中編・現
……夕暮れ時。
ルージュ・シティ南地区にある牧場の隅っこで、私はひたすら泣いていました。辺りは緑の牧場が夕日に照らされて優しい光を放っています。
もうすぐ夜が来るのに、私はここから動く気になれません。本当なら昨日に引き続きレヴォンさんのことを調べ、夜にはまた夢の中で彼を虜にするはずでした。昨夜はあんなに上手くいったのに……。
「あうう……夜中に目覚まし時計が鳴るなんてぇ……」
故障した目覚まし時計のベルに全てを邪魔され、私の心は小枝のように折れてしまいました。そればかりか、現実の世界でレヴォンさんに顔を見られてしまったのです。こんなボサボサ頭で恥ずかしい私の姿を。
しかもレヴォンさんの部屋の窓を蹴破って逃げた以上、近所の人たちも気づいてしまったことでしょう。レヴォンさんが誰かに相談しているかもしれないし、きっと警戒されてしまっています。もう昨日のようなストーキングを行うのは危険だし、レヴォンさんが昨夜のことを誰かに話していようものなら……考えただけで恥ずかしくて、足腰が生まれたての子鹿状態になりそうです。
「私……私、もう駄目かも……ぅぅ」
「……イリシャちゃん」
ウルリケちゃんは私の背に乗って、優しく頭を撫でてくれていました。彼女を乗せていると少し心が落ち着くのです。本人曰く、ドッペルゲンガーは心の隙間を埋めるために生まれる魔物だとか。一緒にいてくれると心が和むのはそのせいかもしれません。
それでも、今回の心の傷は塞がりそうにありませんでした。
「うぅ……なんで私はこんな……こんな駄目な女なのかな……」
「……まだ、大丈夫」
ボサボサの髪を小さな手ですきながら、ウルリケちゃんは優しい言葉をかけてくれました。でも今の私には大丈夫な点がどこにも見つかりません。現実では駄目なことばかりの私が、夢の中で失敗したなんて……。
「レヴォンさんもきっと、現実の私なんか見たら幻滅しちゃいますよぉ……というか、きっともう……」
――とっくに嫌われている。
そう言おうとした瞬間……。
「ひゃあ!?」
後ろからウルリケちゃんの小さな手が、私の無駄に大きい胸を掴んだのです。驚いて後ろ足で竿立ちになってしまったけど、彼女は予想していたのかしっかり胸に掴まっていたため、振り落とさずに澄みました。
「な、何をするんですかぁ……!?」
「むにゅむにゅ、ぷにぷに……」
私の恥ずかしい胸を、彼女はしきりに揉んできます。これはレヴォンさんのものなのに……そう思った瞬間、自分がやっぱり彼を諦められないことに改めて気づきました。
「イリシャちゃん、おっぱい大きい」
「い、言わないで!」
気にしていることを改めて口に出され……もう恥ずかしさで死にそう。
「ウルリケのおっぱい、ぺったんこ」
私の背中に平らな胸を押し付けながら、ウルリケちゃんは続けます。何が言いたいのか分かりません。
「でも……クルト、こんなウルリケが好きだって。ぺたんこでも、きらいにならないって」
「……」
「クルトはいつも血のにおいがする。おふろ入っても、やっぱり血のにおいする」
クルトさん……彼女の旦那様は家畜を殺してお肉にする仕事をしています。誰かがしなくてはいけない仕事でも、やっぱり気分のいい仕事ではないでしょう。だからこの町に来るまで、それはもう酷い差別を受けていたそうです。
「でもウルリケ、クルトが好き。優しくて、がんばりやの、クルトが好き」
ウルリケちゃんは私から降り、正面へまわりました。赤い瞳でじっと見上げられ、ぎゅっと手を握られます。彼女の手は小さくて柔らかいですが、旦那様の仕事を手伝っているせいかどことなく力強さがありました。
「イリシャちゃんの好きな人、きっと、イリシャちゃんのいい所、見てくれる。だから、会いに行かなきゃ!」
「――!」
ものを言うのが苦手そうな口で、彼女ははっきりと言いました。私は胸の奥がじんと熱くなり、泣き疲れて止まっていた涙がぽろぽろと落ちてきました。ウルリケちゃんの優しさ、そして諦めてはいけないんだという思い。生まれて初めて流す、悲しくない涙でした。
どうして彼女はこんな私に、優しくしてくれるのでしょうか。もしかして、私にもいい所があるのでしょうか。彼女はそこを見て私と友達になってくれたから、レヴォンさんもそうしてくれると言うのでしょうか。
もしそうなら……私も少しは胸を張って、彼の側にいられるのかもしれません。大嫌いな自分が、少しだけ好きになれるかもしれません。
でも……
「本当に……私、大丈夫なんでしょうか? もしレヴォンさんに嫌われたり、罵られたりしたら……」
きっとそのときは、生きていく自信さえ失いそう。
そんな情けない私の顔の前で、ウルリケちゃんは少し俯きました。私の弱さに呆れてしまったのか……そう思った瞬間、彼女は背中に手をまわしながら、ぽつりと呟きました。
「……早く行かないと」
彼女が腰につり下げた鞘から取り出したもの。それは一本の、銀色に輝く肉切り包丁……!
