連載小説
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第1話 The Empire City 欲望の街 Aパート
衛星画像で眺めたならば、まるで光の心臓だと人は言う。
大洋に注ぐ川の河口、長く突き出た半島の先に無理やり詰め込まれたようにして、世界で最も巨大な都市は無数の光で夜を埋め尽くす。

欲望の都、エンパイア・シティ。
世界中の富と権力が集まるこの街には、数多の人々が夢を抱いてやって来る。人・モノ・金は集結し、誰もがチャンスに手を伸ばす。そして選ばれた者が富を築き、街の歴史にその名を刻む。石油王ゴールディング、鉄鋼王マグレガ―、自動車王バロウズ…。彼ら大富豪は自らの力を誇示するように、そびえ立つ摩天楼を築き上げた。天をも恐れぬ欲望は形を成して塔となり、鋼鉄の塔は寄り集まって、電気とガラスの街を作った。街の誕生から百年余り、人の欲望は形となって、新たな摩天楼は増え続ける。ここは全てが集う街。ビジネスも娯楽もファッションも、世界の中心がこの街にある。
 きらびやかなネオンが光る摩天楼の足元には、けれども見えない闇が蠢いていた。人の欲望を集めるこの街は、濁ったものもまた招き寄せる。ジャンキー、不良、そしてギャング。裏路地にはドラッグが蔓延り、街の地下には銃が出回る。犯罪と汚職が街を蝕む。ここではカネが全てだった。悪徳業者は大手を振り、警察もカネで操られる。虐げられる者たちの声は、摩天楼の住人には届かない。
 ここは光と闇が混じり合う、世界最大の混沌の都。蔓延るモノをネオンで隠し、今夜もエンパイア・シティは眠らない。



 ダウンタウンの一画、港の倉庫が密集するエリア。
 11thストリートから少し外れた滅多に人が通らない裏路地に、若者の一団がたむろしていた。皆一様に派手なストリートファッションに身を包んだ男たちは、一人の成人女性を取り囲む。
「…どいて下さい」
「まぁそう言わないでさ、俺らで良ければ送ってくよ?この辺物騒だし」
 若者は全部で6人。金髪を片側だけ刈上げた背の高い男が、壁に手を突いて女性の行く手を遮っていた。
「お姉さんいくつ?何してるヒト?ちょっとお喋りでもしようよ」
「写真を撮りに来ただけだって言ったでしょう?…急いでるので、お構いなく」
「カメラマンさんかぁ。じゃ俺らも撮ってくれない?お姉さんも一緒にさぁ―」
「…ちょっと、触らないで!」
 首から大事そうに下げた一眼レフを庇うように、女性は一歩後ずさる。しかしすぐ後ろにすかさず別の男が立ち、女性の退路を塞いだ。
「お姉さん、魔物だよね?俺魔物の娘って超好みでさぁ。お姉さんもホント可愛いよねぇ」
「……」
 女性は壁を背にして男たちを睨みつける。その腰には綿のように白い尻尾が付き、頭には大きく特徴的なウサギの耳が不安そうに揺れる。一見して人間ではないと分かる特徴を持つ、獣人型の魔物だった。刈上げ男の目線が足の先から耳の先まで、女性の全身を舐めるように眺め回す。
「ワーラビットってヤツだっけ?いやホント、この尻尾とか最高にキュートだよね。触っていい?」
「―っ、誰が…!」
 反射的に女性の手が腰の後ろに回る。男がニヤリと笑う。
「冗談だって。そんな事よりさ、もっと楽しいコトあるだろ?……おい、一応見張っとけ」
 男が後ろに声を掛けると、取り巻きのうち2人が路地の入口に向かった。なおもニヤニヤ笑いを浮かべながら、男は女性の身体に手を伸ばす。
「そう硬くなんないでよ。気持ちイイ事、好きなんだろ?」
「ふざけないで…やめて…!」
「…あ、おいちょっと待て、コイツ…!」
不意に、横に立っていた別の男が女性の腕を乱暴に掴んだ。捻り上げられたその手には、女性の携帯電話が握られていた。
「くっ…」
「…こいつ、通報しやがったぞ!」
「バカ、落ち着けって」
