Parallel Scope
――届かない場所があると知った小鳥は、羽ばたかない?
――いや、彼らに届かない場所なんて無いんだよ
髪に土をまみれさせ、頬を泥で汚しながら、ランディは地面に尻もちをついて座り込んでいた。地面に突き立て杖代わりにした剣に体重を預け、肩で息をしており、相当消耗しているのが分かる。
それでも険しい光を放ち続けるその黒瞳は、森の奥を睨んでいた。身に纏う装束はよくある旅に適したマントや皮の軽鎧だが、そちらも焼け焦げや傷が目立つ。
「くそッ………!! アイツが居ないだけでこんなにも苦戦するなんて……」
彼の分身とも呼べる相棒が居なくなって、はや一日。まだたった一日と言われれば短いのかもしれないが、ランディにとってはもう限界だった。
旅の途中も、戦闘も、いだって一緒だった。自分が隙を見せれば、その細腕で杖を振るい背中を守ってくれる。そんな戦闘に慣れすぎたのかもしれない。振りかえればアイツが居て、目が合えば笑いかけてくれる。そんな日常に慣れすぎたのかもしれない。
故郷を出てから、2人揃ってさえいれば負け知らずだった。国の騎士団さえ退けた吸血鬼に打ち勝った事だってあるし、バフォメット率いる集団と一戦やらかし、相手を撤退まで追い込んだことだってある。
だが、このザマはなんだ。たかが数体の魔物に、やっとの辛勝。戦闘が終わった後も、しばらく動くことすらできないほど消耗してしまった。
「ザマぁねぇな……。だが、お前だけは絶対に助け出してやる。安心しろ」
そのための布石は昨日打った。教会の腰ぬけどもの力を借りるのは癪だが、アイツのためなら仕方がない。
それだけ言って、ランディは緩やかな動作で立ちあがった。支えにしていた剣を振り払い、なめらかに鞘におさめた。
「待ってろ……。絶対に助けてやるからな……」
そうつぶやきながら、ランディは森の中を進んでいった。
魔物によって攫われた相棒を助けるため、森の中にそびえるナンブ砦へ向かって。
ナンブ砦は現在、混乱のさなかにあった。
そろいの重鎧に身を包んだ教会の騎士と、種族も装備もばらばらな魔物たちが、入り乱れて乱戦を展開している。戦っている人間たちの中には、明らかに傭兵と思しき人物もおり、さながら攻城戦の様相を呈していた。
「進め! 我らには神の加護がある!!」
指揮官は無責任にも厳重に守られた最後尾でそう叫び、部下を戦地へ追いやる。その指揮官はまだ年若く、その采配を見ても経験不足感はいなめない。
「死ねッ!! 魔物め!!」
騎士たちは錬度の低い動きで手に持つ得物を振り回す。その磨きあげられた剣といい鎧といい、まだ一度も実戦を経ていないことは明らかだ。
「…………」
傭兵たちは無駄なことは喋らず、自分に向かってくる敵を確実に打倒し、背後にも気を配る。しかし所詮彼らは群体ではなく個人であり、その上数が少なかった。
「アリサ……ここにいるのか?」
アルはそう呟いて、向かってきた魔物を剣の一薙ぎで打ち飛ばした。その灰色の瞳に迷いは無く、隠された狂気の色がよぎるだけ。
そんな人間側の軍勢に対し、魔物側は少しだけ手を抜いていた。その気になれば全力を挙げて潰すことも可能だったが、彼女らは皆そのようなことは望まない。
目の前にこれだけの数の男が居るのだ。適当に弱らせて投降させるため、本来は他人の指示など聞かない彼女らも、ある策の実現に向けて驚異的なまでに統率のとれた動きをする。
懸命に戦線を支える振りをしながら、守るべき砦の内側へと少しずつ退いて行く。ただし建造物の中には入れずに、もともとは練兵場であったと思しき広場に誘い込む。
魔物たちの手際は鮮やかで、本当に支えきれなくなって少しずつ後退を繰り返しているように見えた。
そして、自軍が押していると知り、経験の浅い指揮官は調子に乗って指令を飛ばしまくり、人間たちはさらに砦の奥深くまで足を踏み入れる。この行為によって、彼女らの策は成った。
そうやって、人間たちが広場の中央に踏み込んだ瞬間。
「今だ!」
鋭い声が戦場を駆け巡り、それは完成された。
すなわち、開いていた砦の門が全て閉じたのだ。門だけではなく、砦への侵入に使用した、砦のあちこちにある小さな扉すら1つ残らず閉じ、施錠される。
乱戦状態を巧みに利用し、魔物とは思えないほどの連携を見せ、ナンブ砦は教会の軍勢を嵌めたのだ。それ自体は単純な策で、言わばネズミ捕りのようなものだが、ここは敵の巣窟だ。その事実が、この策をただの罠以上のものに変えてくれる。
退路を断たれた状態で、しかも四方を敵に囲まれている場合、全体としての脱出はもはや不可能と言っていい。戦闘に秀でた個人が武勇を振るって脱出を図ることは無理ではないが、それを全体で行うのは絶対に不可能だ。大半が重い鎧を着込んだ教会の騎士ともなればなおさらである。
つまり、この瞬間。教会によるナンブ砦奪還は失敗に終わったのである。
ランディはナンブ砦への潜入を果たしていた。教会の勢力の中に紛れ込み、適当に戦う振りをしながら隙を窺って砦の建物に忍び込んだのだ。
現在、外では騎士たちが最後の抵抗を行っており、それが鎮圧されれば魔物による武装解除が始まるだろう。鎧や兜と一緒にいろいろと脱がされるだろうが、命まで取られるようなことは無いのが唯一の救いだろうか。
