触手の森のアリス(上)
魔界の奥地、特に魔力の強い土地に広がる広大な森。
そこはいつでも薄暗く、そのくせ不気味な光を纏うかのような、形も大きさも不揃いの木々が生い茂る森。
それは、生あるものを拒絶するかのような閨と。見る者を惹きつける、妖しい光の同居する場所だった。
ある者はそれを見て言うだろう。それは禁制の聖域だと。
またある者は、こう言うだろう。それは人狩りの森だと。
そして、だからこそ。
そこは絶えず人の好奇心をかりたてつつ、手つかずの森として残るのだろうか。
それとも。
それを守る何者かが、人の支配を拒むのだろうか………
森の中心部。禍々しい外見に反して、やわらかな日差しの差し込む、木々のまばらな場所。
やがて濁流へと変わるせせらぎが木を避けるようにして流れ、その中を成長すれば人をも襲う凶暴な魚へと変わる稚魚たちが群れをなして泳ぐ。
人間たちは、この森の中にこのような場所があるなど、思いもしないのだろう。そう思うと、彼女は少し可笑しくなり、小さく微笑む。
地面から生えた、ぬらぬらとした表面を持つ植物のツタのような物。彼女はそれに体を絡めとられていた。それらは自ら意思を持って動き、ぐるぐると彼女を包み込んでいる。
「あぅ……くすぐったいよぅ」
彼女がそうつぶやきながら、小さく体を震わせると、それに気が付いたかのように触手は動くのをやめた。
そう、触手だ。ここは触手の森。踏みこんだ者はたとえ魔物であろうと欲情した触手に襲われ、犯される魔性の森。
その最深部に、小さな少女たった一人。無論、本来なら辿りつけるはずもない。そして、今も襲われぬはずがない。なぜなら、彼女はすでに触手に捕まっているのだから。本来ならばとっくに穴という穴に触手を突っ込まれてもおかしくない状況である。
だが、少女は無邪気に笑う。そして、触手はそれを優しく抱く。まるで宝物でも扱うかのように。
「……ふぅ。そろそろおきるですよ」
少女は揺り籠の中で伸びをし、おおきくあくびをした。すると、またも触手は彼女の意思を汲んだようにするすると彼女を解放する。少女を地面に下ろす際も、落ちたりしないように優しく下ろしており、そこにも少女に対する気遣いが見え隠れする。
するりと地面に下ろされた少女は、その白い足を地面に着ける。そこにさわやかな風が駆け抜け、彼女の綺麗な黄金の髪を静かになびかせる。髪と同時に風にそよぐ白のワンピースのようなドレスは、あちこちにスリットや切り込みが入っており、彼女に対して大きめであるにも関わらず動きを阻害しない。その切り込みは、彼女の小さな翼や尻尾を外に出すためでもある。
その姿を一言で表現するなら、それは花。時に太陽に例えられ、時に百獣を従える王者に例えられる、野生の花。
地面に降り立った少女の周りを、先ほどまで彼女をくるんでいた触手たちがうねうねと動く。小さな少女を心配しているのだろうか。
そんな触手を、少女は小さな両手で抱きしめる。
「ルシ。アリスなら大丈夫。少しでかけるだけだから」
ルシ、というのは触手の名前か。恐らく、今地面からまとまって生えている幾本の触手全てがその“ルシ”なのだろう。
ルシは触手の先端で軽くアリスの頭を撫でる。
「んふふぅー」
アリスは大きな目を細めて笑い、ルシを放す。そのままとてとてとはだしで歩き、振り向いて手を振りながら森の中へ消えていった。
ぽつりと、元の広場に取り残されるルシ。ルシはしばらくアリスの消えていった森を見つめるように触手をそちらに向けていたが、その後するすると根元から地面に潜って行った。
「〜〜〜♪」
鼻歌を歌いながら、アリスは飛び跳ねるようにして歩く。その度に、その髪やリボンが揺れ、翼もはたはたと動く。
広場から少し離れた森の中。そこはすでにあの光あふれる楽園のような場所ではなかった。天を覆い隠すように異形の植物が生い茂り、太陽の光を遮る。そんな薄暗い森の中には、毒々しい色の花が天井に咲き、妖しい光を放つ植物が足元に生えている、魔界の光景だった。
