紅と蛇
少女は物思いに耽りながら、再び本を開いた。
今とは異なり、魔物と人間が激しく対立していた時代、その時代の犠牲となった人間、魔物の事を考えながら、彼女は項を捲る。
次の記述は条約締結後まもなくの、魔物側ギルドの養成機関に通う1人の魔物とそこに勤め始めた一人の司書の手記を書き起こしたものである。
――――――――――――――――――――
・聖皇暦316年初頭
親魔物領、エリスライ。
元々は聖王都と呼ばれる大陸最大の都市グラネウスに次ぐ、第二の聖王都であった。
だが、魔王交代の折、突然エリスライの首長が聖王都グラネウスに対して反旗を翻す。
その理由は今もって不明だが、この動きに同調する都市が相次ぎ、聖王都側は大陸の各所で戦線を分断され、一気に窮地に陥ってしまう。
20を超えるほどの騎士団は壊滅、大陸の7割以上の支配権を奪われながら、辛うじて停戦条約を結び、1年を経過し、今に至る。
現在、ここは親魔物派にとっての王都であるが、反魔物派からは畏敬を込めて魔都エリスライなどと呼ばれている。
魔都では条約締結後のギルドの創設に当たり、教育機関も同時に立ち上げていた。
名を国立ネーフィア学院。
ギルドと同じく、創設されてから1年が経つ。
主目的は騎士団からの流入者や魔物達の協力を受けて、人や魔物に教育を行うというものだ。
人の常識と魔物の常識、この2つは簡単にすり合わせることが出来ないことを当時の人間達と魔王軍幹部達は十分に把握していた。
よって、この学院には人と魔物が一堂に会し、勉学に励んでいる。
初等部・中等部・高等部・研究室と一通り揃っており、内容は騎士団の剣術から、魔道学門まで多岐に渡る。
とにかく広い敷地の中には剣術の訓練所、薬草用の庭園、大図書館と設備も揃っている。
とある、高等部では現在、薬草学の講義の時間であった。
教壇にはアルラウネが1人、調合する材料の種類や分量を黒板に細かく記載している。
「はーい、ではこちらの黒いハーブとそっちの真っ白な茸を調合して媚薬を調合してね〜」
「先生…学校で媚薬…ですか?」
アルラウネの教師の言葉に、生真面目な赤いスライムが苦言を呈した。
が、しかし、アルラウネ自身はケラケラと笑い、まったく問題にしない。
「完成品は是非、彼氏彼女に使ってみてくださいね〜」
「…またそういうことを…」
20人ばかりが集まる教室で、材料をゴリゴリと磨り潰す音が響く。
量りを使い、mgレベルの精度での調合が要求される。
「作る薬は媚薬だけど、調合の難易度は高めだから気をつけて〜」
「は…はい…うわっ」
教師の注意を受けた傍から、人間の男子学生が、薬草と茸に混ぜる薬液の量を誤り、煙を上げてしまった。
モクモクと顔に掛かる煙を吸い込み、彼の頬がみるみるうちに紅潮していく。
「あらあら、媚薬を気化させちゃったのね〜」
「す…すみません…」
「あら、いいのよ〜、その媚薬は精力剤でもあるから、つらいでしょ〜、私が何とかしてあげるわ〜」
「え…あの…えっ…蔦が…なんで、隣の、教員待機室に、引っ張っていくんですか?、ちょ…ま…」
彼はあっという間に蔦で絡め取られ、アルラウネ種に有るまじき速さ動く教師に、ズルズルと隣の鍵の付いた教員待機室に引きずり込まれていった。
扉を閉める前に、戻ってくるまで各自調合を続けるように、と言付け彼女は扉を閉め、鍵をかけた。
「は〜い、頂きま〜す」
「アッー」
中から聞こえてくる声は楽しげでもあり、艶やかでもあった。
他の学生はやれやれと言った所。
教育レベルは高いものの、魔物の教師が男子学生を摘み喰いしたり、人間の男性教師が魔物の学生に摘み喰いされたりという事案が割と起きる。
それでも普段は学生も教師も真面目に取り組んでおり、学問がおろそかになるという事はほとんど無い。
