連載小説
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第四話 「やっぱり平和が一番だ」
 早朝。
 ようやく日がの昇り、ナナカの小屋を柔らかな日差しが照らした。この町の海は日本の海とも、南方とも違って見える。俺は海兵団から操練を経て水上機のパイロットになった海の男だが、やはり人間は陸上の生き物というか、海を知り尽くすことはできないような気がする。別の世界の海となれば尚更だ。
 だが飛行機のない今、その海を眺めつつできることと言えば大工仕事くらいである。

「元気でいるかと言ふ便り 送ってくれた人よりも」

 小屋の上で小唄を口ずさみつつ、雨漏りしている箇所に木板を打ち付ける。子供の頃に木を削って遊んでいたこともあり、この手の作業は得意だ。げんのうはナナカが作った物を借りたのだが、これもなかなか良い仕事の品である。もっともナナカ当人の評価は「気に入らない」だったが。

「涙の滲む筆の跡 愛しいあの娘が忘られぬ」

 それにしても小屋のボロさは思っていた以上で、下手をすると屋根を踏み抜いてしまいそうだ。飛行機に乗るときに翼を踏み抜かないようにするのと同じく、踏んでも大丈夫な所を見極めながら移動していく。作った道具をまともな値段で売っていればもっと良い家を建てたり、町中の一等地に移り住むこともできるだろうに。だがナナカにとってはこの静かな海岸で、ひたすら鍛冶屋の道を求めることが幸せなのだろう。

「トコズンドコ ズンドコ」

 あらかた直し終わり、手を止める。朝の涼しい時間帯なのでさほど汗をかいてはいない。ナナカは朝早く起きて魚を捕りに行った。昨夜はナナカが俺にハンモックを譲り床で寝ようとしたので、俺がそういうわけにはいかないと言い、結局話し合いの末二人ともハンモックで寝た。またも彼女の肌の温みを味わうことができたが、そこから先までは行かなかった。
 彼女は嫌がっている風ではなかったが、やはりこのまま居候というわけにはいかない。これからどうするにしても、自分で食っていけるようにならなくては始まらないだろう。漁師でもやるか、それとも食堂でも開くか。家が料理屋だったのである程度の物は作れるが、他に美味い物がいくらでもありそうな町で繁盛するだろうか。

 あれこれ考えながら梯子を降りると、丁度ナナカが釣り竿を担いで帰ってきた。もう片方の手にはバケツを下げている。

「おう、修理は終わったぞ」
「……ありがと」

 バケツの中にはアジに似た銀色の魚が二匹入っていた。だが釣果よりも露出度の高い彼女の服装に目がいってしまう。下半身は半ズボン一つ、上半身は胸を布で隠してあるのみなので、ふとももだの谷間だのがあからさまに見えている。青い肌という普通なら薄気味悪いであろう体も、こうも出る所が出て引っ込むところが引っ込んでいると目がいってしまうものだ。その青い肌が温かいことを身を以て知っているだけに尚更だ。

「……どうしたの?」
「いや、ここは平和だなと思ってよ」

 彼女の体を凝視していた視線を目に移し、とりあえず誤摩化した。この一つしかない大きな瞳も、よく見ればなかなか奇麗だ。海のように深い藍色はどこか懐かしい色合いをしている。奇異な見た目ではあっても、その奇異さを含めて面白みがあるのだと思う。それに気づいた奴らが魔物を嫁にするのかもしれない。

 そんな俺の考えなど他所に、ナナカはさっさと朝飯の準備を始めた。昨日と同じく魔法の火を使って魚を焼く。ただ煙が出るので家の外でだ。この魔法の道具というのは便利なもので、俺の服もそれで乾かしてくれたらしい。

「ジュンはこれからどうするの?」

 煙を避けて風上に移りながら、ナナカは尋ねてきた。昨日ヅギにも訊かれたことだ。

「まだ分からねぇ。だが無理に故郷へ帰らなくてもいいとは思ってる」
「大切な人、いないの?」

 じっと俺を見つめ心配そうに問いかけてくるナナカ。大切な人という言葉に、苦い記憶が思い起こされる。

「家族はもう死んだ。許嫁もいたが、戦争へ行っている間に他に男を作って逃げてたよ」

 すると彼女は僅かに目を見開き、顔を伏せた。ごめん、と呟くのが聞こえた。
 嫌なことを尋ねたと思ったのだろう。だが家族が死んだのは悲しいが、許嫁に逃げられたのは今思えばそれで良かったと思う。というより仕方のないことだと諦めもついた。