 刈上げ男が、腕を掴む男を呆れ顔で窘めた。
「どうせ警察なんて来やしねぇよ。来るとしたって20分は先だ。…ほら、いいから抑えてろ」
 女性の両腕をもう一人に押さえつけさせると、刈上げ男は女性の首からカメラを強引にもぎ取った。
「ちょっと、返してよ!それだけは…本当に許さないから!」
「だって邪魔だろコレ?いいからこっち見ろよ」
 カメラを後ろの取り巻きに渡し、男はもう一歩女性に近づく。その手が女性の顎を掴む。
「こっち見ろって…ほら力抜けよ―」
 男が言いかけたその瞬間、女性がその顔に唾を吹きかけた。両手と顔を押さえつけられた中で、精一杯の憎悪を込めた目で女性は男を睨み付ける。男は無言で自分の顔を拭った。一瞬の沈黙の後、
「…大人しくしろ、ッつってんだろがよォ!」
 突然声を荒げた男は女性の胸倉を掴んで壁に叩きつける。そのまま、その手は女性のシャツのボタンに手をかける。
「素直ンなれよ…本当は好きなんだろ?魔物ってのは皆、気持イイのが大好きなんだろ…!」
 女性は必死で抵抗するが、口を押えられて声を上げることもできない。シャツのボタンが一つずつ開けられていく。男の手が胸元に差し入れられる。嫌悪感に全身の毛が逆立ち、思わず両目を瞑った。

その時だった。
男の背後で取り巻きの声がした。言い争うような調子の声は、二言も発しないうちに鈍い衝撃音と男のうめき声によって途切れる。ドサドサッと、身体が崩れ落ちる音が続けて2回。
「…あ?」
 刈上げ男は思わず振り向く。女性は男の手が止まったのを感じ取り、恐る恐る目を開いた。刈上げとその後ろの男、腕を押える2人。若者たち全員の視線が、路地の入口に集中していた。
 今の今までそこに立っていたはずの2人は、地面に崩れ落ちてうめき声を上げていた。意識は辛うじて保っている様子だったが、足が震え、二人とも立つことができないでいた。倒れ伏す2人の間には黒い人影。表通りから漏れる街灯の光を背にして、それは影のように静かにそこに立っていた。
 音も立てず、人影は一歩ずつ歩み寄る。体形から、人影は背の高い女だと分かる。後ろで束ねた長い黒髪が、歩くたびユラユラと揺れた。女は、珍妙な恰好をしていた。引き締まった身体に纏っているのは、東洋の暗殺者のような暗い色の装束。闇に紛れるための衣装は濃い紫色で、首には深紅のマフラーを巻いている。暗殺者というには少し目立ちすぎる、カートゥーンの中から出てきたような奇抜な衣装だった。暗い路地に踏み込むことで、逆光で見え難かった顔が浮かび上がる。布で顔の下半分は隠れていたが、切れ長の目をした東洋人の顔立ちだった。
「おいおい……ジョークかそりゃ」
 無言で歩みを進める女に痺れを切らしたように、刈上げ男が口を開いた。女性から手を離し、肩をすくめながら女の方に向き直る。
「ハロウィンなら半年前だぜ?それともアンタの国で流行ってんのソレ?」
 軽口を叩きながらも、男の目は注意深く女の動きを観察していた。後ろにいた取り巻きの1人が舌打ちし、女に一歩近づいて手を伸ばした。
「オイ、何とか言えよこの―」
「バカ近づくな!」
 刈上げの鋭い声が飛んだその時、 
「がッ!」
肩を掴もうと伸ばした取り巻きの手を女が掴んで引き寄せると同時に、反対の拳が目にも止まらぬ速さでその顎を打った。一連の動作は全て一瞬だった。取り巻きは何が起きたかも分からず、悲鳴を一声発してその場に崩れ落ちる。
「…家に帰りなさい」
掴んでいた腕を放し、不意に女が言葉を発した。見た目に反して流暢な発音だった。
「今すぐそのバカげた遊びを止めて、家に帰りなさい。コイツの様になりなくなければね」
冷たい目でうずくまる男を見やる女。向かい合う刈上げは、それでもなお、不遜な態度を崩そうとはしなかった。
「アンタ警察か?夜のパトロールってヤツかよ」
「…警察?」
