萌えたアオオニ
アオオニは頭が切れる。計算高く、理知的で論理的思考も得意だ。彼女達に解けない計算は無いのだ。
だがそんなアオオニの頭脳をもってしても、解き明かす事の出来ない『難題』が一つだけ存在した。
ジパングのとある海沿いの町に、『龍宮亭』と言う名の旅館がある。
清潔で開放的な室内。海の幸をふんだんに使った美味い料理。お客様に対する暖かく丁寧な従業員の心配り。それでいて決して高いとは言えない良心的な価格設定と来れば、その町を代表する有名旅館と呼ばれるのも当然の事だった。
そしてこの旅館では――ジパングでは最早当たり前の光景でもあるのだが――人間と魔物が共に働き、旅館を切り盛りしていた。
アオオニの桃山花子もまた、その旅館で経理と受付の仕事をしていた。
「はい。それではお部屋の鍵を……はい、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
午後二時。それまで泊まっていた宿泊客に、カウンター越しに花子が深々とお辞儀をする。その丁寧かつ明瞭な姿は実に堂に入っていた。
そしてその宿泊客と入れ違いになるようにやって来た客に対して、花子は心からの歓迎を込めた笑顔で応対した。
「ようこそ、竜宮亭へ。お待ちしておりました。ご予約していただいたヨシカワ様でございますね? ただいま案内の者が来ますので、そちらのソファでお待ち下さい」
そう言ってはきはきとした態度で宿泊客をもてなす彼女の姿は、まさに旅館の顔と言ってもいい程に凛々しく立派な物だった。
「ねえお姉さん。ちょっと聞きたいことあるんだけどさ、いいかな?」
「はい。なんでございましょうか?」
そしてこの地に慣れていない遠くからの宿泊客に対しても、彼女は真心込めた対応を忘れない。卑屈にならず、傲慢にもならず、懇切丁寧に客からの質問に答えていく。
花子の頭の中にはこの町一帯の地図が叩き込まれている。道案内もお手のものだ。
「……ですので、お客様のご要望にお答え出来る場所の中で一番近い所と致しましては、こちらが宜しいかと」
「なるほどねー。ありがとう、参考になったよ」
「いえ、お役に立てて幸いでございます」
「しかし君、なかなか可愛いね。どうだい? この後俺と一緒にお茶でも……」
「ごめんなさい。あなたタイプじゃないの」
時たまやってくる男性客の誘い――ナンパである――をバッサリ切り捨てるその姿もまた、従業員の鑑たる立派な振舞いであった。
ストレート過ぎる感が無い訳では無かったが。
「うーん……」
午後三時。あらかたの仕事を終え、花子が体を解そうと背伸びをしていたその時だった。
「あ、花子さん」
彼女にとっての『難題』がカウンター右手側の奥からやってきたのだ。それは体を伸ばしていた花子の姿に気づくと、朗らかな笑顔で挨拶をした。
「こんにちは」
それは一人の人間の青年だった。紺の作務衣を羽織って肩から籠を斜めに掛け、その手には釣竿が握られていた。
宮野一。一年前からこの旅館で働き始めた板前見習いである。
「え……あ、うん……こんにちは……」
そして一に挨拶をされた瞬間、生まれつき真っ青な花子の顔は一瞬で茹で蛸のように真っ赤になってしまっていた。かつて見せていた凛々しさなどどこにもない。緊張で唇はワナワナ震えていたが、大きく見開かれた目は一の姿を捉えて離さなかった。
「花子さん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ッ! い、いや、そうじゃないの。ただ、その……」
「?」
「……き、今日も、その……素材調達の?」
「ああ」
しどろもどろながらに放たれた花子の言葉を受けて、一が得心したように破顔する。そして竿を軽く上げながら苦笑交じりに言った。