「俺はいつ死ぬか分からない身だった。飛行機乗りに嫁には行けぬ、今日の花嫁ネ、明日の後家……なんて歌があるくらいでよ。そんな奴を待ってるのが耐えられなくなったのも仕方ねぇさ」
「……そんなに危ない乗り物なの?」

 彼女は顔を上げた。やはり飛行機という物に興味があるのだろう。平和の打ち物を作る野鍛冶とはいっても、見慣れない技術の結晶には心を惹かれるらしい。

「まあ人間ってのは元々、空を飛ぶ生き物じゃねぇからな。それでも普通に飛ぶ分にはそこまで危険じゃねぇ」

 しっかりと整備がされており、十分な訓練を受けたパイロットが乗るなら、というのが前提条件であるが。

「ただそれで戦争となると、な」

 人の身で空を飛んで戦う以上、他の兵科より多くの危険が付きまとう。パラシュートがあっても脱出できるかは紙一重の運だし、脱出したパイロットに機銃掃射をかけるのは日米双方よくやっていた。俺も海上に脱出した後、迫ってくるサメを拳銃の柄で殴って辛くも撃退したことがある。戦場の飛行機乗りは常に不確かな生の中で生きているのだ。敵も味方も。

 そんな経験があったから、百鬼夜行どころか千魔昼行とでも言うべきこの町も、あっさりと受け入れることができたのかもしれない。角が生えていようと目が一つだけだろうと、美味い飯を食って笑い合い、平和に暮らしていけるならそれほど素晴らしいことはないだろう。

「やっぱり平和が一番だ。そう思うだろ」
「うん」

 彼女は頷いた。昨日教会で聞いた話だが、魔物は相手を殺さずに倒す武器を使うという。そんな便利なものがあるのに、剣ではなく農具や調理器具を作るナナカは平和の有り難みをよく知っているのかもしれない。単なる好みの問題ではなく、彼女の職人としての思想が滲み出ているようにも思えた。

「まあこの町で平和に暮らせるならチョンガーでいることもねぇ。昨日あの牧師にも言われたんだが、魔物の嫁を見つけるのも悪かないな」
「可愛い子、紹介しようか?」

 無表情な顔に微かな笑みが浮かんだ。藍色の単眼もどこか優しげだ。せっかくの申し出ではあるが、俺としてはやはり。

「……俺はお前がいいと思っている」

 率直に言うと、ナナカは一瞬、その大きな一つ目をさらに大きく見開いた。そして俯き、顔を背ける。
 我ながら全くもってなってない告白である。だがどうせ女の操縦などしたことがないのだ。許嫁に逃げられた後、それを上官に知られ「やることやって忘れてしまえ」と遊郭へ連れて行かれたのが唯一の女性経験である。許嫁のことも無論好きではあったが親が決めたことだったし、考えてみれば自分で女を好きになったのはこれが初めてと言っていい。もう馬鹿正直になるしかないのだ。

「……お世辞、上手いね」

 ナナカはぽつりと言う。青い頬が赤く染まるのはなかなかに不思議な光景だった。

「上手そうに見えるか?」

 問いかけると、彼女は答えなかった。ただ頬の赤みが増していくだけだ。この無愛想な一つ目女も普段表に出ないだけで、やはり感情の起伏はある。仕事についての真摯な姿勢からもそれは伺えた。青い肌の内側に熱い心を持っているのだろう。見ず知らずの男をその肌で温めてくれたのだから。
 そんな所に惹かれた俺ではあるが、今ひとつ口説き方というのが分からなかった。まったく、思うようにいかないものだ。

 そのときふと、異臭が鼻をつく。


「……おい、焦げてるぞ」
「あぅ……!」







 ……若干黒こげになった魚を食べ、しばらく休んだ後、俺たちは領主邸に向かった。今日体調に問題がなければ領主邸に出頭せよと、昨日の内にナナカに連絡があったのである。第三種軍装でもあれば着ていきたいところだが、飛行服の他には略帽しか持っていなかったので被っていくことにした。昨日俺がヅギたちに着いて行ったときは仕事に専念していたナナカだが、今日は一緒に来てくれるという。まだ勝手の分からぬことの多い俺としては、付き添いがいるのはありがたいことだ。領主が俺を呼び出すとすれば飛行機の話も出るだろうから、ナナカとしてはそれが目的なのかもしれないが。

