狂った二人
頭上には空を覆う程の木々の葉が、眼下には柔らかい土の地面が広がる、とある森の中。土で汚れた跡の目立つ、簡素な麻の服とズボンを身にまとった一人の少年が、辺りをしきりに確認しながら歩いている。
15歳である成人の一歩、いや三歩前ほどの齢だ。茶髪を短くシンプルに刈り揃えた、一人前の男というにはまだあどけなさが残りすぎた顔は、今や不安と恐怖のカクテルとなった感情で彩られている。
森は“異様”だった。それは、少年が日ごろから森に親しんでおり、“一般的な森”を知っているから得られる知見ではない。
少年はむしろ、自身の住んでいた町で周囲の大人から言われていた事をよく守っていた方だった。つまり、危ない場所とされている森には立ち入った事はなかった。大多数の町民もそうである。獰猛な野獣、森をねぐらにする野盗、それに魔物達。――森は、特別な事情もなく立ち寄るべきではない場所としての理由に溢れていた。
そんな少年でも、この森の“異様さ”には十分気づける程、森の雰囲気は異常だった。自然の天蓋から、わずかに垣間見えた空は桃色に色づいており、木々は立ち入った時と比べて、いつの間にか巨大になっている気がする。そして、何より……誰かに常に見張られている、そんな確信めいた気配を感じているのだった。
如何な理由があるのかは分からないが、少年は森に立ち入った事を明らかに後悔していた。泣き喚いたり、恐怖に駆られて突拍子もない行動は取らないものの、挙動不審に辺りを見渡し、無意識に拳を握りしめて指の関節が白くなっている様子は、まるで捕食者に怯える小鹿のような不憫さだった。
帰り道を探して彷徨っていると、少年はふいに転んでしまう。土から露出していた大木の根につまづいたのだ。幸い土が柔らかく――誰も通っていない獣道である事を示しているのは、厄介な事実であったが――怪我をせずに済んだ。
慌てて立ち上がろうとした所、突然クスクスという笑い声が聞こえる。不意の笑い声に少年は驚きすぎて、胸に何か鋭利な物が刺さったと勘違いする程胸が痛んだ。
少年は頭上の木の枝に誰かが居るのを認める。年端のいかない少年でなくとも、大胆だと形容するであろう衣服をまとった女性だった。紫と黒を基調にした衣服は、下半身がほとんど丸出しと言っていい煽情的なデザインである。
咄嗟に視線を這わせたのが“そういった”箇所であったのを敏感に察したのか、女性は三日月のような大きな笑みを浮かべる。
その笑みを見て、今更に気づいた大きな特徴が目に入った。猫の尻尾と耳である。
――魔物だ。
少年は、下半身を見やった事実を見透かされ、覚えた恐怖心を羞恥心で塗り潰す事になる。一方で魔物は木の枝へ器用に寝そべりつつ未だに笑みを絶やさないまま口を開いた。
「まだ幼く見えるのに、やっぱり男の子なんだねぇ……アタシの“ココ”や“ここ”、気になっちゃう?」
魔物の手は猫のそれをしており、その指に配された爪を用い、艶めかしい仕草で臀部や、大胆にはだけた胸元を指し示す。
突然の問いに、少年は混乱してしまい、上手く返事が出来なかった。魔物はもう一度楽し気に笑いながらも理解を示す。
「大丈夫、大の大人でも怯えるのは無理ないから。アタシも坊やの事を襲ったりはしないよ……多分。……すぐには」
少年は魔物の言葉に多分に含まれる意味深さに、ぞくりと背筋を震わせた。直感が正しければ、この魔物から逃げる術はない。この「襲ったりはしない」という言葉が本当であれ、嘘であれ、信じる他なかった。下手に反抗して気分を害し、折角の気まぐれをふいにする訳にはいかないと判断し、少年は落ち着いて口を開く。
「じゃ、じゃあ……あなたは何をしている、んですか?」
「アタシ? アタシは坊やが迷い込んだこの場所でどんな目に遭うのか、とりあえず眺めていたいかなぁ」
恐ろしいと聞いていた魔物が、ここまで見た目が人間に近く、会話が出来る事実に気を許してしまいそうになる少年。しかし人外の持つ種々の気配は確かに伝わってくる。その捕食者側の視線、そしてあまりに美しすぎる妖艶な美貌……。それらを改めて感じ、ふと「この森から出られる道を教えて」と尋ねてしまいそうになる気持ちをグッとこらえた。
「……頑張って帰り道を探してごらん、上手くいけば帰れるかもね」
終始浮かべていた笑みが一層深くなる。魔物は心の底から帰り道が見つかるかもしれない、とは思っていない事が少年にも伝わった。深い衝撃と絶望を覚えるも、それを相手に気取られたくないという意地で、少年は先へ進んだ。
――――相手が魔物とはいえ、人に近い存在と会話が出来た事で勇気が湧いたのか、魔物との会話の最後で意地を張り、怯えた様子を見せず歩みを再開した少年。しかし土地勘もなく、ましてやサバイバルの知識もない少年はどう歩けば森を抜けられるか、てんで見当がつかなかった。
例の魔物の姿は見えなくなったが、未だに視線を感じる。きっとどこかで自分を見ているに違いない……そう直感しつつ、目の前を突き進む。
すると、突然辺りに甘い芳香が漂い始める。同時に、視界も桃色に染められたように色づき始めた。
それは錯覚ではない。どうやら煙のようなものが漂っているらしく、香りも、色づくこの視界も、煙によるものらしい。決して嫌な香りではない――むしろその正反対ですらあった――ものの、咄嗟に口元を手で押さえつつ、茂みをかき分けると……その原因が見つかった。
見た事もない、まるで絵本の世界から飛び出したような大きな赤い傘の茸に腰掛ける女性。しかし、この人物もまた、先程の人物と同族だった。青白い肌をしており、下半身は巨大な芋虫になっている。等間隔で対に並んでいる、芋虫特有の脚が時折動いており、少年は思わずたじろいだ。
だが一方で、上半身は人間のそれと大差ない。優雅な装飾の上等な衣服、アクセサリーやカフリンクスを身に着けており、それは少年とは住む世界が違う人種の着るものであった。……そして何より、美しい顔と、豊満な胸が少年の視線を思わずくぎ付けにした。
「あら……新しく迷い込んだ子ね。無遠慮に全身を眺めるなんて、魔物を見た事がないの?」
「あ、ええと……」
先程見た魔物よりも、より魔物らしい姿であるに関わらず、会話が出来る事実に恐怖の半分が押し流されてしまう。
そして何より、またもやその美貌に見とれてしまっていたのは、もはや隠しようのない事実であった。その魔物が、胡乱げな表情で少年に興味を示す。
「怖がらなくていいのよ……さぁ、こちらにおいで。お姉さんと少し“お話”しましょ?」
瞳が更にとろんとしたように見える。次いで、傍に置いてあった、少年には見覚えもない奇妙な器具から伸びる筒を口に含み、煙を吐いた。
少年は慎重に全てを警戒しているのに対し、その魔物はにべもなく、巨大な下半身で腰掛けてもなお余裕のある茸の傘へ、誘導するようにぽんぽんと茸を叩いた。
母性すら感じるその仕草と声音、何よりもその美しさに気を許しそうになり、心が揺らぐ少年。
しかし、なんとかかぶりを振って気を取り直す。自然と外していた口元の手を、口元にあてがいなおしたのだった。この煙を吸っていると、段々と理性が朧げになっていく事に気づく。この事に気づけたのは、神の啓示かもしれないという程の幸運だった。その様子を見て、魔物は少し不服げに口を尖らせる。
「もう……警戒しなくてもいいのに。別に取って食べたりはしないわ……別の意味では食べるかもしれないけれど……♡」
意味深げに笑い、芋虫型の下半身を器用に用いて、茸の傘から身を起こし始める。少年は、咄嗟に走り出していた。
反射的に動き出したのが功を奏したのか、背後から魔物の声は聞こえるものの、どうやら追いつかれずに済んだようだった。胸を上下させ、声の聞こえない所まで移動したものの、今更になって恐怖感が少年を襲う。
あの魔物がどれだけ好意的に見えようと、少年ははっきりと、それでいて本能的に危険を――どのような類の危険であるかは別として――感じていた。
猫の魔物といい、芋虫の魔物といい、いくら森とは言え、自分の住んでいた町の近くの森がこれ程まで危険であるとは到底思えなかった。
もしかすると……異世界にでも迷い込んでしまったのではないか。
魔物と遭遇し、そしてそのような発想が、少年の勇気を根こそぎ奪っていこうとする。少年をパニックに陥れる最後の決め手は、辺りに響く男性の“叫び声”だった。
「こ、殺さないで――――」
そう聞こえてきたと思った矢先、騒々しい羽音のようなものが次いで聞こえ、男性の声はかき消される。
恐怖に少年が固まっていると、男性のうめき声と共に、女性の艶めかしい声……そして湿り気を帯びた粘着質な音が響いてきた。
理解出来ない状況と、死への恐怖が混ざり合い、混乱はピーク寸前に達しようとしていた。
そんな折、唐突に近くの茂みから葉の擦れ合う音が発せられたのを合図にし、少年は呼吸が整い切るのを待たず駆け出す。
茂みの音がなんだったのかを確認もせず、自分が今追われているのかすらも分からない。しかし、それでも追いかけられているような気がしてならなかった。
この一連の出来事全てが悪夢であり、悪夢ならば今すぐに目覚めて欲しいとこれ程願った事は今までの人生でないだろう。少年はひたすら前へ前へと駆けていく。
神がそんな少年に憐みを抱いてくれたのか、少年の視界に小屋が見えてくる。丸太を用いて作られた、いわゆるログハウスだった。
少年が町に住んでいた狩人が使っていた、道具小屋と見た目が似ている。もしかすると、助けになってくれる人が見つかるやもしれない……そんな淡い希望が浮かぶ。
