ヒミツ基地
学園の裏山は幼い頃の印象とは違って、山とはいっても少し傾斜がある丘程度のものだった。
ただ、リリムが創りあげたこの土地の質が良いのか、近くに巨大な学園施設があるとは思えないほどに木々が生い茂っている。
まるで別世界に迷い込んだようだとリリが言い、礼慈もその言葉にまったくだと頷く。
秘密基地に着くためには運動部がロードワークで使っている山道から逸れていかなければならないことも、別世界へ足を踏み入れる感を増していた。
秘密の道を通って秘密基地へ。そういう手続きにも皆、魅力を感じていたのだろう。後ろから着いてくる足音が小走りになっていることに気付いて速度を緩めながら礼慈は思う。
「もうすぐ着く」
「はい」
リリの息が少し上がっている。礼慈にとってはそう大変な道のりではないが、小等部の子にしてみればこのハイキングはちょっとした冒険感があるだろう。
目隠しのように生えている木をかき分けると、秘密基地の脇を流れていた小川が見えた。後はこれを遡れば秘密基地だ。
「少し休んだ方がいいか?」
「いいえ、へっちゃらです!」
声に力がある。もう少しがんばれそうだ。
礼慈は川を辿り、そして――
「到着だ」
「わぁ……っ」
秘密基地に辿り着いた。
それは木々に埋もれる中にぽっかりと開いた、大人でも立ったまま悠々と中に入ることができる洞窟だった。
リリが洞窟を見て目を輝かせる。
「すごいです……!」
「先輩たちも凄い所を見つけたもんだよな。奥に行くと幅ももう少し広くなってるんだ。あの時はよく分からなかったけど、光苔が自生してるんだろう。明かりがなくても中、けっこう明るいんだ」
「ヒカリゴケ、ですか?」
「ほとんど名前の通り、暗い中で光る苔だな。ちょうどリリの目のような綺麗な緑色なんだ」
「ぁ……ありがとうございます」
「あーいや……」
照れられてしまうとこちらとしてはどう返したものか悩ましい。
今思い返すと、リリの瞳を最初に見た時に感じた幻想的なイメージは、昔見たここの光景と頭の中で響き合ったからなのだろうと思えた。
「光るとはいっても電球のような強い光ではなかったけどな」
ぼんやりと明るくはあっても全体としては洞窟の中は薄暗いので、実際に遊ぶのは外。中には濡れては困る漫画や遊び道具を保管していたはずだ。
(外に誰も居ないか……。今日は誰も来ていないか、もう帰ったのか)
どちらだろうかと考えていると、リリが洞窟の中へと駆け出した。
「わたし、中を見てきます!」
「走ると転ぶぞ」
素直に足取りを早歩きに移行したリリを追って礼慈も洞窟の中に入る。念のためにと携帯端末のライトを点けて中に入ると、礼慈の記憶にない物が待ち構えていた。
「これは……?」
そこにあったのは洞窟の幅いっぱいまである木製の板だった。
板の中央には切り込みと蝶番の金具が見えていて、どうやら扉になっているようだ。
「ここがヒミツ基地のげんかんなんですね」
「……いや」
礼慈の記憶にはない設備だ。歴代の使用者の誰かが取り付けたのだろうが、ここまでかっちりと洞窟を埋める大きさの木の板を運び洞窟の大きさに加工したとなれば、結構な大仕事だ。
しかも、木板は壁面に掘られた溝にはめ込まれてしっかり固定されている。かなり手が込んでいた。
小等部の人間の製作物ではないだろう。おそらくは、今の礼慈のように成長してからここに訪れる機会のあった誰かがこしらえたもの、だろうか。
ただ、木板は表面に塗布されたニスも剥がれかけて傷み始めていた。
(作ったはいいもののその後メンテナンスはしてないってところか……開くのか? これ)
目を輝かせているリリの前に立って手を当てる。
壊れたりしないか具合を確かめながらゆっくり力を込めてみると、少し抵抗を感じた後、錆びた蝶番と傷んだ木が擦れるギィ、という音と共に扉は開いた。
そうして現れた扉の向こうの光景に礼慈は絶句した。
扉を抜けた洞窟の奥は、壁も床も天井も、全て平面に加工されていたのだ。
それだけではない。
