余話
馬車馬に蹴られ、顔面に痣を負ったのが四歳の頃だった。飛びだした眼球は辛うじて顔に収まったが、痣は消えることなく、俺の顔を醜い物へと変えた。それまで一緒に遊んでいた友達も、幼い俺の仕立ての才を褒めていた大人たちも、掌を返したように蔑んできた。
近所の菓子屋で誰かが万引きしたときも、最初に疑われたのは俺だった。外を出歩いただけで、意味の分からない難癖をつけられたこともある。そうしているうちに、俺は人の顔色を窺う癖がついてしまったのだ。するとどうだろう、顔で笑っている奴らが、本心ではどす黒い感情を渦巻かせているのが目に見えてくるではないか。
だから笑顔も言葉も、信用できなくなった。
そんなある日……十一、二歳頃のことだったか。いつものように他の子供たちに殴られ、蹴られを繰り返されていた時。
やめなさい、という力強くも美しい声が聞こえた。そこにいたのは薄青色の髪と目をした、明らかに貴族の身なりの少女。当時の私は貴族というと、我々を下民として蔑む憎き相手でもあったし、家業でもある服飾の技術を育ててきた者たちという憧れもあった。
その少女が他の貴族の子供たちと違ったのは、連れていた使用人の少年と二人で私を助けてくれたことだ。あの時の彼女の笑顔は、私が祖国にいた頃に見た、唯一の嘘のない笑顔だった気がする。
それ以来、彼女を見かけることはあっても、言葉を交わすことはなかった。だがあの笑顔は灯のように、俺の心の希望であり続けた。だから俺は長く辛い仕立ての修行にも、周囲からの蔑みにも耐えてきた。
彼女の笑顔が、嘘に変わるまでは。
彼女は魔を打ち滅ぼし、人々を救う勇者となるべく、剣を取った。そして大人たちは、彼女の無垢な正義感を徹底的に利用し、国の名を喧伝する聖像へと祭り上げられていった。仲の良さそうだった使用人の少年も、彼女の父親により解雇されたという。大切な物を奪われ、欲しくも無い物を押し付けられ、それでも彼女は勇者として微笑みを浮かべていた。そして国の誰もが、彼女こそが世界を救ってくれると信じていた。
だが、俺にはその笑顔の裏側が見えてしまった。泣きたくても堂々と泣けず、勇者という看板に磔にされている苦しみが、俺の目には見えてしまったのだ。
たった一つの真実と信じていた彼女が嘘に変わった時、俺は心の底から祖国を見限った。人々の希望と光の砦などと嘯いても、その華やかな表通りの裏では身分の差に苦しむ者が多くいた。否、身分など関係ない。あの国に暮らしていた若者たちは、貴きも卑しきも、国を構成する単なる部品にされていたのである。
俺は反対する両親を殴って国を出た。
しかしその僅か一月後、祖国はあっけなく魔物によって堕とされ、魔界国家へと変貌したのだ。国を守る勇者だったはずの彼女も、あっという間にその坩堝に呑まれ……美しき魔物に生まれ変わったという。
‐‐人々に不幸が降りかかるなら、私が盾となりましょう。邪悪な者達が牙を剥くなら、私が剣となりましょう。だから、決して希望を捨てないでください! 必ずや人々を魔王の呪縛より解き放ち、魔に侵されつつあるこの世界を救います!‐‐
……あの言葉の裏に、どれだけの負の感情が渦巻いていたのか。彼女の周りにいた大人の誰かがそれに気付き、彼女にわがままの言い方を教えていれば、祖国の運命も少しは変わったかもしれない。
いや、俺にも彼女を救うことはできなかった以上、何も言う資格はない。
俺に残っていた道は、自分の技術にしがみつくことだけだった。反魔物領でも親魔物領でも、技術を得るため片端から巡り歩いた。技術の成長と、お客の満足を実感する喜びを感じる度に、ますます満足できなくなった。
そんな生活を数年送った時。偶然出会ったこのルージュ・シティ領主の誘いによって、この町に店を構えるに至ったのである。町には俺と同じ『教国人崩れ』も何人かおり、皆譲れないもののため、魔界化した祖国へ戻るのを拒んでいた。
この町でなら、技術以外に真実を見つけられる気がする……そう思った。
そして今、それを手にして分かったことは一つ。
俺に夢中になり、尽くしてくれる女への愛おしさ。
それを泣かせてしまったときの、押しつぶされそうな罪悪感。
俺はつくづく不器用だ。だが、今後は紺を泣かさないと誓おう。
自分の魂に。そして、魔界となった祖国で幸せに暮らしているという、あの少女に。
だが今俺が考えるべきなのは、
