激戦の予感
その日は、雨が降っていた。
魔物にとっても恵みである陽光は分厚い雲によって覆い隠され、それはどこまでも続いて陰鬱な情景を醸し出していた。ただでさえ一抹の寂しさを拭えない、独特の雰囲気を持った魔界が、立ち込める暗雲と相まって、より一層の不気味さを演出している。
地平線の彼方から立ちはだかる雲の壁は、見る者に巨大な壁が迫ってきているような錯覚を抱かせる。もっとも、この降りしきる雨の中、地平線を拝むには人間離れした視力が必要なのだが。
「きょうはあめ……。あめがふってる……」
そして、魔界の広大な森の中。その中心部からでは、うっそうと生い茂る木々の葉で切り取られた、暗雲立ち込める空しか見えはしないのだった。そこでは、ぱらぱらと雨が葉の表面を叩く音と、時折吹く風によって樹がなびき、濡れた葉どうしがこすれる音だけが聞こえる。
そこには、魔界の、それも触手の森だというのに、金色の長い髪と見事な碧眼を持ち、その華奢な体躯をあちこちに切り込みが入った自由な形のドレスで包んだ少女が1人。場違いも甚だしい存在が、まるで何年もそこにいるかのように自然に存在していた。
だが、いつもは底抜けに明るいはずの表情だけが、この日は暗い。それは、いつも傍らに控える触手が居ないためか、それとも、単純に雨が嫌いなのか。
アリスは、一本の太い樹にもたれかかるようにして呟く。
「ひとりは、つまんない………」
この森を訪れる人間や魔物は、本当に少ない。アリスには最近出来たばかりの友達が居るが、それでもわざわざこんな日を選んで訪れるとも思えなかった。
いつも一緒にいてくれる触手達も、雨の日はあまり活発に動くことは無く、アリスを濡らさないようにという配慮なのか近くに居ることも少ない。アリスとしては、そんなこと全然構わないと思っているのだが。
「ルシは、いつもいっしょにいてくれるんだもん……」
たまには、休みたいときもあるだろう。それが、少女の出した結論だった。
だが、だからと言って孤独が癒える訳では無い。むしろ、より一層深くなる。普段は退屈さなど知らないかのように明るく振舞う彼女だが、雨は情景だけでなくアリスの心までも暗くしてしまうようだ。
今までも、こんな日はあった。けれど、こんなに寂しくなった事は無かった。それは、彼や彼女と触れあったせいかもしれない。そうじゃないかもしれない。
でも、悲しむべき事じゃない。だって、それはかけがえのない“なにか”だから。まだ、上手く言葉に出来ないけれど、きっと大切なものだから。
だから。こんな小さな奇跡だって、起こるかもしれない。
「よっ! アリス、元気にしてたか?」
「……ゼノン!!」
わずかに濡れた、強靭な外套を揺らして、彼は現れた。
腰にはいつもの剣。今日は背中に盾も背負っている。軽めの鎧に包まれた体はがっちりとした筋肉がついており、そのくせ顔には厳ついところなど全く無い。
その、いかにも冒険者然とした男に、アリスは体当たりするように抱きついた。長い金髪をなびかせて飛びついて来た彼女を、ゼノンは苦も無く受け止める。その、硬くて力強い手に頭を撫でられながら、アリスは聞いた。
「きょうは、あめがふってるよ?」
それは質問と言うには、少し言葉が足りなかったけれど。ゼノンはしっかり意味を汲み取って、歯を見せて笑う。
「雨が降っても槍が降っても、会いたいときに会いに来る。それで良いだろ?」
彼は言った。友達に会いに行くのに、天候など関係無いと。会いに行くかどうかは、自分で決めると。
その返事は、少しだけ難しくて、全ての意味はアリスに伝わらなかったかもしれない。けれど、彼女は満面の笑みで、
「……うん!!」
うなずいた。
「たねをね、たねを植えたの」
いつでも薄暗い森の、道とは呼べない道で、アリスは太陽のような笑みで言う。
