マンティスさんのドッキリ☆コスプレライフ
「……本当にやる気なのね?」
山奥にある洞窟の最深部、その洞窟の主であるアラクネが、目の前に立つ一人の魔物にそう静かに尋ねた。
「これは、あなたには荷が重いかもしれない。いえ、たとえ誰がやるにしても、それ相応の能力を要求される。見る者に本物と錯覚させる演技力。羞恥に耐える精神力。そして何より、相手を喜ばせようとする愛情」
「……」
「それら全てが備わっていなければ、完璧にそれをこなす事は出来ない……コスプレは、まさに命がけの大勝負なの」
そこを照らす光は奥で鎮座するアラクネの左右に一つずつ置かれた蝋燭だけであり、その弱々しい光はアラクネと相対している魔物の姿を照らしだすには力不足であった。
その目の前の影に向けて、念を押すようにアラクネが言った。
「それでも……それでも、本当にやる?」
魔物の影が小さく動く。その動きを肯定と取ったアラクネが、溜息混じりに言った。
「わかったわ。あなたの覚悟は見届けた。私からはもう何も言わないわ」
「……」
「頑張ってきなさい。それで旦那様を喜ばせてくるのよ」
それ――そのアラクネの作ったブツを抱えながら、魔物の影が音もなく洞窟から消えて行く。
「……ふう」
そして完全に影の気配の無くなった洞窟の奥で、自ら生み出した糸を両手で弄びながらアラクネが呟いた。
「まさか、あれに需要があるなんてねえ……もう少し作り置きしておこうかしら」
頭の中で次に作る服の図面を引きながら、コスチューム職人の肩書きを持つそのアラクネは両手の糸を慣れた手つきで編み合わせて行った。
木こりのミラーが生まれ育った村を追い出されてから今日で二年になる。
彼が村八分にされた理由は至極単純。彼が離れにある森の中で出会った一人の魔物娘――マンティスを愛してしまい、そして彼のいた村が反魔者領だったからだ。
その村の人間は誰も彼もが教団の思想にどっぷりと浸かっていた。魔物は人を喰い殺す邪悪な存在として教えこまれ、ミラーもそのように教育された。だが愛は――彼女に対する一目惚れは、ミラーの頭の中からそんな教義を軽く吹き飛ばしてしまう程に強烈で新鮮な物だった。
彼は村を捨てようと决心した。だが捨てる前にバレた。彼の服や肌に、魔物の放つ気配や魔力が染み付いていたからだ。村に帰る直前、一目惚れしたマンティスに性的に襲われたのがマズかった。
結局、ミラーはロクに準備もする事が出来ないまま、民兵に追いやられる形で森の中へと入っていった。逃避行の中で、ミラーは村の人間達に対する怒りを燃え上がらせていたが、彼女の棲家に戻った時、入口の前でそのマンティスがボロ泣きしていた顔――今まで見た事もないほどに弱々しく、愛おしい表情――を浮かべたまま立っていたのを見て、そんな悪感情は全て吹き飛んでしまっていた。
それ以来、ミラーとそのマンティス――カシスと名乗った――は森の中で一緒に暮らしている。誰にも邪魔されること無く、そして時々他の魔物娘達と交流を深めつつ、ミラーとカシスは深く互いを愛しあって生活していた。
ミラーはカシスの事を深く愛していた。
今こうして一日の仕事を切り上げて夕日を背に家路についている時も、そしてそれより前に木こりの仕事をこなしていた時も。もっと遡って朝起きたその瞬間から、彼の頭の中には常に妻の姿があった。
ミラーは彼女の全てを受け入れ、受け止めてあげようと心に誓っていた。その強さも弱さも、良い所も悪い所も全部、自分で包んであげよう。ミラーの決心はドワーフの特注品なみに頑丈だった。
だがそんな彼でも、初めて見る妻の取る行動に対して驚く事も多々あった。
そして今回のこれも、その内の一つであった。
……と言うか、家のドアを開けたら目の前で妻が赤ちゃんのコスプレをしていたと言う状況を前にして、驚くなと言う方がおかしかった。
「……お、おい……」
カチューシャ型のヘッドドレスを身につけ、白のベビードレス――裾がめちゃくちゃ短いワンピースみたいな物――を羽織って口におしゃぶりを咥えて。
そんな格好で背を丸めて床の上に寝転がるマンティスの姿は、どうみても赤ちゃんだった。背丈以外は。
身長百七十八センチの愛する妻の変わり果てた姿を見て、ミラーは顔を引き攣らせた。
「……ど、どうしたんだ? いったい何がしたいんだ?」
「……」
「いや、黙っててもわからないだろ。どうしたんだよ?」
「……ばぶぅ……」
「――ッ!」
「ばぶぅ」
そして心まで赤ちゃんになり切っていた。こちらを見つめてばぶばぶ行って来るカシスを前に、ミラーは頭を抱えた。
やばいすげえかわいい。