女が立ち止まった。その拍子に、その腰部分から細長い尻尾が垂れて揺れたのが刈上げの目に映った。細くしなる尾の先に、矢じりのような先端が鈍く銀色の光を放っていた。
「私は警官なんかじゃない」
「魔物かよ…ったく通りで…」
刈上げは忌々しげに舌打ちすると、女性を押さえる大柄な2人のうち1人に目線で指示を出した。指示を受けた男は頷くと、女性の拘束をもう一人に任せ、メリケンサックを両手に嵌める。
「ナメんじゃねぇよ!」
刈上げの一声を合図に、2人は女に飛びかかった。刈上げは右から、もう1人は左から、ほぼ同時に左右から女に殴り掛かる。
女は既に構えを取っていた。右手右足を前に、両手の拳を軽く握る。両膝は柔らかく、瞬時に重心を移せるよう力を抜く。
間合いに入ったのは刈上げがわずかに早かった。大きく振りかぶった右ストレート。女はこれを軽く躱した。前に出していた右手を開いて刈上げの腕を掴み、後ろにステップしつつ前に引っ張る。勢い余ってよろめいた刈上げに進路を塞がれ、殴り掛かろうとしたもう一人が慌てて踏みとどまる。それが隙となった。女は空いた左手でその男の顎を打ち抜く。拳を縦に、肘は下に。下から抉るようなアッパーだった。崩れた体勢を立て直し、こちらを向こうとした刈上げには振り向きざまに右の裏拳。よろめいた所を首筋に手刀で沈める。
2人を倒すのに3秒もかからなかった。流れるような動作で、傍で眺める女性と男は目で追うこともできていなかった。
「て…てめぇぇぇ!」
最後に残った男は、女性を拘束するのも忘れて女に飛びかかる。半ば恐慌にかられ、前の2人よりかなり隙だらけのその動きを、女はもう見切っていた。掴みかかろうとした両腕を、下から掬うように右腕で捌き、ガラ空きの腹部に流れるような膝蹴り。男は膝から崩れ落ちた。
全員が倒れたと思われたその時、最初に顎への一撃で倒れた男がよろよろと立ち上がるのが女の視界の隅に映った。見ると、男はふらつきながらも路地の出口に向かって走り出そうとしていた。女の鋭い声が飛んだ。「ケイティ!そっちに1人!」
「りょうかーい!」
甲高い声が上方から聞こえた。それと同時に、男の頭上に黒い影が躍り上がった。影は壁を蹴って逃げる男の目の前に四つ足で着地する。
男は思わず足を止める。どこからか飛び降りてきたその人物は、黒いボディスーツを着た女性だった。短いストロベリーブロンドの髪の中に埋もれるように、ふたつの大きな猫耳。太い尻尾が一振りされ、女性が顔を上げると、目元を覆うマスクの中にグリーンの瞳が光った。
「…ダメだよ、カメラ持ってっちゃ!」
そう言うとそのワーキャットは、男自身持っていることを忘れていたカメラをひょいと取り上げる。次の瞬間、
「とりゃ!」
容赦無い蹴りが男を直撃。男は数メートルの距離を吹っ飛び、飛んだ先に立っていた装束の女がヒラリとそれを躱す。
「…ちょっと、こっちに飛ばさないでよ」
「あ〜、久しぶりだからつい…」
呑気に笑ってごまかすワーキャット。
「他にはもういないよね?」
「ええ。周りを見た限りでは、こいつらだけよ」
周りでうずくまる男たちを見下ろしながら装束の女が言う。「後は彼女と話を…」女が後ろを振り返ったその時だった。
「てめェら!う…動くんじゃねぇ!」
1人取り残されていたワーラビットの女性を、背後から刈上げが羽交い絞めにしていた。いつの間に意識を回復したのか、刈上げは女性の首に腕を回し、その首筋に小型のナイフを突きつけていた。
「ほ、ホラ道開けろ!ちょっとでも動きやがったらこの女ぶっ殺すぞ!」
ナイフで威嚇しながら男はじりじりと女性を抱えて前に進み始める。その声には2人を脅す凄みよりも、2人の女に対する恐怖の色が濃かった。男の足は小刻みに震え、精一杯の虚勢を張らなければその場にへたり込んでしまいそうだった。
「さ、さっさと歩け!歩けよ!刺されてえのか…」