記憶の中では奥までひたすら一本道だったはずの洞窟の中は明らかに拡張されており、どうやって持ってきたものなのか、入り口から入ってすぐの区画以外に木製の扉によって三つの部屋が存在しているようだった。
「わあ、すごいです! まるでおとぎばなしです!」
驚きに立ち止まる礼慈の横をリリが興味津々ですり抜けていく。
先へと進んだリリは、壁を見てふと首を傾げ、それから何か合点がいったように手をかざした。すると壁面に埋め込まれていた魔力灯に明かりが灯る。
「わあっ!」
「マジか……」
歓声をあげるリリについて行くと、そばを流れる小川から引き込んだのであろう、淡い光を放つ浄化魔法を通した水が垂れ流しになっている簡易的な水場やトイレまで完備されていた。
(なんてこった)
洞窟の内部は礼慈の記憶の中にあるものとは似ても似つかない程居住施設として完成されていた。
たとえ大人だろうと、人間にこんな手の込んだ工作は荷が重い。魔力灯の存在もある。明らかに魔物の手が入っていた。
自分たちから現在まで代替わりしていく間のどこかの時点で彼女たちが一枚噛んだのだろう。
(だけど、もう誰も来ていないみたいだ)
魔力灯に被っていた埃を払い、数年は人の出入りが無かったのではないかと思う。
なんとなくではあるが、ここが使われなくなった理由は予想できた。
まず第一に、ここが建物として完成され過ぎたのだ。どれだけハイクオリティで洞窟を改装していったとしても、いや、だからこそ限界が見えてしまう。どうしたって普通の家の方が快適なのは間違いない。
その限界が見えた時点で秘密基地をより発展させていこうとしていた層が興味を無くしてしまったのではないだろうか。
そしてもう一つの理由としては、こちらこそがむしろメインの理由になりそうなのだが――
(俺たちの時より早熟な子が増えているというしな……)
大人には秘密の遊び場である。という売りも今の子たちには刺さらなくなっているのかもしれない。
魔物たちがこちらの世界にやってきてから数世代が経ち、彼女たちはもはや異界からの訪問者ではなく生まれた時から顔見知りの同居人だ。愛に生きる彼女らの生き様に感応するように人間の側も早熟になっているというのが世間の認識だった。
リリが抱えているらしい問題について考える中で軽く触れたが、小等部同士で真剣に付き合っている相手がいることも今ではあり得ないという話ではない。その流れから、もっと先に進んでいる子も居るという。
秘密を共有する相手も同性の友達から異性のパートナーへと変わっているのかもしれず、
(そうやってどこかの代でここのことが伝えられなくなったのか……まあ、予想でしかないが……)
だが、これだけは言える。
この秘密基地はもうその役目を終えたのだ。
●
かつては賑わっていただろう形跡が残る秘密基地が今こうして廃れてしまっていることに、礼慈は一抹の寂しさを覚えた。
物珍しそうに探索をしているリリを見ていると彼女の行動こそがこの廃墟への弔いのように思える。
(なんかジジ臭い感傷だな……)
一度しか来たことのない場所のなれの果てに過剰に反応している。
建物として進歩してしまっている分、余計に廃墟感が増してしまい感情に訴えかけてきているのもあるのだろう。懐かしむような子供時代ではなかったろうにと感傷を鼻で笑い、リリの動きを目で追った。
彼女は入り口を入ってすぐの部屋。分類するならば居間とでもいえる区画の真ん中に設えられたテーブルへ――より正確にはその上に敷かれた精緻な刺繍が施されたテーブルクロスへと近づくと、端を摘んでやにわに引っ張った。
いきなりのことに止めることもかなわない。
「あ」「わ?!」
刺繍をぼやけさせるほど積もっていた埃が舞い、二人は口元を抑えた。
リリの背丈からは少し高い位置に机の天板はある。彼女の視界ではクロスの状態は見えなかったのだろう。
埃が収まっていくのを眺めながら、礼慈は言う。
「皆、他に面白い遊びを見つけたのか、どうも長い間誰もここに来てなかったらしい。埃も積もってるし、どこかしら壊れているかもしれないから、あまりあちこち触らない方がいいな」
「はい……ごめんなさい。あの、レイジお兄さま、よごれてしまいましたよね?」
