連載小説
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剣と竜と教団と 下



 目的地に赴く道中、リエルの尽きない興味のおかげで、様々なお店や物に道草をして楽しんだが、坂道を登ってからしばらくして、先ほど話をした場所へ遂にやってきた。

 この都市、ヘルメスの一部はちょっとした台地に跨って建てられている。  元々、台地を隔てた町同士の交易をたやすくしようと道を整えていた名残だ。おかげで、ヘルメスの一部では同じ街の一部を見下ろす事が出来るようになっている。

 石のブロックが渦巻き状に地面へ配され綺麗な模様を成している、台地の斜面からせり出した様に作られている広場。私とリエルが立っている所の反対側は、柵が設けられていた。その先に広がるのは、同じ都市の一部……整然と並んでいる様々な建物が眼下に広がる光景だった。
 民家の煙突からは煙が立ち昇っているし、大通りではここからでも分かるほど、なお人通りが絶えていない。まさに、人々の繁栄を謳歌している風景がそこにはあった。
 そして何よりも、街を囲む城壁の向こうに広がる平原、更にその向こうには、雄大な地平線に沈みかけている橙色の夕日が、この広場から見渡せるヘルメスを含めた風景を、一層際立たせていた。

「わぁ……。……これは、とても綺麗な景色だな」

 せり出し、崖の様になっているぎりぎりの所、広場に設けられた柵の場所までゆっくりと近づいたリエルは、風景から視線を離さずに感想を呟く。
 私は、そんな彼女も含め、この風景を眺めた。古城のバルコニーの時では、太陽が地平線に落ちて行くいくらか手前だったので、淡い橙色の光だったが、今は違う。あと少しで地平線に没してしまう太陽なので、夕陽が放つ光が、街に濃い橙色の陰影を作り出す。
 遠くから聞こえる街の喧騒も、自然と遠ざかってしまったかのように感じられ、いつしか二人の間で聞こえる音と言えば、よどみなく吹き渡る風の音くらいになっていた。

 改めてリエルの横顔を見やる。古城の時と変わらず彼女は美しかったが、今では心なしか、その顔から悲しげな感情は伺えなかった。

「なぁ、リーンハルト」

 リエルが、こちらを見ずに言葉を発する。

「……はい?」

「あの古城のバルコニーからも、昔ではこんな風に、活気溢れた町並みが見られたのだろうか」

「きっと、見られたのでしょうね。今ではすっかり、寂れてしまいましたが」

「……良い景色だ、本当に。やはり私は古城からの風景より、こっちの方が活気に溢れていて好きかもしれないな」


 リエルが、ため息を一つついた。またどこか、悲しげな色が顔に浮かんだ彼女を見て、心配になってしまったが、それよりも先に、私は彼女の何気ないその所作一つにさえ、見とれてしまっていた。

「古城に長い間住み、あの子供たち三人に出会い、そしてお前と出会い、私は考えたのだ。例えば、誰かと……そう、とある人間と、私が交友を深めたとしよう。だが、人間の命は儚い。私達魔物とは、肉体的に……決定的に、寿命が違う」

 また一度、風が軽やかに吹きぬけ、私の髪と、彼女の長髪が揺れる。そのまま彼女は続ける。

「……今私が眺めているこの街の光景……交友を深めた、その人間と眺めていた美しい光景も、いずれ、あの古城から眺める光景に変わってしまっているのではないか、と」

 彼女、リエルが語る話を聞き、私はえも言われぬ気持ちを覚えた。最後に「例え話、だがな」と付け加え、こちらを一瞥して微笑んだリエルに対し、私は何か声をかけてやる事も、ましてや口を開く事さえ出来ずにいた。
 敵対者や、魔物から民を守る為に磨いた剣術はあれど、目の前に居るリエル一人に対し、何と言ってやれればせめてもの心の救いになってやれるのかすら思いつかない事が、とても歯がゆく、辛かった。

 しかし、真綿で首を絞められているような思いに駆られている最中、私はとある事を閃く。


「リエル、ちょっとここで待っていてください」

 そう言い、彼女が呆気にとられ何か返事をする前に私はその場を後にしていた。


 しばらくして、私が広場に戻ってくる姿を認めたリエルは、腰を下ろしていたベンチから立ち上がり、やや不満そうな面持ちでこちらに駆け寄ってきた。

「いきなりどこへ行っていたんだ。それに、遅かったから一人置いていかれたんじゃないかと考えたりしたんだぞ……」

 心底不安そうな表情に変わったのを見て、唐突にリエルを一人にした事を悔やんだ。しかし、居ても立っても居られなかったことなので、どうか許して欲しいと思いながら、私は手にした小さな包みを、彼女に渡した。

「本当にすみません。女性を一人にしてしまうなんて、礼儀がなっていませんでした。……これを買いに行っていたんです。予想以上に人が混んでいて、遅くなってしまったのは不本意でしたが……」

 手渡した包みを手に取り、不満を飲み込んだリエルはとりあえず、私が勧めるままに包みを開けた。
 その中に入っていたのは、私がつい先程買ってきた、静かに光を放つ、赤い魔法石が中央に埋め込まれた金色のペンダントだった。

「先程言っていましたよね、人間とは寿命が違う。交友を深めた人間と眺めていた美しい光景が、いつの間にかあの古城から眺める光景になっているのではないか、と」

小走りで駆けてきた為、やや息が切れている。ここで私は少し息を整えた。

「その通りになったとしても……例えば、私が貴女と交友を深めたとしましょう。そして、貴女は私と過ごしてきた思い出を、全部忘れてしまうんでしょうか? 私が今貴女に、リエルに買ってあげたペンダントを見て思い出した出来事も、全部なかった事に、意味の無かった事になるんでしょうか?」


 私が以前、巡回中に見かけた、ネックレスやブレスレットなど、女性が好みそうなアクセサリーを取り扱うお店をふと思い出した。
 温厚で優しい心を持つリエルだが、その心中に渦巻く不安を自分に吐露してくれた事は、とても嬉しい。だが、私の稚拙な言葉では、彼女になんと言えばいいのか思いつかない。が、何か力になってあげたい。
 そこで、私が上手く言葉に出来ない代わりに、このネックレスを買ってあげれば、儚い人間の寿命で悩んでいる、孤独を感じている彼女に、何か思いの一端を伝えられるのでは、と考えたのだった。


「……ふふ。リーンハルトは、優しいんだな」


 リエルは、目を細め、小さく笑う。彼女のためを思っての行動だったが、逆に何か不愉快な思いをさせてしまったら……という事を考えると、私は居ても立っても居られなかったが、どうやらそんな最悪の事態は避けられたようだった。

「いえ……私の方こそ、上手く舌が回らないもので……元気を出して頂ければ幸いなのですが」


「リーンハルト。お前は、野蛮な人間の中でも特別な人間のようだ。お前と会うたびに、私の心の中では上手く言葉に出来ない気持ちで一杯になる。一体なんなのかは分からないが……とにかく、お前は“特別な”奴だ」


 リエルが、私の目を真っ直ぐ見ながら、彼女の思いの丈を述べていく。街が一望できる景色を背景にしながら、そして橙色の夕陽を背中に浴びながら。
 彼女の性格にしてはとても稀有な、言葉を飾らない、素直な好意の表現につい言葉が詰まる。

「……それは、恐縮ですね」

 やっと出てきた言葉は、彼女のものに比べてなんとも味気なく、素っ気無いものだった。思わず照れくさくて頬をかいてしまう。
 しかし、私の心中では今言った言葉以上に、リエルに対する思いが募っていた。ここまでやって来て、私は遂に今まで心に巣食っていた、霧のように広がる、“疑問”として片付けていた感情を明確に理解する。
 ……いや、正確には、見てみぬ振りをしていただけだった。

 意を決して、私は彼女の両手を手に取った。突拍子もなく行ったその行動に、少し肩をすくめたリエルだったが、それも一瞬だけですぐに肩から力を抜き、私の言葉に耳を傾けてくれた。

「リエルが言ってくれた今の言葉の数々、とても嬉しかったです。こんなにも嬉しかった事なんて、今までの人生を振り返ってみてもありません。……なので、私からも言わせてもらいます」