「もうすぐ、修道士さまが……馬肉を買いに、きちゃう……!」
「いやああああああああああああ!!」
私は四本の脚を全力で動かし、恐ろしい牧場と彼女から離れるために駆け出しました。恐怖に駆られたまま、蹄でひたすら地面を蹴って走ります。
ふと後ろを振り返ってみると、
ウルリケちゃんは優しい笑顔で、私に向かって手を振っていました。
………
……
…
「……見つけた」
ウルリケちゃんの励ましと脅しに後押しされた私は、レヴォンさんの気配を辿って夜の町を駆け回りました。町では「カルジェール理髪店の窓ガラスが割れたらしい」という噂を少し聞きましたが、ナイトメアがいたとかいう話はなく、私自身のことは広まっていないようです。それでもレヴォンさんは誰かに話をしているだろうから、例え夜でもうかつに姿は現せませんが。
そして今。私はご友人と一緒に夜道を歩くレヴォンさんの後をつけています。一緒にいるのは昨日散髪に来ていた、調香師のヒューイーさんという方でした。二人を見つけたのは彼らのお店の辺りではなく、町で人気のシチュー屋さんの前でした。どうやらこのお店で食事したようですが、まだ家に帰るつもりではなさそうです。
姿を消す魔法を維持したまま、ゆっくりと二人の後をつけます。その間ヒューイーさんが仕事のことを話し、レヴォンさんがそれに相づちを打ったり、意見を言ったりしていました。私に関する話は出てきません。
やがて二人はあるお店の前で止まりました。小さいけど少しお洒落そうなバーです。
「さて、今日は何を飲もうかな」
「僕はもう決まってるよ」
二人は笑い合いながら、お店のドアを開けました。
私は魔法で蹄の音を消しながら、素早くお店の裏手へまわります。暗い路地裏へ出るとおあつらえ向きの窓があったので、魔法を解いて中を覗き込みました。同時に耳をそばだてて音を盗み取ります。
「こんばんはー」
「飲ませてもらうぜ」
「いらっしゃいませ。カルジェール様、クルペンス様」
丁度レヴォンさんたちが若いバーテンダーさんと挨拶しながら、それぞれカウンターの席へ着くところでした。バーの内装は明るく、それでもどことなく大人の渋みが滲み出ていました。かっこいい人や奇麗な人がここで飲んでいたら絵になることでしょう。当然レヴォンさんも実に絵になっています。素敵です。
「ご注文は?」
「うーん……ヴェルデフィオーレを。レシピはいつもので」
先にヒューイーさんがカクテルらしきものを注文しました。私はお酒のことはよく知りませんが、人によってはカクテルの作り方も凄くこだわりがあるそうです。レヴォンさんのお酒の好みだって、知っておけば役に立つかもしれません。彼が何を注文するか聞くため、私は引き続き耳を澄ませました。
「ウンディーネの天然水、水割りで」
……え?
「かしこまりました」
ええー!?
ちょっと何ですかそれどういうこと水を水割りって一体っていうかそれでいいんですかバーテンダーさん!?
「それにしてもコルバの奴、本当に浮かれてたな」
「だね。やっぱ子供ができるのって嬉しいんだろうなー」
……パニクる私の存在など知る由もないレヴォンさんたちは、カウンターで平然と他愛もない話をしていました。やがてバーテンダーさんはお酒や氷を手際よくシェーカーに入れて、リズミカルに振りはじめます。レヴォンさんはその動きを眺めながら、何か物思いにふけっているようです。
とりあえず深呼吸して落ち着きながら、引き続きレヴォンさんの様子をじっと観察しました。
「そういや、窓ガラスが割れたのって何だったんだ?」
ヒューイーさんの言葉に私の心臓が跳ねました。同時にレヴォンさんがご友人にも昨夜のことを話していなかったことに、少し驚きを覚えます。
「ああ……よく覚えてないんだけど、多分僕が寝ぼけて置物を投げつけたんだよ。窓際にあった物が外に落ちてたし」
レヴォンさんは何でもないことのように答えます。彼は確かに私の姿を見たはずですし、置物というのも私が窓を蹴破ったとき一緒に落ちた物でしょう。もしかしたら現の世界で私を見たことも、夢だと思っているのかもしれません。安心と言えば安心ですが、何故か寂しい気持ちにもなりました。
二人がまた沈黙した頃、バーテンダーさんがグラスに緑色のカクテルを注ぎました。表面にライムを軽く搾り、ヒューイーさんの前に置きます。
「どうぞ、ヴェルデフィオーレです」
「相変わらず、鮮やかな手つきだな」
「ありがとうございます」
短い会話を交わし、バーテンダーさんはレヴォンさんの注文を作りはじめました。グラスにウンディーネの天然水を注いで、それを本当に水で割っています。
やがて水同士が程よく混ざったのか、グラスをレヴォンさんに差し出しました。
「お待たせしました、水割りです」
「ありがとう」
レヴォンさんは水の水割りを美味しそうに飲みはじめます。どんな味がするのやら……。
「……レヴォン。お前今日はやたらと考え事してるみたいだな」
「そうかな……」
「仮にも同郷だろ、同じ教国人崩れ。相談してみろよ」
ヒューイーさんの言葉に、レヴォンさんは少し笑いました。やはり昨日の夢……私のことで悩んでいるのでしょうか。水の水割りを一口のみ、ふと息を吐いています。
「……最近さ、毎日同じ夢ばかり見るんだよ」
再び、胸がドキッとなりました。
「不思議な町で、子供を追いかける夢なんだ。夢の中では必死で追いかけているのに、目が覚めるとその子供たちが誰なのか思い出せない」
私は昨日彼の夢へ入ったときのことを想いだしました。確かに彼はあの夢の町で子供たちを追いかけており、私もその子供たちを見ています。あの夢を毎晩見ているのでしょうか。
「昔の友達とかか?」
「そうかもしれない。毎晩毎晩、その子供達を追いかけて……でも捕まえられなくて、目が覚めるんだ」
「昨日の夜もその夢を見たのか?」
「ああ。いつもとは少し……違ったけどね」
いよいよ私のことを喋られてしまう……!
