中編
「夏はみんみん、蝉の声。冬はしんしん、雪景色」
鍋の中でお味噌汁をかき混ぜ、具と汁の割合を考慮してお椀に注いだ。この町では最近日の国の食材も輸入されるようになったようで、朝食の材料も揃えられる。ただし食器は、オーギュさんの使っているスープ皿だ。ネギと豆腐がたっぷり入った味噌汁は湯気を立て、朝の涼しい空気の中に香りが漂って行く。
「たとえ体を裂かれても、狩戸の狐は嘘言うな、っと。ほら、おつゆもできたでー」
二人分を盛り付け、すでに着席しているオーギュさんの前と、自分の席にそれぞれ置く。白いご飯に焼き魚、出汁巻き卵、そしてお味噌汁。
押しかけ女房を始めてから一週間。毎朝彼に食事を作っているが、内容は祖国の料理ばかり。それしか作れないからだが、オーギュさんは意外にも気に入ってくれた。曰く「ジパングの料理は胃に優しいから好きだ」とのことだ。徹夜仕事も平気で行うオーギュさんには、確かに日の国のあっさりとした料理が合っているだろう。お味噌の栄養で力も付く。しかしそれ以前に、自分の身を顧みないような仕事の仕方を何とかして欲しいが。
私が椅子に座るのをじっと待つ彼の目線は、皿の空白の部分に向いていた。指先がテーブルクロスの上で何かを描くように動いていることから、何か服作りのことを考えているのだろう。片時も仕事のことが頭から離れない、生粋の職人。だからこそ二十三という若さで、一流と評される腕前を手にできたのだ。そんな歪みない所も、私を惹きつけて止まない。
私が座ると、オーギュさんもはっと顔を上げ、目を閉じて合掌した。
「日々の恵みに、感謝します……」
小声で唱えるオーギュさんに合わせ、私も合掌する。このルージュ・シティには反魔物国家出身者も多く、教団の伝統的な習慣を続けている者もいる。「我々は教団に騙されていた!」と言って、掌を返したように教団を批判するのは嫌だという人や、他者に迷惑をかけないのであれば批判される筋合いはない、という人たちである。そんな人間たちもこの町は受け入れているし、無理矢理他の信仰を押し付ける者もいない。町の教会でさえ、特に信仰に拘っていないくらいだ。
短いお祈りを止め、匙を手に取ったオーギュさんはお味噌汁に手をつける。汁物から口をつけるのが正しい作法だと言ったら、律儀にそれを実施しているわけだ。
「美味しい?」
「ああ」
続いて出汁巻き卵を口に放り込み、咀嚼した。あまり笑顔を見せない上に、鋭い目つきと顔の痣のせいで終始恐い顔に見える。私たち妖怪は顔の美醜などほとんど気にしないが、恐いものは恐い。しかしこれも一週間押しかけ女房をしていて分かったことだが、彼は嘘の笑顔が嫌いなだけなのだ。実際、仕立てた服をお客に納品し、喜んでもらえたときには笑みを浮かべていた。もっともそれでも決して満足せず、より素晴らしい仕事をしようとする。逆に不満があればはっきりと態度に出る人なので、料理も不味ければ不味いとはっきり言うはずだ。
今のオーギュさんは次々に料理を平らげていく。
「オーギュはん。そろそろウチのこと、好きになってきたんとちゃう?」
豆腐をつるりと飲み込み、訊いてみた。料理の評判は上々で、仕事の後に指圧をしたり鍼を打ったりすると、体が軽くなったと感心してくれる。今では指圧をしてくれと自分から頼んでくれるほどだ。仕事中以外はあまり邪見にされないし、ふざけて尻尾をじゃれつかせてみると、手で毛並みと感触を楽しんでくれる。そしてそのまま私が誘惑し、交わりに及ぶこともあった。少なくとも、もう嫌われてはいないのではないか……そう思ったのだ。
彼は白米を掻き込み、飲み下すと、私を見て口を開いた。
