野伏賢斗の帰結1
「お願いします」
券売機で買った食券を出すと、おばちゃんは「はいよ」と言って受け取った。近くで蕎麦を食べ終えたおっさんが、足早に改札へ向かっていく。変わり映えのない朝の駅だ。
立ち食いのカウンターに肘を着いて、ふと考える。俺が学校生活にうんざりし始めて、もうどれくらい経ったんだか。背が伸びないとか、勉強がダルいとかいうのももちろんある。仲の良かった幼馴染と疎遠になった、っていうのもある。
けど一番うんざりするのは、親と教師のクソッぷり。あいつらが裏で何をやっているか、オレはもう知っている。
後はオレ自身がどうするか。
「お願いしまーす」
「お願いします」
女の子が二人食券を出して、隣へ座った。顔は見なかったけど、視界の隅に同じ学校の制服が映った。この駅から立ち食い蕎麦で朝飯を済ませて登校する行く女子っていたか? 美緒はここで食ってるの見たことないな……。
そんなことを考えているうちに、さっき頼んだたぬきうどんが目の前に置かれていた。伸びる前に食わないと。
箸を取ろうとしたとき、おばちゃんは次の丼の上で卵を割ったところだった。
「えっ、それ生卵!?」
隣の女の子が驚いた様子を見せる。
ちらっと見て、俺も驚いた。俺と同じ制服を着ているけど、金髪に青い目の、白人の女の子だったから。
おばちゃんは「そうだけど?」なんて言ってる。明らかに外国人なんだから、食券もらった時点で『生卵だけど大丈夫?』くらい訊いてやればよかったのに。けど日本語めちゃくちゃ流暢なのに、生卵を食う習慣があることは知らなかったのか?
まあとりあえず、困ってる人は助けよう程度の善意は俺にもある。箸を付けていないたぬきうどんの丼を、その子へ差し出した。
「良かったら交換する? また食べてないから」
「あ、いいの? ありがとう!」
金髪の子はホッとした様子で、俺と丼を交換してくれた。思わずドキッとするくらい、綺麗な子だ。制服の校章の色からして同学年だけど、学校で見た覚えはない。
よく見ると隣にいるもう一人の子も外国人だ。褐色の肌の、エキゾチックなアジア系の美人……やっぱり見覚えがない。
まあとにかく、たぬきうどんが月見うどんに化けたわけだが、早く食った方がいいな。卵の黄身を箸で破って、うどんに絡めてすする。まろやかな味だ。
そうしたら、金髪の子の方が興味深げに見つめてきた。
「美味しいの? それ」
「……まあ。俺は好きだよ」
青い瞳を間近で見るのは初めてかもしれない。けどそれ以前に美人すぎる。ちょっと直視しにくいというか、じっくり見たら見とれてしまいそうというか。
とりあえず、大急ぎでうどんを啜って、この場を去ることにした。なんか、よく分からないけど……この女の子たちはヤバい気がする。漠然とした危機感というか、そんなものを感じた。空になった丼と「ごちそうさん」の一言を残して、さっさと改札の方へ向かった。
いつも通り混んでいる駅の中で、ふと知ってる相手を見つけた。美緒……幼馴染だ。俺に気づくことなく、女の子同士で喋りながら改札へ歩いていく。
昔は髪伸ばしてたけど、今は短めだ。俺と違ってそれなりに背は伸びているし、顔つきも美人と言っていいくらい。小さい頃は毎日のように二人で遊んでたけど、いつの間にか異性とは遊ばなくなったんだよな、お互いに。
大人になったら結婚しよう、って約束したこと、あいつはもう覚えてないだろうな。いや、覚えてる俺がバカなのか。
「ねえ、カレシ」
