それぞれの戦い
信じられなかった。
間違いなく、自分の腕の中で死んだはずの彼女が。
今、目の前に立っていた。
「……リ、フォン……」
彼女――ラトゥリスは、再度リフォンの名を呼びながら、おぼつかない足取りで彼に歩み寄る。
リフォンは、その場から動くことができなかった。
ラトゥリスは一歩、また一歩とリフォンに歩み寄り、
そして、ゆっくりとリフォンに抱きついた。
「……リフォン……っ!」
「……本当に、ラトゥリス、なのか……!?」
抱擁を交わす二人を、ミルラナは見ていることしかできなかった。
声をかけようにも、言葉が出てこない。
リフォンが、自分から急速に遠ざかっていくような感覚。
胸が張り裂けそうになり、ミルラナは泣きそうな表情で二人から目をそらした。
「リフォン、リフォン……っ!」
ラトゥリスはリフォンを抱きしめながら、彼の名を何度も呼ぶ。
忘れようもない、彼女の声。
だが。
「……ラトゥリス?」
何か違和感を感じ、リフォンはラトゥリスの身体をそっと引き剥がし、彼女の顔を見た。
「……リフォン……♪」
熱っぽい声で彼の名を呼び続ける彼女の表情は蕩けており、光の宿っていない濁った瞳にリフォンの姿が映っている。
「……ラトゥリス? おい、どうしたんだ!?」
「……リフォン、好きだよ……♪ 大好き……♪」
ラトゥリスはリフォンの言葉に答えず、再度彼に抱きついた。
そして、彼の耳元で愛の言葉を囁きながら、彼の耳たぶに舌を這わせ、甘噛みする。
電流が走るかのような快感。
だが、それ以上に、違和感の方が強かった。
リフォンは、今度は力を込めてラトゥリスを自分から引き剥がした。
「……ぁん、リフォン……♪」
「何だ、意外につれない奴だな。折角の想い人との再会なんだ、もっと楽しめばいいじゃないか」
口元に笑みを浮かべながら言うメルストを、リフォンはきっと睨みつけた。
「……ラトゥリスに、何をした……!?」
「おいおい、人聞きが悪いな。魔物化したんだ、以前より積極的になっただけだろ?」
「……違う、どう考えても普通じゃない!! 答えろ!! ラトゥリスに、何をしたっ!?」
声を荒げ、リフォンはメルストに問いただした。
空気が震えるかのような迫力。
だが、メルストは涼しい顔で肩をすくめた。
「……そんなに怒るなよ。何、そいつにお前のことを話したら協力を拒んだから、ちょいと薬で言う事を聞かせただけさ。……もっとも、常人なら致死量レベルの強力な薬だけどな」
「……何、だって……!?」
「まぁいいじゃねぇか。そいつだって、お前に気があったみたいだし。晴れて再会した二人は結ばれてハッピーエンドじゃねぇか」
リフォンは再度メルストを睨みつけた後、ラトゥリスの顔を覗き込んだ。
「……リフォン、好きだよ……♪ 愛してるぅ……♪」
濁った瞳でリフォンを見つめながら、ラトゥリスは再度彼に抱きついた。
リフォンは、黙ってされるがままになっていたが、やがて、静かに呟いた。
「……ラトゥリスを、元に戻す方法は、あるのか?」
「あん?」
「ラトゥリスを、元に戻す方法はあるのかって聞いてるんだ!! 答えろっ!!」
リフォンは顔を上げ、メルストを睨みつけながら、再度声を荒げて問いただした。
しかし、メルストも再度涼しい顔で肩をすくめて答えた。
「残念だが、そんなもん、ねぇよ。別にいいじゃねぇか、死んだ女にもう一度会えただけでも儲けもんだろう?」
「……っ!! ふっ、ざけるなぁ……っ!!」
リフォンが怒りに身を任せ、メルストに飛びかかろうとした、その時。
ラトゥリスが、リフォンを優しく抱きしめた。
「……なっ……!?」
先程までとは様子が違う。
リフォンが戸惑っていると、ラトゥリスは彼を抱きしめたまま彼の耳元に口を寄せた。
「……を、……て……」
「……ラトゥ、リス……?」
ラトゥリスの表情は見えない。
だが、彼女は、リフォンに何かを必死に伝えようとしていた。
「……しを、……して……。……は、……こが、……で……。し…………さいよ……!」
途切れ途切れになりながらも、彼女は言葉を続ける。
その声は小さく、何を言っているのかはリフォンには聞き取れなかった。
だが。
彼女の言葉を。
リフォンは、はっきりと理解した。
『あたしを、殺して。あんたには、あの娘がいるんでしょ? しっかりしなさいよ!』