しかし、アリスは少しも怯えた様子を見せない。たとえ誇り高き騎士だろうと幾許かの不安を抱えるだろうこの景色に、少女は何も感じないかのような歩調で進んでいく。
それは、文字通りこの森が彼女の庭だからだろう。
本来なら敵対するはずの触手に護られ、異形の森を行く幼き少女。支配者たる触手の庇護下にある少女は、この森の全てが味方なのだ。
「あ、みっけ」
広場から5分ほど。すっかり暗くなり、道などとうに消えた森の中。根が飛び出し、枝が突き出た道なき道で、彼女は唐突に立ち止まった。
アリスはまっすぐに上を見上げる。そこには、太い幹を持つ大きな樹があり、鮮やかな青色をした果実がたくさん実っていた。
だが、それをぶら下げる樹は、彼女をあざ笑うかのように伸ばした長く太い幹でもって果実を守る。その幹はほぼ垂直で、手掛かりとなりそうな枝もない。かといって飛び跳ねて届く距離でもない。
「ティル、いるー?」
可愛らしい声でアリスはそう呼びかける。がさがさと木の葉の擦れる音が鳴っていた森の中に、子供特有の高く澄んだ声が響き渡る。
すると、するすると樹上から伸びてくる触手があった。先ほどのルシと呼ばれた触手より、やや細く本数が多い。この触手がティルなのだろうか。
アリスの頭上、果実がたわわに実るその樹にその細長い身を絡ませたティルは、なに? と言いたげに身をくねらせる。
「それー。ひとつ取ってくれる?」
アリスは小さな指で、青い果実を指す。ティルはアリスの指示を理解し、たくさんある触手のうちの1つを使い、青い実を1つもいだ。そして、触手を伸ばしアリスの少し上あたりでそれを放す。
「あきゃっ!?」
唐突に放されたそれを受け取りそびれ、果実はアリスの頭にぽこりとぶつかる。そのまま、ぽてぽてと地面を転がった。アリスもそれを追うように地面に尻もちをつく。
アリスは目の前をゆらゆら揺れるティルに、ぷぅっと頬をふくらませた。抗議するように、尻尾と翼がわさわさ揺れる。
「むぅーーー」
その様子を感じたのか、ティルは触手でアリスの頭を撫でる。先ほどルシがしたように、優しく。
それと同時に、他の触手が地面に落ちた青い果実をアリスの手に握らせる。伊達に触手がたくさんあるわけではないらしい。
アリスはティルから果実を受け取り、ティルを上目遣いで見る。しかし、その頬は未だ膨らんだままで、ティルは困ったように触手を宙に彷徨わせた。
それを見ていたアリスは、唐突に表情を変え、笑顔になる。
「……ふふふっ、ウソだよー!」
アリスはティルに抱きつくように飛び込んだ。抱きつくには少し細すぎるティルは、更に数本の触手を伸ばしてアリスをくるむようにして抱きとめる。
たくさんの触手にくるまれたアリスは、しかし顔色も変えずにうれしそうに笑う。それを抱きとめるティルは、肩をすくめるような動作をした。人や魔物とはまた動きが違うが、少なくともアリスには分かる。
「ふふっ、ルシはこんなことで嫉妬したりしないよー。ティルは心配しすぎなんだよー」
それどころか、長い間触手に育てられたアリスは、触手の意思までも読むようだ。
再び、ティルが肩をすくめたのがアリスには分かった。それと同時にするすると触手を解き、アリスを地面に降ろした。今までアリスの周りに待機していた触手も樹上に消えていき、最後に残った一本をまるで手を振るかのような動きでアリスに向かって振った後、ティルは完全に森に消えた。
「うん。またねー」
アリスもティルが消えた方向に向かって手を振り返し、ティルに取ってもらった果実を手に、元いた広場に向かって歩き出した。
神殿騎士団は、続々と魔界の異形の森の前に集合しつつあった。副団長のベリルを先頭に、その数、およそ50。
もちろん、これが神殿騎士団の全兵力ではない。他にもたくさんの騎士が居るし、その下に就く騎士見習いなどの兵士も居る。
だが、ここに集ったのはその10分の一にも満たない少数だ。それでも、副団長を筆頭に精鋭揃いだ。
