1.菫花
青く瑞々しい若葉が水面を下っていく
清流の流れに乗って、右へ左へ石を避けながら流れていく
それから目を離すと水草の青々しい緑が川の底から浮かび上がってくる
サクラの花が咲き終わった頃、草草は春の到来を待ち焦がれたように若葉をいっぱいに広げる
目に映る緑の心地よい青
深緑と草草の放つ心落ち着く香り
清らかな水の流れる音を楽しみながら私は小川沿いを歩いていた
とある人物を尋ねるところである
その人物はこの小川に近い山林に住んでいるという
小川の両脇に広がる山林には大人でも抱えることが出来ぬほどの太さを誇る巨木が、天へ高く高く伸びようと茂っている
苔むした木肌、目に栄える緑、それは陽の光を受け若草色の光を地面に注いでいる
木漏れから伸びる日が筋となって若葉から落ちようとしている雫を硝子のような眩いものへと見せ付ける
「よいところへ住んでいるものだ・・・」
私の名は、崎間慎吾
崎間家とは足軽頭の一つである
当主、崎間松唯。これが私の父
嫡男 唯春。次男 松久。そして、私
崎間家の三男だ。ゆえに部屋住みの私には、家を継いだりしなくてもよいというものだ。まあ、そのうちどこぞへ養子縁組することになるであろうが・・・
そのようなワケで、三男坊という立場は実に気楽なものである
だからか、心の底では何か家の役に立ちたいと思う事もある
と言う事で、今日はわが兄・唯春のためにこの地まで足を伸ばしていた
先祖は、苗字も付かぬ足軽であった
戦の世において、誰よりも早く戦場を駆け抜け先陣を切ったという。そして、数々の功績をあげた
馬よりも早く駆け抜けたということから
崎間の名を賜ったのだ
そして、戦の世が終わると、功績により国の殿様より一振りの太刀を賜った
それ以来、崎間家の嫡男が家を継ぐ時に、これも一緒に継ぐ
兄は良家との縁談もまとまり婚礼の時を控える身であった
婚礼に望む前にこの拝領の太刀をきちんとした研ぎ師に見てもらうと言う事となった
その研ぎ師は、この国・・・いや、他国にも名の通った研ぎ師であるという
私が住む城下より二刻ほどの山林の中に居を構えているという
刀研ぎの他にも、蒔絵や塗り物などの美術品も評判が高く
城の者達や商家の者たちもこれを買い求めようとするという
されど、気の難しい人物らしくなかなか手に入らぬともいう・・・
いったい、どのような人物なのであろうか・・・
いつの間にか川辺が少し開けたところに差し掛かっていた
大木の木々の根元にはスミレが薄い紫色の花を咲かせて揺れている
川には刀身のようにすっと伸びた葉を持つ草草も群生している
水仙の蕾を少し大きくしたような形の蕾
「・・・アヤメか?菖蒲か?」
蕾の緩んだその中から、むらさきの花びらが開ききるのは待ちきれぬと出でて、清流の風に揺れている
そこいらは緑色と紫色の色豊かな場所であった
その昔、紫は高貴なものの色とされていたらしい
確かにこの紫は魅了される
そんな眺めを見ていると、川の向こうに一軒の家が建っていることに気が付いた
木々の枝に阻まれその全容は見えないが、萱葺きの低い屋根が見えることから大きな家であるらしい
小川には、細い丸太を並べた小さな橋が渡されている
橋の苔に足を滑らせないように気をつけながら歩む
なだらかな坂を少し上ったところにかの家は建っていた
その坂には野草が低く茂り、その中からは時々鶏が地面をつつきながら歩いているのが見える
「ごめん!」
そう言ってから、玄関の戸を開ける
「はい!」
中からは凛とした女子の声が聞こえた
「拙者、崎間慎吾と申すもの。菫(スミレ)殿はいらっしゃるか?」
すると奥の方がら黒のような色をした着物を身に付けた女性が現れた
「どうぞ中へ」
敷居を越えると目が暗くなる
目が慣れてくるとそこには、薄い紫色した着物を身に付け、深い紫の帯をしている女性がいた
髪の色は艶やかな黒。両の肩に下がった髪を赤い紐で束ねている
その間からちらりと見える人の丸い耳とは違う、尖って長めな耳
内面の強さを物語るようなきりりとした瞳・・・
その容姿はとても美しかった
しかし、左目の下から頬に刃で切ったような傷跡が少し恐ろしげな印象も与える
魔物と呼ばれる類の人なのだろうか?
「菫はわたくしでございますが?如何様なご用件で?」
「あなたが、菫殿?」
研ぎ師と聞いていたので驚いた、このような美しい女性だったとは・・・
「はい。研ぎ師ということから男の方を想像なされていたようですね。されど、男で菫という名は付けますまい。さて、ここでの立ち話はやめにして、中で伺いますわ」
“どうぞ”と言って奥の間に案内してくれた
「そこに座り、少しばかりお待ちください」
案内されたのは、畳張りの部屋ではなく、板張りで何かの作業場のようなところだった
部屋の中は、長い年月を感じさせる黒光した木肌。そこに置かれた品々はとても整然としていた
言われるがままに座る
しばらくすると茶を入れてくれた
「どうぞ。お城からではさぞ、お疲れになったことでしょう」
「あ、いや。私は城の使いと言うわけではありませぬ」
「と、申されますと?」
てっきり城の使いと思われていたようだ・・・
「実は、仔細あって菫殿に刀を研いでいただきたく」
「・・・」
そういうと、黙ってしまった
「我が崎間家にある。殿より拝領した太刀。このたび、私の兄・・・崎間家嫡男・崎間唯春が婚礼にあたり、この太刀も継ぐことと相成ります。そのため一度、菫殿に見て頂きたく」
「・・・・・・」
沈黙が続く
「・・・如何か?」
しばらくして、彼女は重々しく口を開いた
「・・・お殿様より拝領の太刀・・・それは、人を切る為のものですね?」
「・・・我が崎間家の家宝にて人を切ると言うことは最早ないはずだが・・・?」
「いえ、人を切る為に作られた刀なのですね?」
「さよう。戦国の世にて作られしものならば、人を切る為のモノなのでしょう」
菫殿は静かに目を瞑ると言った
「申し訳ありませぬ。わたくしは人を切る為の刀は研いではおりませぬ」
「されど、“研ぎ師ならば菫殿”と世間にはその名が響いておりますぞ?」
「わたくしは、人を殺めるための刀は触れぬことにしているのです」
そういうと、立ち上がり奥の方へと行き一振りの刀を持ってきた
「どうぞ」
私にその刀を渡すと、じっくりと見据える菫殿
私は、その刀を両の手に持ち静かに眺めた
まず、目を惹くのは鞘の意匠であろう
黒漆に施された見事な蒔絵
黒の漆に金で流れる川の流れが施されている
流れに沿って葦や菖蒲といった草草が生えている
鴨などの鳥が羽ばたく、実に見事な細工であった
柄を手に取り鞘から白刃を引き抜くと緩やかな刃紋が際立っている
まるで海の波打ち際のような流水のように穏やかな曲線美・・・
鍔の意匠には2匹の鯉が泳いでいた
「これは・・・」
「この通り、わたくしは“切る”ための刀ではなく、“魅せる”ための刀を作っているのです」
「美しい刀ですが・・・実戦には向かぬと?」
「この刀で切りあったならばたちまち刃は欠け、刀身は曲がるか折れてしまうでしょう」
「何ゆえ切るための刀を扱わなくなったのか聞いてもよろしいか?」
菫殿の目は私を離れ、私の後にある窓の外へと視線を向けた
しかしその目は遠い昔を思い出すような、定まらぬ目つきをしている
「今は戦乱も収まり、天下泰平の世。そのような時に人を殺めるための刀を作って何になりましょうか・・・」
「・・・」
私はしまったと思った。菫殿の瞳に映る寂しげな光が過去を思い出させてしまったかとしばし後悔をした
「わたくしは、慎吾様もお気づきかと思われまするが人の身ではありませぬ・・・永き時を生きる者・・・」
目を伏せうつむく菫殿。重苦しい沈黙が辺りを包む
「今日の所はお引取りくださりませ・・・」
「・・・また・・・来ます・・・」
私にはそう言うしか声が出なかった
菫殿の家を出ると私は深々と辞儀をして戸を閉めた
彼女の心根に何か分け入ってしまったかのような心苦しいものだけが残った・・・
次の日、私はまた菫殿の所へと赴いていた
昨日は不注意により、彼女の心根にさわるようなことを思い出させてしまった
後悔の念が湧き上がる・・・
しかし、こちらも婚礼の儀を控える兄のためになんとしてでも見てもらい、その刀を送りたい
「ごめん!」
・・・
返事はなかった
どうやら、中にはいない様子
私は裏へ回って見ることにした
横手に回ると菫殿がいた
地に座り、机に向かい巻物に筆を走らせている
どうやら、川の様子を絵に写し取っているようだ
命溢れる川、山林・・・それらを余すことなく巻物に写し取ろうとしているように見える
声をかけるのが躊躇われた
また、いらぬことをしてしまうのではないかと・・・
少し時をつぶしてまた来ようと、踵を返した
「崎間殿?そのような所ではなくこちらへ来ても大丈夫ですよ?」
肩越しにそんな言葉が投げかけられた
彼女は一心に筆を動かしている
「・・・お邪魔では?」
「いいえ。動物や動くものと違って川は逃げませぬ」
「では、しばしごめん」
私は彼女の写生の邪魔にならぬよう少し離れた後へと腰を下ろした
「・・・」
「・・・」
「・・・昨日は・・・申し訳ありませぬ・・・」
「・・・」
「いらぬことを思い出させてしまったようで・・・」
ふたりの間に沈黙が続く
だが、周りは賑やかであった
鳥の声、風の音、風に揺れる木々の音、獣達の鳴き声、虫虫の鳴き声・・・
しばらくした後、菫殿は筆を置いてこちらへと向き直った
「崎間様。お気遣いは無用です。あれは、わたくしが勝手に思い出したもの。崎間様に非はございませぬ」
「・・・しかし・・・」
「初めてのお客様に見せる顔ではありませんでした」
そう言うと僅かに頭を下げた
「それはそうと、崎間様は今帰ろうとなされたので?」
「・・・川を一心に写し取っている菫殿を見て、間の悪い時に来てしまったと・・・。少し時をつぶしてからまた…と」
菫殿はクスッと微笑むと言った
「わたくしは、声を掛けなければおそらく日が沈むまでこのままであり続ける事となったでしょう」
「ずっとこのまま?」
「そのようなことは、珍しいことではございませぬ。さて、茶でも淹れましょう」
そう言うと、家へと入っていく
私は一瞬、菫殿が見せた笑顔にどきまぎしていた
なんと可愛らしい・・・
しばらくすると茶を盆に載せてやってきた
「どうぞ・・・」
「かたじけない」
「崎間様の兄上様は今度婚礼を迎えるとして、あなた様は?」
「私は崎間家の3男坊にて部屋住みの私には当分そのようなことはありますまい」
「3男・・・では、もう一人の兄上様は?」
「遠方のお役目にて、そちらの方へと行っておりまする」
「なるほど・・・。そんな大切な兄へと家宝の太刀をわたくしに預けたいと・・・」
「はい。足軽身分だった先祖様の活躍にて殿より苗字と刀を賜ることが出来たお家の為を思えばこそ、私は菫殿に太刀を任せたいのです」
「それでは、何故先ほど帰られようとしたのですか?それほど大事な話なのに?」
「それは・・・」
「わたくしが作業中だったからと言って踵を返した崎間様。敵に背を向けたのと同じなのでは?」
「・・・」
声が出なかった。誰よりも早く戦場を駆け抜け先陣を切り数々の功績をあげた崎間の家…それを誇りにしていたのに・・・
「そのようなことでは、わたくしの心は動かせませぬよ?」
「・・・っ」
「もっとも、強引に話を押し進めようとするような輩には、強引にでも帰っていただくのですが。二度と口も利きませぬ」
そう言って微笑んだ
「・・・」
喉が酷く乾いた私はやっとのことで茶を飲んだ
ぬるくなってしまっていたけれども、心に冷水を浴びたように感じた
そうして、しばしの雑談をしてその日は帰ることにした
「菫殿、ではこれにて。私はあきらめませぬ」