 リエルはあえて何も言わず、ただ私の顔を見据えながら、何かを期待しつつ待っているように見える。


「私は、貴女の事を……」

 心臓が早鐘を打つ。次の言葉を言ってしまえば、全てが終わる。握った手を通し、私の鼓動が相手に伝わっているのではないかと思うほどだ。


 ……その時、私の脳裏に、テミスの教団騎士の事、司祭様や、アルノルトの事がチラリとかすめていった。





「……私は、貴女の事を、一番の“友達”だと思っています」




 私の言葉を聞いた彼女は、一瞬悲しげな表情を浮かべた。だが、それは気のせいだったとも思える一瞬で、いつも通りの彼女に戻り、むしろ逆に、嬉しそうに笑っていた。

「そうか……一番の友達か。いや、良かったよ。普通、私が人間と関わる事なんて全くないのだからな……。そこまで気を許してくれているなんて、それが確認できて良かった」


 そう言って微笑むリエルを見て、私は、まるでその身を雷にうたれた様な気持ちに陥った。私は、一体何をしているのだ……と。
 直前、脳裏を掠めた教団騎士の面々。それが、私の心を寸前に鎖で繋ぎとめたのだ。違う、本当は違うのに。

 しかし、激しい感情に苛まれている心の片隅で、どこか諦観している自分が居るのも事実だった。
 既に、後の祭り。いや、そもそも後の祭りどころか、最初からリエルと仲良く居られる事は、不可能なのだ、と。


 ここで彼女に、自分の気持ちを打ち明けた所で、何が変わるのか。いやむしろ、後々やってくる問題を、更に深刻化させるだけではないか。


 私は、完全に意気消沈し、自分を押し殺した。


「……この景色も、気に入っていただけて何よりでした。……すみません、私は教団騎士の仕事で、今からこの街を警備も兼ねて巡回しないといけないんです。……また今度……古城へ遊びに行きますね」


 駄目だ、違う。心の中では分かっているのに、もはやこの流れを止める事は出来なかった。彼女は、その言葉を聞いて、表情に陰りを見せるものの、なんら反論も不満も言わず、笑顔で「そうなのか……分かった。今日は楽しかったよ」とだけ告げ、広場を後にする。


 何も言わず、私は広場の真ん中で立っていた。

 そして、少し離れた位置で、リエルはこちらを振り返る。


「ありがとう」

 笑顔で言って、リエルは今度こそ雑踏に紛れ見えなくなってしまった……。






 ……私はリエルと別れた後、ヘルメスを巡回していた。いつもなら、魔物が紛れていないか、誰かが盗みなどを働いていないかに目を光らせながら秩序を守る為、警戒しないと駄目なのだが、今の自分にそれは到底出来そうになかった。

 彼女を元気付けようとしていたのに、なぜ正反対の事をしてしまったのか。自分の教団騎士という立場を、心底憎く思ったのは、初めてだった。


 そんな負の感情を体一杯に溜め込みながら、自分自身の毒に侵され続け歩いていると、ヘルメスの中でも特に大きな、何かの催し物をする時などによく使われる大広場でふと足を止めた。
 しかし、いつもと様子が違う。今日何かのイベントを開催するという話も聞いていなかったし、何より雰囲気がおかしい。集った大勢の人々も、不安と期待を半々に混ぜたような、奇妙な様子で落ち着きがなかった。

 何か胸騒ぎのようなものを感じたので、混雑する人々を掻き分け、大広場の中心で行われている何かを見た瞬間、私は酷く驚いた。幸か不幸か、先程まで頭一杯に広がっていたリエルに関しての悩みと自己嫌悪は、一時的に頭から追いやられた。

 なんと、中央で少女と男が両手をロープで縛られ、見世物の様に吊るされているではないか。

「一体何事なんです?」

 私は気が気じゃなく、更に中央へと進み出ながら、自分を止めに入った鋭い槍を持ち、鎧を身にまとった衛兵二人に問うた。

「貴様一体……おお、これはリーンハルト殿。失礼しました」


 槍を交差させ、行く手を遮った衛兵は一転して敬礼のポーズを取る。続き、私の質問に答えてくれた。

「反逆者への見せしめとして、捕らえた一部の反逆者の公開処刑を執り行うところです」

「反逆者の公開処刑……? 誰がそんな事を……しかも、少女も含まれているぞ!?」

 自分の中で疑念が噴出する。一体何に対する反逆かはさておいても、この街の領主は金にはがめついが、公開処刑などという、悪趣味な娯楽を行うような人物ではなかったはずだ。そもそも、あんな年端もいかない少女が何をすれば衆目の前で捕らえられ、処刑されるというのだ?

「待ちたまえ、衛兵よ。この先は私が説明する」

「はっ」

 衛兵の後ろから、聞き覚えのある声と、薄ら笑いを顔に貼り付けた若い男が現れる。パオロだった。

 パオロに誘われるまま、中央の一時的に作られた木製の舞台の上へと上る。近くには、何組もの男女が吊るし上げられていた。その横で、教団騎士が何かしらの準備を行っている。

「これはリーンハルト殿、奇遇ですな。今晩はヘルメスの巡回はなかったはずですが……散歩ですかな?」


「一体これはどういう事ですか? こんな悪趣味な催しに加え、年端もいかない子供まで吊るし上げ……」

 私はパオロの雑談に付き合う事すらせず、質問をぶつける。こんな異常事態を前にして、和やかに会話が出来るはずなかった。

「……既に聞いているだろうが、これは公開処刑だよ。この街に潜伏していた“魔物”と、その魔物と禁断の関係に陥ってしまった、反逆者の男の、な」

 話を無視したのが癇に障ったのか、本性であるがさつな性格が露わになり、言葉遣いが荒くなる。そして話を聞けば、どうやら吊るし上げられている少女は“サバト”という、魔物で構成された組織の一員であり、この街に潜伏し様々な工作を経て、ヘルメスを魔物の手に陥落させようとしていたらしい。それを今日、一斉に捕らえたのだという。それぞれ対になって真下で縛られているのは、その魔物と恋仲になった男達だった。

「こんな大掛かりな処刑……誰が責任者として主導しているのですか?」

 既に分かりきった事だったが、聞かずにはいられない。私のすぐ眼前には、司祭の服を着込んでいるのに関わらず、煌びやかな装飾がまぶしい、騎士団長のみが受け取る事を許される剣を、その腰に携えている人物が居る。その剣は、教団の儀式によって主神の特別な祝福が施され、魔物に外部からの治癒が不可能な傷を与える、まさに魔物殺しの象徴とも言える強力な剣だ。

「もちろん、この俺、パオロが責任者だ。……とは言っても、飽くまで不在であるアルノルトの代わり、“騎士団団長代理”として、だがな」

 最後に苦々しげな顔を浮かべたものの、やはり代わりと言っても騎士団団長の地位は心地よいらしく、その腰に携えられた剣を誇らしげに見せびらかすかの如く誇示しているパオロ。パオロの様な男からすれば、大勢の人間の先頭を我が物顔で歩ける上に、処刑の最初から最後までを、他人に顎だけで指示を飛ばし執り行わせる事が出来るのは、さぞかし愉快な事だろう。

「まぁ、こんな大々的な催しをするのも、ドラゴンに関する不安が民衆の間でどんどん募っているので、それから目を逸らさせる為でだな……いや、リーンハルト殿を責めている訳じゃないんだが、こんな大規模な数の魔物が潜伏していたのだ……ヘルメスとの取り決めもあるし、見せしめにこうやって処刑しないと、今度は堂々と魔物にのさばられてしまうかもしれんしなぁ……」

 言葉と口ぶりだけだと、まるで心が痛んでいるが仕方なく処刑を執り行おうとしている風に受け取る事が出来るが、パオロの表情を見ると、本人がそう思っていない事が誰でもたやすく分かる。顎を指でさすり、多数の死者がこれから出るというのに興味すらあまりなさそうな様子ですらあった。
 酷い頭痛がする。たとえ、私がリエルと出会う前だったとしても、流石にこんな人々を処刑する事は躊躇われてしまう。盗みを働いた者や、殺人に手を染めてしまった悪人ならまだしも……。
何も言わず、呵責に苛まれ続けている私の耳に、一番近くで吊るされていた少女と、男の会話が耳に入る。

「ごめんね……お兄ちゃん。私と仲良くしたばっかりに、こんな事……」

 少女が、きつくしばられたせいで赤くなっている両手首をやや動かし、自分の下で、自分が吊るされている柱に縛られた男を見やり、泣きながら謝っていた。

「気にするんじゃない。お前は何も悪くない……全ては、あの教団騎士どもが……っ」

 そう言い、男は一番近くに居た人物……私を、憎悪に満ちた目で睨んだ。
 思わず、目を逸らす。逸らさずにはいられなかった。……なぜなら、あの男の気持ちが、今の私には痛い程分かるからだ。

