二人の“シオン” (下)
夢を見た。
今までに私と相まみえた者たちが、暗闇の中から次々と現れ襲いかかってくる夢だ。彼らは突如として現れ、正面から側面から背後から、過去に相まみえた時と同じ鋭さを持った動きで得物を叩きつけてくる。
私はそれらを最小限の動きで回避し、逆に右手の刀を滑らせるように斬り込ませる。襲撃者の皮膚を舐めるようにして肉を切り裂く私の刃は、無慈悲に正確に、強敵たちを葬っていく。暗闇の中では光すら纏わない凶刃は、まるで闇そのもののように敵対者を喰らうのだ。
襲撃者たちは、なにも人間だけとは限らない。数多いた他の妖狐や、それ以外の妖怪たち。彼女らも、暗闇から現れては、一拍後に血の海へと沈む。
彼らは必死の形相で私に挑み、血だまりに沈んでいくというのに。それを行う私は大きめの着物を乱しもしない。
また一人、私の前に人影が現れた。数百年前の私に挑んだ、長大な刀を使う剣豪。当時の私に瀕死の重傷を負わせ得たほどの使い手だ。
男が袴を揺らし、一歩踏み込む。だが、遅い。彼が一歩を踏む間に私は距離を詰め、既に彼の胴を薙いでいた。振りぬいた刀は既に鞘へと納められ、私は元の位置へと戻る。
そしてやっと、男は自分が斬られた事に気がついたようだ。信じられないと訴えるかのように、大きく目を見開いて崩れ落ちる。足元にまた死体が追加された。
その死に顔は恨めしげで、自らを切り殺した敵を呪っているようだった。だが、彼にも分かっていたはずなのだ。自分よりも強い相手に挑めば、逆に自分が殺される可能性があることくらい。
だから、私は彼らに心を揺らすことはない。自ら死地に飛び込み、無様にも血の緋珠を散らして消える者になど、同情の余地すら無い。
そうして何人斬り殺したことだろうか。強敵も、弱敵もまとめて斬って捨て、刃の血を拭うことすらせずに敵を斬る。足元はとっくの昔に血の海で、そこかしこには人間だったものが散らばる。
「死ねッ! この化物!!」
無音だった暗闇に、男の野太い声が響いた。同時に、凪いだ水面のように静かだった私の心も、虚な空白が生まれる。
化物? なぜ私がそう呼ばれる? 私がお前たちに何をした? 刃物を振りかざして私の命を狙ったのはどちらだ?
心に生まれた空白は、私の思考とか理性とかそういったものを根こそぎ奪い取り、男の言った通り私を化物に変える。暗闇の中、声を発することで自らの位置を晒した男の喉笛を手にした闇色の刃で食い破り、返す刀で胴体を両断する。
もはや、今までのような流れるような斬撃ではなかった。怒りにまかせて飛び出し、力に物を言わせて敵を引き裂く。正に化物の所業。
前から現れた妖狐が放った狐火を真正面から打ち消し、放った貫手で返り討ちにする。目から光の消えていく体を無造作に払い、刀を振るって背後に現れた武者を袈裟がけに切り捨てる。髪は乱れ、着物ははだける。だが、もはやそんな事は気にならなかった。
心が荒れ狂う激情の波に飲まれても、もはやそんなことはどうでもよかった。私を化物と嘲った、真の化物どもをこの手で葬り去ることができるなら、どうでもよかった。
体が火照り、狭い精神という殻の中で暴れる激情を迸らせる私の頭は、不思議なほど冷静だった。怒りに満ちた斬撃を、その怒りに手元を狂わされることなく敵の急所に叩き込む。そして、1人の敵に拘ることなく身をひるがえし、逆襲の刃を振るう。
舞っているようだ、と私は思う。傍から見れば、そんな優美なものではないかもしれない。敵の血を浴び、自らの汗すらもぬぐわぬその狂気は、そんな綺麗なものではないかもしれない。
だが、私の体は舞っていた。他者の屍を踏みつけてなお立ち続ける、殺戮の舞いを。
そのまま私は敵が出なくなるまで踊り狂い、全てを屍に変えてなお虚空を睨みつける。今や辺り一面に屍肉が山を成し、血が河となって流れている。
「まだ、居るのだろう。そこに」
私はそう声をかける。出てきた声は“現在”の私の口調とは違っていて、それでも紛れもなく私の声だった。そう、“あの時”の私の声。
そして、その声に呼ばれたように、まるで暗闇から生まれたかのように現れた少年は、
「…………」
無言でこちらを睨みつける。その両目に爛々と輝くのは、怨嗟の色。
今まで私が無造作に屠ってきた者どもとは一線を画す、眼光の鋭さ。正にそれは悪鬼の目で、それは到底人間では有り得なかった。
暗闇から現れた少年は、兵たちの血に濡れた格好で、左手には短刀を持つ。だが、その何の変哲もないはずのただの短刀が、それでも秘めた最低限の武器としての能を持って私を威圧する。
血を吸って重くなった着物を脱ぎもせず、鈍重な足取りを隠すことすらせずにこちらに向かって歩いてくる少年は、いとも容易く両断できそうだ。
それでも、私は少年に接近を許してしまった。この身を縛る、後悔という名の鎖に動きを封じられて。
「貴女は化物ではなかった。僕が、僕たちが、貴女にそれを強いた」
何時か聞いた、その声と共に。
胸の中央に、ひどく熱いのに、とても冷たいものが、突きたてられるのを感じた。それを握る少年の表情は、今だ怨嗟に囚われているのか、それとも――