「ふふっ。いくら言ってもわたくしの心は変わりませぬ」
「では、ごめん」
その日から私は毎日通いつめることとなる
今日も菫殿の元へと通う。私は少し思案した。このまま口うるさく研ぐことを請うてもおそらく、手入れはしてくれまい・・・
ならば、菫殿のことをよく知り心動かさなくてはならないと思う
「崎間様?申し訳ありませぬが、今日は立て込んでおりまする。ですから、お構いすることはできません」
「いえ、こちらこそお構いませぬ。菫殿が日ごろどのようなものを作っているか見てみたいと思いましてな。なので、しばしここで拝見仕る」
「・・・物好きな方。気の済むまでごらんになられればよろしいかと」
「では、しばしごめん」
見ていてもよいと許しがでた。私はそこいらに座ると菫殿の様子を見守る
菫殿はすぐに作業に取り掛かった
何をするかと思えば、金塊を取り出し、いくつもの鑢を取り出した
荒い鑢、細かい鑢とその数はさまざまだった
台の上に紙を敷くと、その上で金塊を削りだす
見る間に髪の毛の太さよりやや大きいかと思えるほどの金粉が出来上がる
出来上がった金粉を器に入れる
今度は、もっと細かい目の鑢で削り出しは始めた
やはり、細かい金粉が紙の上に削りだし器に入れていく
いくつかの大きさの金粉を削りだすと彼女は、鑢を置いた
それらを、同じ大きさの金粉ごとに一寸ほどの径の竹筒に詰めていく
そんな、作業が終わると漆と筆を取り出した
台の横には漆塗りされた盆や木箱が置いてある
それをどうするのかと思っていたら、筆に漆をつけて盆になにやら書いていく
書き終わると、先ほどの竹筒を取り出して手に持ち、竹筒を軽く指でつつきながら金粉を漆を書いた上に振るい落していく・・・
どのくらいそんな時が過ぎたであろう
短く“ふぅっ”と息を吐いた菫殿
私も同じように大きく息を吐いた
「まだいたのですか崎間様。退屈だったでしょう」
「菫殿?それは一体?」
「蒔絵を作っているのです」
「蒔絵を・・・。そのようにして作っていたのですか。・・・見事なものです」
「これは、まだ作り掛けです。崎間様は蒔絵に興味があるのですか?」
あまりにもまじまじと手元を見ていたからだろう。そんなことを聞かれた
「私の家にも螺鈿を使った蒔絵があるのです。一体、あのような煌びやかで見事な光沢はどうやって出しているのかといつも思案していた次第です」
「それはよいものをお持ちで。崎間様、蒔絵とはあらかじめ漆を塗っておいたものなどの上に、更に漆で絵を描きそれを糊として金粉で画を描くのです。粒の大きさの違う金粉を使うことによって光の反射を変え画を荒くも細かくも見せることも可能なのです」
「なんと奥ゆかしい。金の粒の大きさを使い分けることによってそのように見せていたとは・・・」
筆を持つ手のなめらかな動き、竹筒を繊細に振るい金粉を撒くというより置くように蒔絵を描いていく様に、私は見惚れていた
「崎間様はこのようなものに興味があるのですか?」
「私は、武よりどちらかと言えば蒔絵はむろん、書や絵巻。そして、書物などと言った方に興味があるのです。武芸の方はとんとからきしでしてな。いつも父や兄に扱かれていたものでした」
恥ずかしさから頭を掻く
そんな私の手を見たようで、菫殿は言った
「確かに、慎吾様の掌は侍の手はしていませんね。普通だったら剣ダコが出来ているものですがそれがない」
「ははっ。武芸がからっきしなのでいつも嘆かれておりまする。・・・そうだ、名を呼ぶ時は様はいりませぬよ?様付けで呼ばれると背筋が痒くなり申す。いつも呼び捨てなので菫殿も呼び捨てでお願いしまする」
「・・・いつのまにか慎吾様と呼んでいましたか・・・。では・・・慎吾・・・」
「はい」
「慎吾も殿をつけるのはやめにしませぬか?」
「いや、菫殿は菫殿でござるよ。どうしても嫌と申されるならば変えますが…」
「・・・真吾がそれでよいならば、そのままでよろしいですよ。わたくしはもともと違う名を名乗っておりました。しかし、戦の世も終わり侍を辞めるに当たって名を変えることとしたのです。仕えていた国を去り、旅に出て丁度この辺りに来たときに川辺にスミレの花が咲いていたのです。それにあやかり菫と名乗るようになりました。あの見事な深き紫を見たときに心惹かれまして。それに、この辺りには紫の花をつける草が多く茂っている。なのでここに居を構えたのです」
「なるほど。花の名を・・・似合っておりますよ。とても」
「ありがとう存じます」
紫の着物に身を包んだ菫殿。肌の白さに相まってとてもよく紫という色が似合っている
そんな談笑をしていたらいつの間にか帰らなくてはならない刻限となっていた
「では、そろそろ私は帰りまする。明日も蒔絵を見せてくださいね」
「刀はよいのですか?」
「・・・兄の婚礼の時はまだ日がありますゆえ、少しくらいならば大丈夫でしょう。私はもう少し見ていたいのです。菫殿が蒔絵などを作っているところを」
「慎吾・・・」
「では、ごめん」
あの筆の繊細な動き、そして何かを生み出そうという真剣な眼差し。刀のことは大事ではあるけれども、それを後回しにしてでももう少し見ていたいと思った
ここに来る楽しみができたと言うものだ
それから、私は菫殿に蒔絵や絵巻といったものについて教えを請うこととなる
それらはとても楽しきことだった
菫殿も最初に会った頃などは固い表情をしていたものの、そのうちに表情豊かな表情を見せては、私をどきまぎとさせた
その日、私は作業場の清掃を手伝っていた
漆を塗っている最中に埃などが舞ってしまったりしたら大変だからだ
天井付近や棚などを濡れ布巾で拭いているとそれはあった
「菫殿?あの刀はもしや、大太刀なのでは?」
天井に程近い壁に飾られている一本の長い刀のようなもの
戦の世において自分の身長より大きな刀は大太刀と呼ばれた
長く大きいのが特徴
「あれは、戦の世だった頃。わたくしがまだとある国に使えていた頃のものです」
「菫殿も、将に仕えていた頃があったのですか。今の菫殿を見ていると想像も付きません」
「これでも名の知れた使い手だったのです。あれを一振りすれば10や20の雑兵の首をも刎ねることが出来たのです」
「10や20の首・・・」
・・・唖然とした。物腰柔らかく絵巻や書をしたためている姿からは考えられない姿だろう
「・・・10や20は言い過ぎました。ですが、わたくしは人とは違うのです。慎吾?わたくしが恐しくありませぬか?」
「私には、書や蒔絵を作る物腰の柔らかな姿しか知りませぬ。ですから、恐ろしくはありませぬよ」
作業台に向かい、真剣な眼差しで魂を込めるがごとく数々の品々を作る姿。それからは、戦場で大太刀を振るう姿など想像できようか…
「慎吾・・・」
「それにしても菫殿が戦に・・・ならば、その頬の傷もその時のものなのでしょうな。そう考えると確かに歴戦の侍という貫禄さえも感じるもの」
「・・・い…いえ…こ、これは…」
名誉の負傷・・・のつもりで褒めたというのに、菫殿はなにか恥ずかしそうにしている
どうしたんだろうか・・・?
「さっ、慎吾?拭き掃除はそのくらいにして茶でも淹れましょう」
囲炉裏端でふたり、茶を楽しむ
さっきの態度にいささか不審を感じたが、話したくない様子なので話題を変える
人とは違う時を生きる彼女ら魔物。やはり、いろいろあったということなのだろう・・・
「菫殿には、今までよい人はおられなかったので?」
唐突にそんなことを聞いてみた。すると、少し恥ずかしそうな顔をした菫殿
「わたくしは、ずっと一人でした。お慕いした将もおりましたが、その方は違う国の姫君と結ばれることとになり、わたくしは身を引きました。それ以来ずっと・・・。慎吾はそのような女子はいましたか?」
「私は、ずっと学問と稽古の身でしたからな。女子と言うものをよく知らぬのです。そして、時が来ればどこからか養子縁組の話でも浮かびましょう。ですから、そのような書物を読むと少し羨ましいとも思いますが、お家のことを思えば、個としての感情は無用でしょう」
そう、我ら武家で恋愛などというものは無きに等しい。政略結婚と言ってしまえばそれまでだが、お家を安泰に導く為にはそれが普通であろう
「そうですか・・・」
菫殿は少しつまらなそうな、ほっとしたようなそんな表情をしている
ま、仕方ない。恋愛など私には無用のもの・・・
ある日、菫殿の家に来客があった
「もし?菫様?いらっしゃいますか?」
張りのある男の声
「嘉輔爺ですか?入ってください」
そうして、白髪の目立つ年の頃は50か60かの爺さんが入ってきた
「これは、お客様ですか・・・。わしは嘉輔と申します」
「私は、崎間慎吾と申しまする」
と言って頭を下げた
「わしは行商をしておりましてな。時々こうして菫様の品を頂いては行った先で売っているのですよ」
「慎吾。嘉輔爺に茶を淹れて上げてください」
「わかった」
勝手知ったる他人の家。爺に茶を淹れると驚いたような顔をしている
「崎間様と菫様はいかなる関係で?」
「私は・・・」
「慎吾はわたくしに刀を手入れしろと毎日のように押しかけてくるのです」
私が言いかけるよりも先に言う菫殿
「私の兄が婚礼に際し、お家より継ぐ太刀があるのですが、それを菫殿に手入れしていただきたく。こうして、お願いに来ているしだいです」
「そうなのですか・・・わしはてっきり・・・」
「手入れをしないと言うといつも、何もせずジッとわたくしが蒔絵を描いているのを見ているのです。まったく飽きもせずよくいるものです。ですから、少しぐらいこうして使ってもいいのです」
爺が言い終わる前にそう言った菫殿
何を言われるのかと思ったのだろうか?ほんのり顔が紅くなっている
何かを察したのだろうか。嘉輔爺は、にこにことふくよかな笑顔を浮かべた
「そうですか・・・それはようございましたなぁ」
「よくはございませぬ!」
そっぽを向いてそう言った菫殿
「それは、そうとこれをお納めくださいませ」
嘉輔爺は懐から切餅をいくつか床に置いた
「いつもすみませぬ。嘉輔」
「いえ。菫様のおかげでわしもこうして商いを続けることができておりまする。ほんにありがとうございます」
菫殿と嘉輔爺との関係はどうやら長いらしい。なので少し気になっていたことを聞いてみることとした
「嘉輔殿。菫殿はやはり刀はやってないのですか?」
「・・・さようでございますな。わしも長ごうこと菫様と付きおうておりまするが・・・さて、刀を・・・というのはあまりありませぬな」
「・・・」
「装飾の施されたものならば過去にいくつか取り扱いましたが・・・さて、実戦で使うものは・・・ありませぬよ」
菫殿は作りおいた品々を持って私と嘉輔爺の所へとやって来た
「嘉輔?今回はこれでどうでしょう?」
「これはまた見事な品々・・・諸国の者達も喜ぶでしょう。では、これをお納めください」
「ひぃ…ふぅ…みぃ…よぉ…いつ…」
切餅を確かめる
「こんなに・・・嘉輔?感謝します」
「いえ、菫様。礼を言わねばならぬのはわしの方です。わしも稼がせてもらっているのです。ありがとうございます」
嘉輔爺の懐から出てきた金子。やはり、彼女の作り出す美術品は評価が高いのだろう
「嘉輔殿、やはり菫殿の作り出す品々は評判なのでしょうな」
「はい。各地を回りますと皆喜んで求めるしだいです。慎吾様もお求めになられたいと?」
「いえ。私はそのような品よりも、それらを生み出す菫殿を見ているほうがよっぽど興味を覚えますよ」
「なんと、これは・・・」
嘉輔爺は私と菫殿を見てうれしそうに驚いている
「慎吾!そんなことをこのような所で!!」
真っ赤になった菫殿
「あっ・・・いや、そうではなく・・・」
しまった!これでは、私が菫殿を好いて求めているようではないか!