その脇、木の葉が雨粒をはじくおかげで濡れていない地面に腰を下ろしたゼノンは、無言で話を聞いていた。静かに凪いだ瞳を少女に向け、その口は柔和な笑みを浮かべている。
「ちゃんと、あめの当たるところにうえたんだよ」
小さな体を目いっぱいつかったゼスチャーで、種を植えた時の事を説明するアリス。残念なのはここが舞台でなくて、ただの薄暗い森の小道であることだ。
だが、白いドレスの裾をゆらし、長い金髪を舞わせて、なによりも満面の笑みで話しかけてくるアリスと二人きりになれるというのは、悪くないかもしれない。彼女はか弱い高嶺の花ではなく、力強く咲く一輪の花なのだから。
リィリは子供が苦手なようだが、ゼノンには子供の相手は苦にならなかった。
「じゃあ、見にいくか」
軽い動作で立ちあがり、外套をさばいて土を落とす。それから自然な動作でアリスを抱きかかえ、肩の上に乗せる。
「ルシみたいに、って訳にはいかないけどな。乗ってくか?」
「うん!」
その返事を受け、ゼノンは肩に乗る少女の指し示す方向へ足を向けるのだった。突き出す枝や地面から飛び出る根に気をつけながら。
「ここか………」
そこは、アリスとルシがいつも居る、森の中央近くの広場だった。
いつもは太陽の光がさんさんと降り注ぐ、楽園を体現したような広場だったが。
今は、青い空の代わりに陰鬱な曇り空が広がり、穏やかな陽光の代わりに冷たい雨粒が降り注いでいた。
綺麗な水が流れていたはずの小川は土の色に濁り、樹すらこころなしかしおれて見える。
ただの雨で、同じ風景から感じる印象がここまで違うのかと、ゼノンは少しだけ驚いた。
「えっとね、――そこ! そこだよ!」
ゼノンの肩に乗ったアリスが、器用にバランスをとりながらある方向を指さす。そこは、広場の端に生えた樹のすぐ下。
雨に濡れないように、上手く木陰に入りながら移動すると、それは顔を出していた。
茶色の土から顔を出した、小さな双葉。それは長い間雨に晒され、半ばまで水に浸かっている。そうでなくても雨粒に叩かれ続け、葉は悲しむようにしおれているのに。
「………アリス。このままじゃいけない」
この場所を選んだのは、幼い少女の善意だっただろう。晴れの日は日の光が当たるように。雨の日は水で満たされるように。
だが、過剰な水は、生まれて間もない小さな双葉の根を腐らせてしまう。
案の定、肩に乗った少女はその大きな瞳に疑問の色を浮かべて首をかしげている。
「多すぎる水は、毒になることもあるんだよ」
出来る限り簡単な言葉を選んだつもりだが、この幼い少女に通じただろうか。そう思ってアリスを見ると、彼女はその美貌を歪ませて、こちらを見ていた。
「……かれちゃうの?」
その問いを、ゼノンは首を振って否定する。
「いいや。枯らさせなんてしない」
それだけ言うと、ゼノンは乗せた時と同じようにアリスを優しく抱いて地面に下ろした。そして、剣と盾を抜き放つ。
まず、双葉を雨から守るように盾を地面に突き刺した。カイトシールドと呼ばれる所以の、尖った下部が柔らかい土にめり込む。そして、それを支えるように剣を土に突きさし、盾と剣を固定した。
雨水が盾の表面を叩き、それに護られた双葉に直接当たることなく地面に吸い込まれていく。
「……ゼノンの、たてとけんが………」
いきなりの行動に、虚を突かれたように成り行きを見守っていたアリスが、ぽつりと呟く。
そんなアリスに、ゼノンは笑いながら答えた。
「良いんだよ。盾だって、剣や槍を防ぐよりも雨を防ぐ方が楽だろ。剣だって、相手を倒すために振るわれるよりも、護るために使われた方が良いに決まってるさ」
アリスは、ゼノンが丸腰になってしまった事に対してあのように言ったのだが。それが分かっていながら、それでもゼノンはこう答える。少女の頭を撫でながら。