アルラウネがつやつやした顔で、げっそりした男子学生を引き摺って戻ってくる頃には、連れ去られた男子学生以外全員が調合を終え、講義の時間も終わりになっていた。
教師は各学生の調合薬の出来栄えを見て回り、問題が無いことを確認すると、教材をまとめて締めに掛かった。
「は〜い、皆さんよく出来ているので、OKですよ〜、ただしさっきの君は全然出来てないので今日の放課後私のところに補講に来る事〜」
「なっ…」
「むふふ〜、みっちり身体に教えてあげるわ〜」
ガタガタと震えだした哀れな学生を他所に、講義は終了し学生達はそそくさと教室を去っていった。
「アルセ〜帰りどこか寄ってくの〜?」
「ん〜、今日は図書館」
「んげ…真面目なんだから…じゃあ私帰る〜」
アルセと呼ばれたレッドスライムは本日最後の講義、薬草学の復習を行うため、図書館で本を借りてこようと考えていた。
図書館は研究室の入っている棟の隣に併設されている。
図書館は外側も内側も真っ白塗装された地上5階・地下4階建ての建物であった。
日中、講義が行われる時間であっても、図書館については国立図書館として開放されており、夕方のこの時間においても人が多かった。
アルセは通行人を避けつつ、植え込みに足を踏み入れないように気をつけながらズリズリと舗装された石畳を歩く。
やがて、真っ白な図書館へ辿り着き、彼女は中に入った。
内部は所狭しと本棚が並べられ、中に本が入れられている。
が、しかし未だ建設されて一年と少しで、本の数自体はまだ少ない。
それでも、人間の研究書、魔物の魔術書等々、合わせても5万冊に届かないだろう。
「えっと…薬学の棚は…」
アルセは教室の10倍以上の広さを持つ館内をフラフラと、薬学書の棚を求めて歩いている。
1階閲覧室には人が疎らにおり、それぞれが思い思いの書物を手に取っている。
(ん〜調べるのは黒いハーブと茸だから…)
この図書館は所書物の重要度に応じて所蔵される場所が変わる。
一般に流通し、貸し出した後、自宅まで持ち帰ることが許される書物は1階と2階に、希少性の高い本は3階と4階でこちらは持ち出すことが出来ない。
そして、禁書や魔術書、希少本の類は地下に所蔵される。
アルセが今探しているのは一般的に知られている薬学書と、ジパングの茸が載っている本だった。
「あれー…前はこの棚にあったのになぁ…」
「お探し物かしら?」
「!?」
3日ほど前に薬学書を身に来た時に有った棚には今は何も入っていない。
その状況に悲観していた彼女の背後から、突然少し低い女の声が響いた。
突然の事に、彼女はスライムである事を忘れたかのように飛び上がり、思わず腰をついてしまった。
「大丈夫?」
「ぃ…はい…」
腰砕けになりながらも、何とか後ろを振り向いたところ、そこにはニコニコと微笑む緑色の長髪をした女性が立っていた。
首や手に蛇の装飾品を身にまとっているが、上半身と下半身の衣服はとても露出が高く、夜のお店で踊る踊り娘のような姿をしている。
特にスカートがとても短く、膝を少し上げるだけで、見えてはいけない部分が見えてしまいそうだった。
「…怪我はして…無いわよね♪」
「そ…そうですね…」
差し出されたしなやかな手を取り、引っ張り上げられるように体勢を立て直した。
アルセはお尻の辺りを擦りながら、辺りをきょろきょろしている。
「驚かしてごめんなさいね、何かを探しているようだったから」
「大丈夫です、それよりも、ここの棚にあった薬学書を探さないと…司書さんって…どこにいるかな…はぁ…」
「あら〜、これまたごめんなさいね、私今日からここの司書をやることになったのよ〜、探し物があるなら私がやるわよ?」
「んな……前任の魔女さんは?」
「過労で倒れたわ」
