酒と魔物と男と女
メデューサの場合
「カルーアミルクください」
深夜の町の片隅にぽつんと存在する、古びた蓄音機からジャズ音楽が静かに流れる小さなバー。そのカウンター席で自分の横に座っていた男のその言葉を聞いて、メデューサのティケーは露骨に顔をしかめた。だが男は彼女と彼女の頭から生えている蛇達の視線――一方は嫌そうに、もう一方は興味津々な視線だった――に気づきながら、それでも平然とサキュバスのバーテンダーが差し出したそのカクテルを受け取った。
「あんたって、本ッ当にお子様な舌ね」
そんななおも態度を改めない男を横目で睨みつけながら、ティケーが吐き捨てるように言った。男はそれに苦笑しつつグラスを傾け、その薄茶色の酒を喉に流し込んでいく。
「いいじゃん別に。俺が飲みたいんだからさ」
舌を通して伝わる、甘く口当たりの良い優しい感触に思わず笑みをこぼしながら、男がおもむろにグラスを置く。それを聞いたティケーは鼻を鳴らし、自分が予め頼んでいた三杯目のアースクエイクに口を付けた。そんな最低でもアルコール度数が四十度はある黄金色の液体を躊躇無く飲んでいく姿を見て、今度は男が渋面を浮かべて言った。
「お前こそ、よくそんなキツイ酒飲めるよな。胃袋どうなってるんだ？」
「ふん。あんた達人間と違って、魔物娘の体は頑丈に出来てるのよ」
あんた達と違ってね。と、その部分をわざわざ二回、しかも強調するように言ってから、ティケーがカクテルグラスの中にある残りの酒を躊躇いなく飲み干していく。ティケー本人はまだまだ余裕のある表情を浮かべていたが、蛇たちは揃って目を細め、疲れた様に項垂れていた。
その光景を見た男はため息を吐いて首を横に振り、そしてそんな二人の姿を視界に収めていたサキュバスのバーテンダーはクスクス笑って彼らに言った。
「まあまあ、いいじゃないの。人にも魔物娘にも、それぞれ違った飲み方というのがあるんだからさ。私はお酒の好みの違いで、そこまでつっけんどんにならなくても良いと思うけど？」
「それはわかってるわよ。いちいち相手のお酒の飲み方で腹立てるつもりは無いから」
「なら、どうしてそこまで彼に辛く当たるの？」
バーテンダーの言葉にティケーが口を尖らせて応える。
「こいつが私の夫だからよ。この私と結婚した以上、こいつには私に釣り合うような男になる義務があるの。私より軟弱な男に、私の夫になる資格なんて無いんだからね！」
「あらまあ」
「メデューサは気むずかしい子が多いですからね」
さも当然のように言ってのけたティケーを見てバーテンダーは小さく驚き、男は何でも無いことのように答えて見せた。そんな男を見て、バーテンダーが彼に視線を合わせ、声を潜めて言った。
「あなたも大変ねえ」
「そんな事無いですよ。ティケーのああいう所が好きだから結婚したんですし。全然辛いとか思った事ありませんよ」
「あら、あなたすっかり彼女にメロメロなのね。これは私が入り込む余地なしかしら？」
「なに他の女に色目使ってるのよ！」
バーテンダーと男が話し込んでいた所に、ティケーが声を張り上げて割り込んでくる。そして頬杖を突き、蛇共々僅かに赤くした顔で男を睨みつけて言った。
「まったく、油断も隙も無いんだから。あんたは私だけ見てれば良いのよ。わかった！？」
「ああ、悪かったって。ごめんごめん。謝るよ」
「ふん。この浮気者」
「ああもう、まったくこの子はへそ曲がりなんだから……」
半ば理不尽な理由でありながらも素直に謝罪した男にそっぽを向くことでそれに答えた――この時、蛇の方は申し訳なさそうに頭を垂れていた――ティケーに対し、男は怒る事もせずにただ困ったように苦笑を浮かべた。その姿を見てバーテンダーは「彼ももう慣れてるのね」と言葉に出さずにそう思った。
そして男はまだカルーアミルクが残っていた自分のグラスをティケーの方に差しだし、それまでと変わらない声で言った。
「じゃあこれ、謝罪の印。これ飲んでみる？」
「はあ？」
顔を元の位置に戻して男の顔と手元のグラスを交互に見やり、ティケーがまた嫌そうに顔をしかめる。そして以前よりも興味深そうに目を見開いてカクテルをじっと見つめる蛇たちとは対照的に、ティケーがその嫌そうな表情のまま再びそっぽを向いて言った。
「はん。なんで私がそんな、甘ったるいお酒なんか飲まなきゃいけないわけ？ 馬鹿じゃないの？ そんなのこっちから願い下げよ」
飲みたい！ 飲みたい！
こちらを向いたまま、そう言いたいかのように頭を激しく上下に揺する蛇達を見て、男とバーテンダーはティケーに気づかれない程度に笑みをこぼした。そしてそれを見た男は自分の分を素直じゃ無い彼女に飲ませてやりたいと思い、さてどうすればいいかと姿勢を崩すこと無く考え込んだ。
