宵闇
俺、的場哲哉は目の前の約一年半ぶりに再会することができたかつての同僚であり、俺が密かに想いを寄せていた女性である貴水奏に男として、一世一代の覚悟で告白した
しかし、
「……貴水?」
「………………」
俺が告白した相手である彼女は目を開いたまま、ボーと固まっている
……あれ?俺、なんかした?
俺は貴水の様子を見て、自分の告白に何か問題がなかったかを考えた。そして、しばらく今までの自分の行動と今の状態を確認するとすぐに自分の大きな過ちに気づいてしまった
……て、俺のばかあああああああああああああああああああああああああああああ!?
よく考えてみたら、いきなり人が見ている場所で大きな声で告白したら、恥ずかしいだろ!?
俺達のいる場所は今は昼過ぎとは言え、他人がいるファーストフード店だ
少し、考えてみればわかることだが、俺は彼女に対して場所も時間も声の大きさを弁えず、告白してしまったのだ。これではロマン以前にデリカシーがなさすぎる
それによく考えたら……俺……貴水が好きな理由を伝えてないじゃないか!?
振り返るたびに自分の失敗に気づいていき、俺は自分の額をテーブルにドカドカと打ち付けたくなってきた。まあ、この場でやったらさすがに貴水や他のお客、店員に引かれそうだからやんないけど
しかし、過ぎたことをいつまでもくよくよと嘆くよりは俺は貴水に告白の続きを今度は少し、小さな声で続けようとおもった。しかし、
「……どうしてなんですか?」
俺は告白の続きを貴水の言葉によって遮られて言えなかった。そして、その彼女の口調はとても冷たくて暗かった
「え……その……」
俺は彼女のその言葉に一瞬怯むが、すぐに立ち直り意を決し、彼女の眼を熱く見て
「信じられないと思うけど……俺、貴水のことが前から好きだったんだ」
自分の心の底からの想いを包み隠さずに伝えた
俺はあの会社にいた時から、貴水のことが好きだったのだ、先ほど彼女に嫌われているかもしれないのに声をかけたのも懐かしさだけでなく、好きな女性に再会できたと言うのも大きな理由だ
まあ……貴水が加藤さんのことを好きなことを知っていたし、俺はあの事件のせいで『悪党』にされたからな……告白できることはなかったけど……
俺は彼女に告白できなかった理由を振り返った
貴水は俺が今でも尊敬し、恩を感じている元上司の加藤優(すぐる)に想いを寄せているのだ
だけど、加藤さんは既婚者だ。そして、俺の知っている限り、あの人ほど理想の夫と父親にふさわしい人は知らない
だからこそ……貴水を見ていると辛かった……絶対に実ることのはずがない想いをいつまでも持ち続ける彼女が……そして、俺も彼女のことが好きだからこそ、想いを伝えられなかった
俺は貴水を傷つけることができなかったのだ。彼女の『恋』は絶対に実らないことを理解しながらも俺はそれを言うことができなかった
だけど、同時に俺自信も彼女に嫌われることを恐れて、そのことを言うことを躊躇ってしまった
人の数だけ幸せもある。彼女にとって、加藤さんのことを想うことが幸せなのだ。俺にそれを否定することはできなかった
そんな、俺が彼女に今、目の前で告白しているのはこの瞬間を逃したら、二度と彼女に会えない気がしたからだ
「私は……」
そして、彼女は俺の本音を聞くとゆっくりと口を開いて俺に何かを伝えようとしてきた。しかし、すぐに何かを躊躇うかのように顔を下に向けた。俺は彼女のそういった一つ一つのしぐさにドキドキしながら答えを待った。そして、ようやく彼女は口を開いた
「少し……時間を下さい……」
彼女の答えは『保留』だった。俺はそれを聞いて、少し緊張と心拍数は下がったが、同時に期待と不安感、残念さを持ってしまった
それでも、俺は
「いいよ……じゃあ、明日の夕方の5時に駅の近くの神社で答えを聞かせてくれ」
彼女を待ちたかった。俺は『答え』が欲しかったのだ。俺は告白をすることができただけで幸せだったからだ
「はい……それじゃ、明日……返事を返しますね」
俺が日時と場所を決めると彼女は席を立った。そして、俺に向かってニッコリと笑って
「また……会いましょう」
そう言って、彼女は店を後にした。だけど、俺はその笑顔を見て、心の中で何かしらのどうしようもない不安と儚さを彼女に感じてしまった
的場さんと別れた私は少し、人通りが少なくなった繁華街の雑踏の中を再び歩いている
『俺と……付き合ってくれ!!』
「………………」
彼の告白を聞いた瞬間、私はいったん思考が止まってしまいその後、冷静になった私が先ず感じたのは
『俺は貴水さんのことが好きだから君が辛そうにしてるのは見たくない。もしも、俺にできることがあれば何でもするよ?』
『疑い』だった。私の脳裏に浮かんだのは私を裏切ったあの男の言葉だった。普通なら、異性の告白は喜ぶべきものであるが、私は素直に喜ぶことができない
的場さん……ごめんなさい……あなたが他人を裏切る人じゃないことはわかっています……だけど……
私の心にじわじわと過去から来る痛みが襲ってきた。そして、私にはあの人の告白を喜べない理由がもう一つある
私の今の職業を知られたら……
私にとってはそれが最も恐ろしいことだった。私は風俗嬢なのだ。そして、まだ引き返せるとはいえ、私は磐田さんや久川さんと同じ世界の住人なのだ
それに借金も……
私の借金はあと数か月で返済することができるとは言え、まだ半分以上も残っているのだ。仮に私が的場さんに現状を話したら、的場さんは恐らく肩代わりするだろう
なぜなら、
軽蔑したのに……私のこと……『好き』だと言ってくれたもの……それにあの目は……
彼の目はかつて、私が先輩に向けていたものと同じものだから
『恋は盲目』と言う言葉があるが、人は『恋』をするとその人は以外のものは見えなくってしまうものだ
だからこそ、彼とは付き合えないのだ。私の生きている世界とは無関係の彼をこちら側に引きずり込むようなことだけはしたくない
借金を返すまで待ってもらうなんてこともできないわ……それに……
正直に言うと、的場さんの告白自体は私からすれば表の世界に戻る方法でもある
だが、それは
的場さんのことを……利用すると言うことなのよね……