あっけらかんと笑いながら彼女は言った。
何でも、納書の冊数が一日ごとに増えていき、今ある蔵書を片付ける前に、それよりも更に多くの次の蔵書が届くため、処理がまったく追いつかないらしい。
前任の司書である魔女5人は全員が過労で倒れてしまっていたそうだ。
そして、今日付けで自分が5人の代行として着任したと話した。
「…転移魔術とか駆使しても…だめだったんですか?」
「全然…強いて言えば…本棚を収めるのは楽だったくらいかしら」
「あらら…」
「それよりも、薬学書よね?」
「はい」
司書はくるりと、アルセに背を向け、コツコツと歩き始めた。
アルセも彼女に続いて歩き出したのだが、気にあることが2点あったらしく、司書に問いかけた。
「そういえば司書さん…お名前聞いても良いですか?」
「?、私はルーイェよ…よろしくね、アルセちゃん♪」
「…後もう1つ……」
「?」
アルセは僅かに言葉を濁らせた。
彼女の予想している事は、ある種失礼に当たるケースもあるからだった。
それは…
「…ルーイェさんは…その……魔物ですか?」
「…どうしてそう思ったの?」
「この学院にいるどの魔物よりも……とっても匂うんです………とっても濃い…魔の匂い…」
ルーイェから立ち込めるのは何百年も魔道の研究に明け暮れた者の濃い魔力の匂いだった。
そして、彼女は魔女5人の代行に呼ばれていた事。
ルーイェが立ち止まり、振り返った。
その表情はいたずらがばれた子供のようだった。
「…」
「……魔女の5人の代行にただの人間が呼ばれるわけないし…後、私の名前」
「あっ…いけない…」
「私は名前を名乗ってませんよ?」
しまったというような顔をして、彼女は苦笑いを浮かべる。
別にアルセ自身、司書に誰が来ようと構わないし、自分も魔物だから偏見を持っている訳ではない。
ただ、今まで会った魔物の中でも、とても強い力を持つ魔物だという直感が、彼女の好奇心をくすぐっていたのだ。
「ん〜、人間にも魔物にも、ここに来てからまだばれてなかったんだけどなぁ〜匂いが漏れてたなんて、ちょっと気を抜いちゃったみたいね〜」
「貴女は……」
「…私はラミア種よ〜誰だと思う?」
「………エキドナ?」
「当たり♪」
ルーイェはにこりと笑いながら、アルセにウインクをした。
膨大な魔力と豊富な知識、そして端々に現れる母性。
それはラミアやメデューサとは一線を画すものだった。
ふと気づくと、周りにはいつの間にか誰も居ない。
つい探し回ってしまったり、話に夢中になってしまったりで、気が付いた時には既に閉館間近の時間となっていた。
差し込む夕日が、ほんの僅かに図書館の入り口から館内を照らしている。
「…それはともかく、閉館の時間ね…」
「あ…本…」
アルセは油断していた。
完全に薬学書を忘れていたのだ。
だが、ルーイェはニコニコと笑っている。
「ん〜ちょっと一緒に来て、薬学書は丁度入れ替えようと思って、全部移動した後だったのよ」
「…全部ですか?」
「全部」
薬学書だけでも500冊以上あったはずだ。
それを今日着任して1人で全部移動したとなると、転移魔術を駆使したところで簡単ではない。
彼女はそれをあっさりやってのけている。
それに始めは気づかなかったが、他の棚も先日よりも整理されているし、系統ごとに分けられて入れ直されている棚もある。
彼女の整理・移動は尋常ではなかった。
アルセが棚の変化に気づいたのを見て、ルーイェはニヤリと、口唇を吊り上げた。
「うふ、私の検索と移動の術は自慢なのよ〜」
「…みたいですね」
「今日はね、魔術書とか料理書を片し終えて、閉館後に薬学書を入れなおそうと思ってたのよ」
本の貸し出しの予約を受けるカウンターまで来ると、彼女はさて、どの本が欲しい?
