第一節『クノッヘン』
「ごちそうさまでした……」
僕は今の自分にとっては身分不相応のホテルの食事を終えて、ホテルを後にした。そもそも、僕はこのホテルに宿泊する気もその資金すら用意していない。僕は加藤 優(かとう すぐる)。自分で言うのもどうかと思うが、限りなくヘタレだ。僕はホテルを出たあとホテルのすぐ近くの湖の畔を歩いた。そして、ホテルとは対岸に辿りつくと人の気配が完全にいないことを確認した僕は今まで我慢していた言葉を放った
「会いたいよ……士郎(しろう)……」
僕は妻、いや元妻に親権を奪われた息子の名前を情けない声で呟き涙を流した。僕は半年前に突然、元妻に離婚を突き付けられ、訳の分からぬままになぜか僕がDVを奮ったと言うことを捏造され、一か月前に離婚した。言っておくが、僕は決して暴力なんて奮っていない。自画自賛ではないがこれでも誠実に妻子を愛し、仕事も真面目にこなしてきた。しかし、日本の司法とはどうゆうことか証拠もないのに男のほうが女の方が主張すれば、それが『黒』になるらしく、僕は慰謝料の請求を命じられた挙句、DV男のレッテルを貼られ、さらには最愛の息子の親権すらも奪われた。『疑わしきは被告人の利益に』と言う言葉はどうやら、刑事訴訟上限定のものらしい。それに裁判官は妙にフェミニスト染みたクソッタレ紳士であり、僕は無実にも関わらず『女性の敵』として彼の英雄気取りの『正義の鉄槌』を喰らった。僕は呆然自失の状態に陥り、さらにその話は職場までに広がり突然、僕は職場では煙たがれる存在になり、その噂は僕の実家の方にも届いたらしく父親はまったく僕のことを信用せず勘当した。それでも、僕は現状を耐えて仕事を続けた。なぜなら、僕には最愛の息子がいる。元妻には未練などないが少なくともあの子の養育費だけは払いたかった。しかし、そのささやかな支えすらもある事実によって完全に砕かれた。それは僕は士郎との面会を彼女に惨めにも懇願しに彼女の住むマンションに行った時である。そこで僕が目撃したのは僕の職場の上司である男とドライブへと向かおうとしていた元妻の姿であった。そして、僕は気づいてしまった。自分がハメられたと言う事実に。そう、元妻は僕と離婚する以前から上司と繋がっており、僕と言うスケープゴートを使って『悲劇のヒロイン』として心おきなく彼と結ばれようとしたのだろう。僕は彼らに気づかれる前に逃げた。逃げるしかなかった。奴らに情けない顔を見せるのが嫌だったからだ。それが僕に残っていた唯一の意地だったんだろう
「くそっ!!」
―ドガ―
僕は湖の前で自らのふがいなさと愚かさを悔やみ、膝をついて地面に拳を叩きつけた
「くそっ!!」
―ドガ―
「くそっ!!」
―ドガ―
「くそっ!!」
―ドガ―
何度も何度も拳を叩きつけ、その度に僕の皮は擦り剥け、痛々しい擦り傷が生まれた。しかし、今の僕にはそれしか自分を慰める手段が存在しなかった。既に僕の身体と心は信じていた妻と尊敬していた上司の『裏切り』と信じさえしてくれない周囲からの敵意による『孤独感』、最愛の我が子を奪われたと言う『喪失感』による苦痛に襲われ、その苦痛を少しでも和らげることができればこの程度の痛みなど、さらに求めた。しかし、苦痛は収まることを知らず、僕をさらに苦しめた
「あははははははははは……もう……どうでもいいや……」
僕は狂ったように笑った、笑うしかなかった。そして、苦痛を止めるのを止めた
「どうせ……誰も信じてくれない……士郎だって……」
僕は誰にも信じられない現状を再び認識し、同時に士郎の将来を考えてしまった
きっと、あの女と男のことだ……士郎が僕のことを聞いてもあいつらは僕のことを極悪非道の鬼畜だと歪めて教えるだろう……そしたら、士郎すらも僕のことを……
僕は息子が自らを裏切った者たちに『嘘』を吹きこまれ、僕を蔑み憎む未来を想像してしまい、さらなる恐怖に苛まれた。愛する存在に憎まれる。それは最もこの世界で恐ろしいことの一つだ
「なら……いっそ……!!」
僕はもう生きることに対して、何の希望も渇望も持つことができず、そして、己を襲う苦痛から逃げたいがために死に『救い』を求めた。息子の養育費だけが気がかりであったが幸いにも僕の退職金を含めた全財産は士郎の養育費を全額払う分には十分だ。僕はこの湖を死に場所に選んだ
「そう言えば、高校の授業で昔の中国に『周りは濁っているのに私だけは澄んでいる』と言って自殺した詩人がいたと教えてもらったっけ……」
僕はふと昔、漢文の授業で習った故事を思い出した。そして、同時に涙を流し笑った
「まるで、僕みたいだ……でも、僕は誰からも『澄んでいる』と言われないのだろう……」
『お前など、儂の息子じゃない!!』
僕の脳裏に実父の言葉が甦り、僕は自分のことを皮肉った
でも、それは紛れもない本当のことなんだよね……実の親さえも信じてくれないのに……一体、だれが僕のことを『潔白』だと信じて言ってくれるのだろうか?……いや、誰もいないのだろう……
僕は改めて自らの存在が周りからすれば穢れて見れるのか、感じてしまった
「綺麗だなぁ……」
目の前の湖を見て、僕はそう呟いた。湖は森に囲まれその湖面は非常に澄んでおり夜空を鏡のように映しだした。夜空は都会のように照明がないためか星々に満ちており、月は多少欠けているが丸みをおびておりその美しさを他の星々の輝きに負けないように示し、その光は地上を優しく照らしていた
「この風景だけが幸せに感じられるなんて……僕は疲れたんだろうな……でも、この風景を最後に見れたのは……幸せかもしれない……」
僕は最早、この風景を見れただけで最高の幸福だと思ってしまうほど憔悴しているらしい。僕は事前に買っておいた鉄の重りを足につけ
―ぴちゃぴちゃ―
「つぅ……!!」
僕は湖に足を踏み入れた。湖の水温は季節の影響で冷たくなっており、僕はその冷たさに一瞬たじろぐが
心地いい……
湖の冷たさをそう感じてしまった。僕を苦しめる苦痛はあらゆる苦しみを全て、緩和剤として錯覚させ僕はそれを受け入れてしまい、副作用で僕の胸にある種の『心地よさ』を与えてしまう
僕は最早、この世界にとって雑音だ……僕の存在が士郎のためにならないなら……この湖に身を沈めよう……
僕は息子に憎まれることを恐れてはいるが、それで士郎が生きていけるのなら僕はそれでいいんだ。汚い『嘘』でもそれが我が子の心の支えになるのならそれでいい。それに耐えられない弱い僕はここで死ねばいい
――ズイズイ――
既に下半身は湖水に浸かり、呼吸は荒くなり、身体は冷たさによって小刻みに震え、視界がぼやけ始めるがそれでも僕は前に進んだ
「はあはあ……あと……少し……」
僕は脳内に六歳になったばかりの息子を思い浮かべて、震える身体を力を振り絞って前に進ませた。息子の笑顔がちらつく、それが走馬灯なのかはわからない。しかし、どの顔も『笑顔』だった。しかし、息子の笑顔を思い出すたびに死への恐怖は徐々に薄れていく
「さようなら……士郎……幸せに……ね……」
