連載小説
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剣と竜と教団と 中
「……また来たのか」

 落ち着き払った声が、謁見の間に響き渡る。かつての王が座っていた、玉座に気だるそうに腰をかけ、頬杖をつく為、怠惰に体を傾けている魔物……人間の姿をした、ドラゴンが。



「気配が少ないと思ったら、一人だったとは。まさか本当に一人で来たんじゃないだろうな? 前のように背後から奇襲でもさせるのか? それとも今度は後がなく、討伐を失敗出来ないので、軍勢を引き連れて待機させてあるのか?」

容赦のない口調。その言葉からは静かな怒りと同時に、どこか悲しげな諦めにも似た感情が伝わる。

「いや、今回は一人で来ました」

私が単刀直入に答える。その答えは流石に予想外だったのか、少しばかり目を見開かせるドラゴン。

「ほう……前回の戦いぶりから相当やり手な男だと思っていたが……これも罠なのか、それとも本当に愚か者なのか……」


 言葉とは裏腹に、ドラゴンの声音からはとても安らぎ、ともすれば嬉しそうな気持ちが伺えた。……疑問を解決する為にわざわざここへ赴いたと言うのに、逆にもっと疑問は膨らんでしまいそうである。


「それで、一体なぜ一人で来た? 散歩の途中にここへ顔を出したワケでもないのだろう?」

 嬉しそうな感情を声音に表していたのも束の間、すぐに元の不機嫌そうな、気だるい口調で辛辣な皮肉を込めてくるドラゴン。その表情を見ても、あまり愉快そうではない事が見て取れる。

「そうですね。疑問を解決しに……貴女へ、会いに来ました」

 そう、私が言った時、無意識かそうでないかは分からないが、ドラゴンは居住まいを正してこちらを見やった。先程まで気だるそうに頬杖をついていたのに、あまりにも突然居住まいを正した為に、その動作は少し滑稽にも見えた。

「な、何? 私に会いに来た、だと?」

「そうですね。そう、なります」

 ドラゴンはなぜか頬を若干紅く染め、そわそわとし始めている。まさかとは思うが、私が彼女に会いに来たという事実に嬉しがっている、と思えるようなその様子が、更に私を悩ませ、苦しませる。魔物、ドラゴンであるはずの彼女が、なぜ?

「ふん……私を騙す嘘ならば、これほどまでに稚拙な嘘は愚か者でも思いつかないぞ。さすが人間、滑稽だな」

 そう言ってそっぽを向くドラゴン。

「貴女は前回、精鋭の仲間達を連れてやって来た私達と戦いました。……しかし最後、私達が撤退する際に、貴女ならいくらでも追撃が出来たはずなのに何もせずただ見ているだけだった。……それだけではなく、ともすれば、戦いをやめられる事に嬉しさを感じているかのような表情さえ浮かべていたのを覚えています」

 前回での出来事を思い浮かべながら話す。何度考えてみても、あのドラゴンの表情が見間違いだとは思えなかった。別の考えがあったのかは分からないが、もしかすると、彼女は本来人間との戦いを欲してはいないのではないか、という可能性が湧き起こってくるのだ。

「それに最初は伝承通りの姿だったものの、途中からは美しい女性の姿にもなりましたね。聞いた話によると、魔物はあの姿で男をたぶらかし、人間を餌食にするはずなのですが……」

 すると、ドラゴンはチラリとこちらを一瞥する。

「貴女は、ドラゴン。魔物だ」

 ドラゴンは、なぜか相変わらずそっぽを向いたままだが、少しだけこちらを見やりながら、耳を傾けている様子だった。
 私は胸中に渦巻くもやを吐き出すかの如く、思いを言葉へ変えていく。

「そう、魔物。人を襲い、食らう。しかしいつからか貴方の様に、人間の、それも美しい女性の姿をした魔物が溢れ返りました」

 そこまで言った所で、先程からドラゴンがゆらゆらと揺らしていた尻尾の動きが止まった。

「ですが、それでも奴らの獰猛さは衰える事なく、むしろ昔よりも積極的に人を襲い、さらって行きます。……はずなのです。ですが、私が見る限り貴女は……」

 その時、ドラゴンはそっぽを向く事をやめ、こちらに向き直った。その顔には静かな怒りの色が浮かんでいる。

「うるさい!」

 私の話は、ドラゴンの鋭い一声で終わりを迎える。その声で怯んだ私は、彼女の先程までから一転して、不満そうな、“聞き飽きた”とでも言いたげな表情を見て、どこか言葉に表せない気持ちを覚えた。


「……そう、私は魔物だ。獰猛な魔物」

一気に張り詰める空気。
誰がどう見ても、悲しそうな顔。人間の“それ”と変わらない仕草、表情は、私の疑問を際限なく膨らませるのに十分な力を持っている。そもそも、ここまで会話をし、意思疎通が出来る魔物など、私が聞いてきた“はず”の魔物にありえるのだろうか?