そうアルセに問いかけた。
「えっと…ブラックハーブについての記述がある本と…あの茸…なんだっけな…ジパング産の猛毒の茸で真っ白い奴なんだけど…」
「あ〜、『死の天使』ね…茸の本とハーブの本だったら…よいしょ…っと」
ルーイェはカウンターをひょいと乗り越え、向こう側に立つと、何やら一言二言呟いた。
途端、図書館の中の魔力の流れが変わる。
どこかで何かが動く音がして、気が付くと、カウンターに2冊の本が置かれていた。
「はいよっと、ジパングの茸ならこの本が一番良いかな、ハーブは…ちょっと迷っちゃったけど、多分これが分かり易いわね」
「ちょっとって…」
3秒も掛かってない…その間に該当書物の検索と選定をしたというのか、その速度と精度に驚かされてしまった。
「じゃあこれ、貸し出しにしておくわね」
「あ……は…はい、ありがとうございます」
「うふふ…気をつけて帰ってね、また本が借りたければここにいらっしゃい、私はここに永久就職だから、いつでもいるわよ」
「永久?、あ……分かりました、よろしくお願いします」
必要書類に記入し、本を受け取った彼女は、そのままルーイェに背を向け、図書館の出入り口に向って歩き出した。
すると、ルーイェがアルセの背中に声をかけてきた。
「私、貴女のことが気に入っちゃった、また時間があったら私の所に来てね、ゆっくり可愛がってあげるから♪」
「!、か……考えて…おきますね」
「♪、元気でね〜」
アルセは魔物の中にも変わり者、女好きがいるのだろうか?、などと考えてしまったのだった。
しかし、流石は魔物の母と呼ばれるだけのことはあり、笑顔を崩さない優しげな態度と柔らかい言葉使いに潜む、母性に惹かれてしまっていた。
彼女は内心ドキドキしながら、しかしそれは表に出さずに、図書館を後にした。
それからというもの、アルセは卒業するまでの間、学業に力を入れながらも、時間を作って図書館に通い詰めた。
母親のように接してくれるルーイェとのおしゃべりや手伝い、時折勉強を教えてもらったりと、その関係は良好の極みだった。
そして、アルセが高等学部を卒業し、魔物のギルドに参加してからも、ルーイェはずっと図書館の司書をしていた。
時折、アルセが遊びに来たり、2人きりでどこかへ出かけている姿が確認されているところを見るに、友人以上の関係だったのかもしれない。
その後、2人はそれぞれ相手を見つけて結婚しているが、彼女達が家族ぐるみの付き合いをしているのは言うまでもない。
〜あとがき〜
2人が聖皇暦326年に勃発した戦争を潜り抜けて生存していることは確認されている。
彼女達、特にルーイェについての記録は数多く残されており、彼女はこれ以後、長期間に渡って国立図書館の司書として、たまに助手を雇ったり、復帰した魔女達と協力して、書物を収めている。
この本が出版された時点で、彼女が納本した冊数は実に数百万冊とも言われているが、それは定かではない。
また、卒業後もアルセとは深い関係だったらしく、アルセが任務に失敗し敵の手に落ちた時はこっそりと助けに行ったりもしている。
どうやら、アルセの救助に向うまでは彼女はエキドナであることを誰にも話しておらず、ばれない様に隠蔽していたようだ。
その理由については不明だが、一説では魔王軍の重鎮だったために、身を隠すために隠蔽を行っていた、という話もある。
彼女については彼女をこの学院に紹介したデュラハンが何か事情を知っているらしいが、そちらの確認は取れていない。
アルセに関しては記録は少ないものの、この後ギルドの活動に精力的に取り組み、同期のスライムと活動を共したという記録が残っている。
――――――――――――――――――――
少女は本を置き、図書館のカウンターに視線を移した。
視線の先には緑色の長髪をなびかせながら、自分と同じ司書である魔女達に指示を飛ばすエキドナ(人型)の姿が有った。