「知りませぬ!!」
菫殿は、真っ赤になって向こうへと行ってしまった
「・・・いや・・・そうではなく・・・」
また余計なことを言ってしまっただろうか?
「慎吾様」
嘉輔爺が少し真剣な顔をしていった
「? なんだろうか」
「菫様はいままで、誰も近づかせないような身持ちの固いお方でありました。しかし、今日の菫様はとても生き生きと輝いておられるように見受けられました。わしとしては、慎吾様がこうして来て下さっているのがとてもうれしく思うのです。菫様のことをお頼みしたいのですが如何ですかな?」
「・・・あ、いや。それは・・・無理というものです。ただ私は菫殿の生み出す品々をもっと見ていたいのですよ。そして、なにかを生み出そうとするその力、精神がとても美しく尊きもののように感じられて・・・。おそらく、もうこのような機会は巡っては来ないのでしょうな・・・ですから私は、時が許すまで見守りたい・・・それが今の私の願いです。兄の婚礼の日取りも迫ってきておりまする。おそらくそれ以後はここに来ることもありますまい」
「・・・そうですか」
がっかりしたような顔をした嘉輔爺
「そんな顔をなさいますな嘉輔殿。むしろ、私は菫殿という稀代の人物に会えたこと、このようなめぐり合わせにとても感謝しておりまするよ」
そう、私も菫殿を口実に使って仰せつかった事とは関係のないことをさせてもらっているのだ
いつまでもこのようなことが許されはしないだろう
そんな日が来るまではこうして通いたいものだと思う
その日、菫の家を訪れたのは慎吾ではなかった
「もし?私は崎間の家人にございます。菫様はいらっしゃいますでしょうか?」
「はい。横手へ回っていただけますか?」
中年の家人が菫の前に座ると言った
「菫様。今日は慎吾様は来られませぬ故に、崎間家家人である私がまかりこしました。まだ、刀の手入れはしていただけぬのでありましょうか?慎吾様の話では今だ明確な返事を貰ってはおりませぬとの事ゆえに私が返事を賜りたく・・・」
「・・・まだ。決めかねておりまする」
「唯春様の婚礼も迫ってきていますゆえお早く返答を頂きたいのですが・・・」
「・・・」
「では、今日のところはこれにて失礼いたしまする」
家人は一礼をすると去っていった
「・・・慎吾・・・」
そして、次の日もそのまた次の日も慎吾は来なかった
その次の日、嘉輔爺が菫の元へとやってきた
「ごめんくださりませ。嘉輔にございます」
「・・・」
「菫様?あけますぞ?」
嘉輔が中に入ると、菫は考え事に耽っていた
器の上で漆を練っていたのであろうが、手は止まり定まらぬ瞳でじっと漆を見ている
「菫様?如何なされなしたのか!」
「・・・嘉輔?いつの間に・・・」
「とりあえず、茶を・・・」
嘉輔は湯を沸かし茶を淹れ菫へと渡す
「ふぅ。嘉輔、ありがとう」
「何かよくないことでもございましたかな?そういえば、今日は慎吾様はいらっしゃらないので?」
慎吾の名が出たとたん、菫の茶が大きく波打った
「・・・もう、3日も来てはいないのです。あれほどいつまでもここへ来たいとと申していたのに・・・。3日前、崎間の家の家人がやってきて、慎吾は来られぬと言い、手入れを催促していきました・・・」
「・・・」
沈黙が辺りを包む
そんな時、家の外に気配が現れた
「もし?この前訪れた崎間の家人でございますが、菫様はいらっしゃいますか?」
「はい。どうぞ中へ」
家人は戸を開けるといった
「私はここで・・・。菫様、崎間の当主からの言伝でございます。『唯春の婚礼も迫っておる。このまま、手入れを伸ばすのであれば他へ頼む!』と・・・」
「さようですか・・・」
「差し出がましいようですが、慎吾様は如何なさいましたか?」
嘉輔爺が家人に聞く
「慎吾様は・・・とある良家との養子縁組の話が持ち上がっておりまする。どこの御息女と・・・ということは口外できませぬが・・・ここに来ることはもはや無き事かと・・・」
「!」
「では、私はこれにて。よい返事を待っておりまする」
そう言うといそいそと家人は帰っていった
「・・・そんな」
「菫様・・・やはり、慎吾様のことを・・・」
「・・・」
伏せがちに黙した菫
「菫様。よろしいのですか?慎吾様のことを・・・」
「・・・」
「菫様との付き合いは長いですからな、なんとなく考えていることは分かるのですよ。慎吾様のことを好いておられるのでしょう?ならば、もう一度会ってみたらいかがですかな?」
「しかし、慎吾様は崎間家の大事な方。一介の研ぎ師などに再び会ってくれるでしょうか?」
「会ってくれるでしょうが、お家の者達がそうさせないでしょう。ならば、会うように仕向ければよいのです」
「・・・どうやって?」
「菫様・・・この爺と出会ってもう何年になりますかな?」
唐突にそんなことを問う嘉輔
「もう、20数余年・・・」
「さようでございますな。妻子ある身ながら行商をして子を育て上げることが出来ました。そして、その息子も立派にとある御店の婿になり申した。それは、今まで菫様の品々を一手にこのわしめにお任せいただいたからこそ・・・」
「・・・」
「されど、いままで菫様はずっとこれはと思う男子を迎えようとはせなんだ。老い先短いこの年寄りにはそれがどうしても気に掛かるのでございますよ」
「それは・・・」
「あの若侍・・・慎吾様がいらっしゃった時の菫様は今まで見たこともないほどの輝きを持っていらっしゃった。わしはようやく菫様の気に入った良き若者が現れたのだと肩の荷が下りたような気がしたのです。それなのに、また今までのような日々を送るおつもりなのですかな?でしたらそれはおそらく叶わぬこととなりましょう。なぜなら、菫様はすでに慎吾様のことを好いておられるからです。その心に根ざしたお気持ちは菫様のお心を焦がし続けることでありましょう。ならば、いっそのこと、その気持ちを素直にしてしまうのも良いかと・・・」
「・・・嘉輔?わたくしはどうしたらよいのですか?この張り裂けそうな想い・・・。されど、慎吾様の重荷にはなりとうないという気持ち・・・」
「お気持ちを素直にしてしまうのがよろしかろうと。以前、わしに言いましたな。どうしても、なにか踏ん切りがつかないとき、悩みがあったとき、心の底にある思いの丈を晒してしまう方法があると」
「・・・首を取れと・・・言うのですね?」
「さよう。悩むのならば、本音に向き合い行動した上でダメであるならばあきらめもつくと言うもの」
首に手をあて、少し悩んだ素振りを見せたが覚悟は決まったのだろう
「・・・嘉輔。見ていてくださいましね?」
「はい」
そうして、嘉輔の目の前で静かに首を持ち、置いた菫
首に空いた穴から、紫煙が霧のように湧き出て消えて行く
その霧がなくなるように薄くなった頃、嘉輔は菫の首を元に戻した
「・・・いかがですか?菫様。溜め込んだものがすべて無くなってしまうと大変なことになると伺っているので、その前に戻させていただきましたが・・・」
「・・・っ・・・はっ・・・あっ・・・」
菫は唐突にその場で悶え始めた
「・・・苦しい・・・胸が苦しい・・・。慎吾・・・ああ・・・慎吾。わたくしの前からいなくなってしまわないで・・・。やっと慕えるお方にめぐり合えたと思ったら、いなくなってしまうなんて・・・そんな・・・そんなの嫌です!」
どのくらいそうしていたか・・・
落ち着きを取り戻すのにかなりの時間がたった
「嘉輔。ありがとう。わたくし、やっと決心がつきました。慎吾様をこの手に入れまする」
「おお!やはり!菫様!御武運を祈っておりますぞ!」
そうして、菫は崎間の家へ行くべく支度を始めた
家人が訪ねたその日のうちに、菫は崎間家へと来ていた
屋敷の奥に通されるとすぐに、崎間家当主 崎間松唯がやってきた
「足軽頭 崎間松唯である。研ぎ師 菫よ面を上げよ」
「はっ」
「ほう。これは・・・噂には聞いておったが確かに美しい。それはそうと・・・早速だが」
松唯は横に置いておいた刀を菫に見せる
「これの手入れを頼む。よもやなにかあると言うことはないと思うが、きちんと唯春に継がせてやりたいからな」
そういうと、控えの者が刀を菫へと渡す
「はい。確かにお受けいたしまする」
「うむ。頼んだぞ!」
菫は2日の時を待って崎間の家へと向かった
今まで、いくら頼まれようが戦に使われるような刀を研ぐことはしなかった
今度のことは慎吾を思えばこそ・・・
そう言い聞かせて・・・
「研師 菫よ。よくぞやってくれた。褒美を使わそう。なんなりと申せ!」
「なんなりと?」
「そうじゃ。これで、唯春の婚礼もこの刀を継がせることも出来る。祝いじゃ!何なりと申せ」
菫が“ふぅ”と短く一息入れると言った
「ならば、わたくしは・・・」
「うむ・・・」
「わたくしは、慎吾様を頂きとうございます」
松唯は唖然とした
「・・・な、なんと申した?慎吾じゃと?!」
「はい。それが無理なる場合・・・。この刀と引き換えとさせていただきまする!!」
「よまいごとを!刀研ぎの分際で慎吾をと申すのか!」
「わたくしは、毎日通ってくる慎吾様を見るうちに慕うようになりました。ですから是非に!なれど、もしまかりならぬと言うならば・・・この太刀がどうなるか・・・」
「貴様!!」
菫は刀を持ち、すくっと立ち上がるとすぐに外へ飛び出した
「寄るなぁ!貴様達の主、崎間の家宝。この太刀が傷ついてもよいと言うならばかかって来い!!」
刀を抜いて迫り来る家臣たちにそう浴びせかけると、たちどころに動きが止まった
「では、わたくしはこれにて。この刀は慎吾様と引き換えにて・・・」
一礼をして崎間の家をとびだした
「慎吾!貴様ぁ!!あの女と何をしていたというのだ!!」
「父上?一体何の話をなさっているのですか?」
慎吾は、縁談相手と会っている最中に火急の用ということで、急遽家へと帰って来ていた
火急の用とだけ言われていたいたので、何の話か何故そんなに怒り心中なのかまったく心当たりがない
烈火のごとき形相をして松唯は怒り狂っていた
「たわけ!!ええい!あの菫とかいう研ぎ師のことよ!!」
「菫殿?菫殿が一体なにをしたというののですか?」
「刀の手入れを受けて持ってきたのはいいが、褒美を取らすといったら、このわしに慎吾!貴様が気に入ったからといって刀と交換だと抜かしおったわ!!」
私は唖然とした。あの菫殿がそんな大それたことを・・・
「いいか!慎吾!貴様、あの刀を取り戻すまで勘当だ!!」
「勘当?!」
「崎間の大事な身の上たるお前が他の女などにうつつを抜かしおってからに!」
「父上!私はそのようなことは・・・」
「ええい!黙れ!!貴様の申し開きなど聞きとうない!その身の上を明かしたいのであらば、あの刀をわしの前に持ってきてその身の潔白を示せばよいのじゃ!!」
と、大変な剣幕で私は勘当を申し渡されてしまった
しかし、菫殿?何ゆえ私と刀を?