「……セックスの度に漏らすのはなんとかならんのか?」
「うっ。そ、そないなこと言うても、気持ち良すぎて……」
そうなのだ。私たちの交わりはまず私が誘い、オーギュさんがそれに乗ってくるところから始まる。最初は私が尻尾や口、胸を使って彼に奉仕し、その後に彼の素敵な肉棒が私の膣奥を犯し尽くす。そして絶頂を迎えた私は体から力が抜け、失禁してしまう。もちろん、好きで漏らしているわけではない。単なる刺激による快感と、『対稲荷用』の極上の精の味、そして彼の鬼気迫る表情が、私の忍耐力をたやすく削ぎ落としてしまうのだ。
服を仕立てるときといい、交わりのときといい、普段から鋭い目付がさらに鋭くなるのだ。『睨み殺す』という行為を実演できそうな迫力がある。
だがそのときの気と精の流れは実に整って美しい。単にハサミの妖力によって精が変質しただけではなく、オーギュさんの歪みない心の姿が表れているのだ。
「あ、でもオーギュはん、妖怪が嫌い言うわけやないんやろ?」
「……嫌いなら、こんな魔物だらけの町に住むか」
眼鏡のずれを直し、オーギュさんはゆっくりと応えた。不思議と、レンズの向こうの目が切なそうに見える。何か、過ぎ去った過去を思い出しているかのようだった。
このルージュ・シティは吸血鬼の領主によって建てられ、人と妖怪が力を合わせて発展することを目的としている。そしてこの町の住人は何らかの理由で故郷を離れ、新天地で自分の力を試してみようという若者か、教団の迫害から逃れて安住の地を求めてきた者が多い。オーギュさんは恐らく前者だが、それでも『ワケ有り』には違いないだろう。脇目も振らず、技術のみに生きる彼でも、過去の辛いことを思い出してしまうことがあるのかもしれない。
「……昔、な」
意外にも、オーギュさんの方から口を開いた。先ほどずれを直したばかりの眼鏡をはずし、ハンカチで拭き始める。眼鏡が無くても、鋭い目つきは変わらない。しかし何故か、切なそうな色が強く見えた。
「俺の祖国に、聞きたくもない命令を聞かされ、それでも笑っていなければならない少女がいた」
「笑っていなければならない……?」
「彼女は聖像だった」
聖像。その言葉にどのような意味があるのか、よく分からない。しかしオーギュさんの口ぶりから、皮肉としての表現だというのは感じ取れる。
そのまま数秒、オーギュさんは無言で眼鏡の手入れを続ける。仕立屋は仕事柄近眼になることが多いようで、しかもオーギュさんは幼いころから針糸を握ってきたため、常に眼鏡は手放せないらしい。鍼を打てば少し良くなるかもしれないが、そうしたら眼鏡を変えなければならないという理由から打たせてくれない。それだけ今使っているものが気に入っているのだろうが、今の手入れは少しわざとらしい。まるで、手を動かさなくては気が済まないかのようだ。
「……魔物は嘘の笑顔をしない。欲望に忠実だ」
眼鏡をかけなおし、最後に一つ残った出汁巻き卵を口に放り込む。それをゆっくりと飲み下すと、オーギュさんは私を真っすぐに見た。その目から切なさは消え、いつものように有無を言わさぬ気迫が戻っている。
「……今日からしばらく、来ないでくれ」
「えっ?」
「重要な仕事にかかる。それが終わるまで来るな」
突然の言葉に驚く私に、オーギュさんは一層の気迫を込めて続ける。
彼は仕事中もくだらない用事で話しかけたりしなければ、私が工房にいることを許してくれていた。それがはっきり「来るな」と言い切るとは、それほどまでに重大な注文なのだろうか。
‐‐全く会えんのは寂しい……けど。