胸の鼓動が最高潮に達しました。しかしその後レヴォンさんは聞こえないような小声で何か呟いただけで、黙って水を飲んでいます。ヒューイーさんも追求しなかったので、私は彼が何を言ったのか分かりませんでした。
……その後、二人は仕事の話で少し盛り上がりつつお酒を飲みました。レヴォンさんも普通のカクテルを一杯飲み、その後でまたウンディーネの天然水を水割りで頼んでいました。
やがて彼らがお勘定を済ませるまで、私はただ覗き見をしていただけ。結局収穫といえば、レヴォンさんが水の水割りを飲むことが分かっただけ……なんとも悲惨です。
「じゃ、ごちそうさん」
「ありがとうございました」
お店から出て行くレヴォンさんたちに、バーテンダーさんは丁寧にお辞儀をしています。ドアが閉まった瞬間、私は虚無感に襲われました。このまま尾行を続けても、レヴォンさんはお家に帰ってしまうだけでしょう。このままではまた夢に潜り込む自信が湧いてきません。
「……はぁ」
私はため息をつき、顔を上げて……バーテンダーさんがこちらに微笑みながら会釈しているのに気づきました。思わず後ずさり、後ろの塀にお尻をぶつけてしまいます。
まさか最初から、私が覗いていることに気づいていた……?
私がどうしたらいいか分からないでいるうちに、彼はこちらに近づいてきました。そして窓を開け……
「お寒いでしょう。中へ入りませんか?」
……かくして私は、生まれて初めてバーへ入ることになりました。床は頑丈だったので踏み抜いてしまう心配はありませんでしたが、さすがに私が座れる椅子は無さそうです。まあ私たち立っていてもあまり疲れないので、カウンターの前で立ち飲みさせてもらうことにしました。お店の中はどこかいい匂いがして、安心できる雰囲気です。
「あ、あのっ」
「何でしょう?」
バーテンダーさんはあくまでも穏やかに、私に接します。
「わ、私……レヴォンさんの跡を着けて、お店の中を覗いていて……!」
「ええ、気づいていました」
私の方を見ながら、バーテンダーさんは銀色のシェーカーを拭きはじめます。
「カクテルを作っているとき、これに映っていたので」
「お、怒らないんですか……?」
「私は親魔物領の出身なので、魔物のことをそれなりに分かっているつもりです。ナイトメアという種族についても」
彼がカウンターにシェーカーを置くと、鏡のようなその器に私の顔が映りました。改めてボサボサの髪が見え、室内でも服のフードをかぶりたくなってしまいます。同時に、レヴォンさんには気づかれていなくてよかったとも思いました。
「愛しい人と片時も離れていたくない……魔物とはそういう存在なのでしょう」
「……ありがとうございます」
思わずお礼を言ってしまいました。罵られたり、怒られたりするかと思っていたのに。このバーテンダーさんはこんな私を、快くお店に迎え入れてくれたのです。もしかしたらレヴォンさんも……そんな甘い期待が生まれてしまいます。
「レヴォン・カルジェール様が飲んでいたもの、お召し上がりになりますか?」
「え、あ……はい!」
尋ねられてハッと我に返り、咄嗟に答えてしまいました。
バーテンダーさんはグラスを用意し、さっきやっていたようにウンディーネの天然水を注ぎ、そこへ普通の水を入れます。二種類の水をゆっくりと、それでいて滑らかな手つきでかき混ぜる様子は、どことなくレヴォンさんの散髪に似ていました。目つきも同じ雰囲気を帯びています。やっていることは水に水を混ぜているだけですが……。
「お客様やカルジェール様は、この水のような方ですね」
「水……?」
どういう意味なのか尋ねる前に、私の前にグラスが差し出されました。
「どうぞ」
それはどう見てもだたの水にしか見えません。氷を入れていないので冷えておらず、常温です。とりあえず一口飲んでみることにします。
「……え」
私は目を見開きました。グラスの中に入っている透明なそれは確かに水なのに、どう考えても水なのに。口当たりがとても柔らかく、飲み込むと一瞬で体に染み込んだような感触がしました。冷やされていない水は喉を優しく撫でるようにして流れ、その後口の中に爽やかな風味が残りました。ウンディーネの天然水は飲んだことはあるけど、こんな不思議な水は初めてです。
「これ……すごく美味しいです」
「ありがとうございます」
バーテンダーさんは笑顔を浮かべました。
「普通の水にはウンディーネの天然水とよく馴染む物があるのです。人と魔物の恋模様に似ているかもしれませんね」
そう言われ、少しドキッとしました。私とレヴォンさんのことを言っているのだと、さすがの私でも気づきます。
「水というのはとても繊細です。湧き出る土地や温度、ウンディーネの水ならウンディーネの性質によっても味が変わります」
「それが、レヴォンさんに似ていると……?」
「ええ。お客様にもね」
私はグラスに入った水をじっと見つめました。どこまでも透明なこの水の中で、目に見えない繊細なものが渦巻いている……そう想像しながら、また一口飲みました。滑らかな喉越しと風味が心を落ち着かせてくれます。
レヴォンさんも、この繊細さを持っている素敵な人なんだ……
「……レヴォンさん、昨日見た夢のこと……私のこと、何か言っていましたか?」
自然と、胸の内を話し出していました。ウルリケちゃんには話せたように、この人になら話しても大丈夫だという不思議な安心感があったのです。このお店の雰囲気のせいでしょうか。
昨晩彼の夢に入り込んだこと、目覚まし時計に負けたこと、窓ガラスを突き破って逃げたこと。さすがに夢の中でシたことは口に出せませんでしたが、それ以外のことを吐き出しました。バーテンダーさんは時々相づちを打ちながら、私の話を聞いてくれています。
「私……レヴォンさんに嫌われてるかもしれません。迷惑に思われているかもしれません」
「……他のお客様の言ったことをお話するのは、あまりしてはいけないことなのですが……」
バーテンダーさんはそう言いながら、背後の棚をまさぐり始めました。よく見かけるお酒、見たこともないお酒が沢山並んでいるその棚の奥から、何かを取り出そうとしているようです。
「二時間ほど前、ここで警官の方が飲んでいましてね。その方は昼間、カルジェール理髪店の窓が割れた件について調べていたそうです」
「え……!?」
「窓の割れ方からして、何か大きな物が中から飛び出したようにしか思えない。しかしいくら事情を聞いても、カルジェール様は自分が寝ぼけて割ったと言い張ったとか」
その言葉に、私はあることに気がつきました。
もしかしたらレヴォンさんは、私が逮捕されないように……?
