引きずりつまずき
結局、陽が昇るまで考え続けても英はどうすればいいのか明確な答えを出すことができなかった。
邪魔するのは昨日あったというボランティア部男子による告白の件だ。
本当に告白があったのかも定かではないが、鏡花の様子を見た限りでは告白はあったのだろう。それに対して彼女がどのように返答したのか。それが分からないことには英としても動くことができなかった。
告白自体がなかったり、断りを入れているのならばまだ良い。しかし、彼女が告白を受け容れてしまっているのであれば、今更英が告白をしたところで彼女を困らせてしまうだけ。
昨夜至ったこの段階から思考は進む術を失っていた。
いや、進む方法はある。鏡花本人に告白の有無から答えまで訊ねることだ。そうすれば英としても覚悟が決まる。
だが、告白といえば人間にとってはもとより、魔物娘にとっては人間のそれに輪をかけた一世一代の重大事である。そのような彼女個人の問題に英が踏み込んでいいものか、おおいに躊躇われた。
ならばと第三者を通して聞き出してもらうという方法も考えたが、それは鏡花に対して失礼にあたる。
こうして膠着状態が心の中で続いていた。
(どうすればいいかな……)
考えすぎで寝不足になった頭はそれでも袋小路の思案を続けて心労を溜めていく。疲れと寝不足で限界に来た体は、登校して自分の席に腰を下ろした瞬間に気絶するように英を促した。
●
肩を掴まれて揺さぶられる感覚。
机に突っ伏して固まった体が解される感触に心地よさに近いものを感じながら、英の意識はゆっくりと浮上していく。
「おい、スグ」
礼慈の声が聞こえる。
珍しいことに大声を出しているなとぼんやり考えていると、更に別の声が耳朶を打った。
「英君! 起きてください!」
「――!」
久しぶりに聞く鏡花の起床を促す声に、英は反射的に机に倒していた上半身を跳ね上げた。
鏡花は心配そうな表情で英を見ていて、その横から礼慈が「やっと起きたか」と呆れたように言う。
「朝っぱらから居眠りか」
「いや、昨日ちょっと眠れなくてさ。でもいきなり大声出さなくても予鈴が鳴ったら起きたのに」
「その予鈴はもうとっくに鳴ってるんだよ」
「え、マジ?」
やり取りを見ていた前の席のクラスメイトが頷いた。
「あと三分で本鈴よ」
「スグ、お前爆睡だったぞ。声かけようと肩揺さぶろうとなかなか起きねえし」
「あの、お体がすぐれないのではありませんか? 英君、朝から様子がおかしいです」
深刻な様子の鏡花に英はそんな大げさな、と肩をすくめる。
「そんなことないよ」
「お弁当をお忘れになっていることに気付いておられますか?」
「あー……」
そういえば、忘れていた気がする。
ありがたく弁当を受け取ると、本鈴が鳴った。
「まあ辛かったら保健室に行っとけよ」
そう言って礼慈が自分の席に戻り、鏡花も後ろ髪引かれるように何度も振り返りながら席についた。
そんな鏡花を見ながら英はまずいなと思う。
睡眠不足が祟って上っ面の仮面が剥がれかかっている。
ひとまず告白の件については何も知らない。そのように振る舞うことを意識付ける事として、朝食から学園までやってきたのだ。まだ数時間も経っていないのにこの様では先が思いやられる。
(気合入れるか……!)
