告白 (次の話以降、エピローグ以外は全てエロありです)
告白をすると決意を固めた朝。
登校した英は机に教科書を詰め込みながら、全神経を集中させて鏡花の動向を他人に悟られないようにさり気なく探っていた。
鏡花はいつも通りに家に来て朝食の用意と昼食の弁当の用意、そして洗濯をしてくれていたが、家に居る間挨拶以外の会話らしい会話をしていなかった。
●
今教室で友人たちと他愛のない会話をしている鏡花は普段と変わらないように思える。
しかし、今朝の鏡花は明確な失敗こそしていないものの、どことなくいつもよりも動きがぎこちないように見えた。昨日の帰り道での気まずさが後を引いて鏡花を見る英の目が歪んでいるのか、それとも見たまま感じたままの通りに鏡花の調子が悪いのか。
(つっても、下駄箱で訊いた時に体調は問題ないって言われてるしな)
返す刀で英こそ大丈夫かと訊き返され、せっかくの会話がとぎれてしまってもいる。
早朝に組み上げた告白のプランを何度も頭の中で繰り返して確認していたせいで普段と様子が違っていたのだろう。
芹も、珍しく英たちが登校するまで家に居た真も、不審なものを見る目で英を見ていたあたり相当だ。
(今日告白するってのに、こんな微妙な空気で大丈夫か?)
取り繕う余裕が完全に消え失せている自分にちょっと自信を無くす。
いつも通りに他愛のない会話をして、そのついでに鏡花を昼休みの屋上に誘う。
そんな第一ステップもまだ達成できていない状態では告白どころではない。
昼休み、屋上で。
英はそこを告白のタイミングと見定めていた。
他に候補はあったのだが、確実に二人きりになれる状況を作れるのはそこだけだった。
その時間に屋上に来てもらうために約束を取り付けるのが告白計画の起点なのだが、結局言い出せないまま学園に着いてしまって自己嫌悪入りかけているのが今の英だ
とはいえ、いつまでも悩んでいても仕方がない。今日はあらゆる躊躇いを振り捨てて前進すべき日だと決めていた。
決意も新たに席を立つ。
「鏡花――」
振り向きざまに声をかけようとすると、いつの間にか友達の輪から離れた鏡花が目の前に居た。
「あ、は、はい。どうなさいましたか?」
浮き足立った声で応じる鏡花に、英も心臓の鼓動を早めながら応じる。
「あ、あーいや、先に鏡花からで」
鏡花は控えめに頷くと、申し訳なさそうに、
「あの、ですね。家に水筒を忘れてきてしまいました」
「そういえば……」
そういえば、朝渡されたのは弁当のみで、飲み物はなかったと今更思う英を前に、鏡花は財布を取り出して言う。
「今でしたらまだ本鈴に間に合いますので、お飲み物を買って来ようかと考えております。お茶でよろしかったでしょうか?」
「あ、うん――いや、悪いよ。後で自分で行くから」
「いえ、これは私の失態。挽回の機会をください」
鏡花の言葉にはどこか切羽詰まった響きがあり、英としてもなんとも断りづらかった。
「じゃあ、お願いしていい?」
「はい」
財布を握りしめて応じた鏡花は、それから、と続ける。
「英君の用件をお伺いします」
「あ、ああ」
英はつっかえる喉を通すように咳払いして、滑りの悪い口を動かした。
「もしよかったらなんだけど、お昼、屋上で一緒に食べないかな、っと思ってさ」
煮え切らない言葉選びだったが、言いたいことは言えた。
「屋上は魔界植物試験場になっていて、念のために鍵がかけてありませんでしたか?」
その通りだ。魔改造部と名高い魔界造園部が試験場にしている高等部校舎屋上庭園は生態系を守るために一応は鍵がかけられており、部員か教員でもなければおいそれと入ることはできない仕様になっている。
だからこそ、英はそこを選んだ。
「この前生徒会の手伝いをしたお礼に鍵を預かってるんだよ。部活での失敗を見つめ返すためにも静かな場所で風にでも当たりながら飯食おうかなって思ってさ」
「そのような大事なお時間に私が居てもよろしいのですか?」
「うん、むしろ居てくれると助かるっていうか……もし迷惑じゃなければ、でいいんだけど」
「それは素敵です。お邪魔でなければ是非ご一緒させていただきます」
今日一番で嬉しそうな顔をすると、鏡花は教室を出て行った。
(……水筒か。忘れる鏡花も珍しいけど、全然気付かなかった俺もどうなんだ)
彼女が去った先をじっと眺めながらそんなことを思っていると、礼慈が肩越しに声をかけてきた。
「当生徒会は屋上の鍵の貸し出しにつきまして一切お話を伺ってはおりませんが?」
その通りだ。
朝、告白の流れを組み上げた時にメールで鍵のことを確認しようともしたのだが、
(告白するから鍵貸せ。だとなにも屋上じゃなくてもいいじゃんとか言われそうだし……)
かと言って告白計画を全て文面に起こすのは流石に恥ずかしかった。
うだうだと悩んだ結果、この男には直接言った方がいいだろうと思ったのだ。
(伝われ……!)
