ジャガイモが半分のサイズになっていた
右手の買い物袋に入った食材を眺め、俺は歩きだした。
瑞々しく健康的な緑色をしたホウレンソウ、力強い土の香りを纏ったジャガイモ、一口で食べられるくらい小さな玉ねぎ。まだ見習い料理人の俺だが、食材を見る目には自信がある。働いている店の店長もそれを認めてくれており、最近体調の悪い奥さんに代わって、俺にこういう仕事を任せてくれているのだ。
店は午後の営業が終わり、夕食時の営業までは時間がある。その間に、左手に持ったもう一つの袋を、あるところへ届けなくてはならない。
袋の中身を溢さないよう注意しつつ、俺は速足で歩いていった。時間はあるが、早く目的地に着いて、彼女に会いたい。その一心で、俺は市場の人ごみの中で歩を進めた。
目指す先は練兵場。今から行けば、丁度休憩時間になっている頃だ。
「今日こそ、食べてくれるかな……」
私設軍の軍旗がはためく練兵場は、町の端にある。辿り着いた時には俺の読み通り、休憩時間を知らせる鐘が鳴っていた。兵士達は各々鎧を脱いで談笑し、これ見よがしに恋人とイチャついている奴もいる。
同僚らしいリザードマンと、互いに頬を赤らめながら弁当を食べさせあっている剣士。
部下のラージマウス達に群がられ、苦笑しながらチーズを食べさせている斥候部隊の隊長。
肉の塊を持つ将校と、それに縋りついて尻尾を振るワーウルフの少女。
人と魔物が入り乱れて暮らすこの町では、自衛のための私設軍も人魔共同で成り立っている。教団と睨み合いが続いている中だが、昼時にはこうやってのどかな時間を過ごしているのだ。
俺が探している人はカップルたちの輪から外れ、クヌギの木の下で休んでいた。
青い髪の毛を涼しげに短く切り、瞳もまた何処までも深い青。だが訓練の後で紅潮した頬には汗が伝い、鎧を脱いだ後のシャツもべったりと肌に張り付いている。それがたまらなく色っぽい。汗ばんだ肌も、魔物特有のツンと尖った耳も、全てが美しかった。
彼女が俺に気づき、手を振ってくる。微笑を浮かべているのを見てドキリとしながらも、俺は彼女に歩み寄った。
「……隊長さん、お疲れ様」
「ん。君こそ、買い出しお疲れ」
なめらかな声で、彼女は言った。俺が風下にいるせいで、彼女の汗のニオイが鼻をくすぐる。別に臭いフェチではないが、やはり好きな女の子のニオイというのは何か特別なものを感じてしまうらしい。口に出したらただの変態になってしまうが、彼女が魔物だからでもある。
そして俺は胸を高鳴らせながら、左手の袋を彼女に差しだした。
「また、作ってきたんだ。よかったら食べてみて」
「ん」
彼女はおずおずと袋を受け取り、中の弁当箱を取り出した。蓋を開けられた瞬間、緊張が走る。その中身は俺が店長の目を盗んでこっそり作った料理……スフレリーヌが入っているのだ。ふんわりとした触感が特徴のオムレツで、俺の得意な料理。まだ店で出せるレベルでは無いだろうが、こういう卵料理については上手くできる方だ。厳選したトマトソースをかけており、出来には自信がある。
彼女はじーっとそれを見つめ……俺の顔を見上げた。
「座ったら?」
「あ、ああ、そうだね」
俺はゆっくりと、草の上に腰を下ろした。できるだけ彼女に近づきたくても、勇気が出ずに微妙な距離感を保って座ってしまう。それでも心臓はやたらと高鳴っており、顔はきっと真っ赤になっているだろう。
「いただきます」
彼女がフォークを手に取り、スフレリーヌを一口分切る。俺はその断面を見て、焼き加減も卵の膨らみ具合も完璧であることを確認した。大丈夫、今日こそはきっと……
彼女がスフレリーヌを口へ運ぶその様子が、酷くゆっくりに見えた。黄金色の切れ端が、彼女の口腔へと消えていく。
咀嚼する頬の動きを見つめながら、俺の緊張は落胆へと変わっていった。彼女の表情が、俺の期待していたものと違ったのだ。不味くはなくても、あまり食べる気になれないというような、味気ない無表情。少なくとも店に訪れる客たちが見せる、「美味しい」という顔ではない。