彼の『恋』を利用して元の世界に戻ろうとしている自分が心のどこかにいることに私は自己嫌悪を覚えている
―prpr―
「……はい、もしもし」
私が自己嫌悪に駆られていると私の持っているPHSに電話がかかってきた
『あ、もしもし?響ちゃん?』
電話のスピーカーから聞こえた声は久川さんのものだった。そして、その声は妙に焦りが混じっていた
「どうしたんですか?」
私は電話をかけてきた訳を尋ねた
『ごめん!!響ちゃん!!』
すると、彼は大きな声で突然、謝ってきた
そして、彼は続けて
『今日、店に出る筈だった娘が風邪引いちゃったんだ!!悪いけど、帰って来てくれないかな!?』
「え?」
久川さんは私に対して、申し訳なさそうに必死になりながら、今日、店に出る筈だった娘の代理を頼んできた
「無理そうなら良いんだよ?……他の娘に頼むけど……」
久川さんは私に無理をしないでもいいと言っているが
「大丈夫ですよ。じゃあ、戻りますね」
私はそう言って、すぐに寮に戻ることを伝えた。すると、久川さんは
『本当にごめん!!黒瀬(くろせ)の奴にも言って、給料上げることを言っておくよ……ありがとう!!』
私にそう言って電話を切った
―トゥートゥー―
久川さんが電話を切ると私はオレンジ色の夕日の光の中で一度立ち止まった
ごめんなさい……的場さん……私は……
私は改めて自分の立場を思い知らされてしまった
どんなに言い繕うが私はお金のために身を売る娼婦には変わりはないのだ。今の電話はそれを私に再認識させるには十分だった
そして、彼の告白への答えは『NO』と決まってしまった
「………………」
カツカツと私のハイヒールから音が鳴るたびに私は空しさを感じた。私は先ほどまで『光』を目にして、そして、私はその『光』が満ち溢れる世界に戻ることができると一瞬だけだけどそう期待した
しかし、それは叶わぬ願いだった
「今、戻りました……」
私は寮にいつの間にか辿りついていた
「おかえり、響ちゃん!!悪いけど、早速店の方に行ってくれないかな?」
私が帰って来たことに気づいた久川さんは電話から聞こえた声から察することはできたが、やはり、私に対して申し訳なさそうにペコペコと私に代理を頼んできた
「あ、大丈夫です……じゃあ、着替えてきますね」
私はあっさりとそう言って、仕事の準備の為に自室へと向かった
「どうしたんだろう……響ちゃん……」
俺は先ほど帰ってきたこの寮に住み込みで働いている『風俗嬢』の様子を見て、心配してしまった
元々、あの娘はこの寮に住んでいる女の中では俺個人としては『同情』できる人間だ
「まあ……だからと言って、どうすることもできないんだけどな……」
あの娘が借金をしたのは事実だ。そして、それを普通の方法で返すことができないのも変わりようのない事実だ。そもそも、銀行以外の金融でお金を借りるのは、言っては失礼だが馬鹿のすることだ
「まったく……『こっち側』で生きるのは『吸血鬼』みたいじゃないとやっていけないな……」
俺は自分の生き方に対して、皮肉を込めて自嘲した
こんな商売をしている俺が言っても説得力はないと思うが、俺にはまだ一応は人並みの『良心』はある
だから……辛いんだけどな……
俺の実父はクズだった。自分は働かないくせにお袋に無理をさせた挙句、自分はギャンブルや酒、タバコ、さらには風俗通いと言ったことをやる本当に最低な人間だった
そして、お袋が俺が小5の時に亡くなると、葬式どころか仏壇に線香をあげることもせず、自分で作った借金を俺に押し付けてどこかに逃げやがった
そんな、俺を拾ってくれたのがこの辺りをシマにしているヤクザの組長であった俺の『親父』だった
あの人は俺に対して
『いいか、坊主……借金についてはお前が中学を出るまでは放っておく……その後はうちの組で働いて返せ』
と寛大な処置をしてくれた。今時、珍しい人だった。はっきり言うが『仁義』なんて言葉はこの業界じゃ既に『死語』だ
今や、そんなのは地域密着型の連中にしか通用しない。上の連中はそれなりにマトモな連中は多いが、下っ端連中の多くは不良上がりのチンピラでしかない。しかも、性質の悪いことにそう言った連中を使って、『組織』の利益を得るために堅気の連中をダシにする上の連中もいる
うちの組は幸いにも親父がそう言ったことを嫌うからしていないが『いつか』はする時が来るかもしれない
「でも、やっぱり……踏ん切りがつかねえな……」
俺はそんな風なことだけはしたくない。いくら、組のためとは言え何も知らないガキに薬を売ったり、女を犯してそのまま売りを強要させるなんぞ絶対にしたくない
俺は『外道』になりきれない存在だ。俺は自分の欲望のために他人を傷つけることなどできない。なぜなら、それは
「あの……『屑』と同じになっちまうからな……」
あの男のようにはなりたくないからだ。はっきり言うと、あの男のような連中には俺は絶対になりたくない
「元から『表』で生きることができたくせに……」
連中は俺と違って、自分で『裏』の世界に来たのだ
だからこそ、許せないのだ。連中には『表』の世界で生きられる選択肢が存在していたのだ。そして、俺が『裏』の世界の住人を『吸血鬼』を例えるのは
「俺は他人を食い物にすることでしか生きられない……まるで、『吸血鬼』だ……」
まるで、人間が他の動物を食べて、いや、全ての生き物がただ食事のために他の生き物の『死』を何とも思わないように他人の生き血を吸うのは正しく、『吸血鬼』そのものだと俺は思う
「そして、俺はあの『屑』に『吸血鬼』の牙から逃れるための『身代わり』にされて……『吸血鬼』にされた……まったく……まるで、フィクションだな」
俺は光溢れる世界で生きられない。そこも『吸血鬼』と似ていると思った。
恐らく、響ちゃんも『吸血鬼』にされたのだろう。『吸血鬼』の英訳である『Vampire』の語源には『妖婦』を意味する『Vamp』がある。皮肉にも裏の世界の住人はどこまでも『吸血鬼』と言う言葉が似合いすぎる
「……て、俺こんなに博学だったけ……?あ、そっか……『あの娘』の話し相手になるためにたくさん、本を読んだんだっけ……」