そんな熱い思いを込めて英は礼慈の両肩を掴んだ。
「悪い。どうしても誰も来ない場所を確保したいんだ。庭園を荒らさないことは約束するから鍵を生徒会権限で貸し出してくれないか?」
屋上の使用目的すら言わずにゴリ押した英に肩を揺すられて「おーおー」呻きながら、礼慈はニヤけた。
「そうか、ま、いっか。何かあったらサポートしてやるって言ったしな」
肩を掴み返して彼は続ける。
「サービスで昼休みに水やりに来ることもないように根回ししとこう。がんばれよ」
「ちょろっと風に当たりに行くだけだし。別に頑張ることなんてないし……。でも助かる」
「はいよ」
多くを聞いてこない辺りが大変ありがたい。やはりというか、この男は英が何をやろうとしているのか悟っているのだろう。
(そんなにわかりやすいかぁ……)
会長を通して鍵の件を掛け合うと言って礼慈は携帯にメッセージを打ち始めた。
そんな親友に感謝しつつ、英が告白の際の文言を頭の中で復唱している内に予鈴が鳴り、集中を乱された英は筆箱を落としてしまった。
(っと、いかんいかん)
平常心、平常心と思いながらペンを拾おうと身をかがめると、代わりに拾い上げてくれる翼があった。
「はい、スグるん」
ピリだ。
「ありがと」
筆箱を受け取った英に、彼女は訊ねた。
「昨日もそうだったし、今日もそわそわしてるね。大丈夫? おっぱい揉む?」
「いやいやいやいや」
手を振ってノーセンキューを表すのとほぼ同時に、何かが落ちる音がした。
音がした教室の入り口の方を見てみると、そこでは鏡花が落としたお茶のペットボトルを拾い上げようとしていた。
「あ」
ピリはそんな音を零し、
「あ、あらら。キョウちゃんがトチるなんて珍しい。ね、スグるん?」
そう同意を求めてくる彼女はどこか満足そうだ。
その意図が掴めないまま、英は返す。
「誰だってそんな日はあるだろ。俺だって、昨日はちょっと貧血になって大変だったけど、今日は元気だしな……。そわそわしてるのは、どうやって部活に戻るのを師範に認めさせようか考えてたせいだよ」
「そう? よかった、前向きそうで」
ピリは翼をバサバサ振って、
「私のおっぱい揉みにきてたら本格的に心配するところだったよ」
「いや、柿本に悪いだろ」
教室の入り口ではお茶を拾った鏡花が、今度は財布を落として小銭をぶちまけていた。
そんな彼女を心配していると、ピリは「私行くね」と言って友達の輪に消える。
いつも通り慌ただしいと思いながら、英は鏡花の所へ行った。
「鏡花、お茶ありがとう」
「英君、いえ、これは……」
慌てて鏡花はお茶を開けて飲み始めた。
英が虚をつかれていると、鏡花は続いて二本目の蓋も開ける。
「鏡花?!」
お茶を受け取るために伸ばした手をさまよわせている間に、鏡花は二本目のお茶も飲み干してしまった。
「落としたお飲み物を英君にお渡しするわけにはまいりませんので」
「別にいいのに」
「いえ、そうはいきません。新しいものを買ってまいります」
「もう本鈴鳴るから、買ってきてくれるなら次の休み時間でいいよ」
「大丈夫ですか?」
「うん、喉も乾いてないしね」
「……それではお言葉に甘えさせていただきます」
席に座る鏡花を見守りつつ、やはり今日の鏡花は客観的に見てもどこかがおかしいと英は思う。
と、ピリが友達の輪から抜けて今度は鏡花の所に行った。
なにやら翼を合わせて拝んでいるかのような、謝っているような動作のピリに鏡花が手を振って応じている。
険悪には見えないが、さっき自分と話していた二人がそんなやりとりをしていることを気にしていると、視線を感じた。
視線の主はピリと話をしていた女子たちだった。
人も魔物も関係なく視線を向けてきている。その様子に、いつかの苦い記憶を思い出す。
とはいえ、今感じているのはあの時のように冷たく攻撃的な視線ではなく、どちらかというと好意的なようにも思えなくもない視線で、温度でいうならば、
(生ぬるいっていうか……)
そんなことを思っている間に本鈴が鳴って教室が授業に向けて整然とし始める。
なんか変な朝だ。
そう思うのが自分がおかしいからなのか本当に皆がおかしいのか悩みながら、英は自分の席についた。
●
昼休みまで、つつがなく授業は終わった。
昼休みのことしか見えていなかったせいか、授業内容はまったく頭に残っていない。この辺りのことは後で礼慈に教わろうと思いながら、しかし、と周りを見回した。
平常心を保とうと気を張っているせいか、周りからやけに見られているような気がするのだ。
監視されているという程ではなく、ちらちらと様子を窺われているといった程度のものだが、気にはなる。
「どうしたスグ?」
「いや、なんでもない」
礼慈の声にそう応じると、彼は「そうか」と言いながら鍵を寄越した。
屋上の鍵だ。
「まあ頑張ってこい」
「おう」
汗ばむ手に鍵を握り込む。
特に英の動きを気にしている者はいない。やはり感じる視線は気のせいかと思いながら、英は鏡花に声をかけた。
「鏡花」
「はい」
彼女は新しく買ってくれていたお茶と弁当の包みを取り出した。その動作をじっと見つめる自分はとても平常ではないなと思う。気疲れのせいか自嘲の笑いも出ない。
だが、準備は整った。
勝負の時が来たのだ。
●
「荷物持とうか?」
「いえ、場所の用意をして頂いたのですから、ここは私がお運びします」
断る鏡花に食い下がろうとした英は、ここはあまりしつこくすべきではないのではないかと思い直した。
荷物を奪い去ろうと伸ばしかけていた手を握り直し、じゃあ、と声をかける。
「行こうか」
「は、はい」
鏡花はどこか戸惑った様子で付いてくる。
英の行動を訝しんでいるのは間違いなかった。
そんな彼女の反応に、和服の柄にあやかってあやめでも買ってきておけばよかったかと弱気に思っていると、すれ違った生徒がさりげないふうを装って英を避けた。
表情が固い自覚は十分にある。
(普通! 笑顔!)