今回の主任務は魔界の調査、および進軍経路の発見だ。いわば偵察任務である。本来このような任務に精鋭部隊が就くことは少ないが、今回は場所が場所である。
「皆、聞いてくれ」
全員が整列したのを見計らって、ベリルは団員に語りかける。男もいれば女もおり、少年かと思うほどの者もおれば白髪が交じり始めた齢の頃の者もいる集団は、美しい黒髪を持つ指揮官の声を聞いて一斉に静まりかえる。
「今回の任務は、はっきり言って非常に危険だ。無事生還できるとは限らない。というか、生還できる見込みの方が少ないだろう」
死刑宣告にも似た、冷徹な宣言。それを受けてなお、誰一人物音を立てずに直立不動の姿勢を維持し続ける。
「もしかしたら、目の前で仲間が無残な最期を遂げるかもしれない。もしかしたら、死ぬよりも酷い目にあって苦しみ抜くかもしれない」
指揮官が、兵にこのようなことを告げるのは下策中の下策だ。そんなことをすれば士気は落ち、逆に兵の死を、ひいては敗北を招くことになりかねない。
だが、ベリルはあえてそれを告げる。
「一生魔物の奴隷として使い潰されるかもしれない。魔物に堕ち、同胞に牙を剥くかもしれない。それが嫌な者は、今すぐ引き返すがいい。今ならまだ間に合うし、止めはしない」
にわか仕込みの兵隊なら、こんなことを聞かされればすぐにでも脱走しかねない。歴戦の勇士だろうと、一抹の不安をぬぐえずに嫌な気持ちになるだろう。だが――
「馬鹿言わないでください。逃げたら副長、一緒に来てくれるんですか?」
ベリルの目の前、燃えるような赤い髪を持つ少年が、その三白眼ぎみの目を不敵に細めながら笑う。粗野な外見だが、その台詞はここに集った50人の気持ちを代弁していた。
「ふっ、指揮官たる私が逃げるわけにはいくまい?」
「だったら俺たちの心も決まってますや」
そう言うと、少年は腰の剣をきれいな抜刀音と共に抜き、刀身を自らの顔の前に構える。それは、最上級の騎士の礼。
「我が心、我が剣!我が全霊を、我が君に捧げん!!」
言いきると同時に、手に握る剣を天に向かって突き出す。そして、少年が言い終わると同時に寸分の狂いもなく残りの全員がそれを行った。
「「我が心、我が剣!我が全霊を、我が君に捧げん!!」」
本来は王族に対して行われる礼であり、それ以外の者にこれを行うことは王族への侮辱となるのだが、全員が迷いなくそれを一介の騎士にすぎないベリルに向かって行った。それの意味するところは、つまり、
「俺たちの命、預けたとは言いません。上手く使ってくださいや」
赤髪の少年が、剣を腰の鞘に戻しながら言う。
「ありがとう。テューレ………そして、皆……」
そして、くるりと向きを変え、自らも剣を抜き放つ。そのまばゆき白刃は、ぴたりと森に向けられる。
「行くぞ!!!」
魔界に、大地を揺るがすほどの鬨の声が轟いた。
アリスは、ルシが伸ばした触手に腰掛け、青い果実をほおばっていた。鮮やかな青い外皮の内側は瑞々しい白い果肉になっており、適度な甘さとしゃりしゃりとした触感が楽しめる。
その実を両手でつかみ、そのままむしゃむしゃと半分ほど食べる。その中央部分には大きな種が入っており、中央まで食べ進んだアリスにその身を晒した。
「あとでちゃんとうめてあげるからね」
そう言いつつ、その種を片手で取り除く。ぽこりと取れたそれを片手に持ったまま、アリスは青い果実の残りを口に放り込む。それをしゃきしゃきと咀嚼し、飲み込もうとしたその瞬間。
「うにゃっ!?」
アリスの腰掛けていたルシが、唐突に動いた。幸いアリスを落としたり飛ばしてしまうことは無かったが、それに驚いたアリスは口の中の実を一気に飲み下してしまった。
喉のキャパシティを超過した量の食物が喉を通過し、ルシの上でアリスは悶える。背中をルシがそっとさするが、自分が引き起こした事態であることをわかっているためかやや遠慮がちだ。
「ううん……へいき。おどろいただけ………」
