穏やかな夜のヒトトキ
桜の花も散り、葉桜となって久しい今日。山も野も咽返るような深緑に包まれ、
力強い生命の息吹を感じる皐月を迎える。田には水が引かれ、秋の豊作を祈りながら
熱心に苗植えを行う人の姿が見える。泥まみれになりながらも、まだ見ぬ、そしてきっと
訪れるであろう収穫の時を思うその顔は、見ているこちらもつられて笑ってしまう良い笑顔をしていた。
そんな深緑の季節ではあるが昼間の暑さに比べ、朝夕にはまだ肌寒さを覚える。
しかし、その寒暖の差こそ豊穣の秋を迎えるには必要となるものだ。
強く、逞しく成長するだけではない。気温の差は、収穫物の味をより高めてくれる重要な要素だ。
そしてそんな肌寒さも、人にとっても決して悪いことだけではない。
夜の心地よい冷気は酒に酔い、火照った身体を優しく冷ましてくれる。
そして冷え、覚めた身体は、暖を求め再び酒を求める。
やがて程よく酔えば、心地良さに包まれ、ついつい饒舌にもなろう。
ましてや、隣に愛するものがいれば、それはなおさらである。
酒に酔い、そして愛する人と穏やかに愛を、思い出を語り合う。
これはそんな、少しだけ肌寒い、だけど穏やかな夜のヒトトキを切り取ったお話。
− ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ −
雲ひとつ無い、白く真ん丸の月が優しく輝く静かな夜。
縁側に座り、そっと家の外に耳を傾ければ、待ちわびたと言わんばかりに蛙の合唱が水田から聞こえる。
その耳を家に傾ければ---トントントン、と包丁と俎板が奏でる音が響く。火にかけた鍋からはグツグツと
煮立った音。音のする方へ向き直れば、台所で忙しそうに料理を行う彼女の姿が見える。
腰まで伸びた長く美しい髪---透き通る様な黄金色---をしたそれは、今は料理の邪魔にならないよう、
薄紅のリボンで1つにまとめられている。
人のそれとは全く異なる、頭部にあるその狐耳は、焼き過ぎぬよう煮過ぎぬよう忙しなく
ピクリピクリと動き音を聞き分けている。腰部に生える4本の尻尾は、今は上機嫌にゆっくりと左右に揺れていた。
「ん……そろそろでしょうか」
そう呟きながら鍋の蓋をそっと開ける。鍋の中では程よく茹だり、さやの縁が開いた枝豆が見える。
いい具合だと判断した彼女は中身をザルに開け、水切りを行う。
程よく水気が取れたそれを皿に移し替え、縁側で待つ彼の元へと持っていく。
「旦那様、枝豆が茹で上がりましたよ」
嬉しそうに笑いながら近づいていく彼女に、『旦那様』と呼ばれた彼が振り向く。
「待ちわびたよ」
そう言った彼の顔は決して待ちくたびれた顔ではなく、むしろ待つことを楽しんでいた顔だ。
持ってきた皿を、縁側に置いていた小さな机に置くと、すぐに彼女は身体の向きを反転させる。
「申し訳ありません。あと2品ですから」
そう言って笑顔の彼女は再び台所へと戻っていく。
台所へと戻っていく彼女---稲荷と呼ばれる、ここジパング固有の魔物---からふと、彼女がおいて行った枝豆に目が移る。
机に置かれた茹でたての枝豆からは、美味しそうな湯気と匂いが立ち込めており思わず手が伸びてしまう。
そんな彼の行動を見透かされた様に、台所から彼女の声が飛んでくる。
「旦那様ー!先に食べ始めてていいですからねー!」
縁側を一切振り向かずに放った彼女の言葉に、思わず伸びた手が止まる。
見られているわけでもないのに、ンンっとバツが悪そうに喉を鳴らし、伸ばしていた手をゆっくりと戻す。
「大丈夫さ、全部出来るまでちゃんと待っているよ」
そう彼女に答えるものの、クスクスと口元を抑えながら笑う彼女の声が聞こえた。
すべてお見通しか、そう小さく呟き笑う彼は、せめて直ぐに食べ始めれるよう2つの盃へ酒を注ぐ。
やがて直ぐに、よし、と小さな彼女のつぶやきとともに残りの2品が運ばれてくる。
「お待たせしました、旦那様。本日のお料理が整いましたよ」
「ほぅ……、鮎と厚揚げか。酒の肴によく合いそうだ」
彼女の左手には串に通した形の良い鮎の焼き物が4匹、そして右手には厚揚げの上にたっぷの長ネギを刻んだものが乗っていた。
どちらからも食欲をそそる香ばしい匂いを放っており、もはや待つのも限界といったところだ。
おもちゃを前にした子供のように忙しない彼に微笑みながら、彼女も彼の隣へと座る…
「それじゃあ、さっそく……いただきます」
「はい……召し上がれ」
手を合わせ大地の恵みに、そして何よりも作ってくれた愛する妻へ感謝を向ける。
さっそく先程から気になって仕方がなかった枝豆に手を伸ばすが、掴む直前ふとあることに気が付き手を止める。
「ん……?綾、塩が振られてない無いようだが……」
見ると確かに塩が振られていない。塩茹でにしているため塩気が無いということは無いのだが。
彼女も塩を降るのを忘れたことに気がつき、両手で口を隠すようにし
「あぁ……!申し訳ありません、直ぐにお持ちします!」
慌てて塩を取りに行こうと立ち上がろうとするが
「いや、わざわざ取りに行かんでもいいさ」
そう言って立ち上がろうとする彼女を制止する。
「ですが……」
「なに、たまにはよかろうよ。それに……」
そう言いながら彼は豆を口へ放り込む。むぐむぐと味を噛み締めながら食べ、言葉を続ける。
「それに、綾の抜けてるとこは今に始まったものではなかろうよ」
少しだけ意地悪に笑いながら彼女を見る。顔を赤く染めながら、彼から視線を逸らし恥ずかしがる彼女は何とも可愛く、
ついつい此のように意地悪をしてしまう。
「ふふ……だが、ちゃんと俺好みの少し固めに茹でてある……とても美味しいよ」
その言葉を聞いた彼女の顔がパァっと明るくなる。シュンっと垂れていた4本の尻尾も今は嬉しそうに左右に揺れている。
よかった、とホッとひと安心する彼女。そして彼に倣い、枝豆を口に含む。少し固めに茹でた枝豆は程よい食感で、
ゆっくりのんびりと味わうには非常に適していると言える。
「ふふ、美味しいです」
彼女の顔に笑顔が戻ったことを確認し、彼は盃を持ち彼女の方へ差し出すようにする。
彼女もまた、盃を両手で---右手は親指と人差し指で挟むように、左手は糸底に添えて---持ち、
彼の差し出した盃へ近づける。
「「乾杯」」
チンっと小さくぶつかる音が夜の闇へと静かに広がる。やや辛口のキリっとした味わいの中にも、米の仄かな甘さを感じる。
喉越しを越えれば、ポっと胃が熱くなるのを感じながら、口内の残り香を鼻で味わい、余韻に浸る。
「旦那様」
「ん」
彼女が徳利を差し、空いた盃へと酒を注ぐ。こうして静かで穏やかな宴が幕を開けた。
「旦那様、こちらの厚揚げは自信作なんですよ!」
酒と枝豆、鮎を味わい、次は厚揚げを食べようとした時、彼女が嬉しそうに身を乗り出しながら彼へ勧める。
「なんと!1から私が手作りしたものなんですよ!」
なんでも、先日隣家から枝豆を頂いた際に、一緒に大豆も頂いたそうだ。
頂いた大豆をどのような料理で彼を喜ばせようかと考えた抜いた末に、色々な料理に組み合わせられる豆腐にしたそうな。
今回はそれを軽く揚げ、長ネギを刻んだものに七味、目の細かい鰹節、醤油を掛けたものだという。
初めての試みではあるものの、成果については上々のようだと彼女談。
「なるほど、そいつは楽しみ…だ……?」
一口大に別けられたそれを取ろうとしてまた手が止まる。どうやら彼女は本日2度めの失敗をやらかしたらしい。
「綾……醤油がかかってない」
「ふぇ!?」
上機嫌にしゃべっていた彼女の口が止まる。慌てて見るも、確かに醤油は掛かってなさそうだ。
どうやら最後に醤油をかけようとして忘れたらしい。何とも彼女らしい抜けっぷりだと言える。
「す、すぐにお持ちしますから!待ってて下さい!」
慌てて立ち上がり、台所へと足早に向かう彼女。その後姿を見ながら、くっくと苦笑にも似た笑いが彼の口から零れ落ちる。
本当に間が抜けているな、と胸中で呟きながらも、それが愛おしくたまらない。
直ぐに醤油差しを持ってきた彼女が、厚揚げへとそれを掛ける。慌ててはいるものの、決して掛け過ぎず少なすぎず。
こういった時は失敗しないのだから、全く以て不思議なものだ。
「お、お待たせしました、お召し上がり下さいませ……って何故頭を撫でるのですか!」
「いや、なんとなくな」
笑って誤魔化そうとする彼女に思わず手が伸びてしまった。撫でられた彼女も何だかんだ言いながら顔が綻んでいる。
そんなやり取りをしながらも、ようやく彼女の自信作を味わう時が来た。
「それでは早速……」
1口大のそれを小皿へ取り、いざ口へ入れようとした時、また彼の動きが止まる。
ふと横を見れば、正座の状態で両手を膝に起き、身を乗り出すようにしながら彼を見つめる彼女がいた。
尻尾は少し下がり気味で小刻みに左右に揺れている。
尻尾から類推するに、自信作と言ったものの初めての試み故の不安といったところだろう。
そんな彼女を尻目に、厚揚げを口へ入れようとするが……
「あっ……」
思わず彼女の口から零れた一言が、今まさに口へ頬張らんとした彼の動きを止める。
目だけを彼女へと向けると、先ほどの笑顔はどこへやら。笑顔は消え不安そうな顔をしている。
毎度のことではあるが、初めの試みを披露する際、彼女は非常に臆病になる。
心配するだけ杞憂だというのに、そう胸中で苦笑する。かつて一度たりと彼女の作った料理にハズレなどなかった。
いや、たとえハズレだろうと、それは決してハズレになるはずがないのだ。なぜなら彼女が作ってくれたのだから。
だからこそ、そんな愛おしい彼女に意地悪もしたくなるのだ。
彼女が何かを言う前に厚揚げを口の中へ。目をつぶり、ゆっくりと咀嚼する。
香ばしく揚げられた外身と対照に、ふっくらと暖かく甘みの広がる中身。そしてその味を引き立てる薬味達。
間違いなく絶品と言える代物だ。
ちらりと薄目で彼女を見るとまだ不安そうにこちらを見ている。そんな彼女に対し彼は
「うぐっ!」
突然呻き声を上げながら口を抑え蹲る。無論、わざとであり、彼女の料理に非の打ち所などなかったのだが。
「…っ旦那様!」
まさか蹲るとは思わなかった彼女。慌てて彼の背中を擦り、少しでも楽になるようにする。
彼の反応に、彼女の胸中はまさに混乱の中にあった。味が悪かった?薬味を掛け過ぎた?まさか異物が……?