そこで、ランディは頭を振ってその思考を頭から追い出した。今はそんなことを考えている場合ではない。
砦の廊下は石造りで、ところどころに設置してある燭台のおかげで足元が見える程度には明るい。そんな廊下を、剣を抜いた状態で進む。出来るだけ足音を殺して、もし魔物と出くわしても出会い頭に一刀にできるように。
「……どこかに牢獄があるはずだ。アイツもそこに……」
そう考え、先ほどから地下へ続く階段や梯子を探しているのだが、一向に見つからない。今も建て付けの悪い木製の扉を開け、中を探るが、あるのは備蓄された食料と飲料水の樽だけだ。
扉が軋む音を立てないように、ゆっくりと優しく閉めながら、ランディはあたりを見渡す。燭台の明かりがあるものの、窓の少ない砦の中はやはり暗い。ランディは目を凝らしてあたりに敵が居ないかを確認する。
「……居ないな」
「止まれ」
驚く暇すら無かった。無音で突き出された片刃の大剣に、ランディは硬直を余儀なくされる。
その刃は真正面から突き出されていたにも関わらず、ランディには刃はおろか人影すら見えなかった。あれほど注意を払っていたにも関わらず。
ランディに刃を突き付けた人影は、呆れたことにその巨大な剣を片手で支えている。そのくせ、剣先はピクリとも揺れず、常にランディの首をポイントし続ける。
だが、驚いたことにその剣の持ち主は魔物では無かった。
少し長めの黒髪に、思慮深そうな灰色の瞳。手には金属製のガントレットを嵌めており、そのブーツにも鉄が仕込まれているようだ。そんな全身凶器のようないでたちに、ランディは覚えがあった。
「……? なんだ、魔物じゃないのか」
“狂戦士”アルト=カルトリンク。苛烈なまでに攻撃に攻撃を上乗せする重突進と、極近距離での格闘戦を得意とする戦闘狂。彼の残した功績は、各地のギルドや酒場で語り草となっており、その傭兵ランクも“アドバンスド”という強者だ。
おそらく彼もこのナンブ砦攻城戦に参加していたのだろう。そして、罠にかかった。だが、魔物側の罠は詰めが甘かったようだ。あの程度の罠では、教会は殺せても化物は殺せない。
「……ああ。俺は人間だよ」
「これはすまない」
そう言うと、アルはあっさりと喉元の剣を引いた。それどころか、その剣を背中のホルダーに戻してしまう。
大半が出払っているとはいえ、ここが敵の本拠地だということを考えればそれがいかに大胆な行為かわかるだろう。そして、そのまま振り返りもせずに砦の闇の中に消えてい行こうとする。
「お、おい、ちょっと待ってくれ!」
ランディは思わず大声を出して呼び止めた。呼び止めてからしまったと後悔したが、どうせ見つかってしまっても目の前の狂戦士がどうにかしてくれるだろう、と思い直す。
幸い、アルは歩みを止めてこちらを振り向いてくれた。その顔に嫌そうな表情は無く、すぐにでも去ろうとしたのは特に目的があってのことでは無いようだ。
「……地下へ続く階段を見なかったか? 梯子でもいいんだが」
全てを打ち明けて協力を仰ごうかとも思ったが、無謀な試みに他人を巻き込むのは気が引けた。無難に、それだけを聞く。
その問いに、アルはなんだそんなことか、と応じる。
「俺が来た方向……あっちだな。確か梯子があったはずだ」
そう言ってもう少し詳しい場所を説明し、アルはじゃあな、と今度こそ砦の闇に溶けていった。一見隙だらけで、その実臨戦態勢のゆるぎない足取りで。
それを、ランディはじっと見送る。しかしそれは、アルの強さに向けられた視線では無い。
彼は最初から1人だったのだろうか。ふと、そんな事を考えたのだ。最初から1人だったから、あれほどまでに強いのか、と。もしそうだとすれば、彼は寂しい人間だ。そして、もしそうでないのなら、彼は悲しい人間だ。
「……俺は、そうはならない」
ランディは、1人、呟いた。
じゅぷり、と再び熱いモノが中に入ってきた。それがもたらす快楽に、エルナは自由のきく範囲で思い切り体を仰け反らせる。
エルナは四肢を鎖によって拘束され、体中の至る所に快楽を増幅させる文様を彫られていた。薄紫に輝くそれは、薄暗い地下牢の中でエルナを妖しく装飾する。
鎖で吊られた手は、動かすたびに鎖特有の音を響かせ、その存在をアピールする。鎖の長さが足りないため、手が頭と同じ高さにあり、まるで軽く手を上げているようだ。エルナはあたかも自ら相手を誘惑するような、挑発的なポーズを強制的に取らされていた。
それが手だけならばまだ少しはマシなのだが、足も極端に短い鎖によって縛られ、足をM字に開かされたまま動かすことすらできない。
その状態で犯されてもなお、彼女の緑の瞳は半ば以上快楽に支配されつつも、未だに理性の光を灯していた。だが、快楽に歪んだ口元からは嬌声と共に唾液が零れ続ける。胸元まで糸を引いて滴るそれは、体を伝って、下の口から漏れる唾液と混じりあう。
「……ぇあっ、あっぅうぅ………」
エルナに快楽を与えるのは、自らの尻尾を彼女の秘所にあてがう1人のサキュバス。彼女は妖艶な笑みを浮かべてエルナを犯す。その美貌は、エルナの文様が放つ光に照らされて、壮絶なものに見えた。
「どう……? もう素直になっちゃえば………?」
