中編
今の俺様しか知らない奴は想像できないだろうが、十五歳頃までは酷い女嫌いだった。俺の親父は元々王族御用達の調香師だったが、病気で嗅覚が悪くなり廃業。やむを得ず新しい商売を始めようとしたが、母親はゼロからの再出発に付き合う気がなかったらしい。父親とまだ幼い俺を捨て、すでに用意していた浮気相手の元へ去っていった。
女なんてものは所詮、男から搾取することしか考えない生き物。それを香りで飾る仕事などしてたまるか。親父が病気の再発で死んだ後、俺は少しでも女っ気の無い所へ行こうと、軍へ入隊した。武芸は下手だったが、斥候としての優秀さは部隊の誰もが認めてくれたし、悪い選択では無かったと思う。
だが一つだけ、誤算があった。
女から離れるため入った軍隊で、俺は初恋の女性と出会ってしまったのだ……
「……あ、今日親父の命日じゃん」
香水瓶を箱に納め、俺はふとカレンダーを眺めた。今日カナンさんが完成品を受け取りに来るのだが、奇しくも親父が病没した日と重なるとは。病気で衰弱していく親父の姿、死ぬ直前の人間が出す臭い……今まで忘れたことはない。調香師の基礎を俺に叩き込んでくれた親父はいつも、「お前は世界一の調香師になれる」と言っていた。軍隊へ入った物ものの、結局調香師の道に戻って来た俺を、親父は見守ってくれているのだろうか。
カナンさんに渡す“もう一つの品”を、綿を詰めた紙箱に入れる。蓋に『クルペンスの香り工房』の印を押し、準備完了。多分これを渡せば、彼女は怒る。これは本来、戦いとはまるで縁の無い女性が使う物なのだ。しかし俺様はそんな品を女戦士向けに、というよりもカナンさん向けにアレンジして作成した。狂戦士ギュネ族の生き残りに相応しい物、彼女に必要な物を考えた結果、これに行き着いたのである。
当然だが、香水の方も自信はある。とはいえ香水というのはお客様がつけてみなければ真価が分からない。肌の水分量などによって香りが変化するし、お客様の体臭と合わさった香りこそが本当の『完成品』なのだ。
と、玄関のベルが鳴った。研究室までほのかに漂ってくる、甘い女の子のニオイ。俺様の脳みそは完全にこのニオイを記憶しており、もはや一生忘れることができない領域に達している。今ここで死のうものなら、走馬燈の代わりにこのニオイが心の中一杯に広がるだろう。商品を手にし、俺はそのニオイの持ち主の元へ向かった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
案の定仏頂面のカナンさんに、俺は頭を下げた。我ながら完璧なお辞儀だと思う。だがカナンさんは相変わらず不機嫌そうに、大股でカウンターへと歩み寄る。
甘いニオイが間近で鼻をくすぐる。訓練の後だろうか、以前より汗をかいている感じだ。空気中に体香が漂い、店内へ充満していく。このまま彼女を側に置いて、恍惚に浸っていたい。贅沢を言うなら彼女を抱き寄せて、脇の下か胸の谷間に顔面埋めて深呼吸したい。彼女たちリザードマンがよく着ている、あのぴっちりした服の下で渦巻いているニオイを胸一杯に吸い込んでみたい。
だが、やらない。それが良識という物だ。良識さえわきまえていれば、例え変態でも非難される筋合いはない!