動揺を悟られてはならない。
英は試合に臨む時のような緊張感を自身に課して一日を乗り切ろうと決めた。
●
起きているだけで精一杯だった授業が全て終わり、英は疲労感と授業が頭に入ってこない焦燥にうなだれた。
(あーくそ、後で復習しないとな……)
皆にも英の状態がおかしいことはバレているようで、休み時間は常に一人にしておいてくれた。
部活前に軽い仮眠をとってぼんやりとした意識を目覚めさせる。
既に教室には人影はない。一日中心配そうに英の様子を気にしていた鏡花も部活に行ったようだ。机に彼女の手書きのメモと一緒にコーヒーが置いてある。それを飲みながら間食用の、いつもより量が少なめなサンドイッチを食べ、メモを読む。
『睡眠不足とそれに伴う注意力散漫が見られますので本日は部活をお休みしてください。私はボランティア部に用事がありますのでお先に失礼します』
「的確だなぁ」
英はコーヒーや弁当箱に頭を下げて立ち上がった。
気をつかってもらっている。そのことには感謝しかないのだが、同時に多少なりともボランティア部の方へと向かった鏡花に不満を抱く自分があることを自覚してコーヒーとは別の苦いものを感じた。
鏡花はメモでああ言っているが、このまま家で鏡花が来るのを待っているのは精神的に辛い。
「…………部活行くか」
体を動かせば少しはスッキリするだろう。そうと決まれば急がなければ遅刻になってしまう。英は足早に道場に向かった。
●
部長の面めがけて振るった一撃は難なく受けられてしまった。
切り返しを辛うじて受けた英に部長が肉薄してきた。
互いの面が触れ合うような距離でその奥にある相手を一瞬見据える。
部長が距離を開くように身を退いて、竹刀の切っ先が触れ合う距離で睨み合う。
今の一打。打とうとしたタイミングからほんのわずかだがズレがあった。体の動きが鈍い。
(くっ……)
心中で悪態をついて、英は剣気溢れる相手に割れるような叫びで打ち掛かった。
今の状態を正直に言うならば不調だ。普段ならば準備運動を終えて素振りを始めるころには道場の空気と得物を持つということがスイッチになっていつの間にか集中しているものだが、対人の地稽古に入ったこの段階で思うように体を動かせないというのは明らかにおかしい。まるで意思を体に伝える回路が混線しているかのようだ。
ここ数日は常にそのような状況だったが、今日は特にひどい。今の攻防も、相手がリザードマンやデュラハンのような基礎的な膂力が違うような相手であったら切り返しを受け切ることもできなかっただろう。
これでは付き合ってくれている相手にも申し訳ない。英は鏡花のことはとにかく忘れて目の前のことにだけ集中しろと自分を叱咤する。
(元からそのために体を動かしに来たんだろうが……っ)
次の一撃をどこに見舞おうかと思案する。
中段に構えた部長のどこを攻めても捌かれてしまいそうだ。
どう崩そうかと考える英の前で、部長の竹刀が揺れた。いつでも喉元を食いちぎれると切っ先が言っている。
相手は待ってはくれない。そう判断して、英は強く踏み込み、強烈な一撃を叩き込み――その剣先が払われた。
そこから一切の停滞無く、返しの一打が英の面を強かに打ち据えた。
「――――ッ!」
自分と相手の哮りの余韻が耳の中に反響する。
全身が揺れるような衝撃の余韻の中で、英は部長と向かい合って礼をしようとして、耳の反響が視界を歪めるのを見た。
「あ、おい相島?!」
部長の声が実際より遠くに聞こえる。
英はめまいに耐えきれずに膝をついていた。
部長が慌てて肩を叩く。
「大丈夫か?」
「良い一撃もらってちょっとめまいが……貧血ですかね」
部長は英の面を外して顔を覗き込んでくる。
「あー、血の気が引いてるな」
「面目ないです」
「や、俺も、こいつ今日調子悪いなーと思いながら打ち合ってたから、すまん」
気まずそうに部長は続ける。
「お前、さっき打ち合った時は目だけこっち向いてて意識がこっち向いてない感じしたんだよ。
なんつうの? 数式を見ると数字やらアルファベットやらが書いてあるだろ? でも意味が分からなくて頭の上を滑ってくみたいなアレ。丁度スーレが数学の時によくなってる目になってたぞ」
部長は失敗したなと唸り、
