第2話 鈴玉(リンユー)師匠との修行 その一
「よろしくお願いします」
「よろしくおねがいしゃーす!」
自分、陳龍(チェンルン)の礼に対し、元気にレンシュンマオの鈴玉(リンユー)師匠がお辞儀を返す。師匠とのいつも通りの修行の始まりだった。今日で10回目、幾度となく立ち向かったが、今のところ相手に一撃たりとも与えられたことはない。
「それでは、両者、構え!」
審判役の紫薇(ズーウェイ)師匠が指示を出す。
こちらが学んだ通りにゆっくりと棒を構えたのに対し、リンユー師匠は鼻歌まじりに、楽しそうにくるくると片手で棒を弄んでいた。指先でとてつもない軌道を描いてるけど、どうやってるんだあれ…。
「それでは、始め!」
ズーウェイ師匠の合図により、修行が始まった。
「いっくよー♡」
陽気な声と共に、さっきまでの見た目からは想像できないような速さで、リンユー師匠が真っ直ぐ突っ込んでくる。だが、追えない速度ではない。すでに何度も手合わせをして、相手の手は少し読めていた。
「ふんっ!」
腰を低く構え、前方を薙ぎ払う。
「おー…っと!」
しかし、リンユー師匠はすんでのところで勢いを殺し、これを避け、ぐるりと一回転して体重を乗せた重い一撃を繰り出す。こちらも元々当てる気はない、大振りをして隙ができるリスクの方が大きい。棒をすぐさま構えて盾にする。
棒と棒のぶつかり合う乾いた音がすぐ横で聞こえた。
「わー!すごい!初撃こんなにうまく防いだの初めてじゃない!?成長したね!」
我が事のように喜ぶリンユー師匠、こんな時でも可愛く思えるのはとてもずるいと思う。笑顔が眩しい。
「恐縮…です!」
棒を弾いて追撃を加えようとするが、これもひらりとかわされる。ひとまず距離をとって戦況を立て直す。
汗が頬を伝う感触を覚えつつ、深く息を吐いた。ここまでうまくいったのは自分でも驚いている。少し口元が緩んだ。リンユー師匠との修行を始めておよそ1ヶ月、最初は毎回一撃で吹っ飛ばされていたが、そのときと比べれば大きな進歩と呼べるだろう。
「まだまだこんなもんじゃないですよ…!」
調子に乗って(やめときゃいいのに)軽口も叩く。
「うん!じゃあもうちょっと頑張ってみよっか!」
「え?」
言葉の意味を理解する間も無く、師匠は先ほどとは比較にならない速さで、規則性のない非直線的な軌道を描いて向かってきた。急いで目で追おうとするが、焦りか、はたまた己の未熟故か、いやおそらく後者だろうが、少しも捉えることができない。
右…いや左!
ほぼ勘に近い予測で棒を構える。手に棒がぶつかり合う衝撃が走った。危なかった…。
「ていやっ!」
安心したのもつかの間、リンユー師匠は攻撃の手を緩めることなく、次々と棒を振り下ろしてくる。
「ぐっ…」
「ほらほらぁ!反撃しないと負けちゃうよ〜!」
連撃をいなすのに手一杯な自分に、リンユー師匠がいたずらな笑みを浮かべてくる。
このしなやかな体のいったいどこからこんな重い一撃を繰り出しているのだろうか。これでもだいぶ手加減していると思うと恐ろしい。
「こんのっ!」
だが、負けてばかりでもいられない、男にも意地というものがある。先程から同じリズムで攻撃が繰り返されている。次の手を予測して、棒を振り払うことは不可能ではないはずだ。
「ここ!」
一瞬の隙を突いて、棒を振り払う。
「わぁっ!?」
思わぬ反撃を受けたリンユー師匠が悲鳴を上げ、胴がガラ空きになる。この勝負、もらった。棒を体に引き寄せて、渾身の突きを放とうとする。
「やっ…」
しかし、気づけば目の前にはリンユー師匠の姿はなかった。
「やば…ぐっ!?」
危険を察知し、すぐさま体を退こうとするが、前に乗りきった重心は言う事を聞くはずもなく、まんまと相手の術中にはまってしまってはもう遅い。一本取られたのは、こちらの方であるのは確かなことだった。
「チェンルーーーーン♡♡♡」
白と黒のコントラストに包まれた可愛らしいジャイアントパンダが鳩尾に体当たりをかます。これが鈴玉(リンユー)師匠との組み手の終わりを示す、お約束であった。
鈴玉(リンユー)師匠は僕に棒術や仗術、武具の扱い方を教えてくれている。豪快ながらその技巧は繊細な職人技そのもの、到底一般人では至れる境地ものではない。竹の棒で岩を一つ割って見せたときは、さすがに目を疑った。本人曰く、
「チェンルンだったら余裕だよ〜」
とのことだが、何がどう余裕なのかはよくわからなかった。
性格は傍若無人、自由気ままで、人がどうこう言っても気にしないタイプだ。
例えば、この前のこと、
『ああ、なるほど。こうすればいいんですね』
『そうそう。なんだ、意外とやれば…』
『チェンルーーン!!!』
『あどゔぉけぃとォ!?』
白澤の静麗(ジンリー)師匠の授業を受けていると、後ろから突如戸を開けてリンユー師匠が突っ込んできた。驚いて意味不明な言葉を発する。
『聞いて聞いて!!人里の肉まん屋さんが竹まんを作ったらしいの!!ヤバいよヤバいよ!!食べに行こう食べに行こう!』
こちらの肩を爪が食い込むほど強く掴んで、ガタガタと揺らしながらリンユー師匠が叫ぶ。竹まんって…いったい何が入ってるんだ?
『そっ、それはすごいっすね…』
『でしょでしょ!それじゃあ、早速人里に…』
『行かせるか馬鹿者ーーー!!!』
隣で呆然と見ていたジンリー先生が、ふと我に返って怒鳴り声を上げる。
『ええ〜、少しくらい別にいいじゃーん』
『リンユー!お前の今日の担当は終わったであろう!今は私の時間だ!』
猫のように威嚇するジンリー先生に対し、むぅ、仕方ないなー、と肩から手を離してスタスタと部屋を出ようとするリンユー師匠…妙に大人しいな…。
廊下に出ると、リンユー師匠が振り返って言った。
『そんなお婆ちゃんみたいな喋り方してると、本当に思考までお婆ちゃんになっちゃうよ〜』
ピシッ。明らかにジンリー先生の何かが切れる音がする。
『りいぃんゆうぅ〜〜〜!!!!!』
『キャー♡』
鬼の形相でリンユー師匠をジンリー先生が追いかけて行った…いや、僕の授業は…?
と、言ったようなことがあった。他にも、朝食のとき後ろからその豊満な胸を押し当ててきたり、人が修行しているときに隣でこちらが恥ずかしいくらいの応援をしてきたり、部屋に戻ったら師匠の持ってきた竹の葉で埋め尽くされてたり…数えだしたらきりがないほどの傍若無人っぷりを発揮している。されど、そのふわふわの白と黒の毛皮に包まれた愛らしい姿や、屈託のない、陽気な性格ゆえに憎めない、なんともずるい師匠なのである。
そして、一番の特徴は…
「これだよなあ…」
「ん?なんの話?」
なりふり構わず、抱きついて来ようとするところだ。
これが僕が知る限りの鈴玉(リンユー)師匠、霧楼泊の棒術の達人である。
「いや、なんでもないです」
独り言に反応した師匠を軽く流し、立ち上がろうとする。組み手に負けるとなんだかんだで悔しいのだ。
「ちょっとー、一人で終わらせないでよ〜」
しかし、リンユー師匠はぐいぐいと体を押し付けてくる。胸の二つの肉まんがぐにぐにと形を変えてちょうど股間のあたりに当たる。
「うわっ、ちょ!師匠離れて離れて!」
フニフニとした感触がに心臓が高鳴る。
まずい、このままだと勃ってしまう。負けた上にそんな恥を晒すわけには行かない。なんとか踠いて抜け出そうとするが、
「やー♡」
リンユー師匠はにこりと笑って腕に力を更に込める。絶対分かっててやってるよこの人!
