淫夢の目覚めと学園天国
薄暗いもやのかかった視界の中で、何かがゆらゆらと揺れていた。
相島英(あいじま すぐる)は、はっきりとしない思考で自分の体の上に揺らめく影を見る。
初めはどのような形をしているのかすら認識できなかった影は、思考の霧が晴れていくに従ってその正体を明らかにしていった。
それはよく見知った少女だった。
彼女は英の腰に乗っており、体が揺すられるごとに英の下半身に鈍い快感が打ち寄せる。
少しずつ体が昂ぶっていくが、今一つ物足りないと本能が不満の声をあげた。
もどかしい刺激では我慢できず、彼女の体を掴んで下半身を思う様に叩きつけたい衝動にかられるが、体は逸る意思に反して上手く動かない。
むずむずと腰に溜まる欲望を意識しながら英は現状をより正確に認識していく。
彼女の体は重さがないかのように軽く、光が満足に入らない部屋では彼女の表情も見えない。定期的に与えられる鈍い刺激は早くも遅くもならずに一定のリズムを刻み続けている。
現実感のないそれはまるで夢の中にいるようであり――そこに思考が至った時点で彼はこれを夢だと理解した。
(なんだ……)
残念を思う英は、もしかしたらという僅かな希望と共に彼女の名前を呼んでいた。
「きょうか……」
●
唐突に視界が開けた。
部屋は朝日に照らされており、体の上には誰も居ない。視界を占めるのは見慣れた自分の部屋の天井だ。
鳥の鳴き声を聞きながら、英は壁掛け時計を見る。
朝五時五十五分。いつも通りの起床時間だった。
(……やっぱり夢か)
そう納得した途端、英はある可能性に気付いて上半身を跳ね起こした。
布団をめくり上げる。下半身が自己主張してはいるものの、ズボンに染みはできていない。
朝一番の安堵の息をついて、英はベッドから下りた。
下着をめくってみると、夢のせいか、ペニスからは先走りが滲み出していた。
こいつの処理をどうしようかとしばし考える。
少しばかり下着が汚れてはいるが、着替えの際に寝間着と一緒に洗濯機の底に放り込めば問題無いだろう。洗濯さえしてしまえば彼女の鼻ににおいを拾われることもないはずだ。幸い寝汗もかいているので多少の湿気は怪しまれることもない。
ストレッチで体を伸ばしながら体調を確認する。
下半身に負けず劣らず、全身良好だった。
(もう少し節操を持ってくれると助かるんだが……。これで夢精なんてした日にはどうしたって一発でバレるっての)
半勃ちの状態に戻った息子に非難の視線を向けていると、部屋の外から少女の声が聞こえた。
「英君、お目覚めですか?」
慌てて下着を引き上げて英は返す。
「ああ鏡花。起きたよ」
時計を見ると六時十分だった。
目覚ましをかけなくても毎日の習慣で六時には起きるはずの英が階下に降りてこないため、寝坊したとでも思われたのだろう。
扉の向こうに居る声の主は僅かな間を開け、
「朝ご飯ができています。よければお召し上がりください」
「ありがとう。そうさせてもらう」
「お待ちしております」と返事があり、後には無音が残った。
彼女は鱗の足を持っているというのに嗜みだと言って移動の際にほとんど物音をたてない。今日に限ってこの技術はくせ者だ。
彼女がいつもの歩調で階段を降り切って脱衣場までのルートが無人になる頃合いまで待機してから、英は部屋を出た。
脱衣場で洗濯機に下着ごと寝間着を放り込んだ英は、においを気取られるのを防ぐためにシャワーを浴びて入念に身体を洗った。
さっぱりした気分で制服に着替えて台所に行くと、弁当箱で白米が湯気を漂わせていた。
弁当箱は彼女自身のものを含めた通常のものが三つと英の部活前の間食用の小さいものが一つ。ということはもう父は出勤した後だろう。
粗熱を取るために置いてある白米の横で、弁当の別の段におかずを詰め込んでいた和服にエプロンの少女が視線を合わせて頭を下げた。毛先に進むにつれて色素を薄くするアッシュブロンドの髪と垂れた耳が頭の動きに追随する。
「おはようございます英君。シャワーを浴びられたのですね」
「おはよう鏡花。どうにも眠気がとれなくってさ。遅くなっちゃったな」
「いえ、まだお時間に余裕はありますよ。お食事も温かいままです」
英の夢の中で腰を擦り付け、現実で起こしに来てくれた少女は朝にふさわしい清々しい笑顔で応答する。
器をとってご飯をよそおうとする鏡花を制した英は、自分で米と味噌汁をよそいつつ、弁当詰めの作業に戻る鏡花の動きを夢の残滓が残る目で追う。
手首から覗く羽毛や、エプロンの結び目の下で楚々と揺れる尻尾は頭部とは逆で根本が白く、先端に移るごとにアッシュブロンドの色合いを濃くしていく。
吸い込まれるようなグラデーションを描く毛色もさることながら、彼女の尻尾は根本が羽毛で途中から獣毛に移り変わるという不思議さだ。
この尾の具合などは彼女たち、キキーモラという種族の平均的な特徴らしい。
ついつい手を伸ばしてみたくなる逸品で、実際幼い頃はよく触らせてもらったものだが、今となってはあの頃のような純粋な好奇心では触れない。小等部の頃に秘密基地で見たモノの本によれば、尻尾というのはかなり敏感な器官らしい。そんな所を触ればどうなるのかと下心と共に考えるのは、もう男として仕方ないのではないだろうか。
成長とは、かくも悲しいものである。
鏡花が焼いたと一目で分かる見事な焼き色の鮭の切り身を一片もらい、この世界の北欧に現れたがこの国の男性に一目惚れして極東の島国に移り住んだという鏡花の母が最近ハマっているお手製漬物をありがたくいただく。
そうして朝食の席についた英の前に茶が置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
機嫌良さげに洗い物にかかる鏡花につい目がいく。
幼馴染は今日も英に目を惹きつけてやまない。
(やばいな)
ここで再度勃起しようものなら非常に気まずい空気になることは避けられない。
できるだけ卑猥な連想につながるものを避けようと、夢の中では鏡花が着ていなかった着物。その柄に意識を向ける。
象牙色の地に何かの花が描かれている。はて、何の花だったろう。
友人がはまっていた花札というカルタ遊びで似たような絵柄の札があっただろうかと思い出していると、喜色を含んだハミングが届いて耳が幸せだ。
(やばいなぁ……)
ときめくな俺の心。そう言い聞かせてお茶をゆっくり啜っていると、背後から声をかけられた。
「あんた何ぼーっとしてるの? せっかく鏡花ちゃんがご飯作ってくれたんだから冷める前に食べちゃいなさいよ」
「分かってるよ。少しくらい味わって食ってもいいだろ」
「そんな風流な柄じゃないでしょうにまったく。鏡花ちゃんを見てみなさい、朝からあんなにテキパキ爽やかなのよ。今日はなんかいつも以上に爽やかで私危うく浄化されちゃうわ」
「お上手ですわおばさま。お恥ずかしながら、今朝は懐かしい夢を見たもので、少しく気分が高揚しております」
「夢見がいいのはいいことよ。おばさんも嬉しさをおすそ分けされちゃったわ」
声をかけてきたのは英の母だ。スーツを着てすっかり出社の準備を整えた彼女は鏡花を拝みつつ、
「毎日弁当ありがとね鏡花ちゃん。じゃあ、悪いけど私も行くわ」
「はい、おばさま。行ってらっしゃいませ」
弁当を引っ掴む母にしっかりと頭を下げる鏡花にならって手をぞんざいに振り、英は母に言ったように味わいながら朝飯を再開した。
お袋の味よりも舌に馴染んだ幼馴染の味付けを堪能していると、鏡花が弁当の用意を終えて英に言った。
「英君。私は着替えさせていただきますね」
「ああ、ゆっくりしてて。食器は片付けておくから」
家事を全てこなしたがる鏡花へのささやかな抵抗。その一言に何か言いたげにした鏡花だが、玄関からの「行ってきます」に応じることで口はつぐまれた。
タイミングを外されて諦めたのか、鏡花は一つ礼をして、相島家が彼女のために用意している一室に着替えに行った。
大取鏡花(おおとり きょうか)は相島家の隣にある大取家の一人娘だ。
種族的に経験を積んでおきたいということで、朝と放課後に相島家に通って家事修行を行い初めてはや十年になる。
最初の一、二年程ならばともかく、今の彼女にしてみれば今更こんな一般の家庭で家事の切り盛りをしたところで得られるものなど大してないだろう。それでも彼女がこうして家事をこなしに来てくれるのは、相島家と大取家が隣同士であるという以上に深い付き合いがあるからだ。
英と鏡花は同じ日、同じ病院で生まれていた。
仕事大好き人間で英が生まれる直前まで働いていた英の母、芹がさて入院中に育児について詳しくなろうと父、真(まこと)に大量に本を買わせに行った際に大取家の父、航と遭遇して意気投合したことからこれまでのお隣さんとは違う、子育て仲間としての関係ができたそうだ。
実際には仲間というよりも二人の子供を上手にあやす鏡花の母アンナに航・真・芹の三人が教えを乞い導いてもらう感じだったらしい。
アンナは一族としてはこちらの世界での初産であったために勝手を知るために入院していたらしい。初産とはいえ、基本的に魔物娘と人間とでは本能として持ち得る子育ての習熟度が違う。加えて彼女は種族的に家事適正が極めて高いキキーモラだ。そのような形になるのもさもありなんといったところだろう。
二人一緒に育てられたためか、鏡花も英も互いの親を自分の第二の親のように思っており、その育児体制からの流れで赤子の時代を過ぎてからも両家は一緒になって遊んだり祝い事をしたりということが続いていた。
そして両家の付き合いは、英たちが人魔共学の学園の小等部に入学する頃にまた一段と深くなる。
その頃になると往時の勤労意欲がぶり返してきたのか、芹は本格的に仕事に復帰し、共働きになった相島家の朝は慌ただしいものになった。
休日に時間を作って掃除されるまでの間、徐々に荒れていく相島家の状況に鏡花は幼いながらキキーモラとして何か思うところがあったのだろう。家事手伝いを申し出るようになった。
アンナからの「種族としての修業ですから」という言葉に言いくるめられる形で彼女に家事をお願いしたのが十年程前。
そして現在。朝の相島家はもはや鏡花なしでは回らない有様だった。
他家の一人娘をハウスキーパーに使っている状況に対して相島家も手を打とうとしなかったわけではない。
学年が変わったり、上の学校へ上がったりする。キリの良いところで相島家両親は何度か家事手伝いはそろそろいいと伝えていたのだが、鏡花は頑として首を縦に振らなかった。
