読切小説
[TOP]
閉じられた世界で、二人
 知らない天井だった。

「……え?」

 目を覚まして一番に目に飛び込んできたその光景を前に、その少年――見た目からは十になるかならないかの年齢に見えた――は布団から顔を出したまま大いに戸惑った。自分の家の天井はもっとシミだらけで黒くくすんでおり、今自分が目にしているような汚れ一つ無い綺麗な物ではなかったからだ。
 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、体を起こして周囲に目を向ける。そして数秒後に、その心のモヤモヤを更に大きくさせる。

「ここは……?」

 天井だけでは無い。それまで布団に入って自分が寝ていた――と思われる――その部屋は隅々まで掃除が行き届いており、ゴミはおろかホコリ一つ見えなかった。『自分の家では無かった』のだ。
 そして今自分が包まれていた布団や毛布もまた真っ白でふかふかとしており、それまで自分が使っていた物がただの薄っぺらい布に思えてくる程に暖かく、心と体に安心をもたらしてくれる物だった。

「こんな」

 こんな立派な物、今までお目にかかった事は無かった。
 まじまじと辺りを見回しながらそう少年が考えていると、不意に鼻をくすぐるなにやら美味しそうな匂いと、自分が足を伸ばした先にある障子の向こうから何かを引きずるような重い音が聞こえてきた。
 ここが自分の家では無い事を思い出し、少年がその場で身の危険を覚えた。だがその本能に従って毛布をはね除けて全身を起こすよりも前に、その障子が一気に開かれて物音の主が彼の眼前に現れた。

「あ、もう起きても大丈夫なのですか?」

 その姿を見て、少年は唖然とした。人間では無い何か、人間の上半身と蛇のような薄緑色の下半身を合体させたかのような何かがそこに立っていたからだ。
 おっとりした顔つきをした絶世の美人。髪を伸ばし、胸元を協調するような露出の多い服を纏い、硬い鱗に覆われた頑健なその手にはおたまを持っていた。
 彼女がいったい何者なのか――何の種族なのかは、魔物に疎い少年には判らなかった。だがその女性が『魔物』である事は、その体からすぐに判った。ただ、少年は海の向こうで幅を利かせる教団のように魔物に悪感情は抱いていなかったので、『いきなり顔を合わせて驚いた』以上の負の思いは抱かなかったが。

「ああ、良かった。顔色を見る限り、もう大丈夫なようですね。見つけた時はすっかり冷え切っていたものですから、一時はどうなる事かと……」

 もう大丈夫? 冷え切っていた?
 そして驚くと同時に少年は、目の前の魔物が何を言っているのか、そもそも自分がどうしてここにいるのかについて、強く疑問に思った。まともに魔物と合った事のない自分がどうして彼女と関わりを持っているのか、それについても同じように不思議に思った。

「あの、ここは」

 だがそれらを問おうとして今度こそ毛布を払いのけて立ち上がろうとした矢先。

「……あらあら」

 少年の腹の虫が盛大に自己主張を始めた。それを聞いた魔物が思わず苦笑を浮かべ、少年は恥ずかしさで耳まで真っ赤にする。

「あ、ごめんなさい。笑うなんて失礼でしたね」
「ああ、その、僕は別に」
「いえ、これはこちらの失態にございます。お腹が空くのは誰でも同じ事だと言うのに、変に笑ってしまって……」
「いえ、そんなの気にしてないですよ。それより、その――」

 二度目の腹の虫。またしても質問の機会を潰され、少年は恥と同時に理不尽な怒りを覚えた。そんな少年を見て、目の前の魔物が今度は真剣な面持ちで彼に言った。

「……あなたの仰いたい事、尋ねたい事が何なのかは存じております。しかし、それよりもまずは、お腹を満たす事を先にいたしましょう。お話はその後にゆっくりと」

 そしてそう言った後に深く頭を下げ、「私についてきてください」とだけ残してその魔物が部屋の奥へと引っ込んでいく。元より少年には情報も選択肢も無く、そして腹が減っていたのも事実だったので、ただ言われるがままにその魔物の後をついて行った。




