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第3話 真夏のミストラル(後編)
「……ん…」
ジャンは目を覚ました。首筋を汗が伝う。
不機嫌な顔でむくりと体を起こし、ぼんやりと部屋の中を眺める。
「……暑い…」
カーテンを開け放した窓から差し込む真夏の日差しが容赦無く背中に照りつけていた。寝汗で服がじっとりと湿っている。
ジャンは緩慢な動作でベッドを降りると、窓に歩み寄り乱暴にカーテンを閉めた。
薄暗くなった部屋に目を向けると、ベッドの脇のデジタル時計が目に入った。午後4時45分。これほど長時間にわたり眠ったのは久しぶりだった。
「……」
半分ほど覚醒した頭でゆっくりと部屋を見回す。テーブルの上には旧式のテレビ、スタンドライト、鏡。黒塗りの小さな冷蔵庫。ベッドの上には昨夜放り投げたままの荷物と帽子。そして……。
「……やっぱ夢じゃなかったか…」
昨夜と全く同じ姿勢でドアの前に立つ、石像と化したエリーザの姿があった。

「本当に石なんだな……」
石像の前に立ち、まじまじとその身体を眺めるジャン。身につけているジャージはそのままだったが、肌が露出している部分は完全に白い大理石へと変貌していた。
そっと手を伸ばし、昨夜したように腕や肩、頬に触れてみる。どこを触っても、手に感じるのは滑らかな冷たい石の感触だった。
「……」
じっと石像の顔を見つめてみるジャン。大きく見開かれたまま固まった目は、光を失ってただ虚空を見つめている。
ひょっとしたら。ジャンは思った。今のこの状況は、身に余るほどの贅沢なのではないか。自分以外誰もいないこのホテルの一室で、目の前にあるのは世界有数の美術品。自分は今まで興味もなかったことだが、大金を払ってでもこの権利を手に入れたいと願う人間は世界中にいるはずだった。
確かに、見れば見るほど完璧に均整のとれた顔つき体つきは美しいと言う他なく、遥か古典古代に造られたにも関わらず現代にも通じる美を体現している。古代人の叡智が生み出したその奇跡は、美術に疎いジャンにも朧げには理解できた。
しかし、そう感じてもなお、
「…やっぱ……動いてなきゃダメなのかな…」
ジャンはどこか物足りなさを感じていた。
大理石に彫られた形の良い瞳より、くるくるとよく動く大きなグリーンの瞳がいい。
古代の優美な微笑みをたたえた小さな唇より、うるさいくらいに生意気な言葉をまくし立てるあの口がいい。
傷一つ無い雪のように白い大理石よりも、血色のいい昨日の彼女の肌の方がずっと……

「……いや、何を考えてんだ俺は…」
ジャンはふと我に返り、今しがた浮かんだ考えを慌てて振り払った。
石像の彼女と生きている彼女のどちらが魅力的かなど、今はどちらでもいいことのはずだった。無意識に昨日の彼女を魅力的などと考えていた自分が恥ずかしくなる。
「…ったく。こんなんだから俺は芸術が分からねえんだ…」
ドアの前のエリーザに触れないように気をつけながら、ジャンはシャワーを浴びるためにバスルームへと入っていった。



声が聞こえる。
ジャンが何かをブツブツと呟く声だ。
次に着ている服の感触を感じる。
ジャージ特有のざらついた質感が、最初は足、それから背中、胸に触れるようになる。
最後にまばたきを一つ。
ゆっくりと目を開けると、昨日の夜と同じ、こぢんまりとしたホテルの部屋が目の前に広がっていた。窓側のベッドにはジャンがこちらに背を向けて座り、新聞を広げて食い入るように記事を目で追っている。
エリーザは動くようになった手足を大きく伸ばして身体をほぐすと、ジャンの背中に声をかけに行った。
「おはよう。何をそんなに唸ってるのよ?」
声をかけられたジャンはびくりと肩を震わせると、疲れた目をして振り返った。
「あ…あぁ、びっくりした。…もう動けるのか?」
「そうみたいね。もう日が沈んだってことじゃない?」
ジャンが立ち上がって窓のカーテンを開けると、外は薄暗く、空の色は薄い紫を含んだ群青に変わっていた。部屋の時計を見ると、時刻は8時45分を回っている。
「いつの間にこんな時間か…。早く駅に行かねぇと」
「いつでもいいわよ。それで?何を見てあんなに難しい顔をしてたのよ?」
そう言われてジャンは手に持った新聞に視線を移し、ため息をついてからそれをエリーザに手渡した。新聞を受け取るエリーザ。

『100年に一度の盗難事件 フランスの至宝、闇に消える』
問題の記事はすぐに目に飛び込んできた。夕刊の一面を飾る大きな写真入りの記事が、昨夜起こった大事件のあらましを大々的に伝えていた。
『本日未明、中部タンソンヴィルの国立古典美術館に所蔵される世界的に有名な彫刻『ナクソスのヴィーナス』が夜のうちに何者かによって持ち去られていたことが明らかになった。美術館によると、盗難事件はここ80年間発生しておらず、これほどの価値のある作品の盗難となると開館以来初めてだという。過去他に被害に遭った美術品はなく、警察は複数の人間による計画的な犯行とみて捜査を続けている』
『警察への取材によると、事件当時警備員として勤務中だったジャン=リュック・クローデル氏(23)の行方が現在分からなくなっており、警察は同氏を容疑者として全国に指名手配。犯行の手口と合わせて捜査を継続している』
『犯行現場は現在警察による検証が行われているが、不可解なことに像は台座だけを残して持ち去られており、具体的な手口は不明とのこと。また、現場には以下のような不可解なメッセージが残され、警察は愉快犯による犯行の可能性もあるとして…』
微妙にいたたまれなくなってきたエリーザはそこで読むのを止めた。記事のすぐ下には、黄色いテープが張られた展示室の大きなカラー写真と、その横にジャンの顔写真が掲載されている。
横からジャンが記事を覗き込みながら渋い顔をした。
「分かっちゃいたがここまで大きいニュースになってるとはな……。逃げ切れるか不安になってきたぞ…」
「…そう…ね……。顔写真まで出てるものね…」
一連の事態の原因を作った者として、エリーザも不安げな顔になる。
自分のことを「人類の至宝」だの「美の極致」だのと褒めそやす記事を見てちょっとだけ嬉しかった、などということは口が裂けても言えなかったが。
「えーと……それじゃあ、早く行きましょう?この国から出ないといけないのよね?」
「あぁ。言われなくてもそうする」
ジャンは手早く荷物をまとめると、昨日と同じ帽子とマスクを装着し、早足でドアへ向かった。

受付でチェックアウトを済ませ、通りへ出る2人。向かいのタバコ屋では、店内で昨夜の店主と数人の男が談笑していた。
何も言わずにさっさと駅の方向に歩き出すジャン。その後を追おうとしてエリーザは、ふと立ち止まった。一度だけ振り返って海の方角を見る。
少しだけ感じる潮の匂い。おそらくもう2度と訪れることのないこの街に、エリーザは心の中で別れを告げた。




ー30分後ー

「はあぁぁ‼︎⁉︎ストォ⁉︎なんだそりゃ‼︎」
まだ多くの人が行き交う夜の駅に、ジャンの絶叫が響き渡る。
エリーザは慌ててジャンを押しとどめようとしたが、通行人は一瞬ジャンの方を見ただけですぐに興味を失って視線を逸らしていく。
電光掲示板には、オレンジの文字で大きく、《鉄道会社ストライキのため、一部区間で運転見合わせ》の文字。これから2人が乗る予定だった東へ向かう路線は、しっかりとその一部区間に含まれていた。
「なんだってこんな時に……!なァにがストライキだクソッ‼︎働きたくないだけじゃねぇのかよッ…⁉︎」
地団駄を踏んで悪態を吐くジャンと、それをキョトンとした顔で見つめるエリーザ。
「え、と……どういうこと?わたしたち、電車には乗れないってこと?」
「…あぁそうだよ。革命の精神だか何だか知らないが、この国の悪しき伝統だと俺は思うね」
「それじゃあ、今夜はこれからどうすれば…」
「こっちが聞きてぇよ……!あぁクソッ!これじゃあもうどうしようも…」
「じゃあ、この街にはもう1日だけいられるのね⁉︎」
飛びつくような笑顔でエリーザが尋ねる。
「仕方ないわよね?電車が動いてないんじゃあ、あと一晩はここに留まるしかないものね⁉︎」
「……お前、微妙に喜んでないか?」
「そんなことないわよ。……ねぇ、今日することがないなら、わたし服を買いに行きたいの!こんな作業着みたいな服じゃなくて、もっと人間の女の子が着るような服!急げば、まだやってる店もあるわよね?」
「…あー、お前…さっき見た記事、覚えてるか?」
「覚えてるわよ?でも、逃げるためにも服はいくらか必要だと思うの!あなただってずっと同じ服って訳にはいかないでしょう?」
「……」
言葉に詰まるジャン。
エリーザの言うことは正しい。
自宅にも寄らずにほとんど着の身着のままで飛び出してきたため、手持ちの服はほとんどない。変装でもしなければ逃げ切れないようなこの状況で、衣類の調達は間違いなく喫緊の課題だった。
とにかく早く国外に脱出して、それからゆっくりどこかで買い込もうと思っていたが…
「…ハァ……他にどうしようもねぇし、今日買っとくか…」
「やったぁ!」
この街で調達していくことにした。
明らかに状況を分かっておらず、無邪気に喜んでいるエリーザが非常に気になるところではあったが。