真曰く、「あんな顔で言われたらやってもらうしかないじゃないか」という話なので、過去の家の荒れ具合は英としては多少ちらかってたなくらいの記憶だが、鏡花の中では相当許せないものだったのかもしれない。
中等部半ば頃には英の両親は現状を受け入れることを決め、今のような光景がある。
家事に対して「お前は逆に荒らすから手出し無用」を母に言い渡されて世話をされている側の英としては、鏡花の行動に口出しする権利はなく、家事をこなす見慣れた幼馴染の姿に静かに感謝する毎日だ。
●
英が食事を終え食器を洗っていると、鏡花が「手伝います」と声をかけてきた。
着替えた彼女の姿は和服から一変して制服にスカートだ。急いで着替えてきたのだろうに着こなしが完璧なのにはいつもながら舌を巻く。
様々な身体部分を持つ魔物娘が在籍している関係で基本的に服装が自由な学園において、学園が用意した制服を着るのは女子では少数派だ。
男の英からすれば制服という決まった服装があった方が毎日着ていく服を決めるなどという面倒ごとを回避できていいのではないかと思うのだが、女子的には必ずしもそうではないらしい。着飾った方が男受けが良いため皆いろんな服でいろんな自分を見せるのだと、教師と恋仲になった高等部の生徒会長などは言っていた。
そのことを考えると、太もも丈の紺のプリーツスカートにそのわずか下まである白のニーソックスを穿いた鏡花が、他の服を着たくても毎朝他家のことで時間を取られてしまって制服しか着られていないのだとなると流石に一家揃って土下座ものだ。
しかし鏡花はほとんど服の種類を持っていない。これはアンナ情報なので間違いないだろう。
鏡花としても仕事で汚れることもある以上、華美な服はいらないらしく、収まりの良い制服の格好をそれはそれで好んでいるらしい。
そういう実直なところも好ましいところだった。
「私が代わりますから、英君は登校の準備を整えてきてください」
ニーソックスに覆われた鳥の足のような鱗が軽やかな足運びでやってきてすぐ隣に控える。
鏡花から香ってくる落ち着く香りや皿をそっと取り上げて洗い出す姿や口元に浮かぶ微笑などを一つ一つ感じるたびに邪なことを連想しそうになる自分を自覚して、英はここ数日自己処理をしていないと思い至った。
今朝の淫夢もこのあたりが原因だろう。
溜まっている状態で彼女の近くに居るのは精神衛生上よろしくない。家事の残りを鏡花に任せ、英は言われた通りに鞄に荷物を放り込んで歯を磨きにかかった。
登校の準備が整うと、既に弁当箱が袋に詰められていた。
二種類の袋を受け取り、いつもより若干遅れ気味に家を出る。
家から学園までは徒歩で二十分もあれば着く。いつもが教室の半分が生徒で埋まる前には到着するくらいなので、多少の遅れは許容範囲だ。
「この分なら、歩いても余裕かな」
「そうですね。仮にもう二十分家を出るのが遅くなっても遅刻にはなりません」
その口調は家の中でのものよりどことなく硬質な雰囲気をもっている。
口調だけではない。家を出た瞬間に、どことなく鏡花がまとう空気が変わっていた。
柔らかな笑顔がなりをひそめ、凛としたものになっている。
いつの頃からか身についていた鏡花の癖だ。
どことなく戦いに臨むかのように職場に向かう母を思い起こさせる辺り、鏡花は影響されたのだろう。
いかにもできる人なオーラを漂わせる鏡花だが、実際に学園では成績はトップクラスで、部活動でも相応の実績を積んでいる。
そんな彼女を少し遠くに感じながら、英は応じた。
「走らなきゃならないくらい遅くなってみたいもんだ」
「無遅刻無欠席でなくてはならないとは申しませんが、そうすることにこしたことはありません」
「ま、そうだな。もし俺が起きなくて遅刻しそうだったらそのまま置いて行ってくれていいからな」
「英君がこれまで一度も遅刻をしたことがないのは私が一番よく存じております。もしそのようなことになりましたら病気を心配してしまいます」
「心配させるとあっちゃ、うかうか寝坊もできないな。いい加減目覚まし時計でも買おうかな」
「……せっかくこれまで目覚まし時計なしで起きることができる習慣が身に付いたのですから、そのまま続けてはいかがでしょう? もし本当に遅刻しそうなら私が起こしに参ります」
「それもそうか」
そもそも目覚ましなしで英が起きるようになったのは鏡花の影響なのだが、彼女は覚えているだろうか。
「あ、おはよ、今日遅いじゃん」
英たちの会話に空から飛び込んで来たのは、ショートパンツのハーピーだ。
英と鏡花はクラスメイトである彼女に挨拶を返し、苦笑して見せる。
「ちょっと寝坊したんだよ」
「ふーん。スグるん、あんまりキョウちゃんを困らせたらだめだよー」
「いえ、困ることなど何一つございません」
「そう? ――あ、ごめん。彼が居るから先行くね!」
「はいよ」
「それではまた、教室で」
「うん! ダーリーン!」
嵐のように現れ去って行く彼女、ピリの声に気付いて手を振り返す彼はたしか英の剣道部の後輩の柿本だ。
いつの間にかくっついていたのかと、手を取り合う二人を眺めながら思う。
彼らが通っている守結学園(もりゆいがくえん)は人魔共学小中高大一貫の大規模な学園で、こちらとあちらの世界が接点を持った時に魔物たちがゼロから創り上げた土地に創設された。魔物と人間の当初のごたごたを乗り越えて存在する、いろんな意味で有名校である。
以前は魔物ばかりの女子校だったそこも、世代が幾つか過ぎて魔物と人間の間に目立った軋轢が生じなくなった今では共学の学び舎として広く門戸を開けている。
魔物たちと人間が共に勉学に励むとなれば、当然カップルだってできあがる。特に英たち高等部二年にもなると魔物の半数は誰かしら気に入った相手を見付けているものだ。
嬉しそうに飛んでいくピリを見送って、英は鏡花の顔を覗き見た。彼女は目を細めて、
「幸せそうですね」
「そうだな」
友人を祝う鏡花に、全身で背中から抱きつかれた後輩を視界に収めた英は羨望が声に出ないように意識して応じる。
自分にもそのようにできる相手ができたらいいという妄想は、どうにもはっきりとした像を結ばなかった。
相手が思い浮かばないわけではない。
むしろ、恋人になりたい相手ということならば、もう何年も前に英の中では一人に決まっていた。
ただ、その人の隣に自分の居場所があるのかと考えると、どうにもそれは鮮明な像にはならない。
(こんなに近くに居るんだけど)
そう思いながら鏡花を見続けていると、彼女が英の方に顔を向けた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、あの二人が付き合ってるのを知らなかったから驚いてさ。鏡花は知ってたか?」
反射的に問いを投げ返す。鏡花は頷き、
「女子の間ではそのような話はすぐに回ってしまいますから。今度、剣道部に見学に行きたいともおっしゃってましたよ」
「それはまた、歓迎しないとな」
「そうですね」
鏡花は薄く笑んだ。
家で見せてくれる柔らかな笑みも落ち着くが、洗練された彼女の立ち居振る舞いに似つかわしいこの涼やかな笑みも魅力的だ。
その笑顔を見続けていたのが悪かったのだろう、鏡花は振り向き、
「英君。私、どこかおかしいですか?」
「え?」
言っていることの意味が分からずに聞きかえすと、鏡花は首を傾げ、
「今朝からずっと私のことを見てらっしゃいますし……そういえば英君、朝も私のことを呼んでいませんでしたか? 部屋から声が聞こえたような気がするのですけれど……」
英は慌てた。
鏡花が起こしにくる前に彼女の名前を呼んだ記憶はないが、恐らく夢の中で自分に跨る影に対して呼びかけたあの言葉のことを言っているのだろう。よく考たら英自身が目覚めたのも自分のその声が原因だ。声が漏れていたのだ。
その後鏡花を見続けていたのだって、元をたどればその夢の影響だ。
(淫夢に影響され過ぎだろ俺……っ)
嫌な汗が流れてくる。このまま何も答えなければキキーモラはその鋭い勘で夢のことまで見抜いてくるかもしれない。
(なんたってお袋が隠してる片頭痛やら四十肩やらをソッコで見抜いてくるからな)
「何も言った記憶がないんだけど……ああ、でも見ていたのはちょっと理由があるかな」
次の言葉を促すように鏡花の尻尾が揺れる。
その促しに乗るまでの間に理由になりそうなことを考え、咄嗟に英は口を動かした。
「ほら、ここ最近、ちょっと暑くなりはじめてから着始めたあの涼しい感じの着物あるだろ? あれに描いてある花、花札で見たことあるけどなんだったかなって今朝急に思ってさ」
ギリギリ不審に思われない所を突いた問いではないか。と自分の機転に感心しながら問うと、鏡花は少し嬉しそうに頷いて、
「お花に興味がおありですか?」
「あー、なんとなく思っただけでそこまで興味があるわけじゃないんだ……」
鏡花は複雑そうな顔で一つ息を吐いた。
「残念なような、英君らしいような」
「まあ、花ってガラじゃねえよな」
「いえ、花を愛でる英君も素敵ですよ」
宥めるように言って、鏡花は続ける。
「着物の柄の花はあやめと申しまして、初夏の頃のお花になります。花言葉は……そう、佳い報せ≠ナすね。私も英君が部活で勝利を収めることをこうして応援しております」
「そいつはありがとう」
気にしてなさそうに返しながら、内心英は鏡花の応援を嬉しく感じていた。
彼女の一挙手一投足に気持ちが左右されるようになったのはいつの頃からだろうか。
その始まりを思い出すこともできない。ただ、彼女のことを自己処理のオカズとして使った頃には既に彼女のいろんな部分に目が引かれるようになっていたし、初めて使ったオカズは記憶を確かめるまでもなく鏡花なので相当の年季が入っている。
性的な欲望を満たす方法をその手の本などに頼るようになって雄としてある程度の分別を身につけたと思っている今でも、油断すれば妄想の中ですぐ身近な存在である鏡花を汚してしまいそうになるあたりかなり重症だろう。今尚、データ化しているエロ本と鏡花の写真とで使用率がほぼ同じというのは自己嫌悪ものだった。
もう八年程は鏡花は英の部屋に入っていないのでそのような事態を知ることができる要素は皆無だが、油断をしてはならない。
なんとか彼女が抱いた不審を拭うことに成功したが、ここでまたボロを出せば色々と知られてはならないことにまでたどり着かれかねない。
(この緊張感が剣道の上達に繋がってる気がするな)
そんなことを考えながら視線を前に向け、英は一心に学園を目指した。
●
いつもより人が多い教室に入ると、英と鏡花はそれぞれの席に荷物を置いた。