未来の妻を目指す身として、彼の仕事の邪魔はできない。そこまで入魂して仕事にかかるというなら、例え距離を置かれても見守ってあげたい。なら、待つしかないだろう。
「ええよ。せやけど、無理はせんといて? 体に気をつけるんやで?」
そう応えると、オーギュさんの威圧感が少し薄れた。どこか安心したような気配を感じる。
「……ああ」
ほんの少しだけ、オーギュさんが笑ったように見えた。
… … …
「津液の減少は、肌や髪の乾燥、更に声や関節の異常に繋がるんや。それに、津液が体内で停滞してまうと……」
小さな教会で、東方医学の講釈をする。飾り気のない礼拝堂で、尼僧のローパーや他の町民たちが私の話を聞いていた。私の言葉を熱心に書き取る者もいれば、茶菓子を食べるのに忙しい者もいる。威厳のある学会などより、このようなのびのびとした場の方が私は好きだ。このようにして東方医学を伝えることが私の本来の仕事であり、目的なのである。霧の大陸と呼ばれる地方から伝来した基本概念と、日の国で独自に発達した指圧などの技術を解説し、時に実演もする。
オーギュさんにしばらく来るなと言われ、もう五日経つ。だが紳士服をお客の体に合わせ、一から仕立てるには少なすぎる時間だ。まだ当分会えないだろう。彼のことを考えるたび、切なくなって、股の辺りが疼きだす。彼の鋭い目を、顔を覆う痣を、ハサミを握る手を、そしてあの精のニオイを思い出すと、今すぐ会いたいという思いに駆られそうになる。しかし約束を破っては彼に嫌われ、近づくことすら許してもらえなくなりそうだ。今は本業に専念することで、我慢するしかない。
「次回は五臓六腑のお話や。東方医学では肝・心・脾・肺・腎をそれぞれ木・火・土・金・水に例えるんやけど、どういう意味かは次回のお楽しみや。ほな、お疲れ様」
私が礼をすると、聴衆も揃って礼をして、ばらばらと席を立ち始める。何人かが私の元へ質問や相談に来て、それにアドバイスをしていった。だがその間も、心の中のもやもやした感じは無くならない。私が妖怪だからか単に未熟者だからか分からないが、オーギュさんほど仕事の鬼にはなれないのだ。
その後、尼僧(西方ではシスターという呼び方をするが)からのお茶のお誘いを丁重に断り、帰路に着いた。しかし教会はオーギュさんの工房がある職人通りに近いため、ついついそちらへと足を延ばしてしまう。
ガラス細工屋、金物屋などが軒を連ねる中を歩いていくと、『リベルテ紳士服工房』の看板が見えてきた。扉には臨時休業の札が提げられており、彼の精も感じられない。買い物にでも行っているのだろうか。
足を止め、看板をじっと眺める。私が押しかけ女房としてオーギュさんの元へ出入りしていることは、すぐ近隣の住民たちの間で噂になった。「呪いの道具のせいであの難物に惚れるなんて、貴女も因果なものね」などと言う人もいれば、「あいつも悪い奴じゃないんだ。頑張りな」と言ってくれる人もいた。そんな言葉にますます張り切り、一週間彼に尽くしてみた結果、彼も少しだけ私を求めてくれたように思えた。
だが、結局は何も進展など……。
「おっ、狐の先生じゃないか」
ふいに後ろから声をかけられ、私の悶々とした思考は中断された。振り向くと、そこにいたのは顔中を包帯で覆った男、そして青い髪と翼を持った鳥人の少女だ。男の方は白いシャツを着て、楽器入れと鞄を手にしており、一目で音楽家だと分かる。
「あらエーリッヒはん。そんな、先生だなんて」
「いや、あんたの灸のおかげで体調が良くなった。立派な先生だろう」
男は包帯に隠れた顔から、優しげな声を発する。鳥人の方も笑顔でコクコクと頷くが、ちらりと喉に見える深い傷跡が痛々しい。