 港町の辺りへ行くと領主が寄越した馬車が待っており、角と蝙蝠の翼を生やした女が御者だった。さすがに領主邸の馬車となると内装も凝っていて、悪趣味にならない程度に装飾が施されている。窓は赤いカーテン付きだ。
 俺は外の景色を眺めていたが、ナナカは銀細工らしき装飾を興味深げに見つめていた。彼女が言うにはドワーフという細工に長けた魔物が作ったものらしい。ナナカはサイクロプスという魔物でやはり金属加工を得意とし、この手の職人芸を見ると血が騒ぐようだ。

 昨日見た領主邸に到着し、馬車は正門を通り広い庭へと入って行く。やはり立派な建物だ。過度な装飾はないが、庭の植物はしっかりと手入れをされ、槍を手にした兵士たちが整然と門を守っている。住んでいる者の人柄が分かるというものだ。

 だがその庭の中に一際、目を引く物があった。

「……ドイツ軍機……!」

 俺は息を飲んだ。陸軍の三式指揮連絡機に似た細身の飛行機が、翼を折り畳んで庭の隅に置かれていたのだ。角張ったガラス張りの操縦席に固定脚、胴体に這わせて畳まれた四角い主翼。そこに描かれているのはドイツ軍のマークではなく妙な印だが、以前写真で見たドイツ空軍のフィーゼラー機に違いない。確かかなり短い距離で離着陸できるとかで、欧州ではドイツ将校たちの目として脚として、縦横無尽に活躍していたという。

 馬車が停まり、俺たちは降ろされた。庭を見回したが、飛行機の乗り手らしき人物はいなかった。そしてそのドイツ軍機を観察する暇もなく、俺たちは屋敷の中へ招き入れられたのである。

「おはよう。よくぞ来てくれた」

 入った途端、あの領主の声が聞こえた。シンプル故に威厳のある内装の広間で、領主リライア自らが出迎えてくれたのだ。黒いドレス姿にあの執事を従え、昨日と同じく凛々しい佇まいをしている。

「ナナカも足労をかけたな」
「……いえ」

 領主に対してもナナカはいつも通りの態度だ。と言っても領主のことを尊敬していないわけではないだろう。やはり職人は寡黙で、技で語るべきということだろうか。

「シバ。体はもう大丈夫そうだな」
「ああ、お陰さまでな。で、ヴェルナーさんとやらはここにいるのかい?」

 俺の問いに彼女はクスリと笑った。

「すでに彼のことを聞いていたか。会いたいかね?」
「いろいろ聞いてみたいことがあるからな」
「よかろう。まずは茶でも出すのが礼儀だろうが、先にサバト局へ案内しよう」

 着いてこい言って領主は屋敷の奥へ歩き出し、俺たちはそれに従った。

 リライアの説明によると、サバト局という組織はこの町の諜報機関であると同時に、魔法の研究開発を行っているという。魔力で動く機械の研究も行っており、俺の零観もそこで預かっているそうだ。庭に駐機してあったフィーゼラー機も後で整備すると言われ、俺はハッとした。

「整備するってことは飛べるのか。ガソリンはどうしてるんだ?」
「そこがサバト局の技術の結晶でな」

 リライアは得意げな笑みを浮かべた。

「飛行機というのはガソリンなる特殊な油で動くというが、それを魔物の魔力で動くように改造した。そなたが許してくれれば技術蓄積のため、そなたの機体にも同様の改造をしたいとサバト局は言っている」
「とりあえず、見てみてからだな」

 この世界でも空を飛べるようになる。それに何の意味があるかは分からない。だがそれでも一度操縦桿を握り空へ飛び立てば、その感覚は忘れられない。愛機零観が再び飛べるというのは願ってもないことであり、嬉しくもあった。もっともそれが本当に可能か、確かめてからだが。

 廊下をしばらく歩いた先に、鉄製の重そうな戸があった。帯剣した兵士が番をしている。領主からもらった護符では扉に書かれた文字は読めない。だが警戒厳重な様子からしてここがサバト局とやらの研究室のようだ。兵士が一礼し、ゆっくりと扉を開いて……