前に立つ女性を歩かせようと腕に力を込めた時、男は違和感に気づく。さっきまで恐怖に震えていた女性が、ナイフを突きつけられているのにも関わらず、今はピクリとも震えていない。その顔は背後から伺うことができない。その時、ナイフを持った男の腕がガシリと掴まれた。
「…あ?」
次の瞬間、腕が強く捩じられる感覚と共に男の視界が180度回転した。続けて背中に強烈な衝撃。一瞬男の呼吸が止まる。「がはッ…!」
気が付けば男は地面に仰向けに倒れており、自分が肩越しに投げ飛ばされたという事に、男はそこで初めて気付いた。訳が分からず辺りを見回すと、すぐ頭上にワーラビットの女性が立っているのが視界に入る。次の瞬間、女性の姿が靄がかかったようにぼやけた。瞬きする一瞬のうちに、そこに立っていたのは全くの別人、モスグリーンのフード付きマントを被った長身の女性だった。顔はフードに隠れて見えなかった。
「…ごめんなさい…」
それが、男の聞いた最後の言葉だった。


「シェリル…!またそんな危ない事して…」
「すみません…でも、前よりは怖くなかったです…」
「全然気付かなかったー!いつすり替わってたの?」
最後の一撃で意識を失った刈上げを尻目に、フードの女性の下に他の2人が駆け寄った。仮面の女性が尋ねる。
「ご本人はどこ?」
「…あそこ」
フードの女性が指さした先、路地に置かれた大きなゴミ箱の陰からは、ちょうどワーラビットの女性が恐る恐る顔を出したところだった。女性は地面に横たわる男たちを信じられないというような目で見つめながら、3人の下へ歩み寄る。
「安心して。しばらくは全員動けないだろうから」
「あ、あの…本当に…」
「はいカメラ!」
ワーキャットの女性が手渡したカメラを、慌てて受け取って大事そうに胸に抱える女性。目に涙を浮かべて、深々と頭を下げた。
「…本当に、本当にありがとうございました…!カメラまで取り戻して下さって…」顔を上げた後、女性は不可解な顔で疑問を口にする。「でもどうして…」
「分からない事は」
言いかけた女性の言葉を、不意に装束の女が遮った。
「たくさんあると思う。事態が急すぎて混乱してるもの分かる。それについて、私があなたに伝えられるのは1つだけ」
女はまっすぐに女性を見据えた。
「私たちは戦っているの。さっきのあなたの様に、理不尽に虐げられる魔物たちのためにね」
その後ろでワーキャットの女性も笑顔を浮かべる。フードの女性の表情は相変わらず見えなかった。街灯の明かりに後ろから照らされ、3人の姿がシルエットとなって浮かび上がった。
「悪いけど、その他の事は教えられないわ。…それと、今日ここであった事は誰にも言わないで欲しい。私たちの事もね。それでいい?」
「あ……はい」
有無を言わさぬ女の口調に、言われるがままに頷く女性。その返事を確認すると、3人は踵を返して歩き出す。
「……あのっ!」慌てて、女性はその背中に追いすがろうとする。「せめて、お名前だけでも…!」
装束の女は、顔だけで振り返った。
「それも言えない。今日の事は、もう忘れてちょうだい」
その言葉を最後に、3人は夜の街に姿を消した。
地面に転がる男たちの間に、1人残された女性だけがいつまでも茫然と佇んでいた。


*    *    *    *    *


1:00PM、イーストサイド・パーク。
昼休みの大学生や会社員が多く行き交う、ビルに囲まれた公園のベンチに、1人の東洋人女性が座っていた。細身の黒いスーツを着た女性は長い脚を組み、やや前のめりの姿勢で携帯の画面を見つめていた。首には薄い麻のスカーフを巻き、後ろで一つに結ばれた黒髪がスーツの色に溶け込む。鼻筋の通ったその顔立ちは端正で、アジア系特有の黒い瞳が画面に流れる文字を追う。首から下がる社員証には、「イーグルストリート・プレス」の文字が見えた。
「あ、シオーン!」