そう言いながら、エルナのやや未発達な胸に指を這わせる。その刺激も、文様の輝きでエルナを責める快楽と化す。
サキュバスは、エルナの唾液が絡みついた白い指を、淫靡な音と共に口に含んだ。
「ひぃ、ああぁっ……あうっ……」
エルナは、もう半日もこうして犯され続けている。しかし、未だレッサ―サキュバスになる様子はなく、それは何よりも彼女が抵抗している証だった。
「そうすれば、君の大好きな彼と、ずっと一緒に居られるよ……?」
その言葉が終ると同時に、少しだけ強く尻尾を動かす。彼女のもっとも脆い部分に当たるように。エルナの瞳が、わずかに怯えるように見開かれた。
途端、今までとは比べ物にならない快楽がエルナを襲う。手足の鎖を限界まで引っ張り、体を仰け反らせる。
「ああああぁぁあぁぁあああぁッッ!!」
びくびくと腰がふるえ、その熱くたぎった火処からは大量の蜜があふれだす。それは彼女の内股だけでなく、向かいのサキュバスも容赦なくべとべとにした。
「きゃっ」
と声を上げ、外見に似合った可愛らしい動作で顔を庇う。そして、一拍おいて我に返り、薄く微笑んだ。
「なぁんだ……ちゃんと感じてるじゃない」
処理しきれない快楽ゆえか、ぼやけた視界の中で、エルナは見た。
向かいのサキュバスが、ほんのり頬を染め、それ以上に妖艶に、壮絶に、微笑むのを。
そして、感じた。
理性や倫理など、くだらないものを全て吹き飛ばす、人が感じ得る最上級の快感を。
誰かの叫び声が聞こえてきた。
長い長い廊下。左右には頑丈そうな鉄格子がいくつも並び、その中には手足を拘束するための鎖が見える。そして、その隣にはあまり用途を想像したくない道具たちがずらりとならんでいた。
叫び声が聞こえたのは進行方向のかなり奥。上よりさらに燭台が少ないので、もはやほとんど視覚は当てにならないほど暗い。だが、一面真っ暗な中、一ヶ所だけ明るい場所があった。
おそらく、この長い廊下の突き当たり。そして、叫び声の聞こえた場所。それを確認すると、ランディは走り始めた。もはや、足音など気にもならない。
「エルナーーーッ!!」
走りながら叫ぶ。みるみる近づいてきた光に、少しまぶしさを感じる。
どうやら、そこも牢屋のようだ。ただ、牢の戸が開いており、中には誰かが居る。
「エルナ、大丈―――」
最後まで言えなかった。そこで見たものが、あまりにもショックすぎて。
「あらあら、彼のお出ましかしら」
その牢の中では、2人の女が、吐く息も荒く交わっていた。
その内の一人、夜色の髪と同色の翼を持つ女が、こちらを見てそう言う。それでも、相手の女を責めるその手の動きは全く衰えない。その扇情的な服装とこの牢獄の薄暗さは、彼女に得体の知れない魅力と凄みを与えていた。
そして、もう一人の深い緑色の瞳を持つ少女は、元纏っていた衣服の切れ端を身にまとい、紫に輝く文様を浮かべた四肢を拘束されて体を快楽に震わせていた。その火処に差し込まれたサキュバスの手が動くのに合わせて、エルナの体もまた動く。
エルナの顔は心底幸せそうで、それでいて苦悩に歪んでいるようでもあった。ただ、彼女の体の方はもうすっかり正直になってしまっているようだ。
だが、ランディは諦めない。すぐに硬直から抜け出し、構えていた剣を気合いと共に突き出す。
「まあ、せっかくの楽しみの邪魔をするなんて。無粋な殿方ねぇ」
精神が乱れに乱れても、幾度も幾度も繰り返し放った剣はまっすぐ進む。十分すぎる鋭さを持って繰り出された突きに、サキュバスは咄嗟に跳び退った。その際に少々乱暴に手を抜いたようで、エルナが一層激しい喘ぎ声を上げた。
だが、背後は壁。そして、牢からの出口はランディが塞いでいる。サキュバスは軽口を叩いたが、彼女はいささか不利な条件下にあった。
「ほざくな。今滅してやる」
対するランディの声音は、隠しきれない怒りが籠っている。それでも決して敵と目を合わせず、魔眼もしっかり警戒している。それにサキュバスはチッ、と舌打ちをした。
相手に詠唱の時間を与えるつもりなど端から無く、ランディはいきなり袈裟がけに斬りつけた。そして、そこから身を捻っての横なぎに繋げる。
横目で確認すれば、エルナは四肢を拘束されたままぐったりとしている。その姿は、ランディの心に焦燥感を植え付けた。
「くっ………流石に強いわね……」
狭い空間で飛ぶことも出来ず、呪文を放つための詠唱時間すら稼げない。その上背後は壁。そんな圧倒的不利な状況で、流石のサキュバスも表情に焦りが見える。
なんとか手に纏わせた魔力で剣を弾き、反撃の機会を窺うものの、ランディに隙は全くない。魔法さえ使われなければ、格闘戦では自分に分があることを知っているのだ。
次第に、サキュバスは追い詰められていった。対して、ランディの剣は石を削ることも無く静かに振るわれる。
そして、ついにランディの剣が敵を捉える。剣先はサキュバスの柔らかな脇腹を浅く裂き、ぱっと赤い血が散った。サキュバスの顔が、一瞬だけ苦痛に歪む。
「――とどめだ!」
極至近距離の中、ランディはさらに踏みこみをかける。もはや、ほぼ密着状態で、互いの吐息の音さえ聞きとれそうな距離。
そこから、腰だめに構えた剣を突き出そうとした瞬間――