俺は既にいなくなってしまったある娼婦のことを思い出した。あの娘の笑顔が見たくて、少しでもいいから話相手になりたかったあの頃が懐かしかった
しかし、あの娘は
「もうよそう……あの娘のことは……」
少し、感傷に浸った俺は響ちゃんのことを再び案じてしまった
「響ちゃんは……色々と似ているかもな……」
彼女を見ていると辛く感じた。そもそも、あの娘はしっかりしている。あんな娘が借金をするのは余程のことが無い限り考えられない
だからこそ、彼女にはできる限りでいいからこれ以上不幸になって欲しくなかった。だけど、一度身を売ったあの娘が『表』の世界に戻るのはかなり難しいだろう
「磐田の奴にも頼まれたしな……」
うちの組の取り立て屋であり、俺と同じ、いや、俺と響ちゃんよりもある意味、『吸血鬼』として生きなくてはならなかった俺の親友は響ちゃんのことを俺と店を管理している黒瀬に頼んできたこともあり、俺が彼女を気にかけるのはそう言った理由もある
「だけど……今日の響ちゃんの目は……」
先ほどの響ちゃんの目はいつも以上に濁っていた。まるで、完全に光を失ったかのように
俺はどうしても不安だった。そして、俺がしばらく黙っていると
「久川さん……」
あの娘の声が聞こえてきた。俺が寮の奥を見ると
「いってきます……」
濃いメイクをした緑色の露出の激しいドレスの上から、ただコートを羽織った彼女がいた
そんな、彼女に対して俺は
「いってらっしゃい」
といつもの様にお気楽な声で彼女を見送った
「こんばんは……店長」
店に入ると私はいつもの様に私は店長に挨拶をした。すると、店長は私の方を見て
「こんばんは、響ちゃん……ごめんね、今日は休みだったのに……」
久川さんと同じくらい申し訳なさそうに謝ってきた
……一応、借金があるから、力関係は私の方が弱いんだけど……
私はどうして、久川さんや店長である黒瀬さんがこんなにも自分に対して、『人間』として接してくれるのか理解できず戸惑ってしまう
「いえ、大丈夫ですよ……それに少しでも早く借金を返したいので……むしろ、好都合です」
私は半分嘘が混じった本音を言って、彼を安心させようとした
すると、彼は少しニヤニヤと笑みを浮かべて
「あ、そのことなんだけど……今日は休みなのにわざわざ来てくれたから、給料は60%上乗せするよ?」
ととんでもないことを気兼ねなく言った。私はそれを聞いた瞬間
「……え!?」
ギョッとしてしまった
「……ん?どうしたの?」
私がしばらく、あまりのことに驚いていると彼は何事もなかったかの様に私に声をかけてきた
「え……その……いいんですか?」
私はオドオドしながら店長に確認した
確かに休日の際の出勤による日給は最低60%の上乗せが『労働基準法』の第二十六条の条文に記載されているものであるが、それを『裏』の世界で守る人間は少ないだろう
それなのに彼は素直にそれに従おうとしている
「なにが?」
彼は私の問いに対して、キョトンとした態度で質問を返した
「だって……60%も上乗せって……」
店側からすれば大損だろう。少なくとも、店側の利益はかなり減ることになる。しかし、彼は
「いや、だってさ〜……こっちからすれば、後でそう言ったことで『日給増やせ』とか言われたら色々と面倒くさいし……面倒事はなるべく避けたいんだよ」
彼は目を細めて、視線を下に向けて哀愁を漂わせてそう言った。過去に何かあったのだろう
「あはは……だから、気にしないでいいよ……じゃあ、待合室で待っててね?」
彼はすぐに立ち直り、私にそう言ってきた。私はそれに対して
「すいません……ありがとうございます……」
少し、謝って同時に感謝の言葉を告げて待合室へと向かった
―キィー―
扉を開けるとそこには他の風俗嬢が何人か待機していた
この部屋の壁はマジックミラーがあり、さすがに会話までは聞こえないが私達の様子はお客には常に見られており、お客は私達のことをここで『品定め』をするのだ
「あ、響さん!こんばんは」
私が部屋に入ると同時に明るい声が聞こえてきた
「こんばんは、鈴(すず)ちゃん」
私に声をかけてきてくれたのは同僚である鈴ちゃんだった。この娘は私より年下で私のことをお姉さんのように慕ってくれる明るい娘だ。私もこの娘のことを妹のように思っている
「どうしたんですか?今日は非番じゃ?」
彼女は私に対して、嬉々として聞いてきた。彼女も私と同じように借金の返済のために働いており、お互いに似たような境遇から奇妙な親近感を覚えていることから仲がいい
だから、いつも私が非番であるこの日に私がいることに彼女は若干の嬉しさを感じているのだろう
「それなんだけどね、今日来るはずだった娘が風邪引いちゃってね……」
私は彼女に対して、少し姉が妹に対して接するかのように肩の荷を降ろすかのようにしてから彼女に訳を話した
「そうなんですか……ま、私達は借金で働いてるんだし断われませんよね……」
彼女は少し、自嘲しながらそう言った。久川さんや店長は確かに基本的には私達の『意思』を汲んでくれるが、それでも私達は一種の『奴隷』のようなものだ
「でも……今日は休日に来てくれたからって60%も給料を増やしてくれるらしいわ」
私は彼女のことを明るくさせたいがために給料の増額のことを伝えた。それを聞いた瞬間、彼女は
「へえ〜!!よかったじゃないですか!!お互いに頑張って、借金を早く返しましょ!!」
と顔をパアッと明るくして、まるで自分のように喜んで笑ってくれた
だけど、彼女のその一言を聞いた瞬間、今度は私の方が虚しく感じた。なぜなら、
『借金を返しましょ!!』か……
彼女も私も借金を返し終わった後のことを考えることができないのだ。私はふと気になって、恐る恐る彼女に質問した
「ねえ……鈴ちゃん……借金を返し終わったら……どうするの?」
「え……」
私の質問を聞いた彼女はしばらく固まってしまった
「……私は……」
そして、口を開くと
「……ここに残ります」
彼女はドヨッとした声でそう呟いた
「そう……」
私はその答えにそう言うしかなかった。なぜなら、彼女もまた、『男に裏切られた女』なのだ。しかも、彼女は恋人や彼氏と言った男女の関係の人間でなく『婚約者』に裏切られたのだ
「私……男の人なんて、信用できません……
