せんたく (微エロ)
相島家に帰った鏡花は、預けられている鍵で扉を開けると居間に荷物を置いた。
時計を見ると、定時で仕事が終わっているならば英の両親がそろそろ家に着いている頃合いだ。しかしここ数年は事情がなければこの時間帯に相島家の人間が帰っていることはない。
いつも通りならば、誰かが帰宅するまではもう少し時間がある。
携帯にも早く帰る旨の連絡がないことを確認して、鏡花は自分のために与えられている部屋で朝着ていた和服エプロンに着替えた。
別にメイド服のままでも構わないのだが、家の中ではこの衣装の方がしっくりと収まる。
幼い頃に着物を着始めた時には季節によって柄を替えるような外向けの華やかな衣装など自分には不要だと思っていたものだが、芹や真に季節の移り変わりが分かって助かると褒められて以来すっかり習慣化してしまった。こうなってしまうと無ければ落ち着かない。
窓を開けて干してある洗濯物を取り込んでアイロンをかけ、持ち主ごとに分けて畳んでおく。
庭の植物に水をやると米を炊く用意をしてから、鏡花は道着を持って風呂場に赴いた。
洗濯機では傷んでしまう洗い物専用に置いてもらっている桶にぬるま湯を張る。
剣道着や袴は藍染であるため、手洗いを推奨されている。
鏡花は英が剣道を始めてからというもの、ずっと道着の洗濯を自分の仕事としてきた。
他の家事は場合によっては労働こそ喜びという非常に好ましい性格をしている相島家夫婦と分担して行うこともあったが、道着くらいは自分で洗うと言った英から染料の繊細さを盾にして仕事をもぎ取ってからというもの、一度も他の者に譲ったことがない。
英に言った道着の繊細さは偽りなき事実だ。しかし、鏡花がこの仕事を頑なに自分のものとしているのにはそれ以外にも理由があった。
鏡花は耳を澄ませて家の中に誰も居ないことをよく確認する。
(――よし)
誰も居ない。
鏡花は真剣な目で膝に乗せた英の道着を抱え上げて、肺の中を空にするように大きく息を吐き出し、道着に顔を押し付けた。
「――――、――――」
吐き出した分以上を取り込むように深く深く息を吸う。
繊維や染料、色落ち防止のために浸けた酢のにおいや埃の臭いに紛れている英の匂いを鏡花は無意識に嗅ぎ分けることができた。
肺腑を満たしていく彼の匂いに思わず道着を抱きしめる手が強くなる。
心が昂揚していくのを自覚しながら、鏡花は道着に顔を擦り付け、深い呼吸を数度繰り返す。
神経を冒すような芳香に意識が蕩ける寸前。鏡花は非凡な自制心でもって道着から顔を上げた。
「……健康状態は良好、ですねっ」
そう、これは体臭を確認することによる健康チェックなのだ。
確認ができたのならば、他にもやることはあるのだし、すぐに洗濯をしなければならない。
(でも、もう少し……いえ、いけません)
そのもう少しが危険だ。
匂いを嗅ぎすぎると頭が英のことで満たされてしまって英本人の姿を見ないことには落ち着かなくなる。
気もそぞろで家事をして危うく料理が悲惨なことになってしまいそうになった過去もある。ここは我慢だ。
「健康に問題なし、です!」
誰に聞かせるわけでもない建前をもう一度口にして、桶に道着を漬けてもみ洗いをする。
家事に身が入り始めると、学校では表に出さないように努めていた不安が思考の表層に現れ始めた。
(そう、英君の体調は何も問題ないはずなんです)
にもかかわらず、今日の彼は調子が悪かった。
体調に問題がないというのなら、不調の由来は精神面だろう。
鏡花には英の精神を乱れさせているものの原因が分からなかった。
(普通のキキーモラならば、心が乱れてしまう前に察して支えてさしあげることができたのでしょうか?)
そう考えたことに対して鏡花は首を振った。
普通のキキーモラのことを考えても詮無いことだからだ。
鏡花には、誰に対しても秘密にしていることがあった。
キキーモラは生得的に人間の感情の機微を察する能力に長けているものだが、鏡花は英を相手にすると、その行動の機微から感情を推し量ることができなかった。
他の人に対しては問題なく行えている。にもかかわらず、鏡花が何よりも大切にしたいと思っている人に限ってそれなのだ。
なぜなのかと自問しても答えはなく、鏡花はただ自らを磨くことによって自身の欠陥を補おうと努めてきた。
そんなこれまでの研鑽も意味がないのではないかと衝撃を受けたのが今日の出来事だ。
今日一日の様子と今の検査で英の体調には何も問題がないことは明らかなはずだ。
事実、部活の時までは彼は普通に見えたのだ。
しかし、少し目を離した隙に、英は部長に手痛い一撃をもらって師範に練習メニューを切り替えるように言われるに至った。
彼らには剣を交えるだけで英がどこかおかしいと分かったのだろう。朝からずっと居てそれに気付けなかった自分が悔しくて情けない。
せめて原因を取り除こうと思って考えてはみた。
最近は勉強にも力を入れているということもあってか、今朝は起きるのがいつもより少し遅れ気味だったので寝不足を疑った。しかし匂いを嗅いだ限りでは日常生活に影響が出るほど睡眠が不足している様子はない。
だからこそ、彼の不調は精神面から来るものだろうと判断した。
何か、鏡花が知らないことで英は悩みを抱えているのではないだろうか。
そんな不安に駆られるが、英は何も言ってはくれないし、過去に英のためと思い干渉し過ぎた結果手痛い拒絶にあったことがあるため、無理やり原因を聞き出そうとするのは怖くもあった。
(いえ、あれは英君のためなどではありませんでした……)
英のためとおためごかしておきながら、その実昔の鏡花は自分の欲を満たすことを優先させていた。英はそれを感じ取ったのだろう。
そんな前科があるため、今回口を閉ざす彼から事情を聞き出そうというのが自分の欲を優先させていないと言い切れる自信が鏡花にはなかった。
それを思うと自身が欠陥のあるキキーモラであると知られてしまうかもしれないということも含めて、彼にこの件を問いつめることは躊躇われた。
今は見守るしか無い。
洗い終わった道着を見つめながら、鏡花はそれを結論とする。
「ご飯を炊かなくてはいけません」
そう言うと、鏡花は自分の結論に対する引っ掛かりを棚上げするように、次の家事に取り掛かった。
●
夕食を作り終わって調理道具を片付けていると、玄関が開く音がした。
足音からすると芹だろう。やがて、その通りの声がする。
「ただいま鏡花ちゃん。いつもありがとね」
「お帰りなさいませおばさま」
洗面所で手洗いとうがいを済ませて芹は台所に顔を出し、
「英はまだ帰ってないの?」
「英君は生徒会のお手伝いに行かれましたので少し遅くなります」
「鏡花ちゃんを一人で帰らせて、あの子は一体何のために武道をやっているのやら」
「おばさまやおじさまに似て、動いていたい方なのですよ」
苦言にフォローを入れると、「甘いわ鏡花ちゃん」と返された。
「この時間まで帰ってこないということは、仕事の後に友達と遊んでるわよきっと」
「息抜きも大切です」
今の英の状態では特に休息は大切だろう。
「まったく、家の男連中は料理が冷めたら温め直せば作りたてと同じ味かするとでも思ってるのかしら」
ため息交じりに言いながら、芹は苦笑した。
「あんなのだけどよろしくね」
その言葉に鏡花は深く頭を下げた。
「相島家の皆様のお世話を続けさせていただけるのでしたらありがたいお話です。この身に代えましてもおばさまの信頼に応えさせていただきます」
「あ〜……まあ、私が言うことでもないわね」
「いえ、失礼ながらおじさまよりもおばさまの方がこの家の実質的な主に近いのではないかと考えております」
「それは確かにそうね。私こそが絶対権力者よ」
頬をかき、芹は台所から顔を引っ込めた。
「着替えてくるわ。夕飯一緒に食べてく? ってまあ作ってくれたのは鏡花ちゃんだけど、ほら、芹おばさまも一品くらい作るわよ?」
「いえ、今夜は父母が帰って参ります。家で夕食をいただこうと伝えてありますので遠慮させていただきます」
「あー、そういえば……。うん、せっかくこっちに帰ってくるなら大事な一人娘をいつまでも独占してちゃ大取さんに悪いわね」
そう言いながら、芹は紙袋を持ってきた。
「じゃあこれ持ってって。駅地下のお土産。ご家族でどうぞ。
また遊びに伺いますと伝えておいてね」
「ありがとうございます」
ここで遠慮をすると押し問答になる。鏡花は素直に紙袋を受け取ると、家事の進捗具合を報告して相島家を辞し、隣の自宅に移動する。
玄関の鍵を開けると、背後から声がかかった。
「お帰り、鏡花」
振り返った鏡花は顔をほころばせる。
「ただいまお父さん。それと、お帰りなさい」