混乱した頭の中でも、兎に角愛する人を救わねば、と最適解を見つけ出し動く。
「だ、旦那様、今お水を……!」
そう言って立ち上がらんとする彼女の腕を、彼が掴み制止する。
「だ……旦那様?」
蹲ったかと思えば、腕を掴まれ制止される。そして蹲った状態からゆっくりと顔を上げ、笑顔で彼女へ味を伝える。
「旨い!」
瞬間、彼女は驚きながらもゆっくりと顔色を変えていく。
また良いように騙されてしまった事に気が付き、恥ずかしさと安心、そして意地悪な彼へのほんの少しの怒りが彼女の顔を赤く染めた。
はじめは上手く言葉が出ずに口を開けては閉じていた彼女ではあるが、
「も、もう!お戯れが過ぎますよ!!もう酔っておられるのですか!」
ほんのりと目に涙を潤ませ、ポカポカと彼の胸を叩きながら彼を叱る。そんな彼女のお叱りを受けながらも、彼は嬉しそうに笑う。
怒った顔も、怒った時の行動も可愛らしく、これだからやめらないのだ。自分の思い通りの結果になり、胸中で歓喜する。
だがプクーっと右頬を膨らませ怒った顔を作りながら、彼女のお叱りは止まらない。
「もう!もう!本当に、本当に心配だったんですからね!」
だが彼女のお叱りなど何処吹く風ぞ、と言わんばかりに笑いながら酒を口に含む彼。
とは言えど、流石に悪戯が過ぎたかと反省、彼女をなだめねば。
「聞いておられるのですか!旦那さま……んっ」
顔を近づけ怒る彼女の顎をそっと上げ、優しく口吻を交わす。
突然のことに、反応が追いつかない彼女。だが、直ぐに理解するやいないや、自らも彼に合わせるよう唇を動かす。
「ん……んく…っん……んぅ……ぁ……♥」
ゆっくりと、口に含んだ酒を彼女へと移していく。唇から零れてしまわぬよう、ゆっくりと長く。
悪戯した分のお詫びと言わんばかりの甘いその口吻は、彼女の沸き出た小さな怒りなど容易く消し去る。
口内の酒がすべて彼女へ渡った後も、互いの唇は離れることはなく、蕩けるような甘い口吻は続く。
やがてゆっくりと離れた唇からは、まだ離れたくないと主張するように、2人の繋がりを保とうと細い糸を引いていた。
「すまんな、愛おしさ故に、つい意地悪をな」
「……もう……旦那様は狡いお方です…♥」
先ほどとは異なる意味で顔を赤くしながらも、蕩け、幸せな顔を見せる。
彼女の尻尾もまた、嬉しそうに左右にフリフリと揺れていた。
「こんな風にされたら……もう…怒れないじゃないですか…」
そっと彼の胸に顔をうずめる彼女を、彼が優しく抱きしめ撫でる。
「美味しかったよ、とても」
「……はい、ありがとうございます」
暫く続く沈黙の間、ただただやさしく彼女の頭を撫で続けた。
やがて宴はすすみ、肴も酒も残りわずかとなる。1日の出来事を、人伝に聞いた噂話を、そして愛を語れば
いつしか時は穏やかに、されど夜空に流れる流星のようにあっという間に流れる。
酒に、愛しさ酔い、いつしか寝間着も崩れ、酒に酔い火照った身体は夜風に晒され寒さを覚える。
人肌恋しくなる頃、そっと彼女が彼の方に寄りかかる。
「旦那様……」
目を潤ませながら彼を見つめる彼女。乱れた寝間着の間からは彼女の豊満な、その身体が嫌でも目に入る。
「綾…」
そっと彼女の頭を撫でれば、それだけでは足りぬと言わんばかりに顔を擡げそっと目を閉じ彼を待つ。
彼もまた彼女に答えんと、そっと顔を近づける。ちょうどその時だった。
宴の間ずっと正座をしていた彼女が、彼に少しでも近づけるよう足を崩したせいだろう。
唇を交わそうと彼女の顔のその先、崩した左足のちょうど脹脛の部分に痛々しい傷跡があることに気がつく。
少なくとも跡であり、傷自体は完治しているように見える。しかし、傷が残っていることに驚きを隠せなかった。
彼女の種族のように、力ある魔物であれば傷跡も残らぬ様に治せるはずだが…
「綾…その足の傷跡は…」
無論、此の傷跡は彼にも心当たりが合った。だが彼は敢えてその理由を聞くことにした。
はっとし、慌てて傷を隠すように手で覆う彼女。恥ずかしい物を見られた様子で俯く。
「これは…その…」
責めているわけではない、だが何故その傷跡が残っているのか。優しく彼女の頭を撫でながら理由を問う。
俯いたまま、彼女は小さな声でその問に応える。
「……女々しき理由ではありますが…消したくなかったのです…」
だって、そう彼女が呟き彼の顔を見つめる。
「私が旦那様と………巡り会えた、奇跡の証なのですから…」
恥ずかしげに、悲しげに理由を述べた彼女。
あぁ…やはり、と胸中で彼が呟く。決して忘れはしない、彼女との出会い。
そっと目を瞑り、彼女との初めて出会いを思い出す。変化のない平坦な己の人生を変えた彼女との出会い。
「そうか……もう6年もの刻がたったのだな…」
− ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○
厳しく辛い冬を乗り越えた褒美と言わんばかりに、太陽は暖かな日差しを生きとし生ける全ての物へと注ぐ。
暖かな日差しと、雪解けの冷たい水で目を覚ました野山は生命の息吹に溢れかえっている。
桜はその身に花をつけ、見るものの心を奪う美しさを見せる。
龍神の加護を得るこの野山は、そこに生息する全ての動植物の成長を促す。
故に、この土地に生きるものは、その恩恵を受けながら、感謝の証として信仰を寄せる。
そして彼もまた、この土地に生きるものとして、その恩恵に与る者の一人だった。
この季節、野山はまさに山菜の宝庫であった。そこかしこに生えるそれは、非常に味がよく冬の間に失った栄養を補給するには
まさに打ってつけのものと言えよう。
取り過ぎぬように気をつけながらも、背負い込んだ籠一杯の山菜を抱える彼は、今まさに帰路に着こうとしていた。
「これだけ取れれば暫くは保つだろう」
籠一杯の山菜を前に思わず喜びを隠せず、辛い山登りで溜まった疲れもいつしか吹き飛んでいた。
今日はどれを使って晩飯を作ろうか、そんなことを考えながら山を降っていた時の事だった。
ふと耳に入ったのは、何かの獣の様な呻き声だった。
全てのものが目覚め、動き出すこの季節は恵みだけではない。
冬の間眠り続け、春の訪れ共に目を覚ます猛獣も少なからずおり、危険が伴う季節でもある。
碌な道具もなく、武術の心得など無い彼が襲われればひとたまりもない。
そんな嫌な予感に身震いし、さっさと降りようと決めた時、また呻き声が聞こえた。
はじめは猛獣の呻き声に聞こえていたものの、よくよく耳を凝らせば、どこか弱々しく、助けを求めるような声でもあった。
触らぬ神に祟りなし、そう思い山を降りようとするものの、何故かその声は彼の耳以外の場所にも響いていた。
山を降りるか、それとも声の主を一目見てからにするか。悩みぬいた上で彼は己の心の声に従うことにした。
最悪収穫した山菜は捨てて逃げればなんとかなろう、そう自分に言い聞かせて。
山中の森を、どこからかも分からぬその声を頼りに歩き続ける。あてもなく進みながらも、声は次第に大きくなっていく。
やがてその声の主は彼の目の前に表れる。木々の狭間に見えるは、小さな狐だった。
後ろ側の左足はトラバサミ---この土地では使用することを禁じられているはずのもの---に挟まれており、痛々しい傷と出血が見える。
血に濡れたトラバサミを見るに、挟まれてからだいぶ時間が経過していることが見て取れた。
周囲に同様の罠が仕掛けられていないか確認しながらも、急いで罠にかかった狐へと近づく。
しかし、己を襲いに来た、あるいは罠を仕掛けた者と思われたのが、むき出しにした歯と、フゥーっという唸り声で威嚇されてしまう。
言葉など通じるはずもない獣相手だ。ただただ罠にかかった狐は彼を威嚇し続けた。だが
「恐れなくていい…ちょっとだけ罠を外させてもらうだけだ…」
優しく敵意のない声で、彼は狐へと語りかける。無駄な行為と知りながらも彼は狐へと言葉を向けた。
威嚇し続け、だが足が挟まれ動けない狐にそっと手を差し伸べる。
「すまない……」
そう呟き、優しく狐の頭を撫でる。驚いた表情を一瞬見せた狐は、先ほどと打ってかわり突如威嚇をやめ、弱々しく伏せる。
「今外すからな、もう少しだけ我慢しておくれ」
触れたことのない罠のため、当然外し方も分からない。だが、出血をみる限りあまり時間をかければ死んでしまうかもしれない。
彼が行ったのは正面突破。すなわち、トラバサミの歯の部分をこじ開ける方法だった。
本来ならば歯の横にある棒状の部分を押して開くのだが…。
山菜取りで使用した鎌を間に入れ撚る。少し空いたスキマに枯れ枝を挟み、少しずつ間を広げていく。
少しずつ、だが確実に歯は開いていく。やがて、ある程度隙間が広がると、狐は自ら足を引き、罠から抜ける。
ほっと息を付くのもつかの間、罠を抜けた狐はふらふらと数歩歩き、そのまま座り込んでしまう。
思った以上に消耗が激しかったのかもしれない。
もはや威嚇をする体力もないのか、彼が抱き上げても暴れることのないその狐を抱いて彼は一目散に山を降りていった。
取った山菜の全てをその場において……。
「先生!いらっしゃいますか!」
村唯一の診療所に彼の声が木霊する。休憩中の札が掲げられた扉を、壊さん勢いで開け、
狐をその腕に抱きかかえ、息も切れ切れになりながら彼が飛び込んできた。
その大声に答えたのは、部屋の奥にいた初老の男性だった。
「そんな大声で怒鳴らんでも聞こえておるよ…」
またうるさいのが来たものだ、そんなニュアンスを含んだ声で先生と呼ばれた男は応える。
患者も来ないのんびりとした午後。自分の趣味に没頭していたのをいともたやすくぶち壊され若干不機嫌である。
「すみません、でも急患なんです」
そこでようやく彼の腕に抱かれているものが目に入る。急患とは言われたものの、彼が抱いているのは紛れも無く狐である。
「随分と『可愛らしい患者様』だ、私も診るのは初めての経験になるな」
趣味の時間を邪魔された挙句、専門外の患者を連れて来られたのだ。彼への返答は皮肉に満ちたものとなっていた。
「すみません…でもこいつ今にも死んでしまいそうで…」
確かに彼の言葉通り、随分と衰弱しきっている。放っておけば間違いなく死んでしまうだろう。
医者として、たとえそれが人でなくとも、目の前で救えなかったとなれば夢見が悪い。
「…早くこの台の上に置きなさい」
ため息を付きながらも、どうやら診てくれるらしい。急いで診察台に狐を載せると、先生の診察が始まる。