加えて、師匠は体を前後に動かし胸を擦り合わせてくる。やばいやばいやばい…血が股間にどくどくと流れる感覚が体を走り抜ける。
「リンユー師匠、もう勝負は着きました。離れてください」
すると、審判を務めていた紫薇(ズーウェイ)師匠がリンユー師匠を引き剥がす。助かった…。
「あー…!」
寂しそうな声を上げるリンユー師匠。こっちは何も悪いことをしていないはずなのに何故か罪悪感が生まれる。
「う〜!ひどいよズーウェイちゃん!」
「リンユー師匠こそ弟子をいじめるような真似はやめてください!」
リンユー師匠は首根っこを持たれジタバタともがく。ズーウェイ師匠の方が一回り大きく、力も強い、色合いのせいか、猫につままれたネズミのようだった。パンダだけど。
腹を抑え、鳩尾のダメージがある振りをして前かがみになりながら立ち上がる。股間のイチモツは完全に勃っていた。
「ズーウェイ師匠、もう離してあげても…」
「いや、だが…」
「ていやっ!」
パシッと一瞬の隙を突き、ズーウェイ師匠の腕をはたいてリンユー師匠が逃げ出す。素早い身振りで屋敷へと入っていった。窮鼠猫を噛むとはこのことだろうか。
「あっ!待ってください!」
「チェンルンのことが大好きだからって嫉妬は見苦しいよ!ズーウェイちゃん!」
ズーウェイ師匠が止めようとするも、捨て台詞を吐きながらそそくさとリンユー師匠は奥へ姿を消した。
「…」
「…」
気まずい沈黙だけが中庭に取り残された。ちらりとズーウェイ師匠の方を向くと、耳まで真っ赤になっていた。
「…え、えーと、その、ありがとうございました。ズー…」
「わ、私はお前のことなどちっともこれぽっちも例え道に巣を作ったアリの運ぶ砂の一粒ほども断じて好きではない!誤解するなよ!ってあっいや違うんだ大っ嫌いというわけではなくてその好きではなくて弟子としてはすごい可愛く思っているというかできるならずっと師匠として付いていてあげたいと思ってるくらいでって私は何を言ってるんだ!う、うわああああ!!!」
ズーウェイ師匠は顔を真っ赤にしながら早口で弁解したかと思えば、急に叫んで屋敷の壁を壊してそのままどこかへ行ってしまった。
「…」
そして誰もいなくなった。
「…うん!忘れよう!」
許容を超えた現実に人間は弱い、何も見なかったことにして去る。
予定より早く修行が終わったのでそのまま風呂を炊きに行こう、道場にはジパング製の風呂があり、これが気持ちいい。至福の時間も必要だ。
「修行に励み、鍛錬を惜しまないことは褒めてやるが、それで道場を壊されたりしたらどうしようもないんじゃが?」
「す、すみません」
夜、修行のあと壁を壊したことがバレ、紫薇(ズーウェイ)師匠が火鼠の紅花(ホンファ)師匠に叱られた。
「修行が足りないよ〜ズーウェイちゃん」
「貴様もじゃリンユー!教える身で修行をほったらかしにして!」
「うぐっ、ご、ごめんなさい…」
さすがの鈴玉(リンユー)師匠もホンファ師匠には敵わないようで、シュンと頭についた黒い耳が垂れ下がる。不覚にも可愛いと思ってしまった。
「チェンルン!他人事のように見ているんじゃない!何故壁が壊れたことを言わんのじゃ!」
「も、申し訳ないです」
正論だった。ぐうの音も出ない。
三人とも一列に並び下を向く。バレた矢先、壁を治すよう言いつけられ、すでにヘトヘトなところに怒られたので、気分はすっかり沈んでいた。
ホンファ師匠には何度怒られても怖い。メラメラと炎を上げながら怒られると少し燃え移りそうなのもあるが、それを抜きにしても怖かった。
「はあ…まあ、分かればいい…壁もとりあえずは板で塞いでくれたからな。それでよしとする。今日はもう部屋に戻って寝て良いぞ」
そう言って、ホンファ師匠は自室に戻って行った。ほっ、と三人で胸を撫で下ろす。
「あー怖かったー…ちょっとからかい過ぎたかな、ごめんね…?ズーウェイちゃん」
「いえ、壁を壊したのは事実ですし…あまり気になさらないでください。お先に失礼します。おやすみなさい」
ズーウェイ師匠とリンユー師匠の二人も丸く収まり、ズーウェイ師匠も部屋に戻って行った。
「じゃあ僕も…」
「あ!待って!」
そうして自分も部屋に戻ろうとした時、襟元を掴まれて後ろにグイと引っ張られる。服が喉へと食い込んで、むせ込んだ。
「ゲホッ、っゴホ…なんでずが…」
「ご、ごめん…えーとね…」
もじもじとしながら、師匠はえーと、うーんを繰り返し、はっきりしたことを言わない。いつもは元気ハツラツなリンユー師匠が言葉を濁すなんて珍しい、心なしか顔も少し赤い。
「どうしたんですか?らしくもない…」
「その…明日って暇だよね?」
「え?ああ、そう言えばお休みでしたね」
リンユー師匠に言われ、週に一回、修行をしなくても良い日が設けられていたことを思い出す。最も、予定という予定もなく、大抵部屋でごろごろと詩を読むことがほとんどだった。キョンシーの美帆(メイファン)師匠には、私の関節よりも動かないね、とまで言われてしまうほどである。それがどうしたのだろうか?
「じゃあ、人里まで一緒に行かない?」
「買い物ですか?」
「違う!えーっと…」
再びもじもじと体を揺らすリンユー師匠、一緒に胸のたわわが揺れるのが目に毒だった。
「じゃ、じゃあ修行の一環?」
「違うってば!もーなんでそっちに…」
はあ、とため息をつくリンユー師匠。普段見られないその仕草に、目を奪われる。ここまでして言いにくい用事とはなんだろう…もしや…
「まさかついに肉まん屋を襲撃しに…?」
「違うよ!バカ!デート!デートったらデートーー!」
業を煮やしたのか、やっと本来の目的をリンユー師匠が叫んだ。
「…え?」
「『え?』じゃない!!明日の朝、門の前で集合だからね!おやすみ!」
状況を理解できずにいる中、師匠はズカズカと逃げるように部屋へ歩いて行き、ピシャリと戸を強く閉めた。僕はと言えば、「デート」という言葉に囚われたまま、体を全く動かせずにいた。デート?師匠が、僕と?
するともう一度リンユー師匠の部屋の戸が開いたと思うと、
「…遅刻したら許さないから」
と首だけ出してそう言った。
「…はい」
「それじゃ、本当におやすみ!」
「お、おやすみなさい」
最後にまた強く戸が閉められ、廊下には僕だけが残された。
おぼつかない足取りで自室に戻り、布団を敷いて潜り込む。
その日は胸が高鳴り、あまりよく眠れなかった。
「おいしー!」
「青臭い…」
翌日、僕と鈴玉(リンユー)師匠は人里まで降りてデートを楽しんでいた。霧楼泊から山を一つ越えた場所にある、商業によって発展した街で、娯楽については事欠かず、通りは人で賑わい、声は絶えることなく、店が立ち並び客を引き込もうと躍起になっている、毎日がお祭りみたいな空気をまとう街だった。二人で来ると心なしかより楽しく思える。魔物娘にも寛容で、いくつか魔物娘が営む店もある。今食べている竹まんを作った料理店もその一つだ。
「竹っていうだけで魅力的なのにふわふわなまんがさらに加わって…んー!最高!」
「たけのこが入ってると思ったのに…」
まさか餡に竹の葉が練りこんであるとは…店主がレンシュンマオの時点で少し疑っておくべきだった。足をバタバタと振って喜ぶリンユー師匠に対して、こちらはふた口食べて限界がきてしまい、竹まんとにらめっこしていた。
「むー…」
「あれ?全然食べてないじゃん。好き嫌いは良くないよー」
「好きな人の方が少ないと思うんですが…」
隣をふと見てみれば、すでに竹まんを完食していた。結構な量を買っていたはずなのに…。
「仕方ないなー…んっ」
すると、隣から顔を出して、リンユー師匠は僕の手に持っている竹まんを食べ始めた。白い、艶のある髪をかきあげる仕草に少し鼓動が早まる。小さい口ではむはむと頬張る姿は、下品というわけではなく、逆に艶かしい印象を覚えた。そのままリンユー師匠は人が口をつけたもの気にせず食べきってしまった。
「はむっ…ふふっ、ごちそうさま」
ペロリと舌を出してこちらに笑いかけてくる。
「あ、あんまり人前で恥ずかしいことしないでくださいよ…」
「もー固いこと言わない!…ね、ね。それよりさ」
「何です?」
手招きをして耳を貸すように促される。それに従って耳を近づけると。
「間接キス、しちゃったね♡」
耳元で、艶やかな声でそう呟かれた。
「かんっ!?」
唐突な言葉に思わずむせる。
「あ、顔真っ赤〜♡」
ニヤニヤとこちらをリンユー師匠が笑う。
人があえて気にしないようにしていたことをこの人は…!