まさか・・・
とにかく、菫殿に直接会い事の真相を聞きださなければ・・・
梅雨が近いせいか天気は変わりやすい
家を出ると、たちまち雨の前に立ち込めるあのシケたようなにおい・・・雨のにおいが鼻についた
・・・一雨来るか
笠を手に持ち、行きなれた道を歩む
いつもの山林の喧騒に混じって、前の雨による雫が水溜りに滴る音がする
水滴が水溜りに波紋を広げるように、私の心にも菫殿という雫が波紋を広げていた
菫の家に着く頃には、雨は降出してきていた
「菫殿!崎間慎吾でござる!」
・・・
「ここを開けてくだされ!」
スッと戸が開かれる
「・・・」
何も言わずに彼女は奥へと姿を消した
「・・・」
無言で奥へ入る
いつもの作業場
しかし、ここの主は火を消したようにいつもの覇気がない
「・・・菫殿」
背を向けたままの菫に話しかける
「・・・」
「いったい、何があったというのですか」
話かけるとこちらを向いた
しかし顔を伏せ、その目は慎吾の足元あたりをずっと見ている
「・・・わたくしは・・・」
と、菫はススッと慎吾にすがりつくように近づいた
「菫ど…の…?」
菫の瞳には大粒の涙が今にも溢れんばかりに浮かんでいる
「慎吾・・・あなたは、どこかの女の元へと行ってしまうのですか?」
「なぜ、そのことを・・・」
縁談のことは一言も言ってなかったというのに・・・
「わたくしは・・・それを聞いて・・・胸が張り裂けるような気持ちになりました。しかし、あなたは崎間の大切な身の上・・・一介の研ぎ師などと許されるものではないと・・されど・・・」
「菫殿・・・まさか・・・」
私の胸へともたれかかる菫。その重みは彼女の重さだけではあるまい
そのまま腰を下ろす
「お慕いしておりまする」
胸元から見上げるように囁いた菫殿
私は、心の底に封じていたものが湧き上がってくるのを感じていた
武家の恋愛は実らぬもの。ならば、恋など心の底に封じ覚悟を決めようと・・・思っていた
されど・・・
「・・・私も、菫殿のことを好いておりました」
心の底にあった感情が素直に口から出た
「菫と呼んでくださいませ」
「菫」
その名を呼ぶと、本当にうれしそうな笑顔を浮かべた
「ああ。うれしい・・・慎吾様」
そうして、私達は口づけを交わした
腰に手を回し抱きしめる
その温かくやわらかな抱き心地
いつまでもこうしていたいと思った
どのくらい抱き合っていただろうか・・・
「慎吾様。あなたにわたくしの秘密を知っていただこうと思いまする。前に、わたくしに頬傷についてお聞かれになさいましたな」
唐突にそう言い出す菫・・・
確かそんなことを聞いたような覚えがある
「すぐに話を遮ってしまったから、不審には思っていたのだ」
「笑わないで聞いてくださいましね・・・わたくしのこの頬傷は・・・」
「・・・」
「・・・刀を研ぎ終わって刃をよく見ようとしたときに・・・誤って首が落ちてしまって・・・」
そういうと、俯いてしまった
「・・・っ」
「それ以来、そのようなよく切れる刀を研ぐことはやめようと・・・」
恥ずかしさのためか、顔から耳の先まで桃色に染まってしまった菫
「っ・・・くっ・・・っ・・・くっはははははは」
「慎吾様!」
菫ほ顔は桃色から真っ赤に変わってしまった
「すまぬ。くうっ・・・私はてっきり戦場や功を上げたときについてしまったものだと思っていたのだ。だから、気にせずともよいと思っていたのだが・・・まさか・・・」
真っ赤になってしまった菫。そんな彼女が愛おしい
「笑わないでと言ったのに、笑うなんて・・・」
「菫?すまない。でも、言ってくれて私はうれしいぞ。私はそんな菫がどんどん好きになっているのだ。だから、もっと菫のことを知りたいぞ」
「・・・はい」
そうして、私たちは互いのことを語り合った
その日の夕餉はとても楽しいものとなった
菫の作り出す料理は、家で食べる質素なものと違ってとても美味であった
食も進めば、話も弾む
「私の家の食事と比べるとなんとうまいことか!」
「武家の料理はいつの世もあまりおいしくないのもなのでしょうか?」
「いかなる時も万が一を心がけるだからであろうな。それにしても、これだけうまい手料理を作れる菫はよき嫁になるであろうな」
「嫁・・・慎吾様の嫁・・・」
そう言って顔を赤らめる菫。やはり、かわいらしい
夕餉が終わり、さてこれから・・・と思っていると・・・
「慎吾様。これを」
青紫の袋に包まれた長細いモノ・・・それはあの刀であった
「菫?なにを?」
「わたくしは、こうして慎吾様と過ごせて幸せにございまする。されど、あなた様は崎間の大切なお方。わたくしのことなどすぐに忘れて、お役目にお励みなされませ」
「菫!私の心を知っておきながら明日からまた崎間に戻れと言うのか!」
されど、菫は首を振るばかり・・・
「慎吾様。今宵一晩・・・一晩だけ。わたくしの夫でいてくださりませ・・・」
「・・・」
寝所には、一組の布団が敷かれていた
私は先にそこで菫が来るのを待っていた
一晩だけの・・・夫婦・・・
侍の家に生まれたからこそ、家を守り家のために個を捨てる・・・
彼女も元は侍。だからこそ、あれほどまでに頑ななのであろう
すっ・・・と襖の開く音
見れば薄い青の浴衣に身を包んだ菫が入ってきた
髪を頭に束ねた姿
揺れる行灯の火
その光を浴びた菫
私の隣へ座る
彼女の瞳は揺れていた
その瞳を見ながら口づけをする
口の中に舌が入ってきた
味わうように互いに舐めあう
どのくらいそうしていただろうか
唇を離すと菫はうっとりとした顔つきであった
かという私の体も彼女を欲するかのように疼いていた
揺れる光
浴衣の帯を解き
そっと胸元に手を掛け脱がしていく
白き肢体
髪を纏め上げて普段はあまり見かけない、匂いたつようなうなじに目が行く・・・
「あまり首元は見ないでくださりませ」
「・・・わかった」
私は、行灯の明かりを消した
暗い闇の中の菫
鼻の先に彼女が見える
なにか良い香りがする
そんな香りに誘われるかのように、抱きしめながら口づけをかわした・・・
その晩
私たちは一晩限りの睦みごとということを忘れるかのように
激しく契りあった
日付が変わる頃、傍らに寝ている菫を起こさないように私は寝所を抜け出した
装いを整えて、崎間の家へと行く支度をする
刀を腰に差し、昨日受け取った袋に包まれた太刀を丁寧に手に持つ
菫・・・ありがとう・・・
寝床に横たわる菫に口づけをする
雲が晴れたのであろうか、障子から月の光を透かした光が部屋をわずかに明るくする
その光は彼女の容姿をぼぅっと見せた。そんな菫を見ていると、たまらなく愛しいものと思わせる
後ろ髪を曳かれる思いで唇を離す
・・・その瞑られた瞳から雫がスゥッと流れ落ちた
「では、行ってくる・・・」
外に出ると月明かりで満ちていた
これならば明かりを灯すこともなく家へと着けるだろう
昼ならば緑に包まれたその道
月の光で白と黒の世界
ひと月ほどの短い期間であったが・・・
目的を果たせたというのに、何故こんなにも胸が苦しいのだろう・・・
お家の為を思うならば、家へと戻り決められた縁組を進めるのがよいのだろう
『一晩、一晩だけ・・・わたくしの夫でいてくださりませ・・・』
その言葉が耳朶から離れない
月の光が森に木漏れ日を作り出す
白き光の筋
時折、木の葉がその光を反射して輝く
水辺の虫どもが恋の歌を歌う
それすらも目に入らぬほど、耳に届かぬほど、私は迷っていた・・・
夜も明けきらぬ時間、崎間家の門扉は重々しく軋みを上げた
城への登城は、日が昇る前には城内へ入っていなければならない
城へと向かうための行列が中から歩みだそうとしてる
先頭の家臣が門を越えようとしたとき、門の前を立ちふさがる者がいた
勘当されたはずの慎吾である
家臣はすぐさま輿へと走った
輿の前でしゃがむと何事かを言っている
脇に控えた者が輿を下ろさせると、履物を揃えて置く
輿の中からゆっくりと現れたのは、崎間唯春であった
家臣たちは皆、その場に腰を下ろし事の行く末を見守っている
唯春が門へと歩むと慎吾は同じように門へと近づき、例の刀を差し出した
「慎吾。よくぞ戻った」
「唯春様これを」
刀を両の手に持ち差し出す
「何をしている?これを持って早く父上の所へと行くのだ。さすればすぐに勘当も解かれよう」
「あに・・・いえ。唯春様。私は最早、崎間の家とは関わりなき者。今は、一介の刀研師の使いにしかございませぬ」
「慎吾。戯けたことを申すな。お家を捨て、一介の刀研師の元で暮らすと申すのか?バカな!あのような下賎な者などと?!しかも、人ですらないと言うではないか。そのような魔物に貴様は心を奪われたと言うのか?」
「・・・では・・・妻が待っておりますゆえこれにて」
これ以上の言葉は無用。そう判断して踵をかえした
「まて!慎吾!!」
「・・・っ」
一瞬足が竦む
「・・・達者でな・・・弟よ」
「・・・っ・・・はい。お達者で唯春兄様。皆に良しなに・・・」
振り返ることなくそのまま歩いていく。振りむいてしまったら未練が残る・・・
夜が明けきらない川辺を歩きながら、菫の元へと急ぐ
・・・私は育った家でのことを思い出して泣いた。さめざめと泣いた
“慎吾様・・・”
晩に潤んだ瞳で私の名を呼んだ菫を思い出す
「・・・これで良いのだ」
宵のうちは晴れ、月が出ていたと言うのにいつの間にか厚い雲に覆われ、今にも降り出そうとしているような空
朝になり明るくなった山林や川辺はいつもの喧騒が立ち込めていた
あの菖蒲やアヤメ、スミレの花が群れていた辺りに来ると、我慢できないかのように空は泣き出していた
小雨が舞い降る中、丸太の橋を渡る
何度も通った萱葺き屋根の家からは、暗くどことなく寂しげな気配が漂ってくるかのようだ
なんとなく家の中にはいないような気がした
私は、家の脇でよく写生をしていたあの場所にいるのではないかと思った
そちらに周ってみるとやはりいた
傘も差さずに雨に打たれるに任せ、心無げに佇んでいる
「菫。そんなところに居ては風邪をひいてしまうよ?」
ゆっくりと・・・ゆっくりとこちらへ振り向いた菫
まるで、あってはいけない者を見てしまったかのように大きく目を見開いた
「慎吾様・・・どうして・・・」
そういうと、手を伸ばそうとして思い留まったかのように胸の前で手を握っり、そのまま向こうを向いてしまった
「あなた様は、崎間の家の方。家のために決められた縁組をし、決められた道を進んでいくお方。わたくしのような一介の刀研ぎ。まして、首が取れてしまうような魔物となど・・・」
私は我慢できなくなって後から菫を抱きしめた
「菫。もうよいのだ。そなたが父上に私のことを言ったと聞いたとき、私はうれしかった。何度もこの家に通い、そなたのことを見ているうちに私の心はどんどん惹かれていったのだ。だから、夫にと言ってくれた時私は、天にも昇るかのように心が躍ったものだ。そして、宵のことを思うとどうしても家に帰る気にはなれなんだ・・・。菫、一晩などと言わず、これからずっと私の妻でいてくれ」
「慎吾様・・・うれしい・・・」
私達は惹かれあう磁石ように、堅く抱き合い口づけをかわした・・・
その後、刀研ぎ師 菫の名は世から消えていった
彼女がいずこに消えたのかは誰にも知れない
しかし、市井の民の間ではとある刃物が有名になっていった
包丁や鋏、農具など、丈夫で長持ち、研ぎに回せばたちどころに元の切れ味を取り戻す
そして、貧困に喘ぐものでも手の届く値で、非常に重宝され喜ばれたという
それらのものには銘が刻まれている・・・“菫”と・・・
清流の流れに乗って、右へ左へ石を避けながら流れていく
それから目を離すと水草の青々しい緑が川の底から浮かび上がってくる