父親の大取航は、一週間ぶりの娘の顔を見て、精悍な顔を笑みで染めた。
「ああ、ただいま」
向こうとこちらの世界での物品のやり取りを行う物流会社の社長である航は、多い時で月の半分はこちらに居ない。
幼い頃からのことなので慣れてはいるが、久しぶりに会う肉親というのはやはりどこかほっとする。
「今月はこれで向こうに行く仕事は終わったからね、しばらくはアーニャとのんびりできるよ」
大儀そうに靴を脱ぐ父を労い、鏡花は彼の靴を下駄箱にしまって問いかけた。
「お母さんは?」
自身のふんわりとした雰囲気にそぐわず、父の秘書として傍に侍る姿が不思議と堂に入っている母の姿が無い。父が帰って来たのなら一緒に帰っているはずだがと思っていると、玄関が開いた。
「お帰りなさい鏡花。それとただいま。
旦那様の荷物は私がお持ちしますね」
鏡花のものよりも幾分か薄い色合いのアッシュブロンドが揺れる。
母親のアンナは、おっとりした口調からは想像できない、自然だが素早い動きで航の横に移動して手荷物を受け取った。
彼女の流れるような身のこなしは師範から学んだものだ。父も同じ師範から剣道を学んでおり、つまるところ彼等は英の兄姉弟子にあたる。
そもそも英が剣道を始めるきっかけとなったのはこの両親の紹介によるものだ。
身も心も鍛えたいという彼の要望に応えて父が提示したのだが、それで紹介したのが元勇者の師範である辺りなかなかスパルタだと思うし、それに付いていき力を付けていく英を鏡花は尊敬していた。
「相島さんのお家に挨拶に行ったらあなたはもう帰ったと言われましたし、英君も帰っていないしで、寂しかったわ」
どうやらすれ違いになったらしいアンナはウインクを寄越し、
「英君にまた遊びに来てねと伝えておいてくださいね」
「あ、それならお父さんも寂しがっていたと伝えておいてくれ」
「分かりました、伝えておきます。
今夜は私がお夕飯を作りますので先にお風呂に入ってきてください」
「あら、こちらの家のことは私が」
「お母さんも長旅でお疲れでしょう。さ、疲れを取って来てください」
両親の背を押しながら鏡花は言う。
英は幼い頃はほとんど家族のように一緒に過ごした鏡花の両親のことを慕っていて、剣道のことだけではなく、進路のことも含めた細々とした相談を彼らにしているようだ。
両親の方もそんな英のことを実の息子のように可愛がっていた。
そんな英に対してもっと自分を頼ってくれればいいのにと思うこともあるが、程よい距離感の大人という存在が相談事をするのにどれだけありがたいかというのは鏡花にも分かる。少し妬ましいが、仕方ないと思っていた。
台所に行き、朝の内に下ごしらえしておいた食材を手早く調理していく。
両親が風呂から上がる頃には旅疲れの胃に優しい料理が出来上がっていた。
家族三人で食卓を囲みながら、鏡花は両親に芹からもらったお土産を渡した。
「これ、芹おばさまから皆でどうぞと頂きました」
「まあ、今度お礼をしなければなりませんね」
アンナの言葉に航も頷く。
「今度あちらのご夫婦を勧誘するのも兼ねて、二家族での旅行をプレゼントするというのはどうだろうアーニャ?」
「それは素敵なことだと思います、旦那様」
子育てを共にしてきた相島家夫婦の働き者の気質や鏡花がキキーモラとして立派に育つための修行の場を提供してくれたこと、それに実の息子のように思っている英のこともあって、鏡花の両親は相島家が大好きだ。
父の会社に相島夫妻を誘ったこともあるそうだが、その時は時期尚早と言って断られたらしい。仕事に片が着いたらその時は改めてお話しを聞かせてもらいたいとも言っていたようで、両親はその日を心待ちにしていた。
そんな二人は愛が溢れてしまうのか、ことあるごとに相島家に土産物を買って来る習性がある。あちらの世界に行って戻って来るたびにあちらの世界の特産物を持ってきたりしたので、相島家が物で溢れそうになったことすらあるほどだ。
流石にこれは迷惑だろうと鏡花が両親を諫めて以降は大人しくなったが、隙あらば相島家に何かしようとしているのは今も変わらない。
「いきなり旅行をプレゼントされては気後れしてしまいますよ。それに、その席で勧誘をされてはおばさまもおじさまも話を断りづらいと思います。それではフェアではありません」
暴走気味な両親を諭すと、二人は反省したのか声のトーンが下がる。
「そうだな。お返しはまた今度考えようか」
「そうですね。では今回の件につきましては、こちらも向こうの世界の甘味をお返しするということにいたしましょうか」
落としどころを見つけた二人は、どこの甘味が良いかという話で盛り上がり始めた。
楽しそうに悩みながら向こうの世界の様子を話す両親に向けて、鏡花はふと訊ねてみた。
「向こうの世界には従者の専門学校があるんですよね?」
「ええ、私が旦那様と出会う前に通っていた学校がまさにそのような学校でしたよ」
それがどうかしたのか。という問いかけの視線が来る。
「卒業した後に、そちらで従者としての修練を積むのも良いのかもしれないな。と、お母さんたちが居ない間に考えたんです」
「あら」
アンナが口元に手を当てた。
彼女は娘の顔をまじまじと見て、
「ごめんなさい。これまでそのような話が出たことがありませんでしたので驚いてしまいました。
……そうですね、私が通っていた学校は様々な地域に合わせた教育を施してくださいましたが、さすがに向こうとこちらの、いわば世界間の違いを汲んだ教育となると難しくもあります。
あちらで学んだとして、それがこちらで役に立つかどうかは保証できないのです」
「アーニャがこちらの世界に来た時も、少しズレがあったね」
航が言い、アンナが頬を染めた。
「旦那様、昔のことは言わないでくださいませ」
彼女は口を尖らせてから咳払いし、
「その頃よりは確実に、こちらの世界について教えている場ではこちらの世界に沿った教育がされているのでしょうけれど、こちらで生活していくのでしたら何も向こうの学校を目指すこともないと、そう母は思いますよ」
「違う世界を見てみるのもいいのかもれないと、ふと考えたのです。それに、お母さんたちが元居た世界には以前から興味がありましたから」
そう言うと、航がふむ、と思案顔で呟き、鏡花へと真っ直ぐに視線を向けて訊ねる。
「鏡花。もしかして学校で何かあったのかい?」
「いえ、何も。ただ、もう私も高等部の二年生です。今後のことを少し考えてみたりするんですよ」
そういえば今まで両親と今後の進路に関する相談をしたことはなかった。二人としては卒業後は自分たちの会社に迎えるつもりだったのかもしれない。
だとしたら向こうの世界について知るというのは悪いことではないだろう。
そう思ったが、両親は唐突な話題に面食らったのか心配そうな顔で鏡花を見つめていた。
久しぶりに家に帰ってきた両親にそんな顔をされてはたまらない。
鏡花は話題を父親の仕事方面に振ると、そのまま当たり障りのない話をしながら急いでご飯を食べ、普段と変わらないことを心がけて席を立った。
「ごちそうさま。食器は洗ってもらってもいいですか? そろそろ宿題に手を付けたいので」
「ええ、いいわよ。ありがとうね、お料理、美味しいわ」
アンナが請け負う横で航も「美味い」と感想を述べている。
鏡花は「ありがとうございます」と言いながら食器を流しに下げて、逃げるように二階の自室に入った。
ゆっくりと扉を閉めて、ほっと息をつく。
両親は、鏡花が何かしらの問題を抱えていることを一目で見抜いていた。にもかかわらずそれについて追究しようとせずにいてくれた。そのことに両親のありがたみを感じながら、鏡花は電気も点けずにベッドに座った。
(二人共疲れているのに、申し訳ないです)
不意に変な質問をして両親を困惑させてしまうぐらいに不安定になっている。自身の不明を恥じて、鏡花は頭を抱えた。
心乱れるのは英の件が端を発している。鏡花にとっては自分の命よりも大切な存在のことであるため仕方のない部分もあるが、彼の少しの不調でここまで動揺してしまうのには、彼との関係を曖昧なままで過ごしてきた自分自身にも問題があった。
最近鏡花の周りではピリのように、愛する人を見つける者も増えている。
愛を育み関係を成熟させていく周りに対して、自分は幼い頃から英との関係を曖昧な状態のままに過ごしている。
噂好きな女子のネットワークでは彼に好意を抱く者がいるという話も耳に入ってくるのだ。
彼に好意を伝え、付き合う娘が現れればそれだけでこの関係は失われてしまう。
彼との関係が失われる恐怖は、彼女にとってこの世界に拠って立つよすがを失ってしまう恐怖と同義だ。
