騎士団長ワイバーンの憂鬱
赤旗騎士団長リリア・ウインストン。
通称『黒衣のリリア』。
ワイバーンやハーピーと言った空を飛ぶ魔物達で構成され、特定の魔王軍の傘下に収まる事なく各地を転戦する遊撃部隊『赤旗騎士団』の団長を務めるワイバーンであり、騎士団結成以前からパートナーたる竜騎士兼赤旗騎士団副団長兼夫のミハエルと共に各地を戦ってきた猛者である。
顔を斜めに走る刀傷。その傷と同じくらいの鋭さを持ち、見る者を射殺さんばかりの迫力を放つ眼。緑の鱗に覆われた肌や翼にはおびただしい数の古傷――裂傷や打撲痕が痛々しい程に刻まれ、それを隠すかのように袖のない黒い革製のロングコートを、前を開けたまま常に羽織っていた。このコートこそが、彼女が『黒衣』と呼ばれる所以である。
口数は少なく冷静沈着で、あまり感情を表に出すタイプでは無かった。見た目の怖さ――『団長として』のリリアは冗談じゃなく怖い――も相まって赤の他人からは誤解を受ける事が多かったが、本当は不器用な性格ながらも人が良く、部下を何よりも大切にするまさに『女傑』であった。団員にとって彼女はまさにこの騎士団のシンボルであり、最高の上官であるのだ。
そして彼女はミハエルに対しても、ぶっきらぼうながらも親愛の念を向けていた。ミハエルはリリアとは対照的に社交スキルの高い細身の――華奢と呼んでもいい――青年で、パッと見ただけではとてもあの『黒衣』を御する事は出来そうには見えなかった。だがリリアはミハエルの言う事によく従い、ミハエルもまたリリアの事を強く信じ愛していた。
二人はどこに行くのも一緒で、交わし合う口数は少なく手を握るなどと言ったスキンシップも少ない方であったが、彼らはまさに一心同体であったのだ。
「行くぞ! 勝利は我らが旗の下にあり!」
そして今日も、『黒衣のリリア』は高らかに叫ぶだろう。そして声高に進軍の号令を下して味方を鼓舞した後、傍らにいた愛する夫に向けて厳しく、だが愛に満ちた言葉を捧げるだろう。
「ミハエル! 振り落とされるなよ!」
「応!」
そしてそれに力強く答えたミハエルを背に乗せ、リリアは空へと舞い上がるだろう。
魔王に勝利を――騎士団に勝利をもたらすために。
「……だとさ」
ミハエルはそう言って、それまで読んでいた雑誌のとある見開きの部分を開いたまま、横に並んで座っていた一人の魔物の元に置いた。
「取材を受けた覚えはないんだが……まあ概ね合ってるから良しとするか」
人魔入り乱れ、むせ返るような酒の匂いと喧騒に満ち満ちた酒場の中。ミハエルがそうまとめた一方で、その黒い革のコートを羽織った翼手の魔物はその『連載・今日の魔ヒーロー 著:ピピン(リャナンシー)』と記された雑誌の見開きに目を向ける事もなく、酒に負けた訳でもないのに弱々しく背を丸めていた。
「俺達も随分と有名になったな」
「うう……こんなつもりじゃなかったのに……」
コートが隠しきれていない部分には裂傷や打撲痕が生々しく刻まれ、顔には斜めに走った刀傷があった。だがそんな見るからに歴戦の勇士とも言えるその風貌の持ち主は、酒の入ったグラスを握り締めながらその威風堂々さが嘘のように全身からネガティブなオーラを垂れ流していた。
「どうしてこうなったのかなあ……? 私はもっと穏便に、輸送とか偵察とかみたいな穏やか物がしたかったのに……どうしてこんな実戦メインの騎士団になっちゃったのかなあ……?」
「そう言われてもなあ」
さっきから酒を一滴も呑まずに愚痴ばかり口から零すその魔物に向けて、ミハエルがそう素っ気なく返す。そして自分はグラスの中に入っている黄金色の液体を一息に喉に流しこみ、その焼けつくような感触を目を瞑って楽しみながら続けた。
「だいたい、そのお前の難儀な体質が原因だと思うんだがな」
「ええっ!? これ、赤旗騎士団がこうなったのって、私が原因なの!?」
「それ以外に何がある。団長のお前がいつもいの一番に暴れ回るから、足下にウォーモンガーばっか集まってくるんだろうが」
ますますネガティブな波動を全身から放ち始めた赤旗騎士団長――ワイバーン『黒衣のリリア』を尻目に、ミハエルが店主のラミアにおかわりを頼む。
その時、手元のグラスの中の酒を一気飲みした後、リリアが新たな一杯に口をつけようとしていたミハエルに顔を向けた。
「違うもん! 私は困ってる人がいたら放っとけないだけで、別に戦いが好きな訳じゃないんだもん!」
その目の部分には、両目どころか顔の上三分の一を覆い隠すほどに大きな真円状の瓶底眼鏡が身に着けられていた。レンズが光を反射していたので瞳は見えず、代わりにレンズに刻まれた渦巻き模様がより鮮明に映し出されていた。
「ほら、ジパングに善は急げって言葉があるじゃない。私はあくまでもそれを実践してるだけなんだから! 私は何もしてないもん! 私は悪くねえ!」
「限度ってもんがあんだろうが。この前だって偵察しに来てた反魔物領内の町のど真ん中で、貴族の息子を蹴り飛ばしやがって。あれの後始末は大変だったんだぞ、覚えてるか?」
自分の正当性を力説するリリアだったが、ミハエルが疲れた顔で二週間前に行った作戦を槍玉に挙げた途端に押し黙ってしまった。ちなみにこの作戦はリリム率いる魔王軍本隊と騎士団の合同で行う物であり、当初はまず偵察隊を向かわせて警備の薄くなる時間を調べ、そしてその時間帯を狙って奇襲を仕掛けると言う物であった。だがリリアの行動によって素性がばれ、全て台無しになってしまったのだ。