昨晩に誘ってきたときのしおらしさは何処へやら、朝起きて門の前に向かうと、いつもの陽気なリンユー師匠が立っていた。…まあ、昨日みたいに照れた状態で今日街を一緒に歩かれたらどう接すればいいのか、まるで分からないので、本音を言えば、いつも通りのリンユー師匠に戻ってくれていて安心した。
「ほ、ほら、次は僕の行きたい場所に行く約束でしょう!行きますよ」
「拗ねちゃって〜♡」
「そんなわけ…」
「あ!見て見て!大道芸やってるよ!見にいこ!」
こっちのことなどお構いなし、リンユー師匠は手を引いて僕を連れて行く。相変わらず勝手だなあ、と思いつつも、楽しそうな笑顔が見れればそれでいいかと、少し笑みを漏らす。
柔らかい手の平の感触が暖かかった。
時も夕暮れ、赤く照らされた街から少しずつ人の姿が消えていく。それでもまだ人々の騒がしい声が聞こえるが、昼間ほどの活気はない。だんだんと寂しさが街に広がっていくのが分かった。人々は家に帰って、眠り、いつも通りの日常に戻って行く。しかし、明日になればまた活気が戻るのだろう。帰りたくないと子供たちが親にねだる様をすれ違いざま横目に見ながら、リンユー師匠の隣を歩く。
「いやー今日は楽しかったねー!」
「大道芸に混ざり始めたのは少し焦りましたよ…」
二人で街中を歩き回ったのに、リンユー師匠は少しも疲れたような様子が見えない。今日一番はしゃいでいたはずなのに、どこからその元気が湧き出ているのか。
「だって楽しそうだったんだもーん…チェンルンは楽しかった?」
はにかみながら首を傾けて師匠が尋ねてくる。その仕草が少し色っぽく見えて、胸が高鳴った。顔が熱くなるのを感じながら返事をする。
「た、楽しかったですよ!」
「本当に〜?」
「ほんとの本当!」
「…ふふっ、ならよかった」
リンユー師匠が満面の笑みを浮かべる。夕日が赤くて助かった。きっと今の自分の顔はひどく赤い、こんなのがバレたらきっともっと赤くしてやろうと師匠がちょっかいを出してくるに違いない。小恥ずかしくなって顔をそらす。
でも、本当に楽しかった。街を一緒に歩き回って、二人きりでご飯を食べたり、お土産屋で買い物を楽しんだり…装飾品の専門店で、なけなしの小遣いをはたいて髪飾りもプレゼントしてあげた。リンユー師匠が今もつけているそれは、夕焼けをキラキラと反射して光っていた。そのせいだろうか、いつもより師匠が綺麗に見える。
「…今日、どうしてデートに誘ったんですか」
少し、変な気を起こしそうになって話題を変えた。
「へ?」
「『へ?』じゃないですよ。何で今日誘ったのかってことですよ…その…デートに」
「あ…えーと…」
藪蛇だったかもしれない。普段あんなちょっかいを出してくるくせして、色恋沙汰の話になるとリンユー師匠は思考が止まるらしい。それでも魔物娘かと言いたくなるが、ここはぐっと堪える。
「な、なんとなく!ほら、無粋なこと訊かないで行くよ!」
結局、答えらしい答えは言わないまま、リンユー師匠はずかずかと進んでいってしまった。
「あ、そんな急ぐと人とぶつかりますよ!」
「そんなことな…きゃっ!」
「おっと」
言わんこっちゃない。他の通行人とぶつかってしまった。
「大丈夫ですか?」
「あ、す、すみま…あっ」
「あっ…」
しかし、様子がおかしい。ぶつかった相手を顔を見ると、リンユー師匠の動きが止まった。相手も相手で固まったまま動かない。
「…鈴玉(リンユー)師匠?」
近づいて声をかける。ぶつかった相手を見れば大柄な顔に髭を生やした男で、随分と鍛えられている。軍人だろうか?加えて、間近で見て気づいたが、影に子供とその妻らしき人がいる。そちらも固まった夫の方を不思議そうに見つめていた。
僕が変に思って、師匠の肩に触れたとき、ようやく我に返って口を開いた。
「…お久しぶりです。ご家族で旅行ですか?」
しかし、それは僕の知らないリンユー師匠の声だった。いつもからは想像できない落ち着いた穏やかな声、そして丁寧な言葉遣い。知らない、全く見たことのない師匠の姿に、胸騒ぎがした。
「いや、驚きましたな、こんなところで会うとは…何年振りでしょう…ほれ、リンユーさんだ。お前たちも挨拶をしなさい」
お久しぶりです、と男の妻と子供が挨拶をしてくる。リンユー師匠も頭を下げ、釣られて自分も礼をする。
「相変わらず若々しいですな」
「奥さんの前でそのようなことを言うと怒られますよ?」
僕の知らない微笑み方でリンユー師匠が受け答えをする。
知り合いのようではあるが、漂う雰囲気は友人でもなければ恋人でもない、全く別の何かだった。
「…そちらの男子は?」
すると、男はようやくこちらに気づいたようで、リンユー師匠に尋ねる。
「私の弟子です」
「弟子!これはまた…貴方が弟子とは、変わりましたな」
二人の会話は長々と続く。
どんどんと自分だけが置いてかれていく。
リンユー師匠は柔らかい物腰を崩さず、まるで別人のようであった。
胸騒ぎが増していく。
気づけば、男を見る自分の目に敵意のようなものが混じっていった。
いったい、誰なんだ、お前は。
リンユー師匠を連れ去られたかのような錯覚に吸い込まれる。
「…おっと、これは失礼。どうやらお邪魔だったようだ」
「うっ…」
こちらの視線に男が気づき、少しからかうような笑みを作る。
「少々長く話し過ぎましたかな」
「いえ、こちらも久しぶりにお話しできてよかったです」
「それならばよかった…では失礼します。どうかお達者で」
「はい、そちらも」
男はリンユー師匠と別れの挨拶を交わすと、子供と手を繋いで歩いて行った。子供がバイバイと手を振り、こちらもそれに返す。ちらりと隣を見ると、リンユー師匠が困ったような、しかし何処か悲しそうな表情をしていた。
こんな顔を見るのも初めてだった。男は悪い奴には見えなかった。それどころか心の優しい偉丈夫であった。
けれど、話していたときも、いや、今だって。
何故こんなにも苦しそうな雰囲気を師匠は纏っているんだ?
ただ、それだけが疑問だった。
男の姿が見えなくなる。リンユー師匠と僕は立ち止まったまま動けずに黙っていた。通りすぎる人々が訝しげにこちらを見て来たが、今はそんなことなど微塵も気にならない。
街はまだ賑やかなのに、僕たち二人の間には、永遠にも思える静謐だけが漂っていた。
「あの、さっきの人って…」
「さ!私たちも帰ろっか!」
意を決して事情を訊こうとしたものの、リンユー師匠の言葉に遮られた。師匠は顔を背けて歩き出す。
「ん?どうしたの?日、暮れちゃうよ〜」
先程までの厳かで静かな印象とは変わり、いつも通りの砕けた態度で笑顔を向けてくるリンユー師匠。それなのに、この胸にこびりつくような気持ち悪さは消えずに残っていた。
赤い夕焼けは黒く焦げついた炭のように、だんだんと暗い夜へと変わって行く。髪飾りは、影に包まれ、既に光を失っていた。
あの後、リンユー師匠は何事もなかったかのように僕と接し、そのまま霧楼泊まで一緒に帰った。夕飯も他の師匠たちに茶化されながら、普段通りに過ぎていった。リンユー師匠はそのときも笑顔だった。
今、僕は自分の部屋で明日、静麗(ジンリー)先生に提出しなければならない課題をやっていた。されど、筆は進まずにただ墨を黙々とするだけでいる。
昼の男、それにリンユー師匠のあの態度はいったいなんだったのか、まさかリンユー師匠はあの男に恋をしていた?だけどそれにしては少し様子がおかしい。その辺はリンユー師匠ならきっときっぱりしているはずだ。いや、それは自分の押し付けだろうか?