意識しながら、屋上に通じる扉の鍵を開けた。
扉の正面には屋上面積の八割を占める花壇がある。
その内の半分ほどでは栽培されている植物が収穫間近で風に揺れていた。
ここで栽培されている植物はこちらの世界では普通見ることがない、魔界産のものばかりだ。
こちらの世界の土との相性を確かめたり、学園関係者が薬の材料にしたりするために持ち込まれたものだ。ここなどはまだ良い方で、大学部などに行くと謎のオーラを放つ植物や、触手が蠢いていたりするプラントや庭園もあるらしい。
この屋上全体には花粉や種子や突如魔物娘として覚醒した植物が学園外に飛んで行くのをひとまず防ぐために張られた結界が屋上の環境を一定に保っているため、年中過ごしやすくなっている。植物の管理をする部員か生徒会役員、彼らと面識があって鍵を融通してもらえる一部の者しか入れない、知る人ぞ知る密かな穴場だった。
こういう穴場に来た生徒がナニをするのかなど分かりきっているので、これまで英としては敢えてくるようなこともなかったのだが、持つべきものは生徒会の友人である。
「私、ここには初めて来ました」
鏡花が物珍しげに魔界植物を眺めながら言う。
鏡花もこちらの世界で生まれ育ったため、あまり向こうのことを知らない。魔界の植物に興味があるのだろう。
そういう表情をさせることができただけでもここに来たかいがあったと思いながら扉を閉める。
「では」と言って鏡花が急な話にもかかわらずばっちり用意していた敷物を広げようとするのを制する形で英は名前を呼んだ。
「鏡花」
「……?」
荷物をその場に置いて英に向き直った鏡花に、英は試合にでも臨むつもりで気合を入れる。咳払いを一つすると、挙動不審な英を本格的に心配し始めたのか、鏡花がおそるおそるといった体で近付いてくる。
(あ、なんか体は近づいてきてるけど心が離れていってる気がする)
いかん、と思い、英はまずは距離を詰めるつもりで口を開いた。
「部活、早いところ復帰しなくちゃな」
昼食に誘っておきながらその準備を止めてまでする話が世間話という時点で違和感があるのだが、勝負に打って出た心持ちの英には、自分が作り出した状況の不自然さに気を回す余裕はなかった
英の言動の不自然さを飲んで鏡花は話に付きあってくれた。
「ピリさんが部活動の件も含めて、朝からかってしまった件を謝られておりました」
「あー、彼氏が出来てテンション高めなんだろうからしょうがない」
朝からの突飛な発言には驚いたが、心配して様子を見に来てくれたのだろう。
「つくづく皆に迷惑かけちゃってるな」
「皆さん心配しているのですよ。英君の人望の現れです。それに――」
そこで鏡花は一息詰めた。
「私は、その、嬉しいです、し」
そう言ってから彼女は慌てて手を左右に振り、
「英君が不調なのが嬉しいというわけではなくてですね!? どのような理由であっても英君に寄りかかってもらえるかもしれなということがキキーモラ的に嬉しいと申しますか……ええと……すみません。失言です。キキーモラの悲しい性ということで流していただけますか?」
顔を赤らめて恥じらう鏡花の様子に、英はまだ自分にも脈がありそうだと感じてにわかに心が踊りだす。告白の言葉をすぐにでも吐き出そうと逸る心を抑えるために唾を飲み込んだ。
相手のわずかな反応に敏感に心の針が触れてしまう自分はまだまだ未熟だ。
ともあれ、今日はそんな未熟な自分を曝け出して問いを投げる日だ。
会話での距離感も普段の調子に戻っているとみていい。ここからは重大な話をするとそれとなく鏡花に伝える方向で話題の舵を切っていく頃合いだろう。
そう、ここからが本題だ。
「寄りかかられて嬉しいのは、キキーモラだからだけ?」
「え?」
「いや、鏡花個人としてはどうなんだろうって思ってさ」
相手の反応を待つことなく英は続ける。
「鏡花から見て、俺はどう? 昔より少しはマシになってる?」
「英君はいつだって素敵で、それも会うたびに磨きがかかっています、よ?」
さすがはキキーモラ。先程といい、本当に嬉しいことを言ってくれる。
「ありがとう。だけど、俺自身、自分がどれだけ未熟かは分かってるんだ。
でも、鏡花が告白されたって話を聞いて、俺は不安で仕方なくなった。
……まだ足りない俺だけど、勝手なことで悪いけど、聞いて欲しい」
鏡花の尾がピンと跳ねる。
彼女の表情は先程から一貫して戸惑っているといった感じだ。言っている英からすれば、そんなに分かりづらい言い回しをしてしまっているだろうかと不安になる。
もしかすると緊張のあまり言葉がおかしくなっているのかもしれない。
言いたいことを言っても相手に上手く伝わらなければ本末転倒だ。一番伝えたい部分は間違いようがないように、はっきりと簡潔に。
そう意識して、英は何よりも伝えたい想いを言葉に直した。
「鏡花が好きだ!」
「――――っ!?」
ありったけの想いを込めた言葉を受けて、鏡花の耳が反応した。
間違いなく言葉は伝わっただろう。
(言ってしまった……っ)
吐き出した言葉の意味を噛みしめる一呼吸を置いて、英は付け加えておかねばと考える言葉を続けた。
「鏡花と釣り合うような男になれたとはまだ思ってない。俺がそう思えるのにまだ何年もかかると思う。だから勝手なことを言っていることも自分がどれだけ浅ましいかも分かってるつもりだ。
でも、もし……もしよければ、鏡花の隣を、恋人の位置を、空けといてくれないか?」
英の中で渦巻いていた鏡花への想いを全て言い切った。
体が熱を持つのを感じながら、英は鏡花の答えを待った。
彼女は口を半開きにして尻尾を立て、耳を跳ねさせたままで固まっている。
外で纏う硬質な雰囲気の時も、家で見せる柔らかな物腰の時でも見せない表情に、英も思わず呼吸を止める。
驚かせてしまうことになるとは思ってはいたが、ここまで鏡花が応答に困るとは想定外だった。
(いや、そんなことないか)
鏡花にも幼い頃から築いてきた相島家との関係があるのだ。返事一つでその関係が変わってしまうことを思えば、彼女がなんと言葉を返せばいいのか迷うのも頷けた。
なにせ、同じようなことで英も長いこと悩んでいたのだ。時間をかけて覚悟を決めてきた英とは違っていきなりそんな話を振られた鏡花は困って当然だろう。
「と、いう話をするってのが今日鏡花にここまで付き合ってもらった理由なんだけど……もちろん! すぐに返事が欲しいわけじゃないし、その告白してきたっていう人が十分に魅力的ならそっちの話を受けて欲しいと思う。
この、こ……告白、は俺の中のモヤモヤを一区切りさせるためにさせてもらってるってのもあって――ああ、とにかく! 俺は鏡花に困って欲しいわけじゃないんだ。だから返事は、また今度でいい」
鏡花が困りきってしまう前に早口で助け舟を出した英は、告白以降表情がほとんど変わらない鏡花からどんな答えが飛び出すのか分からず、次第に弱気になっていった。
(だめかな……)
内心で呟いて空を仰いで目をつむる。
駄目でも泣かない。涙は家までとっておくのだ。
そう思っていると、おかしな音が聞こえてきた。
それはジュウウウという、
(水の音?)
