魂迷いし浮世の鎮魂歌(下)
「………なぜ、彼女を処刑したのですか。あれは、まだまだ有用な駒だったはず」
少し伸びた髭を揺らし、教皇は皇帝に問いかける。その厳めしい顔には静かな怒りが浮かび、見る者を縮こまらせる。
この帝国では、教皇とは独立したひとつの権威であって、たとえ皇帝であろうと教皇を好き勝手に処罰することは出来ない。その権威の庇護下にある騎士団も。
だが、それは建前だ。実際のところ、この独裁政治を断行する皇帝には何人たりとも逆らえない。
「フン。あの小娘の事か。能力の無い者は私の国には要らん。そういうことだ」
皇帝は、教皇の言葉を、にべもなく切って捨てる。本人としては精いっぱい威厳を出しているつもりなのだろうそのセリフも、有能な者が使って初めて効力を発揮する。日ごろからこの皇帝の無能さ加減を身にしみて知っている彼にとってみれば、それは滑稽な光景だった。
その言葉1つとっても、今までの進攻戦についてもこの皇帝は何も知らないのだろう。ただ、今までは指揮官が自分の身内だったために甘い顔をしていたに過ぎないのだ。
――あの聖騎士すら散った戦場で、それでも騎士団の7割を守り抜いた指揮官だぞ?
第一回の攻撃で、8割。第二回の攻撃で、5割と聖騎士。帝国が被った被害は甚大なものとなった。特に第二回などは万を数える大部隊があの街を取り囲んだのだ。それでも、撤退の憂き目を見た。
それに比べて、今回の被害は騎士団の3割。今までと比べて圧倒的に少ない。目的こそ果たせなかったものの、指揮官は無事帰還した。その努力を誉めこそすれ、処刑などもってのほかだろう。
それでも、教皇の緑の瞳は微塵も揺るがない。あくまで無表情を保つ。
「そうですか。では、彼女の後任はこちらで選ばせていただいてよろしいですかな」
そう言い、踵をかえそうとした教皇を、皇帝が慌てて呼び止める。
「い、いや。いかに中央騎士団の管轄が教会側にあると言ってもだな、この私に相談もなく決めるのは駄目だろう」
豪華な衣装を身にまとい、趣味の悪い黄金に光り輝く王冠を頭に乗せた皇帝を、教皇は冷やかに見つめた。
詰まる所、この皇帝の本音は自分の息のかかった者を騎士団の団長に据えたいだけなのだ。
自らの欲望のため、優秀な人材を顧みないその姿勢に、教皇はいささか絶望した。
見れば、城の内部も彼の欲望をそのまま反映したかのように絢爛豪華な内装で覆われており、実用性を重視する教皇とは全く相容れない。
「………好きになさるがよろしい」
それだけ言い残し、教皇は足音も荒くその場を立ち去った。
エリベールは素早く棺桶から飛び出ると、その勢いのまま眼の前の少女に拳を叩きつけた。
が、少女をとらえたはずの拳には何の感触も返らない。いつの間にか少女は残像を引いて後ろへ飛び退っていた。からからという音と共に恐ろしい顔を揺らす首元の般若面とは違い、少女は心底楽しそうな表情を浮かべていた。その左手には、どこの屋台で買ったのか、焼き鳥の串が握られている。
「おぅおぅ、寝起きは機嫌がよぅないのぉ」
長い金髪を風に舞わせ、挑戦的な笑いを浮かべた少女は、右手の袖から滑り落とした鉄扇を器用に片手で開く。ばしゃり、と鋼鉄の扇が彼女の手に生まれた。
その間に、エリベールは自らの墓の墓標に納められていた愛用の長剣を構える。この国では騎士が死ぬと墓標に剣を納める風習があるのだ。自分を罪人としてではなく、騎士として葬ってくれた教皇に、エリベールは深く感謝した。
「来い、魔物!今度こそ討ち果たしてくれる!」
普段のエリベールしか知らない人間がこれを見たら、きっと酷く驚くに違いない。彼女は、その青い双眸に闘志を宿し、眼の前の少女を見つめた。
だが、臨戦態勢をとる彼女の眼の前で、その少女は傲慢とも言えるほどの余裕を見せつけていた。左手の焼き鳥をかじり、右手の鉄扇は構えることなく宙をぶらぶらさせている。なにより、その小さな肩に月を背負うその姿は、まるで世界を見下ろす神のような傲慢さに満ち溢れていた。