席の七割は埋まっている。残りももうすぐ来るか、それぞれのやんごとなき理由で自主休校かのいずれかだろう。
英たちの教室の人と魔物の割合はおおよそ二対三で、女子に絞れば八割は魔物だ。中学卒業時に比べると魔物の割合がじわじわ伸びてきている。
教室内の魔物、そしてインキュバスの割合は小中高大と年次を重ねるごとに増えていく中で、英たちの教室は高等部としては平均的な割合のクラスだった。
彼女たちが元居た世界でこのような施設を作ろうものなら、今頃インキュバスや魔物でない人間の数は学園全体でも数える程しか居なかっただろうと茶飲み話に教えてくれたのは、教頭ちゃまとして皆にマスコット的に可愛がられているバフォメットだった。
魔物率が九割越えになっていないのは、学園のための敷地を土地から創り出すという不条理を働いた学園の創立者が、新たに繋がりを持った世界の和平を築きつつ愛を育むために魔物に本能を重んじながらも本能だけではない生き方を勧めた結果である。
そのような経緯のためか、この学園に通っているのはこの世界に帰化した魔物か、あちらの世界で相応の地位や教養を得たりして自己を律するようになった者、知識欲に溢れた者が多い。
魔物たちは総じて日々を生きる熱量が高いためか、自然と学園生活はイベント満載な豊かなものになっている。英にとっても、たまに不可解なことを交えつつも過ぎていくこの学園生活は楽しいものだった。
予鈴が鳴る数分前になって、一人の男子生徒が教室に入ってきた。
目付きが悪く、近寄りがたい雰囲気の彼は荷物を自分の席に置くと、すぐに英に近付いてきた。
「スグ、おはよう」
「おはよう、礼慈」
鳴滝礼慈(なるたき れいじ)とは小等部からの付き合いだ。
目付きこそ悪いし雰囲気はカタギっぽくないが、本人は話かければ普通に返して来るし、目立った不良行為は行っていない。割と真面目な生徒だ。
そして、見た目が怖い人間くらいならば魔物たちはたいてい臆せず近付いてくるし、話せば彼が普通な上に見た目にそぐわず意外に面倒見が良いことが分かるし、そんな光景を見ていれば人間だって彼の性格を正しく理解する。
結果として、学年が上がっていくごとに不良・怖い人からちょっと人相が悪いだけの良い奴という扱いに変わっていったのが礼慈という男だ。
学年首席でもある彼は、能力を見込まれて今年になって生徒会長に拝み倒された末に生徒会入りしている。生徒会メンバーの熱心な勧誘風景は語り草だ。
「スグ、いきなりですまんが今日の放課後に文化祭のための学園内代表委員会があって、高等部生徒会は議事録を作らなきゃならなくなった。
会議での決定事項をまとめて学園内各学校に配布して掲載するのを手伝ってもらえないか?」
「部活後ならいいよ。放課後からの会議なら終わるのは部活後くらいで考えといていいだろ?」
「その予定ではいる。皆会議で踊るより好きな相手と過ごしたいだろうから会議自体はすぐに終わるはずだ。議事録のまとめと配布準備くらいまでは終わらせて待っておく」
「ならいいな。普段のお礼も兼ねて手伝わせてもらおうか」
「自分のためにもなってるからそこは気にしなくてもいい。用事があるなら普通に断ってくれていいからな」
「と、言ってもらってるだろうに配布係を断らなかったんだろ?」
「実際俺は大した用事もないし、それに不良行為を目こぼししてもらってるから細かい所で恩は売っておきたいんだよ」
そう言って礼慈はポケットから小さな水筒を出して振って見せた。
「しかし、そうか、部活か……。あわよくば会議の時から会長対策で道連れにしたかったところだったんだがな……」
英はあー、と同情の声を零す。
「会長の恋人見つけろコールか」
礼慈は眉間に皺を寄せて頷いた。
守結学園高等部生徒会は、礼慈以外全員が恋人がおり、会長などはことあるごとに礼慈に早く恋人を見つけたらどうだと勧めてきていた。
「あれで今年になるまでは恋人のこの字もなく、この世界に知識以外の興味は無いとか豪語してたらしいから、変われば変わるもんだ」
呆れたように、だがどこか愉快げに言う。
「スグを連れて会長の標的を分散させる作戦はあてが外れた。恋人コールにならないように惚気話に誘導するかな」
「ちなみに会長、今日の会議後は?」
「すぐに別件が入っているそうだ。貴族は社交が忙しいらしい。他の役員も調教したりされたりデートしたり他色々と用事があるらしくてな」
「見事に恋人がらみだな」
調教とデートが並列で語られても疑問を抱かなくなった辺り、自分も毒されていると思う。
「恋人が絡まなければ彼女たちは仕事を一人に残したまま帰りはしないだろ。
しかし、まあ約束があるのにあの人たちに仕事をされてても生徒会室の空気が甘ったるくなってくから俺が居づらい」
「それは、ご苦労さん」
「連日あの空気の中で過ごしてみろ……飲まなきゃやってられん」
礼慈は水筒を英へと押し出した。
「というわけで一杯どうだ?」
「その水筒の中身を無理に英君に飲ませるのでしたら私は本気で怒りますからね、鳴滝君?」
そう言って礼慈の背後に現れたのはいつの間にか席を立っていた鏡花だった
礼慈は何度も首を縦に振りながら水筒をポケットに戻した。
「肝に銘じておくからそんな警戒しないでくれ」
「鏡花も心配しなくても俺はそれには興味ないよ」
「ですが、ダメだと分かってはいても好奇心に負けてしまうことなどもあると思うのです。鳴滝君は特に英君と仲良しですし、付き合いというものもございます」
真面目だなあ、と礼慈は笑う。
「ああ、だけど、スグが自分で飲みたいと言って飲んだ場合はどうなるんだ?」
「好奇心を満たすための一回ならば私にはきっと認識できない事象となるでしょう」
「あーうん、そうか」
礼慈の何か悟ったような反応と共に予鈴が鳴った。
肩をすくめて席に戻る彼を見送って鏡花が言う。
「あの方はことあるごとに英君を悪い道に誘おうとしますね」
「挨拶みたいなものだからな」
苦笑で英は言葉を継いだ。
「今日、たしか当番じゃなかったはずだけど、部活に顔は出す?」
鏡花は「そうですね……」と考える素振りを見せ、
「大会前の大事な時期ですし、マネージャーとしては皆の様子を見守りたいです」
「じゃあ後輩のためにも、ピリが乗り気なら連れて来てやってくれ」
「承りました。お話しておきます」
鏡花はそう言うと、礼をして席に戻った。
見計らったかのようなタイミングで教室の扉が開いて教師が現れる。
今日も一日の授業が始まった。
●
足が剣道場の床を摺る音が聞こえる。
体に馴染んだ防具の重さを感じながら、英は打ち込み練習の最後の一振りを終えた。
周りを見渡すと、皆、練習に気合が入っているのが分かる。
高等部になってから新規で入部した後輩たちが部活に馴染み始めたというのもあるし、夏の大会に向けてセッティングされた練習試合が近いことも影響しているのだろう。
「小休止!」
部長がそう宣言すると、当番制のマネージャーが飲み物や塩レモンを差し入れていく。
そのマネージャーも数が多い。
試合が近いためか、その日の当番でもないマネージャーも来ている。
それに加えてピリのような誰かと恋仲の者までやってきていて、場内はなかなか騒がしい。
「楽しむのは結構だが、節度をもちなさい」
そう言って場を落ち着かせたのは、異世界の元勇者というファンタジーな経歴を持っている老齢の師範だ。
この学校を創ったリリムが護衛のために連れてきた人ということだから実際にかなり強いのだろうが、小等部から師事してきた英でも彼が本気を出している姿を見たことはない。
そんな底知れない師範は数名のマネージャーに紙を配った。書かれているのは個人稽古の練習内容だ。
師範が組んだメニューは的確で、皆めきめきと実力を伸ばしている。
彼に練習メニューを配られたのは、個人練習を監督できると師範に判断された者だ。
その判断を受けている鏡花は、紙を受け取るとピリにどう監督すればいいのかを教え始めたようだった。
ボランティア部との兼部で、どちらかといえばボランティア部の方がメインの鏡花だが、師範が昔彼女の父親に剣道を教えていたことや、彼女自身も無音の歩法を教わったという経緯もあってこちらにもよく顔を出す。最近は見学に来る恋人たちに仕事を教えるよう師範の嫁に頼まれて顔を出す頻度も増えていた。
彼女の言葉にピリが熱心に相槌を打っている。
自由な服装のマネージャーたちの中にあって、授業中とはまた違う規範性を醸し出す服に着替えているためか、鏡花とピリの関係は傍目には教師と生徒のようにも見えた。
放課後になると、彼女はいつも外行き用の服に着替える。
キキーモラ魂の衣装だとアンナが言っていた黒いワンピースに白いエプロンの、いわゆるメイド服だ。
これはこれでストイックな感じが非常にそそる。
ともあれ、二人に見守られながら練習に励んでいる柿本はどこか緊張した様子だ。幸せでよろしいことだと思っていると、鏡花と目が合った。
最近、鏡花の行動をつい気にしてしまうためか、練習中によくあることだった。そのたびに慌てて目を逸らすのだが、気付くとまた視線がそちらに寄っていく。
そんなことを今日も繰り返して――視界に収めていた竹刀の先が消えた。
そう思った瞬間にはウォークライのような叫びが浴びせかけられて脇に衝撃が走る。
「――っ」
息を詰め、反動として急激に吸った息が防具と汗の臭いを容赦なく味合わせてくる。部活前に食べた間食が胃から昇りかけてきた。
地稽古の相手から胴を一本もらったのだ。
防具があるとはいえ、衝撃が内蔵を揺らして気持ち悪い。
悪いことに、英の相手をしていたのはサラマンダーを彼女にもつ高等部三年の部長だった。
実戦を経験しているせいか、一撃の重さが他の生徒とは全く違う。大学生や一般の部との試合でも安定して勝てる程度に彼は強く、また、
「どうした? 最近おかしかったが、今日はまた一段と調子悪いな」
毎日彼女と戦いながらコミュニケーションをとっているせいか、試合の一合一合からこちらの心の内を読んでくる。もはやある種の超能力だ。
「すみません」
「別にいいが、何かあるなら話くらい聞くぞ? お前が不調だと俺の相手してくれる奴が居なくなるからな」
裏の無い笑顔を見せる部長。
集中が乱れている自覚はあり、その理由についても分かってはいるのだが、内容が内容だけにそれを話すのは躊躇われた。
「すみません……」
そう返すしかない英に、部長は気にしたふうもなく答える。
「それならそれでいいさ。だが、できたら早めに復活してくれ」
そう言った部長の顔が一瞬固くなる。
姿勢を正す部長を見て、英も誰が来るのか理解して部長に倣った。
「剣筋が乱れているな」