遠くから聞こえた声に、女性は顔を上げる。公園の入口から、一組のカップルが歩いて来るのが見えた。ブンブンと手を振る女性はボブカットのストロベリーブロンドを揺らし、隣を歩く背の高い恋人に満面の笑みで腕を絡ませる。そして頭には髪と同じ色の猫耳。フェミニンな春物の服とハンドバッグに身を包み、甘ったるい恋人たちの空気を周囲に漂わせていた。
「よぉシオン!いつ見てもデキる女、って感じだな!」
「褒めてるのソレ?」
カールした金髪の男性は白い歯を見せて笑ってみせるが、シオンと呼ばれた女性は冷めた目で言葉を返す。するとその横でワーキャットの女性が口を尖らせた。
「もぉ〜!シオンばっかり見ちゃダメ〜!」
「そんな事しないさ!俺にはケイティしかいないって、いつも言ってるだろ?」
「…もう、クリスったら!」
頬を染める恋人の肩を抱き、男性は優しく言葉をかける。
「…じゃ、俺は帰るから。シェリルにもよろしくな」
「うん!送ってくれてありがと!」
男性の去り際、女性は恋人の首に腕を回し、唇を重ねた。そのままたっぷり5秒間は熱いキスを交わした後、ようやく2人は身体を離す。
「あとでねー!」
帰っていく恋人に手を振るワーキャットの女性―ケイティは、傍らに座る女性がそっぽを向いている事に気づく。
「あれ、シオン?どしたの?」
「…別に」
黒髪の女性―シオンは不機嫌な顔でそう答えた。
「よく公衆の面前であんな事できるわよね、って思っただけ」
「え〜、あれくらい普通だよ〜」
そう言ったケイティは、口に手を当ててニンマリと笑う。
「あ、それとも…シオンにはちょ〜っと刺激が強かったかにゃ〜?」
(……ウザ)
耳でも引っ張ってやろうかとシオンが考えていた矢先、手にしていた携帯が震えた。画面には、一件のメッセージ通知。
「…シェリルが少し遅れるって。先に入ってましょう」
「え…ちょっとぉ、何か反応してよ〜!」
立ち上がってスタスタと歩き始めたシオンは、文句を言いながら後を追うケイティの声に一瞬立ち止まると、その額に思い切りデコピンをかました。

公園の目の前に位置するカフェに入ると、注文を済ませて2人は窓際のテーブルに着いた。シオンのトレーにはベーグルとスモールのソイラテが1カップ。シオンがカフェで注文するのはいつもこれだった。
「あれ、それだけでいいの?ダイエット中?」
「別に…私昼はあんまり食べないのよ」
そういうケイティのトレーの上は、Lサイズのタコスとサラダに殆どのスペースが占領されていた。顔とほぼ同じサイズのタコスに早速かぶりつくケイティ。
「…クリスが見たら何て言うかしらね」
「あ!絶対言わないでよ?家ではこういうの食べないようにしてるんだから」
「はいはい」
恋人の前では小食キャラを演じているのであろう彼女の涙ぐましい努力を察しながら、シオンはソイラテをすすった。たまに3人でこうして集まるのは、クリスと同棲しているケイティが彼の目を気にせず羽根を伸ばすためでもあった。
シオンはベーグルを齧りながら、ぼんやりとカフェの壁に設置されたテレビから流れる昼のニュースを眺めていた。大統領の外国への表敬訪問や経済関連のニュースに混じって、度々挟まる強盗やギャングの抗争などの物騒な事件。このような事件がニュースで報道されるのは治安の悪いエンパイア・シティでは日常茶飯事で、この街に何年も暮らす者として、もはやシオンはこの手のニュースを何とも思わなくなっていた。
「何見てるの?あ、もしかして昨夜のこと、ニュースになってたり?」
「そんな訳ないでしょ。…なったら困るわよ」
昨夜の一件が報道されていないことは、各種ニュースサイトなどで確認済みだった。ケイティは眉根を寄せる。
「もう、そんなに気にする事なくない?一応正体は隠してるんだし、別に悪い事してる訳じゃ…」
「世間はそうは見てくれないわよ。何の権限も持たない一般人がチンピラ相手に暴れてるだけ…法的にはただのケンカよ」
「そうかもしれないけど…」