「それと、お客様には聞こえていなかったかと思いますが……」
奥に置かれた瓶をそっと取り出し、バーテンダーさんは私に微笑を向けました。
「カルジェール様は昨晩見た夢について、ただ一言『素晴らしかった』と呟いていました」
「!」
「嘘の上手い人、下手な人、ひたすら正直な人……いろいろ見てきたから分かりますが、その言葉は本当の気持ちだと思いますよ」
素晴らしかった?
夢の中での倒錯した遊びが、私に犯されるのが、素晴らしかった?
本当の私を直に見て、それでも私との交わりを気に入ってくれた?
きっと良い所を見てくれる……ウルリケちゃんの言ったあの言葉が、私の中で現実みを帯びたように思えました。喜びがこみ上げてきた私の前に、バーテンダーさんがお酒の瓶を差し出します。小さめの瓶の中に半分ほど残ったお酒は深い赤色で、ラベルには虜の果実の絵が描かれていました。私たち魔物の大好きな、甘くて艶やかな果実の絵はとても美味しそう。
「ご覧の通り、虜の果実のリキュールです。この銘柄は特に濃厚なので、カクテルの味のアクセントとして使われます」
説明しながら彼は瓶のふたを開け、スプーンの上に少しだけそれを垂らしました。そして赤く輝くひと匙のお酒を、私のグラスに入れてかき混ぜます。グラスの中でスプーンが回り、二種類の水が混ざった中へ薄い赤が広がっていきました。ランプの光が当たり、幻想的な美しさを醸し出しています。
「カルジェール様が時々お飲みになるカクテルです。どうぞお飲みください」
「いただきます」
淡いピンク色になったお水に、私は口をつけました。先ほどまでの滑らかな口当たりの中に、虜の果実の甘みがほんのりと溶け込んでいます。それは水が体に染み渡る感覚と一緒に、優しく染み込んできました。なんて優しくて、細やかな甘みなのでしょう。私は少しずつ、噛むようにしてそのカクテルを味わいました。
「……優しい人には、いくつか種類があります」
バーテンダーさんが言います。
「この町の領主様のように、自分が傷つこうとも誰かのことを思いやれる人。そしてカルジェール様のように、それ以上傷つく余地がないほどに、心が傷ついている人」
「傷ついている……?」
このバーテンダーさんはレヴォンさんのことを何か知っているのでしょうか。訊いてもそこまでは教えてくれないかもしれません。しかし昨晩彼が見ていた夢が、彼の心に残った傷によるものだとしたら。毎晩同じ夢を見ているのも説明がつくかもしれません。
「理髪師という仕事は人の体に触れ、しかも刃物を扱う仕事です。気の迷いや悩みで手元が狂えば大変なことになりかねない。だからあの方は自分が優しくなることで、心の痛みを外へ出さないようにしてきたのかもしれません」
彼の言っていることが、私にはなんとなく分かりました。傷ついたときは慰めてもらうだけでなく、自分から誰かに優しくすることで癒されることが私にもあります。ウルリケちゃんと仲良くなったのも、そういうときでした。
「本当のことはご本人に訊かなければ分かりません。しかし貴女は一度、彼の内面へ入り込んだ」
カクテルの水面を見つめていた私は、はっと顔を上げました。
「そして彼は貴女と過ごした夜を楽しんでいた。貴女が彼にできることも、きっとあります」
バーテンダーさんは優しい目で私を見つめています。ウルリケちゃんが私を励ましてくれたときのような、優しい瞳。
ようやく、心から信じることができました。現の世界にも、ちゃんと私の味方がいるのだということを。そういう人たちの優しい心が、私を支えてくれるということを。
溢れてきそうになる涙をこらえ、残ったカクテルを飲みました。こんなお店で泣いたりしたら悪いと思ったからです。水の中に溶けた虜の果実の甘みが、柔らかく喉を通っていきます。
……私はまだ、頑張れそうです。
「ありがとうございます。私……今からもう一度、彼の夢の中へ行ってみます」
グラスを空にすると同時に、口に出した決心の言葉。バーテンダーさんは穏やかな微笑を浮かべ、頷きました。
「お気をつけて。その一杯は、私の奢りです」
ルージュ・シティ南地区にある牧場の隅っこで、私はひたすら泣いていました。辺りは緑の牧場が夕日に照らされて優しい光を放っています。
もうすぐ夜が来るのに、私はここから動く気になれません。本当なら昨日に引き続きレヴォンさんのことを調べ、夜にはまた夢の中で彼を虜にするはずでした。昨夜はあんなに上手くいったのに……。
「あうう……夜中に目覚まし時計が鳴るなんてぇ……」