彼女はフォークを置くと、気まずそうに弁当箱を差しだした。
「……すまない、美味しいとは思うが……」
「……駄目か」
「食欲がなくて、な。シャルルのせいじゃない。……本当だぞ?」
俺を傷つけまいと、申し訳なさそうに彼女は言う。だが見習いとはいえ料理人である以上、食べた人のせいにして言い訳はしない。したら店長に殺される。俺がまだ、彼女を満足させられていない……それだけだ。
彼女はレイチェル・クランロック。教団との睨み合いが続くこの町に、義勇兵としてやってきた魔王軍騎士隊の隊長。デュラハンという魔物らしく、並の兵士なら素手で倒せるほどの力があるらしい。常に凛として、部隊の先頭に立っている、カッコいい女の子だ。以前俺が働いている店に偶然来たときから、こんな関係が始まった。
ここ数日間、弁当箱片手に彼女を尋ねる日々を送っている。今日もまた食べてもらえなかった以上、ここに居座っても気まずいだけだ。名残惜しいには惜しいが、さっさと店に戻って、店長に食材を渡さなくては……
「でも凄いな。どうすれば卵が、こんなにふわふわした感じになるんだ?」
腰を上げかけたとき、彼女が話しかけてきた。時間はまだ大丈夫だという心の囁きにより、膝に入れた力を抜いてしまう。女の子にこんな気遣いをさせてはいけないのだろうが、俺はその好意に甘えることにした。
「これはね、卵を泡立ててから焼くんだよ。スフレリーヌって言うんだ」
「なるほど。卵料理、得意なんだな」
彼女に持っていくのは、いつも卵を使った料理だ。彼女が卵が好きだと聞いたからでもあるが、俺が一番得意な食材というのが最たる理由である。最も、最近その自信を失くしつつあるが。
「得意って言っても、そんなに上手くはないけどね」
「あ、いや! 美味しかったぞ? 私に食欲がないだけだ」
しまった。必死で気を遣ってくれている。嬉しいには嬉しいが、却って申し訳なく思えてくるほどに彼女は必死だ。やっぱり、女の子にこんな気遣いをさせているようじゃ駄目なんだと思う。
「シャルルは毎日、店で頑張っているのだろう?」
「うん、まだ皿洗いと給仕だけだけどね」
彼女は話し方こそ厳格で大人びているが、実際の歳は俺と大して違わないはずだ。ちなみに俺は16歳。魔界の騎士……デュラハンである彼女は、子供の頃からその身分にふさわしい言動を叩き込まれてきたのだろう。だが同年代の俺からすれば、そんな口調もむしろ可愛く思えてしまう。本人の前で言ったら怒られるだろうが。
「皿に付いたシチューとかソースとか舐めて、味を覚えてる」
「そこまでするのか?」
「料理人の世界ってさ、最初は皿洗いや下ごしらえから入るから。その中で勉強できることを勉強しなきゃならないんだよ」
彼女は感心したように息を吐いた。俺にとっては当然のことだが、貴族同然である彼女は庶民がそこまで苦労しているなんて知らなかったのだろう。
「でもうちの店長ってば、俺が洗う皿に洗剤を垂らすんだよ」
「なっ、それでは味見できないじゃないか! 嫌がらせだ!」
彼女は憤慨する。正義感のある、怒った顔もかなり魅力的だ。
「いや、違うんだ。気概を試されてたんだよ」
僕は頬を掻いた。
「気概?」
「隊長さんも、ただ騎士になればカッコいいとか思ってる、口先だけの奴が部隊に入ってきたら嫌だろ?」
「勿論。そんな奴は即刻叩きだしてやる」
「それと同じで、生半可な気持ちの奴を店で働かせたくなかったんだよ」
俺は文句を言わず、皿も鍋もピカピカに洗ってみせた。店の掃除も、一切手抜きをせずに行った。すると店長は俺が本気だと認めてくれて、何でも相談しろと言ってくれた。勿論、皿に洗剤を付けられることもなくなったので、今は毎日舐めて味を分析している。店長が技術の限りをつぎ込んだ特製シチューの味は、なかなか盗めそうにない。それでもぼんやりと、そのレシピの輪郭が見え始めたところだ。
そんな俺の話を、彼女は興味深げに聞いてくれた。騎士として日々努力している彼女にも、何か通じるものがあったのだろう。
「シャルルは……強いんだな」
「え?」