私の意識は、そこで途切れる。
「―――はぁ、はぁ、はぁ………」
目が覚めると、そこはあの古びた神社だった。眠りについたときと同じように、刀を抱くようにして壁にもたれている。刀に抜かれた形跡はなく、それが先ほどまでの景色を夢だと教えてくれる。
「…………」
こうして目が覚めたのは、もう何度目だろうか。そして、その度に刀を確認して、私は安堵し、同時に落胆するのだ。
「……何度あの夢を見ようと、私が赦される訳ではないのにな………」
いや、それすらも間違いか。私はその程度で赦される訳にはいかないのだ。例えこの身を幾千回引き裂かれたとて、購えぬ罪を犯したのだから。
陽気な日差しは頭上で舞い、小鳥たちは木々の枝でさえずる。そんな、眠くなくてもつい惰眠を貪りたくなるような空気の下。私は熱いお茶を啜っていた。
「お稲荷さま、いらっしゃいますか?」
小さな古びた神社の中、小さい方の座布団に正座で座る私はその声に反応し、湯呑を置く。中身が半分以下になった湯呑からは、勢いのない湯気が一筋、立ち上っていた。
「どうしたの? 祭りの準備で忙しくしているものと思っていたけど」
そう言いつつ首を回して入口を見ると、いつもは中に入ってくる始音が今日に限って賽銭箱の前に立っている。決して暇している訳ではないようだ。では、祭具殿まで物を取りに来たついでだろうか。
なんにせよ、始音はなにやら私に用があるようだ。始音が中に入って来ないならと、私は座布団から立ち上がった。
「……暇って訳ではないみたいね」
そう言いつつ、足袋に包まれた足を草鞋に通し、始音の待つ外に出る。始音は私を制止することなく賽銭箱の前で待っていた。
「……もうすぐ、お祭りですね………」
始音は私の問いかけには答えず、遠くを見るように顔を横に向けたまま、逆に問いかけてきた。いや、それはもしかしたら、私に向けられた問いですら無かったのかもしれない。
だが、その横顔はどこか儚さを感じさせるような美しさを持っていて、始音が自ら放った言葉の意味をかき消してしまう。時折、始音はこういう表情をすることがあった。
――悲しげなのに、本心では何とも思っていないかのような表情。あるいは、無表情なのに、心の奥底でひっそりと涙しているような表情。おぼろげに感じることはできるのに、実態のない幻のように掴みどころのないその歪な感情は、なぜか私に焦燥感を抱かせる。
そんな事を考えていたら、私は何時かのように完全に機会を逸して、結局始音の問いに答える事ができなかった。いつものように茶化すことも出来ず、無様な硬直を強いられる。
「今日……今日の夜」
今日の夜。それは、祭りの始まる時間の事を指すのだろうか。
「ここに、この場所にいてください」
いつの間にか始音はこちらに向き直っており、その視線は未だに木偶のように立ち呆けている私を貫いていた。
その言葉の真意は、どこにあるのだろうか。そんなことばかり考えていて、体の反応が鈍くなる。
ただ、祭りに私を誘っているのだけなのか、それとも、始音には別の思惑があってそんなことを言っているのか。ただ、困ったことに。本当に困ったことに、私は始音の真意がどうあろうとも、こう答えてしまうのだ。
「分かった」
同意。肯定。元より、それ以外の答えを持ち合わせていない。否定に足る理由が無いならば、回答は一つだけのなのだ。
私がその意を伝えると、やっと始音は笑った。心の底まで見透かされるような、あまりにも澄みきった漆黒の瞳ではなく、極めて一般的な、それゆえ心からのものだと分かる笑み。
そう。私は、始音のこの表情が見ていたいのだろう。
「祭りの準備、忙しいの? 私も手伝おうか?」
だから、私はそう申し出たのだけれど。
「いいえ、大丈夫です。お稲荷さまを祀るお祭りなんですから」
それは始音に断られて、私の暇を助長する。
別段始音が忙しそうにしている訳でもないのだから、強く手伝いを申し出ることも無く、私は引き下がる。
私達の間に出来た一瞬の空白を埋めるように、気のきいた風が、ざぁぁ、と木の葉を揺らした。
山の上にある神社から戻る、長い長い階段。毎日のように上り下りしたこの階段だけれど、今日が近づくにつれだんだんと私を責めるように高くなっているようにすら思える。
実際のところ高さなど変わっていない石段を、装束の赤い袴を揺らして降りてゆく。手には、祭具殿から持ち出した宝具の刀。
彼女の手伝いを拒否し、彼女が見ていない時に持ちだした、あの神社の本当の神の伝説に纏わる忌まわしい伝承を持つ、漆黒の鞘の刀。もしあの時彼女がこれを見ていれば、この刀の持つ意味合いをすぐに感じ取っていただろう。
しかしそれも、彼女には知り得ぬ筋書き。彼女の認識の裏で進行する、もうひとつの真実。それは最後まで彼女の預かり知らぬところで進んでいき、彼女が気がつく頃には最早彼女に打つ手は無い。
それは、裏切り、と言うのだろう。彼女の信頼を弄び、あまつさえ仇として彼女に返すのだから。それを裏切りと言わずしてなんという。