いきなり肩に手を置かれた、というか抱き寄せられた。振り向いたところにあったのは……胸だ。
「ちょっとお話ししよ?」
やたら人懐っこい人だ。というか、言いたくはないが俺がチビで向こうの背が高いから、ちょうど俺の後頭部に胸が当たっている。身長だけじゃなくて胸も大きい女だ。
彼女の方はそれを全く気にしていないばかりか、むしろふくらみを押し付けてくる。なんだこれ、こんなこと現実で起きるのかよ。
制服越しでも柔らけー……なんてことを思ってしまった直後。
「緊張しないで」
褐色肌の子が真正面に来ていた。こっちも背が高くて、胸がでかい。にっこり笑って、ずいっと前に出て……
その胸が、俺の顔面に押し付けられた。むにゅっと。
「ほら、柔らかいでしょ?」
「友達になろうよ?」
なんか、チョコレートみたいな、甘い匂いがする。シャツ越しに、胸の谷間から、香ってくるような。
体から力が抜けて、前後からおっぱいに支えられて立っているような状態になった。蜂蜜みたいな匂いで頭がぼんやりしてくる。
なんだか、だんだん……この子たちが、好きになってくるような……
…………
あの後。気づけば俺は学校へ行っていた。どうなったかは覚えていない。
けど確かなのは、いつの間にかあの二人と仲良くなっていたこと。金髪の子がマルガ、褐色肌の子がハリシャ。学校が終わった後にいつも二人とばったり会って、二人が作ってきたお菓子を食べて、楽しく話をする。そうしている間はそれが自然なことに思えて、別れた後に何か異常だと気づく。まるで魔法でもかけられたような、不思議な日々を送ることになった。
まあ、実際に魔法だったんだけど。
「ほらほら、蝶々」
ある日の学校からの帰り道。マルガがスカートの中から大量のオオムラサキを出して見せた。人通りもあるところなのに、俺とハリシャ以外は誰も気づいていないらしい。この辺りにはいない国蝶が羽ばたいて飛んでいくのを、ただ避けて歩くだけだ。
「見えてないわけじゃないけど、みんな変わったことだと認識していないのよ。そういう魔法を使ってるから」
ハリシャが解説してくれた。思えば駅で会ったときも、人が大勢いる中で露骨に胸を押し付けられているのに、周りの人たちは見向きもしなかった。
二人が使うのは手品とかじゃなくて、本物の魔法だともう知っている。空飛ぶ絨毯や箒に乗せてもらったこともある。お菓子でできた家にも連れていってもらった。
正直言って、めちゃくちゃ楽しかった。別の世界から来た魔女、なんてものが本当にいるなんて。日常がこんな風に一変するなんて思わなかった。今日も三人で適当にぶらぶらと遊んで、あとは空を飛んで家まで送ってもらう予定だ。
ただ、二人と別れた後は……また現実に引き戻されるんだよな。
「……ケントってさ、好きな女の子いるでしょ?」
「え!?」
蝶を目で追っている俺に、ふいにマルガが訊いてきた。なんか、ちょっと不機嫌そうな顔で。
「胸押し付けたり、ほっぺにキスしたり、いろいろ誘惑してるのにイマイチ乗ってこないじゃん。今もさりげなく下着チラ見せしたのに無反応だったし」
「……誘惑してたのか、やっぱり」
なんとなくそんな気はしてた。最初は単に過激なスキンシップかと思ったけど、やっぱり俺の目線を誘導しているように見えたから。
「ってかそもそも、俺なんか誘惑してどうする気なんだよ?」
「魔族にとって恋愛は大切なことよ」
「で、どうなの? 好きな子いるんでしょ? こちとら魔女だから占いでお見通しなんだよ?」