答えはすぐに出てきた。男がニヤリと笑い、手に持ったグラスをティケーの元へ近づける。
「飲むか？」
「だ、だから、何度も言わせないで。そんな子供が飲むようなお酒、飲む訳ないじゃない！」
そっぽを向きながら――そして若干顔を赤らめながらそう答えたティケーだったが、男は彼女に向けて言ったのでは無かった。彼はティケーにでは無く彼女の頭から生えていた蛇達に向けてグラスを近づけたのであり、そしてグラスを近づけられた蛇達は躊躇うこと無く一斉に舌を伸ばし、嬉々としてグラスの中の酒を飲み始めたのだった。
「おお、良く飲むな。そんなにうまいか？」
その爽快な飲みっぷりを見て顔を綻ばせながら男が尋ねる。すると蛇の一匹が酒を飲むのを止め、頭を上げて嬉しそうに鳴き声を上げる。するとその様子に気づいたティケーが顔をこちらに戻し、そしてなおも男の差し出す酒を飲み続ける蛇達を見て顔を真っ赤にした。
「な、ななななな――！」
「あ、ティケー。悪い。どうしても皆が飲みたがってたからさ」
目の前の光景を目の当たりにしたティケーが衝撃と恥ずかしさのあまり言葉も出せずに口をわななかせ、それを見た男が何でも無いことのようにさらりと言ってのける。頭の蛇達は相変わらずカルーアミルクに舌鼓を打っており、その二人の様を見ていたバーテンダーはいつぞや聞いた『メデューサの頭から生えている蛇達は彼女達の心の鏡である』と言う言葉を思い出していた。
「ば、馬鹿！ あんた何してんのよ！ 馬鹿じゃないの！？」
「いやだって、みんな物欲しそうにしてたからさ。飲ませてあげようかなって」
「あなたも素直になりなさいな。本当は彼と仲良く飲みたいんでしょ？」
「なっ……！ ……あ、いや……」
湯気が出るほど顔を真っ赤にして激昂するティケーに男が冷静に返す。更にバーテンダーからも本心を突かれ、その不意打ちの前にティケーは完全に言葉を失ってしまった。そして顔を俯かせ、すっかりしおらしくなった顔で指を突っつき合わせながら小声で呟く。
「そ、そりゃあ……わたしだって、本当は……いちゃいちゃ、したいわよ……」
「……ティケー？」
心配そうに尋ねる男の声も聞こえていなかった。完全に自分の殻に閉じこもり、陰鬱な表情で呟き始める。
「頭の蛇みたいに素直になれたら……それが出来てあんたとらぶらぶできたら、どんなに幸せかって、何度も思ってるわよ……っ」
「……はあ」
そう口を尖らせるティケーを見て男がため息を吐き、彼女の肩に空いた方の手を回して自分の所に抱き寄せる。
「いいんだよ。無理しなくて」
「……えっ？」
「俺は、お前の事は全部好きだよ」
ティケーの体が硬直し、酒に口を付けていた蛇達の動きが一斉に止まる。構うこと無く男が続ける。
「もちろんしおらしくて可愛いのも好きだけどさ。そういうつんけんした所とか、素直になれない所とか、俺はお前のそういうのも好きなんだよ。だから無理しないで明るくならないでさ、いつも通りでいて良いんだよ」
「……本当？」
「ああ」
男が抱きしめる力を強くする。そこから生まれる暖かさ――大好きな彼に包まれているという安心感と幸福に満たされ、ティケーが穏やかな表情を浮かべて甘く蕩けた声を出す。
「……ふふっ、嬉しい」
「その顔も可愛くて好きだよ」
「も、もう、人間のくせに調子にのんな」
「はいはい。ごめんごめん」
僅かに眉間に皺を寄せて軽く非難めいた声を出すティケーに、男が苦笑してそれに返す。そんな自分を馬鹿にしているようにしか見えない男の態度を見て、ティケーはあっという間に『いつもの調子』を取り戻した。
「なによその態度！ あんた本当に反省してんの？ 調子に乗るのもいい加減にしなさいよ！」
すぐ真横にある男の顔を睨みつけながらティケーが平然と非難の声を上げる。だがその間も彼女は自分の肩を抱く男の手を振り払おうとはせず、寧ろ自分から男にしなだれかかって互いの距離を詰めていった。更に蛇達もグラスから離れて、そっと男の腕に絡みついていっていた。
離れたくない。蛇だけで無く全身でそれを表現しながら、ティケーは口では真逆のことを言い続けた。
「ああもう、本当に嫌。なんであんたみたいな奴を好きになっちゃったのかしら。自分が情けなくなってくるわ。お酒も甘いのしか飲めないし、腕っ節も強くないし、スタミナだって無いし」
そう吐き捨てる一方で男の首に両手を回し、更に体を密着させていく。頭の蛇も絡みつく力を増し、更には下半身の蛇体も動いて男の腰に巻き付いてくる。
「馬鹿。間抜け。のろま。スケベ。あんたなんて馬の骨以下よ。馬の方がまだまともに仕事してくれるわよ。わかってんの？ あんた自分がどれくらい無能かわかってんの？」
そんなありとあらゆる罵詈雑言をまき散らしながら、更に密着度合いを深めていく。その矛盾した様を見て、男とバーテンダーは視線を合わせて揃って苦笑した。