「ああいや、避けたから大丈夫だ」
「よかった……。せっかくこんなにすてきな所なのに、みんな来なくなってしまったんですね」
残念。とリリが零すその声が本当に残念そうに聞こえて、礼慈は少し救われた気分になった。
それから反省を活かしたのか、さっきまでより慎重な様子で秘密基地の探索を続けたリリは、一通り部屋を周り終わって最後にまた礼慈が居座る居間に戻って本棚を眺めた。
「いろんな本がありますね」
一冊を手に取り、息を吹きかける。
埃が舞うが、今度は落ち着いた様子で埃から距離を置き、それが空気に散っていくのを眺める。それから彼女は何かを決めたらしく「よしっ」と呟いた。
「なにか面白いものでもあったのか?」
リリはポケットからハンカチを取り出した。
「レイジお兄さま。わたし、ここをきれいにしてみようと思います」
言うやいなや、彼女はハンカチで本棚を拭きだした。
ひと拭きで埃だらけになったハンカチを水場に持って行き、それを絞ってまた本棚を拭く。数度そんなことを繰り返すが、ハンカチではそう捗るわけもない。
「……ここを全部掃除するつもりか?」
見かねて本を抜き出して埃を払ってやりながら問うと、リリは微笑んで、
「せっかくこんなにすてきな所なのにホコリだらけでかわいそうでしたから……だめですか?」
誰も来ていないような所を掃除する意味はあるのか。とも思うが、どうにも彼女の上目遣いには弱い。
「だめなんかじゃない。ただ、これだけの場所を全部掃除するとなるとかなり大変だと思うが」
「でも、せっかくレイジお兄さまが連れてきてくださったここをきれいにしてあげたいんです」
意志は固いようだ。
(あえて止めさせるようなことでもないか)
元々ここに来たのはリリの好きなようにしてもらうことで、彼女が話そうとしないストレスを少しでも解消してもらうのが目的だ。彼女がやりたいというのならそれで良い。とはいえ、この掃除が終わるのを待っていたらそれこそ日が暮れてしまう。
「少しテーブルから離れてくれないか?」
「……? はい」
テーブルから距離を置くリリ。
礼慈は埃ができるだけ舞わないように注意しながらテーブルクロスを巻き取って水場に持っていった。
念のために排水口を確認するとストレーナーもなしで広めの穴が洞窟の下を流れる水流に繋がっている。これならば埃で詰まることもないだろう。
水流にテーブルクロスをつけて何度かすすいで埃を落とし、きつく絞る。
(あまり吸水しないが……なんとかなるだろ)
テーブルを拭いてみると、心配したよりも雑巾としての働きはしてくれそうだった。礼慈は一つ頷いてテーブルの脚に掃除の手を伸ばす。
「わあ」
面積にものを言わせて行われる掃除にリリが感嘆し、それからクロスの刺繍に費やされた時間と技術を思ってか、少しばかり残念そうな顔をする。
たしかに、誰かの力作と思しき代物だ。少しもったいない気もするが、こう使うと決めた以上は有益に使わせてもらう。
そんなつもりで水場でクロスをすすぎ直す。これで少しは手早く掃除できるようになっただろうが、それでも陽が出ている間に全ての区画を掃除しきるのは無理だ。
「リリ。全部の場所を掃除しようとすると少し時間がかかりすぎる。今日はこの部屋を掃除するだけにしないか?」
「そうですね……」
ちらちらと他の部屋を見ながらもリリは同意する。
(きれい好きなのか)
また一つリリの好ましい一面を知ったと思っていると、リリが反応した。
「あ、あの。わたし、どこか変でしたか?」
(少し笑っていただけのつもりだが、悪意のある笑いに見えたか……)
最近は長い付き合いのクラスメイトやクラスに占める魔物の比率のおかげで気にせずに済んでいた自身の凶相を不意に指摘されたようで、地味なショックを受けた。
(自分からこれを使っていくのなら気にしないんだけどな)
武器として振るう分には良いが、そこを突かれると弱い。大人になりきれていない自分を意識しつつ誤解を解きにかかる。
「いや、流石可愛らしい女の子はきれい好きだなと思っただけだ。家でもそうなのか?」