「昨日はまだ個人練習に没頭できてたみたいに見えたから今日はもう地稽古に誘ってもいいだろとか思ったんだけど、急ぎすぎたか……」
そう言って彼はよし、と手を打った。
「なにはともあれ、貧血を治そう」
そして立って両手を広げた。
「……?」
「要するに頭に血を回せばいいんだろ? じゃあ倒立だ。来い!」
先輩の行動は奇行の類だ。従ってはいけないと普段の英ならば判断できた。だが、今の英はめまいの影響で少々頭が混乱していた。
ふらふらと立ち上がって倒立しようとして、部長が彼女に横合いから見事な飛び蹴りを食らわされているのを目の当たりにする。
尻尾の炎の軌跡が消えるのをぼんやりと眺めていた英の耳に起き上がった部長の声が聞こえた。
「スーレ?! 一体何を」
「めまい中のふらふらしてる人間に倒立をさせるな! 腕挫いて怪我するでしょうが!」
尻尾に灯る炎を揺らしながらスーレは仁王立ちだ。部長もスーレの言葉に納得がいったのかなるほどと頷いている。
続いてスーレは竹刀を杖にして立っている英に「とりあえずもう今日は帰りな」と言った。
「大取を呼んであるからあの子を待って……」
「英君!」
道場に飛び込んできた鏡花の焦りを帯びた声に、スーレは「早いな」と呆れたようにこぼした。
こちらを気にしつつも練習を続ける部員たちに遠慮したのか、道場の入り口でそわそわしている鏡花にスーレは入っていいよと手振りで示す。
手早く礼をして入ってきた鏡花は、その場に座って深く呼吸をして自分を落ち着けている英の傍に駆け寄ると、まだ付けたままだった防具を脱がせた。
「ああ、本日はお帰りくださいとお願いしたではありませんか」
「ごめん。どうしても体を動かしたくなってさ」
「あーその気持ち分かる分かる」
「直人は黙って」
彼氏を一睨みしたスーレは鏡花に目を向け、
「じゃあ大取。悪いが相島を連れ帰ってくれ」
「はい」
「いや、でも」
「相島も、無理はするもんじゃない」
「スーレの言う通りだ」
師範が現れた。
彼は鏡花の手によって脱がされた英の防具と竹刀をひょいひょい拾うと、すぐ横に浮いている使い込まれた防具一式に渡した。
まるで人が入っているような配置で宙に浮いている防具は師範の嫁のリビングアーマーだ。
鏡花が頭を下げる動きに合わせて面が会釈するが、人の目にはひとりでに防具が動いているようにしか見えない。
元勇者の鎧であった彼女は、こちらの世界に住むにあたって体を変化させたそうだ。
勇者の伴侶としての魔力を存分に利用して形から材質から何から何まで変化させて完全にこの世界に馴染みきった彼女は、英の防具と竹刀を所定の保管場所に置きに行った。
「心と体が整っていないにもかかわらず技を出そうとするから動きがぎこちなくなる。今のお前は新入部員以下だ」
「すみません」
「別に怒っているわけではない。が、そうだな、その状態が直るまでは部活に出てこない方がいいだろう。次は本当に怪我をしかねん」
師範の優しいが断固とした声に英は頷くしかなかった。
師範は励ますように英の肩を叩く。
「練習試合までに復調してこい」
「はい、すみません。部長も、せっかく相手してくれていたのにすみません」
「サクッと復活してきてくれよ。ほんと、こうなるとスーレにでも相手してもらうしかなくなるからさ」
「部活でも勝負するのか? 私はかまわないぞ」
「お前たちは血気盛んだな」
師範が呆れたように言う。
それに苦笑していると、鏡花が気遣わしげに声をかけてきた。
「英君、あの、そろそろ」
「だな。あまり部活の邪魔しちゃいけない」
周りで心配そうにしている仲間に大丈夫だと示して、英は鏡花に付き添われて道場を出た。
●
出て行く二人を見送りながら、師範は昨日、昔の門下生の航がそれとなく気にかけてくれるようにとお願いしてきたことを思い出していた。
英を指導し始めてもうそろそろ八年になる。
当時から見ていてむず痒い気分になった二人の事情が、この数日で大きく動いたのだろう。
自身が目標に到達するまで告白する気がなさそうだった英にとっては思ってもみなかった事態のはずで、見ていて憐れなほどに動揺している。
辛い時期だろうが、英は自分の意思で向かうべき方向を定めてそれに向かって努力する気概がある。辛かろうとなんだろうと、鏡花に対する態度を間違えることはないだろう。