「うん。食材の良し悪しは体で覚えるモンだって板長に言われてね。漁船に同行する事になったんだ」
「そ、そうなんだ……じゃあ、それは?」
花子が伏し目がちに竿と籠を交互に見つめる。一が答えた。
「ああこれ? これは、アレだよ。一本釣り用のセットさ」
「ハジメ君、一本釣りに行くの? いつもの網じゃなくて?」
「うん。今日は網じゃなくて釣竿。これ一振りで魚を釣り上げるんだよ、一日かけてね。だから帰るのは明日辺りになると思うんだ」
「あ……そうなの……」
明日まで帰ってこない。花子の顔に陰が差す。だがハジメを心配させる訳にはいかない。すぐにいつも通りの顔――色は真っ赤なままだが――に戻って花子が言った。
「じ、じゃあ、ハジメ君、頑張ってきてね?」
「うん。行ってくるよ」
「ええ、いってらっしゃい……それと……その……」
「?」
不意に口ごもらせた花子を見て一が首をひねる。だが一が何事かを言おうと口を開いた直後、
「――おみやげ! おみやげ期待してるからね!」
「え、あ、うん」
花子に大声かつ早口でまくし立てられ、思わず口を噤む。だが一はそれを不審に思わず、自然と笑みを浮かべて花子に言った。
「それじゃあ、改めて行ってくるよ。お土産つきで」
「ええ。気をつけてね」
「うん」
満面の笑みを浮かべた一が玄関口から出ていく。花子はその背中を目に焼き付けるようにじっと見続け、姿が見えなくなった後もなお、その観音開きの玄関出入口を見つめ続けていた。
「はあ……」
暫くそうした後、やっと視線を正面に戻して花子が溜め息を吐いた。自分の臆病さ、不甲斐なさに対しての失望の溜め息だ。
「どうして素直になれないのかしら……はあ……」
アオオニにとっての『難題』。
今さら言わなくても判るだろうが、花子は恋をしていた。
「で? 今日もアタックかけられなかったって訳?」
「う、うん……」
その日の夕方。
自分のシフトを終え自室で休んでいた花子は、同じくシフト上がりで遊びにやって来たサキュバスのジェシーに事の顛末を聞かせていた。彼女は大陸から海を渡ってジパングに亡命してきた魔物娘で、生活費を稼げる場所――と言うよりも雨風凌げるねぐらを探す中で見つけたこの旅館で花子と出会い、共に働く内に二人は友人関係になっていたのだった。
ちなみに彼女は、ここでは仲居として住み込みで働いていた……。
閑話休題。
丸テーブルを挟むようにして座りながら話を聞き終えたジェシーが、呆れた口調で花子に言った。
「アンタもさあ、早いトコ覚悟決めなさいよ。オニなんでしょ? もっとガツンと行かなきゃ」
「う、うん。わかってるけどさ……」
対して花子は、全然オニらしくない控えめな態度で返す。この娘、一般的なアオオニに見られる強気な気性が全く見られなかったのだが、それが育った環境に拠るものなのか生まれつきのものなのかは誰にも判らなかった。
「わかってるわよ? わかってるけど……ううっ」
「はあ……」
ジェシーは花子の事を良い友人と思っていたが、同時にこの恋愛に対して臆病な性格に対してもどかしく感じてもいた。そんな複雑な心情を吐き出すかのようにジェシーが続ける。
「あのねえ。ハジメ君だっていつまでも独り身じゃないのよ? 下手したら、他の女の子に取られるかもしれないんだから。わかってるでしょ?」
「そ、それくらいわかってるわよ」
「じゃあ行動するしかないんじゃない? ジパングには『思い立ったが吉日』て言う立派な格言があるじゃない」
「……それができたら、苦労しないよう」
俯き、指をこね合わせる花子。この時既に、その真っ青な肌は羞恥で真っ赤になっていた。
コイツは本当にオニなのか?