「どーん!」
「うおぅ!?」
「うわ!?」

 反対側から凄まじい勢いで扉が開けられた。兵士二名が大慌てで飛びずさる。
 驚きはしたが、それ以上にその扉の向こうに目がいった。何キロもありそうな鉄の扉を派手に、そして軽々と開けた人物がそこに立っている。それは筋骨隆々の大男などではなく、華奢な体つきの女だった。ただしやはり人間ではない。雪の如く白い髪に、それと相反する黒い角。髪と同じ色の翼と尾、血のように赤い瞳。

 それだけならこの町にはありふれている異形の女と特に変わりはない。だが俺はその姿に息を飲んだ。美しすぎるのだ。周りの景色が霞んで見えるかのように、存在感のある美貌だった。黒い服は胸元で開け、明らかに男の視線を意識した姿ではあるが、不思議と下品さは一切感じさせない。逆らってはいけないような、そんな気品のある女だった。

 直感で察した。きっと彼女が例の、魔物の王女なのだと。

「姫、客人がいるのに驚かせるな」
「んふふっ。ヴェルナーが飛行機に夢中になってるから暇だったの」

 呆れ顔の領主にそう言って、彼女は俺を見た。微笑を浮かべながら。

「初めまして。魔王の娘の一柱、レミィナ・フィッケルです」
「……柴順之介」

 名前だけを答えた。それ以外に言葉が出なかった。圧倒されていたのだ。

「貴女はナナカさんね。初めまして。今度仕事場を見せてもらっていいかな?」
「……面白くはないと思いますが、よろしければ……」

 ナナカは普段通り、最低限のことだけ応えた。だが彼女も瞬きが増え、少し伏し目がちとなり、やはり俺同様に圧倒されている感がある。魔物の王女ともなると単なる別嬪さんというだけではないようだ。何か得体の知れない力を持った美貌だった。古今東西、女に惑わされ滅んだ王侯貴族は数多いが、それらの妖婦もこのような魔性を持っていたのかもしれない。
 だがその笑みはあくまでも穏やかで、柔らかだった。

「すまんな。彼女はこういうタチでな」

 リライアはそう言って、先に扉の向こうへと入っていく。俺たちもそれに続くと、そこは大広間のような空間だった。奇妙な機械や魔法の道具らしきものが並び、尖った帽子を被った少女たちが働いている。いかにも研究室や実験場と言った雰囲気だった。

 我が愛機はその広間の中央に鎮座していた。台車に乗せられ、不時着水したときと同じ姿で職員に調査されている。その手前で、軍帽を被った長身の男が静かに愛機を見つめていた。レミィナが軽い足取りで彼に歩み寄り、軍服の袖を掴んだ。男は可愛らしい姿にちらりと目を向け、続いてこちらを振り向く。
 眉目秀麗、金髪碧眼の白人男性だ。その無骨ながら気品のある軍装はこの町の兵士が身につけているものとは明らかに違う。ポケットには短剣を釣り、首には黒い十字架……ドイツ騎士の紋章である鉄十字の勲章が下がっていた。

 目が合った瞬間、俺は敬礼をした。脇を締めて肘を前に向ける海軍式敬礼だ。向こうは陸軍と同じ、肘を横へ出す敬礼を返してきた。靴を鳴らし、ドイツ人らしく非の打ち所の無い敬礼である。いきなりやったので横にいたレミィナが慌てて肘を避けていたが。

「日本海軍飛曹長、柴順之介!」
「ヴェルナー・フィッケル。元ドイツ空軍中尉」

 互いに名乗り、敬礼の姿勢を解いた。ナナカもリライアも固唾をのみ、俺たちを見守っている。互いにこの世界の言葉で通じ合っているとはいえ、西洋人と話をするのは初めてだ。だが俺の緊張など気にすることもなく、元中尉は我が愛機へと向き直った。

「美しい機体だ。名は何という?」

 そう言われて、俺はふっと緊張から解き放たれた。この人も自分と同類なのだと察したからだ。つまり飛行機好きであると。

「零式水上観測機です。エンジンは空冷星形十四気筒の瑞星」
「ここまで洗練されたデザインの複葉機は珍しい。観測機と言っても機首に機銃を積んでいるようだが」
「敵の観測機を追い払うことを想定して、これでも空戦ができるように設計されているんです」
「これで空中戦を? 米軍機相手にか」