静かに評したのは師範だ。
見た目が老齢なのにそれを思わせない流れるような身のこなしで視界に入ってきた彼は、正面から英の目を見据えてくる。
これまで一本たりともとったことが無い相手に睨まれるというのはかなりの重圧だ。
無言で目を合わせ続けた師範は、ふと視線を外していつの間にかこちらに注目していた生徒に一通り視線を投げて道場全体の空気を緊張させつつ、
「体調ではないな。立て直さなければ怪我をするぞ」
「すみません。精進します」
そう言って下げた頭に声が降ってくる。
「無我になれとは言わん。バランスを取ることだ。
基礎練習に切り替えなさい」
「はい」
相手がいない練習に切り替えよと指示が出た所で集まっていた視線が離れる。
情けない所を見せてしまったと思いながら場所を移そうとすると、部長が声をかけてきた。
「その前に、一度休憩入れとけよ」
「そうだな。なかなか腰の入った一撃をもらっていたのだから、体の状態をたしかめておくといい」
言われた通りに英は道場の隅に寄って腰を下ろすと、俯いてため息をついた。
自分の有様に乾いた笑いが出る。
今日はどうにも自分の性欲に振り回される日だ。やはり溜めるのは良くない。
そんなことを思っていると、目の前にグラスが差し出された。
慌てて顔を上げると褐色の肌をした女性が居た。部長の彼女のサラマンダーだ。
「麦茶だ」
「ありがとうございます。スーレさん」
受け取ったお茶を流し込む。
冷たい飲み物が防具で蒸された体を生き返らせるようだ。微かな塩味がまた心地よい。
空になったグラスにもう一杯麦茶を満たすと、スーレはサラマンダー自慢の尾に灯る炎で自らの恋人を示した。
「あの男は……明らかに様子がおかしい奴に対してもあんな調子ですまない」
「そこが部長の良い所です」
「そう言ってくれると助かる」
スーレは「すまないついでに」と続けた。
「本当なら大取に見に来てもらいたいだろうが、マネージャー仕事となるとあいつ程教えるのがうまい奴はいない。勘弁してくれ」
「別に、誰だってお茶をくれるんならかまいませんよ」
スーレは歯を見せて口角を吊り上げた。
「そうか、それはよかった――ところでここ数日練習試合に向けて励んでいる後輩諸君だが、彼らの中で甲斐甲斐しく世話をしてくれる大取が密かに人気らしい。告白する奴も出るかもしれないな」
敢えて英はもう一杯の、今度は塩なしの麦茶を飲み終えるまで反応しないようにして――むせた。
「……っ、そ、そうなんですか?」
「いつも表情が硬いから敬遠されてたのがあの気配り上手だからな。いわゆるギャップ萌えという奴ではないか?」
鏡花がギャップ萌えするというのは後輩たちから漏れ聞こえていたので英も知っていたが、そこまで人気を博していたとは驚いた。さすがは、細やかな配慮を身上とするキキーモラだ。
英は気を取り直して答える。
「できる子ですからね」
「先輩としても人気でうちのマネージャー志望が懐いてる。兼部先はボランティア部だったか? 大人気に違いないな」
「大抵のことは見事にこなしちゃいますからね」
夢にいちいち心を乱されている自らと引き比べて優秀な幼馴染のことが遠くに感じられた。
残念や悔しいよりも寂しさを感じる心に呆れ、英はスーレにグラスを返して自分を奮い立たせた。
「俺も負けてられないですね。先輩のためにも早いとこ調子を取り戻してみせますよ」
●
練習に復帰して素振りを始めた、恋人の実力に迫りつつある後輩に気を配りながらスーレは思う。
(前からそうだったけど、いよいよ面倒臭いことになってるな)
英が練習に戻ってから、今日初めて部にやって来たハーピーにマネージャーの手ほどきをしながらちらちらと視線を向けてくる鏡花にグラスを掲げて両手で〇を作ってやる。
(塩加減も評判だったぞー)
ジェスチャーの意図が伝わったのかどうか。ともあれ鏡花はほっとした顔になり、今度は個人練習に戻る英に視線をやっている。後で体は大したことは無いと伝えておいた方がいいだろう。
しかし、とスーレは英と鏡花を交互に見比べて内心で首を傾げる。
ほぼ毎日家に通ってくる魔物娘の幼馴染と長年一緒に居て、未だに恋人関係にないくせにお互いに意識はし合っているというのは、いったいどういったいきさつがあってのことだろうか。
「好きなら好きで、とりあえず勝負して思いの丈をぶつけ合えばいいのに」
そうもいかないのだろうところに種族の差を痛感する。
「――ッキエエェェエッ!」
勢い任せに防具無しの師範に攻め込んだ恋人が師範にぶちのめされる音が道場に響いた。
●
窓の外が暗くなって街灯が点きはじめる頃。英は高等部本校舎最上階にあたる四階の生徒会室に向かっていた。
結局部活は基礎練習をするだけで終わってしまった。
型の確認もできたし、それはそれで重要なことではあるのだが、自分の中に居座るもやもやとした感覚が消えることはなく、これが消えない限りは明日も個人練習に終始することになるだろう。
普段ならばそれはそれで体作りに費やしてもかまわないのだが、練習試合が近づいているということを考えると試合形式の練習はこなしておきたかった。
(急いで調子を取り戻さないとな)
この調子があまり続くと、事態は英だけの問題でもなくなってしまう。
練習相手が欲しい部長のこともそうだし、師範だってあれで気にしているだろう。それに鏡花も本格的に心配してしまうはずだ。
ただでさえ鏡花は今、英を気づかって後ろから付いて来ているのだ。これ以上迷惑をかけたくはない。
彼女は色々と考えている英を尊重してか、何も言ってはこない。
その配慮はありがたいが、あまり黙っていても気まずい。英は背後に声を投げた。
「今日はちょっと失敗したな」
「お体の調子はよろしいのですか? もしお加減が悪いのでしたら、この後の生徒会室でのお仕事は私が引き継がせていただきますが」
「いや、体の方はそんなに問題ないと思う」
むしろ元気すぎて持て余しているのが問題なのだが、元気の燃料になっている本人にそれをいうわけにもいかない。
「本当にお体に異常はないのですか?」
「鏡花なら体の動きを見ればその辺りは分かるだろ?」
キキーモラなのだ。体調の良し悪しよりもっと深いところまで読み取ることだって可能だろう。だから読み取るヒントを与えないために踏み込まれるのを阻止した。
「そうですが……」と鏡花は不服そうだが、深く聞かれたくはないということを察してくれたのか、引き下がってくれる。
心配させてばかりで申し訳ない。急いで復調しなければと改めて思いながら、英は生徒会室の戸を開けた。
生徒会室には扉からそのまま入ることができる会議室を兼ねた部屋と、部屋の奥にある扉から入ることができる、事務仕事と資料保管用に確保された通常教室の半分程度の大きさの生徒会準備室がある。
生徒会室の方は整頓された椅子と長机があるだけで他には誰も居なかった。
「あの香りがします。奥にいらっしゃるようです」
一歩後ろで鏡花が言う。
見ると、生徒会準備室に続く扉が少し開いている。
その隙間から中を覗いてみると、ノートパソコンを操作している礼慈が居たので扉をノックしながら大きく開く。礼慈は画面に視線をやったまま口を開いた。
「スグか? 部活は終わったのか?」
「ああ、手伝うよ」
「ちょっと待ってくれ。あと少しで原稿ができるからな」
尚もパソコンの操作を続けたまま、礼慈は蓋を開けたまま置いてある水筒を指さし、
「まあ、その間にでも飲んでてくれ」
「鳴滝君、調子がよさそうですね」
鏡花の声に礼慈はギョッとして画面から顔を上げると、流れるような動作で水筒に蓋をして鞄に放り込んだ。
「大取、これはいつもの軽口というやつだ。気にしないでくれ」
「ほろ酔い気分での軽口がいつも、というのは感心しません。いくらお母様がサテュロスになられたからと言っても、あなたはあくまで人なのです。そのように強いお酒を飲んでいますとお体を壊してしまいますよ」
澄ました顔で注意する鏡花に英は苦笑で同意する。
「だな」
鏡花の言う通り、礼慈が持っている水筒の中身は酒だ。
母がサテュロスになる前から礼慈はそれを持ち歩いていたような記憶があるので、彼は彼で本気で酒に夢中になっているのかもしれない。
教師には知られていないはずなのでどう反応されるかは分からないが、水筒の中身を知っている生徒の間では、彼が酒を携帯していること自体はバッカスの信徒でもあるサテュロスを母親を持つ以上特に咎めることでもないという認識だ。
生徒会長もその一人で、生徒会に入る気がなかった礼慈に対して飲酒を黙認するという条件を提示して引き入れたという経緯があるため、今の生徒会の三年生はそのことを知っている。
つまり生徒会室は飲酒の安全スペースだ。
だから油断して水筒を全開にしていたのだろう。アルコールと共に漏れ出た和菓子のようなにおいが英にも嗅ぎ取れる程充満している。
無言で窓を開けた鏡花に、礼慈は彼にしては珍しく愛想笑いを浮かべた。
普段しないせいで若干ぎこちない。そんな笑顔で彼は訊ねる。
「大取も手伝ってくれるのか?」
「いえ、私はこちらに英君をお送りに来ただけです」
鏡花は英に手を出した。
「英君。道着をお渡しください。先にお洗濯しておきます」
「分かった」
袋に詰め込んだ道着を渡すと、鏡花はそれを抱えて頭を下げた。
「それでは私は先にお家に帰らせていただきます。
部活でのこともございます。体調に問題がなくてもあまり遅くまで学校に残らないようにしてください」
「分かってるよ。鏡花も気を付けて」
「お疲れ」
それぞれに挨拶をして鏡花が去るのを待ち、礼慈はほっとした顔でキーを叩き始めながら問う。
「なんだ? 部活で何かやったのか?」
「集中しきれなくて部長に手痛い一撃をもらった……あと、師範にそのことを見抜かれた」
「そりゃまた残念だな」
礼慈は少し間を空けて、
「何か悩みでもあるのか?」
「あー、まあ、なんだ……」
英がもごもごしていると、礼慈は訳知り顔で頷いた。
「部屋を掃除されてエロ本が見つけられていたとかだな?」
「俺、部屋には誰も入れてないしエロ本関係はうまいこと隠してるからそう簡単には見つからねえよ?」
「そうかそうか。となるとまあ大体予想はつくけどまあ頑張れとしか言えないな――っしできた!」
身が入ってない返事を返しつつ原稿を完成させた礼慈は、すぐにコピーを行い手伝う英と二人で冊子を完成させる。
各学校に配布する分が完了していざ配りに行こうという時、英はため息交じりに呟いた。
「……こんなんじゃいつまで経っても告白できやしねえ」