冷静な状態であれば、あと一歩の所で踏みとどまれたかもしれないが、今の少年には一縷の望みにしか見えず、吟味する余裕はこれっぽっちもありはしなかった。
急いで小屋へ駆け寄り、扉を少々手荒に叩く。どれくらい走ったのか分からない。汗を浮かべ、息を切らしながら少年は誰かが出てくる事を祈った。ここが自分の記憶の中にあるような、森に精通した狩人や木こりの小屋であり、少年を帰り道に誘ってくれるものだと信じて……。
ガチャリと扉が開く。中から、またしても女性が現れた。少年は一瞬身構えるも、女性に一見して異常な様子や気配は見受けられなかった。
とても綺麗な身なりの女性だった。町で行われた謝肉祭で少年が見かけた、領主らが着ていた衣服とそん色ない、もしくはそれ以上に上等な衣服かもしれないと少年は思った。
170センチ程の身長で、その体の大半を占めるのではないかと言わんばかりの長い脚は、スラックスで覆われている。靴は――奇妙な茸のような装飾がついた――深緑色のエナメル、脚にかかる程の長い裾が二股に分かれたジャケットの胸元では、フリルがついた白シャツと蝶ネクタイが存在感を主張している。
いずれにせよ、ただの一般市民である少年にはお目にかかれない衣服である事に違いはない。紛れもない上流階級の衣服であった。
そして、そんな上等な衣服を完璧に着こなすのは、怜悧さをたたえる切れ長の目をした、一束分の髪だけ長く伸ばしたショートカットの美女。
その高貴な印象の女性は、少年のただならぬ様子を見て、少しだけ驚いたように見えた。
少年は最後の最後で、警戒心を取り戻す。先程まで出会った魔物が、どれも見目麗しい女性であり、この女性ももしや、と思ったのだ。
しかし、女性は扉をもう一歩分大きく開き、事情も聞かずに、中へ少年を招き入れた。
「……尋常じゃない様子だね。さ、中へお入り」
少年からすれば、気配も様子にも、異常さが感じられなかった。それどころか、今の一言には“心配”すら感じられた。
恐怖や不安で摩耗した少年の精神は、差し出された目の前の安堵に身をゆだねる事を決意した。少年は頷き、足を踏み入れる。女性は外を少し見渡した後、扉を閉めて鍵をかけた。家の中は紅茶の香しい香りでいっぱいだった。
「あ、あの……ありがとうございます。何も事情を話したりしていないのに」
少年は呼吸を整えながら、おずおずと感謝の言葉を口にした。一方で女性は、手近にあった机から椅子を引いて座るように促す。そのまま、慣れた仕草でティーポットの方へと向かった。
「君のような少年が息を切らして、この森の中を走ってきた。それだけで大体の事情は察するに余りあるよ、気にしないでくれ」
女性の発音やアクセントの一つ一つが美しく、耳に心地よかった。そんな言葉を淀みなく発しつつ、女性は紅茶を2人分用意した。
女性は少年から見て向かい側の席に座り、手に取って紅茶を一口飲む。辺りに、またもや紅茶の香りが漂う。しかし、その香りには、芋虫の魔物の時のような、異常な香りは微塵も感じられない。これは、むしろ少年が慣れ親しんだ町の香りの一つに含まれるものだ。少年の心は安堵し始める。
「……あの、何でお姉さんみたいな方が、こんな森に住んでいるんですか?」
「私はエリノルと言う」
少年はハッとした。思わず最後に感じていた疑問を口にしたものの、家に上がらせてもらったくせに、名を名乗りもせず質問をするなど。
相手から漂う理知的で、高貴な印象から自然と委縮する少年。そして粗相をしてしまったという焦燥感が合わさり、小さな葉を吹き飛ばす一陣の風のように、少年の感じていた疑心を吹き飛ばした。
「あ、カール……と言います。すみません……」
エリノルと名乗った女性はふふ、と笑い、カップを置いた。美しい所作で、音も一切立てなかった。
「カール君、か。私がどうしてここに居るか、という質問の答えは後にしよう。なぜあんな風に息を切らしてここまで来たのかを、尋ねてもいいかな?」
カールはもっともな考えだと思った。自分が逆の立場なら、きっと同じように思うだろう。
むしろ、見ず知らずの相手を、いくら少年だからと言って何も聞かず、家に入れてくれた事だけでも感謝すべきだった。普通ならば突然の事に警戒して中に入れやしないだろう。自分のような年齢の少年を使い、巧妙に仕事をこなす盗賊など枚挙にいとまがないのだから。
彼女は一体どんな人物なのかを探る為、家の中を見回す。これといった特徴のない家屋で、生活に必要な家具は一式揃っている。彼女は狩人でも、木こりでもないようだったが、身なりから察するにどこかの貴族で、きっとここは別荘か何かなのだろう、とカールは自分を納得させる事にした。
「実は……この森で迷子になってしまったのです。帰り道を探そうとさまよっていたら、魔物に何度か見つかったりして……」
カールは思い出し、冷静になった今、改めて危険な事態に直面していたのだと痛感する。命が残っているのが奇跡だ。
「誰か、助けてくれる人はいないかと思って、逃げ出している時にこの小屋を見つけました」
「そうか。魔物達と出会ってよく無事に逃げられたね……まぁ、彼女らなりの気まぐれなのだろうが。しかし、森には何の用で?」
言いながら、エリノルは紅茶を飲むように促した。もう一度感謝し、カールはそれを口に含む。とても甘味のある、芳醇な紅茶だ。鼻腔に突き抜けるようにして、独特で甘い香りがカールの体内を満たす。
「はい。お恥ずかしい話ですが……成人を前にした年齢になって、友達の間で“誰が一番勇気のある男か”という話になったんです。それで、危険だから近づかないようにと言われていたこの森に行けば、勇気があるって証明出来るんじゃないかと思って……」
冷静に事情を説明しながら、なんと浅はかな事をしたのか、と自分を見つめなおす羽目になるカール。この軽挙妄動さにエリノルからも呆れ果てられないか、恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
しかし、エリノルは呆れるどころか、茶化しすらしなかった。
「なるほど。君くらいの年齢になれば、大いに関心を持ちそうな話題だ。合点がいったよ」
カールは自然と伏し目がちになったものの、意外な返答に顔を見上げた。
「しかし、先人の意見にはよく耳を傾ける事だ。皆が危険で立ち寄らない場所というからには、それ相応の理由があるのだよ」
エリノルは淡々と告げる。その言葉に、言い訳のしようもない。幼いながら、正論を静かに突きつけられるのは相当こたえたようだった。
「はい。おっしゃる通りです……もう二度としません」
「君、顔を上げたまえ。次に反省を活かせれば良い。そして、帰り道ならば私が案内出来る」
エリノルの言葉に、カールは喜んだ。まさに願ったりかなったり、神に感謝を捧げずにはいられなかった。
「本当ですか? なんと感謝すればいいか……」
涙ぐみ始めたカールに、エリノルはしっかりと頷く。一方で、エリノルに対してカールは心配を始めた。
「エリノルさん、ここは魔物が多く住み着いています。この家も見つかれば、エリノルさんがどうなってしまうか……。僕と一緒に逃げましょう!」
これ程優しくしてもらった相手が、魔物に見つかって殺されてしまうなんて、カールが想像しうる中で最悪の事態の一つだった。
助けてもらう側ではあったが、安堵したお陰か、はたまた男としての矜持か……目の前の女性を助けたいという純粋な気持ちが発露した。
そしてその稚拙ながらも真っすぐな気持ちは、エリノルのような理知的で賢い女性にも響いたように見えた。エリノルは目を細め、微笑む。
「幼くても、男の子だね。こんな状況でも私を気にかけてくれるとは、その逞しさと優しさに胸を打たれてしまったよ、ありがとう。……おっと、そう言えば何で私がここに居るか、という質問に答えていなかったね」
カールからすれば、半ば忘れかけていた質問。既にさほど聞きたいとも思っていない答えだった。……が、しかし。次の答えで、カールは愕然とする事になる。
「私はマッドハッターという魔物なのだよ。どうも気づいてはいなかったようで、無闇に恐怖感を与えない為にすぐは言いださなかった」
その言葉で、カールは冷や水をかけられたように目を見開いた。まさかこんな状況で冗談を言うはずもない。あと一歩で助かる、と思って喜んだ矢先、まさに青天の霹靂であった。
こんなに優しく賢そうな女性が魔物? そもそも一切の異常さに気づけなかったのは、なぜなのか? 次々と疑問が湧いては消えを繰り返す。
「そんなエリノルさん……お姉さんが魔物? 嘘、ですよね?」
「本当さ。マッドハッターはマタンゴの一種で、元をただせばここ、不思議の国で起こったとある可笑しな出来事によって生まれた……と、今は不要な情報だったね」
エリノルは紅茶を飲み終え、立ち上がる。机上に人差し指を置いてスーッと引きずりながら、机の周囲に沿って移動し始めた。カールをその美しい切れ長の目で見つめる事を忘れず、カールに接近する。
「た、助けて……お願いします。殺さないで」
カールは、逃げられない事をまたもやその直感で認識した。相手は優雅な仕草で、ともすれば緩慢な動きだが、本気を出せばすぐに自分を捕らえられる。
言葉には出来ないものの、余裕というヴェールに隠された、底知れない何かを子供ながらに感じ取っていたのだった。
相手の気分を害さないように、震えるカールは傍にやって来たエリノルに嘆願した。一方でエリノルは意外そうに口を開く。
「おや、なぜそんなに怯えるのかい? 私が魔物だから?」
「……」
カールは無言で頷く。
「私は君に危害は加えない、約束しよう。帰り道だって教える。無事に帰れるよう、エスコートしてあげても良い」
