絶対の姫君
魔界の奥地、特に魔力の強い土地に広がる広大な森。
そこはいつでも薄暗く、そのくせ不気味な光を纏うかのような、形も大きさも不揃いの木々が生い茂る森。
それは、生あるものを拒絶するかのような閨と。見る者を惹きつける、妖しい光の同居する場所だった。
ある者はそれを見て言うだろう。それは禁制の聖域だと。
またある者は、こう言うだろう。それは人狩りの森だと。
そして、だからこそ。
そこは絶えず人の好奇心をかりたてつつ、手つかずの森として残るのだろうか。
それとも。
それを守る何者かが、人の支配を拒むのだろうか………
昼間でも暗い森の中を、何やら言葉を交わしながら進む二つの人影があった。
1人は、腰まで届く、暗い森の中でも妖しい艶を放つ黒髪を持つ女性。その漆黒の髪からは同色の耳が飛び出し、その者が人ならざる者であることを周りに伝えている。身に着けるのは黒い旅装で、その手足は獣のそれだ。腰には質素な剣を吊っている。
もう1人は、灰色の髪を持つ年若い男。やや擦り切れた、頑丈でしなやかな生地で作られたコートを纏っている。特異な外見を持つわけでは無いが、何故が男の周りだけは風が澄んでいた。背中には大振りの剣を背負っている。
そして、この2人が何の話をしているのかというと……
「だいたいな、君が魔界を見たいと言ったからこうしてここに来ているんだぞ?」
「いや、リィリの故郷が見てみたいな、と思って」
「私の故郷はあのピラミ……大きな建物だ! 砂漠にあった!」
「いや、でも人生経験だよ。魔界も見学しといた方が良いって」
「何が良いのかさっぱり分からん!」
ずっとこんな調子で言い合っていた。誰もいない森の中なので、音量も全く自重しない。足場も頭上も悪い、入り組んだ森の中を苦も無くすいすい歩きながら、2人は口論を続ける。
目の前に突き出た枝をくぐりつつ、リィリが、
「まったく……。そもそもここは触手の森と言ってだな………」
それに対して、足元にぽっかりと口を開けた穴を飛び越えた男が、
「ふむ。なんだそれ?」
すると、リィリは呆れた顔で男を見やる。もっとも、それは森の生み出す闇に飲まれて相手には届かなかったようだが。
その暗闇の中、よそ見をした状態で、リィリは節くれだった根っこをまたぐ。
「そんなことも知らないで魔界に来たのか?」
男は即座に答える。暗闇の中、連れのアヌビスが居るであろう方向を向いて、
「ああ」
あまりにも簡潔な返事。リィリは連れの能天気さに頭痛を覚える。大きくため息をついて、毛に覆われた獣の手を額に当てた。肉球がぷにぷにと額に柔らかい感触を伝える。
「よく分かった……君は自殺志願者だったんだな……」
「む、心外だな。僕はこう見えても色々考えているぞ?」
男が言葉とは裏腹に、薄く笑って言った。その顔のまま、とげの付いた植物に触れないようにすいすい避ける。
「ほう。例えば何についてだ?」
リィリが聞き返すと、男は、
「リィリがなかなか素直にならないな、とか。僕にまだ一度も好きって言ってくれないな、とか。夜はおろか唇すら許してくれないな、とか。リィリが――」
「ちょっと待て!!」
リィリが、放っておくといつまでも続きそうだった男の言葉を遮る。そのまま身をかがめ、丁度リィリの顔に当たるはずだった枝を回避した。
よく見ると、リィリの頬はほんのりと赤く染まっているのだが、あいにくの暗闇で男にはそれが分からなかったようだ。今までと同じトーンで、ほら、考えてるだろ?と言った。
「はぁ………。ゼノン……君というヤツは……」
リィリが先ほどよりも深いため息を吐いた。そして、顔をすっとずらして枝を避けた。しかし避けきれずに、ペシリと顔に当たって、
「イテ」
森の中心部。禍々しい外見に反して、やわらかな日差しの差し込む、木々のまばらな場所。
やがて濁流へと変わるせせらぎが木を避けるようにして流れ、その中を成長すれば人をも襲う凶暴な魚へと変わる稚魚たちが群れをなして泳ぐ。