「……どうしたんだよ。ストレスでもたまってたのか?」
とりあえず疼き始める本能を理性で押しこめながら、持っていた斧を玄関の脇に置いて片膝立ちでその場に腰を下ろす。
「……」
カシスが無言のまま四つん這いでこちらに近づいてくる。それなりに実った二つの乳房が、行進に合わせてたゆんたゆん揺れていく。
こんな赤ん坊はいない。
「ばぶ」
「お、おい」
「だぁー、だぁー」
父親に甘えるように、カシスがその頭をミラーの胸にこすりつける。その表情はとても穏やかで、安らいでいた。
「ばぶぅ……」
「……甘えたいのか?」
「ばぶぅ」
「……仕方ないな」
ミラーが姿勢を崩して胡座をかき、その膝を軽く叩く。
「おいで」
「……ばぶ!」
それを見たカシスが目を輝かせて、そのミラーの懐へと勢い良く飛び込んでいく。それはまさに下半身のバネのみを使い助走も無しに獲物を一足飛びにて狩り殺す、一流のハンターが会得した無駄のない迅雷の如き跳躍だった。
ミラーが押し倒され、後頭部を強打する。
赤ん坊はそんな跳躍はしない。
そのままカシスがミラーの胸の中で「ばぶー、ばぶー」と子猫のように甘え初めてから二十分後。
「……あ」
ミラーの腹の虫が二人を現実に引き戻した。カシスがぽかんとした表情でミラーを見つめ、ミラーは恥ずかしげに頬を掻く。
「ああ……その、腹減ったな」
「ばぶ?」
直後、カシスの腹の虫も声高に主張を始める。
「ぶぅ……」
カシスの顔も同じくらい赤くなる。
やばい。可愛すぎる。
「ははっ、そうか。お前も腹減ったのか? そうかそうか」
ミラーが顔を綻ばせてカシスの頬を撫でる。そしてカシスを脇にどけて立ち上がり、家の奥にある台所に向かって何か無いか確認する。
「待ってろよ、今何か料理を……やべ」
そして台所に立ち、そこまで言いかけてミラーが硬直する。その声を聞いたカシスが四つん這いのまま近づき、横について不思議そうにミラーを見上げる。
「ばぶ?」
「ん? ああいや、実はな……」
そのカシスの気配に気付いたミラーが彼女の方を向き、そして申し訳なさそうに顔を曇らせる。
「悪い。肉切らしてたんだ。これから何か獲りに行かないと食う物が無い」
「う? うー……」
「何も無いんだ。これから行かないとな」
「ばぶう……」
それを聞いたカシスも沈んだ表情で俯く。だがミラーがそう言ってから再び玄関口に向かい猟銃を手にした所で、カシスが四つん這いの姿のまま電光石火の動きを見せた。
手指の腹だけで床を叩き、焦げ跡が残るほどに足指と地面を擦り付ける。そしてミラーの目の前に来るなり急停止し、彼の顔を見上げて嬉しそうに叫んだ。
「ばぶ!」
それはもう赤ちゃんの動きじゃなくて猟犬の動きだ。
だがミラーがそう言う間もなく、カシスが彼の手に握られていた猟銃を取り上げる。そしてそれについてのミラーの不満の声を聞く事もせずに、カシスは猟銃を明後日の方向に放り投げて家の外へと飛び出していった。
赤ちゃんの格好のままで。
「……あいつ、大胆だな」
そうぼやいたミラーの元にカシスが現れたのは、それから二分もしない頃であった。そして背後に首を切り落とされた巨熊の死体を置きながら四つん這いで帰ってきたその姿を見て、ミラーは絶句した。
「お前……」
「ばぶ?」
そう言って首をひねるカシスの右半身が――顔も肌もベビードレスも――血で真っ赤に染まっていたのだ。両手の二の腕に備わっている鎌も真っ赤で、その血は両腕にまで届いていた。お陰で左腕も真っ赤だった。
赤ちゃんがしていい化粧じゃない。
「ばあぶ!」
だがカシスはそんな自分の姿を全く気にしていなかった。それよりも自分が食料を調達してきた事を褒めて欲しいと言わんばかりに、四つん這いのまま上体を逸らして目を細めた。
ミラーは一瞬呆気にとられたが、すぐに我を取り戻してカシスの傍まで近寄って片膝をつき、返り血を気にする事無くその頭を撫でた。
「うんうん。偉いぞ、よくやった」
「ばぶ!」
「でも少し汚れちまったな。飯の前に少し体を洗おうか」
「だあ! だあ!」
体を洗うと言う言葉に反応し、カシスがミラーの胸元に顔を押し当てる。そしてそのまま瞳を潤ませて、じっとミラーを見つめる。
「ばぶ……」
「……俺と一緒に水浴びしたいって言うのか?」
「ばぶ!」
カシスの顔が喜びに輝く。やれやれと溜め息を吐きながら頭を掻き、カシスから離れるようにして立ち上がる。
「ちょっと待ってろ。今タオルとか持ってくるから」
体が離れた事で一気に悲しげな表情になったカシスを落ち着けようと、ミラーがタオル――着の身着のままやってきた彼らに対してこの森に住んでいたアラクネが作り渡した特注品――を取りに行って来る旨を伝えながらクローゼットのある寝室へと消えて行く。