「だってあの貴族、自分の前を横切って走ったからって理由だけでその子ども捕まえて、髪の毛鷲掴みにして殴りつけたんだよ! 他の町の人達は何もしないでそこに立ったままだったし、あのままほっとけるわけないじゃない!」
「それはそうだが、もっと穏便に済ませる方法は他にいくらでもあったろうが」
「例えば?」
「賄賂」
「絶対イヤ!」
……兎にも角にもこれによって孤立無援、万事休すとなった二人は、仕方なくプランBに移行する事にした。雲霞のごとく向かってくる教団兵や援軍として来た勇者を一切無視し、その町の中心部にある王城――戦力の中枢部を二人で『破砕』し、その後町の外に待機していた本隊と合流。浮き足立っている敵を一気呵成に背攻め落としたのだ。作戦終了後、司令官のリリムは彼らの手口を聞いて絶賛し、参謀のデュラハンは絶句した。
ちなみに二人が屯していた酒場は、この作戦によって陥落し堕ちた町の中にあった物をそのまま『魔物好み』に改装されて改めて開店した処であった。他の騎士団員たちも町の方々に散らばり、思い思いに羽を休めていた。
「あの後デュラハンからはもっとスマートにやれとか小言言われるし、リザードマンの一人からは貴様それでも騎士かと罵られるし、もう散々だったんだからな」
「だ、だけど、団員の皆からは拍手されたよ? それでこそ私達の団長だって」
「俺らの所が異常なだけだよ」
「あう……」
ミハエルに簡潔に説き伏せられ、そしてそれまでの彼自身の愚痴も相まって、リリアは完全に意気消沈していた。ミハエルが「しまった」と気づいた時には、既にリリアはグラスの中にあった氷を一個、翼手の人間で言う所の『手』の部分にある二本の爪で器用につまみ上げ、それを割ること無く縦に圧縮していった。
完全にいじけていた。この時彼の横にいたのは『黒衣のリリア』ではなく、ただのヘソを曲げたワイバーンの女の子だった。
「はあ……」
このままだと埒が明かない。ため息混じりにそう思ったミハエルはそっとリリアの肩を叩いた。
「リリア」
「はっ、はひ!」
夫からの突然の呼びかけにリリアが背筋を伸ばして答える。同時にずり落ちそうになった眼鏡を掛け直していると、横からミハエルが穏やかな声で言った。
「少し、散歩しないか」
「さ、散歩?」
リリアがおずおずとミハエルの方を向く。ミハエルが笑顔で言った。
「ああ。いつまでもこんな所で燻ってても仕方ないだろ? だからさ」
「……」
だめかな? リリアがそう尋ねてきたミハエルの頬をそっと撫でる。
「駄目じゃないよ。あなたとだったら、どこへもイッちゃうんだから」
「それは頼もしいな。じゃあ早速行くか」
「うん!」
周りから浴びせられてくる羨ましげな視線を努めて無視しながら、二人は飲んだ分だけカウンターの上にコインを置き、揃って店を出ていったのだった。
「でもこれってさ、デートって言うんだよね」
「デートは嫌か?」
「そんな事無いよ。さ、行こう!」
「見つけたぞ、悪魔め!」
店を出ていきなり難癖をつけられた。何事かと思い二人が声のする方を向くと、そこには神の加護を受けた教団の鎧に身を包んだ人間の一団が待ち構えていた。彼らは密集隊形を取りながら剣を引きぬいてその切っ先を前後左右それぞれの方向に向け、取り巻きの魔物や親魔物派の人間を近づけまいとしていた。取り巻き達は全員が敵意を剥きだしにしていたが、鎧の一団と取っ組み合おうとする者は一人もいなかった。その鎧を着た者は、その一人一人が神の加護を受けた者――『勇者』に等しい力を持つ者達であったからだ。誰だって死にたくはない。ミハエルは彼らを責めなかった。
魔王が代替わりしてから、神は勇者を濫造している――共にこの町を堕とし、今はジャイアントアントの手によって立派に作りなおされた王城の一室で政務に励むリリムの言った言葉をミハエルは思い出した。
「あーあー、団長達また変なのに絡まれてるよー」
「他人の振りしときましょ。巻き込まれたら面倒だわ」
そしてそんな取り巻きの中に、団員であるハーピーとシルフがいたのをミハエルは発見した。向こうはそれに気づいてなかったが、ミハエルはそんな部下の姿を見て額に青筋を浮かべた。
「よくも私の町を、教団の加護を受けた町を潰してくれたな! この罪、万死に値するぞ!」
そしてそれまで聞こえていた声は、その密集隊形を取る勇者の一団の中から聞こえてきていた。ミハエルが一歩前に出て不機嫌そうに言った。
「俺達に何か用があるのか? こっちはこれからやる事があるんだ。あるならあるでさっさと終わらせたいんだが」
直後、一団の奥から苛立ちを隠そうともせずに声が返ってきた。
「……おのれ、悪魔の手先め! 貴様のような存在をコレ以上のさばらせないために、我々はこうしてここまでやって来たのだ! 覚悟するがいい、この悪魔め!」
「……だから何なんだよ。戦いに来たのか?」
「そうだ! 貴様らのような者達をこの世から抹消するために、我々は今こうしてここにいる!」
内側から聞こえてきたその声に同調するように、そうだそうだと鎧を着た騎士たちが囃し立てる。士気高揚にしてはかなり声色が小さかったが。
お前らだけで何が出来るんだよ、とミハエルは言い返したかったが、自分から話をややこしくする必要もなかったので言葉にはしなかった。