「……ですから、私は、貴方がそういう魔物には見えない、と言いたいのです」


 私は、尋ねたかった。なぜ人を襲い、食らうといわれているはずの魔物なのに、貴方は目の前に居る、武器すら構えていない私を襲い、餌食にしないのか、と。だが、心のどこかで分かっていたのかもしれない。このドラゴンが人を襲わない理由、そして、彼女が悲しむ理由を。


「……いや、それは違うぞ。私は本当に獰猛で、恐ろしく、厄介で、それでいて全人類から疎まれるドラゴンだ。お前には本性を見せていないだけで、その気になればその細い体など、バターをすくう時となんら変わらないほど容易く一思いに引き裂ける。そして、その肉塊を食料にしてやれるのだ」


玉座から勢い良く立ち上がる。松明の光を照り返すほど、鋭く輝く爪を自身の眼前に持ち出し、迫真の勢いで話すドラゴン。その切羽詰った表情、そして言葉を聞いた私は、ドラゴンが、心の奥底に芽生えた期待を裏切られた……そう思っている風に思えた。

「人間など、みなすべからく愚かだ。こんな茶番もやめにして、さっさと剣を持ったらどうだ? はやく血みどろの戦いを繰り広げて、決着をつけようじゃないか。貴様の肉体も、私が食料として今まで喰らってきた人間と同じようにおいしく喰らってやろう」

私は自分の選んだ言葉によって招いてしまった、不本意な事態に戸惑う。一体どうすれば、触れてしまった彼女の怒りを鎮められるのか……と、悩んでいたその時、ふと思いもよらなかったものを見つけた。


「……その、玉座の後ろから姿を見せているものも、食料なのですか?」


 私が指をさす方へ視線を辿らせたドラゴンは、己が座る玉座の後ろからひょっこりと顔を出す、三人の幼い子供の頭を見て、とてつもなく慌て始めた。


「わっ! バカ、隠れてろと言っただろう!」

 私を引き裂くと語っていた時に突き出していた爪の生えた両手を、今度は忙しなく横へあたふたと振るドラゴン。あの玉座の背後に身を隠していた子供三人は、なんなのだろうか。

「ねえねえ、お姉ちゃん、あの人だれー?」

「姉ちゃんのおこってる声がきこえたけど、どうしたのー?」

「おなかすいたー」

男の子二人、そして女の子一人。三人とも幼い子供だ。粗末な麻の服を着ている。
三人は、純真無垢という表現がぴったりな、宝石のようにきらきらと輝く両目でドラゴンを下から見上げ質問を投げかけていた。

「ほ、ほらほら、いいからあっちの部屋へ行ってなさい!」

慌てて三人を制すドラゴン。先程までの真剣な表情と雰囲気、そして威厳が台無しになっていく光景だ。

「なんでいきなり、あわててかくれんぼ始めたのー?」

「あのひと、わるいひとなのー?」

 それでも、三人はよく息を殺して耐えた方だった。本来ならあのくらいの年の子供など、言いつけられたところで我慢できず物音を立ててしまうのが普通だろう。なのに、私が気配を全く感じなかった上に、今まで物音ひとつたてなかったのだから、子供にしては上出来なはずである。

「……それで、この三人も本当に、貴方の食料なんですか?」

 私の問いかけに、ドラゴンは慌ててこちらへ向き直り、胸を張って笑顔を取り繕った。

「あ、ああ、もちろんそうだ。この子達は私の非常食で……」

「おねえちゃん、おなかすいたー」

「……分かったから。後で干し肉あげるから」

 ドラゴンの弁明の最中、余程我慢が出来なかったのか、よく誰かに梳かされている事が伺える、綺麗な長髪をした女の子が催促をする。それに対し、ドラゴンは観念したように目をつむりながら干し肉をあげる事を約束し、無言で後方にある、よく見れば松明の光が漏れる部屋を指差した。
 子供たちはそれぞれ笑い声をあげながら、ドラゴンに感謝しつつ言う事を聞いて部屋へと一目散に駆け出していく。



「…………」

 ドラゴンが沈黙し、顔をうつむける。

 私が、何か言葉をかけようとした時、ちょうどドラゴンの方から口を開いた。

「大体、一年前くらいからか。あいつらが嵐の様にこの古城へ遊びに来たのは」

 観念したのか、食料という彼らの設定をかなぐり捨て、ドラゴンはポツリポツリと語り始める。

「最初は、また盗賊が城に眠る財宝目当てにやってきたのかと思ったが、そうじゃなかった。あいつらは盗賊よりタチの悪い、小さな嵐そのものだったよ」

 そして、小さな笑みを浮かべるドラゴン。次いで、私が来た時と同じように、玉座へ腰をかけ頬杖をつき始めた。

「最初は城の周り、庭、入り口辺りで遊んでいた。だが、ある日奥深くに入って来て、ついに私の居る謁見の間までやって来てしまってな。あいつらは私を見て“おねえちゃん”だの言って慕ってきたんだが……私としてはここに居つかれても困るので、追い払おうとわざわざ旧魔王時代の姿へと変身して驚かしてやったのだ」

訓練された大人の戦士でも、あの姿のドラゴンに睨まれれば腰を抜かすだろう。それを、まだ年端もいかない子供に向かってやれば確実にトラウマが残るはずだ。私は、そんな彼女を少し大人気ないなと思ってしまった。

「だが、あいつらはどうしたと思う? ……ギロリと睨みつける私の両目の前で、キャッキャ笑って鼻先に乗っかってきたんだよ」

 呆れたと言わんばかりにかぶりを振りつつ、微笑をたたえるドラゴン。
……だが正直、私でさえあの姿のドラゴンと相対した時は恐怖したというのに……あの子供たちは将来勇敢な戦士になれるだろう。

「それからと言うもの……どうもあいつらを追い払う気にはなれなくてな、よく遊びにくるようになった。私の住処だった古城が、いつしかあいつらにとって体のいい遊び場となってしまったのだ。一番近くの町から来ているんだろうが、それでもここから少し距離がある。ここに来るまでが危ないので、あまり来て欲しくはないのだがな……」