それを、釈明するつもりは無い。赦してほしいというつもりもない。だが。
心のどこかで、気付いてほしい、と思っていたのは確かだ。
自分で隠しておきながら。彼女を騙しておきながら。そう、思っていた。
罪悪感故か、はたまた彼女への同情か。それとも、ただの保身なのか。
………どれであっても、願うだけでは叶わない。私が、行動を起こさねば変わらない。それを知っているにも関わらず。
「……………」
私は、動かなかった。それは、私の罪なのだろう。
夜。長い石段を登り終えた私は、 左手に持つ刀を隠しもせずに歩いて行く。
神社の境内はそれほど広くない。社の前、賽銭箱の前に立っている彼女の目には、刀を携えた私がすでに映っているのだろう。
だが、それでも構わない。最早、ここまで来てしまっては隠す必要すら無い。
私の足が境内の半分を歩いた時。彼女との距離が残り10歩ほどになった時。彼女は口を開いた。
「そういう、事か」
口調は苦々しいものを含んでいて、それは私を責める響きと言うよりは自嘲の要素を多分に含んでいた。大きめの着物に包まれた小柄な体は無防備に立ちつくし、その綺麗な顔は自嘲に歪んでいた。
私は、そこで足を止めてゆっくりと刀を抜く。暗闇で月明かりを仄かに反射する凶刃は、静かに私の命令を待つ。
「ああ。そうか。お前も、なのか」
「ええ。そうですよ」
何故、返事をしたのかは分からない。だが、返事と共に私は走り出していた。
微妙に開いていた空間を瞬間的に詰め、抜き身の刀での一撃を狙う。確かに私の刃は彼女の胴を薙いだように見えたのだが、手ごたえは無かった。
一歩だけ、彼女は下がったようだ。私の振るった刃に触れないぎりぎりの場所に、彼女は居た。
――つまりそれは、至近距離。
「――ッ」
「一回、死亡だ」
見れば、私の喉元に刀が突きつけられている。いつの間に取りだしたのか、使い込まれて鈍色の輝きを持つ聖柄が。
それは私の持つ宝剣よりも、ずっとずっと刃物として使い込まれていて。輝くだけの見せかけの切れ味ではなく、実際に生き物の命を狩り得る凶器の光を帯びていた。
だが、私にも譲れないものがある。
「死んででも、貴女を殺します」
目を見て、告げる。
驚いたことに、それを聞いて彼女は怯んだようだ。瞳に動揺が走り、首元の刃がわずかに揺らぐ。
「何故、そこまでして私を狙う………?」
思わず、といった質問だった。自分が圧倒的優位に居るというのに、彼女はひどく余裕を失っていた。
質問したにも関わらず、既に答えは分かっているという目つきでこちらを見、それでも何かを期待しているようでもあった。だが、その瞳に浮かぶのは、恐怖と憎悪。
私には、彼女が何に怯え、何を期待しているかが分かってしまった。
だから、私は迷わず彼女を裏切る。
「貴女が、化物だからです」
その一言。“化物”という単語にはどれほどの威力があったのか。
彼女は刀を持つ私の前に呆然と立ち尽くし、その手からは今にも聖柄が滑り落ちそうだ。黄金色の瞳は小刻みに震え、歯は何かに耐えるように食いしばられている。
今なら、私でも彼女を殺せてしまいそうだ。
「何人もの人間を殺してきた化物だから、人間では到底及ばない凶悪な力を持っているから、私達人間が安心して暮らしたいから、貴女を殺します」
それは、追い打ちなのか、自嘲なのか。
言っている私ですら、分からない。
ただ1つ、確かなのは。もう、後戻りはできないということだ。
「貴女は強すぎた。そして、あまりにも鈍感すぎた。裏で進行する真実に何も気がつかないほど、貴女は人間を信頼しすぎた」
「五月蠅い」
衝撃。それが彼女の攻撃だと知る前に、体から力が抜けて、否応なしに膝をつかされる。
見れば、脇腹がざっくりと斬りつけられていた。あまりに鋭利な切り口に、鮮やかな赤が勢いよく溢れだす。
それは素人目に見ても分かるほどの、致命傷。目的を果たした私は、言葉で傷つけてしまった彼女に、言った。
「ありがとう……ございました」
私は、半ばまで赤く染まった刀を手に、呆然と立ち尽くす。なめらかな鋼の刀身を赤いしずくが伝い、既に熱を失った命の残滓が私の手を濡らす。だが、そんな些事よりも、私は今自分がやったことが信じられなくて、立ち尽くす。
私の視線の先では、脇腹が赤色に浸食されつつある巫女装束の始音が、片膝をついて傷口を押さえている。
脇腹を刺され、さらにそこから薙ぎ斬られた始音は、それでも何故か満足そうな微笑みを唇の端に浮かべていた。
「始……音…。どうして………」
助からない。その傷を一目見ただけでそれは分かった。分かってしまった。
それは始音も同じはずで、それなのになぜそんな表情ができるのか私には分からなかった。
「これで……良いんです……」
怒りにまかせて力を振るった私を見て、瞳に恐怖を浮かべなかった人間は二人しかいない。そのうち一人は既に死に、もう一人ももうすぐに死ぬ。
いつも、同じ間違いだ。私だけが置いてけぼりで、何も知らなくて、そのくせ真実というやつは回る。
「なにが良いんだ……! このままじゃ、始音が……」