ただ、その口調だけが、鋭く厳しい。
「……よりにもよって、神を討つと申したか、人の子よ。
その台詞を吐いた者は大勢おったが、未だ果たした者はおらぬというのに」
「傲慢なっ!魔物の分際で神を騙るかっ!!」
一陣の風のように、エリベールは敵の懐に入りこむ。その十分すぎるほど鋭い斬撃が、少女の顔を真横に薙ぐ。
全く迷いの無い一撃。それは、少女の小さな顔を真ん中から両断した。
だが。両断されたはずの少女は、すらっと後ろにずれる。刃を完全に見切られ、寸前で回避されたのだとエリベールが気が付いた時には、エリベールは宙を舞っていた。
一瞬で懐に入られ、胸倉を掴んで投げられたのだ。驚嘆すべきはその筋力で、軽々と6メートルほど投げ飛ばされる。
「ぐっ……がぁっ!」
背中を強く打ち、肺から残らず空気を絞り取られる。そんなエリベールを、少女はその絹のようになめらかな黄金の髪を風に舞わせ、冷やかな瞳で見下ろす。
その声は糾弾するようで、しかし感情の色を一切含んでいなかった。
「主は、我の一面を垣間見ただけで我らへの評価を決定するか。人にも、不埒物や愚か者はいるだろうに、所詮は主にとって我らはその程度の存在か」
エリベールは凍りつく。その金色の瞳は、他の何よりも雄弁に少女の怒りを映す。
「主は、我らの何を知っている。人は、我らの何を知っている。
何も知らぬくせに、我らを敵視し弾圧したのは主ら、人間ではないか。
神の正体を知りもせず、同胞すらも食い物にする、地上で最も罪に汚れた生き物が。
傲慢なのはどちらだ。
――恥を知れ」
先ほどまではへらへらとした、遊び人じみた空気を纏っていた少女が、突然むき出しにした怒りに、大気が震える。
その小さな体から発せられるプレッシャーは、エリベールが今まで相対したどの敵よりも凄まじく、思わず剣を持つ手が震える。それでも、彼女は立ちあがる。その美貌を、苦痛と恐怖に歪ませて。
エリベールが立ちあがったのを見て、少女はにやりと口元を歪める。それは、その少女の顔に似合わない、嗜虐的な笑み。
「来い、人間。消し飛ばしてくれる」
言葉と同時に、彼女の顔の右半分を覆っていた狐面が、粉々に砕け散る。微細な破片となった狐面は、空中でさらに細かい破片となって消えた。
仮面の戒めから解き放たれ、黄金の髪はさらに激しく宙を舞う。髪の間から、先ほどまでは見えなかった三角の耳が覗く。
「塵芥と消えるがいい」
発動は突然。破壊は唐突。
少女の目の前に巨大な魔法陣が展開した頃には、少女の目の前は破壊の光球に飲まれていた。
力を持つ者のみに届く、大地を揺るがす爆音が帝国を飲み込む―――
荒れ果てた大地の中、エリベールはいつの間にか座り込んでいた。
圧倒的というのもはばかられるほどの魔力が暴れまわった墓地は、元が地面であったと判別できないほどに荒れ果てていた。唯一無事なのは、エリベールが座り込んでいるところのみである。
「…………ふぅ」
そんな中、荒野と平地の境界線に立つ少女は、未だ魔力で青く輝いていた。ため息を1つ吐き、こちらを見つめている。
その顔の右半分は、狐を模した仮面で覆われていた。
「――死ぬ、と思ぅたか?」
一歩。エリベールの心の底を見通すような、底冷えする瞳でじっと見据えられる。その顔は不敵に笑っているが、瞳は全く笑っていない。エリベールは、先ほどのショックよりも、少女に睨みつけられて動けなくなった。
少女は、その白く細い指先に紅の燐火を灯す。
「太古から、狐は騙すもの。狐火と侮るなかれ、とな」
また一歩。既にエリベールは少女から視線をそらせない。その黄金の双眸は獲物を捉えたまま、がっちりと固定する。少女は、自らの狐火をぐっと握り潰す。
「狐火と言えど、熱も、音も、気も。命すら、虚像に飲まれるのだから、のぉ?」