「愛してるよ、トマス……出来れば、来世でもまた会えればいいな……」

 魔物の少女が、捕まってから吊るされる間に酷い仕打ちを受けたのか、アザが浮かぶ頬に大きな涙の粒を伝わせながら呟く。

「俺もだ……だけど、そんな悲しい事は言わないでくれ……涙が、止まらないんだ」
 
 愛の言葉をささやく二人。もはや視界に収めることも出来ず、ただ耳に届く二人の会話を聞く事しか出来ない。釘でも打ち付けられているかの如く痛む胸を押さえ、私は震える手を握り締めた。

「……それで、この様に魔物どもを捕らえたわけだが、どうだ? リーンハルト殿も、退屈しのぎにこの処刑を見て……ん?」

 遂に、騎士団の処刑を担当する兵士が、処刑の為の槍を持ち出してきた。横でパオロが延々と魔物を捕らえた経緯を話していたが、全く耳に入らない。私の体が勝手に、吊るされている一番近くの恋人達に向かって歩き始めていた。

「どうしたんだ? リーンハルト、止まるんだ!」

 何をするのか察知したのか、パオロが荒々しく私を呼び止める。だが、もう私の頭の中に理性など残っていなかった。
 私は、私のせいで傷つく“人間”を見るのはリエルだけで限界だった。これ以上、種族の壁を越え愛を深め合っている罪もなき人が傷つき、増してや処刑される光景を見る事なんて出来ない。
 教団には恩がある。しかし、私の様な男一人が罰せられ処刑されるので済むなら、裏切りの不名誉を受け、命を投げ打ってでもこの者達を助けたかったのだ。

 吊るされている二人組みの前で立ち止まる。二人は私を見ていぶかしんでいる様子である。そして、私は腰から突き出されている剣の柄へ手をかけた。それを見た二人は“まさか”と言いたげな表情になり、覚悟を決めたのか生唾を飲み込んだ。……私も、彼らと一緒に覚悟を決めて生唾を飲み込んだのだった。

 腰から剣を抜き取り、素早く振るう。パサッという音と共に、ロープは断ち切られ、両手が自由になった男の元に、上で吊るされていた魔物の少女が落ちてきた。


「リーンハルト、貴様! 血迷ったか!」

 パオロの怒声が響く。同時に、広場に集まった民衆の間にも、水面に小石を投げて広がった波紋のように、どよどよとしたざわめきが広がり始める。太陽は既に没し、空には暗い帳が降りて、街灯に配された魔法による光源が、まばゆく辺りを照らしていた。

 もう、後戻りは出来なかった。

 急いで舞台の上を駆け回り、素早くロープを断ち切っていく。呆気に取られている魔物と男達に対し、大声で指示を飛ばした。

「私が時間を稼ぎます! 早く、その間に逃げて下さい!」

 その声で、民衆達のどよめきは最高潮に達した。次いで、こめかみに青筋を浮かべたパオロがいつもの薄ら笑いをかなぐり捨て、怒りに満ち満ちた足取りで近寄りながら言葉を発する。

「一体、どういう経緯があったかは知らんが……今行った事の重大さをもちろん理解しているんだろうな? 悔しいが貴様は“我が”教団騎士の顔だ。そんな貴様が、捕らえた魔物を、公衆の面前で逃がすなど……堂々と貴様を処刑できるのは嬉しい誤算だが、お前が居なくなるお陰で私がこの団長の地位を確立出来る事と、ヘルメスに対し貴様の尻拭いをする事を比べると、損の方が大きいわ……」

 反吐が出るほど醜い皮算用を聞かされ、私は顔をしかめる。元々好かない男だったが、心中ではこのような醜い計算をしていた事を知り、怒りを通り越して哀れみすら覚える。

「それは残念ですが……いつから“あなたの”教団騎士になったのですか? ……申し訳ありませんが、貴方の様な人間性では、“高潔な”騎士団団長は務まらないと思います」

 アルノルトのような人間がついていた地位から言い放った先程の一言は、さすがの私でも我慢ならない発言だった。本来なら撤回を断固として求めるところだが、そんな状況ではないのが残念である。


「ククク……面白い事を言うもんだな、リーンハルト。その口なら、処刑される前の最後の一言でも、何か気の利くことがいえるだろうな」

 驚くほど怒りのこもった視線でにらめつけたあと、パオロは「衛兵、こいつを捕まえて即処刑しろ!」と声高に言い放った。

 流石に、仲間であった私を殺す事に気が引けるのか、槍を構えてはいるものの、兵士たちの間でも困惑したようにどよめきが広がる。しかし、パオロがもう一喝したところで、やむを得ず兵士たちが私を処刑しようと一斉に走り出した。


 前方からやってきた二人が槍を構えながら突進する。私は剣で素早く一閃し、穂先のみをへし折ってやる。それでも二人は突進をやめず、私の身体を押さえ込もうとした為、急いで体勢を低くし、足払いをかけて最低限の力で二人を転倒させた。
 そのまま間髪入れず、背中を見せた二人に対し、膝裏部分にある鎧の隙間へと剣を滑り込ませる。これで身動きしにくくなった上に戦意も喪失したはずだ。


 続いて、教団騎士の紋章が胸元でまばゆく光る制服に身を包んだ騎士の一人が剣を手に、じりじりと近寄ってくる。

「あのリーンハルトがまさか反逆者になってしまうとは……意外だったよ。しかしこんな形だが、手合わせ願えるなんて光栄だ」

 互いに間合いを計っている時、相手がそう、話し始めた。私は心苦しさを感じながら、一言も発さず相手の動作を注視する。
 一瞬、素早い動きで詰め寄った騎士は、鋭い初手で一気に勝負を決めに来た。
 のど笛を正確に突こうとしてきた剣の切っ先が、あと一歩の所で喉に到達する寸前、私はなんとか半身をずらして回避する事に成功した。

 しかし、流石は訓練を怠らない教団騎士だった。外れた事を想定して、全力ではなく、ある程度の余力を残した一撃だったため、再度剣を振るい、間髪いれずに二撃目、三撃目が飛んでくる。

 斜めから振り下ろされるそれを、こちらも剣を使い防いでいく。しかし、三撃目を防いだ瞬間、相手の中で出来上がっていた攻撃のリズムの節目を、幸運にも見つけられた。その隙を逃さず、一転してこちらが強気に踏み込み、攻撃を加えていく。
 じりじりと後退していく騎士の顔には、焦りの色が浮かび上がる。この勝負、貰ったと確信したところだった。

 私達の剣戟を遠巻きに見ていた騎士のうちの二人が、突如左右から私を挟みこんできたのだ。
 これは正式な試合ではない……改めてその事を理解し、左右から仲間が挟みこんできたタイミングを見逃さず、対面に居る相手もここぞとばかりに前に進み出て、強気に袈裟斬りを放ってくる。


 私は咄嗟に、足元に向かって左手の手のひらをかざした。

 すると、パンッという破裂音と共にまばゆい閃光が発せられ、音に釣られて視線を私の足元に向けた者たちの視力を一時的に奪った。

「クソッ」

 その声を聞いた次の瞬間、私は最後に居た兵士の位置を脳内で思い浮かべながら、一回転するかのように剣を横に凪いだ。

 閃光が止んだ頃には腹部に一撃を入れられた、左右の騎士が倒れ、対面に居た騎士は辛うじて傷を負い、出血しながらも立っている状況だった。

 しかし驚くべき事に、その騎士は立っているのがやっとであろうに、腹部から血を流しながらも剣を強く握りなおし、再度こちらに向かってきたのである。

「それ以上やっては命に関わります!」
 
 思わず私はそう言ったが、相手も聞き入れてくれるわけが無かった。観念し、私は素早く前進し懐に潜って、大きく振りかぶった相手の剣が振り下ろされる前に、こちらの剣の柄でみぞおちに一撃をいれ、騎士を倒した。


 続けて五人を相手にし、打ち負かした私を見て、周囲の騎士たちは士気が著しく下がったようだった。だが、パオロはそれでもまだ怒声を張り上げる。

「全く、一人を相手に何をやっている! 槍を構え、周囲を取り囲め! 徐々に近づいていけば奴一人など何もできん事がわからんのか!」


 パオロの言うとおり、長い槍を水平に構えた兵士が完璧に私の周囲を包囲する。
 にじり寄る兵士たちに、私は剣を構えるが、さすがにもはや打開策は見つからなかった。私も、教団に対して恩を仇で返した悪人なのだ。ここで、捕まって罰を受けるのも必然だろう。