花壇に水をあげるためのホースから水が流れっぱなしになっているのだろうか。これまで気付かなかったが、言うことを言ってすっきりしたおかげで周りの音を聞く余裕もでてきたようだ。
いくら魔界の植物でも水びたしになれば成長に悪いだろう。放水を止めるために蛇口を探そうと視線を下げた時、英は鏡花の様子がおかしいことに気が付いた。
鳶色の瞳が不安定に揺れ、口もとが小刻みに震えている。
「い、いや……ちが、ちがうんです……っ」
そんな消え入りそうにか細い声が聞こえる。
そんな彼女に声をかけようとした英は、気付いてしまった。
水音の発生源は鏡花だったのだ。
正確には、彼女の股の付け根から。
放出された水分はくぐもった音をあげながらスカートと鳥類の鱗の間にわずかに見える白い太ももを伝って、鱗を覆う白いニーソックスを黄色に染めていた。
鏡花はおもらしをしていた。
鏡花は何とか流れ出る小水を止めようとスカートの上から手を押し付けるが、それはただスカートに染みを広げるだけの結果になった。
やがて彼女は力尽きたかのように、自らが作りだした水たまりの上にペタンとくずれ落ちた。
やけに耳につく放尿の音は時折途切れながらも続き、全てが終わる頃にはスカートの裾が水分を吸って黒くなっていた。
震える吐息を吐きながら、鏡花が身じろぎすると、足がぴくりと動いて小水が跳ねる。
立ち上がろうとしてうまくできないらしい。同じ動きを数回繰り返した鏡花は、諦めたように足から力を抜いてうな垂れた。
力が入らない体を持て余す鏡花に英は視線が釘付けになっていた。
長くこぼすような息を聞いて、視線を上げる。
茫洋とした瞳の鏡花と目が合った。
彼女の瞳は数秒の間を空けて英に焦点を結び、続く数秒をもって空白だった表情に情動が満たされていく。
顔が瞬時に赤くなり、瞳にみるみる涙が溜まる。
口をわななかせて、彼女は懇願した。
「みないで、ください……」
涙が鏡花の頬を伝う。
それが顎を伝い、濡れて色を濃くしたスカートに新たな一滴を加えるのを見つめて、英はこうしているだけで自分は鏡花を辱めているのだと気が付いた。
「お、俺、着替え持ってくるから!」
そう言い置くと、英は踵を返してダッシュで校舎に入った。
階段を駆け下りながら、英は告白することに夢中で周りが全く見えていなかった自分を責めた。
鏡花は朝からどこか様子がおかしかった。
昨日の別れ方がおかしかったからといってお茶を忘れたりせっかく買ってきたお茶を落としたりと、仕事と彼女が定義する方面にまで影響が出るというのは彼女らしくないではないか。
それに、告白を開始した時の表情。戸惑っているように見えたあの表情は、いきなり告白しだした英に驚いていたのだと思っていたが、実はトイレに行くのを我慢していたのではないか。
思い返してみれば、朝教室でペットボトル二本分のお茶を飲んでから、鏡花はトイレに行っていなかった。
彼女のことをずっと気にしていたのに、なぜこの事態になる前にそれを生かすことができなかったのか。この目は節穴か。
悔しさに歯噛みしながら、英は教室の戸を開けた。
勢いが付きすぎてしまったせいか、戸は大きな音を立てて枠に衝突した。
跳ね返ってくる戸に肩をぶつけながら、英は教室後方にある個人ロッカーの鏡花用の棚から彼女が部活用に持ってきているメイド服が入った袋を出し、自分のロッカーからいつもの癖で持ってきていた部活用の手ぬぐいを引っ張り出すと、誰かに行動を咎められる前に再び教室を飛び出した。
屋上に戻ると、鏡花はまだ水溜まりの上に座り込んでいた。
「そのままだと冷えるから」
どういう顔をして接したらいいのか分からず、とにかく手ぬぐいと着替えを地面に置いた英に鏡花は小さい声で「ありがとうございます」と返してきた。
羞恥の泣き顔に罪悪感を覚えながら、英は花壇を指差す。
「水やり用のホースがあそこにあるはずだから、一度足元を流したらどうだろう……」
また俯いてしまった鏡花を見て、余計なことを言ってしまったのではないかと思う。
何か鏡花の気を紛らわすことができる言葉を送ることができればと考えるが、うまい言葉が出てこない。
こんな状況だ。自分が居ない方が鏡花も気が楽だろう。
「ごめん、扉の向こうで待ってるから、用具入れで着替えれば誰かに見られることもないと思う」
校舎の中に戻った英は、扉に寄りかかる形で座り込んだ。
思考を自責の念が埋め尽くしていく。
結局英は告白に――自分のことに囚われていて、他が何も見えなくなっていた。
何よりも大事にすべき鏡花のことすら見えておらず、彼女に無理をさせ、結果鏡花に恥辱を味あわせることになった。
水が屋上の床を打ち付けられる音を聞きながら、ため息をつく。
こんな様で昔よりマシになっているなどとよく言えたものだ。
自分が気に入らないからと彼女を拒んだあの時から何も変わっていない。
何故自分はこんなにも駄目なんだろうと何度めかのため息を吐き出し、英はふと疑問に思った。
(少し、遅くないか?)
屋上を洗う音が聞こえてから優に十五分は経つ。
いつもの鏡花の着替えの早さから考えると時間がかかり過ぎていやしないだろうか。
状況が状況なので多少時間がかかるのはしょうがないだろうが、このままでは昼休みが終わってしまう。
「鏡花?」
呼びかけてみるが返事がない。
耳をすませてみると、扉の向こうに気配を感じなかった。
「開けるよ?」
返事が無いのを確認して、扉を開ける。
水で流されて湿った屋上の床。その奥の花壇。そのさらにもっと奥、屋上の端近くに鏡花は居た。
メイド服を着た彼女は、英を一度振り返ると、屋上に向けて走りだした。
「ちょっ?!」
慌てて英も走りだすが、花壇を迂回するころにはもう鏡花は屋上の端から跳んでいた。
「鏡花!」
彼女の体は転落防止用のフェンスを難なく跳び越えた。
彼女の体がフェンスの直上をまたいだ瞬間、屋上を薄く包んでいた結界がウエハースを割るようなどこか軽い音を立てて割れた。
鏡花はそのままフェンスの向こう側へと消えていく。
英が屋上の端にたどり着くと、鏡花はグラウンドに着地して校門を駆け抜けていくところだった。
魔物の身体能力を知らないわけではなかったが、鏡花に怪我がなさそうなのを見てほっとする。
彼女の姿が門の陰に消える頃、景色が白く瞬いて、自動的に屋上の結界が張り直された。
静寂が戻った屋上で、英はとぼとぼと校舎への出入り口に歩いていた。
焦りが抜けた視界で見て気付く。
鏡花の水溜まりが洗い流された近くに、鏡花のメイド服が入っていた袋が置かれていた。
そういえば、屋上から飛びおりた鏡花の手は空だった。
持って行くのを忘れたのか、それとも英が突然扉向こうから呼びかけたので顔を合わせづらかった鏡花が持つものも持たずに行かざるを得なかったのか。
口を閉められていない袋の中には制服が見える。
「……っ」
何も考えないようにしながら、英は袋の口をしっかりと閉じる。
においは漏れていない。袋は幸いにも防水性なのか、液体が滴っている様子もない。
(これをこのまま屋上に残してくわけにもいかないよな……)
普段鍵がかけられている屋上だ。これが誰のものかなど丸分かりだろう。
袋とお弁当セットを持って、英は屋上を後にした。
薄暗い校舎の階段を降りながら、ぐちゃぐちゃとした思考の絡まりが解きほぐされるように、英は理解する。
告白は失敗したのだ。
登校した英は机に教科書を詰め込みながら、全神経を集中させて鏡花の動向を他人に悟られないようにさり気なく探っていた。
鏡花はいつも通りに家に来て朝食の用意と昼食の弁当の用意、そして洗濯をしてくれていたが、家に居る間挨拶以外の会話らしい会話をしていなかった。
●
今教室で友人たちと他愛のない会話をしている鏡花は普段と変わらないように思える。
しかし、今朝の鏡花は明確な失敗こそしていないものの、どことなくいつもよりも動きがぎこちないように見えた。昨日の帰り道での気まずさが後を引いて鏡花を見る英の目が歪んでいるのか、それとも見たまま感じたままの通りに鏡花の調子が悪いのか。
(つっても、下駄箱で訊いた時に体調は問題ないって言われてるしな)
返す刀で英こそ大丈夫かと訊き返され、せっかくの会話がとぎれてしまってもいる。
早朝に組み上げた告白のプランを何度も頭の中で繰り返して確認していたせいで普段と様子が違っていたのだろう。
芹も、珍しく英たちが登校するまで家に居た真も、不審なものを見る目で英を見ていたあたり相当だ。
(今日告白するってのに、こんな微妙な空気で大丈夫か?)