サクラの花が咲き終わった頃、草草は春の到来を待ち焦がれたように若葉をいっぱいに広げる
目に映る緑の心地よい青
深緑と草草の放つ心落ち着く香り
清らかな水の流れる音を楽しみながら私は小川沿いを歩いていた
とある人物を尋ねるところである
その人物はこの小川に近い山林に住んでいるという
小川の両脇に広がる山林には大人でも抱えることが出来ぬほどの太さを誇る巨木が、天へ高く高く伸びようと茂っている
苔むした木肌、目に栄える緑、それは陽の光を受け若草色の光を地面に注いでいる
木漏れから伸びる日が筋となって若葉から落ちようとしている雫を硝子のような眩いものへと見せ付ける
「よいところへ住んでいるものだ・・・」
私の名は、崎間慎吾
崎間家とは足軽頭の一つである
当主、崎間松唯。これが私の父
嫡男 唯春。次男 松久。そして、私
崎間家の三男だ。ゆえに部屋住みの私には、家を継いだりしなくてもよいというものだ。まあ、そのうちどこぞへ養子縁組することになるであろうが・・・
そのようなワケで、三男坊という立場は実に気楽なものである
だからか、心の底では何か家の役に立ちたいと思う事もある
と言う事で、今日はわが兄・唯春のためにこの地まで足を伸ばしていた
先祖は、苗字も付かぬ足軽であった
戦の世において、誰よりも早く戦場を駆け抜け先陣を切ったという。そして、数々の功績をあげた
馬よりも早く駆け抜けたということから
崎間の名を賜ったのだ
そして、戦の世が終わると、功績により国の殿様より一振りの太刀を賜った
それ以来、崎間家の嫡男が家を継ぐ時に、これも一緒に継ぐ
兄は良家との縁談もまとまり婚礼の時を控える身であった
婚礼に望む前にこの拝領の太刀をきちんとした研ぎ師に見てもらうと言う事となった
その研ぎ師は、この国・・・いや、他国にも名の通った研ぎ師であるという
私が住む城下より二刻ほどの山林の中に居を構えているという
刀研ぎの他にも、蒔絵や塗り物などの美術品も評判が高く
城の者達や商家の者たちもこれを買い求めようとするという
されど、気の難しい人物らしくなかなか手に入らぬともいう・・・
いったい、どのような人物なのであろうか・・・
いつの間にか川辺が少し開けたところに差し掛かっていた
大木の木々の根元にはスミレが薄い紫色の花を咲かせて揺れている
川には刀身のようにすっと伸びた葉を持つ草草も群生している
水仙の蕾を少し大きくしたような形の蕾
「・・・アヤメか?菖蒲か?」
蕾の緩んだその中から、むらさきの花びらが開ききるのは待ちきれぬと出でて、清流の風に揺れている
そこいらは緑色と紫色の色豊かな場所であった
その昔、紫は高貴なものの色とされていたらしい
確かにこの紫は魅了される
そんな眺めを見ていると、川の向こうに一軒の家が建っていることに気が付いた
木々の枝に阻まれその全容は見えないが、萱葺きの低い屋根が見えることから大きな家であるらしい
小川には、細い丸太を並べた小さな橋が渡されている
橋の苔に足を滑らせないように気をつけながら歩む
なだらかな坂を少し上ったところにかの家は建っていた
その坂には野草が低く茂り、その中からは時々鶏が地面をつつきながら歩いているのが見える
「ごめん!」
そう言ってから、玄関の戸を開ける
「はい!」
中からは凛とした女子の声が聞こえた
「拙者、崎間慎吾と申すもの。菫(スミレ)殿はいらっしゃるか?」
すると奥の方がら黒のような色をした着物を身に付けた女性が現れた
「どうぞ中へ」
敷居を越えると目が暗くなる
目が慣れてくるとそこには、薄い紫色した着物を身に付け、深い紫の帯をしている女性がいた
髪の色は艶やかな黒。両の肩に下がった髪を赤い紐で束ねている
その間からちらりと見える人の丸い耳とは違う、尖って長めな耳
内面の強さを物語るようなきりりとした瞳・・・
その容姿はとても美しかった
しかし、左目の下から頬に刃で切ったような傷跡が少し恐ろしげな印象も与える
魔物と呼ばれる類の人なのだろうか?
「菫はわたくしでございますが?如何様なご用件で?」
「あなたが、菫殿?」
研ぎ師と聞いていたので驚いた、このような美しい女性だったとは・・・
「はい。研ぎ師ということから男の方を想像なされていたようですね。されど、男で菫という名は付けますまい。さて、ここでの立ち話はやめにして、中で伺いますわ」
“どうぞ”と言って奥の間に案内してくれた
「そこに座り、少しばかりお待ちください」
案内されたのは、畳張りの部屋ではなく、板張りで何かの作業場のようなところだった
部屋の中は、長い年月を感じさせる黒光した木肌。そこに置かれた品々はとても整然としていた
言われるがままに座る
しばらくすると茶を入れてくれた
「どうぞ。お城からではさぞ、お疲れになったことでしょう」
「あ、いや。私は城の使いと言うわけではありませぬ」
「と、申されますと?」
てっきり城の使いと思われていたようだ・・・
「実は、仔細あって菫殿に刀を研いでいただきたく」
「・・・」
そういうと、黙ってしまった
「我が崎間家にある。殿より拝領した太刀。このたび、私の兄・・・崎間家嫡男・崎間唯春が婚礼にあたり、この太刀も継ぐことと相成ります。そのため一度、菫殿に見て頂きたく」
「・・・・・・」
沈黙が続く
「・・・如何か?」
しばらくして、彼女は重々しく口を開いた
「・・・お殿様より拝領の太刀・・・それは、人を切る為のものですね?」
「・・・我が崎間家の家宝にて人を切ると言うことは最早ないはずだが・・・?」
「いえ、人を切る為に作られた刀なのですね?」
「さよう。戦国の世にて作られしものならば、人を切る為のモノなのでしょう」
菫殿は静かに目を瞑ると言った
「申し訳ありませぬ。わたくしは人を切る為の刀は研いではおりませぬ」
「されど、“研ぎ師ならば菫殿”と世間にはその名が響いておりますぞ?」
「わたくしは、人を殺めるための刀は触れぬことにしているのです」
そういうと、立ち上がり奥の方へと行き一振りの刀を持ってきた
「どうぞ」
私にその刀を渡すと、じっくりと見据える菫殿
私は、その刀を両の手に持ち静かに眺めた
まず、目を惹くのは鞘の意匠であろう
黒漆に施された見事な蒔絵
黒の漆に金で流れる川の流れが施されている
流れに沿って葦や菖蒲といった草草が生えている
鴨などの鳥が羽ばたく、実に見事な細工であった
柄を手に取り鞘から白刃を引き抜くと緩やかな刃紋が際立っている
まるで海の波打ち際のような流水のように穏やかな曲線美・・・
鍔の意匠には2匹の鯉が泳いでいた
「これは・・・」
「この通り、わたくしは“切る”ための刀ではなく、“魅せる”ための刀を作っているのです」
「美しい刀ですが・・・実戦には向かぬと?」
「この刀で切りあったならばたちまち刃は欠け、刀身は曲がるか折れてしまうでしょう」
「何ゆえ切るための刀を扱わなくなったのか聞いてもよろしいか?」
菫殿の目は私を離れ、私の後にある窓の外へと視線を向けた
しかしその目は遠い昔を思い出すような、定まらぬ目つきをしている
「今は戦乱も収まり、天下泰平の世。そのような時に人を殺めるための刀を作って何になりましょうか・・・」
「・・・」
私はしまったと思った。菫殿の瞳に映る寂しげな光が過去を思い出させてしまったかとしばし後悔をした
「わたくしは、慎吾様もお気づきかと思われまするが人の身ではありませぬ・・・永き時を生きる者・・・」
目を伏せうつむく菫殿。重苦しい沈黙が辺りを包む
「今日の所はお引取りくださりませ・・・」
「・・・また・・・来ます・・・」
私にはそう言うしか声が出なかった
菫殿の家を出ると私は深々と辞儀をして戸を閉めた
彼女の心根に何か分け入ってしまったかのような心苦しいものだけが残った・・・
次の日、私はまた菫殿の所へと赴いていた
昨日は不注意により、彼女の心根にさわるようなことを思い出させてしまった
後悔の念が湧き上がる・・・
しかし、こちらも婚礼の儀を控える兄のためになんとしてでも見てもらい、その刀を送りたい
「ごめん!」
・・・
返事はなかった
どうやら、中にはいない様子
私は裏へ回って見ることにした
横手に回ると菫殿がいた
地に座り、机に向かい巻物に筆を走らせている
どうやら、川の様子を絵に写し取っているようだ
命溢れる川、山林・・・それらを余すことなく巻物に写し取ろうとしているように見える
声をかけるのが躊躇われた
また、いらぬことをしてしまうのではないかと・・・
少し時をつぶしてまた来ようと、踵を返した
「崎間殿?そのような所ではなくこちらへ来ても大丈夫ですよ?」
肩越しにそんな言葉が投げかけられた
彼女は一心に筆を動かしている
「・・・お邪魔では?」
「いいえ。動物や動くものと違って川は逃げませぬ」
「では、しばしごめん」
私は彼女の写生の邪魔にならぬよう少し離れた後へと腰を下ろした
「・・・」
「・・・」
「・・・昨日は・・・申し訳ありませぬ・・・」
「・・・」
「いらぬことを思い出させてしまったようで・・・」
ふたりの間に沈黙が続く
だが、周りは賑やかであった
鳥の声、風の音、風に揺れる木々の音、獣達の鳴き声、虫虫の鳴き声・・・
しばらくした後、菫殿は筆を置いてこちらへと向き直った
「崎間様。お気遣いは無用です。あれは、わたくしが勝手に思い出したもの。崎間様に非はございませぬ」
「・・・しかし・・・」
「初めてのお客様に見せる顔ではありませんでした」
そう言うと僅かに頭を下げた
「それはそうと、崎間様は今帰ろうとなされたので?」
「・・・川を一心に写し取っている菫殿を見て、間の悪い時に来てしまったと・・・。少し時をつぶしてからまた…と」
菫殿はクスッと微笑むと言った
「わたくしは、声を掛けなければおそらく日が沈むまでこのままであり続ける事となったでしょう」
「ずっとこのまま?」
「そのようなことは、珍しいことではございませぬ。さて、茶でも淹れましょう」
そう言うと、家へと入っていく
私は一瞬、菫殿が見せた笑顔にどきまぎしていた
なんと可愛らしい・・・
しばらくすると茶を盆に載せてやってきた
「どうぞ・・・」
「かたじけない」
「崎間様の兄上様は今度婚礼を迎えるとして、あなた様は?」
「私は崎間家の3男坊にて部屋住みの私には当分そのようなことはありますまい」
「3男・・・では、もう一人の兄上様は?」
「遠方のお役目にて、そちらの方へと行っておりまする」
「なるほど・・・。そんな大切な兄へと家宝の太刀をわたくしに預けたいと・・・」
「はい。足軽身分だった先祖様の活躍にて殿より苗字と刀を賜ることが出来たお家の為を思えばこそ、私は菫殿に太刀を任せたいのです」
「それでは、何故先ほど帰られようとしたのですか?それほど大事な話なのに?」
「それは・・・」
「わたくしが作業中だったからと言って踵を返した崎間様。敵に背を向けたのと同じなのでは?」
「・・・」
声が出なかった。誰よりも早く戦場を駆け抜け先陣を切り数々の功績をあげた崎間の家…それを誇りにしていたのに・・・
「そのようなことでは、わたくしの心は動かせませぬよ?」
「・・・っ」
「もっとも、強引に話を押し進めようとするような輩には、強引にでも帰っていただくのですが。二度と口も利きませぬ」
そう言って微笑んだ
「・・・」
喉が酷く乾いた私はやっとのことで茶を飲んだ
ぬるくなってしまっていたけれども、心に冷水を浴びたように感じた
そうして、しばしの雑談をしてその日は帰ることにした
「菫殿、ではこれにて。私はあきらめませぬ」
「ふふっ。いくら言ってもわたくしの心は変わりませぬ」