 心底驚いたような表情をされた。日本以外では水上飛行機で空中戦をやるということはほとんどないだろう。

「弾着観測をやる機会がないから、偵察や空戦に使われることが多かったんです。下駄履きの複葉機ですからまあ、かなり分が悪いですが」
「機体の特徴としてはどうだ?」
「水上機としては上昇力があるし、小回りが利きます。特殊飛行も何でもやれますし。ただ重心が高いんで、水上滑走中に横風を食らうと弱いですね」
「なるほど。ドイツの機体とは随分と……」

 中尉が言いかけた瞬間、彼の体がガクッと崩れかけた。極めて退屈そうな表情のお姫様が、膝の裏を軽く蹴ったのだ。フィッケル中尉は彼女をちらりと見て、一つ咳払いをする。姫様としては自分のついていけない話を続ける旦那に不満が湧いたのだろうか。

「早速気が合いそうで何よりだけどさ、周りを置いてけぼりにしないでね」
「いや、失礼。しかしですね姫、共通の話題と言ったらこのくらいしかないのですから」

 やはりこの人は生粋の飛行機好きのようだ。日本とドイツは同盟国でありながらも足並みは揃っていなかったような気がする。俺は元々士官ではないので政治的なことはよく分からないし興味もないが、どうもそう思えてくる。
 だが俺とこのフィッケル中尉は同じパイロットだ。国籍も階級も違っても、それが何よりも大きな共通点なのである。

「ともあれシバ飛曹長……飛曹長というのは下士官か?」
「准士官です。陸軍なら准尉」
「では歴戦のベテランということだな。よろしく頼むよ」

 差し出された彼の手には僅かながら火傷の痕があった。この人も相当な修羅場を潜ってきたのだろう。
 俺は背筋を伸ばし、その手を取った。

「こちらこそ、宜しくお願いします」





 ……その後、機体の改造云々の話は後回しにして、領主から昼食を振る舞われた。出されたのはでかいビフテキだ。この町の牧場で育てた牛の肉とのことで、食べるとしっかりと歯ごたえがありながらも柔らかく、肉汁が口一杯に広がった。
 准士官は士官と同じ飯を食えるが俺が飛曹長になったのはついこの間、つまりもう負けが見えてきた頃だ。それでも一兵卒よりは遥かに良い物を食えたが、戦前に羨んだような豪華な士官食(牛肉のゼリー寄せだの、伊勢海老のコロッケだの……)は望むべくもない。俺はミディアムレアに焼かれたビフテキを少しずつ切り分け、ゆっくりと噛み締めて味わった。

「もうちょい肩の力抜けよ」

 食べながら、隣に座るナナカに声をかけた。俺は元々一兵卒だったからテーブルマナーなど習っていないが、家が料理屋だったのである程度は分かる。彼女は作法こそ一応知っているようだが、こういった場で食事をするのに慣れていないのか、緊張してぎこちないナイフ裁きになっている。ときどき食器の音を立ててしまい焦る姿は、あの凛々しい女鍛冶の顔とはかけ離れていた。

「シバよ。これからどうするか、答えは決まったか?」

 そんな俺たちを微笑ましげに見ながら、領主は尋ねてきた。

「無理に帰らなくてもいいとは思っているがね。もう家族もいないし、戦争も終わっちまった。何が何でも生きるとは決めていたが、これからどう生きればいいやら」

 終戦のとき、俺は徹底抗戦を叫ぶ十八、九歳の青い士官どもに説教を垂れた。その余力があるなら今止めておくべきだ、あんたらがみんな死んだら逆らえる奴がいなくなる、子供作って未来のために生きろ……と。だが自分がどう生きればいいかは見当がつかない。生き残らなければならないという意地だけで生きているようなものだ。

「飛曹長、君は軍人になりたかったのか? それとも飛行機乗りになりたかったのか?」

 フィッケル中尉が問いかけてきた。少年時代の記憶をたぐり寄せ、どちらだったかを思い出す。答えは両方だろう。だがどちらかと言われれば……。

「飛行機乗りです」
「私と同じだな。ならば飛行機乗りとして生きればいい。この世界でならそれができる」

 そう言って、彼はグラスの葡萄酒を飲み干す。それはつまり、領主の勧め通り飛行機を改造してもらい、この世界でも飛べるようにするということだ。

「この町の技術はわたしが保証するわ」

 優雅な手つきで肉を切り分けつつ、レミィナが口を開いた。

「私もヴェルナーのシュトルヒに乗って旅をしているの。ちゃんと飛ぶし、ちゃんと降りられる」

 お姫様は楽しげに笑った。こういう美人を飛行機に乗せて気ままに二人旅、確かに気分はいいだろう。思えば昨日ヅギに言われたように、俺は戦いにはもう飽きた。今までとは違う形で飛行機と付き合っていけるなら、戦前に長く厳しい訓練に耐えたことも無駄にならないというものだ。