取り繕う余裕が完全に消え失せている自分にちょっと自信を無くす。
いつも通りに他愛のない会話をして、そのついでに鏡花を昼休みの屋上に誘う。
そんな第一ステップもまだ達成できていない状態では告白どころではない。
昼休み、屋上で。
英はそこを告白のタイミングと見定めていた。
他に候補はあったのだが、確実に二人きりになれる状況を作れるのはそこだけだった。
その時間に屋上に来てもらうために約束を取り付けるのが告白計画の起点なのだが、結局言い出せないまま学園に着いてしまって自己嫌悪入りかけているのが今の英だ
とはいえ、いつまでも悩んでいても仕方がない。今日はあらゆる躊躇いを振り捨てて前進すべき日だと決めていた。
決意も新たに席を立つ。
「鏡花――」
振り向きざまに声をかけようとすると、いつの間にか友達の輪から離れた鏡花が目の前に居た。
「あ、は、はい。どうなさいましたか?」
浮き足立った声で応じる鏡花に、英も心臓の鼓動を早めながら応じる。
「あ、あーいや、先に鏡花からで」
鏡花は控えめに頷くと、申し訳なさそうに、
「あの、ですね。家に水筒を忘れてきてしまいました」
「そういえば……」
そういえば、朝渡されたのは弁当のみで、飲み物はなかったと今更思う英を前に、鏡花は財布を取り出して言う。
「今でしたらまだ本鈴に間に合いますので、お飲み物を買って来ようかと考えております。お茶でよろしかったでしょうか?」
「あ、うん――いや、悪いよ。後で自分で行くから」
「いえ、これは私の失態。挽回の機会をください」
鏡花の言葉にはどこか切羽詰まった響きがあり、英としてもなんとも断りづらかった。
「じゃあ、お願いしていい?」
「はい」
財布を握りしめて応じた鏡花は、それから、と続ける。
「英君の用件をお伺いします」
「あ、ああ」
英はつっかえる喉を通すように咳払いして、滑りの悪い口を動かした。
「もしよかったらなんだけど、お昼、屋上で一緒に食べないかな、っと思ってさ」
煮え切らない言葉選びだったが、言いたいことは言えた。
「屋上は魔界植物試験場になっていて、念のために鍵がかけてありませんでしたか?」
その通りだ。魔改造部と名高い魔界造園部が試験場にしている高等部校舎屋上庭園は生態系を守るために一応は鍵がかけられており、部員か教員でもなければおいそれと入ることはできない仕様になっている。
だからこそ、英はそこを選んだ。
「この前生徒会の手伝いをしたお礼に鍵を預かってるんだよ。部活での失敗を見つめ返すためにも静かな場所で風にでも当たりながら飯食おうかなって思ってさ」
「そのような大事なお時間に私が居てもよろしいのですか?」
「うん、むしろ居てくれると助かるっていうか……もし迷惑じゃなければ、でいいんだけど」
「それは素敵です。お邪魔でなければ是非ご一緒させていただきます」
今日一番で嬉しそうな顔をすると、鏡花は教室を出て行った。
(……水筒か。忘れる鏡花も珍しいけど、全然気付かなかった俺もどうなんだ)
彼女が去った先をじっと眺めながらそんなことを思っていると、礼慈が肩越しに声をかけてきた。
「当生徒会は屋上の鍵の貸し出しにつきまして一切お話を伺ってはおりませんが?」
その通りだ。
朝、告白の流れを組み上げた時にメールで鍵のことを確認しようともしたのだが、
(告白するから鍵貸せ。だとなにも屋上じゃなくてもいいじゃんとか言われそうだし……)
かと言って告白計画を全て文面に起こすのは流石に恥ずかしかった。
うだうだと悩んだ結果、この男には直接言った方がいいだろうと思ったのだ。
(伝われ……!)