「ふむ…大分傷が深いな、出血も多いが…」
傷口周りを触りながら独り言ちる。
「だが、まぁどうにかなるだろう」
その言葉を聞き、彼の顔が明るくなる。だが、先生と呼ばれた彼の顔は未だ不機嫌そうだ。
「手術が必要だが、そばに喧しい奴がいればそれだけ手元が狂う。集中出来なければ救うこともできん」
彼の顔を冷めた目で見ながら先生は述べる。つまりは邪魔だから手術が終わるまでどこかに消えろ、という意味だ。
彼もどことなく察すると、頭を下げ
「よろしく…お願いします!」
そう一言告げ、診療所を出る。少し不安げに鳴く狐を一瞥し、大丈夫だよ、と呟きながら。
一方で、先生と呼ばれた男は、淡々と手術の準備を進める。不安そうに見つめる狐に、ふっと優しい笑みを浮かべ
「なーに心配すんな、私にかかれば直ぐに良くなるさ」
そうつぶやくと、優しく頭を撫で、早速手術にとりかかる。
「ほれ、終わったぞ」
診療所の外で待つ彼に、無事に手術が終わった狐を渡す。
左足には包帯と添え木が付けられてはいるが、出血自体はどうやらもう止まっているらしい。
「かなり傷が深く、骨にも届いてた。折れちゃいないが暫くは安静にしておくのと、化膿止めの塗り薬が必要だ」
手術の結果を短く彼へと告げる。
「先生…ありがとうござます!」
狐を受け取り、深々と頭を下げる。まるでそれは肉親を治療してもらったかの様だった。
「言葉よりも対価が欲しいのだがね」
だが彼の感謝も禄に受け取らず、告げられたのは治療代を払えと冷たいお言葉。
しかし、山菜取りに山に出かけた帰り。しかも山菜は狐を助けたところに置いてきてしまっている。
まさに無一文といった状態だ。
「あー…その…」
言いにくそうにしていると、先生と呼ばれた男は深くため息をつき、彼へと苦笑いを向ける。
「どうせ、そんな事だろうと思ったよ」
「すみません…でも、必ず後で…」
支払います、そう言おうとした彼の言葉を、男は遮る。
「だが……人間以外のものへの治療費なんて設定してないからな…」
そう呟くと彼へと向き直り、どこか意地悪で、だけど優しい笑みを向ける。
「お前さん、山に入ったんだろ?治療費は山菜の山盛りで許してやるよ」
「っ…すみません、ありがとうございます」
口は悪くとも、ちゃんと相手のことを理解してくれている優しいお医者様だ、そう胸中で呟き礼をする
言葉と共に深々と頭を下げるが、その頭に男の拳が当たる。
慌てて頭を上げると、彼に当てられた拳には紙袋が握られていた。
「朝夕の塗り薬だ。毎回私のところに来られちゃ迷惑で仕方ない。自分で薬を塗って包帯をかえてやんな」
紙袋の中身は、化膿止めの薬と清潔な包帯だった。
「先生…」
「はよ帰れ、私は忙しいんだ。あと治療費忘れるなよ」
そう言うと男は診療所へと戻る。
こちらを一切振り向くことなく戻っていく男の背中へもう一度深く頭を下げ、彼もまた帰路に付くことにした。
腕の中の狐を撫でながら
「さて、帰ろうかね」
と、優しく告げる。
こうして、彼と、左足に怪我を負った狐の生活が始まった。
「まずは名前をつけんとな」
家に帰り、客人用の座布団へ狐を置くと、腕を組みながら男が呟く。
少なくとも、元のように元気に歩ける状態になるまでは、助けたものの責任として育てようと決めたのだ。
しかし中々呼び名は決まらない。
「ポチ…いや犬のような呼び名だな…」
彼が新たな名前を呟くたびに、狐は悲しそうな顔で彼を見つめるのだが、当然のごとく彼は気づく由もなかった。
散々迷った挙句、どこか泣きそうな表情の狐を抱き上げ、彼は一つの名前に決める。
狐の気持ちを知る由もない彼のその表情は、とても嬉しそうで、でもその笑顔は狐に取ってあまりに残酷で。
「よし!お前の名前はゴン太。ゴン太にしよう」
キューン…と悲しそうな声で応えるものの、彼の心はもはや『ゴン太』となってしまった。
悲しそうな表情に気がつくこともなく、嬉しそうに『ゴン太』と呼び続ける彼。
「ははは、よし!ゴン太。傷が治るまでの間だが、よろしく頼むぞ…ん?」
名前も決まり、上機嫌となった彼が狐を抱き上げた際に、ふと何かに気がつく。
『ゴン太』と呼ばれたくない狐の気持ちに気がついたのかと思えば、そうではなかった。
抱き上げた狐の1点をじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「お前……メスか?」
瞬間、腕の中の狐が暴れ始める。
「わっ!ちょ、ちょっと落ち着け!何だ何だ?!」
理由もわからず暴れる狐を落とさぬよう、なんとか座布団の上へと下ろすものの、初めて出会った時、いやそれ以上に強く威嚇されてしまう。
いきなり暴れ始めた理由も理解できず、傷口が痛んだのかと勘違いした彼は、暫く『ゴン太』を見守るだけにした。
威嚇が終わったと思えば、くるりと己の身体を丸めるように伏せ、あさっての方向を向いてしまった『ゴン太』。
暫くは難儀しそうだと呟く彼は、『ゴン太』が何故暴れたかなど決して理解することはなかった。
その真意を知る由など、此の時は一切なかった。
『ゴン太』との生活は、あっという間に終わりを迎えた。
医者の見立てでは1ヶ月から2ヶ月程度時間が掛かると思われたが、4日で傷がふさがり、その3日後には元気に走り回ることが出来るほどにまで回復を見せた。
医者の腕が良かったのか、薬がよかったのか、はたまた『ゴン太』の生命力の強さか。
理由など知る由もないが、少なくとも彼の役目はもう終わってしまったのだ。
胡座をかいた彼の足の上に寝そべり、幸せそうに眠る『ゴン太』を優しく撫でながら、彼は悲しげな笑顔を見せる。
治るまで面倒をみると言ったもののの、まさかこんなに早く治るとは思ってもみなかった。
情がわき、いっそこのまま飼ってしまおうか、そんなことも考えた。
だが、元は野生の動物なのだ。野生で暮らすほうが幸せだろう。
そう判断した彼は、揺らぐ心を自制し、彼の足の上で寝ている『ゴン太』を優しく抱き上げた。
「さて、お別れのときかね」
小さく独り言ちながら、ゆっくりと立ち上がる。『ゴン太』も目を覚まし、キューンっと、どこか彼を心配するような声で鳴く。
その声に、再び心は揺れるものの、必死に耐えながら『ゴン太』を抱き、ゆっくりと山を登っていく。
やがて村から大分離れた山の森で、そっと『ゴン太』を降ろし、優しく頭を撫でる。
「ほれ、帰りな」
『ゴン太』は彼の手が頭から離れ、彼が立ち上がるのをただじっと見ていた。
やがて暫くその場でクルクルと悩む様に廻った後、彼を一瞥した『ゴン太』は振り返ることなく山の中へと消えていった。
短い期間では合ったものの、共に過ごした相手との別れはいつだって心に響くものがある。
もしあのまま懐いてくれればな、そんなことを考えながらも山へと帰った『ゴン太』とは反対の方向を向く。
そして心の中に浮かぶ虚無感を抱きながらも、彼はゆっくりと村へと帰っていった。
その日の夜。いなくなった同居人のことを考えならが、彼はぼんやりと月を、山を眺めていた。
元々一人暮らしをしていたのだ。独りには慣れていたはずなのだが、どうもぽっかりと心に穴が空いてしまったようだ。
やがてやることもなく、早々に寝てしまおうと戸を閉め寝床へと向かう。
きっとこの侘びしさも直ぐに慣れよう、そう考えて。
しかし、彼が寝床に入ろうとした時、トントン、っと玄関を叩く音が聞こえた。
聞き間違いかと思ったが、少し間を開けて、再びトントンっと音が聞こえる。
寝ようとしていたのに、そう悪態をつくながらも玄関へと向かう。
「こんな夜更けにどちら様かな」
少し不機嫌そうに、玄関の外の来訪者へと言葉を向ける。
月の光が作り出すシルエットは、見た感じ女のようにも見える。
「……夜分遅くに申し訳ありません、ですがどうしてもお礼がしたく」
鈴の音のように、静かな夜の闇に響くその声に、彼は警戒を強めた。
何しろ、女に礼を言われるようなことは一切していない。もしかすれば、女の野盗の可能性もある。
「すまんが、礼をされる覚えはない。悪いがお引取り願おう」
少し強めに、突き放すように発した言葉。もし野盗であり、無理やり戸を壊して入ろうものなら、村のものが駆けつけるだろう。
だが、戸の向こうの女は引くことはない。
「いいえ、確かに貴方様に命を救っていただきました」
彼の言葉にも負けない、力強さを感じる言葉。確信を持ち、決して誤りなど無いという意思が伝わってくる、そんな口調。
「しかし、命を救うなどといったお畏れたことなど…」
ない、そう言おうとした彼の言葉を、彼女の言葉が遮る。
「あなたが罠を外して出さった御蔭で、こうしてここに立つことができたのですから」
「っ!」
瞬間、鍵を外し扉を勢いよく開ける。
そこに立っていたのは、笠を深く被った女だった。薄紫の浴衣を羽織った彼女の背後には、ゆらゆらと揺れる3本の獣の尾。
ゆっくりと笠を取った女の頭には、狐の耳がついていた。髪の毛は、ここジパングを故郷とする者の中では珍しい、透き通る様な黄金色をしていた。
少し恥ずかしそうに顔を赤く染めながらも、嬉しそうに微笑む彼女。
あまりのことに状況を理解しきれていない彼が発した言葉は…
「ゴ、ゴン太か!?」
「違います!!!……あ、いえ…間違ってはいないのですが……」
別の意味で顔を赤くした彼女。確かに間違ってはいないのだが、このままでは本当に名前が『ゴン太』になりかねない。
「コホン……改めまして、貴方様に命を救っていただきました、稲荷の綾と申します」
「稲荷…」
ここジパングでは信仰対象にもなる程の強大な力を持つ魔物。その力は神にも劣らない程であると言われている。
しかし解せないのは、何故そのような力を持つ魔物が彼の元へ訪れたのか。いや、そもそも何故あのような罠に掛っていたのか、
何故獣の狐の姿をしていたのか。
そんな彼の胸中を見透かしたように、彼女が言葉を続ける。
「色々と聞きたいことはあると思いますが……」
そう言いながら彼女が腰につけていた徳利を彼に差し出す。
「よろしければ、お礼のお酒でも囲いながら、お話させて頂けませんか?」
ちゃぷりと水音がなる徳利。久しく酒も飲んでいなかった彼に取っては素敵な誘いだった。
無論、彼女が本当に『ゴン太』ではるかどうかはまだ分からぬが、少なくとも警戒するほどの相手ではないだろう。
なにしろ稲荷が人に害することなど聞いたことはない。
そう考えた彼は、彼女を家へ招く。
「失礼致しますね」