最早、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからない状態であった。だが、僕は笑っている気がする。最後の最後に息子の『笑顔』を忘れずに死ぬことができたのは父親としては幸せなのかもしれない。息子の幸せを祈って死ねるのは少なくとも、無実なのに息子のことを罵った僕の父親よりはマシだろう
「ねえ……君」
突然、僕を呼び止める声が聞こえた。僕はその声が気になり、後ろを振り向いた。すると、そこには
「何をしているのだい?」
この世のものとは思えない人間の形をした何かが立っていた。それは夜の世界に君臨する帝王の証のような黄金の冠のように見える美しい金髪を生やし、たとえどのような暗い闇の中でも眼は紅く光るような鋭さを持ち、夜会服のようなドレスはもし舞踏会に参加するのなら人間の貴族などでは相手になるどころかギャラリーになることすらおこがましい気品をかもし出し、彼女の纏うマントは蝙蝠の翼の姿のような形をしており、もしあれが羽ばたくと言うのならば彼女はこの星と月によって満ち溢れた夜空を舞台に踊ることが許された唯一の存在なのだろう……
そう、僕の目の前の女性は人間とは思えないほどの存在感と美しさを周囲に振りまいていた。まるで、彼女こそが夜を照らす月かのように
「え、その……」
僕は何としてでも自殺をしようとしていることを誤魔化そうとするが、この現状ではどうやっても他人には入水自殺にしか見えず、嘘をつく手段が思いつかなかった。唯一の希望は彼女が人でなしであり、僕の生死などどうでもいい人間であることだ。もしくは人の不幸を蜜の味だと思う外道であることぐらいだ。だが、その期待はあらゆる意味で裏切られた
「死ぬのなら、他所でやってくれないかね?私はここが気に入ったのでね……それを他人の『死』などで穢されるなど我慢できないのでね」
彼女は予想を超える人間だった。彼女はどうやら、僕と言う人間の生命よりもこの風景の方に価値を置いたらしく、その表情は僕を目障りだと訴えていた
そうか……僕にはこのような美しい場所で死ぬ権利すらないのか……
僕は普通なら、ここで怒るべきなのだろうがもはや、その気力すら湧かないらしい
「すいません……すぐにここを離れます……」
僕はそう言って、もうほとんど残ってもいない体力を振り絞って湖から出ようとすると
「待ちたまえ」
突然、彼女は僕を呼び止めた
「なんですか?」
僕は一刻も早く、この場を後にしたかったが無視すると面倒そうなので仕方なく彼女の問いかけに耳を傾けた
「君は死にたいのかい?」
「はあ?」
僕は彼女のよく分からない質問に混乱してしまった。彼女は先ほど、
『死ぬのなら、他所でやってくれないかね?私はここが気に入ったのでね……それを他人の『死』などで穢されるなど我慢できないのでね』
と指図したばかりだ。それなのに彼女はなぜ僕にそれを確認する必要があるのかが僕には理解できず、僕は黙るしかなかった
「無言と言うことは『肯定』と言うことでいいのかい?」
「………………」
彼女は勝手にそう結論付けたらしい。僕としては反論の余地もないし、とっと『生』を終わらせたいことから無言で頷いた。すると
「君……どうせ死ぬのなら……私のために死なないかい?」
「……え?」
彼女は笑みを浮かべて意味の分からないことを僕に向かって勧誘してきた
ど、どういうこと……?自分のために死ねなんて……そんな言葉……ここで使うもんじゃないよね……?
「実はね……私は」
彼女がさらなる混乱に陥った僕に対して、何か語りかけようとした瞬間
―バサ―
突然、彼女の纏っているマントが風もないのに舞い上がり、まるで背中から翼が生えているような体勢になった。いや、どうやらあれは紛れもない翼であるらしい。なぜなら、彼女の足は地面から彼女の身体は宙に浮いている。そして、彼女の紅い瞳は紅く光り僕に対して、その眼光は向けられた
「ヴァンパイア……つまりは吸血鬼なのだよ」
彼女は微笑みながら僕を誘惑するようにそう呟いた。僕はその姿に圧倒された。しかし、それは恐怖からのものではない。僕よりも高い位置する彼女の姿はたとえ、どれほど強く、地位が高い人間であろうと彼女の目の前では無価値になるほどの気品に満ちていた。僕はその姿に畏敬の念を持ってしまったのだ
「あぁ、あと君にとっては朗報ではあるが、私は真水が苦手だ……もし、私から逃げたいのであれば……そのまま、湖底にその身を沈めればいい……特別に許可を与えよう」
寛大にも彼女は僕にこの湖で『死ぬ権利』を与えてくれた。彼女は僕が湖に身を沈めようとも僕の『死』を貶すつもりはないらしい。僕は自分が最早、この世界にとって異物であることを理解しているがために一刻も早くこの世から立ち去りたいと願っている
「もしも……私の役に立ちたいと思うのならばこの手を取りたまえ……」
そう言って、彼女は僕に手を差し伸べてきた
―ズイズイ―
僕は脳裏に息子が僕を拒絶する姿を思い浮かべて、湖水の中で止まっていた足を動かした
―ズイズイ―
「そうか、それが君の選んだ答えか……」
―ガシッ―
僕は彼女の手を取った。なぜ僕は『死』を先延ばしにしたのかわからない。しかし、心の中で自らの存在を必要としてくれる存在を求めていたのだろう
この人は僕を必要としてくれる……
全ての人間から否定された僕にとっては僕のことを『食料』としてしか見ていないであろう目の前の『吸血鬼』は優しい『天使』のように思えた
見捨てられたくない……
僕はこの瞬間、彼女に依存したのだろう。それは虐待を受けながらも自分の居場所が欲しいがために親に縋る子どもと同じなのだろう
「ふふふ……よろしく」
彼女が嬉しそうに微笑んだと同時に彼女の紅い眼が光り出し、僕はそこで意識を失った
彼を私のものにしたい……
私は彼を自らの魔眼で少し催眠状態にして彼のことを聞き出し、増々彼のことを助けたくなったと同時に彼を夫にしたくなった。実は私は彼のことを一度だけだけど見たことがある。それは彼がここまで追い詰められるまでにことになる出来事が始まる前のことだった。あの時の彼は妻子がいることを幸せに感じ、それに感謝するかのように笑顔で息子の成長を見守っていた。私はその姿に惚れてしまった。だけど、彼は既に妻子がいる身でありそんな彼の幸せを壊す気など私にはなかったから、あきらめようとした
だけど、今は違うわ……彼は全てを失ってしまった……こんなにも綺麗な心の持ち主なのに……
私は彼の湖で呟いた一言が余りにも悲痛な叫びにしか聞こえなかった
『さようなら……士郎……幸せに……ね……』
最後に彼が想い続けたのは自分を裏切った者や拒絶した者、否定した者に対する怨嗟ではなく、愛する我が子の幸せだったのだ。いや、それしか彼には言えなかったのだ
あぁ……あなたはなんて優しくて愛が深い人なのかしら……死の理由が我が子に対する愛なんて……あなたには『貴族』としての素質がある……
この人は我が身を犠牲にしてでも愛する人を守ろうとする。しかし、だからこそ愛する人に拒絶されればこの人は一気に弱くなる。この人は愛する人がいなければ彼は強く生きられたのだろう。この人は愛する人がいるからこそ強く生きることができない
だけど、私が死ぬことは許さないわ……あなたのような人が死ぬなんて……だけど、彼は生きることに苦しみを感じている……だったら、あなたのことを私が殺してあげる……