彼ら……ギター弾きのエーリッヒさんと、踊り子のリウレナさんはこの町で人気の二人組だ。リウレナさんはセイレーンと呼ばれる鳥人で、本来は人を虜にする魔性の歌声を持つ。しかし彼女は主神教団によって喉を切り裂かれ、まともな声を出せないのだ。それでもエーリッヒさんとの出会いをきっかけに、踊り子として音楽の世界に戻ることができたのである。私も彼女の踊りを見たことがあるが、まるでギターのリズムに操られているかのように繊細で優雅、時に激しい動きは感動物だった。
しかし最近、エーリッヒさんの方が体調を崩したというので、私が診察し、鍼灸で治療したのだ。それがきっかけで、二人はこの町でも特に仲の良い友人である。
「しかしあんたの医術も凄いが、オーギュの作ったこのシャツも凄い」
親指で自分の着ているシャツを指さし、エーリッヒさんは言う。私がオーギュさんと出会ったときに作られていたもので、昨日納品したばかりだ。
「動きやすいし、汗もよく吸う。演奏した後の肩の疲れが、今までの半分くらいだ。目から鱗というのはこのことだな」
「ほんまに。さすがの職人技やね」
オーギュさんの話になり、また切なくなる。こればかりはどうすればいいのか分からない。そんな私の気持ちを分かっているのだろう、エーリッヒさんは臨時休業の札を眺めて口を開いた。
「オーギュの奴、何をやっているんだろうな……」
「……ほんまに」
自分でも驚くくらい、気の抜けた声だった。私を拒んで、どんな重大な仕事をしているのか。そして、そんな注文を頼んだお客は誰なのか……気になって仕方が無い。しかしあの無愛想な堅物が、客の階級などで仕事への姿勢を変えるとは思えなかった。とすると、それだけ難しい服の注文なのだろうか。考えていても切りがないが、オーギュさんに直接訊いても教えてくれるとは思えない。彼にとって、まだ私は部外者なのだから。
「奴があんな風になったのはきっと、それなりの過去があったんだろう。そう、確かあいつの生まれは……」
……そこまで言いかけて、エーリッヒさんは口を噤んだ。私も、背後から近付いてきた精の気配を察知した。心臓の高鳴りのまま、振り向く。
オーギュさんが立っていた。しかしその姿を見て、私は驚愕した。鋭い目つきの下には濃いクマができており、こころなしか少しやつれたようにさえ見える。足取りもおぼつかないが、それだけではない。ハサミの力でインキュバス化している彼の体は、精だけは常に満ち溢れている。しかし『正気』を構成する他の三つの要素……気・血・津液の変調が、目に見えて分かった。
‐‐アカン、過労や!
「どうしたオーギュ、ふらふらじゃないか!?」
「……平気だ」
肩を貸そうと近づいたエーリッヒさんの手を払いのけ、オーギュさんは工房に入ろうとする。手に持った買い物袋に裁縫用の糸が入っているのを見て、まだ仕事を続ける気なのだと分かった。そして 何よりも、彼の目は今なお仕事の目をしていた。
「オーギュはん、駄目や! 休まなアカンで!」
「……平気だ。後は仕上げだけだ」
私と目を合わさず、うわ言のように呟くオーギュさんの手を、私は咄嗟に掴んだ。
「このままやと死んでまう! ほら、せめて気の流れを元に……」
「仕事が終わるまで、来るなと言っただろう! どけ!」
強い叫びと共に、私の手が振り払われる。赤く充血した目で、彼は私を一瞬だけ見て、工房の扉に手をかけた。その一瞬の視線の凄まじさに、私は立ち竦んでしまう。
「これが、俺だ。今までも、これからも、ずっと……!」
……その言葉を最後に、オーギュさんは工房の中へと姿を消した。
ばたん、と荒々しく閉められた扉が、酷く恨めしい。
‐‐オーギュはん……ッ!