遠い目をしながらそう心配しているドラゴンだったが、無意識なのか尻尾が若干左右に揺れており、その顔もどこか嬉しそうだった。

「まぁ、私も暇を持て余していたし……あれくらいの年の子供は人間の括りに入らないだろう? ほ、ほら、もう小動物となんら変わりないじゃないか。お前もそう思うだろう? ……だから、時折話し相手になったり、私の食料を分けてやったり、遊びすぎて遅くなったらここに泊めてやったりもする」

そこでもう一度念をおして「いいか? あいつらは野蛮で低俗な人間としての括りに入れてはいないのだ。つまり、人間と仲良くしている訳じゃないのだからな」と私を睨みつけながら付け加えるドラゴン。思わず、笑みがこぼれてしまいそうだったのを我慢する。

「そう……ですか。よく分かりました」

 私は静かな笑みをたたえながら、ドラゴンの話を聞きつつ、少しうつむかせていた顔を上げる。どうやら、私はとある答えを見つけられたようだ。少なくともここへわざわざ出向いた価値はあったようである。……しかし、上手く言葉に出来ない、よく理解できない感情に関しての疑問は、ここへ来る前より膨らんでいるみたいだったのが心残りだが。

「それでは、私は帰ります」

 短く、そう告げた私は、旅人に好まれよく使われている、茶色い質素なマントを翻しながら、来た道を引き返す。
 その時背後から聞こえたのは、意外にもドラゴンの少々寂しげな声だった。

「なっ……もう帰るのか?」

 私は振り返る。すると、ドラゴンはハッとして口をつぐんだ。大方、プライドの高い彼女の事だ。受け取り方によっては、来客が帰って寂しいという意味になってしまう今の発言を恥じているのだろう。

「ええ。目的は果たしました。ですが、まだ心残りはいくつかありますので……」

ドラゴンは立ち上がったあと何も言わず、ジーッと私を睨みつけている。

「……また、“疑問”を解決しにここへ来るかもしれませんね」

 私の言葉を聞いた彼女の表情が少し明るくなったのは、単なる思い違いなのだろうか。だとしたら、一体私はどこまでおかしくなってしまっているのだろうか。教団騎士として、敬虔に過ごしてきた私は、一体どう変わっていっているのだろう。少なくとも、以前の私なら、魔物とこうやって普通に会話は交わしていないはずだ。

「そうか。また、来るのかもしれない、という事だな」

 言い終わった彼女はくるりと回転し、私に背を向ける。そして少し間をおいてから

「お前は特別に殺さないでおいてやろう。既に三人も部外者を迎えているこの古城だ。……今更、一人くらい増えても大して変わらん」

 と、半ば捨て台詞のように言い放ち、あの子供たちが駆けて行った部屋へ向かった。

 彼女の、夜明けの空の色を写したような、濃い紫色をした美しい長髪を背後から少しだけ眺めた後、私は今度こそ元来た道を戻っていったのだった……。




 それからというもの、私は職務をこなしつつ、暇を見つけてはあの古城へ通う日々を送っていた。私がドラゴン討伐の任に就いて、彼女と出会ってから胸に抱いていた疑問……。幼い頃より勉学に励んでいた時に受けた“魔物”の教えと、実態の相違の可能性。
 それを、初めて一人で古城に訪問した日に解決した。……はずだったが、私の胸中に残っていた、霧のように広がる疑問はまだ残っているのである。

 自分の事だと言うのに、何を疑問に思っているのかという事自体が、今の私には分からない。彼女を見ていて感じた事、思った事。それらの理由が、説明出来ず、自分自身の感情に振り回されるという滑稽な事態に陥ってしまっていた。


 ……なので、その“疑問”を解決する為、今日も教団騎士の職務と主神への祈りを済ませた私は、あの心地よい風の吹く丘陵に建つ古城へ足を運び、最初は素っ気無く私をあしらうものの、尻尾は嬉しそうに左右へ揺らす彼女を見てつい、顔を綻ばせてしまうのだった。



 そんな一時を過ごし、私は愛用の白馬を走らせテミスに帰ってきた。白い壁が鮮やかな民家が立ち並ぶ、のどかな町の通りを馬に乗って通り過ぎる。
 道端では子供が数人、木の枝を持って遊んでいたり、様々な商品を扱う雑貨屋の入り口から体格のいい男性が、商品が詰まっているのであろう木箱を肩に担いでどこかへ運んでいたり、夕暮れ前の一時を雑談に費やす主婦の一団が、町を彩っている。

 そんな光景を眺め、私は微笑を浮かべる。幼い頃から熱心に勉学と剣術に励み、教団騎士に志願したのは、国のヒーローであるアルノルトに憧れていた事もあるが、何より町の平和を守りたいという気持ちが、一番の理由だった。
 
 愛おしい光景を眺めながら馬に跨り、大聖堂に向かっている最中、とある小太りの男性が私に気付き、「やぁ、リーンハルト!」と声をかけ手を振る。それを聞いた回りの数人も、男性にならって私を見つけ挨拶をしてくれた。
 もちろん、笑顔を浮かべこちらも手を振り返す。たとえ私がこの国の者ではなく、本当に旅人だったとしても、この町の住人は今みたいに暖かく出迎えてくれていたに違いない。

 心が温かくなるのを感じながら、やっと私は大聖堂へと到着した。

 近くに馬を繋ぎとめ、大聖堂の荘厳な装飾が施された美しい入り口をくぐり、重厚な両扉の片方を押し開く。
 年月を感じさせる音を立てながら開いた扉の向こうには、大理石で出来た白い床と、ホール一面に置かれた、敬虔な信者が腰を下ろし祈るための長椅子、そして見事の一言に尽きる、高い壁に配された神々しいステンドグラスが目に入った。