ずいっと胸を突き出して迫ってくるマルガ。おっぱいで圧をかけるな。
一瞬、頭の中に美緒の顔が思い浮かんだ、そのとき。ハリシャが俺の胸に手を突き刺してきた。自分でも何が起きているのか分からなかったけど、本当に褐色の手が俺の心臓のあたりへ突き刺さっていた。痛みは全くなかったけど、体の内部に触れられている妙な感触はある。
「大丈夫、怖くないわよ」
ハリシャは優しく微笑んだ。彼女はなんつーか、母性が強い。何をされてもこの笑顔を見ると安心してしまう、そんな怖さがある。
捻るようにして手を引き抜かれた。血は一滴も出なかったけど、ハリシャのチョコレート色の手には何かが握られていた。野球のボールくらいの、ガラスか水晶のような球……その中に美緒の姿があった。高校の制服を来た今の美緒、一緒に遊びまわっていた小さい頃の美緒……色々な姿が。
「……この子ね?」
「可愛いじゃん。ずいぶん付き合いが長いみたいだね」
「……魔女にプライバシーって概念はねーのか?」
何でもアリな魔法使いどもに、辛うじて出た抗議の言葉がそれだった。顔が熱くなっているのを感じる。怒りじゃない、単にメチャクチャ恥ずかしい。
「どんな手を使っても欲を満たすのが魔女よ。特にダークメイジはね」
「でも、ついでに他の人の欲を満たしてあげることもできるんだよ?」
マルガが腕に抱きついてきた。制服越しに、胸の谷間へ腕が引き込まれて……こうなると、ただひたすら気分がよくなってしまう。
「ね、聞かせてよ。この子との思い出と、これからどうしたいか」
「力になってあげられると思うわ」
……耳元で囁かれて、気づけば話し出していた。これも魔法の力なんだろうけど、いつも後になってから気づくんだよ。恐怖心すら消されてしまうことの恐ろしさに。
美緒との思い出話を、二人は楽しそうに聞いてくれた。魔法だけじゃなくて、普通に人の話を引き出すのが美味い。子供の頃に家が近かったこと、幼稚園や小学校が休みの日も毎日一緒に遊んだことも話した。二人で町を探検したことや、大人になったら結婚しようなんて話をしたことまで。あと美緒の家に、ふてぶてしい顔の猫がいたことも。
「……でさ。その猫、臭い靴下にスリスリしてきてさ」
「あははは、ヘンタイ猫じゃん」
「ニオイフェチだったの?」
二人が笑ったときだった。ふいに視線を感じたのは。視線を察知するなんてのは、よっぽどの武術の達人や歴戦の軍人、または猫でもなきゃできないことだと思っていた。けどそのときは確かに感じた。
美緒がいた。ちょっと離れたところから俺を見ていて、目が合った瞬間に踵を返した。
何か、モヤっとした顔をしたように見えた。今までの話、どこから聞こえていたんだろう……そう思って反射的に追いかけようとしたが、マルガに腕を掴まれた。
「ねえ。あの子とまた仲良く遊べるようにしてあげよっか?」
「え……?」
いつもの悪戯っぽい笑顔と違って、なんか真面目な口調で言われた。
「魔女にとって、人の恋を取り持つのも修行の一環なのよ。やらせてもらえるかしら?」
ハリシャもそう言う。多分、嘘じゃない。この二人は少なくとも今まで、俺に嘘はついたことがない。そして本物の魔女がそう言うのだから、きっと実際にできるのだろう。
けど、何か……この二人に任せるのは危険な気がした。予想してないことが起きるような。
それでもまた美緒と仲良くなれたら。あの日々の続きができたら。約束した通り、結婚できたら?