気がつくと、私はその憎き扉に向かって嗚咽していた……。
鍋の中でお味噌汁をかき混ぜ、具と汁の割合を考慮してお椀に注いだ。この町では最近日の国の食材も輸入されるようになったようで、朝食の材料も揃えられる。ただし食器は、オーギュさんの使っているスープ皿だ。ネギと豆腐がたっぷり入った味噌汁は湯気を立て、朝の涼しい空気の中に香りが漂って行く。
「たとえ体を裂かれても、狩戸の狐は嘘言うな、っと。ほら、おつゆもできたでー」
二人分を盛り付け、すでに着席しているオーギュさんの前と、自分の席にそれぞれ置く。白いご飯に焼き魚、出汁巻き卵、そしてお味噌汁。
押しかけ女房を始めてから一週間。毎朝彼に食事を作っているが、内容は祖国の料理ばかり。それしか作れないからだが、オーギュさんは意外にも気に入ってくれた。曰く「ジパングの料理は胃に優しいから好きだ」とのことだ。徹夜仕事も平気で行うオーギュさんには、確かに日の国のあっさりとした料理が合っているだろう。お味噌の栄養で力も付く。しかしそれ以前に、自分の身を顧みないような仕事の仕方を何とかして欲しいが。
私が椅子に座るのをじっと待つ彼の目線は、皿の空白の部分に向いていた。指先がテーブルクロスの上で何かを描くように動いていることから、何か服作りのことを考えているのだろう。片時も仕事のことが頭から離れない、生粋の職人。だからこそ二十三という若さで、一流と評される腕前を手にできたのだ。そんな歪みない所も、私を惹きつけて止まない。
私が座ると、オーギュさんもはっと顔を上げ、目を閉じて合掌した。
「日々の恵みに、感謝します……」
小声で唱えるオーギュさんに合わせ、私も合掌する。このルージュ・シティには反魔物国家出身者も多く、教団の伝統的な習慣を続けている者もいる。「我々は教団に騙されていた!」と言って、掌を返したように教団を批判するのは嫌だという人や、他者に迷惑をかけないのであれば批判される筋合いはない、という人たちである。そんな人間たちもこの町は受け入れているし、無理矢理他の信仰を押し付ける者もいない。町の教会でさえ、特に信仰に拘っていないくらいだ。
短いお祈りを止め、匙を手に取ったオーギュさんはお味噌汁に手をつける。汁物から口をつけるのが正しい作法だと言ったら、律儀にそれを実施しているわけだ。
「美味しい?」
「ああ」
続いて出汁巻き卵を口に放り込み、咀嚼した。あまり笑顔を見せない上に、鋭い目つきと顔の痣のせいで終始恐い顔に見える。私たち妖怪は顔の美醜などほとんど気にしないが、恐いものは恐い。しかしこれも一週間押しかけ女房をしていて分かったことだが、彼は嘘の笑顔が嫌いなだけなのだ。実際、仕立てた服をお客に納品し、喜んでもらえたときには笑みを浮かべていた。もっともそれでも決して満足せず、より素晴らしい仕事をしようとする。逆に不満があればはっきりと態度に出る人なので、料理も不味ければ不味いとはっきり言うはずだ。
今のオーギュさんは次々に料理を平らげていく。
「オーギュはん。そろそろウチのこと、好きになってきたんとちゃう?」
豆腐をつるりと飲み込み、訊いてみた。料理の評判は上々で、仕事の後に指圧をしたり鍼を打ったりすると、体が軽くなったと感心してくれる。今では指圧をしてくれと自分から頼んでくれるほどだ。仕事中以外はあまり邪見にされないし、ふざけて尻尾をじゃれつかせてみると、手で毛並みと感触を楽しんでくれる。そしてそのまま私が誘惑し、交わりに及ぶこともあった。少なくとも、もう嫌われてはいないのではないか……そう思ったのだ。
彼は白米を掻き込み、飲み下すと、私を見て口を開いた。
「……セックスの度に漏らすのはなんとかならんのか?」