最後の一歩。にぃ、と口元が緩やかに笑う。しかし、その笑いは友好的なものとは対極にある笑いだった。エリベールは空気を求めて口をぱくぱくと動かした。
つ、と着物をなびかせ少女の右手が持ち上がる。その手には、鈍色の鉄扇が握られていた。
「まぁ、よぅには消える命も無いのやのぉ」
とん、と少女はエリベールの額を突く。鉄扇で突かれたエリベールは、視界がぐるりと反転するのを感じた。
どさり。そんな音を立て、エリベールの首が落ちる。
「―――!!」
それに驚いたのはエリベールの方だった。突然自分の体を見上げる事となり、声も出ずにただ驚く。
対照的に、少女は全く取り乱したりせずにエリベールを見つめる。
「よぅは、死んだのやからのぉ」
教皇は、突然の来訪者に内心ではかなり驚いていた。
だが、教皇という要職に長年就いていたおかげか、その動揺を顔に出すことは無い。
丁度良い広さの教皇の執務室。教皇と相対するのは、長い金髪を持つ着物姿の少女と、死んだはずのエリベール。いくら教皇でも、この面子でなければ真夜中の来訪には応じなかっただろう。
「エ、エリベール………」
「教皇……。お別れを、言いに来ました」
そう言うエリベールは、埋葬された時のままの服装だ。腹部に穴のあいた騎士装で、腰には墓標に納められたはずの剣も下げている。
乾いてこびりついた彼女の血が、確かに一度葬られたことを証明している。
口を開こうとした彼女を、教皇は慌てて遮った。
「エリベール……。私は君に謝罪しなくてはならない」
「謝罪は不要です。全ては私の未熟さが引き起こしたことですから」
即座の否定。いかにも、迷いを知らない彼女らしい言い方だった。
その隣の少女は、えんじ色の着物の裾を揺らしながら、にこにこと笑みを浮かべている。その首から下がった般若面が、風も無いのにかたかたと鳴る。少女の金の双眸は、何もかもを見透かしているかのような光を纏っていた。
「いや、違うのだ。……私が謝りたいのはそのことではない。
………私は、君が死んだと聞いた時、君の死を悼む前に、自分の駒が減ったことを嘆いたのだ」
許してくれ、と教皇は頭を下げる。それを機に、場に深い沈黙が降りた。
やがて、頭を上げた教皇は、その深い緑の瞳を閉じ、言った。
「君が、どこかへ行くというのなら。私は止めはしない。自由に、生きるといい」
「………ありがとうございます。教皇」
自由の街。いつだろうと活気にあふれるこの街に、新たな住人が増えた。
どんな種族だろうと、どんな生まれだろうと。たとえ昨日までの敵だろうと暖かく迎えるこの街に。
「いつか、世界の全てがこの町のようになったらいい。
私は剣を振ることしかできないが、この街を守るためなら死力を尽くそう」
なめらかなアッシュブロンドをの髪を持つ彼女は、そう言って街の喧騒に消えていった。
少し伸びた髭を揺らし、教皇は皇帝に問いかける。その厳めしい顔には静かな怒りが浮かび、見る者を縮こまらせる。
この帝国では、教皇とは独立したひとつの権威であって、たとえ皇帝であろうと教皇を好き勝手に処罰することは出来ない。その権威の庇護下にある騎士団も。
だが、それは建前だ。実際のところ、この独裁政治を断行する皇帝には何人たりとも逆らえない。
「フン。あの小娘の事か。能力の無い者は私の国には要らん。そういうことだ」
皇帝は、教皇の言葉を、にべもなく切って捨てる。本人としては精いっぱい威厳を出しているつもりなのだろうそのセリフも、有能な者が使って初めて効力を発揮する。日ごろからこの皇帝の無能さ加減を身にしみて知っている彼にとってみれば、それは滑稽な光景だった。
その言葉1つとっても、今までの進攻戦についてもこの皇帝は何も知らないのだろう。ただ、今までは指揮官が自分の身内だったために甘い顔をしていたに過ぎないのだ。
――あの聖騎士すら散った戦場で、それでも騎士団の7割を守り抜いた指揮官だぞ?