だからこそ、心が乱れているのだろう。
(なんて独りよがりなんでしょう)
勝手に彼に想いを寄せて、距離も縮められないくせに離れていきそうになると恐怖に震える。なんとか外面を取り繕っている自分の本性に嫌悪すら感じて、鏡花は足を投げ出したままベッドに仰向けに寝転がった。
「英君……」
幼馴染は人に頼られて、部活でも活躍が期待されている。昔は苦手で見向きもしなかった勉強だって、今では明確な目標をもって取り組んでいる。
歳を経るごとに立派になっていく彼に仕えたいと、鏡花はずっと想い続けてきた。
従者にして欲しいと、この身の全てを捧げると告白しに行きたい。この方こそが自分の主なのだと誇らかに公言したい。
それほどまでに思い入れている彼の変調に気付きながら、何も出来ずに手をこまねいている。
こんな自分では彼の傍に侍ることはできない。
卒業するまでに、彼にふさわしい自分になれないならば、その時は両親に話した通り、向こうの世界に修行に行くというのもいいのかもしれない。
考えれば考えるほどに悪い方へと沈んでいく思考に囚われていると、視界に光が入ってきた。
見ると、窓から隣の家の光が入って来ている。
鏡花の部屋の向かいにあるのは英の部屋だ。
時計を見ると、もう八時をとうに過ぎている。
「あんまり遅くまで学校に残らないようにと申しましたのに……」
生徒会の仕事だけではこんな時間にはならないだろう。芹が言った通り、気晴らしに遊んで来たのかもしれない。あるいはテストが近いため、礼慈から勉強を教えてもらっていたのだろうか。
どちらにせよ自分だってそれに付き合うことができたのにと思ってしまうのは、差し出がましい考えだろう。
(それでも傍に置いて欲しいのです……ああ、いけませんね。ほんとうに、私は……)
鏡花は顔を歪めて、着物の襟に右手を入れて胸に当てた。
心臓は急かすように早く鼓動を刻んでいた。
宥めるように撫でさすると、口からは濡れた吐息が漏れ、鼓動は収まるどころか更に早くなっていく。
「――っ」
股を通して腹の上に来た尻尾を半ば無意識に左手で撫でた。
毎日整えている毛並みはなかなかのものだという自負がある。
なのに、
(英君は触ってくれません)
昔は髪とは逆に先端に至るごとに色を濃くしていくアッシュブロンドを綺麗と褒め、羽から毛へと変化する尾を不思議そうにしながら境目を探すようによく触ってくれた彼は、いつの頃からか鏡花に触ってくれなくなった。
最初は毛並みが悪いのかと不安になったが、こうして毎日整えているにもかかわらず触ってくれないということは、もう既にこの尻尾には興味がないのかもしれない。
では、今現在彼の興味はどこにあるのだろうか。
教えてくれさえすれば、その興味の対象のことを調べ上げて会話に彩りを加えることだって可能なのだ。
英が興味を示す物であるならば、鏡花が興味を抱けないわけがない。
(言ってくれればなんでもするのに)
「どうして言ってくれないんですか……」
興味の在り処についてだけではない。
「どうして」と、切実にもう一度呟いて尻尾の先を強く掴むと、腰に甘い刺激が走った。
「っ」
声が漏れそうになるのを堪えて、鏡花は顔を畳んである掛布団に押し付ける。
胸を撫でる指先は、いつの間にか固くなっていた頂を弾いている。
足を擦り合わせると、股の辺りで湿った音がした。
「んぅ――」
腰を捻って音を遠ざけるようにしながらも、尻尾をさする手は止まらない。
(今朝、あんな夢を見てしまったから、昂ぶってしまってます)
幼い頃、ずっと一緒に居ようと英と約束した夢だ。ゆびきりすらしていない、なんの拘束力もなく一週間も経てば忘れ去られるだけのただの会話の一幕だが、鏡花にとっては一生心に抱いていくことになるだろう大切な記憶だった。
あの頃からお互いに事情が変わった今でも、鏡花はたまにその記憶を思い出しては心に決めた主に仕えることができるという夢想に体を熱くしては、その熱を持て余していた。
自身を鎮めるためにこのようなことをするようになったのはいつからなのか、鏡花は今でも鮮明に思い返すことができた。
あれは小等部の頃。いつも通り相島家の家事を手伝っていたら、いつもと様子が違う英が起きてきた。
あの頃はもう、手痛い拒絶を受けた後で二人の距離がそれまでとは違っていた。朝起きてこない英を鏡花が起こしに行く必要もなくなっていたりもして、英にべったりだったこれまでと違う生活になんともいえない寂しさを感じていたのを覚えている。
鏡花から一線を引くようになった英は、その日は特によそよそしいというか、あからさまに鏡花を避けているふうであった。
そんな彼からは、これまで感じたことがないほどの、濃密な精の香りが漂っていた。
今思えば、あの日が英の精通の日だったのだろう。洗濯ものが少なかったので、おそらく間違いない。
しかし、あの日の鏡花にそんなことを冷静に考えられる余裕はなかった。
精の匂いに酔っぱらったように、わけも分からず英に襲いかかりたいという強烈な衝動が湧いていて、人間でいうところの風邪でもひいたかのように一日中熱に浮かされてポーッとしていたのだ。
英の姿が視界を横切るたびに衝動が湧いてはいつの間にか下着が濡れていて、保健室に代えを何度ももらいにいくことになった。
このままではいつか英に襲いかかって、また嫌われることになってしまう。これ以上嫌われたら相島家に行くことすら許してくれなくなるかもしれない。
それを恐れた鏡花は、両親が指南を受けていたために顔見知りだった師範の居る道場へと逃げ込んだ。
放課後の稽古が始まるまでの時間までそこでわけの分からない熱を帯びた体を落ち着けようとしていると、師範の奥さんがやってきて、そっと一冊の本を見せてくれた。
その本はいわゆる艶本で、性交の仕方や自慰のやり方が端的に書かれていた。
その本を所持していた件について師範に問い詰めると告げて奥さんが出て行った後、鏡花はドキドキしながらその本を読んだ。
それからあの本は師範の手によって葬られたようで見たことがないが、本の内容は覚えている。
奥さんが開いてくれたのは、妖狐のお姉さんが実演形式でどこをどう弄れば気持ちよくなれるのかを解説した自慰の説明だった。
自身の状態が発情している状態であることや、それによってもたらされる身に溢れてたまらない衝動を治めるにはどうしたらよいのかを、その解説を見て鏡花は理解した。
それだけにとどまらず、彼女の好奇心は他のページをも開いてしまった。
先のページに載っていたのは、自慰の仕方を説明してくれていた妖狐のお姉さんが、男性に後ろから貫かれている姿だった。
その時の表情が自慰の解説のページとは違って心の底から気持ちよさそうだったせいか、鏡花はもし自分がそうされたらと想像してまた下着を濡らしてしまう自分を自覚した。
ちょうどその時、鏡花が居るところに向かって師範が走って来る足音が聞こえた。
明らかに様子がおかしい、というより、艶本を読み耽ったせいで完全に出来上がってしまった自分を他者に見られるのを避けたかった鏡花は、本をそのままに急いで道場から逃げ出して家に帰った。
そして自室のベッドの上で、もし自分が貫かれたらどうなるかと想像しながら本の中のお姉さんがしていたことを参考に、自身なりに発情した体を慰めた。
その時、自分の雌を貫いて欲しいと求めたのは、心に決めた主である英の雄だった。
そんな初めての自慰の時から、鏡花には固く決めていることがある。
それは、自分の膣内に初めて入って来るのは英でなくてはならないということだ。
自分自身も例外ではないとしたその誓いの結果として、鏡花の自慰はこれまで自分の秘部を直接割り開かずに尻尾に擦り付けるものになっていた。
「ぁ……んっ」
加えられる刺激から逃れるように体をねじって横臥した鏡花は、布団に首まで突っ込んでくぐもった声を布団に吸収させていた。
途絶えることなく加えられる刺激は秘部に直接手を触れないもどかしいものだが、それも溜まりに溜まった。
だから経験則として、快楽が表面張力を越える時が近いと彼女は悟っていた。
最後の一押しを求めて胸を強く掴むとベッドの上で体が跳ね、それを押さえつけるように彼女の体は丸められる。
それでも動きは止まらず、胸を掴む強さに呼応するように、尻尾をさすっている手が動きを早くする。
「っ、――っ!」
体にわだかまる快感が弾ける予感に全身を緊張させた鏡花は、最後の最後に尻尾を強く握りしめた。
先端から付け根にかけて快感の電流が走り、腰がビクンと痙攣する。
強く握られて張られた尻尾へと腰の痙攣と共に股が擦り付けられて、全身に快感が弾けた。
「――――ッ、んんんん……!」