その弱々しい光景を見て、ジェシーはそう思わずにいられなかった。そしてそう思った直後、部屋の隅から別の女性の声が聞こえてきた。
「相変わらずハナちゃんは乙女にゃ。乙女すぎて見てるこっちが恥ずかしくなってくるにゃ」
居候のネコマタ、シマである。旅館で働く事は一切せずに、花子の飼猫と言う事でこの部屋に上がり込んでいる。
「でもジェシーの言う事も一理あるにゃ。乙女だけじゃ恋は出来ないにゃ」
「まったくその通りね。乙女だけじゃなくてケダモノにならないと、愛は勝ち取れないのよ?」
「ケ、ケダモノって……」
ジェシーとシマの口撃に、花子が思わずたじろぐ。そしてその煮え切らない態度を見て埒が明かないと思ったのか、四つん這いでジェシーの隣に来たシマが花子に言った。
「そうにゃ、ケダモノにゃ。ケダモノになって、ハジメを押し倒せばいいのにゃ」
「……具体的に何すればいいの?」
「それは簡単にゃ。まずはハジメと二人っきりになって、次にお酒を」
「それは駄目!」
だがその直後、花子がそれまでの大人しさが嘘のように声を荒げてシマの言葉を遮る。突然の事に目を丸くする友人と飼い猫だったが、すぐに我に返って再びしおらしくなった花子を見て揃って溜め息を吐く。
「……そうよ。駄目よ、お酒なんか。そんな物に頼ってハジメ君とやっちゃうなんて、絶対駄目なんだから……」
「乙女にゃ」
「乙女ね」
再びサキュバスとネコマタが溜め息を吐く。だがその後、何らかの決意を決めた真面目な表情でジェシーが言った。
「お酒が駄目なら、もう直接行くしか手はないわね」
「直接?」
「素面のままハジメ君を犯せって事よ」
「――!」
驚きのあまり口を開いたまま声も出せなくなっていた花子の隣にジェシーが歩み寄り、その横に腰を下ろしてその額に手を押し当てる。
「ちょ、ジェシー!?」
「何する気にゃ?」
「頭に魔力を流して仮想現実……アンタが今一番したいとボンヤリ考えている事を明確な形にして、脳内で再生させるの。頭の中だけで起こる幻覚魔法って感じかしら。まあ、本番に備えてのイメージトレーニングよ」
「自分に自信を付けさせようって腹積もりかにゃ?」
「それもあるわね。それとケダモノと化した自分の姿に対しての嫌悪感を捨て去ろうっていうのも理由の一つ。アンタ魔物娘のくせに臆病って言うか、潔癖すぎるのよ」
「……」
ジェシーの言葉に花子が押し黙る。自分が魔物娘らしからぬ性格をしている事は、彼女が一番良く知っていたからだ。一部の高圧的な魔物達から『大人しすぎる』と鼻で笑われている事も知っている。
「でも一番の理由は、アンタが恋人とどう言う感じでズッコンバッコンするのか見たいからかしらね♪」
「ちょ――!?」
性欲旺盛なサキュバスの爆弾発言に硬直する花子を放置して、ジェシーがシマの額に空いた手を押し当てる。
「こうすれば、私を介して花子の考えている事がアンタの頭にも入ってくるわ」
「おおう! 花子はどんな感じのプレイがお好みなのかにゃ!?」
「ま、待ってよ! 私はまだ」
「拒否権はありませーん♪」
花子を黙らせる代わりに、その頭に魔力を流し込む。催淫性のあるその魔力を直接流し込まれ、一瞬だけ驚愕に満ちていた顔が見る見る内に快楽に蕩けていく。
その耳元に口を近づけ、ジェシーが甘く囁く。
「さあ。怖がらないで。自分を解き放って……アンタは、ハジメ君と何がしたいの? どうやって愛し合いたいの? それだけを、その光景だけを強く思い描くて……♥」
「イ、イヤ、あ――ああ……っ♥」
だらしなく眉根を下げて口を開け、口の端から唾液を垂れ流す。そんな花子の淫らな姿を愛おしく見つめるジェシーの脳内に、花子が思い描いた『初夜』の光景が浮かび上がってきた。