その時。
「あ」
リリアが不意に素っ頓狂な声を出した。そして「どうした?」と尋ねるミハエルに対して、瓶底眼鏡の縁を持ち上げながらリリアが答えた。
「この声、聞き覚えがあるなと思ったら……!」
「知ってるのか?」
「知ってるもなにも、このこえ、あの貴族の声だよ!」
「貴族?」
ミハエルは一瞬なんの事か判らなかったが、すぐに「ああ」と合点がいったように明るい声を出した。
「お前が蹴っ飛ばした奴か」
「そうそう。あの時の貴族」
そしてリリアが喉のつっかえが取れた時のような明るい声でミハエルにそう返した直後、彼女の額めがけて何かが飛んできた。
「危ない!」
取り巻きの一人が叫ぶ。
遅い。
「――ッ!」
一直線に飛んできたそれ――退魔の加護を受けた投擲用の短剣は、寸分違わぬ正確さで瓶底眼鏡を真ん中から真っ二つにしつつ、リリアの眉間に深々と刺さった。
糸の切れた人形のようにリリアがその場に倒れこむ。
「ばかめ! 油断するからだ!」
一団の中から勝ち誇った声がした。鎧の勇者達は表情こそ見えなかったが、その鎧の中で会心の笑みを浮かべていた。取り巻きは仰向けに倒れたリリアを見て、誰もが悲壮な顔を見せた。中にはその場に崩れ落ちて泣きだしてしまう者もいた。
その中でミハエルは一人、涼しい顔をしていた。何事も起きなかったかのように平然としながら、眉間に短剣を刺されそこから血を流して倒れていたリリアを黙って見下ろしていた。
「やり過ぎるなよ」
そしてミハエルは呆れたようにため息を吐いた。他の者達は、そんなミハエルを信じられない物を見るかのような目つきで見つめていた。
なんでそんな平然としていられるんだ。取り巻きの誰かがそう言おうとしたその時。
「……」
何事も無かったかのようにリリアが上体を起こしたのだ。そして眼鏡の奥に隠していた鋭い瞳を露わにしながら眉間に刺さっていた短剣を引き抜き、周囲から上がる小さい悲鳴を無視してその刃先についた自分の血をまじまじと見つめた後、立ち上がりながらミハエルに向かって物静かに言った。
「……ミハエル」
「ああ」
「眼鏡を割ったのは誰だ?」
ミハエルが無言で鎧の一団を指差す。そしてその一団に向けて放たれた『リリア』の視線は、それまでいじけたりはしゃいだりしていた『リリア』の物とはまるで雰囲気が異なっていた。
それは鋭く、射殺さんばかりにギラついた瞳。怒気と殺気だけを凝縮して押し固めたかのような、慈悲の欠片も無い漆黒の瞳。
『黒衣のリリア』の目であった。
「ほう……」
「ひっ」
その視線と薄く笑ったリリアの顔を前に、鎧の一団が動揺したかのようにその体をガチャガチャ揺らす。するとその一団の中に隠れていたそれまでの声の主が、動揺し揺れまくる鎧によって押し出されるように外へと弾き出され、その姿を衆目の前に晒した。
金粉と宝石が惜しげもなく散りばめられた豪奢な軍服に身を包んだ中肉中背の男。薄い唇。高い鼻。細い目。
ひと目で見て貴族と判る男であり、そして見るからに小狡そうな顔つきの男だった。
「ミハエル。やはり奴だ」
その貴族に対して怒りの目線をぶつけながらリリアが言った。ミハエルは「どうでもいい」と言いたげに肩を竦めた。
そんなリリアの目の前でその貴族はよろよろと立ち上がり、まっすぐリリアを見据えながら――実際はリリアの肩越しの背景を見つめるようにしながら――腰のレイピアを引きぬいて言った。
「貴様、あの時の悪魔か! あの時は不覚を取ったが、今度はそうは行かんぞ!」
「復讐戦のつもりか?」
「ああそうだ! ここは私の国だ! 私の物なのだ! ここを自由にしていいのは私だけなのだ!」
魔王軍が攻め込んだ時に一般市民がそれに便乗して反乱を起こした理由については何も考えていないのか。リリアは言おうとして止めた。長台詞を言うのが億劫だったのと、それを知っていればこんな所にわざわざ出てきたりはしないだろうと思ったからだった。
「そうとも。ここは私の庭なのだ。父上もその通りだと認めてくださった。誰をどうしようとも、私の勝手なのだ!」
「……」
ああ。もうウザい。
貴族の屑を見るリリアの眼の色が変わったのを、ミハエルは見逃さなかった。
「リリア、待て――」
だがアクションが遅かった。彼が叫んだ時には、既にリリアは鎧の一団に突っ込んでその貴族の頭を三本の爪で鷲掴みにして地面に叩きつけていた。
「が――ッ!」
屑が呻き声を上げる。その声に反応してそれまで外を向いていた勇者達が一斉にリリアに向き直る。
「ふん!」
その動きこそがリリアの狙いだった。その場で独楽のように一回転し、頭を鷲掴みにしたまま件の屑を振り回して反転している最中でまともに受け身の取れなくなっていた勇者達に次々とぶち当てていったのだ。
接触の瞬間に鎧が砕け、悲鳴と共に勇者が倒れ伏していく。同時に屑の全身から人が鳴らしてはいけない音――ハンバーグを作る際にひき肉をこね合わせるような音――が皮膚の内側から漏れ聞こえてきたが、そのどちらにもリリアは関心を払わなかった。
彼女が回転を終えて片膝をついた姿勢をとった時、後には自慢の鎧を粉々に砕かれて完全に戦意を失った勇者達と、全身ミンチにされながらも辛うじて息をしていた。
「ミハエル!」