 私は広いホールの最奥に置かれた、主神を司る象徴の神像を一瞥したあと、静かに目を閉じて胸に手をあて、短く祈った。
 その後、数人の民が祈りを捧げている厳粛な空気に包まれているホールを抜け、教団関係者しか通らない通路へと入る。
 その通路の先にあったのは、一般市民のために開放されているものとは違う、もうひとつ作られた小ぶり ―入り口のものと比べれば― な礼拝室だ。

 ここは市民の祈りを邪魔する事なく、教団関係者が日々の祈りを済ます為に作られた場所である。
 私はここ最近、特に祈る回数が増えてきていた。……その原因は……認めたくはないものの、そう。きっと魔物と慣れ親しんでいるから、だろう。

 数段設けられた階段を上り、その真後ろにある窓から差し込む光によって影を作る、意匠を凝らされた神像の前に片膝をつく。両手を組んで目を閉じ、神への祈りを捧げようとした。……その時だった。


「おやおや、これは我が国の“希望の剣”、リーンハルト殿じゃないか」


 突然、背後から鼻につく、白々しい声が聞こえてきた。祈りを中断し背後へ目を向けると、そこには年若い、常に薄ら笑いを浮かべた男……パオロが居た。

「……パオロさん、祈りの最中に声をかけるのは少々、マナーが悪いのでは?」

 思わず眉根にしわを寄せながら苦言を呈してしまう。不愉快さを感じた理由を正直に言うと、祈りを中断させられた事だけではなく、私はあまりこの男を好いてはいなかったせいもある。

「いや悪い。この頃外出をよくなされるせいで、すれ違ってしまい中々お声をかける事が出来なかったのでねぇ。やっと見かけたもんで、つい嬉しくなってしまって……ハッハッハ」

 パオロは教団騎士の現騎士団長だ。……とは言っても、見ての通り着ている服は通常の司祭と変わらない服で、何より無辜の市民を守る為の剣術を鍛える騎士団に身を置いているというのに、パオロは剣術をそこまで熱心に学んでいない。
 実際、パオロは正式な騎士団長ではない。アルノルトが聖騎士に抜擢され、急遽国外での任を任せられた際、不在となる騎士団長の枠を埋める、という形でパオロが選ばれたのだ。パオロは位の高い司祭であると共に、教団の経理部門を取り仕切っている、いわば財布の紐を握る人物だ。

 確かにその働きぶりは有能で、担当する部門が部門なのも手伝い、教団内でもその権力は強大だった。

 しかし、パオロに関する黒い噂は実に絶えない。どれもが証拠のない、ともすれば井戸端会議レベルの噂話と同じ類の噂なのだが、汚職に手を染めているなどの話がよく教団内で出回る。
 誰かの権力が高まるにつれ、たとえ敬虔な信徒の集まる教団内でも、そんな下らない噂話が起こるのは人間の常なのだろうが、パオロの人間性といい、私はどうもこの男を信用する事が出来なかった。


「ところで、リーンハルト殿。次回のドラゴン討伐の任、出発の日程どころか会議の日程すら延期を繰り返していると聞きましたが……一体どうなされたのかな?」

 予想外な時点でその事を突かれたせいで、私は思わずたじろいでしまった。だがすぐに平静を取り戻し、この男には考えを見抜かれないように取り繕う。この男にだけは、私があのドラゴンと交友を深めているという事を、悟られてはならなかった。


「あのドラゴンはとても強力で、対抗するには様々な策が必要です。しかし、奴はドラゴンの中でも極めて温厚な性格であり、すぐに周囲へ害を成す事はないと思われます。ですので、まずは他の任を優先しようかと……」

 そこで、パオロは私の話の腰を折り、一歩私に詰め寄ってその薄ら笑いを更に深めた。

「あの任務の際に出会ったドラゴンに一目ぼれし、わざと任務を遅らせているんじゃ?」

 その言葉を聞いた私は、思考が停止してしまう。どう返事すればよいか、言葉が脳裏に浮かんではこなかったのである。
 しかし、パオロは私からの返事を待たず、心底愉快そうに笑い始めた。


「ハッハッハ、冗談ですよリーンハルト殿。まさか、希望の剣とも言われた貴方が、一匹の魔物風情にうつつを抜かすなどある訳がない。……いやいや、ジョークが下手で申し訳ない」

 私は心底安堵した。まさか、私がドラゴンの元へ通っている事を全て知っているのでは、と一瞬考えてしまった。この男にそれを知られてしまったら、きっとこの男はなんの躊躇いもなく私の居場所をここから奪おうとするだろう。
 現に、この男は偶然か、はたまたその逆か……教団内で自分にとって好ましくない態度や言動をとる人物の様々な失態を見つけ、ことごとく権力を貶めたり、最悪追い出してしまっているのだ。

 そんな私の心配をよそに、聞いていてあまり愉快ではない笑いをやめたパオロは、また一転して真面目な面持ちになった。


「ですが、色々策を練るのは構いませんが、時はそう長く待ってくれないという事は、忘れないように。“例のお客様”が痺れを切らさぬうちに、ね」

「ええ、分かっています。早急に解決してみせます」

 それを聞いたパオロは、また薄ら笑いを浮かべ「それでは」とだけ言い残し、その場を後にする。

 ……パオロの言った“例のお客様”とは、この国、テミスからそう遠くない位置にある商業都市『ヘルメス』の事であった。
 近年急成長したその都市は、豊富な経済力を背景に、近隣の国家にさえ多大な影響を及ぼし始めた。テミスに対しても例外ではない。
 特に経済が豊かではなかったテミスにおいて、ヘルメスの資金援助は、あまりにも大きかった。しかしもちろん、無償の資金援助ではない。
 ヘルメスを訪れる様々な商人達にとって、取引を行う場となるヘルメスには立地的な好条件と、更に“近隣に魔物が居ない”という安心があった。