怪しまれると厄介なので、ホテルは前日と変えることにした。前日より安めのホテルを見つけ、チェックインを済ませてから足早に街へ出る。
港へ向かう大通りに出ると、まだ多くの人が行き交う商店街に、きらびやかなブティックが数多く立ち並んでいた。
ルイ・ヴィトン、シャネル、グッチ、ドルチェ&ガッバーナ……ファッションの最先端を行く名前の競演に目が眩む。
「ステキ!人間の服ってこんなに種類があるの⁉︎」
店頭のショーウィンドウに張り付き、目を輝かせるエリーザ。その視線の先には、背の高いマネキンが着る黒を基調としたサマードレスがあった。
「いやブランド物は流石にな…。それにお前の場合…」
ジャンは大きすぎるジャージにホテルから拝借したサンダルというエリーザの格好を一瞥する。
「全身揃えなきゃならないんだから、ここだけじゃ足りねえぞ?」
「あら、そうなの?」
エリーザは自分の体に目を落とす。
「全身揃えるって、あとは何が必要なの?靴とこういう服と、他には…」
「ちょっ、前を開けるな前を!」
ジャージのファスナーを開けて確認しようとしたエリーザを、ジャンが慌てて制止する。今のエリーザは、ジャージの下に何も着ていないのだ。
「下着だよ!ブラとかパンティとか…とにかく他の所行くぞ!」
「ブラ?ブラってなぁに?」
エリーザの無垢な質問から逃れるように、真っ赤な顔のジャンは歩き出した。

大通りを逸れて1ブロックほど歩くジャン。暗い路地裏を抜けると、2人の目の前に突如として明るい照明に照らされた大型ショッピングモールが現れた。
「ここだ。これくらい大きい所なら、一通り揃うだろ」
「……すごい。美術館より大きな建物、初めて見たわ…」
「いや、最近じゃ近くにもっと大きいのができたらしいし、こんなんで驚いてたらキリがねぇぞ?…ほら、こっち!」
唖然とした顔でモールを見上げるエリーザを尻目に、ジャンは道路を渡ろうと一歩を踏み出した。エリーザも慌ててその後に続く。
その時だった。

「…ッ!まずい、隠れろ!」
何かに気づいたジャンが鋭く叫ぶと、たった今出てきた路地にエリーザを押し込んだ。ジャンもそこに飛び込んで息を潜める。
「な、何…?何があったのよ…?」
「……あれ、見てみろ」
ジャンは顎で道路の向こう側を指し示す。その先にあったのは、モールの入り口近くに停まった数台のパトカーと、その側にたむろする警官たちだった。
「え?あれって………もしかして、私たちを探してるの…?」
「そうとは限らないけどな。……可能性は十分にある」
苦々しい顔でジャンが呟く。自分たちがこの街にいるという通報があって、警察が出動しているのだとしたら…。冷や汗がジャンの背中を伝う。やはりどんな手を使ってでも今夜中に街を出るべきだったか、という後悔も頭をよぎる。
「あっ!また何か来たわよ!」
エリーザが指差した先では、大型の警察車両がもう一台到着する所だった。そこから更に何人もの警官が降りてくる。
「どうしよう……警察があんなにたくさん……やっぱり早く街を出た方がよかったのかしら…」
「そうだったかもな……あれだけ大規模な捜索となると情報は確実に………あ?ちょっと待てよ?」
一瞬、ジャンが怪訝な顔をした。
「いくらなんでも多すぎやしねぇか?いや多すぎるって言うより……」
ジャンが見ているのは、今し方警察車両から降りてきた数人の警官の姿だった。遠目に見えるその姿は、ヘルメットに防弾チョッキ、それに大型の銃と、警官というより特殊部隊の隊員のような重装備だった。警官たちも、慌ただしい様子でしきりに無線機で連絡を取りあっている。
要するに、美術品盗難の犯人を逮捕するにしては、明らかに過剰な装備なのだった。警官たちの姿は、あたかも銃を乱射するテロリストか何かを制圧しに行くかのような有様である。
「他に目的があるのか?だったらありがたいんだが……」
2人が見守っているうちに、警察に動きがあった。
警官たちは無線機で何かの報告を受けた後、次々に車両に乗り込んでどこか別の場所へ向かってしまったのだ。
後には普段通りの喧騒に包まれたモール前の広場だけが残される。
「え、何?何があったの?私たちを探してるんじゃないの?」
「……あー、そういうことか…」
一人合点がいった顔で頷くジャン。不思議そうにその顔を見るエリーザに、ジャンは説明を始めた。
「……おおかた、マフィアの抗争でもあったんだろ。それの制圧のためにあれが出動した、と」
「…マフィア?抗争って?」
知らない単語が次々に登場して混乱するエリーザに、ジャンは何とも言えない苦笑の表情で答える。
「……まぁ、それもこの街の裏の顔、ってところか。…世の中にゃ知らなくていいことだってあるさ」
「……?」
「ほら、警察もいないし、さっさと行くぞ」
納得できなさそうな表情のエリーザを急かすように、ジャンは路地を出て歩き出した。

時間が遅いこともあって、モールの地上階部分の店は既に閉店している所がいくつかあった。モール入り口の広場に立ち、辺りを見回して目当ての店を探すジャン。
「まずは靴屋だよな……。あー…この辺にはもう無さそうだな…。上行くか」
そう呟いてジャンは外から一階に上がるエスカレーターに向かった。
すると案の定エリーザが、
「何これ⁉︎階段が動いてるわよ⁉︎」
毎度のように新鮮な反応を示すエリーザに、ジャンは思わず笑いをこぼす。
「お前なあ……いちいち反応が新鮮で羨ましいっつうか何つうか…」
「何よ。初めてなんだから仕方ないでしょ?ジャンも何十年も美術館で過ごせばきっと分かるわよ」
「はいはい。俺はそんなのごめんだね。…ホラ、こうやって乗ればいいんだ。簡単だろ?」
そう言ってジャンは一足先にエスカレーターに乗る。それを見たエリーザも、置いて行かれないように恐る恐る足を踏み出す。
「…ほっ!あ、乗れた!……こ、これも電気で動いてるのかしら?」
「おっ、よく分かったな。お察しの通り、こういう機械の類は全部電気の力で…」
ジャンが言いかけたその時だった。

ゴゴッ、ゴッ…ゴウン……
嫌な音を立ててエスカレーターが突然停止した。そのままウンともスンとも言わなくなる。
「……は?」
訳が分からずに後ろを振り返るジャン。
後ろではエリーザがエスカレーターの2つ後ろの段に立っていた。
「…?何これ。止まっちゃったわよ?」
エリーザも目をパチクリさせて辺りを見回す。状況が上手く飲み込めていないらしい。
「……ま、待て、まずい。一旦降りるぞ!」
エスカレーターが突然停止したことで、周囲の客が何事かと2人に注目し始めていた。騒ぎが大きくなる前に、ジャンはエリーザを急かして急いでエスカレーターを降りる。

慌てて人のいないモールの片隅まで避難してきた2人。
「ハァ…ハァ……どうなってんだよ一体⁉︎」
「私も分からないわよ!私が乗った途端いきなり止まっちゃって…」
「いきなり……?そんなバカな…」
店の裏側の非常階段下で立ち止まり、肩で息をしながらジャンが呟く。
どう考えてもおかしかった。非常停止ボタンにでも触らない限り、エスカレーターが突然停止することなどないはずである。
(何か間に挟まったか…?…いや、さっき見た限りじゃそんなものなかった。他に止まる原因があるとしたら……)
「…………あ」
不意に、何かに思い当たったジャンが顔を上げた。
エリーザが乗った途端…エリーザ…石像…まさか。
「……お前、体重いくつだ?」