「……戦争に使う、危険な乗り物なのに」

 ナナカがぽつりと呟いた。ぎこちなくビフテキを切り分けていた手も止まり、ナイフとフォークは八の字に皿に置かれている。大きな一つ目が俺を見た。

「どうしてそんなに、あれが好きなの?」

 藍色の深い瞳が、じっと見つめてくる。無垢な瞳だった。だが彼女は世の汚れを知らず生きてきた箱入り娘ではなく、野鍛冶として精進することのみを考えて生きてきた強い女だ。だから飛行機にも興味を持っていた。しかし機構への好奇心は別として、戦の道具を愛する気持ちはなかなか理解しがたいのかもしれない。鍛冶屋の歌にあったように、平和の打ち物を作るのが野鍛冶なのだ。

 俺はすぐには答えられなかった。大勢の仲間が死んでいくのを見てきたし、自分も何度も死にそうな目にあった。それでもまだ飛行機が好きだ。

「……俺が生まれた頃、祖国は不況のまっ只中でな。食い物に困り飢える連中、そんな弱い奴を食い物にする連中……まあどこの国にもある話だ」

 何故かと自問した結果、行き着いたのは自分の少年時代だった。大正の終わり頃、欧州大戦が終結したことにより戦争景気が一転、日本は不況の底に沈んだ。そんな中でも強い人間は弱い人間から搾取し、私腹を肥やすことを厭わない。若きインテリたちは国を変えようと共産主義などの思想に走り、そして弾圧される。やがて国は活路を開くため、大陸へ牙を剥いた。つまらない時代に俺は生を受けた。

「そんな中で強く生きたい、男らしく生きたいと思って空を目指したガキが大勢いた。俺もその一人さ。戦争なんて好きじゃないし、正しいと思ったこともない」

 操縦を覚えたら民間の航空会社へ行き、のんびり飛ぶ選択肢もあっただろう。だが国際情勢は緊迫し、大戦争の足音が近づいていた。

 国への忠誠心はあれど、アジアを白人の支配から解放するなどという口先の大義名分はどうでもよかった。戦争を美化する糞野郎どもは全員くたばっちまえばいい。
 敵が憎かったわけでもない。もちろん民間人への無差別爆撃は許せないが、俺の敵はあくまでも敵機・敵艦であり、敵国民ではなかった。それでも敵機を撃つときは狙って撃ったし、人が乗っていることくらい分かっていた。だが戦うべくして戦った。

「あれが、俺の全てだったんだよ」

 嫌な時代に生まれてしまった料理屋の三男坊が、これが自分の生きる道と信じたのが飛行機乗りの道だった。ただそれだけだ。

 ナナカは黙っていた。俺の顔をじっと見つめ、そしてふと、目を伏せた。
 領主もお姫様も押し黙っている。かける言葉が見つからないのだろうか。それもそうだ、彼女たちからすれば俺は別の世界の人間で、しかも分けの分からん乗り物に乗っている。俺がこの世界を理解しきれていないように、向こうも俺のことがなかなか分からないのだ。

 そのとき、誰かが部屋の戸を叩いた。執事が戸を開け、伝令らしき兵士から何事か話を聞いている。

「領主様」

 領主へ向き直った執事は小声で耳打ちし、その瞬間領主の表情に緊張が走った。ナイフとフォークを置き、彼女はさっと立ち上がった。

「レミィナ姫とナナカのみ、一緒に来てくれ」

 それだけ告げて、執事を伴い部屋を出て行く彼女。部屋の中にいる誰もが、何らかの非常事態が起きたと思っただろう。だが早足で去って行く領主に、何があったか尋ねる暇もない。お姫様が席を立ち、ナナカも俺をちらりと見てからおずおずと後に続く。領主の雰囲気から只ならぬものを感じ取ったせいか、二人も無言で部屋を出た。