心配そうに揺れるルシの触手をそっと撫で、崩しかけたバランスを元に戻す。再びルシの触手にしっかり座ると、アリスはルシに問いかける。
「なにかあったの?」
ルシはこの森の触手の中でも、言わばボスのような存在だ。明確にそう決まっている訳ではないが、アリスは直感的にそれを察している。
それゆえ、ルシは森の変化にいち早く気がつく。たとえたった一人の人間だろうと、ルシに、ひいてはこの森の触手達に気づかれずにこの森に入ることはできないのだ。
そのルシが、森の西側に激しく反応を示した。今ルシはなんの素振りも見せていないが、アリスには分かる。
「なにかあったんだね?」
先ほどよりも強く問いかける。しかし、ルシはその触手の先をふるふると左右に振り、それを否定する。
その、「な、なんでもないよ?」的な行動に、しばらくアリスは半眼でルシを眺めていたが……
「じゃあ、アリス見てくるね〜」
そう言って、ぴょこんとルシの上から飛び降りる。だが、ルシの方がずっと早かった。
そのまま、森の西側に向かって駆け出そうとしたアリスを、しゅるしゅると伸びたルシが絡め取る。一瞬で絡め取られたアリスも、ぷぅっと頬を膨らませたものの暴れたりはせず、おとなしくルシに身を任せている。
決して乱暴に扱わず、あくまでゆるやかに制止、もとい拘束したルシだが、それはアリスとルシだけが知る事実であって、第三者はそう思わなかった。
そう。つまり、第三者から見れば、アリスは触手に襲われているように見えたのである。
「くそ……思ったよりも中は暗いな………」
ベリルは剣で行く手を阻む枝や蔓を払いながらひとりごちる。同じように後ろから付いてくる騎士たちも自らの剣で枝を払っている。
外見はただの森だったため、森自体はさほど苦労せずに突破できるだろうと考えていたが、その考えをベリルは改めた。森の中はそれこそ夜かと思うほどに暗く、木々がうっそうと茂っていた。その葉は太陽を覆い隠し、大いなる恵みの光を地上に届かせまいとしているようだった。
ベリルは剣を近くの手ごろな樹に叩きつける。こうして樹に傷をつけておけば、帰りに迷うことが無いからだ。しかし、その程度の印で本当にこの森を抜け出せるのかとベリルは不安になっていた。
「最悪、帰りは大伐採だな………」
無論、そんなことをすればこちらから魔物に見つけてくださいと頼むようなものだ。そうなれば、戦闘は避けられない。そうならないための目印なのだが………。
「……あ、…リ……て…る……」
そんなことを考えていた矢先、ベリルの耳にかすかな声が飛び込んできた。無論、部下が発したものではない。部下なら私語などしないし、報告ならばもっとしっかりした声で行うだろう。
つまり、この声は部下ではない誰かが発したということになる。
「テューレ!すまんが、後は任せた!」
そう言って、相手の返事も待たずにベリルは走り出した。必要最小限の枝のみを刈り、声が聞こえた方向へダッシュする。その方向からはわずかに光が漏れており、まるでベリルを引き寄せるかにのようにゆらゆらと光の濃淡を生んでいた。
「えっ!?ちょっと!副長!?」
テューレが後ろで制止の声を上げるが、テューレまでベリルを追って駆け出すことはできない。騎士団の面々と共にゆっくり歩いてくるしかないだろう。それに、テューレに任せておけば彼らは大丈夫だ。仮にも歴戦の強者揃いなのだから。
その間に、ベリルは彼らを大きく引き離す。突き出した枝をくぐり、足を引っ掛けるような場所に盛り上がる木の根を飛び越える。そして、一筋の光が差し込む場所へ飛び込んだ。
「!?」
がさがさと木の葉を纏ったベリルは、いきなり差し込んだ強い陽光に顔をしかめた。いや、陽光が強いのではなく、目が森の暗さに慣れていてそう感じるのだ。
そして、手を掲げて陽光を防ぐベリルの目に、信じ難いものが飛び込んできた。
ベリルの目の前には、少女をぐるぐる巻きににして今にも襲おうかという状態の触手の姿があった。
