手招きした少年は。
「姉様……。生きていらしたのですね」
泥にまみれた鎧を纏い、すこしくすんだ金髪にも泥をはねさせた少年が、背後の集団から歩み寄り、告げる。
「……セルフィア?」
「はい。姉様」
ユレンシアを姉と呼び、顔つきに似通ったところのあるセルフィム。今ではユレンシアの方が妹のように見える。
「大きくなったわね……。これなら王者のイスも、安心して渡せるわ」
そう言ってユレンシアが見せたのは、心からの笑み。いつものようにルシに腰掛けず、自らの全存在を二本の足だけで支える彼女は、より一層、野生に咲く花のような力強さを見せている。
そんなユレンシアの顔を、セルフィムは眉根を寄せて見つめる。
「姉様……。まだ姉様は皆の王様なんだ……! 僕じゃ代役なんて勤まらないよ……」
そう言って目の端に涙を浮かべる。そして、今度はそれをユレンシアが拭う。その繊手でやさしく、彼女がルシにそうしてもらったように。
「私は代役をやれなんて言っていないわ。セルフィム。貴方が次の王だと言っているの」
「でも……姉様!」
「わしは、それでも良いのではないかと思うぞ」
唐突に挟まれた言葉に、2人の姉弟とその他の観衆の視線が集まる。その視線の先に立っていたのは、1人の老騎士。
「ガウゼル……!」
セルフィムがポツリと漏らす。ガウゼルと呼ばれた老騎士は、ゼノンに足を払われた際にぶつけた後頭部をさすりながら言葉を紡ぐ。
「この数年、お主の成長を見守ってきたが……。まあ姉王にそっくりで驚いていたところじゃよ」
瞳の色までな、とガウゼルがつけ足し、2人は互いの瞳をじっと見つめる。
向かい合わせの二つの蒼天は、その身に相手を映す。
「……僕が王になれば。また、会えますか?」
「会えるわ。だって、私も貴方も生きているでしょう?」
そう言って、ユレンシアはセルフィアに背を向ける。長い髪が首の動きを追うように尾を引いて、2人の間を隔絶した。――少なくとも、セルフィアにはそう見えた。
そして、それは間違いではないのだろう。セルフィアの脇の老騎士も、かけるべき言葉が見つからずに押し黙っている。
「――いいのか?」
ふとかかる、そんな声。
見れば、いつの間にか近くに来ていたリィリが、相変わらずの冷たい瞳でこちらを見つめていた。
その両の琥珀には何の感情も浮かんでいないように見えて、ユレンシアは少しだけ戸惑う。
「……何がですか?」
思わずそう聞き返すと、リィリは静かにこう言った。
「本当は気が付いているだろう? 絶対の女王」
それはついさっきユレンシアがリィリに対して投げかけた言葉で、それでもその真意が掴めずにユレンシアは困惑する。
「一体何を――」
「じゃあ、その涙は何なんだ」
その一言に、ユレンシアははっと手で目を拭う。
先ほどの涙は既に乾いて、その手が濡れる事は無い。
「涙なんて――」
「お前じゃない。――後ろを見ろ」
言われて、振り返る。
その先には、泥だらけの腕で必死に涙をぬぐう頼りない弟の姿があった。歯を食いしばって耐えても、時折口に入るしょっぱさが涙を加速させる、身に覚えのある泣き方の。
弟の泣き方は、いつかの自分の姿だった。この森に1人残された時、自分もそうして泣いたのではないか。
「……セルフィア」
もう自分は必要ないと思っていた。死んだことになっていたのに、今更しゃしゃり出ても迷惑なだけだろうと。
それなのに。それなのに、彼は――
「私のために、泣いてくれるの……?」
「ねえさんッ……!! もうどこにも行かないでよ……!」
倒れかかるように姉の体に縋りつき、もはや涙も隠さずに号泣するセルフィア。
確かに、多感な時期に居なくなってしまったな、とユレンシアは思う。
「泣けよ。ユレンシア。涙はまだ残ってるだろう――?」
それは、ゼノンの声か、それともリィリの声か。
その声に促されるように。ユレンシアもまた、大きくなった弟の体を抱きしめて嗚咽を洩らすのだった。
「少しだけ。ほんの少しだけさようなら――ルシ」
小さな少女の、体を目いっぱい使った抱擁に、ルシと呼ばれた触手はくすぐったそうに身をくねらせる。
「ティルもね。ほかの皆にもよろしく」
顔を向けてそう言った先にも、ルシに比べると少し細い触手がいる。
ティルは頷くように触手の先を上下させ、するすると森の中に消えていく。
「おーい! 準備は良いかー?」
森の出口付近に、旅装を整えたゼノンとリィリの姿がある。ゼノンはこちらを手招きしており、リィリはどこか遠くを見つめている。
いつも通りの、彼らの日常。彼らはこの森で経験したような冒険を、いつもどこかで味わっているのだろうか。
「うん、今行くよー!」
そう言って少女は駆け出す。彼女の纏うドレスが風を孕み、一輪の花を彷彿とさせる形に広がる。
その右腰に揺れるのは、一振りの剣。ともすれば刺突剣にも見える、細身の剣。
しばらくすれば、またここに帰って来るだろう。その時まで、しばしこの森ともお別れだ。
そして。再び帰って来る頃には、この森の入口に新たな国が出来ている事だろう。その国の土を踏むことも、今の少女にとっては楽しみの一つでもある。
「ああ。――行こうか」
いつか帰る、その日まで。
11/05/27 22:09更新 / 湖
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