薄暗闇の部屋で、一組の男女が向かい合う。
一人は人間。一人はオニ。
どちらも羞恥で顔を真っ赤にしていたが、その瞳には僅かな期待の輝きも見えていた。
「ハジメ君……」
オニが消えそうな声でつぶやく。その頬をハジメと呼ばれた男がそっと撫でる。
「あっ……」
「ハジメって、呼んで」
「……ああっ♥」
愛しい人からの呼びかけに全身が打ち震える。嬉しさが電流となって体を駆け抜け、すぐさま全身から力が抜け落ちて目の前の恋人にその身を預ける。
しなだれかかってきたオニの体を、ハジメが優しく抱きとめる。愛する男の匂いと体温に包まれて頭をとろとろに溶かされる中で、オニが顔を上げてハジメの顔を見つめる。
蕩けきった瞳がハジメの顔を映しだす。その顔は自分に対して優しく微笑みかけていた。
目を閉じ、恐る恐る唇を前に突き出す。理解したハジメがゆっくり顔を近づけていく。
そっと、唇が重なり合う。
「うん……っ」
「ちゅっ……ちゅむ、あむ……」
最初は唇同士を触れ合わせるだけの、簡単なキス。それは次第に熱を帯びて激しさを増し、ついには舌を絡め合い唾液を飲み合う情熱的な物へと変わっていった。
「ぴちゅ……ちゅ……くちゅ、んむ……」
「はあ……んっ、ちゅっ、くちゅっ……」
愛してる♥
愛してる♥♥
愛してる――ッ♥♥♥
ああ、こんなに想っているのに、言葉に出来ないなんてっ♪♪♪
「ぷは……」
「あ……ッ」
やがて名残惜しそうに重ねあった唇を離し、体を起こす。唾液が糸を引き、二人の唇の間に橋を掛ける。
「あ……んむっ」
何かを言いかけたオニの口を、ハジメが人差し指で塞ぐ。
そして何事かと驚くオニの耳元に顔を寄せ、そっと言葉を囁く。
「愛してる」
――あああっっ♥♥
それは毒のように全身を駆け巡り、オニの心を喜びで塗りつぶす。
幸せと快楽で心がグチャグチャになり、もう何も考えられなくなるっ♥
「愛してるよ、ハナ」
やめてっ♥ やめてぇぇぇぇっっ♥
わたしもう幸せでっ♥ 幸せでっっ♥
「愛してる」
壊れちゃうううぅぅぅぅぅっっ♥♥♥
ブツン。
「あ、あれっ?」
いきなり脳内の映像が消え去り視界がクリアになった事に、ジェシーが素っ頓狂な声を上げる。横にいたシマも同じように、突然の事に目をパチクリさせていた。
「何にゃ? どうしたのにゃ?」
「もう、どうしたって言うのよ、これからが良い所……」
不満気にそこまで言いかけて、ジェシーが言葉を止めた。
彼女の視界には花子が映っていた。
「ジェシー、どうしたっていうのにゃ?」
「これ……」
ジェシーの視線の先。
額に当てられたジェシーの腕を両手で脇にどかし、目を瞑り幸せそうに笑みを浮かべる花子の姿があった。
「まさか、自力で接続を切ったって言うのかにゃ?」
「そんな。私の術は完璧に発動していたわ。頭の中に魔力垂れ流しで、快楽以外何も考えられなくなっていたはず――」
まさか、とそこで息を呑み、ジェシーが震える声で言った。
「それでも、私達に見せたくなかったから……?」
「にゃ?」
「ハジメ君のエッチな姿は、誰にも見せたくなかったから?」
シマが驚いた表情で花子を見る。
花子は幸せそうに微笑んでいた。
「やん……もう、ハジメってば落ち着いて? アナタは私の、私はアナタだけの……うにゃん♪ やぁん♪」
「……乙女にゃ」
「乙女ね」
頭の中で一人恋人と睦み合う花子の姿を見て、ジェシーとシマが揃って溜め息を吐いた。
数時間後。
自分のした事を思い出し、花子は今にも自殺しそうなんじゃないかと疑われる程に自己嫌悪に陥っていた。