ふいにそんなことを言われ、意味がよく分からなかった。彼女は思いつめたような表情で、若干うつむいているように思える。普段の溌剌とした、凛々しい女騎士の表情ではない。弱弱しく悩んでいる、その辺にいそうな女の子の顔だ。
「この町の人たちは、みんな強い……凄く」
「隊長さんだって、強いだろ?」
「強くなんかない!」
体がびくっと震えた。今にも泣き出しそうな、突然の彼女の叫び。
しかし呆然とする俺の視線に、彼女ははっと我に返った。
「あ……すまない。何でもないから」
何でもない、と言っておいて本当に何でもないことなどあるのだろうか。考えてみれば、俺より2、3歳年上の身で部下を持ち、戦場へ出なければならない身なのだ。魔王軍からの義勇兵は大半が彼女のような、若年のデュラハンであり、戦闘技術を学ぶ意味もあるという。異郷で仲間を守らなければならない責任感から、何か悩みを貯め込んでいるのかもしれない。
「あのさ、隊長さん……俺でよければ、悩みくらい……」
「悩みなんて無いさ。うん、無い。心配するな」
好きな女の子が、一瞬とはいえあんなに辛そうな様子を見せた。心配するなと言うのは無理な相談だ。しかし、彼女にかけてやれるような気の利いた言葉は思いつかない。不器用者の自分が恨めしい。彼女に無理矢理悩みを吐き出させたところで、自分に何ができるだろうか。彼女を喜ばせる料理さえ、作れないのに。
「……なあ、シャルル」
若干自己嫌悪に陥りかけたとき、彼女が再び口を開いた。
「その……私が、私がもし……」
と、そのとき。
練兵場の櫓に取りつけられた鐘が、軽い音を立てて鳴った。彼女がハッとして、懐から懐中時計を取り出す。
「もう4時だ」
「げっ、行かなきゃ!」
店に戻っていなくてはならない時間だ。ついついのんびりしてしまったが、これでは店長に怒られる。俺は即座に立ち上がり、食材の入った袋を掴んだ。
彼女も休憩時間が終わったので、脱いであった鎧を着始めた。ぎょろりとした目玉が多数ついている魔王軍正式防具は、いつ見ても禍々しい。しかし彼女がそれを着ると、魔物の禍々しさと女騎士の凛々しさが、一度に表れるのだ。
「また、何か作ってくるから!」
「……ああ。またな」
やはり、彼女の様子がおかしい。声にも、俺に向かって振る手にも、どこか元気がないように思えた。微笑を浮かべているものの、それも無理に作っているように思えた。
‐‐くそっ!
心の中で、自分に向かって悪態を吐く。俺は彼女が好きだ。料理も好きだ。だが、彼女に美味い料理を食べさせることも、彼女の悩みを解決してやることもできないのか。
悔しさを抱えたまま、俺は全速力で店へと向かった。
… … …
「すみません、遅れま……」
「遅いぞ、この青ビョウタン!」
キッチンに飛び込んだ瞬間、店長の怒号が飛んだ。その迫力に、ホルスタウロスの奥さんが小さく悲鳴を上げる。すでに準備が始まっていた。店長が凄まじい速さでハーブをきざみ、その香りが部屋に充満していく。
俺はもう一度謝ると、食べかけのスフレリーヌが入った弁当箱を隅に置いた。仕入れてきた食材を調理台に並べると、店長はじっとそれらを吟味する。俺が市場でじっくりと見てきた食材であり、店長も俺の目を認めてくれている。それでも、自分でも確かめてみないと気が済まない性分なのだ。
「よし、上出来だ。さっさと下拵えしろ」
「はい!」
ジャガイモの皮を剥きながら、ふと奥さんの方を見る。店長が切った食材を茹で始め、楽しそうに火の強弱を調整していた。
「ミンスさん、体は大丈夫ですか?」
「はい、だ、大丈夫ですよ〜。私たち、い、一応ミノタウロスの仲間ですからぁ、が、頑丈なんです〜」
舌足らずな口調で、にこやかに奥さんは言う。最近具合が悪いと言って、店長が店を休ませていたのだ。仕事に関しては一切妥協しない店長も、この美人で巨乳な奥さんに関しては、所謂「新婚バカップル」ぶりを見せてくれる。
俺もいつか、彼女とこんな風に……
「……シャルル、お前同じジャガイモの皮をいつまで剥いてる気だ?」