相島英(あいじま すぐる)は、はっきりとしない思考で自分の体の上に揺らめく影を見る。
初めはどのような形をしているのかすら認識できなかった影は、思考の霧が晴れていくに従ってその正体を明らかにしていった。
それはよく見知った少女だった。
彼女は英の腰に乗っており、体が揺すられるごとに英の下半身に鈍い快感が打ち寄せる。
少しずつ体が昂ぶっていくが、今一つ物足りないと本能が不満の声をあげた。
もどかしい刺激では我慢できず、彼女の体を掴んで下半身を思う様に叩きつけたい衝動にかられるが、体は逸る意思に反して上手く動かない。
むずむずと腰に溜まる欲望を意識しながら英は現状をより正確に認識していく。
彼女の体は重さがないかのように軽く、光が満足に入らない部屋では彼女の表情も見えない。定期的に与えられる鈍い刺激は早くも遅くもならずに一定のリズムを刻み続けている。
現実感のないそれはまるで夢の中にいるようであり――そこに思考が至った時点で彼はこれを夢だと理解した。
(なんだ……)
残念を思う英は、もしかしたらという僅かな希望と共に彼女の名前を呼んでいた。
「きょうか……」
●
唐突に視界が開けた。
部屋は朝日に照らされており、体の上には誰も居ない。視界を占めるのは見慣れた自分の部屋の天井だ。
鳥の鳴き声を聞きながら、英は壁掛け時計を見る。
朝五時五十五分。いつも通りの起床時間だった。
(……やっぱり夢か)
そう納得した途端、英はある可能性に気付いて上半身を跳ね起こした。
布団をめくり上げる。下半身が自己主張してはいるものの、ズボンに染みはできていない。
朝一番の安堵の息をついて、英はベッドから下りた。
下着をめくってみると、夢のせいか、ペニスからは先走りが滲み出していた。
こいつの処理をどうしようかとしばし考える。
少しばかり下着が汚れてはいるが、着替えの際に寝間着と一緒に洗濯機の底に放り込めば問題無いだろう。洗濯さえしてしまえば彼女の鼻ににおいを拾われることもないはずだ。幸い寝汗もかいているので多少の湿気は怪しまれることもない。
ストレッチで体を伸ばしながら体調を確認する。
下半身に負けず劣らず、全身良好だった。
(もう少し節操を持ってくれると助かるんだが……。これで夢精なんてした日にはどうしたって一発でバレるっての)
半勃ちの状態に戻った息子に非難の視線を向けていると、部屋の外から少女の声が聞こえた。
「英君、お目覚めですか?」
慌てて下着を引き上げて英は返す。
「ああ鏡花。起きたよ」
時計を見ると六時十分だった。
目覚ましをかけなくても毎日の習慣で六時には起きるはずの英が階下に降りてこないため、寝坊したとでも思われたのだろう。
扉の向こうに居る声の主は僅かな間を開け、
「朝ご飯ができています。よければお召し上がりください」
「ありがとう。そうさせてもらう」
「お待ちしております」と返事があり、後には無音が残った。
彼女は鱗の足を持っているというのに嗜みだと言って移動の際にほとんど物音をたてない。今日に限ってこの技術はくせ者だ。
彼女がいつもの歩調で階段を降り切って脱衣場までのルートが無人になる頃合いまで待機してから、英は部屋を出た。
脱衣場で洗濯機に下着ごと寝間着を放り込んだ英は、においを気取られるのを防ぐためにシャワーを浴びて入念に身体を洗った。
さっぱりした気分で制服に着替えて台所に行くと、弁当箱で白米が湯気を漂わせていた。
弁当箱は彼女自身のものを含めた通常のものが三つと英の部活前の間食用の小さいものが一つ。ということはもう父は出勤した後だろう。
粗熱を取るために置いてある白米の横で、弁当の別の段におかずを詰め込んでいた和服にエプロンの少女が視線を合わせて頭を下げた。毛先に進むにつれて色素を薄くするアッシュブロンドの髪と垂れた耳が頭の動きに追随する。
「おはようございます英君。シャワーを浴びられたのですね」
「おはよう鏡花。どうにも眠気がとれなくってさ。遅くなっちゃったな」
「いえ、まだお時間に余裕はありますよ。お食事も温かいままです」
英の夢の中で腰を擦り付け、現実で起こしに来てくれた少女は朝にふさわしい清々しい笑顔で応答する。
器をとってご飯をよそおうとする鏡花を制した英は、自分で米と味噌汁をよそいつつ、弁当詰めの作業に戻る鏡花の動きを夢の残滓が残る目で追う。
手首から覗く羽毛や、エプロンの結び目の下で楚々と揺れる尻尾は頭部とは逆で根本が白く、先端に移るごとにアッシュブロンドの色合いを濃くしていく。
吸い込まれるようなグラデーションを描く毛色もさることながら、彼女の尻尾は根本が羽毛で途中から獣毛に移り変わるという不思議さだ。
この尾の具合などは彼女たち、キキーモラという種族の平均的な特徴らしい。
ついつい手を伸ばしてみたくなる逸品で、実際幼い頃はよく触らせてもらったものだが、今となってはあの頃のような純粋な好奇心では触れない。小等部の頃に秘密基地で見たモノの本によれば、尻尾というのはかなり敏感な器官らしい。そんな所を触ればどうなるのかと下心と共に考えるのは、もう男として仕方ないのではないだろうか。
成長とは、かくも悲しいものである。
鏡花が焼いたと一目で分かる見事な焼き色の鮭の切り身を一片もらい、この世界の北欧に現れたがこの国の男性に一目惚れして極東の島国に移り住んだという鏡花の母が最近ハマっているお手製漬物をありがたくいただく。
そうして朝食の席についた英の前に茶が置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
機嫌良さげに洗い物にかかる鏡花につい目がいく。
幼馴染は今日も英に目を惹きつけてやまない。
(やばいな)
ここで再度勃起しようものなら非常に気まずい空気になることは避けられない。
できるだけ卑猥な連想につながるものを避けようと、夢の中では鏡花が着ていなかった着物。その柄に意識を向ける。
象牙色の地に何かの花が描かれている。はて、何の花だったろう。
友人がはまっていた花札というカルタ遊びで似たような絵柄の札があっただろうかと思い出していると、喜色を含んだハミングが届いて耳が幸せだ。
(やばいなぁ……)
ときめくな俺の心。そう言い聞かせてお茶をゆっくり啜っていると、背後から声をかけられた。
「あんた何ぼーっとしてるの? せっかく鏡花ちゃんがご飯作ってくれたんだから冷める前に食べちゃいなさいよ」
「分かってるよ。少しくらい味わって食ってもいいだろ」
「そんな風流な柄じゃないでしょうにまったく。鏡花ちゃんを見てみなさい、朝からあんなにテキパキ爽やかなのよ。今日はなんかいつも以上に爽やかで私危うく浄化されちゃうわ」
「お上手ですわおばさま。お恥ずかしながら、今朝は懐かしい夢を見たもので、少しく気分が高揚しております」
「夢見がいいのはいいことよ。おばさんも嬉しさをおすそ分けされちゃったわ」
声をかけてきたのは英の母だ。スーツを着てすっかり出社の準備を整えた彼女は鏡花を拝みつつ、
「毎日弁当ありがとね鏡花ちゃん。じゃあ、悪いけど私も行くわ」
「はい、おばさま。行ってらっしゃいませ」
弁当を引っ掴む母にしっかりと頭を下げる鏡花にならって手をぞんざいに振り、英は母に言ったように味わいながら朝飯を再開した。
お袋の味よりも舌に馴染んだ幼馴染の味付けを堪能していると、鏡花が弁当の用意を終えて英に言った。
「英君。私は着替えさせていただきますね」
「ああ、ゆっくりしてて。食器は片付けておくから」
家事を全てこなしたがる鏡花へのささやかな抵抗。その一言に何か言いたげにした鏡花だが、玄関からの「行ってきます」に応じることで口はつぐまれた。
タイミングを外されて諦めたのか、鏡花は一つ礼をして、相島家が彼女のために用意している一室に着替えに行った。
大取鏡花(おおとり きょうか)は相島家の隣にある大取家の一人娘だ。
種族的に経験を積んでおきたいということで、朝と放課後に相島家に通って家事修行を行い初めてはや十年になる。
最初の一、二年程ならばともかく、今の彼女にしてみれば今更こんな一般の家庭で家事の切り盛りをしたところで得られるものなど大してないだろう。それでも彼女がこうして家事をこなしに来てくれるのは、相島家と大取家が隣同士であるという以上に深い付き合いがあるからだ。
英と鏡花は同じ日、同じ病院で生まれていた。
仕事大好き人間で英が生まれる直前まで働いていた英の母、芹がさて入院中に育児について詳しくなろうと父、真(まこと)に大量に本を買わせに行った際に大取家の父、航と遭遇して意気投合したことからこれまでのお隣さんとは違う、子育て仲間としての関係ができたそうだ。
実際には仲間というよりも二人の子供を上手にあやす鏡花の母アンナに航・真・芹の三人が教えを乞い導いてもらう感じだったらしい。
アンナは一族としてはこちらの世界での初産であったために勝手を知るために入院していたらしい。初産とはいえ、基本的に魔物娘と人間とでは本能として持ち得る子育ての習熟度が違う。加えて彼女は種族的に家事適正が極めて高いキキーモラだ。そのような形になるのもさもありなんといったところだろう。
二人一緒に育てられたためか、鏡花も英も互いの親を自分の第二の親のように思っており、その育児体制からの流れで赤子の時代を過ぎてからも両家は一緒になって遊んだり祝い事をしたりということが続いていた。
そして両家の付き合いは、英たちが人魔共学の学園の小等部に入学する頃にまた一段と深くなる。
その頃になると往時の勤労意欲がぶり返してきたのか、芹は本格的に仕事に復帰し、共働きになった相島家の朝は慌ただしいものになった。
休日に時間を作って掃除されるまでの間、徐々に荒れていく相島家の状況に鏡花は幼いながらキキーモラとして何か思うところがあったのだろう。家事手伝いを申し出るようになった。
アンナからの「種族としての修業ですから」という言葉に言いくるめられる形で彼女に家事をお願いしたのが十年程前。
そして現在。朝の相島家はもはや鏡花なしでは回らない有様だった。
他家の一人娘をハウスキーパーに使っている状況に対して相島家も手を打とうとしなかったわけではない。
学年が変わったり、上の学校へ上がったりする。キリの良いところで相島家両親は何度か家事手伝いはそろそろいいと伝えていたのだが、鏡花は頑として首を縦に振らなかった。
真曰く、「あんな顔で言われたらやってもらうしかないじゃないか」という話なので、過去の家の荒れ具合は英としては多少ちらかってたなくらいの記憶だが、鏡花の中では相当許せないものだったのかもしれない。
