不安と期待の夜
鏡花はアンナが作った夕食の後片付けをしながら、明日はどのように英を家路に誘おうか、どのように告白をしようかと考えていた。
というよりも、それ以外のことを考えることができなくなっていた。
他のことを考えようとしても思考が勝手に引きずられてしまうのだ。
そわそわするのを止められない自分に恥を感じながら、鏡花はなんとか平静を装おうと努力していた。
相島家に居た時からずっとそうだ。
真などはあまり気にしていなかったようだが、芹には弱った自分を晒してしまったこともあり、いつもと様子が違うことをずっと気にされていた。
働きに行かせてもらっている家でなんという様だろう。
とはいえ、情緒不安定な鏡花にとって芹というよく知る大人は相手が悪かった。
(おばさまにはずっとお世話になっておりますし)
自分がこの世に生まれ落ちて最も未熟だった頃を知っている相手だ。本当に幼い頃には彼女に子守をしてもらってもいた。本当の母のように思っている部分もあって、心理的に脆い部分がつい出てしまう。
ひとまず相島家ではなんでもないで通してきたが、騙し通せてはいないだろう。
それでも彼女からは深刻な気配は伝わっこなかった。
根掘り葉掘り聞いてこようとしているわけでもなく、
(まるで、見守るような……)
キキーモラとしての感覚はそのような印象を受けた。
芹の中でなんらかの解釈が成立したのだろう。直近で自分と絡めやすい悩みの種といえば進路希望調査票がある。進路で悩んでいると思われたのかもしれない。
ある意味で進路で悩んではいるのだから当たらずとも遠からずだ。
(英君と一緒に進むことができるかどうかの瀬戸際ですもの)
思わず股をこすり合わせるが、もうそこは濡れてはいない。
明日の告白の決着がつくまでは色にうつつを抜かしていられる状態ではない。
(あの時はやっぱり英君の匂いに浸りすぎていたのでしょうね)
いつもよりも匂いが薄いからと油断しすぎていたということだろう。要反省だ。
母の話によると、家に招いた英は少し眠たそうにこそしていたものの、よく食べよく飲む、もてなしがいがあるお客様だったようだ。
途中で帰ってきた父も加わって三人で楽しいお茶会をしたそうで、話し込んで興奮した気持ちを静めるために英は散歩に出かけたとのことだった。
彼に会うことができなかったのは寂しいが、正直今の状態で彼に会うのはまずいかもしれないと思っていたので内心では少しほっとしていた。
だが、寝不足の人を興奮させるものではないとは苦言を呈しておいた。ここ数日どこか様子がおかしかった英を楽しませることができたという両親に嫉妬していた部分も、少しはある。
八つ当たりなのは自覚している。
よくありませんね。と自分を諌めながら、鏡花は皿洗いを終えた手を拭いた。
「ありがとうございます、鏡花」
声に振り向くと、航と一緒に風呂に入りに行くのだろうと考えていたアンナがいつの間にかテーブルについている。
少し意外に思いながら鏡花はいえ、と応じた。
八つ当たりの罪滅ぼしのつもりで夫婦の時間を確保しようとしたのだが、狙いとは違う過ごし方をしているようだ。
(ああ……もう)
手を握り合わせる。
こうして離れていても平気でいられる両親に、鏡花は妬ましいものを感じていた。
英に会いたくて、しかし会ったらきっと普通ではいられないだろう今の鏡花には、両親の在り方が眩しく感じられたのだ。
(良くないですね)
僻みっぽくなってしまっている。今日は早めに自室に退散させてもらおうと鏡花が部屋を出ようとすると、アンナが呼び止めた。
「お待ちなさいな」
「?」
なんだろうと母の方を見ると、彼女は酒瓶を掲げていた。
ウォッカの瓶だ。
母がこちらの世界にやってきた時に初めて飲んだこちらの世界のお酒だ。同時に父との思い出のお酒でもあるようで、二人で飲んでいる姿をよく見かける。
今母が掲げている銘柄は見覚えがない。手書きでラベルが書かれていることから、恐らく礼慈の母がやっているバーで作ったオリジナルフレーバーだと思われた。
「飲みましょう」
「いえ、遠慮しておきます」