 魔物が足を止めた先は障子に囲まれた畳張りの一室であり、左側には縁側が、そして部屋の中央には小さなちゃぶだいがあった。

「うわあ……!」

 そのちゃぶ台の上にどんと盛られた朝食の山を前に、思わず少年の口から驚嘆の声が漏れる。

「その、味に自信はありませんが、とりあえずは全て人並みに食べられるようにはしたつもりです」

 湯気の上がった炊きたての白米とふきのとうの味噌汁。野沢菜のお漬け物。焼き魚。タラノメの天ぷら。タケノコの煮物。
 そう控えめに漏らす魔物の横で、少年はその見た事の無い豪勢な献立を前に、思わず口の端からよだれを垂らした。

「これ……食べてもいいの?」
「はい。好きなだけ、全部食べてくださって結構ですよ」
「……!」

 この時、彼の心からは疑念も警戒心も完全に消え去っていた。前よりも増して激しくなっていた飢えを満たさんと、何も言わずにちゃぶ台の前に座って箸を手に取り、そのまま一心不乱に目の前の料理を食べ始めた。




 それから二分も経たないうちに、そこにあった料理は全て少年の腹の中に収まった。
 滅茶苦茶美味かった。

「お粗末様でした」

 そんな率直な感想を満面の笑みを浮かべて自分の横に座った魔物に告げると、彼女もまた表情を喜びでいっぱいにしながらそう返し、少年にお茶の入った湯飲みを手渡す。
 そしてそれを飲んで喉を潤している少年に対し、その魔物が真剣な眼差しを向けて言った。

「それではそろそろ、本題に入ってもよろしいでしょうか?」
「え、ああ――うん」

 美味しすぎる朝食のせいですっかり緩みきっていた心を引き締め、少年が湯飲みを置いて魔物に向き直る。その少年の前で、まずは魔物が口を開いた。

「そう言えば、自己紹介がまだでしたね。私はスズ。ご覧の通りの魔物娘で、龍と呼ばれる魔物でございます」
「りゅう――」

 目の前の魔物娘――スズの正体を知って、少年が驚きで目を見開かせる。いくら魔物に疎い彼でも、龍クラスの強大な魔物に対しては、その名前くらいは知っていた。
 そしてその蛇どころでは無い、それよりもずっと高位に存在する魔物を前に、少年は無意識のうちに正座していた上半身をたじろがせた。

「ああ、その、大丈夫ですよ? 私は別に、あなたを取って食べようとか、そういうのは考えておりませんから」
「あ、ああ、うん。ごめんなさい」

 スズの言葉に少年が居住まいをただし、改めて彼女と向き直る。そしてその後、今度は少年が口を開いた。

「その、僕は、ギンって言います」
「ギン、ですか。わかりました、ギンさん」
「呼び捨てでいいですよ。それで、僕からいくつか質問したい事があるんですけど、いいですか?」

 ギンの言葉にスズが頷く。一度呼吸を整えた後、ギンが言葉を続けた。

「ここはどこですか? どうして、僕はここにいるんですか?」
「そうですね。一つずつ答えていきましょうか――まずここは、私の家です」
「えっ」

 ギンの反応を見てスズがクスクスと笑う。その驚いた時の表情――鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見るのが面白くて、スズはこの純朴な少年を更に驚かしてやろうと言葉を継いだ。

「龍は特定の湖や池の中に住んでいるという話は聞いた事がありますよね?」
「ええ、はい。それくらいは」
「実はここ、湖の底に建っているんですよ? 水の中に住む魔物娘が私に会いに来た時のために備えて、家の周りに結界を張って水が来ないようにしているんです――と言っても、今までやって来たお客様はギン以外にいなかったのですが」
「ええっ?」

 ギンがますます目を大きくする。その新鮮な反応が楽しくってスズはますます楽しい気持ちになったが、必用以上に彼を虐めるつもりも無かったのでそれいじょう彼をからかおうとはしなかった。その代わりに、笑みを消して真面目な顔つきになってスズがギンに行った。