「でも、魔物は人を喰ったり、誘惑して誘い込んで、殺したりするって……」
「そんな噂は出鱈目さ。魔物からそう言われても信じられないかもしれないが……君達人間同士の方が、よっぽど危険なのは事実だよ」
エリノルは一息つき、まるで演劇か何かかと言わんばかりに、言葉に熱を入れながら語る。
「しかし相手が魔物なら、命の危険なんて全く考えないで良い。私達は君達を殺さない理由もちゃんとある。システマティックな理由がね。……いや、どんなに言葉を飾り付けたり、遠回しに説明しようと、次の一言で全て片付けられてしまう……」
そしてカールの左肩に右手を置きつつ、カールの左手側の席に腰掛けた。エリノルはカールの顔を、視線でまっすぐ射抜くように捉えながら大真面目に話す。
「……愛だよ。歯が浮くようなセリフだと思うかい? しかしそれが全てさ。どれだけ私がこの感情と行いに理由をつけようとも、一言で済んでしまう。愛しい人、存在である人間は決して殺さない。分かるかな?」
カールは言葉を返せない。あまりに突拍子もない発言である、という事は別にして、段々と彼女……エリノルの言葉に疑問を抱く事が出来なくなってきたのであった。それはマッドハッターである彼女の力の一つである事は、カールに知る由もなかった。
「あの……わ、分かります」
満足げに微笑み、エリノルは続ける。
「物分かりの良い子だね。ともかく、君がここまで誰にも捕まらずここに来れた事は、僥倖だ。私は今君にとても興味が湧いている」
カールの体つきを見て、エリノルは情熱的な熱を視線に込めて、わずかながら唇を舐めた。
「具体的に言えば、セックスがしたいんだ」
カールは、エリノルから自然極まりない流れで発せられた言葉に一瞬耳を疑ったが、その“耳を疑った理由”が、すぐに理解出来なくなり始めていた。
「カール君、君はセックス……つまり性交は既に経験しているのかい?」
「えっと……あ、ありません。パパとママがしていたのを偶然見たくらいで……」
「そうかそうか。ならば、忘れられない体験にしてあげよう……かくいう私も、会話の途中から君のおちんちん……つまりペニスの事で頭が一杯になっていてね。そろそろ始めようか」
意識が明白でありながら、疑問をぼんやりとしか認識出来ず、今された質問と自分が発した答えに対し驚いている自分が、理解出来ない。
まさしく今まで体験した事のない感覚に翻弄されながら、エリノルからの言葉と行動を待ちわびている自分の存在を確認するのでカールは精一杯だった。
エリノルは遠慮もせず、カールの服の下から手を差し入れた。シルクのような肌触りの極めていい手袋をはめた手が、カールの胸や腹部を艶めかしく愛撫する。時折、乳首などに手袋が擦れた。それだけで意図せず、カールが上ずった声を上げる。
「失礼するよ」
エリノルはカールの服を脱がせ、おもむろに乳首へと顔を寄せ、舌で舐め上げた。愛撫した時に反応が良かった所を熟知していた。
「所で、君はどこの町から来たんだい?」
乳首に舌を這わせつつ、にべもなく質問をするエリノル。薄く、それでいて血色のいい唇から割って現れる細長い舌がコリコリと乳首を責めつつ、同時に雑談が飛び出す。その異常さに気づく理性はもはやこの場に居る誰もが持ち合わせていなかった。
「あっ あっ あの……ドーレンという町から来ました……」
マッドハッターであるエリノルの細長い舌はとても粘り気があり、唾液が豊富だった。スムーズに乳首をねぶり回されたかと思えば舐められていないもう片方の乳首を、カールが寂しく感じ始めた途端にそれを察したようにねぶっていく。時折吸われたり、甘噛みされたり、とめどない刺激の豊富さに、カールは頭が快楽で一杯になる。
「ドーレンから迷い込んできたのか。なるほど……ご両親は心配しているだろうね。悪いけど、“私達の”用がもう少し済むまで待っていてもらおう」
ただ椅子に座りながら乳首を責められているだけで、カールは身のすべてをエリノルに委ねるしか出来なくなっていた。エリノル自身も嬌声を上げるカールにご満悦なのか、微笑み続けている。しかし、カール自身の股間が膨らんでいる事もまた、エリノルは見逃さなかった。
「おっと、おちんちんが辛そうだね。私もこんなのを見てしまっては自制心が揺らぎそうになる……が、君の初体験だからしっかりとフルコースを堪能して欲しいんだ」
エリノルは至極辛そうにしつつも、カールに同意を求める。一方のカールは、もはやエリノルから早く次の快楽を与えて欲しいという欲望で支配されており、言う事に従い、何度も頷くばかり。
エリノルの席とカールが座っていた席を連結させ、カールを膝枕するように寝かしつけた。そしてエリノルはシャツから自身の豊満な胸をはだけさせる。ジャケットとシャツに押しつぶされ、隠されていた胸が膝に頭を乗せるカールの眼前に現れた。フォーマルな衣装をしていながら、大胆にはだけた胸が、劣情をそそる。一方で、エリノルは巧みにズボンからカールの陰茎を取り出していた。
焦らされ続けた結果、ようやく待ち望んだ陰茎への刺激……それが、サラサラとした手袋に覆われたエリノルの手によってもたらされ、カールは我慢できず大声を上げた。エリノルはふふ、と笑い声をこぼしながら胸を差し出すように、カールの眼前へとあてがう。
カールはたまらず、本能的にその胸へと手を伸ばし、片方で揉みしだきながら、もう片方で口元へ手繰り寄せ、その乳首に吸い付いた。エリノルの小粒な乳首を、先程自分がされたのをお手本に精一杯ねぶり、味わう。
だがしかし、一方下半身では、エリノルが巧みに片手でカールの陰茎をしごき上げ続けていった。愛撫等によって、既に大量のカウパーが溢れており、手袋を湿らせていく。
まだ皮がむけ切っていない陰茎を、エリノルが愛おしそうな目で見つめる。慈愛に満ちた視線とは裏腹に、手つきは苛烈だった。
「あ、ダメ……! エリノルさん、気持ち良すぎて、もう!」
手袋の感触とエリノルのテクニックがもたらす快感は、並のものではなかった。カールは射精の気配を早くも感じ、身をよじらせながら声を上げる。
「君はしたいようにすればいいんだ。ほら、もう少しこの快感を味わいたいなら、気を紛らわせる為に私の胸でも味わうと良い」
エリノルにそう諭され、カールは無心で胸を揉み、そしてねぶった。子供ならではの、本能に身を任せた乱暴な揉み方と、ねぶり方。しかし、この快楽を味わおうと言われるがまま指示に従った結果のその行為に、頬が上気し、無意識に声を漏らし始める。
「ん……情熱的だね、カール君……そのまま続けて」
一方で、様々な角度をつけ、手で陰茎を楽しませるエリノル。カールの限界は、突然迎えられた。
カールは身を収縮させるようにして、思い切り精を解き放つ。それをしっかりと把握していたエリノルは、亀頭を手で覆い、吐精を受け止めていく。カールは頭が真っ白になりつつ、エリノルの両胸に顔をうずめながら荒い息をつくばかりだった。
しばらくして、射精が終わり、カールはぐったりと膝に頭を委ねた。薄目で、エリノルの顔と、自分の下半身を見やる。
エリノルは射精を受け止めた手を眺めながら、手のひらを広げた。少年にしては……いや、若いからこそか。濃く、大量の精子が見て取れる。
まるで花が咲いたように広がる五指の間に、どろりとした精液が淫猥な粘液の橋を形作る。それを見て、エリノルは躊躇いもなくそれを口に運んだ。
「そんな……き、汚いよ……」
興奮冷めやらないまま、カールはなんとか声を振り絞った。しかしエリノルはまるで茶菓子を口に運ぶように、指にまとわりつく精子を口に運び続ける。
端正な顔立ちで、しかも卑猥な事をしていないとでも言いたげな、普通の表情だからこそ、よりギャップが際立ち、カールの背徳感と劣情が掻き立てられていった。
「何を言っているんだい? 何も汚くはないさ……じゃあ、場所を変えようか」
にこりと笑うエリノルに、カールはゆっくりと頷いた――――
――――じゅぽっ♡ じゅぽっ♡
エリノルの家、その寝室から卑猥な音が響いてくる。カールとエリノルの性交は、場所を変えて第2ラウンドを迎えていた。
ベッドに横たわらせたカールの股間に、エリノルがむしゃぶりつくように、激しい口淫を行っている。カールは、エリノルの頭が上下する度に上ずった声を漏らす。
マッドハッターならではの、水気の多い唾液が舌と共に陰茎に絡みつき、カールに視界がスパークするような快感をもたらしていった。
「カール君は、わらひ(私)が思うひ(に)、農民のほ(子)かな?」
エリノルはカールの服についていた土の跡や、かすかについていた香り等から推察し、そう質問した。だが当然、口淫を行いながら、である。さも当然であるかのように雑談が、行為の最中に繰り広げられていった。
「は、はいっ あの……そこ、気持ちいい……両親は農民で、すッ」
カールは翻弄されながらも、既にエリノルのペースに合わせて質問に答えていく。
「てふだい(手伝い)をよくしているんだろうね。へ(手)の平や、はらだ付き(体付き)が少し良かったからね……」
じゅぽっ♡という卑猥な音が間に入りつつ、エリノルはなるほど、と合点がいきながら激しく陰茎をしゃぶり上げた。ずぞぞぞ、と吸い上げられ、カールは目を白黒させながら腰を浮かせる。エリノルの口内へ深く陰茎が入り込むが、エリノルはそれを受け入れ、むしろカールの小さな尻を両手で抱え込むようにして掴んだ。
ドクンッ ドクンッと何度も脈打ち、二度目となる射精が行われた。予兆もなく、あまりの快楽に耐えかねた精子は全てエリノルの口へと注がれた。一滴もこぼす事なく、飲み干していったエリノルは、丹念に陰茎を綺麗にしていく。