その広場だけは柔らかな芝生が地面を覆い、蝶も舞っている。まるで貴族の屋敷の中にある中庭のようだ。
そして、この広場の主はその身を触手に預け、未だに深い眠りの中にあった。その白い四肢は、太い肉塊のような触手に幾重にも巻かれ、まるで空中に磔にされているようにも見える。
その、人形のように整った顔は、本来ならば深く澄んだ湖のような青色の瞳を閉じ、静かな表情を浮かべている。呼吸のために微かに動く口元が見えなければ、まるで死んでいるようにも見える。
しばらく、深い眠りに囚われ身動き一つしない少女と、それを抱いて同じく樹のように動かない触手は、完全に背景に同化していた。あまりにも日常に組み込まれたその景色は、その光景が異常だということすら一瞬忘れさせる。
だが、約束された安息は、偶然によって破られた。
「もうそろそろ中心部だ。気を抜くなよ」
唐突に聞こえてきた、若い女性の声。少し硬質な印象を与えるアルトの声は、空気の澄んだ森の中にはよく通った。
その瞬間、森の中には張り詰めた気配が充満する。眠り姫を起こさないよう慎重に、だが一定の速度を保って数本の触手が宙に放たれる。一方の少女を抱く触手も少しだけ高さを増やし、剣だろうが槍だろうが届かない位置に保持しなおした。
そして、かつて声が聞こえてきて、今は足音が聞こえてくる方向を触手は激しく警戒する。そうとも知らず、足音はどんどん大きくなっていく。
その音が最大になった瞬間、必然と偶然に導かれ、両者はまみえた。
光の差し込む方向へ歩くと、その先が広場とも呼べる場所になっていることが分かった。リィリはとりあえずそこを目指して歩く。木々の間を縫って差し込む陽光のおかげで、互いの顔もある程度見えてくる。
「もうそろそろ中心部だ。気を抜くなよ」
そちらを見ずに、リィリは注意を促す。隣で、灰髪の男が剣の位置を直す音が聞こえてくる。
魔界の触手には、森の入口付近ではあえて獲物を襲わず、森の中心部付近まで入り込んだ獲物を包囲するように襲う種もあるという。リィリの注意はそういう意味だった。
ゼノンは、リィリの知識や経験といったものを尊敬している。そのおかげで少なからず危険な局面を脱しているのもあり、リィリの忠告には耳を貸すようにしている。だから、今回も今までの緩んだ空気を即座に消し、剣をすぐ抜ける姿勢を整えた。
「了解」
ゼノンがそう答える頃には、リィリも銀の短剣を右手に構え、琥珀色の瞳で森の奥を見つめる。あいにく視界には何も捉えられないが、緊張だけは維持し続ける。
そのまま、速度を緩めず藪をかき分け、光の溢れる中庭に飛び込む。木の葉を散らし、歩みを進めた広場の中には、
「なっ……!?」「お……?」
少女を複数の触手で磔にし、なお余る他の触手で臨戦態勢を整える“敵”の姿があった。
そのまま、2人に息をつく暇も与えず空中にあった触手が襲いかかってくる。ノーモーションで放たれた触手による突きは、ゼノンとリィリの間の地面を深く抉った。芝がめくれ、土が飛び散る。
吹き飛んだ土が、再び地面に落ちた頃には、既に2人の姿は無い。ゼノンは瞬時に抜いた剣を身の後ろに構え走り出し、リィリは逆に一歩下がって術を紡いでいた。
ゼノンが大きく横なぎに剣を振るい、数本の触手を牽制する。牽制できた触手はせいぜい4本ほどだが、残りの触手も咄嗟には動けない。ゼノンが剣を構えなおす有るか無きかの隙は、リィリが投擲した銀の短剣によって埋められ、ゼノンは再び動き出す。
ゼノンが前線で敵を翻弄している間に、リィリは術を紡ぎ終わろうといた。
「示すは指運! 放つは声詠! 鋭き剣よ!」
言い終わると同時に、肉球のついた黒い手を素早く触手に向ける。その手に、複雑な立体魔法陣が絡みつく。
雷光と共に、その魔法陣から光の剣が生えてくる。切っ先をぴたりとリィリの指先と同じ方向に向けた状態で。やがて完全に顕現した剣は、指示を待つかの様に宙に佇む。
「――貫け」
瞬間、剣は消えた。たとえこの景色を見ていた者がいたとて、そう思っただろう。だが実際は、空を切り裂いて指運の指す方向へ突き進んだだけだ。