「それから二つ目の質問についてですが、じつは昨日の夕方頃、あなたがこの湖の中に沈んで行っていたのを私が見つけ、ここまで運んで来たのです」

「え――」

 信じられない、そう言いたげにギンが訝しげな表情を見せる。その顔を前にしてスズが続けた。

「……私が山に出て、山菜を採りに行った帰りの事でした。水の中にいたあなたを見つけた時には、あなたは大量に水を飲んでいて、もう呼吸もしていない状態でした。すぐに家に運んで水を吐かせ、少々魔力を使って心臓に活力を送りました。発見が早かったから良かったものの、少しでも遅れていたらどうなっていた事か……」
「そうだったんだ……」
「はい。そして一段落した所であなたを寝かしつけ、何度か地上を見てみたのですが、陽が落ち、夜になっても湖の周りにはあなたの知り合いらしき人も、あなたを気に掛けるような人も出てきませんでした。そもそも、人っ子一人通らなかったのです。ですので、あなたが元気を取り戻すまで仕方無く、こうして私の家に留まらせていたという次第です」
「じゃあ、さっきのご飯は、最初から僕のために?」
「あ、はい。あなたが目覚めた際に、ひょっとしたらお腹が空いているだろうなと思いまして。久しぶりに腕を振るわせていただきました」
「そ、そうなんだ。ありがとう」

 何気なく放ったギンの言葉にスズがそう微笑んで返し、そしてそのスズの返答を受け、ギンが照れくさそうに礼を述べる。
それに対して嬉しそうに笑みを浮かべた後、その表情を再度引き締めてスズが言った。

「では次は、私から質問させてください」

 そしてその真剣な面持ちのまま、スズがギンに尋ねた。
 そのスズの全身から溢れる気迫に押されるようにギンが頷く。その頷きを肯定と取ったスズが再度言った。

「なぜ、あなたはあの時あの場所にいたのですか?」
「そ、それは――あれ?」

 答えようとして、ギンが言葉を詰まらせた。

「な、なんでだっけ? あれ、思い出せない……」
「言いたくないのですか? まさか――」

 それを受けてスズが語調を強め、険しい表情でギンに詰め寄る。

「――まさかあなた、自殺するためにこの湖に飛び込んだというのですか? そんなつまらない理由のために、この湖に飛び込んだと言うのですか?」
「ち、違うよ。違うって」
「本当に? 本当にそうなのですね? 確実に命を落とすために入水したなどという、くだらないオチなどでは無いのですね?」
「違うって! 第一、僕そんな湖に入った理由とか知らないよ!」
「――え?」

 必死に叫ぶギンを前に、今度はスズがきょとんとする番だった。

「し、知らないのですか?」
「うん」
「何も?」
「うん」
「……自分が何者かについては?」
「そ、それは知ってる。ちゃんと覚えてるよ。僕が知らないのはその、自分が湖に入った原因とか理由とかであって――」

 そこでギンが言葉を切る。その顔には絶望がありありと浮かんでいた。

「そう言えば、どうして知らないんだろう」




 一部的な記憶喪失。
 その後いくつか問答を重ねた後に、スズはギンの症状をそう推定した。
 彼がこの時忘れていたのは、自分が湖に沈む前後の記憶だった。自分の事や一般的な常識は覚えていたが、なぜ自分が水の底に沈められたのかと言う原因そのものや、そうして自分を沈めた犯人の事など、この事件に関する事柄だけが全て頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。

「肝心な所が抜け落ちていますね……」
「ご、ごめんなさい。何も役に立てなくて」

 縁側に並んで腰掛けながら、ギンがスズに暗い調子で謝った。ギンの方が年下で(当たり前である)背も小さかったので、二人並んで座っている所を見るとまるで姉弟のようであった――ギンの実年齢は実は十七であり、それを件の問答で知った際にスズは大いに狼狽していたが。
 朝陽を受けてきらきらと輝く水中の風景――家を守る結界によって自分達の外側にドーム状に展開された水のパノラマ世界を見つめながら、スズがあたふたと返す。