「なんですって⁉︎」
エリーザが憤慨した声を上げる。
「いいから…体重いくつだ?」
「知らないわよ計ったことないから!それよりいきなり体重なんて失礼じゃ…」
「…ちょっと失礼」
「きゃっ⁉︎」
突然、ジャンがエリーザの両腋に手を入れた。そのまま腰を少し落とす。
「ちょ、ちょっと何して…」
「いくぞ。…せーの!」
力を入れて一気に持ち上げようとして……
「〜〜〜〜〜〜‼︎(……重っも‼︎)」
持ち上がらなかった。一応エリーザへの礼儀として声には出すのは堪えたが、
(何だコレ……びくともしねぇぞ⁉︎)
思わずエリーザから離れてゼェゼェと息を吐くジャン。どれだけ力を入れても、どれだけ足を踏ん張っても、エリーザの華奢な身体は1ミリたりとも持ち上がらなかったのである。
一般に、エスカレーターの1段あたりの耐荷重はおおよそ130kgだと言われている。それが止まったということは…
(50kgや60kgの世界じゃねぇぞ⁉︎…確実に150kgは超えてる……)
「……ね、ねぇ…大丈夫…?何がしたかったのよ……」
身体を掴んできたと思ったら急に離れてうずくまったジャンを見て、エリーザが半ば呆れ気味に心配した声を出す。
「…ホテルの床がやたら軋むと思ったらそういうことか…」
「…えっ?」
小声で呟いた後、ジャンはようやく顔を上げ、エリーザに向き直った。
「…とりあえず……階段で行くぞ」
エリーザにどう説明するか考えながら、階段を探して歩き出すジャン。
つまるところ、エリーザは人間の姿になっても体重は元のままという意味のわからない体質なのである。早いうちにそれが分かって良かったと思うしかない。知らずにどこかの安ホテルに泊まって床が抜けでもしていたらと思うとゾッとする。
(……とにかく、色々と扱い方に気をつけなきゃならんな…)
今後考えなければならない様々な問題に、今から頭を悩ませるジャンだった。

ちなみに、後日美術館のデータベースを調べたところ、エリーザの総重量は3○0kgと判明するのだが、この時のジャンには知る由もなかった。



「そうだったの……これが普通だと思ってたわ…。あ、でもそういえば、美術館の椅子に座ろうとしたら、ひしゃげちゃったこともあったような……。あの椅子が壊れてた訳じゃなかったのね…」
「……お前、その分だとこれから苦労するぞ…」
衝撃の事実を聞かされたエリーザは、意外なほどあっけらかんとしていた。若者向けの洋服店が立ち並ぶ1階フロアを歩きながら、エリーザは腕組みをして考え込む。
「うーん…私一度でいいからホテルのベッドで寝てみたかったんだけど……ダメかしら?」
「さあな…つーかまず心配するのそこかよ……」
若干げんなりした顔で適当な返事をするジャン。自分がいかに常軌を逸した存在かということを、エリーザが理解しているのか甚だ疑問だった。世の中の物が自分を基準にできている訳ではないと、彼女が悟るのはかなり先のことに違いないと、ジャンは思った。
「まあとりあえず……まずは下着屋か…」
人目のある場所に来たため、帽子を目深に被り直すジャン。辺りを見回してランジェリーショップを探す。すると、目的の店はほど近い場所に見つかった。
「あ、あれが下着のお店なのね?……へぇ、下着ってああいう風に着けるの…」
「そうだよ。えーと、この辺でいいか。……さて、ちょっとこっち来い」
「なぁに?」
下着店から離れた位置でジャンは唐突に立ち止まり、エリーザを手招きした。エリーザが近寄ると、財布から何枚か紙幣を取り出し、それをエリーザに握らせる。
「これだけあれば十分だろ。…いいか?俺はここで待ってるから、1人で行って自分に合うのを買って来い。できるよな?」
「…えぇ⁉︎ジャンは来てくれないの?」
「俺は店員に顔を覚えられるとマズいんだよ。……つーか男が下着屋なんて入れるか」
「で、でも私買い物なんてしたことないし……」
「大丈夫だって!分からないことは店員に聞けばいいんだから…な?」
「うぅ……」
エリーザは抗議の声を上げた後、なおも嘆願するような眼差しでジャンを見上げるが、頑として動かない構えをとるジャンを見て諦めたのか、渋々といった足取りでランジェリーショップへと向かっていった。

店内に入ると、大小様々、色とりどりの下着類がエリーザを出迎える。
「こんなに種類があるのね……」
初めての光景に圧倒されたエリーザは、不安よりも好奇心が勝って店内を眺め始める。
「形も色々あるのね……これ、どうやって着けるのかしら?」
「何かお探しですか?お客様」
「‼︎あ、は、はい!」
横から突然声をかけてきたのは、すらりと背の高い金髪の女性店員だった。
一瞬たじろぐエリーザだったが、意を決して商品の一つを手に取る。
「あ、あの!こういった下着を探してるんですけど…もう少し小さいので…」
「はい、ございますよ!サイズは38でよろしいですか?」
「さ、30…?は、はいそれで……たぶん…」
「キュロットがこちらになりますね…。では、ブラジャーのカップはいかがなさいますか?」
「カ、カップ…?」
慣れた手つきで次々と商品を棚から取り出し、並べていく女性。矢継ぎ早に浴びせられる質問に理解が追いつかず、エリーザはあたふたと応対する。
「カップがお分かりにならなければ、こちらに対応表もございますが…胸回りの長さはお分かりですか?」
「あー…すみません、測ったことがなくて…」
「えーと、そうしますと…。今着けているものはいくつになりますか?」
「下着ですか?下着なら今は特に着けてないで」
「Aカップでお願いします」
いつの間にかエリーザの背後に立っていたジャンが突如会話に割り込んできた。
女性店員がビクリと後ろに飛び退くのをよそに、ジャンはそそくさといくつかのブラジャーを選び出し、手に持っていたカゴに入れていく。
「あ、ジャン!来てくれたのね?」
「……これと、これと、これと…あとこれ。いくら?」
「…あ、は、はい!こちらのAカップブラと(筆者註: フランスのAカップは日本で言うBカップ)、こちらのキュロットですね?かしこまりました!お会計はこちらになります!」
突如現れた帽子にマスクという怪しすぎる風貌のジャンに若干笑顔を引きつらせながら、女性店員は2人をレジへと案内していった。

数日分の下着が入ったレジ袋を携えて、2人は下着店を後にする。
「……ん」
ぶっきらぼうに、ジャンはレジ袋をエリーザに手渡す。
「ありがとう!やっぱり助けてくれたじゃない!」
「お前が爆弾発言しかかるからだろが!…あー恥ずかしかった…」
照れ隠しのために保っていたポーカーフェイスが崩れ、思わず声を荒げるジャン。
「仕方ないじゃない。下着にあんなに種類があるとは思わなかったんだから…」
「う……まあ…確かにいきなり下着屋はハードルが高かったかもな…。あ…けど、それなら服はもう大丈夫だよな?よし、今度こそ1人で行ってこいよ!」
「えぇ〜⁉︎何でよもぅ!」


しばらく歩いた先に見つかった若者向けの洋服店に、1人で向かうエリーザの背中を見送るジャン。目立たないように物陰に隠れ、そっと様子を伺う。
エリーザはおずおずと店内に入っていき、立ち並ぶマネキンが纏うこの夏流行のファッションを眺め始める。下着店よりもはるかに色とりどりの洋服の数々に見入っているようだった。
するとそこに、先ほどよりも多少押しの強そうな若い女性店員が話しかけてきた。速いペースで次々に質問を浴びせ始める女性。声は聞こえてこないが、エリーザはまたしても応対に苦慮しているようだった。
しばらくすると女性は、作戦を切り替えていくつかの商品を棚から出してエリーザの前に並べ始めた。ロック調の柄がプリントされたシャツ、季節もののワンピース、カーディガン、更にそれらの組み合わせ…。次々に商品を出して説明しながら広げてみせ、時には鏡の前へ連れて行き、実際にエリーザの体に当ててみせたりもしていた。
すると、話を聞くうちにエリーザの反応が変わってきた。最初はただ圧倒されるだけだったのが、次第に興味を引かれてゆき、自分から手に取って商品を見てみるようになった。
終いには女性と意気投合したようで、談笑しては何やら盛り上がっている。
「…何話してんだ…?」
話の内容が気になって、ジャンは少し店に近づき、入り口近くに隠れるようにして立った。