「……で、どんな物ができたんだ?」
俺様をここまで魅了していることも知らずに、カナンさんはぶっきらぼうに言った。この不機嫌面もなかなか可愛らしいが、やはり男としては笑顔が見たい。女性を笑顔にすることが、俺の生きる道なのだ。
「こちらでございます」
まず香水の箱をカウンターに置き、開けて見せる。香水瓶は樹木のレリーフが描かれており、そこに金箔を貼った美しい物だ。この町は俺様やオーギュ以外にも腕利きの職人が集まっており、ガラス細工屋もいい仕事をする。中身は俺が魂を込めて作った薄緑色の液体だ。
「どうぞ、お試しください」
「ああ」
使うかどうか分からないと言っていたが、さすがに香りを確かめる気はあるようだ。瓶を手に取り、手首にシュッと一噴きする。彼女の甘い体香に、瑞々しい花の香りが合わさった。森に自生する、野生の草花の香りだ。
彼女は僅かに目を細め、香りを味わう。若干、表情が和らいだように見えた。
「……悪くはないな」
「香水は時間と共に、香りが変化していきます」
まず最初に感じられる揮発性の高い香りがトップノート、それが消えた後に現れる香りがミドルノート。そして香りがほとんど消えた後の『残り香』をラストノートという。複数の香料をブレンドして作るため、揮発性によって香りの出てくる時間が異なるわけだ。変化する時間は香水によって様々だが、この品なら恐らく三十分か四十分ほどでミドルノートが出てくるだろう。そして使用者自身のニオイと混じり合うラストノートが、その人を決定づける香りとなるわけだ。
「トップノートは森の草花、ミドルノート、ラストノートには樹木の爽やかな香りを使っております。ウッディな香りは男性向けの物が多いですが、これは女性らしさも演出できる仕上がりになったはずです」
「ふむ」
カナンさんの目に、多少興味の光が見受けられた。気に入ってくれたらしい。
「一応、付ける際のコツくらいは聞いておこうか」
「はい。ですがその前に、もう一つお渡ししたい品がありまして」
彼女のために用意したサービス品を、カウンターに乗せる。彼女は怪訝そうな顔をした。
箱の中身は一見すると、剣の形を模した小さな香水瓶。中には結晶が入っており、蓋はバネ仕掛けのものである。
「これも香水の類か?」
「これはセル……気付け薬です。俺が勝手に作った物なので、こちらのお代は結構です」
「薬? 飲むのか?」
カナンさんはこれを知らなかったようだ。確かに魔物には縁の薄い代物だろう。俺は軽く説明した。
国や時代によって異なるが、人間の貴婦人というのは『か弱い』ことも美徳の一つとされることがある。またウェストを細く見せるため、コルセットでガチガチに胴回りを締めていたりもする。そのため貧血になりやすく、ちょっと驚いただけで気を失ってしまう貴婦人も多いのだ。そのような際、刺激的な香りで正気を取り戻すのが手っ取り早い。
「……そこでセルを持ち歩き、何かクラッときたらこれを嗅いで頭をすっきりさせるんです」
「そんな軟弱な物を私に? 見くびるな」
和らいだカナンさんの表情に、露骨な不機嫌さが表れた。予想していた通りの反応だ。ここでしっかりと説明しないと。
「しかし今回お作りしたのは、か弱い貴婦人の物ではありません。戦う女性のため、カナンさんのためにお作りしました」
箱から瓶を取り出し、カナンさんに差し出す。視線は彼女から逸らさない。汗と香水の香りがふわりと漂った。
「どうぞ、お試しください」
一秒ほど見つめ合う。カナンさんは俺の真剣な態度に、少し興味を持ってくれたようだ。セルの瓶を手に取り、柄と鍔を象った蓋を開ける。綺麗な鼻を近づけ、ニオイを嗅ぎ……うっと声を漏らした。中に入っている結晶は酢酸塩で、かなりツンとした香りがするのだ。
だが勿論、その香りだけではない。
「……酢の臭いに、何か混ざっている。ミントのような……」
「ギロデの森から取り寄せたミントです」
俺の言葉に、カナンは目を見開いた。
北にあるギロデの森のミントは特に香りが良いため、以前仕入れて栽培していた物だ。そしてカナンさんと出会った後、ギロデの森がギュネ族発祥の地であると知ったのである。文献によると古代のギュネ族は戦の後、そのミントで体を清めていたという。