「なんと美味しいザーメンなんだ……ありがとう、カール君。量も勢いも衰えていないよ……♡」
エリノルは、嬉しそうに、少しだけ柔らかくなった陰茎を顔で受け止めながら、陰嚢を優しく口に含み転がす。未知の経験と快楽がカールを蹂躙するもその行為自体に疑問を持つことすらなく、ただただ気持ちよさだけを受け入れていく。
見る見る内に固さを取り戻し、その若さの象徴に微笑んだエリノルが、今度はベッドに横たわった。
「さぁ、勇気ある大人の男になりたいのなら、これがその一助になると私は考えている。君から、私の中に挿入してくれるかな?」
エリノルは無意識に胸を高鳴らせているように見えた。理知的で冷静なエリノルのような女性が、このような感情を露わにする事が珍しいと、知り合って間もないカールでさえ理解出来る。
エリノルは半裸となり、スラックスが手近に放り出されている。シャツとジャケットは大きくはだけており、たわわな胸が差し出されるように露わとなっていた。カールは既に石のように固くなった陰茎を手にし、エリノルの股の間にそれを宛がう。そして、既にしとどに濡れそぼったエリノルの膣へと、一思いに差し入れた。
ぬるりと、誘われるかのようにカールの陰茎が挿入される。ねっとりとした糸状の何かが絡みつくような、形容しがたい膣の中身が、カールを襲う。
初体験で、この人外がもたらす余りの気持ちよさを経験してしまったのは、カールにとってはむしろ不幸ですらあったかもしれない。
「あ、あぁッ」
「んん……♡ しっかり入っているようだ。私のまんこはどうかな? 感想を……と、聞ける状態じゃないようだね」
エリノルがそう尋ねるも、既にカールは本能のまま腰を振り、エリノルの中を味わおうと無我夢中だった。一方でエリノルも、そんなカールを見て胸に暖かい感情が溢れるのを感じていた。
「先程までは私を助けようだなんて、自分が怖い思いをしていたばかりなのに、よく申し出たものだよ。森に入ったのは褒められた事ではないけれど……結果的に私と出会ってくれたのだから、責める気にはなれないね」
カールは腰を小さな手で掴み、精一杯腰を振るが、一度腰を振る度に襲われる快感に翻弄され、女の子のような嬌声を漏らしてしまう。柔らかくもありそれでいてキツくねっとりとした独特の感触……マッドハッターならではの快楽が存分にもたらされた。
平常時のカールであれば、出会って間もない状態で性行為に至り、そしてあまつさえ“好き”と言うだなんてあり得ないと言うはずである。
しかし、今のカールは常識を塗りつぶされており、それは得てして自分が感じる感性で物事を判断する状態になったと言い換えてもよかった。
そうしてカールが自分に素直になった結果、こんな短時間とはいえ、時間を共にしたエリノルへ生まれた好意を、静かに、そして落ち着いて受け入れる事が出来たのだった。まるで、些末な貞操観念に縛られていた過去の自分の方が“狂人”だと思える程、自然に。
「エリノル、さんッ あッ 僕……好きです、エリノルさんの事が、好きですッ♡」
「嬉しい事を言ってくれるね。ありがとう、少年。私も……言わずもがな、好きだよ……♡」
エリノルは手をカールの後頭部へ宛がい、目を細めて微笑む。今までの中で、一番暖かい笑みだった。
挿入の最中、一時も外さないエリノルからの視線を受けながら、カールは絶頂を予感していく。もっと味わいたい、エリノルへ芽生えたこの“好き”という感情を味わいたいと心の底で感じつつも、絶頂を遠ざける事は出来なかった。
「ごめんなさいッ 僕、気持ち良すぎて頭がおかしくなりそう……ッ」
エリノルはその言葉を聞き、他愛なさげにくすりと笑った。
「頭がおかしくなりそう? それは良かった……私も狂人だから、パートナーが見つかって……本当に良かった」
カールはぐっとエリノルの腰を引き寄せつつ、奥深くへと陰茎を挿入した。ドクドクと注がれる精液を感じ、エリノルは至福の笑みを浮かべた。
カールは何度目になるか覚えていない射精だというのに、減らない精液の量に驚きつつも、全てをエリノルの中へと注ぎこみたい欲望を全て叶えていく。ひとしきり注ぎ終わり、カールは疲労感を覚え、エリノルの胸元に身を投げる。エリノルは小さな背中に手を回し、頭を撫でながらその豊満な胸にカールの頭を埋もれさせた。
「忘れられない初体験になったかい?」
エリノルが冷静に、微笑みながら問いかける。カールはエリノルの胸の上でぐったりとしながら、ただただ頷いた――――
――――行為を終え、カールが起きるまで待ち、ベッドから共に抜けた後、エリノルは平然とした仕草で紅茶を2人分淹れた。
まだ夢見心地のような状態で、カールはぼんやりと席に座り、エリノルを待つ。今日一日だけで、どれ程濃縮された経験をその身と頭に体験した事か。程なくしてエリノルが紅茶と共にやって来た。
「お疲れ様、カール君」
「ありがとうございます」
カールは差し出された紅茶を口にする。先程飲んだ時よりも、心なしかより甘く感じられた。
「さて、“お茶会”が長引いてしまったね。落ち着き、準備が整ったら教えて欲しい。私が帰り道までエスコートしてあげよう」
カールは驚いた。程度の差はあれど、少なからずエリノルが自身に好意を抱いてくれていると思っていたからだ。心が通じ合ったような気でいたのは、自身の錯覚だったのか? 得も言われぬ感情が湧き起こる。しかし、かすかに残っていたのだろうか、わずかな理性がそれが表に出る事を食い止めた。
「そ、そんな。エスコートだなんて……」
「遠慮は無用。この森には沢山の魔物らが居るからね……。君は魅力的だ、この家に辿り着くまで誰にも触れられないで来られた奇跡は、二度も起こらないだろう」
「他の魔物もエリノルさんみたいに、えっちを好むんですか?」
「あぁ。だから私が送ってあげようと言うのだよ」
カールは自身でも浅はかだと思うような、とある矮小な感情を押し殺す為の言葉を聞き取りたいが為、遠回しに尋ねる。
「他の魔物に触れられると……嫌、なんですか?」
エリノルはティーカップを置く。少しだけ音を鳴らしてしまっていた。
「……」
相変わらずクールで、少し微笑んだ表情のまま数秒だけ固まるエリノル。
「うん。君と別の魔物だけがまぐわっているのを、ただ見るだけというのは愉快ではないかな。しかし皆情熱的だからね、君の魅力やおちんちんに惹かれるのは至極当然の事。どうしてもというのなら、私をせめて交えて……」
固まった後、堰を切ったような矢継ぎ早の発言に、カールは意地悪な発言を少しだけ後悔した。もしや、先程の行為は、ただ性欲を満たす為だけの行為だったのではないか……そんな不安をかき消す為に、こんな問いをしてしまうとは。
「エリノルさん、僕は帰りたくないです。お姉さんと一緒に居たい」
エリノルの説明を遮るようにカールはそう言った。エリノルは少しだけ目を見開き、そして微笑む。
「ありがとう。この上ない幸せな言葉だよ……しかし、君にも家族が居るだろう。君の感情を無碍にするつもりはないが、ご両親らを安心させたまえ」
「だ、だけど……」
カールが続きを話そうとするも、今度はエリノルがそれを遮った。
「君は気づいていないだろうけど、私の……マッドハッターの胞子を吸っている。だから、理性や常識の境目が曖昧模糊となっているんだ。私が思うに、君は一度外の空気を吸って頭を冷やした方がいい……文字通りね」
エリノルの言葉に、カールは納得がいかない。しかし、それ以降どれだけ抗議しようとも、エリノルは冷静に意見を変えはしなかった。カールは、胞子によって狂気に陥っている、と。
しかし、今のカールにとって確実に分かる事があった。狂気と理性の正確な境目を確かめる術なんて、誰も持ち合わせていやしないのだ。
……押し問答も虚しく、そのままエリノルはカールの手を引き森の外へと連れ出した。
いつの間にか、周囲の木々は小さくなり、空は桃色ではなくなっていた。清涼な風が吹き抜け、ぼんやりとしていた頭が少しだけはっきりとしたような気がする。辺りを見渡すと、いつの間にかエリノルは背後に居た。
「また会いたいと思ったなら、もう一度勇気を出して森に来ると良い」
そう言って、彼女は森の奥へと消えていく。カールはそれでも追いかけたものの、もはや姿を認める事は出来なかった。
エリノルに会いたい。一緒に過ごしたいと胸を痛ませつつも、どうする事も出来なかった。カールは一度家に戻り、両親を安心させる事にした。
家に戻る事が出来、両親を安心させる事が出来たのは素晴らしい事だったし、紛れもなくカールにとって嬉しい事であった。
しかし、エリノルの元を離れたとしても尚……エリノルの事が脳裏から離れない。マッドハッターの特性の件……そして、それ以外の件においても、森へ戻る事が危険だと十分分かっている。冷静な、今なら。分かっているからこそ、自分は今、おかしくなっていないと証明出来た。
しかし、冷静になっている“はず”の今でさえ、エリノルへ募る思いが残っている、という事は……。
――――後日……カールは、また奇妙な森へ足を踏み入れていた。特別な方法を試した訳ではない。
ただ、エリノルに会いたいと思い、森を訪れただけであった。いつの間にか、辺りは様変わりし、例の異様な森になっていたのだ。
そして、見覚えのあるログハウスに辿り着く。扉を叩き、中から遅れてエリノルが現れた。
狂気と理性が紙一重に同居していると、今ようやく分かる穏やかな笑みを彼女は浮かべた。