「…あっ、これも可愛い!こういう体にピッタリしたのも着てみたいかも…でも、こっちのヒラヒラも捨てがたいなぁ……」
「あらいいじゃない!あなたスリムなんだから、体の線を出すのは断然アリよ!」
「そうかしら……」
「でもね、こっちも素敵だと思うわよ?思いっきり女の子らしいファッションなんて、若いうちにしかできないんだから!ここのフリルなんて可愛いでしょ?…それにほら、こうして合わせてみると……このベージュ色があなたの髪の色にピッタリ!」
「…ホント!じゃあこっちにしようかしら……うーんでも他にも…」
女性に勧められる多くの魅力的な選択肢を前に、考え込んでしまうエリーザ。悩んでいるうちに、エリーザは口には出さないようにしながらも、無意識のうちに助けを求めるような視線をジャンのいる方向にチラチラと向け始めた。
それに気づかない振りをしながらこっそりと様子を見守るジャン。
その時、エリーザの視線に目ざとく気づいた女性が店の入り口に目を向け、その目があろうことか隠れているジャンを捉えてしまった。
ジャンに気づくと女性はいたずらっぽい笑みを浮かべ、エリーザが迷っているうちの2着を手に持って近づいてきた。
(げっ‼︎)
「ほらほら〜!彼氏さんもそんな所に隠れてないで、一緒に選んであげてくださいよ!彼氏さんはどっちがいいと思います?」
「い、いや別に俺は彼氏じゃ…」
「はいはいこっちに来て!カレの意見も大切ですからね〜!」
ジャンに抵抗する暇も与えないまま、女性はジャンを店内に引っ張り込み、エリーザの側まで連れてきてしまった。
「あっ、ジャン!選ぶの手伝ってくれるの?」
「ばっ、違っ…」
「悩んだらカレに選んでもらうのが一番!あ、『どっちでもいい』は禁止ですからね〜!」
2着の服を持ってキラキラした目で迫るエリーザと、その横から愉快そうな笑顔でジャンを見つめる女性。
「ジャン!」
「選んでくださいよ!」
「「どっちがいい?」」
2対1だった。あまりに楽しそうな2人の女性に、もはや何のために隠れていたのかも分からなくなったジャンは、諦めの境地に達した。
「……じゃあ…白い方で…」




「お待たせ!下着着けるのに手間どっちゃって!」
着替えのために入っていた女子トイレから小走りで出てきたエリーザの全身を、ジャンは顎に手を当てて眺めた。
「ふむ……ちょっと子供っぽいが、まあこんなもんか」
エリーザが身に纏っているのは、膝下丈のシンプルな白のワンピース。上半身部分はノースリーブで、華奢で白い肩のラインが露出する。足には靴店で買ったヒールのないパンプスを履き、これに麦わら帽子でも合わさればまるで海辺で休暇中のお嬢様のような風情だった。
「ふふっ、……どう?」
自慢げな顔のエリーザは、その場でクルリと一回転してみせる。ワンピースの裾がフワリと風に舞う。
「ああ……悪くないな」
コーディネートに一部協力した者として、ジャンも少し満足そうな顔で頷く。
褒められてご機嫌な笑顔を見せたエリーザは、少し歩いてジャンの側に来る。
「荷物、重くない?全部持ってくれてるけど…」
「ん?あぁ大丈夫だよこれくらい」
ジャンの両手には、バーゲンの後のような大量の紙袋がぶら下がっていた。あの後ジャンの分も含めて数日分の着替えを買いこんだからである。
「ついでにデカいリュックも買ったから、ホテルで全部詰めて背負っちまえばいいさ」
「でも……」
「ん…じゃ、これ持ってくれ。自分の分」
「……うん!」
ジャンから2つ紙袋を受け取ったエリーザは、そのままモールに背を向けて歩き出すジャンの後に続いた。

夜も更けてすっかり静かになった裏通りを、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌のエリーザが歩く。
たまに道にテーブルを出して営業しているカフェやビストロを除けば、通りにある店は全て閉まっており、エリーザは店の窓ガラスの前で時折ポーズを取って姿を確認すると、嬉しそうな笑顔になってまた歩き出す。
そんなエリーザの様子を、ジャンは困ったように笑いながら眺める。
「あんまりはしゃぐなよ。転ぶぞ?」
「だって…!嬉しいって気持ちが収まらないのよ!……ねぇジャン?これ、本当に貰っていいのよね?後で返せって言わない?」
「そりゃ…返されたって俺は着れないしな…」
「よかった……。私、自分のものができるって初めて…」
紙袋を胸に抱きしめながら、呟くようにエリーザは言う。
「今になって思うと……私、いつだって誰かのものだった気がする。私をお屋敷に飾ってたどこかの貴族とか、美術館とか…。美術館のお客さんだってそうよ?私はいつだって見られる側で、私を見たっていう思い出がお客さんのものになるの…」
ジャンは黙ってエリーザの独白を聞く。
「…あ、もちろん、嫌じゃないのよ?皆が綺麗だって褒めてくれるし、いつも大事にしてもらえてた。……でもね、自分だけのものができるって、こんなに嬉しいことなんだって…初めて知ったの」
「……そうか」
「ねぇ、ジャン?」
エリーザは駆け足で一歩前に出ると、くるりと振り返る。
「…ありがと!」
「おう……汚すなよ」
今度は動揺せずに済んだジャンだった。


「ねぇ……何かしら、あそこにいるの…」
「あぁ?」
カフェの前を通りかかった時、エリーザが立ち止まって何かに怯えるように暗がりを指差した。
カフェは道にテーブルを出して営業中であり、テーブルには数人の大柄な男や新聞を読むスーツの男がたむろしている。
エリーザが指差したのはそのカフェの脇、テーブル席から少し離れた道端の暗がりだった。怪訝な顔でジャンがそちらを見ると、
「何だ、猫じゃねぇか」
「ね…猫?」
そこに蹲っていたのは、暗闇で目を光らせる大きな黒猫だった。
「何だ。猫見たことねぇのか?」
「猫って……あぁ、たまに絵に描いてあるあの生き物…?本物は初めてだけど……きゃっ!動いた!」
ジャンが少し近づこうとすると、猫はピクリと身構える。その動きを見て、エリーザの方が驚いて飛び上がった。そのままジャンの背中に隠れてしまう。
「怖いのか……普通は可愛いと思うんじゃないのか?」
「だ、だってあんなに黒くて毛むくじゃらで目が光ってて……やっ、また動いた⁉︎」
初めて見る猫に怯えるエリーザをよそに、ジャンは更にもう一歩近づこうとする。
しかし3mほど近づいたところで、警戒体勢をとっていた猫はサッと逃げ出すと、カフェのテーブルの下を走って通りを横切り、夜の闇に消えていってしまった。
「あぁ…行っちまった……」
「び、びっくりした…あんなに素早いなんて…」
微妙に残念そうな顔をしながらも、ジャンは諦めてカフェの前の道を歩き出す。
「女子は皆ああいうの好きだと思ってたけどな?」
「む、無理無理ムリ!あんな毛むくじゃらなの見たことないもの!」
「…初めて見るとそんなモンなのか…。そういえば昔近所に住んでた姉ちゃんも……あ痛てっ!」
ドン、と音がして、歩いていたジャンが誰かとぶつかった。
後ろのエリーザの方を見て歩いていたジャンが、テーブル席を立って道に出てきた大柄な男性に気づかずに衝突してしまったのだ。
「あっ…と悪い!余所見してたもんで…」
手を出して一言謝ってから、ジャンはまた歩き出そうとする。
しかし、男性は一言も発さず、その場から動くこともしなかった。横を通り過ぎようとしていたジャンは、相手が身をかわすと思っていたためにまた肩をぶつけてしまう。
「おっと……な、なあ、そこに立たれるとちょっと………?」
困惑したジャンが相手の顔を見上げると、男は何も言わず、冷たい目でただジャンを見下ろしてきていた。
「何だよ……悪かったって。ぶつかったことなら謝るから…」
「きゃっ‼︎ちょっと何するの⁉︎」
「……っ!エリーザ⁉︎」
突然後ろから聞こえた悲鳴に、ハッとしてジャンが振り返る。すぐ後ろでは予想だにしない出来事が起こっていた。テーブル席にいた革ジャンを着た2人の男が席を立ちエリーザの両腕を掴んで拘束しようとしていたのだ。それとほぼ同時、ジャンが後ろを向いた隙に、前に立っている男が乱暴にジャンの腕を掴む。
「なっ…⁉︎お前ら何を……ぐぁぁっ!」
「…ジャン!」
男は流れるような動作でジャンの腕を捻りあげると、背中側に無理やり回してもう片方の腕と共に拘束する。ジャンの手から紙袋が落ちる。
その時初めて気がついた。この男は、初めからジャンの行く手を塞ぐために前に出てきたのだと。