「迷いも悩みも振り払い、前へ進む。そんな勇気を持てる香りを目指しました」
「勇気……」
小さく呟き、カナンさんは再びセルを嗅いだ。身を閉ざし、ゆっくり息を吐き出す。今までで一番、彼女の表情が安らいでいた。それでいて砕けた印象は無く、凛々しい女戦士のオーラをしっかり身に纏っている。
瓶の蓋をパチンと閉め、カナンさんは俺の方を見た。不機嫌さの消えたすっきりとした表情であり、心なしか彼女の体香までもが、より純粋なニオイになった気がする。綺麗な瞳にじっと見つめられ、胸が高鳴ってきた。
「ヒューイー・クルペンス。何故私のため、ここまでしてくれるのだ?」
澄んだ声が尋ねてくる。トゲの無くなった、優しく爽やかな女性のニオイが鼻をたのしませた。
俺が調香師の仕事に命をかけるのには、いくつも理由がある。だが今回、最たる理由は一つだった。
「いい女には、常に輝いていて欲しい。それだけです」
ちょっと格好つけすぎたか。自分で言って少し恥ずかしくなる。だがカナンさんは俺の言葉を、笑いも蔑みもしなかった。
「私はそんな……」
その時。唐突に玄関の鈴が鳴り、俺と彼女はハッと振り向いた。ゆっくりとドアが開き、来客者が姿を見せたその瞬間、俺の心臓が大きく脈打った。
鼻に感じたのは高貴なニオイだった。優雅で、それでいて芯のしっかりとした、誇り高き王侯貴族のニオイだ。その発生源でさらりと白髪が揺れ、赤い瞳が輝いている。湾曲した角、蝙蝠のそれと同じ皮膜の張られた翼、細長い尾。胸元の大きく開けた服に、下半身はミニスカートとニーソックスという、男を挑発するサキュバスらしい出で立ちだ。悪魔でありながら神秘的とも言える美しさと、禍々しさの同居した佇まいである。道を歩けば、十人中十人は振り向くであろうという美女。俺は直感で察した。この女は……
「あれ、カナンじゃない。久しぶり」
「れ、レミィナ殿下!?」
カナンさんが驚愕の表情を浮かべ、直後にぴしりと姿勢を正した。いかにも軍人らしい、凛とした姿になる。だがその表情には未だ緊張が走っており、この突然の来訪者に相当驚いているようだ。
「お久しぶりであります!」
「そんな堅くならなくていいのに。もう貴女はわたしの親衛隊員じゃないのよ?」
レミィナと呼ばれたサキュバス……いや、リリムは微笑みながら、カナンさんの側に屈む。顔をカナンさんの手に近づけるのを見て、香水のニオイを確かめているのだと分かった。
鼻を数回ひくつかせ、魔界の王女は感心したような声を出した。
「森のいい香り……カナンにぴったりね。元々いいニオイするのが、更に引き立つっていうか」
「あ、ありがとうございます」
カナンさんが照れくさそうに頬を赤らめた。先ほどまでとは打って変わり、抱き締めて撫でてみたくなるいじらしい表情。彼女はどこまで俺様を虜にするつもりなんだ。しかも気づいていないのが憎らしい。今店内には美女二人の体香が満ち、まるで桃源郷のような空気を作り出している。だがそれでも、俺の鼻が最も感知するのはカナンさんのニオイなのだ。
「で、では……私はこれにて!」
セルと香水を手にし、まるで逃げるように玄関から出て行くカナンさん。引き留める間もなく、そもそもお客が帰るのは自由だから引き留める権利など無い。だが彼女が去り際に、ちらりと俺を振り返ってくれたのが嬉しかった。
かくして、店内には俺とレミィナ姫だけが残った。
「あらら、恥ずかしがっちゃって」
苦笑して、彼女は俺に手を差し出す。白く、綺麗な指をしていた。赤い瞳が俺を見て、穏やかに微笑んでいる。
「わたしはレミィナ。よろしくね」
「調香師のヒューイー・クルペンスです。お噂は伺っております」
手を握ってみると、華奢な見た目の割にしっかりとしている。苦労知らずの令嬢ではないようだ。だがそれでいて、女らしい柔らかさと優美さを兼ね備えている。高貴な体香や身に纏っている不思議な雰囲気と相まって、男を虜にする要素を数え切れないほど持っていた。赤い瞳をじっと見つめていると正気が保てなくなりそうだ。これが、リリム……魔王の娘なのか。
「カナンちゃんの香水、最高のコーディネートだと思う。あの子本来のニオイと上手く組み合わさってた」
「お褒めにあずかり恐縮です」