サキュバスの体が、一瞬で靄のような闇となって消えた。その純粋な漆黒は、周りにあるたくさんの燭台の光すら飲み込み、あたりを一瞬だけ暗くする。
貫くべき対象を失って刃が空を切ったのと、敵が闇となって消えたのはほとんど同時で、あと一瞬でも彼女がもたつけば、勝敗は決していただろう。
「………逃げられた、か……」
ランディはそう言って、剣を鞘におさめた。血のついた剣をそのまま鞘に納めると、後で大変なことになってしまうのだが、彼にはそれよりも大切な事があった。
戦闘中に少し動いていたようで、エルナとの距離は二歩分ほど開いていたが、エルナはまだそこに居た。ランディが近づくと、びくっと体を震わせる。
「……大丈夫だ。俺だよ、ランディだ」
「………ディー?」
ああ、と声をかけると、エルナはかぁっと頬を染めて顔を背け、震える声で言った。
「ご、ごめんね……。ボク、あ、あんな事………」
エルナの顔は中性的で、体つきの方も服を着ていれば男と間違われることもある。だが、改めてこうして見ると、艶めかしくこちらを誘っているように見えた。
「謝るのは俺の方だ。もっと早く助けに来られなくて……」
そう言いながら、ランディは一度納めた剣をもう一度抜いて、エルナを拘束する鎖を全て断ち切った。
甲高い音と共に、金臭い香りが一瞬だけ鼻をかすめる。
「……ボクは置いて行って」
紫色の文様を刻まれた四肢を、冷たい床に横たえたエルナが、ぽつりとそんなことを言った。
やがて、ゆっくりと上体を起こし、両手を開いてこちらを見つめる。その姿は、何かを迎え入れるようだった。
「……ねぇ、見てよ。ボクを見て」
「…………」
「こんなに汚れたボクと一緒に居たら、ディーまで汚しちゃう」
そう言ったエルナの顔は、わずかに微笑んでいた。だが、目元に浮かんだ涙が燭台の光を反射して、その嘘を白日の元に晒す。
ランディはそれに何も言わず、黙ってエルナを見つめる。
「こうしてる今だって、実は必死で我慢してるんだよ。次の瞬間にも、ボクはディーに襲いかかるかもしれないから………」
だから、とエルナは続ける。ボクを君の手で殺して、と。
その言葉に、ランディの手に持った剣がわずかに震える。そして、噛み砕かんばかりに奥歯を食いしばった。
そして、刹那、風を切る音も立てずに剣をエルナの首めがけて斬り放った。
だが、その刃は残すところ数ミリ、という位置で止まる。それでもエルナは微動だにしない。
「俺が欲しいのなら、いつでもくれてやる。だが――」
――その時は、俺もお前を貰う。エルナにはそう聞こえた。
そして、その返事はもちろん――
「………うん!」
ナンブ砦攻略戦から、2人組の傭兵、ランディとエルナの足跡はぱったりと途絶える。任務受理記録でなんとか後を追うことが出来るが、それでも分かっているのは、彼らがその後2度の大規模な戦いを経て、ランクを“アドバンスド”に上げたことくらいである。
世界で7人目と8人目の“アドバンスド”は、その後も派手な活躍をすることは無く、だが各地で彼らと思しき伝承を残していっている。その全てに共通するのは、“誰かのための戦い”だということだ。
人間から迫害を受ける魔物や、強大な魔物に脅かされる人々。それらに自らの価値観を持って立ち向かい、ことごとくを打倒している。報酬すら満足に貰えないであろう戦いにも身を投じ、それが“誰か”のためになると信じて。
もしかしたら彼らは、あの戦いから5年が過ぎた今でも、どこかで人知れず、誰かのために戦っているのかもしれない………。
「なぁ、エルナ」
「ん?どうしたの?怪我でもした?」
「いや……、前、思ったことがあるんだ。
どうして、強い人たちはもっと沢山戦争に出て、戦わないんだろうって」
「ああ……」
「でも、俺もその“強さ”ってヤツを得て、分かった」
「……ボクも、何となくだけど分かるよ」
「強くなる度に、この剣は重くなるんだ。どんどん重くなって、最後には簡単に振るえなくなる」
「強すぎるから、それで、何かを変えてしまえるから……?」
「ああ。贅沢な話だとは思うけどな」
「でも、ディーは間違えてなんかない。正しい事をしているよ」
「“正義の味方”だからな。さて、そろそろ行くかエルナ!」
「そうだね。次はどこに行こうか?」
「そうだなぁ、次は――」
そんな楽しげな声が響くのは、とある山賊が使っていたアジト。だが、今そこに立っているのはたった二人だ。残りの人間は、例外なく床に倒れ、手か足から血を流して気絶している。
立っている人影のうちの1つも、頭から角を生やし、漆黒の翼と尻尾を持っている。豊満な体つきをしているが、上からぶかぶかのローブを着ており、その中性的な顔立ちも相まって一見すると少年のようにも見える。
その緑の瞳が見つめる先には、もうすたすたと歩き出してしまっている男の姿がある。
「待ってよ〜、ディー」
「ははは、急げ急げ。誰かが助けを待ってるぞ!」
先ほどは揶揄するように自らを称した彼だが、統治が満足に行き届いていない街や村には、ある伝説のようなものがある。
そのような場所には、必ずとある2人組が現れ、わずかな報酬で、場合によっては無報酬で問題を解決していく。というものだ。話だけを聞けばおとぎ話以下のストーリーだが、実際に彼らが訪れた街の者は、彼らをこう呼ぶ。