そう言って玄関の敷居を跨ぐ彼女。その一挙手一投足がどこか艶かしく、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
思わず見惚れ玄関で彼女を見つめてしまう。
彼女が振り向き、不思議そうな顔をしているのを見て、慌てて彼女を居間へと連れて行く。
「すまないな、禄に掃除もしてなくて」
「ふふっ、お気になさらず」
客人用の座布団に座り、尻尾を嬉しそうにゆらゆらと揺らす彼女。
酒盛り用の盃を2人分持ってきた彼が、自分用の座布団に座るのを待ち言葉を紡ぐ。
「改めまして、この度は命を救って頂き、本当に感謝致します」
床に手をつき、深々と頭を下げる彼女に、なんと返事をすればよいやらと悩む。
そもそも見返りを求めて救ったわけでもなければ、大義を持って救ったわけでもない。
ただ、なんとくなのだ。こんな深く頭を下げられながら礼を言われると、なんともむず痒い。
「頭を上げてくれ…そんな深々と礼をされることは…しておらん」
彼の言葉を聞き、ゆっくりと顔を上げた彼女は、嬉しそうに微笑みながら彼を見つめる。
その目は、彼だけを捉える、乙女の目をしていた。
「謙虚なお方なのですね…ふふ」
おそらく何を言っても無駄だろう。あまり下手に断り続けるのは深みにハマるだけだ。
早めに話題を切り替えなければと、判断した彼は
「そ、そういえばその酒は?」
慌てて話題を変えるため、彼女の持ってきた酒について切り出す。
「ふふ…こちらは、私達の中でも…『特別』なお酒となっています。銘はありませんが、『特別』な時にだけ…飲むお酒です」
彼女の言う『特別な』という言葉が何を意味するのか。
若干の違和感を感じながらも、出来る限り好意として受け止めようとする。
「さぁ…どうぞ」
徳利の蓋を開け注ごうとする彼女へ、盃を差し出す。注がれる酒は番茶色をした古酒の様に見える。
入れ替わるように、彼が酒を、彼女が盃を持ち、同じように注ぐ。
「それじゃあ…再会を祝して…でいいのか」
「ふふふ、そうですね。再会を、出会いを祝い」
「「乾杯」」
彼女の持ってきた『特別』な酒は、甘みも香りも強めであり、辛口を好む彼にとってはあまり馴染みのない味だった。
しかし、1口飲めば、次の1口が欲しくなる、そんな不思議な味だった。
鼻を抜ける残り香は、甘ったるさを感じるも、直ぐに掻き消え、また味わいたくなる。
「旨い酒だな」
「ふふふ…遠慮なくお飲みくださいな」
ひとり酒がほとんどである彼にとって、女性に酒を注がれるというのはあまりなく、それだけで上機嫌になってしまうものだ。
肴も無い、酒だけの酒盛りではあるものの、不思議と酒はよくすすむ。
「ところで、何故あのような姿で?」
酒もすすみ、酔いも回り始めてきたころ、彼女が罠に掛っていた理由を問う。
その…と非常に言いにくそうな彼女。恥かしげに顔を赤くしながら理由を述べる。
「散歩をしていたのですが…罠に気が付かずに踏んでしまい…」
確かに人間でも、あの類の罠は気が付かずに踏んでしまい、大怪我を負うということは少なくない。
それ故に此の山では、龍神の命により使用を固く禁じられていたのだ。
だが、彼女のような力ある魔物であれば、仮に罠に掛かろうとも容易く開けることもできるはずだ。
なぜ彼女があのような姿で囚われていたのか、非常に不可解だった。
「痛みに驚き…慌てて外そうとしたのですが…その……」
非常に言いにくそうな彼女の顔を見るなり、何かに失敗してああいった形になってしまったのだろうと推測はできる。
「痛みと驚きのせいで、上手く外せず……混乱してしまい、もはやどうして良いか分からなくなってしまいまして…」
突然あのような罠にかかれば、確かに誰でも慌て、混乱するだろう。
「思いついたのが、姿を変えれば隙間が空いて足が抜けるのではないかと思いまして…」
「うん…?」
思わず彼女の言葉に声が出る。
彼女たちの持つ力については禄に知りもしないが、そんな彼にですら何か間違えた選択をしたのではないかと思える。
「結果として…狐の姿に変化したら余計に食い込んでしまい、取れなくなってしまいまして…」
それはそうなるだろう、と胸中で呆れる。隙間が開けばその分歯が締まるのだから、罠そのものを壊すべきだったのだ。
「食い込みすぎてしまい、元の姿に戻るに戻れず……加えて狐の姿になると元の姿に戻るくらいしか術が使えず…」
つまり八方塞がりの状態だったのだと言う。何とも抜けた者だなと、胸中で苦笑する。
「出血も酷くなり、意識も朦朧とし始めて、諦めかけたその時に……貴方様が現れました」
恥ずかしげに俯きながら話していた彼女が、顔色はそのままに嬉しそうに彼へと向き直る。
「貴方様に助けて頂き、私の命は救われました」
嬉しそうに話す彼女に、逆に彼のほうが恥ずかしくなり、顔を背けてしまう。
誤魔化すために酒を飲めば、すかさず彼女が注いでくる。
「貴方様の優しき心に私は…」
注ぎながらも、そう言った彼女の頬はぽっと赤みを増す。
そんな彼女の攻めに耐え切れなくなったのか、彼はお茶を濁す。
「あー…そのなんだ…兎に角、お前さんが無事でよかったよ、うん」
だが、彼女の攻めは止まることはない。酒を注ぎながらも、徐々に彼の側へと移り、ついには彼に身を寄せる。
「その……飲み過ぎではないのか?随分と酔っているようだぞ…」
彼女の行動に思わず制止するような声が出る。確かに彼女の持ってきた徳利の中身も大分残りが少なくなってきている。
彼の身体も、酔いが回っているせいか火照りを感じていた。
「そうですね、随分と酔ってしまっております……貴方様に…」
「っ…」
そのまま彼女の白いしなやかな手は、彼の身体へとそっと向けられる。
火照った身体には、彼女の少し冷たい手はひんやりと心地よい。無論それだけではない。
心地よさとは別の、ゾクソクとした感覚が触れた場所から広がっていく。
「ま、まて…これ以上は…」
これ以上されてしまえば、己を抑えることが出来なくなる。
慌てて彼女を離そうとするも、彼女の手はゆっくりと彼の下腹部へと伸びていった。
「ふふふ…貴方様のここも……随分と火照っているみたいですね」
「ぅ…ぁ…」
彼女の手を振り払おうとすれば出来ただろう。だが、もはや身体は彼女を、彼女のすることを求めていた。
ひとえに彼女を押し倒さなかったのは、彼に残った僅かな理性が働いていたからだろう。
「っ…綾……本当にこれ以上は冗談では済まなくなる……」
彼女に弄られ、だけど抵抗することが出来ない彼は、なんとか言葉で彼女を制する。しかし彼女の手は止まってくれない。
彼女の顔は笑みを浮かべていた。優しい笑みではない。艶めかしく、蕩け、喜びに満ちた顔。
魔物が、愛しき人にだけ見せる恍惚とした顔だった。
「実は…貴方様の飲んだお酒には…貴方様の雄を昂らせるものが含まれております」
クスクスと笑いながら、とんでもない事実を伝える彼女。だからだろう、先程から収まりがつかないのは。
「当然…雄だけではありません……私の中の雌も…貴方様と同じ……昂っております」
初めから彼女の掌の上にいたのだと、ようやく気がつく。
だが気がついたところで、もはや手遅れだった。
互いの荒くなっていく息遣いを耳に入れながら、彼はゆっくりと目を瞑る。
もはやここまでされて拒絶が出来る男などこの世に存在しないだろう。
必死に抑えていた理性はゆっくりと消えていく。瞑っていた目をゆっくりと開くと、そこには彼女の顔があった。
恍惚とした、雌の顔をした彼女の顔が。
彼女の顔を見た瞬間、彼の理性は消え去り、彼女をそのまま押し倒す。
「きゃ…♥」
可愛らしい、悦びの声を上げ彼女は押し倒された。抑えていた劣情を隠すことなく、彼女の唇を乱暴に、不慣れに、優しく犯していく。
「んっ……ふぅ……んぁ…ぁむ……ぁ……んふふ♥」
彼女の声が彼の中の雄をさらに昂らせていく。柔らかな彼女の唇から己のものを離し、最後に残った理性で彼女へと囁く。
「後悔しても……知らぬからな」
だが、彼女は即答する。
「後悔など…あるはずがありません」
「そうか………」
彼女の言葉を受け取ったあと、彼は考えるのをやめ、己の本能と欲望にだけ従うことにした。
全ては、春の夜に起きた夢の出来事として………。
− ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ −
「旦那様…?」
ふと彼女が不安そうな顔で彼を覗く。傷を見てから少し気落ちした様子の夫を見て不安になったのだろう。
慌てて彼女へと言葉を向ける。
「あぁ…すまないな、ふと出会った頃を思い出していたのでな」
「そうですか……」
「傷はもう痛まぬのか?」
「はい……ですが……旦那様が望むのでしたら消すことも…」
彼が望めば、彼女は直ぐにでも傷跡を消すだろう、だが
「消す必要はあるまい、大切な思い出なのだろう?それを消せなどと口が裂けても言わんよ」
「旦那様…っ!」
ぎゅっとの胸に顔をうずめる。ずっと隠していた己の秘密を受け入れてもらえたのが嬉しくて。
嬉しさのあまり、緩みきった己の顔を見られるのが恥ずかしくて。
「でも、もう罠に掛かるなんてしないでおくれよ?『ゴン太』」
瞬間、彼女がバッと顔を上げる。目は大きく見開き、顔は真っ赤に染まっていた。
「な、何でまだ覚えてるんですか!」
「ははは。何、『大切な思い出』だろう?」
くっくと意地悪に笑う。そんな彼に必死に抗議するように彼女も声を荒らげる。
「そ、それは大切な思い出じゃありません!もう忘れて下さい!」
「いいや、大切さ。何せお前と出会って初めて呼んだ名なのだからな」
ははは、と大きく笑いながら彼女の頭をワシワシと少し乱暴に撫でる。
「んんぅ…もう!旦那様!」
「すまん、すまん、はははっ!」
いつしか穏やかな空気は薄れ、笑いと恥ずかしさが混ざる明るい雰囲気へと場は変わる。
「もう!意地悪な旦那様なんて知りません!先に横になってますからね!」
そう言うと彼女は片付けもせずに布団へと行ってしまった。
どうやら意地悪しすぎたようだ。いかんいかんっと笑いながら後頭部をポリポリと掻く。
無論、彼女も本当に愛想を尽かしたわけではない。意地悪な彼へのせめてもの仕返しを。
そして何よりも、後で必ず謝り、優しく抱きしめてくれると分かっているからこそ、此のような言葉も紡げるのだ。
故に、あまり長く待たせるわけにもいくまい、そう考え、戸を閉め布団で待つ彼女の元へと向かう。