まるで、武器が無い事なんてなんでもないかのように。まるで、小さな子供を安心させるように。
ゼノンの回答に、またしてもきょとんとした顔をしていたアリスだったが、やがて合点がいったように大きくうなずいた。
「ありがとう!」
雨ももうすぐ上がる頃。しゃがみこんで盾に守られる双葉を見つめていたアリスが、いきなり立ち上がる。
ゼノンは樹に体重を預けて座り込み、静かに目を閉じていた。寝ていたのではない。ただ、昨日相方のアヌビスに言われた言葉の意味を、1人考えていただけだ。
そんなゼノンに背中を向けたまま、この森の女王たる少女は言う。
「ねぇねぇ、ゼノン。今日のお礼に、面白い昔話を教えてあげる」
その言葉に、ゼノンは目を薄く開けた。そして、何かを見極めようとするかのように、じっと目を凝らして少女を見つめる。
上手く言葉に出来ないが、少女の台詞に違和感を感じたのだ。多分それを相棒に言えば、「根拠を明確に出来ない指摘ほど危険なものはない」と言われてしまうのだろうけど。
そんなゼノンの沈黙をどう受け取ったのか、金髪碧眼の少女はあくまでこちらを振り向くことなく続ける。
「それは、昔。でも、そんなに昔でない、昔のことでした――」
昔。でもそれほど昔でない昔の事。とある場所に、小さな国があった。
広大な森を拓いて、森の中に食い込むような形の国土を持つ小さな国。その成立当時から代々の王は名君と呼ばれ、それは先王とて変わらなかった。頑強な体つきながらその瞳の奥には常に優しい光を宿した賢王で、国民からも深く慕われていた。
強大な武力を持っていたわけでも、豊富な資源があるわけでも、肥沃な土地が広がっているわけでもない。だが、彼らの王を筆頭とした権力を持つ者たちは皆賢明な者ばかりだった。
貴族は私財をなげうってでも国を支え、騎士たちは命を懸けて自らの主を護る。農民は汗を惜しまず働き、商人は国の財政を影から支援する。そして、王は自らの一生を国に捧げ、兵は自らの剣を国に捧げた。
それぞれに、多少の例外はあったかもしれない。中には、悪を以て是とする輩がいたかもしれない。けれど、その国はいつまでも善き国で有り続けた。それ自体が、その国のあり方を決定づけていた。
そして、その国の最後の君主となる姫王も、その国の大多数と同じく、志を持つ者だった。幼いころから父王の統治を見ていたおかげか、それとも生来の徳の成せる業か。その瞳に義の光を灯し、国の行く末を見つめていた。
彼女はその国にしては珍しく、武芸の才を持つ王者であり、また今までの王に劣らず仁徳の溢れる王者だった。
彼女の御代は短かったが、それでも彼女にまつわるこんな逸話が残っている。
小さな姫王は武芸達者で、そのため王者として相応しい剣を帯びさせようと父王は思った。その旨を市井の鍛冶に携わる者たちに伝えたところ、我こそはと姫王のための剣を打った。
そのどれもが高度な技術により作られたもので、あるものは切れ味を、またあるものは軽さを。それぞれが優劣をつけ難い極みにある一振りだった。
だが、姫王はそれらを選ばず、彼女に献上された剣の並ぶ机の端に置かれた一振りを手に取った。それは何の変哲もない片手用直剣。細身の刀身に装飾の少ない鞘を持つ剣だった。
1つ特徴を上げるなら、刀身に文字が彫り込まれている点だろうか。だが、それは魔力を刻んだスペルでも無ければ神の文言を刻んだ祈りの一品でも無い。
その剣は、同盟国のとある鍛冶師が3日3晩不眠不休で彼女のために打った剣の銘は“レフティ”。その刀身に刻まれた文字は“我が右手は、さしのべるために”。
そう。その剣は左手用だったのだ。
右利きでありながら、決して利き手で剣を振るわなかった姫王の生きざまをそのまま体現したような剣を手に、彼女は何を思ったのか。以降、その剣は彼女の最期の時まで傍にあったとされる。