少女自身も知らなかった、彼女がエキドナという希少種族であり、この図書館に勤め始めてもう随分と長い時間が経っている事に。
ふと、エキドナと目が合った気がした。
妖艶な笑みを浮かべる彼女をあえて見ないように、少女は本を顔の前で開いた……
今とは異なり、魔物と人間が激しく対立していた時代、その時代の犠牲となった人間、魔物の事を考えながら、彼女は項を捲る。
次の記述は条約締結後まもなくの、魔物側ギルドの養成機関に通う1人の魔物とそこに勤め始めた一人の司書の手記を書き起こしたものである。
――――――――――――――――――――
・聖皇暦316年初頭
親魔物領、エリスライ。
元々は聖王都と呼ばれる大陸最大の都市グラネウスに次ぐ、第二の聖王都であった。
だが、魔王交代の折、突然エリスライの首長が聖王都グラネウスに対して反旗を翻す。
その理由は今もって不明だが、この動きに同調する都市が相次ぎ、聖王都側は大陸の各所で戦線を分断され、一気に窮地に陥ってしまう。
20を超えるほどの騎士団は壊滅、大陸の7割以上の支配権を奪われながら、辛うじて停戦条約を結び、1年を経過し、今に至る。
現在、ここは親魔物派にとっての王都であるが、反魔物派からは畏敬を込めて魔都エリスライなどと呼ばれている。
魔都では条約締結後のギルドの創設に当たり、教育機関も同時に立ち上げていた。
名を国立ネーフィア学院。
ギルドと同じく、創設されてから1年が経つ。
主目的は騎士団からの流入者や魔物達の協力を受けて、人や魔物に教育を行うというものだ。
人の常識と魔物の常識、この2つは簡単にすり合わせることが出来ないことを当時の人間達と魔王軍幹部達は十分に把握していた。
よって、この学院には人と魔物が一堂に会し、勉学に励んでいる。
初等部・中等部・高等部・研究室と一通り揃っており、内容は騎士団の剣術から、魔道学門まで多岐に渡る。
とにかく広い敷地の中には剣術の訓練所、薬草用の庭園、大図書館と設備も揃っている。
とある、高等部では現在、薬草学の講義の時間であった。
教壇にはアルラウネが1人、調合する材料の種類や分量を黒板に細かく記載している。
「はーい、ではこちらの黒いハーブとそっちの真っ白な茸を調合して媚薬を調合してね〜」
「先生…学校で媚薬…ですか?」
アルラウネの教師の言葉に、生真面目な赤いスライムが苦言を呈した。
が、しかし、アルラウネ自身はケラケラと笑い、まったく問題にしない。
「完成品は是非、彼氏彼女に使ってみてくださいね〜」
「…またそういうことを…」
20人ばかりが集まる教室で、材料をゴリゴリと磨り潰す音が響く。
量りを使い、mgレベルの精度での調合が要求される。
「作る薬は媚薬だけど、調合の難易度は高めだから気をつけて〜」
「は…はい…うわっ」
教師の注意を受けた傍から、人間の男子学生が、薬草と茸に混ぜる薬液の量を誤り、煙を上げてしまった。
モクモクと顔に掛かる煙を吸い込み、彼の頬がみるみるうちに紅潮していく。
「あらあら、媚薬を気化させちゃったのね〜」
「す…すみません…」
「あら、いいのよ〜、その媚薬は精力剤でもあるから、つらいでしょ〜、私が何とかしてあげるわ〜」
「え…あの…えっ…蔦が…なんで、隣の、教員待機室に、引っ張っていくんですか?、ちょ…ま…」
彼はあっという間に蔦で絡め取られ、アルラウネ種に有るまじき速さ動く教師に、ズルズルと隣の鍵の付いた教員待機室に引きずり込まれていった。
扉を閉める前に、戻ってくるまで各自調合を続けるように、と言付け彼女は扉を閉め、鍵をかけた。
「は〜い、頂きま〜す」
「アッー」
中から聞こえてくる声は楽しげでもあり、艶やかでもあった。
他の学生はやれやれと言った所。