「は、はい。そうですけど、ただ、お母さまのつくったおうちをよごさないようにしようって家族みんなでやくそくして、それがふつうになっただけなんです。だから、かわいらしいとか、きれい好きとかは、あの別で」
「習慣になってるならそれはもうリリ自身の個性だよ。あと、可愛らしい、は絶対評価だから家族も何も関係ないぞ」
「あ、は、はい……あの、ありがとうございます」
俯き気味だが羽がバッサバッサと振られて耳がピコピコしている。褒めれば褒めるだけ照れるのが可愛らしい。
リリの真っ正直な反応にも慣れてきた。
彼女の反応を楽しめている自分を感じながら視線を室内に巡らせる。
居間の区画にあるのは大型のボードゲームができる大きさのテーブルに四脚の椅子。それに部屋の隅に置いてある大きな本棚が一つだ。
どうも、全てが手作りらしい。
(文明化著しいな)
本棚の中には漫画雑誌の他にも昔懐かしのゲームの攻略本が詰め込まれている。
なんとなく覚えているそれらのゲームの発売時期と照らし合わせてみると、歴代の使用者たちの好みの変遷がうかがえた。
初期は有名アクショゲームや大作RPG。最後の方にはスポーツゲームや牧場経営ゲームの体をしていながら女キャラとの絡みが多く、実はギャルゲーなのではないかと言われているシリーズなどがラインナップされていて、どことなく時間の流れにおける魔物の影響を感じる。
歴史好きな友人が面白さを感じるのはこういう所からなのかと思いつつ掃除をしていると、リリの挙動がおかしいことに気付いた。
注意して様子を窺っていると、彼女はどことなく落ち着かなげにそわそわしている。
そんなリリが何か言いたげに視線を向けてきて、観察していた礼慈と目が合った。
彼女が口をもごつかせるので数秒言葉を待ってみたが、彼女は口を動かしはするものの、言葉にはならないようだ。
このまま待っても視線を外されて何事もなかったかのように装った掃除が再開されるだけだろう。見ていて気になってしょうがない。ならばせめてこちらから強制ではない程度に話を促してみようと決め、礼慈はなるべく口調に気を遣いながらリリに問いかけた。
「あー……何か、話したいことでもあるか?」
リリはこちらと自身の足元の間で視線を何度か往復させていたが、ぶるりと身震いすると、おずおずと口を開いた。
「お、おしっこ……行きたい……です」
「…………」
深刻な悩みの相談が来ても大丈夫なように構えていたのだが、想像とは別の方向から投げられた球に礼慈は一瞬フリーズした。
(い、いや、だがこれはナイス判断だった)
こちらに来る前にリリには急いで飲み物を飲ませてしまっている。やはり蓋付きにしておくべきだったと思い返しながら思考力を取り戻した礼慈は「山を降りるまで我慢できそうか?」と訊ねた。
「え、えと……ごめんなさい……むり、かも……っ」
語尾にいくほど自信をなくしていく声で言われる。
この様子だと言い出せないままで相当我慢していたようだ。
「ああいや、俺ももっとのんびり飲めるものを買っておくべきだったというか……こんな時間に山を勧めるべきじゃなかったな」
体が小さければ膀胱も小さいだろう。そういう要素を考えなかったのはいろいろと軽率だったと謝る。正直に告白してもはや隠す必要もなくなったためか、前を手で抑え、しきりに足踏みしだしたリリにどうしてやれるだろうかと考える。
秘密基地にはこれだけ埃が積もっているのだ。この辺りに誰かがいきなりやってくるという可能性はほぼゼロと考えていい。
つまる所、外でしてもらってもなんら問題はない。だが女の子に野ションをしろというのも可哀想だ。
(アレを使ってもらうか)
「リリ」
「は、はい……っ」
明らかに余裕がなくなってきている声が返ってきたので礼慈は急いで秘密基地の一画を指差す。
「ここのトイレを使うしかないな」
「と、トイレ……?」
言っていることがよく分からないといったようなリリの声。一通り秘密基地の中を探検していたはずだが、と考えて、礼慈は得心した。
(ああ、あれをトイレと認識できてないのか?)