光の剣は、前線で陽動を続けるゼノンの肩を掠め、見事に触手に突き刺さった。貫通した部分から、どす黒い液体が飛ぶ。
その衝撃で、直撃を受けていない触手まで震えた。一瞬だけ、少女の拘束が緩む。
ゼノンが地面を蹴る。最初から打ち合わせでもしてあったかのような、見事なタイミングで。そのまま空中で邪魔な触手をこじ開け、少女を奪い取る。先ほどの衝撃で目が覚めていたのか、片手で抱いた少女と目が合い、
「きゃぁああああぁぁああぁっ!!?」
思いっきり叫ばれた。
柔らかな光がやや強さを増す、よく晴れた昼下がり。ゼノンとリィリは芝生に腰をおろし、アリスと名乗った少女はすっかり警戒を解いて、2人にじゃれついていた。先ほどまで2人と激闘を演じた触手は、傷ついた一本をのぞいて全て地中に引っ込んでしまった。
先ほどの戦闘はアリスが間に入った事ですぐさま終結し、互いの誤解の産物だったことが明らかとなった。
「だからね、アリスは8ねんくらいまえからここにいるんだよ〜」
にこにこしながらゼノンにそんなことを言ったアリスは、いつからここにいるのか? という2人の問いに答えていた。しゃべりつつ、その輝く金髪を揺らしてゼノンの剣を物珍しそうに眺めている。
彼女が語るところによれば、彼女は8年ほど前からこの森に居て、それより前の記憶などは無いという。だが、それよりも2人の興味を引いたのは、彼女の種族だった。
髪をかき分けて生える角や背から生える翼を見れば、サキュバス種であることは容易に想像できる。だが、その少女のような外見や、純粋さはただのサキュバスではないことを2人に知らせていた。
「ふむ。興味深いな………」
少女がルシと呼んだ触手の傷を癒し終えたリィリが、少女に向き直ってつぶやく。その脇では、傷が完治したルシがふよふよと宙をさまよっている。
「だが……どうやら間違いなさそうだ」
そう言って、リィリは1人うなずいた。だが、ゼノンもアリスも楽しそうに遊んでおり、誰もそれに気がつく者は居ない。
今も、ゼノンが刀身に触れようとしたアリスの手を優しく止め、その代わりに剣を持ち上げてよく見えるようにしてあげている。アリスは目を輝かせて銀色に光る刀身に見入っている。
「なるほど。これほど都合のいい相手もなし……か。――ゼノン」
急に名前を呼ばれ、ゼノンは首だけで振りかえった。アリスは相変わらず剣を眺めている。
「ん? どうした?」
「そろそろ森を出るぞ。この森で一泊は止めておきたい」
どうやらルシは滞在を認めてくれたようだし、アリスには懐かれたようだが、この森の触手が一枚岩だとは限らない。それに、リィリはあまり魔に属する者の自制心を信じてはいなかった。
所詮、本能に圧し負ければそんなものは意味をなさないからだ。
「えー、せっかく仲良くなったのに〜」
だが、案の定ゼノンは唇を尖らせて返事をした。ゼノンもこの場所が気にいったようだ。だが、リィリは譲らない。
「あのな。君は男だからいいかもしれないが、私はこう見えても女なんだ」
「それが?」
「私が触手に犯される様を見たいのか?」
そこで、ゼノンははたと動きを止め、少し考える素振りを見せた。リィリの頬にかっと朱がさす。
「そこで考えるなっ!!」
思わず叫んだリィリに、その叫び声を聞いて驚いたアリスを優しく抱きながらゼノンが言った。その口調はどこかおどけていて、まるで子供の悪ふざけのようだ。
「あー、びっくりさせちゃ駄目なんだよ〜」
「……元はと言えば君が悪い」
「俺はなにも邪なことを考えたんじゃないよ?」
そう言ったゼノンを、リィリは半眼で眺める。ゼノンはわざとらしく目をそらし、再びアリスと遊び始めた。今度は剣を鞘に納めたり出したりしている。
ぱちん、しゅりん、ぱちん、しゅりん――と、剣が納まる音と鞘ばしる音がかわるがわる聞こえ、森の中に虚しく響く。
それでもずっとゼノンをにらみ続けるリィリに、とうとう根負けして、
「すみませんちょっと考えましたすみません」