噛み殺そうとしてできなかった悲鳴を布団にぶつけた鏡花は、そのまま布団に向けて荒い息を繰り返した。
布団を吐息で湿しながら繰り返されるくぐもった呼吸音と、胸の辺りで鳴り止まない拍動が少しずつ収まっていく。
やがて鏡花は力の抜けた全身をごろりと仰向けに転ばせた。
天井に映る隣の家の明かりを潤んだ目で見上げながら呟く。
「……ごめんなさい」
誰に対して向けられたわけではない謝罪を受け取る者は当然居ない。
(ああ、私は……)
駄目だな。とそんなことを思う。
初めての時と同じ姿勢、同じ場所で、同じことを考えて、身を慰めている現在の自分は、あの頃から何も進歩していないのではないだろうか、と。
進歩しない者に、日々成長していく彼の従者が務まるだろうか。
暗い気分で、全身を包む気だるい眠気にこのまま身を委ねてしまおうかと考えていると、階下から声がかかった。
「鏡花。お風呂がわきましたよ。入りませんか?」
その声に、鏡花は沈んでいた思考の底から引っ張り上げられた。
このまま寝てしまったら確実にこの憂鬱な気分を引きずる。そうなれば明日の目覚めは最悪だろう。この調子では態度だっていつもを維持できないはずだ。そんな状態で相島家へ行くなど、彼女のプライドが許さない。
気分を変えよう。
鏡花は「いただきます」と返事をして身を起こした。
腰の辺りから湿った音がする。
(いけません……っ)
慌てて着物をめくる。それがしきたりであると教えられたため、襦袢の下にショーツは穿いていない。
そんな状態で自慰をしていたため、着物が汚れていないかと心配したが、湿り気は全て股に挟んでいた尻尾が吸収してくれたようだった。
(よかった……)
“佳い報せ”を花言葉として持つあやめの着物を鏡花は気に入っていた。
勝ち負けを競う部活を行う英への願掛けにもなるということもあるし、また、あやめの持つもう一つの花言葉である“希望”も、鏡花自身を鼓舞してくれるものであった。
(そうですね……せっかくの着物に皺をつけてもよくありません。お風呂に入って着替えましょう)
そう決めるて、鏡花は立ち上がろうとした。しかし、一度頂点を迎えたためか、足腰に力が上手く入らずにふらついてしまった。
「あっ……と」
机に手をついて事なきを得る。鏡花はほっと息を吐くと暗い部屋を見回して、部屋に篭もる気怠い熱気に眉をハの字にした。
「お部屋の空気も入れ替えておきましょうか」
ベッドに戻って道路に面した窓を開けると、もう一つ、学習机の前にある窓を開けにかかる。
向かいの窓の明かりに祈るような思いを込めて窓を開けると、ちょうど向かいの窓も開いた。
「あ」「あ」
顔を見合わせる形になって、両者から声が漏れる。
相当驚いたのか、英は口を開けたままで鏡花を凝視して固まっている。
部屋の電気が点いていなかったのにいきなり窓が開いたのだから無理はないだろう。
驚かせてしまったことへの罪悪感から、鏡花は自分から停滞を破ることにした。
「こんばんは。お帰り、遅かったのですね」
声を聞いてようやく驚きから脱したのか、英の返事は一拍遅れていた。
「ああ、生徒会の手伝いの後、気晴らしにデパートのゲーセンに行ってたんだ」
「遅くなるのでしたら連絡をいれてくだされば温め直しやすいお夕食を用意しましたのに」
「ごめん」
「いえ……その、気晴らしは成功しましたか?」
「うーん、どうだろう」
どちらとも取れる言葉だ。気晴らしできていない場合に備え、もう少し言葉を交わして彼の不調の原因のヒントを得たいが、話し込みすぎて夜更かしになってしまっては本末転倒だ。
「よくお体の疲れをお取りください」
「鏡花も、今日は航さんとアンナさんが帰ってきてるんだろ?」
「ええ、久しぶりにお話しをしました」
「久しぶりだからってあまり夜更かしするなよ」
「英君もです」
「分かってるよ」
肩をすくめる英にお辞儀をして、鏡花は今できる最高の笑顔で言った。
「それでは、おやすみなさい。よい夢を」
「おやすみ」
では、と告げて鏡花は背を向け部屋を出た。
思いがけず顔を見る事ができて振られるのが止まらない尻尾を握り込んで抑える。
(一日の最後に英君と話ができました……)
単純なものだが、自分一人では満たされないものが満たされた感覚に、鏡花は気分が上向くのを感じていた。
明日も相島家の仕事をこなして研鑚を積んでいこうと前向きに思える。
(いつか傍に在ることをまた認めてもらえますように)
歩くごとに感じる湿った感触に、直前まで自分がしていたことを思い出して顔を赤くしながらも明日の日常のために。
まだ少しふらつく足で風呂に向かいながら、鏡花は祈る。
(英君がいつも通り、元気でありますように)
●
英は、鏡花が部屋から出ていくのを見送ってから、窓とカーテンを閉めてゆっくりと深呼吸した。
(あれはいかん……っ)
窓枠の下では男の象徴が元気に満ち溢れていた。
暑くなってきたがクーラーを付けるほどでもないと思って窓を開けたらちょうど向かいの窓が開いて鏡花と目が合ってしまった。
それだけならばむしろ歓迎すべきことだが、悪いことに、窓から顔を覗かせた彼女は普段の整えられた格好とは違い、風呂上がりなのか上気した顔に潤んだような目をして髪を乱れさせていた。
そんな雰囲気に毒された上に、やたらと色っぽい笑みと石鹸か何かの芳しい匂いを残して去っていくものだから、今や逸物は朝以上に猛っている。
(ああああああちくしょう!)
気合の声もかくやという絶叫を内心であげながら、英は机の引き出しを勢いよく引き抜いた。
慣れた動作でひっくり返して底を叩くと、木の板が落ちてきた。
それでも底板ははまったままだ。
底板と同じ色合いの板を仕込んで二重底にしていたのだ。
落ちてきた方の木の板にはテープで小さな記録媒体が貼り付けてある。
英はそれを外してパソコンに読み込ませた。
データの表層は、二つのフォルダに分けられている。
一つのフォルダを開くと、そこには肌色の画像がずらりと並んでいた。
エロ本をスキャンしたものだ。
種類別に分けられた画像をあれこれ眺めた英は、しばらくしてから頭を掻いて首を横に振った。
「…………」
確認するように部屋の中を見回し、もう一度念のために戸締りまで確認した英は、データの表層に戻ってもう一つのフォルダを開いた。
漫画やセリフ付きの写真、エッセイじみたものまで並んでいた先ほどのファイルとは違い、そちらのフォルダにあったのはただひたすらに写真だった。
写っているのは全て同一人物だ。
(ああもう、これ、いい加減処分しないとなぁ……)
いつもは終わった後に思うことを事前に思うのは、鏡花と顔を合わせたばかりという罪悪感ゆえだろう。
そう、写真に写っているのは全て鏡花だった。
最近のものから幼い頃のものまでずらりと並んでいるのは、昔から彼女の両親が嬉々として渡してくれる娘の成長記録や、学校の闇で流通している写真部だか新聞部だか現代視覚研究部だか堕落神教団派遣部員だかサバト出張支部だかが撮影した写真までが一まとめにしてあるからだ。
前半はともかく、後半の写真は健全と不健全のラインのギリギリを攻めているものがあるため、収集にあたっては各支部長クラスの審査があるとのことだったが、思い返せば表向きには簡単な試験があったくらいだった。
とはいえその裏でどんな魔法で何を測られていたのかと考えるとぞっとしない。
最後に元データを処分した上にもう鏡花を撮影しないという契約書が書かれてデータベースに登録されていたあたり、彼女たちにも何らかのルールがあるのだろう。
興味深いが、それを訊いたら藪蛇だ。終わったことには突っ込まないに限る。
そんなことを思っていると、一枚の写真が目についた。
去年の体育祭で借り物競走をした時のもので、お題に当てはまる容姿の師範の奥さんを借りた鏡花が、ちょうど席を外していて事情をよく理解していなかった師範に全力で追い回されている画だ。
向こうの世界に居た頃からイメチェンしたせいで向こう時代に比べたら軽くなったらしいとはいえ、それなりにかさばる奥さんを背負いながら走っている鏡花は前かがみになっており、体操服から胸元が覗いて谷間に落ちる汗がまぶしい。
息も上がって背後からの追跡者の鬼気迫る気配に顔を引きつらせて涙目なのも、先程の完璧さから崩れた表情に繋がるものがあって興奮する。
これだ、と心と体が頷いてしまった。
観念したようにティッシュを取り、言い訳するように英は独りごちる。
「たまには、使うのもいいよ、な」
いわばそれ用に作られているエロ本よりもこんなものを使っている辺り、かなり危ない自覚はある。
内心で鏡花に謝りながら、英は写真を使うことにした。