 そして心の中で静かに観念し、剣を鞘に収めようとした、その時だった。

 突然突風が吹き荒れ、思わず両腕を顔の前に掲げてしまう。風による轟音で、聴覚すらまともに機能していない。しばらくしてから風が止んで、なんとか辺りの状況を確認しようとしたが、驚くべき事に周囲を取り囲んでいた兵士が、今の風に吹き飛ばされでもしたのか、辺りへ散り散りになっているではないか。

「一体、何が?」

 思わず呟いた。すると、背後から凛とした、聞き覚えのある声が耳に届く。

「リーンハルト、怪我はないか?」

 見ると、そこには翼、角、鱗……ドラゴンの特徴を惜しげもなく晒した、リエルの姿があったのだ。

「リ、リエル! なんで貴女がここに……!?」

 平静を保つ事など忘れ、リエルが突如現れた事に戸惑いながら質問を口にする。一方、リエルはにべもなく両手を腰にあてながら得意げな顔で仁王立ちしていた。

「胸騒ぎがした……ただそれだけだ。そして、“馬なんか使わずに”この翼で空を飛んでやって来てみると、こんな広場で乱闘騒ぎを起こしている友人が居たんでな……しかもピンチに陥っているときたものだ。思わず助太刀に入ってしまったぞ」


 私は、乾いた笑い声を我慢する事が出来なかった。彼女の言葉を聞き、姿を見れて、とても安堵し心の奥底から力が湧いてきたのだ。彼女の冗談が、自分の弱りきった気持ちに喝を入れてくれたような気さえした。

「さ、私に掴まれ。このまま空を飛んで逃げるぞ」

 そう言ってリエルは手を伸ばしたが、私はそれを受け取る事は出来なかった。

「残念ですが、ここで処刑されかかっていた魔物とその恋人達が居ます。私がここから姿を消せば、パオロは血眼になって彼女、彼らを探すでしょう。姿から見て、深く痛手を負っていた彼女らが安全に逃げられるまでの時間を確保しないと……」

「なるほどな……なぜお前が教団とトラブルを起こしているのか、よく分かった。それならば、私も力を貸さないわけにはいかないな!」

 私は、続けて“だから、貴女は逃げてください”と言おうとしたのだが、その心配も杞憂に終わってしまった。ここは有難く、彼女の厚意を受け入れる事にしよう。


「なんとも、格好がつかない場面をお見せしてしまいましたね。どうせなら、格好良いところを見せてあげたかったのですが」

 顔の前にかかった髪をかき上げながら剣を握りなおす。すると、リエルは私の近くに歩み寄ってきたかと思うと、私の背中に背中を合わせてきた。

「大丈夫だ。敵もまだまだ降参する気はないらしい。今からでも、私にかっこいい所を見せるのは遅くないぞ?」

 彼女の顔を見れたわけじゃないが、言葉からリエルが不敵な笑みを浮かべているのが、易々と想像できた。そして、リエルの言うとおり教団騎士は初めて見るドラゴンに恐れおののいているものの、戦意を完全に喪失したわけではないらしく、剣や槍を手に取り、果敢にも戦闘態勢を整え始めている。


「ハハハ、俺のジョークがまさか当たっているとは」

 パオロが、体勢を立て直し始めた兵士の後ろから笑い声を上げた。

「本当にドラゴンと恋仲になるなんてな……笑えんわ。ちょうど良い、貴様が取り逃したドラゴン討伐の手柄を得ると同時に、貴様も葬って団長の地位を確立してやる。……行け、教団騎士の名に賭けて奴らを打ち倒せ!」

 パオロの号令と同時に、兵士たちが一斉に周囲から駆け寄ってくる。その数と雄たけびに一瞬怯んだが、背中にリエルの温もりを感じた私に恐怖の感情は無かった。


「申し訳ありませんが、もう手加減は出来ません!」

 私はありったけの力を持って、剣を振るう。前方からやってくる槍と剣を、なんとかかわし、防ぎながら処理していく。
 相手が二人で油断したのか、先陣を切った一人がありったけの力を混めた剣を横へ振りぬいてきた。見切りやすいその太刀筋を冷静に後退し避けた私は、相手が体勢を立て直す前に、左手から放った簡単な魔法が作り出す衝撃で吹き飛ばした。

 彼の体自体が、彼らの陣形を崩す一助となり、結果、私に優位をもたらしてくれる。

 その隙を見計らい、背後を一瞥した。

 わずかな心配が脳裏を掠めていたが、そんな心配は無用だったようだ。
 後方ではリエルが徒手空拳にも関わらず、単純なパワーだけで並みの兵士たちを圧倒していた。敵陣に突っ込んでいるせいで、時折、死角から槍などをその身に受けているものの、中途半端な力、生半可な槍では鱗に防がれ傷をつける事すらかなわないようだった。

 リエルを突きにきた、三本の槍の穂先をまとめて束にして掴んだあと、放った強烈な回し蹴りが槍の持ち主に炸裂し、三人が吹き飛ぶ。背後で構えていた兵士たちが入れ替わるように出てきたが、その兵士たちもリエルの翼によって巻き起こされた一瞬の突風で体勢を崩し、転倒してしまう。

「どうした? そんなものか? やはり人間とは軟弱な生き物だな……次に襲い掛かってきた奴は、文字通り血祭りにあげてやるぞ」

 恐ろしい声で凄むリエル。しかし、人間を相手にそんな事をする気は全くない事を私は知っているので、ほくそ笑む事が出来るのだが、それを知らない教団騎士にとってその通告は非常に効果があるようだった。皆、一様にたじろいで浮き足立っている。


 パオロの悔しそうな叫びが耳に届く。


「クソ……どいつもこいつも、ドラゴンにいいようにあしらわれ、人間のリーンハルトにすら遅れをとるなど。この数だぞ? 一体何をしているんだ、訓練の成果はどこへいったんだ!?」


 自分は一切なにもせず、単純に部下をけなすだけのパオロを見ていて、騎士たちがとても可哀想に思えてくる。やはり、あんな男が団長の座に居座っていてはならない事を痛感する。
 その時、パオロの背後から連絡係の兵士が急ぎ足でやってきた。

「パオロ団長、至急の連絡を受けたテミス教団騎士の援軍が到着いたしました」


 私の頭の中が絶望に染まった。ヘルメスに万が一の事態が起こった時の為に、テミスが連絡を受けてからすぐに援軍が向かわせられるように取り計らわれているのだ。その援軍が、もうここに到着したらしい。
 パオロはその知らせを受け、やっと表情を少しばかり和らげた。

「やっと来たか……これで貴様らも終わりだな。早く兵士どもを前へ」

 その号令と同時に、前へ進み出る教団騎士達。規律正しく並び、皆落ち着いた様子で各々の武器を構えている。見るに、ざっと百人ほどの兵士達が集ってきた。今ここ、ヘルメスの都市に駐屯している教団騎士、衛兵だけでも数を合わせれば、その数は二百に及ぶだろう。

 いくら強靭なドラゴンのリエルでもこの数を相手に挑むのは、無謀の一言だった。人間の私など、言わずもがなである。そして何より、処刑の為に用意された先程までの衛兵達とは違い、援軍の部隊の中には、遠隔から攻撃出来る上に強烈な威力を持つボウガン部隊が含まれている。
 たとえまともに戦うことを選択したとしても、近づく事もできず、ボウガンで射抜かれて死んでしまうだろう。

 私は、覚悟を決めた。

「リエル」

 小声で彼女の名を呼ぶと、彼女はすぐに返事をしてくれた。

「どうした? 何か打開策を思いついたのか?」


「残念ですが、もうどうしようもない。貴女は空を飛んで逃げてください、私は罰を受けるべきですし、私の処刑を行う時間で、魔物たちが安全に逃げる時間を確保できるでしょう。ですから……」

 そこまで口にしたところで、私は突然左頬に鋭い痛みを覚えた。
 見ると、リエルがこちらへ向き直り、私の頬を平手打ちしていた。

「私が助けに来てやったというのに、まだそんな弱気なのか!? 死ぬ事なんて考えるな!」

 リエルの表情は真剣そのものだった。しかし、時間はもうない。彼女の気持ちも分からないでもないが、これは私の中で新しく作られた“正義”に基づいて、勝手に行ったワガママなのだ。彼女を巻き込むなんてとんでもないし、何より、魔物とその恋人を救ったのは、私の独善的で身勝手な、リエルに対する罪滅ぼしでもあった。