その時、カフェの自動ドアが開く音が聞こえた。パタパタと靴音を響かせ、小柄な女性が駆け込んでくる。
「す、すみません!遅れてしまって…」
「いいのよシェリル。お疲れさま」
シオンが微笑んで見せると、シェリルと呼ばれた女性は困ったように笑い返した。場末のリサイクルショップで揃えたような地味なチェックのYシャツに、全く合わない色のよれよれのズボン。背中にはこれもまた地味な緑色のリュックを背負い、小柄な体格のせいでリュックがやたらと大きく見えた。栗色の癖っ毛は手入れをしないせいでくしゃくしゃに生え散らかり、大きすぎる眼鏡の奥でブルーの瞳が自信なさげにオドオドと泳ぐ。
「とりあえず何か買ってきたら?」
「あ、あ、そうだった!ちょっと行ってきますね!」
シェリルはまたパタパタと靴音をたて、慌ててカウンターに向かう。足元を見ると履き古したスニーカーの靴底が半分剥がれかかっていた。シェリルの後ろ姿を見てケイティが溜息を吐く。
「ギークファッションの絶滅危惧種…」

シェリルがトレーを持って席に戻ってきた時、ちょうどニュース番組が次の特集コーナーに移った。キャスターが交代し、画面に“MAYORAL ELECTION”の文字が躍る。
「いよいよかぁ、市長選」
「毎日うちの政治部が大騒ぎよ。みんなピリピリしてるんだから」
エンパイア・シティ市長選を数週間後に控え、各種メディアは連日この話題で持ち切りだった。腐っても世界一の大都市と称されるこの街の長を決める選挙は、国内のみならず海外からも注目を集める程の、4年に一度の一大政治イベントだった。今回は4年前より多い、6人の候補者が出揃っていた。
ニュースは候補者の演説をVTRで次々に流す。その最後、画面が6人目の候補者である中年男性の姿を映し出した時、ケイティがあからさまに顔をしかめた。
「出たぁ…私コイツ嫌い…」
「安心して、私もよ」
『…政治はビジネスだ!資産家として多くのプロジェクトを成功させた私にしかできない事がある!』
画面の中で腕を振り上げて熱弁を振るう四角い顔をしたこの男こそ、今回の選挙で筆頭候補と目される人物であった。
不動産王、ハロルド・ドミノ。エンパイア・シティ最大のビル「ドミノタワー」を所有し、大富豪のひしめくこの街にあってその頂点に君臨する最大の資産家。金が全てを物語るこの街では、以前から実質的な街の支配者と呼ばれてきた。その男が今回市長選に出馬するという事で、いよいよ名実共に街を牛耳るべく動き出したのだと人々は噂していた。愛人を巡るスキャンダルなど元々ゴシップのネタには事欠かない人物であったが、シオンたちにとってこの男を好きになれない理由はそれだけではなかった。
『記者ː当選されたら、最初に何をなさいますか?』
『もちろん、魔物娘共をこの街から全員叩きだすことだ。公約通りにな!』
『記者ː各方面から差別的だと批判が上がっていますが、意見をお聞かせ下さい』
『街の風紀向上のために、これ以上の対策があるかね?あの色狂い共を一掃するのが間違いだと?所詮ヤツらは×××だ!●●●に※※を**して何が悪い?』
テロップに修正が入る時点で失笑ものだったが、「魔物娘(monster girls)」などという俗っぽい表現を堂々と使っているあたり、品位の低さが伺えるというものだった。「不動産王にして失言王」と呼ばれる彼の、これこそが持ち味ともいえるのだが。
「こんなのに人気が集まるなんて、本当世の中って分からないものよね」
「私の周りではそこまで人気は無いみたいですけど…」
「そりゃ、シェリルはアップタウンだからでしょ?うちの店に来る若いのなんて、結構支持者多いみたいだよ〜」
私は絶対ヤだけど、とケイティは付け加える。