故障した目覚まし時計のベルに全てを邪魔され、私の心は小枝のように折れてしまいました。そればかりか、現実の世界でレヴォンさんに顔を見られてしまったのです。こんなボサボサ頭で恥ずかしい私の姿を。
しかもレヴォンさんの部屋の窓を蹴破って逃げた以上、近所の人たちも気づいてしまったことでしょう。レヴォンさんが誰かに相談しているかもしれないし、きっと警戒されてしまっています。もう昨日のようなストーキングを行うのは危険だし、レヴォンさんが昨夜のことを誰かに話していようものなら……考えただけで恥ずかしくて、足腰が生まれたての子鹿状態になりそうです。
「私……私、もう駄目かも……ぅぅ」
「……イリシャちゃん」
ウルリケちゃんは私の背に乗って、優しく頭を撫でてくれていました。彼女を乗せていると少し心が落ち着くのです。本人曰く、ドッペルゲンガーは心の隙間を埋めるために生まれる魔物だとか。一緒にいてくれると心が和むのはそのせいかもしれません。
それでも、今回の心の傷は塞がりそうにありませんでした。
「うぅ……なんで私はこんな……こんな駄目な女なのかな……」
「……まだ、大丈夫」
ボサボサの髪を小さな手ですきながら、ウルリケちゃんは優しい言葉をかけてくれました。でも今の私には大丈夫な点がどこにも見つかりません。現実では駄目なことばかりの私が、夢の中で失敗したなんて……。
「レヴォンさんもきっと、現実の私なんか見たら幻滅しちゃいますよぉ……というか、きっともう……」
――とっくに嫌われている。
そう言おうとした瞬間……。
「ひゃあ!?」
後ろからウルリケちゃんの小さな手が、私の無駄に大きい胸を掴んだのです。驚いて後ろ足で竿立ちになってしまったけど、彼女は予想していたのかしっかり胸に掴まっていたため、振り落とさずに澄みました。
「な、何をするんですかぁ……!?」
「むにゅむにゅ、ぷにぷに……」
私の恥ずかしい胸を、彼女はしきりに揉んできます。これはレヴォンさんのものなのに……そう思った瞬間、自分がやっぱり彼を諦められないことに改めて気づきました。
「イリシャちゃん、おっぱい大きい」
「い、言わないで!」
気にしていることを改めて口に出され……もう恥ずかしさで死にそう。
「ウルリケのおっぱい、ぺったんこ」
私の背中に平らな胸を押し付けながら、ウルリケちゃんは続けます。何が言いたいのか分かりません。
「でも……クルト、こんなウルリケが好きだって。ぺたんこでも、きらいにならないって」
「……」
「クルトはいつも血のにおいがする。おふろ入っても、やっぱり血のにおいする」
クルトさん……彼女の旦那様は家畜を殺してお肉にする仕事をしています。誰かがしなくてはいけない仕事でも、やっぱり気分のいい仕事ではないでしょう。だからこの町に来るまで、それはもう酷い差別を受けていたそうです。
「でもウルリケ、クルトが好き。優しくて、がんばりやの、クルトが好き」
ウルリケちゃんは私から降り、正面へまわりました。赤い瞳でじっと見上げられ、ぎゅっと手を握られます。彼女の手は小さくて柔らかいですが、旦那様の仕事を手伝っているせいかどことなく力強さがありました。
「イリシャちゃんの好きな人、きっと、イリシャちゃんのいい所、見てくれる。だから、会いに行かなきゃ!」
「――!」
ものを言うのが苦手そうな口で、彼女ははっきりと言いました。私は胸の奥がじんと熱くなり、泣き疲れて止まっていた涙がぽろぽろと落ちてきました。ウルリケちゃんの優しさ、そして諦めてはいけないんだという思い。生まれて初めて流す、悲しくない涙でした。
どうして彼女はこんな私に、優しくしてくれるのでしょうか。もしかして、私にもいい所があるのでしょうか。彼女はそこを見て私と友達になってくれたから、レヴォンさんもそうしてくれると言うのでしょうか。
もしそうなら……私も少しは胸を張って、彼の側にいられるのかもしれません。大嫌いな自分が、少しだけ好きになれるかもしれません。
でも……
「本当に……私、大丈夫なんでしょうか? もしレヴォンさんに嫌われたり、罵られたりしたら……」
きっとそのときは、生きていく自信さえ失いそう。
そんな情けない私の顔の前で、ウルリケちゃんは少し俯きました。私の弱さに呆れてしまったのか……そう思った瞬間、彼女は背中に手をまわしながら、ぽつりと呟きました。
「……早く行かないと」
彼女が腰につり下げた鞘から取り出したもの。それは一本の、銀色に輝く肉切り包丁……!