 その、“魔物がいない”という、商人や都市を訪れる旅人の安心を、テミスが誇る教団騎士に保障して欲しい、という、遠まわしなお願いが、例の資金援助である。

 先に行われたドラゴン討伐の任も、各地で古城に棲みつくドラゴンの噂が持ち上がり、不安が募ってきた事に対するヘルメスの計らいだったのだ。

 私は、パオロのせいで中断してしまった祈りを再開する事なく、頭を抱える。誰もいないこの礼拝室において、私は多大な問題を解決する策、その糸口を探していた。だが、いつも考えているものの、上手い解決策が見つからないのだ。今、この場で奇跡的に閃く可能性はゼロに近いだろう。
 ……いずれ、教団騎士としてドラゴン討伐の任に赴かなければならない。その事が、まるで体に圧し掛かる巨大な岩のように、私の心へ圧力をかけていた。


 私は考える事を放棄して、私に向かって影をつくる神像に対し無我夢中で祈りを捧げ始めた――







 ……ある日私は、ドラゴンの住む古城へ足を運んでいた。
 しかし、王の謁見の間へ訪れたものの、いつも彼女が腰を下ろしている玉座には、その姿はない。謁見の間の近くにある、例の子供たちを遊ばせる部屋や、その他彼女がいくつか利用している小部屋を覗いたものの、やはり彼女の姿はなかった。

 彼女を探している途中、城の通路を歩いている際に、十字路に差し掛かる。その際、左側に伸びる通路をふと見やると、城の周囲が一望できるバルコニーと、外の光景を眺める彼女の姿が目に入ったのだった。

 私はそっと彼女の横へ進み出て、景色を眺めている彼女の横顔を眺めてみた。

「どうも」

 小さくそう挨拶すると、やっと気付いたのかこちらへ視線を移しながら苦笑を浮かべるドラゴン。

「なんだ、来ていたのか。……すまない、全く気配を感じなかった」

 景色を眺めるのに集中しすぎて気付かなかった、というのが正確なのであろう。実際、私も今彼女が見ていた景色を見渡しているが、これが中々、美しい光景だった。あと少し経てば、地平線にその身を預け始める太陽が放つ、橙色に染まりつつあった光が、眼前に広がる光景を更に美しく映えさせる。

「……綺麗な光景ですね。青々とした草原が風を受けて、悠々と揺れています」

 はるか昔には、城下町が一望できる光景であったのだろうが、それも昔の話。今や残ったのは立派な古城のみで、既に周りには丘陵と草原しか残っていなかった。夕暮れ前のどこか物憂げな雰囲気と合わさり、どことなく侘しさをかもし出している。……まるで、一人でここに住む彼女の様だと私は思った。

「ああ。ここから眺められる光景、私は好きだ。時々こうして辺りを見渡しながら物思いにふけったりするよ」

 言いながら、風景を眺めるドラゴン。私はふと、気になった事を口にしてみた。

「ここには、どれくらい昔から住んでいるんですか?」

「もう随分と昔になる。何十年だろうな……」

 流石に驚いた。それほど昔から住んでいるとは。

「そんな昔から、貴女は一人で?」

「ああ、そうだ。一人で住んでいるよ」

「……どこかに出かけたりはしないんですか?」

 そう、言った所でハッと口をつぐむ。出かけられる訳がないじゃないか。彼女はドラゴン。特にこの辺りでは、姿を見られるだけで大騒ぎになるのだ。 ……あまりにも彼女と交友を深めすぎて、人間の友人と会話をする気分となんら変わりがない気分で話していた為、つい失念してしまっていた。

「そうだな、人間に姿を見られると騒ぎになる。私は平穏に生きたいのだ。だから、食料になる野生動物を狩りにいく時以外はほとんどずっと、この古城に腰を落ち着けているよ」

 私が浅はかな質問をしてしまった事を悔いていると、顔にそれが浮かんでしまっていたのか、風景を眺める事をやめ、ちらりとこちらを一瞥したドラゴンが続けて口を開いた。

「だが、別に退屈してはいない。定期的に、と言っていいほど、この城に眠る財宝を狙う“来客”……賊の類がやってくるからな。と言ってもこの城に財宝は無いのだが……そう言ってもきかない賊共には、力づくでお帰り願っているが」

 そう言って、乾いた笑い声を発するドラゴン。お世辞にも、退屈していなさそうには見えなかったし、増してや愉快そうにも見えない。それもそうだろう、何年もの間、この古城が全ての世界だったのだから。

「でも、珍しいですね。ドラゴンといえば財宝を好み、集めているのが定説ですが。貴女は持っていないのですか?」

「ああ。珍しいだろう? 確かに、何人か私と同じ種族であるドラゴンを見た事はあるが、例に漏れず財宝に目がなかった。だが私は、なぜか財宝に興味があまりないのだ。実際、この城に住み着いた時、いくばくかの金銀が城に眠っていたが、最初に訪れた賊に全て渡してしまった」