だったら、セックスなんて、最初かお金や気持ち良さを手に入れるためのものだと考えることにしたんです……」
彼女は淡々と続けた。自分が愛し、大好きだった将来を約束した人間に裏切られたのだ
こう考えるのも無理はない
そう言えば……久川さんが前に『人に裏切られた人間は鬼になることでしか生きられない』て言ってたわね……
『裏切り』は人を変える。そして、私の頭に『あの人』のことが過ぎった
……先輩は……もし、私やあの会社にいる人達に復讐できる機会があったら……
私は再びあの人のことを考えた
加藤先輩に対して、あの『悪魔』達以外にも私を含めた日頃、彼に信頼されていた人間は彼を見捨てたのだ。これは『裏切り』と言っても何ら変わりがない
だから、私を含めた多くの社員も十分に『復讐の対象』に入るのだ
私が色々と考えていると
「響さん……」
鈴ちゃんが私に何かを言おうとしてきた
「どうしたの?」
私は彼女の何かを訴えるかの様な眼差しを受けて彼女の方を見た。すると、彼女は少し、息を吸って私の目をしっかりと見つめて
「私は私で……響さんは響さんだよ……?だから、響さんは……」
「鈴ちゃん?」
彼女は途切れ途切れながらも私に何かを伝えようとしてきた。そして、彼女が言葉を続けようとすると
「あ、響ちゃん指名入ったよ?」
スタッフが待合室に入ってきて、指名がかかったことを伝えたことで彼女の話の続きを聞くことが叶わなかった
「あ、はい」
私はそれを聞くと席から立つが、少し鈴ちゃんの方を見返してしまった。すると、鈴ちゃんは
「いってらっしゃい」
とニッコリとした表情で私を見送ってくれていた。私はそれによくわからない安心感を覚えて
「いってきます」
と彼女に対して、穏やかな表情で彼女に返事をした
そして、私は待合室から出た
「響ちゃん、ちょっといいかな?」
私が待合室から出ると、スタッフは私に対して何かを言おうとしてきた
「……?いいですよ?」
私が彼の話を聞こうとすると彼は私の耳元にそっと、口を近づけてボソリとあることを囁いた
「あ、実はね……なんか、今回のお客さん、最初から4時間半で頼んできてるんだ……」
「え……!?」
私はこれを聞いて、ギョッとしてしまった
私の働いている店は一コース90分と決まっており、この店の料金は基本的には3万から始まり、本指名は5万だ。つまり、今回のお客は15万も払うつもりらしい
「あの……常連さんですか?」
私は少し、驚きのあまりに震えながらスタッフに聞くが
「いや、少なくとも俺は初めて見る顔だったよ……で、四時間半もできるのかい?いざという時は交渉して、途中で他の娘に変わってもらうようにしてもらうけど……」
「そうですか……」
どうやら、今回のお客は一見客の様だ。そして、店側は流石に3コース連続は私にはキツイと思ったらしく、いざとなったら他の娘と交代することを提案してくれるようだ
だけど、私は
「いえ……大丈夫ですよ……それに今日は給料がいつもより高いから頑張れますよ」
私は彼にそう伝えた。すると、
「そうか……じゃあ、お客にはそう伝えてるよ……じゃあ、しばらくしてからいつもの部屋に行ってくれ」
「はい」
「がんばってな」
私を励ますようにそう言って、彼はロビーの方へと向かって行った。彼がロビーに向かうと私はしばらく、立ち尽くした
『私は私で……響さんは響さんだよ……?だから、響さんは……』
しばらく、ボーとしていると鈴ちゃんの言葉を思い出した
鈴ちゃん……
彼女の言葉を聞いて私はなんとも言えない気持ちになってしまった
あの娘が私に言おうとした言葉はなんとなく予想できた
彼女は自分が『普通』の幸せを諦めてしまったのに、いや、正確には信じられなくなったのに彼女は私に対して
「ありがとう……」
あの娘の言葉は優しかった。あの娘は私には自分のような生き方をして欲しくないと願ってくれたのだ
「よし!!」
彼女の言葉は私に勇気をくれたと同時に私にあることを決意させてくれた
的場さんに本当のことを伝えよう……
私は明日、的場さんに本当のことを伝えるつもりだ。そして、私は彼に借金の返済が終わるまでは絶対に付き合わないことも伝えるつもりだ
もし……拒絶されても、私はそれでいいわ……
恐らく、彼は私を拒絶するだろう。だけど、私はそれでも構わなかった
誰だって、水商売をした人間に対してなんらかの嫌悪感を抱くのは当り前だし、ましてや交際や結婚などしたくないはずだ
だけど、だからと言って、私は表の世界に戻ることを諦めたつもりではない。どんなに無理なことでも私は足掻き続けたい
「がんばろう……」
私はそろそろ頃合いだと思って部屋へと向かった。そして、部屋に着くと
―コンコン―
「失礼します」
私は部屋のドアをノックした
「あ、来たか……入ってきてくれ」
すると、部屋からお客の声が聞こえてきた。私はそれを聞くと一度深呼吸をした
これから、いつもの様に『女』として屈辱的な行為を自ら進んで行うことになる
それは辛いことであるが、私は耐えるつもりだ。今は辛くても未来に希望があることをただ信じて。そして、心の準備ができると
「失礼します。いらっしゃいませ!響と言います」
私はドアを開けて、いつもの様に営業スマイルと作った明るい声でそう言った
これから、お客にとって性行為を行う相手の態度が無愛想なのは誰だって嫌だろう。だから、私は演じている
そして、私はお客の方を見て、接客を続けようとした
「今日はよろしく―――……え?」
しかし、私はそれから先の言葉を紡ぐことができなかった。なぜなら、
「久しぶりだね……『貴水』さん?」
なぜなら、私の目の前にいるのは
「さ……」
私はふるふると震える唇を必死に動かそうとして、目の前の男の名前を言おうとした
「斉木……課長……」
私は目の前にいる私のかつての上司であり、加藤先輩のかつての部下であり、そして、私の『初めて』を奪い、私を裏切った男の名前を口に出した
そして、同時に私は自分の足元が真っ暗な奈落に落ちるような感覚をその時、感じた
しかし、
「……貴水?」
「………………」
俺が告白した相手である彼女は目を開いたまま、ボーと固まっている
……あれ?俺、なんかした?