布団に入り横になった彼女の尻尾は、小刻みにゆらゆらと揺れていた。
あの時、山の中で声を聞いた時、己の声に従って本当に良かった。
あの日あの時、彼女に出会わなければ、今の幸せはなかったのだから。
力強い生命の息吹を感じる皐月を迎える。田には水が引かれ、秋の豊作を祈りながら
熱心に苗植えを行う人の姿が見える。泥まみれになりながらも、まだ見ぬ、そしてきっと
訪れるであろう収穫の時を思うその顔は、見ているこちらもつられて笑ってしまう良い笑顔をしていた。
そんな深緑の季節ではあるが昼間の暑さに比べ、朝夕にはまだ肌寒さを覚える。
しかし、その寒暖の差こそ豊穣の秋を迎えるには必要となるものだ。
強く、逞しく成長するだけではない。気温の差は、収穫物の味をより高めてくれる重要な要素だ。
そしてそんな肌寒さも、人にとっても決して悪いことだけではない。
夜の心地よい冷気は酒に酔い、火照った身体を優しく冷ましてくれる。
そして冷え、覚めた身体は、暖を求め再び酒を求める。
やがて程よく酔えば、心地良さに包まれ、ついつい饒舌にもなろう。
ましてや、隣に愛するものがいれば、それはなおさらである。
酒に酔い、そして愛する人と穏やかに愛を、思い出を語り合う。
これはそんな、少しだけ肌寒い、だけど穏やかな夜のヒトトキを切り取ったお話。
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雲ひとつ無い、白く真ん丸の月が優しく輝く静かな夜。
縁側に座り、そっと家の外に耳を傾ければ、待ちわびたと言わんばかりに蛙の合唱が水田から聞こえる。
その耳を家に傾ければ---トントントン、と包丁と俎板が奏でる音が響く。火にかけた鍋からはグツグツと
煮立った音。音のする方へ向き直れば、台所で忙しそうに料理を行う彼女の姿が見える。
腰まで伸びた長く美しい髪---透き通る様な黄金色---をしたそれは、今は料理の邪魔にならないよう、
薄紅のリボンで1つにまとめられている。
人のそれとは全く異なる、頭部にあるその狐耳は、焼き過ぎぬよう煮過ぎぬよう忙しなく
ピクリピクリと動き音を聞き分けている。腰部に生える4本の尻尾は、今は上機嫌にゆっくりと左右に揺れていた。
「ん……そろそろでしょうか」
そう呟きながら鍋の蓋をそっと開ける。鍋の中では程よく茹だり、さやの縁が開いた枝豆が見える。
いい具合だと判断した彼女は中身をザルに開け、水切りを行う。
程よく水気が取れたそれを皿に移し替え、縁側で待つ彼の元へと持っていく。
「旦那様、枝豆が茹で上がりましたよ」
嬉しそうに笑いながら近づいていく彼女に、『旦那様』と呼ばれた彼が振り向く。
「待ちわびたよ」
そう言った彼の顔は決して待ちくたびれた顔ではなく、むしろ待つことを楽しんでいた顔だ。
持ってきた皿を、縁側に置いていた小さな机に置くと、すぐに彼女は身体の向きを反転させる。
「申し訳ありません。あと2品ですから」
そう言って笑顔の彼女は再び台所へと戻っていく。
台所へと戻っていく彼女---稲荷と呼ばれる、ここジパング固有の魔物---からふと、彼女がおいて行った枝豆に目が移る。
机に置かれた茹でたての枝豆からは、美味しそうな湯気と匂いが立ち込めており思わず手が伸びてしまう。
そんな彼の行動を見透かされた様に、台所から彼女の声が飛んでくる。
「旦那様ー!先に食べ始めてていいですからねー!」
縁側を一切振り向かずに放った彼女の言葉に、思わず伸びた手が止まる。
見られているわけでもないのに、ンンっとバツが悪そうに喉を鳴らし、伸ばしていた手をゆっくりと戻す。
「大丈夫さ、全部出来るまでちゃんと待っているよ」
そう彼女に答えるものの、クスクスと口元を抑えながら笑う彼女の声が聞こえた。
すべてお見通しか、そう小さく呟き笑う彼は、せめて直ぐに食べ始めれるよう2つの盃へ酒を注ぐ。
やがて直ぐに、よし、と小さな彼女のつぶやきとともに残りの2品が運ばれてくる。
「お待たせしました、旦那様。本日のお料理が整いましたよ」
「ほぅ……、鮎と厚揚げか。酒の肴によく合いそうだ」
彼女の左手には串に通した形の良い鮎の焼き物が4匹、そして右手には厚揚げの上にたっぷの長ネギを刻んだものが乗っていた。
どちらからも食欲をそそる香ばしい匂いを放っており、もはや待つのも限界といったところだ。
おもちゃを前にした子供のように忙しない彼に微笑みながら、彼女も彼の隣へと座る…
「それじゃあ、さっそく……いただきます」
「はい……召し上がれ」
手を合わせ大地の恵みに、そして何よりも作ってくれた愛する妻へ感謝を向ける。
さっそく先程から気になって仕方がなかった枝豆に手を伸ばすが、掴む直前ふとあることに気が付き手を止める。
「ん……?綾、塩が振られてない無いようだが……」
見ると確かに塩が振られていない。塩茹でにしているため塩気が無いということは無いのだが。
彼女も塩を降るのを忘れたことに気がつき、両手で口を隠すようにし
「あぁ……!申し訳ありません、直ぐにお持ちします!」
慌てて塩を取りに行こうと立ち上がろうとするが
「いや、わざわざ取りに行かんでもいいさ」
そう言って立ち上がろうとする彼女を制止する。
「ですが……」
「なに、たまにはよかろうよ。それに……」
そう言いながら彼は豆を口へ放り込む。むぐむぐと味を噛み締めながら食べ、言葉を続ける。
「それに、綾の抜けてるとこは今に始まったものではなかろうよ」
少しだけ意地悪に笑いながら彼女を見る。顔を赤く染めながら、彼から視線を逸らし恥ずかしがる彼女は何とも可愛く、
ついつい此のように意地悪をしてしまう。
「ふふ……だが、ちゃんと俺好みの少し固めに茹でてある……とても美味しいよ」
その言葉を聞いた彼女の顔がパァっと明るくなる。シュンっと垂れていた4本の尻尾も今は嬉しそうに左右に揺れている。
よかった、とホッとひと安心する彼女。そして彼に倣い、枝豆を口に含む。少し固めに茹でた枝豆は程よい食感で、
ゆっくりのんびりと味わうには非常に適していると言える。
「ふふ、美味しいです」
彼女の顔に笑顔が戻ったことを確認し、彼は盃を持ち彼女の方へ差し出すようにする。
彼女もまた、盃を両手で---右手は親指と人差し指で挟むように、左手は糸底に添えて---持ち、
彼の差し出した盃へ近づける。
「「乾杯」」
チンっと小さくぶつかる音が夜の闇へと静かに広がる。やや辛口のキリっとした味わいの中にも、米の仄かな甘さを感じる。
喉越しを越えれば、ポっと胃が熱くなるのを感じながら、口内の残り香を鼻で味わい、余韻に浸る。
「旦那様」
「ん」
彼女が徳利を差し、空いた盃へと酒を注ぐ。こうして静かで穏やかな宴が幕を開けた。
「旦那様、こちらの厚揚げは自信作なんですよ!」
酒と枝豆、鮎を味わい、次は厚揚げを食べようとした時、彼女が嬉しそうに身を乗り出しながら彼へ勧める。
「なんと!1から私が手作りしたものなんですよ!」
なんでも、先日隣家から枝豆を頂いた際に、一緒に大豆も頂いたそうだ。
頂いた大豆をどのような料理で彼を喜ばせようかと考えた抜いた末に、色々な料理に組み合わせられる豆腐にしたそうな。
今回はそれを軽く揚げ、長ネギを刻んだものに七味、目の細かい鰹節、醤油を掛けたものだという。
初めての試みではあるものの、成果については上々のようだと彼女談。
「なるほど、そいつは楽しみ…だ……?」
一口大に別けられたそれを取ろうとしてまた手が止まる。どうやら彼女は本日2度めの失敗をやらかしたらしい。
「綾……醤油がかかってない」
「ふぇ!?」
上機嫌にしゃべっていた彼女の口が止まる。慌てて見るも、確かに醤油は掛かってなさそうだ。
どうやら最後に醤油をかけようとして忘れたらしい。何とも彼女らしい抜けっぷりだと言える。
「す、すぐにお持ちしますから!待ってて下さい!」
慌てて立ち上がり、台所へと足早に向かう彼女。その後姿を見ながら、くっくと苦笑にも似た笑いが彼の口から零れ落ちる。
本当に間が抜けているな、と胸中で呟きながらも、それが愛おしくたまらない。
直ぐに醤油差しを持ってきた彼女が、厚揚げへとそれを掛ける。慌ててはいるものの、決して掛け過ぎず少なすぎず。
こういった時は失敗しないのだから、全く以て不思議なものだ。
「お、お待たせしました、お召し上がり下さいませ……って何故頭を撫でるのですか!」
「いや、なんとなくな」
笑って誤魔化そうとする彼女に思わず手が伸びてしまった。撫でられた彼女も何だかんだ言いながら顔が綻んでいる。
そんなやり取りをしながらも、ようやく彼女の自信作を味わう時が来た。
「それでは早速……」
1口大のそれを小皿へ取り、いざ口へ入れようとした時、また彼の動きが止まる。
ふと横を見れば、正座の状態で両手を膝に起き、身を乗り出すようにしながら彼を見つめる彼女がいた。
尻尾は少し下がり気味で小刻みに左右に揺れている。
尻尾から類推するに、自信作と言ったものの初めての試み故の不安といったところだろう。
そんな彼女を尻目に、厚揚げを口へ入れようとするが……
「あっ……」
思わず彼女の口から零れた一言が、今まさに口へ頬張らんとした彼の動きを止める。
目だけを彼女へと向けると、先ほどの笑顔はどこへやら。笑顔は消え不安そうな顔をしている。
毎度のことではあるが、初めの試みを披露する際、彼女は非常に臆病になる。
心配するだけ杞憂だというのに、そう胸中で苦笑する。かつて一度たりと彼女の作った料理にハズレなどなかった。
いや、たとえハズレだろうと、それは決してハズレになるはずがないのだ。なぜなら彼女が作ってくれたのだから。
だからこそ、そんな愛おしい彼女に意地悪もしたくなるのだ。
彼女が何かを言う前に厚揚げを口の中へ。目をつぶり、ゆっくりと咀嚼する。
香ばしく揚げられた外身と対照に、ふっくらと暖かく甘みの広がる中身。そしてその味を引き立てる薬味達。
間違いなく絶品と言える代物だ。
ちらりと薄目で彼女を見るとまだ不安そうにこちらを見ている。そんな彼女に対し彼は
「うぐっ!」
突然呻き声を上げながら口を抑え蹲る。無論、わざとであり、彼女の料理に非の打ち所などなかったのだが。
「…っ旦那様!」
まさか蹲るとは思わなかった彼女。慌てて彼の背中を擦り、少しでも楽になるようにする。
彼の反応に、彼女の胸中はまさに混乱の中にあった。味が悪かった?薬味を掛け過ぎた?まさか異物が……?