立ち上がり、その屑を高々と持ち上げながら、『黒衣のリリア』が叫ぶ。億劫そうに頭を掻きながらミハエルが答える。
「ああ、なんだ?」
「頼む。眼鏡を買ってきてくれ」
「瓶底?」
「ああ。あれでないと元に戻れない」
「りょーかい」
「早くしてくれよ」
「わかった、わかったよ」
そう返してからミハエルがリリアに背を向け、固唾を飲んでこちらを見つめていた取り巻きの方へと歩き始める。そして人並をかき分けて雑貨屋に向かおうとした時、その取り巻きの一人が彼に近づいて尋ねた。
「な、なあ。あの人、どうしたんだ?」
「あの人? リリアの事?」
質問者が無言で頷くと、ミハエルは笑って答えた。
「あいつ、メガネかける前と後で性格変わるんだよ」
リリアは眼鏡を掛けるか否かでその性格が大きく変わる。
瓶底眼鏡を掛けている時は喜怒哀楽の強い『女の子らしいリリア』。
そして眼鏡を外した時は戦鬼たる『黒衣のリリア』。
なぜこうなるのか、付き合いの長いミハエルにはなんとなく理由が判っていた。
眼鏡を外すと攻撃的になるのは、彼女が超恥ずかしがり屋だからだ。もはや視線恐怖症と言ってもいいかもしれない。
自分の素顔を見られているという羞恥心がそのメーターを吹っ切って過剰なまでの防衛本能――自分を見つめる他人を全て排除しようとする破壊衝動に変わり、そしてそれがワイバーンの持つ潜在的な戦闘能力と相まって手の付けられない有様となるのだ。
ちなみに、今爪で挟んでいた屑を最初に蹴り飛ばしたのは、眼鏡を掛けていた時のリリアである。彼女は顔を隠しているという安心感から惜しげもなく感情を表現できるようになり、それに応じてまっとうな正義感も抱く事が出来るようになったのだ。
「ミハエル! 早くしろ! こっちにも限界がある!」
取り巻きに捕まっていたのを見つけたリリアがもどかしそうに叫ぶ。その顔はやや赤らみ、目元にはうっすらと涙が溜まっていた。
周囲からの好奇と親愛の視線がくすぐったくて死にそうになっているのは明らかだった。
「ああ、悪い! すぐ買ってくるから!」
そう言って駈け出したミハエルの背中を、リリアはどこかもどかしい気持ちで見つめていた。早く何とかしてくれないと本当に恥ずかしくて死んでしまいそうだったからだ。
泣き叫びたかった気持ちもあったが、それは彼女の『黒衣』としてのプライドが許さなかった。そんな事をすればますます恥を晒してしまう事になり、今度こそ理性を無くして大暴れしてしまう。
「だめだ……はやく、はやくしろ……!」
周りからの視線が嫌というほど突き刺さる。この場から逃げ出してしまいたかったが、それではミハエルと会えなくなってしまう。それは困る。
だがこのまま留まっていると、遅かれ早かれ爆発してしまいそうだ。全身から嫌な汗を垂れ流しながら、リリアは歯を食いしばって限界を必死でこらえていた。
「早く、早くしてくれ……!」
その時、リリアは自分の足をペシペシ叩かれるのを感じた。
いけない。と思うよりも早く、反射的にその目を足元に向けてしまった。
そこには一人のホルスタウロスの子供がいた。背はリリアの半分ほどしか無かったが、それでも胸は既にかなり大きく膨らんでいた。
そんな少女が、ほぼゼロ距離でじっとこちらを見つめてくる。
「あ……」
「お姉さん、お姉さん」
そう呼びかけてニコリと笑う。
「かっこよかったです!」
「――」
心のなかで何かが切れた。
もはや何も見えていなかった。リリアは叫び声を上げながら本能に任せて、その爪に挟んでいた物を勢い良くぶん投げた。
数分後。
雑貨屋にてお目当ての物を買う事が出来たミハエルは、店を出た所で思わぬ人物と遭遇した。
「あ、あなたは確か……」
「あら、覚えていてくれたのかしら? 光栄だわ」
彼の前に立っていたのは、自分達と共にこの町を陥落させたリリムであった。そしてミハエルはこんな所でのリリムとの遭遇よりも、そのリリムの浮かべていた表情に驚き――と言うよりも困惑していた。
なんか怒ってたのだ。込み上がる怒りを抑えて無理に笑みを取り繕おうとしていたが、それが返って怖さを倍増させていた。
「あの、どうかしたんですか?」
「そうねえ。言葉で伝えるのもいいけれど、直接見てもらった方が良いかしら」
「え?」
首をひねるミハエルに見ろと言うように、リリムがある一店を指差す。そしてそこに視線を移したミハエルは絶句した。
「あれは、あなたの伴侶が前に使ったのと同じ手よね?」
新たに作られた城が倒壊していたのだ。何か強力な物がぶつかって背中をへし折られたかのように、城全体が前かがみの姿勢になってお辞儀をしているようにも見えた。
そしてこれは件の偵察に失敗した時、彼らがこの町から逃げ出す際に使った手でもある。その時は一番近くにいた勇者を『砲弾』として使った。
「……」
ミハエルは顔を引き攣らせたまま何も言えなかった。リリムが淫蕩な、それでいてぞっとするほど昏い笑みを浮かべながらミハエルに言った。
「後で私の部屋に来なさい。彼女も一緒にね」
ミハエルはただ頷くしか無かった。
「団長、落ち着いて!」
「もう少しで旦那さんが眼鏡買ってきてくれるから、ね? だからそれまで我慢して!」
「離せッ! 離せえええええッ! もうダメだ! 私は逃げるぞ! その手をどけろおおおおおッ!」
一方、我慢の限界に来たリリアは、取り巻きに紛れていた団員達に羽交い絞めにされながら羞恥に狂っていた。