「……また訪ねてくる程狂っていると、信じていたよ。さて、君が帰るまでの間、お茶会を存分に楽しもう」
15歳である成人の一歩、いや三歩前ほどの齢だ。茶髪を短くシンプルに刈り揃えた、一人前の男というにはまだあどけなさが残りすぎた顔は、今や不安と恐怖のカクテルとなった感情で彩られている。
森は“異様”だった。それは、少年が日ごろから森に親しんでおり、“一般的な森”を知っているから得られる知見ではない。
少年はむしろ、自身の住んでいた町で周囲の大人から言われていた事をよく守っていた方だった。つまり、危ない場所とされている森には立ち入った事はなかった。大多数の町民もそうである。獰猛な野獣、森をねぐらにする野盗、それに魔物達。――森は、特別な事情もなく立ち寄るべきではない場所としての理由に溢れていた。
そんな少年でも、この森の“異様さ”には十分気づける程、森の雰囲気は異常だった。自然の天蓋から、わずかに垣間見えた空は桃色に色づいており、木々は立ち入った時と比べて、いつの間にか巨大になっている気がする。そして、何より……誰かに常に見張られている、そんな確信めいた気配を感じているのだった。
如何な理由があるのかは分からないが、少年は森に立ち入った事を明らかに後悔していた。泣き喚いたり、恐怖に駆られて突拍子もない行動は取らないものの、挙動不審に辺りを見渡し、無意識に拳を握りしめて指の関節が白くなっている様子は、まるで捕食者に怯える小鹿のような不憫さだった。
帰り道を探して彷徨っていると、少年はふいに転んでしまう。土から露出していた大木の根につまづいたのだ。幸い土が柔らかく――誰も通っていない獣道である事を示しているのは、厄介な事実であったが――怪我をせずに済んだ。
慌てて立ち上がろうとした所、突然クスクスという笑い声が聞こえる。不意の笑い声に少年は驚きすぎて、胸に何か鋭利な物が刺さったと勘違いする程胸が痛んだ。
少年は頭上の木の枝に誰かが居るのを認める。年端のいかない少年でなくとも、大胆だと形容するであろう衣服をまとった女性だった。紫と黒を基調にした衣服は、下半身がほとんど丸出しと言っていい煽情的なデザインである。
咄嗟に視線を這わせたのが“そういった”箇所であったのを敏感に察したのか、女性は三日月のような大きな笑みを浮かべる。
その笑みを見て、今更に気づいた大きな特徴が目に入った。猫の尻尾と耳である。
――魔物だ。
少年は、下半身を見やった事実を見透かされ、覚えた恐怖心を羞恥心で塗り潰す事になる。一方で魔物は木の枝へ器用に寝そべりつつ未だに笑みを絶やさないまま口を開いた。
「まだ幼く見えるのに、やっぱり男の子なんだねぇ……アタシの“ココ”や“ここ”、気になっちゃう?」
魔物の手は猫のそれをしており、その指に配された爪を用い、艶めかしい仕草で臀部や、大胆にはだけた胸元を指し示す。
突然の問いに、少年は混乱してしまい、上手く返事が出来なかった。魔物はもう一度楽し気に笑いながらも理解を示す。
「大丈夫、大の大人でも怯えるのは無理ないから。アタシも坊やの事を襲ったりはしないよ……多分。……すぐには」
少年は魔物の言葉に多分に含まれる意味深さに、ぞくりと背筋を震わせた。直感が正しければ、この魔物から逃げる術はない。この「襲ったりはしない」という言葉が本当であれ、嘘であれ、信じる他なかった。下手に反抗して気分を害し、折角の気まぐれをふいにする訳にはいかないと判断し、少年は落ち着いて口を開く。
「じゃ、じゃあ……あなたは何をしている、んですか?」
「アタシ? アタシは坊やが迷い込んだこの場所でどんな目に遭うのか、とりあえず眺めていたいかなぁ」
恐ろしいと聞いていた魔物が、ここまで見た目が人間に近く、会話が出来る事実に気を許してしまいそうになる少年。しかし人外の持つ種々の気配は確かに伝わってくる。その捕食者側の視線、そしてあまりに美しすぎる妖艶な美貌……。それらを改めて感じ、ふと「この森から出られる道を教えて」と尋ねてしまいそうになる気持ちをグッとこらえた。
「……頑張って帰り道を探してごらん、上手くいけば帰れるかもね」
終始浮かべていた笑みが一層深くなる。魔物は心の底から帰り道が見つかるかもしれない、とは思っていない事が少年にも伝わった。深い衝撃と絶望を覚えるも、それを相手に気取られたくないという意地で、少年は先へ進んだ。
――――相手が魔物とはいえ、人に近い存在と会話が出来た事で勇気が湧いたのか、魔物との会話の最後で意地を張り、怯えた様子を見せず歩みを再開した少年。しかし土地勘もなく、ましてやサバイバルの知識もない少年はどう歩けば森を抜けられるか、てんで見当がつかなかった。
例の魔物の姿は見えなくなったが、未だに視線を感じる。きっとどこかで自分を見ているに違いない……そう直感しつつ、目の前を突き進む。
すると、突然辺りに甘い芳香が漂い始める。同時に、視界も桃色に染められたように色づき始めた。
それは錯覚ではない。どうやら煙のようなものが漂っているらしく、香りも、色づくこの視界も、煙によるものらしい。決して嫌な香りではない――むしろその正反対ですらあった――ものの、咄嗟に口元を手で押さえつつ、茂みをかき分けると……その原因が見つかった。
見た事もない、まるで絵本の世界から飛び出したような大きな赤い傘の茸に腰掛ける女性。しかし、この人物もまた、先程の人物と同族だった。青白い肌をしており、下半身は巨大な芋虫になっている。等間隔で対に並んでいる、芋虫特有の脚が時折動いており、少年は思わずたじろいだ。
だが一方で、上半身は人間のそれと大差ない。優雅な装飾の上等な衣服、アクセサリーやカフリンクスを身に着けており、それは少年とは住む世界が違う人種の着るものであった。……そして何より、美しい顔と、豊満な胸が少年の視線を思わずくぎ付けにした。
「あら……新しく迷い込んだ子ね。無遠慮に全身を眺めるなんて、魔物を見た事がないの?」
「あ、ええと……」
先程見た魔物よりも、より魔物らしい姿であるに関わらず、会話が出来る事実に恐怖の半分が押し流されてしまう。
そして何より、またもやその美貌に見とれてしまっていたのは、もはや隠しようのない事実であった。その魔物が、胡乱げな表情で少年に興味を示す。
「怖がらなくていいのよ……さぁ、こちらにおいで。お姉さんと少し“お話”しましょ?」
瞳が更にとろんとしたように見える。次いで、傍に置いてあった、少年には見覚えもない奇妙な器具から伸びる筒を口に含み、煙を吐いた。
少年は慎重に全てを警戒しているのに対し、その魔物はにべもなく、巨大な下半身で腰掛けてもなお余裕のある茸の傘へ、誘導するようにぽんぽんと茸を叩いた。
母性すら感じるその仕草と声音、何よりもその美しさに気を許しそうになり、心が揺らぐ少年。
しかし、なんとかかぶりを振って気を取り直す。自然と外していた口元の手を、口元にあてがいなおしたのだった。この煙を吸っていると、段々と理性が朧げになっていく事に気づく。この事に気づけたのは、神の啓示かもしれないという程の幸運だった。その様子を見て、魔物は少し不服げに口を尖らせる。
「もう……警戒しなくてもいいのに。別に取って食べたりはしないわ……別の意味では食べるかもしれないけれど……♡」
意味深げに笑い、芋虫型の下半身を器用に用いて、茸の傘から身を起こし始める。少年は、咄嗟に走り出していた。
反射的に動き出したのが功を奏したのか、背後から魔物の声は聞こえるものの、どうやら追いつかれずに済んだようだった。胸を上下させ、声の聞こえない所まで移動したものの、今更になって恐怖感が少年を襲う。
あの魔物がどれだけ好意的に見えようと、少年ははっきりと、それでいて本能的に危険を――どのような類の危険であるかは別として――感じていた。
猫の魔物といい、芋虫の魔物といい、いくら森とは言え、自分の住んでいた町の近くの森がこれ程まで危険であるとは到底思えなかった。
もしかすると……異世界にでも迷い込んでしまったのではないか。
魔物と遭遇し、そしてそのような発想が、少年の勇気を根こそぎ奪っていこうとする。少年をパニックに陥れる最後の決め手は、辺りに響く男性の“叫び声”だった。
「こ、殺さないで――――」
そう聞こえてきたと思った矢先、騒々しい羽音のようなものが次いで聞こえ、男性の声はかき消される。
恐怖に少年が固まっていると、男性のうめき声と共に、女性の艶めかしい声……そして湿り気を帯びた粘着質な音が響いてきた。
理解出来ない状況と、死への恐怖が混ざり合い、混乱はピーク寸前に達しようとしていた。
そんな折、唐突に近くの茂みから葉の擦れ合う音が発せられたのを合図にし、少年は呼吸が整い切るのを待たず駆け出す。
茂みの音がなんだったのかを確認もせず、自分が今追われているのかすらも分からない。しかし、それでも追いかけられているような気がしてならなかった。
この一連の出来事全てが悪夢であり、悪夢ならば今すぐに目覚めて欲しいとこれ程願った事は今までの人生でないだろう。少年はひたすら前へ前へと駆けていく。
神がそんな少年に憐みを抱いてくれたのか、少年の視界に小屋が見えてくる。丸太を用いて作られた、いわゆるログハウスだった。
少年が町に住んでいた狩人が使っていた、道具小屋と見た目が似ている。もしかすると、助けになってくれる人が見つかるやもしれない……そんな淡い希望が浮かぶ。
冷静な状態であれば、あと一歩の所で踏みとどまれたかもしれないが、今の少年には一縷の望みにしか見えず、吟味する余裕はこれっぽっちもありはしなかった。