「すみません、リエル。もう古城にも遊びに行けそうにありませんね。どうか、あの子供たち三人の成長を見守ってあげてください」

「嫌だ」

 間髪入れる事なく、すぐさま返ってきた言葉を聞き、“え?”と思わず心で返事をする。
 逸らしかけた視線を、そのままリエルの顔に向け続ける。美しくも、酷く悲しげで、複雑な心境が渦巻いている表情だった。

「嫌だ。……お前が死ぬなんて嫌だ。勝手に死なれてたまるものか、人間のお前の寿命は儚いと、今日話したばかりだろう? なぜ分からんのだ。私は、友達としてでも構わないから、お前と、活気に溢れた風景を、一緒に見渡したかっただけなのだ」

 その時はその話を“例え話”と言っていたのに……全く、卑怯な“人”だ。

「もし、リーンハルト。お前がどうしてもここを死に場所にする、というのなら。私はもう、一人であの古城からの風景を見渡す気はない。ここで、お前と共に死のう」

 突拍子もない発言。予想だにしていなかったリエルの言葉は、私の気持ちを大いに不安にさせた。“まさか”と思いつつも、顔をあげると、リエルは私と一瞬だけ視線を絡ませたあと、何か言いたげな面持ちのまま目を細め、部隊が一同に構えている方向へ、一人駆け出していった。

「フンッ、血迷ったか、それとも潔く諦めたか……。ボウガン部隊、構え――」

 パオロの号令が轟く。それに合わせ前へ一歩進み出て、横一列に膝立ちになったボウガン部隊が、既に手際よくボルトの装填されたボウガンを構え、目の前からやってくるリエルを寸分の狂いもなく、無慈悲に狙う。

 私は、思わず、精一杯の力で彼女の名を呼んだ。そして、叫んだ。が、もう遅い事など、既に分かっていた。ならば、私も後を――


 半ば自暴自棄になったところだった。今日何度目になるか分からない、最悪の結末を覚悟したとき、上空から誰かの声が、広場にて一同に会する者達に降り注いだ。


「遅れてしまってすまんのぅ、我が“サバト”のリーダー、バフォメットちゃんじゃ!」


 間の抜けた声が聞こえたかと思うと、空から声に次いで幾多もの高度な魔法によって作られた風の刃が降り注ぐ。リエルを狙って構えられていたボウガン部隊が、まっさきにその魔法に狙われ、次々と切り裂かれていった。


 何人もの兵士によるうめき声と、民衆の悲鳴が合わさって、一瞬辺りは阿鼻叫喚となる。民衆は好奇心だけで今まで私達の戦いを見ていたが、今更になって急いで避難を開始し、残ったのは私とリエルとパオロ率いる教団騎士……。

 そして、無数の魔物娘たちであった。


「こちら、援軍のハーピー部隊。天敵のボウガン部隊は既に壊滅状態だ! みんな、行っけー!」

 空を見上げると、様々な羽毛の色をした、鮮やかな無数の『ハーピー』達がいつの間にか待機しており、まるで色とりどりの渡り鳥が空を楽しそうに埋め尽くしている様な光景になっていた。
 その後、先頭に居たハーピーが号令をかけると同時に、一斉にハーピー達が隼のごときスピードで急降下を開始し、バフォメットの一撃で既に浮き足立ってしまっていた兵士達に近寄り、それぞれ一匹が一人ずつ肩を鷲づかみにして空へと連れ去っていく。


「ぬふふ、他の魔物娘達も早くしないとどんどん男を取られていくぞ? さっき蹴散らしたボウガン部隊も、動けなくしているだけで致命傷は避けてある。存分に好きな男を選んでいくが良い」

 空中で己の魔力によって浮遊し、眼下を見下ろしている魔物は、頭から生える山羊の角と、その手に持った大きな鎌が特徴的な『バフォメット』。魔物の中でも一際強力で、強大な魔力を持つといわれている魔物が、他の魔物を率いてヘルメスを襲撃している……と、いったところだろうか?


 私が呆気にとられていると、パオロは援軍が到着した際の和らいだ表情からまたもや一転し、激怒しながら兵士に指示を飛ばしていた。

「ええい、怯むな! 我らが一丸となって戦えば撃退出来るというのにっ そこの貴様ら、体勢を立て直せ!」

 訓練された教団騎士の一員は、この阿鼻叫喚の中なんとか体勢を立て直し、今や半数以上が統率の取れた動きを可能としていた。
 彼らはリーチの長い槍を手にとって、空中から襲い掛かるハーピーに対し果敢に抵抗し始めていた。

 だがしかし、後方に控えていたのか、兵士達にとっては不幸にも新たな魔物娘達が続々と集結し始めていたのだった。



「あら、良い男が一杯いるじゃない」

 艶やかな笑みを浮かべながらそう言って現れたのは上半身が魅惑的な女性の姿をし、下半身が蛇になっている『ラミア』である。スルスルと蛇特有の動きで体勢を低くしながら近づくラミアに、怒声や騒音に包まれながら上空のハーピーで手一杯の兵士達の大半は気付く事が出来ていない。

「捕まえた♪」

 とあるラミアが兵士を一人、素早い動きでその下半身を使い、瞬時にぐるぐる巻きにしてしまう。強靭そうなその下半身にとらわれた兵士の顔は青ざめて、抵抗する気すらもはやなくなっていた。

 それに気付いた兵士の仲間が、ラミアから仲間を取り返そうと剣を振りかざすものの、ラミアは素早く男を連れながらその場を退避してしまい、代わりに上空からその隙を見逃さなかったハーピーの一匹が嬉しそうにその兵士を鷲づかみにして連れ去ってしまった。

 一転して劣勢になってしまった兵士達だったが、それでも諦めず、一部の者は身を寄せ合い、大きな盾を構えて防御陣形を取り始めた。
 しかし、新たに現れた強靭な牛の魔物『ミノタウロス』がそれを許しはしなかった。

「止められるもんなら、止めてみな!」

 勢いよく斧を構えながら突進するミノタウロスは、さながら大型大砲によって発射された砲弾の様である。その勢いだけで戦々恐々となり、及び腰になってしまった兵士達の防御陣形は、たやすくミノタウロスの体当たりで砕け散ってしまった。

「まだだ、まだ負けてはいない!」

 一人の騎士が、勇敢にも剣を携えて突進を終えたミノタウロスへ走り出す。それを見た他の兵士二人も、それに続き攻め入った。
 しかし、当のミノタウロスは舌なめずりをしながら三人を眺め、まるで品定めをするかのような面持ちにしかならなかった。

「良いねェ、男はそうでなくっちゃ!」

 剣を振りかざしている事が目に入らないとでも言わんばかりに、ミノタウロスが前に進み出たかと思うと、なんと斧を放り投げたあと両腕を目一杯左右へ広げてから、一瞬で三人を抱きかかえ持ち上げてしまったのだ。

「ぐ……なんて、馬鹿力だ……」

 見た目に似合わない機敏さを披露し、一瞬で三人の男をいわゆるさば折り状態に持っていったミノタウロスの表情はなんとも喜色満面としていた。

「大丈夫、傷つけはしないさ。このまま、三人共お持ち帰りさせてもらうぜ♪」




 なんとも連携の取れた行動に感心してしまうほどだったが、魔物娘はそれぞれ「やった、旦那さんをゲット!」だの「早く帰って楽しみましょう♪」と口々に言っていることから、みなそれぞれ個人プレーをしているだけのようであり、自然に出来上がっている連携は空恐ろしいといわざるを得なかった。
兵士達が傷を負う事なく、どんどんと戦場から姿を消していく。

 その後も続々と『ワーウルフ』などが到着し、もはやヘルメスに集った兵士達が彼女たちに連れ去られてしまうのは時間の問題となってしまっていた。

「凄い事になってしまったな……」

 驚いているのは、リエルである。目の前で広がる、もはや魔物娘達が勝利し、決してしまった勝負の後に繰り広げられている彼女たちの“夫探し”を眺めながら、私も返事をする。