そんな熱い思いを込めて英は礼慈の両肩を掴んだ。
「悪い。どうしても誰も来ない場所を確保したいんだ。庭園を荒らさないことは約束するから鍵を生徒会権限で貸し出してくれないか?」
屋上の使用目的すら言わずにゴリ押した英に肩を揺すられて「おーおー」呻きながら、礼慈はニヤけた。
「そうか、ま、いっか。何かあったらサポートしてやるって言ったしな」
肩を掴み返して彼は続ける。
「サービスで昼休みに水やりに来ることもないように根回ししとこう。がんばれよ」
「ちょろっと風に当たりに行くだけだし。別に頑張ることなんてないし……。でも助かる」
「はいよ」
多くを聞いてこない辺りが大変ありがたい。やはりというか、この男は英が何をやろうとしているのか悟っているのだろう。
(そんなにわかりやすいかぁ……)
会長を通して鍵の件を掛け合うと言って礼慈は携帯にメッセージを打ち始めた。
そんな親友に感謝しつつ、英が告白の際の文言を頭の中で復唱している内に予鈴が鳴り、集中を乱された英は筆箱を落としてしまった。
(っと、いかんいかん)
平常心、平常心と思いながらペンを拾おうと身をかがめると、代わりに拾い上げてくれる翼があった。
「はい、スグるん」
ピリだ。
「ありがと」
筆箱を受け取った英に、彼女は訊ねた。
「昨日もそうだったし、今日もそわそわしてるね。大丈夫? おっぱい揉む?」
「いやいやいやいや」
手を振ってノーセンキューを表すのとほぼ同時に、何かが落ちる音がした。
音がした教室の入り口の方を見てみると、そこでは鏡花が落としたお茶のペットボトルを拾い上げようとしていた。
「あ」
ピリはそんな音を零し、
「あ、あらら。キョウちゃんがトチるなんて珍しい。ね、スグるん?」
そう同意を求めてくる彼女はどこか満足そうだ。
その意図が掴めないまま、英は返す。
「誰だってそんな日はあるだろ。俺だって、昨日はちょっと貧血になって大変だったけど、今日は元気だしな……。そわそわしてるのは、どうやって部活に戻るのを師範に認めさせようか考えてたせいだよ」
「そう? よかった、前向きそうで」
ピリは翼をバサバサ振って、
「私のおっぱい揉みにきてたら本格的に心配するところだったよ」
「いや、柿本に悪いだろ」
教室の入り口ではお茶を拾った鏡花が、今度は財布を落として小銭をぶちまけていた。
そんな彼女を心配していると、ピリは「私行くね」と言って友達の輪に消える。
いつも通り慌ただしいと思いながら、英は鏡花の所へ行った。
「鏡花、お茶ありがとう」
「英君、いえ、これは……」
慌てて鏡花はお茶を開けて飲み始めた。
英が虚をつかれていると、鏡花は続いて二本目の蓋も開ける。
「鏡花?!」
お茶を受け取るために伸ばした手をさまよわせている間に、鏡花は二本目のお茶も飲み干してしまった。
「落としたお飲み物を英君にお渡しするわけにはまいりませんので」
「別にいいのに」
「いえ、そうはいきません。新しいものを買ってまいります」
「もう本鈴鳴るから、買ってきてくれるなら次の休み時間でいいよ」
「大丈夫ですか?」
「うん、喉も乾いてないしね」
「……それではお言葉に甘えさせていただきます」
席に座る鏡花を見守りつつ、やはり今日の鏡花は客観的に見てもどこかがおかしいと英は思う。
と、ピリが友達の輪から抜けて今度は鏡花の所に行った。
なにやら翼を合わせて拝んでいるかのような、謝っているような動作のピリに鏡花が手を振って応じている。
険悪には見えないが、さっき自分と話していた二人がそんなやりとりをしていることを気にしていると、視線を感じた。
視線の主はピリと話をしていた女子たちだった。
人も魔物も関係なく視線を向けてきている。その様子に、いつかの苦い記憶を思い出す。
とはいえ、今感じているのはあの時のように冷たく攻撃的な視線ではなく、どちらかというと好意的なようにも思えなくもない視線で、温度でいうならば、
(生ぬるいっていうか……)
そんなことを思っている間に本鈴が鳴って教室が授業に向けて整然とし始める。
なんか変な朝だ。
そう思うのが自分がおかしいからなのか本当に皆がおかしいのか悩みながら、英は自分の席についた。
●
昼休みまで、つつがなく授業は終わった。
昼休みのことしか見えていなかったせいか、授業内容はまったく頭に残っていない。この辺りのことは後で礼慈に教わろうと思いながら、しかし、と周りを見回した。
平常心を保とうと気を張っているせいか、周りからやけに見られているような気がするのだ。
監視されているという程ではなく、ちらちらと様子を窺われているといった程度のものだが、気にはなる。
「どうしたスグ?」
「いや、なんでもない」
礼慈の声にそう応じると、彼は「そうか」と言いながら鍵を寄越した。
屋上の鍵だ。
「まあ頑張ってこい」
「おう」
汗ばむ手に鍵を握り込む。
特に英の動きを気にしている者はいない。やはり感じる視線は気のせいかと思いながら、英は鏡花に声をかけた。
「鏡花」
「はい」
彼女は新しく買ってくれていたお茶と弁当の包みを取り出した。その動作をじっと見つめる自分はとても平常ではないなと思う。気疲れのせいか自嘲の笑いも出ない。
だが、準備は整った。
勝負の時が来たのだ。
●
「荷物持とうか?」
「いえ、場所の用意をして頂いたのですから、ここは私がお運びします」
断る鏡花に食い下がろうとした英は、ここはあまりしつこくすべきではないのではないかと思い直した。
荷物を奪い去ろうと伸ばしかけていた手を握り直し、じゃあ、と声をかける。
「行こうか」
「は、はい」
鏡花はどこか戸惑った様子で付いてくる。
英の行動を訝しんでいるのは間違いなかった。
そんな彼女の反応に、和服の柄にあやかってあやめでも買ってきておけばよかったかと弱気に思っていると、すれ違った生徒がさりげないふうを装って英を避けた。
表情が固い自覚は十分にある。
(普通! 笑顔!)