俺は貴水の様子を見て、自分の告白に何か問題がなかったかを考えた。そして、しばらく今までの自分の行動と今の状態を確認するとすぐに自分の大きな過ちに気づいてしまった
……て、俺のばかあああああああああああああああああああああああああああああ!?
よく考えてみたら、いきなり人が見ている場所で大きな声で告白したら、恥ずかしいだろ!?
俺達のいる場所は今は昼過ぎとは言え、他人がいるファーストフード店だ
少し、考えてみればわかることだが、俺は彼女に対して場所も時間も声の大きさを弁えず、告白してしまったのだ。これではロマン以前にデリカシーがなさすぎる
それによく考えたら……俺……貴水が好きな理由を伝えてないじゃないか!?
振り返るたびに自分の失敗に気づいていき、俺は自分の額をテーブルにドカドカと打ち付けたくなってきた。まあ、この場でやったらさすがに貴水や他のお客、店員に引かれそうだからやんないけど
しかし、過ぎたことをいつまでもくよくよと嘆くよりは俺は貴水に告白の続きを今度は少し、小さな声で続けようとおもった。しかし、
「……どうしてなんですか?」
俺は告白の続きを貴水の言葉によって遮られて言えなかった。そして、その彼女の口調はとても冷たくて暗かった
「え……その……」
俺は彼女のその言葉に一瞬怯むが、すぐに立ち直り意を決し、彼女の眼を熱く見て
「信じられないと思うけど……俺、貴水のことが前から好きだったんだ」
自分の心の底からの想いを包み隠さずに伝えた
俺はあの会社にいた時から、貴水のことが好きだったのだ、先ほど彼女に嫌われているかもしれないのに声をかけたのも懐かしさだけでなく、好きな女性に再会できたと言うのも大きな理由だ
まあ……貴水が加藤さんのことを好きなことを知っていたし、俺はあの事件のせいで『悪党』にされたからな……告白できることはなかったけど……
俺は彼女に告白できなかった理由を振り返った
貴水は俺が今でも尊敬し、恩を感じている元上司の加藤優(すぐる)に想いを寄せているのだ
だけど、加藤さんは既婚者だ。そして、俺の知っている限り、あの人ほど理想の夫と父親にふさわしい人は知らない
だからこそ……貴水を見ていると辛かった……絶対に実ることのはずがない想いをいつまでも持ち続ける彼女が……そして、俺も彼女のことが好きだからこそ、想いを伝えられなかった
俺は貴水を傷つけることができなかったのだ。彼女の『恋』は絶対に実らないことを理解しながらも俺はそれを言うことができなかった
だけど、同時に俺自信も彼女に嫌われることを恐れて、そのことを言うことを躊躇ってしまった
人の数だけ幸せもある。彼女にとって、加藤さんのことを想うことが幸せなのだ。俺にそれを否定することはできなかった
そんな、俺が彼女に今、目の前で告白しているのはこの瞬間を逃したら、二度と彼女に会えない気がしたからだ
「私は……」
そして、彼女は俺の本音を聞くとゆっくりと口を開いて俺に何かを伝えようとしてきた。しかし、すぐに何かを躊躇うかのように顔を下に向けた。俺は彼女のそういった一つ一つのしぐさにドキドキしながら答えを待った。そして、ようやく彼女は口を開いた
「少し……時間を下さい……」
彼女の答えは『保留』だった。俺はそれを聞いて、少し緊張と心拍数は下がったが、同時に期待と不安感、残念さを持ってしまった
それでも、俺は
「いいよ……じゃあ、明日の夕方の5時に駅の近くの神社で答えを聞かせてくれ」
彼女を待ちたかった。俺は『答え』が欲しかったのだ。俺は告白をすることができただけで幸せだったからだ
「はい……それじゃ、明日……返事を返しますね」
俺が日時と場所を決めると彼女は席を立った。そして、俺に向かってニッコリと笑って
「また……会いましょう」
そう言って、彼女は店を後にした。だけど、俺はその笑顔を見て、心の中で何かしらのどうしようもない不安と儚さを彼女に感じてしまった
的場さんと別れた私は少し、人通りが少なくなった繁華街の雑踏の中を再び歩いている
『俺と……付き合ってくれ!!』
「………………」
彼の告白を聞いた瞬間、私はいったん思考が止まってしまいその後、冷静になった私が先ず感じたのは
『俺は貴水さんのことが好きだから君が辛そうにしてるのは見たくない。もしも、俺にできることがあれば何でもするよ?』
『疑い』だった。私の脳裏に浮かんだのは私を裏切ったあの男の言葉だった。普通なら、異性の告白は喜ぶべきものであるが、私は素直に喜ぶことができない
的場さん……ごめんなさい……あなたが他人を裏切る人じゃないことはわかっています……だけど……
私の心にじわじわと過去から来る痛みが襲ってきた。そして、私にはあの人の告白を喜べない理由がもう一つある
私の今の職業を知られたら……
私にとってはそれが最も恐ろしいことだった。私は風俗嬢なのだ。そして、まだ引き返せるとはいえ、私は磐田さんや久川さんと同じ世界の住人なのだ
それに借金も……
私の借金はあと数か月で返済することができるとは言え、まだ半分以上も残っているのだ。仮に私が的場さんに現状を話したら、的場さんは恐らく肩代わりするだろう
なぜなら、
軽蔑したのに……私のこと……『好き』だと言ってくれたもの……それにあの目は……
彼の目はかつて、私が先輩に向けていたものと同じものだから
『恋は盲目』と言う言葉があるが、人は『恋』をするとその人は以外のものは見えなくってしまうものだ
だからこそ、彼とは付き合えないのだ。私の生きている世界とは無関係の彼をこちら側に引きずり込むようなことだけはしたくない
借金を返すまで待ってもらうなんてこともできないわ……それに……
正直に言うと、的場さんの告白自体は私からすれば表の世界に戻る方法でもある
だが、それは
的場さんのことを……利用すると言うことなのよね……
彼の『恋』を利用して元の世界に戻ろうとしている自分が心のどこかにいることに私は自己嫌悪を覚えている
―prpr―
「……はい、もしもし」
私が自己嫌悪に駆られていると私の持っているPHSに電話がかかってきた
『あ、もしもし?響ちゃん?』