だがそんなアオオニの頭脳をもってしても、解き明かす事の出来ない『難題』が一つだけ存在した。
ジパングのとある海沿いの町に、『龍宮亭』と言う名の旅館がある。
清潔で開放的な室内。海の幸をふんだんに使った美味い料理。お客様に対する暖かく丁寧な従業員の心配り。それでいて決して高いとは言えない良心的な価格設定と来れば、その町を代表する有名旅館と呼ばれるのも当然の事だった。
そしてこの旅館では――ジパングでは最早当たり前の光景でもあるのだが――人間と魔物が共に働き、旅館を切り盛りしていた。
アオオニの桃山花子もまた、その旅館で経理と受付の仕事をしていた。
「はい。それではお部屋の鍵を……はい、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
午後二時。それまで泊まっていた宿泊客に、カウンター越しに花子が深々とお辞儀をする。その丁寧かつ明瞭な姿は実に堂に入っていた。
そしてその宿泊客と入れ違いになるようにやって来た客に対して、花子は心からの歓迎を込めた笑顔で応対した。
「ようこそ、竜宮亭へ。お待ちしておりました。ご予約していただいたヨシカワ様でございますね? ただいま案内の者が来ますので、そちらのソファでお待ち下さい」
そう言ってはきはきとした態度で宿泊客をもてなす彼女の姿は、まさに旅館の顔と言ってもいい程に凛々しく立派な物だった。
「ねえお姉さん。ちょっと聞きたいことあるんだけどさ、いいかな?」
「はい。なんでございましょうか?」
そしてこの地に慣れていない遠くからの宿泊客に対しても、彼女は真心込めた対応を忘れない。卑屈にならず、傲慢にもならず、懇切丁寧に客からの質問に答えていく。
花子の頭の中にはこの町一帯の地図が叩き込まれている。道案内もお手のものだ。
「……ですので、お客様のご要望にお答え出来る場所の中で一番近い所と致しましては、こちらが宜しいかと」
「なるほどねー。ありがとう、参考になったよ」
「いえ、お役に立てて幸いでございます」
「しかし君、なかなか可愛いね。どうだい? この後俺と一緒にお茶でも……」
「ごめんなさい。あなたタイプじゃないの」
時たまやってくる男性客の誘い――ナンパである――をバッサリ切り捨てるその姿もまた、従業員の鑑たる立派な振舞いであった。
ストレート過ぎる感が無い訳では無かったが。
「うーん……」
午後三時。あらかたの仕事を終え、花子が体を解そうと背伸びをしていたその時だった。
「あ、花子さん」
彼女にとっての『難題』がカウンター右手側の奥からやってきたのだ。それは体を伸ばしていた花子の姿に気づくと、朗らかな笑顔で挨拶をした。
「こんにちは」
それは一人の人間の青年だった。紺の作務衣を羽織って肩から籠を斜めに掛け、その手には釣竿が握られていた。
宮野一。一年前からこの旅館で働き始めた板前見習いである。
「え……あ、うん……こんにちは……」
そして一に挨拶をされた瞬間、生まれつき真っ青な花子の顔は一瞬で茹で蛸のように真っ赤になってしまっていた。かつて見せていた凛々しさなどどこにもない。緊張で唇はワナワナ震えていたが、大きく見開かれた目は一の姿を捉えて離さなかった。
「花子さん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ッ! い、いや、そうじゃないの。ただ、その……」
「?」
「……き、今日も、その……素材調達の?」
「ああ」
しどろもどろながらに放たれた花子の言葉を受けて、一が得心したように破顔する。そして竿を軽く上げながら苦笑交じりに言った。