“正義の味方”と。
――いや、彼らに届かない場所なんて無いんだよ
髪に土をまみれさせ、頬を泥で汚しながら、ランディは地面に尻もちをついて座り込んでいた。地面に突き立て杖代わりにした剣に体重を預け、肩で息をしており、相当消耗しているのが分かる。
それでも険しい光を放ち続けるその黒瞳は、森の奥を睨んでいた。身に纏う装束はよくある旅に適したマントや皮の軽鎧だが、そちらも焼け焦げや傷が目立つ。
「くそッ………!! アイツが居ないだけでこんなにも苦戦するなんて……」
彼の分身とも呼べる相棒が居なくなって、はや一日。まだたった一日と言われれば短いのかもしれないが、ランディにとってはもう限界だった。
旅の途中も、戦闘も、いだって一緒だった。自分が隙を見せれば、その細腕で杖を振るい背中を守ってくれる。そんな戦闘に慣れすぎたのかもしれない。振りかえればアイツが居て、目が合えば笑いかけてくれる。そんな日常に慣れすぎたのかもしれない。
故郷を出てから、2人揃ってさえいれば負け知らずだった。国の騎士団さえ退けた吸血鬼に打ち勝った事だってあるし、バフォメット率いる集団と一戦やらかし、相手を撤退まで追い込んだことだってある。
だが、このザマはなんだ。たかが数体の魔物に、やっとの辛勝。戦闘が終わった後も、しばらく動くことすらできないほど消耗してしまった。
「ザマぁねぇな……。だが、お前だけは絶対に助け出してやる。安心しろ」
そのための布石は昨日打った。教会の腰ぬけどもの力を借りるのは癪だが、アイツのためなら仕方がない。
それだけ言って、ランディは緩やかな動作で立ちあがった。支えにしていた剣を振り払い、なめらかに鞘におさめた。
「待ってろ……。絶対に助けてやるからな……」
そうつぶやきながら、ランディは森の中を進んでいった。
魔物によって攫われた相棒を助けるため、森の中にそびえるナンブ砦へ向かって。
ナンブ砦は現在、混乱のさなかにあった。
そろいの重鎧に身を包んだ教会の騎士と、種族も装備もばらばらな魔物たちが、入り乱れて乱戦を展開している。戦っている人間たちの中には、明らかに傭兵と思しき人物もおり、さながら攻城戦の様相を呈していた。
「進め! 我らには神の加護がある!!」
指揮官は無責任にも厳重に守られた最後尾でそう叫び、部下を戦地へ追いやる。その指揮官はまだ年若く、その采配を見ても経験不足感はいなめない。
「死ねッ!! 魔物め!!」
騎士たちは錬度の低い動きで手に持つ得物を振り回す。その磨きあげられた剣といい鎧といい、まだ一度も実戦を経ていないことは明らかだ。
「…………」
傭兵たちは無駄なことは喋らず、自分に向かってくる敵を確実に打倒し、背後にも気を配る。しかし所詮彼らは群体ではなく個人であり、その上数が少なかった。
「アリサ……ここにいるのか?」
アルはそう呟いて、向かってきた魔物を剣の一薙ぎで打ち飛ばした。その灰色の瞳に迷いは無く、隠された狂気の色がよぎるだけ。
そんな人間側の軍勢に対し、魔物側は少しだけ手を抜いていた。その気になれば全力を挙げて潰すことも可能だったが、彼女らは皆そのようなことは望まない。
目の前にこれだけの数の男が居るのだ。適当に弱らせて投降させるため、本来は他人の指示など聞かない彼女らも、ある策の実現に向けて驚異的なまでに統率のとれた動きをする。
懸命に戦線を支える振りをしながら、守るべき砦の内側へと少しずつ退いて行く。ただし建造物の中には入れずに、もともとは練兵場であったと思しき広場に誘い込む。
魔物たちの手際は鮮やかで、本当に支えきれなくなって少しずつ後退を繰り返しているように見えた。
そして、自軍が押していると知り、経験の浅い指揮官は調子に乗って指令を飛ばしまくり、人間たちはさらに砦の奥深くまで足を踏み入れる。この行為によって、彼女らの策は成った。
そうやって、人間たちが広場の中央に踏み込んだ瞬間。
「今だ!」
鋭い声が戦場を駆け巡り、それは完成された。
すなわち、開いていた砦の門が全て閉じたのだ。門だけではなく、砦への侵入に使用した、砦のあちこちにある小さな扉すら1つ残らず閉じ、施錠される。
乱戦状態を巧みに利用し、魔物とは思えないほどの連携を見せ、ナンブ砦は教会の軍勢を嵌めたのだ。それ自体は単純な策で、言わばネズミ捕りのようなものだが、ここは敵の巣窟だ。その事実が、この策をただの罠以上のものに変えてくれる。
退路を断たれた状態で、しかも四方を敵に囲まれている場合、全体としての脱出はもはや不可能と言っていい。戦闘に秀でた個人が武勇を振るって脱出を図ることは無理ではないが、それを全体で行うのは絶対に不可能だ。大半が重い鎧を着込んだ教会の騎士ともなればなおさらである。
つまり、この瞬間。教会によるナンブ砦奪還は失敗に終わったのである。
ランディはナンブ砦への潜入を果たしていた。教会の勢力の中に紛れ込み、適当に戦う振りをしながら隙を窺って砦の建物に忍び込んだのだ。
現在、外では騎士たちが最後の抵抗を行っており、それが鎮圧されれば魔物による武装解除が始まるだろう。鎧や兜と一緒にいろいろと脱がされるだろうが、命まで取られるようなことは無いのが唯一の救いだろうか。