混乱した頭の中でも、兎に角愛する人を救わねば、と最適解を見つけ出し動く。
「だ、旦那様、今お水を……!」
そう言って立ち上がらんとする彼女の腕を、彼が掴み制止する。
「だ……旦那様?」
蹲ったかと思えば、腕を掴まれ制止される。そして蹲った状態からゆっくりと顔を上げ、笑顔で彼女へ味を伝える。
「旨い!」
瞬間、彼女は驚きながらもゆっくりと顔色を変えていく。
また良いように騙されてしまった事に気が付き、恥ずかしさと安心、そして意地悪な彼へのほんの少しの怒りが彼女の顔を赤く染めた。
はじめは上手く言葉が出ずに口を開けては閉じていた彼女ではあるが、
「も、もう!お戯れが過ぎますよ!!もう酔っておられるのですか!」
ほんのりと目に涙を潤ませ、ポカポカと彼の胸を叩きながら彼を叱る。そんな彼女のお叱りを受けながらも、彼は嬉しそうに笑う。
怒った顔も、怒った時の行動も可愛らしく、これだからやめらないのだ。自分の思い通りの結果になり、胸中で歓喜する。
だがプクーっと右頬を膨らませ怒った顔を作りながら、彼女のお叱りは止まらない。
「もう!もう!本当に、本当に心配だったんですからね!」
だが彼女のお叱りなど何処吹く風ぞ、と言わんばかりに笑いながら酒を口に含む彼。
とは言えど、流石に悪戯が過ぎたかと反省、彼女をなだめねば。
「聞いておられるのですか!旦那さま……んっ」
顔を近づけ怒る彼女の顎をそっと上げ、優しく口吻を交わす。
突然のことに、反応が追いつかない彼女。だが、直ぐに理解するやいないや、自らも彼に合わせるよう唇を動かす。
「ん……んく…っん……んぅ……ぁ……♥」
ゆっくりと、口に含んだ酒を彼女へと移していく。唇から零れてしまわぬよう、ゆっくりと長く。
悪戯した分のお詫びと言わんばかりの甘いその口吻は、彼女の沸き出た小さな怒りなど容易く消し去る。
口内の酒がすべて彼女へ渡った後も、互いの唇は離れることはなく、蕩けるような甘い口吻は続く。
やがてゆっくりと離れた唇からは、まだ離れたくないと主張するように、2人の繋がりを保とうと細い糸を引いていた。
「すまんな、愛おしさ故に、つい意地悪をな」
「……もう……旦那様は狡いお方です…♥」
先ほどとは異なる意味で顔を赤くしながらも、蕩け、幸せな顔を見せる。
彼女の尻尾もまた、嬉しそうに左右にフリフリと揺れていた。
「こんな風にされたら……もう…怒れないじゃないですか…」
そっと彼の胸に顔をうずめる彼女を、彼が優しく抱きしめ撫でる。
「美味しかったよ、とても」
「……はい、ありがとうございます」
暫く続く沈黙の間、ただただやさしく彼女の頭を撫で続けた。
やがて宴はすすみ、肴も酒も残りわずかとなる。1日の出来事を、人伝に聞いた噂話を、そして愛を語れば
いつしか時は穏やかに、されど夜空に流れる流星のようにあっという間に流れる。
酒に、愛しさ酔い、いつしか寝間着も崩れ、酒に酔い火照った身体は夜風に晒され寒さを覚える。
人肌恋しくなる頃、そっと彼女が彼の方に寄りかかる。
「旦那様……」
目を潤ませながら彼を見つめる彼女。乱れた寝間着の間からは彼女の豊満な、その身体が嫌でも目に入る。
「綾…」
そっと彼女の頭を撫でれば、それだけでは足りぬと言わんばかりに顔を擡げそっと目を閉じ彼を待つ。
彼もまた彼女に答えんと、そっと顔を近づける。ちょうどその時だった。
宴の間ずっと正座をしていた彼女が、彼に少しでも近づけるよう足を崩したせいだろう。
唇を交わそうと彼女の顔のその先、崩した左足のちょうど脹脛の部分に痛々しい傷跡があることに気がつく。
少なくとも跡であり、傷自体は完治しているように見える。しかし、傷が残っていることに驚きを隠せなかった。
彼女の種族のように、力ある魔物であれば傷跡も残らぬ様に治せるはずだが…
「綾…その足の傷跡は…」
無論、此の傷跡は彼にも心当たりが合った。だが彼は敢えてその理由を聞くことにした。
はっとし、慌てて傷を隠すように手で覆う彼女。恥ずかしい物を見られた様子で俯く。
「これは…その…」
責めているわけではない、だが何故その傷跡が残っているのか。優しく彼女の頭を撫でながら理由を問う。
俯いたまま、彼女は小さな声でその問に応える。
「……女々しき理由ではありますが…消したくなかったのです…」
だって、そう彼女が呟き彼の顔を見つめる。
「私が旦那様と………巡り会えた、奇跡の証なのですから…」
恥ずかしげに、悲しげに理由を述べた彼女。
あぁ…やはり、と胸中で彼が呟く。決して忘れはしない、彼女との出会い。
そっと目を瞑り、彼女との初めて出会いを思い出す。変化のない平坦な己の人生を変えた彼女との出会い。
「そうか……もう6年もの刻がたったのだな…」
− ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○
厳しく辛い冬を乗り越えた褒美と言わんばかりに、太陽は暖かな日差しを生きとし生ける全ての物へと注ぐ。
暖かな日差しと、雪解けの冷たい水で目を覚ました野山は生命の息吹に溢れかえっている。
桜はその身に花をつけ、見るものの心を奪う美しさを見せる。
龍神の加護を得るこの野山は、そこに生息する全ての動植物の成長を促す。
故に、この土地に生きるものは、その恩恵を受けながら、感謝の証として信仰を寄せる。
そして彼もまた、この土地に生きるものとして、その恩恵に与る者の一人だった。
この季節、野山はまさに山菜の宝庫であった。そこかしこに生えるそれは、非常に味がよく冬の間に失った栄養を補給するには
まさに打ってつけのものと言えよう。
取り過ぎぬように気をつけながらも、背負い込んだ籠一杯の山菜を抱える彼は、今まさに帰路に着こうとしていた。
「これだけ取れれば暫くは保つだろう」
籠一杯の山菜を前に思わず喜びを隠せず、辛い山登りで溜まった疲れもいつしか吹き飛んでいた。
今日はどれを使って晩飯を作ろうか、そんなことを考えながら山を降っていた時の事だった。
ふと耳に入ったのは、何かの獣の様な呻き声だった。
全てのものが目覚め、動き出すこの季節は恵みだけではない。
冬の間眠り続け、春の訪れ共に目を覚ます猛獣も少なからずおり、危険が伴う季節でもある。
碌な道具もなく、武術の心得など無い彼が襲われればひとたまりもない。
そんな嫌な予感に身震いし、さっさと降りようと決めた時、また呻き声が聞こえた。
はじめは猛獣の呻き声に聞こえていたものの、よくよく耳を凝らせば、どこか弱々しく、助けを求めるような声でもあった。
触らぬ神に祟りなし、そう思い山を降りようとするものの、何故かその声は彼の耳以外の場所にも響いていた。
山を降りるか、それとも声の主を一目見てからにするか。悩みぬいた上で彼は己の心の声に従うことにした。
最悪収穫した山菜は捨てて逃げればなんとかなろう、そう自分に言い聞かせて。
山中の森を、どこからかも分からぬその声を頼りに歩き続ける。あてもなく進みながらも、声は次第に大きくなっていく。
やがてその声の主は彼の目の前に表れる。木々の狭間に見えるは、小さな狐だった。
後ろ側の左足はトラバサミ---この土地では使用することを禁じられているはずのもの---に挟まれており、痛々しい傷と出血が見える。
血に濡れたトラバサミを見るに、挟まれてからだいぶ時間が経過していることが見て取れた。
周囲に同様の罠が仕掛けられていないか確認しながらも、急いで罠にかかった狐へと近づく。
しかし、己を襲いに来た、あるいは罠を仕掛けた者と思われたのが、むき出しにした歯と、フゥーっという唸り声で威嚇されてしまう。
言葉など通じるはずもない獣相手だ。ただただ罠にかかった狐は彼を威嚇し続けた。だが
「恐れなくていい…ちょっとだけ罠を外させてもらうだけだ…」
優しく敵意のない声で、彼は狐へと語りかける。無駄な行為と知りながらも彼は狐へと言葉を向けた。
威嚇し続け、だが足が挟まれ動けない狐にそっと手を差し伸べる。
「すまない……」
そう呟き、優しく狐の頭を撫でる。驚いた表情を一瞬見せた狐は、先ほどと打ってかわり突如威嚇をやめ、弱々しく伏せる。
「今外すからな、もう少しだけ我慢しておくれ」
触れたことのない罠のため、当然外し方も分からない。だが、出血をみる限りあまり時間をかければ死んでしまうかもしれない。
彼が行ったのは正面突破。すなわち、トラバサミの歯の部分をこじ開ける方法だった。
本来ならば歯の横にある棒状の部分を押して開くのだが…。
山菜取りで使用した鎌を間に入れ撚る。少し空いたスキマに枯れ枝を挟み、少しずつ間を広げていく。
少しずつ、だが確実に歯は開いていく。やがて、ある程度隙間が広がると、狐は自ら足を引き、罠から抜ける。
ほっと息を付くのもつかの間、罠を抜けた狐はふらふらと数歩歩き、そのまま座り込んでしまう。
思った以上に消耗が激しかったのかもしれない。
もはや威嚇をする体力もないのか、彼が抱き上げても暴れることのないその狐を抱いて彼は一目散に山を降りていった。
取った山菜の全てをその場において……。
「先生!いらっしゃいますか!」
村唯一の診療所に彼の声が木霊する。休憩中の札が掲げられた扉を、壊さん勢いで開け、
狐をその腕に抱きかかえ、息も切れ切れになりながら彼が飛び込んできた。
その大声に答えたのは、部屋の奥にいた初老の男性だった。
「そんな大声で怒鳴らんでも聞こえておるよ…」
またうるさいのが来たものだ、そんなニュアンスを含んだ声で先生と呼ばれた男は応える。
患者も来ないのんびりとした午後。自分の趣味に没頭していたのをいともたやすくぶち壊され若干不機嫌である。
「すみません、でも急患なんです」
そこでようやく彼の腕に抱かれているものが目に入る。急患とは言われたものの、彼が抱いているのは紛れも無く狐である。
「随分と『可愛らしい患者様』だ、私も診るのは初めての経験になるな」
趣味の時間を邪魔された挙句、専門外の患者を連れて来られたのだ。彼への返答は皮肉に満ちたものとなっていた。
「すみません…でもこいつ今にも死んでしまいそうで…」
確かに彼の言葉通り、随分と衰弱しきっている。放っておけば間違いなく死んでしまうだろう。
医者として、たとえそれが人でなくとも、目の前で救えなかったとなれば夢見が悪い。
「…早くこの台の上に置きなさい」
ため息を付きながらも、どうやら診てくれるらしい。急いで診察台に狐を載せると、先生の診察が始まる。
「ふむ…大分傷が深いな、出血も多いが…」
傷口周りを触りながら独り言ちる。