晩酌に誘われたことは何度かある。付き合ったことも数度あるが、両親が飲む様を見る限り、お酒が真においしいのは好きな人と飲む時だ。そのため、英が飲めるようになるまでは進んで飲むことは無かったし、両親も誘ってもあまり良い返事をしてくれない娘を誘うことがなくなっていたのだが、
「うう、娘が冷たくてお母さんは悲しいです」
悲しげな声で珍しく粘られる。
こうまで言われてはそのまま無慈悲に去ることもしづらい。なし崩し的に対面の席に着くと、アンナは先ほどの悲しそうな言葉は忘れたとでもいうような澄ました顔で、いつの間にか机の上に載っていた鏡花用のグラスに酒を注いでいた。
鏡花は母に酒を注ぎ返し、二人はグラスを合わせる。
そしてそこまでが一続きの動作であるように一口飲む。
液体が喉を滑り落ちていき、少し遅れて胃から熱が登ってくるような感覚。鼻に抜けてくる香りはアルコールのものだけではない。香草で香り付けをしているのだろう。
ほっと息をついてグラスを置くと、先にグラスを置いて鏡花を見つめていたアンナと目が合った。
「お母さん――」
何故晩酌に誘ったのかと鏡花が訊ねる前に、アンナが問いかけてきた。
「随分と悲壮な顔をしていますね。何かありましたか?」
「……いえ、何もありません」
(芹おばさまもそうですけど、私、そんなに参っているように見えたでしょうか?)
確かに、鏡花は明日どのように告白しようかと考えるのと同時に、全てを話した後のことも考えていた。特に、彼から拒絶された時のことについてだ。
その悪い想像に表情が引っ張られていたのだろうか。見られていると意識していなかったので油断した。
全てを告白した場合、英は以前もそうだったように、家事をすることはまだ認めてくれるかもしれない。芹や真については優しく迎えてくれるのだろうという信頼がある。
そこについ甘えたくもなるが、英も自身が拒絶した相手が入り浸っている家には帰りづらいだろう。
自分が甘えてしまうことで英の負担になるような末路は嫌だ。
(そうですね……リスク管理は徹底しておきませんと)
鏡花はグラスを空けた母に確認する。
「お母さん。私が学園を卒業したら向こうの世界の学校で従者としてより研鑽を積みたいと言ったことを覚えていますか?」
「ええ、覚えておりますよ」
「そのお話、真剣に考えてみたいので、資料などをいただけませんか?」
異世界にまで行ってしまえばどうやったって彼に迷惑をかけることはなくなるだろう。
アンナは一つ頷くと、鏡花の手に握り込まれているグラスを指し示した。
「まずはそのグラスを空けましょう。話はそれからです」
「いえ、私は……」
「ね、鏡花」
笑顔のアンナからは発言を曲げる気配を感じられなかった。
折れた鏡花は仕方なく、漬け込んだ香草の色が僅かについた透明な液体を一息に飲み込んだ。
先程よりも強いアルコールの熱を感じる。その熱の余韻が胃から冷めない内から話の続きをしようとした鏡花に、アンナの次の言葉が飛んできた。
「いかがですか? そのフレーバーは英君の髪から抽出した特別製ですよ」
「いいえ、これは英君の香りではありません」
即座に返された否定に、アンナは「あら」と口もとに手を当てた。
「英君の不調を解決できていないあなたの鼻や舌は信用できるのですか?」
言葉にはわざとらしい疑いの響きがあった。
それが意味するところは、鏡花が英の不調の原因にまで迫れていないと見抜いているということであり、
(事前に兆候を悟ることが出来ていたならば今回の件は未然に防ぐことができたと言外に言っています)
それらをこのやり取りから瞬時に察しつつ、鏡花は語気も強く反論した。
「私が英君の香りを間違えることなどあり得ません。不出来な娘ですが、主人の匂いを嗅ぎ分けられないような在り方をしてきたことなどないのです……っ」
放った言葉に、アンナは深く頷いた。
「そうですか。あなたの中では英君を主とする結論が揺るがずにあるのですね。その顔も、何か重い覚悟を固めたがゆえでしたか」
自分のグラスに酒を注ぎ直しながらアンナは続ける。
「ですが、告白するのでしたらもっと可愛らしい顔をしていた方が良いですよ。あなたは可愛い娘なのですから。あなたが咲かせる笑顔のためにこそ、母は今こうしてここに居ましょう」
鏡花は親バカなことをのたまったアンナに驚愕した。
(私が英君をお慕い申し上げていることが知られています?!)