 声をかけた時と同じように、目を細めまた苦笑するドラゴン。

「それに……今は賊なんかじゃない、本当の来客として、あの子供たちが居るから退屈どころか忙しいくらいだ。……あと、お前も居るしな」

 私はつい、彼女の横顔を注視してしまった。徐々に沈み始めていく太陽の光を浴びている、彼女の美しい横顔を。ドラゴンとはいえ、やはりドラゴンの中でも性格や嗜好は変わる、という事を認識する。それは、あまりにも自然で、我々人間たちと変わりの無いことだった。

 そこでふと、ある提案が私の脳裏をかすめた。

「……一緒に、どこかの街へ出かけられたら楽しそうですよね。変装でもすれば、いけるんじゃないかな……なんて、ハハ」

 我ながらなんとも稚拙な発想だった。だが、彼女の寂しげな横顔を見ている内に、どうしてもその様な話をせずにはいられなかった。ここでずっと一人で暮らしてきた、彼女を見ていると、だ。半分冗談で、そして半分本気の提案である。彼女が帽子を被り、上着をはおり、私がそばに居れば街にだって出かけられるのではないか、と思った。どうしても、彼女に、人間との争いを望まない平和な心を持つ彼女に外の世界を知って欲しかったのだ。

 てっきり“何をバカな事を”とでも言われ、一蹴されるのかと思っていたが、彼女はそんな事を言う私に視線を移しながら、目を丸くして少し驚いたような表情を浮かべている。
 しばらくして、何か声をかけようと思ったその時だった。

 突然彼女の周りに魔力が漂い始め、光を放ち彼女を覆ったのである。何事か、と思ったその時、光は止んで、先程とは違う彼女の姿が現れたのだ。

「ど、どうだ?」

 遠慮がちに、背後へ手を回しながら恥ずかしそうに尋ねるドラゴン。
 なんと驚くべき事に、彼女の手足を覆っていた堅固な鱗の代わりにしなやかな女性らしい手足が現れ、翼や角、尻尾といったドラゴンを象徴する部位がことごとく消えていた。
 それに加えて、呪文のような図柄が配されているが、人間が着るのとなんら変わりない、むしろ上等そうな服とスカートすら身に着けている。

「一体これは……?」

 目を皿にして驚く私に、彼女は私の質問に答えてくれた。

「これはだな……私の高度な魔力によってなせる変装の業なのだ。流石に、ずっと維持できるわけではないが、人間となんら変わりない姿だろう?」

 そう言って誇らしげに胸を張るドラゴン。確かに、人間と全く変わりのない姿をしている。ドラゴンと見破る事の方が難しいに違いない。

「ええ……確かに。どこをどう見ても人間だ。凄いです。それに、とても可愛いですよ」

 率直な意見だった。均整のとれた体に、しなやかな手と脚。夜明け前の空の色をそのまま写したのではないかと思うほど、誰もが見とれるであろう美しい髪。一般市民では着れなさそうな上等そうな服も、彼女から漂う気品をかき立てる。
 ともすれば、どこかの貴族出身なのではないかと見る者に推測させてしまうほど、彼女の人間時の姿は美しく……そしてどことなく、可愛いものだった。


「ああ。そうだろう、そうだろう。……え、え? かわ、可愛い、だと?」

 途中までうんうんと頷き、私の賛辞を受けていたドラゴンだったが、なぜか突然頬を赤らめて照れ始める。

「はい。完璧な変装ですし、とても魅力的な姿をしていますよ」

「な、なな……オホン。そ、そうか。それは、良かった」

 慌てていたものの、なんとか途中で咳払いを挟み、平静を保つ事に成功したようだ。
 だがそれも束の間、またもや慌て始めたかと思うと、彼女は両手をぶんぶんと横に振りだした。

「あ……べ、別にこの変装は、お前とどこかに出かける気が満々という訳ではない事を忘れるんじゃないぞ? オホン、飽くまでお前が変装などが出来れば、と言っていたので、私の高度な魔力があればこんな事も出来る、という意味であってだな……」

 私はそこでつい、笑ってしまった。ここまで慌ててくれれば、さすがにどんな鈍い人間でも彼女の真意を推し量る事が出来るだろう。今はなくなっているが、まるで彼女の腰辺りから伸びる見えない尻尾が嬉しそうに左右へ揺れているのが透けて見えるようだった。

「な、何がおかしいんだ……?」

 眉間に少ししわを寄せ、ムッとした表情を見せるドラゴン。私は笑うのを止め、素直に謝る。

「アハハ……いやいや、すいません、分かっていますよ。これは、私がお誘いする事です。そんな完璧な変装の魔法が使えるんですし、ちょうどいいですね。一緒に、街へ出かけませんか?」

 そう言われたドラゴンは、いつもの勝気な雰囲気を潜めながら、どこかしおらしい態度でこちらを見つめてきた。

「まぁ……私にはたくさんの時間がある。お前ら人間の他愛もない暇つぶしに付き合ってやるのもやぶさかではないが……」

 そして彼女は少し黙ってうつむいたあと、私を一瞥し、続いて言葉を口にした。

「そ、それでは話もまとまったみたいだし、行こうか……えーと……」

 と、なぜかそこで口ごもる彼女。私には一瞬その理由が分からなかったが、彼女の顔を見て、一体何を言おうとしているのかを理解し、そしてまたもや笑ってしまった。

「そういえば、私たちまだ名前も教えあってなかったんですよね。改めまして、私はリーンハルト、リーンハルト=エルケンスといいます。お見知りおきを」

 そう、名前をお互い知らなかったのだ。しかしこの短くない間、彼女の名前すら知らなかった事を私は悔しくは思わない。むしろ誇らしくさえ思う。
 名前を知らなくても互いに信頼に足る存在だったと思える事……更に、“貴女”や“お前”といった二人称だけで会話が成り立つという事は、今まで彼女と私だけの世界を築いていたという事だ。名前を互いに知っているという事よりも、もっと近しい関係だった証明になると思えるのだ。