急いで小屋へ駆け寄り、扉を少々手荒に叩く。どれくらい走ったのか分からない。汗を浮かべ、息を切らしながら少年は誰かが出てくる事を祈った。ここが自分の記憶の中にあるような、森に精通した狩人や木こりの小屋であり、少年を帰り道に誘ってくれるものだと信じて……。
ガチャリと扉が開く。中から、またしても女性が現れた。少年は一瞬身構えるも、女性に一見して異常な様子や気配は見受けられなかった。
とても綺麗な身なりの女性だった。町で行われた謝肉祭で少年が見かけた、領主らが着ていた衣服とそん色ない、もしくはそれ以上に上等な衣服かもしれないと少年は思った。
170センチ程の身長で、その体の大半を占めるのではないかと言わんばかりの長い脚は、スラックスで覆われている。靴は――奇妙な茸のような装飾がついた――深緑色のエナメル、脚にかかる程の長い裾が二股に分かれたジャケットの胸元では、フリルがついた白シャツと蝶ネクタイが存在感を主張している。
いずれにせよ、ただの一般市民である少年にはお目にかかれない衣服である事に違いはない。紛れもない上流階級の衣服であった。
そして、そんな上等な衣服を完璧に着こなすのは、怜悧さをたたえる切れ長の目をした、一束分の髪だけ長く伸ばしたショートカットの美女。
その高貴な印象の女性は、少年のただならぬ様子を見て、少しだけ驚いたように見えた。
少年は最後の最後で、警戒心を取り戻す。先程まで出会った魔物が、どれも見目麗しい女性であり、この女性ももしや、と思ったのだ。
しかし、女性は扉をもう一歩分大きく開き、事情も聞かずに、中へ少年を招き入れた。
「……尋常じゃない様子だね。さ、中へお入り」
少年からすれば、気配も様子にも、異常さが感じられなかった。それどころか、今の一言には“心配”すら感じられた。
恐怖や不安で摩耗した少年の精神は、差し出された目の前の安堵に身をゆだねる事を決意した。少年は頷き、足を踏み入れる。女性は外を少し見渡した後、扉を閉めて鍵をかけた。家の中は紅茶の香しい香りでいっぱいだった。
「あ、あの……ありがとうございます。何も事情を話したりしていないのに」
少年は呼吸を整えながら、おずおずと感謝の言葉を口にした。一方で女性は、手近にあった机から椅子を引いて座るように促す。そのまま、慣れた仕草でティーポットの方へと向かった。
「君のような少年が息を切らして、この森の中を走ってきた。それだけで大体の事情は察するに余りあるよ、気にしないでくれ」
女性の発音やアクセントの一つ一つが美しく、耳に心地よかった。そんな言葉を淀みなく発しつつ、女性は紅茶を2人分用意した。
女性は少年から見て向かい側の席に座り、手に取って紅茶を一口飲む。辺りに、またもや紅茶の香りが漂う。しかし、その香りには、芋虫の魔物の時のような、異常な香りは微塵も感じられない。これは、むしろ少年が慣れ親しんだ町の香りの一つに含まれるものだ。少年の心は安堵し始める。
「……あの、何でお姉さんみたいな方が、こんな森に住んでいるんですか?」
「私はエリノルと言う」
少年はハッとした。思わず最後に感じていた疑問を口にしたものの、家に上がらせてもらったくせに、名を名乗りもせず質問をするなど。
相手から漂う理知的で、高貴な印象から自然と委縮する少年。そして粗相をしてしまったという焦燥感が合わさり、小さな葉を吹き飛ばす一陣の風のように、少年の感じていた疑心を吹き飛ばした。
「あ、カール……と言います。すみません……」
エリノルと名乗った女性はふふ、と笑い、カップを置いた。美しい所作で、音も一切立てなかった。
「カール君、か。私がどうしてここに居るか、という質問の答えは後にしよう。なぜあんな風に息を切らしてここまで来たのかを、尋ねてもいいかな?」
カールはもっともな考えだと思った。自分が逆の立場なら、きっと同じように思うだろう。
むしろ、見ず知らずの相手を、いくら少年だからと言って何も聞かず、家に入れてくれた事だけでも感謝すべきだった。普通ならば突然の事に警戒して中に入れやしないだろう。自分のような年齢の少年を使い、巧妙に仕事をこなす盗賊など枚挙にいとまがないのだから。
彼女は一体どんな人物なのかを探る為、家の中を見回す。これといった特徴のない家屋で、生活に必要な家具は一式揃っている。彼女は狩人でも、木こりでもないようだったが、身なりから察するにどこかの貴族で、きっとここは別荘か何かなのだろう、とカールは自分を納得させる事にした。
「実は……この森で迷子になってしまったのです。帰り道を探そうとさまよっていたら、魔物に何度か見つかったりして……」
カールは思い出し、冷静になった今、改めて危険な事態に直面していたのだと痛感する。命が残っているのが奇跡だ。
「誰か、助けてくれる人はいないかと思って、逃げ出している時にこの小屋を見つけました」
「そうか。魔物達と出会ってよく無事に逃げられたね……まぁ、彼女らなりの気まぐれなのだろうが。しかし、森には何の用で?」
言いながら、エリノルは紅茶を飲むように促した。もう一度感謝し、カールはそれを口に含む。とても甘味のある、芳醇な紅茶だ。鼻腔に突き抜けるようにして、独特で甘い香りがカールの体内を満たす。
「はい。お恥ずかしい話ですが……成人を前にした年齢になって、友達の間で“誰が一番勇気のある男か”という話になったんです。それで、危険だから近づかないようにと言われていたこの森に行けば、勇気があるって証明出来るんじゃないかと思って……」
冷静に事情を説明しながら、なんと浅はかな事をしたのか、と自分を見つめなおす羽目になるカール。この軽挙妄動さにエリノルからも呆れ果てられないか、恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
しかし、エリノルは呆れるどころか、茶化しすらしなかった。
「なるほど。君くらいの年齢になれば、大いに関心を持ちそうな話題だ。合点がいったよ」
カールは自然と伏し目がちになったものの、意外な返答に顔を見上げた。
「しかし、先人の意見にはよく耳を傾ける事だ。皆が危険で立ち寄らない場所というからには、それ相応の理由があるのだよ」
エリノルは淡々と告げる。その言葉に、言い訳のしようもない。幼いながら、正論を静かに突きつけられるのは相当こたえたようだった。
「はい。おっしゃる通りです……もう二度としません」
「君、顔を上げたまえ。次に反省を活かせれば良い。そして、帰り道ならば私が案内出来る」
エリノルの言葉に、カールは喜んだ。まさに願ったりかなったり、神に感謝を捧げずにはいられなかった。
「本当ですか? なんと感謝すればいいか……」
涙ぐみ始めたカールに、エリノルはしっかりと頷く。一方で、エリノルに対してカールは心配を始めた。
「エリノルさん、ここは魔物が多く住み着いています。この家も見つかれば、エリノルさんがどうなってしまうか……。僕と一緒に逃げましょう!」
これ程優しくしてもらった相手が、魔物に見つかって殺されてしまうなんて、カールが想像しうる中で最悪の事態の一つだった。
助けてもらう側ではあったが、安堵したお陰か、はたまた男としての矜持か……目の前の女性を助けたいという純粋な気持ちが発露した。
そしてその稚拙ながらも真っすぐな気持ちは、エリノルのような理知的で賢い女性にも響いたように見えた。エリノルは目を細め、微笑む。
「幼くても、男の子だね。こんな状況でも私を気にかけてくれるとは、その逞しさと優しさに胸を打たれてしまったよ、ありがとう。……おっと、そう言えば何で私がここに居るか、という質問に答えていなかったね」
カールからすれば、半ば忘れかけていた質問。既にさほど聞きたいとも思っていない答えだった。……が、しかし。次の答えで、カールは愕然とする事になる。
「私はマッドハッターという魔物なのだよ。どうも気づいてはいなかったようで、無闇に恐怖感を与えない為にすぐは言いださなかった」
その言葉で、カールは冷や水をかけられたように目を見開いた。まさかこんな状況で冗談を言うはずもない。あと一歩で助かる、と思って喜んだ矢先、まさに青天の霹靂であった。
こんなに優しく賢そうな女性が魔物? そもそも一切の異常さに気づけなかったのは、なぜなのか? 次々と疑問が湧いては消えを繰り返す。
「そんなエリノルさん……お姉さんが魔物? 嘘、ですよね?」
「本当さ。マッドハッターはマタンゴの一種で、元をただせばここ、不思議の国で起こったとある可笑しな出来事によって生まれた……と、今は不要な情報だったね」
エリノルは紅茶を飲み終え、立ち上がる。机上に人差し指を置いてスーッと引きずりながら、机の周囲に沿って移動し始めた。カールをその美しい切れ長の目で見つめる事を忘れず、カールに接近する。
「た、助けて……お願いします。殺さないで」
カールは、逃げられない事をまたもやその直感で認識した。相手は優雅な仕草で、ともすれば緩慢な動きだが、本気を出せばすぐに自分を捕らえられる。
言葉には出来ないものの、余裕というヴェールに隠された、底知れない何かを子供ながらに感じ取っていたのだった。
相手の気分を害さないように、震えるカールは傍にやって来たエリノルに嘆願した。一方でエリノルは意外そうに口を開く。
「おや、なぜそんなに怯えるのかい? 私が魔物だから?」
「……」
カールは無言で頷く。
「私は君に危害は加えない、約束しよう。帰り道だって教える。無事に帰れるよう、エスコートしてあげても良い」
「でも、魔物は人を喰ったり、誘惑して誘い込んで、殺したりするって……」