「え? うおっ!?」
手元を見てみると、元の半分ほどのサイズに痩せたジャガイモの姿があった。
「も、申し訳ないっす!」
「シャルル、最近そういうことが多いぞ?」
店長が心配そうに言う。
そう。最近、仕事がどうも上手くいかない。皿を割ってしまったり、シチューの中身をぶちまけてしまったり、ピーラーで自分の手の皮を剥いてしまったり……。しかし失敗するタイミングには共通点がある。
彼女のことを考えている時だ。俺はなんて馬鹿なんだろうか。あの凛々しい声を、微笑みを、汗の匂いを思い出すたびに、頭がぼーっとして、手元が狂ってしまうのだ。
「本当に、申し訳……」
「俺はお前が、ちょっと上手くできるようになったら手抜きをかますような、アホな奴だとは思えねーんだよ」
励ますような口調で、店長は言う。この人は俺より7つほど年上だが、どうにもそれ以上の迫力や重みを感じる。彼の料理人としての積み重ねが、そうさせているのだろう。この頼もしさを、奥さんも好きになったのだ。
「悩みがあるなら、相談に乗る。今日なんで遅くなったかも含めて、営業時間が終わったら聞かせてくれ」
「す、すみません」
「こういうときは、ありがとうございますって言うもんだ」
背中を叩かれ、俺は軽くむせてしまう。この人はかなり腕力がある。食材集めで鍛えたとは本人の弁だが、麺打ち棒とトウガラシで教団の騎士を倒すほどという話だ。それを自覚しているのかいないのか、強く背中を叩いてくる。
だが、俺はその少し乱暴な優しさがありがたかった。
‐‐よし、頑張らないと!
気合いを入れなおし、俺は料理人(見習い)としての責務を全うすることに集中する。
彼女のことを、心の片隅に残したまま。
瑞々しく健康的な緑色をしたホウレンソウ、力強い土の香りを纏ったジャガイモ、一口で食べられるくらい小さな玉ねぎ。まだ見習い料理人の俺だが、食材を見る目には自信がある。働いている店の店長もそれを認めてくれており、最近体調の悪い奥さんに代わって、俺にこういう仕事を任せてくれているのだ。
店は午後の営業が終わり、夕食時の営業までは時間がある。その間に、左手に持ったもう一つの袋を、あるところへ届けなくてはならない。
袋の中身を溢さないよう注意しつつ、俺は速足で歩いていった。時間はあるが、早く目的地に着いて、彼女に会いたい。その一心で、俺は市場の人ごみの中で歩を進めた。
目指す先は練兵場。今から行けば、丁度休憩時間になっている頃だ。
「今日こそ、食べてくれるかな……」
私設軍の軍旗がはためく練兵場は、町の端にある。辿り着いた時には俺の読み通り、休憩時間を知らせる鐘が鳴っていた。兵士達は各々鎧を脱いで談笑し、これ見よがしに恋人とイチャついている奴もいる。
同僚らしいリザードマンと、互いに頬を赤らめながら弁当を食べさせあっている剣士。
部下のラージマウス達に群がられ、苦笑しながらチーズを食べさせている斥候部隊の隊長。
肉の塊を持つ将校と、それに縋りついて尻尾を振るワーウルフの少女。
人と魔物が入り乱れて暮らすこの町では、自衛のための私設軍も人魔共同で成り立っている。教団と睨み合いが続いている中だが、昼時にはこうやってのどかな時間を過ごしているのだ。
俺が探している人はカップルたちの輪から外れ、クヌギの木の下で休んでいた。
青い髪の毛を涼しげに短く切り、瞳もまた何処までも深い青。だが訓練の後で紅潮した頬には汗が伝い、鎧を脱いだ後のシャツもべったりと肌に張り付いている。それがたまらなく色っぽい。汗ばんだ肌も、魔物特有のツンと尖った耳も、全てが美しかった。
彼女が俺に気づき、手を振ってくる。微笑を浮かべているのを見てドキリとしながらも、俺は彼女に歩み寄った。
「……隊長さん、お疲れ様」
「ん。君こそ、買い出しお疲れ」
なめらかな声で、彼女は言った。俺が風下にいるせいで、彼女の汗のニオイが鼻をくすぐる。別に臭いフェチではないが、やはり好きな女の子のニオイというのは何か特別なものを感じてしまうらしい。口に出したらただの変態になってしまうが、彼女が魔物だからでもある。