そしてそれから十秒もしない内にミラーが大きいタオルと小さいタオルをそれぞれ二枚ずつ持って現れ、そのまま嬉しそうに顔を僅かに緩めたカシスと共に、体を洗う際に使っている湖へと向かっていった。
その湖は地下水脈と繋がっており、深さも広さも申し分なかった。おまけにそこにはウンディーネが住んでいるため、水は常に綺麗で澄み切っていた。故にその湖の水は料理や洗濯、飲み水に使ったりそれで体を洗ったりと、もはやこの森の住人たちに取ってその湖は無くてはならない物なのだ。
だからミラー達がそこにたどり着いた時、ほとりに先客のサラマンダーがいても特におかしいわけではなかった。
「よう、ミラーじゃねえか」
そう言って手を上げた顔馴染みのサラマンダー――リアと言う名前だった――は、現在湖の水を使ったドラム缶風呂に入っていた。これは十分おかしかった。
ミラーが疲れきった表情でリアに言った。
「それ自分で持って来たの?」
「ああ。即席の露天風呂だぜ」
「やりすぎ」
「んだと? 誰がどうやって風呂に入ろうがそいつの勝手じゃねえか。お前に指図される云われは――」
そこまで言いかけて、ミラーの傍らにいた『もっとおかしい物』を見つけてリアが目を見開く。そしてすぐにミラーの方を向き、リアが彼と同じくらい疲れきった顔で言った。
「なにしてんだよお前」
「これには事情があるんだよ」
「おや、ミラーさん。それにカシスさ」
結局ミラーとカシスが体を洗い流すことが出来たのは、挨拶のためにこちらに近づき、そしてカシスを見て絶叫し失神した主のウンディーネを正気に戻した十分後だった。
そうして体を洗い清めた後、ミラーとカシスは獲ってきた巨熊の肉をサイコロ状に切り分け、丸焼きにして食べる事にした。
ただ、それはあまりにも肉つきが良く二人ではとても食べきれない量だったので、湖のほとりで森に住む他の魔物娘達を呼んで、みんなで食べる事にした。
そうして魔物娘が一堂に会する様は、まさに壮観だった。
「……すごいな。良くこれだけ集まったもんだ」
ジャイアントアント。ハニービー。マンドラゴラ。ラージマウス。おおなめくじ。スライム。ドリアード。武者修行中のリザードマンとサラマンダー。アラクネ。ケサランパサラン。フェアリー。リャナンシー。ゴースト。ワーキャット。そしてウンディーネと愛するマンティス。ドリアードやマンドラゴラ、それにスライムやゴーストは肉は食べなかったが、その楽しげな雰囲気につられてここに来ていた。
「みんな暇人だなあ」
「せっかくのイベントですもの。参加しないと損だわ」
苦笑交じりに言ったミラーに、ドリアードの一人がその横について嬉しそうに返した。そしてそのドリアードは遠くで熊肉を焼いているリアの姿を見て、いたずらっぽく笑いながらミラーに言った。
「火の用心はしっかりとね?」
「大丈夫だよ。ここにはウンディーネがいるから。な?」
そう言ってミラーが視線を向けた先で、先のウンディーネは自分の体を自分で抱きしめて全身を震わせていた。
「赤ちゃん? 赤ちゃんプレイ? そういう仕様もあるのね? 赤ちゃんだなんて、なんて下品なんでしょうでもでもそれは同時にとてもこう何と言うか背徳的な響きを持ったとても甘美なものであって常人には受け入れがたい危険で情熱的なキャアアアアアアアアアアア!」
「……」
「……本当に大丈夫?」
「……ううん」
文筆担当のリャナンシーが傍でメモを取っている事にも気づかずに一人トリップするウンディーネを見て、ドリアードとミラーは同時に溜め息を吐いた。
焼いた肉を全員に切り分け、命の恵みに感謝して、一斉にそれを口に運んでいく。そして暫く食べる事に集中した後、衆目の視線は赤ちゃんのコスプレをしたカシスへと向けられていった。
彼女達の反応は十人十色だった。
「ねえなに? ミラーってばこう言うのが好きだったの?」
「いやー、なかなかやるものですねえ。ミラーさんて意外とサドっ気があったりして?」
「こ、これは……これは次の作品の参考になりますね……うおおお創作意欲が湧いてきたああああ」
「すごく……変態です……」
「わははははー! 可愛いぞー! わははははー!」
「な、なんという破廉恥な! 伴侶にそのような姿をさせて、お前は何とも思っていないのか!?」
「ハアハアかしすちゃんかわいいハアハアねえちょっとおねえさんとむこうでいいことしないハアハア」
「ドリアードお前もか」