「乙女ね」
「ね？ 俺のティケーは可愛いでしょ？」
「ええ、もう最高にね。彼女の事ちゃんと大切にしなきゃ駄目よ？」
「わかってますよ――ねえティケー、カルーアミルク飲みたい？」
「いきなりなによ！ 何度言わせんの！？ そんな子供の飲み物なんて飲める訳無いでしょ！ 一緒に乾杯するんだからさっさと持ってきなさいよ！」
そうきっぱりと吼え猛るティケーを前にして、男は苦笑を漏らしながらその頭を撫で、バーテンダーは爆笑しながら二杯目のカルーアミルクを作り始めた。
二人の夜は、まだまだ始まったばかりだった。
クノイチの場合
「御館様、お酒のお代わりは良いでしょうか？」
「ああ、うん。そろそろいいかな」
自らが御館様と呼んだ細身の男の返答を聞き、傍らに座っていたクノイチのラシャは、表情を崩さずに自分がそれまでお酌をするためにずっと持っていた酒瓶を静かに畳の上に置いた。時刻は草木も眠る丑三つ時。ジパングの片田舎にある小さな一軒の民家での出来事である。
「御館様、今日はもうお眠りになられますか？」
「そうだな。お前の夜食を食べて緊張が解れたら、どっと疲れが出てきたよ」
それまで箸をつけていた小料理――軽いぶぶ漬けと徳利と焼酎の入った瓶をそれぞれ見やり、男が小さく笑いながら言った。そして脇に置いてあった、ラシャが料理を持ってくるまで自分が没頭していた書類を片付けながら、男が横のクノイチに向けて言った。
「しかし、お前も頑固な奴だよな。わざわざ俺の仕事に付き合う必要も無いって何度も言ってるのに」
「何を仰られます。伴侶と定めた相手を立て、伴侶と定めた相手に尽くすのが、我らクノイチにとっての最大の幸福。御館様のためならば、このくらいの事は少しの苦痛でもありません」
「そうなのか？ それにしたって、ラシャは生真面目だなあ」
「それも全て、私の奉仕すべき相手が御館様だからこそです。私が生涯の伴侶と見定め、そして私の愛を受け止めてくださった御館様だからこそ、私はこうして全力で奉仕をする事が出来るのです」
物静かな口調で力説するラシャを前にして、男は「嬉しい事言ってくれるなあ」とまんざらでも無さそうな顔で言った。ラシャはその男の言葉に気づかず、焼酎の瓶と徳利はそのままに食器だけを纏めて手元に持ちながら言った。
「そう、私が御館様をご奉仕するのは、もはや運命として決められていた事なのです。あなたを一目見た時、私の心には電流が走りました。そして次の瞬間には、私の頭の中にはもう御館様の姿しかありませんでした。」
「暗殺任務そっちのけで俺の跡をつけて、家にまで来たんだよな、確か」
「はい。その通りでございます」
合わせるように放たれた男の言葉にラシャが自慢げに頷く。職務放棄は威張れる事じゃないだろ、と冷静に突っ込めるだけの意識は、既にラシャにメロメロになっていた今の男にはなかった。そして暗殺対象とは全く関係ない目の前の男に惚れてしまったクノイチがうっとりとした声で続けた。
「間近であなたを見た時、私はもう我慢することが出来ませんでした。私はあなたの物になりたかった。ただそれだけを思っていた。あなたの童貞と私の処女を捧げ合ったあの瞬間、私は夢の中にいるような心地でした……」
家に押し入ったラシャは有無を言わさず男を押し倒し、それまで鍛え上げてきた房中術をフルに発揮して男を籠絡してしまったのだった。そしてラシャと契りを交わして以降も男は己の仕事――建築物の図面作成の仕事に精を出していったが、この時の男の目には、ラシャ以外の女が映る事は永久になかった。
「私は、ラシャは幸せ者です。あなたのような人を御館様とお慕いする事ができ、そしてあなたと、思う存分に愛を育むことが出来る。これが幸せでなくてなんと言いましょう」
「俺も、ラシャと一緒にいられて幸せだよ。今までお前のいなかった生活を送ってたのが信じられないくらいだ」
ラシャが硬い表情を崩すことなく頬だけを赤らめて胸の内を吐露し、男がなんの疑問も持たずに微笑みながらそれに答える、それを聞いたラシャは喜びで顔を輝かせ、そしてやや力の入った口調で男に言った。
「あの、御館様。本当にお酒の方は十分なのでしょうか？」
「まあ、もういいかなとは思ってるけど……どうしたんだ、改まって？」
「実は、私が編み出した美味しいお酒の飲み方というのがありまして。それを是非、御館様にご賞味いただきたいと思いまして……」
「美味しい飲み方？」
興味を持った男がラシャに尋ねる。ラシャは頷き、再度「飲まれてみますか？」と、期待と羞恥で赤くなった顔で男に尋ねる。
「うん。飲みたい。是非飲んでみたい」