地面に手をついて謝った。そして、自分の剣を出しいれしている少女に向き直り、優しく声をかける。
「ゴメンね、俺たちはもう行かなきゃいけない」
だが、そう言われたアリスは、大きな碧眼を潤ませて、
「…………」
ものすごく悲しそうな顔をした。もう一言なにかお別れを言えば、今はぎりぎり瞳を潤ませるだけの涙が零れおちるのは必至である。そんな、男性キラーな表情を浮かべたアリスの顔を直視してしまったゼノンは数秒固まって、
「いややっぱり君を置いて行くなんてことを出来るわけないようんもっと遊んでいよう」
とは言えずに、
「………ゴメン」
顔を伏せてそう言った。途端にアリスの青い瞳からは大粒の涙が零れ、特徴的なデザインのドレスに吸い込まれる。
それでも、アリスは気丈にゼノンを見つめたままで、涙も拭かずに問う。
「また…来てくれる……?」
その問いには、顔を伏せたままのゼノンではなく、リィリが答える。
「ああ。必ずまた来よう。約束する」
「……ありがとう」
そう言って、アリスは笑った。上手く笑えずに、泣き笑いの表情になってしまったけれど、アリスは笑った。
「“誰かを見送る時は、笑顔で”か。素直な、良い子だな……」
誰にも聞こえないように、小声でそうつぶやいたリィリは、呟きながらアリスに背を向ける。ゼノンも、剣を背中に戻してリィリにならう。
そして、振り向かずに暗い森の中に足を踏み入れる。と、丁度ゼノンが森に消え、リィリが足を踏み入れかけたその時。
「――黙っていてくれて、ありがとう。墓守の黒犬さん」
耳元でささやかれたような、艶っぽい女の声。
リィリははっと振り向くが、そこに居るのはこちらに手を振る人形のように整った顔だちを持つ、魔物の少女だけ。彼女は泣き笑いの表情のまま、こちらに手を振り続けている。
だが、リィリはふっと表情を緩めた。
「――どういたしまして。絶対の姫君」
それだけ言って、リィリは森へ足を踏み入れた。
そこはいつでも薄暗く、そのくせ不気味な光を纏うかのような、形も大きさも不揃いの木々が生い茂る森。
それは、生あるものを拒絶するかのような閨と。見る者を惹きつける、妖しい光の同居する場所だった。
ある者はそれを見て言うだろう。それは禁制の聖域だと。
またある者は、こう言うだろう。それは人狩りの森だと。
そして、だからこそ。
そこは絶えず人の好奇心をかりたてつつ、手つかずの森として残るのだろうか。
それとも。
それを守る何者かが、人の支配を拒むのだろうか………
昼間でも暗い森の中を、何やら言葉を交わしながら進む二つの人影があった。
1人は、腰まで届く、暗い森の中でも妖しい艶を放つ黒髪を持つ女性。その漆黒の髪からは同色の耳が飛び出し、その者が人ならざる者であることを周りに伝えている。身に着けるのは黒い旅装で、その手足は獣のそれだ。腰には質素な剣を吊っている。
もう1人は、灰色の髪を持つ年若い男。やや擦り切れた、頑丈でしなやかな生地で作られたコートを纏っている。特異な外見を持つわけでは無いが、何故が男の周りだけは風が澄んでいた。背中には大振りの剣を背負っている。
そして、この2人が何の話をしているのかというと……
「だいたいな、君が魔界を見たいと言ったからこうしてここに来ているんだぞ?」
「いや、リィリの故郷が見てみたいな、と思って」
「私の故郷はあのピラミ……大きな建物だ! 砂漠にあった!」
「いや、でも人生経験だよ。魔界も見学しといた方が良いって」
「何が良いのかさっぱり分からん!」
ずっとこんな調子で言い合っていた。誰もいない森の中なので、音量も全く自重しない。足場も頭上も悪い、入り組んだ森の中を苦も無くすいすい歩きながら、2人は口論を続ける。
目の前に突き出た枝をくぐりつつ、リィリが、
「まったく……。そもそもここは触手の森と言ってだな………」
それに対して、足元にぽっかりと口を開けた穴を飛び越えた男が、
「ふむ。なんだそれ?」
すると、リィリは呆れた顔で男を見やる。もっとも、それは森の生み出す闇に飲まれて相手には届かなかったようだが。