時計を見ると、定時で仕事が終わっているならば英の両親がそろそろ家に着いている頃合いだ。しかしここ数年は事情がなければこの時間帯に相島家の人間が帰っていることはない。
いつも通りならば、誰かが帰宅するまではもう少し時間がある。
携帯にも早く帰る旨の連絡がないことを確認して、鏡花は自分のために与えられている部屋で朝着ていた和服エプロンに着替えた。
別にメイド服のままでも構わないのだが、家の中ではこの衣装の方がしっくりと収まる。
幼い頃に着物を着始めた時には季節によって柄を替えるような外向けの華やかな衣装など自分には不要だと思っていたものだが、芹や真に季節の移り変わりが分かって助かると褒められて以来すっかり習慣化してしまった。こうなってしまうと無ければ落ち着かない。
窓を開けて干してある洗濯物を取り込んでアイロンをかけ、持ち主ごとに分けて畳んでおく。
庭の植物に水をやると米を炊く用意をしてから、鏡花は道着を持って風呂場に赴いた。
洗濯機では傷んでしまう洗い物専用に置いてもらっている桶にぬるま湯を張る。
剣道着や袴は藍染であるため、手洗いを推奨されている。
鏡花は英が剣道を始めてからというもの、ずっと道着の洗濯を自分の仕事としてきた。
他の家事は場合によっては労働こそ喜びという非常に好ましい性格をしている相島家夫婦と分担して行うこともあったが、道着くらいは自分で洗うと言った英から染料の繊細さを盾にして仕事をもぎ取ってからというもの、一度も他の者に譲ったことがない。
英に言った道着の繊細さは偽りなき事実だ。しかし、鏡花がこの仕事を頑なに自分のものとしているのにはそれ以外にも理由があった。
鏡花は耳を澄ませて家の中に誰も居ないことをよく確認する。
(――よし)
誰も居ない。
鏡花は真剣な目で膝に乗せた英の道着を抱え上げて、肺の中を空にするように大きく息を吐き出し、道着に顔を押し付けた。
「――――、――――」
吐き出した分以上を取り込むように深く深く息を吸う。
繊維や染料、色落ち防止のために浸けた酢のにおいや埃の臭いに紛れている英の匂いを鏡花は無意識に嗅ぎ分けることができた。
肺腑を満たしていく彼の匂いに思わず道着を抱きしめる手が強くなる。
心が昂揚していくのを自覚しながら、鏡花は道着に顔を擦り付け、深い呼吸を数度繰り返す。
神経を冒すような芳香に意識が蕩ける寸前。鏡花は非凡な自制心でもって道着から顔を上げた。
「……健康状態は良好、ですねっ」
そう、これは体臭を確認することによる健康チェックなのだ。
確認ができたのならば、他にもやることはあるのだし、すぐに洗濯をしなければならない。
(でも、もう少し……いえ、いけません)
そのもう少しが危険だ。
匂いを嗅ぎすぎると頭が英のことで満たされてしまって英本人の姿を見ないことには落ち着かなくなる。
気もそぞろで家事をして危うく料理が悲惨なことになってしまいそうになった過去もある。ここは我慢だ。
「健康に問題なし、です!」
誰に聞かせるわけでもない建前をもう一度口にして、桶に道着を漬けてもみ洗いをする。
家事に身が入り始めると、学校では表に出さないように努めていた不安が思考の表層に現れ始めた。
(そう、英君の体調は何も問題ないはずなんです)
にもかかわらず、今日の彼は調子が悪かった。
体調に問題がないというのなら、不調の由来は精神面だろう。
鏡花には英の精神を乱れさせているものの原因が分からなかった。
(普通のキキーモラならば、心が乱れてしまう前に察して支えてさしあげることができたのでしょうか?)
そう考えたことに対して鏡花は首を振った。
普通のキキーモラのことを考えても詮無いことだからだ。
鏡花には、誰に対しても秘密にしていることがあった。
キキーモラは生得的に人間の感情の機微を察する能力に長けているものだが、鏡花は英を相手にすると、その行動の機微から感情を推し量ることができなかった。
他の人に対しては問題なく行えている。にもかかわらず、鏡花が何よりも大切にしたいと思っている人に限ってそれなのだ。
なぜなのかと自問しても答えはなく、鏡花はただ自らを磨くことによって自身の欠陥を補おうと努めてきた。
そんなこれまでの研鑽も意味がないのではないかと衝撃を受けたのが今日の出来事だ。
今日一日の様子と今の検査で英の体調には何も問題がないことは明らかなはずだ。
事実、部活の時までは彼は普通に見えたのだ。
しかし、少し目を離した隙に、英は部長に手痛い一撃をもらって師範に練習メニューを切り替えるように言われるに至った。
彼らには剣を交えるだけで英がどこかおかしいと分かったのだろう。朝からずっと居てそれに気付けなかった自分が悔しくて情けない。
せめて原因を取り除こうと思って考えてはみた。
最近は勉強にも力を入れているということもあってか、今朝は起きるのがいつもより少し遅れ気味だったので寝不足を疑った。しかし匂いを嗅いだ限りでは日常生活に影響が出るほど睡眠が不足している様子はない。
だからこそ、彼の不調は精神面から来るものだろうと判断した。
何か、鏡花が知らないことで英は悩みを抱えているのではないだろうか。
そんな不安に駆られるが、英は何も言ってはくれないし、過去に英のためと思い干渉し過ぎた結果手痛い拒絶にあったことがあるため、無理やり原因を聞き出そうとするのは怖くもあった。
(いえ、あれは英君のためなどではありませんでした……)
英のためとおためごかしておきながら、その実昔の鏡花は自分の欲を満たすことを優先させていた。英はそれを感じ取ったのだろう。
そんな前科があるため、今回口を閉ざす彼から事情を聞き出そうというのが自分の欲を優先させていないと言い切れる自信が鏡花にはなかった。
それを思うと自身が欠陥のあるキキーモラであると知られてしまうかもしれないということも含めて、彼にこの件を問いつめることは躊躇われた。
今は見守るしか無い。
洗い終わった道着を見つめながら、鏡花はそれを結論とする。
「ご飯を炊かなくてはいけません」
そう言うと、鏡花は自分の結論に対する引っ掛かりを棚上げするように、次の家事に取り掛かった。
●
夕食を作り終わって調理道具を片付けていると、玄関が開く音がした。
足音からすると芹だろう。やがて、その通りの声がする。
「ただいま鏡花ちゃん。いつもありがとね」
「お帰りなさいませおばさま」
洗面所で手洗いとうがいを済ませて芹は台所に顔を出し、
「英はまだ帰ってないの?」
「英君は生徒会のお手伝いに行かれましたので少し遅くなります」
「鏡花ちゃんを一人で帰らせて、あの子は一体何のために武道をやっているのやら」
「おばさまやおじさまに似て、動いていたい方なのですよ」
苦言にフォローを入れると、「甘いわ鏡花ちゃん」と返された。
「この時間まで帰ってこないということは、仕事の後に友達と遊んでるわよきっと」
「息抜きも大切です」
今の英の状態では特に休息は大切だろう。
「まったく、家の男連中は料理が冷めたら温め直せば作りたてと同じ味かするとでも思ってるのかしら」
ため息交じりに言いながら、芹は苦笑した。
「あんなのだけどよろしくね」
その言葉に鏡花は深く頭を下げた。
「相島家の皆様のお世話を続けさせていただけるのでしたらありがたいお話です。この身に代えましてもおばさまの信頼に応えさせていただきます」
「あ〜……まあ、私が言うことでもないわね」
「いえ、失礼ながらおじさまよりもおばさまの方がこの家の実質的な主に近いのではないかと考えております」
「それは確かにそうね。私こそが絶対権力者よ」
頬をかき、芹は台所から顔を引っ込めた。
「着替えてくるわ。夕飯一緒に食べてく? ってまあ作ってくれたのは鏡花ちゃんだけど、ほら、芹おばさまも一品くらい作るわよ?」
「いえ、今夜は父母が帰って参ります。家で夕食をいただこうと伝えてありますので遠慮させていただきます」
「あー、そういえば……。うん、せっかくこっちに帰ってくるなら大事な一人娘をいつまでも独占してちゃ大取さんに悪いわね」
そう言いながら、芹は紙袋を持ってきた。
「じゃあこれ持ってって。駅地下のお土産。ご家族でどうぞ。
また遊びに伺いますと伝えておいてね」
「ありがとうございます」
ここで遠慮をすると押し問答になる。鏡花は素直に紙袋を受け取ると、家事の進捗具合を報告して相島家を辞し、隣の自宅に移動する。
玄関の鍵を開けると、背後から声がかかった。
「お帰り、鏡花」
振り返った鏡花は顔をほころばせる。
「ただいまお父さん。それと、お帰りなさい」
父親の大取航は、一週間ぶりの娘の顔を見て、精悍な顔を笑みで染めた。
「ああ、ただいま」