私は彼が『生』に苦しみしか抱いていないことを知りながらも彼には生きて欲しい。いや、正確にはその表現は間違いだ。彼には一度死んでもらう。そして、『貴族』として生まれ変わってもらい、私と生きて欲しい
どうか、あなたがあの時、家族に向けていた愛情が私と……いつか、生まれるであろうあなたとの娘にも向けられることを祈らせて……
私は彼が催眠状態で意識が朦朧としていることをいいことに彼の胸に顔を埋めてそう願った。そして、しばらくしたあと、彼の足首についている重りをはずして、彼の身体を後ろから抱えて飛び去った
「ここは……」
僕は目を覚ますと僕は見慣れない景色を目にした。僕の目の前には森に囲まれた大きな洋館が存在した。僕は突然の出来事にさっきまでの出来事と今、目の前で起きていることは夢だと思い始めた。しかし、
「冷たい……」
僕は自分の服が濡れていたことに気づく。そして、
「おや、お目覚めかい?」
「あ……」
その声に僕は後ろを振り向くがそこには先ほど僕に手を差し伸べた『吸血鬼』がいた
夢じゃなかったのか……
僕はそれに安心とともに落胆を感じた
どうせ、夢なら今までのことが全てが夢だったらよかったのに……
僕は仮に今までのことが夢なら、元妻に裏切られた瞬間までが夢であって欲しいと思い、それが夢でなかったことに落胆したと同時に湖で出会った目の前の女性が現実にいることに安堵した
「どうしたのかい?」
彼女は僕が暗い顔をしていることに心配してくれたようで、声をかけてくれた
「いえ、何も……」
僕は彼女に自分の真意を悟らせまいと誤魔化した。すると、彼女はどうやら僕の心中を察してくれたようで少し怪訝そうな顔をしたがすぐに平然とした表情に戻して、僕に向かって
「そうか、なら問題ない。ついてきたまえ」
と指示して、突然扉が開いた洋館に向かって歩き出した
「はい」
僕は言われるままに彼女の後をついていき、洋館に入った
「………………」
洋館の中は静かな気品に満ち溢れていた。シャンデリアなどの建物の雰囲気を壊さないために豪奢な装飾は存在するが、それ以外には人に自らの財力を見せびらかすようなものは存在しなかった。しかし、それがむしろこの洋館の主である彼女の気品を表していた。僕はその空気に戸惑いながらも圧倒された。僕がしばらく、ボーっとしていたがそれは長くは続かなかった
「さてと、君にはまず、シャワーを浴びてもらうよ?」
「え?」
突然、彼女は僕にそう言ってきた。しかし、なぜかそう言ってきた彼女の方が不思議そうな顔をした
「え……て君は泥のついた食べ物を洗わずに食べるのかい?」
「あ、なるほど」
僕はその言葉に納得した。どうやら、彼女は貴族のような姿からわかるように上品で綺麗好きらしい
まあ……人間だって、汚れている物を食べるのは嫌だよね……
僕は自分が目の前の存在によって、殺されそうになっていると言うのにまったくそのことに対して危機感を持たず納得してしまった。今の僕には人間どころか家畜ですら持っている死への恐怖がなかった。僕と家畜との大きな違いは彼らはもっと生きたいのに殺されるのに対して、僕は死にたいから殺してもらいたいと言うことだろう。そう考えると最早、僕はある意味では家畜以下の存在だ
「じゃあ、入らせてもらいます」
僕は彼女の要望通り汚れを落とすことを告げた。すると彼女は
「そうか、浴室は右の廊下を歩いて5番目の部屋だ」
と僕に浴室の場所を教えた。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言うと、彼女は微笑んで
「どういたしまして……では、後でね」
含みを込めて嬉しそうにそう言った
「はい。では、失礼します」
僕はそれに返事をして、彼女に教えられた場所に向かった。しばらく、廊下を歩くと彼女に言われた5番目のドアを発見した
「ここかな?」
―――キィ―――
僕はドアを開くとそこには鏡が設置された洗面台とタオル掛けが存在していた。どうやら、脱衣所のようだ
意外と僕が使っていた風呂と変わらないんだなぁ……
僕は脱衣所を見てそう思った。僕が目にしている脱衣所は僕が今まで使用していたものと大差がなかった
そう言えば……
『私は真水が苦手だ』
て言っていたような……
僕は彼女が言っていた言葉を思い出した。しかし、そうなると気になることがある
なんで、浴室があるんだ……?というか、真水が苦手ならどうやって体を洗うんだ……?まあいいか
僕は色々と疑問を感じたがすぐに詮索をやめて湖に浸ったことによって、ずぶ濡れになった服を脱ぎ始めた。そして、脱ぎ終わるとすぐに隣にある浴室に入った。そこには洗面台と鏡とシャワー、そして僕が以前使用していた物よりは少し大きいくらいのバスタブがあった。僕はシャワーの蛇口に手を伸ばして、それを回した
―――キュキュ――――
―――ジャー――――
シャワーから流れる温水は湖によって冷えた僕の身体を温めた。しかし、寒さが抜けると同時に僕の身体を『苦痛』が襲った
大丈夫……もうすぐ、この苦しみから解放される……
僕は自分にそう言い聞かせて痛みを耐えた。僕は彼女によって『死』を迎えることを望んだ。なぜなら、今、この世界で僕のことを必要としてくれているのは彼女だけだ。なら、彼女の血肉となって死ねるのなら本望だ。しかし、欲を言うのなら息子の成長を見届けたかった。だけど、最早それは叶わないことだ
きっと、士郎は僕のことを憎むだろうな……いや、もしかすると僕が父親であったことすら忘れるかもしれない……だけど、それでいい……
最愛の我が子の行く末を僕は思い浮かべると同時に自分が息子に憎まれることや存在を忘れられることに不思議と恐れはなかった
あいつらが吐く嘘がきっと、あの子にとっての本当になるんだろうな……なら、悪役はとっとと退場しないと……
僕は自己満足のために『死』を選んだ。でも、本当は満足なんてしていない。望むのならあの子が青春を送り、あの子が結婚し、あの子の子どもである孫を見てから死にたいのが僕の本音だ。本当は未練が残りまくりな人生だ
―――キュキュ―――
―――ピタピタ―――
僕は身体を洗い終わるとシャワーを止めて、タオルを手に取り全身を拭いた。これから、彼女にこの身体を捧げるのだ。身体が濡れていて、服が湿ってしまうと彼女に不快感を与えるだろうから、執拗に拭いた。そして、身体を拭き終わり浴室を出ると
「おや?準備はできたのかい?」
「なっ!?」
彼女が僕の目の前にいた。僕は彼女がいたことに目を丸くして驚いた。しかし、僕が驚いているのは彼女に僕の裸が見られたからだけではない
「ん?どうしたんだい?」
彼女は不思議そうに首を傾げるが僕からすればそんな風な反応をする彼女の方が不思議だ。なぜなら
「ど、どうして……裸なんですか!?」
そう、裸なのは僕だけじゃなく彼女もだった。彼女が身に纏うのは自らの身体の一部である背中から生える翼のマントだけだ。僕は動揺して彼女に向かって尋ねると彼女は平然とした表情でこう言った
「君は私に服を濡らさせるつもりか?」