「では、ごめん」
その日から私は毎日通いつめることとなる
今日も菫殿の元へと通う。私は少し思案した。このまま口うるさく研ぐことを請うてもおそらく、手入れはしてくれまい・・・
ならば、菫殿のことをよく知り心動かさなくてはならないと思う
「崎間様?申し訳ありませぬが、今日は立て込んでおりまする。ですから、お構いすることはできません」
「いえ、こちらこそお構いませぬ。菫殿が日ごろどのようなものを作っているか見てみたいと思いましてな。なので、しばしここで拝見仕る」
「・・・物好きな方。気の済むまでごらんになられればよろしいかと」
「では、しばしごめん」
見ていてもよいと許しがでた。私はそこいらに座ると菫殿の様子を見守る
菫殿はすぐに作業に取り掛かった
何をするかと思えば、金塊を取り出し、いくつもの鑢を取り出した
荒い鑢、細かい鑢とその数はさまざまだった
台の上に紙を敷くと、その上で金塊を削りだす
見る間に髪の毛の太さよりやや大きいかと思えるほどの金粉が出来上がる
出来上がった金粉を器に入れる
今度は、もっと細かい目の鑢で削り出しは始めた
やはり、細かい金粉が紙の上に削りだし器に入れていく
いくつかの大きさの金粉を削りだすと彼女は、鑢を置いた
それらを、同じ大きさの金粉ごとに一寸ほどの径の竹筒に詰めていく
そんな、作業が終わると漆と筆を取り出した
台の横には漆塗りされた盆や木箱が置いてある
それをどうするのかと思っていたら、筆に漆をつけて盆になにやら書いていく
書き終わると、先ほどの竹筒を取り出して手に持ち、竹筒を軽く指でつつきながら金粉を漆を書いた上に振るい落していく・・・
どのくらいそんな時が過ぎたであろう
短く“ふぅっ”と息を吐いた菫殿
私も同じように大きく息を吐いた
「まだいたのですか崎間様。退屈だったでしょう」
「菫殿?それは一体?」
「蒔絵を作っているのです」
「蒔絵を・・・。そのようにして作っていたのですか。・・・見事なものです」
「これは、まだ作り掛けです。崎間様は蒔絵に興味があるのですか?」
あまりにもまじまじと手元を見ていたからだろう。そんなことを聞かれた
「私の家にも螺鈿を使った蒔絵があるのです。一体、あのような煌びやかで見事な光沢はどうやって出しているのかといつも思案していた次第です」
「それはよいものをお持ちで。崎間様、蒔絵とはあらかじめ漆を塗っておいたものなどの上に、更に漆で絵を描きそれを糊として金粉で画を描くのです。粒の大きさの違う金粉を使うことによって光の反射を変え画を荒くも細かくも見せることも可能なのです」
「なんと奥ゆかしい。金の粒の大きさを使い分けることによってそのように見せていたとは・・・」
筆を持つ手のなめらかな動き、竹筒を繊細に振るい金粉を撒くというより置くように蒔絵を描いていく様に、私は見惚れていた
「崎間様はこのようなものに興味があるのですか?」
「私は、武よりどちらかと言えば蒔絵はむろん、書や絵巻。そして、書物などと言った方に興味があるのです。武芸の方はとんとからきしでしてな。いつも父や兄に扱かれていたものでした」
恥ずかしさから頭を掻く
そんな私の手を見たようで、菫殿は言った
「確かに、慎吾様の掌は侍の手はしていませんね。普通だったら剣ダコが出来ているものですがそれがない」
「ははっ。武芸がからっきしなのでいつも嘆かれておりまする。・・・そうだ、名を呼ぶ時は様はいりませぬよ?様付けで呼ばれると背筋が痒くなり申す。いつも呼び捨てなので菫殿も呼び捨てでお願いしまする」
「・・・いつのまにか慎吾様と呼んでいましたか・・・。では・・・慎吾・・・」
「はい」
「慎吾も殿をつけるのはやめにしませぬか?」
「いや、菫殿は菫殿でござるよ。どうしても嫌と申されるならば変えますが…」
「・・・真吾がそれでよいならば、そのままでよろしいですよ。わたくしはもともと違う名を名乗っておりました。しかし、戦の世も終わり侍を辞めるに当たって名を変えることとしたのです。仕えていた国を去り、旅に出て丁度この辺りに来たときに川辺にスミレの花が咲いていたのです。それにあやかり菫と名乗るようになりました。あの見事な深き紫を見たときに心惹かれまして。それに、この辺りには紫の花をつける草が多く茂っている。なのでここに居を構えたのです」
「なるほど。花の名を・・・似合っておりますよ。とても」
「ありがとう存じます」
紫の着物に身を包んだ菫殿。肌の白さに相まってとてもよく紫という色が似合っている
そんな談笑をしていたらいつの間にか帰らなくてはならない刻限となっていた
「では、そろそろ私は帰りまする。明日も蒔絵を見せてくださいね」
「刀はよいのですか?」
「・・・兄の婚礼の時はまだ日がありますゆえ、少しくらいならば大丈夫でしょう。私はもう少し見ていたいのです。菫殿が蒔絵などを作っているところを」
「慎吾・・・」
「では、ごめん」
あの筆の繊細な動き、そして何かを生み出そうという真剣な眼差し。刀のことは大事ではあるけれども、それを後回しにしてでももう少し見ていたいと思った
ここに来る楽しみができたと言うものだ
それから、私は菫殿に蒔絵や絵巻といったものについて教えを請うこととなる
それらはとても楽しきことだった
菫殿も最初に会った頃などは固い表情をしていたものの、そのうちに表情豊かな表情を見せては、私をどきまぎとさせた
その日、私は作業場の清掃を手伝っていた
漆を塗っている最中に埃などが舞ってしまったりしたら大変だからだ
天井付近や棚などを濡れ布巾で拭いているとそれはあった
「菫殿?あの刀はもしや、大太刀なのでは?」
天井に程近い壁に飾られている一本の長い刀のようなもの
戦の世において自分の身長より大きな刀は大太刀と呼ばれた
長く大きいのが特徴
「あれは、戦の世だった頃。わたくしがまだとある国に使えていた頃のものです」
「菫殿も、将に仕えていた頃があったのですか。今の菫殿を見ていると想像も付きません」
「これでも名の知れた使い手だったのです。あれを一振りすれば10や20の雑兵の首をも刎ねることが出来たのです」
「10や20の首・・・」
・・・唖然とした。物腰柔らかく絵巻や書をしたためている姿からは考えられない姿だろう
「・・・10や20は言い過ぎました。ですが、わたくしは人とは違うのです。慎吾?わたくしが恐しくありませぬか?」
「私には、書や蒔絵を作る物腰の柔らかな姿しか知りませぬ。ですから、恐ろしくはありませぬよ」
作業台に向かい、真剣な眼差しで魂を込めるがごとく数々の品々を作る姿。それからは、戦場で大太刀を振るう姿など想像できようか…
「慎吾・・・」
「それにしても菫殿が戦に・・・ならば、その頬の傷もその時のものなのでしょうな。そう考えると確かに歴戦の侍という貫禄さえも感じるもの」
「・・・い…いえ…こ、これは…」
名誉の負傷・・・のつもりで褒めたというのに、菫殿はなにか恥ずかしそうにしている
どうしたんだろうか・・・?
「さっ、慎吾?拭き掃除はそのくらいにして茶でも淹れましょう」
囲炉裏端でふたり、茶を楽しむ
さっきの態度にいささか不審を感じたが、話したくない様子なので話題を変える
人とは違う時を生きる彼女ら魔物。やはり、いろいろあったということなのだろう・・・
「菫殿には、今までよい人はおられなかったので?」
唐突にそんなことを聞いてみた。すると、少し恥ずかしそうな顔をした菫殿
「わたくしは、ずっと一人でした。お慕いした将もおりましたが、その方は違う国の姫君と結ばれることとになり、わたくしは身を引きました。それ以来ずっと・・・。慎吾はそのような女子はいましたか?」
「私は、ずっと学問と稽古の身でしたからな。女子と言うものをよく知らぬのです。そして、時が来ればどこからか養子縁組の話でも浮かびましょう。ですから、そのような書物を読むと少し羨ましいとも思いますが、お家のことを思えば、個としての感情は無用でしょう」
そう、我ら武家で恋愛などというものは無きに等しい。政略結婚と言ってしまえばそれまでだが、お家を安泰に導く為にはそれが普通であろう
「そうですか・・・」
菫殿は少しつまらなそうな、ほっとしたようなそんな表情をしている
ま、仕方ない。恋愛など私には無用のもの・・・
ある日、菫殿の家に来客があった
「もし?菫様?いらっしゃいますか?」
張りのある男の声
「嘉輔爺ですか?入ってください」
そうして、白髪の目立つ年の頃は50か60かの爺さんが入ってきた
「これは、お客様ですか・・・。わしは嘉輔と申します」
「私は、崎間慎吾と申しまする」
と言って頭を下げた
「わしは行商をしておりましてな。時々こうして菫様の品を頂いては行った先で売っているのですよ」
「慎吾。嘉輔爺に茶を淹れて上げてください」
「わかった」
勝手知ったる他人の家。爺に茶を淹れると驚いたような顔をしている
「崎間様と菫様はいかなる関係で?」
「私は・・・」
「慎吾はわたくしに刀を手入れしろと毎日のように押しかけてくるのです」
私が言いかけるよりも先に言う菫殿
「私の兄が婚礼に際し、お家より継ぐ太刀があるのですが、それを菫殿に手入れしていただきたく。こうして、お願いに来ているしだいです」
「そうなのですか・・・わしはてっきり・・・」
「手入れをしないと言うといつも、何もせずジッとわたくしが蒔絵を描いているのを見ているのです。まったく飽きもせずよくいるものです。ですから、少しぐらいこうして使ってもいいのです」
爺が言い終わる前にそう言った菫殿
何を言われるのかと思ったのだろうか?ほんのり顔が紅くなっている
何かを察したのだろうか。嘉輔爺は、にこにことふくよかな笑顔を浮かべた
「そうですか・・・それはようございましたなぁ」
「よくはございませぬ!」
そっぽを向いてそう言った菫殿
「それは、そうとこれをお納めくださいませ」
嘉輔爺は懐から切餅をいくつか床に置いた
「いつもすみませぬ。嘉輔」
「いえ。菫様のおかげでわしもこうして商いを続けることができておりまする。ほんにありがとうございます」
菫殿と嘉輔爺との関係はどうやら長いらしい。なので少し気になっていたことを聞いてみることとした
「嘉輔殿。菫殿はやはり刀はやってないのですか?」
「・・・さようでございますな。わしも長ごうこと菫様と付きおうておりまするが・・・さて、刀を・・・というのはあまりありませぬな」
「・・・」
「装飾の施されたものならば過去にいくつか取り扱いましたが・・・さて、実戦で使うものは・・・ありませぬよ」
菫殿は作りおいた品々を持って私と嘉輔爺の所へとやって来た
「嘉輔?今回はこれでどうでしょう?」
「これはまた見事な品々・・・諸国の者達も喜ぶでしょう。では、これをお納めください」
「ひぃ…ふぅ…みぃ…よぉ…いつ…」
切餅を確かめる
「こんなに・・・嘉輔?感謝します」
「いえ、菫様。礼を言わねばならぬのはわしの方です。わしも稼がせてもらっているのです。ありがとうございます」
嘉輔爺の懐から出てきた金子。やはり、彼女の作り出す美術品は評価が高いのだろう
「嘉輔殿、やはり菫殿の作り出す品々は評判なのでしょうな」
「はい。各地を回りますと皆喜んで求めるしだいです。慎吾様もお求めになられたいと?」
「いえ。私はそのような品よりも、それらを生み出す菫殿を見ているほうがよっぽど興味を覚えますよ」
「なんと、これは・・・」
嘉輔爺は私と菫殿を見てうれしそうに驚いている
「慎吾!そんなことをこのような所で!!」
真っ赤になった菫殿
「あっ・・・いや、そうではなく・・・」
しまった!これでは、私が菫殿を好いて求めているようではないか!