「もうすぐ、修道士さまが……馬肉を買いに、きちゃう……!」
「いやああああああああああああ!!」
私は四本の脚を全力で動かし、恐ろしい牧場と彼女から離れるために駆け出しました。恐怖に駆られたまま、蹄でひたすら地面を蹴って走ります。
ふと後ろを振り返ってみると、
ウルリケちゃんは優しい笑顔で、私に向かって手を振っていました。
………
……
…
「……見つけた」
ウルリケちゃんの励ましと脅しに後押しされた私は、レヴォンさんの気配を辿って夜の町を駆け回りました。町では「カルジェール理髪店の窓ガラスが割れたらしい」という噂を少し聞きましたが、ナイトメアがいたとかいう話はなく、私自身のことは広まっていないようです。それでもレヴォンさんは誰かに話をしているだろうから、例え夜でもうかつに姿は現せませんが。
そして今。私はご友人と一緒に夜道を歩くレヴォンさんの後をつけています。一緒にいるのは昨日散髪に来ていた、調香師のヒューイーさんという方でした。二人を見つけたのは彼らのお店の辺りではなく、町で人気のシチュー屋さんの前でした。どうやらこのお店で食事したようですが、まだ家に帰るつもりではなさそうです。
姿を消す魔法を維持したまま、ゆっくりと二人の後をつけます。その間ヒューイーさんが仕事のことを話し、レヴォンさんがそれに相づちを打ったり、意見を言ったりしていました。私に関する話は出てきません。
やがて二人はあるお店の前で止まりました。小さいけど少しお洒落そうなバーです。
「さて、今日は何を飲もうかな」
「僕はもう決まってるよ」
二人は笑い合いながら、お店のドアを開けました。
私は魔法で蹄の音を消しながら、素早くお店の裏手へまわります。暗い路地裏へ出るとおあつらえ向きの窓があったので、魔法を解いて中を覗き込みました。同時に耳をそばだてて音を盗み取ります。
「こんばんはー」
「飲ませてもらうぜ」
「いらっしゃいませ。カルジェール様、クルペンス様」
丁度レヴォンさんたちが若いバーテンダーさんと挨拶しながら、それぞれカウンターの席へ着くところでした。バーの内装は明るく、それでもどことなく大人の渋みが滲み出ていました。かっこいい人や奇麗な人がここで飲んでいたら絵になることでしょう。当然レヴォンさんも実に絵になっています。素敵です。
「ご注文は?」
「うーん……ヴェルデフィオーレを。レシピはいつもので」
先にヒューイーさんがカクテルらしきものを注文しました。私はお酒のことはよく知りませんが、人によってはカクテルの作り方も凄くこだわりがあるそうです。レヴォンさんのお酒の好みだって、知っておけば役に立つかもしれません。彼が何を注文するか聞くため、私は引き続き耳を澄ませました。
「ウンディーネの天然水、水割りで」
……え?
「かしこまりました」
ええー!?
ちょっと何ですかそれどういうこと水を水割りって一体っていうかそれでいいんですかバーテンダーさん!?
「それにしてもコルバの奴、本当に浮かれてたな」
「だね。やっぱ子供ができるのって嬉しいんだろうなー」
……パニクる私の存在など知る由もないレヴォンさんたちは、カウンターで平然と他愛もない話をしていました。やがてバーテンダーさんはお酒や氷を手際よくシェーカーに入れて、リズミカルに振りはじめます。レヴォンさんはその動きを眺めながら、何か物思いにふけっているようです。
とりあえず深呼吸して落ち着きながら、引き続きレヴォンさんの様子をじっと観察しました。
「そういや、窓ガラスが割れたのって何だったんだ?」
ヒューイーさんの言葉に私の心臓が跳ねました。同時にレヴォンさんがご友人にも昨夜のことを話していなかったことに、少し驚きを覚えます。
「ああ……よく覚えてないんだけど、多分僕が寝ぼけて置物を投げつけたんだよ。窓際にあった物が外に落ちてたし」
レヴォンさんは何でもないことのように答えます。彼は確かに私の姿を見たはずですし、置物というのも私が窓を蹴破ったとき一緒に落ちた物でしょう。もしかしたら現の世界で私を見たことも、夢だと思っているのかもしれません。安心と言えば安心ですが、何故か寂しい気持ちにもなりました。
二人がまた沈黙した頃、バーテンダーさんがグラスに緑色のカクテルを注ぎました。表面にライムを軽く搾り、ヒューイーさんの前に置きます。
「どうぞ、ヴェルデフィオーレです」
「相変わらず、鮮やかな手つきだな」
「ありがとうございます」
短い会話を交わし、バーテンダーさんはレヴォンさんの注文を作りはじめました。グラスにウンディーネの天然水を注いで、それを本当に水で割っています。
やがて水同士が程よく混ざったのか、グラスをレヴォンさんに差し出しました。
「お待たせしました、水割りです」
「ありがとう」
レヴォンさんは水の水割りを美味しそうに飲みはじめます。どんな味がするのやら……。
「……レヴォン。お前今日はやたらと考え事してるみたいだな」
「そうかな……」
「仮にも同郷だろ、同じ教国人崩れ。相談してみろよ」
ヒューイーさんの言葉に、レヴォンさんは少し笑いました。やはり昨日の夢……私のことで悩んでいるのでしょうか。水の水割りを一口のみ、ふと息を吐いています。
「……最近さ、毎日同じ夢ばかり見るんだよ」
再び、胸がドキッとなりました。
「不思議な町で、子供を追いかける夢なんだ。夢の中では必死で追いかけているのに、目が覚めるとその子供たちが誰なのか思い出せない」
私は昨日彼の夢へ入ったときのことを想いだしました。確かに彼はあの夢の町で子供たちを追いかけており、私もその子供たちを見ています。あの夢を毎晩見ているのでしょうか。
「昔の友達とかか?」
「そうかもしれない。毎晩毎晩、その子供達を追いかけて……でも捕まえられなくて、目が覚めるんだ」
「昨日の夜もその夢を見たのか?」
「ああ。いつもとは少し……違ったけどね」
いよいよ私のことを喋られてしまう……!