「そんな噂は出鱈目さ。魔物からそう言われても信じられないかもしれないが……君達人間同士の方が、よっぽど危険なのは事実だよ」
エリノルは一息つき、まるで演劇か何かかと言わんばかりに、言葉に熱を入れながら語る。
「しかし相手が魔物なら、命の危険なんて全く考えないで良い。私達は君達を殺さない理由もちゃんとある。システマティックな理由がね。……いや、どんなに言葉を飾り付けたり、遠回しに説明しようと、次の一言で全て片付けられてしまう……」
そしてカールの左肩に右手を置きつつ、カールの左手側の席に腰掛けた。エリノルはカールの顔を、視線でまっすぐ射抜くように捉えながら大真面目に話す。
「……愛だよ。歯が浮くようなセリフだと思うかい? しかしそれが全てさ。どれだけ私がこの感情と行いに理由をつけようとも、一言で済んでしまう。愛しい人、存在である人間は決して殺さない。分かるかな?」
カールは言葉を返せない。あまりに突拍子もない発言である、という事は別にして、段々と彼女……エリノルの言葉に疑問を抱く事が出来なくなってきたのであった。それはマッドハッターである彼女の力の一つである事は、カールに知る由もなかった。
「あの……わ、分かります」
満足げに微笑み、エリノルは続ける。
「物分かりの良い子だね。ともかく、君がここまで誰にも捕まらずここに来れた事は、僥倖だ。私は今君にとても興味が湧いている」
カールの体つきを見て、エリノルは情熱的な熱を視線に込めて、わずかながら唇を舐めた。
「具体的に言えば、セックスがしたいんだ」
カールは、エリノルから自然極まりない流れで発せられた言葉に一瞬耳を疑ったが、その“耳を疑った理由”が、すぐに理解出来なくなり始めていた。
「カール君、君はセックス……つまり性交は既に経験しているのかい?」
「えっと……あ、ありません。パパとママがしていたのを偶然見たくらいで……」
「そうかそうか。ならば、忘れられない体験にしてあげよう……かくいう私も、会話の途中から君のおちんちん……つまりペニスの事で頭が一杯になっていてね。そろそろ始めようか」
意識が明白でありながら、疑問をぼんやりとしか認識出来ず、今された質問と自分が発した答えに対し驚いている自分が、理解出来ない。
まさしく今まで体験した事のない感覚に翻弄されながら、エリノルからの言葉と行動を待ちわびている自分の存在を確認するのでカールは精一杯だった。
エリノルは遠慮もせず、カールの服の下から手を差し入れた。シルクのような肌触りの極めていい手袋をはめた手が、カールの胸や腹部を艶めかしく愛撫する。時折、乳首などに手袋が擦れた。それだけで意図せず、カールが上ずった声を上げる。
「失礼するよ」
エリノルはカールの服を脱がせ、おもむろに乳首へと顔を寄せ、舌で舐め上げた。愛撫した時に反応が良かった所を熟知していた。
「所で、君はどこの町から来たんだい?」
乳首に舌を這わせつつ、にべもなく質問をするエリノル。薄く、それでいて血色のいい唇から割って現れる細長い舌がコリコリと乳首を責めつつ、同時に雑談が飛び出す。その異常さに気づく理性はもはやこの場に居る誰もが持ち合わせていなかった。
「あっ あっ あの……ドーレンという町から来ました……」
マッドハッターであるエリノルの細長い舌はとても粘り気があり、唾液が豊富だった。スムーズに乳首をねぶり回されたかと思えば舐められていないもう片方の乳首を、カールが寂しく感じ始めた途端にそれを察したようにねぶっていく。時折吸われたり、甘噛みされたり、とめどない刺激の豊富さに、カールは頭が快楽で一杯になる。
「ドーレンから迷い込んできたのか。なるほど……ご両親は心配しているだろうね。悪いけど、“私達の”用がもう少し済むまで待っていてもらおう」
ただ椅子に座りながら乳首を責められているだけで、カールは身のすべてをエリノルに委ねるしか出来なくなっていた。エリノル自身も嬌声を上げるカールにご満悦なのか、微笑み続けている。しかし、カール自身の股間が膨らんでいる事もまた、エリノルは見逃さなかった。
「おっと、おちんちんが辛そうだね。私もこんなのを見てしまっては自制心が揺らぎそうになる……が、君の初体験だからしっかりとフルコースを堪能して欲しいんだ」
エリノルは至極辛そうにしつつも、カールに同意を求める。一方のカールは、もはやエリノルから早く次の快楽を与えて欲しいという欲望で支配されており、言う事に従い、何度も頷くばかり。
エリノルの席とカールが座っていた席を連結させ、カールを膝枕するように寝かしつけた。そしてエリノルはシャツから自身の豊満な胸をはだけさせる。ジャケットとシャツに押しつぶされ、隠されていた胸が膝に頭を乗せるカールの眼前に現れた。フォーマルな衣装をしていながら、大胆にはだけた胸が、劣情をそそる。一方で、エリノルは巧みにズボンからカールの陰茎を取り出していた。
焦らされ続けた結果、ようやく待ち望んだ陰茎への刺激……それが、サラサラとした手袋に覆われたエリノルの手によってもたらされ、カールは我慢できず大声を上げた。エリノルはふふ、と笑い声をこぼしながら胸を差し出すように、カールの眼前へとあてがう。
カールはたまらず、本能的にその胸へと手を伸ばし、片方で揉みしだきながら、もう片方で口元へ手繰り寄せ、その乳首に吸い付いた。エリノルの小粒な乳首を、先程自分がされたのをお手本に精一杯ねぶり、味わう。
だがしかし、一方下半身では、エリノルが巧みに片手でカールの陰茎をしごき上げ続けていった。愛撫等によって、既に大量のカウパーが溢れており、手袋を湿らせていく。
まだ皮がむけ切っていない陰茎を、エリノルが愛おしそうな目で見つめる。慈愛に満ちた視線とは裏腹に、手つきは苛烈だった。
「あ、ダメ……! エリノルさん、気持ち良すぎて、もう!」
手袋の感触とエリノルのテクニックがもたらす快感は、並のものではなかった。カールは射精の気配を早くも感じ、身をよじらせながら声を上げる。
「君はしたいようにすればいいんだ。ほら、もう少しこの快感を味わいたいなら、気を紛らわせる為に私の胸でも味わうと良い」
エリノルにそう諭され、カールは無心で胸を揉み、そしてねぶった。子供ならではの、本能に身を任せた乱暴な揉み方と、ねぶり方。しかし、この快楽を味わおうと言われるがまま指示に従った結果のその行為に、頬が上気し、無意識に声を漏らし始める。
「ん……情熱的だね、カール君……そのまま続けて」
一方で、様々な角度をつけ、手で陰茎を楽しませるエリノル。カールの限界は、突然迎えられた。
カールは身を収縮させるようにして、思い切り精を解き放つ。それをしっかりと把握していたエリノルは、亀頭を手で覆い、吐精を受け止めていく。カールは頭が真っ白になりつつ、エリノルの両胸に顔をうずめながら荒い息をつくばかりだった。
しばらくして、射精が終わり、カールはぐったりと膝に頭を委ねた。薄目で、エリノルの顔と、自分の下半身を見やる。
エリノルは射精を受け止めた手を眺めながら、手のひらを広げた。少年にしては……いや、若いからこそか。濃く、大量の精子が見て取れる。
まるで花が咲いたように広がる五指の間に、どろりとした精液が淫猥な粘液の橋を形作る。それを見て、エリノルは躊躇いもなくそれを口に運んだ。
「そんな……き、汚いよ……」
興奮冷めやらないまま、カールはなんとか声を振り絞った。しかしエリノルはまるで茶菓子を口に運ぶように、指にまとわりつく精子を口に運び続ける。
端正な顔立ちで、しかも卑猥な事をしていないとでも言いたげな、普通の表情だからこそ、よりギャップが際立ち、カールの背徳感と劣情が掻き立てられていった。
「何を言っているんだい? 何も汚くはないさ……じゃあ、場所を変えようか」
にこりと笑うエリノルに、カールはゆっくりと頷いた――――
――――じゅぽっ♡ じゅぽっ♡
エリノルの家、その寝室から卑猥な音が響いてくる。カールとエリノルの性交は、場所を変えて第2ラウンドを迎えていた。
ベッドに横たわらせたカールの股間に、エリノルがむしゃぶりつくように、激しい口淫を行っている。カールは、エリノルの頭が上下する度に上ずった声を漏らす。
マッドハッターならではの、水気の多い唾液が舌と共に陰茎に絡みつき、カールに視界がスパークするような快感をもたらしていった。
「カール君は、わらひ(私)が思うひ(に)、農民のほ(子)かな?」
エリノルはカールの服についていた土の跡や、かすかについていた香り等から推察し、そう質問した。だが当然、口淫を行いながら、である。さも当然であるかのように雑談が、行為の最中に繰り広げられていった。
「は、はいっ あの……そこ、気持ちいい……両親は農民で、すッ」
カールは翻弄されながらも、既にエリノルのペースに合わせて質問に答えていく。
「てふだい(手伝い)をよくしているんだろうね。へ(手)の平や、はらだ付き(体付き)が少し良かったからね……」
じゅぽっ♡という卑猥な音が間に入りつつ、エリノルはなるほど、と合点がいきながら激しく陰茎をしゃぶり上げた。ずぞぞぞ、と吸い上げられ、カールは目を白黒させながら腰を浮かせる。エリノルの口内へ深く陰茎が入り込むが、エリノルはそれを受け入れ、むしろカールの小さな尻を両手で抱え込むようにして掴んだ。
ドクンッ ドクンッと何度も脈打ち、二度目となる射精が行われた。予兆もなく、あまりの快楽に耐えかねた精子は全てエリノルの口へと注がれた。一滴もこぼす事なく、飲み干していったエリノルは、丹念に陰茎を綺麗にしていく。