通称『黒衣のリリア』。
ワイバーンやハーピーと言った空を飛ぶ魔物達で構成され、特定の魔王軍の傘下に収まる事なく各地を転戦する遊撃部隊『赤旗騎士団』の団長を務めるワイバーンであり、騎士団結成以前からパートナーたる竜騎士兼赤旗騎士団副団長兼夫のミハエルと共に各地を戦ってきた猛者である。
顔を斜めに走る刀傷。その傷と同じくらいの鋭さを持ち、見る者を射殺さんばかりの迫力を放つ眼。緑の鱗に覆われた肌や翼にはおびただしい数の古傷――裂傷や打撲痕が痛々しい程に刻まれ、それを隠すかのように袖のない黒い革製のロングコートを、前を開けたまま常に羽織っていた。このコートこそが、彼女が『黒衣』と呼ばれる所以である。
口数は少なく冷静沈着で、あまり感情を表に出すタイプでは無かった。見た目の怖さ――『団長として』のリリアは冗談じゃなく怖い――も相まって赤の他人からは誤解を受ける事が多かったが、本当は不器用な性格ながらも人が良く、部下を何よりも大切にするまさに『女傑』であった。団員にとって彼女はまさにこの騎士団のシンボルであり、最高の上官であるのだ。
そして彼女はミハエルに対しても、ぶっきらぼうながらも親愛の念を向けていた。ミハエルはリリアとは対照的に社交スキルの高い細身の――華奢と呼んでもいい――青年で、パッと見ただけではとてもあの『黒衣』を御する事は出来そうには見えなかった。だがリリアはミハエルの言う事によく従い、ミハエルもまたリリアの事を強く信じ愛していた。
二人はどこに行くのも一緒で、交わし合う口数は少なく手を握るなどと言ったスキンシップも少ない方であったが、彼らはまさに一心同体であったのだ。
「行くぞ! 勝利は我らが旗の下にあり!」
そして今日も、『黒衣のリリア』は高らかに叫ぶだろう。そして声高に進軍の号令を下して味方を鼓舞した後、傍らにいた愛する夫に向けて厳しく、だが愛に満ちた言葉を捧げるだろう。
「ミハエル! 振り落とされるなよ!」
「応!」
そしてそれに力強く答えたミハエルを背に乗せ、リリアは空へと舞い上がるだろう。
魔王に勝利を――騎士団に勝利をもたらすために。
「……だとさ」
ミハエルはそう言って、それまで読んでいた雑誌のとある見開きの部分を開いたまま、横に並んで座っていた一人の魔物の元に置いた。
「取材を受けた覚えはないんだが……まあ概ね合ってるから良しとするか」
人魔入り乱れ、むせ返るような酒の匂いと喧騒に満ち満ちた酒場の中。ミハエルがそうまとめた一方で、その黒い革のコートを羽織った翼手の魔物はその『連載・今日の魔ヒーロー 著:ピピン(リャナンシー)』と記された雑誌の見開きに目を向ける事もなく、酒に負けた訳でもないのに弱々しく背を丸めていた。
「俺達も随分と有名になったな」
「うう……こんなつもりじゃなかったのに……」
コートが隠しきれていない部分には裂傷や打撲痕が生々しく刻まれ、顔には斜めに走った刀傷があった。だがそんな見るからに歴戦の勇士とも言えるその風貌の持ち主は、酒の入ったグラスを握り締めながらその威風堂々さが嘘のように全身からネガティブなオーラを垂れ流していた。
「どうしてこうなったのかなあ……? 私はもっと穏便に、輸送とか偵察とかみたいな穏やか物がしたかったのに……どうしてこんな実戦メインの騎士団になっちゃったのかなあ……?」
「そう言われてもなあ」
さっきから酒を一滴も呑まずに愚痴ばかり口から零すその魔物に向けて、ミハエルがそう素っ気なく返す。そして自分はグラスの中に入っている黄金色の液体を一息に喉に流しこみ、その焼けつくような感触を目を瞑って楽しみながら続けた。
「だいたい、そのお前の難儀な体質が原因だと思うんだがな」
「ええっ!? これ、赤旗騎士団がこうなったのって、私が原因なの!?」
「それ以外に何がある。団長のお前がいつもいの一番に暴れ回るから、足下にウォーモンガーばっか集まってくるんだろうが」
ますますネガティブな波動を全身から放ち始めた赤旗騎士団長――ワイバーン『黒衣のリリア』を尻目に、ミハエルが店主のラミアにおかわりを頼む。
その時、手元のグラスの中の酒を一気飲みした後、リリアが新たな一杯に口をつけようとしていたミハエルに顔を向けた。
「違うもん! 私は困ってる人がいたら放っとけないだけで、別に戦いが好きな訳じゃないんだもん!」
その目の部分には、両目どころか顔の上三分の一を覆い隠すほどに大きな真円状の瓶底眼鏡が身に着けられていた。レンズが光を反射していたので瞳は見えず、代わりにレンズに刻まれた渦巻き模様がより鮮明に映し出されていた。
「ほら、ジパングに善は急げって言葉があるじゃない。私はあくまでもそれを実践してるだけなんだから! 私は何もしてないもん! 私は悪くねえ!」
「限度ってもんがあんだろうが。この前だって偵察しに来てた反魔物領内の町のど真ん中で、貴族の息子を蹴り飛ばしやがって。あれの後始末は大変だったんだぞ、覚えてるか?」
自分の正当性を力説するリリアだったが、ミハエルが疲れた顔で二週間前に行った作戦を槍玉に挙げた途端に押し黙ってしまった。ちなみにこの作戦はリリム率いる魔王軍本隊と騎士団の合同で行う物であり、当初はまず偵察隊を向かわせて警備の薄くなる時間を調べ、そしてその時間帯を狙って奇襲を仕掛けると言う物であった。だがリリアの行動によって素性がばれ、全て台無しになってしまったのだ。