普通に可愛いと言ってきたり、遠まわしに否定してきたり、露骨に嫌な顔を浮かべたり。中にはミラーに対して理不尽な怒りをぶつけてくる者もいた。だがその場の雰囲気はとても明るく、和やかな物だった。そしてその中で彼を襲う者は一人としていなかった。
「ばあぶ。ばあぶ」
ミラーには既に妻がいたからだ。その妻は今は夫の膝枕の上で見るからに目を細めて気持ちよさそうにしていたが、時折その目を狩人の物へと変えて、周囲に鋭く射殺すような視線を放っていた。
彼は私だけのモノ。その視線が、そう言外に告げていた。
「ん? どうした?」
だが愛する夫に対しては。
「ばぶ?」
顔を綻ばせ、満面の笑みを惜しげも無くプレゼントしていた。
おしゃぶりを咥えたままで。
「なんか、その格好も見てると可愛くなってくるな」
「ばぶ?」
「うんうん。可愛い可愛い。とっても可愛いよ」
「ばぶ!」
「やっぱり変態だー!」
ミラーが笑い、カシスが幸せそうに微笑み返す。その光景を見てケサランパサランが囃し立て、面白がった他の魔物娘達が一斉に茶々を入れる。
「カシスちゃーん、ほれ、くすぐりー♪」
「うきゃ、きゃはっ、きゃはははっ」
「ああもう可愛い! なにこの子かわいい!」
「……すっかりなり切ってるわね」
「いないいない……ばー♪」
「だぁー! だぁー!」
「……くっ」
「リア。やってもいいんだぞ」
「だ、誰が! 別に可愛いとか思ってねーし! そんな事少しも思ってねーし!」
「素直じゃないねえあんたも」
「ばぶ、ばぶ」
その様子を遠巻きに見ていたドリアードとウンディーネが微笑ましげに言った。
「あの二人、幸せそうでいいわね」
「ええ。全くですね」
「ミラーも、こっちの生活にすっかり馴染んできたようだし」
「ええ。それに今まで無表情だったカシスさんもあんなに可愛くなって……」
「愛は人を、魔物を変える物なのよ」
「ええ。カシスさんもあんなに可愛くなって」
「……さっきからそればっかりねあなた」
「赤ちゃんカシスさんハアハア」
「まあ否定はしないけどね。カシスちゃんハアハア」
変態二人が思いを共有しあう中で、この日の夜は静かに更けていった。
「それで? いったいどうしてこんな事を?」
「……ばぶ」
晩餐会が終わったその日の夜。一つのベッドに密着するようにして寝付きながら、ミラーはカシスにそう問いかけた。既に赤ん坊の真似事は止めていた。
「よりにもよって赤ちゃんとか、なに考えてんだお前は」
「……ばぶ……」
「いや、もういいから」
「ばぶ……」
ミラーの言葉にカシスが目を潤ませる。そしてその目のままじっとこちらを見つめながらカシスが言った。
「……嫌だった?」
「え?」
「この格好は、嫌だった?」
「いや、嫌いって訳じゃないけど」
ミラーがカシスの頬を撫でる。
「ちょっと、驚いたかな」
「……それだけ?」
「あと、可愛いって思った」
「……ッ!」
ミラーからの褒め言葉に、カシスが顔を真っ赤にして俯く。そして彼の胸元に両手を押し当てながら、消え入りそうな声で言った。
「……本当に、可愛かった?」
「うん」
「変じゃ、無かった?」
「全然。可愛かったよ」
「そう……良かった」
目に涙を溜め、カシスがミラーを見つめる。
「私の事、もっと好きって、思って欲しかった……」
「だから、あんな事を?」
「うん……もっと、私を見て、ほしかった……」
「そうか」
その姿があんまりにもかわいらしくて。
気づけばミラーは、彼女の体を力いっぱい抱きしめていた。
「可愛かったよ。すごく」
「あ……」
「大好きだ。愛してる」
カシスの目から涙が零れていく。
「うん……!」
涙を流しながら、しかし幸せに満ちた顔で、カシスも愛する夫の体を抱きしめ返した。
二人は今、とても幸せだった。
翌日。目を覚ましてベッドから上体を起こしたミラーはまたしても絶句する羽目になった。
「おま……」
「……おはようございます……」
彼より先に起きていたカシスが、彼の目の前でメイド姿になって立っていたからだ。
「……ご主人様……」
その顔は恥ずかしさで赤くなっていたが、同時にどこか自信のような物も見え隠れしていた。
「もっと、私を見て欲しいから……」
「……好きって思って欲しいから、か?」
昨日の自分の台詞を覚えていてくれたことに、カシスが目を見開いて喜びの感情を爆発させる。そしてベッドの縁に両手を置き、今までよりも若干声の調子を強くして言った。
「うん……うん! ……だから、今日は、私が朝ごはん作るから……そのまま……」
「カシス」
だがミラーはそんなカシスの言葉を遮って、目を細めて彼女を見つめたまま静かに言った。
怒っている?