中等部半ば頃には英の両親は現状を受け入れることを決め、今のような光景がある。
家事に対して「お前は逆に荒らすから手出し無用」を母に言い渡されて世話をされている側の英としては、鏡花の行動に口出しする権利はなく、家事をこなす見慣れた幼馴染の姿に静かに感謝する毎日だ。
●
英が食事を終え食器を洗っていると、鏡花が「手伝います」と声をかけてきた。
着替えた彼女の姿は和服から一変して制服にスカートだ。急いで着替えてきたのだろうに着こなしが完璧なのにはいつもながら舌を巻く。
様々な身体部分を持つ魔物娘が在籍している関係で基本的に服装が自由な学園において、学園が用意した制服を着るのは女子では少数派だ。
男の英からすれば制服という決まった服装があった方が毎日着ていく服を決めるなどという面倒ごとを回避できていいのではないかと思うのだが、女子的には必ずしもそうではないらしい。着飾った方が男受けが良いため皆いろんな服でいろんな自分を見せるのだと、教師と恋仲になった高等部の生徒会長などは言っていた。
そのことを考えると、太もも丈の紺のプリーツスカートにそのわずか下まである白のニーソックスを穿いた鏡花が、他の服を着たくても毎朝他家のことで時間を取られてしまって制服しか着られていないのだとなると流石に一家揃って土下座ものだ。
しかし鏡花はほとんど服の種類を持っていない。これはアンナ情報なので間違いないだろう。
鏡花としても仕事で汚れることもある以上、華美な服はいらないらしく、収まりの良い制服の格好をそれはそれで好んでいるらしい。
そういう実直なところも好ましいところだった。
「私が代わりますから、英君は登校の準備を整えてきてください」
ニーソックスに覆われた鳥の足のような鱗が軽やかな足運びでやってきてすぐ隣に控える。
鏡花から香ってくる落ち着く香りや皿をそっと取り上げて洗い出す姿や口元に浮かぶ微笑などを一つ一つ感じるたびに邪なことを連想しそうになる自分を自覚して、英はここ数日自己処理をしていないと思い至った。
今朝の淫夢もこのあたりが原因だろう。
溜まっている状態で彼女の近くに居るのは精神衛生上よろしくない。家事の残りを鏡花に任せ、英は言われた通りに鞄に荷物を放り込んで歯を磨きにかかった。
登校の準備が整うと、既に弁当箱が袋に詰められていた。
二種類の袋を受け取り、いつもより若干遅れ気味に家を出る。
家から学園までは徒歩で二十分もあれば着く。いつもが教室の半分が生徒で埋まる前には到着するくらいなので、多少の遅れは許容範囲だ。
「この分なら、歩いても余裕かな」
「そうですね。仮にもう二十分家を出るのが遅くなっても遅刻にはなりません」
その口調は家の中でのものよりどことなく硬質な雰囲気をもっている。
口調だけではない。家を出た瞬間に、どことなく鏡花がまとう空気が変わっていた。
柔らかな笑顔がなりをひそめ、凛としたものになっている。
いつの頃からか身についていた鏡花の癖だ。
どことなく戦いに臨むかのように職場に向かう母を思い起こさせる辺り、鏡花は影響されたのだろう。
いかにもできる人なオーラを漂わせる鏡花だが、実際に学園では成績はトップクラスで、部活動でも相応の実績を積んでいる。
そんな彼女を少し遠くに感じながら、英は応じた。
「走らなきゃならないくらい遅くなってみたいもんだ」
「無遅刻無欠席でなくてはならないとは申しませんが、そうすることにこしたことはありません」
「ま、そうだな。もし俺が起きなくて遅刻しそうだったらそのまま置いて行ってくれていいからな」
「英君がこれまで一度も遅刻をしたことがないのは私が一番よく存じております。もしそのようなことになりましたら病気を心配してしまいます」
「心配させるとあっちゃ、うかうか寝坊もできないな。いい加減目覚まし時計でも買おうかな」
「……せっかくこれまで目覚まし時計なしで起きることができる習慣が身に付いたのですから、そのまま続けてはいかがでしょう? もし本当に遅刻しそうなら私が起こしに参ります」
「それもそうか」
そもそも目覚ましなしで英が起きるようになったのは鏡花の影響なのだが、彼女は覚えているだろうか。
「あ、おはよ、今日遅いじゃん」
英たちの会話に空から飛び込んで来たのは、ショートパンツのハーピーだ。
英と鏡花はクラスメイトである彼女に挨拶を返し、苦笑して見せる。
「ちょっと寝坊したんだよ」
「ふーん。スグるん、あんまりキョウちゃんを困らせたらだめだよー」
「いえ、困ることなど何一つございません」
「そう? ――あ、ごめん。彼が居るから先行くね!」
「はいよ」
「それではまた、教室で」
「うん! ダーリーン!」
嵐のように現れ去って行く彼女、ピリの声に気付いて手を振り返す彼はたしか英の剣道部の後輩の柿本だ。
いつの間にかくっついていたのかと、手を取り合う二人を眺めながら思う。
彼らが通っている守結学園(もりゆいがくえん)は人魔共学小中高大一貫の大規模な学園で、こちらとあちらの世界が接点を持った時に魔物たちがゼロから創り上げた土地に創設された。魔物と人間の当初のごたごたを乗り越えて存在する、いろんな意味で有名校である。
以前は魔物ばかりの女子校だったそこも、世代が幾つか過ぎて魔物と人間の間に目立った軋轢が生じなくなった今では共学の学び舎として広く門戸を開けている。
魔物たちと人間が共に勉学に励むとなれば、当然カップルだってできあがる。特に英たち高等部二年にもなると魔物の半数は誰かしら気に入った相手を見付けているものだ。
嬉しそうに飛んでいくピリを見送って、英は鏡花の顔を覗き見た。彼女は目を細めて、
「幸せそうですね」
「そうだな」
友人を祝う鏡花に、全身で背中から抱きつかれた後輩を視界に収めた英は羨望が声に出ないように意識して応じる。
自分にもそのようにできる相手ができたらいいという妄想は、どうにもはっきりとした像を結ばなかった。
相手が思い浮かばないわけではない。
むしろ、恋人になりたい相手ということならば、もう何年も前に英の中では一人に決まっていた。
ただ、その人の隣に自分の居場所があるのかと考えると、どうにもそれは鮮明な像にはならない。
(こんなに近くに居るんだけど)
そう思いながら鏡花を見続けていると、彼女が英の方に顔を向けた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、あの二人が付き合ってるのを知らなかったから驚いてさ。鏡花は知ってたか?」
反射的に問いを投げ返す。鏡花は頷き、
「女子の間ではそのような話はすぐに回ってしまいますから。今度、剣道部に見学に行きたいともおっしゃってましたよ」
「それはまた、歓迎しないとな」
「そうですね」
鏡花は薄く笑んだ。
家で見せてくれる柔らかな笑みも落ち着くが、洗練された彼女の立ち居振る舞いに似つかわしいこの涼やかな笑みも魅力的だ。
その笑顔を見続けていたのが悪かったのだろう、鏡花は振り向き、
「英君。私、どこかおかしいですか?」
「え?」
言っていることの意味が分からずに聞きかえすと、鏡花は首を傾げ、
「今朝からずっと私のことを見てらっしゃいますし……そういえば英君、朝も私のことを呼んでいませんでしたか? 部屋から声が聞こえたような気がするのですけれど……」
英は慌てた。
鏡花が起こしにくる前に彼女の名前を呼んだ記憶はないが、恐らく夢の中で自分に跨る影に対して呼びかけたあの言葉のことを言っているのだろう。よく考たら英自身が目覚めたのも自分のその声が原因だ。声が漏れていたのだ。
その後鏡花を見続けていたのだって、元をたどればその夢の影響だ。
(淫夢に影響され過ぎだろ俺……っ)
嫌な汗が流れてくる。このまま何も答えなければキキーモラはその鋭い勘で夢のことまで見抜いてくるかもしれない。
(なんたってお袋が隠してる片頭痛やら四十肩やらをソッコで見抜いてくるからな)
「何も言った記憶がないんだけど……ああ、でも見ていたのはちょっと理由があるかな」
次の言葉を促すように鏡花の尻尾が揺れる。
その促しに乗るまでの間に理由になりそうなことを考え、咄嗟に英は口を動かした。
「ほら、ここ最近、ちょっと暑くなりはじめてから着始めたあの涼しい感じの着物あるだろ? あれに描いてある花、花札で見たことあるけどなんだったかなって今朝急に思ってさ」
ギリギリ不審に思われない所を突いた問いではないか。と自分の機転に感心しながら問うと、鏡花は少し嬉しそうに頷いて、
「お花に興味がおありですか?」
「あー、なんとなく思っただけでそこまで興味があるわけじゃないんだ……」
鏡花は複雑そうな顔で一つ息を吐いた。
「残念なような、英君らしいような」
「まあ、花ってガラじゃねえよな」
「いえ、花を愛でる英君も素敵ですよ」
宥めるように言って、鏡花は続ける。
「着物の柄の花はあやめと申しまして、初夏の頃のお花になります。花言葉は……そう、佳い報せ≠ナすね。私も英君が部活で勝利を収めることをこうして応援しております」
「そいつはありがとう」
気にしてなさそうに返しながら、内心英は鏡花の応援を嬉しく感じていた。
彼女の一挙手一投足に気持ちが左右されるようになったのはいつの頃からだろうか。
その始まりを思い出すこともできない。ただ、彼女のことを自己処理のオカズとして使った頃には既に彼女のいろんな部分に目が引かれるようになっていたし、初めて使ったオカズは記憶を確かめるまでもなく鏡花なので相当の年季が入っている。
性的な欲望を満たす方法をその手の本などに頼るようになって雄としてある程度の分別を身につけたと思っている今でも、油断すれば妄想の中ですぐ身近な存在である鏡花を汚してしまいそうになるあたりかなり重症だろう。今尚、データ化しているエロ本と鏡花の写真とで使用率がほぼ同じというのは自己嫌悪ものだった。
もう八年程は鏡花は英の部屋に入っていないのでそのような事態を知ることができる要素は皆無だが、油断をしてはならない。
なんとか彼女が抱いた不審を拭うことに成功したが、ここでまたボロを出せば色々と知られてはならないことにまでたどり着かれかねない。
(この緊張感が剣道の上達に繋がってる気がするな)
そんなことを考えながら視線を前に向け、英は一心に学園を目指した。
●
いつもより人が多い教室に入ると、英と鏡花はそれぞれの席に荷物を置いた。
席の七割は埋まっている。残りももうすぐ来るか、それぞれのやんごとなき理由で自主休校かのいずれかだろう。