「だってあの貴族、自分の前を横切って走ったからって理由だけでその子ども捕まえて、髪の毛鷲掴みにして殴りつけたんだよ! 他の町の人達は何もしないでそこに立ったままだったし、あのままほっとけるわけないじゃない!」
「それはそうだが、もっと穏便に済ませる方法は他にいくらでもあったろうが」
「例えば?」
「賄賂」
「絶対イヤ!」
……兎にも角にもこれによって孤立無援、万事休すとなった二人は、仕方なくプランBに移行する事にした。雲霞のごとく向かってくる教団兵や援軍として来た勇者を一切無視し、その町の中心部にある王城――戦力の中枢部を二人で『破砕』し、その後町の外に待機していた本隊と合流。浮き足立っている敵を一気呵成に背攻め落としたのだ。作戦終了後、司令官のリリムは彼らの手口を聞いて絶賛し、参謀のデュラハンは絶句した。
ちなみに二人が屯していた酒場は、この作戦によって陥落し堕ちた町の中にあった物をそのまま『魔物好み』に改装されて改めて開店した処であった。他の騎士団員たちも町の方々に散らばり、思い思いに羽を休めていた。
「あの後デュラハンからはもっとスマートにやれとか小言言われるし、リザードマンの一人からは貴様それでも騎士かと罵られるし、もう散々だったんだからな」
「だ、だけど、団員の皆からは拍手されたよ? それでこそ私達の団長だって」
「俺らの所が異常なだけだよ」
「あう……」
ミハエルに簡潔に説き伏せられ、そしてそれまでの彼自身の愚痴も相まって、リリアは完全に意気消沈していた。ミハエルが「しまった」と気づいた時には、既にリリアはグラスの中にあった氷を一個、翼手の人間で言う所の『手』の部分にある二本の爪で器用につまみ上げ、それを割ること無く縦に圧縮していった。
完全にいじけていた。この時彼の横にいたのは『黒衣のリリア』ではなく、ただのヘソを曲げたワイバーンの女の子だった。
「はあ……」
このままだと埒が明かない。ため息混じりにそう思ったミハエルはそっとリリアの肩を叩いた。
「リリア」
「はっ、はひ!」
夫からの突然の呼びかけにリリアが背筋を伸ばして答える。同時にずり落ちそうになった眼鏡を掛け直していると、横からミハエルが穏やかな声で言った。
「少し、散歩しないか」
「さ、散歩?」
リリアがおずおずとミハエルの方を向く。ミハエルが笑顔で言った。
「ああ。いつまでもこんな所で燻ってても仕方ないだろ? だからさ」
「……」
だめかな? リリアがそう尋ねてきたミハエルの頬をそっと撫でる。
「駄目じゃないよ。あなたとだったら、どこへもイッちゃうんだから」
「それは頼もしいな。じゃあ早速行くか」
「うん!」
周りから浴びせられてくる羨ましげな視線を努めて無視しながら、二人は飲んだ分だけカウンターの上にコインを置き、揃って店を出ていったのだった。
「でもこれってさ、デートって言うんだよね」
「デートは嫌か?」
「そんな事無いよ。さ、行こう!」
「見つけたぞ、悪魔め!」
店を出ていきなり難癖をつけられた。何事かと思い二人が声のする方を向くと、そこには神の加護を受けた教団の鎧に身を包んだ人間の一団が待ち構えていた。彼らは密集隊形を取りながら剣を引きぬいてその切っ先を前後左右それぞれの方向に向け、取り巻きの魔物や親魔物派の人間を近づけまいとしていた。取り巻き達は全員が敵意を剥きだしにしていたが、鎧の一団と取っ組み合おうとする者は一人もいなかった。その鎧を着た者は、その一人一人が神の加護を受けた者――『勇者』に等しい力を持つ者達であったからだ。誰だって死にたくはない。ミハエルは彼らを責めなかった。
魔王が代替わりしてから、神は勇者を濫造している――共にこの町を堕とし、今はジャイアントアントの手によって立派に作りなおされた王城の一室で政務に励むリリムの言った言葉をミハエルは思い出した。
「あーあー、団長達また変なのに絡まれてるよー」
「他人の振りしときましょ。巻き込まれたら面倒だわ」
そしてそんな取り巻きの中に、団員であるハーピーとシルフがいたのをミハエルは発見した。向こうはそれに気づいてなかったが、ミハエルはそんな部下の姿を見て額に青筋を浮かべた。
「よくも私の町を、教団の加護を受けた町を潰してくれたな! この罪、万死に値するぞ!」
そしてそれまで聞こえていた声は、その密集隊形を取る勇者の一団の中から聞こえてきていた。ミハエルが一歩前に出て不機嫌そうに言った。
「俺達に何か用があるのか? こっちはこれからやる事があるんだ。あるならあるでさっさと終わらせたいんだが」
直後、一団の奥から苛立ちを隠そうともせずに声が返ってきた。
「……おのれ、悪魔の手先め! 貴様のような存在をコレ以上のさばらせないために、我々はこうしてここまでやって来たのだ! 覚悟するがいい、この悪魔め!」
「……だから何なんだよ。戦いに来たのか?」
「そうだ! 貴様らのような者達をこの世から抹消するために、我々は今こうしてここにいる!」
内側から聞こえてきたその声に同調するように、そうだそうだと鎧を着た騎士たちが囃し立てる。士気高揚にしてはかなり声色が小さかったが。
お前らだけで何が出来るんだよ、とミハエルは言い返したかったが、自分から話をややこしくする必要もなかったので言葉にはしなかった。