この秘密基地のトイレは穴があり、その下を水が流れているだけのもので、足の位置に板が渡してあるくらいでそれ以外にそこがトイレだと示す物はない。臭いなども、使用者が居なかったためか配慮してあったのかは不明だが特にしなかった。
礼慈もあの型のトイレがあることを図鑑で見たことがなければ、それと断定はできなかっただろう。
「どうも誰かが作ってくれてたみたいだ。あそこはトイレだよ」
「そ、そうなんですね」
トイレであると言われればリリとしても腑に落ちるものはあるようだった。
「座るタイプの便器しか使ったことないか? 跨いで使えばいいから」
「あ、い、いえ、だいじょうぶです。……それじゃあ、わたし……」
「ああ、俺は外で待ってるから」
言うと、「待ってください!」と引き止められた。
「どうした?」
「あ、あの。ここに居てもらってもいいですか?」
「うん? ……ああ」
秘密基地の入り口は基地内を水場、トイレと通って下っていく小川の流れの下流にあたる。そこに居てほしくないのだろう。
「分かった。じゃあ俺は掃除の続きをしてようかな」
「はい……っ、で、では、行ってきます」
リリは律儀にそう言い置いてトイレに駆けて行った。
木製の扉が軋みつつ閉まる音を聞いてから、礼慈は掃除を再開する。
拭き掃除が終わったテーブルに本を積んでいく。
これでやりづらそうに本棚を掃除していたリリも仕事がしやすくなるだろう。
今日は本棚を水拭きしたら乾いて本が収められるようになるまで一日置くように提案して帰ればいい。そうこの後のことを考えていると、
――――チョボボボボボ
静かな水面に新たな水流が注ぎ込まれる音が聞こえてきた。
どう考えても、リリが小さい体に溜め込んだものが溢れる音だった。
洞窟という、音が反響しやすい空間内に幼い体で濾され蓄積された小水の音が木霊する。
意識しだすと、あの小さな体から排出されているにしては大きな音を上げる落水音以外に、もう一つ音が聞こえていることに気付く。
シュィィイイ――と続く音は、まさに小水がリリの排出孔から放たれる音だろう。
勢いを感じさせる放尿音は、彼女が長い間我慢していたことを端的に示すようだ。もう少し早く気付いてやることができればよかったと改めて思わされる。
(しかし……もう少し防音に気を使えなかったのか)
入り口の扉よりも薄い木板の扉で仕切っただけの設計にした後輩たちへの文句が湧く。洞窟内を反響してくる音は、まるでこれを聞かせるために設計されたのではないかと思えるほどにクリアだ。
礼慈は、いつの間にか止まっていた自分の手に気づき、何かに言い訳するように咳払いした。
トイレに背を向けて手を動かすが、水拭きしているだけではとても背後から聞こえてくる排泄音をかき消すことができない。
(せめてトイレの下の水流は音を立てるようにするとか方法はあっただろ……)
礼慈はテーブルクロスを握りしめて水場に向かった。
(リリも外に出てほしくはないと言ったが、他の区画に行ってはだめとは言ってない)
垂れ流しの水の音で打ち消そうと考えたのだ。
それに、この部屋はトイレからも離れているため水音もあまり聞こえない。そう思っていると、排水口を通してリリの排泄音が聞こえてきた。
(っそうだ。水の流れ自体はつながってるんだった……)
可憐な少女が健気に蓄えた恥水を放出する音を盗聴している気分になりながら、テーブルクロスを乱暴に洗う。
どこに居ても音から逃げることはできないと悟った礼慈は努めて気にしないようにしようと決め、大人しく居間に戻った。
すると、チョロロ……チョロ、と途切れ途切れになっていた水流の音がついに聞こえなくなった。
終わったのだろう。
(やれやれ……)
ため息が漏れる。
リリ本人に洞窟内に居てくれと言われはしたものの、非常に気まずい時間だった。
音が聞かれていたとなるとリリも恥ずかしいだろう。何事もなく掃除をしていたように見えるように、持て余していたすすぎたてのテーブルクロスを椅子の背にかけて本の移動の続きをしようとして、
「レイジお兄さまぁ……」
弱ったリリの声が聞こえてきた。
「どうか――どうかしたのか?」
音が伝わりやすいことを意識させないために、これくらいで聞こえるだろうという声量以上の声をわざと出して問う。扉の向こうからは洞窟の音響効果がなければ聞こえなかっただろうか細い声が返ってきた。