葛藤が沸き起こった俺を見て、マルガは眉間に少し皺を寄せた。
「10秒以内に答えなきゃ今の話はナシ! 9、8、7、6……」
「お、お願いします!」
反射的に、直感的にそう答えた。答えてしまった。
「おっけー! 後は大船を漕ぐつもりでいて!」
「それ奴隷の仕事でしょ」
笑顔で駆け出すマルガと、ツッコミを入れながら追いかけるハリシャ。二人ともすごく楽しそうだ。金髪やスカートが風になびいて綺麗だな、などと現実逃避してしまう。
俺は二人を見送るしかなかった。取り返しのつかないことをしてしまったような後悔と、これから日常がさらに急変することへの期待が入り混じった、複雑な気持ちで。
券売機で買った食券を出すと、おばちゃんは「はいよ」と言って受け取った。近くで蕎麦を食べ終えたおっさんが、足早に改札へ向かっていく。変わり映えのない朝の駅だ。
立ち食いのカウンターに肘を着いて、ふと考える。俺が学校生活にうんざりし始めて、もうどれくらい経ったんだか。背が伸びないとか、勉強がダルいとかいうのももちろんある。仲の良かった幼馴染と疎遠になった、っていうのもある。
けど一番うんざりするのは、親と教師のクソッぷり。あいつらが裏で何をやっているか、オレはもう知っている。
後はオレ自身がどうするか。
「お願いしまーす」
「お願いします」
女の子が二人食券を出して、隣へ座った。顔は見なかったけど、視界の隅に同じ学校の制服が映った。この駅から立ち食い蕎麦で朝飯を済ませて登校する行く女子っていたか? 美緒はここで食ってるの見たことないな……。
そんなことを考えているうちに、さっき頼んだたぬきうどんが目の前に置かれていた。伸びる前に食わないと。
箸を取ろうとしたとき、おばちゃんは次の丼の上で卵を割ったところだった。
「えっ、それ生卵!?」
隣の女の子が驚いた様子を見せる。
ちらっと見て、俺も驚いた。俺と同じ制服を着ているけど、金髪に青い目の、白人の女の子だったから。
おばちゃんは「そうだけど?」なんて言ってる。明らかに外国人なんだから、食券もらった時点で『生卵だけど大丈夫?』くらい訊いてやればよかったのに。けど日本語めちゃくちゃ流暢なのに、生卵を食う習慣があることは知らなかったのか?
まあとりあえず、困ってる人は助けよう程度の善意は俺にもある。箸を付けていないたぬきうどんの丼を、その子へ差し出した。
「良かったら交換する? また食べてないから」
「あ、いいの? ありがとう!」
金髪の子はホッとした様子で、俺と丼を交換してくれた。思わずドキッとするくらい、綺麗な子だ。制服の校章の色からして同学年だけど、学校で見た覚えはない。
よく見ると隣にいるもう一人の子も外国人だ。褐色の肌の、エキゾチックなアジア系の美人……やっぱり見覚えがない。
まあとにかく、たぬきうどんが月見うどんに化けたわけだが、早く食った方がいいな。卵の黄身を箸で破って、うどんに絡めてすする。まろやかな味だ。
そうしたら、金髪の子の方が興味深げに見つめてきた。
「美味しいの? それ」
「……まあ。俺は好きだよ」
青い瞳を間近で見るのは初めてかもしれない。けどそれ以前に美人すぎる。ちょっと直視しにくいというか、じっくり見たら見とれてしまいそうというか。
とりあえず、大急ぎでうどんを啜って、この場を去ることにした。なんか、よく分からないけど……この女の子たちはヤバい気がする。漠然とした危機感というか、そんなものを感じた。空になった丼と「ごちそうさん」の一言を残して、さっさと改札の方へ向かった。
いつも通り混んでいる駅の中で、ふと知ってる相手を見つけた。美緒……幼馴染だ。俺に気づくことなく、女の子同士で喋りながら改札へ歩いていく。
昔は髪伸ばしてたけど、今は短めだ。俺と違ってそれなりに背は伸びているし、顔つきも美人と言っていいくらい。小さい頃は毎日のように二人で遊んでたけど、いつの間にか異性とは遊ばなくなったんだよな、お互いに。