僕はその一言で彼女がなぜ全裸なのか理解できた。どうやら、彼女が服を脱ぎ全裸になったのはどうやら僕の『血』をここで吸うつもりらしく、僕の身体がシャワーを浴びた後に水で濡れたことを予想して自分の服が濡れることを嫌がり全裸になったらしい。しかし、だからと言って、好き合っている仲でも無い男女がお互いに裸と言うのは少なくとも僕の貞操観念からすると許容できるものではない
「だったら、どこかで待っていてくださいよ!!」
余りの羞恥に僕は声を荒げて彼女に向かって言った。それに僕は彼女から逃げるつもりはない。彼女がここで待っているのはきっと僕が逃げ出すことを警戒したのかもしれない。すると、彼女は顔をニヤつかせながらこう言った
「ふ〜ん……君はせっかく、綺麗にした身体をそこの服を着て汚すつもりかい?」
「あ……」
彼女は僕が脱いだ服を指差してそう言った。僕はその一言に黙るしかなかった。彼女の指摘は正しい、よく考えてみると今の僕がなんとか着ることのできる服は湖の水で濡れているコートとスーツとYシャツしかない。それでは、せっかく洗ったが再び濡れて汚れてしまう
「それとも……君は全裸で私の部屋まで来るつもりだったのか?」
「なっ!?そんなこと―――」
彼女は僕のことを羞恥心を煽るようにイジワルそうにそう言った。僕は抗議しようとするが
「ふふふ……君がまさか、そんな変態だとは思わなかったよ」
彼女の僕の羞恥心をさらに逆撫でするような一言によってその抗議は遮られた
「ち、ちがう!!僕は変態なんかじゃない!!」
僕は彼女のペースに乗せられてその言葉を否定しようとするが
―――むぎゅ―――
―――ビクッ―――
「!?」
「ふ〜ん……でも、君……私に言葉責めされてこんなに欲情してるじゃないか?」
「それはあなたが……!!」
突然、彼女は僕に抱きついてきた。そして、僕の身体に彼女の柔らかく心地よい肌の感触が走った。そして、僕のいきり立った肉棒は隠すことができず、僕は彼女にそのことをからかわれた。そもそも、彼女の身体は非常に美しかった。彼女自身の顔立ちは言わずもがな、彼女の身体のパーツは豊満な胸の果実、引き締まったヒップライン、か細くて長い四肢、無駄のない肉体など本当にこの世のものとは思えないほど美しいものだった。そんなものを見せられて興奮しない方が困難だ
綺麗すぎるんだよ……
「光栄に思いたまえ……私の素肌に君の身体が触れることを……」
彼女は傲慢にもそう言った。しかし、僕はそれに対しては抗議ができなかった。気高い彼女にとって、僕のような男と肌を合わすことなんてとてつもない不名誉なことなのだろう。これは先ほど、彼女が自分の服を濡らさないために仕方なくやっていることなのだろう。僕がそう考えていると彼女は自らのマントである翼で僕を覆い、そっと僕の肩に手を置いた
「じゃあ……そろそろ」
彼女はどうやら我慢の限界らしく、口から鋭い犬歯を覗かせ目を怪しく光らせながら僕に血を吸わせることを要求してきた
「どうぞ……」
僕は彼女の要求にを素直に頷き、首筋を差し出した。すると、彼女は僕の身体に身を預けるように身を乗り出してきた。その際に彼女の豊満な乳房は僕の胸板に押し付けられ、僕の頭は彼女の身体がもたらす柔らかい肌の感触と彼女の髪から漂う香りによって、蕩けてしまいそうになった。それはまるで、お互いに愛し合っている男女が愛を交し合うかのようだった。そして、彼女は僕の首筋に向かって自らの首を伸ばしてきた。ついに僕が望んだその時が訪れたのだ
おかしいな、僕は今から死ぬ筈なのに……どうして、こんなにも幸せなのだろうか?だけど、僕は今この瞬間に死ねることに幸福を感じている……ごめんね……士郎……
僕は浅ましくもそう思ってしまった。僕は目の前の美しい女性によって、人生を終えようとしていることに息子のことを思い出して自分の浅ましさを感じてしまった
君のお父さんはお母さん以外の人と肌を合わせているよ……
既に元妻には何の未練も罪悪感も存在しなかったが、まだこう言った行為が持つ意味が分からない息子に対しては引け目を感じてしまった
―――チクッ―――
「痛っ!!」
僕の首筋に痛みが走った。どうやら、彼女が首に牙を突き刺したようだった。そして、
「ん、んむむ……」
「はあはあ……」
彼女は僕の『血』を吸い始めた。しかし、それには不思議と痛みが生じなかった。むしろ、僕が今まで心の中で感じていた恐怖や悲しみ、苦痛が失われるような感覚をもたらし、同時に彼女の牙から何かが流し込まれるような気がした
「んんん……」
それは暖かった。湖によって冷やされただけでなく、あらゆるものに否定され、誰も味方がいない閉塞感や孤独感に襲われ、まるで氷によって覆われるかのように凍えていた僕の魂が溶かされるかのように感じた。僕はこの暖かさの中で死ぬことを望むがそれは叶えられなかった
「んは」
「はあはあ……え……」
彼女は突然、吸血行為を止めた。僕は彼女の吸血がもたらす心地よさに息を荒くしたが、彼女がいきなりそれを止めたことに驚いてしまった
「どうして……」
僕は自分がまだ死んでいないのに彼女が吸血を止めたことに抗議しようとしたが彼女は口角をつり上げ、目を細めた
「勘違いしているようだけど……私は『今日』、君を殺すとは言ってはいないよ?」
「な!?」
彼女は僕を弄ぶかのように笑ってそう言った。僕はそのことに驚愕するがこれは彼女が告げようとした衝撃の事実の一角に過ぎなかった
「私は『私のために死なないかい?』と言ったのだよ……そして、君には当分の間、私の『従者』として働いてもらうよ?」
彼女は理不尽にもそう言った。僕はそれに黙るしかなかった。なぜなら、僕には最早、ここがどこでどう逃げるかなど分らず、ここから逃げ出す術など存在しなかった。それに、一度あの暖かい『死』を味わってしまってはそれ以外の『死』など僕には選ぶことなどできなかった。僕には彼女の命令を承るか断るかの選択の自由も権利も存在しなかった。最早、僕の『生』も『死』も彼女のものとなってしまったのだ。僕がそれに気づくと
「名前……」
「え……」
彼女は突然、そう言ってきた
「君の名前は何と言うのかい?従者の名前を覚えるのは主の役目でね」
彼女は戸惑う僕に向かってそう告げた
「加藤優……」
素直に自分の名前を告げた。普通ならば、少しでもこの理不尽なことに反抗するべきなのかもしれないが今の僕にはその気力すらなかったし、彼女に反抗する動機もなかった。なぜなら、今ここで事を荒げずとも、いづれ僕は彼女によって、吸い殺されるのだ。そして、何よりも僕は
捨てられたくない……
ただそれだけが恐かった。彼女の機嫌を悪くして、唯一、手を差し伸べてくれた彼女に見捨てられることが恐かった。そして、彼女によってもたらされる『死』以外など僕は認めたくなった。僕は彼女に捨てられることなど恐ろしくて、想像することすらしたくなかった
「そうか、じゃあ……優?私の名前はベルン……ベルンシュタイン・グランツシュタットだ」
僕の主となった彼女はそう言った。そして、僕の気のせいかもしれないが彼女の顔はどことなく嬉しそうであった