仕事や種族的な技能を身につけるためという隠れ蓑をまとって隠していたにもかかわらず、誰にも悟られていないはずのことを見抜かれていた。
(いったい、いつから……)
母は偉大だ。
精神的に丸裸にされた自分を悟った瞬間。鏡花は今のこの場が、自分が弱音を吐きやすいように整えられたものだと理解した。
(無理にお酒を飲ませたという大義名分まで用意して……)
お酒には強いらしく、この程度ではまだ酔いが回ってくることはないが、そこも計算の上でアンナはこの場を整えたのだろう。
つまり、正気のままで、だが酔いを理由として弱音を吐いてもいい状況をだ。
「かないませんね」
呟くと、アンナは口もとを弓にして尾を一振りする。
言うまでもないということだろう。
鏡花は咳払いし、控えめに注ぎ直された酒を一口飲んだ後、喉奥の熱を吐き出す気持ちで言葉を繋げる。
「お母さんも覚えておいでかと思います。英君が家に来て、私にした叱責の謝罪をしてくださった日のことです。
英君は、私の仕りをもういらないとおっしゃって、ですけれど、間接的に身の回りのお世話をすることは許してくださいました」
「ええ、そうでしたね。思えばあれから彼は本当に立派になりました」
全力の同意を内心でしつつ、鏡花はだからこそ胸に降り積もっていく罪悪感を口にした。
「今までずっと言うことができませんでしたが、私は叱責を受けるその時まで、英君を堕落させようとしていました。私の仕りの中で、永遠に安楽な生活を捧げようなどと思っていたのです。
ですが、英君は聡い方で、理屈ではなく、本能で私の行いが真に英君のためのものではないとお気づきになり、私を拒絶しました。
それでも、英君はそう仕向けていた私にそれまでの扱いを詫びて、あまつさえ友達になってくれとお言葉をかけて私が傍に在ることを許してくださりました。そして、私はそのお言葉に甘えました」
このことがそれからずっと鏡花を苦しめていた。
「本当ならば英君がそう言ってくれたあの時、私もこれまで自分がどういうつもりで英君に仕えていたのかを正直に話しておくべきだったんです」
鏡花は悪戯を白状する子供の目で母を見た。
「お母さんも清算をすべきだと言ってくれたのに、英君は清算を果たしていたのに……私だけがあの場で不誠実でした」
ただ見つめ返してくる母の目を見続けることが出来ずに視線が自分よりも淡い色をした髪に向く。
「私の浅ましい本心が知れてしまったらと思う
と怖かったのです。もし英君が家の敷居を跨ぐことも許してくれなくなったらどうしたらいいのかと……だって、私は」
英君のことが大好きだから。
発されることのなかった言葉に、しかしアンナは分かっているとばかりに頷いた。
「同じ雌ですもの。あなたが感じた恐怖を母は理解できます。
大丈夫ですよ。その後にあなたが確かに変わったということを私は、そして旦那様も知っておりますからね」
アンナの理解した上で許しを与えてくれる言葉に、鏡花は深く感謝した。
これまで言うことができなかった心の澱を吐き出せて、肩が幾分か軽くなった気がする。
(ですけど、私が主に対して不誠実であったことは変えられません)
だからだろう。と思いながら鏡花は言った。
「お母さん、いけないことをしてしまった私はですね、ばちが当たってしまったのです」
「……ばち、と言いますと?」
アンナの促しに、鏡花は一瞬ためらった。
それを話すということは自分の種族的な劣等を認めることになるからであり、それを同族としても親としても女性としても尊敬する母に聞かせるというのは心情的に苦しいものがあった。
ここまで不出来な娘では流石に失望されてしまうかもしれない。
だがしかし、
(それは仕方のないことです)
これまで自身が行ってきたことのツケなのだ。それによって受ける責めは当然のこととして受け容れなければならない。
それに、失望されるのならばここまで話をした時点で既にされているだろう。今はせっかく用意してもらった機会なのだ。自分が決めたことと、その理由を洗いざらい吐き出して懺悔することによって落ち着いて告白に臨むことができるようにコンディションを整えることこそが第一だった。
逸らさぬように意志を添えて母の目を見る。
「私は、英君の機微を感じ取ることができないのです」