「……私は、貴女を殺そうとして、そして、敗れた………。敗者が死ぬのは、当然の事です……。それなのに、何故、貴女は私を気にかけるのですか」
内臓を傷つけたのか、脇腹だけでなく口からも血を滲ませ、悲しそうな微笑みのまま始音は言う。喋るために息をする度、白かった始音の巫女装束がどんどん血に染まっていく。
挙句、吐いたのがそんな言葉で、私はどうしようもなく悲しくなる。
いつだって、私が触れることが出来る真実というのは終わりきったもので。そこで私がどんなに足掻こうとも何も変えられない。
「そんなのが本心じゃないってことくらい、とっくに分かってる……!」
本心ならば、何故最後に礼を言った。何故最後まで私の敵であらなかった。
そう言った瞬間、一瞬だけ始音の顔が驚きの表情を浮かべて、こちらを見る。
口から零れる血はいよいよ量を増して、始音の口元は真っ赤に濡れていた。それを見た私は、手に持っていた刀を放り捨て、始音に駆け寄った。
始音はもはや自力で身を起こすことすら出来ず、私の手の中でぐったりとしている。それでも、瞳だけはまっすぐにこちらを向いていた。
「なんだ……ばれていたんですか……。最後まで、隠しておくつもり…だったのに……なあ……」
つい先ほどまで、あれほど私を戦いに駆り立て、罪悪感も違和感もまとめて吹き飛ばしてくれた怒りはもう跡形もない。
せめて、今ここで血も涙もない化物になれれば楽なのに。いつも、私という化物は最悪の結末だけをもたらして、それまでの幸福を破壊する。そして、後始末は全て非力でひ弱な私に押しつけるのだ。
「私は……この村の穢れを一身に背負って……命と引き換えにそれを禊ぐ巫女………。
この時のために生まれ……この時のために生きてきた…。だから、これで良いんです」
始音は笑っていたけれど、その笑いは力の無い笑いで。その悲しげな瞳からは、彼女の言葉に隠された本心がのぞく。
「始音………。私と過ごした時間は……お前にとって、ただの夢だったのか………?」
はは、と始音は笑い、まるであの昔話みたいですね、と始音は言う。
言葉を紡ぐ度に零れおちる赤色は、もはや目に入らないかのように。
それは彼岸花の色に、彼女が好きだと言った花の色に、彼女を彩った。
「“貴女は化け物では無かった。私が、私達が、貴女にそれを強いた――”」
命を削りながら、正しく魂から発せられた言葉に、私ははっとなる。
「私の名前を……貴女に贈ります………。私は…常に貴女と共にある………。だから、悲しまないで。“始音”」
始音が、仰向けに体を横たえたまま、そっと手を伸ばして私の頬をさわった。その手は悲しくなるほど冷たくて、血で濡れていた。その瞳はすでに焦点が合っていなかったけれど、私を見ているのはわかった。
そして、すぐに力が抜けて、ぱたりと私の体に落ちた。
すでに瞳は閉じられ、その口はもう二度と空気を吸い込むことはない。その顔は眠っているように安らかで、微かに微笑んでいた。
「うわあああああぁぁぁぁッッ!!」
自分を慕ってくれた女の子1人救えずに、何が神だ!!
自分の巫女の命を犠牲にしなければ何一つ出来ないなんて、それのどこが神だ!!
神と名乗る奴なんて、結局ロクでもない奴ばかりだ!!
この世の、自分を含むすべての神に向けて思いつく限りの呪いの言葉を吐きながら、私は始音の体を抱きしめる。
「………まだだ……」
まだ終わりじゃない。終わらせない。
彼女を殺したくそったれの神の下に、始音を逝かせてたまるものか。
彼女は、私と共にある。これは契約だ。絶対の理だ。
私と共に行こう、始音。
どこか、遠く遠く離れた場所。そこには、長い金髪を風に舞わせ、顔の半分を狐を模したお面で覆った少女の姿があった。大きめの着物を着て、その首には般若のお面を下げている。
日は沈み、空には大きく欠けた月が浮かぶ。辺りを宵闇が覆う中、少女はふと呟く。
「夜は狐が動く時間………よぉ」
それに対する返事はどこからも無く、辺りは闇に相応しい沈黙が支配している。
だが、少女はまるで返事でも聞こえたかのように、それがとても面白い返事だったかのように笑った。その拍子に、首に下がっている般若面が揺れてからからと音をたてる。
「幽霊も……か。よぅも上手い事言うなぁ?」
そう言って笑いつつ、少女は自らの顔を半分覆う狐面を外し、代わりに般若面をかぶる。狐面とは違い、顔の右半分を覆うように。
少女の手が、般若の面から離れた瞬間、般若面は音もなく砕ける。砕けた破片は空中でさらに細かく砕け、空気に溶けて消えた。後には、狐面を首から下げた、長い金髪の少女のみが残る。
「たまには、私に任せて休んでください。シオンさん」
そう言った少女は、先ほどまでとは全く違う空気を纏っていた。言葉遣いや仕草、果てはその瞳に込められた色すら違って見える。
先ほどまでは豪放磊落な光を宿していた瞳が、今は清楚で思慮深げな光を宿したそれに変わっている。外見はほとんど変わっていないというのに、それは別人だった。
そして、少女は話しかける。
「“始音”は独りじゃないんですから」