「い、いえその、これは別にあなたを責めている訳では無いのです。ですからそんなに、あまり思い詰めないでください」
「う、うん。わかったよ。ありがとう」
「はい。そう、そうです――わかればよろしい」

 ギンの返答を受け、スズが柔和な笑みを浮かべる。その笑みを見てギンは一瞬だけ「綺麗だ」と思い、そしてすぐに顔を真っ赤にしながら自分の気持ちを打ち消す。そんなギンの様子は露知らず、スズが思いついたように彼に尋ねた。

「そう言えば、ギン。あなたの家族とかはどうしたのですか?」
「え――」

 ギンの顔から熱が一気に引いていく。構わずにスズが続ける。

「あの時、湖の周りには誰もいませんでした。ここは一番近い村からもかなり離れた所にありますし、ここに一人で来るというのもおかしな――」

 そこでギンの異変に気づく。言葉を切って、スズがギンの顔をのぞき込む。

「ご家族は、どうなさったのですか?」
「……父と母は……」

 それだけ言って、ギンが俯いて黙り込む。スズはその理由をすぐに察し、そして「ごめんなさい」と言って、沈痛な面持ちでその肩に自身のごつい手を置いた。

「……もう、何年も前の事なんだ。二人して逝っちゃったの」
「……」

 スズの手の上に自分の手を重ねる。突然の事に驚いてスズがギンの方へ顔を向けたその時、全くいきなり、そのギンと視線が重なり合う。

「……ッ」
「あ――」

 そして反射的に、二人して顔を背け合う。肩から手を離し、お互い顔が真っ赤だった。

「……」
「……」

 それから暫く、二人は顔を背け合ったまま無言であり続けた。なぜだかとても気まずくて、どう話しかけたらいいのか判らなかったのだ。

「――あ、あの」

 それから暫く経ったその時、不意にスズが口を開いた。

「その、もしよろしかったら、その」
「……え?」

 歯切れ悪く言葉を紡ぐスズの方にギンが顔を向ける。なおも明後日の方向を向きながらスズが言った。

「……暫く、うちにいませんか?」
「えっ?」

 それまで少しずつ冷めていっていた顔が、再び一瞬で真っ赤に染まる。その変化を知る事無くスズが言葉を続ける。

「その……ご両親、も、いない……じゃない……その、一人でずっと家にいるのも、辛いでしょうし……」
「スズ……」

 ゆっくりと、スズがギンの方を向く。その顔はギンと同じく真っ赤だった。

「……あなたを、放っておけないんです。せめて、ここに沈んだ理由がわかるまで……」
「……」
「あなたと一緒にいさせても、いいでしょうか……?」

 言い終えて、スズが口を固く閉ざす。眉間に皺を刻み、眉を八の字に垂れ下がらせ、恥ずかしさで今にも死にそうな顔をしていた。そしてギンも、彼女と同じくらいに顔を真っ赤にし、その心臓は今にも飛び出しそうなくらいに激しく拍動していた。

「その、僕も」

 やがて、今度はギンが口を開く。

「僕も、その、ずっと一人で寂しかったって言うか……だから……」
「……」
「……一緒に、しばらく一緒に居ても、いいかな?」

 そう言って、彼は小さく微笑んだ。




 それから、ギンはスズの家に居候する事になった。
 そして一緒に住む代わりに、彼はそれまで彼女がしていた雑事の一部を手伝う事になった。
 その仕事内容は主に山に出て食材を採りに行ったり、掃除や洗濯などをする事であった。料理を作るのは相変わらずスズの担当で、湖で魚を捕ってくるのも彼女の仕事だった。
 また、二人はお互いに採ってきた食材の中で余った物を行商人に売り、それをお金に替えてはコツコツと貯めてもいた。特に日常的に買う物も無く、珍しい食材や草花を売れば結構な金になるため、家の奥にある金庫にはそれなりにお金が貯まっていた。