一度考え始めると、思考は坂を転がる石ころのように、他の石を巻き込んで大きくなり、そして止まることなく回り続けた。
気を他のことに向けようと、筆を持ち、課題に取り掛かろうとするも、男を見送ったときのリンユー師匠の苦しそうな顔がフラッシュバックして、やっぱり少し進めたところで集中は途切れてしまう。
「はあ…」
リンユー師匠は触れてもらいたくない問題のようだし、このまま忘れてしまった方がお互いのためなのだろうか。
ともかく、課題はもう諦めるしかない。
そう思って、灯りを消そうとしたとき、肘が当たって墨をこぼしてしまった。
「あっちゃー…なにやってんだか…」
腕に墨がたっぷりとついた。課題にも墨が飛び散っている。
「一からやり直しか…まあそこまで進んでいないし、とりあえず体を洗おう…」
風呂には湯が張ってあるはずなので、風呂場に向かうことにした。
随分長いこと考えていたらしく、廊下は真っ暗で、師匠たちはみな寝静まっていた。
起こさないよう抜き足差し足で廊下を渡り、風呂場に着く。
「灯りつけっぱなしだ…」
いったい誰が消し忘れたのか、風呂場は明るかった。まあつける手間が省けたか、そんな程度に思って浴場への戸を開く。
けれど、これは失敗だった。何故、誰かが入っているという思考に自分は至らなかったのか。
「ん?」
「え…」
浴場には、リンユー師匠がいた。ちょうど湯船から出るところのようで、足だけが湯に浸かり、あとは丸見えだった。
その肌は透き通るように白く、腕や脚の先に伸びる対照的な黒い獣の手足のせいか、その姿が不思議と扇情的に見えた。いつもは隠されていた、大きく、柔らかそうな胸が露わになっていて、乳首は綺麗な桃色だった。陰部には、白い毛が生えており、そこから滴る水が、なんとも言えずいやらしい。加えて、適度に鍛えられたスレンダーな胴体は、まさに妖艶の一言で表された。
しかし、僕はこのどれにも目を奪われなかった。何よりも目についたものが一つ、リンユー師匠の身体にあったのだ。
「火傷…?」
横腹から背中にかけて、大きく、そしてはっきりと見える火傷の跡があった。それさえなければ僕は顔を真っ赤にして、すぐさま戸を閉めて謝罪の言葉を述べていたのだろう。だが、それを見た瞬間、すべての思考が停止してしまった。体を動かすこともできず、ただ阿呆のようにポカンと見つめることしかできなかった。
「い…」
リンユー師匠が叫び声を上げようとして、ようやく思考が元に戻る。
「ご、ごめ…」
「いやああああああああ!!!!!」
リンユー師匠の叫び声が道場に響き渡る。
最後に見たものは、師匠の投げつけた風呂桶だった。
「かっかっか!いやぁー少年もやっぱり男だねー♡」
「だねー」
「そんなんじゃないです…」
カク猿の曉燕(シャオエン)師匠とキョンシーの美帆(メイファン)師匠が廊下に立たされた僕をからかう。
リンユー師匠の叫び声によって道場の者は皆飛び起きて、風呂場に駆けつけると気絶した僕と、服を着てもうお嫁にいけない、穢された、と泣きながら繰り返すリンユー師匠がいたという。その後、リンユー師匠は部屋に戻され、僕は起きるなり、覗き魔だと決めつけられ説教を食らい、罰として一晩廊下に立っていろとのお達しであった。
「なんで誰も信じてくれないんだ…」
「ま、大方腕の墨でも落としに来たところで見ちゃったって感じかな?」
クックック、とからかうように笑うシャオエン師匠。
「分かってたらなんで擁護してくれないんですか!!」
「えーだってー言わない方が面白そうだったしー…」
ペロりと舌なめずりをする師匠。嫌な予感がする。
「こうやって罰を受けて無防備なところを襲えるじゃーん♡」
「うわあああ!面妖な手つきで触るなぁ!」
「えいっ」
「ひでぶっ!?」
体をまさぐるシャオエン師匠をメイファン師匠がチョップして止める。シャオエン師匠はそのまま倒れて気絶してしまった。すごい…きれいに丸いたんこぶが出来ている…。
「私はそれを止める係」
「ありがとうございます…」
メイファン師匠の方が一枚上手だったようだ。シャオエン師匠といると貞操がいくつあっても足りない…。
「礼には及ばない…それと」
メイファン師匠が少し声色を変える。
「リンユーの何を見たかは知らないけど、師匠たちにも、触れられたくない過去がある…お互いに触れ合うことは師匠間でもできない」
真っ直ぐとこちらを見て告げられる。死体であるはずの濁った眼の中には、たしかな『芯』のような何かを感じた。
「…」
「強いものは、強くなろうとしない、自分がすでに完成系だから。でも、弱い人はどんどん強くなろうとする…私たちも例外じゃない」
それを分かってあげてほしい、そう言って叱るような、けれど諭すようにも聞こえる、まるで母親のような声でメイファン師匠が言った。いつも無表情で感情に乏しいメイファン師匠が、そのときだけは妙に悲しそうに見えた。
「…でも、これは師匠たちでのルール…弟子は別かもね」
「…?それは、どういう?」
「それじゃ、私はこの猿を部屋に連れてくから、おやすみ」
僕の問いに、師匠は返事をすることなく、部屋に戻って行った。
「…元気付けてくれたのかな」
何を考えているかよく分からないメイファン師匠だが、このときはなんだかいつもより優しく思えた。
「へっくしゅん!」
けれど、できれば一晩中立たされるのは勘弁して欲しかった。
次の日から、リンユー師匠と僕は会話をしなくなった。いや、というよりは一方的にさせてくれなくなったという方が正しいだろう。
朝、昨日覗いたことを(不慮の事故だが)謝ろうと声をかけると、驚いたかのように体をビクリとさせてこちらを一瞥し、そのまま走り去ってしまった。その後の朝食では、いつも一番に喋り出して賑やかなことこの上ないはずのリンユー師匠が、
「いただきます」
と、
「ごちそうさま」
しか言わずに食卓を去ったことに対しては、他の師匠たちも目を丸くし、呆然としていた。
そして、何よりも問題なのは、修行だった。
リンユー師匠と修行をしようと中庭へと向かうと、そこには大きな岩と書き置きだけが残してあり、曰く、
『この岩が割れるようになるまで話しかけないで!』
とのことであった。以前述べたが、岩の砕き方は一度しか教わっておらず、しかもよく分からないまま終わってしまっている。
「いや、無理でしょ…」
竹の棒で岩を割るなど、並大抵の人間ができるはずもない。
しかし、割れればまた話ができるのだと思うと、少しだけやる気が湧いた。物は試し、やらないことには出来るかも分からないものだ。
岩の前に立ち、棒を構える。
「ふー…」
息を深く吐き、重心を低く、他のことを一切考えないようにする。半身立ちになり、回転により体の力が全て棒に乗るようにして、集中力を高める。
間合いよし。
構えもおかしなところはない。
「すっ…ふん!」
今一度息を吸い、一気に吐き出しながら棒を突き出す。
渾身の一撃は見事に岩のど真ん中を突いた。
「いっ…」
けれど、岩は微動だにしなかった。
「…てええええぇぇえぇ!?」
それよりも、跳ね返って来た衝撃が信じられないほど痛い。誰も見るいない庭で、独り悶える。簡単などといったリンユー師匠が恨めしい。
「…はあ…認めよう」
しばらく転げ回った後、仰向けに倒れて、呟く。
「完っ全に嫌われた」
雲ひとつない青空が、その日はいらだたしかった。
「ふう…」
夕食の後、風呂から出て、体を冷ましに庭へと向かい、月に照らされた岩を見ていた。