今までに私と相まみえた者たちが、暗闇の中から次々と現れ襲いかかってくる夢だ。彼らは突如として現れ、正面から側面から背後から、過去に相まみえた時と同じ鋭さを持った動きで得物を叩きつけてくる。
私はそれらを最小限の動きで回避し、逆に右手の刀を滑らせるように斬り込ませる。襲撃者の皮膚を舐めるようにして肉を切り裂く私の刃は、無慈悲に正確に、強敵たちを葬っていく。暗闇の中では光すら纏わない凶刃は、まるで闇そのもののように敵対者を喰らうのだ。
襲撃者たちは、なにも人間だけとは限らない。数多いた他の妖狐や、それ以外の妖怪たち。彼女らも、暗闇から現れては、一拍後に血の海へと沈む。
彼らは必死の形相で私に挑み、血だまりに沈んでいくというのに。それを行う私は大きめの着物を乱しもしない。
また一人、私の前に人影が現れた。数百年前の私に挑んだ、長大な刀を使う剣豪。当時の私に瀕死の重傷を負わせ得たほどの使い手だ。
男が袴を揺らし、一歩踏み込む。だが、遅い。彼が一歩を踏む間に私は距離を詰め、既に彼の胴を薙いでいた。振りぬいた刀は既に鞘へと納められ、私は元の位置へと戻る。
そしてやっと、男は自分が斬られた事に気がついたようだ。信じられないと訴えるかのように、大きく目を見開いて崩れ落ちる。足元にまた死体が追加された。
その死に顔は恨めしげで、自らを切り殺した敵を呪っているようだった。だが、彼にも分かっていたはずなのだ。自分よりも強い相手に挑めば、逆に自分が殺される可能性があることくらい。
だから、私は彼らに心を揺らすことはない。自ら死地に飛び込み、無様にも血の緋珠を散らして消える者になど、同情の余地すら無い。
そうして何人斬り殺したことだろうか。強敵も、弱敵もまとめて斬って捨て、刃の血を拭うことすらせずに敵を斬る。足元はとっくの昔に血の海で、そこかしこには人間だったものが散らばる。
「死ねッ! この化物!!」
無音だった暗闇に、男の野太い声が響いた。同時に、凪いだ水面のように静かだった私の心も、虚な空白が生まれる。
化物? なぜ私がそう呼ばれる? 私がお前たちに何をした? 刃物を振りかざして私の命を狙ったのはどちらだ?
心に生まれた空白は、私の思考とか理性とかそういったものを根こそぎ奪い取り、男の言った通り私を化物に変える。暗闇の中、声を発することで自らの位置を晒した男の喉笛を手にした闇色の刃で食い破り、返す刀で胴体を両断する。
もはや、今までのような流れるような斬撃ではなかった。怒りにまかせて飛び出し、力に物を言わせて敵を引き裂く。正に化物の所業。
前から現れた妖狐が放った狐火を真正面から打ち消し、放った貫手で返り討ちにする。目から光の消えていく体を無造作に払い、刀を振るって背後に現れた武者を袈裟がけに切り捨てる。髪は乱れ、着物ははだける。だが、もはやそんな事は気にならなかった。
心が荒れ狂う激情の波に飲まれても、もはやそんなことはどうでもよかった。私を化物と嘲った、真の化物どもをこの手で葬り去ることができるなら、どうでもよかった。
体が火照り、狭い精神という殻の中で暴れる激情を迸らせる私の頭は、不思議なほど冷静だった。怒りに満ちた斬撃を、その怒りに手元を狂わされることなく敵の急所に叩き込む。そして、1人の敵に拘ることなく身をひるがえし、逆襲の刃を振るう。
舞っているようだ、と私は思う。傍から見れば、そんな優美なものではないかもしれない。敵の血を浴び、自らの汗すらもぬぐわぬその狂気は、そんな綺麗なものではないかもしれない。
だが、私の体は舞っていた。他者の屍を踏みつけてなお立ち続ける、殺戮の舞いを。
そのまま私は敵が出なくなるまで踊り狂い、全てを屍に変えてなお虚空を睨みつける。今や辺り一面に屍肉が山を成し、血が河となって流れている。
「まだ、居るのだろう。そこに」
私はそう声をかける。出てきた声は“現在”の私の口調とは違っていて、それでも紛れもなく私の声だった。そう、“あの時”の私の声。
そして、その声に呼ばれたように、まるで暗闇から生まれたかのように現れた少年は、
「…………」
無言でこちらを睨みつける。その両目に爛々と輝くのは、怨嗟の色。
今まで私が無造作に屠ってきた者どもとは一線を画す、眼光の鋭さ。正にそれは悪鬼の目で、それは到底人間では有り得なかった。
暗闇から現れた少年は、兵たちの血に濡れた格好で、左手には短刀を持つ。だが、その何の変哲もないはずのただの短刀が、それでも秘めた最低限の武器としての能を持って私を威圧する。
血を吸って重くなった着物を脱ぎもせず、鈍重な足取りを隠すことすらせずにこちらに向かって歩いてくる少年は、いとも容易く両断できそうだ。
それでも、私は少年に接近を許してしまった。この身を縛る、後悔という名の鎖に動きを封じられて。
「貴女は化物ではなかった。僕が、僕たちが、貴女にそれを強いた」
何時か聞いた、その声と共に。
胸の中央に、ひどく熱いのに、とても冷たいものが、突きたてられるのを感じた。それを握る少年の表情は、今だ怨嗟に囚われているのか、それとも――