「なんと美味しいザーメンなんだ……ありがとう、カール君。量も勢いも衰えていないよ……♡」
エリノルは、嬉しそうに、少しだけ柔らかくなった陰茎を顔で受け止めながら、陰嚢を優しく口に含み転がす。未知の経験と快楽がカールを蹂躙するもその行為自体に疑問を持つことすらなく、ただただ気持ちよさだけを受け入れていく。
見る見る内に固さを取り戻し、その若さの象徴に微笑んだエリノルが、今度はベッドに横たわった。
「さぁ、勇気ある大人の男になりたいのなら、これがその一助になると私は考えている。君から、私の中に挿入してくれるかな?」
エリノルは無意識に胸を高鳴らせているように見えた。理知的で冷静なエリノルのような女性が、このような感情を露わにする事が珍しいと、知り合って間もないカールでさえ理解出来る。
エリノルは半裸となり、スラックスが手近に放り出されている。シャツとジャケットは大きくはだけており、たわわな胸が差し出されるように露わとなっていた。カールは既に石のように固くなった陰茎を手にし、エリノルの股の間にそれを宛がう。そして、既にしとどに濡れそぼったエリノルの膣へと、一思いに差し入れた。
ぬるりと、誘われるかのようにカールの陰茎が挿入される。ねっとりとした糸状の何かが絡みつくような、形容しがたい膣の中身が、カールを襲う。
初体験で、この人外がもたらす余りの気持ちよさを経験してしまったのは、カールにとってはむしろ不幸ですらあったかもしれない。
「あ、あぁッ」
「んん……♡ しっかり入っているようだ。私のまんこはどうかな? 感想を……と、聞ける状態じゃないようだね」
エリノルがそう尋ねるも、既にカールは本能のまま腰を振り、エリノルの中を味わおうと無我夢中だった。一方でエリノルも、そんなカールを見て胸に暖かい感情が溢れるのを感じていた。
「先程までは私を助けようだなんて、自分が怖い思いをしていたばかりなのに、よく申し出たものだよ。森に入ったのは褒められた事ではないけれど……結果的に私と出会ってくれたのだから、責める気にはなれないね」
カールは腰を小さな手で掴み、精一杯腰を振るが、一度腰を振る度に襲われる快感に翻弄され、女の子のような嬌声を漏らしてしまう。柔らかくもありそれでいてキツくねっとりとした独特の感触……マッドハッターならではの快楽が存分にもたらされた。
平常時のカールであれば、出会って間もない状態で性行為に至り、そしてあまつさえ“好き”と言うだなんてあり得ないと言うはずである。
しかし、今のカールは常識を塗りつぶされており、それは得てして自分が感じる感性で物事を判断する状態になったと言い換えてもよかった。
そうしてカールが自分に素直になった結果、こんな短時間とはいえ、時間を共にしたエリノルへ生まれた好意を、静かに、そして落ち着いて受け入れる事が出来たのだった。まるで、些末な貞操観念に縛られていた過去の自分の方が“狂人”だと思える程、自然に。
「エリノル、さんッ あッ 僕……好きです、エリノルさんの事が、好きですッ♡」
「嬉しい事を言ってくれるね。ありがとう、少年。私も……言わずもがな、好きだよ……♡」
エリノルは手をカールの後頭部へ宛がい、目を細めて微笑む。今までの中で、一番暖かい笑みだった。
挿入の最中、一時も外さないエリノルからの視線を受けながら、カールは絶頂を予感していく。もっと味わいたい、エリノルへ芽生えたこの“好き”という感情を味わいたいと心の底で感じつつも、絶頂を遠ざける事は出来なかった。
「ごめんなさいッ 僕、気持ち良すぎて頭がおかしくなりそう……ッ」
エリノルはその言葉を聞き、他愛なさげにくすりと笑った。
「頭がおかしくなりそう? それは良かった……私も狂人だから、パートナーが見つかって……本当に良かった」
カールはぐっとエリノルの腰を引き寄せつつ、奥深くへと陰茎を挿入した。ドクドクと注がれる精液を感じ、エリノルは至福の笑みを浮かべた。
カールは何度目になるか覚えていない射精だというのに、減らない精液の量に驚きつつも、全てをエリノルの中へと注ぎこみたい欲望を全て叶えていく。ひとしきり注ぎ終わり、カールは疲労感を覚え、エリノルの胸元に身を投げる。エリノルは小さな背中に手を回し、頭を撫でながらその豊満な胸にカールの頭を埋もれさせた。
「忘れられない初体験になったかい?」
エリノルが冷静に、微笑みながら問いかける。カールはエリノルの胸の上でぐったりとしながら、ただただ頷いた――――
――――行為を終え、カールが起きるまで待ち、ベッドから共に抜けた後、エリノルは平然とした仕草で紅茶を2人分淹れた。
まだ夢見心地のような状態で、カールはぼんやりと席に座り、エリノルを待つ。今日一日だけで、どれ程濃縮された経験をその身と頭に体験した事か。程なくしてエリノルが紅茶と共にやって来た。
「お疲れ様、カール君」
「ありがとうございます」
カールは差し出された紅茶を口にする。先程飲んだ時よりも、心なしかより甘く感じられた。
「さて、“お茶会”が長引いてしまったね。落ち着き、準備が整ったら教えて欲しい。私が帰り道までエスコートしてあげよう」
カールは驚いた。程度の差はあれど、少なからずエリノルが自身に好意を抱いてくれていると思っていたからだ。心が通じ合ったような気でいたのは、自身の錯覚だったのか? 得も言われぬ感情が湧き起こる。しかし、かすかに残っていたのだろうか、わずかな理性がそれが表に出る事を食い止めた。
「そ、そんな。エスコートだなんて……」
「遠慮は無用。この森には沢山の魔物らが居るからね……。君は魅力的だ、この家に辿り着くまで誰にも触れられないで来られた奇跡は、二度も起こらないだろう」
「他の魔物もエリノルさんみたいに、えっちを好むんですか?」
「あぁ。だから私が送ってあげようと言うのだよ」
カールは自身でも浅はかだと思うような、とある矮小な感情を押し殺す為の言葉を聞き取りたいが為、遠回しに尋ねる。
「他の魔物に触れられると……嫌、なんですか?」
エリノルはティーカップを置く。少しだけ音を鳴らしてしまっていた。
「……」
相変わらずクールで、少し微笑んだ表情のまま数秒だけ固まるエリノル。
「うん。君と別の魔物だけがまぐわっているのを、ただ見るだけというのは愉快ではないかな。しかし皆情熱的だからね、君の魅力やおちんちんに惹かれるのは至極当然の事。どうしてもというのなら、私をせめて交えて……」
固まった後、堰を切ったような矢継ぎ早の発言に、カールは意地悪な発言を少しだけ後悔した。もしや、先程の行為は、ただ性欲を満たす為だけの行為だったのではないか……そんな不安をかき消す為に、こんな問いをしてしまうとは。
「エリノルさん、僕は帰りたくないです。お姉さんと一緒に居たい」
エリノルの説明を遮るようにカールはそう言った。エリノルは少しだけ目を見開き、そして微笑む。
「ありがとう。この上ない幸せな言葉だよ……しかし、君にも家族が居るだろう。君の感情を無碍にするつもりはないが、ご両親らを安心させたまえ」
「だ、だけど……」
カールが続きを話そうとするも、今度はエリノルがそれを遮った。
「君は気づいていないだろうけど、私の……マッドハッターの胞子を吸っている。だから、理性や常識の境目が曖昧模糊となっているんだ。私が思うに、君は一度外の空気を吸って頭を冷やした方がいい……文字通りね」
エリノルの言葉に、カールは納得がいかない。しかし、それ以降どれだけ抗議しようとも、エリノルは冷静に意見を変えはしなかった。カールは、胞子によって狂気に陥っている、と。
しかし、今のカールにとって確実に分かる事があった。狂気と理性の正確な境目を確かめる術なんて、誰も持ち合わせていやしないのだ。
……押し問答も虚しく、そのままエリノルはカールの手を引き森の外へと連れ出した。
いつの間にか、周囲の木々は小さくなり、空は桃色ではなくなっていた。清涼な風が吹き抜け、ぼんやりとしていた頭が少しだけはっきりとしたような気がする。辺りを見渡すと、いつの間にかエリノルは背後に居た。
「また会いたいと思ったなら、もう一度勇気を出して森に来ると良い」
そう言って、彼女は森の奥へと消えていく。カールはそれでも追いかけたものの、もはや姿を認める事は出来なかった。
エリノルに会いたい。一緒に過ごしたいと胸を痛ませつつも、どうする事も出来なかった。カールは一度家に戻り、両親を安心させる事にした。
家に戻る事が出来、両親を安心させる事が出来たのは素晴らしい事だったし、紛れもなくカールにとって嬉しい事であった。
しかし、エリノルの元を離れたとしても尚……エリノルの事が脳裏から離れない。マッドハッターの特性の件……そして、それ以外の件においても、森へ戻る事が危険だと十分分かっている。冷静な、今なら。分かっているからこそ、自分は今、おかしくなっていないと証明出来た。
しかし、冷静になっている“はず”の今でさえ、エリノルへ募る思いが残っている、という事は……。
――――後日……カールは、また奇妙な森へ足を踏み入れていた。特別な方法を試した訳ではない。
ただ、エリノルに会いたいと思い、森を訪れただけであった。いつの間にか、辺りは様変わりし、例の異様な森になっていたのだ。
そして、見覚えのあるログハウスに辿り着く。扉を叩き、中から遅れてエリノルが現れた。
狂気と理性が紙一重に同居していると、今ようやく分かる穏やかな笑みを彼女は浮かべた。
「……また訪ねてくる程狂っていると、信じていたよ。さて、君が帰るまでの間、お茶会を存分に楽しもう」
21/07/24 20:00更新 / 小藪検査官