「まったく……最近の世の中は物騒だ…そうは思わんかね?」
その時唐突に口を開いたのは、2人を拘束する男たちではなかった。
裏通りの寂れたカフェのテーブルで、1人だけ黒いスーツを着て新聞を読んでいた男。ハッとしてジャンがテーブル席を見ると、スーツの男が新聞を広げたまま椅子に腰かけていた。
「毎日のように三面記事には殺人事件のニュース、中東じゃあテロが収まらんし、お偉方は戦争がしたくてウズウズしてる。極めつけに、平和だと思ってたこの国で、史上最大の美術品盗難事件ときたもんだ。……なあ、そうだろう?ジャン=リュック・クローデル君?」
ピシャリと新聞を閉じると同時に、隠れていた顔が露わになった。キッチリとなでつけたプラチナブロンドに切れ長の冷たい目をした、俳優のように整った顔立ちの男だった。

「…まだ国内にいたとはな。おまけに女を連れて買い物とは、いい度胸じゃあないか」
「……何だよお前、何で俺の名前を知ってる?俺たちをどうする気だ⁉︎」
「あー、質問は1つにしてくれ。そういっぺんには答えられん」
男は椅子に腰かけたまま、尊大な態度で足を組んでジャンを見る。
「君にとっては初めまして、になるのだろうな。が、我々は君のことを知っている」
睨みつけるジャンの目を真っ直ぐに見返して、男は低く魅惑的な声で滔々と語り出した。
「…ジャン=リュック・クローデル、23歳。国籍はフランス。父親がフランス人、母親はイタリア人…現在は別居中。公立の高校を卒業後、経済系の大学に進学するものの休みがちになり2年で中退。その後はフリーターとして職を転々としながら生活するが、1年前に美術館の夜間警備員として就職、表向きは…か」
(こいつら…警察か?)
垂れ流される自分の個人情報を黙って聞きつつ、ジャンは考えていた。
警察ならばこれだけの個人情報を知っていてもおかしくないし、ジャンを待ち伏せする理由も分かる。
しかし、それならば警察の身分証も見せずにエリーザまで拘束するのは不自然だし、何より態度が怪しすぎる。他に考えられるものとしては…
(まさかマフィアか……こいつら…)
ジャンの背中を冷や汗が流れる。考えうる限り最悪の相手だった。
「夜間警備員として働きながら、その裏ではネットを通して知り合った依頼人と契約を結び、密かに美術品窃盗の準備を進めていたとは……落ちる所まで落ちたものだ」
「お前らマフィアか?マフィアなんかが俺に何の用だ⁉︎」
「……やれやれ。自分の依頼人も覚えていないとは…」
男が発した言葉に、ジャンは眉をひそめる。
「依頼人?…俺の依頼人だった奴は、どっかの頭のおかしい金持ちだったはずだがな?」
「その通りだ。君に美術品の窃盗を依頼したのは、ブルターニュの富豪、ナルシス=アシル・ド・ケスタンベール氏。確かに、君に依頼をした人物だ」
「じゃあ何で…」
「確かに彼は依頼をした。ただし、『我々を通して』だ」
その言葉を聞いて、ジャンは息を呑んだ。
「…盗難品の裏取引に我々が関わっていないとでも思ったか?そうした取引の間には必ず我々が仲介役として入り、組織の資金源となる。…ド・ケスタンベール氏を名乗ってはいたが、君と直接メールのやり取りをしていたのは、この私だ」
愕然とするジャンを尻目に、男は手にした新聞を眺めながら話を続ける。
「盗みに成功したという報告を待っていれば……これだ。まったく、とんだ騒ぎを起こしてくれたな?」
新聞の一面をジャンに突きつけながら、男はゆっくりと立ち上がる。
「盗難が発覚しないよう、すり替えるための偽物まで用意してやったというのにここまで騒ぎを大きくして……おかげで今後あの美術館から作品を盗み出す計画も台無しだ」
ゆっくりとジャンに近づき、手にした新聞を丸めてジャンの顔をポンポンと叩く。
「おまけに当の『サロメ』は手つかず……どう責任を取るつもりだ?え?」
男を睨みつけながらも、ジャンは緊張で声を出すこともできない。その時、
「ジャン……どういうこと…?この人たち、ジャンとどういう関係なの…?」
2人の男に拘束されたエリーザが弱々しく問いかける。すると、スーツの男は不意に表情を和らげると、恭しい態度でエリーザに向き直った。
「怖がらせて申し訳ない、マドモアゼル。何も君を責めている訳ではないんだ。こちらの彼に少し話があるから、少し待っていてもらえるかな?」
「…………」
困惑しながらもエリーザが何も言わないのを了承ととったのか、男は再びジャンに向き直る。しかしその顔は先ほどよりも少し穏やかだった。
「と、言ってもだ。我々の目的は君に責任を取らせることじゃない。用件は別のことだ」
丸めた新聞を再び広げ、一面記事を見せる。
「君の成果は予想以上だ。どうやったのかは知らんが、君は『サロメ』より遥かに価値のある物を盗み出してみせた……組織としてはむしろ大歓迎だ」
ここで、男は大きく腕を広げて見せる。
「『ナクソスのヴィーナス』だ!人類の至宝とも称される古代彫刻の傑作!これを盗み出したとなれば、莫大な利益が組織に入ってくる…!」
「……利益だと?」
「そうだ、利益だ。人類の至宝だろうが何だろうが、裏社会に流せば買い手はいくらでもいる。盗難品だろうがあの『ヴィーナス』を手許に置きたいという強欲な金持ちが次々と群がってくる…!」
男はジャンの正面に立った。
「『ヴィーナス』をどこに隠した?あれを組織に引き渡せば、君の失態は不問としよう。見返りとしてそれなりの報酬も用意しよう。君はそれを持って南米にでも高飛びして、ほとぼりが冷めるまで優雅に暮らせばいい」
「……」
「見逃してやると言っているんだ。君が何故突然標的を変えてヴィーナスを盗んだのかなどどうでもいい。君が今持っているヴィーナスを組織に渡せば、今回の失態を取り返しても十分釣りが来る。…君の元依頼人にも私が話をつけておこう」
「……」
「早く言え。時間がないんだ。何を迷うことがある?」
ジャンは思わずエリーザの方を見やる。エリーザは話の内容にほとんどついていけていない様子で、ただただ困惑した顔をしている。しかし自分の身に危険が迫っていることは朧げに理解したらしく、その目は不安そうに時折ジャンに向けられる。
ジャンは溜息を吐く。
ここでエリーザを彼らに売り渡して、その正体を教えてしまえばジャンは解放されるのだろう。だが。
ジャンは男を見上げ、涼しい顔で言い放つ。

「…悪いが、俺は知らねぇ。俺は盗んでないし、そもそもあんなこと俺1人でできる訳ねぇだろ」
「………ジャン!」
スーツの男の目がスッと細くなる。
「シラを切るか。理解できんな」
「事実を言ったまでだ。俺は盗んでねぇ」
男の目が更に細くなる。
「強がるのは勝手だが、知っていることは全て話してもらうぞ。…連れて行け」
「……ぐっ!」
腕を拘束する男の力が強くなった。
(やっぱダメか……くそっ、どうするかな…)
精一杯の抵抗が無駄に終わり、ジャンは心の中でぼやく。事実自分は盗んでいないのだから、何とかしてそれを分からせるしかなかった。
「おいっ!嘘じゃねぇよ!盗んでねぇっつってんだろ!」
「黙れ。どのみち貴様が全く関与していないなどあり得ん。朝までには洗いざらい吐いてもらうぞ」
冷たい声で言い放ちながら、男はポケットから取り出した革の手袋をゆっくりとはめていく。
「早く連れて行け。事務所だ」
「くそっ……!離せよこん畜生…!」
「ジャン!…やめて!どこに連れて行くの⁉︎」
連れて行こうとする男に抵抗して暴れるジャンを尻目に、スーツの男は突然エリーザに向き直った。
「ふむ……」
「ジャンを離して!何にもしてないのよ!」
顎に手を当ててまじまじとエリーザを見つめていた男は、真顔で口を開く。
「君は………処女か?」
「……えっ?」
「はぁっ⁉︎」
質問が理解できずに困惑するエリーザと、耳を疑うジャン。
「…まあいい。調べれば分かることだ。…連れて行け」
「いやっ!ちょっと!何なの⁉︎」
「…ってめぇ‼︎そいつに何する気だ⁉︎」
男の指示で部下たちがエリーザの腕を更に強く拘束する。憤慨して掴みかからんばかりの勢いで叫ぶジャンに、男は冷たい顔で返す。
「言っただろう。我々が求めるのは利益だ。貴様の関係者ならば、あの少女も損失を取り返す手段として利用させてもらう」
「……この…外道が……!」
事態が最悪の方向に進んでいた。ジャン1人のみならず、エリーザの身に予想以上の危険が迫っている。
「このっ……離しやがれ…畜生っ!」
「離して!離してよ…!」
懸命な抵抗も虚しく、ジャンの体はズルズルと引きずられていく。スーツの男がゆっくりとジャンに近づき、胸倉を掴んで拳を振り上げる。殴られるのを覚悟して、思わずギュッと目を閉じた。