胸の鼓動が最高潮に達しました。しかしその後レヴォンさんは聞こえないような小声で何か呟いただけで、黙って水を飲んでいます。ヒューイーさんも追求しなかったので、私は彼が何を言ったのか分かりませんでした。
……その後、二人は仕事の話で少し盛り上がりつつお酒を飲みました。レヴォンさんも普通のカクテルを一杯飲み、その後でまたウンディーネの天然水を水割りで頼んでいました。
やがて彼らがお勘定を済ませるまで、私はただ覗き見をしていただけ。結局収穫といえば、レヴォンさんが水の水割りを飲むことが分かっただけ……なんとも悲惨です。
「じゃ、ごちそうさん」
「ありがとうございました」
お店から出て行くレヴォンさんたちに、バーテンダーさんは丁寧にお辞儀をしています。ドアが閉まった瞬間、私は虚無感に襲われました。このまま尾行を続けても、レヴォンさんはお家に帰ってしまうだけでしょう。このままではまた夢に潜り込む自信が湧いてきません。
「……はぁ」
私はため息をつき、顔を上げて……バーテンダーさんがこちらに微笑みながら会釈しているのに気づきました。思わず後ずさり、後ろの塀にお尻をぶつけてしまいます。
まさか最初から、私が覗いていることに気づいていた……?
私がどうしたらいいか分からないでいるうちに、彼はこちらに近づいてきました。そして窓を開け……
「お寒いでしょう。中へ入りませんか?」
……かくして私は、生まれて初めてバーへ入ることになりました。床は頑丈だったので踏み抜いてしまう心配はありませんでしたが、さすがに私が座れる椅子は無さそうです。まあ私たち立っていてもあまり疲れないので、カウンターの前で立ち飲みさせてもらうことにしました。お店の中はどこかいい匂いがして、安心できる雰囲気です。
「あ、あのっ」
「何でしょう?」
バーテンダーさんはあくまでも穏やかに、私に接します。
「わ、私……レヴォンさんの跡を着けて、お店の中を覗いていて……!」
「ええ、気づいていました」
私の方を見ながら、バーテンダーさんは銀色のシェーカーを拭きはじめます。
「カクテルを作っているとき、これに映っていたので」
「お、怒らないんですか……?」
「私は親魔物領の出身なので、魔物のことをそれなりに分かっているつもりです。ナイトメアという種族についても」
彼がカウンターにシェーカーを置くと、鏡のようなその器に私の顔が映りました。改めてボサボサの髪が見え、室内でも服のフードをかぶりたくなってしまいます。同時に、レヴォンさんには気づかれていなくてよかったとも思いました。
「愛しい人と片時も離れていたくない……魔物とはそういう存在なのでしょう」
「……ありがとうございます」
思わずお礼を言ってしまいました。罵られたり、怒られたりするかと思っていたのに。このバーテンダーさんはこんな私を、快くお店に迎え入れてくれたのです。もしかしたらレヴォンさんも……そんな甘い期待が生まれてしまいます。
「レヴォン・カルジェール様が飲んでいたもの、お召し上がりになりますか?」
「え、あ……はい!」
尋ねられてハッと我に返り、咄嗟に答えてしまいました。
バーテンダーさんはグラスを用意し、さっきやっていたようにウンディーネの天然水を注ぎ、そこへ普通の水を入れます。二種類の水をゆっくりと、それでいて滑らかな手つきでかき混ぜる様子は、どことなくレヴォンさんの散髪に似ていました。目つきも同じ雰囲気を帯びています。やっていることは水に水を混ぜているだけですが……。
「お客様やカルジェール様は、この水のような方ですね」
「水……?」
どういう意味なのか尋ねる前に、私の前にグラスが差し出されました。
「どうぞ」
それはどう見てもだたの水にしか見えません。氷を入れていないので冷えておらず、常温です。とりあえず一口飲んでみることにします。
「……え」
私は目を見開きました。グラスの中に入っている透明なそれは確かに水なのに、どう考えても水なのに。口当たりがとても柔らかく、飲み込むと一瞬で体に染み込んだような感触がしました。冷やされていない水は喉を優しく撫でるようにして流れ、その後口の中に爽やかな風味が残りました。ウンディーネの天然水は飲んだことはあるけど、こんな不思議な水は初めてです。
「これ……すごく美味しいです」
「ありがとうございます」
バーテンダーさんは笑顔を浮かべました。
「普通の水にはウンディーネの天然水とよく馴染む物があるのです。人と魔物の恋模様に似ているかもしれませんね」
そう言われ、少しドキッとしました。私とレヴォンさんのことを言っているのだと、さすがの私でも気づきます。
「水というのはとても繊細です。湧き出る土地や温度、ウンディーネの水ならウンディーネの性質によっても味が変わります」
「それが、レヴォンさんに似ていると……?」
「ええ。お客様にもね」
私はグラスに入った水をじっと見つめました。どこまでも透明なこの水の中で、目に見えない繊細なものが渦巻いている……そう想像しながら、また一口飲みました。滑らかな喉越しと風味が心を落ち着かせてくれます。
レヴォンさんも、この繊細さを持っている素敵な人なんだ……
「……レヴォンさん、昨日見た夢のこと……私のこと、何か言っていましたか?」
自然と、胸の内を話し出していました。ウルリケちゃんには話せたように、この人になら話しても大丈夫だという不思議な安心感があったのです。このお店の雰囲気のせいでしょうか。
昨晩彼の夢に入り込んだこと、目覚まし時計に負けたこと、窓ガラスを突き破って逃げたこと。さすがに夢の中でシたことは口に出せませんでしたが、それ以外のことを吐き出しました。バーテンダーさんは時々相づちを打ちながら、私の話を聞いてくれています。
「私……レヴォンさんに嫌われてるかもしれません。迷惑に思われているかもしれません」
「……他のお客様の言ったことをお話するのは、あまりしてはいけないことなのですが……」
バーテンダーさんはそう言いながら、背後の棚をまさぐり始めました。よく見かけるお酒、見たこともないお酒が沢山並んでいるその棚の奥から、何かを取り出そうとしているようです。
「二時間ほど前、ここで警官の方が飲んでいましてね。その方は昼間、カルジェール理髪店の窓が割れた件について調べていたそうです」
「え……!?」
「窓の割れ方からして、何か大きな物が中から飛び出したようにしか思えない。しかしいくら事情を聞いても、カルジェール様は自分が寝ぼけて割ったと言い張ったとか」
その言葉に、私はあることに気がつきました。
もしかしたらレヴォンさんは、私が逮捕されないように……?