私の意識は、そこで途切れる。
「―――はぁ、はぁ、はぁ………」
目が覚めると、そこはあの古びた神社だった。眠りについたときと同じように、刀を抱くようにして壁にもたれている。刀に抜かれた形跡はなく、それが先ほどまでの景色を夢だと教えてくれる。
「…………」
こうして目が覚めたのは、もう何度目だろうか。そして、その度に刀を確認して、私は安堵し、同時に落胆するのだ。
「……何度あの夢を見ようと、私が赦される訳ではないのにな………」
いや、それすらも間違いか。私はその程度で赦される訳にはいかないのだ。例えこの身を幾千回引き裂かれたとて、購えぬ罪を犯したのだから。
陽気な日差しは頭上で舞い、小鳥たちは木々の枝でさえずる。そんな、眠くなくてもつい惰眠を貪りたくなるような空気の下。私は熱いお茶を啜っていた。
「お稲荷さま、いらっしゃいますか?」
小さな古びた神社の中、小さい方の座布団に正座で座る私はその声に反応し、湯呑を置く。中身が半分以下になった湯呑からは、勢いのない湯気が一筋、立ち上っていた。
「どうしたの? 祭りの準備で忙しくしているものと思っていたけど」
そう言いつつ首を回して入口を見ると、いつもは中に入ってくる始音が今日に限って賽銭箱の前に立っている。決して暇している訳ではないようだ。では、祭具殿まで物を取りに来たついでだろうか。
なんにせよ、始音はなにやら私に用があるようだ。始音が中に入って来ないならと、私は座布団から立ち上がった。
「……暇って訳ではないみたいね」
そう言いつつ、足袋に包まれた足を草鞋に通し、始音の待つ外に出る。始音は私を制止することなく賽銭箱の前で待っていた。
「……もうすぐ、お祭りですね………」
始音は私の問いかけには答えず、遠くを見るように顔を横に向けたまま、逆に問いかけてきた。いや、それはもしかしたら、私に向けられた問いですら無かったのかもしれない。
だが、その横顔はどこか儚さを感じさせるような美しさを持っていて、始音が自ら放った言葉の意味をかき消してしまう。時折、始音はこういう表情をすることがあった。
――悲しげなのに、本心では何とも思っていないかのような表情。あるいは、無表情なのに、心の奥底でひっそりと涙しているような表情。おぼろげに感じることはできるのに、実態のない幻のように掴みどころのないその歪な感情は、なぜか私に焦燥感を抱かせる。
そんな事を考えていたら、私は何時かのように完全に機会を逸して、結局始音の問いに答える事ができなかった。いつものように茶化すことも出来ず、無様な硬直を強いられる。
「今日……今日の夜」
今日の夜。それは、祭りの始まる時間の事を指すのだろうか。
「ここに、この場所にいてください」
いつの間にか始音はこちらに向き直っており、その視線は未だに木偶のように立ち呆けている私を貫いていた。
その言葉の真意は、どこにあるのだろうか。そんなことばかり考えていて、体の反応が鈍くなる。
ただ、祭りに私を誘っているのだけなのか、それとも、始音には別の思惑があってそんなことを言っているのか。ただ、困ったことに。本当に困ったことに、私は始音の真意がどうあろうとも、こう答えてしまうのだ。
「分かった」
同意。肯定。元より、それ以外の答えを持ち合わせていない。否定に足る理由が無いならば、回答は一つだけのなのだ。
私がその意を伝えると、やっと始音は笑った。心の底まで見透かされるような、あまりにも澄みきった漆黒の瞳ではなく、極めて一般的な、それゆえ心からのものだと分かる笑み。
そう。私は、始音のこの表情が見ていたいのだろう。
「祭りの準備、忙しいの? 私も手伝おうか?」
だから、私はそう申し出たのだけれど。
「いいえ、大丈夫です。お稲荷さまを祀るお祭りなんですから」
それは始音に断られて、私の暇を助長する。
別段始音が忙しそうにしている訳でもないのだから、強く手伝いを申し出ることも無く、私は引き下がる。
私達の間に出来た一瞬の空白を埋めるように、気のきいた風が、ざぁぁ、と木の葉を揺らした。
山の上にある神社から戻る、長い長い階段。毎日のように上り下りしたこの階段だけれど、今日が近づくにつれだんだんと私を責めるように高くなっているようにすら思える。
実際のところ高さなど変わっていない石段を、装束の赤い袴を揺らして降りてゆく。手には、祭具殿から持ち出した宝具の刀。
彼女の手伝いを拒否し、彼女が見ていない時に持ちだした、あの神社の本当の神の伝説に纏わる忌まわしい伝承を持つ、漆黒の鞘の刀。もしあの時彼女がこれを見ていれば、この刀の持つ意味合いをすぐに感じ取っていただろう。
しかしそれも、彼女には知り得ぬ筋書き。彼女の認識の裏で進行する、もうひとつの真実。それは最後まで彼女の預かり知らぬところで進んでいき、彼女が気がつく頃には最早彼女に打つ手は無い。
それは、裏切り、と言うのだろう。彼女の信頼を弄び、あまつさえ仇として彼女に返すのだから。それを裏切りと言わずしてなんという。
それを、釈明するつもりは無い。赦してほしいというつもりもない。だが。