「そうか……リーンハルトというのか……良い名前だな。私は、リエルという。同じく、お見知りおきを」

 彼女……リエルも、自己紹介を言い終わったところで笑い始めた。リエルが笑ったところを見たのはこれが初めてだった。

 そして、古城の近くに繋ぎとめておいた白馬に近寄り、私は馬を労うようにたてがみの近くを優しく撫でてやる。ブルッと顔を振るわせたあと、気持ちよさそうに軽くいなないた馬を見て、私は慣れた所作で馬に素早く乗った。
 横で待つリエルに“さぁ、どうぞ”と目で合図をする。……が、なぜか彼女は馬に乗ろうとしなかった。

「……? どうかしましたか?」

 そう聞くと、彼女は戸惑ったような面持ちで口を開く。

「い、いや……そのだな……乗り方はもちろん知っているのだが、馬に乗るのは初めてなので……いささか不安を感じるというか……」

 なるほど、話を聞いて得心が行った。

「長年を生きるドラゴンといえど、初体験になる事はまだまだたくさんあるみたいですね」

 私がほんの少しだけからかい気味に言ったのを耳にし、リエルは頬を赤らめる。

「当然だろうっ! 私はドラゴンなんだぞ? 翼で自由に空を飛べるのだ……わざわざ馬を利用する道理はあるまい。……だが、確かに……体験していない事も、その……色々とたくさんあるな……」

 尻すぼみになっていく彼女を見て、思わず微笑んでしまう。そして私はリエルにそっと手を差し出してあげた。
 それを見たリエルは、おずおずと私の手を取り、私が言う通りに ―“乗り方は知っている!”と怒られたが― 足をかけ、見事鞍に跨った。


「そ、その……どこに手を置いて良いか分からないし、不安なので、お前の腰に手を回したいのだが……初めての乗馬という事で、どうか勘弁してもらえないだろうか……?」

 馬に跨った背後の彼女から、申し訳なさそうな声が耳に届く。どうやら手を回す事に恥ずかしさを感じているようだが、私は全く構わなかった。

「そこまで億劫になる必要はありませんよ。……それでは行きましょうか。舌だけは噛まないでくださいね」

 彼女が私の腰に手を回す事によって、必然的に互いの体が密着する。リエルの暖かみを背中で感じながら、私は馬を走らせ、この辺りでも一番の大都市……『ヘルメス』に向かった――――







 ――――まず、ヘルメスに到着してからの彼女の反応といえば、それはもう、年端のいかない子供が控えめにはしゃいでいる様子、と言えば的確だった。
 目を皿にして街の様子を眺めたり、事ある毎に私の袖をクイクイと引っ張り、何か尋ねたり感想を述べたりと、忙しない事この上なかった。


「おい、見ろリーンハルト。私が最後に人間の町に訪れた時は、こんなしゃれたデザインの街灯なんか無かったぞ。それに、街の光源として松明やろうそくだけじゃなく、簡易的なものとは言え魔法すら取り入れているとは……」

 街灯ひとつ見るだけで、この有様だった。何かしらにつけて、自分が最後に訪れた町と比較をしてしまうので、驚きの連続なのだろう。
 恐らく、町へ最後に訪れたのは何十年も昔になるのだろうし、その頃にこの辺りではヘルメスくらいの大都市など存在していなかったので、街の規模自体が比べ物にならないだろうが。


 夕暮れとは言え、朝、昼と比べてなんら量の減らない人々が未だに大通りを闊歩していく。この都市の住人に対し、晩御飯の材料を買ってもらおうとしているのか、食料を取り扱っている商人達は異様に熱を加えて商品を道行く人にアピールしていた。


「ふぁ……」

 長年古城で一人住んできたリエルにとって、この人混みの量はさすがに目まぐるしいものがあったのだろう。ヘルメスとテミスの間に交わされた決まりで、定期的にヘルメスを巡回する事になっているのでよくここに来る私ですら、未だに圧迫感を覚える人の量なのだ。恐らく無意識に、彼女はなんとも気の抜けた声を漏らしていた。


「それにしても……凄いな……ちょっと目を離しただけで人間とはこうも爆発的に増えるものなのだな。私が知っているこの辺りと言えば、のどかな田園地帯が広がるばかりだったというのに……あっ、見ろリーンハルト、あの露店……」


 「はいはい」と、興味が湧いた事柄全てにすぐ反応する彼女に、苦笑いを浮かべつつ付き合う。……しかし、こんな嬉しそうな様子の彼女を、決してあの古城では見られなかったはずだ。私は意を決して、ここに彼女を連れて来て良かったと痛感した。


「リーンハルト……あれはなんだ?」

 私の袖を引っ張り、リエルが指をさす方向に目をやると、その先にあったのは綿菓子を売っている露店だった。確かあれは、ジパング地方から伝わった砂糖菓子だったはずだ。
 当のリエルは、その綿菓子を物珍しげに眺め、口を半開きにしている。

「あれは“わたがし”と言う、ジパング地方から伝わったお菓子ですよ。ここ、ヘルメスは港にも凄く近いので、色んな地方からの商品が流通しています。……リエル、食べてみたいのですか?」