男は即決した。その酒の飲み方に興味があったし、そもそも愛するラシャの頼みを断ることも出来なかったからだ。そしてそれを聞いたラシャは顔を僅かに綻ばせて言った。
「で、では、すぐに準備をいたしますので、暫しの間、お待ちいただけますか？」
「ああ。だけど、準備ってどれくらいかかるの？」
「いえ、ほんの少しの事ですよ」
そう答えた刹那、ラシャはいきなり自分の来ていた忍装束を脱ぎ捨てた。そしておもむろにまだ中身の残っている酒瓶を手に取り、突然の事に目を丸くする男の正面に腰を下ろす。
たわわに実った二つの乳房が眼前でぷるんぷるんと揺れ、男はその既に美味しすぎる光景に釘付けとなった。
「あ、おい、ラシャ？ なにを？」
「大丈夫です。もう暫しお待ちください」
が、すぐさま視線を元に戻し、思い出したように軽く狼狽する男にそう微笑みかけた後、ラシャは酒瓶を持っていない方の手でその己の乳房を包むようにきつく抱きしめた。
「こうして、これで、こう――」
そして胸元に出来た谷間に酒を流し込み、やがてそこには一つの小さなため池が出来上がった。
「忍法。酒池肉林の術です」
谷間に溜まった酒を前に、ラシャがどこか得意げに言ってのけた。そしてなおも呆然とする男に対して、その肉の中に生まれた酒の池を協調するように背を反らし、挑発するようにクスクス笑いながらラシャが言った。
「いいんですよ。お飲みになっても」
「……え？」
「これは、私が御館様のために編み出した術です。御館様以外の男には絶対に見せない、あなただけの術。あなたに捧げる、私の想い」
「ラシャ……」
「どうぞ、むしゃぶりついてきてくださいませ……御館様❤」
クノイチの物では無い、サキュバスのように甘い声をラシャが出した直後、男はその胸の中の酒溜まりに猛然と飛びついた。谷間に口を埋めて下品な音を立てて酒を吸い出し、そして中身が完全になくなってもその勢いを止めることなく、その口元にある弾力のある胸に吸い付いた。
「じゅるっ、ずぞぞっ、ちゅ、ずるるるるっ」
「あん❤ おやかたさまぁん、そこはおっぱい❤ もうお酒はないですよぉ……❤」
ラシャが蕩けた声で注意するが、嫌がる素振りは少しも見せない。それどころかラシャは自身の鎖骨に男の荒々しい鼻息を感じる度に嬉しそうに身を震わせて嬌声をあげ、そして男の口と谷間との間に瓶の口を差し込み、中に新しく酒を注ぎ始めた。
「さあ、御館様。いっぱい召し上がってくださいな❤」
「じゅるるるぅぅぅっ！」
相手の言葉を待つことなく、新たな酒が注がれた端から男はそれを飲み込んでいく。そうして一心不乱に胸に顔を埋めて酒と肉を味わっていく男の姿を、ラシャはとっても愛おしいものを見るかのように慈愛に満ちた目で見つめていた。
「じゅるっ、ちゅちゅ、ぴちゅっ」
「あ、あん❤ きゃうん❤ ……お、御館様ん❤ もうおしまいですぅ❤」
やがてラシャがそう言って空になった瓶を振ったのは、最初に酒を胸元に注いでから三分後の事だった。その声を聞いて男は名残惜しげに顔を離して口元を拭い、そしてラシャはそんな男の姿をうっとりと見つめながら言った。
「とても夢中になっておられましたが、そんなに美味しかったですか？」
「……ああ、とっても良かったよ」
心ここにあらずと言った体でそう答える男に、ラシャが微笑みながら言った。
「しかし、こうもお酒ばかり飲んでくると、何か別の食べ物が欲しくなりますね。御館様、何かご希望のおつまみとかはございますでしょうか？ お申し付けくだされば、今から私がお作りしますが」
「……いや、いい。おつまみはいらない」
男の発した予想外の言葉に、それまで頬を綻ばせていたラシャが急激に顔を曇らせる。だがラシャが今にも泣き出しそうなくらい表情を崩した直後、男はその細い肩を掴んでラシャを強引に押し倒した。
「あ、あの、御館さ――」
「おつまみはいらないよ。今のは食前酒だから」
「……え？」
きょとんとするラシャの頬に軽くキスを落とす。そして一気に顔を紅潮させていくラシャに、男が微笑みながら言った。
「俺はむしろ、メインディッシュが食べたいな」
「あの、それって」
「ラシャが食べたい」
「あ……❤」
その男の言葉を聞いたラシャが、目尻に涙を溜めながら喜びの表情を浮かべる。
「承知……いたしました……❤」
そして両手を広げて無防備な姿を晒し、満面の笑みを浮かべながら言った。
「御館様……どうぞ存分に、ご賞味くださいませ……❤」
それを聞き入れた男の体がゆっくりとラシャの裸体へと降りていき、その硬く引き締まった男の背中をラシャの両手が包み込んでいく。そして家屋の中から幸せそうな叫び声と生々しい水音が鳴り響くのに、さして時間はかからなかった。
これ以降、二人の間では肌を重ねる前に件の酒池肉林の術を使うのが暗黙の了解となったという。