そこで、ランディは頭を振ってその思考を頭から追い出した。今はそんなことを考えている場合ではない。
砦の廊下は石造りで、ところどころに設置してある燭台のおかげで足元が見える程度には明るい。そんな廊下を、剣を抜いた状態で進む。出来るだけ足音を殺して、もし魔物と出くわしても出会い頭に一刀にできるように。
「……どこかに牢獄があるはずだ。アイツもそこに……」
そう考え、先ほどから地下へ続く階段や梯子を探しているのだが、一向に見つからない。今も建て付けの悪い木製の扉を開け、中を探るが、あるのは備蓄された食料と飲料水の樽だけだ。
扉が軋む音を立てないように、ゆっくりと優しく閉めながら、ランディはあたりを見渡す。燭台の明かりがあるものの、窓の少ない砦の中はやはり暗い。ランディは目を凝らしてあたりに敵が居ないかを確認する。
「……居ないな」
「止まれ」
驚く暇すら無かった。無音で突き出された片刃の大剣に、ランディは硬直を余儀なくされる。
その刃は真正面から突き出されていたにも関わらず、ランディには刃はおろか人影すら見えなかった。あれほど注意を払っていたにも関わらず。
ランディに刃を突き付けた人影は、呆れたことにその巨大な剣を片手で支えている。そのくせ、剣先はピクリとも揺れず、常にランディの首をポイントし続ける。
だが、驚いたことにその剣の持ち主は魔物では無かった。
少し長めの黒髪に、思慮深そうな灰色の瞳。手には金属製のガントレットを嵌めており、そのブーツにも鉄が仕込まれているようだ。そんな全身凶器のようないでたちに、ランディは覚えがあった。
「……? なんだ、魔物じゃないのか」
“狂戦士”アルト=カルトリンク。苛烈なまでに攻撃に攻撃を上乗せする重突進と、極近距離での格闘戦を得意とする戦闘狂。彼の残した功績は、各地のギルドや酒場で語り草となっており、その傭兵ランクも“アドバンスド”という強者だ。
おそらく彼もこのナンブ砦攻城戦に参加していたのだろう。そして、罠にかかった。だが、魔物側の罠は詰めが甘かったようだ。あの程度の罠では、教会は殺せても化物は殺せない。
「……ああ。俺は人間だよ」
「これはすまない」
そう言うと、アルはあっさりと喉元の剣を引いた。それどころか、その剣を背中のホルダーに戻してしまう。
大半が出払っているとはいえ、ここが敵の本拠地だということを考えればそれがいかに大胆な行為かわかるだろう。そして、そのまま振り返りもせずに砦の闇の中に消えてい行こうとする。
「お、おい、ちょっと待ってくれ!」
ランディは思わず大声を出して呼び止めた。呼び止めてからしまったと後悔したが、どうせ見つかってしまっても目の前の狂戦士がどうにかしてくれるだろう、と思い直す。
幸い、アルは歩みを止めてこちらを振り向いてくれた。その顔に嫌そうな表情は無く、すぐにでも去ろうとしたのは特に目的があってのことでは無いようだ。
「……地下へ続く階段を見なかったか? 梯子でもいいんだが」
全てを打ち明けて協力を仰ごうかとも思ったが、無謀な試みに他人を巻き込むのは気が引けた。無難に、それだけを聞く。
その問いに、アルはなんだそんなことか、と応じる。
「俺が来た方向……あっちだな。確か梯子があったはずだ」
そう言ってもう少し詳しい場所を説明し、アルはじゃあな、と今度こそ砦の闇に溶けていった。一見隙だらけで、その実臨戦態勢のゆるぎない足取りで。
それを、ランディはじっと見送る。しかしそれは、アルの強さに向けられた視線では無い。
彼は最初から1人だったのだろうか。ふと、そんな事を考えたのだ。最初から1人だったから、あれほどまでに強いのか、と。もしそうだとすれば、彼は寂しい人間だ。そして、もしそうでないのなら、彼は悲しい人間だ。
「……俺は、そうはならない」
ランディは、1人、呟いた。
じゅぷり、と再び熱いモノが中に入ってきた。それがもたらす快楽に、エルナは自由のきく範囲で思い切り体を仰け反らせる。
エルナは四肢を鎖によって拘束され、体中の至る所に快楽を増幅させる文様を彫られていた。薄紫に輝くそれは、薄暗い地下牢の中でエルナを妖しく装飾する。
鎖で吊られた手は、動かすたびに鎖特有の音を響かせ、その存在をアピールする。鎖の長さが足りないため、手が頭と同じ高さにあり、まるで軽く手を上げているようだ。エルナはあたかも自ら相手を誘惑するような、挑発的なポーズを強制的に取らされていた。
それが手だけならばまだ少しはマシなのだが、足も極端に短い鎖によって縛られ、足をM字に開かされたまま動かすことすらできない。
その状態で犯されてもなお、彼女の緑の瞳は半ば以上快楽に支配されつつも、未だに理性の光を灯していた。だが、快楽に歪んだ口元からは嬌声と共に唾液が零れ続ける。胸元まで糸を引いて滴るそれは、体を伝って、下の口から漏れる唾液と混じりあう。
「……ぇあっ、あっぅうぅ………」
エルナに快楽を与えるのは、自らの尻尾を彼女の秘所にあてがう1人のサキュバス。彼女は妖艶な笑みを浮かべてエルナを犯す。その美貌は、エルナの文様が放つ光に照らされて、壮絶なものに見えた。
「どう……? もう素直になっちゃえば………?」
そう言いながら、エルナのやや未発達な胸に指を這わせる。その刺激も、文様の輝きでエルナを責める快楽と化す。