その時だった。
「やめてってば‼︎」
「…ぐぁっ!」
突然の男の悲鳴に続けて、ドサッと地面に倒れ伏す音。
スーツの男がとっさに後ろを振り返ると、その向こうの様子がジャンにも見えた。
1人の男に片腕だけを拘束された状態で立ち尽くすエリーザと、その足元に転がる大柄な男。エリーザは自由な方の腕を振り上げた姿勢のまま、キョトンとした顔で固まっていた。
誰にも何が起こったか理解できず、一瞬の沈黙が流れた。
最初に理解したのはジャンだった。
「エリーザ‼︎もう一発だ!」
「…えっ?」
言われた本人は一瞬理解できず、首を傾げるが、
「こう?…えいっ!」
「うぐっ‼︎」
エリーザがしたのは、掴まれている腕を軽く振り上げただけ。その拳が顎に直撃した瞬間、掴んでいた男が呻き声を上げて膝から崩れ落ちた。
ドサリと倒れ伏す2人目の男。
「わっ!あ…ごめんなさい!強くやったつもりはないんだけど…」
突然のことに慌てて、思わず謝ってしまうエリーザ。倒れた2人の男は、完全に気を失っていた。
あまりの光景に後ろの男が呆気にとられている隙をついて、ジャンが動いた。
「ぅおらッ!」
「ぐっ…!」
一旦かがみ込んでからの後頭部での頭突き。ダメージは少ないようだったが、動揺した男が手を緩めた隙にジャンは拘束を抜け出した。
「エリーザッ!逃げるぞ‼︎」
叫びながら、ジャンは落ちていた紙袋の1つを拾い、中から服を引きずり出す。そのままエリーザに気を取られていたスーツの男の頭に飛びかかり、それを勢いよく被せた。
「…うぉっ!貴様……何を…!」
「エリーザ!来い!」
服を剥ぎ取ろうと男が悪戦苦闘している隙に、ジャンの手招きに応じてエリーザが走ってきた。そのまま踵を返して走ろうとするジャンだったが、
「逃がさねぇ…!」
「うわっ!…テメェ!」
頭突きをかました男が、鼻血を流しながらもジャンに掴みかかる。左腕をがっちりと掴んで離さない。そこへ駆け込んできたのはエリーザだった。
「ジャンを離して‼︎」
叫びながらエリーザは右腕でビンタを繰り出す。それは闇雲に腕を振り回したも同然の、なんの勢いもないビンタだった。しかし、
バキィッ‼︎
ビンタとは思えない音を立てて男の側頭部に直撃したそれは、男の意識を刈り取るのに十分だった。
首が曲がりそうな衝撃を受けた男は、呻き声も上げずにゆっくりとその場に崩れ落ちる。
ジャンは気づいていた。
エリーザは華奢な身体に300kg超という脅威の体重。であればその拳だけでも相当な重量があるはず。そして文字通り石の重さで放たれたパンチならば、当たっただけで相当な衝撃があってもおかしくないのだ。
あるいは、その重量の身体を難なく動かしているエリーザの身体能力が並外れているのか。どちらにせよ、エリーザは軽く拳を振るっただけで大の男3人を昏倒させる、脅威の戦闘力をその身体に秘めているのだった。
「助かった。逃げるぞ‼︎」
「…あっ、う、うん!」
倒れた男を見て自分で呆気にとられていたエリーザはハッと我に返り、ジャンの後を追って走り出す。
「貴様らッ……!ふざけるなッ!待て‼︎止まれェッ‼︎」
後ろから聞こえるスーツの男の叫び声を無視して、2人は夜の街を必死で駆け抜けていった。


走って、走って、走って、走り続ける。
いくつもの坂を登り、いくつもの角を曲がり、いくつもの路地を駆け抜けた。もはやどこをどう走ったのかも分からないほどに必死で逃げ続け、2人とも息切れして走れなくなり立ち止まった所は、どこかも分からない暗い路地裏だった。
「ハァ…ハァ…ハァッ……!追って…来て…ないよな…?」
「ハァーッ……ハァ…たぶん…いないと思う……」
壁際に座り込んで肩で息をするジャンと、膝に手をついて同じく荒い呼吸のエリーザ。
「ちょっと……休もう…ハァ…こんなに走ったの…久しぶりだぞ…」
「私は……生まれて…初めてよ……ハァ…」
エリーザはジャンが座り込む壁に歩み寄り、隣にもたれかかって息を整える。
しばらくの間2人の呼吸の音だけが路地裏に響いていたが、息が落ち着いてきた頃、思いつめたような声でエリーザが口を開いた。
「あの…その……ごめんなさい…。私がジャンにお願いしたせいで、また大変なことに巻き込まれちゃったみたいで…」
「…いや、今回は俺が悪い。元々俺が受けてた依頼の話だからな…」
意外にも、ジャンは即座に自分の非を認めた。
「迂闊だったんだ。あんな怪しい裏取引に、マフィアが絡んでない訳なかったのにな……。正直、甘く見てたさ」
「……」
「今回はそれを見抜けなかった俺のミスだ。むしろ、お前を巻き込んですまなかったと思ってる」
「そんなこと…!さっきは庇ってくれたじゃない!」
ジャンは面倒くさそうに頭をかいた。
「別に……ただ目の前で怯えてる女をマフィアに売り渡すような真似はしたくなかっただけだ。…男としてな」
「ジャン……」
「…つってもなぁ…!その女に助けられてんじゃ立場ねぇよなぁ〜…。」
ジャンは恥ずかしそうに頭を抱える。
「…せめて『お前らに渡す気はない!』ぐらい言えればカッコよかったかもなぁ…何か逃げ腰のセリフになっちまったし…」
「……ふふっ。何言ってるのよ…」
2人がそんな会話を交わしている最中。

静かに軋む音を立てて、2人の近くにあった商店の扉が開いた。
「……あっ…」
「……む」
そこから出てきた男と目が合い、2人は同時に声を上げた。
男は、昨夜のホテルの正面にあったタバコ屋の、髭面の店主だった。
「あれ……?ここって…」
エリーザが辺りを見回すと、通りのの向かい側には見覚えのある「HOTEL」の看板。知らない場所だと思っていたそこは、偶然にも昨夜泊まったホテルの前の通りだった。
「…またお前らか……」
丸い帽子を被る髭面の男は、怪訝な目で2人を睥睨する。
「何だよ……文句あんのか?」
ジャンが立ち上がって男を睨み返すと、エリーザはサッとその背中に隠れる。
「……お前ら、まさか「裏」の奴らに手ェ出したんじゃないだろうな…」
「え…?な、何で…」
「やっぱりか……。話は全部聞こえてた」
男は腕組みをしたまま大きく溜息を吐く。そのまま沈黙していたが、しばらくしておもむろに口を開いた。
「……ま、入れ。コーヒーくらいは出してやる」
「…え?」
目を丸くする2人の返事も待たずに、男は扉を開けたまま店の中に引っ込んでしまった。
路上に取り残された2人は、突然の展開に顔を見合わせ、目をパチクリさせるだけであった。