魔物が全人口の2.7%を占めるこの国において、現代では表だって差別を行う者は決して多くはない。法律は種族間の平等を謳い、世間では差別する方が白い目で見られるのが常識である。もちろん圧倒的少数派である魔物たちの辿った歴史は生易しいものではなく、教科書に載っているような偉大なる先人たちの「戦い」の結果現在の状況があるというのも事実だが、少なくとも今の時代、魔物として生きることは昔よりもずっと楽になったといえた。
けれども、古い人間というものはいつの時代も存在する。ドミノのような発言をする者は決して彼一人ではなく、あのような過激発言が一定の支持を集めているという現実が、それを如実に物語っていた。
「…あ。でも、こういう時こそシオンの出番なんじゃない?」
思いついたようにケイティが言った。「ドミノタワーに乗り込んでってさ、ギャフンと言わせてやるとか。『この街の魔物は私が守る!』みたいな」
「ソレやったらただのテロリストじゃない。通報されて現行犯逮捕がオチよ」
シオンが苦笑する。
「そうだよ…それにドミノタワーに乗り込むなんていくらシオンさんでも…難しいと思う…」
「もぉ…相変わらずクールなんだからシオンは…」
軽口に真面目な答えを返され、ケイティはつまらなそうな顔で口を尖らせる。
シオンは、しばらく何も言わずにカップの中のソイラテをかき混ぜていた。長い睫毛が伏せられて目の下に影をつくった。
「前にも少し言ったけれど」
おもむろにシオンが口を開いた。
「私は、何も正義のヒーローになりたい訳じゃないの。この街の魔物を危険から守りたいだけ。私がそうしたいから、私が勝手にやっているだけ。正義なんて語るつもりもない」
もちろんあなたたち2人にはそれぞれの理由があるでしょうけど、と付け加えた後で、
「私が戦う理由はそれだけよ。だからドミノが何をしようと、私にできる事は何もない。民主主義に従うだけよ」それからシオンは少し笑って言った。
「まあ、どうせ当選なんてしないでしょうし、したらその時はその時よ。言われなくても、こっちから出て行ってやるわ」

*      *      *     *

 オフィスに戻ったシオンは、午後の時間をコラム記事の編集に費やした。自分の足で取材に出向いて記事を書く仕事に比べ、このような編集作業の方がシオンは好きだった。スタッフ不足の関係で取材と編集の両方をやらせるのが社の方針だったが、元来本ばかり読んでいたせいか、他人の書いた文章を読んでいる方が性に合っているらしかった。それにしても、コラムの原稿が中々上がってこないのにはうんざりさせられた。最新のアートシーンについてエッジの利いた解説を加えてくれるライターの先生方は、日々締め切りに追われるシオンたちオフィスワーカーの事情には頓着してくれないようだった。
「ブラッドレーさん、ちょっといい?」
 同僚の女性社員に声を掛けられ、シオンは振り向く。
「ええ、どうしたの?」
「昨日言ってた特集記事の事なんだけど、さっきようやく原稿が揃ったところで…チェック、お願いできる?」
「ああ、映画祭の?…明日中だったかしら?」
「そうなの!…ごめんなさいね、自分の仕事もあるのに…」
「大丈夫よ、やっておくから」
「ありがとう…!お願いね?」
 クリアファイルごと書類の束を受け取ったシオンは、そのままそれを自分の鞄に突っ込む。頼まれた仕事は、持ち帰って家でやるようにしていた。
 その時、デスクにおいていた携帯型端末が不意に振動した。手に取ると、暗い画面に青い盾の紋章と〔ECPD〕の文字が浮かび上がる。
 都市型非常事態早期通報システム(City-central Emergency Rapidly Informing System)、