……“風来姫”の号を持つリリム、レミィナ姫。号の通り世界中を風のように渡り歩き、両親である魔王夫妻や姉妹の元にも滅多に顔を出さないという。行く先々で何か事件があれば、時には打算があって、時にはふざけ半分で首を突っ込む。だが彼女が出てくると、どんな揉め事でも不思議と片付いてしまうそうだ。また優れた職人芸を非常に好んでおり、領主がこの町に職人を集めているのもかつて彼女に仕えていたためらしい。
「香水瓶と一緒に持ってたのって、気付け薬よね? 彼女の注文?」
「いえ、俺が勝手にお作りしたサービス品です。差し出がましいとは思いましたが、彼女に必要な物かと」
俺の言葉に、レミィナ姫は腕を組んで唸った。何かを考えているようで、赤い瞳が宙を泳ぎ、やがて俺の方を向く。
「……確かに。彼女に必要なのは迷いを吹き飛ばして、正気に戻す香りか……ヒューイーさん、凄いよ」
「!」
また、心臓が跳ねた。無性に気分が高揚する。嬉しい。カナンさんが香水を気に入ってくれたのとは違う、職人としての喜びだ。
目の前にいるリリムが、俺の祖国を魔界にした女の妹が、俺を凄いと言ったのだ。
だが胸の高鳴りを抑え、調香師としての仕事に専念せねばならない。しかし注文を聞く前に、彼女は俺にとって猛烈に興味のある話題を持ち出してきた。
「カナンちゃんは少し前まで、私の親衛隊にいたの。まあ、リライアがこの町を作るために集めた人員だったけど」
領主がレミィナ姫の親衛隊長を務めていたことは知っていた。カナンさんはその頃から領主の部下だったのか。
「リライアが腕と人柄を見込んでスカウトしたの。その頃から、悩んでいる感じはあったのよね」
「と、言いますと?」
「ギュネ族の生き残りっていう出自のせいで、気負いすぎているのよ」
レミィナ姫はカナンさんの過去を淡々と語っていく。口の軽そうな女性には見えなかったのだが、躊躇うことなく元部下の内面を暴露していった。そんな態度に何となく違和感を感じはしたが、俺は彼女の語るカナンさんの話に聞き入ってしまった。
姫が言うにはカナンさんは優秀な戦士だったが、実戦経験はそれほど多くなかった。親衛隊には歴戦の猛者もいたため、彼らに劣等感を感じている節があったという。加えて自分がギュネ族の誇りを背負う存在だという責任感から、戦闘の際も無茶な行動をするようになったらしい。現在領主が彼女に身辺警護をさせているのは、単に気心知れた相手というだけではない。教団との睨み合いが続いている現状で、彼女を前線に出せば先走り過ぎる可能性があったのだ。
当然、領主もレミィナ姫も彼女に焦りすぎないよう諭した。カナンさんも自分が無理をしていることを頭では分かっていたのだろう。しかしその強すぎる誇りのせいで、彼女の悩みは膨らむ一方だったのだ。
話をしつつ、姫はサンプルの香水を手に付け、匂いを嗅いだ。柑橘系の、爽やかな香りのする物である。
「ユズにスダチ……ジパングの柑橘類は独特の香りがするわね」
「よくご存じですね」
「んふふっ、あっちこっち旅してるからね」
ふいに彼女は懐に手を入れ、懐中時計を取り出した。白い掌に黒い時計がよく映えている。蓋を開けて時間を確認しつつ、レミィナ姫は再び口を開いた。
「貴方にカナンちゃんの話をしたのはね、あの子と貴方の時間が絡み合うのを見てみたいから」
「時間?」
今ひとつ言っている意味が分からない俺を見て、姫はクスリと笑った。
「カナンちゃん、貴方のことが気になってるみたいよ?」
「な!?」
脳みそに電流が走ったような気がした。カナンさんが俺のことを? 少し前まではむしろ軽蔑されていたのに?
だが待て。セルを嗅いだとき、彼女の態度から、体香から、俺へのトゲトゲした雰囲気が完全に消えていた気がする。とは言えそれはあくまでも香りの効果であり、俺に特別な感情を抱いていたわけじゃないだろう。だがもしかしたらあのセルがきっかけで、俺に好意を持つようになったのかも……?
思案する俺を面白がるように、姫はまたもや笑った。
「んふふっ。貴方もカナンちゃんにかなり惚れ込んでるみたいじゃない。確かにあの子は良いニオイするからねー」
「な、な、な!?」
俺の心まで見透かしているのか、この姫君は!? いや確かに、カナンさんへの好意を隠していたつもりはない。それにしても初対面でそこまで感情を見抜けるのか。これも魔王の娘の力なのか?