僕は今の自分にとっては身分不相応のホテルの食事を終えて、ホテルを後にした。そもそも、僕はこのホテルに宿泊する気もその資金すら用意していない。僕は加藤 優(かとう すぐる)。自分で言うのもどうかと思うが、限りなくヘタレだ。僕はホテルを出たあとホテルのすぐ近くの湖の畔を歩いた。そして、ホテルとは対岸に辿りつくと人の気配が完全にいないことを確認した僕は今まで我慢していた言葉を放った
「会いたいよ……士郎(しろう)……」
僕は妻、いや元妻に親権を奪われた息子の名前を情けない声で呟き涙を流した。僕は半年前に突然、元妻に離婚を突き付けられ、訳の分からぬままになぜか僕がDVを奮ったと言うことを捏造され、一か月前に離婚した。言っておくが、僕は決して暴力なんて奮っていない。自画自賛ではないがこれでも誠実に妻子を愛し、仕事も真面目にこなしてきた。しかし、日本の司法とはどうゆうことか証拠もないのに男のほうが女の方が主張すれば、それが『黒』になるらしく、僕は慰謝料の請求を命じられた挙句、DV男のレッテルを貼られ、さらには最愛の息子の親権すらも奪われた。『疑わしきは被告人の利益に』と言う言葉はどうやら、刑事訴訟上限定のものらしい。それに裁判官は妙にフェミニスト染みたクソッタレ紳士であり、僕は無実にも関わらず『女性の敵』として彼の英雄気取りの『正義の鉄槌』を喰らった。僕は呆然自失の状態に陥り、さらにその話は職場までに広がり突然、僕は職場では煙たがれる存在になり、その噂は僕の実家の方にも届いたらしく父親はまったく僕のことを信用せず勘当した。それでも、僕は現状を耐えて仕事を続けた。なぜなら、僕には最愛の息子がいる。元妻には未練などないが少なくともあの子の養育費だけは払いたかった。しかし、そのささやかな支えすらもある事実によって完全に砕かれた。それは僕は士郎との面会を彼女に惨めにも懇願しに彼女の住むマンションに行った時である。そこで僕が目撃したのは僕の職場の上司である男とドライブへと向かおうとしていた元妻の姿であった。そして、僕は気づいてしまった。自分がハメられたと言う事実に。そう、元妻は僕と離婚する以前から上司と繋がっており、僕と言うスケープゴートを使って『悲劇のヒロイン』として心おきなく彼と結ばれようとしたのだろう。僕は彼らに気づかれる前に逃げた。逃げるしかなかった。奴らに情けない顔を見せるのが嫌だったからだ。それが僕に残っていた唯一の意地だったんだろう
「くそっ!!」
―ドガ―
僕は湖の前で自らのふがいなさと愚かさを悔やみ、膝をついて地面に拳を叩きつけた
「くそっ!!」
―ドガ―
「くそっ!!」
―ドガ―
「くそっ!!」
―ドガ―
何度も何度も拳を叩きつけ、その度に僕の皮は擦り剥け、痛々しい擦り傷が生まれた。しかし、今の僕にはそれしか自分を慰める手段が存在しなかった。既に僕の身体と心は信じていた妻と尊敬していた上司の『裏切り』と信じさえしてくれない周囲からの敵意による『孤独感』、最愛の我が子を奪われたと言う『喪失感』による苦痛に襲われ、その苦痛を少しでも和らげることができればこの程度の痛みなど、さらに求めた。しかし、苦痛は収まることを知らず、僕をさらに苦しめた
「あははははははははは……もう……どうでもいいや……」
僕は狂ったように笑った、笑うしかなかった。そして、苦痛を止めるのを止めた
「どうせ……誰も信じてくれない……士郎だって……」
僕は誰にも信じられない現状を再び認識し、同時に士郎の将来を考えてしまった
きっと、あの女と男のことだ……士郎が僕のことを聞いてもあいつらは僕のことを極悪非道の鬼畜だと歪めて教えるだろう……そしたら、士郎すらも僕のことを……
僕は息子が自らを裏切った者たちに『嘘』を吹きこまれ、僕を蔑み憎む未来を想像してしまい、さらなる恐怖に苛まれた。愛する存在に憎まれる。それは最もこの世界で恐ろしいことの一つだ
「なら……いっそ……!!」
僕はもう生きることに対して、何の希望も渇望も持つことができず、そして、己を襲う苦痛から逃げたいがために死に『救い』を求めた。息子の養育費だけが気がかりであったが幸いにも僕の退職金を含めた全財産は士郎の養育費を全額払う分には十分だ。僕はこの湖を死に場所に選んだ
「そう言えば、高校の授業で昔の中国に『周りは濁っているのに私だけは澄んでいる』と言って自殺した詩人がいたと教えてもらったっけ……」
僕はふと昔、漢文の授業で習った故事を思い出した。そして、同時に涙を流し笑った
「まるで、僕みたいだ……でも、僕は誰からも『澄んでいる』と言われないのだろう……」
『お前など、儂の息子じゃない!!』
僕の脳裏に実父の言葉が甦り、僕は自分のことを皮肉った
でも、それは紛れもない本当のことなんだよね……実の親さえも信じてくれないのに……一体、だれが僕のことを『潔白』だと信じて言ってくれるのだろうか?……いや、誰もいないのだろう……
僕は改めて自らの存在が周りからすれば穢れて見れるのか、感じてしまった
「綺麗だなぁ……」
目の前の湖を見て、僕はそう呟いた。湖は森に囲まれその湖面は非常に澄んでおり夜空を鏡のように映しだした。夜空は都会のように照明がないためか星々に満ちており、月は多少欠けているが丸みをおびておりその美しさを他の星々の輝きに負けないように示し、その光は地上を優しく照らしていた
「この風景だけが幸せに感じられるなんて……僕は疲れたんだろうな……でも、この風景を最後に見れたのは……幸せかもしれない……」
僕は最早、この風景を見れただけで最高の幸福だと思ってしまうほど憔悴しているらしい。僕は事前に買っておいた鉄の重りを足につけ
―ぴちゃぴちゃ―
「つぅ……!!」
僕は湖に足を踏み入れた。湖の水温は季節の影響で冷たくなっており、僕はその冷たさに一瞬たじろぐが
心地いい……
湖の冷たさをそう感じてしまった。僕を苦しめる苦痛はあらゆる苦しみを全て、緩和剤として錯覚させ僕はそれを受け入れてしまい、副作用で僕の胸にある種の『心地よさ』を与えてしまう
僕は最早、この世界にとって雑音だ……僕の存在が士郎のためにならないなら……この湖に身を沈めよう……
僕は息子に憎まれることを恐れてはいるが、それで士郎が生きていけるのなら僕はそれでいいんだ。汚い『嘘』でもそれが我が子の心の支えになるのならそれでいい。それに耐えられない弱い僕はここで死ねばいい
――ズイズイ――
既に下半身は湖水に浸かり、呼吸は荒くなり、身体は冷たさによって小刻みに震え、視界がぼやけ始めるがそれでも僕は前に進んだ
「はあはあ……あと……少し……」
僕は脳内に六歳になったばかりの息子を思い浮かべて、震える身体を力を振り絞って前に進ませた。息子の笑顔がちらつく、それが走馬灯なのかはわからない。しかし、どの顔も『笑顔』だった。しかし、息子の笑顔を思い出すたびに死への恐怖は徐々に薄れていく
「さようなら……士郎……幸せに……ね……」
最早、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからない状態であった。だが、僕は笑っている気がする。最後の最後に息子の『笑顔』を忘れずに死ぬことができたのは父親としては幸せなのかもしれない。息子の幸せを祈って死ねるのは少なくとも、無実なのに息子のことを罵った僕の父親よりはマシだろう