英たちの教室の人と魔物の割合はおおよそ二対三で、女子に絞れば八割は魔物だ。中学卒業時に比べると魔物の割合がじわじわ伸びてきている。
教室内の魔物、そしてインキュバスの割合は小中高大と年次を重ねるごとに増えていく中で、英たちの教室は高等部としては平均的な割合のクラスだった。
彼女たちが元居た世界でこのような施設を作ろうものなら、今頃インキュバスや魔物でない人間の数は学園全体でも数える程しか居なかっただろうと茶飲み話に教えてくれたのは、教頭ちゃまとして皆にマスコット的に可愛がられているバフォメットだった。
魔物率が九割越えになっていないのは、学園のための敷地を土地から創り出すという不条理を働いた学園の創立者が、新たに繋がりを持った世界の和平を築きつつ愛を育むために魔物に本能を重んじながらも本能だけではない生き方を勧めた結果である。
そのような経緯のためか、この学園に通っているのはこの世界に帰化した魔物か、あちらの世界で相応の地位や教養を得たりして自己を律するようになった者、知識欲に溢れた者が多い。
魔物たちは総じて日々を生きる熱量が高いためか、自然と学園生活はイベント満載な豊かなものになっている。英にとっても、たまに不可解なことを交えつつも過ぎていくこの学園生活は楽しいものだった。
予鈴が鳴る数分前になって、一人の男子生徒が教室に入ってきた。
目付きが悪く、近寄りがたい雰囲気の彼は荷物を自分の席に置くと、すぐに英に近付いてきた。
「スグ、おはよう」
「おはよう、礼慈」
鳴滝礼慈(なるたき れいじ)とは小等部からの付き合いだ。
目付きこそ悪いし雰囲気はカタギっぽくないが、本人は話かければ普通に返して来るし、目立った不良行為は行っていない。割と真面目な生徒だ。
そして、見た目が怖い人間くらいならば魔物たちはたいてい臆せず近付いてくるし、話せば彼が普通な上に見た目にそぐわず意外に面倒見が良いことが分かるし、そんな光景を見ていれば人間だって彼の性格を正しく理解する。
結果として、学年が上がっていくごとに不良・怖い人からちょっと人相が悪いだけの良い奴という扱いに変わっていったのが礼慈という男だ。
学年首席でもある彼は、能力を見込まれて今年になって生徒会長に拝み倒された末に生徒会入りしている。生徒会メンバーの熱心な勧誘風景は語り草だ。
「スグ、いきなりですまんが今日の放課後に文化祭のための学園内代表委員会があって、高等部生徒会は議事録を作らなきゃならなくなった。
会議での決定事項をまとめて学園内各学校に配布して掲載するのを手伝ってもらえないか?」
「部活後ならいいよ。放課後からの会議なら終わるのは部活後くらいで考えといていいだろ?」
「その予定ではいる。皆会議で踊るより好きな相手と過ごしたいだろうから会議自体はすぐに終わるはずだ。議事録のまとめと配布準備くらいまでは終わらせて待っておく」
「ならいいな。普段のお礼も兼ねて手伝わせてもらおうか」
「自分のためにもなってるからそこは気にしなくてもいい。用事があるなら普通に断ってくれていいからな」
「と、言ってもらってるだろうに配布係を断らなかったんだろ?」
「実際俺は大した用事もないし、それに不良行為を目こぼししてもらってるから細かい所で恩は売っておきたいんだよ」
そう言って礼慈はポケットから小さな水筒を出して振って見せた。
「しかし、そうか、部活か……。あわよくば会議の時から会長対策で道連れにしたかったところだったんだがな……」
英はあー、と同情の声を零す。
「会長の恋人見つけろコールか」
礼慈は眉間に皺を寄せて頷いた。
守結学園高等部生徒会は、礼慈以外全員が恋人がおり、会長などはことあるごとに礼慈に早く恋人を見つけたらどうだと勧めてきていた。
「あれで今年になるまでは恋人のこの字もなく、この世界に知識以外の興味は無いとか豪語してたらしいから、変われば変わるもんだ」
呆れたように、だがどこか愉快げに言う。
「スグを連れて会長の標的を分散させる作戦はあてが外れた。恋人コールにならないように惚気話に誘導するかな」
「ちなみに会長、今日の会議後は?」
「すぐに別件が入っているそうだ。貴族は社交が忙しいらしい。他の役員も調教したりされたりデートしたり他色々と用事があるらしくてな」
「見事に恋人がらみだな」
調教とデートが並列で語られても疑問を抱かなくなった辺り、自分も毒されていると思う。
「恋人が絡まなければ彼女たちは仕事を一人に残したまま帰りはしないだろ。
しかし、まあ約束があるのにあの人たちに仕事をされてても生徒会室の空気が甘ったるくなってくから俺が居づらい」
「それは、ご苦労さん」
「連日あの空気の中で過ごしてみろ……飲まなきゃやってられん」
礼慈は水筒を英へと押し出した。
「というわけで一杯どうだ?」
「その水筒の中身を無理に英君に飲ませるのでしたら私は本気で怒りますからね、鳴滝君?」
そう言って礼慈の背後に現れたのはいつの間にか席を立っていた鏡花だった
礼慈は何度も首を縦に振りながら水筒をポケットに戻した。
「肝に銘じておくからそんな警戒しないでくれ」
「鏡花も心配しなくても俺はそれには興味ないよ」
「ですが、ダメだと分かってはいても好奇心に負けてしまうことなどもあると思うのです。鳴滝君は特に英君と仲良しですし、付き合いというものもございます」
真面目だなあ、と礼慈は笑う。
「ああ、だけど、スグが自分で飲みたいと言って飲んだ場合はどうなるんだ?」
「好奇心を満たすための一回ならば私にはきっと認識できない事象となるでしょう」
「あーうん、そうか」
礼慈の何か悟ったような反応と共に予鈴が鳴った。
肩をすくめて席に戻る彼を見送って鏡花が言う。
「あの方はことあるごとに英君を悪い道に誘おうとしますね」
「挨拶みたいなものだからな」
苦笑で英は言葉を継いだ。
「今日、たしか当番じゃなかったはずだけど、部活に顔は出す?」
鏡花は「そうですね……」と考える素振りを見せ、
「大会前の大事な時期ですし、マネージャーとしては皆の様子を見守りたいです」
「じゃあ後輩のためにも、ピリが乗り気なら連れて来てやってくれ」
「承りました。お話しておきます」
鏡花はそう言うと、礼をして席に戻った。
見計らったかのようなタイミングで教室の扉が開いて教師が現れる。
今日も一日の授業が始まった。
●
足が剣道場の床を摺る音が聞こえる。
体に馴染んだ防具の重さを感じながら、英は打ち込み練習の最後の一振りを終えた。
周りを見渡すと、皆、練習に気合が入っているのが分かる。
高等部になってから新規で入部した後輩たちが部活に馴染み始めたというのもあるし、夏の大会に向けてセッティングされた練習試合が近いことも影響しているのだろう。
「小休止!」
部長がそう宣言すると、当番制のマネージャーが飲み物や塩レモンを差し入れていく。
そのマネージャーも数が多い。
試合が近いためか、その日の当番でもないマネージャーも来ている。
それに加えてピリのような誰かと恋仲の者までやってきていて、場内はなかなか騒がしい。
「楽しむのは結構だが、節度をもちなさい」
そう言って場を落ち着かせたのは、異世界の元勇者というファンタジーな経歴を持っている老齢の師範だ。
この学校を創ったリリムが護衛のために連れてきた人ということだから実際にかなり強いのだろうが、小等部から師事してきた英でも彼が本気を出している姿を見たことはない。
そんな底知れない師範は数名のマネージャーに紙を配った。書かれているのは個人稽古の練習内容だ。
師範が組んだメニューは的確で、皆めきめきと実力を伸ばしている。
彼に練習メニューを配られたのは、個人練習を監督できると師範に判断された者だ。
その判断を受けている鏡花は、紙を受け取るとピリにどう監督すればいいのかを教え始めたようだった。
ボランティア部との兼部で、どちらかといえばボランティア部の方がメインの鏡花だが、師範が昔彼女の父親に剣道を教えていたことや、彼女自身も無音の歩法を教わったという経緯もあってこちらにもよく顔を出す。最近は見学に来る恋人たちに仕事を教えるよう師範の嫁に頼まれて顔を出す頻度も増えていた。
彼女の言葉にピリが熱心に相槌を打っている。
自由な服装のマネージャーたちの中にあって、授業中とはまた違う規範性を醸し出す服に着替えているためか、鏡花とピリの関係は傍目には教師と生徒のようにも見えた。
放課後になると、彼女はいつも外行き用の服に着替える。
キキーモラ魂の衣装だとアンナが言っていた黒いワンピースに白いエプロンの、いわゆるメイド服だ。
これはこれでストイックな感じが非常にそそる。
ともあれ、二人に見守られながら練習に励んでいる柿本はどこか緊張した様子だ。幸せでよろしいことだと思っていると、鏡花と目が合った。
最近、鏡花の行動をつい気にしてしまうためか、練習中によくあることだった。そのたびに慌てて目を逸らすのだが、気付くとまた視線がそちらに寄っていく。
そんなことを今日も繰り返して――視界に収めていた竹刀の先が消えた。
そう思った瞬間にはウォークライのような叫びが浴びせかけられて脇に衝撃が走る。
「――っ」
息を詰め、反動として急激に吸った息が防具と汗の臭いを容赦なく味合わせてくる。部活前に食べた間食が胃から昇りかけてきた。
地稽古の相手から胴を一本もらったのだ。
防具があるとはいえ、衝撃が内蔵を揺らして気持ち悪い。
悪いことに、英の相手をしていたのはサラマンダーを彼女にもつ高等部三年の部長だった。
実戦を経験しているせいか、一撃の重さが他の生徒とは全く違う。大学生や一般の部との試合でも安定して勝てる程度に彼は強く、また、
「どうした? 最近おかしかったが、今日はまた一段と調子悪いな」
毎日彼女と戦いながらコミュニケーションをとっているせいか、試合の一合一合からこちらの心の内を読んでくる。もはやある種の超能力だ。
「すみません」
「別にいいが、何かあるなら話くらい聞くぞ? お前が不調だと俺の相手してくれる奴が居なくなるからな」
裏の無い笑顔を見せる部長。
集中が乱れている自覚はあり、その理由についても分かってはいるのだが、内容が内容だけにそれを話すのは躊躇われた。
「すみません……」
そう返すしかない英に、部長は気にしたふうもなく答える。
「それならそれでいいさ。だが、できたら早めに復活してくれ」
そう言った部長の顔が一瞬固くなる。
姿勢を正す部長を見て、英も誰が来るのか理解して部長に倣った。
「剣筋が乱れているな」
静かに評したのは師範だ。
見た目が老齢なのにそれを思わせない流れるような身のこなしで視界に入ってきた彼は、正面から英の目を見据えてくる。