サキュバスは、エルナの唾液が絡みついた白い指を、淫靡な音と共に口に含んだ。
「ひぃ、ああぁっ……あうっ……」
エルナは、もう半日もこうして犯され続けている。しかし、未だレッサ―サキュバスになる様子はなく、それは何よりも彼女が抵抗している証だった。
「そうすれば、君の大好きな彼と、ずっと一緒に居られるよ……?」
その言葉が終ると同時に、少しだけ強く尻尾を動かす。彼女のもっとも脆い部分に当たるように。エルナの瞳が、わずかに怯えるように見開かれた。
途端、今までとは比べ物にならない快楽がエルナを襲う。手足の鎖を限界まで引っ張り、体を仰け反らせる。
「ああああぁぁあぁぁあああぁッッ!!」
びくびくと腰がふるえ、その熱くたぎった火処からは大量の蜜があふれだす。それは彼女の内股だけでなく、向かいのサキュバスも容赦なくべとべとにした。
「きゃっ」
と声を上げ、外見に似合った可愛らしい動作で顔を庇う。そして、一拍おいて我に返り、薄く微笑んだ。
「なぁんだ……ちゃんと感じてるじゃない」
処理しきれない快楽ゆえか、ぼやけた視界の中で、エルナは見た。
向かいのサキュバスが、ほんのり頬を染め、それ以上に妖艶に、壮絶に、微笑むのを。
そして、感じた。
理性や倫理など、くだらないものを全て吹き飛ばす、人が感じ得る最上級の快感を。
誰かの叫び声が聞こえてきた。
長い長い廊下。左右には頑丈そうな鉄格子がいくつも並び、その中には手足を拘束するための鎖が見える。そして、その隣にはあまり用途を想像したくない道具たちがずらりとならんでいた。
叫び声が聞こえたのは進行方向のかなり奥。上よりさらに燭台が少ないので、もはやほとんど視覚は当てにならないほど暗い。だが、一面真っ暗な中、一ヶ所だけ明るい場所があった。
おそらく、この長い廊下の突き当たり。そして、叫び声の聞こえた場所。それを確認すると、ランディは走り始めた。もはや、足音など気にもならない。
「エルナーーーッ!!」
走りながら叫ぶ。みるみる近づいてきた光に、少しまぶしさを感じる。
どうやら、そこも牢屋のようだ。ただ、牢の戸が開いており、中には誰かが居る。
「エルナ、大丈―――」
最後まで言えなかった。そこで見たものが、あまりにもショックすぎて。
「あらあら、彼のお出ましかしら」
その牢の中では、2人の女が、吐く息も荒く交わっていた。
その内の一人、夜色の髪と同色の翼を持つ女が、こちらを見てそう言う。それでも、相手の女を責めるその手の動きは全く衰えない。その扇情的な服装とこの牢獄の薄暗さは、彼女に得体の知れない魅力と凄みを与えていた。
そして、もう一人の深い緑色の瞳を持つ少女は、元纏っていた衣服の切れ端を身にまとい、紫に輝く文様を浮かべた四肢を拘束されて体を快楽に震わせていた。その火処に差し込まれたサキュバスの手が動くのに合わせて、エルナの体もまた動く。
エルナの顔は心底幸せそうで、それでいて苦悩に歪んでいるようでもあった。ただ、彼女の体の方はもうすっかり正直になってしまっているようだ。
だが、ランディは諦めない。すぐに硬直から抜け出し、構えていた剣を気合いと共に突き出す。
「まあ、せっかくの楽しみの邪魔をするなんて。無粋な殿方ねぇ」
精神が乱れに乱れても、幾度も幾度も繰り返し放った剣はまっすぐ進む。十分すぎる鋭さを持って繰り出された突きに、サキュバスは咄嗟に跳び退った。その際に少々乱暴に手を抜いたようで、エルナが一層激しい喘ぎ声を上げた。
だが、背後は壁。そして、牢からの出口はランディが塞いでいる。サキュバスは軽口を叩いたが、彼女はいささか不利な条件下にあった。
「ほざくな。今滅してやる」
対するランディの声音は、隠しきれない怒りが籠っている。それでも決して敵と目を合わせず、魔眼もしっかり警戒している。それにサキュバスはチッ、と舌打ちをした。
相手に詠唱の時間を与えるつもりなど端から無く、ランディはいきなり袈裟がけに斬りつけた。そして、そこから身を捻っての横なぎに繋げる。
横目で確認すれば、エルナは四肢を拘束されたままぐったりとしている。その姿は、ランディの心に焦燥感を植え付けた。
「くっ………流石に強いわね……」
狭い空間で飛ぶことも出来ず、呪文を放つための詠唱時間すら稼げない。その上背後は壁。そんな圧倒的不利な状況で、流石のサキュバスも表情に焦りが見える。
なんとか手に纏わせた魔力で剣を弾き、反撃の機会を窺うものの、ランディに隙は全くない。魔法さえ使われなければ、格闘戦では自分に分があることを知っているのだ。
次第に、サキュバスは追い詰められていった。対して、ランディの剣は石を削ることも無く静かに振るわれる。
そして、ついにランディの剣が敵を捉える。剣先はサキュバスの柔らかな脇腹を浅く裂き、ぱっと赤い血が散った。サキュバスの顔が、一瞬だけ苦痛に歪む。
「――とどめだ!」
極至近距離の中、ランディはさらに踏みこみをかける。もはや、ほぼ密着状態で、互いの吐息の音さえ聞きとれそうな距離。
そこから、腰だめに構えた剣を突き出そうとした瞬間――
サキュバスの体が、一瞬で靄のような闇となって消えた。その純粋な漆黒は、周りにあるたくさんの燭台の光すら飲み込み、あたりを一瞬だけ暗くする。