「本当ですね。まさか、魔物に命を救われるなんて。それに……」

 私はリエルを見据える。

「貴女が……リエルが生きていて、本当に良かった」

 心からのその言葉に、なぜかリエルは頬を赤らめて、目を逸らしてしまった。

「ま、全く。お前が正義バカだから、こんな面倒くさい事になったのだろう。頑固者はこれだから困る」

 そして、照れくさそうにこちらを見ながら、控えめな声で「それに……それはこっちの台詞だ、馬鹿者」とリエルは呟いた。



「まぁまぁお熱い事じゃのぅ」

 またもや降って湧いたその声は、バフォメットのものだった。

「二人の時間を邪魔して悪いが、用事が色々とたてこんでおるので、さっさと礼を言わせてもらうぞ」

 なぜかニヤニヤしながら、宙に浮きつつ私とリエルの間に割って入るバフォメット。

「本来ならありえん事なのじゃが、今回は教団騎士の奴らが一枚上手じゃったみたいで、サバト・ヘルメス支部の本拠地がばれてしまってな。急いで助けに向かったのじゃが、お主らが居なかったら、援軍が間に合ったかどうか怪しかった。サバトの代表として、主ら二人に礼を言いたい。ありがとう」

 事のいきさつを理解し、私とリエルは互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。だが、バフォメットは話がまだあるようで、続けて口を開いた。

「このヘルメスでここまで大きな戦いを起こした。もう後に退く事は出来んので、この都市は魔物が占領し、一転して親魔物領とさせてもらう。悪いが、その旨を人間達に伝えてもらってもよいかな? ……と、よく見たら主、教団の者ではないか! 教団の者なのにワシらの為に戦ってくれていたとは……」

 バフォメットのしようとしている事、そして自分がした事についても両方、そんな大それた事をするとは夢にも思わなかったので、流石に自分も驚いてしまったが……しかし、もう自分は既に教団騎士ではない上に、むしろここが親魔物領になるのは、魔物を排斥する事に疑問を感じていた自分にとって、都合が良かった。

「私はもう教団騎士の人間ではないので、もはや伝える事は出来ませんが、個人的には賛成です。……しかし、そんな簡単に住民たちが親魔物領化を受け入れてくれるとは思えないのですが……」


 私の心配をよそに、バフォメットは“よくぞ聞いてくれました”と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべながら、無いその胸を張り始める。

「我らサバトがなんの為にここへ潜入してたと思うとるのじゃ? 既に様々な工作を行っている上に主は知らんじゃろうが、既に何人もの魔物がこの都市に潜んで旦那を持って生活している。そして、こういう実利主義の都市の方が、より簡単に魔物色に染まるんじゃよ。魔界との取引を行えば、商人達なんて尻尾振って寝返るわい♪」


 どうやら、用意周到な作戦を考えて、準備しているようだった。見た目からしてそんな事は全く考えていないのだろうと思ったが、これは失礼だったといわざるを得ない。
 このまま行けば、リエルとも、魔物と人間という事など気にせずに暮らせる、平穏で幸せな日々が送れるかもしれない……そう思い、私はリエルの方を見た。


 リエルも、同じ気持ちなのか私の目を見て、微笑んでくれた。
 いつもなら、それだけで私も心から嬉しくなるのに、その時ばかりはそうはいかなかった。

「リエル、後ろッ!」


 慌てて飛び込もうとしたが、既に遅かった。リエルの背後で、見知った顔の男……あの薄ら笑いを浮かべたパオロが、手に剣を持って立っていた。
 そして、リエルの表情が一転して、苦痛に満ちた痛々しいものへと変わっていく。

 急いで鞘から剣を抜き、リエルの背後に居るパオロへと一撃を加える。パオロはほうほうの体で、その血に塗れた剣で攻撃を防いだものの、剣術を鍛えていないパオロはその一撃を防いだだけで足取りが怪しくなり、次に私が振るった剣を受け止める事が出来ず、掲げた左腕でまともに私の剣を受け止めた。

「なっ、クソッ」

 痛みによって顔をしかめたパオロは、よろよろと地面に倒れる。すぐさまに追撃を加えてやりたかったが、それよりも先にリエルのことで頭が一杯になった。

 急いで振り返り、パオロより先に倒れていたリエルへ駆け寄る。

「リエル!」


 彼女の名前を呼びながら傍で片膝を突く。彼女の腹部には、パオロの持っていた剣が貫き、空けた痛々しい穴が空いていた。

「むっ、いくらドラゴンとはいえその傷は不味いのう。どれどれ、私の魔術で……」

 一瞬顔をしかめ、状況の悪さにうろたえたものの、バフォメットはすぐに魔力を練って回復魔法の用意をし始めた。しかし……。
 絶望の声をあげたのは、私だった。

「駄目なんです、バフォメットさん」

「なぬ?」

「パオロ……さっきの男が持っていた剣は、位の高い騎士団員に渡される特殊な剣なんです。特に、団長が持つ剣は一際強力な主神の祝福が施されていて、その剣による一撃をここまで深く受けてしまったら、外部の干渉では回復できないんです」

 目を伏せながら解説する。対魔物用として、昔はあんなに頼りにしていた武器だったが、今となっては目障り以外の何物でもなくなるとは、夢にも思っていなかった。

「ムムム……そういう事じゃったか。では、彼女のドラゴンとしての回復力に賭けるしかないが……そこまで大きく穴を空けられてしまっては……」

 そこまで言って、バフォメットはうなだれてしまう。確かに絶望的だ。いくら生命力の高いドラゴンと言っても、魔物に対して殺傷力の高いあの剣で腹部を貫かれては、通常の、自身による自然治癒が間に合う前に死んでしまうだろう。


「リエル……リエル……」

 うわごとのように名前を繰り返す私は、彼女の手を取って、神様にすがるしかなかった。教団騎士に所属し、教団を裏切り、そして今、魔物を救って欲しいと神に祈る。なんとも痛烈な皮肉だ。いや、これは神の、私に対する罰なのだろう。
 今まで積み重ねた私の不貞と横暴に対する罰が、今、最愛の人を失うという最悪の形で下ったのだ。

 彼女の左手を握っていた私の両手に、ふと別の手が添えられる。

「リーンハルト、何をうろたえているんだ」

 私の両手に添えられたのは、彼女の右手だった。
 目を開けると、彼女が弱々しい笑みで私を見上げている。その表情は、なんとも美しく、儚く、人間のそれと同じだった。

「すみません、リエル。私が起こした騒動に巻き込んだ結果、こんな」

 所々言葉に詰まりながら、強く手を握り締め、出来るものならこの手を通じて私の命を捧げ、彼女の命を救うという、おとぎ話にでも出てきそうな奇跡が起こる事を願う。

「謝らないでいい」

「でも、リエル、血がたくさん……」

「んっ、確かに。さすがの私でも、この傷を自分の力だけでどうにかするのは、厳しいな……」

 そこでやっと、悲しそうな表情を浮かべるリエル。それを見て、私は気付いた。こんな状況でも、先程から彼女がなぜ笑顔を浮かべていたのか。
 残された時間を、私がただ謝る事だけに使わないように……。

「リエル、あの広場で貴女に言い間違えた事があります。今更、本当に今更なのが悔やまれますが、聞いて欲しい」

「私は貴女を“一番の友達”となんか思ってはいない。私は、貴女を……貴女の事を……」

 リエルはただひたすら、私の言葉を待っていた。

「貴女の事を、心の底から愛しています」


 一心に待ち続けていたリエルは、その言葉を耳にした途端、彼女の美しい両目の端から大粒の涙を溢れ出させていた。異様に涙の量が多いと思えば、驚くべき事に、私も涙を流し、なんとも迷惑な事に彼女の顔へ涙を落としているではないか。

 急いで顔をぬぐいたいが、ぬぐう為に離す両手が勿体無くて、そんな簡単な事が出来ない。最後の一瞬まで、彼女の温もりを覚えていたい。彼女と会っていなくても、その暖かさと感触を思い出せるように。

「私は……魔物失格だな」
 
 涙を流しているせいで、声がいつもの彼女の声ではない。途切れ途切れになりながら、彼女は言葉を紡いでいく。

「そこまで両想いだったなんて、見抜く事が出来なかった。……でも、こんな事になるなら、たとえ片思いでも無理やりお前を手篭めにした方が何百倍もマシだったな……」

 そしてふにゃりと微笑むリエル。
 
「しかし不幸中の幸いは、死ぬのが両方でもなく、お前でもなく、この私だった事だ。運命という物があるのなら、そういう運命にしてくれた神に初めて感謝する事になるよ」

 私は、声にならない声をあげた。悔いるよりも、リエルとの残り少ない時間を大切にした方がいいのは分かっているが、どうしても悔いてしまう自分が愚かしかった。

「すまない、リーンハルト。最後に、お前にお願いがある。口づけを……して欲しいんだ」

 もう、口調も弱々しくなっている。リエルはもしかしたら既に死を感じて、その命を終えようとしている事を事細やかに感じているのかもしれない。
 私は彼女の願いを聞き入れた。