これまで一本たりともとったことが無い相手に睨まれるというのはかなりの重圧だ。
無言で目を合わせ続けた師範は、ふと視線を外していつの間にかこちらに注目していた生徒に一通り視線を投げて道場全体の空気を緊張させつつ、
「体調ではないな。立て直さなければ怪我をするぞ」
「すみません。精進します」
そう言って下げた頭に声が降ってくる。
「無我になれとは言わん。バランスを取ることだ。
基礎練習に切り替えなさい」
「はい」
相手がいない練習に切り替えよと指示が出た所で集まっていた視線が離れる。
情けない所を見せてしまったと思いながら場所を移そうとすると、部長が声をかけてきた。
「その前に、一度休憩入れとけよ」
「そうだな。なかなか腰の入った一撃をもらっていたのだから、体の状態をたしかめておくといい」
言われた通りに英は道場の隅に寄って腰を下ろすと、俯いてため息をついた。
自分の有様に乾いた笑いが出る。
今日はどうにも自分の性欲に振り回される日だ。やはり溜めるのは良くない。
そんなことを思っていると、目の前にグラスが差し出された。
慌てて顔を上げると褐色の肌をした女性が居た。部長の彼女のサラマンダーだ。
「麦茶だ」
「ありがとうございます。スーレさん」
受け取ったお茶を流し込む。
冷たい飲み物が防具で蒸された体を生き返らせるようだ。微かな塩味がまた心地よい。
空になったグラスにもう一杯麦茶を満たすと、スーレはサラマンダー自慢の尾に灯る炎で自らの恋人を示した。
「あの男は……明らかに様子がおかしい奴に対してもあんな調子ですまない」
「そこが部長の良い所です」
「そう言ってくれると助かる」
スーレは「すまないついでに」と続けた。
「本当なら大取に見に来てもらいたいだろうが、マネージャー仕事となるとあいつ程教えるのがうまい奴はいない。勘弁してくれ」
「別に、誰だってお茶をくれるんならかまいませんよ」
スーレは歯を見せて口角を吊り上げた。
「そうか、それはよかった――ところでここ数日練習試合に向けて励んでいる後輩諸君だが、彼らの中で甲斐甲斐しく世話をしてくれる大取が密かに人気らしい。告白する奴も出るかもしれないな」
敢えて英はもう一杯の、今度は塩なしの麦茶を飲み終えるまで反応しないようにして――むせた。
「……っ、そ、そうなんですか?」
「いつも表情が硬いから敬遠されてたのがあの気配り上手だからな。いわゆるギャップ萌えという奴ではないか?」
鏡花がギャップ萌えするというのは後輩たちから漏れ聞こえていたので英も知っていたが、そこまで人気を博していたとは驚いた。さすがは、細やかな配慮を身上とするキキーモラだ。
英は気を取り直して答える。
「できる子ですからね」
「先輩としても人気でうちのマネージャー志望が懐いてる。兼部先はボランティア部だったか? 大人気に違いないな」
「大抵のことは見事にこなしちゃいますからね」
夢にいちいち心を乱されている自らと引き比べて優秀な幼馴染のことが遠くに感じられた。
残念や悔しいよりも寂しさを感じる心に呆れ、英はスーレにグラスを返して自分を奮い立たせた。
「俺も負けてられないですね。先輩のためにも早いとこ調子を取り戻してみせますよ」
●
練習に復帰して素振りを始めた、恋人の実力に迫りつつある後輩に気を配りながらスーレは思う。
(前からそうだったけど、いよいよ面倒臭いことになってるな)
英が練習に戻ってから、今日初めて部にやって来たハーピーにマネージャーの手ほどきをしながらちらちらと視線を向けてくる鏡花にグラスを掲げて両手で〇を作ってやる。
(塩加減も評判だったぞー)
ジェスチャーの意図が伝わったのかどうか。ともあれ鏡花はほっとした顔になり、今度は個人練習に戻る英に視線をやっている。後で体は大したことは無いと伝えておいた方がいいだろう。
しかし、とスーレは英と鏡花を交互に見比べて内心で首を傾げる。
ほぼ毎日家に通ってくる魔物娘の幼馴染と長年一緒に居て、未だに恋人関係にないくせにお互いに意識はし合っているというのは、いったいどういったいきさつがあってのことだろうか。
「好きなら好きで、とりあえず勝負して思いの丈をぶつけ合えばいいのに」
そうもいかないのだろうところに種族の差を痛感する。
「――ッキエエェェエッ!」
勢い任せに防具無しの師範に攻め込んだ恋人が師範にぶちのめされる音が道場に響いた。
●
窓の外が暗くなって街灯が点きはじめる頃。英は高等部本校舎最上階にあたる四階の生徒会室に向かっていた。
結局部活は基礎練習をするだけで終わってしまった。
型の確認もできたし、それはそれで重要なことではあるのだが、自分の中に居座るもやもやとした感覚が消えることはなく、これが消えない限りは明日も個人練習に終始することになるだろう。
普段ならばそれはそれで体作りに費やしてもかまわないのだが、練習試合が近づいているということを考えると試合形式の練習はこなしておきたかった。
(急いで調子を取り戻さないとな)
この調子があまり続くと、事態は英だけの問題でもなくなってしまう。
練習相手が欲しい部長のこともそうだし、師範だってあれで気にしているだろう。それに鏡花も本格的に心配してしまうはずだ。
ただでさえ鏡花は今、英を気づかって後ろから付いて来ているのだ。これ以上迷惑をかけたくはない。
彼女は色々と考えている英を尊重してか、何も言ってはこない。
その配慮はありがたいが、あまり黙っていても気まずい。英は背後に声を投げた。
「今日はちょっと失敗したな」
「お体の調子はよろしいのですか? もしお加減が悪いのでしたら、この後の生徒会室でのお仕事は私が引き継がせていただきますが」
「いや、体の方はそんなに問題ないと思う」
むしろ元気すぎて持て余しているのが問題なのだが、元気の燃料になっている本人にそれをいうわけにもいかない。
「本当にお体に異常はないのですか?」
「鏡花なら体の動きを見ればその辺りは分かるだろ?」
キキーモラなのだ。体調の良し悪しよりもっと深いところまで読み取ることだって可能だろう。だから読み取るヒントを与えないために踏み込まれるのを阻止した。
「そうですが……」と鏡花は不服そうだが、深く聞かれたくはないということを察してくれたのか、引き下がってくれる。
心配させてばかりで申し訳ない。急いで復調しなければと改めて思いながら、英は生徒会室の戸を開けた。
生徒会室には扉からそのまま入ることができる会議室を兼ねた部屋と、部屋の奥にある扉から入ることができる、事務仕事と資料保管用に確保された通常教室の半分程度の大きさの生徒会準備室がある。
生徒会室の方は整頓された椅子と長机があるだけで他には誰も居なかった。
「あの香りがします。奥にいらっしゃるようです」
一歩後ろで鏡花が言う。
見ると、生徒会準備室に続く扉が少し開いている。
その隙間から中を覗いてみると、ノートパソコンを操作している礼慈が居たので扉をノックしながら大きく開く。礼慈は画面に視線をやったまま口を開いた。
「スグか? 部活は終わったのか?」
「ああ、手伝うよ」
「ちょっと待ってくれ。あと少しで原稿ができるからな」
尚もパソコンの操作を続けたまま、礼慈は蓋を開けたまま置いてある水筒を指さし、
「まあ、その間にでも飲んでてくれ」
「鳴滝君、調子がよさそうですね」
鏡花の声に礼慈はギョッとして画面から顔を上げると、流れるような動作で水筒に蓋をして鞄に放り込んだ。
「大取、これはいつもの軽口というやつだ。気にしないでくれ」
「ほろ酔い気分での軽口がいつも、というのは感心しません。いくらお母様がサテュロスになられたからと言っても、あなたはあくまで人なのです。そのように強いお酒を飲んでいますとお体を壊してしまいますよ」
澄ました顔で注意する鏡花に英は苦笑で同意する。
「だな」
鏡花の言う通り、礼慈が持っている水筒の中身は酒だ。
母がサテュロスになる前から礼慈はそれを持ち歩いていたような記憶があるので、彼は彼で本気で酒に夢中になっているのかもしれない。
教師には知られていないはずなのでどう反応されるかは分からないが、水筒の中身を知っている生徒の間では、彼が酒を携帯していること自体はバッカスの信徒でもあるサテュロスを母親を持つ以上特に咎めることでもないという認識だ。
生徒会長もその一人で、生徒会に入る気がなかった礼慈に対して飲酒を黙認するという条件を提示して引き入れたという経緯があるため、今の生徒会の三年生はそのことを知っている。
つまり生徒会室は飲酒の安全スペースだ。
だから油断して水筒を全開にしていたのだろう。アルコールと共に漏れ出た和菓子のようなにおいが英にも嗅ぎ取れる程充満している。
無言で窓を開けた鏡花に、礼慈は彼にしては珍しく愛想笑いを浮かべた。
普段しないせいで若干ぎこちない。そんな笑顔で彼は訊ねる。
「大取も手伝ってくれるのか?」
「いえ、私はこちらに英君をお送りに来ただけです」
鏡花は英に手を出した。
「英君。道着をお渡しください。先にお洗濯しておきます」
「分かった」
袋に詰め込んだ道着を渡すと、鏡花はそれを抱えて頭を下げた。
「それでは私は先にお家に帰らせていただきます。
部活でのこともございます。体調に問題がなくてもあまり遅くまで学校に残らないようにしてください」
「分かってるよ。鏡花も気を付けて」
「お疲れ」
それぞれに挨拶をして鏡花が去るのを待ち、礼慈はほっとした顔でキーを叩き始めながら問う。
「なんだ? 部活で何かやったのか?」
「集中しきれなくて部長に手痛い一撃をもらった……あと、師範にそのことを見抜かれた」
「そりゃまた残念だな」
礼慈は少し間を空けて、
「何か悩みでもあるのか?」
「あー、まあ、なんだ……」
英がもごもごしていると、礼慈は訳知り顔で頷いた。
「部屋を掃除されてエロ本が見つけられていたとかだな?」
「俺、部屋には誰も入れてないしエロ本関係はうまいこと隠してるからそう簡単には見つからねえよ?」
「そうかそうか。となるとまあ大体予想はつくけどまあ頑張れとしか言えないな――っしできた!」
身が入ってない返事を返しつつ原稿を完成させた礼慈は、すぐにコピーを行い手伝う英と二人で冊子を完成させる。
各学校に配布する分が完了していざ配りに行こうという時、英はため息交じりに呟いた。
「……こんなんじゃいつまで経っても告白できやしねえ」
17/01/02 10:53更新 / コン
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