キキーモラという種族は、動作、息遣い、筋肉の緊張や内臓の動きまでを読み取って相手が望むものを導き出す能力がある。
読心などの魔法というよりは、訓練によって伸ばすことができる身体能力――感覚器の類に近い。
鏡花も例にもれず、相手の機微を感じ取る能力があったが、それは英に対しては働かなかった。
このことが彼女のコンプレックスの一つになっていたわけだが、実は始めから英の機微をうまく感じ取れないというわけではない。
心に決めた主よりも自身の欲を優先させていた、今よりも遥かに未熟な子供の頃の鏡花でも、英が求めるものを理解し先読みしていつでも対応することができていた。
それができなくなったのは、やはりあの、清算を果たすことから逃げてしまった日の前後からだった。
罪悪感ゆえか、英の言葉がショックだったのか。原因も、自分の体の中で何がどうなってしまったのかも理解できないまま、鏡花はそのことを黙って生活せざるを得なくなった。
他の人のことはこれまでと変わらずに感じ取ることができるのに、と焦りを感じながら、新しい生活習慣に馴染みきることができておらずに英が混乱していた間に、なんとか悟られない程度に仕事ができるようになった。
「一時的なものなのではないかと思い、だましだまし過ごしてきたのですがこの欠陥は未だに治ってはおりません」
そうして時間を過ごす内に、英の道行きを支えるために学び始めた知識は、やがてキキーモラの特技に頼らない鏡花の生き方を支える基盤になっていった。
「今、英君は不調に陥っておられます」
それは、体の不具合からくるものではない。英は話す気がないようだが、恐らくは精神的なものだ。
話したくないと英が思っていることを探るような真似はしたくはないが、日を追うごとに彼の様子はおかしくなっている。多少強引な手に出ることが英のためにもなるだろうと考えていた。
だが、今の彼から情報を読み取るためには体裁を繕っている偽りの自分ではだめだ。キキーモラ本来の能力でならば、核心には触れられないまでも、どのようにすれば支えていくことができるのかの指針は得られるはずだったが、それも現状では望むべくもない。
ではどうするかというと、
「私の欠陥を正直にお話しして、英君に話してもらえるようにお願いします」
壊れかかった関係からなんとか再構築できた今の状態にまたひびが入ってしまうことが怖く、鏡花はこれまで踏み出すことができなかった。欠陥を隠したままで彼の傍に侍ることができる幸福に甘えていたのだ。
だが、それではいけないと気付いた。否、とうに分かっていた。
鏡花の中にはこの数年来、いつも満たされることのない空虚さやジリジリと焼け付くような焦燥が常にあった。
いつだって変わるべきタイミングを探していた。
「昨日、とある方に勇気を見せていただきました」
その勇気は少々方向性がずれてはいたが、まっすぐで、眩しかった。
それはいつかの英を思い出す姿で、
「彼にあやかって私も覚悟を決めました」
だから、
「不出来な娘の告白。その弊害を最小限に留めるためにあちらの世界の学校の資料を取り寄せてください」
鏡花のお願いに、アンナは首を横に振って答えた。
「挑戦する前から失敗することばかり考えているとは何事ですか。そのような考えでは英君に呆れられてしまいますよ」
「これもひとえに英君のためで……私が生き恥を晒さないためでもあります」
正直なところ、告白の成功や、断りを受けた際に後を濁すことなく身を引くことができるかなどについて、鏡花は自信がないのだ。そのため、告白の答えが否であった場合、英にそれ以上の迷惑をかけないように行動できるという安心が欲しかった。
「ああ、そのような情けない顔をしないでくださいな」
アンナが幾分か呆れた声で言う。
「分かりました。それであなたが安心できるのなら、資料を取り寄せる手配をしておきます」
「ありがとうございます」
ほっ、とため息を吐くような重めの感謝が零れる。
「さあ、これで後顧の憂いもありませんね。あとは偽ることのないあなたの心をどのようにしたら英君に伝えることができるのかをよく考えながらお休みなさい」
苦笑気味にそう言って、話は終わりとばかりにアンナはグラスを空けた。
いざという時のリスク管理を整え、長年誰にも言えずに心に溜まっていた澱を吐き出すように懺悔したおかげか、先程までより遥かに楽になった気分で鏡花は席を立った。