それに、と彼は内心で微笑む。
その昔は鈍感となじられることの多かった彼でもむず痒く感じられる程度にはあの二人は互いを想い合ってるのに通じないという――そう、ハイカラな言葉で言えば両片思いという奴なのだ。
勇気を出し合えば想いは報われることになるだろう。
(励めよ、勇気あるもの)
彼は自分の鎧が動き出してきた時のことをふと思い出していた。
彼女が初めて動いたのは教団と政治的に対立していた権力者が遣わした暗殺者の手から彼を守る時だった。
それまで、彼女は意識はあっても勇者である彼に魔物と認識されたら捨てられるかもしれないと恐れて動けなかったというが、彼の危機に際して勇気を持って動いた。
それによって彼は自身に向けられた想いに気付けた。きっかけがあって初めて噛み合う歯車もあるのだ。特に、鈍いタイプの人間は。
懐かしい記憶に浸っていると、ヒソヒソ声が聞こえてきた。
見ると、好きな人を落とすために鍛えてくれと直球で入門してきた部長の森直人とその恋人に収まったサラマンダーのスーレが彼を見てひそひそと話している。
「なんだ?」
言うと、二人は目を逸らした。
不可解な行動に首を捻っていると、背後から平坦だが温かみのある妻の声がした。
「あなた、顔、ニヤニヤしてる……フフ、こわぁい」
「……む」
内心で収めていたはずの笑みがどうやら染み出てしまったらしい。
(しかし、怖いか……)
見た目以上に年を取っていてもそう言われるとちょっとショックだ。
口元を手で覆いながら、彼はさて、と口を開いた。
「ちょうど相手も居なくなって手持ち無沙汰だろう。どれほどやれるようになったか見せてもらおうか」
「「え」」
返事を待たずに両手を広げる。
何も言わずとも、背後の妻は応じてくれた。
背中から包まれるような抱擁を受け、手が腹の辺りで結び合わされる。
すると垂と胴が装備された。続いて脇をなで上げられる触感が肩を通って両腕に重なると同時に両小手が素手のように違和感なく手に馴染み、最後に妻の囁きが耳元をくすぐる。
(ああ、私も愛しているとも)
面の中で感じるのは妻の濃い気配と息遣いである。見るものが見たら、彼と彼女が完全に重なっていることが分かるだろう。
手を掲げると妻が魔力で呼び寄せた竹刀が手に飛び込んでくる。
愛する人と重なる高揚を律し、見事な礼をして彼は告げた。
「二対二だ。恋人共々、私に実力を見せてくれ」
●
道場から重低音のような盛り上がりの気配が伝わってくる。
師範が着装したのだろう。
「惜しいものを見逃したなあ」
師範の着装はこの世界に来てから見た特撮の影響か、やたらとスタイリッシュだ。英はそのシーンを毎回楽しんでいたのだが、あいにくと今回は見逃す形になってしまった。
「元気が戻ってきたようでなによりです」
「あー、ごめん。迷惑をかけた」
「滅相もございません。ですが、今後はご無理をしないでくださいませ」
「分かった」
鏡花の声は道場に飛び込んできた時とは違い、力の抜けたものになっていた。一息ついてはもらえたらしい。
(本当に迷惑かけたな……このままじゃまずい。解決に動かなきゃ)
まだ少し部長からの一撃の余韻を感じながら、英は鏡花が持ってくれている自分の荷物を受け取ろうとする。
と、鏡花の手がさりげなく逃げた。
英は手を追おうとして、それだと鏡花の心遣いを無下にすることになると思いとどまった。
「英君、寝不足以外にどこか体調が悪いということはないですか?」
鏡花が下から顔を覗き込むようにしてくる。目は英が嘘をついたらすぐにでも見抜くといわんばかりに真剣そのものだ。
「ないよ」
鏡花はじっと英の顔を覗き込んでくる。あまり見られていると本当の理由にまでたどり着かれてしまいそうだ。
「ほら、前見て歩かないと転ぶよ」
言うと、不承不承といった体で鏡花は顔をひっこめた。
「……英君、ここ最近おかしいです」
普段使わないような、なじるような口調だった。
「……どうにかするから心配ないよ」
応じた言葉が虚しく響くのが自分でも分かる。帰り道はひどく気まずかった。
17/02/06 21:33更新 / コン
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