そして俺は胸を高鳴らせながら、左手の袋を彼女に差しだした。
「また、作ってきたんだ。よかったら食べてみて」
「ん」
彼女はおずおずと袋を受け取り、中の弁当箱を取り出した。蓋を開けられた瞬間、緊張が走る。その中身は俺が店長の目を盗んでこっそり作った料理……スフレリーヌが入っているのだ。ふんわりとした触感が特徴のオムレツで、俺の得意な料理。まだ店で出せるレベルでは無いだろうが、こういう卵料理については上手くできる方だ。厳選したトマトソースをかけており、出来には自信がある。
彼女はじーっとそれを見つめ……俺の顔を見上げた。
「座ったら?」
「あ、ああ、そうだね」
俺はゆっくりと、草の上に腰を下ろした。できるだけ彼女に近づきたくても、勇気が出ずに微妙な距離感を保って座ってしまう。それでも心臓はやたらと高鳴っており、顔はきっと真っ赤になっているだろう。
「いただきます」
彼女がフォークを手に取り、スフレリーヌを一口分切る。俺はその断面を見て、焼き加減も卵の膨らみ具合も完璧であることを確認した。大丈夫、今日こそはきっと……
彼女がスフレリーヌを口へ運ぶその様子が、酷くゆっくりに見えた。黄金色の切れ端が、彼女の口腔へと消えていく。
咀嚼する頬の動きを見つめながら、俺の緊張は落胆へと変わっていった。彼女の表情が、俺の期待していたものと違ったのだ。不味くはなくても、あまり食べる気になれないというような、味気ない無表情。少なくとも店に訪れる客たちが見せる、「美味しい」という顔ではない。
彼女はフォークを置くと、気まずそうに弁当箱を差しだした。
「……すまない、美味しいとは思うが……」
「……駄目か」
「食欲がなくて、な。シャルルのせいじゃない。……本当だぞ?」
俺を傷つけまいと、申し訳なさそうに彼女は言う。だが見習いとはいえ料理人である以上、食べた人のせいにして言い訳はしない。したら店長に殺される。俺がまだ、彼女を満足させられていない……それだけだ。
彼女はレイチェル・クランロック。教団との睨み合いが続くこの町に、義勇兵としてやってきた魔王軍騎士隊の隊長。デュラハンという魔物らしく、並の兵士なら素手で倒せるほどの力があるらしい。常に凛として、部隊の先頭に立っている、カッコいい女の子だ。以前俺が働いている店に偶然来たときから、こんな関係が始まった。
ここ数日間、弁当箱片手に彼女を尋ねる日々を送っている。今日もまた食べてもらえなかった以上、ここに居座っても気まずいだけだ。名残惜しいには惜しいが、さっさと店に戻って、店長に食材を渡さなくては……
「でも凄いな。どうすれば卵が、こんなにふわふわした感じになるんだ?」
腰を上げかけたとき、彼女が話しかけてきた。時間はまだ大丈夫だという心の囁きにより、膝に入れた力を抜いてしまう。女の子にこんな気遣いをさせてはいけないのだろうが、俺はその好意に甘えることにした。
「これはね、卵を泡立ててから焼くんだよ。スフレリーヌって言うんだ」
「なるほど。卵料理、得意なんだな」
彼女に持っていくのは、いつも卵を使った料理だ。彼女が卵が好きだと聞いたからでもあるが、俺が一番得意な食材というのが最たる理由である。最も、最近その自信を失くしつつあるが。
「得意って言っても、そんなに上手くはないけどね」
「あ、いや! 美味しかったぞ? 私に食欲がないだけだ」
しまった。必死で気を遣ってくれている。嬉しいには嬉しいが、却って申し訳なく思えてくるほどに彼女は必死だ。やっぱり、女の子にこんな気遣いをさせているようじゃ駄目なんだと思う。
「シャルルは毎日、店で頑張っているのだろう?」
「うん、まだ皿洗いと給仕だけだけどね」
彼女は話し方こそ厳格で大人びているが、実際の歳は俺と大して違わないはずだ。ちなみに俺は16歳。魔界の騎士……デュラハンである彼女は、子供の頃からその身分にふさわしい言動を叩き込まれてきたのだろう。だが同年代の俺からすれば、そんな口調もむしろ可愛く思えてしまう。本人の前で言ったら怒られるだろうが。