「……ラトゥ、リス……っ!」
「リフォン……っ♪」
再び蕩けた声でリフォンの耳たぶに舌を這わせるラトゥリスを、リフォンは強く抱きしめた。
リフォンの目から、数滴の雫がこぼれ落ちる。
そして、リフォンは彼女を抱きしめる手を緩めると、片手でゆっくりと腰の短剣を抜き、
ラトゥリスの胸を一息に突き刺した。
「……リ、フォ、ン……」
短剣を引き抜くと同時にラトゥリスはゆっくりと崩れ落ち、リフォンは片手で彼女の身体を抱きとめた。
もう片手には、ミルラナから手渡された短剣を握ったまま。
ラトゥリスはリフォンに静かに微笑みかけると、そのまま瞼を閉じ、動かなくなった。
メルストも、ミルラナも、その光景を呆然と見ていることしかできなかった。
長い一瞬の後、最初に口を開いたのは、メルストだった。
「……おいおい、意外と思い切ったことをするじゃねぇか」
リフォンは彼の言葉を無視してラトゥリスの亡骸を抱きかかえると、そっと広間の壁際に横たえた。
「……お前だけは」
リフォンはゆっくりと立ち上がり、メルストを振り返った。
「お前だけは、絶対に、許さない……っ!」
押し殺すような声。そこに込められていたのは、かつてないほどの怒りと悲しみだった。
リフォンを中心に、周囲の空気が急速に変わっていく。
ビリビリと痛みを感じるほどの気魄だった。
メルストも流石に気圧された様子ではあったが、それでも口元に笑みを浮かべた。
「交渉決裂、か。……仕方ねぇ、こういうのは柄じゃないが……決着を、つけようじゃねぇか」
メルストはそう言うと両手で短剣を抜き、身構えた。
リフォンはメルストを見据えたまま、真っ直ぐ、ゆっくりと数歩足を踏み出し、
そして、突然消えた。
「ぅお……っ!?」
一瞬で視界から消えるほど、あまりにも速く、深い踏み込み。
そして同時に繰り出される必殺の一撃を、メルストは紙一重で回避する。
見えていたわけではなく、彼が培ってきた直感によるものだった。
メルストは瞬時にリフォンの首を目がけて短剣を突き出すが、リフォンはそれを素早く受け流し、メルストの脇腹に反撃の一撃を繰り出す。
しかしメルストはそれも強引に身体を捻って回避し、そのまま地を蹴ってリフォンから距離をとった。
ほんの一瞬の間に繰り広げられる、凄まじい攻防。
ミルラナはリフォンに加勢すべく短剣を抜いて飛び出したが、それを遮るようにマントの女が彼女に飛び掛った。
「っ!!」
ミルラナは咄嗟に上体を反らす。
彼女の首があったであろう空間に、一筋の光が閃いた。
マントの女は小さく舌打ちしながら、素早くマントを脱ぎ捨てた。
「お前の相手は私だっ!!」
ミルラナは素早く体勢を立て直し、その女の顔を見た。
そして、息を呑んだ。
彼女の顔は、ミルラナに瓜二つだった。
「なっ……!?」
驚く間もなく、女はミルラナに斬りかかる。
彼女の武器は、両腕から生えた鎌状の刃。
よく見ると、頭には複眼や触覚のようなものもあり、腰には昆虫の腹部のようなものが見える。
彼女は、マンティスだった。
マンティスは息もつかせぬ連続攻撃で、ミルラナを彼女たちが最初に降りてきた階段へと追い込んでいく。
「……っ!! 何なのよ、あんた……っ!?」
ミルラナの首を狙った一撃を避けながら、ミルラナは問いかける。
彼女は顔だけでなく、戦い方もミルラナにそっくりだった。
女は答えず、ただひたすらに攻撃を続ける。
反撃の機会が掴めず、ミルラナは狭い階段をバックステップで上りながら彼女の攻撃を捌くので手一杯だった。
「がっ、はっ……!!」
メルストの口から苦悶の声が漏れる。
これまで互いに紙一重の攻防を繰り広げていたが、先に限界を迎えたのはメルストの方だった。
直撃は免れたものの、リフォンの一撃がわずかに脇腹を掠めた。それだけなのに、まるで脇腹を鈍器で殴られたような衝撃がメルストを襲う。
「……くぅ……っ、流石に、聞いていた通りのバケモノだな……っ!!」
メルストは苦痛に顔を歪めながらも、リフォンに短剣を突き出した。
だが、リフォンはそれを受け流し、そしてそのまま彼の身体を大きく回転させ、地面に叩き付けた。
「がぁっ……!!」
あまりの衝撃で、メルストの呼吸が一瞬止まる。
ダメージが大きく、身体を動かすこともできない。
リフォンは、仰向けに倒れるメルストを見下ろした。