心のどこかで、気付いてほしい、と思っていたのは確かだ。
自分で隠しておきながら。彼女を騙しておきながら。そう、思っていた。
罪悪感故か、はたまた彼女への同情か。それとも、ただの保身なのか。
………どれであっても、願うだけでは叶わない。私が、行動を起こさねば変わらない。それを知っているにも関わらず。
「……………」
私は、動かなかった。それは、私の罪なのだろう。
夜。長い石段を登り終えた私は、 左手に持つ刀を隠しもせずに歩いて行く。
神社の境内はそれほど広くない。社の前、賽銭箱の前に立っている彼女の目には、刀を携えた私がすでに映っているのだろう。
だが、それでも構わない。最早、ここまで来てしまっては隠す必要すら無い。
私の足が境内の半分を歩いた時。彼女との距離が残り10歩ほどになった時。彼女は口を開いた。
「そういう、事か」
口調は苦々しいものを含んでいて、それは私を責める響きと言うよりは自嘲の要素を多分に含んでいた。大きめの着物に包まれた小柄な体は無防備に立ちつくし、その綺麗な顔は自嘲に歪んでいた。
私は、そこで足を止めてゆっくりと刀を抜く。暗闇で月明かりを仄かに反射する凶刃は、静かに私の命令を待つ。
「ああ。そうか。お前も、なのか」
「ええ。そうですよ」
何故、返事をしたのかは分からない。だが、返事と共に私は走り出していた。
微妙に開いていた空間を瞬間的に詰め、抜き身の刀での一撃を狙う。確かに私の刃は彼女の胴を薙いだように見えたのだが、手ごたえは無かった。
一歩だけ、彼女は下がったようだ。私の振るった刃に触れないぎりぎりの場所に、彼女は居た。
――つまりそれは、至近距離。
「――ッ」
「一回、死亡だ」
見れば、私の喉元に刀が突きつけられている。いつの間に取りだしたのか、使い込まれて鈍色の輝きを持つ聖柄が。
それは私の持つ宝剣よりも、ずっとずっと刃物として使い込まれていて。輝くだけの見せかけの切れ味ではなく、実際に生き物の命を狩り得る凶器の光を帯びていた。
だが、私にも譲れないものがある。
「死んででも、貴女を殺します」
目を見て、告げる。
驚いたことに、それを聞いて彼女は怯んだようだ。瞳に動揺が走り、首元の刃がわずかに揺らぐ。
「何故、そこまでして私を狙う………?」
思わず、といった質問だった。自分が圧倒的優位に居るというのに、彼女はひどく余裕を失っていた。
質問したにも関わらず、既に答えは分かっているという目つきでこちらを見、それでも何かを期待しているようでもあった。だが、その瞳に浮かぶのは、恐怖と憎悪。
私には、彼女が何に怯え、何を期待しているかが分かってしまった。
だから、私は迷わず彼女を裏切る。
「貴女が、化物だからです」
その一言。“化物”という単語にはどれほどの威力があったのか。
彼女は刀を持つ私の前に呆然と立ち尽くし、その手からは今にも聖柄が滑り落ちそうだ。黄金色の瞳は小刻みに震え、歯は何かに耐えるように食いしばられている。
今なら、私でも彼女を殺せてしまいそうだ。
「何人もの人間を殺してきた化物だから、人間では到底及ばない凶悪な力を持っているから、私達人間が安心して暮らしたいから、貴女を殺します」
それは、追い打ちなのか、自嘲なのか。
言っている私ですら、分からない。
ただ1つ、確かなのは。もう、後戻りはできないということだ。
「貴女は強すぎた。そして、あまりにも鈍感すぎた。裏で進行する真実に何も気がつかないほど、貴女は人間を信頼しすぎた」
「五月蠅い」
衝撃。それが彼女の攻撃だと知る前に、体から力が抜けて、否応なしに膝をつかされる。
見れば、脇腹がざっくりと斬りつけられていた。あまりに鋭利な切り口に、鮮やかな赤が勢いよく溢れだす。
それは素人目に見ても分かるほどの、致命傷。目的を果たした私は、言葉で傷つけてしまった彼女に、言った。
「ありがとう……ございました」
私は、半ばまで赤く染まった刀を手に、呆然と立ち尽くす。なめらかな鋼の刀身を赤いしずくが伝い、既に熱を失った命の残滓が私の手を濡らす。だが、そんな些事よりも、私は今自分がやったことが信じられなくて、立ち尽くす。
私の視線の先では、脇腹が赤色に浸食されつつある巫女装束の始音が、片膝をついて傷口を押さえている。
脇腹を刺され、さらにそこから薙ぎ斬られた始音は、それでも何故か満足そうな微笑みを唇の端に浮かべていた。
「始……音…。どうして………」
助からない。その傷を一目見ただけでそれは分かった。分かってしまった。
それは始音も同じはずで、それなのになぜそんな表情ができるのか私には分からなかった。
「これで……良いんです……」
怒りにまかせて力を振るった私を見て、瞳に恐怖を浮かべなかった人間は二人しかいない。そのうち一人は既に死に、もう一人ももうすぐに死ぬ。
いつも、同じ間違いだ。私だけが置いてけぼりで、何も知らなくて、そのくせ真実というやつは回る。
「なにが良いんだ……! このままじゃ、始音が……」