向こうとこちらの世界での物品のやり取りを行う物流会社の社長である航は、多い時で月の半分はこちらに居ない。
幼い頃からのことなので慣れてはいるが、久しぶりに会う肉親というのはやはりどこかほっとする。
「今月はこれで向こうに行く仕事は終わったからね、しばらくはアーニャとのんびりできるよ」
大儀そうに靴を脱ぐ父を労い、鏡花は彼の靴を下駄箱にしまって問いかけた。
「お母さんは?」
自身のふんわりとした雰囲気にそぐわず、父の秘書として傍に侍る姿が不思議と堂に入っている母の姿が無い。父が帰って来たのなら一緒に帰っているはずだがと思っていると、玄関が開いた。
「お帰りなさい鏡花。それとただいま。
旦那様の荷物は私がお持ちしますね」
鏡花のものよりも幾分か薄い色合いのアッシュブロンドが揺れる。
母親のアンナは、おっとりした口調からは想像できない、自然だが素早い動きで航の横に移動して手荷物を受け取った。
彼女の流れるような身のこなしは師範から学んだものだ。父も同じ師範から剣道を学んでおり、つまるところ彼等は英の兄姉弟子にあたる。
そもそも英が剣道を始めるきっかけとなったのはこの両親の紹介によるものだ。
身も心も鍛えたいという彼の要望に応えて父が提示したのだが、それで紹介したのが元勇者の師範である辺りなかなかスパルタだと思うし、それに付いていき力を付けていく英を鏡花は尊敬していた。
「相島さんのお家に挨拶に行ったらあなたはもう帰ったと言われましたし、英君も帰っていないしで、寂しかったわ」
どうやらすれ違いになったらしいアンナはウインクを寄越し、
「英君にまた遊びに来てねと伝えておいてくださいね」
「あ、それならお父さんも寂しがっていたと伝えておいてくれ」
「分かりました、伝えておきます。
今夜は私がお夕飯を作りますので先にお風呂に入ってきてください」
「あら、こちらの家のことは私が」
「お母さんも長旅でお疲れでしょう。さ、疲れを取って来てください」
両親の背を押しながら鏡花は言う。
英は幼い頃はほとんど家族のように一緒に過ごした鏡花の両親のことを慕っていて、剣道のことだけではなく、進路のことも含めた細々とした相談を彼らにしているようだ。
両親の方もそんな英のことを実の息子のように可愛がっていた。
そんな英に対してもっと自分を頼ってくれればいいのにと思うこともあるが、程よい距離感の大人という存在が相談事をするのにどれだけありがたいかというのは鏡花にも分かる。少し妬ましいが、仕方ないと思っていた。
台所に行き、朝の内に下ごしらえしておいた食材を手早く調理していく。
両親が風呂から上がる頃には旅疲れの胃に優しい料理が出来上がっていた。
家族三人で食卓を囲みながら、鏡花は両親に芹からもらったお土産を渡した。
「これ、芹おばさまから皆でどうぞと頂きました」
「まあ、今度お礼をしなければなりませんね」
アンナの言葉に航も頷く。
「今度あちらのご夫婦を勧誘するのも兼ねて、二家族での旅行をプレゼントするというのはどうだろうアーニャ?」
「それは素敵なことだと思います、旦那様」
子育てを共にしてきた相島家夫婦の働き者の気質や鏡花がキキーモラとして立派に育つための修行の場を提供してくれたこと、それに実の息子のように思っている英のこともあって、鏡花の両親は相島家が大好きだ。
父の会社に相島夫妻を誘ったこともあるそうだが、その時は時期尚早と言って断られたらしい。仕事に片が着いたらその時は改めてお話しを聞かせてもらいたいとも言っていたようで、両親はその日を心待ちにしていた。
そんな二人は愛が溢れてしまうのか、ことあるごとに相島家に土産物を買って来る習性がある。あちらの世界に行って戻って来るたびにあちらの世界の特産物を持ってきたりしたので、相島家が物で溢れそうになったことすらあるほどだ。
流石にこれは迷惑だろうと鏡花が両親を諫めて以降は大人しくなったが、隙あらば相島家に何かしようとしているのは今も変わらない。
「いきなり旅行をプレゼントされては気後れしてしまいますよ。それに、その席で勧誘をされてはおばさまもおじさまも話を断りづらいと思います。それではフェアではありません」
暴走気味な両親を諭すと、二人は反省したのか声のトーンが下がる。
「そうだな。お返しはまた今度考えようか」
「そうですね。では今回の件につきましては、こちらも向こうの世界の甘味をお返しするということにいたしましょうか」
落としどころを見つけた二人は、どこの甘味が良いかという話で盛り上がり始めた。
楽しそうに悩みながら向こうの世界の様子を話す両親に向けて、鏡花はふと訊ねてみた。
「向こうの世界には従者の専門学校があるんですよね?」
「ええ、私が旦那様と出会う前に通っていた学校がまさにそのような学校でしたよ」
それがどうかしたのか。という問いかけの視線が来る。
「卒業した後に、そちらで従者としての修練を積むのも良いのかもしれないな。と、お母さんたちが居ない間に考えたんです」
「あら」
アンナが口元に手を当てた。
彼女は娘の顔をまじまじと見て、
「ごめんなさい。これまでそのような話が出たことがありませんでしたので驚いてしまいました。
……そうですね、私が通っていた学校は様々な地域に合わせた教育を施してくださいましたが、さすがに向こうとこちらの、いわば世界間の違いを汲んだ教育となると難しくもあります。
あちらで学んだとして、それがこちらで役に立つかどうかは保証できないのです」
「アーニャがこちらの世界に来た時も、少しズレがあったね」
航が言い、アンナが頬を染めた。
「旦那様、昔のことは言わないでくださいませ」
彼女は口を尖らせてから咳払いし、
「その頃よりは確実に、こちらの世界について教えている場ではこちらの世界に沿った教育がされているのでしょうけれど、こちらで生活していくのでしたら何も向こうの学校を目指すこともないと、そう母は思いますよ」
「違う世界を見てみるのもいいのかもれないと、ふと考えたのです。それに、お母さんたちが元居た世界には以前から興味がありましたから」
そう言うと、航がふむ、と思案顔で呟き、鏡花へと真っ直ぐに視線を向けて訊ねる。
「鏡花。もしかして学校で何かあったのかい?」
「いえ、何も。ただ、もう私も高等部の二年生です。今後のことを少し考えてみたりするんですよ」
そういえば今まで両親と今後の進路に関する相談をしたことはなかった。二人としては卒業後は自分たちの会社に迎えるつもりだったのかもしれない。
だとしたら向こうの世界について知るというのは悪いことではないだろう。
そう思ったが、両親は唐突な話題に面食らったのか心配そうな顔で鏡花を見つめていた。
久しぶりに家に帰ってきた両親にそんな顔をされてはたまらない。
鏡花は話題を父親の仕事方面に振ると、そのまま当たり障りのない話をしながら急いでご飯を食べ、普段と変わらないことを心がけて席を立った。
「ごちそうさま。食器は洗ってもらってもいいですか? そろそろ宿題に手を付けたいので」
「ええ、いいわよ。ありがとうね、お料理、美味しいわ」
アンナが請け負う横で航も「美味い」と感想を述べている。
鏡花は「ありがとうございます」と言いながら食器を流しに下げて、逃げるように二階の自室に入った。
ゆっくりと扉を閉めて、ほっと息をつく。
両親は、鏡花が何かしらの問題を抱えていることを一目で見抜いていた。にもかかわらずそれについて追究しようとせずにいてくれた。そのことに両親のありがたみを感じながら、鏡花は電気も点けずにベッドに座った。
(二人共疲れているのに、申し訳ないです)
不意に変な質問をして両親を困惑させてしまうぐらいに不安定になっている。自身の不明を恥じて、鏡花は頭を抱えた。
心乱れるのは英の件が端を発している。鏡花にとっては自分の命よりも大切な存在のことであるため仕方のない部分もあるが、彼の少しの不調でここまで動揺してしまうのには、彼との関係を曖昧なままで過ごしてきた自分自身にも問題があった。
最近鏡花の周りではピリのように、愛する人を見つける者も増えている。
愛を育み関係を成熟させていく周りに対して、自分は幼い頃から英との関係を曖昧な状態のままに過ごしている。
噂好きな女子のネットワークでは彼に好意を抱く者がいるという話も耳に入ってくるのだ。
彼に好意を伝え、付き合う娘が現れればそれだけでこの関係は失われてしまう。
彼との関係が失われる恐怖は、彼女にとってこの世界に拠って立つよすがを失ってしまう恐怖と同義だ。
だからこそ、心が乱れているのだろう。
(なんて独りよがりなんでしょう)