メルストは、痛みに顔を歪めながらも、小さく笑い声をあげた。
「……は、はっ……。どうやら、俺の負け、らしいな……」
リフォンは、そんな彼を静かに見下ろしたまま、ぽつりと口を開いた。
「……一つ、お前に聞きたいことがある」
「……あ?」
「……何故、こんな一対一の戦いを仕掛けてきたんだ?」
リフォンの言葉に、メルストはまた小さく笑った。
「……どうしても、お前を、この手で、殺したかった。例え、刺し違えてでも、な」
「……嘘だな」
「……何故、そう言い切れる?」
「それが本当なら、最初に俺に仲間になれなんて言わないだろう」
メルストは笑みを浮かべたままリフォンを見た。
「……半分は嘘で半分は本当だ。……俺は、ミルラナが戻ってきてくれればそれでよかったのさ。俺は――」
ダンッ! と地を蹴り、ついにミルラナは地上の墓地へと飛び出した。
それを追って、マンティスが階段から飛び出してくる。
体勢を立て直し、二人はにらみ合う。
先に動いたのは、マンティスの方だった。
彼女は横に跳躍すると、近くの墓標を蹴って加速しながら方向転換し、ミルラナの首を狙って斬りかかる。
ミルラナはそれをバックステップでかわしながら、彼女もまた近くの墓標を蹴り、マンティスから距離をとった。
しかし、マンティスはそれを予想していたと言わんばかりに、再度今度は近くの木を蹴り、ミルラナに肉薄する。
「っ!! さっきも聞いたけどっ、何なのよ、あんたっ!!」
ミルラナは攻撃を回避しながら目の前の相手に毒づいた。
種族は違えど、ミルラナと瓜二つの顔に、ミルラナとそっくりな戦い方。
ただの偶然とは思えなかった。
マンティスは攻撃を繰り出しながら、ミルラナを睨みつける。
その視線に込められているものは、明確な怒りだった。
「お前にっ……!! お前に、わかるものかっ!! “あの人”は、お前しか見ていなかった!! 顔を変えても!! 技を盗んでも!! 私がどれだけお前になろうとしても、なれなかった!! “あの人”に見てもらえなかった、私の気持ちが、お前にわかってたまるかぁっ!!」
「っ、何、言ってるの……っ!? “あの人”って、メルストのこと!? 私しか見てないって、どういうことよっ!!」
ミルラナのその言葉を聞いた途端、マンティスはぴたりと動きを止めた。
彼女の全身は、怒りで小さく震えていた。
「……っ、本気で気づかなかったというのか!? “あの人”は――!!」
「――俺は、ミルラナのことが好きだったのさ。愛していた。誰よりも、な」
メルストは仰向けになったまま、リフォンに向かってぽつぽつと話す。
「最初はお前が単純に邪魔だった。だからミルラナにお前を殺すよう仕向けた。そこで、ミルラナがお前に寝返ったと知ったとき、俺の心はぐちゃぐちゃになった。ミルラナを奪ったお前を、絶対に許すことができなかった」
「……女々しい奴だな。ちゃんと自分で想いを伝えればよかっただろうに」
「……怖かったんだよ、否定されるのが。確かに女々しいかもしれんが、それでもどうしてもお前は許せなかった」
メルストは自嘲するような笑みを浮かべながら、話し続ける。
「……だが、お前の腕が立つのも事実だ。だから、俺はお前のことを調べ、ラトゥリスとかいう女を用意した。それでお前が俺の仲間になり、尚且つお前の気持ちがそいつに移ってくれれば、ミルラナは再び俺のもとに戻るだろう、と思ってな」
「……それだけのために、ラトゥリスを……っ!!」
リフォンが怒りを覚えるのと同時に、メルストも怒気を込めて叫んだ。
「『それだけのため』だと? お前にとっては『それだけ』かもしれんが、俺にとっては、それこそが全てだったんだっ!!」
そして小さく2、3度咳き込むと、またメルストは静かに話し続ける。
「だがそれもできなかった。お前は俺からミルラナを、仲間を奪っていった。だからお前は絶対に許せない。この手で、殺してやる。例え、刺し違えてもだ……!」
メルストはそう言いながら身体を起こそうとするが、全身が痛み、それもできなかった。
リフォンは彼を一瞥すると、彼に背を向けて壁際のラトゥリスを抱きかかえた。
そして、メルストに背を向けたまま、静かに口を開いた。
「……お前はかわいそうな奴だな。だが、俺も譲ることはできない。……俺だって、ミルラナを愛してるんだ」