通称CERIS(セリス)。エンパイア・シティ警察(ECPD)が数年前に開発・導入した、携帯アプリを利用した危機管理システムである。特定の操作を行うことで電源OFF状態からでも即座にアプリが起動し、画面に表示されるボタンをタッチするだけで、ECPDのサーバーに利用者のGPS情報と共に救難信号が届く。通報を受けた警官は位置情報を利用して現場に急行するというシステムになっており、通話を省いた迅速な通報と正確な位置把握により市民を守ると、稼働当初はECPDが盛んに宣伝していたものだった。しかし導入されてみれば、警察官の数に対して日々膨大な数に上る事件の発生に対応が追いつかず、通報から30分以内に警官が駆けつける確率は現状わずか20%とさえ言われる有様。用心のためにとアプリを入れる市民も少なくはないが、効果の程はほとんど期待されておらず、元々低いECPDの信頼はさらに落ちる結果となった。
 そんなシステムをシオンが利用している目的は、実は別にある。シオンの携帯の画面に表示されているのは、通報のためのボタンではなく、この街の地図。あちこちの路地に旗のようなアイコンが浮かんでは消え、文字のデータが画面上を忙しなく流れていた。それは市民からの通報を一手に受信する、CERISのサーバー側の情報。シオンが通報受信用の端末を(違法に)入手し、アクセスしている情報だった。
地図上に現れる数多くのアイコンの中の、ある一つにシオンは目を留める。タッチすると、MR(出動要請)の文字と共に通報者の情報が表示される。場所は33rdストリート12番地。オフィスからそう遠くない場所だった。
シオンは鞄から自分の携帯を取り出し、SNSのチャットルームを開くと、簡潔なメッセージを打ち込んだ。
《シオン:魔物市民からの通報あり。MR(出動要請)だから急ぎではないけど、行けたら向かっておいて。場所は33rd St. 12Ave.》
《ケイティ:りょうかーい。もうちょっとしたら行けるよ〜 Σ:3》
《シェリル:できるだけ早く向かいます…!》
 時計に目をやる。5:35PM。退社しても文句は言われない時間だった。
「お先に失礼します」
 手早く荷物をまとめて、シオンは席を立つ。離れたところに座る文化部デスクが、それを見て慌てて呼び止める。
「お、おいおい、ちょっと待ってくれ。頼んであった資料は?」
「先ほどメールで送っておきました。チェックはお任せしますね」
 颯爽と鞄を肩にかけ、軽く会釈をした。
「では。お疲れ様です」


 エンパイア・シティの夜は、昼間より一層輝きを増す。ネオンの明かりがビルを彩り、バーやディスコに若者たちは集う。男も女も快楽を求め、金が人々の手を渡り歩く。
金は力にしてこの街のルール。正義にも悪にも属さない力が、平等に人々を支配する。感情を持たないルールの中では、時として人は残酷にもなれる。
人間が作り上げたそんな社会に、埋もれるようにして暮らす魔物の市民はほんのわずか。数という圧倒的な力の前には個々の力など意味をなさず、暴力は常に弱者を餌にする。
あらゆる理不尽がまかり通るそんな街で、弱き者たちを誰が守る?権力が人々を見捨てた欲望の街で、声なき声を誰が拾う?
真紅のマフラーを首に回し、シオンは愛用のバイクのエンジンをかけた。
17/01/20 21:02更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
連載2つ抱えた上にまた連載始めるとは何事だ、と言われるかもしれませんが事情があるのです。投稿しないとト○ンプネタが使えなくなるからです。時事ネタは鮮度が大事。
だいぶ前から構想はあったんですがうかうかしてる間に大統領選終わっちゃいそうになって慌てて投稿した次第です。Bパートはなるべく大統領選終わるまでに上げます。
まあすぐ時事ネタとしては古くなるんですが、どっちが大統領になっても連載は続けますので生温かく見守ってください。


※2016/11/9追記
ちょっとこうなるとは予想外だったので、予定していたプロットを大部分書き換えるかもしれません。

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