「ねえ……君」
突然、僕を呼び止める声が聞こえた。僕はその声が気になり、後ろを振り向いた。すると、そこには
「何をしているのだい?」
この世のものとは思えない人間の形をした何かが立っていた。それは夜の世界に君臨する帝王の証のような黄金の冠のように見える美しい金髪を生やし、たとえどのような暗い闇の中でも眼は紅く光るような鋭さを持ち、夜会服のようなドレスはもし舞踏会に参加するのなら人間の貴族などでは相手になるどころかギャラリーになることすらおこがましい気品をかもし出し、彼女の纏うマントは蝙蝠の翼の姿のような形をしており、もしあれが羽ばたくと言うのならば彼女はこの星と月によって満ち溢れた夜空を舞台に踊ることが許された唯一の存在なのだろう……
そう、僕の目の前の女性は人間とは思えないほどの存在感と美しさを周囲に振りまいていた。まるで、彼女こそが夜を照らす月かのように
「え、その……」
僕は何としてでも自殺をしようとしていることを誤魔化そうとするが、この現状ではどうやっても他人には入水自殺にしか見えず、嘘をつく手段が思いつかなかった。唯一の希望は彼女が人でなしであり、僕の生死などどうでもいい人間であることだ。もしくは人の不幸を蜜の味だと思う外道であることぐらいだ。だが、その期待はあらゆる意味で裏切られた
「死ぬのなら、他所でやってくれないかね?私はここが気に入ったのでね……それを他人の『死』などで穢されるなど我慢できないのでね」
彼女は予想を超える人間だった。彼女はどうやら、僕と言う人間の生命よりもこの風景の方に価値を置いたらしく、その表情は僕を目障りだと訴えていた
そうか……僕にはこのような美しい場所で死ぬ権利すらないのか……
僕は普通なら、ここで怒るべきなのだろうがもはや、その気力すら湧かないらしい
「すいません……すぐにここを離れます……」
僕はそう言って、もうほとんど残ってもいない体力を振り絞って湖から出ようとすると
「待ちたまえ」
突然、彼女は僕を呼び止めた
「なんですか?」
僕は一刻も早く、この場を後にしたかったが無視すると面倒そうなので仕方なく彼女の問いかけに耳を傾けた
「君は死にたいのかい?」
「はあ?」
僕は彼女のよく分からない質問に混乱してしまった。彼女は先ほど、
『死ぬのなら、他所でやってくれないかね?私はここが気に入ったのでね……それを他人の『死』などで穢されるなど我慢できないのでね』
と指図したばかりだ。それなのに彼女はなぜ僕にそれを確認する必要があるのかが僕には理解できず、僕は黙るしかなかった
「無言と言うことは『肯定』と言うことでいいのかい?」
「………………」
彼女は勝手にそう結論付けたらしい。僕としては反論の余地もないし、とっと『生』を終わらせたいことから無言で頷いた。すると
「君……どうせ死ぬのなら……私のために死なないかい?」
「……え?」
彼女は笑みを浮かべて意味の分からないことを僕に向かって勧誘してきた
ど、どういうこと……?自分のために死ねなんて……そんな言葉……ここで使うもんじゃないよね……?
「実はね……私は」
彼女がさらなる混乱に陥った僕に対して、何か語りかけようとした瞬間
―バサ―
突然、彼女の纏っているマントが風もないのに舞い上がり、まるで背中から翼が生えているような体勢になった。いや、どうやらあれは紛れもない翼であるらしい。なぜなら、彼女の足は地面から彼女の身体は宙に浮いている。そして、彼女の紅い瞳は紅く光り僕に対して、その眼光は向けられた
「ヴァンパイア……つまりは吸血鬼なのだよ」
彼女は微笑みながら僕を誘惑するようにそう呟いた。僕はその姿に圧倒された。しかし、それは恐怖からのものではない。僕よりも高い位置する彼女の姿はたとえ、どれほど強く、地位が高い人間であろうと彼女の目の前では無価値になるほどの気品に満ちていた。僕はその姿に畏敬の念を持ってしまったのだ
「あぁ、あと君にとっては朗報ではあるが、私は真水が苦手だ……もし、私から逃げたいのであれば……そのまま、湖底にその身を沈めればいい……特別に許可を与えよう」
寛大にも彼女は僕にこの湖で『死ぬ権利』を与えてくれた。彼女は僕が湖に身を沈めようとも僕の『死』を貶すつもりはないらしい。僕は自分が最早、この世界にとって異物であることを理解しているがために一刻も早くこの世から立ち去りたいと願っている
「もしも……私の役に立ちたいと思うのならばこの手を取りたまえ……」
そう言って、彼女は僕に手を差し伸べてきた
―ズイズイ―
僕は脳裏に息子が僕を拒絶する姿を思い浮かべて、湖水の中で止まっていた足を動かした
―ズイズイ―
「そうか、それが君の選んだ答えか……」
―ガシッ―
僕は彼女の手を取った。なぜ僕は『死』を先延ばしにしたのかわからない。しかし、心の中で自らの存在を必要としてくれる存在を求めていたのだろう
この人は僕を必要としてくれる……
全ての人間から否定された僕にとっては僕のことを『食料』としてしか見ていないであろう目の前の『吸血鬼』は優しい『天使』のように思えた
見捨てられたくない……
僕はこの瞬間、彼女に依存したのだろう。それは虐待を受けながらも自分の居場所が欲しいがために親に縋る子どもと同じなのだろう
「ふふふ……よろしく」
彼女が嬉しそうに微笑んだと同時に彼女の紅い眼が光り出し、僕はそこで意識を失った
彼を私のものにしたい……
私は彼を自らの魔眼で少し催眠状態にして彼のことを聞き出し、増々彼のことを助けたくなったと同時に彼を夫にしたくなった。実は私は彼のことを一度だけだけど見たことがある。それは彼がここまで追い詰められるまでにことになる出来事が始まる前のことだった。あの時の彼は妻子がいることを幸せに感じ、それに感謝するかのように笑顔で息子の成長を見守っていた。私はその姿に惚れてしまった。だけど、彼は既に妻子がいる身でありそんな彼の幸せを壊す気など私にはなかったから、あきらめようとした
だけど、今は違うわ……彼は全てを失ってしまった……こんなにも綺麗な心の持ち主なのに……
私は彼の湖で呟いた一言が余りにも悲痛な叫びにしか聞こえなかった
『さようなら……士郎……幸せに……ね……』
最後に彼が想い続けたのは自分を裏切った者や拒絶した者、否定した者に対する怨嗟ではなく、愛する我が子の幸せだったのだ。いや、それしか彼には言えなかったのだ
あぁ……あなたはなんて優しくて愛が深い人なのかしら……死の理由が我が子に対する愛なんて……あなたには『貴族』としての素質がある……
この人は我が身を犠牲にしてでも愛する人を守ろうとする。しかし、だからこそ愛する人に拒絶されればこの人は一気に弱くなる。この人は愛する人がいなければ彼は強く生きられたのだろう。この人は愛する人がいるからこそ強く生きることができない
だけど、私が死ぬことは許さないわ……あなたのような人が死ぬなんて……だけど、彼は生きることに苦しみを感じている……だったら、あなたのことを私が殺してあげる……