「うっ。そ、そないなこと言うても、気持ち良すぎて……」
そうなのだ。私たちの交わりはまず私が誘い、オーギュさんがそれに乗ってくるところから始まる。最初は私が尻尾や口、胸を使って彼に奉仕し、その後に彼の素敵な肉棒が私の膣奥を犯し尽くす。そして絶頂を迎えた私は体から力が抜け、失禁してしまう。もちろん、好きで漏らしているわけではない。単なる刺激による快感と、『対稲荷用』の極上の精の味、そして彼の鬼気迫る表情が、私の忍耐力をたやすく削ぎ落としてしまうのだ。
服を仕立てるときといい、交わりのときといい、普段から鋭い目付がさらに鋭くなるのだ。『睨み殺す』という行為を実演できそうな迫力がある。
だがそのときの気と精の流れは実に整って美しい。単にハサミの妖力によって精が変質しただけではなく、オーギュさんの歪みない心の姿が表れているのだ。
「あ、でもオーギュはん、妖怪が嫌い言うわけやないんやろ?」
「……嫌いなら、こんな魔物だらけの町に住むか」
眼鏡のずれを直し、オーギュさんはゆっくりと応えた。不思議と、レンズの向こうの目が切なそうに見える。何か、過ぎ去った過去を思い出しているかのようだった。
このルージュ・シティは吸血鬼の領主によって建てられ、人と妖怪が力を合わせて発展することを目的としている。そしてこの町の住人は何らかの理由で故郷を離れ、新天地で自分の力を試してみようという若者か、教団の迫害から逃れて安住の地を求めてきた者が多い。オーギュさんは恐らく前者だが、それでも『ワケ有り』には違いないだろう。脇目も振らず、技術のみに生きる彼でも、過去の辛いことを思い出してしまうことがあるのかもしれない。
「……昔、な」
意外にも、オーギュさんの方から口を開いた。先ほどずれを直したばかりの眼鏡をはずし、ハンカチで拭き始める。眼鏡が無くても、鋭い目つきは変わらない。しかし何故か、切なそうな色が強く見えた。
「俺の祖国に、聞きたくもない命令を聞かされ、それでも笑っていなければならない少女がいた」
「笑っていなければならない……?」
「彼女は聖像だった」
聖像。その言葉にどのような意味があるのか、よく分からない。しかしオーギュさんの口ぶりから、皮肉としての表現だというのは感じ取れる。
そのまま数秒、オーギュさんは無言で眼鏡の手入れを続ける。仕立屋は仕事柄近眼になることが多いようで、しかもオーギュさんは幼いころから針糸を握ってきたため、常に眼鏡は手放せないらしい。鍼を打てば少し良くなるかもしれないが、そうしたら眼鏡を変えなければならないという理由から打たせてくれない。それだけ今使っているものが気に入っているのだろうが、今の手入れは少しわざとらしい。まるで、手を動かさなくては気が済まないかのようだ。
「……魔物は嘘の笑顔をしない。欲望に忠実だ」
眼鏡をかけなおし、最後に一つ残った出汁巻き卵を口に放り込む。それをゆっくりと飲み下すと、オーギュさんは私を真っすぐに見た。その目から切なさは消え、いつものように有無を言わさぬ気迫が戻っている。
「……今日からしばらく、来ないでくれ」
「えっ?」
「重要な仕事にかかる。それが終わるまで来るな」
突然の言葉に驚く私に、オーギュさんは一層の気迫を込めて続ける。
彼は仕事中もくだらない用事で話しかけたりしなければ、私が工房にいることを許してくれていた。それがはっきり「来るな」と言い切るとは、それほどまでに重大な注文なのだろうか。
‐‐全く会えんのは寂しい……けど。
未来の妻を目指す身として、彼の仕事の邪魔はできない。そこまで入魂して仕事にかかるというなら、例え距離を置かれても見守ってあげたい。なら、待つしかないだろう。