「……私は、貴女を殺そうとして、そして、敗れた………。敗者が死ぬのは、当然の事です……。それなのに、何故、貴女は私を気にかけるのですか」
内臓を傷つけたのか、脇腹だけでなく口からも血を滲ませ、悲しそうな微笑みのまま始音は言う。喋るために息をする度、白かった始音の巫女装束がどんどん血に染まっていく。
挙句、吐いたのがそんな言葉で、私はどうしようもなく悲しくなる。
いつだって、私が触れることが出来る真実というのは終わりきったもので。そこで私がどんなに足掻こうとも何も変えられない。
「そんなのが本心じゃないってことくらい、とっくに分かってる……!」
本心ならば、何故最後に礼を言った。何故最後まで私の敵であらなかった。
そう言った瞬間、一瞬だけ始音の顔が驚きの表情を浮かべて、こちらを見る。
口から零れる血はいよいよ量を増して、始音の口元は真っ赤に濡れていた。それを見た私は、手に持っていた刀を放り捨て、始音に駆け寄った。
始音はもはや自力で身を起こすことすら出来ず、私の手の中でぐったりとしている。それでも、瞳だけはまっすぐにこちらを向いていた。
「なんだ……ばれていたんですか……。最後まで、隠しておくつもり…だったのに……なあ……」
つい先ほどまで、あれほど私を戦いに駆り立て、罪悪感も違和感もまとめて吹き飛ばしてくれた怒りはもう跡形もない。
せめて、今ここで血も涙もない化物になれれば楽なのに。いつも、私という化物は最悪の結末だけをもたらして、それまでの幸福を破壊する。そして、後始末は全て非力でひ弱な私に押しつけるのだ。
「私は……この村の穢れを一身に背負って……命と引き換えにそれを禊ぐ巫女………。
この時のために生まれ……この時のために生きてきた…。だから、これで良いんです」
始音は笑っていたけれど、その笑いは力の無い笑いで。その悲しげな瞳からは、彼女の言葉に隠された本心がのぞく。
「始音………。私と過ごした時間は……お前にとって、ただの夢だったのか………?」
はは、と始音は笑い、まるであの昔話みたいですね、と始音は言う。
言葉を紡ぐ度に零れおちる赤色は、もはや目に入らないかのように。
それは彼岸花の色に、彼女が好きだと言った花の色に、彼女を彩った。
「“貴女は化け物では無かった。私が、私達が、貴女にそれを強いた――”」
命を削りながら、正しく魂から発せられた言葉に、私ははっとなる。
「私の名前を……貴女に贈ります………。私は…常に貴女と共にある………。だから、悲しまないで。“始音”」
始音が、仰向けに体を横たえたまま、そっと手を伸ばして私の頬をさわった。その手は悲しくなるほど冷たくて、血で濡れていた。その瞳はすでに焦点が合っていなかったけれど、私を見ているのはわかった。
そして、すぐに力が抜けて、ぱたりと私の体に落ちた。
すでに瞳は閉じられ、その口はもう二度と空気を吸い込むことはない。その顔は眠っているように安らかで、微かに微笑んでいた。
「うわあああああぁぁぁぁッッ!!」
自分を慕ってくれた女の子1人救えずに、何が神だ!!
自分の巫女の命を犠牲にしなければ何一つ出来ないなんて、それのどこが神だ!!
神と名乗る奴なんて、結局ロクでもない奴ばかりだ!!
この世の、自分を含むすべての神に向けて思いつく限りの呪いの言葉を吐きながら、私は始音の体を抱きしめる。
「………まだだ……」
まだ終わりじゃない。終わらせない。
彼女を殺したくそったれの神の下に、始音を逝かせてたまるものか。
彼女は、私と共にある。これは契約だ。絶対の理だ。
私と共に行こう、始音。
どこか、遠く遠く離れた場所。そこには、長い金髪を風に舞わせ、顔の半分を狐を模したお面で覆った少女の姿があった。大きめの着物を着て、その首には般若のお面を下げている。
日は沈み、空には大きく欠けた月が浮かぶ。辺りを宵闇が覆う中、少女はふと呟く。
「夜は狐が動く時間………よぉ」
それに対する返事はどこからも無く、辺りは闇に相応しい沈黙が支配している。
だが、少女はまるで返事でも聞こえたかのように、それがとても面白い返事だったかのように笑った。その拍子に、首に下がっている般若面が揺れてからからと音をたてる。
「幽霊も……か。よぅも上手い事言うなぁ?」
そう言って笑いつつ、少女は自らの顔を半分覆う狐面を外し、代わりに般若面をかぶる。狐面とは違い、顔の右半分を覆うように。
少女の手が、般若の面から離れた瞬間、般若面は音もなく砕ける。砕けた破片は空中でさらに細かく砕け、空気に溶けて消えた。後には、狐面を首から下げた、長い金髪の少女のみが残る。
「たまには、私に任せて休んでください。シオンさん」
そう言った少女は、先ほどまでとは全く違う空気を纏っていた。言葉遣いや仕草、果てはその瞳に込められた色すら違って見える。
先ほどまでは豪放磊落な光を宿していた瞳が、今は清楚で思慮深げな光を宿したそれに変わっている。外見はほとんど変わっていないというのに、それは別人だった。
そして、少女は話しかける。
「“始音”は独りじゃないんですから」
11/04/01 15:06更新 / 湖
戻る
次へ