大人になったら結婚しよう、って約束したこと、あいつはもう覚えてないだろうな。いや、覚えてる俺がバカなのか。
「ねえ、カレシ」
いきなり肩に手を置かれた、というか抱き寄せられた。振り向いたところにあったのは……胸だ。
「ちょっとお話ししよ?」
やたら人懐っこい人だ。というか、言いたくはないが俺がチビで向こうの背が高いから、ちょうど俺の後頭部に胸が当たっている。身長だけじゃなくて胸も大きい女だ。
彼女の方はそれを全く気にしていないばかりか、むしろふくらみを押し付けてくる。なんだこれ、こんなこと現実で起きるのかよ。
制服越しでも柔らけー……なんてことを思ってしまった直後。
「緊張しないで」
褐色肌の子が真正面に来ていた。こっちも背が高くて、胸がでかい。にっこり笑って、ずいっと前に出て……
その胸が、俺の顔面に押し付けられた。むにゅっと。
「ほら、柔らかいでしょ?」
「友達になろうよ?」
なんか、チョコレートみたいな、甘い匂いがする。シャツ越しに、胸の谷間から、香ってくるような。
体から力が抜けて、前後からおっぱいに支えられて立っているような状態になった。蜂蜜みたいな匂いで頭がぼんやりしてくる。
なんだか、だんだん……この子たちが、好きになってくるような……
…………
あの後。気づけば俺は学校へ行っていた。どうなったかは覚えていない。
けど確かなのは、いつの間にかあの二人と仲良くなっていたこと。金髪の子がマルガ、褐色肌の子がハリシャ。学校が終わった後にいつも二人とばったり会って、二人が作ってきたお菓子を食べて、楽しく話をする。そうしている間はそれが自然なことに思えて、別れた後に何か異常だと気づく。まるで魔法でもかけられたような、不思議な日々を送ることになった。
まあ、実際に魔法だったんだけど。
「ほらほら、蝶々」
ある日の学校からの帰り道。マルガがスカートの中から大量のオオムラサキを出して見せた。人通りもあるところなのに、俺とハリシャ以外は誰も気づいていないらしい。この辺りにはいない国蝶が羽ばたいて飛んでいくのを、ただ避けて歩くだけだ。
「見えてないわけじゃないけど、みんな変わったことだと認識していないのよ。そういう魔法を使ってるから」
ハリシャが解説してくれた。思えば駅で会ったときも、人が大勢いる中で露骨に胸を押し付けられているのに、周りの人たちは見向きもしなかった。
二人が使うのは手品とかじゃなくて、本物の魔法だともう知っている。空飛ぶ絨毯や箒に乗せてもらったこともある。お菓子でできた家にも連れていってもらった。
正直言って、めちゃくちゃ楽しかった。別の世界から来た魔女、なんてものが本当にいるなんて。日常がこんな風に一変するなんて思わなかった。今日も三人で適当にぶらぶらと遊んで、あとは空を飛んで家まで送ってもらう予定だ。
ただ、二人と別れた後は……また現実に引き戻されるんだよな。
「……ケントってさ、好きな女の子いるでしょ?」
「え!?」
蝶を目で追っている俺に、ふいにマルガが訊いてきた。なんか、ちょっと不機嫌そうな顔で。
「胸押し付けたり、ほっぺにキスしたり、いろいろ誘惑してるのにイマイチ乗ってこないじゃん。今もさりげなく下着チラ見せしたのに無反応だったし」
「……誘惑してたのか、やっぱり」
なんとなくそんな気はしてた。最初は単に過激なスキンシップかと思ったけど、やっぱり俺の目線を誘導しているように見えたから。
「ってかそもそも、俺なんか誘惑してどうする気なんだよ?」
「魔族にとって恋愛は大切なことよ」
「で、どうなの? 好きな子いるんでしょ? こちとら魔女だから占いでお見通しなんだよ?」
ずいっと胸を突き出して迫ってくるマルガ。おっぱいで圧をかけるな。
一瞬、頭の中に美緒の顔が思い浮かんだ、そのとき。ハリシャが俺の胸に手を突き刺してきた。自分でも何が起きているのか分からなかったけど、本当に褐色の手が俺の心臓のあたりへ突き刺さっていた。痛みは全くなかったけど、体の内部に触れられている妙な感触はある。