勝手に彼に想いを寄せて、距離も縮められないくせに離れていきそうになると恐怖に震える。なんとか外面を取り繕っている自分の本性に嫌悪すら感じて、鏡花は足を投げ出したままベッドに仰向けに寝転がった。
「英君……」
幼馴染は人に頼られて、部活でも活躍が期待されている。昔は苦手で見向きもしなかった勉強だって、今では明確な目標をもって取り組んでいる。
歳を経るごとに立派になっていく彼に仕えたいと、鏡花はずっと想い続けてきた。
従者にして欲しいと、この身の全てを捧げると告白しに行きたい。この方こそが自分の主なのだと誇らかに公言したい。
それほどまでに思い入れている彼の変調に気付きながら、何も出来ずに手をこまねいている。
こんな自分では彼の傍に侍ることはできない。
卒業するまでに、彼にふさわしい自分になれないならば、その時は両親に話した通り、向こうの世界に修行に行くというのもいいのかもしれない。
考えれば考えるほどに悪い方へと沈んでいく思考に囚われていると、視界に光が入ってきた。
見ると、窓から隣の家の光が入って来ている。
鏡花の部屋の向かいにあるのは英の部屋だ。
時計を見ると、もう八時をとうに過ぎている。
「あんまり遅くまで学校に残らないようにと申しましたのに……」
生徒会の仕事だけではこんな時間にはならないだろう。芹が言った通り、気晴らしに遊んで来たのかもしれない。あるいはテストが近いため、礼慈から勉強を教えてもらっていたのだろうか。
どちらにせよ自分だってそれに付き合うことができたのにと思ってしまうのは、差し出がましい考えだろう。
(それでも傍に置いて欲しいのです……ああ、いけませんね。ほんとうに、私は……)
鏡花は顔を歪めて、着物の襟に右手を入れて胸に当てた。
心臓は急かすように早く鼓動を刻んでいた。
宥めるように撫でさすると、口からは濡れた吐息が漏れ、鼓動は収まるどころか更に早くなっていく。
「――っ」
股を通して腹の上に来た尻尾を半ば無意識に左手で撫でた。
毎日整えている毛並みはなかなかのものだという自負がある。
なのに、
(英君は触ってくれません)
昔は髪とは逆に先端に至るごとに色を濃くしていくアッシュブロンドを綺麗と褒め、羽から毛へと変化する尾を不思議そうにしながら境目を探すようによく触ってくれた彼は、いつの頃からか鏡花に触ってくれなくなった。
最初は毛並みが悪いのかと不安になったが、こうして毎日整えているにもかかわらず触ってくれないということは、もう既にこの尻尾には興味がないのかもしれない。
では、今現在彼の興味はどこにあるのだろうか。
教えてくれさえすれば、その興味の対象のことを調べ上げて会話に彩りを加えることだって可能なのだ。
英が興味を示す物であるならば、鏡花が興味を抱けないわけがない。
(言ってくれればなんでもするのに)
「どうして言ってくれないんですか……」
興味の在り処についてだけではない。
「どうして」と、切実にもう一度呟いて尻尾の先を強く掴むと、腰に甘い刺激が走った。
「っ」
声が漏れそうになるのを堪えて、鏡花は顔を畳んである掛布団に押し付ける。
胸を撫でる指先は、いつの間にか固くなっていた頂を弾いている。
足を擦り合わせると、股の辺りで湿った音がした。
「んぅ――」
腰を捻って音を遠ざけるようにしながらも、尻尾をさする手は止まらない。
(今朝、あんな夢を見てしまったから、昂ぶってしまってます)
幼い頃、ずっと一緒に居ようと英と約束した夢だ。ゆびきりすらしていない、なんの拘束力もなく一週間も経てば忘れ去られるだけのただの会話の一幕だが、鏡花にとっては一生心に抱いていくことになるだろう大切な記憶だった。
あの頃からお互いに事情が変わった今でも、鏡花はたまにその記憶を思い出しては心に決めた主に仕えることができるという夢想に体を熱くしては、その熱を持て余していた。
自身を鎮めるためにこのようなことをするようになったのはいつからなのか、鏡花は今でも鮮明に思い返すことができた。
あれは小等部の頃。いつも通り相島家の家事を手伝っていたら、いつもと様子が違う英が起きてきた。
あの頃はもう、手痛い拒絶を受けた後で二人の距離がそれまでとは違っていた。朝起きてこない英を鏡花が起こしに行く必要もなくなっていたりもして、英にべったりだったこれまでと違う生活になんともいえない寂しさを感じていたのを覚えている。
鏡花から一線を引くようになった英は、その日は特によそよそしいというか、あからさまに鏡花を避けているふうであった。
そんな彼からは、これまで感じたことがないほどの、濃密な精の香りが漂っていた。
今思えば、あの日が英の精通の日だったのだろう。洗濯ものが少なかったので、おそらく間違いない。
しかし、あの日の鏡花にそんなことを冷静に考えられる余裕はなかった。
精の匂いに酔っぱらったように、わけも分からず英に襲いかかりたいという強烈な衝動が湧いていて、人間でいうところの風邪でもひいたかのように一日中熱に浮かされてポーッとしていたのだ。
英の姿が視界を横切るたびに衝動が湧いてはいつの間にか下着が濡れていて、保健室に代えを何度ももらいにいくことになった。
このままではいつか英に襲いかかって、また嫌われることになってしまう。これ以上嫌われたら相島家に行くことすら許してくれなくなるかもしれない。
それを恐れた鏡花は、両親が指南を受けていたために顔見知りだった師範の居る道場へと逃げ込んだ。
放課後の稽古が始まるまでの時間までそこでわけの分からない熱を帯びた体を落ち着けようとしていると、師範の奥さんがやってきて、そっと一冊の本を見せてくれた。
その本はいわゆる艶本で、性交の仕方や自慰のやり方が端的に書かれていた。
その本を所持していた件について師範に問い詰めると告げて奥さんが出て行った後、鏡花はドキドキしながらその本を読んだ。
それからあの本は師範の手によって葬られたようで見たことがないが、本の内容は覚えている。
奥さんが開いてくれたのは、妖狐のお姉さんが実演形式でどこをどう弄れば気持ちよくなれるのかを解説した自慰の説明だった。
自身の状態が発情している状態であることや、それによってもたらされる身に溢れてたまらない衝動を治めるにはどうしたらよいのかを、その解説を見て鏡花は理解した。
それだけにとどまらず、彼女の好奇心は他のページをも開いてしまった。
先のページに載っていたのは、自慰の仕方を説明してくれていた妖狐のお姉さんが、男性に後ろから貫かれている姿だった。
その時の表情が自慰の解説のページとは違って心の底から気持ちよさそうだったせいか、鏡花はもし自分がそうされたらと想像してまた下着を濡らしてしまう自分を自覚した。
ちょうどその時、鏡花が居るところに向かって師範が走って来る足音が聞こえた。
明らかに様子がおかしい、というより、艶本を読み耽ったせいで完全に出来上がってしまった自分を他者に見られるのを避けたかった鏡花は、本をそのままに急いで道場から逃げ出して家に帰った。
そして自室のベッドの上で、もし自分が貫かれたらどうなるかと想像しながら本の中のお姉さんがしていたことを参考に、自身なりに発情した体を慰めた。
その時、自分の雌を貫いて欲しいと求めたのは、心に決めた主である英の雄だった。
そんな初めての自慰の時から、鏡花には固く決めていることがある。
それは、自分の膣内に初めて入って来るのは英でなくてはならないということだ。
自分自身も例外ではないとしたその誓いの結果として、鏡花の自慰はこれまで自分の秘部を直接割り開かずに尻尾に擦り付けるものになっていた。
「ぁ……んっ」
加えられる刺激から逃れるように体をねじって横臥した鏡花は、布団に首まで突っ込んでくぐもった声を布団に吸収させていた。
途絶えることなく加えられる刺激は秘部に直接手を触れないもどかしいものだが、それも溜まりに溜まった。
だから経験則として、快楽が表面張力を越える時が近いと彼女は悟っていた。
最後の一押しを求めて胸を強く掴むとベッドの上で体が跳ね、それを押さえつけるように彼女の体は丸められる。
それでも動きは止まらず、胸を掴む強さに呼応するように、尻尾をさすっている手が動きを早くする。
「っ、――っ!」
体にわだかまる快感が弾ける予感に全身を緊張させた鏡花は、最後の最後に尻尾を強く握りしめた。
先端から付け根にかけて快感の電流が走り、腰がビクンと痙攣する。
強く握られて張られた尻尾へと腰の痙攣と共に股が擦り付けられて、全身に快感が弾けた。
「――――ッ、んんんん……!」
噛み殺そうとしてできなかった悲鳴を布団にぶつけた鏡花は、そのまま布団に向けて荒い息を繰り返した。