リンユー師匠と話さなくなってから約1週間。結局、岩は割れず、リンユー師匠と話すこともできず、ほかの修行も調子が悪いまま過ぎた。頭はリンユー師匠のことでいっぱいで、ちっとも役に立たない。手は血豆だらけになって、ここのところ、風呂は地獄の釜みたいだった。
このままリンユー師匠とはずっと話さずに終わりなのだろうか、そう思うと悔しくて、痛みも気にせず拳を握りしめた。
あの火傷はいったいなんだったのだろう、あの男とは関係があるのだろうか、ふと気づけば、そんなことを考える。これを毎日のように繰り返していた。
「あまり夜風に当たりすぎると、風邪をひくぞ」
「紅花(ホンファ)師匠…」
気づけば隣に赤く燃えるホンファ師匠がいた。ちょっとだけ眩しい。
「…岩砕きか…ワシも昔はハマったのう」
「ハマるハマらないとかいうモノなんですかこれ…」
「一度出来ることが増えると、それを試したくなるものさ」
よいせ、とホンファ師匠が座る。炎は熱くなく、不思議と暖かかった。
「…師匠、僕、どうしたらいいんでしょうか?」
「リンユーのことか?」
「はい…」
弱音を吐くようにホンファ師匠に尋ねる。
「うむ、知らん」
「…」
きっぱりと、そしてあっさりと期待は裏切られた。
「師匠の間ではお互いの過去には触れない、というのがここでの決まりじゃ…まあ、さすがに弟子をほったらかすのは捨て置けないな」
「じゃあ…」
「されど、これはお前とリンユーの問題だ。ワシらがどうこうして解決するものでもない。仮に、今の状態で修行や会話ができるようになっても、お前はそれでいいのか?」
「う、それは…」
一週間前の出来事を思い出す。あのことについて何も言われないまま、いつも通りの生活に戻るのは、なんとなく、気持ち悪かった。気を使ったままリンユー師匠と接するだなんて想像もできない。
「嫌ですけど…」
「では、お前さんが解決するしか方法はあるまい」
返す言葉もなかった。静寂が中庭を包み、虫の声だけが響いていた。
「…少し、助言のようなものをしてやろう」
静寂を切り裂いてホンファ師匠が口を開く。
「何ですか?」
藁にもすがる思いで聞き返す。
「火中の栗を拾うには、火の中に手を突っ込むしかないのさ」
「…なんですかそれ」
「言ったろう、助言のようなものだと。聞き流したいなら聞き流して構わん」
では、ワシは寝るぞ、と付け加えて師匠は部屋に戻ってしまった。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず…ってやつかな」
先ほどの言葉を思い返す。このままでは埒があかないのは明確ではあった。明日は休日…何か新しい一歩を踏み出すべきなのだろうか。眠い頭では、何も考えることはできなかった。
「寝るか」
自分も立ち上がり、中庭を後にした。
虫の声は止んでいた。
「起きろ起きろ起きろォ!」
「…はっ!?えっ、ちょっ!?」
翌朝、シャオエン師匠の猛烈なモーニングコールで目を覚ます。今日は休みで修行は一個もないはずなのにどうしたことだろう。
「さあ着替えて着替えて!」
「何事ですか、朝から騒がしく!」
「いいからいいから!」
流されるまま寝巻きから着替えさせられる。
「終わったねー!はいじゃあこっちこっち」
「ちょっと!事情だけでも…」
「うるさい」
「ぐえっ!?」
首元を掴まれ、そのまま玄関まで引き摺られていく。抵抗する間も無く、外へと投げ出された。
「いったぁ!?」
「陳龍(チェンルン)…!?」
すると、驚いたことにそこにはリンユー師匠が立っていた。僕を見るなり逃げようとするが、
「はい逃げなーい♡」
尻尾で拘束され、すぐに戻される。
「ちょっと…!シャオエン…!」
もがいてリンユー師匠が逃れようとするが、シャオエン師匠は尾っぽでうまく重心を崩し、まともに動けないようにしている。
「いやー無性に柿が食べたくなった!というわけで暇そうな二人で探しに行ってもらいたいんだー♡」
「こんな季節になってるわけ…!」
「はいそこ喋らなーい♡」
「きゃっ!?」
反論しようとしたリンユー師匠がすっ転ぶ。ここまで手玉にされるリンユー師匠も珍しい。
「そゆことで、柿が見つかるまで帰ってこないでねー!あ、さすがに暗くなったら帰ってきてもいいよー!じゃ、そういうことで、行ってらっしゃ〜い♡」
二人とも門のところまで引き摺られて、放り出される。ガチャリと門は重たい音とともに閉められた。
いや…無茶苦茶すぎるだろう…。どこをどう見ても仲直りさせる気にしか見えなかった。年中発情しているように見えて、仲間意識は人一倍強いのはシャオエン師匠の特徴だった。
「…とりあえず探します?」
声をかけると、リンユー師匠もさすがに逃げる気も失せたのだろうか、声こそは出さなかったが、コクリとうなずいてくれた。いい機会だ、ここでこじれたことを全部、はっきりさせよう。
…ついでに渋柿を見つけたらシャオエン師匠に投げつけてやろうとも決めた。
「くそっ…渋柿のひとつも見つからないなんて…」
締め出されてから数時間後、山の中を歩き回ったが柿は見つからなかった。山の中にこんな軽装で放り出され、絶対に見つけてやると躍起になったが、どうにも見つからない。秋になるとシャオエン師匠は柿をどこからか大量に持ってくると聞いたので、必ずあるはずなのだが、見当たらなかった。
だが、そんなことは問題ではない。リンユー師匠はついてきてくれたが、未だに会話はできずにいた。
「ちょっと休憩しましょう…」
手頃な岩を見つけ、休もうと持ちかける。リンユー師匠はやはり、言葉を発さずに頷くだけだった。
二人は距離を置いて座る。
「…」
「…」
気まずい…。何か話そうかと相手の方を伺うが、同じようこちらを見るリンユー師匠と目が合い、どちらも目を逸らしてしまう。
これでは、埒があかない…このままではダメだ。そう思って、火中の栗を拾うには、火の中に手を入れるしかない、昨日聞いた言葉を思い出しながら、緊張で乾いた口を開いた。
「あ、あの」
少し声が裏返る。情けなくて少し恥ずかしい。
「…なに」
だが、相手も、消え入りそう声で反応してくれた。
…きっと、リンユー師匠もこのままではいけないことを分かっている。ただ、秘密を見られたときの衝撃が大きかっただけなにだと思った。
これは好機だ。何とかしなくては。
「えっと…あー…」
だが、かける言葉は見つからず、間抜けな声しか出せない。
こんなこともあろうかと、何度も頭で計画を立てたのに、何一つ機能しない。
それを見かねてか、リンユー師匠が口を開く。
「…この前、見たことでしょ?」
「…はい」
相手の方から言葉を振ってきたことに、多少の驚きを覚えながら返事をする。
「それだったら…忘れて、あの日のこと全部」
「…」
当然だと思った。師匠にとっては触れられたくはない、タブーの一種だ。高々、一ヶ月ちょっと過ごしただけの弟子相手に、洗いざらい言うはずもない。
「そうですよね…忘れてほしいに決まってる…」
だけど、
「でも、だったら何で今も、その髪飾りをつけてるんですか」
「…っ」
けれど、見過ごせなかった。できるはずもない、あの日送った髪飾りは今もリンユー師匠の頭できらめいていた。
リンユー師匠も忘れたくは無いはずなのだ。あの楽しかった日を。しかし、その代償が彼女にとってはとても大きい。そういうことなのだろう。
「…別にいいでしょ、お互いのため、いつものように戻ればいいじゃん」