リフォンはそう言うと、ミルラナのもとへと向かうべく足早に入り口の階段へと歩き出した。
「……待てよ」
不意に、メルストがリフォンを呼び止めた。
「……まだ何か言い残したことがあるのか?」
リフォンは足を止め、わずかに振り返りながら答える。
「……言ったはずだぜ。お前は、刺し違えてでも、殺してやる、ってな……!」
メルストは苦しそうにそう言いながら身体を起こす。
だが、それで精一杯という様子だった。
「……もう勝負はついた。お前の負けだ」
リフォンの言葉に、メルストは痛みに顔を歪めながらも、口元を不敵に吊り上げた。
「……ぐっ……そうとも、限らないぜ……。ここは、地下遺跡だということは知っているだろう。……なら、この部屋は、何のための部屋だったかわかるか?」
「……何?」
メルストは不敵な笑みを浮かべたまま、短剣を握り締め、
「……答えはな……侵入者排除用の、トラップ、だ……っ!!」
言い放つと同時に、短剣をリフォンとはまるで別方向の壁に向かって投げた。
放たれた短剣は、壁を構成している石の一つに命中し、その石は不思議なほど自然に奥へとスライドする。
それと同時に、何かが動くような音と振動が円形の広間を覆った。
「……しまっ……!!」
リフォンは咄嗟に広間を飛び出そうとするが、わずかに間に合わなかった。
次の瞬間、リフォンの身体を浮遊感が襲う。
広間全体の床が、がごん、という音と共に二つに割れ、その下には底が見えないほど深く暗い穴が広がっていた。
リフォンとメルストは、吸い込まれるように果てしない穴へと落ちていった……。
「……何、ですって……?」
ミルラナは、マンティスの言葉に驚きを隠せなかった。
「……メルストが、私の、ことを……?」
「そうだ。それなのに、お前はっ……!!」
「……っ、いい加減にしてよっ!! そんなの、ただの逆恨みでしょ!? そんな、下らない理由で、振り回さないでよっ!!」
叫びながら、ミルラナはマンティスの斬撃を櫛状の刃で受け止め、そして刃をへし折るように捻った。
「……っ!! ぐあぁっ……!!」
腕の鎌の付け根に急激に無理な力がかかり、マンティスは激痛に思わず悲鳴を上げる。
ミルラナはそのまま身体を半回転させ、彼女の首筋に思い切りもう片方の短剣を叩き付けた。
「……っ、が、ぁ……っ」
呼吸が一瞬止まり、マンティスはたまらずその場に崩れ落ちた。
ミルラナは彼女を一瞥すると、すぐにリフォンのもとへと駆け出そうとする。
しかし、そんな彼女の脚を、マンティスの手がしっかりと掴んでいた。
「……っ!! 離してよっ!!」
「……行かせる、ものか……っ!! それが、“あの人”の、最後の願い、そして、私に下した、最後の、命令……!!」
言われて、ミルラナは気づく。
彼女の攻撃は、当たれば致命傷ではあっただろうが、どれも容易に見切ることができるものだった。
彼女の戦い方が、ミルラナとそっくりだったから。
……それが、意図的なものだとしたら。
あえて避けさせるのが目的で、最初から殺すつもりはなかった。
そして、本当の目的は。
……ミルラナを、リフォンとメルストから、引き離し、近づけさせないこと。
背筋に悪寒が走り、ミルラナの長い耳がピンと立つ。
嫌な予感がする。
ミルラナは焦燥感と不安感を隠せないまま、マンティスの手を振りほどこうとした。
その時。
「……!?」
小さな地鳴りと、わずかな振動。
地震にしては、奇妙な感覚。
嫌な予感がますます強くなる。
その時、ミルラナの脚を掴んでいたマンティスの手が、ふっと力なく緩んだ。
「……今のは、何!? あんた、何か知ってるんでしょ!?」
ミルラナは焦ったようにマンティスを問い詰める。
「……もう、手遅れだ……」
マンティスは、力尽きたように倒れたまま、小さく、力なく呟いた。
「……っ!!」
ミルラナは素早く駆け出し、地下への階段を駆け下りた。
嫌な予感に、心臓の鼓動がどんどん速くなる。
そして。
ミルラナは、広間「だった場所」にたどり着いた。
底が見えないほど、大きく、深く、暗い、穴。
リフォンの姿も、メルストの姿も、見えなかった。
「……う、そ……」
ミルラナはがくりとその場に膝をついた。
「……ねぇ、嘘でしょ……? リフォン、リフォン――っ!!」
暗い穴に、ミルラナの悲痛な声がこだました。