意識しながら、屋上に通じる扉の鍵を開けた。
扉の正面には屋上面積の八割を占める花壇がある。
その内の半分ほどでは栽培されている植物が収穫間近で風に揺れていた。
ここで栽培されている植物はこちらの世界では普通見ることがない、魔界産のものばかりだ。
こちらの世界の土との相性を確かめたり、学園関係者が薬の材料にしたりするために持ち込まれたものだ。ここなどはまだ良い方で、大学部などに行くと謎のオーラを放つ植物や、触手が蠢いていたりするプラントや庭園もあるらしい。
この屋上全体には花粉や種子や突如魔物娘として覚醒した植物が学園外に飛んで行くのをひとまず防ぐために張られた結界が屋上の環境を一定に保っているため、年中過ごしやすくなっている。植物の管理をする部員か生徒会役員、彼らと面識があって鍵を融通してもらえる一部の者しか入れない、知る人ぞ知る密かな穴場だった。
こういう穴場に来た生徒がナニをするのかなど分かりきっているので、これまで英としては敢えてくるようなこともなかったのだが、持つべきものは生徒会の友人である。
「私、ここには初めて来ました」
鏡花が物珍しげに魔界植物を眺めながら言う。
鏡花もこちらの世界で生まれ育ったため、あまり向こうのことを知らない。魔界の植物に興味があるのだろう。
そういう表情をさせることができただけでもここに来たかいがあったと思いながら扉を閉める。
「では」と言って鏡花が急な話にもかかわらずばっちり用意していた敷物を広げようとするのを制する形で英は名前を呼んだ。
「鏡花」
「……?」
荷物をその場に置いて英に向き直った鏡花に、英は試合にでも臨むつもりで気合を入れる。咳払いを一つすると、挙動不審な英を本格的に心配し始めたのか、鏡花がおそるおそるといった体で近付いてくる。
(あ、なんか体は近づいてきてるけど心が離れていってる気がする)
いかん、と思い、英はまずは距離を詰めるつもりで口を開いた。
「部活、早いところ復帰しなくちゃな」
昼食に誘っておきながらその準備を止めてまでする話が世間話という時点で違和感があるのだが、勝負に打って出た心持ちの英には、自分が作り出した状況の不自然さに気を回す余裕はなかった
英の言動の不自然さを飲んで鏡花は話に付きあってくれた。
「ピリさんが部活動の件も含めて、朝からかってしまった件を謝られておりました」
「あー、彼氏が出来てテンション高めなんだろうからしょうがない」
朝からの突飛な発言には驚いたが、心配して様子を見に来てくれたのだろう。
「つくづく皆に迷惑かけちゃってるな」
「皆さん心配しているのですよ。英君の人望の現れです。それに――」
そこで鏡花は一息詰めた。
「私は、その、嬉しいです、し」
そう言ってから彼女は慌てて手を左右に振り、
「英君が不調なのが嬉しいというわけではなくてですね!? どのような理由であっても英君に寄りかかってもらえるかもしれなということがキキーモラ的に嬉しいと申しますか……ええと……すみません。失言です。キキーモラの悲しい性ということで流していただけますか?」
顔を赤らめて恥じらう鏡花の様子に、英はまだ自分にも脈がありそうだと感じてにわかに心が踊りだす。告白の言葉をすぐにでも吐き出そうと逸る心を抑えるために唾を飲み込んだ。
相手のわずかな反応に敏感に心の針が触れてしまう自分はまだまだ未熟だ。
ともあれ、今日はそんな未熟な自分を曝け出して問いを投げる日だ。
会話での距離感も普段の調子に戻っているとみていい。ここからは重大な話をするとそれとなく鏡花に伝える方向で話題の舵を切っていく頃合いだろう。
そう、ここからが本題だ。
「寄りかかられて嬉しいのは、キキーモラだからだけ?」
「え?」
「いや、鏡花個人としてはどうなんだろうって思ってさ」
相手の反応を待つことなく英は続ける。
「鏡花から見て、俺はどう? 昔より少しはマシになってる?」
「英君はいつだって素敵で、それも会うたびに磨きがかかっています、よ?」
さすがはキキーモラ。先程といい、本当に嬉しいことを言ってくれる。
「ありがとう。だけど、俺自身、自分がどれだけ未熟かは分かってるんだ。
でも、鏡花が告白されたって話を聞いて、俺は不安で仕方なくなった。
……まだ足りない俺だけど、勝手なことで悪いけど、聞いて欲しい」
鏡花の尾がピンと跳ねる。
彼女の表情は先程から一貫して戸惑っているといった感じだ。言っている英からすれば、そんなに分かりづらい言い回しをしてしまっているだろうかと不安になる。
もしかすると緊張のあまり言葉がおかしくなっているのかもしれない。
言いたいことを言っても相手に上手く伝わらなければ本末転倒だ。一番伝えたい部分は間違いようがないように、はっきりと簡潔に。
そう意識して、英は何よりも伝えたい想いを言葉に直した。
「鏡花が好きだ!」
「――――っ!?」
ありったけの想いを込めた言葉を受けて、鏡花の耳が反応した。
間違いなく言葉は伝わっただろう。
(言ってしまった……っ)
吐き出した言葉の意味を噛みしめる一呼吸を置いて、英は付け加えておかねばと考える言葉を続けた。
「鏡花と釣り合うような男になれたとはまだ思ってない。俺がそう思えるのにまだ何年もかかると思う。だから勝手なことを言っていることも自分がどれだけ浅ましいかも分かってるつもりだ。
でも、もし……もしよければ、鏡花の隣を、恋人の位置を、空けといてくれないか?」
英の中で渦巻いていた鏡花への想いを全て言い切った。
体が熱を持つのを感じながら、英は鏡花の答えを待った。
彼女は口を半開きにして尻尾を立て、耳を跳ねさせたままで固まっている。
外で纏う硬質な雰囲気の時も、家で見せる柔らかな物腰の時でも見せない表情に、英も思わず呼吸を止める。
驚かせてしまうことになるとは思ってはいたが、ここまで鏡花が応答に困るとは想定外だった。
(いや、そんなことないか)
鏡花にも幼い頃から築いてきた相島家との関係があるのだ。返事一つでその関係が変わってしまうことを思えば、彼女がなんと言葉を返せばいいのか迷うのも頷けた。
なにせ、同じようなことで英も長いこと悩んでいたのだ。時間をかけて覚悟を決めてきた英とは違っていきなりそんな話を振られた鏡花は困って当然だろう。
「と、いう話をするってのが今日鏡花にここまで付き合ってもらった理由なんだけど……もちろん! すぐに返事が欲しいわけじゃないし、その告白してきたっていう人が十分に魅力的ならそっちの話を受けて欲しいと思う。
この、こ……告白、は俺の中のモヤモヤを一区切りさせるためにさせてもらってるってのもあって――ああ、とにかく! 俺は鏡花に困って欲しいわけじゃないんだ。だから返事は、また今度でいい」
鏡花が困りきってしまう前に早口で助け舟を出した英は、告白以降表情がほとんど変わらない鏡花からどんな答えが飛び出すのか分からず、次第に弱気になっていった。
(だめかな……)
内心で呟いて空を仰いで目をつむる。
駄目でも泣かない。涙は家までとっておくのだ。
そう思っていると、おかしな音が聞こえてきた。
それはジュウウウという、
(水の音?)