「あ、あの……紙が……」
そういえば、トイレにはトイレットペーパーは無かったように思う。
(そうか……女子は必要か)
すっかり考慮の外だった。
「少し待て」
カバンの中を探ると、昨日リリに渡したポケットティッシュの残りがあった。
「ポケットティッシュがあるから。扉の外に置いておけばいいか?」
扉の上下に隙間があればいいのだが、形だけはきっちり作られたそこには隙間がほとんどない。
こういう所に技術力を発揮するなら、もっと音対策に心を砕いてくれてもよかったろうにと思う。
「あの……今、あんまりうごけない、です。ドア、あけてください」
「……分かった。隙間から手を入れるから、受け取ってくれ」
「はい……」
返事が来たことを確認して、礼慈は扉に手をかけた。
リリも了承済みな行為なのだが、大きな音を立ててはいけない。そんな強迫観念に駆られる。
ノブを握って注意深く回し、劣化した部品が軋む音を聞きながらそろそろと扉を押し開けていく。
細い隙間が少しずつ大きくなっていき、なんとか礼慈の手が入るくらいの大きさになった。
そこから手を差し入れ、
「さあ、これで――」
肩を扉に押し付けるようにして腕を伸ばした時。メキッ、と木が裂ける音がして、ドアノブが壊れた。
「――?!」
慎重に扉を開いていくうちに重心を預ける格好になっていったノブが壊れたせいで、礼慈の体勢が大きく崩れた。
倒れそうになる体を支えるために全体重を扉にかけ、手を着いた反動でなんとか上体を起こす。
「…………っ」
足元に転がっていたノブを蹴り転がしてなんとか体勢を立て直した礼慈は安堵の息をつこうとして――その眼前でドアを支えていた蝶番が木の裂ける音と共に壊れた。
(……は?)
音だけでは最初何が起こったのか理解できなかった礼慈だが、支えを失ってただの木の板と化した扉が奥に向かって倒れていくにあたって、何が起きているのか理解した。
このまま倒れていけば、扉の向こうに居るリリは直撃を受けるだろう。
「――――っ」
倒れかけている木板の端になんとか手を引っ掛けて手前に引く。木の繊維が更に裂けていく音を聞きながら、勢い任せに木板を引き倒した。
「大丈夫……か?」
咄嗟にリリの無事を確認しようとした礼慈は、そのままの体勢で動きを止めた。
扉の向こうのリリは、排泄のためにしゃがんだ姿勢のままだった。
背を向けたまま、リリは顔だけこちらに向けていた。まんまるに見開かれた目を直視できず、咄嗟に目線を下げてしまう。
豊かな蜂蜜色の髪は首から前に垂らされまとめて抱えられており、腰に尻尾と羽共々めくられたスカートがある。更に視線を下げるとエプロンドレスに合わせたのか青白ストライプのパンツがあった。
魔力灯の光に白く輝いて見える丸いお尻の間から数滴の滴が落ちて、礼慈の硬直が解けた。
「紙」
口早に言って立ち去ろうと背を向ける。
倒れた扉に足がひっかかって転びそうになりながら、居間に戻って椅子に座った礼慈はなんともいえない深いため息を吐いた。
(いろいろと傷んでいるかもしれないから気をつけるよう言っておいて自分がひっかかってたら世話ない)
しかも、それで割を食ったのが覗かれる形になったリリだ。
気分は最悪だろう。
そしてそれ以上に最悪なのが、
(勃ちかかってる……)
股間では彼の逸物が膨らみかかっていた。
ズボンが少しふっくらしているくらいで、まだ外からは分からないはずだ。しかし、リリのあの姿に反応したということは言い訳の余地がなかった。
魔物とはいえ、まだ小等部の少女だ。そんな子に体が反応してしまっているという事実がなんとも後ろめたい。
カサカサと、紙の音が聞こえている。リリが後始末をしている音だ。
扉がなくなったせいか、やけに耳につき、悪いことに、リリがどういった格好でそれを行っているのかが生々しく想像できてしまう。
(もう外に行ってもいいだろ)
いたたまれなくなった礼慈は、椅子から立ち上がって外に出た。
半開きだった入り口の扉を閉めてやると、中の音は完全に聞こえなくなる。
沈みつつある陽の中に出て、趣を次の季節に移そうとする緑の中、流れる小川の傍に腰を下ろす。