電話のスピーカーから聞こえた声は久川さんのものだった。そして、その声は妙に焦りが混じっていた
「どうしたんですか?」
私は電話をかけてきた訳を尋ねた
『ごめん!!響ちゃん!!』
すると、彼は大きな声で突然、謝ってきた
そして、彼は続けて
『今日、店に出る筈だった娘が風邪引いちゃったんだ!!悪いけど、帰って来てくれないかな!?』
「え?」
久川さんは私に対して、申し訳なさそうに必死になりながら、今日、店に出る筈だった娘の代理を頼んできた
「無理そうなら良いんだよ?……他の娘に頼むけど……」
久川さんは私に無理をしないでもいいと言っているが
「大丈夫ですよ。じゃあ、戻りますね」
私はそう言って、すぐに寮に戻ることを伝えた。すると、久川さんは
『本当にごめん!!黒瀬(くろせ)の奴にも言って、給料上げることを言っておくよ……ありがとう!!』
私にそう言って電話を切った
―トゥートゥー―
久川さんが電話を切ると私はオレンジ色の夕日の光の中で一度立ち止まった
ごめんなさい……的場さん……私は……
私は改めて自分の立場を思い知らされてしまった
どんなに言い繕うが私はお金のために身を売る娼婦には変わりはないのだ。今の電話はそれを私に再認識させるには十分だった
そして、彼の告白への答えは『NO』と決まってしまった
「………………」
カツカツと私のハイヒールから音が鳴るたびに私は空しさを感じた。私は先ほどまで『光』を目にして、そして、私はその『光』が満ち溢れる世界に戻ることができると一瞬だけだけどそう期待した
しかし、それは叶わぬ願いだった
「今、戻りました……」
私は寮にいつの間にか辿りついていた
「おかえり、響ちゃん!!悪いけど、早速店の方に行ってくれないかな?」
私が帰って来たことに気づいた久川さんは電話から聞こえた声から察することはできたが、やはり、私に対して申し訳なさそうにペコペコと私に代理を頼んできた
「あ、大丈夫です……じゃあ、着替えてきますね」
私はあっさりとそう言って、仕事の準備の為に自室へと向かった
「どうしたんだろう……響ちゃん……」
俺は先ほど帰ってきたこの寮に住み込みで働いている『風俗嬢』の様子を見て、心配してしまった
元々、あの娘はこの寮に住んでいる女の中では俺個人としては『同情』できる人間だ
「まあ……だからと言って、どうすることもできないんだけどな……」
あの娘が借金をしたのは事実だ。そして、それを普通の方法で返すことができないのも変わりようのない事実だ。そもそも、銀行以外の金融でお金を借りるのは、言っては失礼だが馬鹿のすることだ
「まったく……『こっち側』で生きるのは『吸血鬼』みたいじゃないとやっていけないな……」
俺は自分の生き方に対して、皮肉を込めて自嘲した
こんな商売をしている俺が言っても説得力はないと思うが、俺にはまだ一応は人並みの『良心』はある
だから……辛いんだけどな……
俺の実父はクズだった。自分は働かないくせにお袋に無理をさせた挙句、自分はギャンブルや酒、タバコ、さらには風俗通いと言ったことをやる本当に最低な人間だった
そして、お袋が俺が小5の時に亡くなると、葬式どころか仏壇に線香をあげることもせず、自分で作った借金を俺に押し付けてどこかに逃げやがった
そんな、俺を拾ってくれたのがこの辺りをシマにしているヤクザの組長であった俺の『親父』だった
あの人は俺に対して
『いいか、坊主……借金についてはお前が中学を出るまでは放っておく……その後はうちの組で働いて返せ』
と寛大な処置をしてくれた。今時、珍しい人だった。はっきり言うが『仁義』なんて言葉はこの業界じゃ既に『死語』だ
今や、そんなのは地域密着型の連中にしか通用しない。上の連中はそれなりにマトモな連中は多いが、下っ端連中の多くは不良上がりのチンピラでしかない。しかも、性質の悪いことにそう言った連中を使って、『組織』の利益を得るために堅気の連中をダシにする上の連中もいる
うちの組は幸いにも親父がそう言ったことを嫌うからしていないが『いつか』はする時が来るかもしれない
「でも、やっぱり……踏ん切りがつかねえな……」
俺はそんな風なことだけはしたくない。いくら、組のためとは言え何も知らないガキに薬を売ったり、女を犯してそのまま売りを強要させるなんぞ絶対にしたくない
俺は『外道』になりきれない存在だ。俺は自分の欲望のために他人を傷つけることなどできない。なぜなら、それは
「あの……『屑』と同じになっちまうからな……」
あの男のようにはなりたくないからだ。はっきり言うと、あの男のような連中には俺は絶対になりたくない
「元から『表』で生きることができたくせに……」
連中は俺と違って、自分で『裏』の世界に来たのだ
だからこそ、許せないのだ。連中には『表』の世界で生きられる選択肢が存在していたのだ。そして、俺が『裏』の世界の住人を『吸血鬼』を例えるのは
「俺は他人を食い物にすることでしか生きられない……まるで、『吸血鬼』だ……」
まるで、人間が他の動物を食べて、いや、全ての生き物がただ食事のために他の生き物の『死』を何とも思わないように他人の生き血を吸うのは正しく、『吸血鬼』そのものだと俺は思う
「そして、俺はあの『屑』に『吸血鬼』の牙から逃れるための『身代わり』にされて……『吸血鬼』にされた……まったく……まるで、フィクションだな」
俺は光溢れる世界で生きられない。そこも『吸血鬼』と似ていると思った。
恐らく、響ちゃんも『吸血鬼』にされたのだろう。『吸血鬼』の英訳である『Vampire』の語源には『妖婦』を意味する『Vamp』がある。皮肉にも裏の世界の住人はどこまでも『吸血鬼』と言う言葉が似合いすぎる
「……て、俺こんなに博学だったけ……?あ、そっか……『あの娘』の話し相手になるためにたくさん、本を読んだんだっけ……」
俺は既にいなくなってしまったある娼婦のことを思い出した。あの娘の笑顔が見たくて、少しでもいいから話相手になりたかったあの頃が懐かしかった
しかし、あの娘は
「もうよそう……あの娘のことは……」