「だが、まぁどうにかなるだろう」
その言葉を聞き、彼の顔が明るくなる。だが、先生と呼ばれた彼の顔は未だ不機嫌そうだ。
「手術が必要だが、そばに喧しい奴がいればそれだけ手元が狂う。集中出来なければ救うこともできん」
彼の顔を冷めた目で見ながら先生は述べる。つまりは邪魔だから手術が終わるまでどこかに消えろ、という意味だ。
彼もどことなく察すると、頭を下げ
「よろしく…お願いします!」
そう一言告げ、診療所を出る。少し不安げに鳴く狐を一瞥し、大丈夫だよ、と呟きながら。
一方で、先生と呼ばれた男は、淡々と手術の準備を進める。不安そうに見つめる狐に、ふっと優しい笑みを浮かべ
「なーに心配すんな、私にかかれば直ぐに良くなるさ」
そうつぶやくと、優しく頭を撫で、早速手術にとりかかる。
「ほれ、終わったぞ」
診療所の外で待つ彼に、無事に手術が終わった狐を渡す。
左足には包帯と添え木が付けられてはいるが、出血自体はどうやらもう止まっているらしい。
「かなり傷が深く、骨にも届いてた。折れちゃいないが暫くは安静にしておくのと、化膿止めの塗り薬が必要だ」
手術の結果を短く彼へと告げる。
「先生…ありがとうござます!」
狐を受け取り、深々と頭を下げる。まるでそれは肉親を治療してもらったかの様だった。
「言葉よりも対価が欲しいのだがね」
だが彼の感謝も禄に受け取らず、告げられたのは治療代を払えと冷たいお言葉。
しかし、山菜取りに山に出かけた帰り。しかも山菜は狐を助けたところに置いてきてしまっている。
まさに無一文といった状態だ。
「あー…その…」
言いにくそうにしていると、先生と呼ばれた男は深くため息をつき、彼へと苦笑いを向ける。
「どうせ、そんな事だろうと思ったよ」
「すみません…でも、必ず後で…」
支払います、そう言おうとした彼の言葉を、男は遮る。
「だが……人間以外のものへの治療費なんて設定してないからな…」
そう呟くと彼へと向き直り、どこか意地悪で、だけど優しい笑みを向ける。
「お前さん、山に入ったんだろ?治療費は山菜の山盛りで許してやるよ」
「っ…すみません、ありがとうございます」
口は悪くとも、ちゃんと相手のことを理解してくれている優しいお医者様だ、そう胸中で呟き礼をする
言葉と共に深々と頭を下げるが、その頭に男の拳が当たる。
慌てて頭を上げると、彼に当てられた拳には紙袋が握られていた。
「朝夕の塗り薬だ。毎回私のところに来られちゃ迷惑で仕方ない。自分で薬を塗って包帯をかえてやんな」
紙袋の中身は、化膿止めの薬と清潔な包帯だった。
「先生…」
「はよ帰れ、私は忙しいんだ。あと治療費忘れるなよ」
そう言うと男は診療所へと戻る。
こちらを一切振り向くことなく戻っていく男の背中へもう一度深く頭を下げ、彼もまた帰路に付くことにした。
腕の中の狐を撫でながら
「さて、帰ろうかね」
と、優しく告げる。
こうして、彼と、左足に怪我を負った狐の生活が始まった。
「まずは名前をつけんとな」
家に帰り、客人用の座布団へ狐を置くと、腕を組みながら男が呟く。
少なくとも、元のように元気に歩ける状態になるまでは、助けたものの責任として育てようと決めたのだ。
しかし中々呼び名は決まらない。
「ポチ…いや犬のような呼び名だな…」
彼が新たな名前を呟くたびに、狐は悲しそうな顔で彼を見つめるのだが、当然のごとく彼は気づく由もなかった。
散々迷った挙句、どこか泣きそうな表情の狐を抱き上げ、彼は一つの名前に決める。
狐の気持ちを知る由もない彼のその表情は、とても嬉しそうで、でもその笑顔は狐に取ってあまりに残酷で。
「よし!お前の名前はゴン太。ゴン太にしよう」
キューン…と悲しそうな声で応えるものの、彼の心はもはや『ゴン太』となってしまった。
悲しそうな表情に気がつくこともなく、嬉しそうに『ゴン太』と呼び続ける彼。
「ははは、よし!ゴン太。傷が治るまでの間だが、よろしく頼むぞ…ん?」
名前も決まり、上機嫌となった彼が狐を抱き上げた際に、ふと何かに気がつく。
『ゴン太』と呼ばれたくない狐の気持ちに気がついたのかと思えば、そうではなかった。
抱き上げた狐の1点をじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「お前……メスか?」
瞬間、腕の中の狐が暴れ始める。
「わっ!ちょ、ちょっと落ち着け!何だ何だ?!」
理由もわからず暴れる狐を落とさぬよう、なんとか座布団の上へと下ろすものの、初めて出会った時、いやそれ以上に強く威嚇されてしまう。
いきなり暴れ始めた理由も理解できず、傷口が痛んだのかと勘違いした彼は、暫く『ゴン太』を見守るだけにした。
威嚇が終わったと思えば、くるりと己の身体を丸めるように伏せ、あさっての方向を向いてしまった『ゴン太』。
暫くは難儀しそうだと呟く彼は、『ゴン太』が何故暴れたかなど決して理解することはなかった。
その真意を知る由など、此の時は一切なかった。
『ゴン太』との生活は、あっという間に終わりを迎えた。
医者の見立てでは1ヶ月から2ヶ月程度時間が掛かると思われたが、4日で傷がふさがり、その3日後には元気に走り回ることが出来るほどにまで回復を見せた。
医者の腕が良かったのか、薬がよかったのか、はたまた『ゴン太』の生命力の強さか。
理由など知る由もないが、少なくとも彼の役目はもう終わってしまったのだ。
胡座をかいた彼の足の上に寝そべり、幸せそうに眠る『ゴン太』を優しく撫でながら、彼は悲しげな笑顔を見せる。
治るまで面倒をみると言ったもののの、まさかこんなに早く治るとは思ってもみなかった。
情がわき、いっそこのまま飼ってしまおうか、そんなことも考えた。
だが、元は野生の動物なのだ。野生で暮らすほうが幸せだろう。
そう判断した彼は、揺らぐ心を自制し、彼の足の上で寝ている『ゴン太』を優しく抱き上げた。
「さて、お別れのときかね」
小さく独り言ちながら、ゆっくりと立ち上がる。『ゴン太』も目を覚まし、キューンっと、どこか彼を心配するような声で鳴く。
その声に、再び心は揺れるものの、必死に耐えながら『ゴン太』を抱き、ゆっくりと山を登っていく。
やがて村から大分離れた山の森で、そっと『ゴン太』を降ろし、優しく頭を撫でる。
「ほれ、帰りな」
『ゴン太』は彼の手が頭から離れ、彼が立ち上がるのをただじっと見ていた。
やがて暫くその場でクルクルと悩む様に廻った後、彼を一瞥した『ゴン太』は振り返ることなく山の中へと消えていった。
短い期間では合ったものの、共に過ごした相手との別れはいつだって心に響くものがある。
もしあのまま懐いてくれればな、そんなことを考えながらも山へと帰った『ゴン太』とは反対の方向を向く。
そして心の中に浮かぶ虚無感を抱きながらも、彼はゆっくりと村へと帰っていった。
その日の夜。いなくなった同居人のことを考えならが、彼はぼんやりと月を、山を眺めていた。
元々一人暮らしをしていたのだ。独りには慣れていたはずなのだが、どうもぽっかりと心に穴が空いてしまったようだ。
やがてやることもなく、早々に寝てしまおうと戸を閉め寝床へと向かう。
きっとこの侘びしさも直ぐに慣れよう、そう考えて。
しかし、彼が寝床に入ろうとした時、トントン、っと玄関を叩く音が聞こえた。
聞き間違いかと思ったが、少し間を開けて、再びトントンっと音が聞こえる。
寝ようとしていたのに、そう悪態をつくながらも玄関へと向かう。
「こんな夜更けにどちら様かな」
少し不機嫌そうに、玄関の外の来訪者へと言葉を向ける。
月の光が作り出すシルエットは、見た感じ女のようにも見える。
「……夜分遅くに申し訳ありません、ですがどうしてもお礼がしたく」
鈴の音のように、静かな夜の闇に響くその声に、彼は警戒を強めた。
何しろ、女に礼を言われるようなことは一切していない。もしかすれば、女の野盗の可能性もある。
「すまんが、礼をされる覚えはない。悪いがお引取り願おう」
少し強めに、突き放すように発した言葉。もし野盗であり、無理やり戸を壊して入ろうものなら、村のものが駆けつけるだろう。
だが、戸の向こうの女は引くことはない。
「いいえ、確かに貴方様に命を救っていただきました」
彼の言葉にも負けない、力強さを感じる言葉。確信を持ち、決して誤りなど無いという意思が伝わってくる、そんな口調。
「しかし、命を救うなどといったお畏れたことなど…」
ない、そう言おうとした彼の言葉を、彼女の言葉が遮る。
「あなたが罠を外して出さった御蔭で、こうしてここに立つことができたのですから」
「っ!」
瞬間、鍵を外し扉を勢いよく開ける。
そこに立っていたのは、笠を深く被った女だった。薄紫の浴衣を羽織った彼女の背後には、ゆらゆらと揺れる3本の獣の尾。
ゆっくりと笠を取った女の頭には、狐の耳がついていた。髪の毛は、ここジパングを故郷とする者の中では珍しい、透き通る様な黄金色をしていた。
少し恥ずかしそうに顔を赤く染めながらも、嬉しそうに微笑む彼女。
あまりのことに状況を理解しきれていない彼が発した言葉は…
「ゴ、ゴン太か!?」
「違います!!!……あ、いえ…間違ってはいないのですが……」
別の意味で顔を赤くした彼女。確かに間違ってはいないのだが、このままでは本当に名前が『ゴン太』になりかねない。
「コホン……改めまして、貴方様に命を救っていただきました、稲荷の綾と申します」
「稲荷…」
ここジパングでは信仰対象にもなる程の強大な力を持つ魔物。その力は神にも劣らない程であると言われている。
しかし解せないのは、何故そのような力を持つ魔物が彼の元へ訪れたのか。いや、そもそも何故あのような罠に掛っていたのか、
何故獣の狐の姿をしていたのか。
そんな彼の胸中を見透かしたように、彼女が言葉を続ける。
「色々と聞きたいことはあると思いますが……」
そう言いながら彼女が腰につけていた徳利を彼に差し出す。
「よろしければ、お礼のお酒でも囲いながら、お話させて頂けませんか?」
ちゃぷりと水音がなる徳利。久しく酒も飲んでいなかった彼に取っては素敵な誘いだった。
無論、彼女が本当に『ゴン太』ではるかどうかはまだ分からぬが、少なくとも警戒するほどの相手ではないだろう。
なにしろ稲荷が人に害することなど聞いたことはない。
そう考えた彼は、彼女を家へ招く。
「失礼致しますね」
そう言って玄関の敷居を跨ぐ彼女。その一挙手一投足がどこか艶かしく、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