リンユー師匠は飽くまで素っ気ない態度をとる。
「戻れるはず無いでしょう…あんな顔を見たら」
しかし、自分も食い下がる。
あの日、あの身体、あの火傷を見てしまったとき、リンユー師匠の顔は赤面するわけでも、絶望するわけでもなく、ただ、人に見られたという恐怖のようなもので染まっていた。あの時の顔と傷が、忘れることができなかった。
ギリ、と師匠が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああもう!いいって言ってるじゃん!私は師匠で、チェンルンはただの弟子!これでいいでしょ!?」
業を煮やし、激昂するリンユー師匠。しかし、こちらもその言葉が癇に障った。
「ただの弟子…!?ただの弟子だって!?僕を誘って、連れ回して、それを忘れろと!?ふざけるなよ!」
「なっ…!この、分からず屋!!」
そう言うと、リンユーは立ち上がりスタスタと歩いて、近くに落ちていた、ちょうど修行に使っていたぐらいの大きさの棒を二つとり、こちらに投げてきた。
「そんな大口、師匠を倒してから言って!」
リンユーが棒を構える。半分は脅しのつもりだろうが、相手は本気だ、その目を見てわかった。
正直なところ、勝ち目は一切ない、普段の修行を見れば一目瞭然だ。ただでさえ一撃も当てられたこともないのに、師匠を倒す?不可能だ。無理難題にも程がある。命がいくつあったって足りやしない。
けれど、それは諦める理由にならない。
不器用な僕らは言葉で通じ合うことはできない、ならば、戦いで意思を伝え合うしか方法はないのだろう。
「望むところだ」
棒を取り、こちらも構える。
握った時、血豆が痛んだが、気にしてもいられない。しのぎきり、わずかな隙を突くのが精一杯だろう。でも、やってやる。
風が吹き、木の葉が落ちる。
それが合図だった。
突風のような突きをリンユーが繰り出す。
少し、腹を棒が掠めたが、紙一重でこれを避け、後ろに下がる。
初撃は避けられたものの、リンユーはこれに食らいつき、棒を薙いだ。
「ぐっ…!」
修行とは比較にならない速さ、一撃の重さだった。防いだところまではよかったが、少しよろけたところに蹴りを入れられる。
「かふっ…!」
防ぐ間も無く、腹を蹴飛ばされ、肺の空気を全て出された。立ち並ぶ石や木に体をぶつけながら坂を転がり、ようやくなだらかな地面に倒れる。
どこか打ったのか頭がクラクラとしたが、相手は獲物に食らいつく獣のような勢いで飛び込んでくる。死にものぐるいでこれを避けた。
見れば先ほどまで自分の腹があった地面に深々と棒が突き刺さっている。背筋が冷たくなる感触を覚えながら、距離をとった。
間違いなく相手は本気だ。割と殺意もある気がする。
リンユーは棒を引き抜いて、また構える。
「見たでしょ?このままだと死んじゃうよ?」
声をかけてくるが、構うものか、こちらも棒を再度構える。相手は汗ひとつかいていないが、こちらは既に息が荒くなっている。どうにか打開策を見つけないといけない。
「はっ…まだまだ、これからですよ…」
「…っ、あっそう!」
間合いに飛び込んでくるリンユーの連撃を、何とか防ごうとするが、急所に当たらないようにするのがやっとだった。精一杯の防御は、ほとんど意味を成していない。
「がっ…ぐっ…」
攻撃が当たるたびに鋭い痛みが身体を走る。身の捌き方、棒使い、力、どれをとってもリンユーに勝る点がない。現に、どんどんと追い詰められている。顔は何度も当てられた棒のせいで腫れ、所々青くなっており、見るに耐えない。しかし、相手の攻撃は緩むことはなく、むしろその速さと重さは増す一方だった。体力はほぼ底をつきかけ、片方の瞼は腫れ、まともに攻撃を読めたものではない。ほんの一瞬、足の力が抜けた。
「甘い!」
「うがっ…!」
隙を突くように脚に一発当てられ、片膝をつく。そこに頭を叩き割ろうとリンユーが棒を振り下ろす。すかさず棒で受け止めると、乾いた音と共に、腕にビリビリと衝撃が伝わった。
「はあ…はぁ…」
「もう限界でしょう…早く降参したら…」
「師匠こそ、甘いにもほどある!」
棒を振り払い、足をかろうとするが、これは簡単に読まれ、後ろへとリンユーは下がる。
「さっきから僕に攻撃が当たるたび苦い顔しないでくださいよ…こっちの気が散ってしょうがない」
「ぁ…う、うるさい!もう容赦しないから!」
気づけば、岩壁が後ろにあった。もう逃げ場は横にしかない。相手も勝負を決めるつもりらしい。
リンユーは腰を低くし、こちらを見据える。 先に動けば、行き先を読まれ、突きを入れられて試合終了だ。相手が動いてから、避けるしかない。
二人の動きが止まった。
永遠にも思える静寂が二人を包む。
鼓動は激しくなり、上がった息が馬鹿みたいにうるさかった。
落ち着け。
相手と呼吸を合わせろ。
目をそらすな。
落ち着け。
落ち着け。
落ち着け…!
「…ふっ!」
視界からリンユーが消える。
今までにない速さだ。人間のする動きではなかった。
ようやく視界に捉えたかと思えば、右へ左へ、細かく動いて視点を揺さぶりながら接近してくる。
チャンスは一瞬しかない、少しでもタイミングがズレればやられる。
だが、読めない、既に間合いだぞ…!
急げ…急げ…!
しかし、常人離れした速さに目が追いつかない。
これを避けなければ確実にもうダメだと思う何かがあった。
けれど体は言うことを聞かない。
だが、目が光る何かを捉えたとき、視界が一気に晴れた。
「…左!」
視界に入ったのは、あの日送った髪飾りだった。すんでのところで横に飛び、身体を伏せる。
リンユー師匠の一撃は、岩壁へ深々と突き刺さった。岩壁に少し亀裂が入る。
自分の荒い息が、ぜえぜえと聞こえる。なんとか避けることができた。しかし、次の攻撃がいつ来るかも分からない。すぐに体を起こす。
「…驚いた…当てるつもりのない脅しとはいえ、避けられるなんて思わなかった」
すると、 本当に感心したふうに、リンユーが呟いて、棒から手を離した。
「…あなたのいない一週間、他の師匠とも修行はしてたんですよ」
あまり調子が良くなかったことは隠して、得意げに言う。
「…そっか、チェンルンも成長してるのか…ふふっ」
何かを噛みしめるように、リンユーが僕の言葉を反芻する。
久しぶりに、リンユーが微笑むのを見た。その満足そうな笑みからは、既に戦意は見られなかった。
ほっと息をつく。
「…っ!危ない!」
そのときだった。
岩壁へと突き立てられた棒によってできた亀裂が広がり、巨大な岩が切り離された。侵食によって脆くなっていたのだ。
ガラガラと音を立てて、岩はそのままリンユー師匠への頭上へと落ちていく。
「しまっ…!」
しかし、油断していたがために、反応が遅れた。リンユー師匠は避けるにも間合いが近すぎる。岩を砕こうにも、棒を壁から抜いていては時間がない。完全に詰みの状態だった。
「リンユー!」
名前を叫び、咄嗟に体は動いていた。
飛び込んで突き飛ばすか?いや、たとえ間に合っても精々頭が守られて下半身は潰れてお終いだろう。
なら、やることは、一か八か、一つしかない。
棒を握り、リンユーの下へと走る。
腰を低く構え、息を吐く、体ひねり、目の前の岩のことだけを考える。
既に岩の中心は捉えた。
しかし、 満身創痍の体にはうまく力が入らない。
焦りが増す。けれど、もうどうしようもない。
自身の全てをかけた、渾身の一撃を穿つ!