第一回の攻撃で、8割。第二回の攻撃で、5割と聖騎士。帝国が被った被害は甚大なものとなった。特に第二回などは万を数える大部隊があの街を取り囲んだのだ。それでも、撤退の憂き目を見た。
それに比べて、今回の被害は騎士団の3割。今までと比べて圧倒的に少ない。目的こそ果たせなかったものの、指揮官は無事帰還した。その努力を誉めこそすれ、処刑などもってのほかだろう。
それでも、教皇の緑の瞳は微塵も揺るがない。あくまで無表情を保つ。
「そうですか。では、彼女の後任はこちらで選ばせていただいてよろしいですかな」
そう言い、踵をかえそうとした教皇を、皇帝が慌てて呼び止める。
「い、いや。いかに中央騎士団の管轄が教会側にあると言ってもだな、この私に相談もなく決めるのは駄目だろう」
豪華な衣装を身にまとい、趣味の悪い黄金に光り輝く王冠を頭に乗せた皇帝を、教皇は冷やかに見つめた。
詰まる所、この皇帝の本音は自分の息のかかった者を騎士団の団長に据えたいだけなのだ。
自らの欲望のため、優秀な人材を顧みないその姿勢に、教皇はいささか絶望した。
見れば、城の内部も彼の欲望をそのまま反映したかのように絢爛豪華な内装で覆われており、実用性を重視する教皇とは全く相容れない。
「………好きになさるがよろしい」
それだけ言い残し、教皇は足音も荒くその場を立ち去った。
エリベールは素早く棺桶から飛び出ると、その勢いのまま眼の前の少女に拳を叩きつけた。
が、少女をとらえたはずの拳には何の感触も返らない。いつの間にか少女は残像を引いて後ろへ飛び退っていた。からからという音と共に恐ろしい顔を揺らす首元の般若面とは違い、少女は心底楽しそうな表情を浮かべていた。その左手には、どこの屋台で買ったのか、焼き鳥の串が握られている。
「おぅおぅ、寝起きは機嫌がよぅないのぉ」
長い金髪を風に舞わせ、挑戦的な笑いを浮かべた少女は、右手の袖から滑り落とした鉄扇を器用に片手で開く。ばしゃり、と鋼鉄の扇が彼女の手に生まれた。
その間に、エリベールは自らの墓の墓標に納められていた愛用の長剣を構える。この国では騎士が死ぬと墓標に剣を納める風習があるのだ。自分を罪人としてではなく、騎士として葬ってくれた教皇に、エリベールは深く感謝した。
「来い、魔物!今度こそ討ち果たしてくれる!」
普段のエリベールしか知らない人間がこれを見たら、きっと酷く驚くに違いない。彼女は、その青い双眸に闘志を宿し、眼の前の少女を見つめた。
だが、臨戦態勢をとる彼女の眼の前で、その少女は傲慢とも言えるほどの余裕を見せつけていた。左手の焼き鳥をかじり、右手の鉄扇は構えることなく宙をぶらぶらさせている。なにより、その小さな肩に月を背負うその姿は、まるで世界を見下ろす神のような傲慢さに満ち溢れていた。
ただ、その口調だけが、鋭く厳しい。
「……よりにもよって、神を討つと申したか、人の子よ。
その台詞を吐いた者は大勢おったが、未だ果たした者はおらぬというのに」
「傲慢なっ!魔物の分際で神を騙るかっ!!」
一陣の風のように、エリベールは敵の懐に入りこむ。その十分すぎるほど鋭い斬撃が、少女の顔を真横に薙ぐ。
全く迷いの無い一撃。それは、少女の小さな顔を真ん中から両断した。
だが。両断されたはずの少女は、すらっと後ろにずれる。刃を完全に見切られ、寸前で回避されたのだとエリベールが気が付いた時には、エリベールは宙を舞っていた。
一瞬で懐に入られ、胸倉を掴んで投げられたのだ。驚嘆すべきはその筋力で、軽々と6メートルほど投げ飛ばされる。
「ぐっ……がぁっ!」
背中を強く打ち、肺から残らず空気を絞り取られる。そんなエリベールを、少女はその絹のようになめらかな黄金の髪を風に舞わせ、冷やかな瞳で見下ろす。
その声は糾弾するようで、しかし感情の色を一切含んでいなかった。
「主は、我の一面を垣間見ただけで我らへの評価を決定するか。人にも、不埒物や愚か者はいるだろうに、所詮は主にとって我らはその程度の存在か」
エリベールは凍りつく。その金色の瞳は、他の何よりも雄弁に少女の怒りを映す。
「主は、我らの何を知っている。人は、我らの何を知っている。
何も知らぬくせに、我らを敵視し弾圧したのは主ら、人間ではないか。
神の正体を知りもせず、同胞すらも食い物にする、地上で最も罪に汚れた生き物が。
傲慢なのはどちらだ。
――恥を知れ」
先ほどまではへらへらとした、遊び人じみた空気を纏っていた少女が、突然むき出しにした怒りに、大気が震える。
その小さな体から発せられるプレッシャーは、エリベールが今まで相対したどの敵よりも凄まじく、思わず剣を持つ手が震える。それでも、彼女は立ちあがる。その美貌を、苦痛と恐怖に歪ませて。
エリベールが立ちあがったのを見て、少女はにやりと口元を歪める。それは、その少女の顔に似合わない、嗜虐的な笑み。