いつもと違う彼の様子に、カシスが思わず息を呑む。そんなカシスを視界に収めながらミラーが言葉を続けた。
「カシス」
「う、うん……」
「お前さ」
そして一呼吸置いて、ミラーが思いの丈をぶちまけた。
「普通レベル的にそっち先に着るだろ」
山奥にある洞窟の最深部、その洞窟の主であるアラクネが、目の前に立つ一人の魔物にそう静かに尋ねた。
「これは、あなたには荷が重いかもしれない。いえ、たとえ誰がやるにしても、それ相応の能力を要求される。見る者に本物と錯覚させる演技力。羞恥に耐える精神力。そして何より、相手を喜ばせようとする愛情」
「……」
「それら全てが備わっていなければ、完璧にそれをこなす事は出来ない……コスプレは、まさに命がけの大勝負なの」
そこを照らす光は奥で鎮座するアラクネの左右に一つずつ置かれた蝋燭だけであり、その弱々しい光はアラクネと相対している魔物の姿を照らしだすには力不足であった。
その目の前の影に向けて、念を押すようにアラクネが言った。
「それでも……それでも、本当にやる?」
魔物の影が小さく動く。その動きを肯定と取ったアラクネが、溜息混じりに言った。
「わかったわ。あなたの覚悟は見届けた。私からはもう何も言わないわ」
「……」
「頑張ってきなさい。それで旦那様を喜ばせてくるのよ」
それ――そのアラクネの作ったブツを抱えながら、魔物の影が音もなく洞窟から消えて行く。
「……ふう」
そして完全に影の気配の無くなった洞窟の奥で、自ら生み出した糸を両手で弄びながらアラクネが呟いた。
「まさか、あれに需要があるなんてねえ……もう少し作り置きしておこうかしら」
頭の中で次に作る服の図面を引きながら、コスチューム職人の肩書きを持つそのアラクネは両手の糸を慣れた手つきで編み合わせて行った。
木こりのミラーが生まれ育った村を追い出されてから今日で二年になる。
彼が村八分にされた理由は至極単純。彼が離れにある森の中で出会った一人の魔物娘――マンティスを愛してしまい、そして彼のいた村が反魔者領だったからだ。
その村の人間は誰も彼もが教団の思想にどっぷりと浸かっていた。魔物は人を喰い殺す邪悪な存在として教えこまれ、ミラーもそのように教育された。だが愛は――彼女に対する一目惚れは、ミラーの頭の中からそんな教義を軽く吹き飛ばしてしまう程に強烈で新鮮な物だった。
彼は村を捨てようと决心した。だが捨てる前にバレた。彼の服や肌に、魔物の放つ気配や魔力が染み付いていたからだ。村に帰る直前、一目惚れしたマンティスに性的に襲われたのがマズかった。
結局、ミラーはロクに準備もする事が出来ないまま、民兵に追いやられる形で森の中へと入っていった。逃避行の中で、ミラーは村の人間達に対する怒りを燃え上がらせていたが、彼女の棲家に戻った時、入口の前でそのマンティスがボロ泣きしていた顔――今まで見た事もないほどに弱々しく、愛おしい表情――を浮かべたまま立っていたのを見て、そんな悪感情は全て吹き飛んでしまっていた。
それ以来、ミラーとそのマンティス――カシスと名乗った――は森の中で一緒に暮らしている。誰にも邪魔されること無く、そして時々他の魔物娘達と交流を深めつつ、ミラーとカシスは深く互いを愛しあって生活していた。
ミラーはカシスの事を深く愛していた。
今こうして一日の仕事を切り上げて夕日を背に家路についている時も、そしてそれより前に木こりの仕事をこなしていた時も。もっと遡って朝起きたその瞬間から、彼の頭の中には常に妻の姿があった。
ミラーは彼女の全てを受け入れ、受け止めてあげようと心に誓っていた。その強さも弱さも、良い所も悪い所も全部、自分で包んであげよう。ミラーの決心はドワーフの特注品なみに頑丈だった。
だがそんな彼でも、初めて見る妻の取る行動に対して驚く事も多々あった。
そして今回のこれも、その内の一つであった。
……と言うか、家のドアを開けたら目の前で妻が赤ちゃんのコスプレをしていたと言う状況を前にして、驚くなと言う方がおかしかった。
「……お、おい……」
カチューシャ型のヘッドドレスを身につけ、白のベビードレス――裾がめちゃくちゃ短いワンピースみたいな物――を羽織って口におしゃぶりを咥えて。
そんな格好で背を丸めて床の上に寝転がるマンティスの姿は、どうみても赤ちゃんだった。背丈以外は。
身長百七十八センチの愛する妻の変わり果てた姿を見て、ミラーは顔を引き攣らせた。
「……ど、どうしたんだ? いったい何がしたいんだ?」
「……」
「いや、黙っててもわからないだろ。どうしたんだよ?」
「……ばぶぅ……」
「――ッ!」
「ばぶぅ」
そして心まで赤ちゃんになり切っていた。こちらを見つめてばぶばぶ行って来るカシスを前に、ミラーは頭を抱えた。