「知りませぬ!!」
菫殿は、真っ赤になって向こうへと行ってしまった
「・・・いや・・・そうではなく・・・」
また余計なことを言ってしまっただろうか?
「慎吾様」
嘉輔爺が少し真剣な顔をしていった
「? なんだろうか」
「菫様はいままで、誰も近づかせないような身持ちの固いお方でありました。しかし、今日の菫様はとても生き生きと輝いておられるように見受けられました。わしとしては、慎吾様がこうして来て下さっているのがとてもうれしく思うのです。菫様のことをお頼みしたいのですが如何ですかな?」
「・・・あ、いや。それは・・・無理というものです。ただ私は菫殿の生み出す品々をもっと見ていたいのですよ。そして、なにかを生み出そうとするその力、精神がとても美しく尊きもののように感じられて・・・。おそらく、もうこのような機会は巡っては来ないのでしょうな・・・ですから私は、時が許すまで見守りたい・・・それが今の私の願いです。兄の婚礼の日取りも迫ってきておりまする。おそらくそれ以後はここに来ることもありますまい」
「・・・そうですか」
がっかりしたような顔をした嘉輔爺
「そんな顔をなさいますな嘉輔殿。むしろ、私は菫殿という稀代の人物に会えたこと、このようなめぐり合わせにとても感謝しておりまするよ」
そう、私も菫殿を口実に使って仰せつかった事とは関係のないことをさせてもらっているのだ
いつまでもこのようなことが許されはしないだろう
そんな日が来るまではこうして通いたいものだと思う
その日、菫の家を訪れたのは慎吾ではなかった
「もし?私は崎間の家人にございます。菫様はいらっしゃいますでしょうか?」
「はい。横手へ回っていただけますか?」
中年の家人が菫の前に座ると言った
「菫様。今日は慎吾様は来られませぬ故に、崎間家家人である私がまかりこしました。まだ、刀の手入れはしていただけぬのでありましょうか?慎吾様の話では今だ明確な返事を貰ってはおりませぬとの事ゆえに私が返事を賜りたく・・・」
「・・・まだ。決めかねておりまする」
「唯春様の婚礼も迫ってきていますゆえお早く返答を頂きたいのですが・・・」
「・・・」
「では、今日のところはこれにて失礼いたしまする」
家人は一礼をすると去っていった
「・・・慎吾・・・」
そして、次の日もそのまた次の日も慎吾は来なかった
その次の日、嘉輔爺が菫の元へとやってきた
「ごめんくださりませ。嘉輔にございます」
「・・・」
「菫様?あけますぞ?」
嘉輔が中に入ると、菫は考え事に耽っていた
器の上で漆を練っていたのであろうが、手は止まり定まらぬ瞳でじっと漆を見ている
「菫様?如何なされなしたのか!」
「・・・嘉輔?いつの間に・・・」
「とりあえず、茶を・・・」
嘉輔は湯を沸かし茶を淹れ菫へと渡す
「ふぅ。嘉輔、ありがとう」
「何かよくないことでもございましたかな?そういえば、今日は慎吾様はいらっしゃらないので?」
慎吾の名が出たとたん、菫の茶が大きく波打った
「・・・もう、3日も来てはいないのです。あれほどいつまでもここへ来たいとと申していたのに・・・。3日前、崎間の家の家人がやってきて、慎吾は来られぬと言い、手入れを催促していきました・・・」
「・・・」
沈黙が辺りを包む
そんな時、家の外に気配が現れた
「もし?この前訪れた崎間の家人でございますが、菫様はいらっしゃいますか?」
「はい。どうぞ中へ」
家人は戸を開けるといった
「私はここで・・・。菫様、崎間の当主からの言伝でございます。『唯春の婚礼も迫っておる。このまま、手入れを伸ばすのであれば他へ頼む!』と・・・」
「さようですか・・・」
「差し出がましいようですが、慎吾様は如何なさいましたか?」
嘉輔爺が家人に聞く
「慎吾様は・・・とある良家との養子縁組の話が持ち上がっておりまする。どこの御息女と・・・ということは口外できませぬが・・・ここに来ることはもはや無き事かと・・・」
「!」
「では、私はこれにて。よい返事を待っておりまする」
そう言うといそいそと家人は帰っていった
「・・・そんな」
「菫様・・・やはり、慎吾様のことを・・・」
「・・・」
伏せがちに黙した菫
「菫様。よろしいのですか?慎吾様のことを・・・」
「・・・」
「菫様との付き合いは長いですからな、なんとなく考えていることは分かるのですよ。慎吾様のことを好いておられるのでしょう?ならば、もう一度会ってみたらいかがですかな?」
「しかし、慎吾様は崎間家の大事な方。一介の研ぎ師などに再び会ってくれるでしょうか?」
「会ってくれるでしょうが、お家の者達がそうさせないでしょう。ならば、会うように仕向ければよいのです」
「・・・どうやって?」
「菫様・・・この爺と出会ってもう何年になりますかな?」
唐突にそんなことを問う嘉輔
「もう、20数余年・・・」
「さようでございますな。妻子ある身ながら行商をして子を育て上げることが出来ました。そして、その息子も立派にとある御店の婿になり申した。それは、今まで菫様の品々を一手にこのわしめにお任せいただいたからこそ・・・」
「・・・」
「されど、いままで菫様はずっとこれはと思う男子を迎えようとはせなんだ。老い先短いこの年寄りにはそれがどうしても気に掛かるのでございますよ」
「それは・・・」
「あの若侍・・・慎吾様がいらっしゃった時の菫様は今まで見たこともないほどの輝きを持っていらっしゃった。わしはようやく菫様の気に入った良き若者が現れたのだと肩の荷が下りたような気がしたのです。それなのに、また今までのような日々を送るおつもりなのですかな?でしたらそれはおそらく叶わぬこととなりましょう。なぜなら、菫様はすでに慎吾様のことを好いておられるからです。その心に根ざしたお気持ちは菫様のお心を焦がし続けることでありましょう。ならば、いっそのこと、その気持ちを素直にしてしまうのも良いかと・・・」
「・・・嘉輔?わたくしはどうしたらよいのですか?この張り裂けそうな想い・・・。されど、慎吾様の重荷にはなりとうないという気持ち・・・」
「お気持ちを素直にしてしまうのがよろしかろうと。以前、わしに言いましたな。どうしても、なにか踏ん切りがつかないとき、悩みがあったとき、心の底にある思いの丈を晒してしまう方法があると」
「・・・首を取れと・・・言うのですね?」
「さよう。悩むのならば、本音に向き合い行動した上でダメであるならばあきらめもつくと言うもの」
首に手をあて、少し悩んだ素振りを見せたが覚悟は決まったのだろう
「・・・嘉輔。見ていてくださいましね?」
「はい」
そうして、嘉輔の目の前で静かに首を持ち、置いた菫
首に空いた穴から、紫煙が霧のように湧き出て消えて行く
その霧がなくなるように薄くなった頃、嘉輔は菫の首を元に戻した
「・・・いかがですか?菫様。溜め込んだものがすべて無くなってしまうと大変なことになると伺っているので、その前に戻させていただきましたが・・・」
「・・・っ・・・はっ・・・あっ・・・」
菫は唐突にその場で悶え始めた
「・・・苦しい・・・胸が苦しい・・・。慎吾・・・ああ・・・慎吾。わたくしの前からいなくなってしまわないで・・・。やっと慕えるお方にめぐり合えたと思ったら、いなくなってしまうなんて・・・そんな・・・そんなの嫌です!」
どのくらいそうしていたか・・・
落ち着きを取り戻すのにかなりの時間がたった
「嘉輔。ありがとう。わたくし、やっと決心がつきました。慎吾様をこの手に入れまする」
「おお!やはり!菫様!御武運を祈っておりますぞ!」
そうして、菫は崎間の家へ行くべく支度を始めた
家人が訪ねたその日のうちに、菫は崎間家へと来ていた
屋敷の奥に通されるとすぐに、崎間家当主 崎間松唯がやってきた
「足軽頭 崎間松唯である。研ぎ師 菫よ面を上げよ」
「はっ」
「ほう。これは・・・噂には聞いておったが確かに美しい。それはそうと・・・早速だが」
松唯は横に置いておいた刀を菫に見せる
「これの手入れを頼む。よもやなにかあると言うことはないと思うが、きちんと唯春に継がせてやりたいからな」
そういうと、控えの者が刀を菫へと渡す
「はい。確かにお受けいたしまする」
「うむ。頼んだぞ!」
菫は2日の時を待って崎間の家へと向かった
今まで、いくら頼まれようが戦に使われるような刀を研ぐことはしなかった
今度のことは慎吾を思えばこそ・・・
そう言い聞かせて・・・
「研師 菫よ。よくぞやってくれた。褒美を使わそう。なんなりと申せ!」
「なんなりと?」
「そうじゃ。これで、唯春の婚礼もこの刀を継がせることも出来る。祝いじゃ!何なりと申せ」
菫が“ふぅ”と短く一息入れると言った
「ならば、わたくしは・・・」
「うむ・・・」
「わたくしは、慎吾様を頂きとうございます」
松唯は唖然とした
「・・・な、なんと申した?慎吾じゃと?!」
「はい。それが無理なる場合・・・。この刀と引き換えとさせていただきまする!!」
「よまいごとを!刀研ぎの分際で慎吾をと申すのか!」
「わたくしは、毎日通ってくる慎吾様を見るうちに慕うようになりました。ですから是非に!なれど、もしまかりならぬと言うならば・・・この太刀がどうなるか・・・」
「貴様!!」
菫は刀を持ち、すくっと立ち上がるとすぐに外へ飛び出した
「寄るなぁ!貴様達の主、崎間の家宝。この太刀が傷ついてもよいと言うならばかかって来い!!」
刀を抜いて迫り来る家臣たちにそう浴びせかけると、たちどころに動きが止まった
「では、わたくしはこれにて。この刀は慎吾様と引き換えにて・・・」
一礼をして崎間の家をとびだした
「慎吾!貴様ぁ!!あの女と何をしていたというのだ!!」
「父上?一体何の話をなさっているのですか?」
慎吾は、縁談相手と会っている最中に火急の用ということで、急遽家へと帰って来ていた
火急の用とだけ言われていたいたので、何の話か何故そんなに怒り心中なのかまったく心当たりがない
烈火のごとき形相をして松唯は怒り狂っていた
「たわけ!!ええい!あの菫とかいう研ぎ師のことよ!!」
「菫殿?菫殿が一体なにをしたというののですか?」
「刀の手入れを受けて持ってきたのはいいが、褒美を取らすといったら、このわしに慎吾!貴様が気に入ったからといって刀と交換だと抜かしおったわ!!」
私は唖然とした。あの菫殿がそんな大それたことを・・・
「いいか!慎吾!貴様、あの刀を取り戻すまで勘当だ!!」
「勘当?!」
「崎間の大事な身の上たるお前が他の女などにうつつを抜かしおってからに!」
「父上!私はそのようなことは・・・」
「ええい!黙れ!!貴様の申し開きなど聞きとうない!その身の上を明かしたいのであらば、あの刀をわしの前に持ってきてその身の潔白を示せばよいのじゃ!!」
と、大変な剣幕で私は勘当を申し渡されてしまった
しかし、菫殿?何ゆえ私と刀を?