その暗闇の中、よそ見をした状態で、リィリは節くれだった根っこをまたぐ。
「そんなことも知らないで魔界に来たのか?」
男は即座に答える。暗闇の中、連れのアヌビスが居るであろう方向を向いて、
「ああ」
あまりにも簡潔な返事。リィリは連れの能天気さに頭痛を覚える。大きくため息をついて、毛に覆われた獣の手を額に当てた。肉球がぷにぷにと額に柔らかい感触を伝える。
「よく分かった……君は自殺志願者だったんだな……」
「む、心外だな。僕はこう見えても色々考えているぞ?」
男が言葉とは裏腹に、薄く笑って言った。その顔のまま、とげの付いた植物に触れないようにすいすい避ける。
「ほう。例えば何についてだ?」
リィリが聞き返すと、男は、
「リィリがなかなか素直にならないな、とか。僕にまだ一度も好きって言ってくれないな、とか。夜はおろか唇すら許してくれないな、とか。リィリが――」
「ちょっと待て!!」
リィリが、放っておくといつまでも続きそうだった男の言葉を遮る。そのまま身をかがめ、丁度リィリの顔に当たるはずだった枝を回避した。
よく見ると、リィリの頬はほんのりと赤く染まっているのだが、あいにくの暗闇で男にはそれが分からなかったようだ。今までと同じトーンで、ほら、考えてるだろ?と言った。
「はぁ………。ゼノン……君というヤツは……」
リィリが先ほどよりも深いため息を吐いた。そして、顔をすっとずらして枝を避けた。しかし避けきれずに、ペシリと顔に当たって、
「イテ」
森の中心部。禍々しい外見に反して、やわらかな日差しの差し込む、木々のまばらな場所。
やがて濁流へと変わるせせらぎが木を避けるようにして流れ、その中を成長すれば人をも襲う凶暴な魚へと変わる稚魚たちが群れをなして泳ぐ。
その広場だけは柔らかな芝生が地面を覆い、蝶も舞っている。まるで貴族の屋敷の中にある中庭のようだ。
そして、この広場の主はその身を触手に預け、未だに深い眠りの中にあった。その白い四肢は、太い肉塊のような触手に幾重にも巻かれ、まるで空中に磔にされているようにも見える。
その、人形のように整った顔は、本来ならば深く澄んだ湖のような青色の瞳を閉じ、静かな表情を浮かべている。呼吸のために微かに動く口元が見えなければ、まるで死んでいるようにも見える。
しばらく、深い眠りに囚われ身動き一つしない少女と、それを抱いて同じく樹のように動かない触手は、完全に背景に同化していた。あまりにも日常に組み込まれたその景色は、その光景が異常だということすら一瞬忘れさせる。
だが、約束された安息は、偶然によって破られた。
「もうそろそろ中心部だ。気を抜くなよ」
唐突に聞こえてきた、若い女性の声。少し硬質な印象を与えるアルトの声は、空気の澄んだ森の中にはよく通った。
その瞬間、森の中には張り詰めた気配が充満する。眠り姫を起こさないよう慎重に、だが一定の速度を保って数本の触手が宙に放たれる。一方の少女を抱く触手も少しだけ高さを増やし、剣だろうが槍だろうが届かない位置に保持しなおした。
そして、かつて声が聞こえてきて、今は足音が聞こえてくる方向を触手は激しく警戒する。そうとも知らず、足音はどんどん大きくなっていく。
その音が最大になった瞬間、必然と偶然に導かれ、両者はまみえた。
光の差し込む方向へ歩くと、その先が広場とも呼べる場所になっていることが分かった。リィリはとりあえずそこを目指して歩く。木々の間を縫って差し込む陽光のおかげで、互いの顔もある程度見えてくる。
「もうそろそろ中心部だ。気を抜くなよ」
そちらを見ずに、リィリは注意を促す。隣で、灰髪の男が剣の位置を直す音が聞こえてくる。
魔界の触手には、森の入口付近ではあえて獲物を襲わず、森の中心部付近まで入り込んだ獲物を包囲するように襲う種もあるという。リィリの注意はそういう意味だった。