「別に、私がリリムだから分かるわけじゃないよ?」
またしても俺の考えを読み、彼女は言った。
「男の子には女の子の考えてることは分からないけど、女は男の考えてることが大体分かっちゃうのよ」
「……貴女のお母上が世界を制したら、その不条理も変わるんでしょうか?」
「そりゃ無理ね」
魔王でもできないことくらいはあるよ……レミィナ姫は苦笑しながらそう付け加えた。そう言われるとむしろ安心できる面もある。俺様は試行錯誤を繰り返し、悩み悩んで同時にそれを楽しんだ末に香水を完成させる。だから何でもできてしまう存在に、世界を支配されてはつまらないのだ。何事も、多少不完全なくらいの方が面白い。その意味では今の混沌とした世界も結構好きだ。
俺のそんな考えまで分かっているのかいないのか、姫は時計を懐に納めて微笑む。
「貴方たちの時間が混ざり合ったら、どんなニオイが立つのか……それを確かめてから、改めてわたしの香水を注文しよっかな」
「……分かりました」
俺はしっかりと応えた。そう、迷うことは無いんだ。俺はカナンさんが好きだし、自分の仕事に誇りを持っている。目の前にいる魔物の姫やその姉君のように、人を幸せにする立場でいられるはずだ。
「その両方とも、必ずや満足していただける香りにしてみせますよ」
「うん、楽しみにしてる」
………
……
…
夜。
器具の洗浄などを終え、晩飯をどうするか考える。家にはあまり食材がないし、外食にしようか。シチュー屋もいいし、最近港の方にできたジパング料理屋まで足を伸ばしてみようか。オーギュは今頃嫁さんの手料理を味わっているんだろうな。いやはや、羨ましいぜ。
すでに領主から香水の代金が届いているから、懐は温かい。少し高い物でも食べるか。
そう思って外出用のコートに手を掛けたとき。ふいに、玄関の鈴が鳴った。この時間に店を尋ねてくる人なんていないはず……しかし、漂ってきたニオイで誰かは一発で分かった。
大急ぎで店へ出てみると、予想通り彼女がそこにいた。
「これはカナンさん、どうなさいましたか?」
カナンさんは片手に袋を提げ、何処かもじもじした様子で立っていた。漂ってくる体香の中に、森の香りが含まれている。昼間渡した香水をもう使ってくれているようだ。使うかどうか分からないと言われただけに、これは嬉しい。
「その……気付け薬の礼を、と思ってな」
頬を赤らめながら言うカナンさん。まさか袋の中身は俺へのプレゼントか? いや、そうだとしても職人として、代金以外の報酬は受け取れない。
「あれは俺がサービスでお作りした物ですので、お気遣いは……」
「お前、夕食はまだか?」
俺の言葉を遮り、彼女は尋ねてきた。そのとき俺は彼女の持つ袋の中から、魚や野菜のニオイが漂ってくることに気づく。
これは……まさか。まさかのまさかで、あの男のロマンの一つがここに具現化されるのか?
「……まだです」
心臓の鼓動が高まる。カナンさんは俺の返答を聞いて、安心したように息を吐いた。
そしてその可愛い唇から、とてつもなく甘美な言葉が発せられる。
「私が料理を作ってやる」
……来た。
来た。
来たぞ。
手料理キタコレ! 男のロマンキタコレ!
「こう見えて料理には自身がある。……迷惑か?」
「いやいやいやいや、嬉しいです! カナンさんの手料理なんて今生の思い出になります!」
接客モードが解除され、半ば本音をさらけ出してしまう。そんな俺にカナンさんは若干引いたようだが、微かに笑みを浮かべてくれた。
初めて見る、彼女の笑顔。オーギュの笑顔同様、注意しなければ見逃してしまいそうな微笑である。しかしそれは俺が今まで見てきた、どんな笑顔よりも美しかった。そこには嘘が無いのだ。それが魔物の女の美しさなのかもしれない。
ふと、初恋の人のことを思い出す。彼女は自分自身に嘘を吐き、騙した気になっていた。いや、今となっては祖国にあった物の殆どが、嘘まみれだった気がする。
「では台所を借りるぞ。食材は持ってきたからな」
「はい、どうぞこちらへ!」
だから俺は、嘘は吐かない。特に自分には。目の前にいる好きな女性からの好意を、真正面から受け取ってやる。
俺は喜び勇んで、カナンさんを台所へ案内した。
12/02/25 22:54更新 / 空き缶号
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