「来い、人間。消し飛ばしてくれる」
言葉と同時に、彼女の顔の右半分を覆っていた狐面が、粉々に砕け散る。微細な破片となった狐面は、空中でさらに細かい破片となって消えた。
仮面の戒めから解き放たれ、黄金の髪はさらに激しく宙を舞う。髪の間から、先ほどまでは見えなかった三角の耳が覗く。
「塵芥と消えるがいい」
発動は突然。破壊は唐突。
少女の目の前に巨大な魔法陣が展開した頃には、少女の目の前は破壊の光球に飲まれていた。
力を持つ者のみに届く、大地を揺るがす爆音が帝国を飲み込む―――
荒れ果てた大地の中、エリベールはいつの間にか座り込んでいた。
圧倒的というのもはばかられるほどの魔力が暴れまわった墓地は、元が地面であったと判別できないほどに荒れ果てていた。唯一無事なのは、エリベールが座り込んでいるところのみである。
「…………ふぅ」
そんな中、荒野と平地の境界線に立つ少女は、未だ魔力で青く輝いていた。ため息を1つ吐き、こちらを見つめている。
その顔の右半分は、狐を模した仮面で覆われていた。
「――死ぬ、と思ぅたか?」
一歩。エリベールの心の底を見通すような、底冷えする瞳でじっと見据えられる。その顔は不敵に笑っているが、瞳は全く笑っていない。エリベールは、先ほどのショックよりも、少女に睨みつけられて動けなくなった。
少女は、その白く細い指先に紅の燐火を灯す。
「太古から、狐は騙すもの。狐火と侮るなかれ、とな」
また一歩。既にエリベールは少女から視線をそらせない。その黄金の双眸は獲物を捉えたまま、がっちりと固定する。少女は、自らの狐火をぐっと握り潰す。
「狐火と言えど、熱も、音も、気も。命すら、虚像に飲まれるのだから、のぉ?」
最後の一歩。にぃ、と口元が緩やかに笑う。しかし、その笑いは友好的なものとは対極にある笑いだった。エリベールは空気を求めて口をぱくぱくと動かした。
つ、と着物をなびかせ少女の右手が持ち上がる。その手には、鈍色の鉄扇が握られていた。
「まぁ、よぅには消える命も無いのやのぉ」
とん、と少女はエリベールの額を突く。鉄扇で突かれたエリベールは、視界がぐるりと反転するのを感じた。
どさり。そんな音を立て、エリベールの首が落ちる。
「―――!!」
それに驚いたのはエリベールの方だった。突然自分の体を見上げる事となり、声も出ずにただ驚く。
対照的に、少女は全く取り乱したりせずにエリベールを見つめる。
「よぅは、死んだのやからのぉ」
教皇は、突然の来訪者に内心ではかなり驚いていた。
だが、教皇という要職に長年就いていたおかげか、その動揺を顔に出すことは無い。
丁度良い広さの教皇の執務室。教皇と相対するのは、長い金髪を持つ着物姿の少女と、死んだはずのエリベール。いくら教皇でも、この面子でなければ真夜中の来訪には応じなかっただろう。
「エ、エリベール………」
「教皇……。お別れを、言いに来ました」
そう言うエリベールは、埋葬された時のままの服装だ。腹部に穴のあいた騎士装で、腰には墓標に納められたはずの剣も下げている。
乾いてこびりついた彼女の血が、確かに一度葬られたことを証明している。
口を開こうとした彼女を、教皇は慌てて遮った。
「エリベール……。私は君に謝罪しなくてはならない」
「謝罪は不要です。全ては私の未熟さが引き起こしたことですから」
即座の否定。いかにも、迷いを知らない彼女らしい言い方だった。
その隣の少女は、えんじ色の着物の裾を揺らしながら、にこにこと笑みを浮かべている。その首から下がった般若面が、風も無いのにかたかたと鳴る。少女の金の双眸は、何もかもを見透かしているかのような光を纏っていた。
「いや、違うのだ。……私が謝りたいのはそのことではない。
………私は、君が死んだと聞いた時、君の死を悼む前に、自分の駒が減ったことを嘆いたのだ」
許してくれ、と教皇は頭を下げる。それを機に、場に深い沈黙が降りた。
やがて、頭を上げた教皇は、その深い緑の瞳を閉じ、言った。
「君が、どこかへ行くというのなら。私は止めはしない。自由に、生きるといい」
「………ありがとうございます。教皇」
自由の街。いつだろうと活気にあふれるこの街に、新たな住人が増えた。
どんな種族だろうと、どんな生まれだろうと。たとえ昨日までの敵だろうと暖かく迎えるこの街に。
「いつか、世界の全てがこの町のようになったらいい。
私は剣を振ることしかできないが、この街を守るためなら死力を尽くそう」
なめらかなアッシュブロンドをの髪を持つ彼女は、そう言って街の喧騒に消えていった。
11/02/02 20:55更新 / 湖
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