外に出てしまうと洞窟の中のことが夢か何かのように思われる。
(いろいろと予想外だ。怪我をさせずに済んだのが不幸中の幸いか)
秘密基地の様変わりも、リリが催したのも、扉が壊れたのも全部想定していなかった事態だ。
だから仕方ないと思いはするし、リリもそれで説得できるが、自分の体が幼い少女に反応してしまったという事実はどうにも割り切りに困った。
(別にバレるようなことじゃないけど……。そっちの性癖なんてないはずなんだが)
いやに喉が乾く。山の登りをしたせいだろうと思い、水筒の中身を勢いよく流し込んだ。
喉を焼くアルコールの感覚に意識を集中させて、早く体が鎮まればいいと願う。
と、礼慈は宵闇が滲み始めた視界の隅に光るものがあることに気付いた。
洞窟を出て目の前を通過していき小川の本流に合流する秘密基地に水を通している水路。洞窟から水の流れが出てくる所から本流と合流するまでの間に淡い光が漏れているのだ。
(これは……)
近寄ってみると、秘密基地の水場で見たフィルターのものと同じ色合いをした魔力光であると分かった。
もしかして、と思い、水筒を振って洞窟の中に琥珀色の液体を撒く。
濃いめの蒸留酒は確かに水に色を滲ませていたはずなのに、瞬く光を通り過ぎた頃には無色になっていた。
やはりこちらにあったものもフィルターのようだった。
(自分たちの時はそれこそ立ちションだったんだがな)
秘密基地はすっかり環境に配慮した設備になっている。驚きと感心とで、気付けば陰茎の方も収まっていた。
(これであの子の前に出れるな……。まあ、一番の問題は見てしまったことについてどう謝ればいいかだけど)
そう思っていると、秘密基地の入り口が細く開いた。
「……あ、あの、レイジお兄さま、終わりました」
「ああ、うん」
それ以外に言葉が出て来なかった礼慈はゆっくりと秘密基地の中に戻った。
●
居間に戻ってテーブルを挟み、なんとも気まずい沈黙を囲む。
礼慈としては目を合わせづらいし、リリもそれは同様なのか、視線が落ち着かない。
とはいえ、いつまでこうしていてもらちが明かない。沈黙を破るのは年上の役目だろうと礼慈は咳払いをしてからリリの名を呼ぼうとした。
すると、咳払いに弾かれたようにリリが口を開いた。
「レイジお兄さま、ごめんなさい。ティッシュ、全部使ってしまいました」
「……あー、いや、別にそれはかまわない」
こちらの覚悟を先回りされて間合いを詰められたことに戸惑いつつ、せっかく話を初めてくれたのだからこちらからも何か返して会話を続けなければと、とりあえず手を差し出す。
「なら、空になった袋は俺が預かろう」
「――え、あ、その……」
リリが言いづらそうに口をもごつかせた。
やがて、よい言葉が見つからなかったのか、諦めたように細い声で彼女は言った。
「ふくろは、その……使ってしまった分をまとめて入れてあって……あの、きたないので」
今日は気を回しても裏目にでてしまう日に違いない。
またなんとも言えない沈黙が落ちかけてくる中で礼慈は「あ、そういえば……」と呟いた。
ひらめいたことがあったのだ。
首を傾げるリリに付いてくるように言って、礼慈は机に置いた本の中から適当な雑誌を持って水場に行く。
垂れ流しになっている水流に、雑誌からある程度耐水性がありそうなカラーページを一枚選び、破って丸めた。
「水場にあるような浄化魔法が洞窟の出口にもかけられているみたいなんだ。たぶん紙くらいなら分解してくれるはずだ」
トイレと繋がっている浄化魔法なら、ある程度の固形物までは浄化できるようにできているだろう。そう推測して、礼慈は紙を排水口に落とした。
リリと二人、早足で秘密基地の外に出て暗渠から流れ出てくる小川の流れを見ていると、やがて洞窟と水流の流れの境で魔力光が瞬いた。
光はすぐに収まり、その後一分程待ってみても礼慈が流した紙玉が流れてくることはなかった。
リリは「すごい」とひとしきり歓声をあげた後。礼慈が何を言いたいのか悟ったのか、恥ずかしそうに「ながしてきますから、レイジお兄さまはもう少しここにいてもらってもいいですか?」と囁いた。
18/08/22 02:59更新 / コン
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