間違いなく、自分の腕の中で死んだはずの彼女が。
今、目の前に立っていた。
「……リ、フォン……」
彼女――ラトゥリスは、再度リフォンの名を呼びながら、おぼつかない足取りで彼に歩み寄る。
リフォンは、その場から動くことができなかった。
ラトゥリスは一歩、また一歩とリフォンに歩み寄り、
そして、ゆっくりとリフォンに抱きついた。
「……リフォン……っ!」
「……本当に、ラトゥリス、なのか……!?」
抱擁を交わす二人を、ミルラナは見ていることしかできなかった。
声をかけようにも、言葉が出てこない。
リフォンが、自分から急速に遠ざかっていくような感覚。
胸が張り裂けそうになり、ミルラナは泣きそうな表情で二人から目をそらした。
「リフォン、リフォン……っ!」
ラトゥリスはリフォンを抱きしめながら、彼の名を何度も呼ぶ。
忘れようもない、彼女の声。
だが。
「……ラトゥリス?」
何か違和感を感じ、リフォンはラトゥリスの身体をそっと引き剥がし、彼女の顔を見た。
「……リフォン……♪」
熱っぽい声で彼の名を呼び続ける彼女の表情は蕩けており、光の宿っていない濁った瞳にリフォンの姿が映っている。
「……ラトゥリス? おい、どうしたんだ!?」
「……リフォン、好きだよ……♪ 大好き……♪」
ラトゥリスはリフォンの言葉に答えず、再度彼に抱きついた。
そして、彼の耳元で愛の言葉を囁きながら、彼の耳たぶに舌を這わせ、甘噛みする。
電流が走るかのような快感。
だが、それ以上に、違和感の方が強かった。
リフォンは、今度は力を込めてラトゥリスを自分から引き剥がした。
「……ぁん、リフォン……♪」
「何だ、意外につれない奴だな。折角の想い人との再会なんだ、もっと楽しめばいいじゃないか」
口元に笑みを浮かべながら言うメルストを、リフォンはきっと睨みつけた。
「……ラトゥリスに、何をした……!?」
「おいおい、人聞きが悪いな。魔物化したんだ、以前より積極的になっただけだろ?」
「……違う、どう考えても普通じゃない!! 答えろ!! ラトゥリスに、何をしたっ!?」
声を荒げ、リフォンはメルストに問いただした。
空気が震えるかのような迫力。
だが、メルストは涼しい顔で肩をすくめた。
「……そんなに怒るなよ。何、そいつにお前のことを話したら協力を拒んだから、ちょいと薬で言う事を聞かせただけさ。……もっとも、常人なら致死量レベルの強力な薬だけどな」
「……何、だって……!?」
「まぁいいじゃねぇか。そいつだって、お前に気があったみたいだし。晴れて再会した二人は結ばれてハッピーエンドじゃねぇか」
リフォンは再度メルストを睨みつけた後、ラトゥリスの顔を覗き込んだ。
「……リフォン、好きだよ……♪ 愛してるぅ……♪」
濁った瞳でリフォンを見つめながら、ラトゥリスは再度彼に抱きついた。
リフォンは、黙ってされるがままになっていたが、やがて、静かに呟いた。
「……ラトゥリスを、元に戻す方法は、あるのか?」
「あん?」
「ラトゥリスを、元に戻す方法はあるのかって聞いてるんだ!! 答えろっ!!」
リフォンは顔を上げ、メルストを睨みつけながら、再度声を荒げて問いただした。
しかし、メルストも再度涼しい顔で肩をすくめて答えた。
「残念だが、そんなもん、ねぇよ。別にいいじゃねぇか、死んだ女にもう一度会えただけでも儲けもんだろう?」
「……っ!! ふっ、ざけるなぁ……っ!!」
リフォンが怒りに身を任せ、メルストに飛びかかろうとした、その時。
ラトゥリスが、リフォンを優しく抱きしめた。
「……なっ……!?」
先程までとは様子が違う。
リフォンが戸惑っていると、ラトゥリスは彼を抱きしめたまま彼の耳元に口を寄せた。
「……を、……て……」
「……ラトゥ、リス……?」
ラトゥリスの表情は見えない。
だが、彼女は、リフォンに何かを必死に伝えようとしていた。
「……しを、……して……。……は、……こが、……で……。し…………さいよ……!」
途切れ途切れになりながらも、彼女は言葉を続ける。
その声は小さく、何を言っているのかはリフォンには聞き取れなかった。
だが。
彼女の言葉を。
リフォンは、はっきりと理解した。
『あたしを、殺して。あんたには、あの娘がいるんでしょ? しっかりしなさいよ!』
「……ラトゥ、リス……っ!」
「リフォン……っ♪」