「ねえ、ギン。今日は早く寝て、明日ちょっとおでかけしませんか?」

 そしてそのお金の一部を持って、ギンと一緒に近くの町まで遠出する事もあった。近くと言っても、その町は家のある湖から歩いて片道一時間もかかるくらいの遠い所にあったので、気軽に行けるような場所では無かった。
 だが、だからこそ、二人はそのたまのお出かけの時間を大切に過ごした。一日の大半をそこで買い物をしたり当てもなくぶらぶら散歩したり、そこで出会った他の魔物娘達と話し込んだりして過ごし、そしていつも月が天高く昇るくらい夜遅くに家路につく。
 町で会った魔物娘達に二人の仲を茶化される事も何度もあったし、羽目を外しすぎてべろんべろんに酔っ払ったスズの肩を、ギンが担いで家に帰った事も一度や二度では無かった。

「うへへへ♪ ギ〜ンちゃ〜ん♪ 愛してますよぉ〜♪」
「はいはい。愛してる愛してる。わかったから少しは自分でも歩いてよ。かなり重いんだから」
「な〜んか言ったぁ〜?」
「なんでもないです。ほら、もっとしゃきっとして!」

 しかし、それらは全てギンにとってはとても楽しい思い出であった。今まで生きてきた中で、最高に幸せな時間だった。

「実は私も、遠くにいる両親から『早く婿様をもらえ』って、手紙で催促される事があるんですよ」
「あ、やっぱり? あなたもそうなんだ」
「はい。そうなんですよ。どこかに良い人がいるといいのですけれどねえ……」

 ただ、町に出て他の魔物娘と雑談を交わし始めた時、スズは決まってそんな台詞を吐いてはチラチラと横目でギンに熱の籠もった視線を浴びせてくるのだが、ギンはそれがちょっと苦手だった。
 嫌、と言う訳では無いが、なぜかその視線を浴びる度に全身が熱くなって、とても恥ずかしい気持ちになるのだ。
 あの時――自分の肩に置いたスズの手の上に自分の手を置いた時のように。もしくは、その後で互いの視線が重なり合ってしまった時のように。心臓が張り裂けそうなほどに激しく動いて、まともにスズの顔を見る事が出来なくなるのだ。

「あなたも前途多難そうねえ」
「……にぶちん」

 そしてそんなギンを見て、息を合わせたように呆れた言葉を返してくる魔物娘とスズの意図が、ギンにはいまいち理解出来ずにいた。
 そんな自分でも理解出来ない感情に翻弄されつつも、ギンはスズの隣で毎日を生きていた。周囲から隔絶された二人だけの世界で、ギンは日々を幸せと共に過ごしていた。ひょっとしたら自分は世界から爪弾きにされて、こんな所に追いやられたんじゃ無いかと思う事も何度かあった。しかしその度にギンは「スズがいるからそれでもいいかな」と思い直し、その思考に蓋をして再び日常へと戻っていった。
 そして二人仲良く日々を過ごす一方、ギンの記憶が戻る気配は一向に無かった。だが同じ時間を共に過ごす中で、二人は「別に戻らなくてもいい」と共に思うようになっていった。
 この幸せな時間が終わるくらいなら、一生元に戻らなくてもいい。そう思い始めていた。むしろ思い出す事で、この関係が破綻してしまうかも知れないと、二人はその事に対して恐れを抱くようになっていった。
 自然と、記憶の話は二人の会話の上には上がらなくなった。二人は意識してそれを話さないよう努めていたが、同時に二人は、それを努めて意識しないようにした。
 そしてギンの記憶が戻らないまま、四ヶ月の時が過ぎた。




 その日も、スズにとっては平穏な一日だった。布団の洗濯と家の中の掃除をこなしつつ、山に山菜採りに出かけたギンを待つ。

「はあ……」

 最近、ためいきを吐く回数が多くなった。生活そのものは以前と同じく平穏だったが、彼女の心の中は平穏とは言えない状況になっていた。
 もちろん、ギンの前で吐いた事は一度も無い。彼を心配させるなど絶対に出来ない。彼の居ない時に、人知れず吐いていたのだ。
 そうなった理由はもちろん、ギンだ。