少し、感傷に浸った俺は響ちゃんのことを再び案じてしまった
「響ちゃんは……色々と似ているかもな……」
彼女を見ていると辛く感じた。そもそも、あの娘はしっかりしている。あんな娘が借金をするのは余程のことが無い限り考えられない
だからこそ、彼女にはできる限りでいいからこれ以上不幸になって欲しくなかった。だけど、一度身を売ったあの娘が『表』の世界に戻るのはかなり難しいだろう
「磐田の奴にも頼まれたしな……」
うちの組の取り立て屋であり、俺と同じ、いや、俺と響ちゃんよりもある意味、『吸血鬼』として生きなくてはならなかった俺の親友は響ちゃんのことを俺と店を管理している黒瀬に頼んできたこともあり、俺が彼女を気にかけるのはそう言った理由もある
「だけど……今日の響ちゃんの目は……」
先ほどの響ちゃんの目はいつも以上に濁っていた。まるで、完全に光を失ったかのように
俺はどうしても不安だった。そして、俺がしばらく黙っていると
「久川さん……」
あの娘の声が聞こえてきた。俺が寮の奥を見ると
「いってきます……」
濃いメイクをした緑色の露出の激しいドレスの上から、ただコートを羽織った彼女がいた
そんな、彼女に対して俺は
「いってらっしゃい」
といつもの様にお気楽な声で彼女を見送った
「こんばんは……店長」
店に入ると私はいつもの様に私は店長に挨拶をした。すると、店長は私の方を見て
「こんばんは、響ちゃん……ごめんね、今日は休みだったのに……」
久川さんと同じくらい申し訳なさそうに謝ってきた
……一応、借金があるから、力関係は私の方が弱いんだけど……
私はどうして、久川さんや店長である黒瀬さんがこんなにも自分に対して、『人間』として接してくれるのか理解できず戸惑ってしまう
「いえ、大丈夫ですよ……それに少しでも早く借金を返したいので……むしろ、好都合です」
私は半分嘘が混じった本音を言って、彼を安心させようとした
すると、彼は少しニヤニヤと笑みを浮かべて
「あ、そのことなんだけど……今日は休みなのにわざわざ来てくれたから、給料は60%上乗せするよ?」
ととんでもないことを気兼ねなく言った。私はそれを聞いた瞬間
「……え!?」
ギョッとしてしまった
「……ん?どうしたの?」
私がしばらく、あまりのことに驚いていると彼は何事もなかったかの様に私に声をかけてきた
「え……その……いいんですか?」
私はオドオドしながら店長に確認した
確かに休日の際の出勤による日給は最低60%の上乗せが『労働基準法』の第二十六条の条文に記載されているものであるが、それを『裏』の世界で守る人間は少ないだろう
それなのに彼は素直にそれに従おうとしている
「なにが?」
彼は私の問いに対して、キョトンとした態度で質問を返した
「だって……60%も上乗せって……」
店側からすれば大損だろう。少なくとも、店側の利益はかなり減ることになる。しかし、彼は
「いや、だってさ〜……こっちからすれば、後でそう言ったことで『日給増やせ』とか言われたら色々と面倒くさいし……面倒事はなるべく避けたいんだよ」
彼は目を細めて、視線を下に向けて哀愁を漂わせてそう言った。過去に何かあったのだろう
「あはは……だから、気にしないでいいよ……じゃあ、待合室で待っててね?」
彼はすぐに立ち直り、私にそう言ってきた。私はそれに対して
「すいません……ありがとうございます……」
少し、謝って同時に感謝の言葉を告げて待合室へと向かった
―キィー―
扉を開けるとそこには他の風俗嬢が何人か待機していた
この部屋の壁はマジックミラーがあり、さすがに会話までは聞こえないが私達の様子はお客には常に見られており、お客は私達のことをここで『品定め』をするのだ
「あ、響さん!こんばんは」
私が部屋に入ると同時に明るい声が聞こえてきた
「こんばんは、鈴(すず)ちゃん」
私に声をかけてきてくれたのは同僚である鈴ちゃんだった。この娘は私より年下で私のことをお姉さんのように慕ってくれる明るい娘だ。私もこの娘のことを妹のように思っている
「どうしたんですか?今日は非番じゃ?」
彼女は私に対して、嬉々として聞いてきた。彼女も私と同じように借金の返済のために働いており、お互いに似たような境遇から奇妙な親近感を覚えていることから仲がいい
だから、いつも私が非番であるこの日に私がいることに彼女は若干の嬉しさを感じているのだろう
「それなんだけどね、今日来るはずだった娘が風邪引いちゃってね……」
私は彼女に対して、少し姉が妹に対して接するかのように肩の荷を降ろすかのようにしてから彼女に訳を話した
「そうなんですか……ま、私達は借金で働いてるんだし断われませんよね……」
彼女は少し、自嘲しながらそう言った。久川さんや店長は確かに基本的には私達の『意思』を汲んでくれるが、それでも私達は一種の『奴隷』のようなものだ
「でも……今日は休日に来てくれたからって60%も給料を増やしてくれるらしいわ」
私は彼女のことを明るくさせたいがために給料の増額のことを伝えた。それを聞いた瞬間、彼女は
「へえ〜!!よかったじゃないですか!!お互いに頑張って、借金を早く返しましょ!!」
と顔をパアッと明るくして、まるで自分のように喜んで笑ってくれた
だけど、彼女のその一言を聞いた瞬間、今度は私の方が虚しく感じた。なぜなら、
『借金を返しましょ!!』か……
彼女も私も借金を返し終わった後のことを考えることができないのだ。私はふと気になって、恐る恐る彼女に質問した
「ねえ……鈴ちゃん……借金を返し終わったら……どうするの?」
「え……」
私の質問を聞いた彼女はしばらく固まってしまった
「……私は……」
そして、口を開くと
「……ここに残ります」
彼女はドヨッとした声でそう呟いた
「そう……」
私はその答えにそう言うしかなかった。なぜなら、彼女もまた、『男に裏切られた女』なのだ。しかも、彼女は恋人や彼氏と言った男女の関係の人間でなく『婚約者』に裏切られたのだ
「私……男の人なんて、信用できません……
だったら、セックスなんて、最初かお金や気持ち良さを手に入れるためのものだと考えることにしたんです……」