貫くべき対象を失って刃が空を切ったのと、敵が闇となって消えたのはほとんど同時で、あと一瞬でも彼女がもたつけば、勝敗は決していただろう。
「………逃げられた、か……」
ランディはそう言って、剣を鞘におさめた。血のついた剣をそのまま鞘に納めると、後で大変なことになってしまうのだが、彼にはそれよりも大切な事があった。
戦闘中に少し動いていたようで、エルナとの距離は二歩分ほど開いていたが、エルナはまだそこに居た。ランディが近づくと、びくっと体を震わせる。
「……大丈夫だ。俺だよ、ランディだ」
「………ディー?」
ああ、と声をかけると、エルナはかぁっと頬を染めて顔を背け、震える声で言った。
「ご、ごめんね……。ボク、あ、あんな事………」
エルナの顔は中性的で、体つきの方も服を着ていれば男と間違われることもある。だが、改めてこうして見ると、艶めかしくこちらを誘っているように見えた。
「謝るのは俺の方だ。もっと早く助けに来られなくて……」
そう言いながら、ランディは一度納めた剣をもう一度抜いて、エルナを拘束する鎖を全て断ち切った。
甲高い音と共に、金臭い香りが一瞬だけ鼻をかすめる。
「……ボクは置いて行って」
紫色の文様を刻まれた四肢を、冷たい床に横たえたエルナが、ぽつりとそんなことを言った。
やがて、ゆっくりと上体を起こし、両手を開いてこちらを見つめる。その姿は、何かを迎え入れるようだった。
「……ねぇ、見てよ。ボクを見て」
「…………」
「こんなに汚れたボクと一緒に居たら、ディーまで汚しちゃう」
そう言ったエルナの顔は、わずかに微笑んでいた。だが、目元に浮かんだ涙が燭台の光を反射して、その嘘を白日の元に晒す。
ランディはそれに何も言わず、黙ってエルナを見つめる。
「こうしてる今だって、実は必死で我慢してるんだよ。次の瞬間にも、ボクはディーに襲いかかるかもしれないから………」
だから、とエルナは続ける。ボクを君の手で殺して、と。
その言葉に、ランディの手に持った剣がわずかに震える。そして、噛み砕かんばかりに奥歯を食いしばった。
そして、刹那、風を切る音も立てずに剣をエルナの首めがけて斬り放った。
だが、その刃は残すところ数ミリ、という位置で止まる。それでもエルナは微動だにしない。
「俺が欲しいのなら、いつでもくれてやる。だが――」
――その時は、俺もお前を貰う。エルナにはそう聞こえた。
そして、その返事はもちろん――
「………うん!」
ナンブ砦攻略戦から、2人組の傭兵、ランディとエルナの足跡はぱったりと途絶える。任務受理記録でなんとか後を追うことが出来るが、それでも分かっているのは、彼らがその後2度の大規模な戦いを経て、ランクを“アドバンスド”に上げたことくらいである。
世界で7人目と8人目の“アドバンスド”は、その後も派手な活躍をすることは無く、だが各地で彼らと思しき伝承を残していっている。その全てに共通するのは、“誰かのための戦い”だということだ。
人間から迫害を受ける魔物や、強大な魔物に脅かされる人々。それらに自らの価値観を持って立ち向かい、ことごとくを打倒している。報酬すら満足に貰えないであろう戦いにも身を投じ、それが“誰か”のためになると信じて。
もしかしたら彼らは、あの戦いから5年が過ぎた今でも、どこかで人知れず、誰かのために戦っているのかもしれない………。
「なぁ、エルナ」
「ん?どうしたの?怪我でもした?」
「いや……、前、思ったことがあるんだ。
どうして、強い人たちはもっと沢山戦争に出て、戦わないんだろうって」
「ああ……」
「でも、俺もその“強さ”ってヤツを得て、分かった」
「……ボクも、何となくだけど分かるよ」
「強くなる度に、この剣は重くなるんだ。どんどん重くなって、最後には簡単に振るえなくなる」
「強すぎるから、それで、何かを変えてしまえるから……?」
「ああ。贅沢な話だとは思うけどな」
「でも、ディーは間違えてなんかない。正しい事をしているよ」
「“正義の味方”だからな。さて、そろそろ行くかエルナ!」
「そうだね。次はどこに行こうか?」
「そうだなぁ、次は――」
そんな楽しげな声が響くのは、とある山賊が使っていたアジト。だが、今そこに立っているのはたった二人だ。残りの人間は、例外なく床に倒れ、手か足から血を流して気絶している。
立っている人影のうちの1つも、頭から角を生やし、漆黒の翼と尻尾を持っている。豊満な体つきをしているが、上からぶかぶかのローブを着ており、その中性的な顔立ちも相まって一見すると少年のようにも見える。
その緑の瞳が見つめる先には、もうすたすたと歩き出してしまっている男の姿がある。
「待ってよ〜、ディー」
「ははは、急げ急げ。誰かが助けを待ってるぞ!」
先ほどは揶揄するように自らを称した彼だが、統治が満足に行き届いていない街や村には、ある伝説のようなものがある。
そのような場所には、必ずとある2人組が現れ、わずかな報酬で、場合によっては無報酬で問題を解決していく。というものだ。話だけを聞けばおとぎ話以下のストーリーだが、実際に彼らが訪れた街の者は、彼らをこう呼ぶ。
“正義の味方”と。
11/03/04 14:18更新 / 湖