まさか・・・
とにかく、菫殿に直接会い事の真相を聞きださなければ・・・
梅雨が近いせいか天気は変わりやすい
家を出ると、たちまち雨の前に立ち込めるあのシケたようなにおい・・・雨のにおいが鼻についた
・・・一雨来るか
笠を手に持ち、行きなれた道を歩む
いつもの山林の喧騒に混じって、前の雨による雫が水溜りに滴る音がする
水滴が水溜りに波紋を広げるように、私の心にも菫殿という雫が波紋を広げていた
菫の家に着く頃には、雨は降出してきていた
「菫殿!崎間慎吾でござる!」
・・・
「ここを開けてくだされ!」
スッと戸が開かれる
「・・・」
何も言わずに彼女は奥へと姿を消した
「・・・」
無言で奥へ入る
いつもの作業場
しかし、ここの主は火を消したようにいつもの覇気がない
「・・・菫殿」
背を向けたままの菫に話しかける
「・・・」
「いったい、何があったというのですか」
話かけるとこちらを向いた
しかし顔を伏せ、その目は慎吾の足元あたりをずっと見ている
「・・・わたくしは・・・」
と、菫はススッと慎吾にすがりつくように近づいた
「菫ど…の…?」
菫の瞳には大粒の涙が今にも溢れんばかりに浮かんでいる
「慎吾・・・あなたは、どこかの女の元へと行ってしまうのですか?」
「なぜ、そのことを・・・」
縁談のことは一言も言ってなかったというのに・・・
「わたくしは・・・それを聞いて・・・胸が張り裂けるような気持ちになりました。しかし、あなたは崎間の大切な身の上・・・一介の研ぎ師などと許されるものではないと・・されど・・・」
「菫殿・・・まさか・・・」
私の胸へともたれかかる菫。その重みは彼女の重さだけではあるまい
そのまま腰を下ろす
「お慕いしておりまする」
胸元から見上げるように囁いた菫殿
私は、心の底に封じていたものが湧き上がってくるのを感じていた
武家の恋愛は実らぬもの。ならば、恋など心の底に封じ覚悟を決めようと・・・思っていた
されど・・・
「・・・私も、菫殿のことを好いておりました」
心の底にあった感情が素直に口から出た
「菫と呼んでくださいませ」
「菫」
その名を呼ぶと、本当にうれしそうな笑顔を浮かべた
「ああ。うれしい・・・慎吾様」
そうして、私達は口づけを交わした
腰に手を回し抱きしめる
その温かくやわらかな抱き心地
いつまでもこうしていたいと思った
どのくらい抱き合っていただろうか・・・
「慎吾様。あなたにわたくしの秘密を知っていただこうと思いまする。前に、わたくしに頬傷についてお聞かれになさいましたな」
唐突にそう言い出す菫・・・
確かそんなことを聞いたような覚えがある
「すぐに話を遮ってしまったから、不審には思っていたのだ」
「笑わないで聞いてくださいましね・・・わたくしのこの頬傷は・・・」
「・・・」
「・・・刀を研ぎ終わって刃をよく見ようとしたときに・・・誤って首が落ちてしまって・・・」
そういうと、俯いてしまった
「・・・っ」
「それ以来、そのようなよく切れる刀を研ぐことはやめようと・・・」
恥ずかしさのためか、顔から耳の先まで桃色に染まってしまった菫
「っ・・・くっ・・・っ・・・くっはははははは」
「慎吾様!」
菫ほ顔は桃色から真っ赤に変わってしまった
「すまぬ。くうっ・・・私はてっきり戦場や功を上げたときについてしまったものだと思っていたのだ。だから、気にせずともよいと思っていたのだが・・・まさか・・・」
真っ赤になってしまった菫。そんな彼女が愛おしい
「笑わないでと言ったのに、笑うなんて・・・」
「菫?すまない。でも、言ってくれて私はうれしいぞ。私はそんな菫がどんどん好きになっているのだ。だから、もっと菫のことを知りたいぞ」
「・・・はい」
そうして、私たちは互いのことを語り合った
その日の夕餉はとても楽しいものとなった
菫の作り出す料理は、家で食べる質素なものと違ってとても美味であった
食も進めば、話も弾む
「私の家の食事と比べるとなんとうまいことか!」
「武家の料理はいつの世もあまりおいしくないのもなのでしょうか?」
「いかなる時も万が一を心がけるだからであろうな。それにしても、これだけうまい手料理を作れる菫はよき嫁になるであろうな」
「嫁・・・慎吾様の嫁・・・」
そう言って顔を赤らめる菫。やはり、かわいらしい
夕餉が終わり、さてこれから・・・と思っていると・・・
「慎吾様。これを」
青紫の袋に包まれた長細いモノ・・・それはあの刀であった
「菫?なにを?」
「わたくしは、こうして慎吾様と過ごせて幸せにございまする。されど、あなた様は崎間の大切なお方。わたくしのことなどすぐに忘れて、お役目にお励みなされませ」
「菫!私の心を知っておきながら明日からまた崎間に戻れと言うのか!」
されど、菫は首を振るばかり・・・
「慎吾様。今宵一晩・・・一晩だけ。わたくしの夫でいてくださりませ・・・」
「・・・」
寝所には、一組の布団が敷かれていた
私は先にそこで菫が来るのを待っていた
一晩だけの・・・夫婦・・・
侍の家に生まれたからこそ、家を守り家のために個を捨てる・・・
彼女も元は侍。だからこそ、あれほどまでに頑ななのであろう
すっ・・・と襖の開く音
見れば薄い青の浴衣に身を包んだ菫が入ってきた
髪を頭に束ねた姿
揺れる行灯の火
その光を浴びた菫
私の隣へ座る
彼女の瞳は揺れていた
その瞳を見ながら口づけをする
口の中に舌が入ってきた
味わうように互いに舐めあう
どのくらいそうしていただろうか
唇を離すと菫はうっとりとした顔つきであった
かという私の体も彼女を欲するかのように疼いていた
揺れる光
浴衣の帯を解き
そっと胸元に手を掛け脱がしていく
白き肢体
髪を纏め上げて普段はあまり見かけない、匂いたつようなうなじに目が行く・・・
「あまり首元は見ないでくださりませ」
「・・・わかった」
私は、行灯の明かりを消した
暗い闇の中の菫
鼻の先に彼女が見える
なにか良い香りがする
そんな香りに誘われるかのように、抱きしめながら口づけをかわした・・・
その晩
私たちは一晩限りの睦みごとということを忘れるかのように
激しく契りあった
日付が変わる頃、傍らに寝ている菫を起こさないように私は寝所を抜け出した
装いを整えて、崎間の家へと行く支度をする
刀を腰に差し、昨日受け取った袋に包まれた太刀を丁寧に手に持つ
菫・・・ありがとう・・・
寝床に横たわる菫に口づけをする
雲が晴れたのであろうか、障子から月の光を透かした光が部屋をわずかに明るくする
その光は彼女の容姿をぼぅっと見せた。そんな菫を見ていると、たまらなく愛しいものと思わせる
後ろ髪を曳かれる思いで唇を離す
・・・その瞑られた瞳から雫がスゥッと流れ落ちた
「では、行ってくる・・・」
外に出ると月明かりで満ちていた
これならば明かりを灯すこともなく家へと着けるだろう
昼ならば緑に包まれたその道
月の光で白と黒の世界
ひと月ほどの短い期間であったが・・・
目的を果たせたというのに、何故こんなにも胸が苦しいのだろう・・・
お家の為を思うならば、家へと戻り決められた縁組を進めるのがよいのだろう
『一晩、一晩だけ・・・わたくしの夫でいてくださりませ・・・』
その言葉が耳朶から離れない
月の光が森に木漏れ日を作り出す
白き光の筋
時折、木の葉がその光を反射して輝く
水辺の虫どもが恋の歌を歌う
それすらも目に入らぬほど、耳に届かぬほど、私は迷っていた・・・
夜も明けきらぬ時間、崎間家の門扉は重々しく軋みを上げた
城への登城は、日が昇る前には城内へ入っていなければならない
城へと向かうための行列が中から歩みだそうとしてる
先頭の家臣が門を越えようとしたとき、門の前を立ちふさがる者がいた
勘当されたはずの慎吾である
家臣はすぐさま輿へと走った
輿の前でしゃがむと何事かを言っている
脇に控えた者が輿を下ろさせると、履物を揃えて置く
輿の中からゆっくりと現れたのは、崎間唯春であった
家臣たちは皆、その場に腰を下ろし事の行く末を見守っている
唯春が門へと歩むと慎吾は同じように門へと近づき、例の刀を差し出した
「慎吾。よくぞ戻った」
「唯春様これを」
刀を両の手に持ち差し出す
「何をしている?これを持って早く父上の所へと行くのだ。さすればすぐに勘当も解かれよう」
「あに・・・いえ。唯春様。私は最早、崎間の家とは関わりなき者。今は、一介の刀研師の使いにしかございませぬ」
「慎吾。戯けたことを申すな。お家を捨て、一介の刀研師の元で暮らすと申すのか?バカな!あのような下賎な者などと?!しかも、人ですらないと言うではないか。そのような魔物に貴様は心を奪われたと言うのか?」
「・・・では・・・妻が待っておりますゆえこれにて」
これ以上の言葉は無用。そう判断して踵をかえした
「まて!慎吾!!」
「・・・っ」
一瞬足が竦む
「・・・達者でな・・・弟よ」
「・・・っ・・・はい。お達者で唯春兄様。皆に良しなに・・・」
振り返ることなくそのまま歩いていく。振りむいてしまったら未練が残る・・・
夜が明けきらない川辺を歩きながら、菫の元へと急ぐ
・・・私は育った家でのことを思い出して泣いた。さめざめと泣いた
“慎吾様・・・”
晩に潤んだ瞳で私の名を呼んだ菫を思い出す
「・・・これで良いのだ」
宵のうちは晴れ、月が出ていたと言うのにいつの間にか厚い雲に覆われ、今にも降り出そうとしているような空
朝になり明るくなった山林や川辺はいつもの喧騒が立ち込めていた
あの菖蒲やアヤメ、スミレの花が群れていた辺りに来ると、我慢できないかのように空は泣き出していた
小雨が舞い降る中、丸太の橋を渡る
何度も通った萱葺き屋根の家からは、暗くどことなく寂しげな気配が漂ってくるかのようだ
なんとなく家の中にはいないような気がした
私は、家の脇でよく写生をしていたあの場所にいるのではないかと思った
そちらに周ってみるとやはりいた
傘も差さずに雨に打たれるに任せ、心無げに佇んでいる
「菫。そんなところに居ては風邪をひいてしまうよ?」
ゆっくりと・・・ゆっくりとこちらへ振り向いた菫
まるで、あってはいけない者を見てしまったかのように大きく目を見開いた
「慎吾様・・・どうして・・・」
そういうと、手を伸ばそうとして思い留まったかのように胸の前で手を握っり、そのまま向こうを向いてしまった
「あなた様は、崎間の家の方。家のために決められた縁組をし、決められた道を進んでいくお方。わたくしのような一介の刀研ぎ。まして、首が取れてしまうような魔物となど・・・」
私は我慢できなくなって後から菫を抱きしめた
「菫。もうよいのだ。そなたが父上に私のことを言ったと聞いたとき、私はうれしかった。何度もこの家に通い、そなたのことを見ているうちに私の心はどんどん惹かれていったのだ。だから、夫にと言ってくれた時私は、天にも昇るかのように心が躍ったものだ。そして、宵のことを思うとどうしても家に帰る気にはなれなんだ・・・。菫、一晩などと言わず、これからずっと私の妻でいてくれ」
「慎吾様・・・うれしい・・・」
私達は惹かれあう磁石ように、堅く抱き合い口づけをかわした・・・
その後、刀研ぎ師 菫の名は世から消えていった
彼女がいずこに消えたのかは誰にも知れない
しかし、市井の民の間ではとある刃物が有名になっていった
包丁や鋏、農具など、丈夫で長持ち、研ぎに回せばたちどころに元の切れ味を取り戻す
そして、貧困に喘ぐものでも手の届く値で、非常に重宝され喜ばれたという
それらのものには銘が刻まれている・・・“菫”と・・・
11/07/13 22:55更新 / 茶の頃
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