再び蕩けた声でリフォンの耳たぶに舌を這わせるラトゥリスを、リフォンは強く抱きしめた。
リフォンの目から、数滴の雫がこぼれ落ちる。
そして、リフォンは彼女を抱きしめる手を緩めると、片手でゆっくりと腰の短剣を抜き、
ラトゥリスの胸を一息に突き刺した。
「……リ、フォ、ン……」
短剣を引き抜くと同時にラトゥリスはゆっくりと崩れ落ち、リフォンは片手で彼女の身体を抱きとめた。
もう片手には、ミルラナから手渡された短剣を握ったまま。
ラトゥリスはリフォンに静かに微笑みかけると、そのまま瞼を閉じ、動かなくなった。
メルストも、ミルラナも、その光景を呆然と見ていることしかできなかった。
長い一瞬の後、最初に口を開いたのは、メルストだった。
「……おいおい、意外と思い切ったことをするじゃねぇか」
リフォンは彼の言葉を無視してラトゥリスの亡骸を抱きかかえると、そっと広間の壁際に横たえた。
「……お前だけは」
リフォンはゆっくりと立ち上がり、メルストを振り返った。
「お前だけは、絶対に、許さない……っ!」
押し殺すような声。そこに込められていたのは、かつてないほどの怒りと悲しみだった。
リフォンを中心に、周囲の空気が急速に変わっていく。
ビリビリと痛みを感じるほどの気魄だった。
メルストも流石に気圧された様子ではあったが、それでも口元に笑みを浮かべた。
「交渉決裂、か。……仕方ねぇ、こういうのは柄じゃないが……決着を、つけようじゃねぇか」
メルストはそう言うと両手で短剣を抜き、身構えた。
リフォンはメルストを見据えたまま、真っ直ぐ、ゆっくりと数歩足を踏み出し、
そして、突然消えた。
「ぅお……っ!?」
一瞬で視界から消えるほど、あまりにも速く、深い踏み込み。
そして同時に繰り出される必殺の一撃を、メルストは紙一重で回避する。
見えていたわけではなく、彼が培ってきた直感によるものだった。
メルストは瞬時にリフォンの首を目がけて短剣を突き出すが、リフォンはそれを素早く受け流し、メルストの脇腹に反撃の一撃を繰り出す。
しかしメルストはそれも強引に身体を捻って回避し、そのまま地を蹴ってリフォンから距離をとった。
ほんの一瞬の間に繰り広げられる、凄まじい攻防。
ミルラナはリフォンに加勢すべく短剣を抜いて飛び出したが、それを遮るようにマントの女が彼女に飛び掛った。
「っ!!」
ミルラナは咄嗟に上体を反らす。
彼女の首があったであろう空間に、一筋の光が閃いた。
マントの女は小さく舌打ちしながら、素早くマントを脱ぎ捨てた。
「お前の相手は私だっ!!」
ミルラナは素早く体勢を立て直し、その女の顔を見た。
そして、息を呑んだ。
彼女の顔は、ミルラナに瓜二つだった。
「なっ……!?」
驚く間もなく、女はミルラナに斬りかかる。
彼女の武器は、両腕から生えた鎌状の刃。
よく見ると、頭には複眼や触覚のようなものもあり、腰には昆虫の腹部のようなものが見える。
彼女は、マンティスだった。
マンティスは息もつかせぬ連続攻撃で、ミルラナを彼女たちが最初に降りてきた階段へと追い込んでいく。
「……っ!! 何なのよ、あんた……っ!?」
ミルラナの首を狙った一撃を避けながら、ミルラナは問いかける。
彼女は顔だけでなく、戦い方もミルラナにそっくりだった。
女は答えず、ただひたすらに攻撃を続ける。
反撃の機会が掴めず、ミルラナは狭い階段をバックステップで上りながら彼女の攻撃を捌くので手一杯だった。
「がっ、はっ……!!」
メルストの口から苦悶の声が漏れる。
これまで互いに紙一重の攻防を繰り広げていたが、先に限界を迎えたのはメルストの方だった。
直撃は免れたものの、リフォンの一撃がわずかに脇腹を掠めた。それだけなのに、まるで脇腹を鈍器で殴られたような衝撃がメルストを襲う。
「……くぅ……っ、流石に、聞いていた通りのバケモノだな……っ!!」
メルストは苦痛に顔を歪めながらも、リフォンに短剣を突き出した。
だが、リフォンはそれを受け流し、そしてそのまま彼の身体を大きく回転させ、地面に叩き付けた。
「がぁっ……!!」
あまりの衝撃で、メルストの呼吸が一瞬止まる。
ダメージが大きく、身体を動かすこともできない。
リフォンは、仰向けに倒れるメルストを見下ろした。
メルストは、痛みに顔を歪めながらも、小さく笑い声をあげた。