花壇に水をあげるためのホースから水が流れっぱなしになっているのだろうか。これまで気付かなかったが、言うことを言ってすっきりしたおかげで周りの音を聞く余裕もでてきたようだ。
いくら魔界の植物でも水びたしになれば成長に悪いだろう。放水を止めるために蛇口を探そうと視線を下げた時、英は鏡花の様子がおかしいことに気が付いた。
鳶色の瞳が不安定に揺れ、口もとが小刻みに震えている。
「い、いや……ちが、ちがうんです……っ」
そんな消え入りそうにか細い声が聞こえる。
そんな彼女に声をかけようとした英は、気付いてしまった。
水音の発生源は鏡花だったのだ。
正確には、彼女の股の付け根から。
放出された水分はくぐもった音をあげながらスカートと鳥類の鱗の間にわずかに見える白い太ももを伝って、鱗を覆う白いニーソックスを黄色に染めていた。
鏡花はおもらしをしていた。
鏡花は何とか流れ出る小水を止めようとスカートの上から手を押し付けるが、それはただスカートに染みを広げるだけの結果になった。
やがて彼女は力尽きたかのように、自らが作りだした水たまりの上にペタンとくずれ落ちた。
やけに耳につく放尿の音は時折途切れながらも続き、全てが終わる頃にはスカートの裾が水分を吸って黒くなっていた。
震える吐息を吐きながら、鏡花が身じろぎすると、足がぴくりと動いて小水が跳ねる。
立ち上がろうとしてうまくできないらしい。同じ動きを数回繰り返した鏡花は、諦めたように足から力を抜いてうな垂れた。
力が入らない体を持て余す鏡花に英は視線が釘付けになっていた。
長くこぼすような息を聞いて、視線を上げる。
茫洋とした瞳の鏡花と目が合った。
彼女の瞳は数秒の間を空けて英に焦点を結び、続く数秒をもって空白だった表情に情動が満たされていく。
顔が瞬時に赤くなり、瞳にみるみる涙が溜まる。
口をわななかせて、彼女は懇願した。
「みないで、ください……」
涙が鏡花の頬を伝う。
それが顎を伝い、濡れて色を濃くしたスカートに新たな一滴を加えるのを見つめて、英はこうしているだけで自分は鏡花を辱めているのだと気が付いた。
「お、俺、着替え持ってくるから!」
そう言い置くと、英は踵を返してダッシュで校舎に入った。
階段を駆け下りながら、英は告白することに夢中で周りが全く見えていなかった自分を責めた。
鏡花は朝からどこか様子がおかしかった。
昨日の別れ方がおかしかったからといってお茶を忘れたりせっかく買ってきたお茶を落としたりと、仕事と彼女が定義する方面にまで影響が出るというのは彼女らしくないではないか。
それに、告白を開始した時の表情。戸惑っているように見えたあの表情は、いきなり告白しだした英に驚いていたのだと思っていたが、実はトイレに行くのを我慢していたのではないか。
思い返してみれば、朝教室でペットボトル二本分のお茶を飲んでから、鏡花はトイレに行っていなかった。
彼女のことをずっと気にしていたのに、なぜこの事態になる前にそれを生かすことができなかったのか。この目は節穴か。
悔しさに歯噛みしながら、英は教室の戸を開けた。
勢いが付きすぎてしまったせいか、戸は大きな音を立てて枠に衝突した。
跳ね返ってくる戸に肩をぶつけながら、英は教室後方にある個人ロッカーの鏡花用の棚から彼女が部活用に持ってきているメイド服が入った袋を出し、自分のロッカーからいつもの癖で持ってきていた部活用の手ぬぐいを引っ張り出すと、誰かに行動を咎められる前に再び教室を飛び出した。
屋上に戻ると、鏡花はまだ水溜まりの上に座り込んでいた。
「そのままだと冷えるから」
どういう顔をして接したらいいのか分からず、とにかく手ぬぐいと着替えを地面に置いた英に鏡花は小さい声で「ありがとうございます」と返してきた。
羞恥の泣き顔に罪悪感を覚えながら、英は花壇を指差す。
「水やり用のホースがあそこにあるはずだから、一度足元を流したらどうだろう……」
また俯いてしまった鏡花を見て、余計なことを言ってしまったのではないかと思う。
何か鏡花の気を紛らわすことができる言葉を送ることができればと考えるが、うまい言葉が出てこない。
こんな状況だ。自分が居ない方が鏡花も気が楽だろう。
「ごめん、扉の向こうで待ってるから、用具入れで着替えれば誰かに見られることもないと思う」
校舎の中に戻った英は、扉に寄りかかる形で座り込んだ。
思考を自責の念が埋め尽くしていく。
結局英は告白に――自分のことに囚われていて、他が何も見えなくなっていた。
何よりも大事にすべき鏡花のことすら見えておらず、彼女に無理をさせ、結果鏡花に恥辱を味あわせることになった。
水が屋上の床を打ち付けられる音を聞きながら、ため息をつく。
こんな様で昔よりマシになっているなどとよく言えたものだ。
自分が気に入らないからと彼女を拒んだあの時から何も変わっていない。
何故自分はこんなにも駄目なんだろうと何度めかのため息を吐き出し、英はふと疑問に思った。
(少し、遅くないか?)
屋上を洗う音が聞こえてから優に十五分は経つ。
いつもの鏡花の着替えの早さから考えると時間がかかり過ぎていやしないだろうか。
状況が状況なので多少時間がかかるのはしょうがないだろうが、このままでは昼休みが終わってしまう。
「鏡花?」
呼びかけてみるが返事がない。
耳をすませてみると、扉の向こうに気配を感じなかった。
「開けるよ?」
返事が無いのを確認して、扉を開ける。
水で流されて湿った屋上の床。その奥の花壇。そのさらにもっと奥、屋上の端近くに鏡花は居た。
メイド服を着た彼女は、英を一度振り返ると、屋上に向けて走りだした。
「ちょっ?!」
慌てて英も走りだすが、花壇を迂回するころにはもう鏡花は屋上の端から跳んでいた。
「鏡花!」
彼女の体は転落防止用のフェンスを難なく跳び越えた。
彼女の体がフェンスの直上をまたいだ瞬間、屋上を薄く包んでいた結界がウエハースを割るようなどこか軽い音を立てて割れた。
鏡花はそのままフェンスの向こう側へと消えていく。
英が屋上の端にたどり着くと、鏡花はグラウンドに着地して校門を駆け抜けていくところだった。
魔物の身体能力を知らないわけではなかったが、鏡花に怪我がなさそうなのを見てほっとする。
彼女の姿が門の陰に消える頃、景色が白く瞬いて、自動的に屋上の結界が張り直された。
静寂が戻った屋上で、英はとぼとぼと校舎への出入り口に歩いていた。
焦りが抜けた視界で見て気付く。
鏡花の水溜まりが洗い流された近くに、鏡花のメイド服が入っていた袋が置かれていた。
そういえば、屋上から飛びおりた鏡花の手は空だった。
持って行くのを忘れたのか、それとも英が突然扉向こうから呼びかけたので顔を合わせづらかった鏡花が持つものも持たずに行かざるを得なかったのか。
口を閉められていない袋の中には制服が見える。
「……っ」
何も考えないようにしながら、英は袋の口をしっかりと閉じる。
においは漏れていない。袋は幸いにも防水性なのか、液体が滴っている様子もない。
(これをこのまま屋上に残してくわけにもいかないよな……)
普段鍵がかけられている屋上だ。これが誰のものかなど丸分かりだろう。
袋とお弁当セットを持って、英は屋上を後にした。
薄暗い校舎の階段を降りながら、ぐちゃぐちゃとした思考の絡まりが解きほぐされるように、英は理解する。
告白は失敗したのだ。
17/03/05 23:06更新 / コン
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