私は彼が『生』に苦しみしか抱いていないことを知りながらも彼には生きて欲しい。いや、正確にはその表現は間違いだ。彼には一度死んでもらう。そして、『貴族』として生まれ変わってもらい、私と生きて欲しい
どうか、あなたがあの時、家族に向けていた愛情が私と……いつか、生まれるであろうあなたとの娘にも向けられることを祈らせて……
私は彼が催眠状態で意識が朦朧としていることをいいことに彼の胸に顔を埋めてそう願った。そして、しばらくしたあと、彼の足首についている重りをはずして、彼の身体を後ろから抱えて飛び去った
「ここは……」
僕は目を覚ますと僕は見慣れない景色を目にした。僕の目の前には森に囲まれた大きな洋館が存在した。僕は突然の出来事にさっきまでの出来事と今、目の前で起きていることは夢だと思い始めた。しかし、
「冷たい……」
僕は自分の服が濡れていたことに気づく。そして、
「おや、お目覚めかい?」
「あ……」
その声に僕は後ろを振り向くがそこには先ほど僕に手を差し伸べた『吸血鬼』がいた
夢じゃなかったのか……
僕はそれに安心とともに落胆を感じた
どうせ、夢なら今までのことが全てが夢だったらよかったのに……
僕は仮に今までのことが夢なら、元妻に裏切られた瞬間までが夢であって欲しいと思い、それが夢でなかったことに落胆したと同時に湖で出会った目の前の女性が現実にいることに安堵した
「どうしたのかい?」
彼女は僕が暗い顔をしていることに心配してくれたようで、声をかけてくれた
「いえ、何も……」
僕は彼女に自分の真意を悟らせまいと誤魔化した。すると、彼女はどうやら僕の心中を察してくれたようで少し怪訝そうな顔をしたがすぐに平然とした表情に戻して、僕に向かって
「そうか、なら問題ない。ついてきたまえ」
と指示して、突然扉が開いた洋館に向かって歩き出した
「はい」
僕は言われるままに彼女の後をついていき、洋館に入った
「………………」
洋館の中は静かな気品に満ち溢れていた。シャンデリアなどの建物の雰囲気を壊さないために豪奢な装飾は存在するが、それ以外には人に自らの財力を見せびらかすようなものは存在しなかった。しかし、それがむしろこの洋館の主である彼女の気品を表していた。僕はその空気に戸惑いながらも圧倒された。僕がしばらく、ボーっとしていたがそれは長くは続かなかった
「さてと、君にはまず、シャワーを浴びてもらうよ?」
「え?」
突然、彼女は僕にそう言ってきた。しかし、なぜかそう言ってきた彼女の方が不思議そうな顔をした
「え……て君は泥のついた食べ物を洗わずに食べるのかい?」
「あ、なるほど」
僕はその言葉に納得した。どうやら、彼女は貴族のような姿からわかるように上品で綺麗好きらしい
まあ……人間だって、汚れている物を食べるのは嫌だよね……
僕は自分が目の前の存在によって、殺されそうになっていると言うのにまったくそのことに対して危機感を持たず納得してしまった。今の僕には人間どころか家畜ですら持っている死への恐怖がなかった。僕と家畜との大きな違いは彼らはもっと生きたいのに殺されるのに対して、僕は死にたいから殺してもらいたいと言うことだろう。そう考えると最早、僕はある意味では家畜以下の存在だ
「じゃあ、入らせてもらいます」
僕は彼女の要望通り汚れを落とすことを告げた。すると彼女は
「そうか、浴室は右の廊下を歩いて5番目の部屋だ」
と僕に浴室の場所を教えた。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言うと、彼女は微笑んで
「どういたしまして……では、後でね」
含みを込めて嬉しそうにそう言った
「はい。では、失礼します」
僕はそれに返事をして、彼女に教えられた場所に向かった。しばらく、廊下を歩くと彼女に言われた5番目のドアを発見した
「ここかな?」
―――キィ―――
僕はドアを開くとそこには鏡が設置された洗面台とタオル掛けが存在していた。どうやら、脱衣所のようだ
意外と僕が使っていた風呂と変わらないんだなぁ……
僕は脱衣所を見てそう思った。僕が目にしている脱衣所は僕が今まで使用していたものと大差がなかった
そう言えば……
『私は真水が苦手だ』
て言っていたような……
僕は彼女が言っていた言葉を思い出した。しかし、そうなると気になることがある
なんで、浴室があるんだ……?というか、真水が苦手ならどうやって体を洗うんだ……?まあいいか
僕は色々と疑問を感じたがすぐに詮索をやめて湖に浸ったことによって、ずぶ濡れになった服を脱ぎ始めた。そして、脱ぎ終わるとすぐに隣にある浴室に入った。そこには洗面台と鏡とシャワー、そして僕が以前使用していた物よりは少し大きいくらいのバスタブがあった。僕はシャワーの蛇口に手を伸ばして、それを回した
―――キュキュ――――
―――ジャー――――
シャワーから流れる温水は湖によって冷えた僕の身体を温めた。しかし、寒さが抜けると同時に僕の身体を『苦痛』が襲った
大丈夫……もうすぐ、この苦しみから解放される……
僕は自分にそう言い聞かせて痛みを耐えた。僕は彼女によって『死』を迎えることを望んだ。なぜなら、今、この世界で僕のことを必要としてくれているのは彼女だけだ。なら、彼女の血肉となって死ねるのなら本望だ。しかし、欲を言うのなら息子の成長を見届けたかった。だけど、最早それは叶わないことだ
きっと、士郎は僕のことを憎むだろうな……いや、もしかすると僕が父親であったことすら忘れるかもしれない……だけど、それでいい……
最愛の我が子の行く末を僕は思い浮かべると同時に自分が息子に憎まれることや存在を忘れられることに不思議と恐れはなかった
あいつらが吐く嘘がきっと、あの子にとっての本当になるんだろうな……なら、悪役はとっとと退場しないと……
僕は自己満足のために『死』を選んだ。でも、本当は満足なんてしていない。望むのならあの子が青春を送り、あの子が結婚し、あの子の子どもである孫を見てから死にたいのが僕の本音だ。本当は未練が残りまくりな人生だ
―――キュキュ―――
―――ピタピタ―――
僕は身体を洗い終わるとシャワーを止めて、タオルを手に取り全身を拭いた。これから、彼女にこの身体を捧げるのだ。身体が濡れていて、服が湿ってしまうと彼女に不快感を与えるだろうから、執拗に拭いた。そして、身体を拭き終わり浴室を出ると
「おや?準備はできたのかい?」
「なっ!?」
彼女が僕の目の前にいた。僕は彼女がいたことに目を丸くして驚いた。しかし、僕が驚いているのは彼女に僕の裸が見られたからだけではない
「ん?どうしたんだい?」
彼女は不思議そうに首を傾げるが僕からすればそんな風な反応をする彼女の方が不思議だ。なぜなら
「ど、どうして……裸なんですか!?」
そう、裸なのは僕だけじゃなく彼女もだった。彼女が身に纏うのは自らの身体の一部である背中から生える翼のマントだけだ。僕は動揺して彼女に向かって尋ねると彼女は平然とした表情でこう言った
「君は私に服を濡らさせるつもりか?」