「……は、はっ……。どうやら、俺の負け、らしいな……」
リフォンは、そんな彼を静かに見下ろしたまま、ぽつりと口を開いた。
「……一つ、お前に聞きたいことがある」
「……あ?」
「……何故、こんな一対一の戦いを仕掛けてきたんだ?」
リフォンの言葉に、メルストはまた小さく笑った。
「……どうしても、お前を、この手で、殺したかった。例え、刺し違えてでも、な」
「……嘘だな」
「……何故、そう言い切れる?」
「それが本当なら、最初に俺に仲間になれなんて言わないだろう」
メルストは笑みを浮かべたままリフォンを見た。
「……半分は嘘で半分は本当だ。……俺は、ミルラナが戻ってきてくれればそれでよかったのさ。俺は――」
ダンッ! と地を蹴り、ついにミルラナは地上の墓地へと飛び出した。
それを追って、マンティスが階段から飛び出してくる。
体勢を立て直し、二人はにらみ合う。
先に動いたのは、マンティスの方だった。
彼女は横に跳躍すると、近くの墓標を蹴って加速しながら方向転換し、ミルラナの首を狙って斬りかかる。
ミルラナはそれをバックステップでかわしながら、彼女もまた近くの墓標を蹴り、マンティスから距離をとった。
しかし、マンティスはそれを予想していたと言わんばかりに、再度今度は近くの木を蹴り、ミルラナに肉薄する。
「っ!! さっきも聞いたけどっ、何なのよ、あんたっ!!」
ミルラナは攻撃を回避しながら目の前の相手に毒づいた。
種族は違えど、ミルラナと瓜二つの顔に、ミルラナとそっくりな戦い方。
ただの偶然とは思えなかった。
マンティスは攻撃を繰り出しながら、ミルラナを睨みつける。
その視線に込められているものは、明確な怒りだった。
「お前にっ……!! お前に、わかるものかっ!! “あの人”は、お前しか見ていなかった!! 顔を変えても!! 技を盗んでも!! 私がどれだけお前になろうとしても、なれなかった!! “あの人”に見てもらえなかった、私の気持ちが、お前にわかってたまるかぁっ!!」
「っ、何、言ってるの……っ!? “あの人”って、メルストのこと!? 私しか見てないって、どういうことよっ!!」
ミルラナのその言葉を聞いた途端、マンティスはぴたりと動きを止めた。
彼女の全身は、怒りで小さく震えていた。
「……っ、本気で気づかなかったというのか!? “あの人”は――!!」
「――俺は、ミルラナのことが好きだったのさ。愛していた。誰よりも、な」
メルストは仰向けになったまま、リフォンに向かってぽつぽつと話す。
「最初はお前が単純に邪魔だった。だからミルラナにお前を殺すよう仕向けた。そこで、ミルラナがお前に寝返ったと知ったとき、俺の心はぐちゃぐちゃになった。ミルラナを奪ったお前を、絶対に許すことができなかった」
「……女々しい奴だな。ちゃんと自分で想いを伝えればよかっただろうに」
「……怖かったんだよ、否定されるのが。確かに女々しいかもしれんが、それでもどうしてもお前は許せなかった」
メルストは自嘲するような笑みを浮かべながら、話し続ける。
「……だが、お前の腕が立つのも事実だ。だから、俺はお前のことを調べ、ラトゥリスとかいう女を用意した。それでお前が俺の仲間になり、尚且つお前の気持ちがそいつに移ってくれれば、ミルラナは再び俺のもとに戻るだろう、と思ってな」
「……それだけのために、ラトゥリスを……っ!!」
リフォンが怒りを覚えるのと同時に、メルストも怒気を込めて叫んだ。
「『それだけのため』だと? お前にとっては『それだけ』かもしれんが、俺にとっては、それこそが全てだったんだっ!!」
そして小さく2、3度咳き込むと、またメルストは静かに話し続ける。
「だがそれもできなかった。お前は俺からミルラナを、仲間を奪っていった。だからお前は絶対に許せない。この手で、殺してやる。例え、刺し違えてもだ……!」
メルストはそう言いながら身体を起こそうとするが、全身が痛み、それもできなかった。
リフォンは彼を一瞥すると、彼に背を向けて壁際のラトゥリスを抱きかかえた。
そして、メルストに背を向けたまま、静かに口を開いた。
「……お前はかわいそうな奴だな。だが、俺も譲ることはできない。……俺だって、ミルラナを愛してるんだ」
リフォンはそう言うと、ミルラナのもとへと向かうべく足早に入り口の階段へと歩き出した。