そこはいつでも薄暗く、そのくせ不気味な光を纏うかのような、形も大きさも不揃いの木々が生い茂る森。
それは、生あるものを拒絶するかのような閨と。見る者を惹きつける、妖しい光の同居する場所だった。
ある者はそれを見て言うだろう。それは禁制の聖域だと。
またある者は、こう言うだろう。それは人狩りの森だと。
そして、だからこそ。
そこは絶えず人の好奇心をかりたてつつ、手つかずの森として残るのだろうか。
それとも。
それを守る何者かが、人の支配を拒むのだろうか………
森の中心部。禍々しい外見に反して、やわらかな日差しの差し込む、木々のまばらな場所。
やがて濁流へと変わるせせらぎが木を避けるようにして流れ、その中を成長すれば人をも襲う凶暴な魚へと変わる稚魚たちが群れをなして泳ぐ。
人間たちは、この森の中にこのような場所があるなど、思いもしないのだろう。そう思うと、彼女は少し可笑しくなり、小さく微笑む。
地面から生えた、ぬらぬらとした表面を持つ植物のツタのような物。彼女はそれに体を絡めとられていた。それらは自ら意思を持って動き、ぐるぐると彼女を包み込んでいる。
「あぅ……くすぐったいよぅ」
彼女がそうつぶやきながら、小さく体を震わせると、それに気が付いたかのように触手は動くのをやめた。
そう、触手だ。ここは触手の森。踏みこんだ者はたとえ魔物であろうと欲情した触手に襲われ、犯される魔性の森。
その最深部に、小さな少女たった一人。無論、本来なら辿りつけるはずもない。そして、今も襲われぬはずがない。なぜなら、彼女はすでに触手に捕まっているのだから。本来ならばとっくに穴という穴に触手を突っ込まれてもおかしくない状況である。
だが、少女は無邪気に笑う。そして、触手はそれを優しく抱く。まるで宝物でも扱うかのように。
「……ふぅ。そろそろおきるですよ」
少女は揺り籠の中で伸びをし、おおきくあくびをした。すると、またも触手は彼女の意思を汲んだようにするすると彼女を解放する。少女を地面に下ろす際も、落ちたりしないように優しく下ろしており、そこにも少女に対する気遣いが見え隠れする。
するりと地面に下ろされた少女は、その白い足を地面に着ける。そこにさわやかな風が駆け抜け、彼女の綺麗な黄金の髪を静かになびかせる。髪と同時に風にそよぐ白のワンピースのようなドレスは、あちこちにスリットや切り込みが入っており、彼女に対して大きめであるにも関わらず動きを阻害しない。その切り込みは、彼女の小さな翼や尻尾を外に出すためでもある。
その姿を一言で表現するなら、それは花。時に太陽に例えられ、時に百獣を従える王者に例えられる、野生の花。
地面に降り立った少女の周りを、先ほどまで彼女をくるんでいた触手たちがうねうねと動く。小さな少女を心配しているのだろうか。
そんな触手を、少女は小さな両手で抱きしめる。
「ルシ。アリスなら大丈夫。少しでかけるだけだから」
ルシ、というのは触手の名前か。恐らく、今地面からまとまって生えている幾本の触手全てがその“ルシ”なのだろう。
ルシは触手の先端で軽くアリスの頭を撫でる。
「んふふぅー」
アリスは大きな目を細めて笑い、ルシを放す。そのままとてとてとはだしで歩き、振り向いて手を振りながら森の中へ消えていった。
ぽつりと、元の広場に取り残されるルシ。ルシはしばらくアリスの消えていった森を見つめるように触手をそちらに向けていたが、その後するすると根元から地面に潜って行った。
「〜〜〜♪」
鼻歌を歌いながら、アリスは飛び跳ねるようにして歩く。その度に、その髪やリボンが揺れ、翼もはたはたと動く。
広場から少し離れた森の中。そこはすでにあの光あふれる楽園のような場所ではなかった。天を覆い隠すように異形の植物が生い茂り、太陽の光を遮る。そんな薄暗い森の中には、毒々しい色の花が天井に咲き、妖しい光を放つ植物が足元に生えている、魔界の光景だった。
しかし、アリスは少しも怯えた様子を見せない。たとえ誇り高き騎士だろうと幾許かの不安を抱えるだろうこの景色に、少女は何も感じないかのような歩調で進んでいく。