「大丈夫、怖くないわよ」
ハリシャは優しく微笑んだ。彼女はなんつーか、母性が強い。何をされてもこの笑顔を見ると安心してしまう、そんな怖さがある。
捻るようにして手を引き抜かれた。血は一滴も出なかったけど、ハリシャのチョコレート色の手には何かが握られていた。野球のボールくらいの、ガラスか水晶のような球……その中に美緒の姿があった。高校の制服を来た今の美緒、一緒に遊びまわっていた小さい頃の美緒……色々な姿が。
「……この子ね?」
「可愛いじゃん。ずいぶん付き合いが長いみたいだね」
「……魔女にプライバシーって概念はねーのか?」
何でもアリな魔法使いどもに、辛うじて出た抗議の言葉がそれだった。顔が熱くなっているのを感じる。怒りじゃない、単にメチャクチャ恥ずかしい。
「どんな手を使っても欲を満たすのが魔女よ。特にダークメイジはね」
「でも、ついでに他の人の欲を満たしてあげることもできるんだよ?」
マルガが腕に抱きついてきた。制服越しに、胸の谷間へ腕が引き込まれて……こうなると、ただひたすら気分がよくなってしまう。
「ね、聞かせてよ。この子との思い出と、これからどうしたいか」
「力になってあげられると思うわ」
……耳元で囁かれて、気づけば話し出していた。これも魔法の力なんだろうけど、いつも後になってから気づくんだよ。恐怖心すら消されてしまうことの恐ろしさに。
美緒との思い出話を、二人は楽しそうに聞いてくれた。魔法だけじゃなくて、普通に人の話を引き出すのが美味い。子供の頃に家が近かったこと、幼稚園や小学校が休みの日も毎日一緒に遊んだことも話した。二人で町を探検したことや、大人になったら結婚しようなんて話をしたことまで。あと美緒の家に、ふてぶてしい顔の猫がいたことも。
「……でさ。その猫、臭い靴下にスリスリしてきてさ」
「あははは、ヘンタイ猫じゃん」
「ニオイフェチだったの?」
二人が笑ったときだった。ふいに視線を感じたのは。視線を察知するなんてのは、よっぽどの武術の達人や歴戦の軍人、または猫でもなきゃできないことだと思っていた。けどそのときは確かに感じた。
美緒がいた。ちょっと離れたところから俺を見ていて、目が合った瞬間に踵を返した。
何か、モヤっとした顔をしたように見えた。今までの話、どこから聞こえていたんだろう……そう思って反射的に追いかけようとしたが、マルガに腕を掴まれた。
「ねえ。あの子とまた仲良く遊べるようにしてあげよっか?」
「え……?」
いつもの悪戯っぽい笑顔と違って、なんか真面目な口調で言われた。
「魔女にとって、人の恋を取り持つのも修行の一環なのよ。やらせてもらえるかしら?」
ハリシャもそう言う。多分、嘘じゃない。この二人は少なくとも今まで、俺に嘘はついたことがない。そして本物の魔女がそう言うのだから、きっと実際にできるのだろう。
けど、何か……この二人に任せるのは危険な気がした。予想してないことが起きるような。
それでもまた美緒と仲良くなれたら。あの日々の続きができたら。約束した通り、結婚できたら?
葛藤が沸き起こった俺を見て、マルガは眉間に少し皺を寄せた。
「10秒以内に答えなきゃ今の話はナシ! 9、8、7、6……」
「お、お願いします!」
反射的に、直感的にそう答えた。答えてしまった。
「おっけー! 後は大船を漕ぐつもりでいて!」
「それ奴隷の仕事でしょ」
笑顔で駆け出すマルガと、ツッコミを入れながら追いかけるハリシャ。二人ともすごく楽しそうだ。金髪やスカートが風になびいて綺麗だな、などと現実逃避してしまう。
俺は二人を見送るしかなかった。取り返しのつかないことをしてしまったような後悔と、これから日常がさらに急変することへの期待が入り混じった、複雑な気持ちで。
23/07/10 23:14更新 / 空き缶号
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