「ええよ。せやけど、無理はせんといて? 体に気をつけるんやで?」
そう応えると、オーギュさんの威圧感が少し薄れた。どこか安心したような気配を感じる。
「……ああ」
ほんの少しだけ、オーギュさんが笑ったように見えた。
… … …
「津液の減少は、肌や髪の乾燥、更に声や関節の異常に繋がるんや。それに、津液が体内で停滞してまうと……」
小さな教会で、東方医学の講釈をする。飾り気のない礼拝堂で、尼僧のローパーや他の町民たちが私の話を聞いていた。私の言葉を熱心に書き取る者もいれば、茶菓子を食べるのに忙しい者もいる。威厳のある学会などより、このようなのびのびとした場の方が私は好きだ。このようにして東方医学を伝えることが私の本来の仕事であり、目的なのである。霧の大陸と呼ばれる地方から伝来した基本概念と、日の国で独自に発達した指圧などの技術を解説し、時に実演もする。
オーギュさんにしばらく来るなと言われ、もう五日経つ。だが紳士服をお客の体に合わせ、一から仕立てるには少なすぎる時間だ。まだ当分会えないだろう。彼のことを考えるたび、切なくなって、股の辺りが疼きだす。彼の鋭い目を、顔を覆う痣を、ハサミを握る手を、そしてあの精のニオイを思い出すと、今すぐ会いたいという思いに駆られそうになる。しかし約束を破っては彼に嫌われ、近づくことすら許してもらえなくなりそうだ。今は本業に専念することで、我慢するしかない。
「次回は五臓六腑のお話や。東方医学では肝・心・脾・肺・腎をそれぞれ木・火・土・金・水に例えるんやけど、どういう意味かは次回のお楽しみや。ほな、お疲れ様」
私が礼をすると、聴衆も揃って礼をして、ばらばらと席を立ち始める。何人かが私の元へ質問や相談に来て、それにアドバイスをしていった。だがその間も、心の中のもやもやした感じは無くならない。私が妖怪だからか単に未熟者だからか分からないが、オーギュさんほど仕事の鬼にはなれないのだ。
その後、尼僧(西方ではシスターという呼び方をするが)からのお茶のお誘いを丁重に断り、帰路に着いた。しかし教会はオーギュさんの工房がある職人通りに近いため、ついついそちらへと足を延ばしてしまう。
ガラス細工屋、金物屋などが軒を連ねる中を歩いていくと、『リベルテ紳士服工房』の看板が見えてきた。扉には臨時休業の札が提げられており、彼の精も感じられない。買い物にでも行っているのだろうか。
足を止め、看板をじっと眺める。私が押しかけ女房としてオーギュさんの元へ出入りしていることは、すぐ近隣の住民たちの間で噂になった。「呪いの道具のせいであの難物に惚れるなんて、貴女も因果なものね」などと言う人もいれば、「あいつも悪い奴じゃないんだ。頑張りな」と言ってくれる人もいた。そんな言葉にますます張り切り、一週間彼に尽くしてみた結果、彼も少しだけ私を求めてくれたように思えた。
だが、結局は何も進展など……。
「おっ、狐の先生じゃないか」
ふいに後ろから声をかけられ、私の悶々とした思考は中断された。振り向くと、そこにいたのは顔中を包帯で覆った男、そして青い髪と翼を持った鳥人の少女だ。男の方は白いシャツを着て、楽器入れと鞄を手にしており、一目で音楽家だと分かる。
「あらエーリッヒはん。そんな、先生だなんて」
「いや、あんたの灸のおかげで体調が良くなった。立派な先生だろう」
男は包帯に隠れた顔から、優しげな声を発する。鳥人の方も笑顔でコクコクと頷くが、ちらりと喉に見える深い傷跡が痛々しい。