教育レベルは高いものの、魔物の教師が男子学生を摘み喰いしたり、人間の男性教師が魔物の学生に摘み喰いされたりという事案が割と起きる。
それでも普段は学生も教師も真面目に取り組んでおり、学問がおろそかになるという事はほとんど無い。
アルラウネがつやつやした顔で、げっそりした男子学生を引き摺って戻ってくる頃には、連れ去られた男子学生以外全員が調合を終え、講義の時間も終わりになっていた。
教師は各学生の調合薬の出来栄えを見て回り、問題が無いことを確認すると、教材をまとめて締めに掛かった。
「は〜い、皆さんよく出来ているので、OKですよ〜、ただしさっきの君は全然出来てないので今日の放課後私のところに補講に来る事〜」
「なっ…」
「むふふ〜、みっちり身体に教えてあげるわ〜」
ガタガタと震えだした哀れな学生を他所に、講義は終了し学生達はそそくさと教室を去っていった。
「アルセ〜帰りどこか寄ってくの〜?」
「ん〜、今日は図書館」
「んげ…真面目なんだから…じゃあ私帰る〜」
アルセと呼ばれたレッドスライムは本日最後の講義、薬草学の復習を行うため、図書館で本を借りてこようと考えていた。
図書館は研究室の入っている棟の隣に併設されている。
図書館は外側も内側も真っ白塗装された地上5階・地下4階建ての建物であった。
日中、講義が行われる時間であっても、図書館については国立図書館として開放されており、夕方のこの時間においても人が多かった。
アルセは通行人を避けつつ、植え込みに足を踏み入れないように気をつけながらズリズリと舗装された石畳を歩く。
やがて、真っ白な図書館へ辿り着き、彼女は中に入った。
内部は所狭しと本棚が並べられ、中に本が入れられている。
が、しかし未だ建設されて一年と少しで、本の数自体はまだ少ない。
それでも、人間の研究書、魔物の魔術書等々、合わせても5万冊に届かないだろう。
「えっと…薬学の棚は…」
アルセは教室の10倍以上の広さを持つ館内をフラフラと、薬学書の棚を求めて歩いている。
1階閲覧室には人が疎らにおり、それぞれが思い思いの書物を手に取っている。
(ん〜調べるのは黒いハーブと茸だから…)
この図書館は所書物の重要度に応じて所蔵される場所が変わる。
一般に流通し、貸し出した後、自宅まで持ち帰ることが許される書物は1階と2階に、希少性の高い本は3階と4階でこちらは持ち出すことが出来ない。
そして、禁書や魔術書、希少本の類は地下に所蔵される。
アルセが今探しているのは一般的に知られている薬学書と、ジパングの茸が載っている本だった。
「あれー…前はこの棚にあったのになぁ…」
「お探し物かしら?」
「!?」
3日ほど前に薬学書を身に来た時に有った棚には今は何も入っていない。
その状況に悲観していた彼女の背後から、突然少し低い女の声が響いた。
突然の事に、彼女はスライムである事を忘れたかのように飛び上がり、思わず腰をついてしまった。
「大丈夫?」
「ぃ…はい…」
腰砕けになりながらも、何とか後ろを振り向いたところ、そこにはニコニコと微笑む緑色の長髪をした女性が立っていた。
首や手に蛇の装飾品を身にまとっているが、上半身と下半身の衣服はとても露出が高く、夜のお店で踊る踊り娘のような姿をしている。
特にスカートがとても短く、膝を少し上げるだけで、見えてはいけない部分が見えてしまいそうだった。
「…怪我はして…無いわよね♪」
「そ…そうですね…」
差し出されたしなやかな手を取り、引っ張り上げられるように体勢を立て直した。
アルセはお尻の辺りを擦りながら、辺りをきょろきょろしている。
「驚かしてごめんなさいね、何かを探しているようだったから」
「大丈夫です、それよりも、ここの棚にあった薬学書を探さないと…司書さんって…どこにいるかな…はぁ…」
「あら〜、これまたごめんなさいね、私今日からここの司書をやることになったのよ〜、探し物があるなら私がやるわよ?」