彼女に選ばれなかった剣たちは、全て国が買い取り、優秀な騎士たちに賞与された。伝説の一品にも値する剣を身に帯びた騎士たちは、“護るもの”の象徴的存在となって国に仕えた。
そんな、求める者全てを受け入れる国であったから、あのような悲劇が起きたのかもしれない。
その国は、自国と国境を持つ国全てと同盟を結び、また同盟国間の問題解決にも積極的な関わった。それ故、各国からも一目置かれるような国であった。
時には、国際的な紛争の平和的収拾を依頼されたり、大きな条約の締結の場に選ばれたりもした。それほど、その国は平和を愛す国だったのだ。
そして、ついにそれは起きた。
その国は、自らの国と接する魔界と、同盟を結ぼうとしたのである。
それは失敗に終わった。国の成立以来一度も閉められた事の無かった門が閉じられ、街は戦火の予感に揺れた。
姫王は1人でも多くの国民を逃がすため、近隣の国に救助を求めると共に国民の受け入れを依頼した。それはすぐに受け入れられ、小さな国に住まう人々は移住を余儀なくされた。
国の防衛のために動員されるはずだった兵も、姫王は慣れない大移動の警護に回した。それは表向き警護という事にされたが、詰まるところ、兵すらもやがて陥ちるこの国から逃がそうという姫王の配慮であった。
もちろん姫王自身も国を脱出する予定であったが、後に脱出した姫は彼女の影武者であった事が判る。それが露見したのは、既に他の国の庇護下であり、今更あの国に引き返すことなどできるはずも無かった。
では、まだ幼さの残る姫王はどこにいるのか?
彼女は、200を数えない近衛騎士と志願兵達を率い、国に留まっていた。
大挙して押し寄せる魔物らから、国民を護る盾として。
そこは、どれほどの地獄だっただろうか。増援は確実に間にあわず、かといって自分たちが逃げれば餌食になるのはか弱い国民たちなのだ。
その戦いは4日に及び、遅れて参戦しようとした各国の大部隊が到着した頃には、既に魔物の姿も姫王の部隊もそこには無かったという。
彼女らの戦いぶりを知る者は少ない。ただ1人、その戦場から帰還した見習い騎士の言により、姫王以下178名の全滅が伝えられたのみである。
さしのべる姫王と、盾を掲げる騎士。彼女らの全滅は、生き延びた国民全てを、魔物に対する復讐へ向かわせるのに十分だった。
その小国は今、魔界に呑まれ森の一部と化している。もし足を踏み入れるのなら気をつけるべきは1つ。
――“敵に手を差し出すな”。
いつの間にか、雨は上がっていた。
やや明るくなってきた森の中。ついに、一度も振り返ることなく、少女は語り終えた。そして、ゼノンもまた静かに彼女の後ろ姿を眺めたままだ。
その口からたった今語られた話は、その少女の口から語られたとは思えないほど冷厳で。もはや違和感というには確信に近いむずがゆさがゼノンの全身を蝕む。
だから、後ろから聞きなれた足音が聞こえた時、知らず知らずの内に安堵したように体の力を抜いていた。
だが、その口からは予想外の言葉が飛び出る。
「――その子の言っている事は本当だぞ」
思わず、ゼノンは振り返っていた。樹にもたれていた背を起こし、半分立ちあがったような格好で。
その視線の先には、長い艶やかな髪と同色の耳、意志の強そうな琥珀の眼を持つ相棒の姿があった。少しだけ息を切らせており、森の中を急いで来た事が窺える。
彼女が急がねばならない理由とは何なのか。そこまで考えた時点で、思考と直感が繋がった。
「………まさか」
「構えろ。来るぞ」
丸腰のゼノンに剣を投げ渡しながら、自身も銀のナイフを抜き放ったリィリが言う。
視線の先には、1人の少女。いつもの天真爛漫なそれとは違う、ひどく大人びた不思議な空気を纏う小さな少女。