僕はその一言で彼女がなぜ全裸なのか理解できた。どうやら、彼女が服を脱ぎ全裸になったのはどうやら僕の『血』をここで吸うつもりらしく、僕の身体がシャワーを浴びた後に水で濡れたことを予想して自分の服が濡れることを嫌がり全裸になったらしい。しかし、だからと言って、好き合っている仲でも無い男女がお互いに裸と言うのは少なくとも僕の貞操観念からすると許容できるものではない
「だったら、どこかで待っていてくださいよ!!」
余りの羞恥に僕は声を荒げて彼女に向かって言った。それに僕は彼女から逃げるつもりはない。彼女がここで待っているのはきっと僕が逃げ出すことを警戒したのかもしれない。すると、彼女は顔をニヤつかせながらこう言った
「ふ〜ん……君はせっかく、綺麗にした身体をそこの服を着て汚すつもりかい?」
「あ……」
彼女は僕が脱いだ服を指差してそう言った。僕はその一言に黙るしかなかった。彼女の指摘は正しい、よく考えてみると今の僕がなんとか着ることのできる服は湖の水で濡れているコートとスーツとYシャツしかない。それでは、せっかく洗ったが再び濡れて汚れてしまう
「それとも……君は全裸で私の部屋まで来るつもりだったのか?」
「なっ!?そんなこと―――」
彼女は僕のことを羞恥心を煽るようにイジワルそうにそう言った。僕は抗議しようとするが
「ふふふ……君がまさか、そんな変態だとは思わなかったよ」
彼女の僕の羞恥心をさらに逆撫でするような一言によってその抗議は遮られた
「ち、ちがう!!僕は変態なんかじゃない!!」
僕は彼女のペースに乗せられてその言葉を否定しようとするが
―――むぎゅ―――
―――ビクッ―――
「!?」
「ふ〜ん……でも、君……私に言葉責めされてこんなに欲情してるじゃないか?」
「それはあなたが……!!」
突然、彼女は僕に抱きついてきた。そして、僕の身体に彼女の柔らかく心地よい肌の感触が走った。そして、僕のいきり立った肉棒は隠すことができず、僕は彼女にそのことをからかわれた。そもそも、彼女の身体は非常に美しかった。彼女自身の顔立ちは言わずもがな、彼女の身体のパーツは豊満な胸の果実、引き締まったヒップライン、か細くて長い四肢、無駄のない肉体など本当にこの世のものとは思えないほど美しいものだった。そんなものを見せられて興奮しない方が困難だ
綺麗すぎるんだよ……
「光栄に思いたまえ……私の素肌に君の身体が触れることを……」
彼女は傲慢にもそう言った。しかし、僕はそれに対しては抗議ができなかった。気高い彼女にとって、僕のような男と肌を合わすことなんてとてつもない不名誉なことなのだろう。これは先ほど、彼女が自分の服を濡らさないために仕方なくやっていることなのだろう。僕がそう考えていると彼女は自らのマントである翼で僕を覆い、そっと僕の肩に手を置いた
「じゃあ……そろそろ」
彼女はどうやら我慢の限界らしく、口から鋭い犬歯を覗かせ目を怪しく光らせながら僕に血を吸わせることを要求してきた
「どうぞ……」
僕は彼女の要求にを素直に頷き、首筋を差し出した。すると、彼女は僕の身体に身を預けるように身を乗り出してきた。その際に彼女の豊満な乳房は僕の胸板に押し付けられ、僕の頭は彼女の身体がもたらす柔らかい肌の感触と彼女の髪から漂う香りによって、蕩けてしまいそうになった。それはまるで、お互いに愛し合っている男女が愛を交し合うかのようだった。そして、彼女は僕の首筋に向かって自らの首を伸ばしてきた。ついに僕が望んだその時が訪れたのだ
おかしいな、僕は今から死ぬ筈なのに……どうして、こんなにも幸せなのだろうか?だけど、僕は今この瞬間に死ねることに幸福を感じている……ごめんね……士郎……
僕は浅ましくもそう思ってしまった。僕は目の前の美しい女性によって、人生を終えようとしていることに息子のことを思い出して自分の浅ましさを感じてしまった
君のお父さんはお母さん以外の人と肌を合わせているよ……
既に元妻には何の未練も罪悪感も存在しなかったが、まだこう言った行為が持つ意味が分からない息子に対しては引け目を感じてしまった
―――チクッ―――
「痛っ!!」
僕の首筋に痛みが走った。どうやら、彼女が首に牙を突き刺したようだった。そして、
「ん、んむむ……」
「はあはあ……」
彼女は僕の『血』を吸い始めた。しかし、それには不思議と痛みが生じなかった。むしろ、僕が今まで心の中で感じていた恐怖や悲しみ、苦痛が失われるような感覚をもたらし、同時に彼女の牙から何かが流し込まれるような気がした
「んんん……」
それは暖かった。湖によって冷やされただけでなく、あらゆるものに否定され、誰も味方がいない閉塞感や孤独感に襲われ、まるで氷によって覆われるかのように凍えていた僕の魂が溶かされるかのように感じた。僕はこの暖かさの中で死ぬことを望むがそれは叶えられなかった
「んは」
「はあはあ……え……」
彼女は突然、吸血行為を止めた。僕は彼女の吸血がもたらす心地よさに息を荒くしたが、彼女がいきなりそれを止めたことに驚いてしまった
「どうして……」
僕は自分がまだ死んでいないのに彼女が吸血を止めたことに抗議しようとしたが彼女は口角をつり上げ、目を細めた
「勘違いしているようだけど……私は『今日』、君を殺すとは言ってはいないよ?」
「な!?」
彼女は僕を弄ぶかのように笑ってそう言った。僕はそのことに驚愕するがこれは彼女が告げようとした衝撃の事実の一角に過ぎなかった
「私は『私のために死なないかい?』と言ったのだよ……そして、君には当分の間、私の『従者』として働いてもらうよ?」
彼女は理不尽にもそう言った。僕はそれに黙るしかなかった。なぜなら、僕には最早、ここがどこでどう逃げるかなど分らず、ここから逃げ出す術など存在しなかった。それに、一度あの暖かい『死』を味わってしまってはそれ以外の『死』など僕には選ぶことなどできなかった。僕には彼女の命令を承るか断るかの選択の自由も権利も存在しなかった。最早、僕の『生』も『死』も彼女のものとなってしまったのだ。僕がそれに気づくと
「名前……」
「え……」
彼女は突然、そう言ってきた
「君の名前は何と言うのかい?従者の名前を覚えるのは主の役目でね」
彼女は戸惑う僕に向かってそう告げた
「加藤優……」
素直に自分の名前を告げた。普通ならば、少しでもこの理不尽なことに反抗するべきなのかもしれないが今の僕にはその気力すらなかったし、彼女に反抗する動機もなかった。なぜなら、今ここで事を荒げずとも、いづれ僕は彼女によって、吸い殺されるのだ。そして、何よりも僕は
捨てられたくない……
ただそれだけが恐かった。彼女の機嫌を悪くして、唯一、手を差し伸べてくれた彼女に見捨てられることが恐かった。そして、彼女によってもたらされる『死』以外など僕は認めたくなった。僕は彼女に捨てられることなど恐ろしくて、想像することすらしたくなかった
「そうか、じゃあ……優?私の名前はベルン……ベルンシュタイン・グランツシュタットだ」
僕の主となった彼女はそう言った。そして、僕の気のせいかもしれないが彼女の顔はどことなく嬉しそうであった
13/11/03 17:27更新 / 秩序ある混沌
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