それは、文字通りこの森が彼女の庭だからだろう。
本来なら敵対するはずの触手に護られ、異形の森を行く幼き少女。支配者たる触手の庇護下にある少女は、この森の全てが味方なのだ。
「あ、みっけ」
広場から5分ほど。すっかり暗くなり、道などとうに消えた森の中。根が飛び出し、枝が突き出た道なき道で、彼女は唐突に立ち止まった。
アリスはまっすぐに上を見上げる。そこには、太い幹を持つ大きな樹があり、鮮やかな青色をした果実がたくさん実っていた。
だが、それをぶら下げる樹は、彼女をあざ笑うかのように伸ばした長く太い幹でもって果実を守る。その幹はほぼ垂直で、手掛かりとなりそうな枝もない。かといって飛び跳ねて届く距離でもない。
「ティル、いるー?」
可愛らしい声でアリスはそう呼びかける。がさがさと木の葉の擦れる音が鳴っていた森の中に、子供特有の高く澄んだ声が響き渡る。
すると、するすると樹上から伸びてくる触手があった。先ほどのルシと呼ばれた触手より、やや細く本数が多い。この触手がティルなのだろうか。
アリスの頭上、果実がたわわに実るその樹にその細長い身を絡ませたティルは、なに? と言いたげに身をくねらせる。
「それー。ひとつ取ってくれる?」
アリスは小さな指で、青い果実を指す。ティルはアリスの指示を理解し、たくさんある触手のうちの1つを使い、青い実を1つもいだ。そして、触手を伸ばしアリスの少し上あたりでそれを放す。
「あきゃっ!?」
唐突に放されたそれを受け取りそびれ、果実はアリスの頭にぽこりとぶつかる。そのまま、ぽてぽてと地面を転がった。アリスもそれを追うように地面に尻もちをつく。
アリスは目の前をゆらゆら揺れるティルに、ぷぅっと頬をふくらませた。抗議するように、尻尾と翼がわさわさ揺れる。
「むぅーーー」
その様子を感じたのか、ティルは触手でアリスの頭を撫でる。先ほどルシがしたように、優しく。
それと同時に、他の触手が地面に落ちた青い果実をアリスの手に握らせる。伊達に触手がたくさんあるわけではないらしい。
アリスはティルから果実を受け取り、ティルを上目遣いで見る。しかし、その頬は未だ膨らんだままで、ティルは困ったように触手を宙に彷徨わせた。
それを見ていたアリスは、唐突に表情を変え、笑顔になる。
「……ふふふっ、ウソだよー!」
アリスはティルに抱きつくように飛び込んだ。抱きつくには少し細すぎるティルは、更に数本の触手を伸ばしてアリスをくるむようにして抱きとめる。
たくさんの触手にくるまれたアリスは、しかし顔色も変えずにうれしそうに笑う。それを抱きとめるティルは、肩をすくめるような動作をした。人や魔物とはまた動きが違うが、少なくともアリスには分かる。
「ふふっ、ルシはこんなことで嫉妬したりしないよー。ティルは心配しすぎなんだよー」
それどころか、長い間触手に育てられたアリスは、触手の意思までも読むようだ。
再び、ティルが肩をすくめたのがアリスには分かった。それと同時にするすると触手を解き、アリスを地面に降ろした。今までアリスの周りに待機していた触手も樹上に消えていき、最後に残った一本をまるで手を振るかのような動きでアリスに向かって振った後、ティルは完全に森に消えた。
「うん。またねー」
アリスもティルが消えた方向に向かって手を振り返し、ティルに取ってもらった果実を手に、元いた広場に向かって歩き出した。
神殿騎士団は、続々と魔界の異形の森の前に集合しつつあった。副団長のベリルを先頭に、その数、およそ50。
もちろん、これが神殿騎士団の全兵力ではない。他にもたくさんの騎士が居るし、その下に就く騎士見習いなどの兵士も居る。
だが、ここに集ったのはその10分の一にも満たない少数だ。それでも、副団長を筆頭に精鋭揃いだ。
今回の主任務は魔界の調査、および進軍経路の発見だ。いわば偵察任務である。本来このような任務に精鋭部隊が就くことは少ないが、今回は場所が場所である。