魔物にとっても恵みである陽光は分厚い雲によって覆い隠され、それはどこまでも続いて陰鬱な情景を醸し出していた。ただでさえ一抹の寂しさを拭えない、独特の雰囲気を持った魔界が、立ち込める暗雲と相まって、より一層の不気味さを演出している。
地平線の彼方から立ちはだかる雲の壁は、見る者に巨大な壁が迫ってきているような錯覚を抱かせる。もっとも、この降りしきる雨の中、地平線を拝むには人間離れした視力が必要なのだが。
「きょうはあめ……。あめがふってる……」
そして、魔界の広大な森の中。その中心部からでは、うっそうと生い茂る木々の葉で切り取られた、暗雲立ち込める空しか見えはしないのだった。そこでは、ぱらぱらと雨が葉の表面を叩く音と、時折吹く風によって樹がなびき、濡れた葉どうしがこすれる音だけが聞こえる。
そこには、魔界の、それも触手の森だというのに、金色の長い髪と見事な碧眼を持ち、その華奢な体躯をあちこちに切り込みが入った自由な形のドレスで包んだ少女が1人。場違いも甚だしい存在が、まるで何年もそこにいるかのように自然に存在していた。
だが、いつもは底抜けに明るいはずの表情だけが、この日は暗い。それは、いつも傍らに控える触手が居ないためか、それとも、単純に雨が嫌いなのか。
アリスは、一本の太い樹にもたれかかるようにして呟く。
「ひとりは、つまんない………」
この森を訪れる人間や魔物は、本当に少ない。アリスには最近出来たばかりの友達が居るが、それでもわざわざこんな日を選んで訪れるとも思えなかった。
いつも一緒にいてくれる触手達も、雨の日はあまり活発に動くことは無く、アリスを濡らさないようにという配慮なのか近くに居ることも少ない。アリスとしては、そんなこと全然構わないと思っているのだが。
「ルシは、いつもいっしょにいてくれるんだもん……」
たまには、休みたいときもあるだろう。それが、少女の出した結論だった。
だが、だからと言って孤独が癒える訳では無い。むしろ、より一層深くなる。普段は退屈さなど知らないかのように明るく振舞う彼女だが、雨は情景だけでなくアリスの心までも暗くしてしまうようだ。
今までも、こんな日はあった。けれど、こんなに寂しくなった事は無かった。それは、彼や彼女と触れあったせいかもしれない。そうじゃないかもしれない。
でも、悲しむべき事じゃない。だって、それはかけがえのない“なにか”だから。まだ、上手く言葉に出来ないけれど、きっと大切なものだから。
だから。こんな小さな奇跡だって、起こるかもしれない。
「よっ! アリス、元気にしてたか?」
「……ゼノン!!」
わずかに濡れた、強靭な外套を揺らして、彼は現れた。
腰にはいつもの剣。今日は背中に盾も背負っている。軽めの鎧に包まれた体はがっちりとした筋肉がついており、そのくせ顔には厳ついところなど全く無い。
その、いかにも冒険者然とした男に、アリスは体当たりするように抱きついた。長い金髪をなびかせて飛びついて来た彼女を、ゼノンは苦も無く受け止める。その、硬くて力強い手に頭を撫でられながら、アリスは聞いた。
「きょうは、あめがふってるよ?」
それは質問と言うには、少し言葉が足りなかったけれど。ゼノンはしっかり意味を汲み取って、歯を見せて笑う。
「雨が降っても槍が降っても、会いたいときに会いに来る。それで良いだろ?」
彼は言った。友達に会いに行くのに、天候など関係無いと。会いに行くかどうかは、自分で決めると。
その返事は、少しだけ難しくて、全ての意味はアリスに伝わらなかったかもしれない。けれど、彼女は満面の笑みで、
「……うん!!」
うなずいた。
「たねをね、たねを植えたの」
いつでも薄暗い森の、道とは呼べない道で、アリスは太陽のような笑みで言う。
その脇、木の葉が雨粒をはじくおかげで濡れていない地面に腰を下ろしたゼノンは、無言で話を聞いていた。静かに凪いだ瞳を少女に向け、その口は柔和な笑みを浮かべている。