 残されたのは俺とフィッケル中尉だ。彼もやはり領主の様子はただ事でないと察したようだ。

「……教団に動きがあったのかもしれない」
「魔物と敵対しているという宗教ですか」

 中尉は頷いた。昨日ヅギたちから聞いた、魔物は神の名の下に滅すべし、などと唱える連中だ。それがこの町を狙っているとなれば、いつ何が起きてもおかしくはない。市民は平和で幸せに暮らしているが、その幸せを守るための戦時体制が敷かれているのだ。

「私も姫と旅する中で、教団と戦うことはあった。私がやりあったのはイタリア軍以下の連中だったが、向こうには『勇者』という、魔物並に人間離れした連中もいるそうだ。それでもこの町は教団の襲撃を度々撃退してきたようだがね」
「しかし宗教勢力ってのはなかなかしぶといでしょう」

 織田信長が一向一揆に手こずったように、宗教というのはなかなか音を上げない。普通の兵士のように見返りを求めるわけでもなく、自分の信心に基づいて戦うのだからしぶといのも当然だ。西洋でも十字軍だとか、宗教戦争の歴史は相当悲惨なものがあると聞く。

「そうだな……正直、君たち日本の兵士もそういうものかと思っていたことがある。レイテ沖海戦の後にね」

 レイテ沖、という言葉を聞いた瞬間、彼が何を言いたいのか理解できた。俺が衝撃を受けた『あの戦術』はドイツ人にまで知られていたのだろう。一時的にやむを得ず用いた手段かと思っていたのに、いつしか日常的に行われるようになってしまった。キリスト教で自殺を禁じられている西洋人には理解し難い戦術だろう。

「だが君は違うようだ。この世界に来たときの私より、ずっと前向きに見える。死に急ぐような所はない」

 そう語る中尉の目を見て、俺は何となく察した。彼もまた、全てを失ってからここへ来たのではないか。あの悪魔の王女様と会うまで、飛行機が心の拠り所だったのではないか。

「……ある日、飛ぶのを覚えたばかりの若い連中が特攻に出撃していきましてね。その後、参謀どもが酒を喰らいながら話しているのを聞いたんですよ」

 この人なら、俺の意地も分かるかもしれない。話すことにした。

「今日の特攻の戦果はどうだったか。いや、どうせヒヨッコだから駄目だっただろう。また次を出せばいい……ってね」
「Arschloch……!」

 ドイツ語らしい悪態をつき、フィッケル中尉は端正な顔立ちに、明らかな怒りの表情を浮かべた。奥歯を噛み締め、眉間に皺が寄る。

「自分たちが死んでこいと命じたくせに、どうせ駄目とは何だってね。軍刀があれば殴り込んでいたかもしれません」
「……特攻は志願制と聞いていたが?」
「覚悟を決めて志願する奴もいました。しかし少しでも命を惜しめばやれ卑怯者臆病者、軍人の恥と蔑まれて家族にも迷惑がかかるんです。上官から志願してくれないかと言われて、嫌だと言える奴はなかなかいませんよ」

 あのとき俺は、自分がどんな連中の下で戦わされているのか知った。自分が死ぬわけではないと思って、俺たち飛行機乗りを意味もなく使い捨てにする連中。俺が海兵団から厳しい訓練に耐えてきたのはそんな奴らのためなのか。そいつらが軍隊を動かしているなら、死んでいった連中は死んだ甲斐があったのか。
 俺は同期の戦友達が次々と死んでいく中で生き残り、いずれ後を追う気でいた。一人だけ生き残るのが申し訳なく思えたからだったが、そのとき考えが変わった。

「俺だけは何が何でも、意地でも生き抜いてやるぞと。そう決めたんです」

 吐き出すだけ吐き出して、俺は酒を呷った。葡萄酒の渋みが喉を通っていく。あまり飲み慣れた代物ではないが、悪くはない。
 フィッケル中尉も同じように、残った葡萄酒を一息で飲んでいた。飲まねばやりきれなかったのだろう。

「……後世の人間は俺たちを、どう評価するんでしょうねぇ」
「英雄か、或は愚者か。私はどちらもご免被るよ」

 苦笑を浮かべて答える中尉。どうやら、この人とは長く続きそうだ。
14/08/16 21:30更新 / 空き缶号
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■作者メッセージ
お待たせしました。
なんかナナカとのシーンとヴェルナーとのシーンを両方つぎ込んだ結果、文字数がかさんでしまいましたorz

ちょっと仕事がピーク期に入っていますが、頂くご感想が活力になるので、休みを利用して地道にでも書いていきます。
応援して頂ければ幸いです。

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