狭い店内には他の客はおらず、何語かも分からない歌詞のエキゾチックな音楽がバックに流れていた。
アラビア語のポスターやカレンダーが貼られたカウンターの奥に、髭面の店主がこちらに背を向けてコーヒーを注いでいる。
店内をあちこち見回しながら、2人は立ち飲み式のカウンターの前に立つ。エリーザは異国情緒溢れる雰囲気に若干気後れしながら、それでも初めて見るものが気になるようで時折周りの壁に視線を飛ばす。
やがて、店主が2つのコーヒーカップを手にカウンターにやってきた。
「…ん」
「……どうも」
「……ありがとう」
ぶっきらぼうにカップを差し出した店主は、しかめっ面のまま口を開く。
「まったく…マフィアなんかに関わるもんじゃねぇ。命がいくつあっても足りねぇぞ?」
「分かってるさ、そんなこと……」
「じゃあ何で追われてる?…本来奴らは一般人に手を出すようなことはしねぇ。追われるのは、奴らの世界に片足を突っ込んだ奴だけだ。…違うか?」
「…………」
「どうせ何か汚い仕事でもやったんだろう。密売だの、売春の手引きだの…」
「……ああ、やったよ!追われるようなことはやったさ!…あんたが言うようなことじゃねぇけどな」
痛い所をつかれて苛立ちを露わにするジャンに、店主は大きな溜息で返す。
「……ま、さっさと警察に行くこったな。保護下に入れば、とりあえずは安全…」
「あの…でも警察に行ったらジャンは……」
エリーザがためらいがちに口を開くと、店主は肩をすくめる。
「…逮捕だろうな。だがマフィアに捕まるよりは遥かにマシだ」
「……」
ジャンは店主の言葉を黙って聞いていた。俯いたまま動かず、黙って何かを考えているようでもあった。

湯気を立てていたコーヒーがぬるくなるほどの間、ジャンはそうしていた。
ようやく顔を上げて店主を真っ直ぐに見返した時、その目は先程までの投げやりな様子とはガラリと変わっていた。
「…本当にどうしようもなくなったらそうするかもな。けど、その前に俺にはやらなきゃならないことがある。……マフィアの使いっ走りなんかよりよっぽど真っ当で…大事な仕事だ」
真っ直ぐな目で語るジャン。そんなジャンの横顔を、エリーザは心なしか嬉しそうな眼差しで見つめる。
2人の顔を交互に見ていた店主は、やがて諦めたように首を横に振ると、大げさに肩をすくめてみせた。
「…好きにするがいいさ。若い時分の無茶は結構だが、命を粗末にはせんようにな」
「ご忠告感謝するよ。もちろん、まだまだ人生楽しむつもりだ」
ニヤリと笑ってジャンは言葉を返した。

話がひと段落したところで、ジャンは自分の前のコーヒーカップを手に取って口に運ぼうとする。
そこでふと、エリーザは飲み食いをするのだろうかという疑問が浮かんだ。さりげなく横に目をやる。
案の定、動く石像であるエリーザは物を食べたり飲んだりするという経験が全くないらしい。カップを手に取ったまま、困ったような顔でジャンを見つめ返してきた。
ジャンは黙って、カップに口をつけて一口飲んでみせる。続けて、真似してみるように目で促した。
エリーザは戸惑いながらも、自分のカップに目を落として同じように口に運んでみる。そして、
「……うっ!何これ…!舌が…」
盛大に顔をしかめて口を離してしまった。
「舌が……舌が曲がりそう…」
口を押さえて苦しむエリーザの横で、ジャンはもう一口飲んで微妙な顔をする。
「あー…確かに初めての奴にはちょっと苦いかもな…」
「何だ……嬢ちゃんコーヒー飲むの初めてか…?」
目を丸くする店主。軽く咳き込みながら、エリーザはカップをカウンターに置いた。
「ごめんなさい…私にはちょっと合わないみたい……人間ってこんな物を飲むのね…」
後半は小声で呟いたため店主には聞こえなかった。ジャンは自分のものを飲み干した後、エリーザのカップにも手を伸ばす。
「初めてがコーヒーってのは不運だったな…。安心しろ、全部が全部こうじゃねぇよ」
「そうなの……?」
若干げんなりした顔のエリーザ。そんな会話をしているうちに、店主は一旦カウンターの向こうに消えると、厨房から何やら不思議な形をしたものを皿に乗せてやってきた。
「そんなら…こいつはどうだ?」
「これは……?」
皿の上に乗っているのは、レモンのような形の真ん中に切れ込みが入った、パンのような色をした焼き菓子だった。
「ナヴェットだ。これなら食えるんじゃないか?」
「ああ、この辺りで有名な焼き菓子だよ。美味いぞ?」
ジャンも笑顔で勧めるのを見て、エリーザは恐る恐る一つを手に取る。
ゆっくりと口に運び、端を少しだけ咥える。ポリ、と軽い音を立てて、少し固いそれを噛み砕いた。オレンジの花の香りが辺りに広がる。
しばらく舌の上で転がすうちに、だんだんとエリーザの表情が変わってきた。
「なにこれぇ……舌の上にじんわり広がって…。口の中がしあわせ…」
初めて感じる甘い感覚に、頬に手を当ててうっとりとするエリーザ。横で見ていたジャンが、微笑しながら口を挟んだ。
「そういう時は、『おいしい』って言うんだよ」
「…おいしい……」
呟いて、手の中のナヴェットを見つめるエリーザ。ゆっくりと欠片を舌で転がしながら、口の中で広がる初めての感覚と、それを言い表す初めての言葉とを頭の中で結びつけていく。
「おいしい……うん、おいしい!おじさん、これすごくおいしいわ!」
「……そうか」
髭面の店主が、初めて微かな笑みを見せた。

「トイレに行ってくる」と言ってジャンが店の奥に消えてから、カウンターには店主とナヴェットを頬張るエリーザだけが残された。
「……嬢ちゃん、どっから来たんだ」
おもむろに店主が口を開く。
「え?…うーん、詳しくは言えないんだけど……北の方からよ?」
「…あの坊主と二人旅か?」
「ええ。……私がわがままを言っちゃったんだけど…ジャンはそれを聞いてくれて…。私を外に連れ出してくれたの」
「…そうか……」
店主は何かを納得したように頷く。
「若い2人にはよくあることだが……勢いで行動すると後で後悔することもある。よく考えるんだぞ」
「…そう…ね。上手くいくかどうかは分からない……。でも、どんな結果になっても受け入れようと思ってるわ。…私、覚悟はしてる」
「そうか…若いのに立派なことだ。あの坊主は幸せだな…」
何故か感嘆した様子で店主は大きく頷いた。
「…どこまで行くつもりだ?」
「私の故郷まで!一緒に行ってくれるって約束したの!」
「なるほど…親御さんに紹介しに行くのか……。それがいい。親御さんを納得させるに越したことはねぇ」
更に感じ入った表情になる店主。
「まあ……2人の問題に俺が口を出すこともねぇ。…幸せにな」
「…?…ええ、ありがとう…」
何か話が噛み合っていないことにようやく気付いたが、ジャンが帰ってきたためにそれ以上は聞く機会を逃してしまったエリーザだった。



数分後、2人は店の前で店主に見送られていた。
「…なるべく人の多い場所を通るといい。人目のある所では、奴らもそうそう手出しはできないはずだ」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらうよ。…できればな」
本当はそれができない事情がある…とは口に出さないジャン。
「本当にありがとう、おじさん!こんなに親切にしてもらって…ナヴェット、とってもおいしかったわ!」
満面の笑みでお礼を言うエリーザに、店主も満足そうに頷く。
「ああ…気をつけて行けよ」
それじゃあ、とジャンは会釈をして歩き出した。エリーザがそれについて行こうとした時、
「あぁ、嬢ちゃん。ちょっと待て」
不意に店主がエリーザを呼び、エリーザが立ち止まると近づいて耳打ちをした。
「あの坊主だがな……ありゃあ金にだらしないタイプだ。気をつけろよ」
「だらしない……?」
「後先考えずに行動しやすいってことだ。…嬢ちゃんがしっかり見張って、手綱を握ってやるんだぞ」
「…しっかり見張るのね。分かったわ!何から何までありがとう!おじさんのこと、忘れないわ!」
笑顔で別れを告げて歩き出したエリーザを、店主は神妙な面持ちで見送った。
「…アッラーのご加護があらんことを……」



人気のない夜の通りを、並んで歩く2人。
「……あのおじさん、優しかった。ああいう人もいるのね…」
「…ああ……ああいう店に入るのは俺も初めてだったよ。…見かけによらないってのはこういうことだな」
「……物を食べておいしいって気持ち、初めてだったわ。…また食べられるかしら?」
「いくらでも食べたらいい。世の中にはもっと美味いものも沢山あるしな」
「…服……ほとんど落として来ちゃったわね…。せっかく買ったのに…」
「また買えばいいさ。命の方が大事だ」
「……そうね…」
再び沈黙するエリーザ。その横顔を見ていたジャンは、景気付けのように大きな声で言った。
「…さて!こんなのはまだまだ序の口だ。明日からはまた違う街に行く訳だが、覚悟はできてるか?」
「……ふふっ。どうしたのよ急に?」
「いいから。…この街と別れる準備はできてるか?」
「……ええ。嬉しいことも嫌なことも、初めてがいっぱいあったこの街は好きよ。……でも、この次に行く街の方がもっと楽しみ!またいっぱい初めてのことに出会えるもの!」
「……そりゃよかった。俺も楽しみだよ。……お前がどんな顔するのかがさ」
潮風の匂いに包まれる街の中を、2人は並んで歩いてゆく。
頭上からそんな2人を照らす上弦の月が、西の空にひっそりと浮かんでいた。