「ちゃんと、あめの当たるところにうえたんだよ」
小さな体を目いっぱいつかったゼスチャーで、種を植えた時の事を説明するアリス。残念なのはここが舞台でなくて、ただの薄暗い森の小道であることだ。
だが、白いドレスの裾をゆらし、長い金髪を舞わせて、なによりも満面の笑みで話しかけてくるアリスと二人きりになれるというのは、悪くないかもしれない。彼女はか弱い高嶺の花ではなく、力強く咲く一輪の花なのだから。
リィリは子供が苦手なようだが、ゼノンには子供の相手は苦にならなかった。
「じゃあ、見にいくか」
軽い動作で立ちあがり、外套をさばいて土を落とす。それから自然な動作でアリスを抱きかかえ、肩の上に乗せる。
「ルシみたいに、って訳にはいかないけどな。乗ってくか?」
「うん!」
その返事を受け、ゼノンは肩に乗る少女の指し示す方向へ足を向けるのだった。突き出す枝や地面から飛び出る根に気をつけながら。
「ここか………」
そこは、アリスとルシがいつも居る、森の中央近くの広場だった。
いつもは太陽の光がさんさんと降り注ぐ、楽園を体現したような広場だったが。
今は、青い空の代わりに陰鬱な曇り空が広がり、穏やかな陽光の代わりに冷たい雨粒が降り注いでいた。
綺麗な水が流れていたはずの小川は土の色に濁り、樹すらこころなしかしおれて見える。
ただの雨で、同じ風景から感じる印象がここまで違うのかと、ゼノンは少しだけ驚いた。
「えっとね、――そこ! そこだよ!」
ゼノンの肩に乗ったアリスが、器用にバランスをとりながらある方向を指さす。そこは、広場の端に生えた樹のすぐ下。
雨に濡れないように、上手く木陰に入りながら移動すると、それは顔を出していた。
茶色の土から顔を出した、小さな双葉。それは長い間雨に晒され、半ばまで水に浸かっている。そうでなくても雨粒に叩かれ続け、葉は悲しむようにしおれているのに。
「………アリス。このままじゃいけない」
この場所を選んだのは、幼い少女の善意だっただろう。晴れの日は日の光が当たるように。雨の日は水で満たされるように。
だが、過剰な水は、生まれて間もない小さな双葉の根を腐らせてしまう。
案の定、肩に乗った少女はその大きな瞳に疑問の色を浮かべて首をかしげている。
「多すぎる水は、毒になることもあるんだよ」
出来る限り簡単な言葉を選んだつもりだが、この幼い少女に通じただろうか。そう思ってアリスを見ると、彼女はその美貌を歪ませて、こちらを見ていた。
「……かれちゃうの?」
その問いを、ゼノンは首を振って否定する。
「いいや。枯らさせなんてしない」
それだけ言うと、ゼノンは乗せた時と同じようにアリスを優しく抱いて地面に下ろした。そして、剣と盾を抜き放つ。
まず、双葉を雨から守るように盾を地面に突き刺した。カイトシールドと呼ばれる所以の、尖った下部が柔らかい土にめり込む。そして、それを支えるように剣を土に突きさし、盾と剣を固定した。
雨水が盾の表面を叩き、それに護られた双葉に直接当たることなく地面に吸い込まれていく。
「……ゼノンの、たてとけんが………」
いきなりの行動に、虚を突かれたように成り行きを見守っていたアリスが、ぽつりと呟く。
そんなアリスに、ゼノンは笑いながら答えた。
「良いんだよ。盾だって、剣や槍を防ぐよりも雨を防ぐ方が楽だろ。剣だって、相手を倒すために振るわれるよりも、護るために使われた方が良いに決まってるさ」
アリスは、ゼノンが丸腰になってしまった事に対してあのように言ったのだが。それが分かっていながら、それでもゼノンはこう答える。少女の頭を撫でながら。
まるで、武器が無い事なんてなんでもないかのように。まるで、小さな子供を安心させるように。