「あれだけアプローチしているのですが、全くの脈無しとは……」

 掃除を中断して下半身をくねらせてとぐろを巻き、はたきを持ちながらその場に座り込む。

「ひょっとして、私を異性として見てくれていない……いや、それはありえません。ここにいる女性は私一人なのですから。山から帰ってきた時にも他の魔物娘の匂いがついていた時は一度もありませんでしたし、町で会う魔物娘達にしたって、ほんの一瞬の出会いでしかないのですから……そう、そうです。ギンの一番は私なのです。私の……」

 不安を払拭するように一気にまくし立てるが、最後まで上手く行かずに尻すぼみになる。

「……私……本当に彼に、見られているのでしょうか……」

 そうして不安げな表情を浮かべたまま天井を見上げ、ある事について一心に思案を巡らす。
 もちろんギンのことだ。

「……いつ、好きになったのでしょうか……」

 いつかは判らない。だがスズは、今よりもずっと前からギンの事を好きになっていた。そしていつの日にか、彼を振り向かせたいとも考えていた。
だが彼女の――龍本来の温厚な性格と彼の置かれた特殊な状況が、彼女に強引な手を使わせる事を躊躇わせていた。

「籠絡するのは簡単なのですが、さすがにそれは……」

 魔力で誘惑して、強引に自分に惚れさせてしまう事も出来る。自身の内に秘める強大な魔力をもってすれば、それはとても簡単な事だ。でもそれは嫌だった。

「さすがに、相手を意のままに操るというのは、気が引ける物ですね……でもこのまま手をこまねいている訳にもいかないし……」

 そう呟き、目を閉じる。その瞬間、暗闇の中には幾つものギンの顔が浮かび上がってきた。
 ギンの笑った顔。怒った顔。悲しんだ顔。驚いた顔。
 それら全てが闇の中から水面のように揺らめいて立ち現れ、そして揺らめきながら闇の中へと消えていく。
 その表情の一つ一つにはそれぞれ異なる思い出があり、それら全てが、スズにとって大切な記憶だった。

「ギン……」

 両手を胸元に押し当て、切なげに想い人の名を呟く。

「好きです……好きなんです……ギン……」

 目尻に涙を溜め、目を閉じて許しを請うように頭を垂れる。
 出入り口の戸がいきなり開いたのは、彼女がそう悶々と考え込んでいた時の事だった。




「ギン、おかえりなさ――」

 いつもより早く帰ってきた事に喜び、駆け足で玄関までやって来たスズは、そこで見たギンの顔を前にしてそれまで浮かべていた歓喜の表情を一瞬にして消し去った。

「ギン……?」
「……」

 泣いていた。
 悲しんでいたのでは無い。
 感情の抜け落ちた顔を浮かべ、ただ両の目から一筋の涙を垂れ流していたのだ。

「ギン……」

 返事が無い。ぼうとその場に突っ立ったまま。
 いたたまれなかった。見ていてとても辛かった。

「ギン……!」
「――!」

 気づいた時、スズはギンの体をめいっぱい抱きしめていた。
 理由なんてどうでも良かった。肉欲を満たすためでも無かった。
 ただギンを癒してあげたかった。ギンの涙を止めてやりたかった。

「……スズ……」

 その願いが届いたのか、ギンがよろよろと両手を動かしてその背中を抱き返す。
 自分の声に答えてくれた。まだ完全に元通りに戻った訳では無かったが、それだけでも、スズの胸の中は嬉しさでいっぱいになった。

「ギン、大丈夫? ギン……!」
「スズ、スズ……」

 そしてなおも弱々しい調子を見せるギンに、スズが何度もその名を呼びかけた。きっと何か辛い事があったのだろう。ただそれを癒してあげるために、自分はここにいると伝えるために、一心に愛する人の名前を呼び続けた。