やばいすげえかわいい。
「……どうしたんだよ。ストレスでもたまってたのか?」
とりあえず疼き始める本能を理性で押しこめながら、持っていた斧を玄関の脇に置いて片膝立ちでその場に腰を下ろす。
「……」
カシスが無言のまま四つん這いでこちらに近づいてくる。それなりに実った二つの乳房が、行進に合わせてたゆんたゆん揺れていく。
こんな赤ん坊はいない。
「ばぶ」
「お、おい」
「だぁー、だぁー」
父親に甘えるように、カシスがその頭をミラーの胸にこすりつける。その表情はとても穏やかで、安らいでいた。
「ばぶぅ……」
「……甘えたいのか?」
「ばぶぅ」
「……仕方ないな」
ミラーが姿勢を崩して胡座をかき、その膝を軽く叩く。
「おいで」
「……ばぶ!」
それを見たカシスが目を輝かせて、そのミラーの懐へと勢い良く飛び込んでいく。それはまさに下半身のバネのみを使い助走も無しに獲物を一足飛びにて狩り殺す、一流のハンターが会得した無駄のない迅雷の如き跳躍だった。
ミラーが押し倒され、後頭部を強打する。
赤ん坊はそんな跳躍はしない。
そのままカシスがミラーの胸の中で「ばぶー、ばぶー」と子猫のように甘え初めてから二十分後。
「……あ」
ミラーの腹の虫が二人を現実に引き戻した。カシスがぽかんとした表情でミラーを見つめ、ミラーは恥ずかしげに頬を掻く。
「ああ……その、腹減ったな」
「ばぶ?」
直後、カシスの腹の虫も声高に主張を始める。
「ぶぅ……」
カシスの顔も同じくらい赤くなる。
やばい。可愛すぎる。
「ははっ、そうか。お前も腹減ったのか? そうかそうか」
ミラーが顔を綻ばせてカシスの頬を撫でる。そしてカシスを脇にどけて立ち上がり、家の奥にある台所に向かって何か無いか確認する。
「待ってろよ、今何か料理を……やべ」
そして台所に立ち、そこまで言いかけてミラーが硬直する。その声を聞いたカシスが四つん這いのまま近づき、横について不思議そうにミラーを見上げる。
「ばぶ?」
「ん? ああいや、実はな……」
そのカシスの気配に気付いたミラーが彼女の方を向き、そして申し訳なさそうに顔を曇らせる。
「悪い。肉切らしてたんだ。これから何か獲りに行かないと食う物が無い」
「う? うー……」
「何も無いんだ。これから行かないとな」
「ばぶう……」
それを聞いたカシスも沈んだ表情で俯く。だがミラーがそう言ってから再び玄関口に向かい猟銃を手にした所で、カシスが四つん這いの姿のまま電光石火の動きを見せた。
手指の腹だけで床を叩き、焦げ跡が残るほどに足指と地面を擦り付ける。そしてミラーの目の前に来るなり急停止し、彼の顔を見上げて嬉しそうに叫んだ。
「ばぶ!」
それはもう赤ちゃんの動きじゃなくて猟犬の動きだ。
だがミラーがそう言う間もなく、カシスが彼の手に握られていた猟銃を取り上げる。そしてそれについてのミラーの不満の声を聞く事もせずに、カシスは猟銃を明後日の方向に放り投げて家の外へと飛び出していった。
赤ちゃんの格好のままで。
「……あいつ、大胆だな」
そうぼやいたミラーの元にカシスが現れたのは、それから二分もしない頃であった。そして背後に首を切り落とされた巨熊の死体を置きながら四つん這いで帰ってきたその姿を見て、ミラーは絶句した。
「お前……」
「ばぶ?」
そう言って首をひねるカシスの右半身が――顔も肌もベビードレスも――血で真っ赤に染まっていたのだ。両手の二の腕に備わっている鎌も真っ赤で、その血は両腕にまで届いていた。お陰で左腕も真っ赤だった。
赤ちゃんがしていい化粧じゃない。
「ばあぶ!」
だがカシスはそんな自分の姿を全く気にしていなかった。それよりも自分が食料を調達してきた事を褒めて欲しいと言わんばかりに、四つん這いのまま上体を逸らして目を細めた。
ミラーは一瞬呆気にとられたが、すぐに我を取り戻してカシスの傍まで近寄って片膝をつき、返り血を気にする事無くその頭を撫でた。
「うんうん。偉いぞ、よくやった」
「ばぶ!」
「でも少し汚れちまったな。飯の前に少し体を洗おうか」
「だあ! だあ!」
体を洗うと言う言葉に反応し、カシスがミラーの胸元に顔を押し当てる。そしてそのまま瞳を潤ませて、じっとミラーを見つめる。
「ばぶ……」
「……俺と一緒に水浴びしたいって言うのか?」
「ばぶ!」
カシスの顔が喜びに輝く。やれやれと溜め息を吐きながら頭を掻き、カシスから離れるようにして立ち上がる。
「ちょっと待ってろ。今タオルとか持ってくるから」
体が離れた事で一気に悲しげな表情になったカシスを落ち着けようと、ミラーがタオル――着の身着のままやってきた彼らに対してこの森に住んでいたアラクネが作り渡した特注品――を取りに行って来る旨を伝えながらクローゼットのある寝室へと消えて行く。