ゼノンの回答に、またしてもきょとんとした顔をしていたアリスだったが、やがて合点がいったように大きくうなずいた。
「ありがとう!」
雨ももうすぐ上がる頃。しゃがみこんで盾に守られる双葉を見つめていたアリスが、いきなり立ち上がる。
ゼノンは樹に体重を預けて座り込み、静かに目を閉じていた。寝ていたのではない。ただ、昨日相方のアヌビスに言われた言葉の意味を、1人考えていただけだ。
そんなゼノンに背中を向けたまま、この森の女王たる少女は言う。
「ねぇねぇ、ゼノン。今日のお礼に、面白い昔話を教えてあげる」
その言葉に、ゼノンは目を薄く開けた。そして、何かを見極めようとするかのように、じっと目を凝らして少女を見つめる。
上手く言葉に出来ないが、少女の台詞に違和感を感じたのだ。多分それを相棒に言えば、「根拠を明確に出来ない指摘ほど危険なものはない」と言われてしまうのだろうけど。
そんなゼノンの沈黙をどう受け取ったのか、金髪碧眼の少女はあくまでこちらを振り向くことなく続ける。
「それは、昔。でも、そんなに昔でない、昔のことでした――」
昔。でもそれほど昔でない昔の事。とある場所に、小さな国があった。
広大な森を拓いて、森の中に食い込むような形の国土を持つ小さな国。その成立当時から代々の王は名君と呼ばれ、それは先王とて変わらなかった。頑強な体つきながらその瞳の奥には常に優しい光を宿した賢王で、国民からも深く慕われていた。
強大な武力を持っていたわけでも、豊富な資源があるわけでも、肥沃な土地が広がっているわけでもない。だが、彼らの王を筆頭とした権力を持つ者たちは皆賢明な者ばかりだった。
貴族は私財をなげうってでも国を支え、騎士たちは命を懸けて自らの主を護る。農民は汗を惜しまず働き、商人は国の財政を影から支援する。そして、王は自らの一生を国に捧げ、兵は自らの剣を国に捧げた。
それぞれに、多少の例外はあったかもしれない。中には、悪を以て是とする輩がいたかもしれない。けれど、その国はいつまでも善き国で有り続けた。それ自体が、その国のあり方を決定づけていた。
そして、その国の最後の君主となる姫王も、その国の大多数と同じく、志を持つ者だった。幼いころから父王の統治を見ていたおかげか、それとも生来の徳の成せる業か。その瞳に義の光を灯し、国の行く末を見つめていた。
彼女はその国にしては珍しく、武芸の才を持つ王者であり、また今までの王に劣らず仁徳の溢れる王者だった。
彼女の御代は短かったが、それでも彼女にまつわるこんな逸話が残っている。
小さな姫王は武芸達者で、そのため王者として相応しい剣を帯びさせようと父王は思った。その旨を市井の鍛冶に携わる者たちに伝えたところ、我こそはと姫王のための剣を打った。
そのどれもが高度な技術により作られたもので、あるものは切れ味を、またあるものは軽さを。それぞれが優劣をつけ難い極みにある一振りだった。
だが、姫王はそれらを選ばず、彼女に献上された剣の並ぶ机の端に置かれた一振りを手に取った。それは何の変哲もない片手用直剣。細身の刀身に装飾の少ない鞘を持つ剣だった。
1つ特徴を上げるなら、刀身に文字が彫り込まれている点だろうか。だが、それは魔力を刻んだスペルでも無ければ神の文言を刻んだ祈りの一品でも無い。
その剣は、同盟国のとある鍛冶師が3日3晩不眠不休で彼女のために打った剣の銘は“レフティ”。その刀身に刻まれた文字は“我が右手は、さしのべるために”。
そう。その剣は左手用だったのだ。
右利きでありながら、決して利き手で剣を振るわなかった姫王の生きざまをそのまま体現したような剣を手に、彼女は何を思ったのか。以降、その剣は彼女の最期の時まで傍にあったとされる。