「お母さん」
「はい?」
「過ちを犯した私を許してくれてありがとうございます。これ以上、キキーモラとしてもお母さんとお父さんの娘としても恥ずかしくない在り方をできるように頑張りますので、どうか見守っていてください」
「……それは違いますよ」
「え?」
アンナは慈しむように鏡花を見て、
「あなたの在り方は、そう、とてもキキーモラらしいのです。自信を持ちなさい。私たちの自慢の娘」
それに、と付け加える。
「あなたが望む在り方はキキーモラや私や旦那様とは別の所にあるでしょう?」
鏡花はアンナの言葉に深く頷いた。
「はい。英君の従者として胸を張れるよう、今後も精進いたします」
「ええ、ではあなたが私たちの手から離れていくその時まで、出来うる限りの援助をさせていただきますね」
「出来る限りお手を煩わせることがないようにいたします」
「あら、それは寂しいですね」
いたずらぽく言うアンナに鏡花は苦笑した。
「それではおやすみなさい」
「ええ、佳い報せを待っていますよ」
そんな見送りの言葉を受けて、鏡花は自室に向かった。
●
娘を見送ったアンナは、困った顔で首を傾げた。
「まだまだ緊張していますね……」
少しはマシになってはいるが、自然体からは程遠い。階段を登っていく足音が微かに聞こえてくるのがその証拠だ。
危なっかしい。
(とはいいましても、告白それ自体は成功することでしょう)
案じるよりも産むが易しというのはまさに娘と息子候補の現状だ。
(鏡花が私や旦那様にも相談せずに内側に溜め込んでいた英君への負い目も何もかもを全て伝えることもできそうですし、そういうあらゆるものを含めた告白が終わったらこの一件は全て落着ですね。
そうなればあの子の楔も消えて……)
結果残るのは熟成されきった二人の愛情であり――
(英君、大丈夫かしら……?)
これまでとは方向性が違う心配をしていると、声をかけられた。
「アーニャ、お話しは終わったかい?」
「旦那様。ええ、私たちの娘はやはり自慢の娘です」
「そうか。それは嬉しいね」
「ええ」
風呂上がりの航のために冷たい水を用意して、アンナは入れ替わりで風呂に入った。
明日は娘たちにとっては思い出に刻まれる日になることだろう。一体何が起こってしまうのだろうかと想像しながら湯を浴びたアンナが台所を通りかかると、水を供したグラスに酒を並々と注いでいる航の姿があった。
アンナに背を向けている彼からは、やけに哀愁が漂っている。
夕方に英の話を聞き、帰ってくるなり一目で様子がおかしいと分かる娘と二人っきりで話をさせてくれとアンナがお願いした後だ。アンナと鏡花の間でどのような話がされたのかを彼はなんとなく察しているだろうし、英と鏡花がどうなろうとしているのかも理解が及んでいることだろう。
娘の巣立ちは近い。
だからこその哀愁漂う背中だ
アンナは、そんな主人に愛おしさを感じながら向かいの席についた。
「まだ告白がどうなるのか分かりませんよ」
「伊達にあの子たちを見てきたわけではないからね、結果なんて目に見えているよ、アーニャ。君もそう思っているだろう?」
赤い顔の航はグラスを煽る。
既に何杯か飲んでいるようだ。このペースということは深酒するつもりなのだろう。
「旦那様、お水も一緒に摂るようにしてくださいね」
「分かっているよ、アーニャ」
新たに水のグラスを用意したアンナに微笑みかけて航は続ける。
「あの子たちは昔の喧嘩の件からお互いに対する罪悪感があった。それだけではなくて、二人の付き合いには当人同士以外の家族の付き合いも絡んでいたから、思い切った行動をとりづらかったんじゃないかと思う。だから、何かしらのきっかけを欲しがっていたと思うよ。
あの二人のことだから自分たちでそのタイミ
ングを決めていたのかもしれないけれど、どうやらこの何日かの間で二人が思ってもいないところから転機がやってきたようだね。
鏡花が受けたという告白なんかがその最たるものなのかな? それらの先で、最後の最後に背中を押す役目を負えたことが、親としてとても嬉しい。
……嬉しいんだけど、それとは別問題として寂しいのはどうにもならないね」
「心中お察しします。旦那様」
ですが、とアンナは続けた。
「私たちはこうなることをずっと前から分かっていましたし、そうなることを望んできました。これはその時が来たという、ただそれだけのことですよ」