「カルーアミルクください」
深夜の町の片隅にぽつんと存在する、古びた蓄音機からジャズ音楽が静かに流れる小さなバー。そのカウンター席で自分の横に座っていた男のその言葉を聞いて、メデューサのティケーは露骨に顔をしかめた。だが男は彼女と彼女の頭から生えている蛇達の視線――一方は嫌そうに、もう一方は興味津々な視線だった――に気づきながら、それでも平然とサキュバスのバーテンダーが差し出したそのカクテルを受け取った。
「あんたって、本ッ当にお子様な舌ね」
そんななおも態度を改めない男を横目で睨みつけながら、ティケーが吐き捨てるように言った。男はそれに苦笑しつつグラスを傾け、その薄茶色の酒を喉に流し込んでいく。
「いいじゃん別に。俺が飲みたいんだからさ」
舌を通して伝わる、甘く口当たりの良い優しい感触に思わず笑みをこぼしながら、男がおもむろにグラスを置く。それを聞いたティケーは鼻を鳴らし、自分が予め頼んでいた三杯目のアースクエイクに口を付けた。そんな最低でもアルコール度数が四十度はある黄金色の液体を躊躇無く飲んでいく姿を見て、今度は男が渋面を浮かべて言った。
「お前こそ、よくそんなキツイ酒飲めるよな。胃袋どうなってるんだ？」
「ふん。あんた達人間と違って、魔物娘の体は頑丈に出来てるのよ」
あんた達と違ってね。と、その部分をわざわざ二回、しかも強調するように言ってから、ティケーがカクテルグラスの中にある残りの酒を躊躇いなく飲み干していく。ティケー本人はまだまだ余裕のある表情を浮かべていたが、蛇たちは揃って目を細め、疲れた様に項垂れていた。
その光景を見た男はため息を吐いて首を横に振り、そしてそんな二人の姿を視界に収めていたサキュバスのバーテンダーはクスクス笑って彼らに言った。
「まあまあ、いいじゃないの。人にも魔物娘にも、それぞれ違った飲み方というのがあるんだからさ。私はお酒の好みの違いで、そこまでつっけんどんにならなくても良いと思うけど？」
「それはわかってるわよ。いちいち相手のお酒の飲み方で腹立てるつもりは無いから」
「なら、どうしてそこまで彼に辛く当たるの？」
バーテンダーの言葉にティケーが口を尖らせて応える。
「こいつが私の夫だからよ。この私と結婚した以上、こいつには私に釣り合うような男になる義務があるの。私より軟弱な男に、私の夫になる資格なんて無いんだからね！」
「あらまあ」
「メデューサは気むずかしい子が多いですからね」
さも当然のように言ってのけたティケーを見てバーテンダーは小さく驚き、男は何でも無いことのように答えて見せた。そんな男を見て、バーテンダーが彼に視線を合わせ、声を潜めて言った。
「あなたも大変ねえ」
「そんな事無いですよ。ティケーのああいう所が好きだから結婚したんですし。全然辛いとか思った事ありませんよ」
「あら、あなたすっかり彼女にメロメロなのね。これは私が入り込む余地なしかしら？」
「なに他の女に色目使ってるのよ！」
バーテンダーと男が話し込んでいた所に、ティケーが声を張り上げて割り込んでくる。そして頬杖を突き、蛇共々僅かに赤くした顔で男を睨みつけて言った。
「まったく、油断も隙も無いんだから。あんたは私だけ見てれば良いのよ。わかった！？」
「ああ、悪かったって。ごめんごめん。謝るよ」
「ふん。この浮気者」
「ああもう、まったくこの子はへそ曲がりなんだから……」
半ば理不尽な理由でありながらも素直に謝罪した男にそっぽを向くことでそれに答えた――この時、蛇の方は申し訳なさそうに頭を垂れていた――ティケーに対し、男は怒る事もせずにただ困ったように苦笑を浮かべた。その姿を見てバーテンダーは「彼ももう慣れてるのね」と言葉に出さずにそう思った。
そして男はまだカルーアミルクが残っていた自分のグラスをティケーの方に差しだし、それまでと変わらない声で言った。
「じゃあこれ、謝罪の印。これ飲んでみる？」
「はあ？」
顔を元の位置に戻して男の顔と手元のグラスを交互に見やり、ティケーがまた嫌そうに顔をしかめる。そして以前よりも興味深そうに目を見開いてカクテルをじっと見つめる蛇たちとは対照的に、ティケーがその嫌そうな表情のまま再びそっぽを向いて言った。
「はん。なんで私がそんな、甘ったるいお酒なんか飲まなきゃいけないわけ？ 馬鹿じゃないの？ そんなのこっちから願い下げよ」
飲みたい！ 飲みたい！
こちらを向いたまま、そう言いたいかのように頭を激しく上下に揺する蛇達を見て、男とバーテンダーはティケーに気づかれない程度に笑みをこぼした。そしてそれを見た男は自分の分を素直じゃ無い彼女に飲ませてやりたいと思い、さてどうすればいいかと姿勢を崩すこと無く考え込んだ。
答えはすぐに出てきた。男がニヤリと笑い、手に持ったグラスをティケーの元へ近づける。