「うん。食材の良し悪しは体で覚えるモンだって板長に言われてね。漁船に同行する事になったんだ」
「そ、そうなんだ……じゃあ、それは?」
花子が伏し目がちに竿と籠を交互に見つめる。一が答えた。
「ああこれ? これは、アレだよ。一本釣り用のセットさ」
「ハジメ君、一本釣りに行くの? いつもの網じゃなくて?」
「うん。今日は網じゃなくて釣竿。これ一振りで魚を釣り上げるんだよ、一日かけてね。だから帰るのは明日辺りになると思うんだ」
「あ……そうなの……」
明日まで帰ってこない。花子の顔に陰が差す。だがハジメを心配させる訳にはいかない。すぐにいつも通りの顔――色は真っ赤なままだが――に戻って花子が言った。
「じ、じゃあ、ハジメ君、頑張ってきてね?」
「うん。行ってくるよ」
「ええ、いってらっしゃい……それと……その……」
「?」
不意に口ごもらせた花子を見て一が首をひねる。だが一が何事かを言おうと口を開いた直後、
「――おみやげ! おみやげ期待してるからね!」
「え、あ、うん」
花子に大声かつ早口でまくし立てられ、思わず口を噤む。だが一はそれを不審に思わず、自然と笑みを浮かべて花子に言った。
「それじゃあ、改めて行ってくるよ。お土産つきで」
「ええ。気をつけてね」
「うん」
満面の笑みを浮かべた一が玄関口から出ていく。花子はその背中を目に焼き付けるようにじっと見続け、姿が見えなくなった後もなお、その観音開きの玄関出入口を見つめ続けていた。
「はあ……」
暫くそうした後、やっと視線を正面に戻して花子が溜め息を吐いた。自分の臆病さ、不甲斐なさに対しての失望の溜め息だ。
「どうして素直になれないのかしら……はあ……」
アオオニにとっての『難題』。
今さら言わなくても判るだろうが、花子は恋をしていた。
「で? 今日もアタックかけられなかったって訳?」
「う、うん……」
その日の夕方。
自分のシフトを終え自室で休んでいた花子は、同じくシフト上がりで遊びにやって来たサキュバスのジェシーに事の顛末を聞かせていた。彼女は大陸から海を渡ってジパングに亡命してきた魔物娘で、生活費を稼げる場所――と言うよりも雨風凌げるねぐらを探す中で見つけたこの旅館で花子と出会い、共に働く内に二人は友人関係になっていたのだった。
ちなみに彼女は、ここでは仲居として住み込みで働いていた……。
閑話休題。
丸テーブルを挟むようにして座りながら話を聞き終えたジェシーが、呆れた口調で花子に言った。
「アンタもさあ、早いトコ覚悟決めなさいよ。オニなんでしょ? もっとガツンと行かなきゃ」
「う、うん。わかってるけどさ……」
対して花子は、全然オニらしくない控えめな態度で返す。この娘、一般的なアオオニに見られる強気な気性が全く見られなかったのだが、それが育った環境に拠るものなのか生まれつきのものなのかは誰にも判らなかった。
「わかってるわよ? わかってるけど……ううっ」
「はあ……」
ジェシーは花子の事を良い友人と思っていたが、同時にこの恋愛に対して臆病な性格に対してもどかしく感じてもいた。そんな複雑な心情を吐き出すかのようにジェシーが続ける。
「あのねえ。ハジメ君だっていつまでも独り身じゃないのよ? 下手したら、他の女の子に取られるかもしれないんだから。わかってるでしょ?」
「そ、それくらいわかってるわよ」
「じゃあ行動するしかないんじゃない? ジパングには『思い立ったが吉日』て言う立派な格言があるじゃない」
「……それができたら、苦労しないよう」
俯き、指をこね合わせる花子。この時既に、その真っ青な肌は羞恥で真っ赤になっていた。
コイツは本当にオニなのか?