 私の一言にビクンと反応し、こちらをその美しい双眸で見据えるリエル。もはや、返事を聞かずとも、彼女が何を言わんとしているのかが伝わってしまった。

「ん……しかし、私は人間の通貨を……」

「アハハ、大丈夫ですよ。そんな心配をしなくても」

 こういうところでも要らぬ心配をするリエルを愛おしく思いながら、私は露店に近寄り、綿菓子を一つ頼んだ。
 だが、まだリエルは私のそばから離れず、袖を二、三度引っ張った。

「どうしました?」

 私がそう聞くと、リエルは上目遣いのまま、柳眉を八の字にして私に尋ねる。

「その……買ってもらうというだけで十分有難いのはよく分かっているけど……一つしか注文していないみたいだが、私だけが食べるのは何というか…………つ、つまりお前と一緒に同じものを食べたいのだ!」

 その言葉は、なんとも予想外のものだった。改めて、彼女の温厚で、平和的な……そして女の子らしい心に驚きを覚える。もちろん、悪い意味での驚きではない。彼女は、今は人間の姿をしているものの本来はドラゴンであり、魔物なのだ。こんな様子を見せられて一体、人間と魔物になんの違いがあるというのだろう。

 私は、微笑みながら「そうですね、すみません」と付け加えて、綿菓子を売る男性に、追加でもう一つお菓子を頼んだ。

 ほどなくして出てきたふわふわの、淡い桃色をした綿菓子を受け取った私とリエル。リエルは、やはり物珍しそうにそのお菓子を様々な角度から眺めて、感心したような声を漏らしている。

「こうして間近で見ているが……こんな面白い形状のお菓子があるとは。まるで雲をそのまま切り取ってきたようなお菓子だな……」

 リエルのその、子供まんまな感想を聞き、私は今日何度目になるか分からない微笑みを、また顔に浮かべてしまった。眺めるだけでここまで時間を潰せるのも、彼女らしくて、つい心が暖まるような感覚に陥ってしまう。

「確かに、雲みたいですね……ですがそのお菓子、早く食べないと本当に雲みたいに溶けてなくなっちゃいますよ?」

 あまりにリエルが食べ始めないので、私が軽い冗談を言ってみる。……すると、その言葉を聞いたリエルは「えっ」と小さく驚いた後、私の冗談を真に受けてしまったのか、勢いよく綿菓子を食べ始めたのだった。

「ああ、すみません! リエル、さっきのは冗談なんですっ! まさかそこまで真に受けるとは思っていなくて……」

 私のその一言に、はむはむと綿菓子を小鳥がついばむように食べていたリエルが、やや目を吊らせながらこちらを一瞥する。鼻に綿菓子のかけらを乗せながらのその表情に、私は苦笑して謝る事しか出来なかった。

「全く……子供のような嘘をつく奴だな……。私は世間に対する知識に疎いのだから、そこを配慮して貰わないと困る。……ま、まぁ綿菓子を買って貰った事にはしっかり感謝しているがな……」

「それに甘くてとても美味しい……」と小さく付け加えるリエル。

「ハハ……すみません……」

 どうやら、そんな“子供のような嘘”に騙された自分も気恥ずかしかったのだろうか、少し不機嫌そうな顔になるだけで、あまり怒らないまま許してくれたようだ。

「代わりに、お詫びといってはなんですが、綺麗な景色が見える場所に連れて行ってあげますよ。ちょうどそこにベンチも置いてあるので、休憩も出来ますし。さ、行きましょう」

 先に言った通り、私は決まりとして定期的にここを警備もかねて巡回する。なので、必然的にヘルメスの事に詳しくなってくるのだ。そこで、ある日見つけた良い景色が眺められる場所を思い出し、リエルにも見せたくなったので提案してみたのだが……。

「まぁ、リーンハルトが言うのなら……」

 どうやら、受け入れてくれたようだった。私は、彼女の綿菓子を持っていないほうの手……空いた左手を、右手で握った。

「なっ、リーンハルト、何を?」

 不意に掴んだせいで、リエルが上擦った声で驚く。

「すみません。……ですが、この街では見知らぬ貴女が、より人間らしく街に溶け込めやすくなるかと思いまして……さすがに嫌だったでしょうか?」

 リエルは、片手に持った桃色の綿菓子よりも濃い桃色で頬を染めてしまった。うつむきがちに目を伏せ、しばらく無言になる。さすがに、自分としても出すぎた真似をしてしまったかと、後悔しようとした時、彼女が未だに頬を染めながら、ためらいがちにその整った顔を私に向けてくれた。

「本来ならこんな事、人間ごときにしてやらないのだが……お前がそう言うのなら……リーンハルト、お前だけ特別に許してやる」

 直接的ではないが、彼女らしい遠まわしの好意と信頼を確かに言葉裏から感じた私は、自分でも驚くほど、心の底から嬉しさが湧いてくるのを感じていた。
 次いで、彼女が言い終わると同時に、彼女も私の手を握り返してくれた。思わず、自分もやや驚いてしまう。

「ハハ……ありがとうございます」

 私の口から、自然に感謝の言葉が飛び出していた。



 ……だが、この日が人生の中でも最悪の時を迎える日になろうとは、その時の私は夢にも思っていなかった――――
13/12/10 03:04更新 / 小藪検査官
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■作者メッセージ
 どうも、小藪検査官です。全三話予定のこのお話の、中編でございます。
 今まで小説を書いていて思うのですが、人と人の会話が凄く苦手で、書き上げる際中々思い浮かべられないんですよね……。
 今後、書いていく内に素敵な会話を書けるくらい得意になれれば嬉しいんですけど……。

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