「飲むか？」
「だ、だから、何度も言わせないで。そんな子供が飲むようなお酒、飲む訳ないじゃない！」
そっぽを向きながら――そして若干顔を赤らめながらそう答えたティケーだったが、男は彼女に向けて言ったのでは無かった。彼はティケーにでは無く彼女の頭から生えていた蛇達に向けてグラスを近づけたのであり、そしてグラスを近づけられた蛇達は躊躇うこと無く一斉に舌を伸ばし、嬉々としてグラスの中の酒を飲み始めたのだった。
「おお、良く飲むな。そんなにうまいか？」
その爽快な飲みっぷりを見て顔を綻ばせながら男が尋ねる。すると蛇の一匹が酒を飲むのを止め、頭を上げて嬉しそうに鳴き声を上げる。するとその様子に気づいたティケーが顔をこちらに戻し、そしてなおも男の差し出す酒を飲み続ける蛇達を見て顔を真っ赤にした。
「な、ななななな――！」
「あ、ティケー。悪い。どうしても皆が飲みたがってたからさ」
目の前の光景を目の当たりにしたティケーが衝撃と恥ずかしさのあまり言葉も出せずに口をわななかせ、それを見た男が何でも無いことのようにさらりと言ってのける。頭の蛇達は相変わらずカルーアミルクに舌鼓を打っており、その二人の様を見ていたバーテンダーはいつぞや聞いた『メデューサの頭から生えている蛇達は彼女達の心の鏡である』と言う言葉を思い出していた。
「ば、馬鹿！ あんた何してんのよ！ 馬鹿じゃないの！？」
「いやだって、みんな物欲しそうにしてたからさ。飲ませてあげようかなって」
「あなたも素直になりなさいな。本当は彼と仲良く飲みたいんでしょ？」
「なっ……！ ……あ、いや……」
湯気が出るほど顔を真っ赤にして激昂するティケーに男が冷静に返す。更にバーテンダーからも本心を突かれ、その不意打ちの前にティケーは完全に言葉を失ってしまった。そして顔を俯かせ、すっかりしおらしくなった顔で指を突っつき合わせながら小声で呟く。
「そ、そりゃあ……わたしだって、本当は……いちゃいちゃ、したいわよ……」
「……ティケー？」
心配そうに尋ねる男の声も聞こえていなかった。完全に自分の殻に閉じこもり、陰鬱な表情で呟き始める。
「頭の蛇みたいに素直になれたら……それが出来てあんたとらぶらぶできたら、どんなに幸せかって、何度も思ってるわよ……っ」
「……はあ」
そう口を尖らせるティケーを見て男がため息を吐き、彼女の肩に空いた方の手を回して自分の所に抱き寄せる。
「いいんだよ。無理しなくて」
「……えっ？」
「俺は、お前の事は全部好きだよ」
ティケーの体が硬直し、酒に口を付けていた蛇達の動きが一斉に止まる。構うこと無く男が続ける。
「もちろんしおらしくて可愛いのも好きだけどさ。そういうつんけんした所とか、素直になれない所とか、俺はお前のそういうのも好きなんだよ。だから無理しないで明るくならないでさ、いつも通りでいて良いんだよ」
「……本当？」
「ああ」
男が抱きしめる力を強くする。そこから生まれる暖かさ――大好きな彼に包まれているという安心感と幸福に満たされ、ティケーが穏やかな表情を浮かべて甘く蕩けた声を出す。
「……ふふっ、嬉しい」
「その顔も可愛くて好きだよ」
「も、もう、人間のくせに調子にのんな」
「はいはい。ごめんごめん」
僅かに眉間に皺を寄せて軽く非難めいた声を出すティケーに、男が苦笑してそれに返す。そんな自分を馬鹿にしているようにしか見えない男の態度を見て、ティケーはあっという間に『いつもの調子』を取り戻した。
「なによその態度！ あんた本当に反省してんの？ 調子に乗るのもいい加減にしなさいよ！」
すぐ真横にある男の顔を睨みつけながらティケーが平然と非難の声を上げる。だがその間も彼女は自分の肩を抱く男の手を振り払おうとはせず、寧ろ自分から男にしなだれかかって互いの距離を詰めていった。更に蛇達もグラスから離れて、そっと男の腕に絡みついていっていた。
離れたくない。蛇だけで無く全身でそれを表現しながら、ティケーは口では真逆のことを言い続けた。
「ああもう、本当に嫌。なんであんたみたいな奴を好きになっちゃったのかしら。自分が情けなくなってくるわ。お酒も甘いのしか飲めないし、腕っ節も強くないし、スタミナだって無いし」
そう吐き捨てる一方で男の首に両手を回し、更に体を密着させていく。頭の蛇も絡みつく力を増し、更には下半身の蛇体も動いて男の腰に巻き付いてくる。
「馬鹿。間抜け。のろま。スケベ。あんたなんて馬の骨以下よ。馬の方がまだまともに仕事してくれるわよ。わかってんの？ あんた自分がどれくらい無能かわかってんの？」
そんなありとあらゆる罵詈雑言をまき散らしながら、更に密着度合いを深めていく。その矛盾した様を見て、男とバーテンダーは視線を合わせて揃って苦笑した。