「皆、聞いてくれ」
全員が整列したのを見計らって、ベリルは団員に語りかける。男もいれば女もおり、少年かと思うほどの者もおれば白髪が交じり始めた齢の頃の者もいる集団は、美しい黒髪を持つ指揮官の声を聞いて一斉に静まりかえる。
「今回の任務は、はっきり言って非常に危険だ。無事生還できるとは限らない。というか、生還できる見込みの方が少ないだろう」
死刑宣告にも似た、冷徹な宣言。それを受けてなお、誰一人物音を立てずに直立不動の姿勢を維持し続ける。
「もしかしたら、目の前で仲間が無残な最期を遂げるかもしれない。もしかしたら、死ぬよりも酷い目にあって苦しみ抜くかもしれない」
指揮官が、兵にこのようなことを告げるのは下策中の下策だ。そんなことをすれば士気は落ち、逆に兵の死を、ひいては敗北を招くことになりかねない。
だが、ベリルはあえてそれを告げる。
「一生魔物の奴隷として使い潰されるかもしれない。魔物に堕ち、同胞に牙を剥くかもしれない。それが嫌な者は、今すぐ引き返すがいい。今ならまだ間に合うし、止めはしない」
にわか仕込みの兵隊なら、こんなことを聞かされればすぐにでも脱走しかねない。歴戦の勇士だろうと、一抹の不安をぬぐえずに嫌な気持ちになるだろう。だが――
「馬鹿言わないでください。逃げたら副長、一緒に来てくれるんですか?」
ベリルの目の前、燃えるような赤い髪を持つ少年が、その三白眼ぎみの目を不敵に細めながら笑う。粗野な外見だが、その台詞はここに集った50人の気持ちを代弁していた。
「ふっ、指揮官たる私が逃げるわけにはいくまい?」
「だったら俺たちの心も決まってますや」
そう言うと、少年は腰の剣をきれいな抜刀音と共に抜き、刀身を自らの顔の前に構える。それは、最上級の騎士の礼。
「我が心、我が剣!我が全霊を、我が君に捧げん!!」
言いきると同時に、手に握る剣を天に向かって突き出す。そして、少年が言い終わると同時に寸分の狂いもなく残りの全員がそれを行った。
「「我が心、我が剣!我が全霊を、我が君に捧げん!!」」
本来は王族に対して行われる礼であり、それ以外の者にこれを行うことは王族への侮辱となるのだが、全員が迷いなくそれを一介の騎士にすぎないベリルに向かって行った。それの意味するところは、つまり、
「俺たちの命、預けたとは言いません。上手く使ってくださいや」
赤髪の少年が、剣を腰の鞘に戻しながら言う。
「ありがとう。テューレ………そして、皆……」
そして、くるりと向きを変え、自らも剣を抜き放つ。そのまばゆき白刃は、ぴたりと森に向けられる。
「行くぞ!!!」
魔界に、大地を揺るがすほどの鬨の声が轟いた。
アリスは、ルシが伸ばした触手に腰掛け、青い果実をほおばっていた。鮮やかな青い外皮の内側は瑞々しい白い果肉になっており、適度な甘さとしゃりしゃりとした触感が楽しめる。
その実を両手でつかみ、そのままむしゃむしゃと半分ほど食べる。その中央部分には大きな種が入っており、中央まで食べ進んだアリスにその身を晒した。
「あとでちゃんとうめてあげるからね」
そう言いつつ、その種を片手で取り除く。ぽこりと取れたそれを片手に持ったまま、アリスは青い果実の残りを口に放り込む。それをしゃきしゃきと咀嚼し、飲み込もうとしたその瞬間。
「うにゃっ!?」
アリスの腰掛けていたルシが、唐突に動いた。幸いアリスを落としたり飛ばしてしまうことは無かったが、それに驚いたアリスは口の中の実を一気に飲み下してしまった。
喉のキャパシティを超過した量の食物が喉を通過し、ルシの上でアリスは悶える。背中をルシがそっとさするが、自分が引き起こした事態であることをわかっているためかやや遠慮がちだ。
「ううん……へいき。おどろいただけ………」
心配そうに揺れるルシの触手をそっと撫で、崩しかけたバランスを元に戻す。再びルシの触手にしっかり座ると、アリスはルシに問いかける。