「皿に付いたシチューとかソースとか舐めて、味を覚えてる」
「そこまでするのか?」
「料理人の世界ってさ、最初は皿洗いや下ごしらえから入るから。その中で勉強できることを勉強しなきゃならないんだよ」
彼女は感心したように息を吐いた。俺にとっては当然のことだが、貴族同然である彼女は庶民がそこまで苦労しているなんて知らなかったのだろう。
「でもうちの店長ってば、俺が洗う皿に洗剤を垂らすんだよ」
「なっ、それでは味見できないじゃないか! 嫌がらせだ!」
彼女は憤慨する。正義感のある、怒った顔もかなり魅力的だ。
「いや、違うんだ。気概を試されてたんだよ」
僕は頬を掻いた。
「気概?」
「隊長さんも、ただ騎士になればカッコいいとか思ってる、口先だけの奴が部隊に入ってきたら嫌だろ?」
「勿論。そんな奴は即刻叩きだしてやる」
「それと同じで、生半可な気持ちの奴を店で働かせたくなかったんだよ」
俺は文句を言わず、皿も鍋もピカピカに洗ってみせた。店の掃除も、一切手抜きをせずに行った。すると店長は俺が本気だと認めてくれて、何でも相談しろと言ってくれた。勿論、皿に洗剤を付けられることもなくなったので、今は毎日舐めて味を分析している。店長が技術の限りをつぎ込んだ特製シチューの味は、なかなか盗めそうにない。それでもぼんやりと、そのレシピの輪郭が見え始めたところだ。
そんな俺の話を、彼女は興味深げに聞いてくれた。騎士として日々努力している彼女にも、何か通じるものがあったのだろう。
「シャルルは……強いんだな」
「え?」
ふいにそんなことを言われ、意味がよく分からなかった。彼女は思いつめたような表情で、若干うつむいているように思える。普段の溌剌とした、凛々しい女騎士の表情ではない。弱弱しく悩んでいる、その辺にいそうな女の子の顔だ。
「この町の人たちは、みんな強い……凄く」
「隊長さんだって、強いだろ?」
「強くなんかない!」
体がびくっと震えた。今にも泣き出しそうな、突然の彼女の叫び。
しかし呆然とする俺の視線に、彼女ははっと我に返った。
「あ……すまない。何でもないから」
何でもない、と言っておいて本当に何でもないことなどあるのだろうか。考えてみれば、俺より2、3歳年上の身で部下を持ち、戦場へ出なければならない身なのだ。魔王軍からの義勇兵は大半が彼女のような、若年のデュラハンであり、戦闘技術を学ぶ意味もあるという。異郷で仲間を守らなければならない責任感から、何か悩みを貯め込んでいるのかもしれない。
「あのさ、隊長さん……俺でよければ、悩みくらい……」
「悩みなんて無いさ。うん、無い。心配するな」
好きな女の子が、一瞬とはいえあんなに辛そうな様子を見せた。心配するなと言うのは無理な相談だ。しかし、彼女にかけてやれるような気の利いた言葉は思いつかない。不器用者の自分が恨めしい。彼女に無理矢理悩みを吐き出させたところで、自分に何ができるだろうか。彼女を喜ばせる料理さえ、作れないのに。
「……なあ、シャルル」
若干自己嫌悪に陥りかけたとき、彼女が再び口を開いた。
「その……私が、私がもし……」
と、そのとき。
練兵場の櫓に取りつけられた鐘が、軽い音を立てて鳴った。彼女がハッとして、懐から懐中時計を取り出す。
「もう4時だ」
「げっ、行かなきゃ!」
店に戻っていなくてはならない時間だ。ついついのんびりしてしまったが、これでは店長に怒られる。俺は即座に立ち上がり、食材の入った袋を掴んだ。
彼女も休憩時間が終わったので、脱いであった鎧を着始めた。ぎょろりとした目玉が多数ついている魔王軍正式防具は、いつ見ても禍々しい。しかし彼女がそれを着ると、魔物の禍々しさと女騎士の凛々しさが、一度に表れるのだ。
「また、何か作ってくるから!」
「……ああ。またな」
やはり、彼女の様子がおかしい。声にも、俺に向かって振る手にも、どこか元気がないように思えた。微笑を浮かべているものの、それも無理に作っているように思えた。
‐‐くそっ!