「スズ……聞いて欲しい事があるんだ……」
「えっ?」

 だが、事態はスズの予想の上を行った。

「……わかっちゃったんだ……」
「わかっ、何が、え?」
「何で落ちたのか、判っちゃったんだ」

 ギンが自らの力でスズから身を離す。その顔は悲痛そのものだった。
 真実を知った痛みと、それ以外の痛みに満ちていた。

「判っちゃったんだよ……!」

 その場に崩れ落ちるギンを、スズはただ黙って見下ろすしか無かった。




 両親が亡くなった後、ギンは今に至るまでずっと、周りの同年代の子達からイジメを受け続けた。自分達と異なる環境に置かれたギンを珍しがり、面白がり、そしていつもウジウジとしていた姿を疎ましがって、子供達は彼をその攻撃の対象としたのだ。
 誰も助けてくれなかった。頼れる者が誰もいなかった。子供達は幼いながらも狡賢く、大人の目の前では決まって良い子を演じていた。そしてギンの言い分は、それら『良い子』の反対意見の前に全て握りつぶされた。
 大人も大人で、子供達のいざこざに干渉しようとはしなかった。所詮よその家の子である。不必要に手を出そうとはしなかった。
 ギンは耐えた。必死に耐えた。一人で生きてきた。だがついにその日がやって来た。
 その日、ギンは親の居ない隙を見計らって子供達に強引に連れ出された。親の目の届かない、他の者の目にも留まる事の無い場所に。
 件の湖のすぐ近くである。

「お前、昔っから邪魔なんだよ! 死んじまえ!」

 子供とは残酷なものである。彼らはまず腹に一撃を加えてギンを昏倒させた後、その隙に彼を湖に投げ落としたのである。




 その事を、ギンはこの日に全て思い出した。
 山に向かった帰り道、自分を投げ捨てた奴の一人と偶然にもでくわしてしまったのだ。

「お、お前、どうして……!?」

 目の前の人間がなぜそうも狼狽するのか、ギンには初めの内は全く判らなかった。だが一人うろたえるその男の言葉が、彼に全てを思い出させた。

「お前、あの時確かに俺達で沈めたはず……! くそ、確かめに来るんじゃなかった!」
「え、なにを」
「くそ、喋るんじゃねえ! 俺の前に出てくるなよ! 死んじまえ!」




 それから数分後。二人はいつも食事をしている部屋に集まり、そこでちゃぶ台を挟んで、スズは彼の昔話に耳を傾けた。そして全てを語り終えた後、ギンはまっすぐにスズの顔を見つめた。

「……思い出したくなかった」

 その顔は悲痛に歪んでいた。

「きついよ」
「……」

 スズは何も言えなかった。何を言ったらいいのか判らなかった。ただじっと、ギンの顔をまっすぐ見つめるしか出来なかった。

「僕、本当に捨てられたんだね……みんなから除け者にされて……本当に……」
「……」

 ギンがそう言って自分の体を自分の腕で抱く。体の震えは止まらなかった。

「忘れたかったから忘れたんだ……思い出したく無かった……あんな痛いの、思い出したく無かった……!」
「……ッ」

 ギンが目に涙をいっぱいに溜め、今まで聞いた事の無い弱々しい声を上げる。
 見ていられない。
 もう限界だった。

「ギン……」

 ゆっくりと立ち上がり、ギンの所へすり寄っていく。ギンは微動だにしない。自分自身を抱きしめたまま、ピクリとも動かない。

「ギン」
「え――っ」

 その小さな背中を――まともに愛情を受けずに育ったその体を、ひしと抱きしめる。

「大丈夫。大丈夫ですから」
「スズ――?」

 腕に込める力を強める。ギンが少し痛みに顔を歪めるが、気にせずスズはその身を抱きしめる。更に下半身の蛇体もその体に巻き付け、文字通り全身でギンを包み込む。

「あなたには、私がいます。もう、大丈夫」
「――ッ」
「もう、一人にはさせません。もう誰にいじめさせません。ずっと、私が傍に居ます」
「スズ……」
「お願いです……傍に……」

 自身の前に組まれたスズの腕を、その鱗に包まれた頑強な腕を、ギンがしっかりと握り返す。

「私を……傍にいさせてください……」

 スズが涙声で告白する。
 ギンは答える代わりに、僅かに後ろに倒れ込んでスズに身を傾ける。ギンの肩越しにスズの顔が横並びになる。
 スズの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