布団を吐息で湿しながら繰り返されるくぐもった呼吸音と、胸の辺りで鳴り止まない拍動が少しずつ収まっていく。
やがて鏡花は力の抜けた全身をごろりと仰向けに転ばせた。
天井に映る隣の家の明かりを潤んだ目で見上げながら呟く。
「……ごめんなさい」
誰に対して向けられたわけではない謝罪を受け取る者は当然居ない。
(ああ、私は……)
駄目だな。とそんなことを思う。
初めての時と同じ姿勢、同じ場所で、同じことを考えて、身を慰めている現在の自分は、あの頃から何も進歩していないのではないだろうか、と。
進歩しない者に、日々成長していく彼の従者が務まるだろうか。
暗い気分で、全身を包む気だるい眠気にこのまま身を委ねてしまおうかと考えていると、階下から声がかかった。
「鏡花。お風呂がわきましたよ。入りませんか?」
その声に、鏡花は沈んでいた思考の底から引っ張り上げられた。
このまま寝てしまったら確実にこの憂鬱な気分を引きずる。そうなれば明日の目覚めは最悪だろう。この調子では態度だっていつもを維持できないはずだ。そんな状態で相島家へ行くなど、彼女のプライドが許さない。
気分を変えよう。
鏡花は「いただきます」と返事をして身を起こした。
腰の辺りから湿った音がする。
(いけません……っ)
慌てて着物をめくる。それがしきたりであると教えられたため、襦袢の下にショーツは穿いていない。
そんな状態で自慰をしていたため、着物が汚れていないかと心配したが、湿り気は全て股に挟んでいた尻尾が吸収してくれたようだった。
(よかった……)
“佳い報せ”を花言葉として持つあやめの着物を鏡花は気に入っていた。
勝ち負けを競う部活を行う英への願掛けにもなるということもあるし、また、あやめの持つもう一つの花言葉である“希望”も、鏡花自身を鼓舞してくれるものであった。
(そうですね……せっかくの着物に皺をつけてもよくありません。お風呂に入って着替えましょう)
そう決めるて、鏡花は立ち上がろうとした。しかし、一度頂点を迎えたためか、足腰に力が上手く入らずにふらついてしまった。
「あっ……と」
机に手をついて事なきを得る。鏡花はほっと息を吐くと暗い部屋を見回して、部屋に篭もる気怠い熱気に眉をハの字にした。
「お部屋の空気も入れ替えておきましょうか」
ベッドに戻って道路に面した窓を開けると、もう一つ、学習机の前にある窓を開けにかかる。
向かいの窓の明かりに祈るような思いを込めて窓を開けると、ちょうど向かいの窓も開いた。
「あ」「あ」
顔を見合わせる形になって、両者から声が漏れる。
相当驚いたのか、英は口を開けたままで鏡花を凝視して固まっている。
部屋の電気が点いていなかったのにいきなり窓が開いたのだから無理はないだろう。
驚かせてしまったことへの罪悪感から、鏡花は自分から停滞を破ることにした。
「こんばんは。お帰り、遅かったのですね」
声を聞いてようやく驚きから脱したのか、英の返事は一拍遅れていた。
「ああ、生徒会の手伝いの後、気晴らしにデパートのゲーセンに行ってたんだ」
「遅くなるのでしたら連絡をいれてくだされば温め直しやすいお夕食を用意しましたのに」
「ごめん」
「いえ……その、気晴らしは成功しましたか?」
「うーん、どうだろう」
どちらとも取れる言葉だ。気晴らしできていない場合に備え、もう少し言葉を交わして彼の不調の原因のヒントを得たいが、話し込みすぎて夜更かしになってしまっては本末転倒だ。
「よくお体の疲れをお取りください」
「鏡花も、今日は航さんとアンナさんが帰ってきてるんだろ?」
「ええ、久しぶりにお話しをしました」
「久しぶりだからってあまり夜更かしするなよ」
「英君もです」
「分かってるよ」
肩をすくめる英にお辞儀をして、鏡花は今できる最高の笑顔で言った。
「それでは、おやすみなさい。よい夢を」
「おやすみ」
では、と告げて鏡花は背を向け部屋を出た。
思いがけず顔を見る事ができて振られるのが止まらない尻尾を握り込んで抑える。
(一日の最後に英君と話ができました……)
単純なものだが、自分一人では満たされないものが満たされた感覚に、鏡花は気分が上向くのを感じていた。
明日も相島家の仕事をこなして研鑚を積んでいこうと前向きに思える。
(いつか傍に在ることをまた認めてもらえますように)
歩くごとに感じる湿った感触に、直前まで自分がしていたことを思い出して顔を赤くしながらも明日の日常のために。
まだ少しふらつく足で風呂に向かいながら、鏡花は祈る。
(英君がいつも通り、元気でありますように)
●
英は、鏡花が部屋から出ていくのを見送ってから、窓とカーテンを閉めてゆっくりと深呼吸した。
(あれはいかん……っ)
窓枠の下では男の象徴が元気に満ち溢れていた。
暑くなってきたがクーラーを付けるほどでもないと思って窓を開けたらちょうど向かいの窓が開いて鏡花と目が合ってしまった。
それだけならばむしろ歓迎すべきことだが、悪いことに、窓から顔を覗かせた彼女は普段の整えられた格好とは違い、風呂上がりなのか上気した顔に潤んだような目をして髪を乱れさせていた。
そんな雰囲気に毒された上に、やたらと色っぽい笑みと石鹸か何かの芳しい匂いを残して去っていくものだから、今や逸物は朝以上に猛っている。
(ああああああちくしょう!)
気合の声もかくやという絶叫を内心であげながら、英は机の引き出しを勢いよく引き抜いた。
慣れた動作でひっくり返して底を叩くと、木の板が落ちてきた。
それでも底板ははまったままだ。
底板と同じ色合いの板を仕込んで二重底にしていたのだ。
落ちてきた方の木の板にはテープで小さな記録媒体が貼り付けてある。
英はそれを外してパソコンに読み込ませた。
データの表層は、二つのフォルダに分けられている。
一つのフォルダを開くと、そこには肌色の画像がずらりと並んでいた。
エロ本をスキャンしたものだ。
種類別に分けられた画像をあれこれ眺めた英は、しばらくしてから頭を掻いて首を横に振った。
「…………」
確認するように部屋の中を見回し、もう一度念のために戸締りまで確認した英は、データの表層に戻ってもう一つのフォルダを開いた。
漫画やセリフ付きの写真、エッセイじみたものまで並んでいた先ほどのファイルとは違い、そちらのフォルダにあったのはただひたすらに写真だった。
写っているのは全て同一人物だ。
(ああもう、これ、いい加減処分しないとなぁ……)
いつもは終わった後に思うことを事前に思うのは、鏡花と顔を合わせたばかりという罪悪感ゆえだろう。
そう、写真に写っているのは全て鏡花だった。
最近のものから幼い頃のものまでずらりと並んでいるのは、昔から彼女の両親が嬉々として渡してくれる娘の成長記録や、学校の闇で流通している写真部だか新聞部だか現代視覚研究部だか堕落神教団派遣部員だかサバト出張支部だかが撮影した写真までが一まとめにしてあるからだ。
前半はともかく、後半の写真は健全と不健全のラインのギリギリを攻めているものがあるため、収集にあたっては各支部長クラスの審査があるとのことだったが、思い返せば表向きには簡単な試験があったくらいだった。
とはいえその裏でどんな魔法で何を測られていたのかと考えるとぞっとしない。
最後に元データを処分した上にもう鏡花を撮影しないという契約書が書かれてデータベースに登録されていたあたり、彼女たちにも何らかのルールがあるのだろう。
興味深いが、それを訊いたら藪蛇だ。終わったことには突っ込まないに限る。
そんなことを思っていると、一枚の写真が目についた。
去年の体育祭で借り物競走をした時のもので、お題に当てはまる容姿の師範の奥さんを借りた鏡花が、ちょうど席を外していて事情をよく理解していなかった師範に全力で追い回されている画だ。
向こうの世界に居た頃からイメチェンしたせいで向こう時代に比べたら軽くなったらしいとはいえ、それなりにかさばる奥さんを背負いながら走っている鏡花は前かがみになっており、体操服から胸元が覗いて谷間に落ちる汗がまぶしい。
息も上がって背後からの追跡者の鬼気迫る気配に顔を引きつらせて涙目なのも、先程の完璧さから崩れた表情に繋がるものがあって興奮する。
これだ、と心と体が頷いてしまった。
観念したようにティッシュを取り、言い訳するように英は独りごちる。
「たまには、使うのもいいよ、な」
いわばそれ用に作られているエロ本よりもこんなものを使っている辺り、かなり危ない自覚はある。
内心で鏡花に謝りながら、英は写真を使うことにした。
17/01/13 15:53更新 / コン
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