その時。
「あ」
リリアが不意に素っ頓狂な声を出した。そして「どうした?」と尋ねるミハエルに対して、瓶底眼鏡の縁を持ち上げながらリリアが答えた。
「この声、聞き覚えがあるなと思ったら……!」
「知ってるのか?」
「知ってるもなにも、このこえ、あの貴族の声だよ!」
「貴族?」
ミハエルは一瞬なんの事か判らなかったが、すぐに「ああ」と合点がいったように明るい声を出した。
「お前が蹴っ飛ばした奴か」
「そうそう。あの時の貴族」
そしてリリアが喉のつっかえが取れた時のような明るい声でミハエルにそう返した直後、彼女の額めがけて何かが飛んできた。
「危ない!」
取り巻きの一人が叫ぶ。
遅い。
「――ッ!」
一直線に飛んできたそれ――退魔の加護を受けた投擲用の短剣は、寸分違わぬ正確さで瓶底眼鏡を真ん中から真っ二つにしつつ、リリアの眉間に深々と刺さった。
糸の切れた人形のようにリリアがその場に倒れこむ。
「ばかめ! 油断するからだ!」
一団の中から勝ち誇った声がした。鎧の勇者達は表情こそ見えなかったが、その鎧の中で会心の笑みを浮かべていた。取り巻きは仰向けに倒れたリリアを見て、誰もが悲壮な顔を見せた。中にはその場に崩れ落ちて泣きだしてしまう者もいた。
その中でミハエルは一人、涼しい顔をしていた。何事も起きなかったかのように平然としながら、眉間に短剣を刺されそこから血を流して倒れていたリリアを黙って見下ろしていた。
「やり過ぎるなよ」
そしてミハエルは呆れたようにため息を吐いた。他の者達は、そんなミハエルを信じられない物を見るかのような目つきで見つめていた。
なんでそんな平然としていられるんだ。取り巻きの誰かがそう言おうとしたその時。
「……」
何事も無かったかのようにリリアが上体を起こしたのだ。そして眼鏡の奥に隠していた鋭い瞳を露わにしながら眉間に刺さっていた短剣を引き抜き、周囲から上がる小さい悲鳴を無視してその刃先についた自分の血をまじまじと見つめた後、立ち上がりながらミハエルに向かって物静かに言った。
「……ミハエル」
「ああ」
「眼鏡を割ったのは誰だ?」
ミハエルが無言で鎧の一団を指差す。そしてその一団に向けて放たれた『リリア』の視線は、それまでいじけたりはしゃいだりしていた『リリア』の物とはまるで雰囲気が異なっていた。
それは鋭く、射殺さんばかりにギラついた瞳。怒気と殺気だけを凝縮して押し固めたかのような、慈悲の欠片も無い漆黒の瞳。
『黒衣のリリア』の目であった。
「ほう……」
「ひっ」
その視線と薄く笑ったリリアの顔を前に、鎧の一団が動揺したかのようにその体をガチャガチャ揺らす。するとその一団の中に隠れていたそれまでの声の主が、動揺し揺れまくる鎧によって押し出されるように外へと弾き出され、その姿を衆目の前に晒した。
金粉と宝石が惜しげもなく散りばめられた豪奢な軍服に身を包んだ中肉中背の男。薄い唇。高い鼻。細い目。
ひと目で見て貴族と判る男であり、そして見るからに小狡そうな顔つきの男だった。
「ミハエル。やはり奴だ」
その貴族に対して怒りの目線をぶつけながらリリアが言った。ミハエルは「どうでもいい」と言いたげに肩を竦めた。
そんなリリアの目の前でその貴族はよろよろと立ち上がり、まっすぐリリアを見据えながら――実際はリリアの肩越しの背景を見つめるようにしながら――腰のレイピアを引きぬいて言った。
「貴様、あの時の悪魔か! あの時は不覚を取ったが、今度はそうは行かんぞ!」
「復讐戦のつもりか?」
「ああそうだ! ここは私の国だ! 私の物なのだ! ここを自由にしていいのは私だけなのだ!」
魔王軍が攻め込んだ時に一般市民がそれに便乗して反乱を起こした理由については何も考えていないのか。リリアは言おうとして止めた。長台詞を言うのが億劫だったのと、それを知っていればこんな所にわざわざ出てきたりはしないだろうと思ったからだった。
「そうとも。ここは私の庭なのだ。父上もその通りだと認めてくださった。誰をどうしようとも、私の勝手なのだ!」
「……」
ああ。もうウザい。
貴族の屑を見るリリアの眼の色が変わったのを、ミハエルは見逃さなかった。
「リリア、待て――」
だがアクションが遅かった。彼が叫んだ時には、既にリリアは鎧の一団に突っ込んでその貴族の頭を三本の爪で鷲掴みにして地面に叩きつけていた。
「が――ッ!」
屑が呻き声を上げる。その声に反応してそれまで外を向いていた勇者達が一斉にリリアに向き直る。
「ふん!」
その動きこそがリリアの狙いだった。その場で独楽のように一回転し、頭を鷲掴みにしたまま件の屑を振り回して反転している最中でまともに受け身の取れなくなっていた勇者達に次々とぶち当てていったのだ。
接触の瞬間に鎧が砕け、悲鳴と共に勇者が倒れ伏していく。同時に屑の全身から人が鳴らしてはいけない音――ハンバーグを作る際にひき肉をこね合わせるような音――が皮膚の内側から漏れ聞こえてきたが、そのどちらにもリリアは関心を払わなかった。
彼女が回転を終えて片膝をついた姿勢をとった時、後には自慢の鎧を粉々に砕かれて完全に戦意を失った勇者達と、全身ミンチにされながらも辛うじて息をしていた。
「ミハエル!」
立ち上がり、その屑を高々と持ち上げながら、『黒衣のリリア』が叫ぶ。億劫そうに頭を掻きながらミハエルが答える。