「……待てよ」
不意に、メルストがリフォンを呼び止めた。
「……まだ何か言い残したことがあるのか?」
リフォンは足を止め、わずかに振り返りながら答える。
「……言ったはずだぜ。お前は、刺し違えてでも、殺してやる、ってな……!」
メルストは苦しそうにそう言いながら身体を起こす。
だが、それで精一杯という様子だった。
「……もう勝負はついた。お前の負けだ」
リフォンの言葉に、メルストは痛みに顔を歪めながらも、口元を不敵に吊り上げた。
「……ぐっ……そうとも、限らないぜ……。ここは、地下遺跡だということは知っているだろう。……なら、この部屋は、何のための部屋だったかわかるか?」
「……何?」
メルストは不敵な笑みを浮かべたまま、短剣を握り締め、
「……答えはな……侵入者排除用の、トラップ、だ……っ!!」
言い放つと同時に、短剣をリフォンとはまるで別方向の壁に向かって投げた。
放たれた短剣は、壁を構成している石の一つに命中し、その石は不思議なほど自然に奥へとスライドする。
それと同時に、何かが動くような音と振動が円形の広間を覆った。
「……しまっ……!!」
リフォンは咄嗟に広間を飛び出そうとするが、わずかに間に合わなかった。
次の瞬間、リフォンの身体を浮遊感が襲う。
広間全体の床が、がごん、という音と共に二つに割れ、その下には底が見えないほど深く暗い穴が広がっていた。
リフォンとメルストは、吸い込まれるように果てしない穴へと落ちていった……。
「……何、ですって……?」
ミルラナは、マンティスの言葉に驚きを隠せなかった。
「……メルストが、私の、ことを……?」
「そうだ。それなのに、お前はっ……!!」
「……っ、いい加減にしてよっ!! そんなの、ただの逆恨みでしょ!? そんな、下らない理由で、振り回さないでよっ!!」
叫びながら、ミルラナはマンティスの斬撃を櫛状の刃で受け止め、そして刃をへし折るように捻った。
「……っ!! ぐあぁっ……!!」
腕の鎌の付け根に急激に無理な力がかかり、マンティスは激痛に思わず悲鳴を上げる。
ミルラナはそのまま身体を半回転させ、彼女の首筋に思い切りもう片方の短剣を叩き付けた。
「……っ、が、ぁ……っ」
呼吸が一瞬止まり、マンティスはたまらずその場に崩れ落ちた。
ミルラナは彼女を一瞥すると、すぐにリフォンのもとへと駆け出そうとする。
しかし、そんな彼女の脚を、マンティスの手がしっかりと掴んでいた。
「……っ!! 離してよっ!!」
「……行かせる、ものか……っ!! それが、“あの人”の、最後の願い、そして、私に下した、最後の、命令……!!」
言われて、ミルラナは気づく。
彼女の攻撃は、当たれば致命傷ではあっただろうが、どれも容易に見切ることができるものだった。
彼女の戦い方が、ミルラナとそっくりだったから。
……それが、意図的なものだとしたら。
あえて避けさせるのが目的で、最初から殺すつもりはなかった。
そして、本当の目的は。
……ミルラナを、リフォンとメルストから、引き離し、近づけさせないこと。
背筋に悪寒が走り、ミルラナの長い耳がピンと立つ。
嫌な予感がする。
ミルラナは焦燥感と不安感を隠せないまま、マンティスの手を振りほどこうとした。
その時。
「……!?」
小さな地鳴りと、わずかな振動。
地震にしては、奇妙な感覚。
嫌な予感がますます強くなる。
その時、ミルラナの脚を掴んでいたマンティスの手が、ふっと力なく緩んだ。
「……今のは、何!? あんた、何か知ってるんでしょ!?」
ミルラナは焦ったようにマンティスを問い詰める。
「……もう、手遅れだ……」
マンティスは、力尽きたように倒れたまま、小さく、力なく呟いた。
「……っ!!」
ミルラナは素早く駆け出し、地下への階段を駆け下りた。
嫌な予感に、心臓の鼓動がどんどん速くなる。
そして。
ミルラナは、広間「だった場所」にたどり着いた。
底が見えないほど、大きく、深く、暗い、穴。
リフォンの姿も、メルストの姿も、見えなかった。
「……う、そ……」
ミルラナはがくりとその場に膝をついた。
「……ねぇ、嘘でしょ……? リフォン、リフォン――っ!!」
暗い穴に、ミルラナの悲痛な声がこだました。
13/05/04 21:21更新 / クニヒコ
戻る
次へ