そしてそれから十秒もしない内にミラーが大きいタオルと小さいタオルをそれぞれ二枚ずつ持って現れ、そのまま嬉しそうに顔を僅かに緩めたカシスと共に、体を洗う際に使っている湖へと向かっていった。
その湖は地下水脈と繋がっており、深さも広さも申し分なかった。おまけにそこにはウンディーネが住んでいるため、水は常に綺麗で澄み切っていた。故にその湖の水は料理や洗濯、飲み水に使ったりそれで体を洗ったりと、もはやこの森の住人たちに取ってその湖は無くてはならない物なのだ。
だからミラー達がそこにたどり着いた時、ほとりに先客のサラマンダーがいても特におかしいわけではなかった。
「よう、ミラーじゃねえか」
そう言って手を上げた顔馴染みのサラマンダー――リアと言う名前だった――は、現在湖の水を使ったドラム缶風呂に入っていた。これは十分おかしかった。
ミラーが疲れきった表情でリアに言った。
「それ自分で持って来たの?」
「ああ。即席の露天風呂だぜ」
「やりすぎ」
「んだと? 誰がどうやって風呂に入ろうがそいつの勝手じゃねえか。お前に指図される云われは――」
そこまで言いかけて、ミラーの傍らにいた『もっとおかしい物』を見つけてリアが目を見開く。そしてすぐにミラーの方を向き、リアが彼と同じくらい疲れきった顔で言った。
「なにしてんだよお前」
「これには事情があるんだよ」
「おや、ミラーさん。それにカシスさ」
結局ミラーとカシスが体を洗い流すことが出来たのは、挨拶のためにこちらに近づき、そしてカシスを見て絶叫し失神した主のウンディーネを正気に戻した十分後だった。
そうして体を洗い清めた後、ミラーとカシスは獲ってきた巨熊の肉をサイコロ状に切り分け、丸焼きにして食べる事にした。
ただ、それはあまりにも肉つきが良く二人ではとても食べきれない量だったので、湖のほとりで森に住む他の魔物娘達を呼んで、みんなで食べる事にした。
そうして魔物娘が一堂に会する様は、まさに壮観だった。
「……すごいな。良くこれだけ集まったもんだ」
ジャイアントアント。ハニービー。マンドラゴラ。ラージマウス。おおなめくじ。スライム。ドリアード。武者修行中のリザードマンとサラマンダー。アラクネ。ケサランパサラン。フェアリー。リャナンシー。ゴースト。ワーキャット。そしてウンディーネと愛するマンティス。ドリアードやマンドラゴラ、それにスライムやゴーストは肉は食べなかったが、その楽しげな雰囲気につられてここに来ていた。
「みんな暇人だなあ」
「せっかくのイベントですもの。参加しないと損だわ」
苦笑交じりに言ったミラーに、ドリアードの一人がその横について嬉しそうに返した。そしてそのドリアードは遠くで熊肉を焼いているリアの姿を見て、いたずらっぽく笑いながらミラーに言った。
「火の用心はしっかりとね?」
「大丈夫だよ。ここにはウンディーネがいるから。な?」
そう言ってミラーが視線を向けた先で、先のウンディーネは自分の体を自分で抱きしめて全身を震わせていた。
「赤ちゃん? 赤ちゃんプレイ? そういう仕様もあるのね? 赤ちゃんだなんて、なんて下品なんでしょうでもでもそれは同時にとてもこう何と言うか背徳的な響きを持ったとても甘美なものであって常人には受け入れがたい危険で情熱的なキャアアアアアアアアアアア!」
「……」
「……本当に大丈夫?」
「……ううん」
文筆担当のリャナンシーが傍でメモを取っている事にも気づかずに一人トリップするウンディーネを見て、ドリアードとミラーは同時に溜め息を吐いた。
焼いた肉を全員に切り分け、命の恵みに感謝して、一斉にそれを口に運んでいく。そして暫く食べる事に集中した後、衆目の視線は赤ちゃんのコスプレをしたカシスへと向けられていった。
彼女達の反応は十人十色だった。
「ねえなに? ミラーってばこう言うのが好きだったの?」
「いやー、なかなかやるものですねえ。ミラーさんて意外とサドっ気があったりして?」
「こ、これは……これは次の作品の参考になりますね……うおおお創作意欲が湧いてきたああああ」
「すごく……変態です……」
「わははははー! 可愛いぞー! わははははー!」
「な、なんという破廉恥な! 伴侶にそのような姿をさせて、お前は何とも思っていないのか!?」
「ハアハアかしすちゃんかわいいハアハアねえちょっとおねえさんとむこうでいいことしないハアハア」
「ドリアードお前もか」
普通に可愛いと言ってきたり、遠まわしに否定してきたり、露骨に嫌な顔を浮かべたり。中にはミラーに対して理不尽な怒りをぶつけてくる者もいた。だがその場の雰囲気はとても明るく、和やかな物だった。そしてその中で彼を襲う者は一人としていなかった。