 顔をそっと近づけ、目をつむるリエルの綺麗な顔と重ねる。唇が触れあい、彼女の丁寧な息遣いを間近で感じる。
 すると、彼女の舌が私の唇と触れ合う。私はそれを受け入れた。リエルの舌使いは、なんとも稚拙なものだった。その動きはあまりにも弱々しい。傍から見れば滑稽ですらある……。今にも動きが止まりそうなその舌を愛おしく思いつつ、彼女を感じながら、消え入りそうなその命も共に感じてしまい、口づけを交わしているのに私は涙を流してしまう。

 だんだん、彼女は力強く口づけを求めてきた。唇を離すことなく行われているそれのせいで、私の唾液が彼女の口内へと送り込まれる。

「ぷはっ……」


 そこで、互いに限界を迎え、唇を離した。深い口づけを交わし、彼女は満足したのか目を瞑ったまま動かなくなった。

「リエル……」

 私が一言、呟く。しかし、よく見ると彼女の手に力は込められていない。
 反応がない、とも言うのだろうか。

「返事を……して下さい……」

 無意識に、私の声は震えていた。
 息をしているのか怪しいほど、彼女は静かに、眠ったように目を閉じている。

 我慢できず、私は彼女に覆いかぶさり、恥も外聞もなくして彼女の身体を揺すろうとした。
 
「なんとか間に合ったようじゃな……」

 その瞬間、割って入ったバフォメットの声に、私は我に返った。一体、何が間に合ったというのか?

「ず〜っと、主らがイチャイチャイチャイチャしている間に、声をかけておったのに全く耳に入っておらなんだのか? ……妬けるほど、お熱いのぉ♪」

 バフォメットがとても愉快そうな笑顔になっているが、私にはその理由が分からなかった。

「ギリギリ、キスをしおったから良かったものの、ワシの声も聞こえず、もしまだ会話を続けるようなら、ワシが直に割って入るところじゃったぞ……。ほれ見ろ、主の唾液に含まれている精力が、なんとか彼女に供給されて命を繋ぎとめたみたいじゃ」

 バフォメットがウィンクをして指をさした方を見ると、そこには確かに、静かに寝息を立てるリエルの姿があった。

「リ、リエル……。これは、助かったという事で、間違いないんですね?」

 確かに呼吸をしている事を確認し、それでも飽きたらずリエルの胸に手を置き、しっかりと上下に動いている事を認めた私は、恐る恐るバフォメットに伺う。
 その質問を受けたバフォメットは、ゆっくりと首を縦に振った。

「ドラゴンは生命力が一際高くてよかったのぅ。ドラゴンだからこそ、キスによる唾液だけで良かったが、もし他の魔物なら“せっくす”して直接精力を注がねばならんかったぞ。瀕死の妻を前にしながら、ワシが主のモノを勃たせなければならないのは、ワシもさすがに気まずいんでのぅ♪」


 バフォメットの口から飛び出す、衝撃的な言葉の数々に、私はどんどん恥ずかしくなり、しまいには顔が熱くなった上に思わず目を伏せてしまった。

「いや〜それにしても、良いものを見させてもらった。仲間内にも自慢できる、なんとも仲睦まじい“すとぉりぃ”じゃ。私の将来の夫……お兄ちゃんとも、こんな熱くて甘々な恋が出来れば良いのじゃが……」

うっとりとした表情で眺めるバフォメット。その後ろから、事の顛末を一部見ていた複数の魔物娘が現れ、みな一様にして頬を紅潮させながら内股をこすり合わせているではないか。

「…………お二人のやり取り、ずごぐよがっだでず〜! 涙がどばりばぜん〜!」

若くて華奢なハーピーが涙を流し、鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら声をかけてくる。


「素敵なお話ね……騎士とドラゴン……瀕死のドラゴンを、騎士のキスで救っちゃうなんておとぎ話みたい。でも、ただのキスじゃなくてディープキスなのが、私達魔物娘らしい、大人のおとぎ話って所かしら♪」

興奮した面持ちのラミアも居る。恐らく、いや間違いなく、ここに居るほぼ全員が、私達の今のやり取りを見ていたのだろう。そう考えると、私の頭から湯気が出てきそうな程恥ずかしく、顔が熱くなっていくのを自分でも感じた。

「リーンハルト……」

私のよく知る声が、すぐ目の前から聞こえる。

「リエル……! 助かったんですよ、貴女は!」

騒ぎのせいで起こしてしまったのだろうか、リエルが薄目を開けてこちらを見やる。喜色満面、手放しで喜ぶ私を見て、なんとも辛そうな表情の彼女だったが、精一杯といった様子で笑顔を返してくれた。

「本当に、なんとかなったな……自分でも信じられん」

「リエルはもう喋らないで下さい。傷が回復するまで、安静にするんです」


「そうじゃ。言うて、相当危険な状態に代わりはない。もうすぐしたら我らがサバトの魔女達がやってくるので、場所を変え、主神による祝福を取り除く高度な魔術に取り掛かってやる。……それまでは、場合によってはもう一度“でぃーぷきす”で、主の唾液を送り込むんじゃぞ?」

ニヤニヤするバフォメットのせい、いや、お陰でなんとも場の空気がえも言われないものになってしまうが、私は素直にリエルが救われた事が嬉しかった。心の底から自分の行った事を悔いていたのに、こんな、有難い結末を迎えられるだなんて。

「それじゃ、私は言われた通り安静にしておくよ。流石にキツいのでな……」

リエルが辛そうに、片目をつむりながら言う。苦痛に歪む顔を見て、こちらも真剣な面持ちになった。
その時、聞くだけで全身に虫唾が走るような声を耳にする。


「クソ……ドラゴンを仕留め損なったって言うのか? 悪運の強い奴だ……」


 見ると、バフォメットの魔法によって手足に魔方陣の枷をかけられたパオロが、忌々しい表情で悪態をついている。地に倒れつつ、左腕からは私が与えた剣の一撃により、痛々しい傷があり、多少出血をしてはいるものの、それでも私の怒りは鎮まらなかった。

「あのドラゴンを貫いた時、もっと抉るようにして傷つけておくべきだったな……折角の手柄が台無しだ」

「貴様ぁッ!!」

 我慢出来なかった。ここにきてなお、悪態を、それもリエルに対してつくパオロに、完全に理性は吹き飛んでいた。顔に貼り付けたその薄ら笑いも、私の怒りを爆発させるのに十分な威力を持っている。
 剣を抜く。奴の首を取らないと気が済まない。怒りによって力んでいるせいで、視界の端がチリチリと焼け付きながら、パオロへと大股で近づいていく。

「そこまでじゃ、リーンハルト」

 しかし、意外な事にバフォメットがそれを制止した。
 先程までのつかみどころの無い態度とは一変し、サバトのリーダーとして相応しい威厳を伴った口調でバフォメットは私に向かう。

「主が己を律せず、この身動きも取れない男に手を下すのは簡単じゃ。恨みを晴らせば気持ちよくもあろう。……じゃが、この男と同じレベルに下がってしまうつもりか? それに、怒りに身を任せる事が出来る者を探すのは簡単じゃが、耐える者を見つけるのは至極難しいぞ?」

 低い、落ち着いたその声は、不思議な事に私へ理性を取り戻してくれた。震える握りこぶしを抑え、怯えたような表情になっていたパオロの前で、私は剣を鞘に戻す。

「はい、それでもこの男に罰を与えなきゃ気が済まないっていうのは、皆が思ってる事よね。それじゃ、私がこの生意気な子にお仕置きをしてあげる♪」

 そう言ったのは、周囲を取り囲んでいた魔物娘達の一人、下半身が蜘蛛の形をした種族『アラクネ』だった。
 八本の足で器用に歩く彼女は、未だ身動きが出来ないパオロに近づき、彼をその美しい女性の姿をした上半身まで、黒光りする、細いものの強靭な蜘蛛の前足二本で掴み上げた。

 「ひっ」という小さな悲鳴をあげるパオロ。流石にアラクネには恐怖を感じたのか、いつもの薄ら笑いはなりを潜め、顔を強張らせている。


「なんだお前! 俺に触るんじゃ……な、何を!?」


 それでも強気に威嚇するパオロだったが、アラクネは全く意に介する事なく、鼻歌を歌いながら機嫌よくそんなパオロを尻目に、滑稽だとでも言いたげにご自慢の蜘蛛糸でパオロの首から下全てをがんじがらめにしてしまった。