「ああ、なんだ?」
「頼む。眼鏡を買ってきてくれ」
「瓶底?」
「ああ。あれでないと元に戻れない」
「りょーかい」
「早くしてくれよ」
「わかった、わかったよ」
そう返してからミハエルがリリアに背を向け、固唾を飲んでこちらを見つめていた取り巻きの方へと歩き始める。そして人並をかき分けて雑貨屋に向かおうとした時、その取り巻きの一人が彼に近づいて尋ねた。
「な、なあ。あの人、どうしたんだ?」
「あの人? リリアの事?」
質問者が無言で頷くと、ミハエルは笑って答えた。
「あいつ、メガネかける前と後で性格変わるんだよ」
リリアは眼鏡を掛けるか否かでその性格が大きく変わる。
瓶底眼鏡を掛けている時は喜怒哀楽の強い『女の子らしいリリア』。
そして眼鏡を外した時は戦鬼たる『黒衣のリリア』。
なぜこうなるのか、付き合いの長いミハエルにはなんとなく理由が判っていた。
眼鏡を外すと攻撃的になるのは、彼女が超恥ずかしがり屋だからだ。もはや視線恐怖症と言ってもいいかもしれない。
自分の素顔を見られているという羞恥心がそのメーターを吹っ切って過剰なまでの防衛本能――自分を見つめる他人を全て排除しようとする破壊衝動に変わり、そしてそれがワイバーンの持つ潜在的な戦闘能力と相まって手の付けられない有様となるのだ。
ちなみに、今爪で挟んでいた屑を最初に蹴り飛ばしたのは、眼鏡を掛けていた時のリリアである。彼女は顔を隠しているという安心感から惜しげもなく感情を表現できるようになり、それに応じてまっとうな正義感も抱く事が出来るようになったのだ。
「ミハエル! 早くしろ! こっちにも限界がある!」
取り巻きに捕まっていたのを見つけたリリアがもどかしそうに叫ぶ。その顔はやや赤らみ、目元にはうっすらと涙が溜まっていた。
周囲からの好奇と親愛の視線がくすぐったくて死にそうになっているのは明らかだった。
「ああ、悪い! すぐ買ってくるから!」
そう言って駈け出したミハエルの背中を、リリアはどこかもどかしい気持ちで見つめていた。早く何とかしてくれないと本当に恥ずかしくて死んでしまいそうだったからだ。
泣き叫びたかった気持ちもあったが、それは彼女の『黒衣』としてのプライドが許さなかった。そんな事をすればますます恥を晒してしまう事になり、今度こそ理性を無くして大暴れしてしまう。
「だめだ……はやく、はやくしろ……!」
周りからの視線が嫌というほど突き刺さる。この場から逃げ出してしまいたかったが、それではミハエルと会えなくなってしまう。それは困る。
だがこのまま留まっていると、遅かれ早かれ爆発してしまいそうだ。全身から嫌な汗を垂れ流しながら、リリアは歯を食いしばって限界を必死でこらえていた。
「早く、早くしてくれ……!」
その時、リリアは自分の足をペシペシ叩かれるのを感じた。
いけない。と思うよりも早く、反射的にその目を足元に向けてしまった。
そこには一人のホルスタウロスの子供がいた。背はリリアの半分ほどしか無かったが、それでも胸は既にかなり大きく膨らんでいた。
そんな少女が、ほぼゼロ距離でじっとこちらを見つめてくる。
「あ……」
「お姉さん、お姉さん」
そう呼びかけてニコリと笑う。
「かっこよかったです!」
「――」
心のなかで何かが切れた。
もはや何も見えていなかった。リリアは叫び声を上げながら本能に任せて、その爪に挟んでいた物を勢い良くぶん投げた。
数分後。
雑貨屋にてお目当ての物を買う事が出来たミハエルは、店を出た所で思わぬ人物と遭遇した。
「あ、あなたは確か……」
「あら、覚えていてくれたのかしら? 光栄だわ」
彼の前に立っていたのは、自分達と共にこの町を陥落させたリリムであった。そしてミハエルはこんな所でのリリムとの遭遇よりも、そのリリムの浮かべていた表情に驚き――と言うよりも困惑していた。
なんか怒ってたのだ。込み上がる怒りを抑えて無理に笑みを取り繕おうとしていたが、それが返って怖さを倍増させていた。
「あの、どうかしたんですか?」
「そうねえ。言葉で伝えるのもいいけれど、直接見てもらった方が良いかしら」
「え?」
首をひねるミハエルに見ろと言うように、リリムがある一店を指差す。そしてそこに視線を移したミハエルは絶句した。
「あれは、あなたの伴侶が前に使ったのと同じ手よね?」
新たに作られた城が倒壊していたのだ。何か強力な物がぶつかって背中をへし折られたかのように、城全体が前かがみの姿勢になってお辞儀をしているようにも見えた。
そしてこれは件の偵察に失敗した時、彼らがこの町から逃げ出す際に使った手でもある。その時は一番近くにいた勇者を『砲弾』として使った。
「……」
ミハエルは顔を引き攣らせたまま何も言えなかった。リリムが淫蕩な、それでいてぞっとするほど昏い笑みを浮かべながらミハエルに言った。
「後で私の部屋に来なさい。彼女も一緒にね」
ミハエルはただ頷くしか無かった。
「団長、落ち着いて!」
「もう少しで旦那さんが眼鏡買ってきてくれるから、ね? だからそれまで我慢して!」
「離せッ! 離せえええええッ! もうダメだ! 私は逃げるぞ! その手をどけろおおおおおッ!」
一方、我慢の限界に来たリリアは、取り巻きに紛れていた団員達に羽交い絞めにされながら羞恥に狂っていた。
12/09/10 23:46更新 / 蒲焼