「ばあぶ。ばあぶ」
ミラーには既に妻がいたからだ。その妻は今は夫の膝枕の上で見るからに目を細めて気持ちよさそうにしていたが、時折その目を狩人の物へと変えて、周囲に鋭く射殺すような視線を放っていた。
彼は私だけのモノ。その視線が、そう言外に告げていた。
「ん? どうした?」
だが愛する夫に対しては。
「ばぶ?」
顔を綻ばせ、満面の笑みを惜しげも無くプレゼントしていた。
おしゃぶりを咥えたままで。
「なんか、その格好も見てると可愛くなってくるな」
「ばぶ?」
「うんうん。可愛い可愛い。とっても可愛いよ」
「ばぶ!」
「やっぱり変態だー!」
ミラーが笑い、カシスが幸せそうに微笑み返す。その光景を見てケサランパサランが囃し立て、面白がった他の魔物娘達が一斉に茶々を入れる。
「カシスちゃーん、ほれ、くすぐりー♪」
「うきゃ、きゃはっ、きゃはははっ」
「ああもう可愛い! なにこの子かわいい!」
「……すっかりなり切ってるわね」
「いないいない……ばー♪」
「だぁー! だぁー!」
「……くっ」
「リア。やってもいいんだぞ」
「だ、誰が! 別に可愛いとか思ってねーし! そんな事少しも思ってねーし!」
「素直じゃないねえあんたも」
「ばぶ、ばぶ」
その様子を遠巻きに見ていたドリアードとウンディーネが微笑ましげに言った。
「あの二人、幸せそうでいいわね」
「ええ。全くですね」
「ミラーも、こっちの生活にすっかり馴染んできたようだし」
「ええ。それに今まで無表情だったカシスさんもあんなに可愛くなって……」
「愛は人を、魔物を変える物なのよ」
「ええ。カシスさんもあんなに可愛くなって」
「……さっきからそればっかりねあなた」
「赤ちゃんカシスさんハアハア」
「まあ否定はしないけどね。カシスちゃんハアハア」
変態二人が思いを共有しあう中で、この日の夜は静かに更けていった。
「それで? いったいどうしてこんな事を?」
「……ばぶ」
晩餐会が終わったその日の夜。一つのベッドに密着するようにして寝付きながら、ミラーはカシスにそう問いかけた。既に赤ん坊の真似事は止めていた。
「よりにもよって赤ちゃんとか、なに考えてんだお前は」
「……ばぶ……」
「いや、もういいから」
「ばぶ……」
ミラーの言葉にカシスが目を潤ませる。そしてその目のままじっとこちらを見つめながらカシスが言った。
「……嫌だった?」
「え?」
「この格好は、嫌だった?」
「いや、嫌いって訳じゃないけど」
ミラーがカシスの頬を撫でる。
「ちょっと、驚いたかな」
「……それだけ?」
「あと、可愛いって思った」
「……ッ!」
ミラーからの褒め言葉に、カシスが顔を真っ赤にして俯く。そして彼の胸元に両手を押し当てながら、消え入りそうな声で言った。
「……本当に、可愛かった?」
「うん」
「変じゃ、無かった?」
「全然。可愛かったよ」
「そう……良かった」
目に涙を溜め、カシスがミラーを見つめる。
「私の事、もっと好きって、思って欲しかった……」
「だから、あんな事を?」
「うん……もっと、私を見て、ほしかった……」
「そうか」
その姿があんまりにもかわいらしくて。
気づけばミラーは、彼女の体を力いっぱい抱きしめていた。
「可愛かったよ。すごく」
「あ……」
「大好きだ。愛してる」
カシスの目から涙が零れていく。
「うん……!」
涙を流しながら、しかし幸せに満ちた顔で、カシスも愛する夫の体を抱きしめ返した。
二人は今、とても幸せだった。
翌日。目を覚ましてベッドから上体を起こしたミラーはまたしても絶句する羽目になった。
「おま……」
「……おはようございます……」
彼より先に起きていたカシスが、彼の目の前でメイド姿になって立っていたからだ。
「……ご主人様……」
その顔は恥ずかしさで赤くなっていたが、同時にどこか自信のような物も見え隠れしていた。
「もっと、私を見て欲しいから……」
「……好きって思って欲しいから、か?」
昨日の自分の台詞を覚えていてくれたことに、カシスが目を見開いて喜びの感情を爆発させる。そしてベッドの縁に両手を置き、今までよりも若干声の調子を強くして言った。
「うん……うん! ……だから、今日は、私が朝ごはん作るから……そのまま……」
「カシス」
だがミラーはそんなカシスの言葉を遮って、目を細めて彼女を見つめたまま静かに言った。
怒っている?
いつもと違う彼の様子に、カシスが思わず息を呑む。そんなカシスを視界に収めながらミラーが言葉を続けた。
「カシス」
「う、うん……」
「お前さ」
そして一呼吸置いて、ミラーが思いの丈をぶちまけた。
「普通レベル的にそっち先に着るだろ」
12/08/29 13:58更新 / 蒲焼