「く、クソ、動けん」

 蜘蛛糸の中で暴れているのだろうが、いくら力んでも遂にその影響は現れなかった。逆に、暴れれば暴れる程アラクネの顔は嬉しそうに、笑顔で満ちていく。

「あん♪ 本当に生意気な子なのね……私、こういう子が好みなの。しっかりと調教してあげるから、覚悟しててね……♪」

 遠くで見ている私ですらゾッとするほどの嗜虐心が垣間見える表情で、舌なめずりをしながら蜘蛛の脚で掴んだパオロを見据えるアラクネ。それを間近で見たパオロの顔からは、血の気が見る見る内に引いてしまっていた。

「お、おい頼む。誰か助けてくれ……い、嫌だっ こいつ凄く怖いんだが!? 助けてくれー!!」

 最後の断末魔と共に、もはや我慢が出来なくなったアラクネに大事そうに抱えられて、近くにある森の方角へとパオロは消えていった。

「運が悪い奴じゃ。あのアラクネは、アラクネの中でも特に気性が激しく、ハードなプレイを好む奴なのじゃが……あやつは調教されて、もう二度と悪い事など出来なくなるじゃろうな♪」

 その場に居る全員が、私もリエルも含め、心の底から笑い声をあげたのだった――――





 ――――あれから数週間が経った。
 ヘルメスは完全に親魔物領として生まれ変わった。後で知ったことだが、魔物娘達の策略は目を見張るものがあり、私が想像してた以上に深い根回しが行われていた。商人達の一部はジパングから来たという計算高い魔物によって完全に服従していたし、少なくない住人がサバトの信者であり、それに、この街を警備していた衛兵、ヘルメスの警備を担当していた教団騎士たちも先の戦いに敗れた際、それぞれ魔物娘に見初められてそのまま夫婦となってしまった。

 今では、反魔物派の人間の方が少ないというのが驚きである。
 ……それに、魔界の商品が流通し始めた事により、以前より更に取引や貿易が活発になり、経済が以前より発展してむしろ人間側にとってプラスになった事は、驚愕すべき事だろう。

 ヘルメスの及ぼす影響は大きく、近隣の諸国も特に深い理由があって反魔物領となっていたわけでもなかったので、ヘルメスに倣い、次々と小国達は方針を変え始めていた。

 しかし、教団が深く根付いているテミスのみ、そうは行かなかった。希望の剣といわれた私が教団を裏切った事実もまた、民衆に深い動揺を与えてしまったが、逆に魔物と仲良く手を取り合っている私を支持してくれる人間も居たのは、とても喜ばしい限りだ。司祭様も、立場や関係は変わってしまったが、ありがたい事に出会った時は以前と変わらない態度で自分に接してくれる。
 深い確執が出来て、取り付くしまもない状態……という訳ではないので、このまま行けば徐々に関係も改善できるのではないかと思っている。

 因みにアルノルト率いる精鋭騎士団は、とある任務で国外に出払っていたものの、ヘルメスでの大騒動については既に連絡が飛んでおり、聞き及んでいるらしい。だが急遽引き返す予定もないらしく、アルノルトたちが帰ってくるのも随分先だと、司祭様が仰っていた。

 アルノルトが帰ってくるまでに、テミスとの上手い折り合いを見つけられれば良いのだけれども……。だが、漠然としてはいるが、なぜかリエルと一緒ならどんな困難も乗り越えられる自信があるのだ。

 ……そして、私は、リエルと共にヘルメスの領主となっていた。どれもこれも、全てバフォメットの計らいで、実際の政務もほぼバフォメットが行っており、私とリエルは、魔物と人間が手を取り合う象徴として、ヘルメスに存在している。……以前居た、金にがめつい富豪の領主も魔物娘に骨抜きにされて、今や地位などどうでも良いらしい。


 私は今、脅威の生命力ですっかり傷も完治したリエルと、あの広場で、一緒にヘルメスの街を見下ろしていたのだった。

 眼下には、親魔物領となっても相変わらずの景色を見せる、ヘルメスの町があった。心地よい風が私とリエルの横を通り過ぎ、二人の髪を軽やかに揺らしていく。
 前と違うのは、リエルは魔力で姿を変えることなく、あの輝く爪、鋭い角、大きくて、そして彼女の気持ちを密やかに体現する尻尾を隠す事なく晒し、ありのままの姿のリエルと共にこの広場に居られる事だ。

 互いに、手を握り締めながら。



「パパー ママー」


 あどけない声が背後から聞こえる。リエルと同時に振り返ると、そこにはリエルが住んでいた古城へ遊びに来ていた、彼女曰く“嵐の子供”が居た。
 ヘルメスに居を構えて、もうあの古城へ行く理由はなくなったものの、この子達が気になったリエルは古城へこの子達を出迎えに行ったのだ。そしていつもの様に遊びに来た子供達へ話を聞いた。……すると、この子達はなんたる偶然か、ヘルメスの孤児院に居る孤児だったのである。

 彼女の強い要望によって……そしてもちろん私も快く同意し、この子達三人を引き取ったのは言うまでもない。


 三人の内の一人、唯一の女の子、ケイトがリエルに向かって駆け寄り、バフッと音を立てながらリエルの下半身に飛び込んで抱きついた。

「こらこら、あまり走ると、ころんで怪我するぞ」

「ごめんなさーい」


 そんなケイトを見て、思わず私も笑みがこぼれる。なんとも幸せな日々が続いていた。……さすがに、形だけとはいえヘルメスの領主になるとは思わなかったが。

「ケイト……悪いんだけど、先に家に帰ってくれないか。今からパパと、大事な話をする所なんだ」

 リエルが、真剣な面持ちでケイトに語る。ケイトも幼いながらとても賢い女の子で、リエルの言う事をよく聞いてくれる。
 ケイトは「分かった」と頷き、広場のすぐ近くにある家へと帰っていった。


 しかし、私は何か大事な話があるとは一切聞いていなかった。


「で、リエル。一体何の話が……?」

 尋ねる私に、不敵な笑みを浮かべるリエル。彼女の真意が、今回ばかりは上手く読み取れない。

「私の傷も、見事に完治した。そして、あの戦いの後始末もやったし、色んなことが終わってひと段落した。……だからこうして二人で、改めて広場からの景色を一緒に眺めている。違うか?」

 なぜか腰に手を当て、胸を張り、私の顔を覗き込むようにして聞くリエルに、若干たじろぎながらも肯定の意を示した。なぜか、段々と胸中に不安がこみ上げてくる。

「そして、私が死にそうになった際、深く後悔したことがあって、それをお前にも伝えたんだが……覚えているか?」

 あの時の事はあまり思い出したくはないが、彼女の質問に答えるべく、記憶を辿っていく。強烈な出来事だったので思い出す事は出来たが……まさか。

「えーと……確か『片思いでも無理やりお前を〜』ってくだりかな?」

 苦笑しながら頬をかく。
 リエルは、ニヤリと意地悪く微笑んでから私の右腕を大胆に掴んだ。

「ご名答だ。私は魔物娘である。色んな事で迷い、思案したせいであんな後悔を生んでしまった。やはり、気に入った男には積極的にアピールしなければな。だから、誰にも邪魔されない、私達が出会った、思い出のあの古城へ今から行き、出会いからやり直しとしよう! ……それに、もう体力も回復したのだから時期的にも、そろそろ良いだろう……?」

「ですが、リエル……それは構わないのですけど、まだ昼ですし、また今度という訳には……?」

 私は二人の頭上で気持ちいいくらいに青く広がる、快晴の空を仰いでみる。しかし、もはや意を決したリエルを止める事は私に出来そうになかった。
 言うが早いか、彼女は既に翼を広げ、私をやさしく抱えながら広場の柵を飛び越え、空へと飛び立っていたのだ。


「ダーメーだ♪」


 どうやら、魔物娘によるおとぎ話の結末は、良い子に聞かせられるような結末じゃなさそうだった。

13/12/29 04:19更新 / 小藪検査官
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■作者メッセージ
 どうも、小藪検査官です。これにて初めて挑戦した連載物のお話は幕を閉じます。かなり長めな文章になってしまいましたが、ここまでお読み頂けた方がいらっしゃったらとても、とっても嬉しいです!
 色々このお話で書ききっていない描写もあるので、もし気が向いたら後日談を書くかもしれないです。その時は、よろしくお願いしますw

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