「……ごめん。今まで何も言わなくて」

 その涙に濡れた頬をそっと撫で、首を回してスズの顔を見つめながらギンが言った。

「実はさ、ずっと、気づいてたんだ。自分の気持ちに」
「……ふえ?」

 スズが震えた、素っ頓狂な声を上げる。一度深呼吸して、ギンが一息に告げた。

「僕も、前からスズが好きだった。いつからかは判らないけど、とにかく好きになっていたんだ。今まではそれに気づかなかったけど、今日、スズにそれを言われて僕も気づけた」
「……ああ……!」

 体を支え合ったまま、スズとギンが顔を向け合う。

「好きです。僕と一緒にいてください」
「ギン――!」

 感極まったスズがギンの唇を奪う。強引な、手加減を知らないそれに対し、ギンは拒絶する事無く、一心にそれに答えた。

「んっ……」
「ちゅっ……くちゅ、ちゅ……ぷはっ」

 最初の口づけはものの数秒で終わった。ギンもそうだったのだが、スズもスズで下準備なしに勢いに任せてしてしまったために息が続かなかったのだ。

「……い、いきなり、やってしまいました……」
「……」

 事を終えて、二人が顔を真っ赤にして見つめ合う。

「こ、これって、卑怯ですよね……?」

 そうする後に、不意にスズがそう漏らした。「どうして?」と尋ねるギンに対し、スズはたどたどしい口調で続けた。

「だ、だって、なんだかその、あなたの弱みにつけ込んだというか、どさくさに紛れて告白してしまったというか……」

 しかしそこまで言いかけたスズの唇を、今度はギンが奪った。

「ふむぅ――!?」
「ん……ちゅ……」

 しかしこれも一瞬で終わる。すぐさま唇を離し、ギンが微笑みながら言った。

「そんな事無いよ」
「はあ、はあ……へ……?」
「スズは、ずっと僕の傍にいてくれた。ずっと僕を気に掛けてくれていた。僕にとって君は、とても大事な存在だったんだ。僕はそんな君の告白なら、いつだって受けるつもりだった」
「じゃ、じゃあ、別に今日じゃ無くても……」
「ああ。君を受け入れたいといつも想っていた……ごめん。こんな根性無しで」

 ギンがそう言って自虐的に笑う。スズはそんなギンの頬に、そっと自分の手を添えた。

「……もう、こういうことは、男性の方から言うものですよ?」
「あ、うん。ごめん」
「――まあ、可愛いから許してあげます。ふふっ」
「な、可愛いって」

 突然の事にうろたえるギンを見てクスクス笑った後、蛇体を更に締め上げて互いの体を密着させながらスズが言った。

「ギン」
「な、なんだい?」
「ふ、不束者ですが、その……」

 言葉を切り、そして満面の笑みを作る。

「よろしくお願いしますね、旦那様」




 人の住む所から遠く外れた所に、一つの湖がある。
 そこは元より人の往来に適した場所では無く、特に目立った場所も無いので、好きこのんでそこに向かう者はいない未開の地であった。通る者がいるにはいたが、それらはたいてい商売のために遠くからやって来る行商人であった。
 そんな地にぽつんとあるその湖に、とある人間と魔物の夫婦が静かに暮らしているとの噂が、ある日唐突にその町に上がった。だが殆どの人はそれを聞き流し、実際に言って確かめようとする者もいなかった。前述の通りそこは周囲からは隔絶された未開の地であり、そこにわざわざ足を踏み入れて確認しようなどと考える者は皆無だったのだ。

「間違いねえ。俺は見たんだ。あの湖のほとりで、魔物と人間が仲良くやってるのをよ」

 そして結局、そんな行商人達の訴えも虚しく、その噂は噂の域を出ないまま、町の中でまことしやかに語られる程度に終わった。




 閉じられた世界で、二人は今も生きている。
13/01/21 00:27更新 / 蒲焼

■作者メッセージ
お久しぶりです。
本当にお久しぶりです。
今まで他の用事で忙しかったのですが、今になって高まってきたリビドーを抑えきれずに、久しぶりにこちらに作品を投稿させていただきました。
読んでいただけたら幸いです。それでは。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33