彼女は淡々と続けた。自分が愛し、大好きだった将来を約束した人間に裏切られたのだ
こう考えるのも無理はない
そう言えば……久川さんが前に『人に裏切られた人間は鬼になることでしか生きられない』て言ってたわね……
『裏切り』は人を変える。そして、私の頭に『あの人』のことが過ぎった
……先輩は……もし、私やあの会社にいる人達に復讐できる機会があったら……
私は再びあの人のことを考えた
加藤先輩に対して、あの『悪魔』達以外にも私を含めた日頃、彼に信頼されていた人間は彼を見捨てたのだ。これは『裏切り』と言っても何ら変わりがない
だから、私を含めた多くの社員も十分に『復讐の対象』に入るのだ
私が色々と考えていると
「響さん……」
鈴ちゃんが私に何かを言おうとしてきた
「どうしたの?」
私は彼女の何かを訴えるかの様な眼差しを受けて彼女の方を見た。すると、彼女は少し、息を吸って私の目をしっかりと見つめて
「私は私で……響さんは響さんだよ……?だから、響さんは……」
「鈴ちゃん?」
彼女は途切れ途切れながらも私に何かを伝えようとしてきた。そして、彼女が言葉を続けようとすると
「あ、響ちゃん指名入ったよ?」
スタッフが待合室に入ってきて、指名がかかったことを伝えたことで彼女の話の続きを聞くことが叶わなかった
「あ、はい」
私はそれを聞くと席から立つが、少し鈴ちゃんの方を見返してしまった。すると、鈴ちゃんは
「いってらっしゃい」
とニッコリとした表情で私を見送ってくれていた。私はそれによくわからない安心感を覚えて
「いってきます」
と彼女に対して、穏やかな表情で彼女に返事をした
そして、私は待合室から出た
「響ちゃん、ちょっといいかな?」
私が待合室から出ると、スタッフは私に対して何かを言おうとしてきた
「……?いいですよ?」
私が彼の話を聞こうとすると彼は私の耳元にそっと、口を近づけてボソリとあることを囁いた
「あ、実はね……なんか、今回のお客さん、最初から4時間半で頼んできてるんだ……」
「え……!?」
私はこれを聞いて、ギョッとしてしまった
私の働いている店は一コース90分と決まっており、この店の料金は基本的には3万から始まり、本指名は5万だ。つまり、今回のお客は15万も払うつもりらしい
「あの……常連さんですか?」
私は少し、驚きのあまりに震えながらスタッフに聞くが
「いや、少なくとも俺は初めて見る顔だったよ……で、四時間半もできるのかい?いざという時は交渉して、途中で他の娘に変わってもらうようにしてもらうけど……」
「そうですか……」
どうやら、今回のお客は一見客の様だ。そして、店側は流石に3コース連続は私にはキツイと思ったらしく、いざとなったら他の娘と交代することを提案してくれるようだ
だけど、私は
「いえ……大丈夫ですよ……それに今日は給料がいつもより高いから頑張れますよ」
私は彼にそう伝えた。すると、
「そうか……じゃあ、お客にはそう伝えてるよ……じゃあ、しばらくしてからいつもの部屋に行ってくれ」
「はい」
「がんばってな」
私を励ますようにそう言って、彼はロビーの方へと向かって行った。彼がロビーに向かうと私はしばらく、立ち尽くした
『私は私で……響さんは響さんだよ……?だから、響さんは……』
しばらく、ボーとしていると鈴ちゃんの言葉を思い出した
鈴ちゃん……
彼女の言葉を聞いて私はなんとも言えない気持ちになってしまった
あの娘が私に言おうとした言葉はなんとなく予想できた
彼女は自分が『普通』の幸せを諦めてしまったのに、いや、正確には信じられなくなったのに彼女は私に対して
「ありがとう……」
あの娘の言葉は優しかった。あの娘は私には自分のような生き方をして欲しくないと願ってくれたのだ
「よし!!」
彼女の言葉は私に勇気をくれたと同時に私にあることを決意させてくれた
的場さんに本当のことを伝えよう……
私は明日、的場さんに本当のことを伝えるつもりだ。そして、私は彼に借金の返済が終わるまでは絶対に付き合わないことも伝えるつもりだ
もし……拒絶されても、私はそれでいいわ……
恐らく、彼は私を拒絶するだろう。だけど、私はそれでも構わなかった
誰だって、水商売をした人間に対してなんらかの嫌悪感を抱くのは当り前だし、ましてや交際や結婚などしたくないはずだ
だけど、だからと言って、私は表の世界に戻ることを諦めたつもりではない。どんなに無理なことでも私は足掻き続けたい
「がんばろう……」
私はそろそろ頃合いだと思って部屋へと向かった。そして、部屋に着くと
―コンコン―
「失礼します」
私は部屋のドアをノックした
「あ、来たか……入ってきてくれ」
すると、部屋からお客の声が聞こえてきた。私はそれを聞くと一度深呼吸をした
これから、いつもの様に『女』として屈辱的な行為を自ら進んで行うことになる
それは辛いことであるが、私は耐えるつもりだ。今は辛くても未来に希望があることをただ信じて。そして、心の準備ができると
「失礼します。いらっしゃいませ!響と言います」
私はドアを開けて、いつもの様に営業スマイルと作った明るい声でそう言った
これから、お客にとって性行為を行う相手の態度が無愛想なのは誰だって嫌だろう。だから、私は演じている
そして、私はお客の方を見て、接客を続けようとした
「今日はよろしく―――……え?」
しかし、私はそれから先の言葉を紡ぐことができなかった。なぜなら、
「久しぶりだね……『貴水』さん?」
なぜなら、私の目の前にいるのは
「さ……」
私はふるふると震える唇を必死に動かそうとして、目の前の男の名前を言おうとした
「斉木……課長……」
私は目の前にいる私のかつての上司であり、加藤先輩のかつての部下であり、そして、私の『初めて』を奪い、私を裏切った男の名前を口に出した
そして、同時に私は自分の足元が真っ暗な奈落に落ちるような感覚をその時、感じた
14/03/12 14:46更新 / 秩序ある混沌
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