「そうだね……新生児室であの子たちが手を握りあっていた時からこうなることは当然のこととして分かっていた。だからこそ、俺たちは娘に鏡花と名付けたんだ」
鏡花とは鏡に映る触れることの叶わない幻の花のこと。その花を摘むことができるのは、名付けられる前に手を伸ばした英だけであるという思いを込めた名だ。
「この名前が二人を縛ることになるんじゃないかと思って由来を話すことはしてこなかったけど、やはりこうなったね」
「ええ、寂しくはありますが、喜ばしいことです。笑顔で送り出しましょう。あんなに勤勉な彼と、不出来なんて勘違いをしているけれど、とても魔物らしくキキーモラらしいあの子。きっと良い主従になれますよ」
そう言って、アンナは懐かしそうに笑った。
「あの子ったら英君が近くに居ないと泣き止みませんでしたよね」
「匂いで我慢できるようになったのは立派な成長だと喜んだものだ」
「ですがその結果が……」
二人は吹き出しながら、同時に口にした。
「「匂いフェチ」」
いかんいかんと笑いを収めながら、航は言う。
「そういう嗜好に対して英君に剣道を勧めたのは我ながら会心の一手であったと思っている」
「同感です」
鏡花が英の道着にしていることを知ってか知らずか、アンナは続ける。
「とはいいましても、いきなり勇者様のもとに送り出すとは随分なしごきであったと思います。あのスパルタは鏡花のためですか?」
返答にはグラスを空けるだけの間があった。
「……多少八つ当たりの面も、ある」
航は決まり悪そうに咳払いし、
「英君にも言ったけど、あの二人にはあの喧嘩は必要な通過儀礼だったと思っているよ。だから、ちょっと八つ当たりしたことについては反省もしてる」
「素直でよろしいかと思います。結果として英君の自己実現に多少なりとも寄与できたことですし、旦那様が気に病むこともありませんよ」
労るように言って、アンナはでも、と付け加える。
「私といたしましては、二人は昔のままでもよかったのではないかな、とも思います。
もう一年もあれば、今とは違う二人の関係が見えたのだろうな、と」
「もしそうだったらどうなっていただろう?」
想像しづらいのか首を傾げる主を補助するために、アンナは想像の翼を広げる。
無自覚に過激派気味だった鏡花が猛禽にして狼という捕食者としての本能を優先させた関係を築いていたのなら、
「それはきっと淫靡で爛れた幸せな生活だったことでしょう……。そうなっていたら今頃孫が生まれていたりしたかもしれませんね」
「子供ができたとなれば、内に篭っていた関係も育児に向けて外に向き始めたかもしれないね」
結局はタイミングの違いだけで、どのような道を辿ろうとも最終的に娘たちは立派に成長していったのではないかと、身内びいきにそんなことを考えていると、航が腕組みをした。
「孫かぁ、お爺さんかぁ……感慨深いな」
戯言に付き合ってくれる航にアンナは熱の篭った笑みで応じた。
「お二人の子が先か、それとも妹ができるのが先か、どちらだと思われますか?」
「さて、どちらだろうね」
見つめ返してくる航の瞳に熱が宿っている。
このまま愛しい旦那様と交わりたい気分になるが、ぐっとこらえてアンナは席を立った。
航が少し意外そうな顔をした。
自分とて欲情している。いつもならばこのままベッドになだれ込むところだ。
だが、
「明日まで、お待ちくださいね」
今鬱々としている鏡花にそれを聞かせるのは酷だし、決意を固めた彼らがどちらの家に来るのかも分からない。
もしこちらの家に来るのなら、自分たちの行為の残滓があるといろいろと集中できないだろう。
せっかくこれまで堪え続けた二人の記念となる日だ。水を差すのは忍びない。
これまでの二人の日々に、せめて舞台を整えることで報いたいのだ。
アンナの考えを理解したのか、航がふむ、と頷く。
「明日からの準備もある。今日はお預けかな」
「そうでございますね」
そう言うと、アンナは口もとに人差し指を当てて片目をつぶった。
「それに、ふふ、お預けされた後の快感もまた、甘美なものですもの」
17/02/19 19:49更新 / コン
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