コンッ
優しく何かを叩くような音がした。
弱い。
衝撃も帰ってこない。
全身から血の気が引いていく感覚に目を瞑る。
もうだめだと何度も呟いた。
しかし、何秒たっても、岩が落ちてくる音はしなかった。
「え…?」
恐る恐る目を開けると、自分の目を疑うような光景があった。
岩は師匠の目の前で止まっていた。
リンユー師匠はその下で今にも身を潰そうとする岩に怯えていた。
自分は衝撃のあまり幻覚でも見ているのかと思ったとき、思い出したかのように、岩が砕けながら横へと吹っ飛んだ。
パラパラと岩が石へと散っていく。その様子はさながら春の訪れと共に溶けていく雪のようだった。
「よかっ…たー…」
何が起こっているのかもわからないまま、とにかく師匠が無事なのだと分かると、少しだけ目眩を起こし、力が抜けて尻餅をついてしまった。
リンユー師匠も唖然としながら、ぽかんと口を開けて、砕けた岩の方を見ていた。
そして、こちらの方を見て、目を丸くしながら口を開いた。
「あり…がと…」
「……ふ、ふふ…あはははは」
その様子がなんだかおかしくて、緊張が解けたのもあるだろうが、思わず笑ってしまった。ダメだ、止めようにも止まってくれない。
「ちょ、ちょっと、どうして、ふっ、笑うの!?」
「ふふ、フフフ…」
どうやらツボに入ったようで、笑ったそばから込み上げてくる。リンユー師匠もつられて顔が引きつり、一緒に笑い始めた。
どのくらいそうして転げ回っていただろう、一週間無かった笑顔の分だけ笑っていた気がする。
ようやくおさまって、しばらく二人とも仰向けに倒れて息を切らしていた。ややあってから、リンユー師匠はむくりと起き上がる。
「…泥だらけだね」
「…そうですね、僕なんか、特に」
「うん…帰ろっか」
その笑みには悲しそうなものは見えなかった。僕もゆっくりと起き上がる。身体中が痛いけど、今はまたリンユー師匠と話せる喜びの方が大きかった。
「あっ!」
そのとき、あるものを見つけた。
「ん?どうしたの?」
「先に行っててください、すぐ追いつくんで!」
「いいけど…?」
首を傾けるリンユー師匠に目もくれず、『あるもの』の方へと向かった。
「たっだいまー!」
「ただいま」
「おかえり、柿は見つかったかい?」
道場へと帰ると、シャオエン師匠が門の外で待っていた。あの後、律儀に待っていたのだろうか。
「ええ、お陰様で」
「…うん、その様子じゃ随分と苦労したようだけど、良かった良かった」
ボロボロな僕とリンユー師匠を見比べて、シャオエン師匠は嬉しそうに頷く。
「そうだ、シャオエン師匠、目を瞑って顔こっちに寄せてください」
「へっ?い、いいけど」
何か期待する風に師匠が赤い顔を寄せてくる。近くで見ると綺麗な顔をしている。しかし、構わず自分は懐に手を入れ、
「喰らえー!」
「がもっ!?」
そのまま緑色の渋柿をシャオエン師匠に突っ込んだ。
そう、『あるもの』とは探していた柿の木だった。一本だけあの場所に生えており、しめしめと持って帰ってきたのだった。
「ぎゃー!?渋っ!渋ーーーっ!」
「全く…機会をくれたのには感謝しますけど、もうちょっと方法ってもんがあるでしょう!」
朝に叩き起こされ、訳も分からないまま閉め出されたのにはそれなりの怒りを感じていた。少々度がすぎる気もするが、いつものいたずらの分でこれもチャラとしよう。
「チェンルンのバカー!恩知らずー!」
捨て台詞を吐きながら逃げていくシャオエン師匠。こんな童話がジパングにあった気がする…。
「…チェンルンって結構根に持つタイプだよねー」
「え、そうですか?」
「そうだよ、おかげで私と戦うことになったんだから」
「むう…」
言われてみると、その通りな気がしてきた。ダメだ、そう思うと自分の発言が今更恥ずかしく思えてくる。
「もう、しょうがないお弟子さんだなー♡」
「うわっ」
柔らかい手の平が、傷だらけの手を包む。
「いっしょにお風呂、入ろ?」
引かれるままに、僕は風呂場に連れていかれた。
「…え、風呂ぉ!?」
「こっち見ちゃダメだからね〜?」
着ているチャイナ服を後ろで脱ぐリンユー師匠。
自分も流されて服を脱ぎ、腰に布を巻く。
「ちょっとリンユー師匠…本当にいっしょに入るんですか?」
「今さら何言ってんのさ、ほら、入ろ入ろー♡」
背中を押され、浴場へと誘われる。
「さあ座って座って♡」
風呂椅子へと座らされ、リンユー師匠は何やら後ろで準備をし始めた。
もう気が気でなかった。僕の心臓は壊れたかのように早鐘を打ち、頭ではよくわからないが天使がラッパを持って高らかにふき鳴らしいた。リンユー師匠には、自分の体はタオルで隠すけれど、僕は裸で構わないと言われたが、何とか懇願して、腰布だけは巻かせてもらった。でないと、見られるに決まっている。既に興奮で我がイチモツは半勃ち状態である。情けない。後ろに女性がいるだけでここまでになるとは。
「チェンル〜ン?」
「うひゃおハイ!」
心臓が五回ほど飛び跳ねた。風呂場だと声が反響し、頭が揺さぶられるような感じがした。
「そんな声出して、どしたの?…もしかして緊張してるぅ〜?」
ニヤニヤと師匠はこちらを見ているのが背中越しに分かる。
「は、はあ!?し、してないし!こんなの余裕!余裕!」
自分でもムキになっているのが分かるが、リンユー師匠の言葉に反発する。何とも悪い癖である。下手な強がりは相手を煽るだけだというのに。
「ふ〜ん…テンパると素が出るよね、チェンルンって♡」
「そ、それは師匠だって…!」
「固いことは言わずに体洗うよ〜♡」
準備ができたのかひたひたと足音を鳴らしてリンユー師匠がこちらに近づいてくる。
背中には戦ったときの傷やらアザやらが残っていた。体を洗ってもらえるのは嬉しいが、きっと痛むはずだ。目を瞑って痛みに備える。
だが、背中に当たったものは布のザラザラとした感触ではなく、柔らかい、自分と同じ人の肌の感触だった。しかも、予想が正しければ、これは女性特有の弾力のある、二つの乳房で間違いない。セッケンがついてニュルニュルと蠢いていた。
鼓動のテンポがより早まる。頭の中の天使はサックスで情熱的なソロをかまし始めていた。
「りりっりいっりりりリンユー師匠!?」
「傷、痛む?」
耳元で優しくリンユー師匠が尋ねてくる。だが、こちらは痛い痛くないの問題ではない。いや、痛いといえば痛いのだが、どことは言えないが、張り詰めたある一部分が。ちくしょう、こんな時も正直だなこいつは。
「こっち、向かないでね…分かってると思うけど、見られたいものじゃあないから」
「あ、いや、そのなんで裸、で、体を擦り付け…?」
「なんでって…布だと傷に悪いでしょ?あ、大丈夫だよ、意外と汚れって手でこするだけで落ちるらしいから」
そういうことを訊いているのではない。そして質問に答えつつ、体を艶めかしく動かさないでいただきたい…!