ゼノンは、リィリの知識や経験といったものを尊敬している。そのおかげで少なからず危険な局面を脱しているのもあり、リィリの忠告には耳を貸すようにしている。だから、今回も今までの緩んだ空気を即座に消し、剣をすぐ抜ける姿勢を整えた。
「了解」
ゼノンがそう答える頃には、リィリも銀の短剣を右手に構え、琥珀色の瞳で森の奥を見つめる。あいにく視界には何も捉えられないが、緊張だけは維持し続ける。
そのまま、速度を緩めず藪をかき分け、光の溢れる中庭に飛び込む。木の葉を散らし、歩みを進めた広場の中には、
「なっ……!?」「お……?」
少女を複数の触手で磔にし、なお余る他の触手で臨戦態勢を整える“敵”の姿があった。
そのまま、2人に息をつく暇も与えず空中にあった触手が襲いかかってくる。ノーモーションで放たれた触手による突きは、ゼノンとリィリの間の地面を深く抉った。芝がめくれ、土が飛び散る。
吹き飛んだ土が、再び地面に落ちた頃には、既に2人の姿は無い。ゼノンは瞬時に抜いた剣を身の後ろに構え走り出し、リィリは逆に一歩下がって術を紡いでいた。
ゼノンが大きく横なぎに剣を振るい、数本の触手を牽制する。牽制できた触手はせいぜい4本ほどだが、残りの触手も咄嗟には動けない。ゼノンが剣を構えなおす有るか無きかの隙は、リィリが投擲した銀の短剣によって埋められ、ゼノンは再び動き出す。
ゼノンが前線で敵を翻弄している間に、リィリは術を紡ぎ終わろうといた。
「示すは指運! 放つは声詠! 鋭き剣よ!」
言い終わると同時に、肉球のついた黒い手を素早く触手に向ける。その手に、複雑な立体魔法陣が絡みつく。
雷光と共に、その魔法陣から光の剣が生えてくる。切っ先をぴたりとリィリの指先と同じ方向に向けた状態で。やがて完全に顕現した剣は、指示を待つかの様に宙に佇む。
「――貫け」
瞬間、剣は消えた。たとえこの景色を見ていた者がいたとて、そう思っただろう。だが実際は、空を切り裂いて指運の指す方向へ突き進んだだけだ。
光の剣は、前線で陽動を続けるゼノンの肩を掠め、見事に触手に突き刺さった。貫通した部分から、どす黒い液体が飛ぶ。
その衝撃で、直撃を受けていない触手まで震えた。一瞬だけ、少女の拘束が緩む。
ゼノンが地面を蹴る。最初から打ち合わせでもしてあったかのような、見事なタイミングで。そのまま空中で邪魔な触手をこじ開け、少女を奪い取る。先ほどの衝撃で目が覚めていたのか、片手で抱いた少女と目が合い、
「きゃぁああああぁぁああぁっ!!?」
思いっきり叫ばれた。
柔らかな光がやや強さを増す、よく晴れた昼下がり。ゼノンとリィリは芝生に腰をおろし、アリスと名乗った少女はすっかり警戒を解いて、2人にじゃれついていた。先ほどまで2人と激闘を演じた触手は、傷ついた一本をのぞいて全て地中に引っ込んでしまった。
先ほどの戦闘はアリスが間に入った事ですぐさま終結し、互いの誤解の産物だったことが明らかとなった。
「だからね、アリスは8ねんくらいまえからここにいるんだよ〜」
にこにこしながらゼノンにそんなことを言ったアリスは、いつからここにいるのか? という2人の問いに答えていた。しゃべりつつ、その輝く金髪を揺らしてゼノンの剣を物珍しそうに眺めている。
彼女が語るところによれば、彼女は8年ほど前からこの森に居て、それより前の記憶などは無いという。だが、それよりも2人の興味を引いたのは、彼女の種族だった。
髪をかき分けて生える角や背から生える翼を見れば、サキュバス種であることは容易に想像できる。だが、その少女のような外見や、純粋さはただのサキュバスではないことを2人に知らせていた。
「ふむ。興味深いな………」
少女がルシと呼んだ触手の傷を癒し終えたリィリが、少女に向き直ってつぶやく。その脇では、傷が完治したルシがふよふよと宙をさまよっている。
「だが……どうやら間違いなさそうだ」
そう言って、リィリは1人うなずいた。だが、ゼノンもアリスも楽しそうに遊んでおり、誰もそれに気がつく者は居ない。