彼女に選ばれなかった剣たちは、全て国が買い取り、優秀な騎士たちに賞与された。伝説の一品にも値する剣を身に帯びた騎士たちは、“護るもの”の象徴的存在となって国に仕えた。
そんな、求める者全てを受け入れる国であったから、あのような悲劇が起きたのかもしれない。
その国は、自国と国境を持つ国全てと同盟を結び、また同盟国間の問題解決にも積極的な関わった。それ故、各国からも一目置かれるような国であった。
時には、国際的な紛争の平和的収拾を依頼されたり、大きな条約の締結の場に選ばれたりもした。それほど、その国は平和を愛す国だったのだ。
そして、ついにそれは起きた。
その国は、自らの国と接する魔界と、同盟を結ぼうとしたのである。
それは失敗に終わった。国の成立以来一度も閉められた事の無かった門が閉じられ、街は戦火の予感に揺れた。
姫王は1人でも多くの国民を逃がすため、近隣の国に救助を求めると共に国民の受け入れを依頼した。それはすぐに受け入れられ、小さな国に住まう人々は移住を余儀なくされた。
国の防衛のために動員されるはずだった兵も、姫王は慣れない大移動の警護に回した。それは表向き警護という事にされたが、詰まるところ、兵すらもやがて陥ちるこの国から逃がそうという姫王の配慮であった。
もちろん姫王自身も国を脱出する予定であったが、後に脱出した姫は彼女の影武者であった事が判る。それが露見したのは、既に他の国の庇護下であり、今更あの国に引き返すことなどできるはずも無かった。
では、まだ幼さの残る姫王はどこにいるのか?
彼女は、200を数えない近衛騎士と志願兵達を率い、国に留まっていた。
大挙して押し寄せる魔物らから、国民を護る盾として。
そこは、どれほどの地獄だっただろうか。増援は確実に間にあわず、かといって自分たちが逃げれば餌食になるのはか弱い国民たちなのだ。
その戦いは4日に及び、遅れて参戦しようとした各国の大部隊が到着した頃には、既に魔物の姿も姫王の部隊もそこには無かったという。
彼女らの戦いぶりを知る者は少ない。ただ1人、その戦場から帰還した見習い騎士の言により、姫王以下178名の全滅が伝えられたのみである。
さしのべる姫王と、盾を掲げる騎士。彼女らの全滅は、生き延びた国民全てを、魔物に対する復讐へ向かわせるのに十分だった。
その小国は今、魔界に呑まれ森の一部と化している。もし足を踏み入れるのなら気をつけるべきは1つ。
――“敵に手を差し出すな”。
いつの間にか、雨は上がっていた。
やや明るくなってきた森の中。ついに、一度も振り返ることなく、少女は語り終えた。そして、ゼノンもまた静かに彼女の後ろ姿を眺めたままだ。
その口からたった今語られた話は、その少女の口から語られたとは思えないほど冷厳で。もはや違和感というには確信に近いむずがゆさがゼノンの全身を蝕む。
だから、後ろから聞きなれた足音が聞こえた時、知らず知らずの内に安堵したように体の力を抜いていた。
だが、その口からは予想外の言葉が飛び出る。
「――その子の言っている事は本当だぞ」
思わず、ゼノンは振り返っていた。樹にもたれていた背を起こし、半分立ちあがったような格好で。
その視線の先には、長い艶やかな髪と同色の耳、意志の強そうな琥珀の眼を持つ相棒の姿があった。少しだけ息を切らせており、森の中を急いで来た事が窺える。
彼女が急がねばならない理由とは何なのか。そこまで考えた時点で、思考と直感が繋がった。
「………まさか」
「構えろ。来るぞ」
丸腰のゼノンに剣を投げ渡しながら、自身も銀のナイフを抜き放ったリィリが言う。
視線の先には、1人の少女。いつもの天真爛漫なそれとは違う、ひどく大人びた不思議な空気を纏う小さな少女。
11/04/28 20:16更新 / 湖
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