「それに」
「それに…?」
「チェンルンが喜ぶかな〜って♡前に体を押し付けたら勃ってたから♡」
リンユー師匠は甘い声を吐いて、胸に手を這わせる。
この前というと、一週間前の組み手のことだろう…。
「嘘っ…!?」
「ほんとー♡」
ば、バレていた…絶対に隠し通せたと思っていたのに…。自分でもみるみるうちに顔が真っ赤になるのが分かった。
「まだまだ子供だね〜♡ズーウェイも気づいてたよきっと〜」
「あんまりだ…」
がくりと首を落とす。
「…ねえ、気持ちいい?」
「そ、それきくことですか?自分からしといて?」
「こっちからじゃ顔とかよく見えないし…こんな体でも、反応してるのかなって…」
そのとき、ようやく気づいた。
そして自分の鈍さに腹が立った。
リンユー師匠のあの火傷は、魔物娘からすれば何よりのコンプレックスに他ならない。魔物娘にとって、体は自分の誇りであり、相手を魅了し、愛し合う一番の武器である。しかし、その体についた醜い火傷は、いったいどれだけの不安になるだろう。相手に見られれば、その不気味さから拒絶されてもおかしくはない。仮に、受け入れられたとしても、その心配は常について回る。自分より綺麗な体を持つレンシュンマオなどいくらでもいる、その不安が、どれほどのものなのか、僕には想像できなかった。
湯気が立ち込めていて、確かに視界はよくない。自分が勃起していることに、リンユー師匠はまだ気づいていない様子だった。
「…たってます」
「え?」
「今!メチャクチャ勃ってます!痛いくらいです!他でもないあなたのせいで!」
「え、は、分かった分かった!大声で言わなくていいから!」
「むがっふ」
慌てて口を塞がれた。正直、自分でもこの伝え方はおかしいと思った。けれど、それが一番いい伝え方だとも思ったのだ。リンユー師匠は僕の口を塞いだまま動かない。見れば顔を真っ赤にして俯いている。
「…嬉しい」
師匠がゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「嬉しい、すごく嬉しい…私に興奮してくれてるって思うとお腹の奥が、んっ、ジンジンする…♡」
「師匠…?」
「ねえ、苦しいなら…楽にしてあげよっか…?」
ゆっくりと手を僕の股間の方へと伸ばす。口から胸へ、胸から腹筋へ、腹筋から腰へ、そして腰から股間には行かず、太ももに指を少し這わせてから、しなやかな手つきで腰布を取り払った。こそばゆい感覚に身を悶える。
「わあ…初めてみた♡」
「あんまり見ないでください…」
自分でも、見たことのないほどにいきり立ったイチモツが、そこにあった。真っ赤に腫れたペニスは、少しグロテスクにも見える。
「こんなに腫らして…♡すごい立派…♡」
つつつ…と指をペニスにリンユー師匠が這わせる。その感触だけてゾクゾクとした。思わず達しそうになって、少し息が荒くなる。
「ねえ、擦ってもいい…?♡」
「ダメって言っても…っ…どうせ、触るんでしょう?」
「分かってる〜♡」
そう言うとリンユー師匠は胸を僕の背中に押し付けて、両手で包み込むようにペニスを擦り始める。
「ぐっ…あぁ…」
とてつもない快楽が頭を支配した。暴力的なんてものじゃない、想像を絶する気持ち良さに、思わず喘ぐ。
リンユー師匠の手はパンダのような毛と肉球、それに爪が付いている。毛は柔らかくて、まるで羽毛のように優しく、肉球の弾力と絶妙なザラつきとの組み合わせは、極めて悪魔的だった。加えて、その爪は硬くはあるものの、尖ってはおらず、丸みを持った先で男根をなぞられればそのくすぐったさに体が跳ね上がる。こんな快楽に耐えきれるものなどいるはずもない、息はあっという間に上がり、溜め込んだ欲望を全て吐き出しそうになる、が、
「フフ…チェンルンったら…かわいいね…♡」
すんでのところで手の動きが止まり、達することは許されない。魔物娘の本能のなせる技か、リンユー師匠の手さばきは、手慣れた娼婦のように扇情的でありながら、処女のように初々しかった。
「やばい、です…ふっ…正直なところ…」
「そんなに良かった…?♡」
「良いも悪いもないですよ…最高です…」
身体の力は抜けきり、気づけばリンユー師匠に身を委ねる体勢になっていた。頭の中はすでに真っ白で、目の前の快楽のことしか考えられなかった。
「なら良かった…もっと激しくしてあげる…♡」
ペニスを擦る速度が上がる。
「うわ…!それ、やばい…!」
根元を左手で擦られながら、右の手のひらで亀頭をグリグリと責め立てられる。セッケンと漏れ出た我慢汁が潤滑剤となり、ぐちゅぐちゅと音を立てていた。自分の体液でリンユー師匠の手が汚されていると思うと、より一層の興奮を覚え、心臓がバクバクと音を立てる。敬語を使う余裕などもはやない。
「気持ちいい…?♡ね♡、気持ちいいなら声出していいんだよ?♡ほら♡ほらぁ♡♡」
「うっ…っく…はあっぁ」
耳元で囁かれた声が脳みそを犯す。
「あはぁ♡今、ビクンッてしたぁ♡おちんちん気持ちいいの?♡いいんだよ?もっと気持ちよくなって♡♡」
淫らな言葉が興奮をさらに掻き立て、股間に意識が嫌でも集中させられる。
手の動きはまたも変化し、今度は片手で太ももをさすりながら、もう一方の手で五本の指先を巧みに使ってペニスの根元から鈴口までを、ゆっくりと、触れるか触れないか程度の強さで擦り上げていく。
先ほどは違う、焦らすような快楽に目がチカチカとした。
「チェンルンって…ひょっとしてお耳弱い?」
「わ、分かん…ない…」
「あはは♡蕩けちゃって、可愛い♡」
理性などもう彼方へと吹っ飛んでいた。リンユーの手からもたらされる、予想不可能な気持ち良さに、頭のネジはすっかり緩んでしまった。
「我慢しないでいいよ???♡情けなくなんてないからね??♡♡好きなときにピュッピュッってしていいからね〜?♡♡」
全てを受け入れるような言葉が、ひどく心地いい。耐えきれない、自分の分身は、今に限界を迎えようとしていた。
「リン…ゆ…ヤバい…もうっ…!」
「射精ちゃう?♡♡♡いいよ♡我慢しちゃダメだから♡♡私のおててに射精していいから♡♡全部受け止めてあげるからぁ♡♡♡♡」
リンユーの手が射精を促すように、左手でカリ首を激しく擦り、右手をペニスの先に添える。耳元にかかる吐息と声、背中にあたる二つの膨らみ、そして自身の男根を艶めかしく擦る手のひら、その全てが興奮を煽っていく。
「ぐっ…出る…!!」
「いいよ♡好きな時でいいからね♡♡チェンルン、好きだよ♡好き♡好き♡」
甘く、なんとも官能的で、愛に溢れた言葉によって自分の中のタガが外れる。
そして、僕は絶頂へと達した。
「あっ!があぁ…!ぐっ…はあ!!」
「きゃっ!?♡ん♡あはっ♡いいよ、全部射精していいからね…♡」
今までに感じたことのない射精感だった。体の全てが引きずり出されるような快楽が全身を襲い、思わず体が何度も跳ねた。
脳が焼き切れる。息をするのを忘れるほどの絶頂があるだなんて、知りもしなかった。精子を全て出し切るのに、一分以上もかかり、出し終わる頃には、息も絶え絶えになっていた。その全てを、リンユーは嬉しそうに受け止めている。
「すっごい…一杯でたねぇ…♡」
見てみれば、自分出した白濁液は、あまりの量で、リンユーの手のひらの黒い毛を覆い隠していた。一度の射精でこんな量が出るのかと、自分でも驚く。
「ごめん…出しすぎた…」
「謝る必要なんてないよ…♡こんな濃いの出してくれたなんて…はっ…♡そんなに気持ちよかったんだぁ♡」
手に滴る見つめ、妖艶な笑みをリンユーが浮かべる。
「ねえ、これ、飲めるのかな?」
「…は!?いや…汚いよ…そんな」
「…飲んで欲しい…?♡」
ペロリと舌舐めずりをして、突拍子も無い提案をリンユーがしてくる。ゴクリと生唾を飲み込んだ。
そして、震える唇を開いて、
「う、うん…」
恐る恐る頷いた。
「ふふっ…♡チェンルンの変態♡」
そう言うと、リンユーは手のひらに口をつけて、こくこくと僕の出したものを飲み始めた。その淫らな姿に、目を離せなかった。自分の吐き出したモノが、その喉を通っているのだと思うと、再び股間に血が通っていくのが分かった。リンユーはそのまま一気に手のひらの白濁液を飲み込み、ペロリと指先を舐める。
「…ん、ぷはぁ♡すごかった…♡喉に絡みついて、ん、すごくおいしい…♡」
自分のモノが受け入れられたという事実に、ますます興奮が高まる。
「リンユー…もう我慢できない…っ、ここで…」
「あ、待って…!」
耐えきれなくなってリンユーの肩を掴み、迫ろうとするが、遮られる。どうしてと、困惑するが、次の言葉でそれもおさまった。
「初めては…お布団の上がいい…」
それは、 実に女の子らしい、素敵な提案だった。
「…うん、分かった…」
リンユーの言葉に頷き、僕たちは、汚れた体を再度洗い始めた。
長い夜が始まる。
17/10/01 10:10更新 / 零点零一mm
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