今も、ゼノンが刀身に触れようとしたアリスの手を優しく止め、その代わりに剣を持ち上げてよく見えるようにしてあげている。アリスは目を輝かせて銀色に光る刀身に見入っている。
「なるほど。これほど都合のいい相手もなし……か。――ゼノン」
急に名前を呼ばれ、ゼノンは首だけで振りかえった。アリスは相変わらず剣を眺めている。
「ん? どうした?」
「そろそろ森を出るぞ。この森で一泊は止めておきたい」
どうやらルシは滞在を認めてくれたようだし、アリスには懐かれたようだが、この森の触手が一枚岩だとは限らない。それに、リィリはあまり魔に属する者の自制心を信じてはいなかった。
所詮、本能に圧し負ければそんなものは意味をなさないからだ。
「えー、せっかく仲良くなったのに〜」
だが、案の定ゼノンは唇を尖らせて返事をした。ゼノンもこの場所が気にいったようだ。だが、リィリは譲らない。
「あのな。君は男だからいいかもしれないが、私はこう見えても女なんだ」
「それが?」
「私が触手に犯される様を見たいのか?」
そこで、ゼノンははたと動きを止め、少し考える素振りを見せた。リィリの頬にかっと朱がさす。
「そこで考えるなっ!!」
思わず叫んだリィリに、その叫び声を聞いて驚いたアリスを優しく抱きながらゼノンが言った。その口調はどこかおどけていて、まるで子供の悪ふざけのようだ。
「あー、びっくりさせちゃ駄目なんだよ〜」
「……元はと言えば君が悪い」
「俺はなにも邪なことを考えたんじゃないよ?」
そう言ったゼノンを、リィリは半眼で眺める。ゼノンはわざとらしく目をそらし、再びアリスと遊び始めた。今度は剣を鞘に納めたり出したりしている。
ぱちん、しゅりん、ぱちん、しゅりん――と、剣が納まる音と鞘ばしる音がかわるがわる聞こえ、森の中に虚しく響く。
それでもずっとゼノンをにらみ続けるリィリに、とうとう根負けして、
「すみませんちょっと考えましたすみません」
地面に手をついて謝った。そして、自分の剣を出しいれしている少女に向き直り、優しく声をかける。
「ゴメンね、俺たちはもう行かなきゃいけない」
だが、そう言われたアリスは、大きな碧眼を潤ませて、
「…………」
ものすごく悲しそうな顔をした。もう一言なにかお別れを言えば、今はぎりぎり瞳を潤ませるだけの涙が零れおちるのは必至である。そんな、男性キラーな表情を浮かべたアリスの顔を直視してしまったゼノンは数秒固まって、
「いややっぱり君を置いて行くなんてことを出来るわけないようんもっと遊んでいよう」
とは言えずに、
「………ゴメン」
顔を伏せてそう言った。途端にアリスの青い瞳からは大粒の涙が零れ、特徴的なデザインのドレスに吸い込まれる。
それでも、アリスは気丈にゼノンを見つめたままで、涙も拭かずに問う。
「また…来てくれる……?」
その問いには、顔を伏せたままのゼノンではなく、リィリが答える。
「ああ。必ずまた来よう。約束する」
「……ありがとう」
そう言って、アリスは笑った。上手く笑えずに、泣き笑いの表情になってしまったけれど、アリスは笑った。
「“誰かを見送る時は、笑顔で”か。素直な、良い子だな……」
誰にも聞こえないように、小声でそうつぶやいたリィリは、呟きながらアリスに背を向ける。ゼノンも、剣を背中に戻してリィリにならう。
そして、振り向かずに暗い森の中に足を踏み入れる。と、丁度ゼノンが森に消え、リィリが足を踏み入れかけたその時。
「――黙っていてくれて、ありがとう。墓守の黒犬さん」
耳元でささやかれたような、艶っぽい女の声。
リィリははっと振り向くが、そこに居るのはこちらに手を振る人形のように整った顔だちを持つ、魔物の少女だけ。彼女は泣き笑いの表情のまま、こちらに手を振り続けている。
だが、リィリはふっと表情を緩めた。
「――どういたしまして。絶対の姫君」
それだけ言って、リィリは森へ足を踏み入れた。
11/02/23 20:55更新 / 湖
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