「んな……前任の魔女さんは?」
「過労で倒れたわ」
あっけらかんと笑いながら彼女は言った。
何でも、納書の冊数が一日ごとに増えていき、今ある蔵書を片付ける前に、それよりも更に多くの次の蔵書が届くため、処理がまったく追いつかないらしい。
前任の司書である魔女5人は全員が過労で倒れてしまっていたそうだ。
そして、今日付けで自分が5人の代行として着任したと話した。
「…転移魔術とか駆使しても…だめだったんですか?」
「全然…強いて言えば…本棚を収めるのは楽だったくらいかしら」
「あらら…」
「それよりも、薬学書よね?」
「はい」
司書はくるりと、アルセに背を向け、コツコツと歩き始めた。
アルセも彼女に続いて歩き出したのだが、気にあることが2点あったらしく、司書に問いかけた。
「そういえば司書さん…お名前聞いても良いですか?」
「?、私はルーイェよ…よろしくね、アルセちゃん♪」
「…後もう1つ……」
「?」
アルセは僅かに言葉を濁らせた。
彼女の予想している事は、ある種失礼に当たるケースもあるからだった。
それは…
「…ルーイェさんは…その……魔物ですか?」
「…どうしてそう思ったの?」
「この学院にいるどの魔物よりも……とっても匂うんです………とっても濃い…魔の匂い…」
ルーイェから立ち込めるのは何百年も魔道の研究に明け暮れた者の濃い魔力の匂いだった。
そして、彼女は魔女5人の代行に呼ばれていた事。
ルーイェが立ち止まり、振り返った。
その表情はいたずらがばれた子供のようだった。
「…」
「……魔女の5人の代行にただの人間が呼ばれるわけないし…後、私の名前」
「あっ…いけない…」
「私は名前を名乗ってませんよ?」
しまったというような顔をして、彼女は苦笑いを浮かべる。
別にアルセ自身、司書に誰が来ようと構わないし、自分も魔物だから偏見を持っている訳ではない。
ただ、今まで会った魔物の中でも、とても強い力を持つ魔物だという直感が、彼女の好奇心をくすぐっていたのだ。
「ん〜、人間にも魔物にも、ここに来てからまだばれてなかったんだけどなぁ〜匂いが漏れてたなんて、ちょっと気を抜いちゃったみたいね〜」
「貴女は……」
「…私はラミア種よ〜誰だと思う?」
「………エキドナ?」
「当たり♪」
ルーイェはにこりと笑いながら、アルセにウインクをした。
膨大な魔力と豊富な知識、そして端々に現れる母性。
それはラミアやメデューサとは一線を画すものだった。
ふと気づくと、周りにはいつの間にか誰も居ない。
つい探し回ってしまったり、話に夢中になってしまったりで、気が付いた時には既に閉館間近の時間となっていた。
差し込む夕日が、ほんの僅かに図書館の入り口から館内を照らしている。
「…それはともかく、閉館の時間ね…」
「あ…本…」
アルセは油断していた。
完全に薬学書を忘れていたのだ。
だが、ルーイェはニコニコと笑っている。
「ん〜ちょっと一緒に来て、薬学書は丁度入れ替えようと思って、全部移動した後だったのよ」
「…全部ですか?」
「全部」
薬学書だけでも500冊以上あったはずだ。
それを今日着任して1人で全部移動したとなると、転移魔術を駆使したところで簡単ではない。
彼女はそれをあっさりやってのけている。
それに始めは気づかなかったが、他の棚も先日よりも整理されているし、系統ごとに分けられて入れ直されている棚もある。
彼女の整理・移動は尋常ではなかった。
アルセが棚の変化に気づいたのを見て、ルーイェはニヤリと、口唇を吊り上げた。
「うふ、私の検索と移動の術は自慢なのよ〜」
「…みたいですね」
「今日はね、魔術書とか料理書を片し終えて、閉館後に薬学書を入れなおそうと思ってたのよ」
本の貸し出しの予約を受けるカウンターまで来ると、彼女はさて、どの本が欲しい?