彼ら……ギター弾きのエーリッヒさんと、踊り子のリウレナさんはこの町で人気の二人組だ。リウレナさんはセイレーンと呼ばれる鳥人で、本来は人を虜にする魔性の歌声を持つ。しかし彼女は主神教団によって喉を切り裂かれ、まともな声を出せないのだ。それでもエーリッヒさんとの出会いをきっかけに、踊り子として音楽の世界に戻ることができたのである。私も彼女の踊りを見たことがあるが、まるでギターのリズムに操られているかのように繊細で優雅、時に激しい動きは感動物だった。
しかし最近、エーリッヒさんの方が体調を崩したというので、私が診察し、鍼灸で治療したのだ。それがきっかけで、二人はこの町でも特に仲の良い友人である。
「しかしあんたの医術も凄いが、オーギュの作ったこのシャツも凄い」
親指で自分の着ているシャツを指さし、エーリッヒさんは言う。私がオーギュさんと出会ったときに作られていたもので、昨日納品したばかりだ。
「動きやすいし、汗もよく吸う。演奏した後の肩の疲れが、今までの半分くらいだ。目から鱗というのはこのことだな」
「ほんまに。さすがの職人技やね」
オーギュさんの話になり、また切なくなる。こればかりはどうすればいいのか分からない。そんな私の気持ちを分かっているのだろう、エーリッヒさんは臨時休業の札を眺めて口を開いた。
「オーギュの奴、何をやっているんだろうな……」
「……ほんまに」
自分でも驚くくらい、気の抜けた声だった。私を拒んで、どんな重大な仕事をしているのか。そして、そんな注文を頼んだお客は誰なのか……気になって仕方が無い。しかしあの無愛想な堅物が、客の階級などで仕事への姿勢を変えるとは思えなかった。とすると、それだけ難しい服の注文なのだろうか。考えていても切りがないが、オーギュさんに直接訊いても教えてくれるとは思えない。彼にとって、まだ私は部外者なのだから。
「奴があんな風になったのはきっと、それなりの過去があったんだろう。そう、確かあいつの生まれは……」
……そこまで言いかけて、エーリッヒさんは口を噤んだ。私も、背後から近付いてきた精の気配を察知した。心臓の高鳴りのまま、振り向く。
オーギュさんが立っていた。しかしその姿を見て、私は驚愕した。鋭い目つきの下には濃いクマができており、こころなしか少しやつれたようにさえ見える。足取りもおぼつかないが、それだけではない。ハサミの力でインキュバス化している彼の体は、精だけは常に満ち溢れている。しかし『正気』を構成する他の三つの要素……気・血・津液の変調が、目に見えて分かった。
‐‐アカン、過労や!
「どうしたオーギュ、ふらふらじゃないか!?」
「……平気だ」
肩を貸そうと近づいたエーリッヒさんの手を払いのけ、オーギュさんは工房に入ろうとする。手に持った買い物袋に裁縫用の糸が入っているのを見て、まだ仕事を続ける気なのだと分かった。そして 何よりも、彼の目は今なお仕事の目をしていた。
「オーギュはん、駄目や! 休まなアカンで!」
「……平気だ。後は仕上げだけだ」
私と目を合わさず、うわ言のように呟くオーギュさんの手を、私は咄嗟に掴んだ。
「このままやと死んでまう! ほら、せめて気の流れを元に……」
「仕事が終わるまで、来るなと言っただろう! どけ!」
強い叫びと共に、私の手が振り払われる。赤く充血した目で、彼は私を一瞬だけ見て、工房の扉に手をかけた。その一瞬の視線の凄まじさに、私は立ち竦んでしまう。
「これが、俺だ。今までも、これからも、ずっと……!」
……その言葉を最後に、オーギュさんは工房の中へと姿を消した。
ばたん、と荒々しく閉められた扉が、酷く恨めしい。
‐‐オーギュはん……ッ!
気がつくと、私はその憎き扉に向かって嗚咽していた……。
11/10/05 23:05更新 / 空き缶号
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