自分用の婚礼衣装を作ることだった。
近所の菓子屋で誰かが万引きしたときも、最初に疑われたのは俺だった。外を出歩いただけで、意味の分からない難癖をつけられたこともある。そうしているうちに、俺は人の顔色を窺う癖がついてしまったのだ。するとどうだろう、顔で笑っている奴らが、本心ではどす黒い感情を渦巻かせているのが目に見えてくるではないか。
だから笑顔も言葉も、信用できなくなった。
そんなある日……十一、二歳頃のことだったか。いつものように他の子供たちに殴られ、蹴られを繰り返されていた時。
やめなさい、という力強くも美しい声が聞こえた。そこにいたのは薄青色の髪と目をした、明らかに貴族の身なりの少女。当時の私は貴族というと、我々を下民として蔑む憎き相手でもあったし、家業でもある服飾の技術を育ててきた者たちという憧れもあった。
その少女が他の貴族の子供たちと違ったのは、連れていた使用人の少年と二人で私を助けてくれたことだ。あの時の彼女の笑顔は、私が祖国にいた頃に見た、唯一の嘘のない笑顔だった気がする。
それ以来、彼女を見かけることはあっても、言葉を交わすことはなかった。だがあの笑顔は灯のように、俺の心の希望であり続けた。だから俺は長く辛い仕立ての修行にも、周囲からの蔑みにも耐えてきた。
彼女の笑顔が、嘘に変わるまでは。
彼女は魔を打ち滅ぼし、人々を救う勇者となるべく、剣を取った。そして大人たちは、彼女の無垢な正義感を徹底的に利用し、国の名を喧伝する聖像へと祭り上げられていった。仲の良さそうだった使用人の少年も、彼女の父親により解雇されたという。大切な物を奪われ、欲しくも無い物を押し付けられ、それでも彼女は勇者として微笑みを浮かべていた。そして国の誰もが、彼女こそが世界を救ってくれると信じていた。
だが、俺にはその笑顔の裏側が見えてしまった。泣きたくても堂々と泣けず、勇者という看板に磔にされている苦しみが、俺の目には見えてしまったのだ。
たった一つの真実と信じていた彼女が嘘に変わった時、俺は心の底から祖国を見限った。人々の希望と光の砦などと嘯いても、その華やかな表通りの裏では身分の差に苦しむ者が多くいた。否、身分など関係ない。あの国に暮らしていた若者たちは、貴きも卑しきも、国を構成する単なる部品にされていたのである。
俺は反対する両親を殴って国を出た。
しかしその僅か一月後、祖国はあっけなく魔物によって堕とされ、魔界国家へと変貌したのだ。国を守る勇者だったはずの彼女も、あっという間にその坩堝に呑まれ……美しき魔物に生まれ変わったという。
‐‐人々に不幸が降りかかるなら、私が盾となりましょう。邪悪な者達が牙を剥くなら、私が剣となりましょう。だから、決して希望を捨てないでください! 必ずや人々を魔王の呪縛より解き放ち、魔に侵されつつあるこの世界を救います!‐‐
……あの言葉の裏に、どれだけの負の感情が渦巻いていたのか。彼女の周りにいた大人の誰かがそれに気付き、彼女にわがままの言い方を教えていれば、祖国の運命も少しは変わったかもしれない。
いや、俺にも彼女を救うことはできなかった以上、何も言う資格はない。
俺に残っていた道は、自分の技術にしがみつくことだけだった。反魔物領でも親魔物領でも、技術を得るため片端から巡り歩いた。技術の成長と、お客の満足を実感する喜びを感じる度に、ますます満足できなくなった。
そんな生活を数年送った時。偶然出会ったこのルージュ・シティ領主の誘いによって、この町に店を構えるに至ったのである。町には俺と同じ『教国人崩れ』も何人かおり、皆譲れないもののため、魔界化した祖国へ戻るのを拒んでいた。
この町でなら、技術以外に真実を見つけられる気がする……そう思った。
そして今、それを手にして分かったことは一つ。
俺に夢中になり、尽くしてくれる女への愛おしさ。
それを泣かせてしまったときの、押しつぶされそうな罪悪感。
俺はつくづく不器用だ。だが、今後は紺を泣かさないと誓おう。
自分の魂に。そして、魔界となった祖国で幸せに暮らしているという、あの少女に。
だが今俺が考えるべきなのは、
自分用の婚礼衣装を作ることだった。
11/10/05 23:12更新 / 空き缶号
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