心の中で、自分に向かって悪態を吐く。俺は彼女が好きだ。料理も好きだ。だが、彼女に美味い料理を食べさせることも、彼女の悩みを解決してやることもできないのか。
悔しさを抱えたまま、俺は全速力で店へと向かった。
… … …
「すみません、遅れま……」
「遅いぞ、この青ビョウタン!」
キッチンに飛び込んだ瞬間、店長の怒号が飛んだ。その迫力に、ホルスタウロスの奥さんが小さく悲鳴を上げる。すでに準備が始まっていた。店長が凄まじい速さでハーブをきざみ、その香りが部屋に充満していく。
俺はもう一度謝ると、食べかけのスフレリーヌが入った弁当箱を隅に置いた。仕入れてきた食材を調理台に並べると、店長はじっとそれらを吟味する。俺が市場でじっくりと見てきた食材であり、店長も俺の目を認めてくれている。それでも、自分でも確かめてみないと気が済まない性分なのだ。
「よし、上出来だ。さっさと下拵えしろ」
「はい!」
ジャガイモの皮を剥きながら、ふと奥さんの方を見る。店長が切った食材を茹で始め、楽しそうに火の強弱を調整していた。
「ミンスさん、体は大丈夫ですか?」
「はい、だ、大丈夫ですよ〜。私たち、い、一応ミノタウロスの仲間ですからぁ、が、頑丈なんです〜」
舌足らずな口調で、にこやかに奥さんは言う。最近具合が悪いと言って、店長が店を休ませていたのだ。仕事に関しては一切妥協しない店長も、この美人で巨乳な奥さんに関しては、所謂「新婚バカップル」ぶりを見せてくれる。
俺もいつか、彼女とこんな風に……
「……シャルル、お前同じジャガイモの皮をいつまで剥いてる気だ?」
「え? うおっ!?」
手元を見てみると、元の半分ほどのサイズに痩せたジャガイモの姿があった。
「も、申し訳ないっす!」
「シャルル、最近そういうことが多いぞ?」
店長が心配そうに言う。
そう。最近、仕事がどうも上手くいかない。皿を割ってしまったり、シチューの中身をぶちまけてしまったり、ピーラーで自分の手の皮を剥いてしまったり……。しかし失敗するタイミングには共通点がある。
彼女のことを考えている時だ。俺はなんて馬鹿なんだろうか。あの凛々しい声を、微笑みを、汗の匂いを思い出すたびに、頭がぼーっとして、手元が狂ってしまうのだ。
「本当に、申し訳……」
「俺はお前が、ちょっと上手くできるようになったら手抜きをかますような、アホな奴だとは思えねーんだよ」
励ますような口調で、店長は言う。この人は俺より7つほど年上だが、どうにもそれ以上の迫力や重みを感じる。彼の料理人としての積み重ねが、そうさせているのだろう。この頼もしさを、奥さんも好きになったのだ。
「悩みがあるなら、相談に乗る。今日なんで遅くなったかも含めて、営業時間が終わったら聞かせてくれ」
「す、すみません」
「こういうときは、ありがとうございますって言うもんだ」
背中を叩かれ、俺は軽くむせてしまう。この人はかなり腕力がある。食材集めで鍛えたとは本人の弁だが、麺打ち棒とトウガラシで教団の騎士を倒すほどという話だ。それを自覚しているのかいないのか、強く背中を叩いてくる。
だが、俺はその少し乱暴な優しさがありがたかった。
‐‐よし、頑張らないと!
気合いを入れなおし、俺は料理人(見習い)としての責務を全うすることに集中する。
彼女のことを、心の片隅に残したまま。
11/09/15 22:51更新 / 空き缶号
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