「なにかあったの?」
ルシはこの森の触手の中でも、言わばボスのような存在だ。明確にそう決まっている訳ではないが、アリスは直感的にそれを察している。
それゆえ、ルシは森の変化にいち早く気がつく。たとえたった一人の人間だろうと、ルシに、ひいてはこの森の触手達に気づかれずにこの森に入ることはできないのだ。
そのルシが、森の西側に激しく反応を示した。今ルシはなんの素振りも見せていないが、アリスには分かる。
「なにかあったんだね?」
先ほどよりも強く問いかける。しかし、ルシはその触手の先をふるふると左右に振り、それを否定する。
その、「な、なんでもないよ?」的な行動に、しばらくアリスは半眼でルシを眺めていたが……
「じゃあ、アリス見てくるね〜」
そう言って、ぴょこんとルシの上から飛び降りる。だが、ルシの方がずっと早かった。
そのまま、森の西側に向かって駆け出そうとしたアリスを、しゅるしゅると伸びたルシが絡め取る。一瞬で絡め取られたアリスも、ぷぅっと頬を膨らませたものの暴れたりはせず、おとなしくルシに身を任せている。
決して乱暴に扱わず、あくまでゆるやかに制止、もとい拘束したルシだが、それはアリスとルシだけが知る事実であって、第三者はそう思わなかった。
そう。つまり、第三者から見れば、アリスは触手に襲われているように見えたのである。
「くそ……思ったよりも中は暗いな………」
ベリルは剣で行く手を阻む枝や蔓を払いながらひとりごちる。同じように後ろから付いてくる騎士たちも自らの剣で枝を払っている。
外見はただの森だったため、森自体はさほど苦労せずに突破できるだろうと考えていたが、その考えをベリルは改めた。森の中はそれこそ夜かと思うほどに暗く、木々がうっそうと茂っていた。その葉は太陽を覆い隠し、大いなる恵みの光を地上に届かせまいとしているようだった。
ベリルは剣を近くの手ごろな樹に叩きつける。こうして樹に傷をつけておけば、帰りに迷うことが無いからだ。しかし、その程度の印で本当にこの森を抜け出せるのかとベリルは不安になっていた。
「最悪、帰りは大伐採だな………」
無論、そんなことをすればこちらから魔物に見つけてくださいと頼むようなものだ。そうなれば、戦闘は避けられない。そうならないための目印なのだが………。
「……あ、…リ……て…る……」
そんなことを考えていた矢先、ベリルの耳にかすかな声が飛び込んできた。無論、部下が発したものではない。部下なら私語などしないし、報告ならばもっとしっかりした声で行うだろう。
つまり、この声は部下ではない誰かが発したということになる。
「テューレ!すまんが、後は任せた!」
そう言って、相手の返事も待たずにベリルは走り出した。必要最小限の枝のみを刈り、声が聞こえた方向へダッシュする。その方向からはわずかに光が漏れており、まるでベリルを引き寄せるかにのようにゆらゆらと光の濃淡を生んでいた。
「えっ!?ちょっと!副長!?」
テューレが後ろで制止の声を上げるが、テューレまでベリルを追って駆け出すことはできない。騎士団の面々と共にゆっくり歩いてくるしかないだろう。それに、テューレに任せておけば彼らは大丈夫だ。仮にも歴戦の強者揃いなのだから。
その間に、ベリルは彼らを大きく引き離す。突き出した枝をくぐり、足を引っ掛けるような場所に盛り上がる木の根を飛び越える。そして、一筋の光が差し込む場所へ飛び込んだ。
「!?」
がさがさと木の葉を纏ったベリルは、いきなり差し込んだ強い陽光に顔をしかめた。いや、陽光が強いのではなく、目が森の暗さに慣れていてそう感じるのだ。
そして、手を掲げて陽光を防ぐベリルの目に、信じ難いものが飛び込んできた。
ベリルの目の前には、少女をぐるぐる巻きににして今にも襲おうかという状態の触手の姿があった。
11/02/02 20:50更新 / 湖
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