「乙女ね」
「ね？ 俺のティケーは可愛いでしょ？」
「ええ、もう最高にね。彼女の事ちゃんと大切にしなきゃ駄目よ？」
「わかってますよ――ねえティケー、カルーアミルク飲みたい？」
「いきなりなによ！ 何度言わせんの！？ そんな子供の飲み物なんて飲める訳無いでしょ！ 一緒に乾杯するんだからさっさと持ってきなさいよ！」
そうきっぱりと吼え猛るティケーを前にして、男は苦笑を漏らしながらその頭を撫で、バーテンダーは爆笑しながら二杯目のカルーアミルクを作り始めた。
二人の夜は、まだまだ始まったばかりだった。
クノイチの場合
「御館様、お酒のお代わりは良いでしょうか？」
「ああ、うん。そろそろいいかな」
自らが御館様と呼んだ細身の男の返答を聞き、傍らに座っていたクノイチのラシャは、表情を崩さずに自分がそれまでお酌をするためにずっと持っていた酒瓶を静かに畳の上に置いた。時刻は草木も眠る丑三つ時。ジパングの片田舎にある小さな一軒の民家での出来事である。
「御館様、今日はもうお眠りになられますか？」
「そうだな。お前の夜食を食べて緊張が解れたら、どっと疲れが出てきたよ」
それまで箸をつけていた小料理――軽いぶぶ漬けと徳利と焼酎の入った瓶をそれぞれ見やり、男が小さく笑いながら言った。そして脇に置いてあった、ラシャが料理を持ってくるまで自分が没頭していた書類を片付けながら、男が横のクノイチに向けて言った。
「しかし、お前も頑固な奴だよな。わざわざ俺の仕事に付き合う必要も無いって何度も言ってるのに」
「何を仰られます。伴侶と定めた相手を立て、伴侶と定めた相手に尽くすのが、我らクノイチにとっての最大の幸福。御館様のためならば、このくらいの事は少しの苦痛でもありません」
「そうなのか？ それにしたって、ラシャは生真面目だなあ」
「それも全て、私の奉仕すべき相手が御館様だからこそです。私が生涯の伴侶と見定め、そして私の愛を受け止めてくださった御館様だからこそ、私はこうして全力で奉仕をする事が出来るのです」
物静かな口調で力説するラシャを前にして、男は「嬉しい事言ってくれるなあ」とまんざらでも無さそうな顔で言った。ラシャはその男の言葉に気づかず、焼酎の瓶と徳利はそのままに食器だけを纏めて手元に持ちながら言った。
「そう、私が御館様をご奉仕するのは、もはや運命として決められていた事なのです。あなたを一目見た時、私の心には電流が走りました。そして次の瞬間には、私の頭の中にはもう御館様の姿しかありませんでした。」
「暗殺任務そっちのけで俺の跡をつけて、家にまで来たんだよな、確か」
「はい。その通りでございます」
合わせるように放たれた男の言葉にラシャが自慢げに頷く。職務放棄は威張れる事じゃないだろ、と冷静に突っ込めるだけの意識は、既にラシャにメロメロになっていた今の男にはなかった。そして暗殺対象とは全く関係ない目の前の男に惚れてしまったクノイチがうっとりとした声で続けた。
「間近であなたを見た時、私はもう我慢することが出来ませんでした。私はあなたの物になりたかった。ただそれだけを思っていた。あなたの童貞と私の処女を捧げ合ったあの瞬間、私は夢の中にいるような心地でした……」
家に押し入ったラシャは有無を言わさず男を押し倒し、それまで鍛え上げてきた房中術をフルに発揮して男を籠絡してしまったのだった。そしてラシャと契りを交わして以降も男は己の仕事――建築物の図面作成の仕事に精を出していったが、この時の男の目には、ラシャ以外の女が映る事は永久になかった。
「私は、ラシャは幸せ者です。あなたのような人を御館様とお慕いする事ができ、そしてあなたと、思う存分に愛を育むことが出来る。これが幸せでなくてなんと言いましょう」
「俺も、ラシャと一緒にいられて幸せだよ。今までお前のいなかった生活を送ってたのが信じられないくらいだ」
ラシャが硬い表情を崩すことなく頬だけを赤らめて胸の内を吐露し、男がなんの疑問も持たずに微笑みながらそれに答える、それを聞いたラシャは喜びで顔を輝かせ、そしてやや力の入った口調で男に言った。
「あの、御館様。本当にお酒の方は十分なのでしょうか？」
「まあ、もういいかなとは思ってるけど……どうしたんだ、改まって？」
「実は、私が編み出した美味しいお酒の飲み方というのがありまして。それを是非、御館様にご賞味いただきたいと思いまして……」
「美味しい飲み方？」
興味を持った男がラシャに尋ねる。ラシャは頷き、再度「飲まれてみますか？」と、期待と羞恥で赤くなった顔で男に尋ねる。
「うん。飲みたい。是非飲んでみたい」
男は即決した。その酒の飲み方に興味があったし、そもそも愛するラシャの頼みを断ることも出来なかったからだ。そしてそれを聞いたラシャは顔を僅かに綻ばせて言った。