その弱々しい光景を見て、ジェシーはそう思わずにいられなかった。そしてそう思った直後、部屋の隅から別の女性の声が聞こえてきた。
「相変わらずハナちゃんは乙女にゃ。乙女すぎて見てるこっちが恥ずかしくなってくるにゃ」
居候のネコマタ、シマである。旅館で働く事は一切せずに、花子の飼猫と言う事でこの部屋に上がり込んでいる。
「でもジェシーの言う事も一理あるにゃ。乙女だけじゃ恋は出来ないにゃ」
「まったくその通りね。乙女だけじゃなくてケダモノにならないと、愛は勝ち取れないのよ?」
「ケ、ケダモノって……」
ジェシーとシマの口撃に、花子が思わずたじろぐ。そしてその煮え切らない態度を見て埒が明かないと思ったのか、四つん這いでジェシーの隣に来たシマが花子に言った。
「そうにゃ、ケダモノにゃ。ケダモノになって、ハジメを押し倒せばいいのにゃ」
「……具体的に何すればいいの?」
「それは簡単にゃ。まずはハジメと二人っきりになって、次にお酒を」
「それは駄目!」
だがその直後、花子がそれまでの大人しさが嘘のように声を荒げてシマの言葉を遮る。突然の事に目を丸くする友人と飼い猫だったが、すぐに我に返って再びしおらしくなった花子を見て揃って溜め息を吐く。
「……そうよ。駄目よ、お酒なんか。そんな物に頼ってハジメ君とやっちゃうなんて、絶対駄目なんだから……」
「乙女にゃ」
「乙女ね」
再びサキュバスとネコマタが溜め息を吐く。だがその後、何らかの決意を決めた真面目な表情でジェシーが言った。
「お酒が駄目なら、もう直接行くしか手はないわね」
「直接?」
「素面のままハジメ君を犯せって事よ」
「――!」
驚きのあまり口を開いたまま声も出せなくなっていた花子の隣にジェシーが歩み寄り、その横に腰を下ろしてその額に手を押し当てる。
「ちょ、ジェシー!?」
「何する気にゃ?」
「頭に魔力を流して仮想現実……アンタが今一番したいとボンヤリ考えている事を明確な形にして、脳内で再生させるの。頭の中だけで起こる幻覚魔法って感じかしら。まあ、本番に備えてのイメージトレーニングよ」
「自分に自信を付けさせようって腹積もりかにゃ?」
「それもあるわね。それとケダモノと化した自分の姿に対しての嫌悪感を捨て去ろうっていうのも理由の一つ。アンタ魔物娘のくせに臆病って言うか、潔癖すぎるのよ」
「……」
ジェシーの言葉に花子が押し黙る。自分が魔物娘らしからぬ性格をしている事は、彼女が一番良く知っていたからだ。一部の高圧的な魔物達から『大人しすぎる』と鼻で笑われている事も知っている。
「でも一番の理由は、アンタが恋人とどう言う感じでズッコンバッコンするのか見たいからかしらね♪」
「ちょ――!?」
性欲旺盛なサキュバスの爆弾発言に硬直する花子を放置して、ジェシーがシマの額に空いた手を押し当てる。
「こうすれば、私を介して花子の考えている事がアンタの頭にも入ってくるわ」
「おおう! 花子はどんな感じのプレイがお好みなのかにゃ!?」
「ま、待ってよ! 私はまだ」
「拒否権はありませーん♪」
花子を黙らせる代わりに、その頭に魔力を流し込む。催淫性のあるその魔力を直接流し込まれ、一瞬だけ驚愕に満ちていた顔が見る見る内に快楽に蕩けていく。
その耳元に口を近づけ、ジェシーが甘く囁く。
「さあ。怖がらないで。自分を解き放って……アンタは、ハジメ君と何がしたいの? どうやって愛し合いたいの? それだけを、その光景だけを強く思い描くて……♥」
「イ、イヤ、あ――ああ……っ♥」
だらしなく眉根を下げて口を開け、口の端から唾液を垂れ流す。そんな花子の淫らな姿を愛おしく見つめるジェシーの脳内に、花子が思い描いた『初夜』の光景が浮かび上がってきた。