ー1時間前、とある裏路地ー
「くそっ…!おい、しっかりしろ。大丈夫か?」
つい先ほど騒ぎがあったばかりのカフェの前で、スーツの男が倒れた部下の男たちを助け起こしていた。
「…ぐっ……痛ってぇ…」
「すいません……何とか…」
先ほどエリーザに昏倒させられた男たちは、何とか全員が意識を取り戻していた。
「すみません…あんな小娘1人に…」
「いや……油断していたのは俺だ。まさかお前たち全員が昏倒させられるとは予想外だった」
頭に服を被せられたスーツの男が何とかして、それを引き剥がした時、彼が見たのは自分以外の男たちが全員倒れて意識を失っているという異常な光景だった。すぐさま逃げた2人の後を追おうとしたスーツの男だったが、街中を縦横無尽に逃げ回る2人を相手に1人では追いきれず、遂には見失ってしまったのだった。苦い顔で唇を噛む男。
「何者だあの小娘……。何か武器でも使ったのか…?」

「ヒッヒッヒッ!無様だなあギュスターブ・ギルマン?」
沈黙を破って気味の悪い笑い声が突如として響いたのは、その時だった。全員が一斉に声のした方向を見ると、そこには異様な風体の男が立っていた。
白髪混じりの髪は伸び放題で汚らしく、服装も浮浪者のようにみすぼらしい。下品な笑みを浮かべる顔には皺が刻まれ、鉤鼻とあいまってまるで昔話の悪い魔法使いのような印象を与える。カフェの扉を開けて店内から出てきたその男は、杖をついて右脚を引きずりながらヨタヨタと歩いてきた。
「『片足のピエール』…我々に一体何の用だ?」
苛立ちを隠しきれない声で、名を呼ばれたスーツの男ーギルマンが言葉を返す。片脚のピエールは更に楽しそうに笑った。
「珍しいモンを見せて貰ったよ。…お前さんがこっぴどくやられたのもそうだが…ヒッヒッ!…あの娘のことだ」
「……興味深いが…我々は今別の件を追ってる。関係のない情報なら買わんぞ」
「知ってる。「ナクソスのヴィーナス」だろう?………関係があると言ったら?」
「……ほう」
ギルマンの眉がピクリと動く。
「聞かせてもらおうか……関係とやら」
「…50だ」
片足のピエールが手を出すと、ギルマンは舌打ちしながらも財布から50ユーロ札を出して手渡した。
「…こいつはオレの趣味なんだが……まだ誰にも見せたことはなくてな…」
札を受け取ると、片足のピエールはどこからか年季の入ったスクラップ帳を取り出し、テーブルに広げてパラパラとめくり始めた。
「この辺り……見てみろ」
ギルマンは椅子に座り、指差されたページを眺める。
黄ばんだスクラップ帳のページには、古い新聞記事の切り抜き、走り書きのメモ、果ては古文書の切れ端のようなものまでが、所狭しと貼り付けられていた。
記事を目で追うギルマン。
《1953年5月10日、ストラスブール。15歳の少年が行方不明。同日夜に10〜20代の女性4名が相次いて集団失踪。(ワーウルフ?)》
《1892年11月、オルテ。森の中で人の形をした花を見たとの目撃情報多数。失踪事件も。(アルラウネ、あるいはリリラウネと思われる)》
《1941年8月3日、リュクサンブール。町の墓場から遺体が多数消失。歩く死人の目撃情報相次ぐ。》
《1975年12月、コルドバ。山中にて魔女の集会を見たとの情報。悪魔と見られる人物の似顔絵。(ガセの可能性あり)》
所々ピエールによる書き込みがしてあって読みにくかったが、何とかそのような内容を読み取ることができた。
「…1732年、パルマ。漁師が港で人魚に遭遇……。これら全て、実際に起こったとされる未解決事件だ」
「…何が言いたい?」
荒唐無稽な記事ばかりを見せられて、多少うんざりした調子で言葉を返す。ピエールは、極めて真面目な顔をして囁くように言った。
「この世界には、お前さんでも知らないような「裏」がある。我々の常識では説明できない出来事が、世の中では実際に起こってるってことだ」
「……何を言い出すかと思えば…貴様らしくもないな、片脚。こんな作り話や世迷い言の類を俺に信じろと?」
「大半はそうだろう。だが、本当に不可思議な事件も中にはある。…いいか?オレはこの話を信じろと言ってるんじゃない。本当に我々の常識では計れないような出来事にお前さんが出会った時、常識という型にはめて真実から目を逸らすことはするなと言ってるんだ」
「…大した自信だな。何を根拠にそこまで言える?」
「オレは実際にこの目で見たことがある。…人ならざる存在をだ」
「ほう…?」
「…美しかった……人間ではありえない、女神のような美貌…それでいて悪魔のように抗えない魅力を持つ……オレがこの研究を始めたきっかけだ」
若干熱のこもった調子で話すピエールを、ギルマンの部下の1人が鼻でせせら笑う。
「何をバカな……作り話もいい加減に…」
「…いや、こいつに限ってそれはありえん。我々に嘘を吐いてどうなるか、分からないほどこいつは馬鹿ではない」
意外にも、最初にピエールの言うことを認めたのはギルマンだった。真っ直ぐにピエールに向き直るギルマン。
「……それで?それがヴィーナスの在り処にどう関わってくるんだ?」
「…もう80」
すました顔で手を差し出すピエールに、ギルマンは迷わず札を手渡す。
「ヒッヒッ…このページを見ろ」
ピエールが手渡したページは、先ほどのように記事の切り抜きで埋め尽くされていた。
《1938年9月、カゼルタ。教会の外壁に設置されていた14世紀の彫刻が忽然と姿を消す。住民からは、夜間に謎の人影を見たとの報告多数。》
《1981年4月26日、レンヌ。街外れの広場の銅像が動きだすという噂が立つ。市民による記録映像あり。》
「…これが何だというんだ。……動く彫像?」
「他にも数件、ヨーロッパでは同じような例が確認されてる。…ごく稀にだが、そういう出来事は起こるってことだ」
それだけ言うと、ピエールはそそくさとスクラップ帳を閉じてどこかにしまった。
「ま、オレが教えられるのはここまでだ。後は自分で考えな」
「…待て」
足を引きずりながら歩き去ろうとしたピエールの肩を、ギルマンは乱暴に掴む。
「情報はもっと明瞭に示せ。それだけの対価は払ったはずだ」
「ヒッヒッヒッ!しょうがねぇなぁ…」
笑いながら、ピエールはクルリと振り返った。
「…78、58、82だ」
「あぁ?」
「…『サイズ』さ。見れば分かる。同じなんだよ、あの娘。…『ナクソスのヴィーナス』とな」
言い終わると、ピエールは踵を返して歩き去ってしまう。

後に残されたマフィアたち4人。3人の部下がピエールの言葉に首を捻る中、ギルマンはふと思い立ってテーブルに置かれた新聞を手に取った。
1面の記事をじっと見つめるギルマン。
そこには、十代半ば頃の少女の姿をした、「ナクソスのヴィーナス」の全身を写した写真が掲載されていた。
15/08/31 07:48更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
……はい、なるべく早くと言っておきながら三ヵ月も空いた更新です。すみませんでした。
3話は書きたいことがいっぱいあったのでかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでくれた方はありがとうございます。

そしてついに出してしまったガーゴイルのオリジナル設定。受け入れられるのだろうか…と若干ビクビクしながら書いております。
物理的に考えたら文明生活不可能ですし、起こる現象もここに書いた程度じゃ済まないとは思うのですが、あまり展開に支障をきたすようであればほどほどにご都合主義でいこうと思ってます。

なんか色々ありましたが、作者は決してマルセイユに悪いイメージを植え付けるつもりはありません。地中海沿岸はどこも本当にいいところです。
ただ治安はやっぱり悪いらしいので、マルセイユに行くことがあっても2人みたいに深夜の街歩きとかはしないようにしてくださいね。

次はもっと早くに…

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