そうアルセに問いかけた。
「えっと…ブラックハーブについての記述がある本と…あの茸…なんだっけな…ジパング産の猛毒の茸で真っ白い奴なんだけど…」
「あ〜、『死の天使』ね…茸の本とハーブの本だったら…よいしょ…っと」
ルーイェはカウンターをひょいと乗り越え、向こう側に立つと、何やら一言二言呟いた。
途端、図書館の中の魔力の流れが変わる。
どこかで何かが動く音がして、気が付くと、カウンターに2冊の本が置かれていた。
「はいよっと、ジパングの茸ならこの本が一番良いかな、ハーブは…ちょっと迷っちゃったけど、多分これが分かり易いわね」
「ちょっとって…」
3秒も掛かってない…その間に該当書物の検索と選定をしたというのか、その速度と精度に驚かされてしまった。
「じゃあこれ、貸し出しにしておくわね」
「あ……は…はい、ありがとうございます」
「うふふ…気をつけて帰ってね、また本が借りたければここにいらっしゃい、私はここに永久就職だから、いつでもいるわよ」
「永久?、あ……分かりました、よろしくお願いします」
必要書類に記入し、本を受け取った彼女は、そのままルーイェに背を向け、図書館の出入り口に向って歩き出した。
すると、ルーイェがアルセの背中に声をかけてきた。
「私、貴女のことが気に入っちゃった、また時間があったら私の所に来てね、ゆっくり可愛がってあげるから♪」
「!、か……考えて…おきますね」
「♪、元気でね〜」
アルセは魔物の中にも変わり者、女好きがいるのだろうか?、などと考えてしまったのだった。
しかし、流石は魔物の母と呼ばれるだけのことはあり、笑顔を崩さない優しげな態度と柔らかい言葉使いに潜む、母性に惹かれてしまっていた。
彼女は内心ドキドキしながら、しかしそれは表に出さずに、図書館を後にした。
それからというもの、アルセは卒業するまでの間、学業に力を入れながらも、時間を作って図書館に通い詰めた。
母親のように接してくれるルーイェとのおしゃべりや手伝い、時折勉強を教えてもらったりと、その関係は良好の極みだった。
そして、アルセが高等学部を卒業し、魔物のギルドに参加してからも、ルーイェはずっと図書館の司書をしていた。
時折、アルセが遊びに来たり、2人きりでどこかへ出かけている姿が確認されているところを見るに、友人以上の関係だったのかもしれない。
その後、2人はそれぞれ相手を見つけて結婚しているが、彼女達が家族ぐるみの付き合いをしているのは言うまでもない。
〜あとがき〜
2人が聖皇暦326年に勃発した戦争を潜り抜けて生存していることは確認されている。
彼女達、特にルーイェについての記録は数多く残されており、彼女はこれ以後、長期間に渡って国立図書館の司書として、たまに助手を雇ったり、復帰した魔女達と協力して、書物を収めている。
この本が出版された時点で、彼女が納本した冊数は実に数百万冊とも言われているが、それは定かではない。
また、卒業後もアルセとは深い関係だったらしく、アルセが任務に失敗し敵の手に落ちた時はこっそりと助けに行ったりもしている。
どうやら、アルセの救助に向うまでは彼女はエキドナであることを誰にも話しておらず、ばれない様に隠蔽していたようだ。
その理由については不明だが、一説では魔王軍の重鎮だったために、身を隠すために隠蔽を行っていた、という話もある。
彼女については彼女をこの学院に紹介したデュラハンが何か事情を知っているらしいが、そちらの確認は取れていない。
アルセに関しては記録は少ないものの、この後ギルドの活動に精力的に取り組み、同期のスライムと活動を共したという記録が残っている。
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少女は本を置き、図書館のカウンターに視線を移した。
視線の先には緑色の長髪をなびかせながら、自分と同じ司書である魔女達に指示を飛ばすエキドナ(人型)の姿が有った。
少女自身も知らなかった、彼女がエキドナという希少種族であり、この図書館に勤め始めてもう随分と長い時間が経っている事に。
ふと、エキドナと目が合った気がした。
妖艶な笑みを浮かべる彼女をあえて見ないように、少女は本を顔の前で開いた……
10/06/26 16:26更新 / 月影
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