薄暗闇の部屋で、一組の男女が向かい合う。
一人は人間。一人はオニ。
どちらも羞恥で顔を真っ赤にしていたが、その瞳には僅かな期待の輝きも見えていた。
「ハジメ君……」
オニが消えそうな声でつぶやく。その頬をハジメと呼ばれた男がそっと撫でる。
「あっ……」
「ハジメって、呼んで」
「……ああっ♥」
愛しい人からの呼びかけに全身が打ち震える。嬉しさが電流となって体を駆け抜け、すぐさま全身から力が抜け落ちて目の前の恋人にその身を預ける。
しなだれかかってきたオニの体を、ハジメが優しく抱きとめる。愛する男の匂いと体温に包まれて頭をとろとろに溶かされる中で、オニが顔を上げてハジメの顔を見つめる。
蕩けきった瞳がハジメの顔を映しだす。その顔は自分に対して優しく微笑みかけていた。
目を閉じ、恐る恐る唇を前に突き出す。理解したハジメがゆっくり顔を近づけていく。
そっと、唇が重なり合う。
「うん……っ」
「ちゅっ……ちゅむ、あむ……」
最初は唇同士を触れ合わせるだけの、簡単なキス。それは次第に熱を帯びて激しさを増し、ついには舌を絡め合い唾液を飲み合う情熱的な物へと変わっていった。
「ぴちゅ……ちゅ……くちゅ、んむ……」
「はあ……んっ、ちゅっ、くちゅっ……」
愛してる♥
愛してる♥♥
愛してる――ッ♥♥♥
ああ、こんなに想っているのに、言葉に出来ないなんてっ♪♪♪
「ぷは……」
「あ……ッ」
やがて名残惜しそうに重ねあった唇を離し、体を起こす。唾液が糸を引き、二人の唇の間に橋を掛ける。
「あ……んむっ」
何かを言いかけたオニの口を、ハジメが人差し指で塞ぐ。
そして何事かと驚くオニの耳元に顔を寄せ、そっと言葉を囁く。
「愛してる」
――あああっっ♥♥
それは毒のように全身を駆け巡り、オニの心を喜びで塗りつぶす。
幸せと快楽で心がグチャグチャになり、もう何も考えられなくなるっ♥
「愛してるよ、ハナ」
やめてっ♥ やめてぇぇぇぇっっ♥
わたしもう幸せでっ♥ 幸せでっっ♥
「愛してる」
壊れちゃうううぅぅぅぅぅっっ♥♥♥
ブツン。
「あ、あれっ?」
いきなり脳内の映像が消え去り視界がクリアになった事に、ジェシーが素っ頓狂な声を上げる。横にいたシマも同じように、突然の事に目をパチクリさせていた。
「何にゃ? どうしたのにゃ?」
「もう、どうしたって言うのよ、これからが良い所……」
不満気にそこまで言いかけて、ジェシーが言葉を止めた。
彼女の視界には花子が映っていた。
「ジェシー、どうしたっていうのにゃ?」
「これ……」
ジェシーの視線の先。
額に当てられたジェシーの腕を両手で脇にどかし、目を瞑り幸せそうに笑みを浮かべる花子の姿があった。
「まさか、自力で接続を切ったって言うのかにゃ?」
「そんな。私の術は完璧に発動していたわ。頭の中に魔力垂れ流しで、快楽以外何も考えられなくなっていたはず――」
まさか、とそこで息を呑み、ジェシーが震える声で言った。
「それでも、私達に見せたくなかったから……?」
「にゃ?」
「ハジメ君のエッチな姿は、誰にも見せたくなかったから?」
シマが驚いた表情で花子を見る。
花子は幸せそうに微笑んでいた。
「やん……もう、ハジメってば落ち着いて? アナタは私の、私はアナタだけの……うにゃん♪ やぁん♪」
「……乙女にゃ」
「乙女ね」
頭の中で一人恋人と睦み合う花子の姿を見て、ジェシーとシマが揃って溜め息を吐いた。
数時間後。
自分のした事を思い出し、花子は今にも自殺しそうなんじゃないかと疑われる程に自己嫌悪に陥っていた。
12/08/19 19:21更新 / 蒲焼