「それと、お客様には聞こえていなかったかと思いますが……」
奥に置かれた瓶をそっと取り出し、バーテンダーさんは私に微笑を向けました。
「カルジェール様は昨晩見た夢について、ただ一言『素晴らしかった』と呟いていました」
「!」
「嘘の上手い人、下手な人、ひたすら正直な人……いろいろ見てきたから分かりますが、その言葉は本当の気持ちだと思いますよ」
素晴らしかった?
夢の中での倒錯した遊びが、私に犯されるのが、素晴らしかった?
本当の私を直に見て、それでも私との交わりを気に入ってくれた?
きっと良い所を見てくれる……ウルリケちゃんの言ったあの言葉が、私の中で現実みを帯びたように思えました。喜びがこみ上げてきた私の前に、バーテンダーさんがお酒の瓶を差し出します。小さめの瓶の中に半分ほど残ったお酒は深い赤色で、ラベルには虜の果実の絵が描かれていました。私たち魔物の大好きな、甘くて艶やかな果実の絵はとても美味しそう。
「ご覧の通り、虜の果実のリキュールです。この銘柄は特に濃厚なので、カクテルの味のアクセントとして使われます」
説明しながら彼は瓶のふたを開け、スプーンの上に少しだけそれを垂らしました。そして赤く輝くひと匙のお酒を、私のグラスに入れてかき混ぜます。グラスの中でスプーンが回り、二種類の水が混ざった中へ薄い赤が広がっていきました。ランプの光が当たり、幻想的な美しさを醸し出しています。
「カルジェール様が時々お飲みになるカクテルです。どうぞお飲みください」
「いただきます」
淡いピンク色になったお水に、私は口をつけました。先ほどまでの滑らかな口当たりの中に、虜の果実の甘みがほんのりと溶け込んでいます。それは水が体に染み渡る感覚と一緒に、優しく染み込んできました。なんて優しくて、細やかな甘みなのでしょう。私は少しずつ、噛むようにしてそのカクテルを味わいました。
「……優しい人には、いくつか種類があります」
バーテンダーさんが言います。
「この町の領主様のように、自分が傷つこうとも誰かのことを思いやれる人。そしてカルジェール様のように、それ以上傷つく余地がないほどに、心が傷ついている人」
「傷ついている……?」
このバーテンダーさんはレヴォンさんのことを何か知っているのでしょうか。訊いてもそこまでは教えてくれないかもしれません。しかし昨晩彼が見ていた夢が、彼の心に残った傷によるものだとしたら。毎晩同じ夢を見ているのも説明がつくかもしれません。
「理髪師という仕事は人の体に触れ、しかも刃物を扱う仕事です。気の迷いや悩みで手元が狂えば大変なことになりかねない。だからあの方は自分が優しくなることで、心の痛みを外へ出さないようにしてきたのかもしれません」
彼の言っていることが、私にはなんとなく分かりました。傷ついたときは慰めてもらうだけでなく、自分から誰かに優しくすることで癒されることが私にもあります。ウルリケちゃんと仲良くなったのも、そういうときでした。
「本当のことはご本人に訊かなければ分かりません。しかし貴女は一度、彼の内面へ入り込んだ」
カクテルの水面を見つめていた私は、はっと顔を上げました。
「そして彼は貴女と過ごした夜を楽しんでいた。貴女が彼にできることも、きっとあります」
バーテンダーさんは優しい目で私を見つめています。ウルリケちゃんが私を励ましてくれたときのような、優しい瞳。
ようやく、心から信じることができました。現の世界にも、ちゃんと私の味方がいるのだということを。そういう人たちの優しい心が、私を支えてくれるということを。
溢れてきそうになる涙をこらえ、残ったカクテルを飲みました。こんなお店で泣いたりしたら悪いと思ったからです。水の中に溶けた虜の果実の甘みが、柔らかく喉を通っていきます。
……私はまだ、頑張れそうです。
「ありがとうございます。私……今からもう一度、彼の夢の中へ行ってみます」
グラスを空にすると同時に、口に出した決心の言葉。バーテンダーさんは穏やかな微笑を浮かべ、頷きました。
「お気をつけて。その一杯は、私の奢りです」
12/11/11 19:57更新 / 空き缶号
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