思わず見惚れ玄関で彼女を見つめてしまう。
彼女が振り向き、不思議そうな顔をしているのを見て、慌てて彼女を居間へと連れて行く。
「すまないな、禄に掃除もしてなくて」
「ふふっ、お気になさらず」
客人用の座布団に座り、尻尾を嬉しそうにゆらゆらと揺らす彼女。
酒盛り用の盃を2人分持ってきた彼が、自分用の座布団に座るのを待ち言葉を紡ぐ。
「改めまして、この度は命を救って頂き、本当に感謝致します」
床に手をつき、深々と頭を下げる彼女に、なんと返事をすればよいやらと悩む。
そもそも見返りを求めて救ったわけでもなければ、大義を持って救ったわけでもない。
ただ、なんとくなのだ。こんな深く頭を下げられながら礼を言われると、なんともむず痒い。
「頭を上げてくれ…そんな深々と礼をされることは…しておらん」
彼の言葉を聞き、ゆっくりと顔を上げた彼女は、嬉しそうに微笑みながら彼を見つめる。
その目は、彼だけを捉える、乙女の目をしていた。
「謙虚なお方なのですね…ふふ」
おそらく何を言っても無駄だろう。あまり下手に断り続けるのは深みにハマるだけだ。
早めに話題を切り替えなければと、判断した彼は
「そ、そういえばその酒は?」
慌てて話題を変えるため、彼女の持ってきた酒について切り出す。
「ふふ…こちらは、私達の中でも…『特別』なお酒となっています。銘はありませんが、『特別』な時にだけ…飲むお酒です」
彼女の言う『特別な』という言葉が何を意味するのか。
若干の違和感を感じながらも、出来る限り好意として受け止めようとする。
「さぁ…どうぞ」
徳利の蓋を開け注ごうとする彼女へ、盃を差し出す。注がれる酒は番茶色をした古酒の様に見える。
入れ替わるように、彼が酒を、彼女が盃を持ち、同じように注ぐ。
「それじゃあ…再会を祝して…でいいのか」
「ふふふ、そうですね。再会を、出会いを祝い」
「「乾杯」」
彼女の持ってきた『特別』な酒は、甘みも香りも強めであり、辛口を好む彼にとってはあまり馴染みのない味だった。
しかし、1口飲めば、次の1口が欲しくなる、そんな不思議な味だった。
鼻を抜ける残り香は、甘ったるさを感じるも、直ぐに掻き消え、また味わいたくなる。
「旨い酒だな」
「ふふふ…遠慮なくお飲みくださいな」
ひとり酒がほとんどである彼にとって、女性に酒を注がれるというのはあまりなく、それだけで上機嫌になってしまうものだ。
肴も無い、酒だけの酒盛りではあるものの、不思議と酒はよくすすむ。
「ところで、何故あのような姿で?」
酒もすすみ、酔いも回り始めてきたころ、彼女が罠に掛っていた理由を問う。
その…と非常に言いにくそうな彼女。恥かしげに顔を赤くしながら理由を述べる。
「散歩をしていたのですが…罠に気が付かずに踏んでしまい…」
確かに人間でも、あの類の罠は気が付かずに踏んでしまい、大怪我を負うということは少なくない。
それ故に此の山では、龍神の命により使用を固く禁じられていたのだ。
だが、彼女のような力ある魔物であれば、仮に罠に掛かろうとも容易く開けることもできるはずだ。
なぜ彼女があのような姿で囚われていたのか、非常に不可解だった。
「痛みに驚き…慌てて外そうとしたのですが…その……」
非常に言いにくそうな彼女の顔を見るなり、何かに失敗してああいった形になってしまったのだろうと推測はできる。
「痛みと驚きのせいで、上手く外せず……混乱してしまい、もはやどうして良いか分からなくなってしまいまして…」
突然あのような罠にかかれば、確かに誰でも慌て、混乱するだろう。
「思いついたのが、姿を変えれば隙間が空いて足が抜けるのではないかと思いまして…」
「うん…?」
思わず彼女の言葉に声が出る。
彼女たちの持つ力については禄に知りもしないが、そんな彼にですら何か間違えた選択をしたのではないかと思える。
「結果として…狐の姿に変化したら余計に食い込んでしまい、取れなくなってしまいまして…」
それはそうなるだろう、と胸中で呆れる。隙間が開けばその分歯が締まるのだから、罠そのものを壊すべきだったのだ。
「食い込みすぎてしまい、元の姿に戻るに戻れず……加えて狐の姿になると元の姿に戻るくらいしか術が使えず…」
つまり八方塞がりの状態だったのだと言う。何とも抜けた者だなと、胸中で苦笑する。
「出血も酷くなり、意識も朦朧とし始めて、諦めかけたその時に……貴方様が現れました」
恥ずかしげに俯きながら話していた彼女が、顔色はそのままに嬉しそうに彼へと向き直る。
「貴方様に助けて頂き、私の命は救われました」
嬉しそうに話す彼女に、逆に彼のほうが恥ずかしくなり、顔を背けてしまう。
誤魔化すために酒を飲めば、すかさず彼女が注いでくる。
「貴方様の優しき心に私は…」
注ぎながらも、そう言った彼女の頬はぽっと赤みを増す。
そんな彼女の攻めに耐え切れなくなったのか、彼はお茶を濁す。
「あー…そのなんだ…兎に角、お前さんが無事でよかったよ、うん」
だが、彼女の攻めは止まることはない。酒を注ぎながらも、徐々に彼の側へと移り、ついには彼に身を寄せる。
「その……飲み過ぎではないのか?随分と酔っているようだぞ…」
彼女の行動に思わず制止するような声が出る。確かに彼女の持ってきた徳利の中身も大分残りが少なくなってきている。
彼の身体も、酔いが回っているせいか火照りを感じていた。
「そうですね、随分と酔ってしまっております……貴方様に…」
「っ…」
そのまま彼女の白いしなやかな手は、彼の身体へとそっと向けられる。
火照った身体には、彼女の少し冷たい手はひんやりと心地よい。無論それだけではない。
心地よさとは別の、ゾクソクとした感覚が触れた場所から広がっていく。
「ま、まて…これ以上は…」
これ以上されてしまえば、己を抑えることが出来なくなる。
慌てて彼女を離そうとするも、彼女の手はゆっくりと彼の下腹部へと伸びていった。
「ふふふ…貴方様のここも……随分と火照っているみたいですね」
「ぅ…ぁ…」
彼女の手を振り払おうとすれば出来ただろう。だが、もはや身体は彼女を、彼女のすることを求めていた。
ひとえに彼女を押し倒さなかったのは、彼に残った僅かな理性が働いていたからだろう。
「っ…綾……本当にこれ以上は冗談では済まなくなる……」
彼女に弄られ、だけど抵抗することが出来ない彼は、なんとか言葉で彼女を制する。しかし彼女の手は止まってくれない。
彼女の顔は笑みを浮かべていた。優しい笑みではない。艶めかしく、蕩け、喜びに満ちた顔。
魔物が、愛しき人にだけ見せる恍惚とした顔だった。
「実は…貴方様の飲んだお酒には…貴方様の雄を昂らせるものが含まれております」
クスクスと笑いながら、とんでもない事実を伝える彼女。だからだろう、先程から収まりがつかないのは。
「当然…雄だけではありません……私の中の雌も…貴方様と同じ……昂っております」
初めから彼女の掌の上にいたのだと、ようやく気がつく。
だが気がついたところで、もはや手遅れだった。
互いの荒くなっていく息遣いを耳に入れながら、彼はゆっくりと目を瞑る。
もはやここまでされて拒絶が出来る男などこの世に存在しないだろう。
必死に抑えていた理性はゆっくりと消えていく。瞑っていた目をゆっくりと開くと、そこには彼女の顔があった。
恍惚とした、雌の顔をした彼女の顔が。
彼女の顔を見た瞬間、彼の理性は消え去り、彼女をそのまま押し倒す。
「きゃ…♥」
可愛らしい、悦びの声を上げ彼女は押し倒された。抑えていた劣情を隠すことなく、彼女の唇を乱暴に、不慣れに、優しく犯していく。
「んっ……ふぅ……んぁ…ぁむ……ぁ……んふふ♥」
彼女の声が彼の中の雄をさらに昂らせていく。柔らかな彼女の唇から己のものを離し、最後に残った理性で彼女へと囁く。
「後悔しても……知らぬからな」
だが、彼女は即答する。
「後悔など…あるはずがありません」
「そうか………」
彼女の言葉を受け取ったあと、彼は考えるのをやめ、己の本能と欲望にだけ従うことにした。
全ては、春の夜に起きた夢の出来事として………。
− ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ − ○ −
「旦那様…?」
ふと彼女が不安そうな顔で彼を覗く。傷を見てから少し気落ちした様子の夫を見て不安になったのだろう。
慌てて彼女へと言葉を向ける。
「あぁ…すまないな、ふと出会った頃を思い出していたのでな」
「そうですか……」
「傷はもう痛まぬのか?」
「はい……ですが……旦那様が望むのでしたら消すことも…」
彼が望めば、彼女は直ぐにでも傷跡を消すだろう、だが
「消す必要はあるまい、大切な思い出なのだろう?それを消せなどと口が裂けても言わんよ」
「旦那様…っ!」
ぎゅっとの胸に顔をうずめる。ずっと隠していた己の秘密を受け入れてもらえたのが嬉しくて。
嬉しさのあまり、緩みきった己の顔を見られるのが恥ずかしくて。
「でも、もう罠に掛かるなんてしないでおくれよ?『ゴン太』」
瞬間、彼女がバッと顔を上げる。目は大きく見開き、顔は真っ赤に染まっていた。
「な、何でまだ覚えてるんですか!」
「ははは。何、『大切な思い出』だろう?」
くっくと意地悪に笑う。そんな彼に必死に抗議するように彼女も声を荒らげる。
「そ、それは大切な思い出じゃありません!もう忘れて下さい!」
「いいや、大切さ。何せお前と出会って初めて呼んだ名なのだからな」
ははは、と大きく笑いながら彼女の頭をワシワシと少し乱暴に撫でる。
「んんぅ…もう!旦那様!」
「すまん、すまん、はははっ!」
いつしか穏やかな空気は薄れ、笑いと恥ずかしさが混ざる明るい雰囲気へと場は変わる。
「もう!意地悪な旦那様なんて知りません!先に横になってますからね!」
そう言うと彼女は片付けもせずに布団へと行ってしまった。
どうやら意地悪しすぎたようだ。いかんいかんっと笑いながら後頭部をポリポリと掻く。
無論、彼女も本当に愛想を尽かしたわけではない。意地悪な彼へのせめてもの仕返しを。
そして何よりも、後で必ず謝り、優しく抱きしめてくれると分かっているからこそ、此のような言葉も紡げるのだ。
故に、あまり長く待たせるわけにもいくまい、そう考え、戸を閉め布団で待つ彼女の元へと向かう。
布団に入り横になった彼女の尻尾は、小刻みにゆらゆらと揺れていた。
あの時、山の中で声を聞いた時、己の声に従って本当に良かった。
あの日あの時、彼女に出会わなければ、今の幸せはなかったのだから。
15/05/23 20:17更新 / クヴァロス