「で、では、すぐに準備をいたしますので、暫しの間、お待ちいただけますか？」
「ああ。だけど、準備ってどれくらいかかるの？」
「いえ、ほんの少しの事ですよ」
そう答えた刹那、ラシャはいきなり自分の来ていた忍装束を脱ぎ捨てた。そしておもむろにまだ中身の残っている酒瓶を手に取り、突然の事に目を丸くする男の正面に腰を下ろす。
たわわに実った二つの乳房が眼前でぷるんぷるんと揺れ、男はその既に美味しすぎる光景に釘付けとなった。
「あ、おい、ラシャ？ なにを？」
「大丈夫です。もう暫しお待ちください」
が、すぐさま視線を元に戻し、思い出したように軽く狼狽する男にそう微笑みかけた後、ラシャは酒瓶を持っていない方の手でその己の乳房を包むようにきつく抱きしめた。
「こうして、これで、こう――」
そして胸元に出来た谷間に酒を流し込み、やがてそこには一つの小さなため池が出来上がった。
「忍法。酒池肉林の術です」
谷間に溜まった酒を前に、ラシャがどこか得意げに言ってのけた。そしてなおも呆然とする男に対して、その肉の中に生まれた酒の池を協調するように背を反らし、挑発するようにクスクス笑いながらラシャが言った。
「いいんですよ。お飲みになっても」
「……え？」
「これは、私が御館様のために編み出した術です。御館様以外の男には絶対に見せない、あなただけの術。あなたに捧げる、私の想い」
「ラシャ……」
「どうぞ、むしゃぶりついてきてくださいませ……御館様❤」
クノイチの物では無い、サキュバスのように甘い声をラシャが出した直後、男はその胸の中の酒溜まりに猛然と飛びついた。谷間に口を埋めて下品な音を立てて酒を吸い出し、そして中身が完全になくなってもその勢いを止めることなく、その口元にある弾力のある胸に吸い付いた。
「じゅるっ、ずぞぞっ、ちゅ、ずるるるるっ」
「あん❤ おやかたさまぁん、そこはおっぱい❤ もうお酒はないですよぉ……❤」
ラシャが蕩けた声で注意するが、嫌がる素振りは少しも見せない。それどころかラシャは自身の鎖骨に男の荒々しい鼻息を感じる度に嬉しそうに身を震わせて嬌声をあげ、そして男の口と谷間との間に瓶の口を差し込み、中に新しく酒を注ぎ始めた。
「さあ、御館様。いっぱい召し上がってくださいな❤」
「じゅるるるぅぅぅっ！」
相手の言葉を待つことなく、新たな酒が注がれた端から男はそれを飲み込んでいく。そうして一心不乱に胸に顔を埋めて酒と肉を味わっていく男の姿を、ラシャはとっても愛おしいものを見るかのように慈愛に満ちた目で見つめていた。
「じゅるっ、ちゅちゅ、ぴちゅっ」
「あ、あん❤ きゃうん❤ ……お、御館様ん❤ もうおしまいですぅ❤」
やがてラシャがそう言って空になった瓶を振ったのは、最初に酒を胸元に注いでから三分後の事だった。その声を聞いて男は名残惜しげに顔を離して口元を拭い、そしてラシャはそんな男の姿をうっとりと見つめながら言った。
「とても夢中になっておられましたが、そんなに美味しかったですか？」
「……ああ、とっても良かったよ」
心ここにあらずと言った体でそう答える男に、ラシャが微笑みながら言った。
「しかし、こうもお酒ばかり飲んでくると、何か別の食べ物が欲しくなりますね。御館様、何かご希望のおつまみとかはございますでしょうか？ お申し付けくだされば、今から私がお作りしますが」
「……いや、いい。おつまみはいらない」
男の発した予想外の言葉に、それまで頬を綻ばせていたラシャが急激に顔を曇らせる。だがラシャが今にも泣き出しそうなくらい表情を崩した直後、男はその細い肩を掴んでラシャを強引に押し倒した。
「あ、あの、御館さ――」
「おつまみはいらないよ。今のは食前酒だから」
「……え？」
きょとんとするラシャの頬に軽くキスを落とす。そして一気に顔を紅潮させていくラシャに、男が微笑みながら言った。
「俺はむしろ、メインディッシュが食べたいな」
「あの、それって」
「ラシャが食べたい」
「あ……❤」
その男の言葉を聞いたラシャが、目尻に涙を溜めながら喜びの表情を浮かべる。
「承知……いたしました……❤」
そして両手を広げて無防備な姿を晒し、満面の笑みを浮かべながら言った。
「御館様……どうぞ存分に、ご賞味くださいませ……❤」
それを聞き入れた男の体がゆっくりとラシャの裸体へと降りていき、その硬く引き締まった男の背中をラシャの両手が包み込んでいく。そして家屋の中から幸せそうな叫び声と生々しい水音が鳴り響くのに、さして時間はかからなかった。
これ以降、二人の間では肌を重ねる前に件の酒池肉林の術を使うのが暗黙の了解となったという。
13/06/15 23:34更新 / 蒲焼